小野小町は男だった⑪ 深草少将は紀氏だった? より つづく~
①後白河法皇と小町に伝わる髑髏伝説

上は歌川豊春が描いた『通し矢』の様子です。
ウィキペディア(
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Toshi-ya_00.jpg?uselang=ja) よりお借りしました。
三十三間堂は後白河法皇の離宮・法住寺殿の一画に建てられた仏堂で、江戸時代にはその前でさかんに『通し矢』が行われた。
三十三間堂は南北に細長い(約121m)建物で、その長さが矢を射るのにちょうどよかったのだろう。
『通し矢』は現在でも「大的大会」として1月15日に近い日曜日に行われている。
三十三間堂 通し矢(大的大会)
三十三間堂 軒下にささった矢がそのまま残されていた。この日、堂内は無料開放される。
金色に輝く1001体の千手観音像は圧巻だ。

ウィキペディア(
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kusakabe_Kimbei_1364_Sanjiu.JPG?uselang=ja)よりお借りしました。
また、堂内で、僧侶より『柳のお加持』を受けることができる。
『柳のお加持』とは柳の枝で参拝者の頭に数的の水をかけて祈祷するというもので、頭痛封じの霊験があるとされる。
法界寺裸踊り 柳のお加持 (三十三間堂堂内は撮影禁止のため、法界寺のものを貼っておきます。)『柳のお加持』は三十三間堂に伝わる次の伝説にちなむものだろう。
後白河法皇はひどい頭痛持ちであったため、永暦二年二月二十二日、因幡堂に参詣して祈った。
すると夢の中に僧が現れて次のように告げた。
「後白河院の前世は、熊野の蓮花坊という者で、六十六部の経典を日本廻国して奉納した功徳によって天皇に生れた。
しかし、前世の髑髏が岩田川の水底に沈んでおり、その目穴から柳が生え、今は大木となっている。
柳は風が吹くと動くので、今の後白河院の身に頭痛がおこるのです。
髑髏の柳をとりのぞけば頭痛は治るだろう。」
そこでさっそく水底を探させたところ髑髏が見つかった。
髑髏から柳を抜き、その柳で観音の像をつくり、その中へ髑髏を納めた。
また柳の大木は三十三間堂の棟木にした。※伝説では髑髏から生えていた柳は三十三間堂の棟木にしたと伝わるが、実際には三十三間堂の棟木に柳は用いられていない。
三十三間堂 弓矢が当たってできた傷?これと同様の伝説が小町にもある。
ススキ野原の中で「あなめあなめ」(ああ、目が痛い)と声がするので僧が立ち寄ってみると、どくろがあって、その目からススキが生えていた。
抜き取ってやるとそれは小町のどくろだった。
(あなめ小町)

曽爾高原 すすき②髑髏と真言立川流髑髏といえば真言立川流を思い出す。
真言立川流では髑髏本尊をつくるのだ。
髑髏本尊は、髑髏に漆を塗り重ねて肉付けし、和合水を塗り、眼球をはめこみ、唇には紅をさすなどして美女か美少年のように化粧をほどこして作る。
この髑髏本尊を袋に入れて7年間抱いて寝ると、8年目に髑髏は命を持って話し出すというのである。
真言立川流は12世紀に成立し、南北朝時代には南朝の保護を受けて隆盛を極めた宗派であるが、江戸時代に迫害を受けて壊滅したとされる。
小野小町が生きていた平安時代には、まだ立川流は成立していない。
しかし、立川流の経典は遣唐使だった空海が唐より持ち帰った理趣経で、空海は平安時代初期の人物である。
また、立川流は陰陽道の影響を受けているが、奈良時代に成立した記紀には陰陽道の影響を受けたと思われる記事があり(混沌が陰陽に分離して天地となった/日本書紀 など)小野小町の時代に立川流につながるような信仰があった可能性はある。
『髑髏本尊を袋に入れて7年間抱いて寝ると8年目に髑髏は命を持って話し出す』という点に注意したい。
これは死んだ人が髑髏本尊として復活するということである。
髑髏は復活にかかせない呪具であったのではないかと私は思う。
五箇村村上家住宅に展示されていた鬼門除けの髑髏(猿の髑髏か?)③布袋の袋例えば七福神の布袋尊は、死後に姿を見かけられている。
これは死後に布袋が生き返った=復活したということではないだろうか。
そして布袋は手に袋をもっている。
萬福寺の布袋がもっている袋はちょうど髑髏が入っていそうな大きさである。
萬福寺 布袋像
↑ 上の写真は米原子供歌舞伎・旭山で演じられた『御所桜堀川夜討 弁慶上使の段』である。
弁慶が手に紅白の包みを持っているが、この包みの中に入っているのはどちらも人の首である。
萬福寺の布袋が持っている袋と大きさや形などが似ていると思う。
④大黒天と袋大黒天も袋を持っている。
大黒天は日本神話の大国主と習合されているが、大国主は何度も死んでは生き返っている。
興福寺 追儺会に登場した大黒天大黒天のルーツとされるインドの神・マハーカーラは『大いなる闇』という意味で、片手に宝物の入った小袋、又は人間の生首を持っていた。
そして不老長寿の薬をもつと考えられていたという。
ということは、宝物の入った小袋というが、その中身は人間の生首なのではないだろうか。
また大黒天が持つ不老長寿の薬とは人間の生首であるとも考えられる。
⑤涅槃図と風呂敷包涅槃図には樹の枝に赤い風呂敷包が描かれる。→
☆(向かって左から2番目の樹に赤い風呂敷包が見える。)
この風呂敷包もちょうど髑髏が入っていそうな大きさである。
この風呂敷包は摩耶夫人がお釈迦様のために投じた薬が入っていると言われている。
薬とは不老長寿の薬である人間の髑髏なのではないだろうか。
⑥後白河法皇と復活そこでもう一度、三十三間堂に伝わる後白河法皇の髑髏伝説をみてみよう。
後白河法皇の前世は熊野の蓮花坊という者で、六十六部の経典を日本廻国して奉納した功徳によって天皇に生れ変わったのである。
すなわち、蓮花坊の生まれ変わりが後白河法皇なのだ。
そしてこの蓮花坊の髑髏より柳が生えていることが後白河法皇の頭痛をひきおこしている。
やはり、髑髏は復活のための呪術であると考えられるのではないだろうか。
三十三間堂⑦小町と髑髏本尊小野小町には後白河法皇と同様の伝説が伝えられているが、後白河法皇が蓮花坊の生まれ変わりであるのに対し、小町は蓮花坊と同じく髑髏そのものでその目からはススキが生えている。
そして髑髏本尊はお白粉を塗り、紅をさして美女か、美少年のように化粧するのだという。
絶世の美女といわれる小野小町とは髑髏本尊なのではないだろうか?
髑髏本尊は漆や和合水を塗り重ねて作るが、惟喬親王は法輪寺に籠った際、虚空蔵地蔵より漆の製法を授かったという伝説がある。
法輪寺 惟喬親王は文徳天皇の長子で、文徳天皇からも立太子が望まれていたが、母親が紀静子であったため、藤原良房の娘・明子を母親にもつ惟仁親王が立太子していた。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は小野の里に隠棲し、頻繁に歌会を開いた。
六歌仙のうち、遍照・在原業平・喜撰法師(紀有常)は惟喬親王の歌会のメンバーであった。
遍照・在原業平・喜撰法師(紀有常)らは歌会と称して、惟喬親王を担ぎ上げてのクーデターを企てていたのではないかとする説がある。
(詳しくはこちらをお読みください →
小野小町の謎② 六歌仙は怨霊だった。)
小野小町は六歌仙の一だが、六歌仙(遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康秀・大友黒主・小野小町)は全員、藤原良房と敵対関係にある人物だった。
そして『あなめ小町』では小町は薄の生えた髑髏として登場しており、惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授かっている。
髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作ることと、何か関係がありそうである。
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
訪問ありがとうございました!
にほんブログ村