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小野小町は男だった⑪ 深草少将は紀氏だった?


墨染寺 桜

墨染寺

小野小町は男だった⑩ 百夜通い 『深草少将・小野小町・惟喬親王に共通する九十九のイメージ』 よりつづく~

①墨染寺

京都市伏見区墨染町741に墨染寺がある。
平安時代に藤原基経がなくなったとき、これを悲しんだ上野峯雄が『深草の 野辺の桜し こころあらば 今年ばかりは 墨染に咲け』と歌を詠んだ。
墨染という地名はことにちなむという。

墨染寺はこの歌に詠まれた墨染桜があることで知られる。
墨染桜は花びらの中央部が墨で染めたように黒っぽくみえるところからこの名前がある。
また境内にはたくさんのソメイヨシノも植えられていて春には多くの観光客がやってくる。

墨染寺は別名を桜寺という。
小さなお寺だが、まさしくその名にぴったりのお寺である。

②欣浄寺

墨染寺のすぐ近所の京都市伏見区西枡屋町1038に欣浄寺という寺がある。
近所の人に欣浄寺の場所を尋ねたところ、次のような返事が返ってきた。
「この近所にあるお寺さんゆうたら墨染寺以外ない思いますけどなあ。」
やむなく付近を探し回ったところようやく欣浄寺は見つかった。
近所の人が知らないというのも無理はない。
欣浄寺は空き地の奥にあって寺門もないのだ。
空き地の奥に、民家と民家に挟まれた狭い通路があり、ここから敷地内に入るとコンクリート造の本堂が現れる。
それでようやくここが寺だと気付くほどだ。
本堂の前は林が生い茂っていて薄暗く陰湿な印象を受ける。

③墨染寺と欣浄寺、どちらにも存在する墨染桜の古株と墨染井

墨染寺と欣浄寺の由緒は次のとおりである。

【墨染寺】
①874年清和天皇(850-881)の勅願により、摂政・藤原良房(804-872)が建立した元号寺院の貞観寺が前身。
②豊臣秀吉より土地の寄進を受け、本宗寺院となった。
③学妙上人が復興された。

【欣浄寺】
①平安時代初期に桓武天皇より深草少将が邸地として賜わったもので八町四面の広さがあった。
②深草少将は弘仁3年(813年)3月16日に薨去しこの地に埋葬された。
③その後、遍照が仁明天皇の崩御を悼んで念仏堂をたてた。
④1230年~1232年、曹洞宗開祖の道元禅師がここに閑居された。
⑤欣浄寺の池の東には「少将の通い道」と呼ばれる道があり、この道を訴訟のある人が通ると願いがかなわないといわれている。

対照的な雰囲気を持ち、由緒もまったく異なる墨染寺と欣浄寺だが、二つの寺には何か関係がありそうである。
というのは、どちらの寺にも墨染桜の古株が残されており、どちらの寺にも墨染井があるのである。
もっとも墨染寺にある墨染井は1768年に歌舞伎役者・2代目中村歌右衛門が寄進した御手洗鉢、欣浄寺にある墨染井はつるべ式の井戸とものは違ってはいるのだが。

欣浄寺-墨染井 

欣浄寺 墨染井

④深草少将=仁明天皇?


欣浄寺の墨染井は深草少将が用いていたものとされ、井戸のほとりには小野小町と深草少将の供養塔が建てられている。

欣浄寺-供養塔

欣浄寺 小野小町・深草少将供養塔
また欣浄寺の池の東には「少将の通い道」と呼ばれる道があり、この道を訴訟のある人が通ると願いがかなわないといわれている。

深草少将は813年に亡くなったというが、小町との関わりを考えると時代が少し早いように思われる。
小町は分屋康秀(?~885)や遍照(816~890)と交流があった。
小町が深草少将と同年代だとすれば、小町は分屋康秀や遍照よりもかなり年が上ということになってしまう。
小町が分屋康秀や遍照よりもかなり年が上だったというのはありえなくはないが。

欣浄寺の由緒には「その後遍照がここに仁明天皇(810~850)を悼んで念仏堂をたてた」とある。
なぜ遍照は深草少将の邸宅跡に仁明天皇を悼むための念仏堂をたてたのだろうか。
この記事は深草少将と仁明天皇に関係があることを思わせる。
ということは、深草少将とは仁明天皇のことなのだろうか。

仁明天皇の陵は深草の地にある。
仁明天皇が深草帝と呼ばれたのはそのためである。
山村美佐さんは「小野小町は仁明天皇の更衣であった」としておられるが、彼女は深草少将は深草帝(仁明天皇)であると推理されているのだろう。
ただし、深草少将が亡くなったとされるのは813年、仁明天皇が崩御されたのは850年で時代がずれるが。

⑤深草は紀氏の土地だった。

私は深草少将のモデルは仁明天皇ではないと考えている。

奈良時代、深草は紀伊郡に属し、深草郷と呼ばれていた。
紀伊郡という地名は紀氏一族が本拠地としていた土地であったところからつけられたと考えらえている。
平安時代に深草は藤原氏の荘園となった。
そして紀氏の勢力は衰え、藤原氏の配下にあった秦氏がこのあたりの土地を支配したようである。

墨染寺、欣浄寺から徒歩10分くらいのところに藤森神社がある。

藤森神社 蹴鞠3

藤森神社

藤森神社の御祭神 はスサノオであり、別雷命、日本武命、應神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇、舍人親王、天武天皇、早良親王、伊予親王、井上内親王を配祀している。
しかし、藤森神社は紀氏の先祖を祀る神社だともいわれている。

記紀などによれば、紀氏は孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子・紀角宿禰を始祖としている。
しかし、別の史料には紀氏の祖神をスサノオとするものがあるのだという。
とすれば、藤森神社が紀氏の先祖を祀る神社であるというのは辻褄があう。

藤森神社 紫陽花

藤森神社

⑥土地と稲荷神を奪われた藤森神社

藤森神社はもともとは現在の伏見稲荷大社がある場所に鎮座していたが、そこに伏見稲荷大社が創建されることになって移転している。
伏見稲荷大社 千本鳥居 雪 
伏見稲荷大社

そのため、伏見稲荷大社周辺の住人は今でも藤森神社の氏子である。
また藤森神社の祭礼では神輿を伏見稲荷神社へ担ぎこみ「土地返せ」と囃し立てるそうである。

藤森神社 藤森祭 神輿 
藤森神社 藤森祭


伏見稲荷大社の御祭神は宇迦之御魂大神で、佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神を配祀している。
『式内社調査報告』で、柴田實氏は、四大神とは、五十猛命、大屋姫、抓津姫、事八十神の四柱の神としている。

五十猛神(イソタケル)は、スサノオの子で、林業の神として信仰されている。
記紀の記述によれば五十猛神は紀伊国に祀られているとある。
紀伊は古来より林業の盛んな地であり、紀伊の人々が信仰していた神だと考えられている。

大屋姫は大屋都姫命のことだろうか。
大屋都姫命と抓津姫は姉妹の神で、は、和歌山県和歌山市宇田森の大屋都姫神社の御祭神である。
日本書記一書ではスサノオの娘で五十猛神は兄となっている。
スサノオに命じられて五十猛命と共に全国の山々に木種を撒いたあと紀伊国に戻って住んだとある。

伏見稲荷大社は紀氏が祭祀する藤森神社の土地を奪っただけでなく、紀氏の神までも奪ったのである。

伏見稲荷大社 狐の像2 

伏見稲荷大社

また、 空海が816年、稲荷山三箇峯から現在地へ勧請したとも言い伝わっているが、その際、紀州の老人が稲を背負い、杉の葉を提て、両女を率い、二子を具して東寺の南門に望んだという伝説もある。
(伏見稲荷大社は東寺の鎮守とされる。)

東寺 桜 ライトアップ

東寺

伏見稲荷大社は711年、秦伊呂具によって創始されたとされているが、もともとは稲荷神は稲を背負った紀州の老人=紀氏の神だったのではないだろうか。

和歌山県有田市糸我町中番に稲荷神社があり、第27代安閑天皇(西暦531-535)代に創祀されたという伝説がある。
この稲荷神社は最古の稲荷社とも言われている。

⑦深草少将は紀氏だった?

欣浄寺-桜 
欣浄寺

欣浄寺によれば、深草少将は弘仁3年(813年)3月16日に薨去しこの地に埋葬されたという。
そして空海が稲荷神を勧請したのは816年である。

この816年ごろよりともとは紀氏の土地であった深草の地が藤原氏や藤原氏の配下にある秦氏の土地となっていったのではないだろうか。
(空海は秦氏だとする説がある。)
するとそれ以前にこの地に邸宅を持っていた深草少将とは紀氏だと考えられる。

空海が816年、伏見稲荷大社を稲荷山三箇峯から現在地へ勧請した際、東寺の南門に現れてたという紀州の老人が深草少将なのではないか?

墨染寺 桜 

墨染寺 

墨染寺は874年に清和天皇(850-881)の勅願により、摂政・藤原良房(804-872)が建立した貞観寺が前身だというが、欣浄寺の前身である深草少将の邸宅は八丁四面の広大な敷地を持っていたという。
藤原良房は紀氏の人物と考えられる深草少将の邸宅があった土地をなんらかの方法で自分のものとし、そこに貞観寺を建てたのではないか。

墨染桜はもともとは813年になくなった深草少将の死を悲しんで花びらが墨色に染まったものと考えられていたのだと思う。
深草少将邸宅跡とされる欣浄寺に墨染桜の古株や墨染井があるのはそのためではないだろうか。
ところが深草が藤原氏の土地となり藤原氏によって貞観寺がたてられたため、深草少将ではなく藤原基経の死を悲しんで花びらが墨色に染まったのが墨染桜であると考えられるようになったのではないだろうか。

欣浄寺の池の東には「少将の通い道」と呼ばれる道があり、この道を訴訟のある人が通ると願いがかなわないといわれている。
願がかなわないというのは、訴訟に負けるということだろう。
深草少将=紀氏は藤原氏およびその配下にある秦氏に巧妙に土地を奪われてしまったことから、このような言い伝えができたのではないだろうか。

深草少将とは紀氏であると私は思う。
前回の記事で私は、深草少将には菊のイメージがあり、やはり菊のイメージがある惟喬親王が深草少将ではないかと書いたが、惟喬親王の母親は紀静子であるので惟喬親王は紀氏であるといってもいいだろう。

さきほど私は「空海が816年、伏見稲荷大社を稲荷山三箇峯から現在地へ勧請した際、東寺の南門に現れてたという紀州の老人が深草少将なのではないか?」と書いた。
惟喬親王はこの紀州の老人とイメージが重ねられている(習合されている)のではないだろうか?

法輪寺 重陽神事

 
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