小野小町は男だった⑫ あなめ小町『小野小町は髑髏本尊だった?』 よりつづく~ 京都御所①残った4つの小町伝説残る小町伝説は次の4つである。 ①京都八瀬の里で修行する僧に薪や木の実を届ける女がいた。 女は「小野とは言はじ、薄生いたる、市原野辺に住む」と言って消える。 僧が市原野へ出かけて小町を弔っていると、四位少将の霊が現れ、小町の成仏を妨げる。 少将は百夜通いの後、成仏出来無いで苦しんでいた。 僧が、「懺悔に罪を滅ぼし給え」と勧めると、小町と共に成仏する。(通小町)
② 百歳の老女となった小野小町が近江の国関寺のあたりをさすらっているという話を聞いた陽成院が、小町に次のような歌を贈った。 雲の上は ありし昔に 変はらねど 見し玉簾の うちやゆかしき (宮中は、かつての昔と変わっていないがあなたは、昔見慣れた玉簾(内裏)がなつかしくありませんか。) 小町は鸚鵡返しといって、院に歌を返した。 雲の上は ありし昔に 変はらねど 見し玉簾の うちぞゆかしき (私は、昔見慣れた玉簾(内裏)がなつかしいです。) 相手の歌の「や」を「ぞ」に替えるだけで返歌した、鸚鵡返しの歌として知られる。(鸚鵡小町)
③絶世の美女であったにもかかわらず、男を寄せ付けなかった小町は実は男を受け入れられない体であった。 穴のない「まち針」は「小町針」がなまったものである。(小町針)
④昔、色気づいた女が三人の子に「思いやりのある男にお会いしたい」と話した。 三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をし、在五中将(在原業平)に頼み込んだ。 在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。 しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなり、女は男の家に行って中を伺った。 男は女をちらっとみて歌を詠んだ。 ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ (百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)その後、男がでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。 在五中将が女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。 さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ (狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。) 在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。 ※伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書・『知顕集)』には次のように記されている。 「このをんなは、をののこまちなり。小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。」 (この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。どんな人の子を産んだのか、はっきりしない)(伊勢物語)
補陀落寺(小町寺)②小野小町は小野という名前ではなかった?⑩の『通い小町』では小町と思われる女性が 「小野とは言はじ、薄生いたる、市原野辺に住む」と言っている。 京都市左京区静市市原町に小町寺(補陀落寺)という寺がある。 市原は小野氏の所領地で、市原にある小町寺は小野小町終焉の地とされている。 小野小町の謎⑫ あなめ小町 で『あなめ小町』についてお話したが、小町寺の境内には小町の髑髏があったという場所が存在している。 「小野とは言わじ」という台詞が気になる。 「私の名前は小野ではない」ということだろうか?  補陀落寺(小町寺) 小野小町供養塔③一字違いで大違いのもの、なあに?⑪の鸚鵡小町では小町は相手の歌の「や」を「ぞ」に替えるだけで返歌している。 これは謎々ではないだろうか。 「一字違いで大違いのものはなあに?」という。 補陀落寺(小町寺) 小野皇太后供養塔 ④穴のない体=男?⑫小町針では小町は穴のない体であったとしている。 小町は先天性膣欠損症だったのか? 以前、紹介した古今和歌集仮名序の、小町について述べられた箇所をもう一度見てみよう。 小野小町は いにしへの衣通姫の流なり あはれなるやうにて強からず いはばよき女の悩めるところあるに似たり 強からぬは 女の歌なればなるべしうーん?やけに女であることを強調しすぎてはいないだろうか。 古今和歌集仮名序は紀貫之が書いたと言われている。 紀貫之が著した土佐日記の出だしは「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」だった。 紀貫之は男であるが、女であると偽って日記を書くような一筋縄ではいかない人物だった。 そして古今和歌集には、男が女の身になって詠んだ歌が数多く存在している。 もしかして小野小町とは男? そういえば、補陀落寺に小野老衰像があったが、骨格がしっかりしていて男性のように見えた。 http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=1000200 惟喬親王像 (惟喬親王陵/滋賀県東近江市筒井峠) ⑤小野小町は小野宮だった?通い小町では小町は「小野とはいわじ」と言っている。 惟喬親王は小野宮という邸宅に住んでいたため自身も小野宮と呼ばれていたのだが小野氏ではない。 そして鸚鵡小町は「一字違いで大違いのもの、なあに」という謎々だと私は思うが、惟喬親王と惟仁親王(清和天皇)は一字違いである。 惟喬親王は文徳天皇の長子で天皇にも立太子が望まれていた。 しかし当時の権力者・藤原良房の娘・藤原明子を母親に持つ惟仁親王が生まれたばかりで立太子し、紀静子を母親にもつ惟喬親王は世継ぎ争いで敗れたのだった。 さらに小野小町は穴がない体であったというが、それは男であったということではないのか。 とすれば、小野小町は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないのか? 金龍寺(惟喬親王が住んだ高松御所跡)⑥九十九は奇数で陽の数字小野小町が小野宮=惟喬親王であったならば、伊勢物語の九十九髪の内容も納得がいく。 九十九髪とは百引く一は白で白髪のことを言うのだが、それだけの意味ではない。 俗謡で「おまえ百までわしゃ九 十九まで、共に白髪の生えるまで」というのがある。 これは謡曲高砂の尉・姥からくるものだとされている。 尉が熊手をもち、姥が箒をもって掃いているのは、熊手=九十九まで、掃く(まで)=百(まで)という洒落であるという。 尉が九十九で、姥が百であるのは九十九が奇数で陽の数字、百が偶数で陰の数字、また男は陽で女は陰とされていることによる。 すると九十九髪と詠われた小町は九十九は奇数なので男だということになる。 つまり小野小町=小野宮=惟喬親王と在原業平はBLの関係にあったということである。 小野小町は男だった⑩ 百夜通い 『深草少将・小野小町・惟喬親王に共通する九十九のイメージ』↑ こちらの記事にも書いたのだが、惟喬親王には菊のイメージがある。 滋賀県東近江市の大皇器地祖神社(おおきみちそじんじゃ)では惟喬親王を木地師の祖として祀っており、大皇器地祖神社のある小椋の里の木地師は十六弁の菊の紋章の使用を許されている。 大皇器地祖神社また惟喬親王は京都の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があるのだが、この法輪寺では9月9日に重陽神事を行っている。 法輪寺の重陽神事ではたくさんの菊が飾られ、菊のしずくを飲んで800年の長寿を得たという菊滋童の舞が行われ、菊滋童と惟喬親王のイメージが重なる。 菊滋童の長寿の秘密は菊のしずくを飲むことだけでなく、多くの男女と契ることによって得たものであるという話を聞いたことがある。 菊の契りといえばBLのことだが、惟喬親王に菊のイメージがあるのは彼がゲイであったためではないだろうか。 法輪寺 重陽神事⑧小町は惟喬親王の和霊だったまてまて。 小野小町の謎⑪ 深草少将は紀氏だ ← この記事の中で、深草少将は惟喬親王だと言っていたじゃないか。 小町も深草少将も惟喬親王だなんておかしいじゃないか。 そうおっしゃる方がいらっしゃるかもしれない。 これについて説明しておこう。 神はその現れ方で御霊(神の本質)、和霊(神の和やかな側面)、荒霊(神の荒々しい側面)の3つに分けられるという。 そして和霊は女神で荒霊は男神とする説がある。 すると御霊は男女双体ということになると思う。 これにぴったり当てはまるのが大聖歓喜天である。 歓喜天は象頭の男女双体の神で、男神が鬼王ビナヤキャで、女神が十一面観音の化身のビナヤキャ女神である。 御霊・・・神の本質・・・男女双体・・・大聖歓喜天 和霊・・・神の和やかな側面・・・女神・・・ビナヤキャ女神 荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・鬼王・ビナヤキャ鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神は同じ名前で姿形もそっくりである。→ ☆惟喬親王の場合は、惟喬親王が御霊で、惟喬親王の荒霊と惟喬親王の和霊に別れ、小野小町は惟喬親王の和霊であると、そういうことなのではないだろうか。 御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・大聖歓喜天・・・・・・・・惟喬親王 和霊・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・ビナヤキャ女神・・・・・・小野小町 荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・鬼王・ビナヤキャ・・・・・小野宮(惟喬親王)

菊野大明神 深草少将腰掛け石を御神体とする。⑨深草少将が99日目にたてた代理人とは随心院に伝わる百夜通い伝説は次のようなものだった。 99日目に小町は「1日足りないが、まあお入り」と扉を開ける。 するとそこに立っていたのは深草少将ではなく別人だった。 深草少将は毎日熱心に小町のもとへ通っていたのだが、その日に限って代理人をたてていたのだった。一般的な百夜通い伝説は深草少将は今日で100日目という日に死んでしまうのだが、随心院では99日目に深草少将は代理人をたてたとする。 代理人をたてるという発想はどこからくるのだろうか。 それは文徳天皇が惟喬親王を皇太子にしたいと望んでいたにもかかわらず、惟仁親王が皇太子になったところからくるものではないだろうか。 髄心院 はねず踊 深草少将百夜通い伝説を題材にした踊り⑩町は紀氏を表す?『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。 三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。 紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。 また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。 三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。 そして紀静子は惟喬親王の母親だった。 そう考えると、惟喬親王を小町と呼ぶ理由がわかる。 惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。 そういうことで小町なのではないだろうか。 金龍寺(惟喬親王が住んだ高松御所跡)
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小野小町は男だった⑪ 深草少将は紀氏だった? より つづく~ ①後白河法皇と小町に伝わる髑髏伝説
 上は歌川豊春が描いた『通し矢』の様子です。 ウィキペディア( https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Toshi-ya_00.jpg?uselang=ja) よりお借りしました。 三十三間堂は後白河法皇の離宮・法住寺殿の一画に建てられた仏堂で、江戸時代にはその前でさかんに『通し矢』が行われた。 三十三間堂は南北に細長い(約121m)建物で、その長さが矢を射るのにちょうどよかったのだろう。 『通し矢』は現在でも「大的大会」として1月15日に近い日曜日に行われている。 三十三間堂 通し矢(大的大会) 三十三間堂 軒下にささった矢がそのまま残されていた。この日、堂内は無料開放される。 金色に輝く1001体の千手観音像は圧巻だ。  ウィキペディア( https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kusakabe_Kimbei_1364_Sanjiu.JPG?uselang=ja)よりお借りしました。 また、堂内で、僧侶より『柳のお加持』を受けることができる。 『柳のお加持』とは柳の枝で参拝者の頭に数的の水をかけて祈祷するというもので、頭痛封じの霊験があるとされる。 法界寺裸踊り 柳のお加持 (三十三間堂堂内は撮影禁止のため、法界寺のものを貼っておきます。)『柳のお加持』は三十三間堂に伝わる次の伝説にちなむものだろう。 後白河法皇はひどい頭痛持ちであったため、永暦二年二月二十二日、因幡堂に参詣して祈った。 すると夢の中に僧が現れて次のように告げた。 「後白河院の前世は、熊野の蓮花坊という者で、六十六部の経典を日本廻国して奉納した功徳によって天皇に生れた。 しかし、前世の髑髏が岩田川の水底に沈んでおり、その目穴から柳が生え、今は大木となっている。 柳は風が吹くと動くので、今の後白河院の身に頭痛がおこるのです。 髑髏の柳をとりのぞけば頭痛は治るだろう。」 そこでさっそく水底を探させたところ髑髏が見つかった。 髑髏から柳を抜き、その柳で観音の像をつくり、その中へ髑髏を納めた。 また柳の大木は三十三間堂の棟木にした。※伝説では髑髏から生えていた柳は三十三間堂の棟木にしたと伝わるが、実際には三十三間堂の棟木に柳は用いられていない。 三十三間堂 弓矢が当たってできた傷?これと同様の伝説が小町にもある。 ススキ野原の中で「あなめあなめ」(ああ、目が痛い)と声がするので僧が立ち寄ってみると、どくろがあって、その目からススキが生えていた。 抜き取ってやるとそれは小町のどくろだった。 (あなめ小町)
 曽爾高原 すすき②髑髏と真言立川流髑髏といえば真言立川流を思い出す。 真言立川流では髑髏本尊をつくるのだ。 髑髏本尊は、髑髏に漆を塗り重ねて肉付けし、和合水を塗り、眼球をはめこみ、唇には紅をさすなどして美女か美少年のように化粧をほどこして作る。 この髑髏本尊を袋に入れて7年間抱いて寝ると、8年目に髑髏は命を持って話し出すというのである。 真言立川流は12世紀に成立し、南北朝時代には南朝の保護を受けて隆盛を極めた宗派であるが、江戸時代に迫害を受けて壊滅したとされる。 小野小町が生きていた平安時代には、まだ立川流は成立していない。 しかし、立川流の経典は遣唐使だった空海が唐より持ち帰った理趣経で、空海は平安時代初期の人物である。 また、立川流は陰陽道の影響を受けているが、奈良時代に成立した記紀には陰陽道の影響を受けたと思われる記事があり(混沌が陰陽に分離して天地となった/日本書紀 など)小野小町の時代に立川流につながるような信仰があった可能性はある。 『髑髏本尊を袋に入れて7年間抱いて寝ると8年目に髑髏は命を持って話し出す』という点に注意したい。 これは死んだ人が髑髏本尊として復活するということである。 髑髏は復活にかかせない呪具であったのではないかと私は思う。 五箇村村上家住宅に展示されていた鬼門除けの髑髏(猿の髑髏か?)③布袋の袋例えば七福神の布袋尊は、死後に姿を見かけられている。 これは死後に布袋が生き返った=復活したということではないだろうか。 そして布袋は手に袋をもっている。 萬福寺の布袋がもっている袋はちょうど髑髏が入っていそうな大きさである。 萬福寺 布袋像
↑ 上の写真は米原子供歌舞伎・旭山で演じられた『御所桜堀川夜討 弁慶上使の段』である。 弁慶が手に紅白の包みを持っているが、この包みの中に入っているのはどちらも人の首である。 萬福寺の布袋が持っている袋と大きさや形などが似ていると思う。 ④大黒天と袋大黒天も袋を持っている。 大黒天は日本神話の大国主と習合されているが、大国主は何度も死んでは生き返っている。 興福寺 追儺会に登場した大黒天大黒天のルーツとされるインドの神・マハーカーラは『大いなる闇』という意味で、片手に宝物の入った小袋、又は人間の生首を持っていた。 そして不老長寿の薬をもつと考えられていたという。 ということは、宝物の入った小袋というが、その中身は人間の生首なのではないだろうか。 また大黒天が持つ不老長寿の薬とは人間の生首であるとも考えられる。 ⑤涅槃図と風呂敷包涅槃図には樹の枝に赤い風呂敷包が描かれる。→ ☆(向かって左から2番目の樹に赤い風呂敷包が見える。) この風呂敷包もちょうど髑髏が入っていそうな大きさである。 この風呂敷包は摩耶夫人がお釈迦様のために投じた薬が入っていると言われている。 薬とは不老長寿の薬である人間の髑髏なのではないだろうか。 ⑥後白河法皇と復活そこでもう一度、三十三間堂に伝わる後白河法皇の髑髏伝説をみてみよう。 後白河法皇の前世は熊野の蓮花坊という者で、六十六部の経典を日本廻国して奉納した功徳によって天皇に生れ変わったのである。 すなわち、蓮花坊の生まれ変わりが後白河法皇なのだ。 そしてこの蓮花坊の髑髏より柳が生えていることが後白河法皇の頭痛をひきおこしている。 やはり、髑髏は復活のための呪術であると考えられるのではないだろうか。 三十三間堂⑦小町と髑髏本尊小野小町には後白河法皇と同様の伝説が伝えられているが、後白河法皇が蓮花坊の生まれ変わりであるのに対し、小町は蓮花坊と同じく髑髏そのものでその目からはススキが生えている。 そして髑髏本尊はお白粉を塗り、紅をさして美女か、美少年のように化粧するのだという。 絶世の美女といわれる小野小町とは髑髏本尊なのではないだろうか? 髑髏本尊は漆や和合水を塗り重ねて作るが、惟喬親王は法輪寺に籠った際、虚空蔵地蔵より漆の製法を授かったという伝説がある。 法輪寺 惟喬親王は文徳天皇の長子で、文徳天皇からも立太子が望まれていたが、母親が紀静子であったため、藤原良房の娘・明子を母親にもつ惟仁親王が立太子していた。 世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は小野の里に隠棲し、頻繁に歌会を開いた。 六歌仙のうち、遍照・在原業平・喜撰法師(紀有常)は惟喬親王の歌会のメンバーであった。 遍照・在原業平・喜撰法師(紀有常)らは歌会と称して、惟喬親王を担ぎ上げてのクーデターを企てていたのではないかとする説がある。 (詳しくはこちらをお読みください → 小野小町の謎② 六歌仙は怨霊だった。) 小野小町は六歌仙の一だが、六歌仙(遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康秀・大友黒主・小野小町)は全員、藤原良房と敵対関係にある人物だった。 そして『あなめ小町』では小町は薄の生えた髑髏として登場しており、惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授かっている。 髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作ることと、何か関係がありそうである。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 訪問ありがとうございました! にほんブログ村
墨染寺 小野小町は男だった⑩ 百夜通い 『深草少将・小野小町・惟喬親王に共通する九十九のイメージ』 よりつづく~ ①墨染寺京都市伏見区墨染町741に墨染寺がある。 平安時代に藤原基経がなくなったとき、これを悲しんだ上野峯雄が『 深草の 野辺の桜し こころあらば 今年ばかりは 墨染に咲け』と歌を詠んだ。 墨染という地名はことにちなむという。 墨染寺はこの歌に詠まれた墨染桜があることで知られる。 墨染桜は花びらの中央部が墨で染めたように黒っぽくみえるところからこの名前がある。 また境内にはたくさんのソメイヨシノも植えられていて春には多くの観光客がやってくる。 墨染寺は別名を桜寺という。 小さなお寺だが、まさしくその名にぴったりのお寺である。 ②欣浄寺墨染寺のすぐ近所の京都市伏見区西枡屋町1038に欣浄寺という寺がある。 近所の人に欣浄寺の場所を尋ねたところ、次のような返事が返ってきた。 「この近所にあるお寺さんゆうたら墨染寺以外ない思いますけどなあ。」 やむなく付近を探し回ったところようやく欣浄寺は見つかった。 近所の人が知らないというのも無理はない。 欣浄寺は空き地の奥にあって寺門もないのだ。 空き地の奥に、民家と民家に挟まれた狭い通路があり、ここから敷地内に入るとコンクリート造の本堂が現れる。 それでようやくここが寺だと気付くほどだ。 本堂の前は林が生い茂っていて薄暗く陰湿な印象を受ける。 ③墨染寺と欣浄寺、どちらにも存在する墨染桜の古株と墨染井墨染寺と欣浄寺の由緒は次のとおりである。 【墨染寺】 ①874年清和天皇(850-881)の勅願により、摂政・藤原良房(804-872)が建立した元号寺院の貞観寺が前身。 ②豊臣秀吉より土地の寄進を受け、本宗寺院となった。 ③学妙上人が復興された。 【欣浄寺】 ①平安時代初期に桓武天皇より深草少将が邸地として賜わったもので八町四面の広さがあった。 ②深草少将は弘仁3年(813年)3月16日に薨去しこの地に埋葬された。 ③その後、遍照が仁明天皇の崩御を悼んで念仏堂をたてた。 ④1230年~1232年、曹洞宗開祖の道元禅師がここに閑居された。 ⑤欣浄寺の池の東には「少将の通い道」と呼ばれる道があり、この道を訴訟のある人が通ると願いがかなわないといわれている。 対照的な雰囲気を持ち、由緒もまったく異なる墨染寺と欣浄寺だが、二つの寺には何か関係がありそうである。 というのは、どちらの寺にも墨染桜の古株が残されており、どちらの寺にも墨染井があるのである。 もっとも墨染寺にある墨染井は1768年に歌舞伎役者・2代目中村歌右衛門が寄進した御手洗鉢、欣浄寺にある墨染井はつるべ式の井戸とものは違ってはいるのだが。 欣浄寺 墨染井 ④深草少将=仁明天皇?欣浄寺の墨染井は深草少将が用いていたものとされ、井戸のほとりには小野小町と深草少将の供養塔が建てられている。 欣浄寺 小野小町・深草少将供養塔
また欣浄寺の池の東には「少将の通い道」と呼ばれる道があり、この道を訴訟のある人が通ると願いがかなわないといわれている。 深草少将は813年に亡くなったというが、小町との関わりを考えると時代が少し早いように思われる。 小町は分屋康秀(?~885)や遍照(816~890)と交流があった。 小町が深草少将と同年代だとすれば、小町は分屋康秀や遍照よりもかなり年が上ということになってしまう。 小町が分屋康秀や遍照よりもかなり年が上だったというのはありえなくはないが。 欣浄寺の由緒には「その後遍照がここに仁明天皇(810~850)を悼んで念仏堂をたてた」とある。 なぜ遍照は深草少将の邸宅跡に仁明天皇を悼むための念仏堂をたてたのだろうか。 この記事は深草少将と仁明天皇に関係があることを思わせる。 ということは、深草少将とは仁明天皇のことなのだろうか。 仁明天皇の陵は深草の地にある。 仁明天皇が深草帝と呼ばれたのはそのためである。 山村美佐さんは「小野小町は仁明天皇の更衣であった」としておられるが、彼女は深草少将は深草帝(仁明天皇)であると推理されているのだろう。 ただし、深草少将が亡くなったとされるのは813年、仁明天皇が崩御されたのは850年で時代がずれるが。 ⑤深草は紀氏の土地だった。私は深草少将のモデルは仁明天皇ではないと考えている。 奈良時代、深草は紀伊郡に属し、深草郷と呼ばれていた。 紀伊郡という地名は紀氏一族が本拠地としていた土地であったところからつけられたと考えらえている。 平安時代に深草は藤原氏の荘園となった。 そして紀氏の勢力は衰え、藤原氏の配下にあった秦氏がこのあたりの土地を支配したようである。 墨染寺、欣浄寺から徒歩10分くらいのところに藤森神社がある。 藤森神社藤森神社の御祭神 はスサノオであり、別雷命、日本武命、應神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇、舍人親王、天武天皇、早良親王、伊予親王、井上内親王を配祀している。 しかし、藤森神社は紀氏の先祖を祀る神社だともいわれている。 記紀などによれば、紀氏は孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子・紀角宿禰を始祖としている。 しかし、別の史料には紀氏の祖神をスサノオとするものがあるのだという。 とすれば、藤森神社が紀氏の先祖を祀る神社であるというのは辻褄があう。 藤森神社⑥土地と稲荷神を奪われた藤森神社藤森神社はもともとは現在の伏見稲荷大社がある場所に鎮座していたが、そこに伏見稲荷大社が創建されることになって移転している。 伏見稲荷大社そのため、伏見稲荷大社周辺の住人は今でも藤森神社の氏子である。 また藤森神社の祭礼では神輿を伏見稲荷神社へ担ぎこみ「土地返せ」と囃し立てるそうである。 藤森神社 藤森祭伏見稲荷大社の御祭神は宇迦之御魂大神で、佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神を配祀している。 『式内社調査報告』で、柴田實氏は、四大神とは、五十猛命、大屋姫、抓津姫、事八十神の四柱の神としている。 五十猛神(イソタケル)は、スサノオの子で、林業の神として信仰されている。 記紀の記述によれば五十猛神は紀伊国に祀られているとある。 紀伊は古来より林業の盛んな地であり、紀伊の人々が信仰していた神だと考えられている。 大屋姫は大屋都姫命のことだろうか。 大屋都姫命と抓津姫は姉妹の神で、は、和歌山県和歌山市宇田森の大屋都姫神社の御祭神である。 日本書記一書ではスサノオの娘で五十猛神は兄となっている。 スサノオに命じられて五十猛命と共に全国の山々に木種を撒いたあと紀伊国に戻って住んだとある。 伏見稲荷大社は紀氏が祭祀する藤森神社の土地を奪っただけでなく、紀氏の神までも奪ったのである。 伏見稲荷大社また、 空海が816年、稲荷山三箇峯から現在地へ勧請したとも言い伝わっているが、その際、紀州の老人が稲を背負い、杉の葉を提て、両女を率い、二子を具して東寺の南門に望んだという伝説もある。 (伏見稲荷大社は東寺の鎮守とされる。) 東寺伏見稲荷大社は711年、秦伊呂具によって創始されたとされているが、もともとは稲荷神は稲を背負った紀州の老人=紀氏の神だったのではないだろうか。 和歌山県有田市糸我町中番に稲荷神社があり、第27代安閑天皇(西暦531-535)代に創祀されたという伝説がある。 この稲荷神社は最古の稲荷社とも言われている。 ⑦深草少将は紀氏だった? 欣浄寺欣浄寺によれば、深草少将は弘仁3年(813年)3月16日に薨去しこの地に埋葬されたという。 そして空海が稲荷神を勧請したのは816年である。 この816年ごろよりともとは紀氏の土地であった深草の地が藤原氏や藤原氏の配下にある秦氏の土地となっていったのではないだろうか。 (空海は秦氏だとする説がある。) するとそれ以前にこの地に邸宅を持っていた深草少将とは紀氏だと考えられる。 空海が816年、伏見稲荷大社を稲荷山三箇峯から現在地へ勧請した際、東寺の南門に現れてたという紀州の老人が深草少将なのではないか? 墨染寺
墨染寺は874年に清和天皇(850-881)の勅願により、摂政・藤原良房(804-872)が建立した貞観寺が前身だというが、欣浄寺の前身である深草少将の邸宅は八丁四面の広大な敷地を持っていたという。 藤原良房は紀氏の人物と考えられる深草少将の邸宅があった土地をなんらかの方法で自分のものとし、そこに貞観寺を建てたのではないか。 墨染桜はもともとは813年になくなった深草少将の死を悲しんで花びらが墨色に染まったものと考えられていたのだと思う。 深草少将邸宅跡とされる欣浄寺に墨染桜の古株や墨染井があるのはそのためではないだろうか。 ところが深草が藤原氏の土地となり藤原氏によって貞観寺がたてられたため、深草少将ではなく藤原基経の死を悲しんで花びらが墨色に染まったのが墨染桜であると考えられるようになったのではないだろうか。 欣浄寺の池の東には「少将の通い道」と呼ばれる道があり、この道を訴訟のある人が通ると願いがかなわないといわれている。 願がかなわないというのは、訴訟に負けるということだろう。 深草少将=紀氏は藤原氏およびその配下にある秦氏に巧妙に土地を奪われてしまったことから、このような言い伝えができたのではないだろうか。 深草少将とは紀氏であると私は思う。 前回の記事で私は、深草少将には菊のイメージがあり、やはり菊のイメージがある惟喬親王が深草少将ではないかと書いたが、惟喬親王の母親は紀静子であるので惟喬親王は紀氏であるといってもいいだろう。 さきほど私は「空海が816年、伏見稲荷大社を稲荷山三箇峯から現在地へ勧請した際、東寺の南門に現れてたという紀州の老人が深草少将なのではないか?」と書いた。 惟喬親王はこの紀州の老人とイメージが重ねられている(習合されている)のではないだろうか?  ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 訪問ありがとうございました! にほんブログ村
矢田の神と春日明神(矢田寺) ↑ こちらの記事について、6月13日にメールをくださった方、ありがとうございました。 返事をおくろうと思いましたが、メールを送ることができません。 お手数ですが、メールを送ることのできるアドレスを明記したうえで、再度メールフォームを送っていただけないでしょうか。 宜しくお願いします。
[2017/06/13 21:15]
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髄心院 はねず踊小野小町は男だった⑨ 関寺小町『小野小町は織姫と習合されている?』 より続く ①百夜通い3月の終わりごろ,随心院では遅咲きの梅・はねずの梅が満開となり、梅園のかたわらでは童女たちによって『はねず踊り』が奉納される。 随心院は小野小町の邸宅があった場所だと伝わり、小町を慕う深草少将が百夜通いしたという伝説が残る。 『はねず踊り』はこれを題材としたものである。 深草少将の百夜通い伝説は随心院だけでなく、各地にある。 その一般的なあらすじは次のようなものだ。 小町を慕う深草少将に小町は「百日間私のもとに通いとおしたならば、あなたのものになりましょう」と約束をする。 深草少将は毎夜小町のもとに通い続けるが、今日で100日目という雪の夜に凍えて死んでしまう。随心院に伝わる百夜通い伝説はこれとは少し異なっている。 99日目に小町は「1日足りないがまあお入り」と扉を開ける。 するとそこに立っていたのは深草少将ではなく別人だった。 深草少将は毎日熱心に小町のもとへ通っていたのだが、その日に限って代理人をたてていたのだった。 髄心院 梅園②お百度参り小町伝説の『百夜通い』という発想はどこからくるのだろうか。 友人に質問してみたところ「お百度参りと関係があるのではないか。」とアドバイスしてくれた。 お百度参りは現在では1日に百度参るというスタイルをとるのが一般的だが、もともとは100日間毎日参拝するというのが正式な作法だった。 『吾妻鏡』には『1189年奥州追討を祈願して御台所御所中の女房数名に鶴ヶ岡八幡宮にお百度参りをさせた』という記述があり、1189年にはお百度参りをする習慣があったことがわかる。 小野小町が活躍したのはこれよりももう少し早い平安時代前期だが、すでにお百度参りの習慣があった可能性はないとはいえない。 またお百度参りの習慣が生じたのちの時代に『百夜通い伝説』が、創作された可能性もある。 ところが深草少将は99日目で死んでしまったり、代理人をたてたりしたため、お百度参りは達成できなかったということだろうか? 髄心院 桜③重陽このように深草少将は99に縁の深い人である。 そして小野小町は100と縁が深く、たとえば関寺小町では百歳の老婆として登場している。 しかし小町は100だけではなく99とも関係がある。 というのは、伊勢物語に「九十九髪」の段があり、次のような物語が記されているのだ。 昔、色気づいた女が三人の子に「思いやりのある男にお会いしたい」と話した。 三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をし、在五中将(在原業平)に頼み込んだ。 在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。 しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなり、女は男の家に行って中を伺った。 男は女をちらっとみて歌を詠んだ。 ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ (百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。) その後、男がでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。 在五中将が女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。 さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ (狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。) 在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。 (伊勢物語)
※伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書・『知顕集)』には次のように記されている。 「このをんなは、をののこまちなり。小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。」 (この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。どんな人の子を産んだのか、はっきりしない) 九十九は「つくも」と読むが、「つくも」とは「つぎもも(次百)」という意味である。 100ひく1は99となるが、百ひく一は白となるので九十九髪とは白髪のことであるという。 なかなか洒落た表現である。 さらに十(じゅう)の音は重(じゅう)に通じるので、九十九は九重九という意味なのではないだろうか。 九重九とは九に九を重ねるということで、重陽を意味しているのではないか。 重用とは9月9日のことで、9がふたつ重なるので重陽の節句と言われている。 菊の被綿(法輪寺)重陽の節句の前夜、菊の花に綿をかぶせ、翌朝、綿についた雫で体を撫でると長寿になると言われている。陰陽道では奇数は陽、偶数は陰の数字とされていた。 そして月と日が同じ一桁の陽の数字の日は陽+陽=陰になると考えられて避邪の行事が行われていた。 月と日が同じ一桁の陽の数字の日とは、1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日だが、1月1日は元旦で特別な日だとされたためか、この日は外され1月7日とされた。 すなわち1月7日(七草の節句)・3月3日(桃の節句)・5月5日(菖蒲の節句)・7月7日(笹の節句)・9月9日(菊の節句)が五節句とされた。 五節句は、しだいに避邪の行事という意味合いが薄れ、おめでたい日として祝われるようになっていった。 特に9月9日は一桁の奇数としては最も大きい数字であるので重陽の節句ともいわれ、大変おめでたい日とされた。  菊滋童の像(法輪寺)重用の節句は菊の節句とも呼ばれるが、これは旧暦の9月9日ごろは菊が見ごろを迎える時期であるというだけの意味ではないだろう。 日本神話に菊理媛神という女神が登場するが、菊理媛神はククリヒメノミコトと読む。 つまり、菊とはククで、ククは九九で重陽につながるのである。 また妙性寺縁起( 小野小町の謎⑦ 妙性寺縁起)では、小町は次のような歌を詠んだことになっている。 九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる (九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。) ここに九重とでてくる。 九重とはいくえにも重なっている様子を意味する言葉で、また宮中を意味する言葉でもあった。 さらに九重とは九が重なるということで、重陽を意味しているのではないだろうか。 木地師資料館の惟喬親王像●惟喬親王と菊小野小町の謎② 六歌仙は怨霊だった。において、私は次のようなことを書いた。 「惟喬親王は文徳天皇の長子で母親は紀静子だった。 文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考え、これを源信に相談したが、源信は当時の権力者・藤原良房に憚ってこれをいさめた。 結局、惟喬親王を皇太子にしたいという文徳天皇の希望はかなえられず、藤原良房の娘・明子との間に生まれた惟仁親王が立太子し、8歳で即位した。 世継ぎ争いに敗れた惟喬親王はたびたび歌会を催した。 その歌会のメンバーの中に、在原業平・僧正遍照・、紀有恒(紀名虎の息子。喜撰法師は紀名虎または有常のことではないかといわれている。)らの名前がある。 彼らは惟喬親王をまつりあげ、歌会と称してクーデターを企てていたのではないかとする説もある。」 と。 ろくろ 木地師の里(滋賀県東近江市蛭谷)惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師の用いる轆轤を発明したという。 滋賀県東近江市の大皇器地祖神社(おおきみちそじんじゃ)ではこの惟喬親王を木地師の祖として祀っている。 そしてこの大皇器地祖神社のある小椋の里の木地師は十六弁の菊の紋章の使用を許されている。 なぜ彼らは十六弁の菊の紋章の使用を許されたのだろうか。 それは彼らが木地師の祖として祀る惟喬親王が菊に縁の深い人物であるからではないだろうか。 大皇器地祖神社
惟喬親王は京都の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があるのだが、この法輪寺では9月9日に重陽神事を行っている。 法輪寺の重陽神事ではたくさんの菊が飾られ、菊のしずくを飲んで800年の長寿を得たという菊滋童の舞が行われた。 菊滋童の舞 (法輪寺 重陽神事) ●菊野大明神京都市中京区河原町通二乗上ル清水町に法雲寺という寺がある。 高層ビルの谷間にあってお世辞にも風情があるとはいえないこの寺の境内に菊野大明神が祀られている。 ご神体は深草少将が腰掛けたという石だと聞いたのだが、柵で囲まれているので御神体の石がどこにあるのかわからなかった。 深草少将は99日目の夜に死んでしまい、深草少将腰掛石にはその恨み籠もっているので男女の仲を裂くといわれている。 京都では婚礼の時には決して菊野大明神の傍を通らないという。 また縁切りのご利益があるということで、離婚や禁煙を祈願する人も数多く参拝する。 惟喬親王を祀る大皇器地祖神社の氏子である小椋の里の木地師は十六弁の菊の紋章の使用を許されていた。 また惟喬親王の伝説が残る京都法輪寺では重陽神事が行われ、菊滋童の舞が奉納されている。 このように惟喬親王は菊と関係が深いように思われる。 深草少将腰掛石がある神社を菊野大明神というのは、深草少将のモデルが惟喬親王であるからではないのだろうか。 惟喬親王は小野宮と呼ばれており、また小野の里に隠棲するなど、小野小町とは関係が深いように思われる。 井沢元彦氏は小野小町は惟喬親王の乳母ではないかとしておられるが、そうではなく惟喬親王は深草少将のモデルで、小野小町とは惟喬親王が恋い慕った女性のことなのではないだろうか? 次回、これについてもう少し詳しく考えてみたい。 
菊滋童の舞 (法輪寺 重陽神事)小野小町は男だった⑪ 深草少将は紀氏だった? へつづく~ トップページはこちら → 小野小町は男だった① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 訪問ありがとうございました! にほんブログ村
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