小野小町は男だった⑤ 小野小町は絶世の美女だった。『【衣通姫の流なり】を勘違い?』
小野小町は男だった④ 小町、疱瘡を患う 『小野小町は疫神だった?』 よりつづく
髄心院に展示されていた小野小町像
①小野小町は衣通姫の流れなり
戦国武将や歴代天皇の名前を知らない人でも小野小町の名前は知っている。
小野小町の名前が多くの人に知られているのは、小野小町が世界三大美女のひとりだとされていることによるものだろう。
世界三大美女とはエジプトのクレオパトラ、中国唐代の楊貴妃、そして日本の小野小町のことであるとされる。
(世界三大美女のひとりに小野小町を入れるのは日本だけである。
世界的には、クレオパトラ、楊貴妃、ヘレネが世界三大美女とされている。
ヘレネとはギリシャ神話に登場する美女で、スパルタのメネラオス王子とトロイアのパリス王子がヘレネを巡って争いトロイア戦争がおこったとされる。)
小野小町が絶世の美女だといわれているのは、古今和歌集仮名序の次の文章によるものだと考えられている。
小野小町は いにしへの衣通姫の流なり
あはれなるやうにて強からず
いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし
衣通姫とは記紀(古事記・日本書紀のこと)に登場する女性で、肌の美しさが衣を透して輝くという意味で衣通姫と呼ばれていた。
「小野小町はいにしへの衣通姫の流なり」とは大変抽象的でわかりにくい文章だが、衣通姫が美人なので、衣通姫の流である小野小町も美人であると、そう解釈されたようである。

ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作した小野小町のタペストリー(髄心院)
②ウィキペディアの解説は意訳しすぎ
ウィキペディアでは「衣通姫の流なり」は和歌の歌風について述べたものだとし、次のように解説している。
『古今和歌集』序文において紀貫之は彼女の作風を、『万葉集』の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。
私はウィキペディアのこの解説には問題があると思う。
意訳しずぎなのだ。
意訳にはどうしても主観が入ってしまいがちなので、古典はできる限り直訳したほうがいいと思う。
『古今和歌集』序文とは紀貫之が書いた『古今和歌集仮名序』のことだろうが、古今和歌集仮名序の小野小町について記された文章は上に示したとおりである。
直訳すると次のようになると思う。
小野小町は古の衣通姫の流れである
しみじみとした趣があるようで、強くない。
いわば、いい女には悩んでいるところがあるものだが、それに似ている。
強くないのは女の歌だからだろう。
『古今和歌集仮名序』の中で、小野小町に触れられているのはこの部分だけである。
『万葉集の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせている。』というのは、『小野小町は いにしへの衣通姫の流なり・・・』の部分を意訳したのだろう。
衣通姫の歌は万葉集に採られている
それで『小野小町は いにしへの衣通姫の流なり』を『万葉集の頃の清純さを保ちながら』としたのだろうが、『いにしへの衣通姫の流なり』を『万葉集のころの歌風である』とするのは、あまりに意訳しすぎである。
さらに『清純』などと言う言葉は原文にはない。
また小町の歌「花のいろは 移りにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」を鑑賞してみると、掛詞や縁語などを多用した技巧的な歌であり、とても万葉集のころの歌風であるとは私には思えない。
(「いろ」は「色」と「容色」、「ながめ」は「眺め」と「長雨」にかかる。「ふる」と「ながめ(長雨)」は縁語など)
『あはれなるやうにて強からず』を『なよやかな』とするのはわからなくもないが、『王朝浪漫性』という言葉はいったいどこから来るのか。
そして、『絶賛した』とあるが、むしろ『古今和歌集仮名序は小町の歌をほめていない、紀貫之は「歌とは強くあるべきだ」と言っているのではないか』とする研究者もいる。


髄心院に展示されていた小野小町像
①小野小町は衣通姫の流れなり
戦国武将や歴代天皇の名前を知らない人でも小野小町の名前は知っている。
小野小町の名前が多くの人に知られているのは、小野小町が世界三大美女のひとりだとされていることによるものだろう。
世界三大美女とはエジプトのクレオパトラ、中国唐代の楊貴妃、そして日本の小野小町のことであるとされる。
(世界三大美女のひとりに小野小町を入れるのは日本だけである。
世界的には、クレオパトラ、楊貴妃、ヘレネが世界三大美女とされている。
ヘレネとはギリシャ神話に登場する美女で、スパルタのメネラオス王子とトロイアのパリス王子がヘレネを巡って争いトロイア戦争がおこったとされる。)
小野小町が絶世の美女だといわれているのは、古今和歌集仮名序の次の文章によるものだと考えられている。
小野小町は いにしへの衣通姫の流なり
あはれなるやうにて強からず
いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし
衣通姫とは記紀(古事記・日本書紀のこと)に登場する女性で、肌の美しさが衣を透して輝くという意味で衣通姫と呼ばれていた。
「小野小町はいにしへの衣通姫の流なり」とは大変抽象的でわかりにくい文章だが、衣通姫が美人なので、衣通姫の流である小野小町も美人であると、そう解釈されたようである。

ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作した小野小町のタペストリー(髄心院)
②ウィキペディアの解説は意訳しすぎ
ウィキペディアでは「衣通姫の流なり」は和歌の歌風について述べたものだとし、次のように解説している。
『古今和歌集』序文において紀貫之は彼女の作風を、『万葉集』の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。
私はウィキペディアのこの解説には問題があると思う。
意訳しずぎなのだ。
意訳にはどうしても主観が入ってしまいがちなので、古典はできる限り直訳したほうがいいと思う。
『古今和歌集』序文とは紀貫之が書いた『古今和歌集仮名序』のことだろうが、古今和歌集仮名序の小野小町について記された文章は上に示したとおりである。
直訳すると次のようになると思う。
小野小町は古の衣通姫の流れである
しみじみとした趣があるようで、強くない。
いわば、いい女には悩んでいるところがあるものだが、それに似ている。
強くないのは女の歌だからだろう。
『古今和歌集仮名序』の中で、小野小町に触れられているのはこの部分だけである。
『万葉集の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせている。』というのは、『小野小町は いにしへの衣通姫の流なり・・・』の部分を意訳したのだろう。
衣通姫の歌は万葉集に採られている
それで『小野小町は いにしへの衣通姫の流なり』を『万葉集の頃の清純さを保ちながら』としたのだろうが、『いにしへの衣通姫の流なり』を『万葉集のころの歌風である』とするのは、あまりに意訳しすぎである。
さらに『清純』などと言う言葉は原文にはない。
また小町の歌「花のいろは 移りにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」を鑑賞してみると、掛詞や縁語などを多用した技巧的な歌であり、とても万葉集のころの歌風であるとは私には思えない。
(「いろ」は「色」と「容色」、「ながめ」は「眺め」と「長雨」にかかる。「ふる」と「ながめ(長雨)」は縁語など)
『あはれなるやうにて強からず』を『なよやかな』とするのはわからなくもないが、『王朝浪漫性』という言葉はいったいどこから来るのか。
そして、『絶賛した』とあるが、むしろ『古今和歌集仮名序は小町の歌をほめていない、紀貫之は「歌とは強くあるべきだ」と言っているのではないか』とする研究者もいる。

小野小町歌碑 隨心院 髄心院は小野小町の邸宅跡と伝わる。
③古今和歌集仮名序は歌人の人生について述べたもの?
古今和歌集仮名序の文章は、和歌について述べたものだとする研究者もいる。
しかし私は小野小町の謎③ 草子洗い で古今和歌集仮名書の大伴黒主について記された文章について述べた。
大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。
大友黒主と大伴家持はほとんど同じといっていい歌を詠んでおり、同一人物だと思われる。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与していたとして、すでに死亡して埋葬されていたのだが、死体が掘り出されて流罪となっている。
仮名序の「そのさまいやし」とは、掘り出された死体が腐り、黒く変色している様を言っているのではないだろうか。
とすれば、それは黒主の和歌について述べられたものというよりは、黒主という人物の人生について述べられたものであるように思われる。
祇園祭 黒主山 御神体
文屋康秀も同様である。
文屋は分室と記されることがあり、文屋康秀は文室宮田麻らの親族ではないかと考えられるが
宮田麻呂は、840年から842年にかけて筑前守を務め、この任期中に新羅の承認・張宝高(ちょうほうこう)にあしぎぬを贈り、唐の物産を輸入しようとしたことが「続日本後紀」に記されている。
謀反の罪により伊豆国へ配流となってたが、のちに無実であることがわかり、神泉苑の御霊会で慰霊された。
仮名序は「文屋康秀は詞たくみにてそのさま身におはず。いはば商人のよき衣着たらむが如し 」と記すが、これは文屋康秀の親族と考えられる分室宮田麻呂が無実の罪で配流となり、そのとばっちりを受けて文屋康秀の人生が貶められたと言っているように私には思える。
古今和歌集仮名書で小野小町について記された部分も、小野小町の和歌についての批評ではなく、小野小町がどのような女性なのかについて述べたものだと思う。
④衣通姫は和歌三神 の一
さらに「衣通姫の流なり」は「絶世の美女である」という意味でもないと思う。
住吉明神・柿本人麻呂・玉津島明神の三柱の神々のことを和歌三神という。
住吉明神とは大阪の住吉大社に鎮座する四柱の神、底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと))・神宮皇后の総称である。
住吉明神は「住吉大社神代記」や「伊勢物語」に登場し、和歌で託宣をたれている。

住吉大社 住吉祭
柿本人麻呂は飛鳥時代の官僚で持統・文武両天皇に仕えた人物である。
万葉集に多くの歌がとられており、そのいずれもが名歌と絶賛されている。。
柿本神社、人麻呂神社、人麿神社という名前の神社が各地にあり、御祭神として祀られている。
人麿神社(奈良県橿原市)すすつけ祭
梅原猛さんは柿本人麻呂は怨霊であると言っておられる。
人麻呂の晩年の歌には水底や死のイメージがあるものが多く、彼は流罪となって水死させられたのではないかというのである。
また柿本神社などにある柿本人麻呂像は首がすっぽり抜けるように作ってあり、それは人麻呂が怨霊として蘇らないようにするための呪術であるとも梅原さんはおっしゃっている。
玉津島明神とは和歌山県和歌浦にある玉津島神社に祀られている稚日女命(わかひめのみこと)・神宮皇后・明光裏の霊・衣通姫の四神の神の総称である。
玉津島明神のかわりに衣通姫を加え、住吉明神・柿本人麻呂・衣通姫の三神を和歌三神とすることもある。
衣通姫とは和歌三神の一柱だったのである。
●「小野小町は衣通姫の流なり」の意味
平安時代末、住吉大社の神主であった津守国基が次のように歌を詠んでいる。
住吉の堂の壇の石取りに紀の国にまかりたりしに、和歌の浦の玉津島に神の社おはす。たづねきけば、「衣通姫のこのところをおもしろがりて、神になりておはすなり」と、かのわたりの人言ひ侍りしかば、よみて奉りし
年ふれど 老いもせずして 和歌の浦に いく代になりぬ 玉津島姫(国基集)
かくよみて奉りたりし夜の夢に、唐髪あげて裳唐衣きたる女房十人ばかり出できたりて「嬉しき喜びに言ふなり」とて、取るべき石どもを教へらる。教へのままに求むれば、夢の告げのままに石あり。石造りして割らすれば、一度に十二にこそ割れて侍りしかば、壇の葛石(かづらいし)にかなひ侍りにき
(住吉大社のお堂の土壇の縁石をとりに紀の国へ行ったところ、和歌の浦に玉津島神社があった。
訪ね聞いたところ、「衣通姫がこの場所を気に入って神となられた。」と近所の人が言ったので、歌を詠んで玉津島明神に奉った。
和歌の浦は若の浦なのでしょうか、若の浦という名前と同様に、年を経たが老いもしないで和歌の浦に鎮座して幾代になられるのですか。玉津島姫よ。
こう詠んで奉った夜の夢に、唐髪あげて裳唐衣をきた女房が十人ほど出てきて「たいへん嬉しく喜んでいます。そのお礼に教えてさしあげましょう。」と言って、壇の石にちょうどいい石を教えてくれた。
教えられたとおりにすると、夢のお告げのとおりに石があった。
石造に割らせると、一度に十二片に割れ、壇の葛石にちょうどよかった。)
津守国基は歌の中で玉津島姫と言っているが、これは玉津島明神のことを言っているのだろう。
そして、さきほども述べたように玉津島明神と衣通姫とは同一視されている
年ふれど 老いもせずして 和歌の浦に いく代になりぬ 玉津島姫(国基集)
ここに、「いく代になりぬ」とある。
「いく代」は「幾代」だろう。
そして詞書によれば、近所の人が「衣通姫がこの場所を気に入って神となられた。」と言ったとある。
国基は衣通姫に「あなたは何代目の玉津島姫になったのか」と訊ねているのではないだろうか。
そして国基の夢の中に十人ほどの女房がでてきたとある。
玉津島姫という神名は襲名されて、いろんな神にひきつがれていくのではないだろうか。
つまり10人ほどの女房はすべて玉津島明神で、衣通姫はその中のひとりだということではないかと思うのだ。
またさきほども述べたように玉津島明神のかわりに衣通姫を加え、住吉明神・柿本人麻呂・衣通姫の三神を和歌三神とすることもある。
つまり、玉津島姫と衣通姫は同一神と考えてもいい。
とすれば、「小野小町は古の衣通姫の流なり」とは小野小町が衣通姫のような美人だという意味ではなくて「小野小町は玉津島明神や衣通姫と同一神である」というような意味なのではないだろうか。
玉津島明神や衣通姫は和歌三神の一柱で和歌の神であるが、小野小町は六歌仙の一柱であり、やはり和歌の神であるといえ、玉津島明神・衣通姫・小野小町には共通点がある。
また、帯解寺境内に小野小町を祀る小町之宮もある。
これは小町が住吉明神(住吉大社)、柿本人麻呂(人麿神社)、玉津島姫(=衣通姫/玉津島神社)ら和歌三神と同様、神であることを示すものだといえる。

小野小町を祀る小町之宮 (帯解寺)
小野小町は男だった⑥ 小野小町は衣通姫の流なり 『小野小町は和魂だった?』 へつづく~
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③古今和歌集仮名序は歌人の人生について述べたもの?
古今和歌集仮名序の文章は、和歌について述べたものだとする研究者もいる。
しかし私は小野小町の謎③ 草子洗い で古今和歌集仮名書の大伴黒主について記された文章について述べた。
大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。
大友黒主と大伴家持はほとんど同じといっていい歌を詠んでおり、同一人物だと思われる。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与していたとして、すでに死亡して埋葬されていたのだが、死体が掘り出されて流罪となっている。
仮名序の「そのさまいやし」とは、掘り出された死体が腐り、黒く変色している様を言っているのではないだろうか。
とすれば、それは黒主の和歌について述べられたものというよりは、黒主という人物の人生について述べられたものであるように思われる。

祇園祭 黒主山 御神体
文屋康秀も同様である。
文屋は分室と記されることがあり、文屋康秀は文室宮田麻らの親族ではないかと考えられるが
宮田麻呂は、840年から842年にかけて筑前守を務め、この任期中に新羅の承認・張宝高(ちょうほうこう)にあしぎぬを贈り、唐の物産を輸入しようとしたことが「続日本後紀」に記されている。
謀反の罪により伊豆国へ配流となってたが、のちに無実であることがわかり、神泉苑の御霊会で慰霊された。
仮名序は「文屋康秀は詞たくみにてそのさま身におはず。いはば商人のよき衣着たらむが如し 」と記すが、これは文屋康秀の親族と考えられる分室宮田麻呂が無実の罪で配流となり、そのとばっちりを受けて文屋康秀の人生が貶められたと言っているように私には思える。
古今和歌集仮名書で小野小町について記された部分も、小野小町の和歌についての批評ではなく、小野小町がどのような女性なのかについて述べたものだと思う。
④衣通姫は和歌三神 の一
さらに「衣通姫の流なり」は「絶世の美女である」という意味でもないと思う。
住吉明神・柿本人麻呂・玉津島明神の三柱の神々のことを和歌三神という。
住吉明神とは大阪の住吉大社に鎮座する四柱の神、底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと))・神宮皇后の総称である。
住吉明神は「住吉大社神代記」や「伊勢物語」に登場し、和歌で託宣をたれている。

住吉大社 住吉祭
柿本人麻呂は飛鳥時代の官僚で持統・文武両天皇に仕えた人物である。
万葉集に多くの歌がとられており、そのいずれもが名歌と絶賛されている。。
柿本神社、人麻呂神社、人麿神社という名前の神社が各地にあり、御祭神として祀られている。

人麿神社(奈良県橿原市)すすつけ祭
梅原猛さんは柿本人麻呂は怨霊であると言っておられる。
人麻呂の晩年の歌には水底や死のイメージがあるものが多く、彼は流罪となって水死させられたのではないかというのである。
また柿本神社などにある柿本人麻呂像は首がすっぽり抜けるように作ってあり、それは人麻呂が怨霊として蘇らないようにするための呪術であるとも梅原さんはおっしゃっている。
玉津島明神とは和歌山県和歌浦にある玉津島神社に祀られている稚日女命(わかひめのみこと)・神宮皇后・明光裏の霊・衣通姫の四神の神の総称である。
玉津島明神のかわりに衣通姫を加え、住吉明神・柿本人麻呂・衣通姫の三神を和歌三神とすることもある。
衣通姫とは和歌三神の一柱だったのである。
●「小野小町は衣通姫の流なり」の意味
平安時代末、住吉大社の神主であった津守国基が次のように歌を詠んでいる。
住吉の堂の壇の石取りに紀の国にまかりたりしに、和歌の浦の玉津島に神の社おはす。たづねきけば、「衣通姫のこのところをおもしろがりて、神になりておはすなり」と、かのわたりの人言ひ侍りしかば、よみて奉りし
年ふれど 老いもせずして 和歌の浦に いく代になりぬ 玉津島姫(国基集)
かくよみて奉りたりし夜の夢に、唐髪あげて裳唐衣きたる女房十人ばかり出できたりて「嬉しき喜びに言ふなり」とて、取るべき石どもを教へらる。教へのままに求むれば、夢の告げのままに石あり。石造りして割らすれば、一度に十二にこそ割れて侍りしかば、壇の葛石(かづらいし)にかなひ侍りにき
(住吉大社のお堂の土壇の縁石をとりに紀の国へ行ったところ、和歌の浦に玉津島神社があった。
訪ね聞いたところ、「衣通姫がこの場所を気に入って神となられた。」と近所の人が言ったので、歌を詠んで玉津島明神に奉った。
和歌の浦は若の浦なのでしょうか、若の浦という名前と同様に、年を経たが老いもしないで和歌の浦に鎮座して幾代になられるのですか。玉津島姫よ。
こう詠んで奉った夜の夢に、唐髪あげて裳唐衣をきた女房が十人ほど出てきて「たいへん嬉しく喜んでいます。そのお礼に教えてさしあげましょう。」と言って、壇の石にちょうどいい石を教えてくれた。
教えられたとおりにすると、夢のお告げのとおりに石があった。
石造に割らせると、一度に十二片に割れ、壇の葛石にちょうどよかった。)
津守国基は歌の中で玉津島姫と言っているが、これは玉津島明神のことを言っているのだろう。
そして、さきほども述べたように玉津島明神と衣通姫とは同一視されている
年ふれど 老いもせずして 和歌の浦に いく代になりぬ 玉津島姫(国基集)
ここに、「いく代になりぬ」とある。
「いく代」は「幾代」だろう。
そして詞書によれば、近所の人が「衣通姫がこの場所を気に入って神となられた。」と言ったとある。
国基は衣通姫に「あなたは何代目の玉津島姫になったのか」と訊ねているのではないだろうか。
そして国基の夢の中に十人ほどの女房がでてきたとある。
玉津島姫という神名は襲名されて、いろんな神にひきつがれていくのではないだろうか。
つまり10人ほどの女房はすべて玉津島明神で、衣通姫はその中のひとりだということではないかと思うのだ。
またさきほども述べたように玉津島明神のかわりに衣通姫を加え、住吉明神・柿本人麻呂・衣通姫の三神を和歌三神とすることもある。
つまり、玉津島姫と衣通姫は同一神と考えてもいい。
とすれば、「小野小町は古の衣通姫の流なり」とは小野小町が衣通姫のような美人だという意味ではなくて「小野小町は玉津島明神や衣通姫と同一神である」というような意味なのではないだろうか。
玉津島明神や衣通姫は和歌三神の一柱で和歌の神であるが、小野小町は六歌仙の一柱であり、やはり和歌の神であるといえ、玉津島明神・衣通姫・小野小町には共通点がある。
また、帯解寺境内に小野小町を祀る小町之宮もある。
これは小町が住吉明神(住吉大社)、柿本人麻呂(人麿神社)、玉津島姫(=衣通姫/玉津島神社)ら和歌三神と同様、神であることを示すものだといえる。

小野小町を祀る小町之宮 (帯解寺)
小野小町は男だった⑥ 小野小町は衣通姫の流なり 『小野小町は和魂だった?』 へつづく~
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