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小野小町は男だった⑨ 関寺小町『小野小町は織姫と習合されている?』

 
白峯神宮 小町踊2

白峯神宮 小町踊


小野小町は男だった⑧ 雨乞い小町 『小野小町は弁財天・イチキシマヒメ・善女竜王と習合されている。』 よりつづく

●七夕と小町踊り

七夕の夕暮れ、星を祭る関寺の境内で小野小町は自分の若き日の思い出を歌いながら舞った。
小町は百歳を越えた老女となっており、人々は絶世の美女の変わり果てた姿を憐れに思う。
(謡曲『関寺小町』)


関寺小町では七夕の日に小町が舞を舞うという話になっているが、七夕と小町は関係が深い。
前回の記事 においても小町が
千早振る 神も見まさば 立ちさわぎ 天のと川の 樋口あけたべ
と歌を詠んでいることを紹介した。
天のと川とは「天の川」のことであり、七夕には牽牛と織姫が1年に1度の逢瀬を楽しむとされている。

かつて七夕の日には童女たちが歌を歌いながら路地で小町踊を踊る習慣が各地にあった。
現在では路地で小町踊を踊る風景は見られなくなったが、京都の白峯神宮では七夕の日に小町踊の奉納がある。
童女たちは頭には紫色のターバンを巻き、着物の片袖を脱いで、太鼓や鉦をたたきつつ輪になって踊る。
化粧をほどこした童女たちの表情はときどき大人っぽく見え、妙に色っぽかったのを思い出す。

白峯神宮 小町踊3


白峯神宮 小町踊

太鼓や鉦をたたきつつ輪になって踊るというのは念仏踊りである。
小町踊は念仏踊の一種なのである。

念仏踊とは南無阿弥陀仏と唱えつつ太鼓や鉦をたたいて踊るというもので、平安時代の僧・空也が始めたとされる。
空也は南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行けると説いた。
つまり念仏踊とは死者を極楽浄土へ送り届けるための踊りであり、念仏踊の一種と思われる小町踊もまた死者を極楽浄土へ送る踊りだといえるだろう。

空也堂 歓喜踊躍念仏

空也堂 空也踊躍念仏

●七夕は荒霊と和霊を和合させる神事である。

七夕伝説は中国から伝わったものである。

天の川の西は天人の世界であり、天帝には働き者の娘・織姫がいた。
織姫は化粧もせずに機織ばかりしているので、天帝は嫁に行けないのではないかと心配になった。
そこで、天の川の対岸(東)で牛の世話をしていた働き者の牽牛と結婚させた。
ところが織姫と牽牛は新婚生活が楽しくて仕事をしなくなってしまった。 
見かねた天帝はふたりを天の川の西と東に引き離した。
しかし、年に一度、7月7日だけは、かささぎの群れが天の川に橋をかけてくれて、ふたりは逢瀬を楽しむ。


織姫星とは「こと座」の一等星・ベガ、牽牛星は天の川を挟んでベガの対岸にある「わし座」の一等星・アルタイルのことである。

旧暦ではお盆は7月15日を中心とした行事であり、7月7日はお盆の入りの行事であった。
お盆にはは地獄の釜の蓋が開き、お精霊さん(先祖の霊)があの世からこの世へ戻ってくると考えられた。
そんなお盆の入りの行事がなぜ七夕なのだろうか。
七夕は織女と牽牛が1年に1度逢瀬を楽しむというが、ふつうに考えると、何も先祖の霊が戻ってくるお盆の時期に逢引しなくてもよさそうなものだ。

神はその現れ方によって御霊(神の本質)、荒霊(神の荒々しい側面)、和霊(神の和やかな側面)に分けられるという。
そして荒霊は男神、和霊は女神とする説がある。
とすれば、御霊とは男女双体である。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神
和霊・・・神の和やかな側面・・・女神


日本では古くから神仏は習合して信仰されていたが、仏教の神(みほとけ)・大聖歓喜天の説話はこの概念を表したものだと思う。

鬼王ビナヤキャの祟りで国中に不幸な出来事がおこった。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。 


双身歓喜天像の相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音菩薩の化身ビナヤキャ女紳とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%93%E5%96%9C%E5%A4%A9#mediaviewer/File:Icon_of_Shoten.jpg



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

(詳しくはこちらをお読みください。→ 小野小町は男だった⑥ 小野小町は衣通姫の流なり 『小野小町は和魂だった?』※書き直しました。 

男神は荒霊、女神は和霊であり、男女和合は荒霊を御霊に転じさせる呪術であったと私は思う。

お盆には死んだ人の霊が戻ってくると考えられたが、その中には恨みを抱いて死んでいった人の霊もある。
恨みを抱いて死んだ人の霊は、死後、怨霊となって祟ると考えられていた。
怨霊は荒霊と言ってもいいだろう。

そこでそのような荒霊がこの世に戻ってきて、祟らないように、女神と和合させる必要があると考えられたのではないだろうか。

お盆にこの世に戻ってくる荒霊の代表が牽牛、荒霊と和合する和霊が織姫というわけである。

河治温泉 道祖神 
河治温泉 道祖神 (道祖神は歓喜天と習合されているのではないだろうか。)

●牽牛とは艮(丑寅)=鬼である。

牽牛という名前は大変興味深い。
牽牛とは「牛を牽く人」という意味だが、牽牛はまだ年の若い青年のようなので童子と言ってもいいかもしれない。
すると牽牛は「牛を牽く童子」という意味になるが、「牛を牽く童子」とは干支の艮(丑寅)を表すものである。
牛は丑、童子は八卦では艮(丑寅)をあらわしている。

葵祭 斎王代列 牛車

葵祭 牛を牽く童子

かつて宮中では大寒の日に牛を牽く童子の像を諸門に置き、節分の日に撤去するということが行われていた。

牛は干支の丑で12か月では12月を表す。
童子は干支の艮(丑寅)で丑は12月、寅は1月なので1年の変わり目を表す。
そしてかつては旧暦と二十四節気という二つの暦を併用していたのだが、節分とは二十四節気の立春の前日のことであった。
二十四節気では立春が正月となり、また旧暦の正月ともだいたい同時期であった。
大寒の日に牛を牽く童子の像を諸門に置き、節分の日に撤去するというのは、目には見えない1年の移り変わりを視覚化したものであったのである。

飛鳥坐神社 おんだ祭 田おこし

飛鳥坐神社 おんだ祭 
丑を牽いて田を耕す天狗は牽牛でもあると思う。
そのあとおかめが登場して夫婦和合のしぐさが演じられる。おかめは織姫だろう。


飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 天狗とおかめ

飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言

そして丑寅は方角では東北で東北は鬼の出入りする方角、鬼門として忌まれた。
また吉備津彦が退治した温羅という鬼は「丑寅御前」とも呼ばれており、丑寅は鬼そのものを表す言葉でもあった。

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき

石清水八幡宮 鬼やらい神事
鬼の角は牛(丑)を、パンツは虎(寅)をあらわすといわれる。


ということは、牽牛=牛(丑)をひく童子(丑寅)=鬼となる。
牽牛とは鬼であったのだ。
鬼とは荒霊であるといってもいいだろう。

白峯神宮 織物の道具

白峯神宮にて

織姫は織物を得意としているが、織物とは経糸と横糸を絡み合わせることによってつくられる。
「ダビンチ・コード」には、男は記号Λ、女は記号∨であらわされると記されてあったが、これと同様に経糸は男、横糸は女性で織物とは男女和合を表すのではないだろうか。
そして織姫とは荒霊である男神と和合することで荒霊を御霊に転じさせる女神という意味ではないかと私は考えている。

●小野小町の男性遍歴

小野小町の謎⑥ 小野小町は衣通姫の流なり において私は猿田彦と天鈿女は大聖歓喜天と習合されており、天鈿女は性の女神であると言った。
天鈿女は猿田彦神に会ったときには、胸を開き、腰紐をずらしている。
天鈿女はビナヤキャ女神のように性的に猿田彦神を誘惑しようとしたのだ。
また天照大神が天岩戸に籠ったときにはストリップダンスをして神々を笑わせている。

小野小町は天鈿女同様、性の女神である。
小野小町は性的に不能であったという伝説もあるので、矛盾するが、なぜ伝説に矛盾が生じているのかについての考察はあとですることにして、今回は小町が性の女神であるということの証拠をあげておきたい。

六歌仙の一に僧正遍照があるが、小野小町は遍照と次のように歌のやりとりをしている。

岩のうへに 旅寝をすれば いとさむし 苔の衣を 我にかさなむ/小野小町
(石上神社の岩の上で旅寝をするととても寒いのです。あなたの苔の衣を貸していただけませんか。)

世をそむく 苔の衣はただ一重 かさねばうとし いざふたり寝む/遍照
(世の中と縁を切るための法衣はたった一重です。しかし貸さないというのも気がひけます。さあ、二人で寝ましょう。)


小町はもうひとりの六歌仙の一、文屋康秀も誘惑している。

文屋康秀が三河国に左遷となったとき、小町に「一緒に田舎見物に行きませんか。」と誘ったとき、小町は次のような歌を詠んでいるのだ。

わびぬれば 身をうき草の 根をたえて さそふ水あらば いなむとぞ思ふ
(侘び暮らしをしていたので、我が身を憂しと思っていました。浮草の根が切れて水に流れ去るように、私も誘ってくれる人があるなら、一緒に参ります。)


誘ったのは文屋康秀であるが、小町は「一緒に行く」と答えている。
女にこんな返事をされたならば、大抵の男は「女は自分に気がある」と考えて嬉しくなってしまうのではないだろうか。

小野小町が誘惑した男性には小野貞樹もいる。

今はとて わが身時雨に ふりぬれば 言の葉さへに うつろひにけり/小野小町
(今はもう、時雨が降って色が褪せた樹々のように、我が身も涙に濡れて色褪せてしまいました。あなたが昔約束して下さった言の葉さえも変わってしまいました。)

人を思ふ こころ木の葉に あらばこそ 風のまにまに 散りもみだれめ/小野貞樹
(人を思う心が木の葉のように変わってしまうのなら、風が吹くままに散り乱れるでしょう。
しかし私があなたを思う気持ちは散り乱れたりはしません。)


また伊勢物語に次のような話がある。

昔、色気づいた女が、思いやりのある男に逢うことができたらなあと思い、三人の子に話をした。
二人の子はまともに取り合わなかったが、三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をした。
さらに三男は在五中将(在原業平)に頼み込んだので、在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。
しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなったので、女は男の家に行って中を伺った。
男は女をちらっとみて歌を詠んだ。


ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)


そして男はでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。
在五中将は女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。


さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ
(狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。)


在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。

伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書・『知顕集)』には次のように記されている。

このをんなは、をののこまちなり。
小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。
いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。
(この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。
どんな人の子を産んだのか、はっきりしない)


九十九髪というのは謎々である。
九十九は「つくも」と読むが、「つくも」とは「つぎもも(次百)」の意味である。
そして百から一を引くと白になるので、九十九髪とは白髪という意味である。

在原業平にセックスを迫ったとき、小町は高齢であったが、業平は小町を同情して関係をもったというのである。

髄心院 小野小町像 

髄心院に展示されていた小野小町像

●小野小町は荒霊(男神)と和合することで御霊に転じさせる女神

僧正遍照・文屋康秀・在原業平は六歌仙のメンバーであり、六歌仙は怨霊だと考えられる。

小野貞樹は石見王の子であると言われている。
石見王とは、長屋王の孫・磯部王と淳仁天皇の娘・安倍内親王の間に生まれた皇族である。
長屋王は長屋王の変で自殺した人物、淳仁天皇は藤原仲麻呂の乱に関与したとして称徳天皇に退位させられ淡路に流罪となった人物である。
経歴だけを聞いても、大変政治的に不幸な人物で、死後怨霊になるにふさわしい人物だといえるだろう。

そして小野小町は彼らと和合することで荒霊(男神)を御霊に転じさせる役割を担った和霊(女神)なのである。

つまり、実際に関係をもったというよりは、男たちが死後に怨霊となったと考えられたため、後世の人が小町という女神と和合させようとして物語を創作し、また怨霊となった男たちの身になって和歌を詠んだのではないかと私は思う。

髄心院 小野小町

ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作した小野小町のタペストリー(髄心院)



小野小町は男だった⑩ 百夜通い 『深草少将・小野小町・惟喬親王に共通する九十九のイメージ』 へつづく~
トップページはこちら → 小野小町は男だった① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか 

 
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小野小町は男だった⑧ 雨乞い小町 『小野小町は弁財天・イチキシマヒメ・善女竜王と習合されている。』

神泉苑 躑躅

神泉苑 つつじ

小野小町は男だった⑦ 妙性寺縁起 『語呂合わせで神格が変わる神』  よりつづく 

①雨乞小町

神泉苑には小野小町の雨乞い伝説が伝えられている。

京の都の神泉苑で小野小町が雨乞いをし、見事雨を降らせた。
その雨乞いのために詠んだのが次の歌とされる。

ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとては 又天が下とは
(道理であるなあ、この国を日本と呼ぶならば、日が照りもするだろう、しかしそうは言っても、又、天(雨)の下とも言うではないか。だから、雨を降らせてください。)

また
千早振る 神も見まさば 立ちさわぎ 天のと川の 樋口あけたべ
(神様、日照りを御覧になったなら、大急ぎで天の川の水門を開けて下さい。)

という歌を詠んだとも伝わる。

神泉苑 つつじ 

神泉苑 つつじ

②語呂合わせは言霊信仰の一種だった。

日本には古くから言霊信仰があった。
言霊信仰とは「口にした言葉は実現する力を持っている」とする考え方のことである。

山岸凉子先生の漫画『テレプシコーラ』では鳥山先生が拓人に言霊信仰について教えるシーンがある。

「いつもダメだ。できない。」と言っていると本当にできなくなる。意地でも「できる。」というべきだ。

いわゆるポジティブ・シンキングというやつである。
鳥山先生が言っていることは確かに正しい。

しかし、私はもともとの言霊信仰はポジティブ・シンキングではなく、まじないだったのではないかと考えている。
すなわち「雨が降る」と言葉にすれば本当に雨が降り、憎い相手に「死ね」といえば本当に死ぬ、ということである。

しかしあまりにストレートすぎるまじないは神様のお気に召さなかったのかもしれない。
また、和歌による呪術は他人に気づかれないように行う必要があったからかもしれない。

小町は掛詞、縁語、もののななどのテクニックを用いて、他人に気付かれないよう、またひとひねりして神様が「おお!」と感嘆するような呪術をかけようとしたようである。

ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとては 又天が下とは
(道理であるなあ、この国を日本と呼ぶならば、日が照りもするだろう、しかしそうは言っても、又、天(雨)の下とも言うではないか。だから、雨を降らせてください。)


日本→日の本(元)→日が照る。
天下→天は「あめ」とも読む→「あめのした」→「雨の下」→雨が降る。

語呂合わせが面白く、現代人が聞いても「おお!」と感嘆してしまう。

和歌の掛詞や縁語、もののななどの技法は、和歌の技法であると同時に、言霊信仰によるまじないの技法でもあったのではないだろうか。

大蓮寺 蓮 雨

大蓮寺 雨

千早振る 神も見まさば 立ちさわぎ 天のと川の 樋口あけたべ
(神様、日照りを御覧になったなら、大急ぎで天の川の水門を開けて下さい。)


こちらの方の歌は語呂合わせ+アルファのユーモアで神に雨を降らせようとしている。

旧暦の7月は梅雨があけるころのことである。
7月7日は七夕で、織女と牽牛が天の川にかかるかささぎの橋を渡って逢瀬を楽しむ、と言われている。

このごろは都会の夜は明るすぎて天の川はほとんど見えないが、私が子供のころは都会でも天の川が見えていた。
昔の人は梅雨が明けて天の川が見えてくると、そろそろ七夕の季節だな、と感じたことだろう。

小町は『天の川』というネーミングに注目し、これを語呂合わせで『雨の川』とした。
そして天の川=雨の川の出口をあければ雨が降る、と洒落たわけである。

白峯神宮 小町踊2

白峯神宮 七夕の笹飾りと小町踊

③神泉苑の雨乞い伝説

神泉苑で雨乞いをしたと伝わる人物は小野小町だけではない。
空海や静御前も神泉苑で雨乞いをしたと伝わっている。
どうやら旱魃には神泉苑で雨乞いをする習慣があったらしい。

中でも空海と守敏(しゅびん)の「降雨祈願法力争い」は有名である。

まず守敏が祈願法力で雨を降らせたが、雨は僅かな量しか降らなかった。
次に空海が降雨祈願を行うが、雨を降らす竜神は守敏の呪術で封じ込められていた。
これに気付いた空海は、善女竜王が天竺にいることを突き止め、京に導いた。
こうして京の都に雨が降った。


神泉苑の法成就池にかかる法成橋を渡った小島にお堂があり、ここに善女竜王が祀られている。
そして神泉苑の池のほとりには弁天堂がある。
弁天堂は七福神の一柱・弁財天を祀る堂であるが、弁財天はもとはインドのサラスパティーという水の神であった。
どちらも同じ水の神であるところから、弁財天と善女竜王は習合されたようである。

1182年の旱魃の際には、朝廷は100人の舞姫を神泉苑に集めて雨乞いをさせた。
雨乞いの場所として神泉苑を選んだのは、空海が雨乞いをした際に天竺からやってきた善女竜王が神泉苑の法成就池に住んでいると伝えられていたからである。

99人の舞姫が雨乞いの舞を舞っても雨は降らなかったが、最後に静御前が後白河法皇から賜った蛙蟆龍(あまりょう)の錦の舞衣を着て、しんむじょうという曲を舞うと、愛宕山の方向に黒い雲が涌き出し、雨が降った。
雨は三日間降り続き、都は旱魃からすくわれた。
後白河法皇は静を「日本一」と称した。


小野小町は和歌によって雨を降らせたが、静御前は舞うことによって雨を降らせている。
舞もまた和歌と同様、呪術の道具であったようである。

下鴨神社 名月管絃祭 白拍子

下鴨神社 名月管弦祭 白拍子の舞(静御前は白拍子だった。)

④雨を降らせる神は女神である。

神泉苑で雨乞いを行ったのは、空海・小野小町・静御前で、空海のみ男性である。
しかし空海は善女龍王を勧請することで雨を降らせたのであり、実際に雨を降らせたのは善女龍王である。
従って、雨を降らせる神は女神だといえるだろう。

神泉苑の法成就池だけでなく、池や湖、川や海のほとりには弁財天やイチキシマヒメ、善女竜王など女神が祀られることが多い。

陰陽思想でも、男性や晴は陽で、女性や雨は陰とされている。
天体性別天気
太陽(日)


小野小町が神泉苑で雨乞いをしたという伝説は、小野小町が弁財天・イチキシマヒメ・善女竜王と習合されている(同一視されている)ことを示すものだろう。

大覚寺身振り狂言 十王堂2jpg 
大覚寺身振り狂言 十王堂 (向かって左、オレンジ色の着物を着ているのが弁才天)


小野小町は男だった⑨ 関寺小町『小野小町は織姫と習合されている?』 へつづく~
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小野小町は男だった⑦ 妙性寺縁起 『語呂合わせで神格が変わる神』

小野小町は男だった⑥ 小野小町は衣通姫の流なり 『小野小町は和魂だった?』  より続く

①ひょっとこは火男?


京都のお盆の風物詩・六斎念仏の演目に『祇園囃子』がある。
『祇園囃子』は祇園祭で奏される御囃子で、祇園祭ではゆっくりとしたテンポで奏されるが、六斎念仏の『祇園囃子』はテンポがはやい。
繰り返される激しいリズムはどこかヘビーメタルに似ていて、なぜか気分が高揚してくる。

京都には数多くの六斎会があり、たいていの六斎会で『祇園囃子』を行っているが、内容は六斎会によって違っている。
梅津六斎の『祇園囃子』にはひょっとことおかめが登場する。

まずひょっとこが登場して手に持った巻物を広げると『火の用心』と書いてある。

梅津六斎 祇園囃子 ひょっとこ

岩手県奥州氏の江刺地方の民話に『ヒョウトク』というヘソから金を生む奇妙な顔をした子供の話が伝わっている。

強欲な婆さんがヒョウトクのへそを火箸でぐりぐりといじったためにヒョウトクは死んでしまった。
ヒョウトクをかわいがっていた爺さんはヒョウトクの死をそれは悲しんだ。
そんな爺さんの夢枕にヒョウトクが立ち、『自分の顔の面を竈の前の柱にかけておけば裕福になるだろう』と告げた。
そのとおりにしたところ、爺さんは大金持ちになった。


ひょっとこは口が徳利のようであることから『非徳利』が転じてひょっとこになったという説もあるが
上の伝説に登場するこのヒョウトクが訛ったものだとか、竈(かまど)の火を竹筒で吹く『火男』が訛ったとする説もある。

ヒョウトクのお面は竃の前の柱にかけられるので竃の神、火の神だと考えられる。
ヒョウトクとは火男と言ってもよく、ヒョウトクという名前は火男が訛ったのかもしれない。

②ヒョウトクはなぜへそから金を産むのか。

昔、竃で火を焚くとき、火力を強くするためには火吹竹で息を吹いて空気を送り込んでいた。
ひょっとこのとがらせた口は火吹竹を吹いているような形に見える。

川などで採取した砂金は高温で熱して液体にしたのち、型に流し込んで冷やし固めていたようである。
高温で熱するには強い火力が必要なので、ふいごなどで風が送り込まれた。

ひょっとこには火と風のイメージがある。
そういったところから、ひょっとこと金の鋳造は結び付けられ、そこから「ヘソから金を生む」などという話が作られたのではないだろうか。

梅津六斎 祇園囃子 ひょっとこ

③柿本人麻呂、語呂合わせで防火の神・安産の神となる。

ひょっとこが退場したあとも祇園囃子の激しいリズムが続く。
そして、舞台上にはおかめが登場した。

おかめはお腹が大きく膨らんだ妊婦さんの姿をしている。

梅津六斎 祇園囃子 おかめ


これを見て私は和歌三神の一柱、柿本人麻呂を思い出した。
前回、和歌三神の一柱であると説明した歌人である。(残る二柱は住吉明神と衣通姫または玉津島姫)

人麻呂は人丸(ひとまる)とも呼ばれたが、「火止まる」の語呂合わせで防火の神、「人産まる」の語呂合わせで安産の神へと神格を広げたというのだ。

すると梅津六斎の『祇園囃子』に登場した『火の用心』の巻物を持ったひょっとこは防火の神、妊婦の姿をしたおかめは安産の神ということなのだろう。
④スサノオと柿本人麻呂は習合されている?

祇園祭 花笠巡行 久世六斎

祇園祭 花笠巡行 久世六斎 後ろに見えているのは八坂神社の楼門


祇園囃子は祇園祭で奏されるお囃子である。
祇園祭は京都八坂神社の祭礼で、八坂神社の御祭神はスサノオである。

貴船神社 貴船祭 出雲神楽

貴船神社 貴船祭 出雲神楽 スサノオと八岐大蛇 後方にクシナダヒメの姿が見える。


祇園祭はスサノオを慰霊する祭礼だといえる。
それなのに、なぜ六斎念仏の『祇園囃子』に防火の神と安産の神が登場するのだろうか。
これではまるで祇園祭は柿本人麻呂を慰霊する祭のようではないか。

スサノオはクシナダヒメと新婚生活を送る場所を求め、根之堅洲国の須賀へやってきて
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
と詠んだ。

この和歌は日本初の和歌だとされ、スサノオは和歌の神とされており、和歌の神としても信仰されている。
スサノオを祀る八坂神社で正月に「かるた始め」の行事が行われているのは、スサノオが和歌の神でもあるためだという。

八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め

スサノオと柿本人麻呂は習合されており、そのため祇園囃子という演目に防火の神(ひとまる=火止まる)や安産の神(ひとまる=人産まる)が登場するのではないだろうか。

祇園祭 山鉾巡行

祇園祭 函谷鉾、四条傘鉾、月鉾

祇園祭 山鉾巡行 船鉾

祇園祭 船鉾

⑤妙性寺縁起の語呂合わせ


妙性寺縁起には小野小町の伝説が伝えられているが、語呂合わせで神格を広げた柿本人麻呂の話に似ている。

晩年、小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。
すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。
再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなった。

九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)
後に深草の少将が小町を慕ってやってきたが、やはり、この地で亡くなった。
(妙性寺縁起)


五十日→五十火→火事になる→五十河→河の水で火が消える→火止まる→ひとまる→人産まれる

このような語呂合わせのマジックで村の火事はなくなり、女性は安産になったというわけである。

⑥日の神とは火の神と同一神


前回、私は次のようなことを述べた。

神はその表れ方によって御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)の3つに分けられ、和魂は女神で荒魂は男神とする説がある。
とすれば御霊は男女双体である。

住吉明神とは底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命の総称である。
その名前から考えて底筒男命、中筒男命、表筒男命は男神である。
そして息長足姫命とは神宮皇后のことで女神である。
つまり、住吉明神とは三柱の男神と一柱の女神からなる神である。
女神が一柱であるのに対し、男神が三柱あるのは一柱の男神をさらに御霊・荒魂・和魂とわけたのだろうか、と。

御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・男女双体・・・住吉明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命+息長足姫命)
和魂・・・神の和やかな側面・・・・・・女神・・・・・衣通姫
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・・・・男神・・・・・柿本人麻呂


さらに、御霊とは和霊と荒霊の男女双体と考えられるので、衣通姫と息長足姫命は同一神、柿本人麻呂と底筒男命、中筒男命、表筒男命は同一神ということになる。

衣通姫=息長足姫命
柿本人麻呂=底筒男命、中筒男命、表筒男命

下呂温泉 飛騨街道 道祖神?

下呂温泉 道祖神

また道祖神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神だが、ニニギはアメノウズメに「サルタヒコを伊勢まで送るように」と命じている。
伊勢には伊勢神宮があって天照大神を祀っている。
つまり、サルタヒコと天照大神は同一神だと考えられる。

そして和魂である河の神はイチキシマヒメや弁財天など女神と相場が決まっている。
すると、荒魂である火の神は男神だと考え、したがって、次のような関係になると考えた。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・・・住吉明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命+息長足姫命)・・・星の神
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・・・衣通姫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・月の神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・・・柿本人麻呂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日の神

太陽と月が重なるのは日食である。
日食になると夜のように暗くなり、明るい星であれば見る事もできるそうである。

日の神と月の神が重なると、星の神が登場するというわけである。
日の神と月の神が結婚すると星の神になると言ってもいいだろう。

小町は「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせている。
つまり日の神は火の神と同一神、月の神は河の神と同一神だと考えられる。

陰陽思想で見ても、火は男や太陽と同じ陽、水(河)は女や月と同じ陰である。

御霊・・神の本質・・・・・・男女双体・・住吉明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命+息長足姫命)・・・星の神
和魂・・神の和やかな側面・・女神・・・・衣通姫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・月の神=河の神
荒魂・・神の荒々しい側面・・男神・・・・柿本人麻呂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日の神=火の神

御霊・・神の本質・・・・・・男女双体・・住吉明神・・・スサノオ+クシナダヒメ・・おかめ+ひょっとこ・・星の神
和魂・・神の和やかな側面・・女神・・・・衣通姫・・・・クシナダヒメ・・・・・・・おかめ・・・・・・・・月の神=河の神
荒魂・・神の荒々しい側面・・男神・・・・柿本人麻呂・・スサノオ・・・・・・・・・ひょっとこ・・・・・・日の神=火の神



⑦スサノオは星の神だった?

祇園祭は八坂神社の祭礼だが、八坂神社の御祭神のスサノオは記紀ではスサノオはイザナギに「大海原をおさめよ」と命じられていたり、黄泉の王として登場したりいまひとつ神格がはっきりしない神である。

船場俊昭氏は「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったとしておられる。

また、イザナギの左目から天照大神が、右目から月読命が、鼻からスサノオが生まれたとされるが、陰陽道の宇宙観では、東(左)を太陽の定位置、西(右)を月の定位置、中央を星としている。

地図では東が右で西が左だが、正しくは東は向かって右、西は向かって左である。
地図の側にたてば東が左で西が右になる。

イザナギの顔は宇宙に喩えられているのだ。
すなわち、イザナギの顔の中央にある鼻から生まれたスサノオは星の神だと考えられる。

しかし、正確には⑥であげた図に従うべきだと思う。

御霊・・神の本質・・・・・・男女双体・・住吉明神・・・スサノオ+クシナダヒメ・・おかめ+ひょっとこ・・星の神
和魂・・神の和やかな側面・・女神・・・・衣通姫・・・・クシナダヒメ・・・・・・・おかめ・・・・・・・・月の神=河の神
荒魂・・神の荒々しい側面・・男神・・・・柿本人麻呂・・スサノオ・・・・・・・・・ひょっとこ・・・・・・日の神=火の神


上の図に従えば、正確にはスサノオとクシナダヒメの男女双体が星の神だったというべきだろう。


貴船神社 貴船祭 出雲神楽 
貴船神社 貴船祭 出雲神楽 スサノオと八岐大蛇 後方にクシナダヒメの姿が見える。



小野小町は男だった⑧ 雨乞い小町 『小野小町は弁財天・イチキシマヒメ・善女竜王と習合されている。』 へつづく~
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小野小町は男だった⑥ 小野小町は衣通姫の流なり 『小野小町は和魂だった?』※書き直しました。

小野小町の謎⑤ 小野小町は絶世の美女だった。よりつづく。

※考えに誤りがあったことに気が付いたので、記事を大幅に書き直しました。すいませーん。

①手をつなぎあう男女双体の神

道祖神は手を繋ぎ合う男女双体の神像として作られたり、また陰陽石で表されることもあった。
陰陽石とは男女のシンボルを象った石のことである。

多気山不動尊 道祖神

多気山不動尊 道祖神

飛鳥坐神社 むすひの神石

飛鳥坐神社 むすびの神石

飛鳥坐神社には上の写真のような陰陽石がたくさんある。
「むすびの神石」と呼ばれているが、これは道祖神と言ってもいいだろう。
関西にはどういうわけか男女の神像をした道祖神はあまり見かけない。

川治温泉 おなで石 

川治温泉 おなで石(おなで石は祠の中の石ではなく、祠の手前にある四角い石)

川治温泉(栃木県日光市)にはおなで石と呼ばれる女性のシンボルを象った石があり、その周囲には男性のシンボルを象った石もいくつか並べられていた。
また温泉街のあちこちに神像タイプの道祖神も置かれていた。

道祖神とはもともとは中国の神であったのが日本に伝わり、日本では猿田彦と天鈿女の男女双体の神として信仰された。

中国には伏羲&女媧という男女双体の神もいる。
伏羲&女媧は兄妹または夫婦とされ、伏羲の右手と女媧の左手はつながっている。

File:Anonymous-Fuxi and Nüwa3.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AAnonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg よりお借りしました。
作者 匿名 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


手のつながった伏羲&女媧の姿は、男女の神が手をつなぎあう姿をした道祖神を思わせる。
おそらく伏羲&女媧と道祖神は習合されているのだろう。



川治温泉 如意輪観音(向かって右)と道祖神(向かって左)

②女神が男神の足を踏みつける神

大聖歓喜天という仏教の神がある。
大聖歓喜天はもともとはヒンズー教の神であったのが、のちの仏教にとりいれられて仏法守護の神とされた。
大聖歓喜天のお姿は道祖神や伏羲&女媧と同じく男女の神が抱きあう姿で表され、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャの祟りで国中に不幸な出来事がおこった。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。
 

双身歓喜天像の相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音菩薩の化身ビナヤキャ女紳とされる。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

③猿田彦神は天照大神だった?

道祖神は日本では猿田彦神と天鈿女の男女双体の神だとされているということはすでに述べたとおりだが、猿田彦神と天鈿女は記紀神話の天孫降臨のシーンに登場する。

天孫ニニギの葦原中国降臨の際、天上の道が八衢に分かれている場所に立ち、高天原から葦原中国までを照らす神があった。
天照大神と高木神は天鈿女に命じて、神の名前を尋ねさせた。
天鈿女は神の前にたち、胸をあらわにし、腰ひもをずらし、神に名を訪ねた。
すると『私は国津神で猿田彦神と申します。ニニギを葦原中国まで道案内しようと思い参りました』と答えた。
ニニギは猿田彦神に道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下った。
その後、ニニギは天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り届け、猿田彦神の名前を伝えて仕え祭れ』と命じた。
ここから天鈿女は猿女君と呼ばれるようになった。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死んだ。(古事記)


猿田彦神は「高天原から葦原中国までを照らす神」だと記述があるが、これにぴったりな神名を持つ神様がいる。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)である。

高天原は天、葦原中国は国といってもよく、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊はまさしく「高天原から葦原中国までを照らす神」という神名ではないか。

天火明櫛玉饒速日尊という神名は先代旧事本紀による記述で、記紀では単にニギハヤヒとなっている。
猿田彦神とニギハヤヒは同一神だと考えられる。

記紀には天照大神は女神であると明記されているが、天照大神は男神であるという伝承は各地に伝わってる。
天照大神は天岩戸に隠れるが、天鈿女のストリップに興味を持って外に出てきた。
女性のストリップを喜ぶのは男だ、よって本当の天照大神は男神の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒではないかとする説もある。

ニギハヤヒは初代神武天皇よりも早く畿内に天下っていた神である。
のちに日向から神武が東征してきて畿内入りしたとき、神武はナガスネヒコという地元の豪族と争った。
ナガスネヒコはニギハヤヒを神として奉じており、ニギハヤヒとナガスネヒコの妹の間にはウマシマジノミコトという御子もあった。
ニギハヤヒやウマシマジノミコトは物部氏の祖神とされる。
ところがニギハヤヒは神武に服し、自分を神として崇めていたナガスネヒコを殺したと記紀には記述がある。
こうして神武天皇は初代天皇として大和で即位する。

この記述から、畿内には神武以前に物部王朝があったとする説がある。

磐船神社 天の磐船

磐船神社(大阪府交野市) 
写真は御神体の天の磐船。
ニギハヤヒはこの天の磐船を操ってここに天下ったと伝わる。


⑧神武は物部王朝の入り婿になった?

初代神武天皇と10代崇神天皇はどちらも和風諡号を「ハツクニシラス」という。
「ハツクニシラス」が二人いるのはおかしい。
そのため、神武と崇神は同一人物ではないかとする説がある。

そして崇神天皇には「ミマキイリビコイニエ」という和風諡号もある。
11代垂仁天皇は和風諡号を「イクメイリビコイサチ」といい、諡号に「イリ」とあるため「イリ王朝」と呼ばれることもある。
この「イリ」とは「入り婿」の「イリ」だとする説がある。

記紀神話には葦原中国に天下ったニニギがオオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメと結婚したり
ホオリが竜宮に行って海神の娘・トヨタマヒメと結婚するなど、入り婿になる話が多いのは、史実を反映したものなのかもしれない。

つまり、崇神=神武は物部王朝に婿入りし、物部氏から政権を奪ったのではないかということである。

天照大神は物部氏の祖神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒであり、代々、ニギハヤヒの血を引く者が天照大神(天皇)となって大和の国を統治するというルールがあったのではないだろうか。

そこで、神武=崇神は自分の妻である物部氏の女性を天照大神としたのだと思う。
そうすれば、神武=崇神の子孫が天照大神の子孫を名乗っても嘘とはいえない。(天皇家の祖神は天照大神とされる。)

しかし神武=崇神は自分の血をひく者しか天皇になれないように、皇位継承は男系に限っている。

④道祖神はなぜ手をつなぎあっているのか。

ニニギは猿田彦神に道案内されて葦原中国へ天下ったのち、天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り、彼の名前を伝えて仕え祭れ』と命じている。

ニニギは天鈿女に『猿田彦神に仕え祭れ』と命じているが、『仕える』というのは『性的に奉仕する』ということだと思う。
天鈿女は天照大神が天岩戸に隠れたときにはストリップをして神々を笑わせている。
また猿田彦神に出会ったときにも胸を開き、腰ひもをずらして誘惑している。
天鈿女は性の女神なのである。

日本では政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人は死後怨霊となって疫病や天災をもたらすと考えられていた。
政権を奪われ、太陽神という神格も奪われたニギハヤヒは怨霊になったことだろう。
『猿田彦神に仕え祭れ』の『祭れ』とは、『祟り神である猿田彦神を神として祀り上げることで守護神に転じよ』ということだと思う。

猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死んだ。
貝は女性器の比喩だろう。
つまり、猿田彦は天鈿女の女性器に手を挟まれて抜けなくなり、愛欲に溺れて死んだという意味だと思う。

既に述べたように道祖神は猿田彦神と天鈿女の男女双体の神像とされる。
道祖神は男神と女神が手を繋ぎあっているが、実は手を繋ぎ合っているのではなく、天鈿女の女性器に猿田彦神の手が挟まれて死んだ状態を表しているのではないだろうか。
歓喜天は女神が男神の足を踏みつけているが、中国の伏羲&女媧や道祖神は足のかわりに手を押さえつけた姿で表されているのだ。

猿田彦神は伊勢が故郷であるが、伊勢には天照大神を祀る伊勢神宮がある。
天照大神を祀る伊勢神宮が猿田彦神の故郷ということなのだろう。

河治温泉 道祖神 
河治温泉 道祖神

⑤御霊・和霊・荒霊と男神・女神

神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊の3つに分けられるという。
御霊とは神の本質、和霊とは神の和やかな側面、荒霊とは神の荒々しい側面のことである。

御霊・・・・・神の本質
和霊・・・・・神の和やかな側面
荒霊・・・・・神の荒々しい側面


そして神には性別があるが、男神は荒霊を、女神は和霊を表すとする説がある。
とすれば、神の本質である御霊は男女双体になると思う。

御霊・・・・・神の本質・・・・・・・・・男女双体
和魂・・・・・神の和やかな側面・・・・・女神
荒魂・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神


大聖歓喜天や猿田彦&天鈿女の説話は、和霊=女神、荒霊=男神とする観念をうまく表している。

御霊・・・・・神の本質・・・・・・・・・男女双体・・・・・大聖歓喜天・・・・・・道祖神
和魂・・・・・神の和やかな側面・・・・・女神・・・・・・・ビナヤキャ女神・・・・天鈿女
荒魂・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神・・・・・・・鬼王・ビナヤキャ・・・猿田彦神


御霊・和霊・荒霊という日本神道の観念は、大聖歓喜天の信仰の影響を受けたものではないだろうか。

下呂温泉 飛騨街道 道祖神?

下呂温泉 道祖神

⑥太陽(猿田彦)と月(天鈿女)が結婚すると星の神になる。

陰陽思想では男は陽で女は陰、太陽(日)は陽で月は陰とする。
天体性別
太陽(日)

記紀神話では天照大神は女神だとしているが、世界的に見ても太陽神が女神というのは珍しい。
やはり、太陽の神・天照大神とは照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒ=猿田彦だろう。
そして猿田彦の手を押さえつけている天鈿女は月の神だと考えられる。

太陽と月が重なり合う(結婚する)ということは日食を意味する。
詳しくはこちらの記事をお読み下さい。→ 「太陽と月が結婚すると星が生まれる?」 

日食になると闇になって昼間は見えないはずの星が見える。
もしかすると昔の人々は日と月が重なり合った結果、光がくだけちって星になると考えたのかもしれない。

御霊・・・・・神の本質・・・・・・・・・男女双体・・・・・大聖歓喜天・・・・・・道祖神・・・・星の神
和魂・・・・・神の和やかな側面・・・・・女神・・・・・・・ビナヤキャ女神・・・・天鈿女・・・・月の神
荒魂・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神・・・・・・・鬼王・ビナヤキャ・・・猿田彦神・・・日の神



このように考えると、太陽神・天照大神の子孫なのに、天皇という称号を名乗っていることの理由もとける。
天皇とは道教で北極星を司る神のことである。

太陽神・天照大神の子孫である天皇家の男子は、即位する際、月の神と契って男女双体の御霊となると考えらえたのでははないだろうか。
月の神と契った太陽の神は星の神になる。
それで天皇という称号を用いているのではないかと思う。

⑦衣通姫は和霊だった。

長々と説明してきたが、ようやくここで本題に戻ることができる。
古今和歌集仮名書には「小野小町は古の衣通姫の流なり」と記されているが、この衣通姫は住吉明神・柿本人麻呂らとともに和歌三神の一柱とされている。

柿本人麻呂は男神、衣通姫は女神である。
そして住吉明神とは底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命の総称である。
その名前から考えて底筒男命、中筒男命、表筒男命は男神である。
そして息長足姫命とは神宮皇后のことで女神である。
つまり、住吉明神とは三柱の男神と一柱の女神からなる神なのである。
女神が一柱であるのに対し、男神が三柱あるのは一柱の男神をさらに御霊・荒霊・和霊とわけたのだろうか。
ともあれ、住吉明神は男女双体の神だといえる。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・・・住吉明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命+息長足姫命)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・・・衣通姫
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・・・柿本人麻呂

住吉大社 レイアウト

↑ 住吉大社の神殿の並びは上の図のようになっている。
これはオリオン座の三つ星の並びとよく似ており、住吉明神はオリオン座の三つ星(みたらし星)を表した神だと考えられる。

現在、住吉明神に星の神という神格はなく海の神として信仰されている。
オリオン座の三ツ星は航海の指標とされており、住吉明神を海の神とするのは星の神の二次的な神格だといえるだろう。
住吉明神は星の神という神格を奪われ、二次的な神格である海の神へと神格を変えられたのだろう。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・・・住吉明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命+息長足姫命)・・・星の神
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・・・衣通姫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・月の神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・・・柿本人麻呂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日の神



「小野小町は衣通姫の流なり」とあるのは、小野小町も衣通姫のような和霊であり、月の神という意味だと私は思う。

髄心院 小野小町像 

髄心院に展示されていた小野小町像


小野小町は男だった⑦ 妙性寺縁起 『語呂合わせで神格が変わる神』 へつづく~
トップページはこちら → 小野小町は男だった① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか 

 
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小野小町は男だった⑤ 小野小町は絶世の美女だった。『【衣通姫の流なり】を勘違い?』

小野小町は男だった④ 小町、疱瘡を患う 『小野小町は疫神だった?』  よりつづく


髄心院 小野小町像 

髄心院に展示されていた小野小町像

①小野小町は衣通姫の流れなり

戦国武将や歴代天皇の名前を知らない人でも小野小町の名前は知っている。
小野小町の名前が多くの人に知られているのは、小野小町が世界三大美女のひとりだとされていることによるものだろう。

世界三大美女とはエジプトのクレオパトラ、中国唐代の楊貴妃、そして日本の小野小町のことであるとされる。
(世界三大美女のひとりに小野小町を入れるのは日本だけである。
世界的には、クレオパトラ、楊貴妃、ヘレネが世界三大美女とされている。
ヘレネとはギリシャ神話に登場する美女で、スパルタのメネラオス王子とトロイアのパリス王子がヘレネを巡って争いトロイア戦争がおこったとされる。)

小野小町が絶世の美女だといわれているのは、古今和歌集仮名序の次の文章によるものだと考えられている。

小野小町は いにしへの衣通姫の流なり
あはれなるやうにて強からず
いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし


衣通姫とは記紀(古事記・日本書紀のこと)に登場する女性で、肌の美しさが衣を透して輝くという意味で衣通姫と呼ばれていた。
「小野小町はいにしへの衣通姫の流なり」とは大変抽象的でわかりにくい文章だが、衣通姫が美人なので、衣通姫の流である小野小町も美人であると、そう解釈されたようである。

髄心院 小野小町

ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作した小野小町のタペストリー(髄心院)


②ウィキペディアの解説は意訳しすぎ


ウィキペディアでは「衣通姫の流なり」は和歌の歌風について述べたものだとし、次のように解説している。

『古今和歌集』序文において紀貫之は彼女の作風を、『万葉集』の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。


私はウィキペディアのこの解説には問題があると思う。
意訳しずぎなのだ。
意訳にはどうしても主観が入ってしまいがちなので、古典はできる限り直訳したほうがいいと思う。

『古今和歌集』序文とは紀貫之が書いた『古今和歌集仮名序』のことだろうが、古今和歌集仮名序の小野小町について記された文章は上に示したとおりである。
直訳すると次のようになると思う。

小野小町は古の衣通姫の流れである
しみじみとした趣があるようで、強くない。
いわば、いい女には悩んでいるところがあるものだが、それに似ている。
強くないのは女の歌だからだろう。


『古今和歌集仮名序』の中で、小野小町に触れられているのはこの部分だけである。

『万葉集の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせている。』というのは、『小野小町は いにしへの衣通姫の流なり・・・』の部分を意訳したのだろう。

衣通姫の歌は万葉集に採られている
それで『小野小町は いにしへの衣通姫の流なり』を『万葉集の頃の清純さを保ちながら』としたのだろうが、『いにしへの衣通姫の流なり』を『万葉集のころの歌風である』とするのは、あまりに意訳しすぎである。

さらに『清純』などと言う言葉は原文にはない。
 
また小町の歌「花のいろは 移りにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」を鑑賞してみると、掛詞や縁語などを多用した技巧的な歌であり、とても万葉集のころの歌風であるとは私には思えない。
 (「いろ」は「色」と「容色」、「ながめ」は「眺め」と「長雨」にかかる。「ふる」と「ながめ(長雨)」は縁語など)

『あはれなるやうにて強からず』を『なよやかな』とするのはわからなくもないが、『王朝浪漫性』という言葉はいったいどこから来るのか。
そして、『絶賛した』とあるが、むしろ『古今和歌集仮名序は小町の歌をほめていない、紀貫之は「歌とは強くあるべきだ」と言っているのではないか』とする研究者もいる。

髄心院 歌碑 八重桜
 
小野小町歌碑 隨心院  髄心院は小野小町の邸宅跡と伝わる。


③古今和歌集仮名序は歌人の人生について述べたもの?

古今和歌集仮名序の文章は、和歌について述べたものだとする研究者もいる。
しかし私は小野小町の謎③ 草子洗い で古今和歌集仮名書の大伴黒主について記された文章について述べた。

大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。

大友黒主と大伴家持はほとんど同じといっていい歌を詠んでおり、同一人物だと思われる。

大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与していたとして、すでに死亡して埋葬されていたのだが、死体が掘り出されて流罪となっている。
仮名序の「そのさまいやし」とは、掘り出された死体が腐り、黒く変色している様を言っているのではないだろうか。

とすれば、それは黒主の和歌について述べられたものというよりは、黒主という人物の人生について述べられたものであるように思われる。

祇園祭 黒主山 御神体 

祇園祭 黒主山 御神体

文屋康秀も同様である。

文屋は分室と記されることがあり、文屋康秀は文室宮田麻らの親族ではないかと考えられるが
宮田麻呂は、840年から842年にかけて筑前守を務め、この任期中に新羅の承認・張宝高(ちょうほうこう)にあしぎぬを贈り、唐の物産を輸入しようとしたことが「続日本後紀」に記されている。
謀反の罪により伊豆国へ配流となってたが、のちに無実であることがわかり、神泉苑の御霊会で慰霊された。

仮名序は「文屋康秀は詞たくみにてそのさま身におはず。いはば商人のよき衣着たらむが如し 」と記すが、これは文屋康秀の親族と考えられる分室宮田麻呂が無実の罪で配流となり、そのとばっちりを受けて文屋康秀の人生が貶められたと言っているように私には思える。

古今和歌集仮名書で小野小町について記された部分も、小野小町の和歌についての批評ではなく、小野小町がどのような女性なのかについて述べたものだと思う。

④衣通姫は和歌三神 の一

さらに「衣通姫の流なり」は「絶世の美女である」という意味でもないと思う。

住吉明神・柿本人麻呂・玉津島明神の三柱の神々のことを和歌三神という。

住吉明神とは大阪の住吉大社に鎮座する四柱の神、底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと))・神宮皇后の総称である。
住吉明神は「住吉大社神代記」や「伊勢物語」に登場し、和歌で託宣をたれている。

住吉大社 住吉祭

住吉大社 住吉祭

柿本人麻呂は飛鳥時代の官僚で持統・文武両天皇に仕えた人物である。
万葉集に多くの歌がとられており、そのいずれもが名歌と絶賛されている。。
柿本神社、人麻呂神社、人麿神社という名前の神社が各地にあり、御祭神として祀られている。

人麿神社 すすつけ祭 

人麿神社(奈良県橿原市)すすつけ祭

梅原猛さんは柿本人麻呂は怨霊であると言っておられる。
人麻呂の晩年の歌には水底や死のイメージがあるものが多く、彼は流罪となって水死させられたのではないかというのである。

また柿本神社などにある柿本人麻呂像は首がすっぽり抜けるように作ってあり、それは人麻呂が怨霊として蘇らないようにするための呪術であるとも梅原さんはおっしゃっている。

玉津島明神とは和歌山県和歌浦にある玉津島神社に祀られている稚日女命(わかひめのみこと)・神宮皇后・明光裏の霊・衣通姫の四神の神の総称である。
玉津島明神のかわりに衣通姫を加え、住吉明神・柿本人麻呂・衣通姫の三神を和歌三神とすることもある。

衣通姫とは和歌三神の一柱だったのである。

●「小野小町は衣通姫の流なり」の意味

平安時代末、住吉大社の神主であった津守国基が次のように歌を詠んでいる。

住吉の堂の壇の石取りに紀の国にまかりたりしに、和歌の浦の玉津島に神の社おはす。たづねきけば、「衣通姫のこのところをおもしろがりて、神になりておはすなり」と、かのわたりの人言ひ侍りしかば、よみて奉りし

年ふれど 老いもせずして 和歌の浦に いく代になりぬ 玉津島姫(国基集)

かくよみて奉りたりし夜の夢に、唐髪あげて裳唐衣きたる女房十人ばかり出できたりて「嬉しき喜びに言ふなり」とて、取るべき石どもを教へらる。教へのままに求むれば、夢の告げのままに石あり。石造りして割らすれば、一度に十二にこそ割れて侍りしかば、壇の葛石(かづらいし)にかなひ侍りにき

(住吉大社のお堂の土壇の縁石をとりに紀の国へ行ったところ、和歌の浦に玉津島神社があった。
訪ね聞いたところ、「衣通姫がこの場所を気に入って神となられた。」と近所の人が言ったので、歌を詠んで玉津島明神に奉った。

和歌の浦は若の浦なのでしょうか、若の浦という名前と同様に、年を経たが老いもしないで和歌の浦に鎮座して幾代になられるのですか。玉津島姫よ。

こう詠んで奉った夜の夢に、唐髪あげて裳唐衣をきた女房が十人ほど出てきて「たいへん嬉しく喜んでいます。そのお礼に教えてさしあげましょう。」と言って、壇の石にちょうどいい石を教えてくれた。
教えられたとおりにすると、夢のお告げのとおりに石があった。
石造に割らせると、一度に十二片に割れ、壇の葛石にちょうどよかった。)


津守国基は歌の中で玉津島姫と言っているが、これは玉津島明神のことを言っているのだろう。
そして、さきほども述べたように玉津島明神と衣通姫とは同一視されている

年ふれど 老いもせずして 和歌の浦に いく代になりぬ 玉津島姫(国基集)

ここに、「いく代になりぬ」とある。
「いく代」は「幾代」だろう。
そして詞書によれば、近所の人が「衣通姫がこの場所を気に入って神となられた。」と言ったとある。

国基は衣通姫に「あなたは何代目の玉津島姫になったのか」と訊ねているのではないだろうか。

そして国基の夢の中に十人ほどの女房がでてきたとある。
玉津島姫という神名は襲名されて、いろんな神にひきつがれていくのではないだろうか。
つまり10人ほどの女房はすべて玉津島明神で、衣通姫はその中のひとりだということではないかと思うのだ。

またさきほども述べたように玉津島明神のかわりに衣通姫を加え、住吉明神・柿本人麻呂・衣通姫の三神を和歌三神とすることもある。
つまり、玉津島姫と衣通姫は同一神と考えてもいい。
とすれば、「小野小町は古の衣通姫の流なり」とは小野小町が衣通姫のような美人だという意味ではなくて「小野小町は玉津島明神や衣通姫と同一神である」というような意味なのではないだろうか。

玉津島明神や衣通姫は和歌三神の一柱で和歌の神であるが、小野小町は六歌仙の一柱であり、やはり和歌の神であるといえ、玉津島明神・衣通姫・小野小町には共通点がある。

また、帯解寺境内に小野小町を祀る小町之宮もある。
これは小町が住吉明神(住吉大社)、柿本人麻呂(人麿神社)、玉津島姫(=衣通姫/玉津島神社)ら和歌三神と同様、神であることを示すものだといえる。

帯解寺 小町之宮

小野小町を祀る小町之宮 (帯解寺)

小野小町は男だった⑥ 小野小町は衣通姫の流なり 『小野小町は和魂だった?』 へつづく~
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