小野小町は男だった④ 小町、疱瘡を患う 『小野小町は疫神だった?』
①みとほけに変化する病人伝説
小野小町に次のような伝説がある。
京都・福知山市の温泉町に疱瘡(天然痘)を患った小町がやってきた。
小町は薬師如来に祈って温泉につかった。
すると小町の疱瘡はたちまち治った。
これと同じような伝説が光明皇后と行基にもある。
【光明皇后の伝説】
光明皇后は法華寺に浴室を建立し、千人の民の汚れを洗い流そうと願を立てた。
千人目は膿のある病人で、病人は皇后に『膿を口で吸い出してほしい』と頼んだ。
皇后が病人の膿に唇を近づけたとたん、病人は阿閦如来になった。

光明皇后の千人風呂伝説が伝わる奈良・法華寺の浴室(からぶろ)
【行基の伝説】
行基が旅の途中、病人に出会った。
行基は病人に食べ物を食べさせ、有馬温泉に連れていった。。
病人は「温泉では私の皮膚病は治らない。舐めてくれないか」と行基に頼んだ。
行基はためらうことなく、膿んで異臭のする病人の肌を舐めた。
すると病人は薬師如来となった。
日本の伝説には同じような話が多い。
光明皇后や行基の伝説が伝えようとしているものが何なのかについて解ければ、小野小町が疱瘡を患ったという伝説が伝えようとしているものについても解けるのではないだろうか。
②光明皇后を恐れさせた長屋王の怨霊
まず、光明皇后の伝説から見てみることにしよう。
光明皇后は法華寺に浴室を建立し、千人の民の汚れを洗い流そうと願を立てた。
千人目は膿のある病人で、病人は皇后に『膿を口で吸い出してほしい』と頼んだ。
皇后が病人の膿に唇を近づけたとたん、病人は阿閦如来になった。

光明皇后の千人風呂伝説が伝わる奈良・法華寺
この伝説に登場する病人はおそらく天然痘を患っていたのだろう。
種痘が開発されたおかげで日本では1955年以降天然痘患者は確認されていない。
しかし種痘がなかった平安時代、天然痘は人の命を奪う恐ろしい病だった。
そして古には天然痘などの疫病は怨霊の祟りによってもたらされると信じられていた。
光明皇后は天然痘をもたらす怨霊を特別怖れた人であったと私は思う。
というのは、光明皇后は天然痘をもたらす怨霊に祟られる理由があったからである。

光明皇后の千人風呂伝説が伝わる奈良・法華寺
光明皇后は藤原不比等の娘で、武智麻呂、房前、宇合、麻呂という四人の兄弟がいた。
父親の不比等は右大臣で当時政界のトップの人物だった。
720年、藤原不比等が死去すると長屋王が政界のトップとなり、724年、長屋王は左大臣となった。
しかし長屋王政権は長くは続かなかった。
729年、長屋王が左道(邪道)によって国家を傾けようとしていると、朝廷に密告する者があった。
藤原四兄弟の一人である藤原宇合の軍が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王と新田部親王が長屋王の取り調べを行った。
厳しい取調べに耐え切れず長屋王は自殺に追い込まれ、妃の吉備内親王と子の膳夫王も供に死んだ。
これを長屋王の変という。

長屋王の邸宅はイトウヨーカ堂奈良店あたりにあったとされ、イトウヨーカ堂の建物の裏手に長屋王邸の小さな模型がある。
聖武天皇と光明皇后の間には727年に基王が生まれていたが、基王は生後まもなく夭逝していた。
聖武天皇には他に安積親王があったが安積親王の母親は県犬養広刀自で光明皇后の子ではなかった。
このため、長屋王の子・膳夫王が皇位継承の最有力者とされていたようで、長屋王の変は藤原四兄弟が長屋王の権力を潰そうと陰謀を企てたものと考えられている。
長屋王の没後、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立て、政界の中心人物となった。
ところが737年、藤原四兄弟は天然痘になって次々に死んだ。
そして、藤原四兄弟が死んだのは長屋王の怨霊の祟りだと噂された。
光明皇后は長屋王を貶めた藤原四兄弟の妹である。
光明皇后は「次は自分が長屋王の怨霊に祟られる番だ。」と怯える日々を送ったことだろう。
光明皇后は熱心な仏教徒であり、夫の聖武天皇が東大寺や国分寺を設立したのは、光明皇后の進言によるものであるという。
また、悲田院や施薬院をつくるなど慈善活動に熱心であったとも伝わる。
光明皇后はみほとけにすがることで長屋王の怨霊の祟りから逃れようと考えたのだろう。

上の写真は長屋王低の柱跡を示したもので、イトウヨーカ堂の建物の裏側の従業員出入り口付近にある。
③行基が供養した長屋王の霊
次に行基の伝説を見てみよう。
行基が旅の途中、病人に出会った。
行基は病人に食べ物を食べさせ、有馬温泉に連れていった。。
病人は「温泉では私の皮膚病は治らない。舐めてくれないか」と行基に頼んだ。
行基はためらうことなく、膿んで異臭のする病人の肌を舐めた。
すると病人は薬師如来となった。
ここに登場する皮膚病を患った病人も、天然痘患者だろう。
関西には行基を開基とする寺が数多くある。
大阪府豊中市にある東光院も行基を開基とする寺で、創建は735年である。

東光院
その東光院には次のような伝説が伝わっている。
行基は豊崎村(現在の大阪市北区中津)にで民衆に火葬の方法をはじめて教え、淀川のほとりに群生していた萩の花を供花として霊前に捧げた。
東光院は1914年に豊中の現在地に移転したのだが、もともとは豊崎村にあったとされる。
行基が東光寺が創建した735年を調べてみると舎人親王と新田部親王(天武天皇の皇子)が薨去している。
私たちは舎人親王と新田部親王という名前に聞き覚えがある。
もう1度 ②光明皇后を恐れさせた長屋王の怨霊 を読んでみてほしい。
そう、舎人親王と新田部親王は長屋王の変において、長屋王を糾問した人物であった。
新田部親王と舎人親王が死んだのは藤原四兄弟が死亡する2年前の735年のことだった。
『続日本紀』に二人の死因は記載されていないが、天然痘が流行ったのは735年から737年だったので、天然痘が原因で二人は死亡したのではないだろうか。
そして735年から737年にかけて流行った天然痘は長屋王の怨霊の祟りだと考えられた。
とすれば、新田部親王と舎人親王の死も長屋王の怨霊の仕業だと畏れられたことだろう。
735年に行基が東光院を創建したのは、このとき天然痘が流行って新田部親王や舎人親王がなくなり、長屋王の怨霊の仕業だと噂されたので、長屋王の霊を供養するためだったのではないだろうか。
行基は長屋王の怨霊を供養することに情熱を傾けた人であったのかもしれない。
すると有馬温泉の、薬師如来に変化した病人もまた長屋王の怨霊ではないだろうか。
光明皇后の伝説と行基の伝説に登場する天然痘患者とはどちらも長屋王の怨霊だと考えられる。
おそらく、天然痘をもたらす神は天然痘を患った姿をしていると考えられていたのだろう。
光明皇后も行基も、どちらも天然痘患者を入浴させている。
これは長屋王の怨霊に禊をさせたということの比喩ではないだろうか。

東光院
④天然痘患者がみほとけに姿を転じたことの意味
光明皇后の伝説では天然痘患者は阿閦如来に、行基の伝説では天然痘患者は薬師如来に姿を変えている。
つまり天然痘患者=天然痘をもたらす怨霊=長屋王の怨霊は、入浴する=禊をすることによって、みほとけに姿を転じた、ということである。
この物語はa.御霊信仰 b.神仏習合のふたつがベースになっていると思う。
政治的陰謀によって不幸な死を迎えた長屋王のような人物のことを怨霊といい、疫病の流行や天災は怨霊の仕業によってひきおこされると考えられていた。
御霊とはこのような怨霊を慰霊したもののことで、怨霊は慰霊し、神として祀りあげることで、守護神に転じさせることができると考えられていた。
これがa.御霊信仰である。
さらに古の日本人はb.神仏習合という信仰スタイルをもっていた。
神仏習合のベースになったのは本地垂迹説という考え方である。
本地垂迹説とは、日本古来の神は仏教の神が仮に姿を現したものであるとする考え方のことである。
日本古来の神のことを権現・化身、もともとの正体である仏教の神のことを本地仏といった。
この本地垂迹説にあてはめて考えると、長屋王は光明皇后の伝説では阿閦如来の化身、行基の伝説では薬師如来の化身、ということになる。
怨霊であった長屋王が阿閦如来や薬師如来に姿を変えたというのは、長屋王の怨霊を恐れた人々の、長屋王に怒りをおさめてほしい、という心のあらわれだといえるだろう。

小野小町を祀る小町之宮 (帯解寺)
●小野小町は天然痘をもたらす疫神だった?
光明皇后と行基の伝説の意味がわかったところで、小町の伝説について見てみることにしよう。
京都のとある温泉町(今の福知山市)に疱瘡を患った小町がやってきた。
小町は薬師如来に祈って温泉につかった。
すると小町の疱瘡はたちまち治った。
この小町にまつわる伝説は、光明皇后や行基の伝説に似ているが、病人が小町自身であるという点が異なっている。
光明皇后や行基は疫神を鎮魂しているが、小町は疫神そのものであったのである。
奈良の帯解寺に小野小町を祀る小町之宮がある。
小野小町は神として祀られているということだが、④に書いたように、怨霊は慰霊し、神として祀りあげることで、守護神に転じさせることができると考えられていた。
小町之宮は小町が怨霊(疫神)であったことを示すものだといえるだろう。

小町之宮がある帯解寺
スポンサーサイト