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小野小町は男だった② 六歌仙は怨霊だった。

 
八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め
小野小町の謎① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか  より続く

①六歌仙

1月3日、京都八坂神社で『かるた始め』が行われた。
平安装束を身にまとった女性が百人一首かるたをするのだが、百人一首かるたが成立したのは江戸時代である。
織田正吉氏はこの『かるた始め』のようすを平安時代の姫が江戸時代に表れた『SF的な風景』だと言っておられた。

百人一首とは鎌倉時代の歌人・藤原定家が撰んだ百歌人、百首の歌のことで、遍照、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、そして我らがヒロイン・小野小町の歌もある。
この五歌人に大伴黒主をくわえた六歌人を六歌仙という。

六歌仙とは紀貫之が書いたとされる「古今和歌集仮名書」の中で、名前をあげられた6人の歌人のことをいう。
ただし、仮名序には六歌仙という言葉は使われていない。
後の世になって古今和歌集 仮名序に名前をあげられた六人の歌人のことを六歌仙というようになったと考えられている。

八坂神社 かるた始め3

八坂神社 かるた始め

②古今和歌集仮名序

古今集仮名書の中の、六歌仙について述べられた部分を下記に書き出してみた。

かの御時よりこの方 年は百年あまり 世は十継になむなりにける
いにしへのことをも歌をも知れる人よむ人多からず
今このことを言ふに つかさ位高き人をば たやすきやうなれば入れず
そのほかに 近き世に その名きこえたる人は

すなはち僧正遍照は 歌の様は得たれども まこと少し
たとへば絵にかける女を見て いたづらに心を動かすがごとし

在原業平は その心余りて言葉たらず
しぼめる花の色なくて にほひ残れるがごとし

文屋康秀は 言葉はたくみにて そのさま身におはず
いはば商人のよき衣着たらむがごとし

宇治山の僧喜撰は 言葉かすかにして 初め終はり確かならず
いはば秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし
よめる歌多く聞こえねば かれこれを通はして よく知らず

小野小町は いにしへの衣通姫の流なり
あはれなるやうにて強からず
いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし

大友黒主は そのさまいやし
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし

八坂神社 かるた始め2

八坂神社 かるた始め


③抽象的でわかりにくい古今和歌集仮名序

古今和歌集仮名書はたいへん抽象的でどのように現代語訳すればいいのか悩む。
私が国語の教師なら、「貫之くん、もうちょっと具体的に書きなさい」と指導するかもしれない(笑)。

しかし、平安時代にはこの文章で十分人に伝わったのかもしれない。

今でも仲間内では会話が通じていても、外部の人間がはたで会話を聞いてもなんのことかさっぱりわからないということがある。
なぜ外部の人間が聞いてもわからないことが、仲間内では通じるかというと、仲間内では共通に認識していることがらがあり、そのことをあえて説明しなくとも、そういう前提で話しているということがわかるからである。

古今和歌集が完成した当時、六歌仙はみなすでに故人となっていたが、遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大伴黒主のことを知っている人がこれを読むと、ああ、なるほどと理解できたのかもしれない。

また、平安時代には現代のように発言の自由はなかっただろうから、この表現がギリギリのところだったのかもしれない。

近江神宮 かるた祭

近江神宮 かるた祭


④ほめているというよりも批判しているようにも思える古今和歌集仮名序

一応、私なりに現代語訳してみた。

平城天皇の御代から年は100年あまり、世は10代となった。
古のことや歌の奥義を知って歌を詠む人は多くはない。
今、このことを述べるにあたり、司位高い人のことを言うのははばかられるので省く。
そのほか、最近、歌の奥義を知る人として有名な人について述べよう。

僧正遍照は歌の形はいいが、真実がすくない。
絵に描けた女を見て、心を動かしているようなものだ。

在原業平は心のわりに言葉が足りない。
しぼんだ花が色あせて匂いだけが残っているようだ。

文屋康秀は 言葉は上手いがそのようすが身についていない。
商人がりっぱな着物を着ているかのようだ。

宇治山の僧・喜撰法師は言葉がわずかで初めと終わりがはっきりしない。
秋の月を見ていて、明け方の雲にかくれてしまったかのようだ。

小野小町は古の衣通姫の流れである。
物思うところがあって強くない。
いい女が悩んでいるのに似ている。
強くないのは女の歌だからだろう。

大友黒主はその様子が賎しい。
薪を背負う山人が花の影に休んでいるかのようだ。


一般的に六歌仙とは歌の上手い六人の歌人だと考えられている。
しかし、仮名序の文章は褒めているというよりは、批判する文章のように思える。
それなのになぜ、六人の歌人のことを「歌仙」というのだろうか。

近江神宮 かるた祭2

近江神宮 かるた祭

⑤六歌仙は怨霊である。

小説家の高田祟史さんは、「六歌仙は怨霊である」とおっしゃっている。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病の流行は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていた。

そして陰陽道では怨霊=祟り神は祀り上げることで、強力な守護神に転じると考えた。

例えば菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、失意のうちに死亡した。
その後疫病が流行るなどし、それらは道真の怨霊の仕業であると考えられた。
そこで道真を慰霊するために天満宮が創建され、道真という祟り神は祀り上げられた。
今では菅原道真は学問の神として受験生たちから厚い信仰を集めているが、これはもともと怨霊であった道真が神として祀り上げられた結果、受験生たちの守護神に転じたということである。

これと同様、遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大伴黒主らはもともとは怨霊であったのが、神として祀り上げられた結果、歌の仙人=歌仙になったのではないかというのである。

さきほど怨霊とは政治的に不幸な死を迎えた人のことだと書いたが、六歌仙もまた、政治的に不幸だった。

近江神宮 かるた祭3

近江神宮 かるた祭

⑥喜撰法師は紀名虎または紀有恒

喜撰法師は紀名虎または名虎の息子の紀有恒のことではないかと言われている。

紀名虎には静子という娘があり、静子は文徳天皇の更衣となって惟喬親王をもうけていた。
一方、藤原良房には明子(あきらけいこ)という娘があり、明子は文徳天皇の女御となって惟仁親王をもうけていた。
文徳天皇は紀静子所生の惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたようで、『吏部王記』(醍醐天皇の第四皇子・重明親王の日記)に、『文徳天皇が惟喬親王を皇太子にしたいと源信に相談したが、源信は当時の権力者・藤原良房に憚ってこれをいさめた』という内容が記されている。
結局、惟喬親王を皇太子にしたいという文徳天皇の希望はかなえられず、生まれたばかりの惟仁親王が立太子し、8歳で即位した。
立太子したのも即位したのも前例にない異例の若さであった。

帯解寺 門 桜

帯解寺(奈良市) 藤原明子は帯解寺の地蔵菩薩に祈願して清和天皇を授かったと伝えられる。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王はたびたび歌会を催した。
その歌会のメンバーの中に、在原業平・僧正遍照・紀有恒(紀名虎の息子)らの名前がある。

古今和歌集仮名序に「今このことを言ふに つかさ位高き人をば たやすきやうなれば入れず(今、このことを述べるにあたり、司位高い人のことを言うのははばかられるので省く。)とあるが、「つかさ位高き人」とは惟喬親王のことだと考えられる。

璉珹寺 門 茉莉花

紀有常尊像を安置している璉珹寺(奈良市)

⑦在原業平は紀氏側の人間だった。

在原業平の父は平城天皇の第一皇子・安保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は大変高貴な生まれだった。
平城天皇は嵯峨天皇と対立してクーデターをおこした(平城天皇が寵愛していた藤原薬子と言う女性の名にちなみ「薬子の変」と呼ばれている。)が、これに失敗して出家した。
平城天皇の第一皇子・安保親王はクーデターに関与したとして大宰府に流罪となった。
のちに帰京が許されたが、安保親王は自分の子である行平・業平らの臣籍降下を願い出て、在原姓を賜った。
安保親王は自分に野心がないことを示すために行平・業平らの臣籍降下を願い出たのだろう。

また業平は紀有恒の妹を妻としており、紀名虎の外孫・惟喬親王の寵臣でもあった。
業平は紀氏側の人間であったのである。

業平は文徳天皇代の13年間はまったく昇進していないが、これは当時の権力者・藤原良房の思惑によるものだと考えられている。
 
不退寺 黄しょうぶ 

不退寺は薬子の変で敗れた平城上皇が住んだ場所と伝わり、不退寺の十一面観音は業平観音と呼ばれている。

⑧遍照は藤原良房に出家を勧められた。


遍照は俗名を良岑宗貞といい、桓武天皇の孫に当たる。
業平同様、高貴な生まれであったが、父の良岑安世が臣籍降下して、良岑姓を賜った。

遍照は仁明天皇の寵愛を受け、蔵人頭の要職についていたが、仁明天皇が崩御したのち、妻にも相談することなく、出家した。
遍照は出家した理由を誰にも語らなかったというが、藤原良房が出家を勧めたともいわれている。

惟喬親王の歌会に参加していた在原業平・僧正遍照・紀有常(=喜撰法師?)の三人とも六歌仙のメンバーである。

彼らは惟喬親王をまつりあげ、歌会と称してクーデターを企てていたのではないかという説もある。

渚の院 淡墨桜
 渚の院跡 ここで惟喬親王の歌会が開かれたようすが伊勢物語に記されている。

⑨文屋康秀の先祖は皇族だった?

文屋康秀という人物の出自についてはよくはわかっていない。
ただ、奈良時代末には文室大市・文室浄三という皇族がいた。
文室は文屋とも記されることがあり、文屋康秀は分室大市・文室浄三いずれかの子孫ではないだろうか。

奈良時代末、女帝の称徳天皇は道鏡を次期天皇につけたいと考えていた。
しかし称徳天皇は病気を患って急死し、これによって後ろ盾を失った道鏡は失脚した。
当時右大臣だった吉備真備は文室大市もしくは文室浄三を次期天皇にするという旨の称徳天皇のサイン入りの遺言書を作っていたが、左大臣藤原百川・永手・良継らが偽の遺言書を作ってすり替えたらしく、文室大市・文室浄三ではなく、白壁王が次期天皇となった。

また平安時代には文室綿麻呂、文室宮田麻呂という兄弟がいた。
文室綿麻呂は坂上田村麻呂とともに蝦夷征伐を行った人物である。
弟の宮田麻呂は、840年から842年にかけて筑前守を務めた。
この任期中に新羅の承認・張宝高(ちょうほうこう)にあしぎぬを贈り、唐の物産を輸入しようとしたことが「続日本後紀」に記されている。
謀反の罪により伊豆国へ配流となってたが、のちに無実であることがわかり、神泉苑の御霊会で慰霊されている。

「続日本後紀」の文屋宮田麻呂についての記事は、古今集仮名序にある文屋康秀の評を思い出させる。
文屋康秀は詞たくみにてそのさま身におはず。いはば商人のよき衣着たらむが如し

新羅の商人にあしぎぬを贈って唐の物産を得ようとしたのは文屋康秀の先祖と考えられる分室宮田麻呂であって、文屋康秀ではない。
個人が尊重される現在では家系はさほど重要視されなくなってきた。
しかし、「7代のちまで祟る」などといったり、罪を犯したものはその子孫まで罰せられたように、昔は家というものを大変重要視していた。
従って、文屋康秀を論じるにあたり、彼の先祖と思われる分室宮田麻呂のことを述べることはおかしなことではないだろう。

●応天門の変で失脚した大伴氏

大友黒主は大伴黒主とも記され、小説家の井沢元彦氏は政治的に不幸だった大伴一族の霊のことではないかと言っておられる。

大伴家持は藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、すでに死亡していたのだが、死体が掘り返されて除名された。
子の永主や大伴継人も隠岐へ流罪となった。
その後、応天門の変によって伴善男らが失脚するなどして、大伴氏は歴史の表舞台から姿をけした。
(※淳和天皇の名前が大伴親王だったので、これに憚って大伴氏は伴と氏を改めていた。)

大伴黒主について、私の考えは井沢氏の説とは違うが、それについては次回詳しく述べたいと思う。 )

六歌仙はいずれも政治的に不幸だった人物ばかりであり、怨霊となる要素を兼ね備えている。

小野小町は男だった③ 草子洗い  へつづく~
トップページはこちら→小野小町は男だった① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか 


 
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