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小野小町は男だった④ 小町、疱瘡を患う 『小野小町は疫神だった?』

小野小町は男だった③ 草子洗い『大友黒主と大伴家持は同一人物?』  より続く

①みとほけに変化する病人伝説

小野小町に次のような伝説がある。

京都・福知山市の温泉町に疱瘡(天然痘)を患った小町がやってきた。
小町は薬師如来に祈って温泉につかった。
すると小町の疱瘡はたちまち治った。


これと同じような伝説が光明皇后と行基にもある。

【光明皇后の伝説】
光明皇后は法華寺に浴室を建立し、千人の民の汚れを洗い流そうと願を立てた。
千人目は膿のある病人で、病人は皇后に『膿を口で吸い出してほしい』と頼んだ。
皇后が病人の膿に唇を近づけたとたん、病人は阿閦如来になった。


法華寺 山茱萸 

光明皇后の千人風呂伝説が伝わる奈良・法華寺の浴室(からぶろ)


【行基の伝説】
行基が旅の途中、病人に出会った。
行基は病人に食べ物を食べさせ、有馬温泉に連れていった。。
病人は「温泉では私の皮膚病は治らない。舐めてくれないか」と行基に頼んだ。
行基はためらうことなく、膿んで異臭のする病人の肌を舐めた。
すると病人は薬師如来となった。


日本の伝説には同じような話が多い。
光明皇后や行基の伝説が伝えようとしているものが何なのかについて解ければ、小野小町が疱瘡を患ったという伝説が伝えようとしているものについても解けるのではないだろうか。

②光明皇后を恐れさせた長屋王の怨霊

まず、光明皇后の伝説から見てみることにしよう。

光明皇后は法華寺に浴室を建立し、千人の民の汚れを洗い流そうと願を立てた。
千人目は膿のある病人で、病人は皇后に『膿を口で吸い出してほしい』と頼んだ。
皇后が病人の膿に唇を近づけたとたん、病人は阿閦如来になった。


法華寺 沈丁花 

光明皇后の千人風呂伝説が伝わる奈良・法華寺

この伝説に登場する病人はおそらく天然痘を患っていたのだろう。

種痘が開発されたおかげで日本では1955年以降天然痘患者は確認されていない。
しかし種痘がなかった平安時代、天然痘は人の命を奪う恐ろしい病だった。
そして古には天然痘などの疫病は怨霊の祟りによってもたらされると信じられていた。

光明皇后は天然痘をもたらす怨霊を特別怖れた人であったと私は思う。
というのは、光明皇后は天然痘をもたらす怨霊に祟られる理由があったからである。

法華寺 桜 

光明皇后の千人風呂伝説が伝わる奈良・法華寺

光明皇后は藤原不比等の娘で、武智麻呂、房前、宇合、麻呂という四人の兄弟がいた。
父親の不比等は右大臣で当時政界のトップの人物だった。
720年、藤原不比等が死去すると長屋王が政界のトップとなり、724年、長屋王は左大臣となった。
しかし長屋王政権は長くは続かなかった。
729年、長屋王が左道(邪道)によって国家を傾けようとしていると、朝廷に密告する者があった。
藤原四兄弟の一人である藤原宇合の軍が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王と新田部親王が長屋王の取り調べを行った。
厳しい取調べに耐え切れず長屋王は自殺に追い込まれ、妃の吉備内親王と子の膳夫王も供に死んだ。
これを長屋王の変という。 

長屋王邸 模型


長屋王の邸宅はイトウヨーカ堂奈良店あたりにあったとされ、イトウヨーカ堂の建物の裏手に長屋王邸の小さな模型がある。


聖武天皇と光明皇后の間には727年に基王が生まれていたが、基王は生後まもなく夭逝していた。
聖武天皇には他に安積親王があったが安積親王の母親は県犬養広刀自で光明皇后の子ではなかった。
このため、長屋王の子・膳夫王が皇位継承の最有力者とされていたようで、長屋王の変は藤原四兄弟が長屋王の権力を潰そうと陰謀を企てたものと考えられている。

長屋王の没後、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立て、政界の中心人物となった。

ところが737年、藤原四兄弟は天然痘になって次々に死んだ。
そして、藤原四兄弟が死んだのは長屋王の怨霊の祟りだと噂された。

光明皇后は長屋王を貶めた藤原四兄弟の妹である。
光明皇后は「次は自分が長屋王の怨霊に祟られる番だ。」と怯える日々を送ったことだろう。

光明皇后は熱心な仏教徒であり、夫の聖武天皇が東大寺や国分寺を設立したのは、光明皇后の進言によるものであるという。
また、悲田院や施薬院をつくるなど慈善活動に熱心であったとも伝わる。
光明皇后はみほとけにすがることで長屋王の怨霊の祟りから逃れようと考えたのだろう。



長屋王邸跡 

上の写真は長屋王低の柱跡を示したもので、イトウヨーカ堂の建物の裏側の従業員出入り口付近にある。


③行基が供養した長屋王の霊

次に行基の伝説を見てみよう。

行基が旅の途中、病人に出会った。
行基は病人に食べ物を食べさせ、有馬温泉に連れていった。。
病人は「温泉では私の皮膚病は治らない。舐めてくれないか」と行基に頼んだ。
行基はためらうことなく、膿んで異臭のする病人の肌を舐めた。
すると病人は薬師如来となった。


ここに登場する皮膚病を患った病人も、天然痘患者だろう。

関西には行基を開基とする寺が数多くある。
大阪府豊中市にある東光院も行基を開基とする寺で、創建は735年である。

東光院 萩 山門

東光院

その東光院には次のような伝説が伝わっている。

行基は豊崎村(現在の大阪市北区中津)にで民衆に火葬の方法をはじめて教え、淀川のほとりに群生していた萩の花を供花として霊前に捧げた。

東光院は1914年に豊中の現在地に移転したのだが、もともとは豊崎村にあったとされる。

行基が東光寺が創建した735年を調べてみると舎人親王と新田部親王(天武天皇の皇子)が薨去している。
私たちは舎人親王と新田部親王という名前に聞き覚えがある。
もう1度 ②光明皇后を恐れさせた長屋王の怨霊 を読んでみてほしい。
そう、舎人親王と新田部親王は長屋王の変において、長屋王を糾問した人物であった。

新田部親王と舎人親王が死んだのは藤原四兄弟が死亡する2年前の735年のことだった。
『続日本紀』に二人の死因は記載されていないが、天然痘が流行ったのは735年から737年だったので、天然痘が原因で二人は死亡したのではないだろうか。

そして735年から737年にかけて流行った天然痘は長屋王の怨霊の祟りだと考えられた。
とすれば、新田部親王と舎人親王の死も長屋王の怨霊の仕業だと畏れられたことだろう。

735年に行基が東光院を創建したのは、このとき天然痘が流行って新田部親王や舎人親王がなくなり、長屋王の怨霊の仕業だと噂されたので、長屋王の霊を供養するためだったのではないだろうか。

行基は長屋王の怨霊を供養することに情熱を傾けた人であったのかもしれない。
すると有馬温泉の、薬師如来に変化した病人もまた長屋王の怨霊ではないだろうか。

光明皇后の伝説と行基の伝説に登場する天然痘患者とはどちらも長屋王の怨霊だと考えられる。
おそらく、天然痘をもたらす神は天然痘を患った姿をしていると考えられていたのだろう。

光明皇后も行基も、どちらも天然痘患者を入浴させている。
これは長屋王の怨霊に禊をさせたということの比喩ではないだろうか。

東光院 萩

東光院

④天然痘患者がみほとけに姿を転じたことの意味

光明皇后の伝説では天然痘患者は阿閦如来に、行基の伝説では天然痘患者は薬師如来に姿を変えている。

つまり天然痘患者=天然痘をもたらす怨霊=長屋王の怨霊は、入浴する=禊をすることによって、みほとけに姿を転じた、ということである。

この物語はa.御霊信仰 b.神仏習合のふたつがベースになっていると思う。

政治的陰謀によって不幸な死を迎えた長屋王のような人物のことを怨霊といい、疫病の流行や天災は怨霊の仕業によってひきおこされると考えられていた。
御霊とはこのような怨霊を慰霊したもののことで、怨霊は慰霊し、神として祀りあげることで、守護神に転じさせることができると考えられていた。
これがa.御霊信仰である。

さらに古の日本人はb.神仏習合という信仰スタイルをもっていた。
神仏習合のベースになったのは本地垂迹説という考え方である。
本地垂迹説とは、日本古来の神は仏教の神が仮に姿を現したものであるとする考え方のことである。
日本古来の神のことを権現・化身、もともとの正体である仏教の神のことを本地仏といった。

この本地垂迹説にあてはめて考えると、長屋王は光明皇后の伝説では阿閦如来の化身、行基の伝説では薬師如来の化身、ということになる。

怨霊であった長屋王が阿閦如来や薬師如来に姿を変えたというのは、長屋王の怨霊を恐れた人々の、長屋王に怒りをおさめてほしい、という心のあらわれだといえるだろう。


帯解寺 小町之宮

小野小町を祀る小町之宮 (帯解寺)

●小野小町は天然痘をもたらす疫神だった?

光明皇后と行基の伝説の意味がわかったところで、小町の伝説について見てみることにしよう。

京都のとある温泉町(今の福知山市)に疱瘡を患った小町がやってきた。
小町は薬師如来に祈って温泉につかった。
すると小町の疱瘡はたちまち治った。


この小町にまつわる伝説は、光明皇后や行基の伝説に似ているが、病人が小町自身であるという点が異なっている。
光明皇后や行基は疫神を鎮魂しているが、小町は疫神そのものであったのである。

奈良の帯解寺に小野小町を祀る小町之宮がある。
小野小町は神として祀られているということだが、④に書いたように、怨霊は慰霊し、神として祀りあげることで、守護神に転じさせることができると考えられていた。

小町之宮は小町が怨霊(疫神)であったことを示すものだといえるだろう。


帯解寺 門 桜

小町之宮がある帯解寺




 
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小野小町は男だった③ 草子洗い『大友黒主と大伴家持は同一人物?』

 
祇園祭 山鉾巡幸 黒主山2 
祇園祭 黒主山

小野小町は男だった② 六歌仙は怨霊だった。 より続く。

①草紙洗い

7月17日、祇園祭山鉾巡幸。
祇園囃子の音色とともに山鉾が、大路をがゆっくりと進んでいく。
豪華な装飾品で飾り立てられた山鉾のようすから、山鉾巡幸は『動く美術館』とも称される。
そんな山鉾の中に、桜を見上げるひとりの老人をご神体とする山がある。
黒主山である。

祇園祭 黒主山 御神体

黒主山 御神体

謡曲に志賀という演目がある。黒主山はその謡曲・志賀をモチーフとした山である。

今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む老人と男に出会った。
この老人が大友黒主で、和歌の徳を語って消え去るが、臣下の夢の中に現れて舞を舞う。(志賀)


桜を見上げる老人は六歌仙の一人、大伴黒主だったのである。

大友黒主が登場する謡曲には『志賀』の他にも『草紙洗い』という演目がある。

小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。
歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。
蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん
(種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)

当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。
小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町の歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。
ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。
黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。
策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(草紙洗い)


志賀では和歌の徳を説く神として登場し、草紙洗いでは小野小町の邸に忍び込む卑怯な男として登場する大伴黒主。
いったい、彼はどのような人物だったのか。

髄心院 歌碑 八重桜
 
小野小町歌碑 隨心院  髄心院は小野小町の邸宅跡と伝わる。
 
②大友黒主は古の猿丸大夫の次なり

大伴黒主は遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町らとともに六歌仙の一である。
六歌仙とは「古今和歌集仮名書」において、名前をあげられた6人の歌人のことをいう。
古今和歌集仮名書とは仮名で記された古今和歌集の序文で、紀貫之が記したと考えられている。
ただし、仮名序やには六歌仙という言葉は使われていない。
後の世になって真名序及び 仮名序に名前をあげられた六人の歌人のことを六歌仙というようになったと考えられている。

古今集仮名書は大友黒主について次のように記している。

大友黒主は そのさまいやし
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし

(大友黒主はその様子が賎しい。
薪を背負う山人が花の影に休んでいるかのようだ。)


『滋賀』では大友黒主は花(桜)の影に休む老人として登場するが、それはこの古今和歌集仮名書の文章を受けたものだと考えられる。

大友黒主は大伴黒主とも記され、小説家の井沢元彦氏は政治的に不幸だった大伴一族の霊のことではないかと言っておられる。

大伴家持は藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、すでに死亡していたのだが、死体が掘り返されて流罪となった。
子の永主や大伴継人も隠岐へ流罪となった。
その後、応天門の変によって伴善男らが失脚するなどして、大伴氏は歴史の表舞台から姿をけした。
(※淳和天皇の名前が大伴親王だったので、これに憚って大伴氏は伴と氏を改めていた。)

古今集には仮名書のほかにもうひとつの序文「真名序」とよばれる漢文で記された序文がある。
仮名序は紀貫之が、真名序は紀淑望(きのよしもち)が書いたとされている。
仮名序と真名序の内容はほとんど同じだが、微妙に表現が違っている箇所もある。

たとえば、仮名書では
大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。

となっているが、真名序は次のようになっている
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)

真名序に『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とある。
これはどういう意味だろうか。

仮名序を書いた紀貫之は古今伝授の創始者であるという。
古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことで、伝授する人物は和歌の第一人者に限られ、伝授の方法は主に口頭で行われた。
和歌の極意を文章に記さず口頭で伝えるのは、情報が漏洩しないようにするためだろう。

鎌倉時代には藤原定家が父親であり師匠であった藤原俊家から古今伝授を受けている。
百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られている。
もしかしたら定家は『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』という仮名序の文章を受けて、百人一首において大友黒主の正体を明らかにしているのではないか、と思ったのだ。
つまり、猿丸大夫の次の歌人が、大友黒主ではないかと。

私は百人一首を調べてみた。
百人一首では猿丸大夫は5番だった。
その次・・・6番は大伴家持だった!

また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいるのだ。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』という。
本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことである。
大伴黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じ意味なので、本歌取りではない。

ほとんど同じと思われるふたつの歌の、一方は大伴黒主、一方は大伴家持の歌であるという。
このことからも、ふたりは同一人物ではないかと思われる。

大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄だった。
仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないだろうか。

また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったのではないだろうか。
仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないだろうか。

真名序に『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだろう。
『鄙し』の『鄙』は①田舎 ② いなかっぽい。ひなびている。つまらなく卑しい、などの意味がある。
『体甚だ鄙し』とは掘り出された死体がひなびている(田舎っぽい)、または卑しいということか。 

 祇園祭 山鉾巡幸 黒主山

祇園祭 黒主山


③青鬼・赤鬼・黒鬼


死体が掘り返された大伴家持の遺体はどのような状態だったのだろうか。

http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

a.腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
b.腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
c.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
d.骨が露出


そしてこの死体の変化が青鬼・赤鬼・黒鬼の正体ではないかというのだ。

鬼という漢字は死者の魂をあらわすものだとされるので、この説はなるほどもっともだと思わせる。

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭に登場した鬼たち

大伴黒主という名前は、家持の死体がcの段階まで進み、黒鬼のような状態になっていたところからつけられたのではないだろうか。

●万葉集を編纂した大伴家持 

大伴家持は優れた歌人であり、万葉集を編纂した人物でもあった。
そして草紙洗に登場する家持以外の歌人、小野小町・紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らは古今和歌集の歌人である。

『草紙洗い』において、大友黒主=大伴家持は万葉集の中に小町の歌を書き入れているが、
『書き入れる』というのは『編纂する』という意味で、誰にでもできることではない。
万葉集を編纂した大伴家持(大友黒主)だからこそ小町の歌を万葉集に書き入れることができたというのが『草紙洗い』のテーマなのだと私は思う。

そして小野小町は「私は『古今和歌集』の時代の歌人なので、私の歌を『万葉集』に書き入れることはできませんよ」と大伴家持を諭したということだろう。

つまり、大伴家持はタイムスリップして後世に現れたという設定なのである。

また『志賀』において、黒主は和歌の徳を説いているが、これなども万葉集を編纂した大伴家持にふさわしい行為だといえるのではないだろうか。

祇園祭 黒主山 提灯

祇園祭 黒主山





小野小町の謎④ 小町、疱瘡を患う 『小野小町は疫神だった?』  へつづく~
トップページはこちら → 小野小町は男だった① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか 

 
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小野小町は男だった② 六歌仙は怨霊だった。

 
八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め
小野小町の謎① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか  より続く

①六歌仙

1月3日、京都八坂神社で『かるた始め』が行われた。
平安装束を身にまとった女性が百人一首かるたをするのだが、百人一首かるたが成立したのは江戸時代である。
織田正吉氏はこの『かるた始め』のようすを平安時代の姫が江戸時代に表れた『SF的な風景』だと言っておられた。

百人一首とは鎌倉時代の歌人・藤原定家が撰んだ百歌人、百首の歌のことで、遍照、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、そして我らがヒロイン・小野小町の歌もある。
この五歌人に大伴黒主をくわえた六歌人を六歌仙という。

六歌仙とは紀貫之が書いたとされる「古今和歌集仮名書」の中で、名前をあげられた6人の歌人のことをいう。
ただし、仮名序には六歌仙という言葉は使われていない。
後の世になって古今和歌集 仮名序に名前をあげられた六人の歌人のことを六歌仙というようになったと考えられている。

八坂神社 かるた始め3

八坂神社 かるた始め

②古今和歌集仮名序

古今集仮名書の中の、六歌仙について述べられた部分を下記に書き出してみた。

かの御時よりこの方 年は百年あまり 世は十継になむなりにける
いにしへのことをも歌をも知れる人よむ人多からず
今このことを言ふに つかさ位高き人をば たやすきやうなれば入れず
そのほかに 近き世に その名きこえたる人は

すなはち僧正遍照は 歌の様は得たれども まこと少し
たとへば絵にかける女を見て いたづらに心を動かすがごとし

在原業平は その心余りて言葉たらず
しぼめる花の色なくて にほひ残れるがごとし

文屋康秀は 言葉はたくみにて そのさま身におはず
いはば商人のよき衣着たらむがごとし

宇治山の僧喜撰は 言葉かすかにして 初め終はり確かならず
いはば秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし
よめる歌多く聞こえねば かれこれを通はして よく知らず

小野小町は いにしへの衣通姫の流なり
あはれなるやうにて強からず
いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし

大友黒主は そのさまいやし
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし

八坂神社 かるた始め2

八坂神社 かるた始め


③抽象的でわかりにくい古今和歌集仮名序

古今和歌集仮名書はたいへん抽象的でどのように現代語訳すればいいのか悩む。
私が国語の教師なら、「貫之くん、もうちょっと具体的に書きなさい」と指導するかもしれない(笑)。

しかし、平安時代にはこの文章で十分人に伝わったのかもしれない。

今でも仲間内では会話が通じていても、外部の人間がはたで会話を聞いてもなんのことかさっぱりわからないということがある。
なぜ外部の人間が聞いてもわからないことが、仲間内では通じるかというと、仲間内では共通に認識していることがらがあり、そのことをあえて説明しなくとも、そういう前提で話しているということがわかるからである。

古今和歌集が完成した当時、六歌仙はみなすでに故人となっていたが、遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大伴黒主のことを知っている人がこれを読むと、ああ、なるほどと理解できたのかもしれない。

また、平安時代には現代のように発言の自由はなかっただろうから、この表現がギリギリのところだったのかもしれない。

近江神宮 かるた祭

近江神宮 かるた祭


④ほめているというよりも批判しているようにも思える古今和歌集仮名序

一応、私なりに現代語訳してみた。

平城天皇の御代から年は100年あまり、世は10代となった。
古のことや歌の奥義を知って歌を詠む人は多くはない。
今、このことを述べるにあたり、司位高い人のことを言うのははばかられるので省く。
そのほか、最近、歌の奥義を知る人として有名な人について述べよう。

僧正遍照は歌の形はいいが、真実がすくない。
絵に描けた女を見て、心を動かしているようなものだ。

在原業平は心のわりに言葉が足りない。
しぼんだ花が色あせて匂いだけが残っているようだ。

文屋康秀は 言葉は上手いがそのようすが身についていない。
商人がりっぱな着物を着ているかのようだ。

宇治山の僧・喜撰法師は言葉がわずかで初めと終わりがはっきりしない。
秋の月を見ていて、明け方の雲にかくれてしまったかのようだ。

小野小町は古の衣通姫の流れである。
物思うところがあって強くない。
いい女が悩んでいるのに似ている。
強くないのは女の歌だからだろう。

大友黒主はその様子が賎しい。
薪を背負う山人が花の影に休んでいるかのようだ。


一般的に六歌仙とは歌の上手い六人の歌人だと考えられている。
しかし、仮名序の文章は褒めているというよりは、批判する文章のように思える。
それなのになぜ、六人の歌人のことを「歌仙」というのだろうか。

近江神宮 かるた祭2

近江神宮 かるた祭

⑤六歌仙は怨霊である。

小説家の高田祟史さんは、「六歌仙は怨霊である」とおっしゃっている。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病の流行は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていた。

そして陰陽道では怨霊=祟り神は祀り上げることで、強力な守護神に転じると考えた。

例えば菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、失意のうちに死亡した。
その後疫病が流行るなどし、それらは道真の怨霊の仕業であると考えられた。
そこで道真を慰霊するために天満宮が創建され、道真という祟り神は祀り上げられた。
今では菅原道真は学問の神として受験生たちから厚い信仰を集めているが、これはもともと怨霊であった道真が神として祀り上げられた結果、受験生たちの守護神に転じたということである。

これと同様、遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大伴黒主らはもともとは怨霊であったのが、神として祀り上げられた結果、歌の仙人=歌仙になったのではないかというのである。

さきほど怨霊とは政治的に不幸な死を迎えた人のことだと書いたが、六歌仙もまた、政治的に不幸だった。

近江神宮 かるた祭3

近江神宮 かるた祭

⑥喜撰法師は紀名虎または紀有恒

喜撰法師は紀名虎または名虎の息子の紀有恒のことではないかと言われている。

紀名虎には静子という娘があり、静子は文徳天皇の更衣となって惟喬親王をもうけていた。
一方、藤原良房には明子(あきらけいこ)という娘があり、明子は文徳天皇の女御となって惟仁親王をもうけていた。
文徳天皇は紀静子所生の惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたようで、『吏部王記』(醍醐天皇の第四皇子・重明親王の日記)に、『文徳天皇が惟喬親王を皇太子にしたいと源信に相談したが、源信は当時の権力者・藤原良房に憚ってこれをいさめた』という内容が記されている。
結局、惟喬親王を皇太子にしたいという文徳天皇の希望はかなえられず、生まれたばかりの惟仁親王が立太子し、8歳で即位した。
立太子したのも即位したのも前例にない異例の若さであった。

帯解寺 門 桜

帯解寺(奈良市) 藤原明子は帯解寺の地蔵菩薩に祈願して清和天皇を授かったと伝えられる。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王はたびたび歌会を催した。
その歌会のメンバーの中に、在原業平・僧正遍照・紀有恒(紀名虎の息子)らの名前がある。

古今和歌集仮名序に「今このことを言ふに つかさ位高き人をば たやすきやうなれば入れず(今、このことを述べるにあたり、司位高い人のことを言うのははばかられるので省く。)とあるが、「つかさ位高き人」とは惟喬親王のことだと考えられる。

璉珹寺 門 茉莉花

紀有常尊像を安置している璉珹寺(奈良市)

⑦在原業平は紀氏側の人間だった。

在原業平の父は平城天皇の第一皇子・安保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は大変高貴な生まれだった。
平城天皇は嵯峨天皇と対立してクーデターをおこした(平城天皇が寵愛していた藤原薬子と言う女性の名にちなみ「薬子の変」と呼ばれている。)が、これに失敗して出家した。
平城天皇の第一皇子・安保親王はクーデターに関与したとして大宰府に流罪となった。
のちに帰京が許されたが、安保親王は自分の子である行平・業平らの臣籍降下を願い出て、在原姓を賜った。
安保親王は自分に野心がないことを示すために行平・業平らの臣籍降下を願い出たのだろう。

また業平は紀有恒の妹を妻としており、紀名虎の外孫・惟喬親王の寵臣でもあった。
業平は紀氏側の人間であったのである。

業平は文徳天皇代の13年間はまったく昇進していないが、これは当時の権力者・藤原良房の思惑によるものだと考えられている。
 
不退寺 黄しょうぶ 

不退寺は薬子の変で敗れた平城上皇が住んだ場所と伝わり、不退寺の十一面観音は業平観音と呼ばれている。

⑧遍照は藤原良房に出家を勧められた。


遍照は俗名を良岑宗貞といい、桓武天皇の孫に当たる。
業平同様、高貴な生まれであったが、父の良岑安世が臣籍降下して、良岑姓を賜った。

遍照は仁明天皇の寵愛を受け、蔵人頭の要職についていたが、仁明天皇が崩御したのち、妻にも相談することなく、出家した。
遍照は出家した理由を誰にも語らなかったというが、藤原良房が出家を勧めたともいわれている。

惟喬親王の歌会に参加していた在原業平・僧正遍照・紀有常(=喜撰法師?)の三人とも六歌仙のメンバーである。

彼らは惟喬親王をまつりあげ、歌会と称してクーデターを企てていたのではないかという説もある。

渚の院 淡墨桜
 渚の院跡 ここで惟喬親王の歌会が開かれたようすが伊勢物語に記されている。

⑨文屋康秀の先祖は皇族だった?

文屋康秀という人物の出自についてはよくはわかっていない。
ただ、奈良時代末には文室大市・文室浄三という皇族がいた。
文室は文屋とも記されることがあり、文屋康秀は分室大市・文室浄三いずれかの子孫ではないだろうか。

奈良時代末、女帝の称徳天皇は道鏡を次期天皇につけたいと考えていた。
しかし称徳天皇は病気を患って急死し、これによって後ろ盾を失った道鏡は失脚した。
当時右大臣だった吉備真備は文室大市もしくは文室浄三を次期天皇にするという旨の称徳天皇のサイン入りの遺言書を作っていたが、左大臣藤原百川・永手・良継らが偽の遺言書を作ってすり替えたらしく、文室大市・文室浄三ではなく、白壁王が次期天皇となった。

また平安時代には文室綿麻呂、文室宮田麻呂という兄弟がいた。
文室綿麻呂は坂上田村麻呂とともに蝦夷征伐を行った人物である。
弟の宮田麻呂は、840年から842年にかけて筑前守を務めた。
この任期中に新羅の承認・張宝高(ちょうほうこう)にあしぎぬを贈り、唐の物産を輸入しようとしたことが「続日本後紀」に記されている。
謀反の罪により伊豆国へ配流となってたが、のちに無実であることがわかり、神泉苑の御霊会で慰霊されている。

「続日本後紀」の文屋宮田麻呂についての記事は、古今集仮名序にある文屋康秀の評を思い出させる。
文屋康秀は詞たくみにてそのさま身におはず。いはば商人のよき衣着たらむが如し

新羅の商人にあしぎぬを贈って唐の物産を得ようとしたのは文屋康秀の先祖と考えられる分室宮田麻呂であって、文屋康秀ではない。
個人が尊重される現在では家系はさほど重要視されなくなってきた。
しかし、「7代のちまで祟る」などといったり、罪を犯したものはその子孫まで罰せられたように、昔は家というものを大変重要視していた。
従って、文屋康秀を論じるにあたり、彼の先祖と思われる分室宮田麻呂のことを述べることはおかしなことではないだろう。

●応天門の変で失脚した大伴氏

大友黒主は大伴黒主とも記され、小説家の井沢元彦氏は政治的に不幸だった大伴一族の霊のことではないかと言っておられる。

大伴家持は藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、すでに死亡していたのだが、死体が掘り返されて除名された。
子の永主や大伴継人も隠岐へ流罪となった。
その後、応天門の変によって伴善男らが失脚するなどして、大伴氏は歴史の表舞台から姿をけした。
(※淳和天皇の名前が大伴親王だったので、これに憚って大伴氏は伴と氏を改めていた。)

大伴黒主について、私の考えは井沢氏の説とは違うが、それについては次回詳しく述べたいと思う。 )

六歌仙はいずれも政治的に不幸だった人物ばかりであり、怨霊となる要素を兼ね備えている。

小野小町は男だった③ 草子洗い  へつづく~
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小野小町は男だった① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか


髄心院 歌碑 八重桜
 
小野小町歌碑 隨心院 (京都府京都市山科区小野御霊町35)

●小野小町はなぜ後ろを向いているのか

京都山科にある隨心院は小野小町の邸宅があった場所と伝わり、卒塔婆小町像や小町が化粧に使ったという井戸などが残されている。
また境内には小野小町が詠んだ歌を刻んだ歌碑がたてられている。

花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに(小野小町)

百人一首にも採られている有名な歌だ。
歌碑には十二単を纏った小町の姿も描かれているが、その姿は後ろ向きである。

小野小町は古くから後ろ向きで描かれることが多かった。
1919年に切り売りされたことで有名な佐竹本三十六歌仙絵巻の小野小町像も後ろ向きで描かれている。

小野小町はなぜ後ろ向きで描かれたのか。
それは作者が小野小町のあまりの美しさを憚ったためであるとも言われている。

小野小町がどのような女性であったのかは、史料にはほとんど記述がないため、よくわかっていない。

『古今和歌集目録』には「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右(古)姫云々」とあり、『尊卑分脈』には小野篁の孫で、出羽郡司良真の女子とある。
しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載がないため、実在が疑問視されている。

小町の存在が知られているのは、『古今和歌集』『後撰和歌集』『小野小町集』などに歌が残されているためである。
しかし、『小野小町集』は後世の他撰であり、他の歌人の歌が混入しているため、すべてが小町自作の歌とは断じがたい。

後ろ向きの小野小町像が象徴するように、彼女の実体は謎に包まれているのである。


髄心院 薬医門 桜

雨の髄心院 桜

●小野小町=更衣説(山村美佐氏)


山村美佐氏は小野小町について、次のような説をとなえておられる。

「古今和歌集」に登場する女性歌人のうち、三条町は文徳天皇の更衣・三国町は仁明天皇の更衣である。
町は更衣をさしているのではないか。
昔は姉妹で天皇に入内するということもあった。
小町は姉とともに入内したため小町と呼ばれているのではないか。
「続日本書紀」842年に小野吉子が正六位上に任じられている。
正六位上は更衣の位である。
小野小町とはこの小野吉子のことではないかと。

●小野小町=惟喬親王の乳母説(井沢元彦氏)

小説家の井沢元彦氏は、小野小町は惟喬親王の乳母ではないかとしておられる。
小野小町は生涯独身で子供はなかったという伝説がある。
しかし後撰集の歌人の中に「小町が孫」なる人物が登場するところから、小町が独身で子供がないという伝説は事実ではない、と井沢氏は指摘する。
そして小野小町が惟喬親王の乳母であったと考えると、惟喬親王が出家後小野に隠棲していること、『小野宮』と呼ばれる広大な邸に住んでいたことなどが説明できるのではないか、というのである。

山村氏と井沢氏のどちらの説も筋が通っていて「なるほど」と思わされるが、はたしてどうだなのだろうか。

髄心院 総門 桜

雨の髄心院 桜

●数多く残る小町伝説

小野小町は史料には全く登場しないが、彼女にまつわる伝説は山のようにある。

伝説は伝説であってもちろん史実ではないが、なぜこのような伝説ができたのかと考えてみることは有意義なことだと思う。

今回、私は伝説を紐解くことで小野小町の実体に迫りたいと考えている。
後ろ向きの小野小町がふりむくと、はたして小町はどのような顔をしているのだろうか。

髄心院 八重桜

髄心院 八重桜

【小町伝説について】

① 小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。
歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。
蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん
(種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)

当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。
小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町之歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。
ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。
黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。
策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(草紙洗い)

② 京都のとある温泉町(今の福知山市)に疱瘡を患った小町がやってきた。
小町は薬師如来に祈って温泉につかった。
すると小町の疱瘡はたちまち治った。

③小野小町は絶世の美女だった。そのためプライドが高く、一生独身だった。

④晩年、小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。
すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。
再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなった。
九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)

後に深草の少将が小町を慕ってやってきたが、やはり、この地で亡くなった。(妙性寺縁起)

⑤ 京の都の神泉苑で小野小町が和歌を詠んで雨乞いをし、雨を降らせた。
ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとては 又天が下とは
(道理であるなあ、この国を日本と呼ぶならば、日が照りもするだろう、しかしそうは言っても、又、天(雨)の下とも言うではないか。だから、雨を降らせてください。)
また
千早振る 神も見まさば 立ちさわぎ 雨のと川の 樋口あけたべ 
(神様、この日照りを御覧になったなら、大急ぎで天の川の水門の口を開けて下さい。)
という歌を詠んだとも伝わる。(雨乞小町)

⑥七夕の夕暮れ、星を祭る関寺の境内で小野小町は自分の若き日の思い出を歌いながら舞った。
小町は百歳を越えた老女で、人々は絶世の美女の変わり果てた姿を憐れに思う。(関寺小町)

⑦小町を慕う深草少将に小町は「百日間私のもとに通いとおしたならば、あなたのものになりましょう」と約束をする。
深草少将は毎夜小町のもとに通い続けるが、今日で100日目という雪の夜に凍えて死んでしまう。(百夜通い)

⑧ススキ野原の中で「あなめあなめ」(ああ、目が痛い)と声がするので僧が立ち寄ってみると、どくろがあって、その目からススキが生えていた。
抜き取ってやるとそれは小町のどくろだった。(あなめ小町)

⑨京都八瀬の里で修行する僧に薪や木の実を届ける女がいた。
女は「小野とは言はじ、薄生いたる、市原野辺に住む」と言って消える。
僧が市原野へ出かけて小町を弔っていると、四位少将の霊が現れ、小町の成仏を妨げる。
少将は百夜通いの後、成仏出来無いで苦しんでいた。
僧が、「懺悔に罪を滅ぼし給え」と勧めると、小町と共に成仏する。(通小町)

⑩百歳の老女となった小野小町が近江の国関寺のあたりをさすらっているという話を聞いた陽成院が、小町に次のような歌を贈った。
雲の上は ありし昔に 変はらねど 見し玉簾の うちやゆかしき
(宮中は、かつての昔と変わっていないがあなたは、昔見慣れた玉簾(内裏)がなつかしくありませんか。) 
小町は鸚鵡返しといって、院に歌を返した。
雲の上は ありし昔に 変はらねど 見し玉簾の うちぞゆかしき
(私は、昔見慣れた玉簾(内裏)がなつかしいです。)

相手の歌の「や」を「ぞ」に替えるだけで返歌した、鸚鵡返しの歌として知られる。(鸚鵡小町)

⑪絶世の美女であったにもかかわらず、男を寄せ付けなかった小町は実は男を受け入れられない体であった。
穴のない「まち針」は「小町針」がなまったものである。(小町針)

⑫昔、色気づいた女が三人の子に「思いやりのある男にお会いしたい」と話した。
三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をし、在五中将(在原業平)に頼み込んだ。
在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。
しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなり、女は男の家に行って中を伺った。
男は女をちらっとみて歌を詠んだ。
ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)
その後、男がでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。
在五中将が女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。
さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ
(狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。)

在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。
※伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書・『知顕集)』には次のように記されている。
「このをんなは、をののこまちなり。小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。」
(この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。どんな人の子を産んだのか、はっきりしない)(伊勢物語)

髄心院 小野小町

ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作したタペストリー(髄心院)



小野小町の謎② 六歌仙は怨霊だった。 へつづく~

 
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土蜘蛛の謎⑳ 空也と茶の湯 (最終回)

土蜘蛛の謎⑲ 平将門を慰霊した時宗の僧侶たちよりつづきます~

●空也は本当に高価なお茶を病人に飲ませたのか?

六波羅蜜寺 皇服茶
  
六波羅蜜寺 皇服茶

951年に京で疫病が流行った際、空也は十一面観音を刻んで市中を引き回し、病人にはお茶を飲ませたという。
これにちなみ、六波羅蜜寺では正月に仏前に献じたお茶に梅干しと結び昆布をいれた皇服茶の授与を行っている。

しかし、これをにわかに信じることはできない。

お茶は中国が原産地で、平安時代に空海が遣唐使として入唐し、帰国する際に日本に持ち帰ったといわれている。
これが事実であるとしても、その量は僅かなものであり、平安時代のお茶はたいへん高価なものであったと考えられる。
このように高価なものを、一般民衆に飲ませることは不可能だろう。

その後、鎌倉時代になって臨済宗の開祖・栄西が2度にわたって宋へ赴き、「喫茶養生記」を記した。
また明恵が京都栂尾の高山寺に日本最古の茶園を作り、伊勢、伊賀、駿河、武蔵などでも茶が栽培されるようになった。
茶というものが一般的になってくるのはどう考えても鎌倉時代以降で、空也上人が活躍していた平安時代では早すぎる。

皇服茶は大福茶とも呼ばれ、北野天満宮では大福茶に入れる梅干し(王福梅)を年末に授与している。

北野天満宮 大福梅

北野天満宮 大福梅


『都名所図絵雑談抄』によれば、この大福茶を951年に村上天皇が飲んだところ、村上天皇の御脳(御脳とは何のことなのか、私にはよくわからない。)が平癒したと記されている。

もしかしたら空也は951年の疫病流行の際、村上天皇や一部の上流貴族にのみお茶を飲ませたのだろうか。
これならありえそうだが、『都名所図絵雑談抄』の大福茶の記述には空也の名前は全く出てこない。
やはり「皇服茶」または「大福茶」というものがまずあって、あとから空也が病人にお茶を飲ませたという伝説を作ったと考えたほうが筋が通るのではないだろうか。

霊山寺 初福茶 

霊山寺(奈良) 初福茶

②茶道と髑髏(ドクロ)杯

それではなぜ空也とお茶が結び付けられたのだろうか。

織田信長や高野蘭亭、徳川光圀らが髑髏(ドクロ)杯を作った、あるいは持っていたという記録がある。
黒田官兵衛の兜は茶碗をひっくり返したような形をしているが、この兜のデザインの発想は、茶碗にドクロのイメージがあるところからきているのではないかと思う。

空也堂の空也忌では大福茶として人の頭ほどもある大きな茶碗でお茶を回し飲みするが、この大きな茶碗はまさしくドクロのイメージである。

大きな茶碗のことを鉢というが、人の頭のことも鉢といい、鉢巻、鉢合わせなどの言葉もある。
戦国武将らはみな茶の湯をたしなんでいたが、それは茶の湯に髑髏杯のイメージがあったからではないだろうか。

髑髏杯を作る習慣は世界中であったが、その多くは討ち取った敵の髑髏を用いて作られている。
髑髏杯とは武勇の証であったのではないだろうか。
戦国武将たちは茶碗を敵の髑髏杯に喩え、その茶碗で茶を飲むことで、自らの勝利を祝ったり、また願ったりしていたのではないだろうか。

以前の記事、土蜘蛛の謎⑯ 東国に飛び立った将門の髑髏 と 東国へ旅立った空也で述べたように、私は空也とは平将門の首を聖人化したものだと考えているが、平将門は940年に討死し、その首は鴨川のほとりで晒されている。
そういったところから、空也=将門は茶の湯と結び付けられたのではないだろうか。

神田明神

膏薬図子 神田神宮(京に持ち帰られた平将門の首が晒された場所に立つ)

将門の首塚 
将門の首塚(東京都) 京都で晒されていた将門の首は東へ向かって飛んでいき、ここに落ちたと伝わっている。

以前、インターネットのあるサイトで次のように記した文章を読んだ記憶がある。
「空也上人は公孫樹の木に釜をかけ、お茶を点てた。」
これは「平将門の首が鴨川のほとりの公孫樹の木に晒された」といわれていることと対になっているようで、大変興味深い。

「平将門の首が鴨川のほとりの公孫樹の木に晒された」というのが陰、そしてこれを陽に転じたのが「空也上人は公孫樹の木に釜をかけ、お茶を点てた。」ということなのではないかと思えるのだ。

何度も述べているように私は空也とは将門のドクロを聖人化したものだと考えている。
後世の人々は将門の髑髏杯でお茶を飲むことによって、疫病を退散させることができると考えたのではないか。
そしてここから、空也(=将門の髑髏)が病人にお茶を飲ませたという伝説が生じたのではないだろうか。

③空也は醍醐天皇の第2皇子だった

これで平将門と空也についての考察は終わりだが、実はもう一点、疑問が残っている。
それは六波羅蜜寺では空也を醍醐天皇の第二皇子としていることである。

醍醐天皇の第二皇子とは保明親王のことである。
保明親王の生年は平将門や空也と同じ903年である。
藤原時平の後押しを受けて醍醐天皇の皇太子となったが、923年に21歳の若さで薨去した。
そこで醍醐天皇は保明親王の第一王子・慶頼王を皇太子としたが、925年にわずか5歳で薨去。
保明親王や慶頼王の死は菅原道真の怨霊の仕業であると考えられた。
藤原時平の讒言をうけて道真を大宰府に流罪としたのが醍醐天皇なので、保明親王・慶頼王の相次ぐ死は醍醐天皇にこの上ない恐怖を引き起こしたことだろう。
930年、清涼殿に落雷があり、多くの死傷者が出た。
そしてこの事件もまた菅原道真の怨霊の仕業であると考えられた。
醍醐天皇はこの事件から3か月後に崩御されたが、その理由は清涼殿落雷事件にショックをうけてノイローゼとなったためだとも言われている。

大阪天満宮 人形 
大阪天満宮に展示されている菅原道真の人形

平将門、空也、保明親王の関係はどうなっているのか?

私は空也とは平将門の首のことだと考えている。空也=平将門
そして平将門と保明親王は実は双子なのではないかと考えてみたりもした。

かつて双子は畜生腹として忌まれ、双子の片割れは殺されたり、里子に出されたりしたと聞いたことがある。

平将門は別名を豐田小次郎、相馬小次郎、滝口小次郎といった。
「小次郎」という名前は次郎よりも小さいという意味で三男につけることがあったようである。
『尊卑分脈』では将門は三男で、「将持」「将弘」という二人の兄がいるとしている。
それで将門の別名は『小次郎』なのだろうか。
しかし、伊達小次郎(伊達政宗の弟)は次男であり、小次郎という名前にはいろんなケースがあったようである。
将門は双子の弟ということで、小次郎というのではないかと考えてみたりした。
しかし、決定的な根拠とはいいがたい。

これは今後の宿題とさせていただいて、ひとまずはこの長いエッセイを終わることにしたい。


※長々とおつきあいくださいまして、ありがとうございました♪


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04-19(Wed)09:40|土蜘蛛の謎 |コメント(-) |トラックバック(-)

土蜘蛛の謎⑲ 平将門を慰霊した時宗の僧侶たち

土蜘蛛の謎⑱ 「空也が十一面観音を刻んだ」ということの意味  より続きます~


①空也はなぜ阿弥陀仏ではなく十一面観を刻んだのか


File:Kuya Portrait.JPG

六波羅蜜寺 空也像
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ae/Kuya_Portrait.JPG よりお借りしました。
作者 ASUKAEN [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

空也像は各地にあるが、上の六波羅蜜寺像のように、口から六体のみほとけがほとばしり出るおすがたに作られる。
空也堂の空也像も作風は異なるがこのようなおすがただった。

空也の口からほとばしりでる6体のみほとけは「南無阿弥陀仏」の六文字を表すと言われる。

空也は「誰でも南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土へ行ける」と説いたと言われる。
そのため、このような像が作られたのだろう。

しかし疑問がある。

阿弥陀信仰は、平安時代には一部の貴族たちの間でブームとなった。
しかしそれはあくまで一部の貴族のためのものであり、「誰でも極楽浄土へ行ける」というような教えではなかった。

仏教が一般庶民のものとなっていくのは、鎌倉時代以降とされている。
浄土宗の開祖とされる法然が「誰でも南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土へ行ける」と説いたことは、仏教が一般庶民のものとなるのに大きな影響を与えたことだろう。

法然より200年も早い時代の僧侶だった空也もまた、「誰でも南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土へ行ける」と説いたという。
しかし空也の時代の阿弥陀信仰は先ほども述べたように一部の貴族に限定されたものだった。
ときどき時代の先端を走りすぎてブームに乗れない人がいるが、空也もそういうタイプの人間だったのだろうか。

私は平安時代の僧の空也が一般民衆に阿弥陀信仰を説いたと考えるのは無理があると思う。
第一、空也が阿弥陀信仰を説いたというのが真実であるならば、十一面観音ではなく阿弥陀仏を刻んだはずである。

②空也は将門の首を聖人化した架空の存在だった?

平定盛という猟師が鹿を殺したことを悔い、空也を開祖として空也堂を創建したという。
空也堂には「平貞盛焼き捨ての兜」なるものがあり、平定盛とは平貞盛のことだと考えられる。

空也堂 平貞盛 焼捨の兜

平貞盛とは藤原秀郷と共に朝廷に命じられて将門討伐に向かった人物である。
すると平定盛(平貞盛)が殺した鹿とは平将門の比喩だと考えられる。

空也堂は平将門鎮魂の寺であり、空也堂のご本尊は平将門の怨霊封じ込めの像だと考えるのが自然だろう。

ところが空也堂のご本尊は空也像だった。

空也堂 歓喜踊躍念仏

空也堂 空也歓喜踊躍念仏

そして空也堂の空也忌は11月13日とされているが、この日は空也の命日ではなく、空也が東国へ旅立った日だという。
鴨川のほとりで晒されていた将門の首は飛び上がって故郷の東国へ飛び立ったという。
空也とは平将門の首を聖人化した架空の人物ではないのか?

将門の首塚

将門の首塚(東京都千代田区 京から飛んできた将門の首はここに落ちたと伝わる。)

③時宗は将門を慰霊することに力を注いだ宗派だった。

法然の後、鎌倉末期に一遍が浄土教の一派である時宗を開いた。
一遍は各地を遊行して踊念仏を行い、六字名号を記した念仏札を配った。

染殿院
 
京都の新京極通商店街にある染殿院は一遍が念仏札を配った市場釈迦堂跡とされる。

一遍聖絵には、京都にやってきた一遍と弟子たちが四条釈迦堂で念仏札を配り、空也上人が創建したとされる六波羅蜜寺を参拝し、平安京の東市(現在の西本願寺付近)で踊念仏を行っている様子が描かれている。

四条釈迦堂は将門の首が晒された鴨川のほとりにあった。
また、東市は空也が市屋道場を開いたとされる場所である。

神田明神

膏薬図子 神田神宮(京に持ち帰られた平将門の首が晒された場所に立つ)

空也とは将門の首を聖人化したものだと考えられる。
とすれば「空也が市屋道場を開いた」とは「誰かが将門を慰霊するための念仏道場を作った」ということを、「将門の霊が自ら成仏しようとして念仏道場をたてた」という言い方をしたものではないだろうか。
つまり、一遍は京の平将門ゆかりの地を訪れて念仏札を配り、踊念仏を行ったのではないかと思うのだ。

1307年には時宗の僧・他阿真教が平将門に蓮阿弥陀仏と法名を送っている。
1309年ごろには時宗の進教上人が将門の首塚を慰霊している。
このように見てみると時宗は将門を慰霊することに力を注いだ宗派だったように思える。

File:Ippen Biography 3.jpg

一遍聖絵 四条釈迦堂
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/Ippen_Biography_3.jpg よりお借りしました。
作者 En'i (円伊) (Tokyo National Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


③六波羅蜜寺の隠れ念仏は一遍に由来する?

六波羅蜜寺では年末に『隠れ念仏』を行っている。
鎌倉時代、念仏は幕府より弾圧を受けていた。
そのため、薄暮に屏風に隠れてこっそりと念仏を行ったことに由来するものだと言われ、僧侶たちが「ノーボーオーミトー」と唱えながら、鉦を打ち、秘仏・十一面観音の厨子の前をくるくると踊るように回る。
「ノーボーオーミトー」とは南無阿弥陀仏のサンスクリット語の発音なのだそうで、念仏だとわかりにくくするためこう唱えるのだと言われている。 (六波羅蜜寺の隠れ念仏は撮影禁止のため写真はありません。)

六波羅蜜寺 追儺式3

六波羅蜜寺 追儺式に登場した土蜘蛛


六波羅蜜寺で踊念仏を行うようになったのは、一遍が六波羅蜜寺を参拝し、東市で踊念仏を行ったことに由来するものではないだろうか。

一遍が踊念仏を行ったのは、将門の霊を慰霊するためだと思う。
一遍は次のように考えたのではないだろうか。

六波羅蜜寺の十一面観音は平将門の本地仏だと考えられるが、この十一面観音はなかなか成仏せず、人々に祟り続ける。(=平将門の怨霊はなかなか成仏せず、人々に祟り続ける。)
そのような罪深い十一面観音(=平将門の怨霊)ではあるが、法然は「誰でも南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土へ行ける」と説いた。
十一面観音(=平将門の怨霊)も南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土へ行けるはずだ、と。

つまり、踊念仏の始祖は空也ではなく一遍であり、空也が「誰でも南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土へ行ける」と説いたというのは、すでに死亡していた空也(=平将門の霊)が自らにそう言い聞かせた、という意味ではないかと思う。

六波羅蜜寺 夕景

六波羅蜜寺


土蜘蛛の謎⑳ 空也と茶の湯 (最終回) へつづく~
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04-17(Mon)11:32|土蜘蛛の謎 |コメント(-) |トラックバック(-)

土蜘蛛の謎⑱ 「空也が十一面観音を刻んだ」ということの意味

土蜘蛛の謎⑰ 空也搭はなぜ首桶の形をしているのか? より続きます~

①菅原道真は十一面観音の生まれ変わり

かつて北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺の門前に「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられている。

東向観音寺

天満宮とは北野天満宮の御祭神の菅原道真のことである。

御本地仏とは本地垂迹説に基づく言葉である。
本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々(みほとけ)が仮に衆上を救うためにこの世に現れたものであるとする考え方のことで、神仏習合のベースとなった。
日本古来の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々が仮に衆上を救うためにこの世に現れた日本古来の神々のことを化身とか権現などという。

つまり「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは、「天満宮=菅原道真の正体である十一面観音をお祀りしています。」というような意味である。
「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」と信仰されていたと言ってもいいだろう。

②菅原道真が自ら十一面観音を刻んだ

東向観音寺ではご本尊の十一面観音は菅原道真が自ら刻んだものだと伝えている。

菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に流罪となり、数年後に失意のうちに亡くなった。
その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次ぐなどし、それらは道真の怨霊の仕業であると当時の人々は考えた。
そして祟り神(怨霊)は神として祀り上げると守護神に転じると考えられていた。
怨霊・菅原道真は守護神に転じさせるために北野天満宮などの神社の御祭神として祀られたわけである。

大阪天満宮 人形 
大阪天満宮に展示されている菅原道真の人形

③成仏してください

今でも人が亡くなると「成仏してください」と言うが、なぜ死んだ人に対して「成仏してください」と言うのだろうか。
それは「この世に未練を残して人々に祟ったりすることなく、悟りを開いて恨みをすて、人々にご利益を与える存在であるみほとけになってください」という意味で「成仏してください」というのではないだろうか。

すると、「菅原道真が自ら十一面観音を刻んだ」というのは言葉通りの意味ではなくて「菅原道真が成仏した(悟りを開いて恨みを捨て、人々にご利益を与える十一面観音になった)」という意味なのではないかと思えてくる。
もちろん、それはそうあってほしいという人々の願望であり、道真が本当に成仏したという意味ではない。

④空也は成仏して十一面観音になった?

六波羅蜜寺の秘仏となっている十一面観音は空也が自ら刻んだものだと伝わっている。

六波羅蜜寺 

東向観音寺と同様に考えれば、「空也が自ら十一面観音を刻んだ」ということは、「空也は成仏して十一面観音になった」という意味なのではないだろうか。

951年、京の町に疫病が流行った際、空也は自ら十一面観音を刻んで市中を引き回し、病人にはお茶を飲ませたという。

六波羅蜜寺 皇服茶

六波羅蜜寺 皇服茶 現在でも六波羅蜜寺では正月の三が日、参拝者に皇服茶を授与している。

この951年の疫病の流行は空也の怨霊の仕業であると考えられたのではないか。
そして怨霊であった空也は成仏して十一面観音になったということを、「空也が自ら十一面観音を刻んだ」と言っているのではないか。
また空也が病人にお茶を飲ませたということは、お茶の薬効が、成仏して十一面観音になった空也のご利益であると考えられたということではないか。

もちろん、空也とは土蜘蛛の謎⑯ 東国に飛び立った将門の髑髏 と 東国へ旅立った空也土蜘蛛の謎⑰ 空也搭はなぜ首桶の形をしているのか? で述べたように平の将門を聖人化した架空の人物のことである。


このように考えると、六波羅蜜寺の十一面観音と空也堂の空也像はどちらも空也が刻んだと伝わっているが、同じ人物の作品だとは思えないほど作風がちがっている理由がわかる。

そして六波羅蜜寺の十一面観音と空也堂の空也像を刻んだ仏師は別人なので作風が違っていて当然である。
そしてどちらの像を刻んだ仏師も空也ではない。
なぜならば「空也が自ら仏像を刻んだ」とは「空也が成仏した」という意味だと考えられるからである。

六波羅蜜寺 萬燈会


東向観音寺・・・京都市上京区今小路通御前通西入上る観音寺門前町 863
土蜘蛛の謎⑲ 平将門を慰霊した時宗の僧侶たち  へつづく~
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04-15(Sat)11:11|土蜘蛛の謎 |コメント(-) |トラックバック(-)

土蜘蛛の謎⑰ 空也搭はなぜ首桶の形をしているのか?

土蜘蛛の謎⑯ 東国に飛び立った将門の髑髏 と 東国へ旅立った空也 より続きます~

①将門の怨霊鎮魂に情熱をそそいだ空也

940年、平将門は東国で反乱をおこし、朝廷が派遣した平貞盛・藤原秀郷らの軍と戦って戦死した。
将門の首は京に持ち帰られて鴨川のほとりで晒された。
その首が飛び上がって鴨川を越え膏薬図子に落ち、近隣住民に祟ったたという伝説がある。
空也は将門の供養のため念仏道場をつくり毎日念仏をあげたところ、ようやく将門の首は祟らなくなったという。

神田明神

膏薬図子 神田神宮(京に持ち帰られた平将門の首が晒された場所に立つ)

なぜかあまり語られることがないが、空也は平将門の怨霊鎮魂に情熱を注いだ人物だったのである。

②六波羅蜜寺は平将門を慰霊する寺?

951年、京に疫病が流行し、鴨川は死体で溢れかえるような惨状になった。
そこで空也は十一面観音を刻んで市中をひきまわし、病人にはお茶を飲ませた。
これが六波羅蜜寺の創建とされている。

六波羅蜜寺 皇服茶

六波羅蜜寺 皇服茶 現在でも六波羅蜜寺では正月の三が日、参拝者に皇服茶を授与している。

六波羅蜜寺は鴨川のほとりにあって将門の首が晒された場所から近い。
私は951年の疫病の流行は将門の怨霊の仕業だと考えられたのだと思う。

六波羅蜜寺 夕景


六波羅蜜寺の近所には祇園の町があるが、祇園では1年中「笑門」の札をつけた注連縄を飾る習慣がある。

注連縄
祇園の注連縄
祇園には八坂神社があるが、八坂神社では7月の祇園祭の際に『蘇民将来子孫也』と記したお札を授与している。
この『蘇民将来子孫家門』を略すと『将門』となり、逆賊とされる平将門に通じるので、『笑門』になったとする説がある。

八坂神社 節分祭

八坂神社 節分祭

祇園は平将門の首が晒された場所に近く、人々は平将門の怨霊をおそれていたことだろう。
そのため陰である『将門』を語呂合わせで陽の『笑門』とかえ、注連縄に記して飾っているのではないかと私は考えた。

そして六波羅蜜寺は空也がたてた膏薬図子の念仏道場と同じく、平将門を慰霊するための寺なのではないかと私は思う。

梅原猛さんは聖徳太子は怨霊であると説かれた。
そして法隆寺夢殿の聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像ではないかとされた。

これと同様、空也が刻んだ六波羅蜜寺の十一面観音は平将門の怨霊封じ込めの像ではないかと思う。

いや、六波羅蜜寺の十一面観音は平将門の怨霊(陰)を陽に転じた像だといった方がいいだだろうか。
陰陽道では人々に禍をなす祟り神は神として祀り上げれば守護神に転じると考えられていた。
さらに明治までの日本では神仏は習合して信仰されていた。
仏教のみほとけとは陰である神(六波羅蜜寺のケースでは平将門)が陽(六波羅蜜寺のケースでは十一面観音)に転じたものではないかと思うのだ。

③空也は将門の首を聖人化したものだった?

平定盛という猟師が鹿を殺したことを悔い、空也を開祖として空也堂を創建したという。
空也堂には「平貞盛焼き捨ての兜」なるものがあり、平定盛とは平貞盛のことだと考えられる。

空也堂 平貞盛 焼捨の兜

平貞盛とは藤原秀郷と共に朝廷に命じられて将門討伐に向かった人物である。
すると平定盛(平貞盛)が殺した鹿とは平将門の比喩だと考えられる。
空也堂もまた平将門鎮魂の寺であり、空也堂のご本尊は平将門という怨霊(陰)を陽に転じたみほとけなのだろうと考えていた。

ところが予想に反して空也堂のご本尊は空也が自ら刻んだという空也像だった。

そして空也忌は11月13日とされているが、この日は空也の命日ではなく、空也が東国へ旅立った日だという。
鴨川のほとりで晒されていた将門の首は飛び上がって故郷の東国へ飛び立ったという。
空也とは平将門の首を聖人化した架空の人物ではないのか?

空也堂 歓喜踊躍念仏

空也堂 空也歓喜踊躍念仏

④空也塔は首桶?

東大路通から清水寺へ向かって清水坂を歩いていくと、途中に西光寺という寺がある。
清水坂には多くの観光客が行き来しているが、誰も西光寺には気を向けず門前を通り過ぎていく。
境内に入っても参拝者の姿はなく、ひっそりとしている。

誰も訪れないこの寺を私が訪ねたのは、ここに空也塔なるものがあると聞いたからだった。

西光寺の西500mほどの所には空也を開基とする六波羅蜜寺がある。
六波羅蜜寺は創建当初は西光寺と称したそうである。

西光寺と称する寺は多数あるが、空也塔があるということは六波羅蜜寺と関係の深い寺なのだろうが、詳しいことは調べてみたがよくわからなかった。

かつての六波羅蜜寺は広大な寺域を持っていたということなので、同じ寺であったのが後に西光寺と六波羅蜜寺にわかれたのかもしれない。

空也塔は燈籠の火袋のような形をしていた。

西光寺 空也塔 
空也搭

そういえば、東向観音寺にある土蜘蛛の塚は燈籠の火袋だった。

東向観音寺 土蜘蛛の塚
東向き観音寺 土蜘蛛の塚

土蜘蛛草紙には「空飛ぶ髑髏のあとをつけていったところ土蜘蛛の塚があった」とあり、空飛ぶ髑髏と土蜘蛛は関係が深い。
土蜘蛛とは記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことである。

昆虫の体は頭部・胸部・腹部の3つに分かれているが、蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部分からなり、昆虫とは別の動物とされている。

蜘蛛の体 

昔の人は蜘蛛を頭部のない昆虫だと考えたのだと思う。
そして土蜘蛛とは謀反の罪により頭部を斬られた人物の怨霊のことではないだろうか。

東向観音寺の土蜘蛛の塚が燈籠の火袋なら、やはり燈籠の火袋のように見える西光寺の空也塔もまた土蜘蛛の塚なのではないだろうか。

空也塔の傘の部分は蓮の葉を模したデザインとなっている。

蓮阿弥陀仏。
それは時宗の僧・他阿真教が1307年に平将門に送った法名である。

将門の首塚 
将門の首塚(東京都) 「平将門 蓮阿弥陀佛」と記されている。


いや・・・空也塔は灯篭の火袋よりも、もっと別のものに似ている。
空也塔は首桶に似ている!

http://gensun.org/?img=23%2Epro%2Etok2%2Ecom%2F%7Efreehand2%2Frekishi%2Fimg2%2Fkubioke%2D01%2Ejpg

↑ 上記の写真は阿弖流為の首桶と説明されている。
円筒形の周囲に四本の柱をたてたデザインは空也搭とそっくりである。

なぜこの首桶のように見えるものが空也塔とされているのか。
やはりそれは空也とは将門の首を聖人化した架空の人物だからではないのか。
西光寺・・・京都市東山区清水4丁目


土蜘蛛の謎⑱ 「空也が十一面観音を刻んだ」ということの意味 につづく
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