土蜘蛛の謎⑭ 六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛
①六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛
節分の日、私は追儺式を見るために六波羅蜜寺に出かけた。

中堂寺六斎会の方々が登場し、太鼓や鉦を打ち鳴らす。
六斎念仏とは念仏を唱えつつ太鼓や鉦を打ち鳴らすというもので、六斎念仏の祖は六波羅蜜寺の開基でもある空也とされる。
六斎念仏は念仏系の干菜寺系と芸能系の空也寺系の二派がある。
中堂寺六斎会は空也寺系で、お盆には壬生寺などで四ツ太鼓・土蜘蛛などの演目を行っている。
豆をぶつけて鬼を祓うというのが一般的な追儺式だが、六波羅蜜寺の本堂に現れたのは鬼ではなく土蜘蛛だった。

中堂寺六斎会の人々が鉦や太鼓を打ち鳴らし、僧侶が豆(?)を投げると、土蜘蛛は逃げていった。

江戸時代、六波羅蜜寺の住職が本堂と仏像の修理を行ったが、大変出来栄えが悪かった。
また土蜘蛛の精がたびたび現れて住職を悩ませていた。
そこで中堂寺六斎会の人々が鉦・太鼓を打ち鳴らして土蜘蛛を退散させた。
という。
六波羅蜜寺の追儺式はこの故事にちなむものである。

②平将門の鎮魂に情熱を注いだ空也
六波羅蜜寺は951年に空也上人が開いた寺である。
この年、平安京では疫病が流行り鴨川は死体で溢れかえるほどの惨状となった。
そこで空也上人が自ら十一面観音を刻んで車にのせて市中を引き回し、また病人には仏前に献じたお茶を飲ませたという。

六波羅蜜寺 皇服茶 現在でも六波羅蜜寺では正月の三が日、参拝者に皇服茶を授与している。
なぜかあまり語られることがないが、空也は平将門の鎮魂に情熱を注いだ人だった。
940年、平将門は東国で反乱をおこし、朝廷が派遣した平貞盛・藤原秀郷らの軍と戦って戦死した。
将門の首は京に持ち帰られて鴨川のほとりで晒された。
その首が飛び上がって鴨川を越え膏薬図子に落ち、近隣住民に祟ったたという伝説がある。
空也は将門の供養のため念仏道場をつくり毎日念仏をあげたところ、ようやく将門の首は祟らなくなったという。

膏薬図子の神田神宮 (京都)
③六波羅蜜寺に表れた土蜘蛛の正体とは
土蜘蛛とは記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことだが、土蜘蛛草紙には「源頼光らが空飛ぶ髑髏をつけていったところ土蜘蛛の巣があった」と記されており、土蜘蛛と髑髏は関係が深い。
昆虫は頭部・胸部・腹部の3つの部位からなるが、蜘蛛は頭部と胸部の境がはっきりせず、頭胸部と腹部の2つの部位からなる。
昔の人は、蜘蛛とは頭部のない昆虫であると考えたのではないか。

また土蜘蛛とは謀反の罪によって斬首された人のことではないか。
私はこのように考えた。
すると首が飛んだという伝説が残る平将門は土蜘蛛だと考えられる。
江戸時代、六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛の精とは平将門の霊ではないだろうか。
②空也堂系六斎が芸能系六斎として発展した理由
かつて六斎念仏を行うためには干菜寺または空也堂で許可を得る必要があった。
空也が六斎念仏の祖とされているということは、①ですでに述べた。
干菜寺系六斎は念仏のみを行う念仏六斎、空也堂系は土蜘蛛や獅子などの芸能も行う芸能六斎である。
現在では芸能とは娯楽であるが、かつて芸能とは神事であった。
そう考えるとなぜ空也堂系が芸能六斎として発展したのかがわかる。

空也堂 千本六斎
平貞盛が鹿を殺したが、それは空也が愛していた鹿だった。
平貞盛は鹿を殺したことを悔やみ、空也を開基として開いたのが空也堂だとされる。
平貞盛とは朝廷に命じられて平将門討伐を行った人物である。
すると空也が愛し、平貞盛が殺した鹿とは平将門の比喩であると考えられる。
空也堂も六波羅蜜寺と同じく平将門を鎮魂するための寺なのだろう。
そして先ほども述べたように、鴨川のほとりで首が晒され、その首が飛んだという伝説が残る平将門は土蜘蛛であったといえる。
空也堂系六斎が土蜘蛛などを演じる芸能六斎として発展したのは、土蜘蛛という演目には平将門を鎮魂するという目的があったためではないだろうか。



六波羅蜜寺 節分豆まき
六波羅蜜寺・・・京都市東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町
土蜘蛛の謎⑮ 空也はなぜ南無阿弥陀仏と唱えながら十一面観音を彫ったのか? へつづく~
トップページはこちら→土蜘蛛の謎① 亀石伝説(追記あり)
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