空也堂の創建説話として次のような物語が伝えられている。 空也は毎夜鹿の鳴き声を聴くのを楽しみにしていたが、ある夜からばったりと鹿の声がきこえなくなった。 鹿は平定盛という猟師に殺されたのだった。 空也に諌められた定盛は殺生を悔い、空也の弟子となって空也堂を創建し、空也を空也堂の開基とした。 空也の没後、定盛は空也堂二世となった。
東大寺 鹿②トガノの鹿この創建説話は以前の記事・ 土蜘蛛の謎⑤ 蜘蛛の巣に住む観音でご紹介した「トガノの鹿」の物語にそっくりである。 仁徳天皇が皇后と涼をとっているとトガノの方から鹿の鳴き声が聞こえてきた。 天皇はその鹿の鳴き声をしみじみと聞いていたが、あるとき急に鳴き声がしなくなった。 翌日、佐伯部が天皇に鹿を献上したが、その鹿は天皇が夜な夜な鳴き声を聴くのを楽しみにしていた鹿だった。 気分を悪くした天皇は佐伯部を安芸の渟田に左遷した。
雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。 雌鹿は夢占いをして、 『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』 と答えた。 翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。空也堂の創建説話はこのトガノの鹿の物語をベースに創作されたものだろう。 ③空也が愛していた鹿とは平将門だった?かつて謀反の罪で殺された人には塩をふることがあり、この物語に登場する鹿とは謀反人の比喩だとする説がある。 そして空也と同時代、平定盛と一字違いの平貞盛という武将がいたが、空也堂には平貞盛焼き捨ての兜なるものが展示されていた。 ということは、平定盛と平貞盛は同一人物なのだろう。  空也堂 平貞盛 焼捨の兜平貞盛は藤原秀郷とともに平将門の乱平定のため東国へ向かっている。 将門はこの戦いの中で流れ矢にあたって死亡した。 空也は平将門を慰霊するために念仏道場を建てるなど、将門を慰霊することに情熱を注いだ人物だった。 空也堂の創建説話に登場する殺された鹿とは平将門のことだと考えられる。 ④空也忌は空也が東国へ旅立った日
空也堂 空也歓喜踊躍念仏
本来、空也忌は旧暦11月13日である。 空也堂では11月の第2日曜日に空也忌を行っている。 おそらく、ご住職の仕事の都合などがあって日曜日に空也忌を行っているのだろう。 といっても空也の命日が11月13日なのではない。 空也の命日は旧暦972年10月20日である。 旧暦11月13日に空也は東国へ旅立ち、この日を開山忌とするようにと遺言したのだという。 また、本当にこの日に空也が東国に旅立ったのかどうか疑わしい。 13日は虚空蔵菩薩の縁日である。 この虚空蔵菩薩の縁日を空也出立の日とした可能性が大である。 ⑤空也忌空也は誰でも「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば極楽浄土へ行けるととき、踊りながら南無阿弥陀仏と唱える踊り念仏を始めた。 これにちなみ、空也忌では空也歓喜踊躍(くうやかんぎゆやく)念仏が行われた。 また空也は京都の夏の風物詩・六斎念仏の祖ともされており、千本六斎会による六斎念仏の奉納もあった。  空也堂 六斎念仏 空也堂 六斎念仏
六斎念仏はひたすら念仏を唱え続ける念仏系と獅子・土蜘蛛などの演目を行う芸能系の二系統がある。 六斎を行うためには許可を得る必要があり、念仏系は干菜寺、芸能系はここ空也堂より許可を得ていた。 そののち、大福茶の授与があった。 空也が創建したと伝わる六波羅蜜寺では正月に皇服茶といって梅干しと結び昆布を入れたお茶を授与している。 951年、京の町に疫病が流行りった際、空也はに自ら十一面観音を刻み、念仏を唱えながら車に乗せてひきまわし、病人には皇服茶を飲ませたという。 大福茶も皇服茶もお「おうぷくちゃ」と読み関係の深いものだと思われる。 ただし、大福茶は抹茶で梅干しや結び昆布は入っていない。 小さな茶椀でひとりひとりに授与される大福茶のほかに、直径30cmはありそうな大きな茶椀にお茶が点てられ、集まった人々が回し飲みしていた。 ⑥空也像全ての行事が終わり帰りかけたところ、お寺の方が「御焼香、まだの方はどうぞ」と勧めてくださったので、厨子の前に進み出て焼香をした。 そして手を合わせながら厨子の中を見ると、厨子の中には口から6体のみほとけがほとばしりでる僧の像が安置されていた。 空也上人!! 作風は全く異なるが、六波羅蜜寺で見た空也像とスタイルが同じである。  六波羅蜜寺 空也像 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ae/Kuya_Portrait.JPG よりお借りしました。 作者 ASUKAEN [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
口からほとばしりでる6体のみほとけは「南無阿弥陀仏」の六文字を表すと言われる。 空也忌なのだから、空也を拝んでお焼香をするのは当たり前のことである。 しかし、空也堂は空也が愛していた鹿(平将門)を殺したことを悔いた平貞森が建てた寺だといわれているので 私は空也堂は平将門を鎮魂するための寺であり、厨子の中には十一面観音、阿弥陀仏などが平将門の怨霊封じ込めの像として安置されているものとばかり思っていたのだ。 ⑦空也とは平将門の首なのか?
膏薬図子 神田神宮(京に持ち帰られた平将門の首が晒された場所に立つ)六波羅蜜寺の十一面観音は951年に疫病が流行った際に空也が刻んだものと伝わっている。 その11年前の940年、平将門は平貞盛らに討ちとられ、その首は鴨川で晒された。 六波羅蜜寺は平将門の首が晒された場所から近く、951年の疫病流行時、鴨川は死体であふれかえったという。 951年の参事は平将門の怨霊の仕業であると考えられたのではないか。 そこで空也は将門の怨霊を封じ込めた十一面観音を刻んだのではないかと私は考えた。  六波羅蜜寺 追儺式に登場した土蜘蛛そして空也堂は平貞盛が鹿=将門の殺生を悔いて創建したものだという。 ということは空也堂のご本尊も平貞盛の霊を封じ込めた仏像だと考えられる。 空也像が平将門の霊を封じ込めた仏像だというのか? のちに調べたところ、この空也像は空也が自ら刻んだものと伝わっていることがわかった。 しかしこれは事実とは思えない。 六波羅蜜寺にも空也が刻んだと伝わる秘仏の十一面観音がある。 本で写真を見たことがあるが、空也堂の空也像とは全く作風が違うのだ。 空也は東国へ旅立つ際に、この日を開山忌にせよと遺言したという。 そして平将門の首は鴨川のほとりで晒されたのち、故郷の東国へ向かって飛び去ったという伝説があり 東京都千代田区には将門の首塚がある。 将門の首塚もしかして空也とは将門の首のことなのか? また空也忌は13日だが、④で述べたように、この日は虚空蔵菩薩の縁日である。 虚空蔵菩薩は金星を神格化したみほとけである。 記紀神話では金星の神は天津甕星、別名をカカセオといい、天照大神の芦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神とされている。 平将門はこの天津甕星にイメージがぴったりである。 空也が将門の首のことだとすると、なぜ空也忌が虚空蔵菩薩の縁日に行われているのかがわかる。 将門は虚空蔵菩薩のイメージに重ねられたのか? 空也堂・・・京都市中京区蛸薬師通油小路西入る亀屋町 (普段は拝観できないと思います。)
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[2017/03/31 10:47]
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土蜘蛛の謎⑭ 六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛 よりつづきます~ ①染殿地蔵
四条通寺町東入ル御旅宮本町に甘栗和菓子老舗・林万昌堂四条本店がある。 その店の奥にあるガラス戸を開けて一歩踏みこめば染殿院の境内である。 小さなお堂の傍らには「安産御腹帯 授與」と記されている。 染殿院のご本尊は2m余りの木彫裸形地蔵菩薩で、55代文徳天皇の皇后・藤原明子(染殿皇后)がこの地蔵菩尊に祈願して惟仁親王(のちの清和天皇)を授かったという伝説があり、「染殿地蔵尊」と呼ばれている。 藤原明子が地蔵菩薩に祈願して清和天皇を授かったという伝説は、染殿院のほか清和院・十輪寺、奈良の帯解寺にも伝わっている。 清和院 十輪寺
②染殿地蔵に惟喬親王のイメージ文徳天皇には惟仁親王のほか、紀静子との間に惟喬親王という皇子があった。 文徳天皇は惟喬親王を皇太子につけたいと考えて源信に相談したが、源信は藤原明子の父・藤原良房に憚って文徳天皇を諌めたという。 立太子争いに敗れた惟喬親王は御霊として惟喬神社や玄武神社・大皇器地祖神社 などに祀られている。  御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいう。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、疫病や天災は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていた。 惟喬親王が御霊として祀られていることは、惟喬親王が怨霊として恐れられていたとことを示していると思う。 「末代までも祟ってやる」などと言うが、怨霊は自らを陥れた人物だけでなく、その子孫にも祟ると考えられた。 藤原良房や藤原明子の子孫は惟喬親王の怨霊の祟りを怖れたことだろう。 陰陽道では怨霊は祀り上げることで人々にご利益を与えて下さる守護神に転じると考えた。 藤原良房や藤原明子の子孫は地蔵菩薩に惟喬親王のイメージを重ね、自分たちの守護神に転じさせようと考えたのではないかと思う。 清和院の地蔵菩薩には、惟喬親王のイメージが重ねられているのではないだろうか。 「地蔵菩薩が清和天皇を授けて下さった」というのは正しくは「地蔵菩薩=惟喬親王が身を引いてくださったおかげで惟仁親王が即位して清和天皇となった」という意味ではないかと思ったりする。 ③法然より200年も早く浄土教の教えを説いた空也本堂の向かって右手はビルとビルに挟まれた参道となっており、歩いていくと新京極通商店街に出る。 ふりかえってみると、ビルに挟まれた狭い空間に染殿院の出入り口が設けられており、「時宗開祖 一遍上人 念仏賦算遺跡」と記された石碑が立てられている。  染殿院は鎌倉時代には四条京極の釈迦堂と呼ばれ、時宗の開祖・一遍上人がここで念仏賦算、念仏踊りをしている。 一遍は各地を遊行して六字名号(南無阿弥陀仏)を記した念仏札を配り、弟子らを引き連れて各地で踊念仏を行った。 平安時代の僧・空也が「誰でも南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土へ行くことができる」と説き、踊りながら南無阿弥陀仏と唱える踊念仏を始めた。 一遍は尊敬する空也にならって踊り念仏を始めたのだという。 一遍聖絵を見ると、京都にやってきた一遍と弟子たちは四条釈迦堂・六波羅蜜寺・平安京の東市(現在の西本願寺付近)を訪れている。 六波羅蜜寺は空也を開基とする寺、東市は空也が市屋(いちや)道場を開いた場所であった。 一遍はその空也ゆかりの地で踊念仏を行ったのだ。 一遍聖絵 四条釈迦堂 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/Ippen_Biography_3.jpg よりお借りしました。 作者 En'i (円伊) (Tokyo National Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由でまた一遍聖絵を見ると四条釈迦堂は鴨川のほとりに建てられている。 現在の四条釈迦堂跡、染殿院は鴨川から少し離れたところにあるが、川の流れが変わったのだという。 一遍聖絵 四条釈迦堂 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Ippen_Biography_4.jpg よりお借りしました。 作者 En'i (円伊) (Tokyo National Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 平安時代、平将門の首は鴨川のほとりに晒されたというが、四条釈迦堂があったのはちょうど将門の首が晒されたあたりである。 一遍が四条釈迦堂で念仏札を配ったのは、そこが将門の首が晒された場所であったからではないだろうか。 膏薬図子 神田神宮なぜかあまり語られることがないが、空也は膏薬図子に平将門を慰霊するための念仏道場を設けるなど、地元住民に祟りつづける平将門の霊を熱心に慰霊した人物だったとされる。 一遍は平将門の霊を慰霊せねばならないと強い使命感を感じており、そのため将門を慰霊した空也を尊敬していたのかもしれない。 将門の首塚 そして東京の将門の首塚は時宗の進教上人によって慰霊されている。 時宗は平将門の慰霊に熱心な宗教だったようである。 ●空也はなぜ南無阿弥陀仏と唱えながら十一面観音を刻んだのか。しかし、疑問がある。 一遍は法然の孫弟子・聖達を師として浄土宗を学んでいる。 法然は「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行くことができる」と説いて1175年に浄土宗を開いた。 浄土宗の本尊はもちろん阿弥陀仏である。 951年、京の町に疫病が流行り鴨川は死体であふれかえるほどの惨状となった。 このとき空也はに自ら十一面観音を刻み、念仏を唱えながら車に乗せてひきまわしたという。 念仏とは南無阿弥陀仏と唱えることである。 そして空也は「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行ける」と説いて踊りながら念仏を唱える踊念仏を始めたという。 すると法然は空也の影響を受けたのかとも思われるが、法然が空也の影響を受けたという話は聞かない。 法然の孫弟子・聖達に浄土宗を学んで時宗を開いた一遍上人は空也を尊敬していたといわれているが。  六波羅蜜寺 空也像 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ae/Kuya_Portrait.JPG よりお借りしました。 作者 ASUKAEN [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で平安時代には阿弥陀仏信仰(浄土信仰)が流行ったが、それは一部の貴族のものであったとされる。 阿弥陀仏信仰が一般庶民のものとなったのは、一般に鎌倉時代の法然以降のこととされる。 空也が法然が浄土宗を開くより200年以上も前に、一般民衆に阿弥陀信仰を説いたとする無理があるのではないだろうか。 もちろん、空也は一般民衆に阿弥陀仏信仰を説いたが、時期尚早であった、と考えられなくもない。 しかし、それではなぜ空也は「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行ける」と説きながら、阿弥陀仏を刻まずに十一面観音を刻んだのだろうか。 六波羅蜜寺 秘仏の十一面観音に似せたみほとけが堂前に置かれている。南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏に帰依します、という意味だ。 南無阿弥陀仏と唱えるのならば、阿弥陀仏を刻むべきではないだろうか。 私は空也が南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行けると説いたというのは、史実ではないと思う。 もしも空也が本当にそう唱えたのであれば、十一面観音ではなく阿弥陀仏を刻んだはずだからである。 空也が南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行けると説いたというのは、のちの時代に創作された物語なのではないだろうか。 そうであるとすれば、なぜそのような物語が創作されたのだろうか。 染殿院・・・ 京都市中京区新京極通四条上ル中之町562
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[2017/03/27 13:46]
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土蜘蛛の謎⑬ 六波羅蜜寺にもあった土蜘蛛の塚 より続きます~ ①六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛
節分の日、私は追儺式を見るために六波羅蜜寺に出かけた。 中堂寺六斎会の方々が登場し、太鼓や鉦を打ち鳴らす。 六斎念仏とは念仏を唱えつつ太鼓や鉦を打ち鳴らすというもので、六斎念仏の祖は六波羅蜜寺の開基でもある空也とされる。 六斎念仏は念仏系の干菜寺系と芸能系の空也寺系の二派がある。 中堂寺六斎会は空也寺系で、お盆には壬生寺などで四ツ太鼓・土蜘蛛などの演目を行っている。 豆をぶつけて鬼を祓うというのが一般的な追儺式だが、六波羅蜜寺の本堂に現れたのは鬼ではなく土蜘蛛だった。 中堂寺六斎会の人々が鉦や太鼓を打ち鳴らし、僧侶が豆(?)を投げると、土蜘蛛は逃げていった。 江戸時代、六波羅蜜寺の住職が本堂と仏像の修理を行ったが、大変出来栄えが悪かった。 また土蜘蛛の精がたびたび現れて住職を悩ませていた。 そこで中堂寺六斎会の人々が鉦・太鼓を打ち鳴らして土蜘蛛を退散させた。という。 六波羅蜜寺の追儺式はこの故事にちなむものである。 ②平将門の鎮魂に情熱を注いだ空也六波羅蜜寺は951年に空也上人が開いた寺である。 この年、平安京では疫病が流行り鴨川は死体で溢れかえるほどの惨状となった。 そこで空也上人が自ら十一面観音を刻んで車にのせて市中を引き回し、また病人には仏前に献じたお茶を飲ませたという。 六波羅蜜寺 皇服茶 現在でも六波羅蜜寺では正月の三が日、参拝者に皇服茶を授与している。なぜかあまり語られることがないが、空也は平将門の鎮魂に情熱を注いだ人だった。 940年、平将門は東国で反乱をおこし、朝廷が派遣した平貞盛・藤原秀郷らの軍と戦って戦死した。 将門の首は京に持ち帰られて鴨川のほとりで晒された。 その首が飛び上がって鴨川を越え膏薬図子に落ち、近隣住民に祟ったたという伝説がある。 空也は将門の供養のため念仏道場をつくり毎日念仏をあげたところ、ようやく将門の首は祟らなくなったという。 膏薬図子の神田神宮 (京都)③六波羅蜜寺に表れた土蜘蛛の正体とは土蜘蛛とは記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことだが、土蜘蛛草紙には「源頼光らが空飛ぶ髑髏をつけていったところ土蜘蛛の巣があった」と記されており、土蜘蛛と髑髏は関係が深い。 昆虫は頭部・胸部・腹部の3つの部位からなるが、蜘蛛は頭部と胸部の境がはっきりせず、頭胸部と腹部の2つの部位からなる。 昔の人は、蜘蛛とは頭部のない昆虫であると考えたのではないか。  また土蜘蛛とは謀反の罪によって斬首された人のことではないか。 私はこのように考えた。 すると首が飛んだという伝説が残る平将門は土蜘蛛だと考えられる。 江戸時代、六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛の精とは平将門の霊ではないだろうか。 ②空也堂系六斎が芸能系六斎として発展した理由
かつて六斎念仏を行うためには干菜寺または空也堂で許可を得る必要があった。 空也が六斎念仏の祖とされているということは、①ですでに述べた。 干菜寺系六斎は念仏のみを行う念仏六斎、空也堂系は土蜘蛛や獅子などの芸能も行う芸能六斎である。 現在では芸能とは娯楽であるが、かつて芸能とは神事であった。 そう考えるとなぜ空也堂系が芸能六斎として発展したのかがわかる。 空也堂 千本六斎平貞盛が鹿を殺したが、それは空也が愛していた鹿だった。 平貞盛は鹿を殺したことを悔やみ、空也を開基として開いたのが空也堂だとされる。 平貞盛とは朝廷に命じられて平将門討伐を行った人物である。 すると空也が愛し、平貞盛が殺した鹿とは平将門の比喩であると考えられる。 空也堂も六波羅蜜寺と同じく平将門を鎮魂するための寺なのだろう。 そして先ほども述べたように、鴨川のほとりで首が晒され、その首が飛んだという伝説が残る平将門は土蜘蛛であったといえる。 空也堂系六斎が土蜘蛛などを演じる芸能六斎として発展したのは、土蜘蛛という演目には平将門を鎮魂するという目的があったためではないだろうか。 六波羅蜜寺 節分豆まき六波羅蜜寺・・・京都市東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町
土蜘蛛の謎⑮ 空也はなぜ南無阿弥陀仏と唱えながら十一面観音を彫ったのか? へつづく~ トップページはこちら→ 土蜘蛛の謎① 亀石伝説(追記あり)
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[2017/03/25 12:12]
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土蜘蛛の謎⑫ 蛙は髑髏をあらわしている? より続きます~ ①六波羅蜜寺型燈籠
図書館で 六波羅蜜寺に関する古い本を借りた。 その本の中に六波羅蜜寺型燈籠の写真があった。 私は実際にその六波羅蜜寺型燈籠を見てみたいと思い、六波羅蜜寺を訪ねた。  六波羅蜜寺は951年に空也上人が開いたとされる寺で、かつて鳥辺野の風葬地だった場所にある。 このとき、京都は疫病が大流行し、鴨川は死体で溢れ返るほどの惨状であったという。 そこで空也上人は自ら十一面観音を刻み、念仏を唱えながら車に乗せてひきまわし、病人には梅干しと結び昆布の入ったお茶を飲ませて人々を救済したと伝わっている。 六波羅蜜寺 皇服茶 現在でも六波羅蜜寺では正月の三が日、参拝者に皇服茶を授与している。その後、この六波羅蜜寺付近には平家一門が棲みつき、平家の邸宅が立ち並ぶようになった。 しかし平家滅亡のとき、平家自らが放った火によって焼野原となり、六波羅蜜寺の本堂のみが焼け残ったという。 本堂にあがると厨子があり、その手前に金色に輝く御前立が置かれてあった。 この厨子の中に空也が刻んだとされる十一面観音が安置されているのだが、辰年のみ開帳される秘仏でそのお姿を拝むことはできなかった。 宝物館には素晴らしい仏像彫刻が多く安置されていた。 その中には 空也上人像や僧形の 平清盛像もあった。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ae/Kuya_Portrait.JPG よりお借りしました。 作者 ASUKAEN [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 空也の口からほとばしりでる六体の小さなみほとけは『南無阿弥陀仏』の六字を示しているそうである。 宝物館を拝観したのち、私はくまなく境内を探したが、六波羅蜜寺型燈籠は見つからなかった。 境内はそう広くはないので、見落としはないと思う。 図書館で借りた本には「江戸時代につくられたもので、価値のあるものではないと思われる」と書いてあった。 たいして重要なものではないということで、撤去されてしまったのかもしれない。 ②東向観音寺の土蜘蛛の塚 参道を多くの人が行きかっているが、ほとんどの人はそこに寺があることなど気にも留めずに通り過ぎていく。 東向観音寺の境内には舞妓さんがひとりいるだけでひっそりとしていた。 しかし、ここには有名な『土蜘蛛の塚』があり、オカルトファン必見の名所なのである。 本堂の向かって左の奥まったところに小さい祠が作られていて、中に燈籠の火袋が納められていた。 これが『土蜘蛛の塚』である。 東向観音寺 土蜘蛛の塚↑ 上の写真は東向観音寺にある『土蜘蛛の塚』である。 東向観音寺の『土蜘蛛の塚』は清和院前にあった蜘蛛塚が発掘調査した際に出土した燈籠の火袋である。 清和院③蜘蛛は頭部のない昆虫?なぜ燈籠の火袋が『土蜘蛛の塚』とされたのだろうか。 昆虫は頭部・胸部・腹部の3つの部位から構成されている。 一方、蜘蛛は頭部と胸部の境がはっきりしておらず、頭胸部と腹部の2つの部位から構成されている。 古の人々は蜘蛛とは頭部のない昆虫だと考えていたのではないか。  ④土蜘蛛は謀反の罪で斬首された人?土蜘蛛草子には、「飛行する髑髏のあとをつけていったところ土蜘蛛の巣があった」と記されており、土蜘蛛と髑髏は関係が深そうに思われる。 まつろわぬ民・土蜘蛛とは謀反の罪で斬首された人のことではないか。 ⑤鉢はドクロを表す?蘇我入鹿・玄昉らの首が飛んだという伝説があるが、『鉢合わせ』『鉢巻き』などのように頭のこと鉢と表現することがある。 信貴山縁起絵巻には飛行する鉢の物語が記されているが、これは飛行する髑髏を比喩的に表現したものではないだろうか。 多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)刀を持っているのが中大兄皇子、首を斬られているのが蘇我入鹿。
そして東向観音寺にある土蜘蛛の塚と呼ばれている燈籠の火袋は笠の部分が鉢に似ている。 この鉢に似た火袋の笠が、土蜘蛛の頭部を思わせるため、東向観音寺にある燈籠は『土蜘蛛の塚』と呼ばれているのではないだろうか。 本で見た六波羅蜜寺型燈籠は笠の部分がやはり鉢のように丸い形をしていた。 それで六波羅蜜寺型燈籠とは土蜘蛛の塚なのではないかと私は考えたのだ。 ⑥六波羅蜜寺は平将門を供養する寺?
私が六波羅蜜寺型燈籠を『土蜘蛛の塚』だと考えたのは、燈籠の火袋の笠の部分が鉢のような形をしているというだけではない。 さきほど私は六波羅蜜寺は空也が開いた寺だと書いたが、空也は阪急烏丸駅近くにある膏薬図子に平将門を慰霊するための念仏道場をたてている。 神田神宮 (京都)なぜかあまり語られることがないが、空也は平将門の怨霊鎮魂に情熱を注いだ人だったのである。 951年、疫病が流行って鴨川は死体で溢れかえるような惨状になったというが、940年、平将門の首は鴨川のほとりの六波羅蜜寺からほどちかい場所で晒されている。 鴨川人々は951年の疫病の流行を平将門の怨霊の仕業であると考えたのではないだろうか。 そして空也は膏薬図子に平将門を慰霊するための念仏道場を建てたのと同じく、平将門を慰霊するために六波羅蜜寺を創建したのではないかと思うのである。 ⑦平清盛の先祖・平貞盛とトガノの鹿その後、六波羅蜜寺周辺に平家の館が建ち並ぶようになった。 六波羅蜜寺は鳥辺野の風葬地にあって、邸宅を構えるのにいい立地であるとはいえない。 それなのに平家はなぜ六波羅蜜寺周辺に館を建てたのだろうか。 平清盛は伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男である。 伊勢平氏は平貞盛の四男・平維衡より始まるのだが、平貞盛は朝廷に命じられて平将門の乱を鎮圧した人物である。 空也堂に伝わる伝説によれば、平貞盛は空也が愛していた鹿を殺したことを悔い、空也の弟子となり、空也堂を創建したという。 空也堂 空也踊躍念仏日本書紀にトガノの鹿という物語がある。 雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。 雌鹿は夢占いをして、 『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』 と答えた。 翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。
東大寺 奈良の鹿謀反の罪で殺された人は死体に塩が振られることがあり、雄鹿は謀反の罪で殺された人を比喩したものではないかとする説がある。 空也が愛していた鹿とは平将門のことで、平貞盛は将門を殺したことを悔いたということだろう。 六波羅蜜寺を創建したのは空也だが、平貞盛が資金援助などを行ったのではないだろうか。 そしてその後、平貞盛の子孫である伊勢平氏が六波羅蜜寺やその周辺の土地を相続したのではないかと思う。 ⑧祇園には平将門に対する信仰があった?
六波羅蜜寺の近くに祇園と呼ばれる花町がある。 祇園の置屋さんやお茶屋さんでは『笑門』と記した札をつけた注連縄を1年中飾る習慣がある。  祇園には八坂神社があるが、八坂神社では7月の祇園祭の際に『蘇民将来子孫也』と記したお札を授与している。 この『蘇民将来子孫家門』を略すと『将門』となり、逆賊とされる平将門に通じるので、『笑門』になったとする説がある。 八坂神社 節分祭祇園は平将門の首が晒された場所に近く、人々は平将門の怨霊をおそれていたことだろう。 そのため陰である『将門』を語呂合わせで陽である『笑門』とかえ、注連縄に記して飾っているのではないだろうか? 伊勢地方でも同様の注連縄を飾る習慣があるそうだが、それは伊勢が平貞盛の四男・平維衡より始まる伊勢平氏の土地であるためではないだろうか。 祇園には平将門に対する信仰があったと私は思う。 そしてその信仰の拠点はもちろん六波羅蜜寺である。 六波羅蜜寺・・・京都市東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町
土蜘蛛の謎⑭ 六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛 へつづく~ トップページはこちら→土蜘蛛の謎① 亀石伝説(追記あり)
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[2017/03/24 00:00]
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土蜘蛛の謎⑪ なぜ将門の首塚には蝦蟇が供えられているのか。 より続きます~ ①蛙飛行事
7月7日、吉野の金峯山寺・蔵王堂で蓮華会が行われる。 吉野の町を「えーらいやっちゃ、えーらいやっちゃ」という掛け声とともに、太鼓台が練り歩く。 太鼓台には蛙の着ぐるみを着た人が乗っていた。 その後、蔵王堂前に設置された通路の上を山伏さんたちや、蓮の花の入った桶を持つ人などが歩いていった。 この蓮は役行者が産湯をつかったと伝わる奥田の捨篠池で摘んだもので、金峯山寺の蔵王権現に供えられる。 そののち、蛙飛び行事が行われた。 蛙飛び行事は次のような伝説に基づくものである。 蔵王権現に暴言をはいた男を、大鷲がくわえて飛び立ち断崖絶壁の上に置き去りにした。 男は蔵王権現に暴言をはいたことを反省していたので、金峯山の高僧が法力で男を蛙に変えた。 蛙になった男は断崖絶壁から無事飛び降りることができ、蔵王権現の前で修法をして人間に戻された。この伝説にちなみ、蛙の着ぐるみを着た人が四つん這いになってぴょんぴょんと跳ね、僧侶より法要を受けると着ぐるみの頭部をとって顔を出した。 これは男が蛙から人間に戻ったことを表しているのだろう。 ②蛙飛行事と飛行するドクロ私はこれを見て、蘇我入鹿・玄昉・平将門らの首(ドクロ)が飛んだという伝説を思い出した。 私は飛鳥の亀石は妖怪ぬらりひょんの頭部にそっくりだと思う。 上の写真は飛鳥の亀石と京都の大将軍商店街(妖怪ストリート)に置かれてあったぬらりひょんの人形だが、眉間に半月形の皺があるところまでそっくりである。 飛鳥の亀石は髑髏を表したものなのではないだろうか。 ③平将門の飛んだ首伝説とガマの置物飛んだ首(ドクロ)伝説でもっとも有名なのは、平将門だろう。 将門の首は京で晒されていたのだが、飛びあがり、故郷に戻って落ちたというのである。 将門の首が落ちたとされる場所は、将門の首塚がつくられており、ガマ(蛙)の置物が置かれている。 将門の首塚(東京都)
将門の首塚にはガマの置物を奉納する習慣があるという。 (私が参拝したときは管理者が設置したと思われるガマの置物があるのみだったが。おそらく奉納されたたくさんのガマの置物は撤去したのだろう。) ガマが奉納されるのは将門の首が京から故郷へ戻ってきたという伝説にちなみ「無事帰る(蛙)」の語呂合わせからであると言われている。 しかし私はそうではなく、蛙とは髑髏を表しており、将門が髑髏の神であるところから蝦蟇の置物が奉納される習慣が生じたのではないかと思う。 飛鳥の亀石は亀ではなく蛙を象ったものではないかとも言われている。 私は飛鳥の亀石は髑髏を象ったものだと考えているが、蛙の手足をとるとドクロのようにも見える。 ④蛙飛行事は飛行するドクロを表している?蛙飛行事は飛行する髑髏を表したものなのではないだろうか。 将門の首は京から江戸まで飛行している。 それに対して蛙飛び行事ではぴょんぴょんと飛び跳ねているだけだ、といわれるかもしれない。 しかし、飛行する首には様々なバージョンがある。 玄昉の首は将門の首のように長距離を飛行しているが、蘇我入鹿の首は斉明天皇の御簾の前で斬られ、その後斉明天皇の御簾に食らいついたとされ、長距離を飛行していない。 多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)刀を持っているのが中大兄皇子、首を斬られているのが蘇我入鹿。⑤小野道風と蛙小野道風にまつわる蛙の伝説がある。 蛙は柳に飛びつこうとして何度も失敗するが、偶然強い風が吹いて柳の枝が大きくしなり、ついに柳に飛びつくことができた。 これを見て道風はどんなことも努力すれば必ず叶うと悟ったといい、花札の絵柄にもなっている。 この蛙もまた髑髏を比喩したものであるのかもしれない。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/79/Ono_no_Tofu%2C_by_Suzuki_Harunobu%2C_Edo_period%2C_18th_century_-_Tokyo_National_Museum_-_DSC06242.JPG よりお借りしました。 作者 Daderot (投稿者自身による作品) [Public domain または CC0], ウィキメディア・コモンズ経由で
⑥脳天大神と狛蛙
蛙飛び行事を見たのち、付近をうろついていると、「脳天大神→」と記された道標を見つけた。 「脳天大神」という名前に興味を持った私は、脳天大神を参拝しようと→が示す方向へ向かっていった。 脳天大神は龍王院という金峯山寺の塔頭で、蔵王堂より谷へ下った場所にあった。 そしてそこにはなんと狛犬ならぬ狛蛙が置かれていたのである。 脳天大神は金峯山寺の塔頭で、昭和26年に開かれた。 終戦後、澄大僧上が女人の行場として金龍王の滝を開いた際、頭を割られ、目が飛び出した大蛇が死んでいるのを見つけ、その大蛇を祀ったのだという。 大蛇は「脳天大神としてまつられたし、首から上のいかなる難病苦難も救うべし。」と告げたといい、「首から上の守り神」として信仰されている。 ⑦蛇の神を祀っているのに、なぜ狛蛙が置かれているのか?蛇の神を祀っているのに、なぜ狛蛙が置かれているだろうか? 喜光寺 宇賀神
上の写真は喜光寺の宇賀神である。 私はこれを見て、「昔の人は、蛇とは胴体がなく頭に長い首がついた動物だと考えていたのではないか」と思った。 すると、蛙も蛇もドクロを表すものだと考えられる。 脳天大神が祀られるようになったのは、昭和26年と比較的新しいが、吉野山の蔵王堂では7月7日に伝統行事である蛙飛び行事を行っている。 このことは、吉野山において古くより蛙が神聖視されていたことを意味している。 そして脳天大神に祀られた大蛇は単なる動物霊ではなく、蔵王権現の化身であるとされる。 つまり蔵王権現とはドクロの神だったのである。 ⑧浄蔵が水に落とした鉢以前の記事 土蜘蛛の謎⑨ 清蔵、鉢を飛ばす において、私は京都の蔵王堂光福寺の創建説話をご紹介した。 浄蔵が吉野山大峰山での修行を終え帰る際に、蔵王権現が現れて「私を連れて帰ってほしい」とおっしゃった。 浄蔵が権現を背負うと権現は木像となった。 浄蔵は桂川の畔で持っていた鉢を水に落としてしまった。 その鉢は川を遡り、北に向い岸で止まった。 浄蔵が背負ってきた蔵王神像はこの地から動かなかった。 そこで浄蔵貴所はここに堂宇建て、霊像を安置し本尊とした。蔵王堂光福寺という寺名は吉野の蔵王堂からとったものだと考えられる。 頭のことを鉢ということがあり、浄蔵が落とした鉢とは髑髏を比喩したものではないかと私は考えたのだが 首から上の守り神として信仰されている脳天大神が蔵王権現の化身であるということは、「鉢=頭を比喩したものである」という説を裏付けると思う。 金峯山寺蔵王堂・・・奈良県吉野郡吉野山 蓮華会・・・7月7日 脳天大神(龍王院)・・・奈良県吉野郡吉野町吉野山2498
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[2017/03/23 00:11]
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①豊洲の汚染水は飲むわけではないので問題がない。 ②メディアが小池都知事をもちあげている。 ③石原慎太郎氏に責任はない。 ④小池都知事は豊洲移転を遅らせることで、風評被害を広げ、豊洲の莫大な維持費を無駄にしている。ネット上でこのような意見をよく見かけますが、私は意見が違います。 (い)豊洲のベンゼンは地下水ではなく、空気が問題なのでは?豊洲の地下水は飲み水の環境基準の100倍を上回るベンゼンが検出されました。 もちろん、この地下水は飲むわけではありません。 排水基準も超えていますが、排水基準にまで浄化して排水すれば問題がないということは、多くのジャーナリストがおっしゃっています。 確かに地下水の汚染そのものは問題がないと思います。 しかし、ベンゼンは気化しやすいと聞きました。 土壌や地下水に含まれるベンゼンが気化して空気を汚染しないのでしょうか? ある専門家は「気化すると大気に紛れて薄くなるので大丈夫」と言っていました。 別の専門家は「気化すると大気に紛れて薄くなるというレベルのベンゼンの量ではない」と言っていました。 どちらが正しいのでしょうか? 飲み水や排水に基準値があるように、大気中に含まれるベンゼンの量にも環境基準があります。 豊洲は水ではなく、空気が問題なのではないでしょうか? (ろ)なぜ都の説明は実際と違っていたのか?豊洲の問題は汚染された地下水のほか、都の説明と実際が異なっていたという点があります。 なんかこの問題を軽く見ている人が多いなあと感じます。 全く無視されているジャーナリストもいますね。 しかし、これは大きな問題であると私は思います。 いうまでもないことですが、東京都は都民の税金で豊洲市場を作っているわけですから、都民には真実を話さなければならないはずです。 今回の件で、東京都は都民の信頼を大きく失ったといえるでしょう。 このような都の体質を改善するためにも、百条委員会が開かれたのはよいことだと思います。 石原慎太郎さんの健康状態をあげて、このような健康状態であるのに証人喚問を行うのはひどい、という方もいます。 しかし百条委員会にでられないような健康状態なのであれば、医師に診断書を書いてもらうなどの方法もあります。 別に私は石原さんが悪いというつもりはないです。 ただ、元都知事としてきちんと説明するべきだとは思います。 もちろん、豊洲の維持費が無駄にかかっていることも問題ではあります。 小池知事も豊洲移転を決断できない理由を、きちんと説明されるべきだと思います。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 訪問ありがとうございました! にほんブログ村
[2017/03/21 18:30]
つれづれなるままに |
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土蜘蛛の謎⑩ 蜂となって飛び去った執金剛神 よりつづきます~ ①神田明神元社と神田神宮
神田神宮 (京都)2007年、私は京都烏丸駅近くにある膏薬図子と呼ばれる小路を訪れた。 車一台がようやく通れるくらいの小路の両側には町屋が並んでいる。 この町屋の中の一軒の民家の壁に塗り込められるように小さな祠があり、「史跡 神田神宮 天慶年間、平将門ノ首ヲ晒シタル所ナリ」と記された札がかけられていた。 祠の下には石があり、やはり壁に塗り込められていた。 『拾遺都名所図会~』には『空也上人は将門の亡霊をここに供養し、石を置いて目印にした』と記されている。 壁に塗りこめられた石は空也上人が置いたと伝わる石なのかもしれない。 神田明神 (東京)東京都千代田区外神田に平将門を御祭神とする神田明神がある。 膏薬図子の小さな祠は東京の神田明神の元社とされている。 この後、神田神宮は2010年に改修工事が行われた。 改修工事後は参拝していないのだが、祠は民家の中に移設され、壁に塗り込められていた石とともに祀られているそうである。 また祠の下には石でつくったガマの置物が置かれているとのことだ。 ②飛行した平将門の髑髏神田明神とは平将門のことである。 939年、平将門は乱をおこし(平将門の乱)を起こし、関東に独立国を作り『新皇』を名乗った。 翌940年、朝廷が派遣した平貞盛・藤原秀郷らが率いる軍と将門軍は争い、この戦いの中で平将門は流れ矢を受けて死亡した。 平将門の首は京に持ち帰られ、四条大橋の東(現在の南座の南あたり)にあった公孫樹の木に掛けて晒された。 ところが数日後、将門の首は鴨川を越えて西へと飛び、膏薬図子に落ちた。 将門の首はことあるごとに祟り、住民たちは将門の祟りに怯えていた。 そこで空也上人が将門の首が落ちた場所に念仏道場をたて、毎日念仏をあげた。 そうすることで、将門の祟りはやっとおさまった。 空也道場はのちに訛って膏薬道場と呼ばれるようになった。膏薬図子という地名はここからくるとされる。 その後、将門の首は胴体を求めて膏薬図子からさらに東の空へ飛び去り、千代田区大手町あたりに落ちた。
現在その地には将門の首塚(将門塚)がある。 将門の首塚(東京都)将門の首はここでも祟り、天変地異を引き起こすなどして人々を恐れさせた。 そこで時宗の遊行僧・進教上人が慰霊し、1309年に神田明神に奉祀したとされる。 将門の首塚には京都の神田神宮と同様、ガマの置物が置かれている。 平将門には滝夜叉姫という娘がいたという伝説もある。 滝夜叉姫は筑波のガマの毒気にあたり、追討された父・将門の仇を討つために、夜叉丸、蜘蛛丸らの妖怪を手下とし、朝廷に対して乱を起こしたが、多田満仲の家臣・大宅光圀(おおやみつくに)に退治された。将門とガマは関係が深いようだ。 ③「無事帰る=蛙」の語呂合わせ②で私は「将門の首塚には京都の神田神宮と同様、ガマの置物が置かれている。」と書いたが、改装前の京都の神田神宮にはガマの置物は奉納されていなかった。 「東京の将門の首塚にガマの置物を奉納する習慣があったので、京都の神田神宮を改装した際、祠の下に石で作ったガマの置物を置いた。」というのが正しい。 東京の将門の首塚にガマの置物を奉納する習慣が生じたのはなぜなのだろうか。 将門の首は京から故郷へ帰ってきたので「無事帰る=蛙」の語呂合わせから蝦蟇の置物が奉納されているのだと一般的には説明されている。 そこで大手町のビジネスマンの中には転勤になったとき、また戻ってこれるようにと将門塚を参拝したり、蝦蟇の置物を奉納する人もいるそうだ。 私が将門の首塚を参拝したときにも、ひっきりなしにビジネスマンがやってきては線香をあげていた。 ④平将門は土蜘蛛だった?
六波羅蜜寺 節分狂言 土蜘蛛しかし蝦蟇が『無事帰る=蛙』を意味しているとすると、滝夜叉姫が筑波の蝦蟇の毒気にあたったという伝説の意味がわからなくなってしまう。 私は「無事帰る=蛙」という語呂合わせは後付だと思う。 将門の首塚に蝦蟇の置物を奉納する理由は、これとは別の意味があったのだが、長い年月の間に蛙を奉納する意味がわからなくなってしまったのではないだろうか。 先に述べたように、平将門の首が飛んだという伝説があるが、『土蜘蛛草子』には「空飛ぶ髑髏のあとをつけていくと土蜘蛛の塚があった」としている。 また滝夜叉姫が手下としていた妖怪のひとりは蜘蛛丸という名前であった。 平将門は土蜘蛛なのではないか。 土蜘蛛とは記紀や風土記に登場する「まつろわぬ民」のことであるが、朝廷に従わず独立国を作った平将門もまた「まつろわぬ民」だといえる。 ⑤亀石は蛙でドクロを表す?奈良県明日香村にある亀石は亀を象ったものではなく、蛙を象ったものだとも言われている。 たしかに亀石は手足をとった蛙のようにも見える。 そして亀石は妖怪ぬらりひょんの頭部にそっくりである。 妖怪ぬらりひょん (大将軍商店街 妖怪ストリート)私は亀石はドクロを象った石だと思う。 そして亀石は亀ではなく蛙を象ったものだという説があるが、蛙(ガマ)はドクロを表す隠語だったのではないだろうか。 とすれば将門塚にガマの置物が奉納されているのは、将門がドクロの神であるからだと考えられる。 このように考えると、滝夜叉姫が毒気にあたった筑波の蝦蟇の正体は、京から飛んで戻ってきた将門のドクロだということになる。 神田明神元社・・・京都市 下京区 綾小路通西洞院東入
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[2017/03/19 20:42]
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土蜘蛛の謎⑨ 清蔵、鉢を飛ばす より続きます~  ①不空羂索観音は志貴皇子の本地仏。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ATodaiji_Monaster_Fukukensaku_Kwannon_of_Hokkedo_(232).jpg よりお借りしました。 作者 Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition 以前の記事、 土蜘蛛の謎⑤ 蜘蛛の巣に住む観音 の中で、私は三月堂のご本尊・不空羂索観音について次のように述べた。 「蜘蛛の巣のような光背を背負い、手には羂索を持つ羂索堂の本尊・ 不空羂索観音。 手に持つ羂索を投げる姿を想像すれば、まるで狂言や六斎念仏で演じられる土蜘蛛のようである。 また肩には謀反人のイメージを持つ鹿のケープを身に着けている。 この不空羂索観音はまつろわぬ民・土蜘蛛=志貴皇子の怨霊を封じ込めた像なのではないだろうか。」と。 私は「不空羂索観音とは土蜘蛛=志貴皇子の怨霊封じ込めの仏像ではないか」と述べたが、これは「不空羂索観音は志貴皇子の本地仏ではないか」というのと同じである。 日本では古より神仏を習合して信仰してきたが、そのベースになった考え方として本地垂迹説があった。 本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教のみほとけが衆上を救うために仮にこの世に姿を現したものである。」とする考え方のことで、日本古来の神々のことを権現または化身、仏教のみほとけのことを本地仏といった。 たとえば天照大神の本地仏は大日如来であるとか、菅原道真は十一面観音の化身であるなどとして、神仏は習合されていた。 
東向観音寺 「天満宮御本地佛 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真は十一面菩薩の化身である」というような意味です。②神と怨霊は同義語だった。十一面観音の化身とされる菅原道真は怨霊としてしられている。 道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、その数年後、失意のうちに亡くなった。 道真の死後、京では疫病が流行り、天変地異が相次いだ。 そしてこれらは道真の怨霊の仕業であると考えられたのである。 古には神と怨霊は同義語であった、と言われる。 これは「怨霊は神として祀り上げると守護神に転じる」という考え方からくるものだろう。 この考え方は、陰が極まれば陽に転じるとする陰陽道の考え方の影響を受けたものだと考えられる。 怨霊として恐れられていた菅原道真が、現在では学問の神として信仰されているのはそのためである。 ③基皇子の死は志貴皇子の怨霊の仕業? 土蜘蛛の謎⑤ 蜘蛛の巣に住む観音 で述べたように、志貴皇子は715年に暗殺されて1年近くその死が伏せられていたと考えられる。 727年、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた基皇子は生後1年足らずで夭逝した。 聖武天皇と光明皇后は基皇子の菩提を弔うために金鐘寺を創建した。 聖武天皇と光明皇后は基皇子の死を志貴皇子の怨霊の仕業であると考えたのではないだろうか。 そこで怨霊である志貴皇子を神として祀り上げ、さらに神仏習合で志貴皇子をみほとけの姿に転じたのが不空羂索観音ではないかと私は思う。 ④土蜘蛛は陰、不空羂索観音は土蜘蛛を陽に転じたみほとけ?狂言や六斎念仏の土蜘蛛は、糸をまき散らして相手をがんじがらめにする。 一方、不空羂索観音は手に持った羂索で人々を救うとされている。 蜘蛛の糸と羂索はよく似ているが、蜘蛛の糸は人を捕える罠、羂索は人を救うありがたいものということで、全く性質が異なっている。 蜘蛛の糸は陰、羂索は陽。 土蜘蛛は陰で不空羂索観音は土蜘蛛を陽に転じたものだと思うのだ。  千本閻魔堂狂言 頼光と土蜘蛛
⑤蜂=鉢=髑髏という謎々この不空羂索観音の後ろの厨子に秘仏の執金剛神(しゅこんごうじん)が安置されている。 この執金剛神には次のような伝説がある。 940年、平将門の乱がおこったとき、執金剛神の前で将門誅討の祈祷を行った。 すると執金剛神の髻が大きな蜂となって東方へ飛びさり乱を平定した。 そのため、執金剛神には髻の元結紐の端が決失している。執金剛神の髻は蜂になったというが、これは蜂=鉢=頭(ドクロ/頭のことを鉢ということがある。)という謎々ではないか。  執金剛神 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/Vajirapani_Shukongoshin_Todaiji.JPG よりお借りしました。 作者 The Institute of Art Research Tokyo [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で ⑥飛ぶドクロ伝説蘇我入鹿や玄昉の首が飛んだという伝説がある。 土蜘蛛の謎② 土蜘蛛とは首のない人間のことだった? で述べたように、土蜘蛛とは謀反の罪で斬首された人の首のことだと私は考える。 蘇我入鹿や玄昉は土蜘蛛であったのだ。 多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)刀を持っているのが中大兄皇子、首を斬られているのが蘇我入鹿。髻が蜂=鉢=頭(どくろ)になって東方へ飛び去ったという執金剛神もまた土蜘蛛だということになる。 不空羂索観音とちがい、執金剛神の姿には土蜘蛛のイメージはないが、蜂=鉢=髑髏が飛んだという伝説が執金剛神とは土蜘蛛であることを物語っている。 おそらく執金剛神が志貴皇子の怨霊封じ込めの仏像なのだろう。 執金剛神が秘仏とされ厨子の中におさめられているのは、志貴皇子の怨霊が外に出て暴れないようにするためだと思う。 伝説では執金剛神の髻が蜂になったとし、執金剛神そのものが厨子の中から出て蜂になったとはしていない点に注意したい。 東京都千代田区にある将門の首塚 京から飛びかえった将門の髑髏がここに落ちたという。
●土蜘蛛をもって土蜘蛛を制すそして執金剛神が平定した平将門の乱の首謀者、平将門もまたその首が飛んだという伝説がある。 平将門もまた、土蜘蛛であったのだ。 つまり執金剛神=志貴皇子という土蜘蛛が、平将門という土蜘蛛を退治したということである。 毒をもって毒を制すというが、土蜘蛛をもって土蜘蛛を制したわけだ。 土蜘蛛を制するためには土蜘蛛を、怨霊を制するためには怨霊を用いるべしというような信仰があったのだろう。 五箇山 村上家住宅に展示されていた鬼門除け 小さな髑髏でした。(猿の髑髏?)※東大寺・・・奈良市雑司町 土蜘蛛の謎⑪ なぜ将門の首塚には蝦蟇が供えられているのか。 へつづきます トップページはこちら→ 土蜘蛛の謎① 亀石伝説(追記あり)
[2017/03/15 21:30]
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土蜘蛛の謎⑧ 空飛ぶ鉢の正体 よりつづきます~ 蔵王堂光福寺 久世六斎 祇園囃子①蔵王堂興福寺創建説話日が暮れてすっかり暗くなった蔵王堂光福寺。 そこへ浴衣を着た人々が次々にやってきては舞殿の前に設けられたベンチに腰掛けていく。 やがてドーン、ドーンと催し太鼓の音がして久世六斎会による六斎念仏が始まった。 蔵王堂光福寺は955年に浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)を開基として建立された寺院で、次のような創建説話が残されている。 955年、浄蔵が吉野山大峰山での修行を終え帰る際に、蔵王権現が現れて「私を連れて帰ってほしい」とおっしゃった。 浄蔵が権現を背負うと権現は木像となった。 浄蔵は桂川の畔で持っていた鉢を水に落としてしまった。 その鉢は川を遡り、北に向い岸で止まった。 その地が現在の蔵王堂の東の川である。 その地には円い光が輝いており、弁財天女の霊場であった。 浄蔵が背負ってきた蔵王神像はこの地から動かなかった。 夜、西に丈六のナギが生えて明天老翁が現れて言った。 「この地が医王弁財天女の影向(神仏が仮の姿をとって現れる)の地である。」と。 そこで浄蔵貴所はここに堂宇建て、霊像を安置し本尊とした。吉野山の金峯山寺には蔵王権現を祀る蔵王堂がある。 蔵王堂光福寺という寺名は吉野の蔵王堂からとったものだと考えられる。 金峯山寺 蔵王堂 ②鉢と縁の深い浄蔵蔵王堂光福寺の創建説話に鉢が登場するが、浄蔵が托鉢の鉢を飛ばしたという伝説もある。 浄蔵は比叡山で修業をしていたとき、験力で目には見えない護法童子に鉢を持たせて飛ばせ、食べ物を集めさせていた。 この術は飛鉢法といい、護法童子の姿は人には見えないのでまるで鉢が飛んでいるように見えた。 あるとき護法童子が空っぽの鉢を持ち帰るということが三日続いた。 北の山から飛んでくる別の鉢が食べ物を奪い去っていたのだった。 浄蔵は自分の鉢に、別の鉢を追わせた。 すると清水が流れ、松の生えた場所に方形の草庵があり老僧が読経をしていた。 浄蔵が老僧に自分がここへやってきた事情を説明した。 浄蔵の鉢から食べ物を奪っていたのは老僧が使役していた天童だった。 老僧は天童をを諌め、また別の天童を呼んで梨をもってこさせた。 浄蔵は梨を食べるとたちまち疲れがとれた。 どうも浄蔵は鉢と縁が深い人物のようである。 ③浄蔵は八とも縁が深い
浄蔵は文章博士だった三善清行の八男とされる。 また八坂の塔が傾いたのを法力で真っ直ぐに直したという伝説もあり、八と縁が深い。 八坂の塔 ④八は復活を意味する数字?梅原猛氏は八は復活を意味する数字だとしておられる。 八角堂や八角墳は死者の復活を願って作られたものであるというのである。 壺阪寺 八角円堂 法隆寺 夢殿そういえば、浄蔵が一条戻橋でつかのま父親を生き返らせた(復活させた)という伝説もある。 一条戻橋⑤『七転八起』とは、七で死んで八で復活するという意味?なるほど、梅原氏のように考えれば辻褄があう言葉がたくさんある。 例えば『七転八起』という言葉がある。 七度転べば起きるのも七度である。それなのに、なぜ八起なのか。 人が死んだ際の法要は七日ごとに行うので、七は死をあらわす数字だと思う。。 そして『七転八起』とは、七で死んで八で復活するという意味ではないだろうか。 ⑥八咫鏡は死んだ天照大神を復活させた鏡?
また『八咫鏡』とは天岩戸に籠もった天照大神を岩戸から出すのに用いられた鏡のことだが、 天岩戸に籠るとは、死んで石室に葬られているイメージがある。 死んだ天照大神を復活させた鏡なので、復活を意味する八を用いて『八咫鏡』と言うのではないか。 ⑦八咫烏は復活した太陽神?『八咫烏』は中国や韓国では太陽の中に描かれることが多い。 『八咫烏』とは復活した太陽神だと考えると辻褄があう。 記紀は『八咫烏』は天孫・神武天皇を道案内した烏だとするが、神代には猿田彦という神が天孫・ニニギを葦原中国へ道案内したという話がある。 杭全神社 猿田彦(天狗)猿田彦はニニギの道案内をしたという伝説から、祭の行列で先導することが多い。
猿田彦は高天原から葦原中国までを照らす神であると記されている。 それにぴったりくる名前を持つ神がいる。 天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)、つまり物部氏の祖とされるニギハヤヒのことである。 この神が本当の天照大神だという説がある。 サルタヒコと八咫烏とはどちらも天孫(ニニギ・神武)の道案内をしているので同一神だと考えられる。 つまり八咫烏とは復活した太陽神・ニギハヤヒのことである。 住吉祭の猿田彦(天狗) ⑧八所御霊八所御霊というのもある。八所御霊とは八柱の御霊という意味で、京都の上御霊神社・下御霊神社などで祀られている。 御霊とはもともとは怨霊であった人たちのことで、慰霊されて神として復活した者たちのことだともいえる。 下御霊神社⑨八朔祭さらにこの日は浄蔵を開基とする蔵王堂光福寺の八朔祭であった。 浄蔵が八と縁が深い人なので、蔵王堂光福寺では八朔祭を行っているのではないだろうか。 八朔とは旧暦の8月1日のことで、早稲の穂が実るころで、農民の間で初穂をお世話になった人々へ贈る風習があった。 初穂=田の実ということで、『田の実の節句』ともいわれた。 『たのみ』は語呂合わせで『頼み』に通じることから、武家や公家の間でも、八朔に贈り物をする習慣が生じたと言われている。 現在でも、京都の祇園などでは八朔に舞妓さんや芸妓さんがお世話になっているお茶屋さんなどに挨拶回りする習慣がある。 祇園白川 八朔であいさつ回りする舞妓さん蔵王堂光福寺の八朔祭は現在では新暦の8月31日に行われているが、旧暦では8月1日に行っていたのだろう。 ⑩飛行する鉢=飛行する髑髏?さきほど浄蔵が鉢を飛ばしたという伝説を紹介したが、前回の記事、 土蜘蛛の謎⑧ 空飛ぶ鉢の正体 で述べたように、信貴山縁起絵巻にも鉢を飛ばすという話がある。 信貴山にある朝護孫子寺命蓮法師が托鉢のために飛ばした鉢が、長者のところに頻繁にやってくるようになったので、長者はこれに腹を立てて鉢を米蔵に閉じこめた。 すると鉢は倉から飛び出して倉をのせて信貴山に飛び去った。鉢を飛ばすという物語は、類型的な物語のひとつだといえるだろう。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/Sigisanengi_tobikura.jpg よりお借りしました。 作者 English: unknown 日本語: 作者不詳 (不明) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 頭のことを鉢ということがある。 『鉢巻』とは頭に晒しを巻くことであり、『鉢合わせ』とは出会いがしらに頭と頭をぶつけることである。 私は鉢とは頭、髑髏を比喩的に言ったものではないかと考えている。 つまり空飛ぶ鉢とは空飛ぶ髑髏のことではないかと思うのだ。 浄蔵が飛ばした鉢もまた髑髏であると思う。 浄蔵は鉢のほか、復活を意味する数字8とも縁が深いが、8は鉢=髑髏を意味しているのだろう。 ⑪髑髏は復活にかかせない呪具だった?髑髏は復活にはかかせない呪具であるとされていたのだと思う。 というのは、真言立川流という真言宗の流派がかつてあったのだが(江戸時代に迫害をうけて消滅したと考えられている。) 立川流では髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作る。 この髑髏本尊を袋に入れ、7年間抱いて寝ると8年目に髑髏は命を持って語りだすとされていたのだ。 髑髏が命を持って語りだすというのは、髑髏が復活したということである。 ⑫土蜘蛛とは謀反の罪で斬首された人?そして源頼光と渡辺綱が空飛ぶ髑髏にであったとか(『土蜘蛛草子』)、また蘇我入鹿・玄昉・平将門らの首が飛んだという伝説もある。 私は土蜘蛛とは謀反の罪によって斬首されて首のない人のことだと考えている。 というのは、昆虫の体は頭部・胸部・腹部の3つに分かれているが、蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部分からなる。  古の人々は蜘蛛とは頭部のない昆虫だと考えたのではないかと思うのだ。 (詳しくは 土蜘蛛の謎② 土蜘蛛とは首のない人間のことだった?をお読みください。) 浄蔵や命蓮が飛ばした鉢とは謀反人の髑髏なのだと思う。 謀反人はこの世に恨みを残したまま斬首されて死んでいき、死後は怨霊になったと考えられたことだろう。 ところがこのような怨霊は神として祭り上げると守護神に転じるという信仰があった。 それで鉢=髑髏は守護神になったということで、浄蔵や命蓮に食べ物を持ち帰ったなどという伝説が生じたのではないだろうか。 蔵王堂光福寺 久世六斎 獅子と土蜘蛛蔵王堂光福寺・・・京都府京都市南区久世上久世町 八朔祭・・・8月31日(確認をお願いします。)
[2017/03/12 00:21]
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土蜘蛛の謎⑦ 妖怪ぬらりひょんと亀石と土蜘蛛 よりつづきます~ ●空飛ぶ鉢は空飛ぶ髑髏?信貴山の中腹に舞台造りのお堂がある。朝護孫子寺の本堂である。 587年、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋の間に戦争がおきた。 このとき聖徳太子は蘇我側について闘った。 戦いは蘇我側の勝利となり、、聖徳太子はこれを毘沙門天のご加護を得たことによるものだと考えた。 そこで594年、毘沙門天を祀る寺院を創建し、『信ずべき貴ぶべき山(信貴山)』と名付けたのだという。 朝護孫子寺本堂の傍らには霊宝館があり、ここに有名な『信貴山縁起絵巻(模写)』が展示されている。 『信貴山縁起絵巻』は平安時代後期に記されたもので、『鳥獣人物戯画』とともに、漫画のルーツとされる。 特に飛倉の巻の、 蔵を乗せた鉢が空飛ぶシーンが有名である。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/Sigisanengi_tobikura.jpg よりお借りしました。 作者 English: unknown 日本語: 作者不詳 (不明) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 私は空飛ぶ鉢の絵を見て、「空飛ぶ髑髏だ!」と思った。 鉢巻、鉢が開く、鉢合わせ、などのように頭のことを鉢ということがある。 そして、以前の記事 土蜘蛛の謎⑥ 燈籠の火袋が『土蜘蛛の塚』と呼ばれている理由 でご紹介した東向観音寺の土蜘蛛の塚は燈籠の火袋だったが、その笠の部分は、まるで鉢をひっくり返したような丸みを帯びた形をしていた。 私はその燈籠が『土蜘蛛の塚』と呼ばれたのは、笠の部分が鉢をひっくり返したような形をしているためではないかと考えた。 鉢とは頭のことであるが、以前の記事、 土蜘蛛の謎② 土蜘蛛とは首のない人間のことだった?で述べたように土蜘蛛とは謀反の罪で斬首されて首のない人の霊のことだと考えられるからだ。 また『土蜘蛛草紙』では『空飛ぶ髑髏のあとをつけていったところ、土蜘蛛の巣があったとしている。 土蜘蛛とは謀反の罪で斬首された人の霊だと考えられるので、切り離された髑髏が彷徨っているということなのだろう。 『信貴山縁起絵巻』に登場する空飛ぶ鉢とは空飛ぶ髑髏のことなのではないだろうか。 ●土蜘蛛が棲む穴とは
一般的に土蜘蛛とは記紀や風土記に登場する穴の中に住む人々のことで、神武東征以前よりここに住んでいた未開民族をさすと考えられている。 しかしい私は土蜘蛛とは未開民族のことではないと思う。 朝護孫子寺の本堂の地下は『戒壇めぐり』で有名である。 戒壇めぐりとは真っ暗な廻廊を手探りで歩き、めぐるものである。 廻廊は人一人が歩けるくらいの幅のようで、中は経験したことがないほどの闇であった。 果たして自分が目をあけているのか、閉じているのかわからないくらいだった。 暫く行くとぼうっと明るい場所があり、生まれ年の守護尊が安置されていた。 真の闇を経験したあとでは、そのほのかな灯がなんともありがたいもののように思えた。 戒壇めぐりは坑道を、ぼんやり明るく見えるみほとけは鉱物をイメージしたものではないだろうか。 朝護孫子寺の本尊の毘沙門天はもとはインドのクベーラといい、地下に埋蔵される財宝の守護神とされている。 ムカデは毘沙門天の使いとされ、朝護孫子寺にはムカデのレリーフがいたるところにある。   なぜムカデが毘沙門天の使いなのかというと、坑道のことをムカデ穴というためではないだろうか。 以前の記事、 土蜘蛛の謎④ 興福寺の阿修羅は土蜘蛛だった。 で、私は次のようなことを述べた。 ①興福寺の阿修羅像の左目は、いったん白でキャッチライトを入れたあと、墨で塗りつぶされている 。 ②たたら製鉄では鉄の温度を見るために片目で火を見るため、片目を失明することが多かった。 ③製鉄の神・天目一箇神や、西洋の製鉄の神であるキュクロープスも隻眼(一つ目)である。 ④古事記・日本書紀・風土記などに『土蜘蛛は穴の中に住む』と記述があるところから、土蜘蛛とは未開の民族だと考えられている。 ⑤しかし私は『穴の中にすむ』とは『坑道の中に住む』『鉱山開発を行っている人』という意味だと考えている。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG?uselang=ja よりお借りしました。 作者 日本語: 小川晴暘(1894-1960) 仏像写真家 飛鳥園創業者) English: Ogawa Seiyou (1894-1960), a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 私は土蜘蛛とは謀反の罪によって斬首された人のことだと考えているが、土蜘蛛は謀反人であると同時に鉱山を司る人でもあったのではないだろうか。 朝護孫子寺に「飛行する鉢」の物語と、坑道を思わせる戒壇めぐりが存在していることは偶然ではないと思う。  朝護孫子寺・・・奈良県生駒郡平群町
[2017/03/10 10:34]
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