土蜘蛛の謎① 亀石伝説
飛鳥路を歩いていくと、謎の石造物が次々に現れる。
中でもそのユーモラスな姿で有名なのが亀石である。
亀石は亀を象ったものではなく、蛙を象ったものではないかともいわれている。

亀石
②亀石の伝説
亀石には次のような伝説がある。
かつて大和は湖であり、当麻の蛇と川原のナマズが湖を二分して支配していた。
あるとき、蛇とナマズが湖の支配権をかけて争い、川原のナマズが負けた。
その結果、湖水を当麻に取られて川原の湖は干上がり、多くの亀が死んだ。
亀石はその追悼の意味から造られたもので、この石が当麻のある西を向いた時には、大和盆地は大洪水がおこって湖になると言い伝えられている。
③水の都・飛鳥
以前、テレビで古代の飛鳥を再現したCGを見たことがあるのだが、それはまさに水の都であった。
酒船石や亀形石造物は宮廷の水をひく庭園施設ではないかとされる。

飛鳥板蓋宮跡の北西には飛鳥京跡苑池遺跡がある。

須弥山石(飛鳥資料館にあるレプリカ)
また蘇我馬子の邸宅には島を浮かべた池があったという。④大和湖
古代の奈良盆地には巨大な湖・大和湖があったという説もあり、亀石伝説は大和湖を舞台として創作されたものだとも言われている。
⑤川原のナマズ、當麻の蛇の正体
しかし亀石伝説のいう『湖』とは飛鳥が水の都であったことの喩えなのではないかと、私は思う。
当麻の蛇に負けた川原のナマズとは645年の乙巳の変で殺害された蘇我入鹿、当麻の蛇とは中大兄皇子もしくは中臣鎌足のことではないだろうか。
中大兄皇子と中臣鎌足は乙巳の変で蘇我入鹿を殺害した人物だ。
⑥蘇我氏の都から天智天皇の都になった飛鳥
当時蘇我氏は絶大な権力を握っており、飛鳥に水の都の基礎を築いたのは蘇我氏だといえるだろう。
しかし645年、中大兄皇子と中臣鎌足がクーデターをおこして蘇我入鹿を斬り、蘇我氏宗本家は滅んだ。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)刀を持っているのが中大兄皇子、首を斬られているのが蘇我入鹿。
その後、孝徳天皇が難波宮に遷都したが、653年中大兄皇子は皇祖母尊・皇后・皇弟(大海人皇子)をひきつれて飛鳥に戻った。
臣下の多くも中大兄皇子に従った。
孝徳天皇はひとり難波宮に残されてしまう。
こうして水の都は蘇我氏から中大兄皇子の手に移った。
これを比喩して『湖水を当麻に取られて川原の湖は干上がり、多くの亀が死んだ。』と表現したのではないだろうか。
つまり、勝った當麻の蛇とは中大兄皇子と中臣鎌足、負けた川原のなまずとは蘇我氏の比喩ではないかということである。

飛鳥光の回廊・飛鳥板葺宮跡(蘇我入鹿が殺害された皇極天皇の宮)
⑦當麻と藤原氏の関係
二上山のふもとにある當麻寺は『当麻氏』の氏寺であるが、この當麻寺に藤原豊成の娘・中将姫が出家して住んだという伝説がある。
中将姫の父・藤原豊成は中臣鎌足(=藤原鎌足/中臣鎌足は天智天皇より藤原姓を賜っており、藤原氏の始祖である。)の曾孫にあたる。
藤原豊成の妻・藤原百能の父親は藤原京家の麻呂で、母親は當麻氏だった。
ここから当麻寺と中臣鎌足や藤原氏の関係が伺える。
また中大兄皇子の『中大兄』とは『次の皇太子』という意味で、実際には葛城皇子と呼ばれていたと考えられている。
当麻は葛城と呼ばれた奈良盆地南西部に隣接する土地であり、やはり関連性が伺える。

當麻寺
⑧ナマズvs蛇の戦いでなぜ亀が死んだのか?
しかし、争ったのは當麻の蛇と川原のナマズで、争いに負けて死んだのは川原のナマズだと考えられる。
それなのになぜ死んだのはナマズではなく亀なのだろうか?
亀とは何を比喩したものなのだろうか。

蘇我馬子の墓といわれている飛鳥の石舞台古墳
土蜘蛛の謎② 土蜘蛛とは首のない人間のことだった? へつづく~
スポンサーサイト