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翁の謎⑭ 采女祭 『志貴皇子の母親は采女だった。』

 翁の謎⑬ 春日若宮おん祭 『春日若宮様は志貴皇子だった?』 より続きます~

●采女祭

采女祭2

月の輝る夜の猿沢池を、采女と楽人を乗せた管弦船がゆっくりと巡る。
楽人たちが奏でる管弦の音は澄んでいるがどことなく物悲しい。
そう聞こえるのは、この池に悲しい伝説が伝わっているせいかもしれない。

采女神社2

猿沢池のほとりにある采女神社は鳥居に背を向け、後ろ向きに建つ珍しい神社である。
鳥居は猿沢池に面して建てられているので、采女神社の社殿は猿沢池に背を向けていることになる。

この采女神社について、平安時代に成立した『大和物語』は次のように記している。

奈良時代、帝の寵愛が衰えたのを嘆いて入水した采女を慰霊するために社を建てた。
入水した池を見るにしのびないと社は一夜のうちに後ろ向きになった。


猿沢池の向う側には藤原氏の氏寺・興福寺の五重塔が見えている。
猿沢池は興福寺の放生池として749年に造られた人工池である。
興福寺の東にある春日大社は藤原氏の氏神で、明治に神仏分離令が出るまで興福寺と春日大社は一体化していた。
采女神社はこの春日大社の末社である。

采女祭

●春日大社の御祭神・アメノコヤネとは天智天皇のことだった。

春日大社の主祭神はアメノコヤネ・タケミカヅチ・フツヌシ・ヒメガミの四柱の神々である。
このうち、アメノコヤネは藤原氏の祖神とされている。

翁の旅⑬ 春日若宮おん祭 『春日若宮様は志貴皇子だった?』に書いたように、アメノコヤネ(天児屋根命)とは天智天皇のことではないかと私は考えている。
というのは天智天皇の作として、は次のような歌が伝えられているからだ。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)


この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されている。。

万葉集には「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられている。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。

なぜ「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は、天智天皇の心を表す歌であると考えられたのだろうか。

一般には、農民の気持ちを思いやる優しさが、天智天皇にふさわしいと考えられたためだといわれている。
しかし、私はそうではないと思う。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
天智天皇の皇子・大友皇子と天智天皇の弟・大海人皇子が皇位をめぐって争ったのである。
勝利したのは大海人皇子で、大海人皇子は即位して天武天皇となった。

壬申の乱がおこったため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。

石清水八幡宮 青山祭

石清水八幡宮 青山祭 ※風葬のようすをあらわしたものだとされます。

古事記には「大国主神が八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠れた」という記述がある。
これは柴を沢山立てた中に死体が葬られていたということだが、大国主神はニニギに国譲りをして死んでいて、ニニギにとっては敵である。
そのため、高貴な身分の人であれば立派な陵をつくるところ、そうはせずに、庶民と同じように風葬にしたということではないかと思う。
天智天皇の歌にある、苫の荒い仮庵戸は大国主神が葬られたような八十青柴垣を意味しているのではないだろうか。
また、近年まで沖縄地方などで風葬が行われていたが、小さい小屋の中に死体を収めて風葬にするという地方もあった。

「秋の田の~」の歌は、死んだ天智天皇の霊が、きちんと埋葬されないわが身を嘆いた歌だと解釈され、天智天皇が詠むにふさわしい歌とされたのではないだろうか。

そして『児』には『小さい』という意味があり、天児屋命とは『小さい屋根の下におわす神』という意味になる。
仮庵のとまの粗い小屋の屋根はそれは小さいことだろう。

するとアメノコヤネは藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫だということになるが、藤原不比等は天智天皇の後胤であるという説がある。
藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけているが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』には記されている。
とすれば天智天皇が藤原氏の祖神だというのは辻褄があう。

●春日若宮様とは志貴皇子のことだった。

アメノコヤネとヒメガミは夫婦神であり、春日若宮様はこの二神から生まれた御子神とされている。

12月にこの春日若宮様のお祭り、おん祭が行われている。
12月16日深夜に若宮神社の前で新楽乱声(しんがくらんじょう)が奏される。
雅楽における楽譜のことを唱歌(しょうが)というが、その唱歌は『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』と記される。

春日大社の北の奈良坂に奈良豆比古神社があり、毎年10月に『翁舞』の奉納がある。
奈良豆比古神社は古来芸能の神として信仰されており、能の役者は奈良豆比古神社を参拝して興業許可を得ていたという。
能『翁」』は奈良豆比古神社の『翁舞』がルーツではないだろうか。

そして、奈良豆比古神社には次のような伝説が伝えられている。
天智天皇の孫で志貴皇子の子である春日王がハンセン病にかかり、春日王の子・浄人王が春日王の病平癒を祈って春日大社で舞を舞ったところ春日王の病が回復したと。
奈良豆比古神社の『翁舞』のルーツは、この浄人王の舞だと考えられる。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁


ところが地元にはもうひとつ裏の伝説が口承されている。
ハンセン病になったのは春日王ではなく、志貴皇子であり、翁とは志貴皇子のことだというのだ。

翁は『とうとうたらりたらりろ』と謎の呪文を唱える。
能の翁では『とうとうたらりたらりら』となっている。

おん祭の新楽乱声の唱歌を思い出してほしい。
それは『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』だった。
翁の『とうとうたらりたらりろ』と言うセリフは、おん祭で奏される新楽乱声の唱歌を唱えているのではないだろうか。
それは春日若宮様のテーマソングである。
そして春日若宮様はアメノコヤネとヒメガミの皇子とされているが、すでに述べたようにアメノコヤネとは天智天皇のことだと私は考えている。
春日若宮様とは天智天皇の皇子・志貴皇子のことであり、翁とは志貴皇子だという裏の伝説がある。
翁は『とうとうたらりたらりろ』と自分自身のテーマソングを歌っているのではないだろうか。

●ヒメガミは志貴皇子の母親?

すると、ヒメガミとは志貴皇子の母親の越道君伊羅都売(こしのみちのきみいらつめ)だということになるが、越道君伊羅都売は采女(天皇の身の回りのお世話をする女官)だった。

猿沢池に身を投げた采女とはこの越道君伊羅都売のことではないだろうか。

大和物語では采女が猿沢池に身を投げたのは奈良時代となっているが、天智天皇は飛鳥時代の人物なので時代があわない。

しかし奈良時代の780年11月21日に、春日大社のヒメガミが奈良豆比古神社に勧請されている。 
これを昔の人々は「帝(アメノコヤネ)の采女(ヒメガミ)に対する寵愛が衰えた」と比喩的に表現したのではないだろうか。

翁の正体、「とうとうたらりたらりろ』という呪文の謎については解けたと思う。
しかし白色尉、黒色尉とは何なのかなど、まだ謎は残っている。


 采女祭3


翁の謎⑮ 勝尾寺 三宝荒神社 『白は荒魂 黒は和魂?』 へつづく~
トップページはこちら→翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』




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[ 2017/01/18 ] 翁の謎 | TB(-) | CM(-)