翁の謎⑪ 奈良豆比古神社 翁舞 『志貴皇子と春日王は同一人物だった?』よりつづきます~
●天皇家を護った和気清麻呂
平安時代、亥の日・亥の刻(10月の亥の日、午後10時ごろ)に亥子餅を食べると病気にならないという信仰があり、宮中において玄猪(げんちょ)の儀式が行われていた。
11月1日に護王神社で行われている『亥子祭』は、この平安時代の宮中行事を再現したものである。

護王神社の舞殿に十二単姿の女房が四人、束帯姿の殿上男が四人登場し、聖上を取り囲むようにして着席する。
聖上は「神奈月 時雨のあめの あしごとに 我がおもふこと かなへつくつく」と唱えながら小さな臼と柳の杵で餅をつく。
殿上男たちは「いのちつくつかさ」女房たちは「いのちつくさいわい」 と唱和した。

その後、護王神社の西向いにある御所に亥子餅を届けるため、人々は行列を作って真っ暗な京都御苑を歩いていった。
この行事を見ると、護王神社は御所に住んでいた天皇家と関係の深い神社であるかのように思える。
御王神社という社名からして、天皇家を守護する神を祀っていそうである。
護王神社の御祭神は和気清麻呂とその妹の和気広虫である。
和気清麻呂は天皇になろうと企てた道鏡の野望を打ち砕いたj人物として知られている。
護王神社という社名はここからくるのだろう。
私の隣で行列を見ていた人がこんなことを言っていた。
「道鏡は天皇になろうとした悪い人で、平将門・足利尊氏らとともに日本三大悪人といわれているんですよ。」
さて本当に道鏡は悪い人なのだろうか。
●護王神社絵巻が語らない称徳天皇の死護王神社の外塀に「護王神社絵巻」というタイトルで複数枚の文章を添えた絵が展示されていた。
御王神社絵巻は主に宇佐八幡宮神託事件について記されていた。
ところがこれを読んでみると、ウィキペディアの内容とは少し違っていた。
ウィキペディアの記述は正史である日本続紀の記述にもとづいて記されたものだと思う。
つまり、「護王神社絵巻」は正史の記述と食い違っているということである。
おそらく「護王神社絵巻」は護王神社の社伝として伝わっていたものを絵巻物風のパネルにしたのだろう。
社伝として伝わっているものをパネルにしたのであれば、嘘だとはいえないし、正史の記述が改竄されたものである可能性もある。
しかし真実はどうであったのか。
護王神社絵巻の要点と、
ウィキペディアの内容と異なる点について書き出してみる。
①弓削道鏡という僧侶がて政治に口出しをして勝手なことをしていた。
役人たちは恐れてご機嫌を取るだけだった。
ウィキペディアによれば、称徳天皇の寵愛を受けた道鏡は、政治にしばしば介入した、とある。
②宇佐八幡宮で「道鏡を天子さまにするように」と神託がおりた。
天子さまは和気清麻呂に「その宇佐八幡宮のお告げが本当かどうか正してまいれ。」と言いつけた。 ウィキペディアにも同様の記述がある。
③和気清麻呂が宇佐八幡宮に出立する際、道鏡が清麿に「わしの望みが叶ったらお前を思い役にしてやるからよろしく頼む」と言った。
ウィキペディアにはこのような記述はない。
ウィキペディアの記述は正史である日本続紀に基づくものだと考えられる。
正史は為政者に都合よく改竄されているともいわれ、必ずしも正しいとはいえない。
為政者とは天皇家・藤原氏のことである。
天皇家や藤原氏にとって天皇になろうとした道鏡は悪人であり、正史は道鏡のことをよくは書かないはずである。
その正史にこのようなことは記されていないのだから、道鏡がこのようなことを言ったというのは事実ではないのではないかと思う。
④路豊永は清麻呂公に「もし道鏡の望みをかなえるようなことがあれば、私は生きていません。」と言った。路豊永は道鏡の師で、宇佐八幡宮に神託を受けに行く和気清麻呂に「自分は道鏡が皇位につくのは容認しない」と発言している。
少しオーバーな表現になっているが、絵巻はそのことを書いているのだろう。
⑤宇佐八幡宮で清麻呂は「家来を天子さまにすることはできない。」という神託を受け、これを天子さまに伝えた。ウィキペディアには神託の内容は「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」となっており、護王神社絵巻と内容は同じである。
⑥道鏡は怒って清麻呂公を大隈国へ、広虫姫を備後国へ流罪とした。ウィキペディアでは清麻呂の奏上に怒って流罪としたのは道鏡ではなく称徳天皇となっている。
③と同じ理由で、道鏡が怒って清麻呂を流罪にしたのではなく、称徳天皇が怒って清麻呂を流罪としたというのが正しいのではないだろうか。
⑦道鏡は清麻呂公を途中で殺そうと思い、家来に追いかけさせたが、大嵐になって家来たちは逃げてしまった。
⑧たくさんの猪が清麻呂公の前や後を護ってお供した。ウィキペディアに記載なし。これらは伝説にありがちな非現実的な話である。
⑨清麻呂は大隈国で束の間もも天子さまのことを忘れなかった。藤原百川は清麻呂にお米を送って慰めた。藤原百川がお米を送ったというのは『百川伝』にも記述がある。
⑩1年あまりたち、天子さまより使いがあり、清麻呂公と広虫姫は、都へ呼び戻された。ウィキペディアにも同様の記述がある。
また、護王神社絵巻にはあえて説明を省いたと思われる点がある。
護王神社絵巻より(②のシーン)②の、お天子さまが清麻呂に宇佐八幡宮へ行くようにと命ずる場面では、御簾の後ろに女物の着物の裾が見えている。
これは称徳天皇をあらわすものだと思われる。
称徳天皇は女帝なのである。

護王神社絵巻より(⑨のシーン)ところが、⑨のシーンではお天子さまは男性として登場するのだ。
宇佐八幡宮神託事件の翌年(770年)、称徳天皇は急病を患って崩御され、藤原永手・百川らの推挙をうけて光仁天皇が即位した。
これによって道鏡は失脚する。
⑨のシーンに描かれたお天子さまは光仁天皇である。
称徳天皇が崩御して光仁天皇が即位したことを文章で記さずに、どちらも「お天子さま」という表現を用いているので、歴史を知らない人が読むと「お天子さま」はひとりだと勘違いするのではないだろうか。
もちろん、絵では称徳天皇と光仁天皇は描き分けられているが、説明不足の感は否めない。
●称徳天皇暗殺説称徳女帝が急病を患ったとき、看病の為に近づけたのは宮人の吉備由利だけで、病気回復を願う祈祷が行われたという記録もない。
また徳の字のつく天皇は不幸な死を遂げたともいわれ、称徳天皇は暗殺されたという説がある。
称徳天皇崩御後、藤原永手・藤原百川の推挙によって天智の孫で志貴皇子の子である光仁天皇が即位し、道鏡は下野国に配流となった。
その後、藤原永手・藤原百川の推挙を受けて光仁天皇が即位しているが、光仁天皇は志貴皇子の子で天智天皇の孫にあたる。
672年、天智天皇の皇子の大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子が皇位を争って戦った。
大海人皇子が勝利して即位し、天武天皇となった。
それ以降、天武→持統→文武→元明→元正→聖武→孝謙→淳仁→称徳(孝謙が重祚した)とずっと天武系の天皇が続いた。
称徳天皇崩御後、天智系の光仁天皇が即位したというのは、まさしくウルトラⅭを決めるような出来事であったといえる。
光仁天皇がウルトラⅭを決めることができたのは、称徳天皇の遺詔に「次期天皇を光仁天皇とする」とあったためだが、この遺詔は藤原永手・藤原百川らが偽造したものであったとされる。
とすれば、称徳天皇を暗殺したのも藤原永手・藤原百川たちだろう。
藤原百川が大隅に流罪となった和気清麻呂にお米を贈ったということを思い出してほしい。
和気清麻呂は藤原永手・百川らとつるんでいたのである。
●道鏡は志貴皇子の子だった?奈良豆比古神社を参拝した際、私は近所に住む男性から奈良豆比古神社に伝わる伝説を教えてもらった。
それは次のような伝説だった。
天智天皇の第七皇子・志貴皇子は壬申の乱において大友皇子側についていた。
ところが壬申の乱では天武方が勝利して大友皇子は自害して果てた。
そのため、志貴皇子は壬申の乱の後は政治的に不遇で、その亡骸は奈良山の春日離宮に葬られた。
志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していた。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は春日王をよく看病していた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)に長けており、ある日春日大社で神楽を舞い、父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊された。
しかし、地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっている。
志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。
そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。
神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるという意味ではないか。
すると春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。
桓武天はが浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えたという。
浄人王は弓削浄人という名前になったのではないだろうか。
弓削浄人とは、道鏡の弟の名前である。
春日王の息子とされる浄人王とは弓削浄人なのではないだろうか。
すると道鏡は弓削浄人の兄なので、俗名は弓削安貴だったと考えられる。
さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。
●桓武天皇、弓削浄人を非人とする。道鏡が志貴皇子の子であったとして宇佐八幡宮事件を見直してみよう。
称徳天皇は次期天皇として道鏡を考えていた。
もしも道鏡が志貴皇子の子であったとすると、和気清麻呂が宇佐八幡宮よりもちかえった神託を聞いて怒ったのも無理はない。
清麻呂が持ち帰った神託とは次のようなものだった。
「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」
称徳天皇は「道鏡は志貴皇子の子であって皇緒である。正統な皇位継承権があるのだ。道鏡は無道の人ではない。」と激しく清麻呂に抗議したことだろう。
ところが翌770年称徳天皇は崩御してしまう。
称徳天皇の遺詔には「次期天皇は白壁王(のちの光仁天皇)とする」とあったがこれは藤原百川・永手らによって偽造されたものであった。
称徳天皇が暗殺されたのが真実であるならば、その犯人は藤原百川、藤原永手らだろう。
また光仁天皇即位後、和気清麻呂が従五位下に復位していること、藤原百川が流刑地の清麻呂にお米を送っていることなどから察すると、和気清麻呂もまた暗殺計画に加わっていたのかもしれない。
称徳天皇の寵愛を受けていた道鏡は失脚し下野国薬師寺に左遷され772年に死亡し庶民として葬られた。
道鏡の弟の浄人王は土佐に流された。
安貴王(道鏡)も光仁天皇(白壁王)も志貴皇子の子であり、これは異母兄弟による皇位継承争いであった。
百川・永手らの先祖の藤原不比等は天智天皇の落胤であるといわれている。
奈良時代は天武系の天皇が続いたが、天智系の天皇をたてることは藤原氏の悲願だったのではないかと思う。
藤原百川・永手らが次期天皇として安貴王(道鏡)ではなく白壁王を選んだ理由は、道鏡が天武系天皇・称徳天皇の寵愛を受けていたためだろう。
781年、光仁天皇の第一皇子の桓武天皇が即位する。
同年、浄人王は赦免され、生まれ故郷である河内国に戻っているが、これは桓武天皇即位に伴う恩赦だったと考えられる。
奈良豆比古神社の伝説によれば「桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。」とある。
一読すると、桓武天皇は浄人王に褒美を下されたかのように思える。
しかし実際はそうではないだろう。
浄人王は、皇族を廃され、臣籍降下させられ、弓削姓を与えられ、非人(夙とは非人のこと)として奈良豆比古神社がある奈良坂に住まわされた、ということではないだろうか。
その後、ハンセン病が流行し、志貴皇子の怨霊の祟りだと考えられたのではないか。
(志貴皇子は715年に元正天皇、舎人親王らによって暗殺されており、怨霊になる要素をもっていた。怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことである。)
記紀には大物主の祟りで疫病が流行った際、大物主の子孫のオオタタネコを大神神社の神主として大物主を祀らせたところ、疫病が収まったとある。
怨霊はその子孫が慰霊することで、人々に祟るのをやめると考えられていたようである。
そのため、朝廷は志貴皇子の血をひく弓削浄人、またはその子孫に志貴皇子の霊を祀らせたのではないだろうか。
これが事実かどうかはもっと検証が必要だろうが、少なくとも奈良豆比古神社の伝説はこういうことを伝えようとしているように思える。

護王神社・・・京都府京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町385
亥の子祭・・・11月1日 17時より(確認をお願いします。)
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[ 2017/01/15 ]
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