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翁の謎⑦ 奈良大文字 送り火 『死者が住む高円山』 

翁の謎⑥ 奈良豆比古神社 『ハンセン病を患った春日王と非人にされた弓削浄人』より続きます~

●お盆とペルセウス座流星群

奈良大文字送り火

8月15日午後8時、高円山に大文字の送り火が点火された。
ときおり静かに揺れる火は、ふるえる人の魂のようにも感じられる。

8月はお盆の季節である。
お盆にはご先祖様があの世からこの世へ戻ってくると考えられた。
そこで8月13日にはご先祖さまが迷わず家に戻ってこれるように門戸でおがらを燃やして迎え火を焚き、8月15日か16日にはご先祖さまが迷わずあの世へ戻れるように門戸で送り火を焚く習慣があった。

なぜ8月にご先祖様があの世からこの世へ戻ってくると考えられたのだろうか。

ふと空を見上げると流れ星が天空を流れていった。
ひとつ流れて消えたかと思うと、またひとつ星が流れた。

ベルセウス座流星群だ。
ベルセウス座γ星付近を放射点とし、(http://www.astron.pref.gunma.jp/news/100813perseids1exp.jpg
毎年7月20日ごろから8月20日ごろに見られ、ピークは8月13日である。

流星とは宇宙空間にあるチリ(直径1ミリメートルから数センチメートル程度)が地球の大気とぶつかり、摩擦をおこして高温となり、光って見える現象のことである。

このようなチリはおもに彗星が放出したもので、チリは彗星の軌道上に密集している。
そのため彗星の軌道と地球の軌道が交差している地点ではたくさんのチリが地球の大気にぶつかって流星群となる。
地球が彗星の軌道を横切る日時は毎年ほぼ同じなので、特定の時期に特定の流星群が出現するのである。



すばらしい動画を見つけたのでお借りしました。動画主さん、ありがとうございます!


こちらはしし座流星群を描いた絵である。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Leonidas_sigloXIX.

奈良では街灯りに打ち消されて流星はまばらにしか見えないが、山奥などではもっとたくさんの流星が流れていくのを見ることができるだろう。

現在ではお盆は新暦8月15日を中心とした行事であるが、旧暦では7月15日を中心としていた。
旧暦は新暦とは約1か月遅れになるので、新暦の8月15日と旧暦の7月15日はほぼ同時期とみていい。
ということは、お盆の時期は昔からベルセウス座流星群が観測できる時期でもあったのだ。

日本では星はまがまがしいものだと考えられていたふしがある。

ギリシャ神話には多くの星の神々が登場するが、記紀神話には天津甕星(別名カカセオ)たった一柱しか登場しない。
その天津甕星は天照大神の葦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神だと記されている。

また日本書紀・舒明天皇の条の9年(637年)には次のように記されている。

大きな星が東から西に流れた。
すぐに雷のような音がして、人々は流れ星の音だと言い、また雷だと言った。
僧旻法師は「これは流れ星ではなく、天狗(あまつきつね)というもので、雷鳴のような声で鳴く」と言った。 (日本書紀)

流星が流れるときに音が聞こえることが実際にあるそうだ。
隕石になるような巨大な流星の場合にはその衝撃波で音がたつ。
またオーストラリア・ニューカッスル大学のコリン・ケイさんは次のように説いている。
ある程度の高度以下まで突入した大火球によって、プラズマの乱流がおきる。
乱流プラズマは、地球磁気圏の磁力線にからみつき、ひきずる。
直ちにプラズマが冷えるとともに、乱された状態の磁力線ももとにもどる。
この際、極めて低い周波数の電磁波が発生し、光の速さで地上に達し、観測者の近くの物体がその電磁波に揺さぶられれば、同じ周波数の音が出るのだと。

話をもとにもどそう。
現代人は星に希望のようなものを感じ取っているが、古代人はその真逆で星はまがまがしいものという認識を持っていたようである。
流星群はたくさんの死霊が飛び出して、この世に戻ってくる姿のように感じていたのではないか。
そしてそこから、ベルセウス座流星群が観測される時期に、先祖の霊がこの世へ戻ってくるなどと考えられ、お盆という習慣が生じたのではないだろうか。

●死者の住む高円山

大文字送り火はそんな送り火の習慣を大規模にしたものなのだろう。
なぜ大の字なのかというと、人を象ったものだとか、星を象ったものではないか、といわれてる。

大文字送り火は京都の五山送り火が有名で、その起源は、平安時代にまで遡るともいわれるが、史料に登場するのは江戸時代になってからである。
江戸時代前期から中期ごろには、大文字、妙法、舟形を点灯するほか、各地の山や野原でも点灯していたらしい。

五山送り火 左大文字

五山送り火(左大文字)


五山送り火 舟形

五山送り火 (舟形)

奈良の大文字送り火は昭和35年8月15日に戦没者慰霊と世界平和を祈って始められた。

送り火を点火する高円山には碑があって、次のように記されている。

「高円山はかつて聖武天皇が離宮を営んだ地であり、弘法大師の師匠で大安寺の僧であった勤操が岩渕寺を創建した霊山である。
また護国神社のご神体の裏に位置するこういったことから、高円山に大文字送り火を点火することにした。」

岩渕寺は奈良時代に大安寺の僧、勤操(ごんぞう)によって創建された寺で、空海は岩渕寺で勤操に弟子入りしたとされる。
ところがいつのことか、岩渕寺は廃寺となった。
 新薬師寺の十二神将はもとは岩渕寺にあったものだとか、白毫寺は岩渕寺の一院ではないかともいわれてる。

新薬師寺 お松明

新薬師寺 修二会

白毫寺は志貴皇子の邸宅跡だとされ、高円山には志貴皇子の墓もある。

白毫寺 五色椿

百毫寺 五色椿


志貴皇子は平城津彦神、春日王(志貴皇子の子)とともに奈良豆比古神社の御祭神とされていた方である。
翁の謎⑥ 奈良豆比古神社 『ハンセン病を患った春日王と非人にされた弓削浄人』

護国神社は明治維新から第二次世界大戦までの国難に殉じた奈良県出身者29,110柱の英霊を祀る神社で、昭和17年に創祀された。
第二次大戦後のGHQ占領時代には『高円神社』といった。

護国神社は高円山の西にあるが、これはたまたまそうなったということではなく、あえて高円山の西に護国神社を建てたということなのではないだろうか。

翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』 の記事の中で、鴨川は三途の川に、鴨川を超えた東側はあの世に喩えられていたという話をした。
これは平安京が鴨川の西に造られており、古には都の中をこの世、都の外をあの世に喩えられていたためである。
つまり、護国神社(高円神社)は高円山の西の地を選び、西方浄土を模して戦没者を慰霊するための神社としたのではないかと思うのだ。

それはつまり、高円山は死者が住む山だという認識が昭和17年(護国神社が創祀された年)当事の人々にはあったのではないかということである。
死者とはもちろん高円山に墓がある志貴皇子のことである。

万葉歌人の笠金村という人が志貴皇子の晩歌を詠んでいる。

亀元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨ぜし時に作る歌 并せて短歌

梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 得物矢(さつや)手挟み立ち向ふ 高円山(たかまどやま)に 春野焼く
野火と見るまで 燃ゆる火を 何(い)かと問へば 玉鉾の道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白栲の 衣ひづちて 立ち留まり 吾に語らく
なにしかも もとな唁(と)ふ 聞けば 泣(ね)のみし哭(な)かゆ 語(かたら)へば 心ぞ痛き天皇(すまらぎ)の 神の御子の 御駕(いでまし)の 手火(たび)の光りぞここだ照りたる

(梓弓を手に持ち、勇士たちが狩の矢を指に挟み持ち、立ち向かい狩をする高円山。
その高円山に、春野を焼く野火のように火が燃えている。
「この火は何か、」と問うと、小雨が降ったかのように涙で真っ白な喪服を濡らしながら道を歩いて来る人が立ち止まって答えた。
「どうしてそんなことをお尋ねになるのですか。聞けば、ただ泣けるばかり。語れば、心が痛みます。天皇の尊い皇子様の、御葬列の送り火の光が、これほど赤々と照っているのです。」)

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。) 


この歌をふまえて大文字送り火を見ると、まるで送り火が志貴皇子の葬列の送り火のように見えてくる。

昭和35年、大文字送り火点火する行事をしようという計画が持ち上がったとき、それではどの山に送り火を点火したらいいかと議論されたことだろう。
そのとき、だれかの頭の中に笠金村が詠んだ志貴皇子への挽歌が思い浮かんだのではないだろうか。
そのため、送り火を点火するにふさわしい山は高円山以外にはないということになったのかもしれない。
鷺池…奈良市春日野町
大文字送り火・・・8月15日 20時より(確認をお願いします。)


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[2017/01/10 00:00] 翁の謎 | トラックバック(-) | コメント(-)