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翁の謎⑬ 春日若宮おん祭 『春日若宮様は志貴皇子だった?』

翁の謎⑫ 護王神社 亥子祭 『宇佐八幡宮神託事件の真実』 よりつづきます~


●春日若宮おん祭


春日大社 おん祭2 
春日若宮おん祭 田楽座宵宮詣

春日大社は広大な敷地面積を有する神社で、一の鳥居から二の鳥居まで1km以上もある。
石燈籠が立ち並ぶ長い長い参道のつきあたり左手(北)に回廊をめぐらせた一画がある。
南門をくぐり、受付を経て神域に入ると、奥のほうにさらに回廊がめぐらされている。
その回廊で囲まれた中に春日大社の主祭神である四柱の神々がが祀られている。

武甕槌命(たけみかづちのみこと)・・・藤原氏守護神
経津主命(ふつぬしのみこと)・・・・・藤原氏守護神
天児屋根命(あめのこやねのみこと)・・藤原氏祖神
比売神(ひめがみ)・・・・・・・・・・天児屋根命の妻

南門を出て、100メートルほど南にいったところに若宮社がある。
12月に行われる春日若宮おん祭はこの若宮社のお祭りである。

若宮様は本社の第三殿・天児屋根命と第四殿・比売神の御子神で、神名を天押雲根命という。
『長保五年(1003年)旧暦3月3日、第四殿に神秘な御姿で御出現になった』と春日大社のhpには記されている。
『神秘な御姿で御出現になった』というのは具体的にはどんなお姿だったのだろうか。
もしかしたら若宮様の幽霊が出たということなのかもしれない。

若宮様は出現後、母神の御殿内に、その後は第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られていた。
その後、長承年間の大雨によって、洪水・飢饉・疫病の流行などで人々は苦しんだ。
そこで藤原忠通公が保延元年(1135年)にここに若宮社を造営したという。
おそらく長承年間の洪水・飢饉・疫病は若宮様の怨霊の祟りだと考えられ、慰霊する必要があるとして社殿を建てたのではないだろうか。
さらにその翌年の1136年より祭礼を行うようになった。
これが今も行われている春日若宮おん祭りの始まりである。

春日若宮おん祭は12月17日のお渡り式が有名である。
私も3度ほど見にいったことがあるのだが、3度とも雨や雪でお渡り中止になった。
おん祭のころ、奈良ではよく雨や雪が降るのかもしれない。
そういうわけで、お渡り式はいまだ見学したことがないのだが、16日の大和士宵宮詣(やまとさむらいよいみやもうで)・田楽座宵宮詣は見学させていただいた。
春日大社 おん祭

春日若宮おん祭 大和士宵宮詣

●天児屋根命=天智天皇?

翁の謎⑧ 春日大社 舞楽始め式 『天智天皇は藤原氏の祖神だった?』で述べたように、私は春日大社の御祭神・天児屋根命とは天智天皇のことではないかと考えている。

天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味である。

そして天智天皇は 次のような歌を詠んでいる。
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。)


仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことだろう。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。

28年間遺体が放置されていたということは、天智天皇の遺体は風葬されたような状態であったということではないだろうか。
沖縄では近年まで風葬が残っていたが、自然の洞窟に遺体をおさめたり、小さな小屋のようなものをつくって遺体をおさめたりしていたようである。

誰かがほとんど風葬といってもいいような状態にされていた天智天皇の身になって、「もっと立派な墓に葬ってほしい」という気持ちを詠んだのが、「秋の田の~」の歌だと思う。
または、天智天皇が農民の身になって「秋の田の~」の歌を詠んだため、言霊が作用して天智天皇の遺体は放置されたと考えられたのかもしれない。

藤原氏の祖神である天児屋根命が天智天皇だとすると、藤原氏は天智天皇の子孫だということになるが、『興福寺縁起』には次のように記されていて、辻褄はあう。
「藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけており、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっていた。これが藤原不比等である。」

すると春日若宮様は天智天皇の子だということになる。
春日若宮様とは、天智天皇の落胤だといわれるる藤原不比等のことなのだろうか。
そうではないと私は思う。

天智天皇には多くの皇子があったが、その一人に志貴皇子がいる。

天武系の最後の女帝・称徳天皇が崩御したのち天智系の光仁天皇が即位したが、光仁天皇は父親である志貴皇子に『春日宮天皇』と追尊している。
この春日宮天皇=志貴皇子が春日若宮様なのではないだろうか。


●『とうとうたらりたらりら』は志貴皇子のテーマソングだった。

残念ながら見ることができなかったのだが、12月16日の22時30分、23時、23時30分の三度に渡り、南都楽所の楽人さんたちによって若宮神社の前で新楽乱声(しんがくらんじょう)が奏されるのだという。

南都楽所の楽人さんのhp(http://www.eonet.ne.jp/~believe-in-snow/onmaturi.htm)に『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥  』と記されている。

これは奈良豆比古神社で10月8日に行われている『翁舞』の冒頭の台詞『とうとうたらりたらりろ』によく似ている。

能の『翁』では『とうとうたらりたらりら』となっており、言葉の意味は不明だとされている。

南都楽所の楽人さんのhpに記されている『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』とは一体何なのか。

邦楽をやっている友人に聞いてみたところ、これは唱歌(しょうが)だと教えてくれた。
唱歌とは邦楽における音楽を口伝するための表現方とのこと。

『とうとうたらりたらりろ』や『とうとうたらりたらりら』は、若宮様がおでましになる、テーマソングのようなものだったのだ。

そして、翁の旅⑪ 奈良豆比古神社 翁舞 『志貴皇子と春日王は同一人物だった?』にも記したのだが、地元の語り部・松岡嘉平さんが伝承している語りは次のようなものだった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。


翁とは志貴皇子のことであり、志貴皇子は舞台に登場する際に春日若宮さまのテーマソングを口ずさんでいたのだ。

これはどういうことなのか。

志貴皇子は光仁天皇に「春日宮天皇」と追尊されている。
春日若宮とは天智天皇の皇子・志貴皇子のことではないのか。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁 
奈良豆比古神社 翁舞


春日大社・・・奈良県奈良市春日野町160
春日若宮おん祭・・・12月15日~18日



翁の謎⑭ 采女祭 『志貴皇子の母親は采女だった。』へつづく~
トップページはこちら→翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』

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翁の謎⑫ 護王神社 亥子祭 『宇佐八幡宮神託事件の真実』

翁の謎⑪ 奈良豆比古神社 翁舞 『志貴皇子と春日王は同一人物だった?』よりつづきます~

●天皇家を護った和気清麻呂

護王神社 亥子祭2
 
平安時代、亥の日・亥の刻(10月の亥の日、午後10時ごろ)に亥子餅を食べると病気にならないという信仰があり、宮中において玄猪(げんちょ)の儀式が行われていた。
11月1日に護王神社で行われている『亥子祭』は、この平安時代の宮中行事を再現したものである。

護王神社 亥子祭

護王神社の舞殿に十二単姿の女房が四人、束帯姿の殿上男が四人登場し、聖上を取り囲むようにして着席する。
聖上は「神奈月 時雨のあめの あしごとに 我がおもふこと かなへつくつく」と唱えながら小さな臼と柳の杵で餅をつく。
殿上男たちは「いのちつくつかさ」女房たちは「いのちつくさいわい」 と唱和した。

護王神社 亥子祭 行列

その後、護王神社の西向いにある御所に亥子餅を届けるため、人々は行列を作って真っ暗な京都御苑を歩いていった。

この行事を見ると、護王神社は御所に住んでいた天皇家と関係の深い神社であるかのように思える。
御王神社という社名からして、天皇家を守護する神を祀っていそうである。

護王神社の御祭神は和気清麻呂とその妹の和気広虫である。
和気清麻呂は天皇になろうと企てた道鏡の野望を打ち砕いたj人物として知られている。
護王神社という社名はここからくるのだろう。

私の隣で行列を見ていた人がこんなことを言っていた。
「道鏡は天皇になろうとした悪い人で、平将門・足利尊氏らとともに日本三大悪人といわれているんですよ。」
さて本当に道鏡は悪い人なのだろうか。

護王神社 亥子祭 行列3

●護王神社絵巻が語らない称徳天皇の死

護王神社の外塀に「護王神社絵巻」というタイトルで複数枚の文章を添えた絵が展示されていた。
御王神社絵巻は主に宇佐八幡宮神託事件について記されていた。
ところがこれを読んでみると、ウィキペディアの内容とは少し違っていた。
ウィキペディアの記述は正史である日本続紀の記述にもとづいて記されたものだと思う。
つまり、「護王神社絵巻」は正史の記述と食い違っているということである。

おそらく「護王神社絵巻」は護王神社の社伝として伝わっていたものを絵巻物風のパネルにしたのだろう。
社伝として伝わっているものをパネルにしたのであれば、嘘だとはいえないし、正史の記述が改竄されたものである可能性もある。
しかし真実はどうであったのか。

護王神社絵巻の要点と、ウィキペディアの内容と異なる点について書き出してみる。

①弓削道鏡という僧侶がて政治に口出しをして勝手なことをしていた。
役人たちは恐れてご機嫌を取るだけだった。
ウィキペディアによれば、称徳天皇の寵愛を受けた道鏡は、政治にしばしば介入した、とある。

②宇佐八幡宮で「道鏡を天子さまにするように」と神託がおりた。
天子さまは和気清麻呂に「その宇佐八幡宮のお告げが本当かどうか正してまいれ。」と言いつけた。

ウィキペディアにも同様の記述がある。

③和気清麻呂が宇佐八幡宮に出立する際、道鏡が清麿に「わしの望みが叶ったらお前を思い役にしてやるからよろしく頼む」と言った。
ウィキペディアにはこのような記述はない。
ウィキペディアの記述は正史である日本続紀に基づくものだと考えられる。
正史は為政者に都合よく改竄されているともいわれ、必ずしも正しいとはいえない。

為政者とは天皇家・藤原氏のことである。
天皇家や藤原氏にとって天皇になろうとした道鏡は悪人であり、正史は道鏡のことをよくは書かないはずである。
その正史にこのようなことは記されていないのだから、道鏡がこのようなことを言ったというのは事実ではないのではないかと思う。

④路豊永は清麻呂公に「もし道鏡の望みをかなえるようなことがあれば、私は生きていません。」と言った。
路豊永は道鏡の師で、宇佐八幡宮に神託を受けに行く和気清麻呂に「自分は道鏡が皇位につくのは容認しない」と発言している。
少しオーバーな表現になっているが、絵巻はそのことを書いているのだろう。

⑤宇佐八幡宮で清麻呂は「家来を天子さまにすることはできない。」という神託を受け、これを天子さまに伝えた。
ウィキペディアには神託の内容は「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」となっており、護王神社絵巻と内容は同じである。

⑥道鏡は怒って清麻呂公を大隈国へ、広虫姫を備後国へ流罪とした。
ウィキペディアでは清麻呂の奏上に怒って流罪としたのは道鏡ではなく称徳天皇となっている。
③と同じ理由で、道鏡が怒って清麻呂を流罪にしたのではなく、称徳天皇が怒って清麻呂を流罪としたというのが正しいのではないだろうか。

⑦道鏡は清麻呂公を途中で殺そうと思い、家来に追いかけさせたが、大嵐になって家来たちは逃げてしまった。
⑧たくさんの猪が清麻呂公の前や後を護ってお供した。
ウィキペディアに記載なし。これらは伝説にありがちな非現実的な話である。

⑨清麻呂は大隈国で束の間もも天子さまのことを忘れなかった。藤原百川は清麻呂にお米を送って慰めた。
藤原百川がお米を送ったというのは『百川伝』にも記述がある。

⑩1年あまりたち、天子さまより使いがあり、清麻呂公と広虫姫は、都へ呼び戻された。
ウィキペディアにも同様の記述がある。

また、護王神社絵巻にはあえて説明を省いたと思われる点がある。

護王神社絵巻

護王神社絵巻より(②のシーン)

②の、お天子さまが清麻呂に宇佐八幡宮へ行くようにと命ずる場面では、御簾の後ろに女物の着物の裾が見えている。
これは称徳天皇をあらわすものだと思われる。
称徳天皇は女帝なのである。

護王神社絵巻2

護王神社絵巻より(⑨のシーン)


ところが、⑨のシーンではお天子さまは男性として登場するのだ。

宇佐八幡宮神託事件の翌年(770年)、称徳天皇は急病を患って崩御され、藤原永手・百川らの推挙をうけて光仁天皇が即位した。
これによって道鏡は失脚する。
⑨のシーンに描かれたお天子さまは光仁天皇である。

称徳天皇が崩御して光仁天皇が即位したことを文章で記さずに、どちらも「お天子さま」という表現を用いているので、歴史を知らない人が読むと「お天子さま」はひとりだと勘違いするのではないだろうか。
もちろん、絵では称徳天皇と光仁天皇は描き分けられているが、説明不足の感は否めない。

●称徳天皇暗殺説

称徳女帝が急病を患ったとき、看病の為に近づけたのは宮人の吉備由利だけで、病気回復を願う祈祷が行われたという記録もない。
また徳の字のつく天皇は不幸な死を遂げたともいわれ、称徳天皇は暗殺されたという説がある。

称徳天皇崩御後、藤原永手・藤原百川の推挙によって天智の孫で志貴皇子の子である光仁天皇が即位し、道鏡は下野国に配流となった。
その後、藤原永手・藤原百川の推挙を受けて光仁天皇が即位しているが、光仁天皇は志貴皇子の子で天智天皇の孫にあたる。

672年、天智天皇の皇子の大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子が皇位を争って戦った。
大海人皇子が勝利して即位し、天武天皇となった。
それ以降、天武→持統→文武→元明→元正→聖武→孝謙→淳仁→称徳(孝謙が重祚した)とずっと天武系の天皇が続いた。
称徳天皇崩御後、天智系の光仁天皇が即位したというのは、まさしくウルトラⅭを決めるような出来事であったといえる。
光仁天皇がウルトラⅭを決めることができたのは、称徳天皇の遺詔に「次期天皇を光仁天皇とする」とあったためだが、この遺詔は藤原永手・藤原百川らが偽造したものであったとされる。
とすれば、称徳天皇を暗殺したのも藤原永手・藤原百川たちだろう。

藤原百川が大隅に流罪となった和気清麻呂にお米を贈ったということを思い出してほしい。
和気清麻呂は藤原永手・百川らとつるんでいたのである。

●道鏡は志貴皇子の子だった?

奈良豆比古神社を参拝した際、私は近所に住む男性から奈良豆比古神社に伝わる伝説を教えてもらった。
それは次のような伝説だった。

天智天皇の第七皇子・志貴皇子は壬申の乱において大友皇子側についていた。
ところが壬申の乱では天武方が勝利して大友皇子は自害して果てた。
そのため、志貴皇子は壬申の乱の後は政治的に不遇で、その亡骸は奈良山の春日離宮に葬られた。
志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していた。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は春日王をよく看病していた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)に長けており、ある日春日大社で神楽を舞い、父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊され
た。

しかし、地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっている。

志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。
そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。

神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるという意味ではないか。
すると春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。

桓武天はが浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えたという。
浄人王は弓削浄人という名前になったのではないだろうか。
弓削浄人とは、道鏡の弟の名前である。

春日王の息子とされる浄人王とは弓削浄人なのではないだろうか。
すると道鏡は弓削浄人の兄なので、俗名は弓削安貴だったと考えられる。

さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。

●桓武天皇、弓削浄人を非人とする。

道鏡が志貴皇子の子であったとして宇佐八幡宮事件を見直してみよう。

称徳天皇は次期天皇として道鏡を考えていた。

もしも道鏡が志貴皇子の子であったとすると、和気清麻呂が宇佐八幡宮よりもちかえった神託を聞いて怒ったのも無理はない。
清麻呂が持ち帰った神託とは次のようなものだった。
「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」

称徳天皇は「道鏡は志貴皇子の子であって皇緒である。正統な皇位継承権があるのだ。道鏡は無道の人ではない。」と激しく清麻呂に抗議したことだろう。

ところが翌770年称徳天皇は崩御してしまう。
称徳天皇の遺詔には「次期天皇は白壁王(のちの光仁天皇)とする」とあったがこれは藤原百川・永手らによって偽造されたものであった。
称徳天皇が暗殺されたのが真実であるならば、その犯人は藤原百川、藤原永手らだろう。
また光仁天皇即位後、和気清麻呂が従五位下に復位していること、藤原百川が流刑地の清麻呂にお米を送っていることなどから察すると、和気清麻呂もまた暗殺計画に加わっていたのかもしれない。

称徳天皇の寵愛を受けていた道鏡は失脚し下野国薬師寺に左遷され772年に死亡し庶民として葬られた。
道鏡の弟の浄人王は土佐に流された。

安貴王(道鏡)も光仁天皇(白壁王)も志貴皇子の子であり、これは異母兄弟による皇位継承争いであった。

百川・永手らの先祖の藤原不比等は天智天皇の落胤であるといわれている。
奈良時代は天武系の天皇が続いたが、天智系の天皇をたてることは藤原氏の悲願だったのではないかと思う。
藤原百川・永手らが次期天皇として安貴王(道鏡)ではなく白壁王を選んだ理由は、道鏡が天武系天皇・称徳天皇の寵愛を受けていたためだろう。

781年、光仁天皇の第一皇子の桓武天皇が即位する。
同年、浄人王は赦免され、生まれ故郷である河内国に戻っているが、これは桓武天皇即位に伴う恩赦だったと考えられる。

奈良豆比古神社の伝説によれば「桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。」とある。
一読すると、桓武天皇は浄人王に褒美を下されたかのように思える。
しかし実際はそうではないだろう。

浄人王は、皇族を廃され、臣籍降下させられ、弓削姓を与えられ、非人(夙とは非人のこと)として奈良豆比古神社がある奈良坂に住まわされた、ということではないだろうか。

その後、ハンセン病が流行し、志貴皇子の怨霊の祟りだと考えられたのではないか。
(志貴皇子は715年に元正天皇、舎人親王らによって暗殺されており、怨霊になる要素をもっていた。怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことである。)

記紀には大物主の祟りで疫病が流行った際、大物主の子孫のオオタタネコを大神神社の神主として大物主を祀らせたところ、疫病が収まったとある。
怨霊はその子孫が慰霊することで、人々に祟るのをやめると考えられていたようである。
そのため、朝廷は志貴皇子の血をひく弓削浄人、またはその子孫に志貴皇子の霊を祀らせたのではないだろうか。

これが事実かどうかはもっと検証が必要だろうが、少なくとも奈良豆比古神社の伝説はこういうことを伝えようとしているように思える。


護王神社 亥子祭 行列2


護王神社・・・京都府京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町385
亥の子祭・・・11月1日 17時より(確認をお願いします。)

翁の謎⑬ 春日若宮おん祭 『春日若宮様は志貴皇子だった?』へつづく~
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翁の謎⑪ 奈良豆比古神社 翁舞 『志貴皇子と春日王は同一人物だった?』

翁の謎⑩ 百毫寺 萩 『志貴皇子暗殺説』よりつづきます~

●翁舞

長い阪を登って奈良豆比古神社へやってきた。
4月に参拝したので、今日で2度目の参拝になる。

10月8日に行われる翁舞の奉納神事を見るためにやってきたのだった。

日が暮れると舞殿前の篝火に火が入れられ、翁舞が始まった。
奈良豆比古神社 翁舞 千歳
篝火がたかれる中、小鼓の音と「いーやー、あいやー、おんはー」という掛け声が続く。
少年が扮する千歳が舞を舞ったのち、三人の大夫が舞台上で翁の面をつけた。
シテに神が憑依する瞬間である。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2

一人の大夫が舞ったのち、三人翁の舞となった。
京都の八坂神社で見た能の『翁』では翁は一人であったが。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

三人翁が退出したのち、三番叟が登場した。
三番叟は舞を舞ったのち、舞台上で黒い翁の面をつけ、鈴を持ってさらに舞った。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2

千歳・三人翁の舞はゆったりしたスローテンポの舞だが、三番叟の舞は激しい。
田植えをする所作のようにも見える。
三番叟の舞が終わると割れるような拍手が響き渡った。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

●ハンセン病をもたらす神

翁舞を鑑賞しながら、私は以前、ここを訪れたときのことを思い出していた。
あのとき、この近所に住んでおられるという男性にあい、次のようなことを教えていただいた。

奈良豆比古神社にある3つの社のうち、中央は平城津彦(ならづひこ)神という産土の神を祀っている。

その向かって右には志貴皇子を祀っている。
『いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも』
という有名な歌を詠まれた方である。
志貴皇子の子、白壁王が即位して光仁天皇となられた。
その際、光仁天皇は父親の志貴皇子を春日宮御宇天皇と追尊された。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

向かって左には志貴皇子の子の春日王を祀っている。
春日王は田原太子とも呼ばれている。

志貴皇子は天智天皇の第七皇子であったが、672年の壬申の乱(大友皇子vs大海人皇子)では大友皇子側についた。
壬申の乱では大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害して果てた。
そのため乱後の志貴皇子は政治的に不遇であった。

その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養された。
春日王の二人の息子・浄人王と安貴王は熱心に春日王の看病をされた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


この話を聞いて私は次のように考えた。

①「貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されることが多い。
疫病をもたらす疫病神は疫病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。
春日王はハンセン病を患ったというが、本当にハンセン病を患ったという意味ではなく、ハンセン病をもたらす怨霊だったのではないか?

②日本には先祖の霊はその子孫が祭祀(供養)すべきという考え方があった。
春日王が怨霊であったとすれば、春日王は謀反人として不幸な死を迎えた人であったと考えることができる。
春日王の怨霊の祟りを鎮めることができるのは春日王の子である浄人王と安貴王、また彼らの子孫だということになる。

③浄人王と安貴王は夙冠者黒人と呼ばれていたが、夙とは中世から近年にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民のことである。
春日王の子の浄人王と安貴王は非人だったのである。

④平安時代に承和の変をおこしたとして橘逸勢が姓を非人と改められて流罪になっている
非人とは謀反人もしくはその子孫のことではないか。

⑤桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えたというが、これは桓武天皇が浄人王と安貴王の官位をはく奪し『弓削』という名前を与えて非人にした、ということだろう。

⑥浄人王は皇族であったが、父の春日王が謀反人とされたため非人とされ弓削浄人という名前になったのだろう。
弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡は称徳女帝が次期天皇にしたいと考えていた人物である。

護王神社絵巻に描かれた道鏡 
護王神社絵巻に描かれた道鏡


●春日王は志貴皇子の荒霊?

先日、図書館で『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』という雑誌を借りて読んだ。
その中にここ奈良豆比古神社の翁舞についての記事があり、地元の語り部・松岡嘉平さんが次のような語りを伝承していると書いてあった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。

室町時代、金春流の祖となる人が奈良坂に能を習いに通っていた。
京都御所でおこなわれる能舞台に立つために奈良豆比古神社に伝わる『肉つき面』を借りた。
しかし面はなかなか返却されず、ようやく戻ってきたのは『肉つき面』ではなかった。
村人たちは激怒して坂下で殺し、金春塚に葬った。


なんと、地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。

志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。

志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。

神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。

桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。

さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしているのだ。
奈良豆比古神社・・・奈良市奈良阪町2489
翁舞・・・10月8日  午後8時ごろより

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01-14(Sat)00:16|翁の謎 |コメント(-) |トラックバック(-)

翁の謎⑩ 百毫寺 萩 『志貴皇子暗殺説』

翁の謎⑨ 東大寺 大仏殿 『鹿は謀反人を表している?』 よりつづきます~

●萩の白花と紫花

百毫寺 萩

自然石を積んだ長い石段が白毫寺の山門へと続く。
その石段に覆いかぶさるように、白と紫の萩の花が咲き乱れていた。
萩が風をうけてなびく様は、見ているだけでなぜか心が 切なくなってくる。
秋はなぜ人の心を感傷的にするのだろうか・・・。

萩は別名を鹿鳴草と言う。

前回の記事、翁の旅⑨ 東大寺 大仏殿 『鹿は謀反人を表している?』 の中で私は『トガノの鹿』の物語をご紹介した。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。


奈良の鹿 親子

鹿の夏毛には白い斑点があるが、その斑点を塩に見立てたのだと思う。
そして謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人のことではないか、とする説がある。

それでは萩はなぜ別名を「鹿鳴草」というのだろうか。

萩の花には白と紫があるが、白い花のほうはまるで塩を振ったかのように見える。
萩の白い花は殺された雄鹿を表しているのだろう。
紫の花のほうは雌鹿をあらわしているのではないだろうか。

というのは次のような万葉歌があるからだ。

紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)

紫 の 匂える妹を憎くあらば ひと妻ゆえに 我恋めやも/大海人皇太子
(紫のように美しい貴女を憎く思えたならばどんなによかったでしょう。人妻であるのに私はこんなに貴女に恋焦がれています。)


これらの歌を鑑賞すると、紫とは男に出会った女がぽっと顔を染める様子を表す言葉であるように思える。

百毫寺 万葉歌碑


●高円の野辺の秋萩

本堂の奥の萩の茂みの中には歌碑が建てられていた。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)


この歌は笠金村が志貴皇子の死を悼んで詠んだ晩歌である。
百毫寺は志貴皇子の邸宅跡と伝わっている。
そのためここに歌碑をたてたのだろう。

また笠金村は 次のような歌も詠んでいる。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)


日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。

笠金村のはじめの挽歌から、志貴皇子が人知れず死んだことがイメージされる。
そして二番目の挽歌では『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。

志貴皇子の子である白壁王は、女帝の称徳天皇が急死したのち、即位して光仁天皇となっている。
これは志貴皇子には正統な皇位継承権があったということではないか。
そして志貴皇子は715年に暗殺されて、その死が1年近く隠されていたのではないか、とする説がある。

いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも

●志貴皇子を暗殺した人物とは

志貴皇子を暗殺したのは、元正天皇と舎人親王ではないかと私は考えている。

元正天皇が即位したのは715年である。
志貴皇子の薨去年が万葉集の詞書にあるように715年だったとしたら、志貴皇子の死はあまりに元正天皇にとってタイミングが良すぎる。
志貴皇子の死の原因を、周囲の人々はいぶかしく思うかもしれない。
そのため志貴皇子の死を隠していたのではないだろうか。

百毫寺 萩4

元正上皇と舎人親王が贈答しあった歌が、万葉集にある。

あしひきの 山行きしかば 山人の 我に得しめし 山つとぞこれ/元正上皇
(山道を歩いていたところ、たまたま逢った山人が、私にくれた山の土産であるぞ、これは。)

あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰/舎人親王
(陛下は山へ行かれて山人に土産をもらったとおっしゃるのですか。「山人」とは誰のことなのでしょうか。山人とは陛下のことではありませんか。)


私はこの歌は志貴皇子の次の歌に対応しているのではないか、と思う。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)


大伴坂上郎女という人が次のような歌を詠んでいる。

大夫(ますらを)の 高円山に 迫めたれば 里に下り来る 鼯鼠(むささび)ぞこれ/大伴坂上郎女
(勇士たちが高円山で狩りをして、里に下りてきたむささびがこれです。)


大伴坂上郎の歌の中に『 高円山』とでてくるが、高円山には志貴皇子の墓がある。
高円山に住むむささびとは志貴皇子を比喩したものなのではないだろうか。

奈良大文字送り火

高円山

そして元正上皇がいう『山人』もまた志貴皇子を比喩していったもので、『山人がくれたみやげ』とは『志貴皇子の死=元正天皇の即位』を意味しているのではないだろうか。

山人とは『山に住む人』『仙人』という意味であるが、『いきぼとけ』とよんで『心や容姿の美しい女性』のことをさす言葉でもあった。
それで舎人親王は、「山人=仙人=志貴皇子のことなどしらない。山人とは美しい女性という意味で、元正上皇のことではありませんか。」と答えたのだろう。

百毫寺 萩2

白毫寺・・・奈良県奈良市白毫寺町392

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01-13(Fri)09:32|翁の謎 |コメント(-) |トラックバック(-)

翁の謎⑨  『鹿は謀反人を表している?』

翁の謎⑧ 春日大社 舞楽始め式 『天智天皇は藤原氏の祖神だった?』 よりつづきます~

●飛火野

飛火野 鹿

春日大社の西に飛火野と呼ばれる草原があり、鹿が群れぶ姿が見られた。
鹿はすっかり冬毛にかわり、角も切られていた。
10月初めごろ、鹿の角切と呼ばれる行事が行われ、鹿の角が切られるのだ。
しかし、放っておいても春先に自然にとれ、また新たに生えてくるそうである。

雄鹿と雌鹿が仲良く草を食んでおり、私は近づいて鹿の頭をなでたが逃げない。
奈良では鹿は神の使いとされており、保護されてきたため大変人に慣れているのだ。

●飛火野に春日烽はあったか?

飛火野という地名の由来は、奈良時代ここで烽(とぶひ)を上げていたことに由来するといわれる。
烽とは烽火(のろし)のことである。

710年の平城遷都に伴い、高見烽および春日烽が置かれた。
高見烽は生駒山、春日烽は飛火野に設けられたと考えられている。
40里ごとに設けられ、昼は煙を、夜は火を燃やした。

煙は緑色の山をバックにするとよく見えるが、灰色に曇った空ではよく見えないので
烽は山頂近くに設けられることはなかったのではないかと思う。
また夜、火を燃やす場合にはあまり低い土地では遠くから炎が見えない。

飛火野は低い位置にあり、また現在は野の前に木が茂っているため、ここから生駒山を望むことができない。
火の見櫓のような高い建物を作れば、生駒山を望むことはできるだろうし、そこで火を燃やせば平城京からも見えただろう。
しかし、飛火野のすぐ東には御蓋山や春日山、高円山があるのに、わざわざ飛火野に櫓を作るだろうか。

そういうわけで、烽は飛火野ではなく、付近にある山の中腹に設けられたのではないかと私は考える。

●飛火野は人魂が飛ぶ野?

烽が置かれていなかったのであれば、飛火野という地名はどこからくるのだろうか。

『野』とは葬送の地を意味しているのではないかとする説がある。
そういわれてみれば京都の葬送の地は鳥辺野、蓮台野、化野などのように『野』の字が用いられている。
高野山が、野原ではないにもかかわらず『高野』と呼ばれるのは、葬送の地であったからだともいう。
そういえば高野山の奥の院にはおびただしい数の墓がある。

飛火野にはちょっとわかりにくいが、15基もの古墳があり、春日野古墓と呼ばれている。
飛火野は葬送の地だったのだ。
飛火野とは火が飛ぶ野、人魂が飛ぶ野という意味なのではないかと思ったりする。

●トガノの鹿

飛火野の鹿を見て、私は日本書紀・仁徳天皇紀にある『トガノの鹿』の物語を思い出した。

仁徳天皇が皇后と涼をとっているとトガノの方から鹿の鳴き声が聞こえてきた。
天皇はその鹿の鳴き声をしみじみと聞いていたが、あるとき急に鳴き声がしなくなった。
翌日、佐伯部が天皇に鹿を献上したが、その鹿は天皇が夜な夜な鳴き声を聴くのを楽しみにしていた鹿だった。
気分を悪くした天皇は佐伯部を安芸の渟田に左遷した


この話のすぐあとに、次のような話が記されている。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。

奈良の鹿 親子 
鹿の夏毛には白い斑点があるが、その斑点を塩に見立てて「トガノの鹿」の物語は作られたのだろう。
(写真1枚目は冬毛、2枚目が夏毛)

●鹿は謀反人の象徴だった?


昔、謀反の罪で殺された人は塩が振られることがあり、鹿は謀反人を比喩したものだとする説がある。

さきほど、鹿は神の使いとされているという話をしたが、かつて怨霊と神とは同義語であったといわれる。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の祟りでひきおこされると考えられていた。
つまり、鹿とは謀反人=怨霊=神の象徴であるのだ。

それをふまえて改めて飛火野の鹿を見てみると、謀反の罪で殺されて怨霊になった者たちの怨霊が群れているように見えてきて
背筋がぞっとするような感覚を覚えた。




翁の謎⑩ 百毫寺 萩 『志貴皇子暗殺説』へつづく~
トップページはこちら→翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』

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01-12(Thu)00:00|翁の謎 |コメント(-) |トラックバック(-)

翁の謎⑧ 春日大社 舞楽始め式 『天智天皇は藤原氏の祖神だった?』

翁の謎⑦ 奈良大文字 送り火 『死者が住む高円山』 より続きます~

●天智天皇は藤原氏の祖神だった?

春日大社 舞楽始 お祓い 
春日大社 舞楽始2

1月13日、春日大社の林檎の庭で舞楽始めが行われた。
林檎の庭の向うには御廊と中門が見える。
中門の奥には御本殿があり、武甕槌命(たけみかづち)、経津主命 (ふつぬし)、天児屋根命 (あめのこやね)、比売神(ひめがみ)をお祭りしている。
武甕槌命(たけみかづち)と経津主命は 藤原氏の守護神、天児屋根命は藤原氏の祖神、比売神は天児屋根命の妻とされる。
春日大社は藤原氏の氏神なのだ。

御存じのように藤原氏は大化の改新で中大兄皇子をサポートした中臣鎌足を祖とする氏族である。。
鎌足は臨終の間際、天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜ったとされる。

春日大社 舞楽始 振鉾

私は春日大社の御祭神・天児屋根命とは天智天皇のことではないかと考えている。
天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味となる。
そして天智天皇は
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。)

と歌を詠んでいる。
仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことだろう。

この歌は万葉集にある詠み人知らずの歌「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。

春日大社 舞楽始

なぜこの歌は天智天皇の心を表す歌であると考えられたのだろうか。
一般には、天智天皇は天皇という尊い身分でありながら農民の気持ちによりそうことのできる優しい方であったからだと言われている。
しかし私はそうは思わない。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年後の699年である。

28年間遺体が放置されていたということは、天智天皇の遺体は風葬と同じような状態におかれていたということではないだろうか。

沖縄では近年まで風葬が残っていたが、自然の洞窟に遺体をおさめたり、小さな小屋のようなものをつくって遺体をおさめたりしていたようである。
つまり、この歌は天智天皇の霊が、きちんとした墓を作ってもらえず、秋の田の仮庵のような場所に遺体がおかれていることを嘆く歌であると私は思う。

春日大社 舞楽始3

●藤原不比等は天智天皇の落胤だった?

天児屋根命は藤原氏の祖神とされている。
天児屋根命が天智天皇のことだとすると、藤原氏は天智天皇の子孫だということになっておかしいじゃないか、と思われるかもしれない。

しかし『興福寺縁起』には次のような内容が記されている。
藤原鎌足は天智天皇の后だった鏡王女を妻としてもらいうけた。
その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっていた。
これが藤原不比等であると。

つまり、藤原不比等は天智天皇の落胤であり、天智天皇が藤原氏の祖神というのは辻褄があうということになる。

春日大社 舞楽始 

さきほど「672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。」と書いた。
壬申の乱とは皆さんご存知のように、大友皇子(天智天皇の皇子)vs大海人皇子(天智天皇の弟)が皇位を廻って争った戦いのことである。
結果、大海人皇子が勝利して即位し、天武天皇となった。
その後、持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳(孝謙天皇が重祚)と天武系天皇が続いた。
称徳天皇は女帝で独身だったため、天武系の血筋が絶えてしまい、称徳天皇崩御後、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位して天智系に変わっている。

春日大社 舞楽始め

その後、光仁天皇の皇子である桓武天皇が平安京に遷都した。
遷都の理由については南都の仏教勢力から逃れるためであるとか、長屋王などの怨霊から逃れるためだとも言われている。

そういった理由もあっただろう。
しかし遷都の理由は他にもあったのではないかと私は考えている。
平城京は天武系天皇の都だった。
天智系の桓武天皇は天智系天皇のための新しい都をつくりたかったのではないだろうか。

京都市東山区の泉涌寺では天智天皇から昭和天皇まで、歴代天皇の位牌を安置しているが、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳の位牌がないそうである。

泉涌寺の創建は856年と伝えられ、平安京に遷都したのち創建されたお寺である。
泉涌寺には天皇家や天皇家の外戚として権力を掌握していた藤原氏の意思が大きく働いていると考えられる。。
桓武以降の天皇や、天智天皇を祖と信じる藤原氏にとって、天武系天皇は排斥したい存在であっただろう。
それで天武系天皇の位牌を安置していないのではないだろうか。

 春日大社 舞楽始 


春日大社・・・奈良県奈良市春日野町160

翁の謎⑨ 東大寺 大仏殿 『鹿は謀反人を表している?』へつづく~
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翁の謎⑦ 奈良大文字 送り火 『死者が住む高円山』

翁の謎⑥ 奈良豆比古神社 『ハンセン病を患った春日王と非人にされた弓削浄人』より続きます~

●お盆とペルセウス座流星群

奈良大文字送り火

8月15日午後8時、高円山に大文字の送り火が点火された。
ときおり静かに揺れる火は、ふるえる人の魂のようにも感じられる。

8月はお盆の季節である。
お盆にはご先祖様があの世からこの世へ戻ってくると考えられた。
そこで8月13日にはご先祖さまが迷わず家に戻ってこれるように門戸でおがらを燃やして迎え火を焚き、8月15日か16日にはご先祖さまが迷わずあの世へ戻れるように門戸で送り火を焚く習慣があった。

なぜ8月にご先祖様があの世からこの世へ戻ってくると考えられたのだろうか。

ふと空を見上げると流れ星が天空を流れていった。
ひとつ流れて消えたかと思うと、またひとつ星が流れた。

ベルセウス座流星群だ。
ベルセウス座γ星付近を放射点とし、(http://www.astron.pref.gunma.jp/news/100813perseids1exp.jpg
毎年7月20日ごろから8月20日ごろに見られ、ピークは8月13日である。

流星とは宇宙空間にあるチリ(直径1ミリメートルから数センチメートル程度)が地球の大気とぶつかり、摩擦をおこして高温となり、光って見える現象のことである。

このようなチリはおもに彗星が放出したもので、チリは彗星の軌道上に密集している。
そのため彗星の軌道と地球の軌道が交差している地点ではたくさんのチリが地球の大気にぶつかって流星群となる。
地球が彗星の軌道を横切る日時は毎年ほぼ同じなので、特定の時期に特定の流星群が出現するのである。



すばらしい動画を見つけたのでお借りしました。動画主さん、ありがとうございます!


こちらはしし座流星群を描いた絵である。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Leonidas_sigloXIX.

奈良では街灯りに打ち消されて流星はまばらにしか見えないが、山奥などではもっとたくさんの流星が流れていくのを見ることができるだろう。

現在ではお盆は新暦8月15日を中心とした行事であるが、旧暦では7月15日を中心としていた。
旧暦は新暦とは約1か月遅れになるので、新暦の8月15日と旧暦の7月15日はほぼ同時期とみていい。
ということは、お盆の時期は昔からベルセウス座流星群が観測できる時期でもあったのだ。

日本では星はまがまがしいものだと考えられていたふしがある。

ギリシャ神話には多くの星の神々が登場するが、記紀神話には天津甕星(別名カカセオ)たった一柱しか登場しない。
その天津甕星は天照大神の葦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神だと記されている。

また日本書紀・舒明天皇の条の9年(637年)には次のように記されている。

大きな星が東から西に流れた。
すぐに雷のような音がして、人々は流れ星の音だと言い、また雷だと言った。
僧旻法師は「これは流れ星ではなく、天狗(あまつきつね)というもので、雷鳴のような声で鳴く」と言った。 (日本書紀)

流星が流れるときに音が聞こえることが実際にあるそうだ。
隕石になるような巨大な流星の場合にはその衝撃波で音がたつ。
またオーストラリア・ニューカッスル大学のコリン・ケイさんは次のように説いている。
ある程度の高度以下まで突入した大火球によって、プラズマの乱流がおきる。
乱流プラズマは、地球磁気圏の磁力線にからみつき、ひきずる。
直ちにプラズマが冷えるとともに、乱された状態の磁力線ももとにもどる。
この際、極めて低い周波数の電磁波が発生し、光の速さで地上に達し、観測者の近くの物体がその電磁波に揺さぶられれば、同じ周波数の音が出るのだと。

話をもとにもどそう。
現代人は星に希望のようなものを感じ取っているが、古代人はその真逆で星はまがまがしいものという認識を持っていたようである。
流星群はたくさんの死霊が飛び出して、この世に戻ってくる姿のように感じていたのではないか。
そしてそこから、ベルセウス座流星群が観測される時期に、先祖の霊がこの世へ戻ってくるなどと考えられ、お盆という習慣が生じたのではないだろうか。

●死者の住む高円山

大文字送り火はそんな送り火の習慣を大規模にしたものなのだろう。
なぜ大の字なのかというと、人を象ったものだとか、星を象ったものではないか、といわれてる。

大文字送り火は京都の五山送り火が有名で、その起源は、平安時代にまで遡るともいわれるが、史料に登場するのは江戸時代になってからである。
江戸時代前期から中期ごろには、大文字、妙法、舟形を点灯するほか、各地の山や野原でも点灯していたらしい。

五山送り火 左大文字

五山送り火(左大文字)


五山送り火 舟形

五山送り火 (舟形)

奈良の大文字送り火は昭和35年8月15日に戦没者慰霊と世界平和を祈って始められた。

送り火を点火する高円山には碑があって、次のように記されている。

「高円山はかつて聖武天皇が離宮を営んだ地であり、弘法大師の師匠で大安寺の僧であった勤操が岩渕寺を創建した霊山である。
また護国神社のご神体の裏に位置するこういったことから、高円山に大文字送り火を点火することにした。」

岩渕寺は奈良時代に大安寺の僧、勤操(ごんぞう)によって創建された寺で、空海は岩渕寺で勤操に弟子入りしたとされる。
ところがいつのことか、岩渕寺は廃寺となった。
 新薬師寺の十二神将はもとは岩渕寺にあったものだとか、白毫寺は岩渕寺の一院ではないかともいわれてる。

新薬師寺 お松明

新薬師寺 修二会

白毫寺は志貴皇子の邸宅跡だとされ、高円山には志貴皇子の墓もある。

白毫寺 五色椿

百毫寺 五色椿


志貴皇子は平城津彦神、春日王(志貴皇子の子)とともに奈良豆比古神社の御祭神とされていた方である。
翁の謎⑥ 奈良豆比古神社 『ハンセン病を患った春日王と非人にされた弓削浄人』

護国神社は明治維新から第二次世界大戦までの国難に殉じた奈良県出身者29,110柱の英霊を祀る神社で、昭和17年に創祀された。
第二次大戦後のGHQ占領時代には『高円神社』といった。

護国神社は高円山の西にあるが、これはたまたまそうなったということではなく、あえて高円山の西に護国神社を建てたということなのではないだろうか。

翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』 の記事の中で、鴨川は三途の川に、鴨川を超えた東側はあの世に喩えられていたという話をした。
これは平安京が鴨川の西に造られており、古には都の中をこの世、都の外をあの世に喩えられていたためである。
つまり、護国神社(高円神社)は高円山の西の地を選び、西方浄土を模して戦没者を慰霊するための神社としたのではないかと思うのだ。

それはつまり、高円山は死者が住む山だという認識が昭和17年(護国神社が創祀された年)当事の人々にはあったのではないかということである。
死者とはもちろん高円山に墓がある志貴皇子のことである。

万葉歌人の笠金村という人が志貴皇子の晩歌を詠んでいる。

亀元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨ぜし時に作る歌 并せて短歌

梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 得物矢(さつや)手挟み立ち向ふ 高円山(たかまどやま)に 春野焼く
野火と見るまで 燃ゆる火を 何(い)かと問へば 玉鉾の道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白栲の 衣ひづちて 立ち留まり 吾に語らく
なにしかも もとな唁(と)ふ 聞けば 泣(ね)のみし哭(な)かゆ 語(かたら)へば 心ぞ痛き天皇(すまらぎ)の 神の御子の 御駕(いでまし)の 手火(たび)の光りぞここだ照りたる

(梓弓を手に持ち、勇士たちが狩の矢を指に挟み持ち、立ち向かい狩をする高円山。
その高円山に、春野を焼く野火のように火が燃えている。
「この火は何か、」と問うと、小雨が降ったかのように涙で真っ白な喪服を濡らしながら道を歩いて来る人が立ち止まって答えた。
「どうしてそんなことをお尋ねになるのですか。聞けば、ただ泣けるばかり。語れば、心が痛みます。天皇の尊い皇子様の、御葬列の送り火の光が、これほど赤々と照っているのです。」)

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。) 


この歌をふまえて大文字送り火を見ると、まるで送り火が志貴皇子の葬列の送り火のように見えてくる。

昭和35年、大文字送り火点火する行事をしようという計画が持ち上がったとき、それではどの山に送り火を点火したらいいかと議論されたことだろう。
そのとき、だれかの頭の中に笠金村が詠んだ志貴皇子への挽歌が思い浮かんだのではないだろうか。
そのため、送り火を点火するにふさわしい山は高円山以外にはないということになったのかもしれない。
鷺池…奈良市春日野町
大文字送り火・・・8月15日 20時より(確認をお願いします。)


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翁の謎⑥ 奈良豆比古神社 『ハンセン病を患った春日王と非人にされた弓削浄人』

翁の謎⑤ 般若寺 『ハンセン病患者と文殊菩薩』 よりつづきます~

奈良豆比古神社 鳥居


●志貴皇子と春日王

般若寺の参拝をすませたあと、般若寺の向かいにある植村牧場さんソフトクリームを買い(ミルクの味が濃くてとても美味しいです。)ソフトクリームを食べながら、さらに奈良坂を登っていった。

ソフトクリームを食べ終わったころ、私は奈良豆比古神社に到着した。

境内の奥には丹塗りの玉垣と鳥居があり、鳥居の下から中をのぞき込むと3つの社が建てられていた。


奈良豆比古神社 社殿  

参拝を済ませた私に「こんにちは」と声をかけてくださる方があった。
振り向いてみると年配の男性が立っていた。
話を伺ったところ近所に住んでおられるということだった。
男性は次のようなことを教えてくださった。

「3つ社がありますやろ、真ん中の社に祀られている神さんは平城津彦(ならづひこ)神ゆうて、産土の神・・・この土地の守護神ですわ。
向かって右は志貴皇子です。有名な歌がありますやろ、
いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも
この歌を詠みはった人です。
田原天皇・春日宮天皇ともいいますね。」

「ああ、志貴皇子の子の白壁王が即位して光仁天皇となられ、父親の志貴皇子を春日宮御宇天皇と追尊されたんでしたっけ。」

「そう、実際には志貴皇子は天皇ではなかったんですが、息子の光仁天皇が天皇の位をおくられたわけですわ。
志貴皇子の陵は高円山にあるんですけど、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれています。
それから向かって左には志貴皇子の子の春日王をお祭りしています。
春日王は田原太子とも呼ばれていますが」

「えっ、父親が田原天皇で息子が田原太子ですか?」

「そうです、志貴皇子は天智天皇の第七皇子やったんですが、672年に壬申の乱がおきましてね・・・・」

「天智天皇の皇子の大友皇子と、天智天皇の弟の大海人皇子が皇位をめぐって争った戦いですね。」

「はい、その壬申の乱で志貴皇子は異母兄弟である大友皇子側につかれました。
御存じのように大友皇子は敗れて大海人皇子が天皇になられました。
そういうわけで乱後の志貴皇子は不遇でした。

その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養されました。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があって、この兄弟が熱心に春日王の看病をされました。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈りはった。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かったそうです。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてておられました。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだそうです。
親孝行な兄弟の評判が桓武天皇にの耳にもはいりまして、桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とされたそうです。」

「弓削・・・・・・?」

「木や竹を削っ弓を作ってはったんで弓削という名前を与えはったんと違いますかな。
・・・・・そうそう、10月にはここで翁舞の奉納がありますんで、よかったら見に来てください。」

「えっ、翁舞?能の翁と何か関係があるんですか?」

私は正月に八坂神社で翁という能を見たことを思い出した。
翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』

「奈良豆比古神社は古くから芸能の神として信仰されてましてね、明治維新頃までは能や歌舞伎の役者は奈良豆比古神社を参拝して興行許可を得とったそうです。
能の翁のルーツはここの翁舞やと私は思います。
セリフとかもよう似てますし。
ここの翁舞は三人翁いうて、翁が3人出てきますけどね。」


●春日王はハンセン病をもたらす怨霊だった?

古においては神と怨霊は同義語であったとされる。
怨霊とは政治的陰謀により不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えらえていた。
おそらく陰陽道の考えによるものなのだろうが、このような怨霊は神として祀り上げることで、守護神に転じるという信仰があった。
つまり、穢れ多い怨霊と、神聖なる神は表裏一体の存在だったのである。

ハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていた。
先ほどお参りしてきた般若寺はハンセン病を患ったといわれる春日王を慰霊するための寺だと私は考える。
もしかすると春日王がハンセン病を患ったというのは事実ではないかもしれない。

翁の謎③ 法華寺 『光明皇后と行基の前に現れた疫神』
↑ こちらの記事に私は次のように書いた。

「貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されることが多い。
ということは疫病をもたらす疫病神は疫病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。
光明皇后と行基の前に現れた天然痘を患った病人とは天然痘をもたらした長屋王の怨霊なのではないだろうか。」と。

これと同様、ハンセン病をもたらす神はハンセン病を患った姿をしていると考えられたのかもしれない。
すなわち、春日王は政治的陰謀によって不幸な死を迎え、死後怨霊になったと考えられた。
そしてハンセン病は春日王の怨霊の仕業でひきおこされると考えられていたのではないかということである。

●どんな人が非人になったのか

翁の謎④ 北山十八間戸 『非人とハンセン病患者』でお話したように、かつてここは非人の町だった。
一方、翁は能というよりは神事であるといい、、『別火を喰う』と言って、舞台に立つ7日前から家族と寝食を分かち、食事を調理する火も共用することが許されないという。
それほど神聖で穢れを嫌う神事を、非人が行っていたということに疑問を感じる人がいるかもしれない。
非人とは穢れた存在として差別された人々のことではなかったのか、と。

『別火』についてだが、昭和の時代の部落出身の人が『別火といって煙草の火を貸してもらえなかった』という意味の文章を書いておられたことを思いだす。
昭和という時代には『別火を喰う』ことは、神聖視というよりも蔑視の意味合いを持っていたようだ。

非人とは「人に非ず」という意味だが、人に非ずとは鬼であり、また神でもあるという両面の意味を持っていたのではないかと私は思う。
というのは先ほども述べたように、古において怨霊(鬼)と神は同義語であったとされるからだ。

それではどのような人たちが非人となったのだろうか。

日本には先祖の霊はその子孫が祭祀(供養)すべきという考え方があった。
その例は記紀にも記述がある。
崇神天皇代に大物主神の怨霊の祟りで疫病が流行ったが、大物主神の子の大田田根子を大神神社(大物主神を御祭神としている)の神官にしたところ疫病がおさまったというのである。
この話は、子孫が祭祀することで怨霊の祟りを鎮めることができるという信仰があったことを物語っている。

春日王が怨霊であったとすれば、春日王は謀反人として不幸な死を迎えた人であったと考えることができる。
春日王の怨霊の祟りを鎮めることができるのは春日王の子である浄人王と安貴王、また彼らの子孫だということになる。

さきほどの男性の話では、兄弟は夙冠者黒人と呼ばれていたということだったが、夙とは中世から近年にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民のことである。
奈良坂に住む賎民は北山夙と呼ばれていた。
夙と非人は同様のものだと考えてもいいだろう。
春日王の子の浄人王と安貴王は非人だったのである。

また平安時代に承和の変をおこしたとして橘逸勢が姓を非人と改められて流罪になっている
非人とは謀反人もしくはその子孫のことではなかっただろうか。

桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えたということだったが、これを言葉通りにとってはいけない。
橘逸勢のケースと同様で、桓武天皇は浄人王と安貴王の官位をはく奪し『弓削』という名前を与えて非人にした、ということだろう。

浄人王は皇族であったが、父の春日王が謀反人とされたため非人とされ弓削浄人という名前になったのだろう。

弓削浄人という名前には聞き覚えがある。
奈良時代の女帝・称徳天皇が寵愛し、次期天皇にしたいとまで考えていた僧の名前を道鏡という。
道鏡は弓削氏の出身のため弓削道鏡とも呼ばれている。
その道鏡の弟の名前が弓削浄人なのだ。
弓削氏は王族ではないが・・・・。

護王神社絵巻に描かれた道鏡 
護王神社絵巻に描かれた道鏡




奈良豆比古神社・・・奈良市奈良阪町2489

翁の謎⑦ 奈良大文字 送り火 『死者が住む高円山』へつづく~
トップページはこちら→翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』

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翁の謎⑤ 般若寺 『ハンセン病患者と文殊菩薩』

翁の謎④ 北山十八間戸 『非人とハンセン病患者』 よりつづきます~

●山吹の咲く寺

般若寺 山吹 

北山十八間戸からさらに北へ向かって坂を登っていくと、ほどなく古い楼門が現れた。
般若寺である。

般若寺の境内には山吹の花がこぼれんばかりに咲いていた。
般若寺はコスモス寺として有名だが、コスモスが日本に入ってきたのは明治20年ごろのことである。
なので般若寺がコスモス寺と呼ばれるようになったのは明治20年以降のことだということになる。
もともとは般若寺はコスモス寺ではなく、山吹寺であったのかもしれない。

●山吹には実がならない。


山吹で有名な松尾大社のHPに次のような伝説が書いてあった。

室町時代の武将・太田道灌は、鷹狩りに出たが雨に降られ、近くの小屋に入って蓑みのを貸してほしい、と申し入れた。
しかし小屋から出てきた女性は蓑ではなく山吹の花を一枝差し出した。
道灌は『貸してほしいのは花ではなくて蓑みのだ』と怒って帰った。
後日、ある人が道灌に女性が山吹をさしだした理由を教えた。
八重山吹の花には実がならないことを、貧しいがゆえ蓑が一つも無いことにかけ、古歌・『七重八重 花は咲けども山吹の 【み】のひとつだに なきぞかなしき(兼明親王)』の心を伝えた。


【み】のひとつだに』の【み】は、実と身をかけてある。
さらに『【み】のひとつだに』の『【み】の』には『蓑』がかかる。

『七重八重 花は咲けども山吹の 【み】のひとつだに なきぞかなしき(兼明親王)』

この歌は『七重八重に花は咲きますが、山吹は実がひとつもならないように、蓑がひとつもありません。なんと悲しいことだろうか。』というような意味である。

●子孫が繁栄しなかった聖徳太子


斑鳩にある中宮寺にもたくさんの山吹が植えられていた。

中宮寺 山吹  
中宮寺は法隆寺の隣にある尼寺で、聖徳太子が母親の穴穂部間人皇后の宮殿を寺としたと伝わる。

聖徳太子は日本人の中で最も尊敬されている人物だといえるだろうが、現在の日本人の中には聖徳太子の血は一滴も流れていない。
蘇我入鹿に攻められて、聖徳太子の子孫は全員、斑鳩寺(法隆寺)で首を吊って自害したのである。

中宮寺に山吹が植えられているのは、実がならない山吹のように、聖徳太子の子孫は繁栄せず血が絶えたということを表現するためなのかもしれない。

●ハンセン病患者は文殊菩薩の化身

本堂には小さな厨子が置いてあって、小さくて可愛らしい文殊菩薩像が置かれてあった。

般若寺は629年高句麗の僧・慧灌(えかん)によって創建された。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したといわれる。文殊菩薩の巨像を御本尊としていたが1490年に焼失した。
現在の文殊菩薩像は1324年に慶派仏師・康俊が刻んだもので、もともとは経像の本尊で秘仏だった。
本堂の御本尊が焼けてしまったのでかわりに本尊にしたという。

文殊菩薩は『智慧の菩薩』と言われている。
仏教の修行の結果として得られたさとりの智慧のことを般若という。
般若寺という寺名は文殊菩薩を祀っているところからくるのだろう。

能に用いる般若の面は『嫉妬や恨みの篭る女の顔』を表したもので、角が生えた恐ろしい形相をしている。
なので、鬼のことを般若というのだと思っていたが、間違いだったのである。

般若坊という僧侶が面を作ったので般若面と呼ばれるのだとか、『源氏物語』の葵の上が六条御息所の生霊にとりつかれた時、般若経を読んで怨霊を退治したところからそう呼ばれるようになったなどと言われている。

前回、私は北山十八間戸について次のように述べた。
①北山十八間戸は鎌倉時代のハンセン病患者を救済するための福祉施設だった。
②奈良坂には非人(寺社に隷属する民のこと)が住む夙があった。
③非人たちは清掃・警護・死体の処理などのほか、ハンセン病患者の看護なども行っていた。
奈良坂に北山十八間戸がつくられたのは、奈良坂が非人たちがすむ夙があったためだと考えられる。

そして前々回、光明皇后や行基の前にあしゅく如来や薬師如来の化身の天然痘患者があらわれたという伝説を紹介したが、ハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていた。

宿の町・奈良坂にある般若寺の御本尊が文殊菩薩なのはこのためだろう。
般若寺はハンセン病患者の霊を弔うための寺なのだろうか。
いや、無名のハンセン病患者の霊を弔う寺だとは考えられない。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てたということは、それなりの身分で、ハンセン病を患った人がおり、その人物を弔うための寺であったのではないだろうか。

聖武天皇と同時代で、それなりの身分でハンセン病を患った人物がいる。
春日王だ。
般若寺・・・奈良市般若寺町221


翁の謎⑥ 奈良豆比古神社 『ハンセン病を患った春日王と非人にされた弓削浄人』へつづく~
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