①興福寺の阿修羅は土蜘蛛を表している?興福寺の国宝館に八部衆の像が安置されている。 (八部衆の写真はこちら→ ☆) 五部浄像(ごぶじょうぞう)は像の冠をかぶっている。 乾闥婆像(けんだつばぞう)は獅子の冠をかぶっている。 緊那羅像(きんならぞう)は一本の角と三つの目を持っている。角が生えているのは動物だといえるかもしれない。 迦楼羅像(かるらぞう)は頭が鳥で体が人間である。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Karura_of_Kofukuji.jpg?uselang=ja よりお借りしました。 作者 撮影・小川一真(「彫刻写真帖」) ( http://webarchives.tnm.jp/archives/cat/database) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 畢婆迦羅像(ひばからぞう)はニシキヘビを神格化した神である。 沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いている。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Statues_of_Tianlong_babu.jpg?uselang=ja よりお借りしました。 作者 撮影・工藤利三(「社寺建築写真帖3」) ( http://webarchives.tnm.jp/archives/cat/database) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 左・畢婆迦羅像、右・沙羯羅像(興福寺) 鳩槃荼像(くばんだぞう)は夜叉であり、特別、動物のイメージはないように思われるが、八部衆のうち五部浄像・沙羯 迦像・乾闥婆像・楼羅像・畢婆迦羅像には明確に動物のイメージがある。 興福寺の八部衆の中でもっとも有名な阿修羅はどうだろうか。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ASURA_Kohfukuji.jpg?uselang=ja よりお借りしました。 作者 日本語: 小川晴暘 English: OGAWA SEIYOU [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 私は阿修羅の細長い、筋肉のついていない腕を見て、これは昆虫の足に似ていると思った。 蜘蛛に似ていると思うがどうだろうか。  現在の阿修羅は胸前で合掌しているが、もともとは合掌していなかったという。 阿修羅の合掌する腕の肘から下を下にむければますます蜘蛛に似ている。 蜘蛛の脚は8本である。 阿修羅の腕は6本で2本足りないが、脚の2本を足すと蜘蛛と同じ8本になる。 古事記・日本書紀・風土記などに『土蜘蛛』と呼ばれる人々についての記述がある。 土蜘蛛とは朝廷にまつろわぬ民のことで、穴の中に住み、身体的特徴として『背が低くて手足が長い』と記されている。 阿修羅像の像高は台座の部分を含めて153.4cmと小柄で、脚の長さはそうでもないが、腕は異常に長い。 ②隻眼の神
また阿修羅像の左目は、いったん白でキャッチライトを入れたあと、墨で塗りつぶされている。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG?uselang=ja よりお借りしました。 作者 日本語: 小川晴暘(1894-1960) 仏像写真家 飛鳥園創業者) English: Ogawa Seiyou (1894-1960), a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 阿修羅は隻眼なのである。 ③隻眼はたたら製鉄の神隻眼はたたら製鉄に携わる人の職業病である。 たたら製鉄では鉄の温度を見るために片目で火を見るため、片目を失明することが多かったという。 興福寺 藤 ④土蜘蛛は坑道の中に棲んでいた?日本書紀・風土記などに『土蜘蛛は穴の中に住む』と記述があるところから、土蜘蛛とは未開の民族だと考えられているが、私はそうではないと思う。 『穴の中にすむ』とは『坑道の中に住む』という意味で、『鉱山の神』を意味しているのではないだろうか。 阿修羅をはじめとする八部衆像はもともとは西金堂に安置されていた。 西金堂は734年に光明皇后が亡母・橘三千代のために建立したものだが、現存していない。 興福寺 夕景 ⑤阿修羅は阿部内親王16歳像?西金堂が建立された734年、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた阿部内親王は16歳であり、阿修羅像は阿部内親王16歳の姿をうつした像ではないか、という説がある。 阿部内親王は女性として初めて皇太子に立てられた人物で、749年に即位して孝謙天皇となった。 758年には淳仁天皇に譲位したが、764年に重祚(再び天皇になること)し、称徳天皇となっている。 淳仁天皇から皇位を取り上げると宣言して重祚したり、藤原仲麻呂の乱を平定したりとなかなかの女傑だったようである。 采女祭 後方に見えているのは興福寺五重塔⑥称徳天皇は蝦夷だった?『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、称徳天皇は蝦夷の安倍一族の出身であると記されている。 当時、日本の東国には蝦夷と呼ばれるまつろわぬ民が住んでおり、朝廷はたびたび蝦夷征伐の軍を送っていた。 あるとき、大野東人が率いる朝廷軍が蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたというのである。 また東大寺の大仏建立に用いられた黄金は、称徳天皇が蝦夷で東国出身であった関係で、奥州から送られたと記されている。 『東日流外三郡誌』は後世の偽書であるとされているが、なかなか興味深い記事である。 もしも『東日流外三郡誌』がいうように、称徳天皇が安倍氏の血をひいており、阿修羅像が阿部内親王16歳像であるとすれば、阿修羅が蜘蛛の姿をしていること、隻眼であることの理由がわかる。 安倍氏は朝廷に服しない蝦夷であった。 安倍氏は土蜘蛛というにふさわしい。 また奥州では金が採掘されているため、鉱山の神は隻眼だということで、阿修羅は片目が潰されて隻眼にされたのではないだろうか。 興福寺 夜景 興福寺・・・奈良県奈良市登大路町48
土蜘蛛の謎⑤ 蜘蛛の巣に住む観音へつづく~ トップページはこちら→ 土蜘蛛の謎① 亀石伝説
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[ 2017/01/30 ]
土蜘蛛の謎 |
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土蜘蛛の謎② 土蜘蛛とは首のない人間のことだった? よりつづく~ 一言主神社
①木霊の神 古事記に次のような話がある。 雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがあったが、その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちであった。 雄略は『この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と言った。 すると、向かいの山の方から、全く同じような返答が返ってきた。 雄略やお供の者が怒って矢を弓につがえると、向こうの人たちも矢をつがえた。 雄略は『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』 と言った。 向こうは『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と言った。 これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』 と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上した。 一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送った。 葛城山の南に金剛山があるが、かつて葛城山と金剛山はどちらも葛城山と呼ばれていた。 そして葛城山の山麓近くには一言主神社が、金剛山の山頂近くには葛木神社があって、どちらも一言主大神を祀っている。 高校のときにワンダーフォーゲル部に所属していた友人に聞いたのだが、葛城山から金剛山へ至るダイヤモンドトレールと呼ばれる道ではよく山彦が聴こえるという。 雄略天皇と同じいでたちをし、同じ言葉を語る一言主大神とは木霊(山彦)を神格化したものではないだろうか。 一言主神社には樹齢1200年と伝えられる御神木の大公孫樹がある。 木霊(山彦)はこの大公孫樹の声だと考えられたのかもしれない。 一言主神社 大公孫樹②一言主大神はドザエモン?
797年に記された続日本紀は、古事記の記述とは異なっている。 高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争い、そのため天皇は一言主神を土佐国に流した。土佐の一の宮、土佐神社には天皇が流罪とした一言主神が祀られている。 土佐神社という神社名はどこからつけられたのだろうか。 土佐にあるから土佐神社なのだろうか。 とすれば土佐という地名の由来は何なのだろうか。 土佐はかつて土左とも記したそうである。 もしかすると土佐という地名は土左衛門と関係があるのではないだろうか。 ③水死体のことを土左衛門と言うのは、成瀬川土左衛門に由来するとは言い切れない。土左衛門とは水死体のことである。 一般に、水死体のことを土左衛門というのは享保年間の力士「成瀬川土左衛門」が大変な肥満体で、体が膨れあがった水死体に似ていたためだと言われている。 しかし、これとは別の説もあり、土左衛門の語源が「成瀬川土左衛門」だという説は絶対的なものではない。 ④土佐=十三?土佐という地名から、私は青森県の十三湖(じゅうさんこ)にかつてあった十三湊(とさみなと)という地名を思い出す。 十三湊(とさみなと)という地名は十三湖(じゅうさんこ)の「十三」を「とさ」とよんだところからくるのだろう。 土佐も十三湊の十三と同じく「とさ」と読むが、この土佐という地名は十三からくるのではないだろうか? ⑤土左衛門=十三=重蔵?大阪市の地名に十三というのがある。 「とさ」ではなく「じゅうそう」と読む。 この十三(じゅうそう)の地名の由来は『重蔵(じゅうぞう)』という人物の名前からくる、という説がある。 さらに石川県輪島市に「重蔵神社」がある。 重蔵神社 祭の行列能登には漁師の重蔵とお小夜の悲恋伝説が伝わっている。 伝説には様々なパターンがあるが、そのひとつに次のようなものがある。 漁師の重蔵が水死し、恋人のお小夜は悲しむあまり、海に入って死んでしまった。 水死した重蔵は水死体、すなわち土左衛門である。 重蔵神社の重蔵とは水死体を意味する「土左衛門(どざえもん)」が「土左(とさ)」→「十三(じゅうさん)」→「じゅうそう」→「じゅうぞう」→「重蔵」となったのではないだろうか。 あるいは「十三(じゅうさん)」や「土左(とさ)」という言葉はもともとは「水死体」を意味するものであり、「土左(とさ)」→「十三(じゅうさん)」→「じゅうそう」→「じゅうぞう」→「重蔵」となったのかもしれない。 重蔵神社 キリコ祭⑤男幽霊は土左衛門輪島は舳倉島の奥津比咩(おくつひめ)神社に対する信仰が厚い土地で、重蔵神社の祭礼は、舳倉島の女神と輪島の男神が結ばれる祭とされている。 お小夜は舳倉島の女神の化身だと考えられる。 輪島市名舟町においても舳倉島の女神は厚く信仰されていたが、この名舟の郷土芸能として御陣乗太鼓がある。
御陣乗太鼓(向かって右端が男幽霊ではないかと思います。)達磨太子、翁、男幽霊、女幽霊などの面を被った人々が太鼓を打ち鳴らすというものだが、男幽霊の面は別名を土左衛門(どざえもん)という。 男幽霊の別名が土佐衛門だと聞いて、私は重蔵神社という神社名の由来も土佐衛門からくるものにちがいないと確信した。 男幽霊は水死した土左衛門であり、土左から転じて重蔵と呼ばれるようになったのだろう。 女幽霊はもちろん、お小夜(=奥津比咩)である。 御陣乗太鼓⑤土佐は土左衛門の霊がうごめく土地?土佐神社に話を戻そう。 土佐は石川県の輪島と同じように漁師が多い。 暴風雨などにより海で命を落とす人も多かったことだろう。 土佐は土佐衛門の霊がうごめく土地だったといえるのではないだろうか。 御陣乗太鼓⑥土佐はあの世、流刑者は土左衛門に喩えられていた?さらに古の人々は平安京の中をこの世、平安京の外はあの世になぞらえていたそうである。 流刑地であった土佐もまた、あの世に喩えられたことだろう。 するとあの世に喩えられる流刑地に流される流刑者は水死体=土佐衛門に喩えられたのではないかと思えてくる。 そして、一言主大神は天皇に土佐に流罪とされた神であった。 一言主大神もまた土佐衛門だったといえるのではないだろうか。 ⑦一言主大神は土蜘蛛だった?一言主大神を祀る一言主神社には土蜘蛛の塚が置かれている。 土蜘蛛とは記紀や風土記に登場する「まつろわぬ民」のことである。 前回、私は土蜘蛛とは「首のない人」のことではないかと論じたが、首がないのは謀反の罪で斬首されたためである。 一言主神社に土蜘蛛の塚が置かれているのは、一言主大神が謀反の罪で斬首された土蜘蛛であるからではないだろうか。 土蜘蛛は謀反の罪で斬首され、さらに土佐へ流罪となったのではないか。 御陣乗太鼓葛城一言主神社・・・奈良県御所市森脇字角田432 重蔵神社・・・石川県輪島市河合町4-68
[ 2017/01/29 ]
土蜘蛛の謎 |
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①葛城一言主神社の亀石と土蜘蛛の塚 前回の記事 で飛鳥の『亀石』について述べたが、葛木一言主神社にも[『亀石』と呼ばれる石がある。 葛城一言主神社葛城一言主神社は葛城山の中腹にあるため、長い階段が設けられている。 『亀石』はその階段の上り口の向かって左手にある。 亀石
階段を登ると境内で、樹齢1200年と伝わるイチョウの木、神殿、拝殿などがある。 この拝殿の横に『土蜘蛛の塚』と呼ばれる石がある。 土蜘蛛の塚
一言主神社の『土蜘蛛の塚』は土蜘蛛の胴体を埋めた上に石を置いたもの、頭は神殿の下、足は神殿より100mほど先にある鳥居付近に埋められたといわれている。 土蜘蛛とは記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことで、『穴の中に住む』と記されている。 『穴の中に住む』とあるところから、土蜘蛛とは未開の民族であると考えられている。 この土蜘蛛をモチーフとした大念仏狂言や六斎念仏などの演目がある。 嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛 ②『土蜘蛛の塚』は蜘蛛、『亀石』はドクロを表している?
一言主神社の言い伝えを整理すると次のようになる。 土蜘蛛の胴体・・・土蜘蛛の塚の下に埋められた。 土蜘蛛の頭部・・・神殿の下に埋められた。 土蜘蛛の脚・・・・神殿より100mほど先にある鳥居付近に埋められた。『土蜘蛛の塚』は見る角度によっては二つのふくらみがあるように見え、蜘蛛の形をしているように見える。 (蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部位よりなる。) そして亀石は階段の登り口にあるが、この場所は神殿の下、といえなくもない。 一言主神社 階段また、亀石はどことなく人間のドクロを思わせるような形をしている。 そういえば飛鳥の亀石も人間のドクロに似ている。  飛鳥 亀石
『土蜘蛛の塚』が土蜘蛛の胴体を埋めた上に置いた石であるならば、亀石は土蜘蛛のドクロを埋めたうえに置いた石なのではないだろうか。
土蜘蛛の胴体・・・土蜘蛛の塚の下に埋められた。・・・土蜘蛛の塚(蜘蛛形の石) 土蜘蛛の頭部・・・神殿の下に埋められた。・・・・・・・・・亀石(ドクロ形の石) 土蜘蛛の脚・・・・神殿より100mほど先にある鳥居付近に埋められた。
③頭部のない昆虫
昆虫の体は頭部・胸部・腹部の3つに分かれているが、蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部分からなり、昆虫とは別の動物とされている。 『土蜘蛛の塚』は蜘蛛の形に似ているが、これに階段の登り口にある『亀石』を合体させるとアリのような昆虫の形になる。 それで閃いたのだが、昔の人は蜘蛛を頭部のない昆虫だと考えたのではないだろうか。 こう考えれば、土蜘蛛の胴体を埋めたうえに置いた石『土蜘蛛の塚』が蜘蛛の形をしていること、『土蜘蛛の塚』に『亀石』をくっつけると昆虫のように見えることの説明がつく。 ということは、記紀に登場する土蜘蛛とは首を斬られた人の霊なのではないだろうか。 そして亀石とは土蜘蛛の斬られた首=ドクロを模した石なのだと思う。 一言主神社 秋季大祭④負けたのはナマズなのに、なぜ死んだのは亀なのか。土蜘蛛の謎① 亀石伝説 ←こちらの記事で、私は飛鳥の亀石の伝説をご紹介した。 かつて大和は湖であり、当麻の蛇と川原のナマズが湖を二分して支配していた。 あるとき、蛇とナマズが湖の支配権をかけて争い、川原のナマズが負けた。 その結果、湖水を当麻に取られて川原の湖は干上がり、多くの亀が死んだ。 亀石はその追悼の意味から造られたもので、この石が当麻のある西を向いた時には、大和盆地は大洪水がおこって湖になると言い伝えられている。
そして次のような疑問を記した。 「争ったのは當麻の蛇と川原のナマズで、争いに負けて死んだのは川原のナマズだと考えられる。 それなのになぜ死んだのはナマズではなく亀なのだろうか?」と。 川原のナマズとは蘇我入鹿を比喩的に表現したものだと考えられる。 そして死んだ亀とは蘇我入鹿のドクロを比喩したものだと私は思う。 川原のナマズ・・・蘇我入鹿 死んだ亀・・・・蘇我入鹿のドクロ このように考えれば、戦いに敗れたのはナマズだが、その結果死んだのが亀だということの理由がわかる。 亀とはナマズの髑髏のことだったのだ。 一言主神社 一陽来復祭葛城一言主神社・・・奈良県御所市森脇字角田432
[ 2017/01/27 ]
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① 飛鳥の亀石飛鳥路を歩いていくと、謎の石造物が次々に現れる。 中でもそのユーモラスな姿で有名なのが亀石である。 亀石は亀を象ったものではなく、蛙を象ったものではないかともいわれている。
亀石②亀石の伝説亀石には次のような伝説がある。 かつて大和は湖であり、当麻の蛇と川原のナマズが湖を二分して支配していた。 あるとき、蛇とナマズが湖の支配権をかけて争い、川原のナマズが負けた。 その結果、湖水を当麻に取られて川原の湖は干上がり、多くの亀が死んだ。 亀石はその追悼の意味から造られたもので、この石が当麻のある西を向いた時には、大和盆地は大洪水がおこって湖になると言い伝えられている。 ③水の都・飛鳥以前、テレビで古代の飛鳥を再現したCGを見たことがあるのだが、それはまさに水の都であった。 酒船石や亀形石造物は宮廷の水をひく庭園施設ではないかとされる。 酒船石

亀型石 飛鳥板蓋宮跡の北西には飛鳥京跡苑池遺跡がある。
石神遺跡から出土した須弥山石は噴水施設であり、池が作られていたと考えられている。 須弥山石(飛鳥資料館にあるレプリカ)
また蘇我馬子の邸宅には島を浮かべた池があったという。 ④大和湖古代の奈良盆地には巨大な湖・大和湖があったという説もあり、亀石伝説は大和湖を舞台として創作されたものだとも言われている。 ⑤川原のナマズ、當麻の蛇の正体しかし亀石伝説のいう『湖』とは飛鳥が水の都であったことの喩えなのではないかと、私は思う。 当麻の蛇に負けた川原のナマズとは645年の乙巳の変で殺害された蘇我入鹿、当麻の蛇とは中大兄皇子もしくは中臣鎌足のことではないだろうか。 中大兄皇子と中臣鎌足は乙巳の変で蘇我入鹿を殺害した人物だ。 ⑥蘇我氏の都から天智天皇の都になった飛鳥当時蘇我氏は絶大な権力を握っており、飛鳥に水の都の基礎を築いたのは蘇我氏だといえるだろう。 しかし645年、中大兄皇子と中臣鎌足がクーデターをおこして蘇我入鹿を斬り、蘇我氏宗本家は滅んだ。 多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)刀を持っているのが中大兄皇子、首を斬られているのが蘇我入鹿。その後、孝徳天皇が難波宮に遷都したが、653年中大兄皇子は皇祖母尊・皇后・皇弟(大海人皇子)をひきつれて飛鳥に戻った。 臣下の多くも中大兄皇子に従った。 孝徳天皇はひとり難波宮に残されてしまう。 こうして水の都は蘇我氏から中大兄皇子の手に移った。 これを比喩して『湖水を当麻に取られて川原の湖は干上がり、多くの亀が死んだ。』と表現したのではないだろうか。 つまり、勝った當麻の蛇とは中大兄皇子と中臣鎌足、負けた川原のなまずとは蘇我氏の比喩ではないかということである。 飛鳥光の回廊・飛鳥板葺宮跡(蘇我入鹿が殺害された皇極天皇の宮)⑦當麻と藤原氏の関係二上山のふもとにある當麻寺は『当麻氏』の氏寺であるが、この當麻寺に藤原豊成の娘・中将姫が出家して住んだという伝説がある。 中将姫の父・藤原豊成は中臣鎌足(=藤原鎌足/中臣鎌足は天智天皇より藤原姓を賜っており、藤原氏の始祖である。)の曾孫にあたる。 藤原豊成の妻・藤原百能の父親は藤原京家の麻呂で、母親は當麻氏だった。 ここから当麻寺と中臣鎌足や藤原氏の関係が伺える。 また中大兄皇子の『中大兄』とは『次の皇太子』という意味で、実際には葛城皇子と呼ばれていたと考えられている。 当麻は葛城と呼ばれた奈良盆地南西部に隣接する土地であり、やはり関連性が伺える。 當麻寺
⑧ナマズvs蛇の戦いでなぜ亀が死んだのか?しかし、争ったのは當麻の蛇と川原のナマズで、争いに負けて死んだのは川原のナマズだと考えられる。 それなのになぜ死んだのはナマズではなく亀なのだろうか? 亀とは何を比喩したものなのだろうか。  蘇我馬子の墓といわれている飛鳥の石舞台古墳土蜘蛛の謎② 土蜘蛛とは首のない人間のことだった? へつづく~
[ 2017/01/25 ]
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翁の謎⑱ 立山黒部アルペンルート 『らいの鳥』よりつづきます~
三月堂と百日紅
●不空羂索観音と土蜘蛛 728年、聖武天皇と光明皇后が幼生した基皇子の菩提を弔うために若草山麓に金鍾寺創建した。 8世紀半ば、金鐘寺には羂索堂や千手堂が存在していた。 この羂索堂が現在の東大寺三月堂だと考えられている。 その後、741年に聖武天皇は国分寺建立の詔を発し、742年に金鐘寺は大和国の国分寺となり金光明寺と改められた。 747年ごろより、東大寺と呼ばれるようになる。 三月堂と鹿 三月堂はもとは寄棟造正堂と礼堂の二つの建物からなっていた。 鎌倉時代に礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつないだため、不思議な形をしている。 正堂は天平初期、礼堂は鎌倉時代の建築となる。 三月堂は現存する東大寺最古の建物である。 堂内には美しい天平仏たちが安置されている。 中央に安置されているのが三月堂御本尊の不空羂索観音である。 像高3.6メートルもある巨大な像で、宝冠には約2万粒の宝石がつけられている。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Todaiji_Monaster_Fukukensaku_Kwannon_of_Hokkedo_(232).jpg?uselang=ja よりお借りしました。 不空羂索観音の四本ある左手のうち、下から二番目の手に羂索を持っておられる。 羂索とは狩猟の道具で、5色の糸をより合わせた縄の片端に環、もう一方の端に独鈷杵の半形をつけたものである。 不空羂索観音はその羂索であらゆる衆生をもれなく救済する観音であるといわれる。 同じく不空羂索観音をご本尊としている不空院(奈良市高畑町1365)を参拝したとき、「羂索とは網である」と説明を受けた。 私は不空羂索観音が羂索を投げる姿を想像してみた。 羂索の網はぱあっと広がって、まるで狂言や六斎念仏で演じられる土蜘蛛のようではないか。
清水寺 中堂寺六斎 土蜘蛛 そう思って改めて見てみると、不空羂索観音の光背は蜘蛛の巣に似ている。
不空羂索観音の腕は8本だが、蜘蛛の脚も8本である。 不空羂索観音とは土蜘蛛をあらわしたもので、その光背は蜘蛛の巣をイメージしたものなのではないだろうか。 土蜘蛛とは奈良時代の記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことである。 まつろわぬ民とは、謀反人のことであるといってもいいだろう。 ●春日王・志貴皇子・開成皇子には、なぜハンセン病を患ったという伝説が残されているのか。不空羂索観音の肩にかけてあるケープのようなものは鹿の皮であるが、鹿もまた土蜘蛛同様、謀反人を比喩したものだとする説がある。 三月堂の外に出ると、何頭もの鹿が一人の観光客を取り囲んでいた。 観光客は手にお菓子を持っており、鹿たちはそれを狙っているようだった。(笑) その鹿の夏毛を見て、私は気がついた。 なぜ春日王または志貴皇子がハンセン病を患ったという伝説が残されているのか。 日本書紀の仁徳天皇紀に『トガノの鹿』という物語が記されている。 雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。 雌鹿は夢占いをして、 『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』 と答えた。 翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。  かつて謀反の罪で殺された人は塩を振ることがあったそうで、トガノの鹿に登場する雄鹿は謀反人の比喩ではないかとする説がある。 おそらく鹿の夏毛の斑点を、塩や霜にたとえたのだろう。 しかし、鹿の夏毛の斑点は、ハンセン病患者の皮膚にも似ている。 日本書紀に次のような話がある。 612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。 白斑の男はこう言って抵抗した。 「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。 私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」 そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。ここに登場する白斑を持つものは、「私と同じように白斑のある牛馬は飼えない」と言っているではないか。 帰宅後、私はパソコンを開いてハンセン病の症状について調べてみた。 http://www.geocities.jp/libell8/8byoukeibunrui.html上のページに症状が写真で説明されている。 MB型では鹿の夏毛のような形の紅斑ができている。 また日本書紀にあるように白い斑点が現れるといった症状もあったのだろう。 鹿の斑点は謀反人で殺された人に降る塩に見立てられると同時に、ハンセン病患者の皮膚の斑点にも見立てられたのだろう。 志貴皇子や春日王や開成皇子(海上皇子)がハンセン病を患ったという伝説があるが 実際に、志貴皇子や春日王や開成皇子(海上皇子)がハンセン病を患ったということではないだろう。 志貴皇子や春日王や開成皇子(海上皇子)は謀反の罪で殺されて塩を振られていた。 その状態が鹿の夏毛や、ハンセン病患者の皮膚の状態に似ているということで彼らがハンセン病を患ったという伝説が創作されたのだと私は思う。 end. トップページはこちら→ 翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』東大寺・・・奈良市雑司町
ながながとおつきあいくださいまして、ありがとうございました!
応援ありがとうございます!
[ 2017/01/24 ]
翁の謎 |
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翁の謎⑰ 勝尾寺 『勝尾寺は鰹寺だった?』 より続きます~ ●ライチョウに会いに、立山へ。扇沢駅前の無料駐車場に車をとめ、コートを着込む。 5月になるが、雪が厚く積もっており、風も冷たい。 扇沢駅から黒部ダム駅まで電気で関電トンネルトロリーバスでトンネル内を走り黒部ダム駅へ。 関電トンネルは黒部ダム建設用資材運搬用トンネルとして、1958年に開通した。 トンネル開通工事は大変な難工事で工事中、171人もの死者を出したという。 今このような事件がおこると大問題となるが、当時はそんなことはなかったのだろうか? 黒部ダム 黒部湖 関電トンネルトロリーバスさらに黒部ケーブルカー、立山ロープウェイ、立山トンネルトロリーバスと乗り継いでで室堂駅に到着した。 雪の大谷雪を切り開いて作った雪の大谷は観光客でごった返し、まるで繁華街のよう。 しかし、雪の大谷とは逆方向のみくりが池に向かう人はごくわずかだった。 みくりが池では雷鳥のつがいが私を迎えてくれた。 ニホンライチョウのオス ニホンライチョウのメス雷鳥は冬はほとんど飛ばないそうだ。。 私が訪れたのはゴールデンウィーク期間中だったが、雷鳥はほとんど飛ばなかった。 また雷鳥としては珍しくニホンライチョウは人を怖がらないそうで、写真を撮っても逃げない。 ●らいの鳥ライチョウは約2万年前の氷河期に日本にやってきたと考えられている。 氷河期が終わると多くのライチョウは北の地へ戻ったが、一部は高山の寒冷地り、進化してニホンライチョウとなったとされる。 現在の日本にはわずか2000羽が棲息するのみであるという。 平安時代にはライチョウは「らいの鳥」と呼ばれていた。 江戸時代には『鶆(らい)』と記された文献があるそうだ。 「らいの鳥」とは「癩(らい)病の鳥」という意味ではないだろうか。 ライ病は差別的な言葉であるとして現在ではハンセン病と言われているが。 http://www3.famille.ne.jp/~ochi/rai6.html↑ こちらのサイトにライチョウの換羽(衣がえ)の写真がある。 ライチョウは季節によって姿を変える。 上記サイトを見ると月ごろのライチョウには斑点があるが、1月2月ごろのライチョウは白い。 説明文を読むと、春ごろより斑点模様がでてくるようである。 ハンセン病には様々な症状があるが、顔面や手足に潰瘍ができるというケースもある。 斑点模様が、ハンセン病患者を思わせることから、「ライチョウ」という名前がついたのではないかと思ったりする。 奈良豆比古神社では、志貴皇子がハンセン病を患ったが、あるとき翁の面に病が移りもとの美しい顔になっていた、と伝えている。 奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』 斑点のある姿から真っ白な美しい姿に変化するライチョウは、まるで志貴皇子のようではないか。 立山黒部アルペンルート・・・富山県中新川郡立山町 長野県大町市
応援ありがとうございます!
[ 2017/01/22 ]
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翁の謎⑯ 祇園祭 黒主山 『白い神から黒い神に転じた大伴家持』 よりつづきます~

●開成皇子と開成皇子
今、前田速男さんの「白山信仰の謎と被差別部落」という本を読んでいるのだが、その中に興味深いことが書いてあった。
静岡県磐田市の白山神社には次のような伝説が残されているそうだ。 ①桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)は従者とともにこの地にやってきて、地元の人々の食べ物を乞うようになった。 その原因は、飼っていた雀が戸から飛び出し南殿の白砂にとまったのを追って、裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、癩者のになったためである。勝尾寺の創建説話に光仁天皇の皇子・開成皇子が登場する。 勝尾寺は727年に双子の兄弟、善仲と善算(藤原致房の子)がここに草庵を築いたのを始まりとし 765年に開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りたというのである。 前田速男さんはこの勝尾寺の創建説話に登場する開成皇子と、磐田市・白山神社の伝説に登場する海上皇子には関係があるのではないかと指摘されている。 というのは、愛知県新城市の白山神社には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子についての、次のような文書が残されているというのである。 ②御殿において白雀を飼はせらる まさに餌をやらんとすれば飛び放る 再び捕へんとして穢れし大地を踏まる 悪病にかかりて殿を出で 漂泊 旅して東原に至る①は桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)、②は後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子となっているが、内容は全く同じだ。 ここから、海上皇子(戒成皇子)と開成皇子には関係があると考えられる。 勝尾寺の伝説に登場する開成皇子と海上皇子は同一人物ではないだろうか。 勝尾寺の伝説に登場する開成皇子は光仁天皇の皇子、静岡県磐田市・白山神社の伝説に登場する海上皇子は桓武天皇の皇子となっている。 桓武天皇は光仁天皇の子なので、勝尾寺の開成皇子は光仁天皇の兄弟、開成皇子と海上皇子は伯父・甥の関係ということになる。 しかし私たちはすでに、志貴皇子とその子とされる春日王がどうやら同一人物であるらしいことを見てきた。 (参照/ 翁の旅⑪ 奈良豆比古神社 翁舞 『志貴皇子と春日王は同一人物だった?』) 奈良の奈良豆比古神社には志貴皇子の子の春日王がハンセン病を患ったという伝説がある。 ところが地元ではハンセン病を患ったのは志貴皇子であるという語りが伝承されているのだ。 また、春日王は田原皇子、志貴皇子は春日宮天皇または田原天皇とも呼ばれており、ふたりは同じ名前で呼ばれていたということになります。 皇室において父子が同じ名前で呼ばれていたというケースはないと思う。 そこから私は春日王と志貴皇子は同一人物ではないかと考えたのだ。 これと同様、海上皇子は桓武天皇の第四皇子、開成皇子は光仁天皇の皇子、となっているが、実は同一人物なのではないか。 ●志貴皇子の子に海上女王または海上王の名前が。
光仁天皇は志貴皇子の皇子である。 志貴皇子ー光仁天皇ー桓武天皇と血筋がつながっているのだ。 そして志貴皇子の子には光仁天皇・春日王のほか、海上女王または海上王の名前がある。 つまり、志貴皇子・光仁天皇・桓武天皇の3代にわたり、それぞれ海上または開成という名の子があったということになる。 しかも血のつながりのある志貴皇子・春日王・海上(開成)皇子がいずれもハンセン病をっ患ったという伝説が残されているのだ。 ●勝尾寺には白山信仰があった?
勝尾寺の三宝荒神社には、1677年、旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になったという伝説がある。 (参照/ 勝尾寺 雨 紫陽花 『白い神と黒い神』 ) 白髪の娘は白山の神をイメージして創作されたものではないだろうか。 また、白髪だったのは菅沼隠越中守の娘とされているが、越中とは現在の富山県だ。 富山県五箇村には菅沼集落があり、菅沼隠越中守はこの菅沼集落と関係の深い人物のように思えるが、五箇村は古より白山信仰が根付いていた地域だった。 五箇村菅沼集落
東国の被差別部落の多くが白山神を祀っている そうだ。 関八州のエタ頭浅草の弾左衛門の一子が天然痘(疱瘡)を患ったとき、加賀の白山に祈願したところ快癒した。 そこで弾左衛門は白山神に感謝して、自邸に勧請した。 各地の被差別部落もそれにならって白山神を勧請したと言われている。 しかし、弾左衛門の支配下以外の、信州・東海・近畿・四国・九州などでも白神を鎮守にする被差別部落は数多くあるのだという。 勝尾寺は勝王寺という寺名を賜ったが「王に勝つ」では畏れ多いとして「勝尾寺」としたとしているが、 鰹寺を転じて勝尾寺としたのではないかと思ったりもする。 山中で海からは遠いのに鰹寺というのは変なようにも思えるが、開成皇子の別名が海上皇子だとすれば、鰹寺というネーミングはぐっと近づいてくる。 弾左衛門の一子が患ったのは天然痘ということだが、白山信仰は静岡県磐田市の白山神社や愛知県新城市の白山神社では海上皇子(開成皇子)がハンセン病を患ったという伝説がつたわっており、 白山神社は天然痘よりもハンセン病と関係が深いのではないかと思う。 そしてハンセン病と被差別部落は関係が深い。 かつてハンセン病患者は夙に捨てられることが多かったのだ。 ハンセン病は古にはらい病、ナリンボ、ドス、カタヰ(カタイ)などとも言ったそうである。 魚偏に堅いと書けば鰹となる。 勝尾寺とはもともとは鰹寺であり、勝尾寺の創建説話に登場する開成皇子とは春日王や志貴皇子と同じくハンセン病の神として信仰されていたのではないだろうか。 ●ハンセン病はなぜ海と結び付けられたのか
日本書紀に次のような話がある。 612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。 白斑の男はこう言って抵抗した。 「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。 私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」 そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。ハンセン病には様々な症状があるが、その中に体の一部または数か所の皮膚が斑紋状に白くなるというのがあり、白癩(びゃくらい)と呼ばれていた。 白斑のある男はこの白癩の症状であったのかもしれない。 なるほど、ハンセン病を患った皇子の名前が海上皇子という理由がわかった。 この612年の日本書紀の記事で、白斑を持つ男を海中の小島に置き去りにしようとしたという故事から、ハンセン病の皇子のことを海上皇子と呼んだのだろう。 勝尾寺・・・大阪府箕面市粟生間谷2914-1 応援ありがとうございます!
[ 2017/01/21 ]
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翁の謎⑮ 勝尾寺 三宝荒神社 『白は荒魂 黒は和魂?』よりつづきます~
祇園祭 山鉾巡行 黒主山●「志賀」と「草子洗い」 祇園祭の山鉾のひとつ・黒主山は、謡曲・志賀を題材とした山である。 今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む老人に出会った。 この老人が大友黒主で、和歌の徳を語って消え去るが、臣下の夢の中に現れて舞を舞う。(謡曲・志賀)大友黒主とは六歌仙(僧正遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康秀・小野小町・大友黒主)の一人で、古今和歌集仮名序(古今和歌集の仮名で記された序文)に『大友黒主はそのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし 。』と記されている。 謡曲・志賀出大友黒主が花の陰に休む老人として登場するのは、この古今和歌集仮名序の文章を受けたものなのだろう。 また能に『草紙洗い』という演目があり、やはり大友黒主が登場する。 『草子洗い』は次のような筋である。 小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。 歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん (種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。 小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町之歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。 ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。 黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。 策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(能・草紙洗い)『志賀』では黒主は『和歌の徳を語る老人』であるが、『草子洗い』では『小町の歌を盗み聞くずる賢い人物』として描かれている。 いったい、大友黒主とはどのような人物だったのだろうか? 黒主山 御神体●大友黒主は古の猿丸大夫の次なり。 古今集には仮名書のほかに「真名序」とよばれる漢文で記された序文がある。 内容は仮名書とほとんど同じだが、微妙に表現が違っている。 たとえば、仮名書では 大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。 となっているが、真名序は次のようになっている。(読み下し文) 大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。 真名序には『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とある。 これはどういう意味だろうか。 真名序を書いたのは紀淑、仮名序を書いたのは紀貫之だと言われているが、紀貫之は古今伝授の創始者である。 古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことで、伝授する人物は和歌の第一人者に限られた。 鎌倉時代には藤原定家が父親であり師匠でもあった藤原俊家から古今伝授を受けている。 『古の猿丸大夫の次なり』の意味を定家ならば知っているかもしれない。 そう思って定家が撰んだ百人一首を調べてみた。 百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られている。 もしかしたら定家は『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』という仮名序の文章を受けて、百人一首において大友黒主の正体を明らかにしているのではないか、と思ったのだ。 つまり、猿丸大夫の次の歌人が、大友黒主ではないかという推理だ。 百人一首では猿丸大夫は5番だった。 その次・・・6番は大伴家持だった! 大友黒主は大伴黒主と記されることもある。 また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいるのだ。 白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主 (白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。) 白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持 (白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。) 古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』という。 本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことである。 大伴黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じで、本歌取りではない。 ほとんど同じと思われるふたつの歌の、一方は大伴黒主、一方は大伴家持の歌であるという。 このことからも、ふたりは同一人物ではないかと思われる。 祇園祭 宵山 黒主山 ●そのさまいやし 大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄だった。 仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないだろうか。 また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。 仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないだろうか。 大伴家持の死体は腐敗し、蛆がわいたような状態であったであろうと想像される。 真名序に『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだろう。 『鄙し』とは『いやしい』という意味である。 ●万葉集を編纂した大伴家持 大伴家持は優れた歌人であり、万葉集を編纂した人物でもあった。 そして草紙洗に登場する大友黒主以外の歌人、小野小町・紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らは古今和歌集の歌人である。 『草紙洗い』において、大友黒主=大伴家持は万葉集の中に小町の歌を書き入れているが、 『書き入れる』というのは『編纂する』という意味だろう。 万葉集を編纂した大伴家持(大友黒主)だからこそ小町の歌を万葉集に書き入れることができたのである。 小野小町はこれは『古今和歌集』の歌なので、『万葉集』に書き入れることはできませんよ、と大伴家持を諭したというのが、『草子洗い』のテーマだと思う。 つまり、『草子洗い』は大伴家持がタイムスリップして後世に現れたという物語だと思う。 また『志賀』において、黒主は和歌の徳を説いているが、これなども万葉集を編纂した大伴家持にふさわしい行為だといえるのではないだろうか。 ●男女双体は荒魂を御霊に転じさせる呪術藤原定家は百人一首に大伴家持の次の歌を採用している。 かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持 (年に一度、天の川に鵲が橋をかけ、その橋を渡って牽牛と織姫が逢瀬を楽しむという。その橋のようにみえる宮中の階段に白い霜がおりているところを見ると、もうすっかり夜がふけてしまった。)「霜の白き」は天上に輝く星が白いのを霜に喩えたとする説もあるが 私は「宮中の階段に霜がおりているのを天の川にかかる橋に見立てた」とする説のほうをとりたいと思う。 「宮中の階段に霜がおりているのを天の川にかかる橋に見立てた」とする説は、『大和物語』百二十五段の壬生忠岑の歌では御殿の御階(みはし) を「かささぎのわたせるはし」によって喩えていることによるもので、賀茂真淵が唱えた。 まずポイントとして押さえておきたいのは、これが天の川伝説、すなわち牽牛と織姫が年に一度の逢瀬を楽しむとされる七夕に関する歌だということである。 牽牛と織姫が逢瀬を楽しむというのは、男女が和合するということだ。 仏教の神・歓喜天は男女が和合したおすがたをしておられ、次のような伝説がある。 鬼王ビナヤキャは祟りをもたらす神であった。 そこへ十一面観音の化身であるビナヤキャ女神があらわれ、鬼王ビナヤキャに「仏法守護を誓うならあなたのものになろう」と言った。 鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神を抱いた。 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。 ↑ 相手の足を踏みつけている方がビナヤキャ女神である。 この物語は、御霊・荒魂・和魂という概念をうまく表していると思う。 神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれる。 そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があるのだ。 すると神の本質である御霊とは男女双体と言うことになると思う。 御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神 和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神男女和合は荒魂を御霊に転じさせる呪術だったのではないだろうか。 そして鬼王ビナヤキャを牽牛、ビナヤキャ女神を織姫に置き換えてもいいだろう。 御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・・・・・・男女双体 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・牽牛・・・男神 和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・織姫・・・女神つまり、牽牛と織姫の逢瀬は、荒魂を御霊に転じさせる呪術であったのではないか、ということである。 ●白黒コントラストの鳥・鵲と白式尉・黒式尉次に注意したいのは、鵲という鳥についてである。 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。 上の動画を見ればわかるとおり、鵲はくっきりした白黒のコントラストを持つ鳥であり、太極図を思わせる。 太極図ウィキペディア( https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yin_and_Yang.svg?uselang=ja) よりお借りしました。 ありがとうございます。 太極図とは「陰が極まれば陽となり、陽が極まれば陰となる」という道鏡の考え方をあらわすもので 白は陽、黒は陰とされる。 男は陽、女は陰とされるので、男が白=荒魂で、女が黒=和魂だろう。 そう考えると、太極図は先ほどお話しした歓喜天を図案化したものだと言っていいかもしれない。 鵲の白黒のコントラストはこの太極図のほか、奈良豆比古神社の翁舞の白式尉・黒式尉を、また勝尾寺に伝わる白髪が黒髪になった女性の話を思わせる。  奈良豆比古神社 翁舞 白式尉 奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉奈良豆比古神社では白式尉は志貴皇子で、天皇に近い人であったと伝わっている。左は左大臣、右は右大臣である。 黒式尉は鈴をふり、田植や種まきの所作をする。 さきほど、男神は荒魂で女神は和魂とする説があるといったが、荒霊を白、和魂を黒であらわすこともあったのではないだろうか。 白は百-一=白となるので、九十九をあらわす。 九十九はつくもとも読み、付喪神(つくもがみ/器物につく妖怪)である。 黒は分解すると「田」「土」「、、、、」なので白が黒に変化すると、付喪神は田起こしの神、種まき(、、、、は種のように見えるので)の神になるということなのかもしれない。 ●白い神だったはずなのに黒い神になってしまった大伴家持家持の歌を私流に現代語訳していよう。 かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持
まるで太極図のように見える鵲。 また鵲は白い神(荒霊)と黒い神(和霊)が和合しているかのようにも見える。 その鵲が天の川に橋をかけ、年に一度牽牛と織姫が逢瀬を楽しむ。
鬼王ビナヤキャは祟るのをやめて仏法守護を誓いビナヤキャ女神を抱いた。 歓喜天はその鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神の男女双体の神で、歓喜天は鬼王ビナヤキャがビナヤキャ女神の性的魅力によって骨抜きにされ、祟る力を失ってしまったの図なのだ。 この歓喜天と同じく、牽牛は織姫の性的魅力によって骨抜きにされ、祟る力を失ってしまう。 それが七夕なのだ。
その天の川に鵲がかける橋のように見える宮中の階段に霜が白く輝いている。 霜は日本書紀のトガノの鹿を思わせる。 鹿は全身に霜が振る夢を見るが、霜だと思ったのは実は塩で、鹿は殺されて塩漬けにされているのだった。 謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあった。 鹿は謀反人の喩えである。 藤原種継暗殺事件の首謀者だと考えられている私もまた謀反人である。
宮中に降りた霜がこんなにも白く見えているということは、私はすでに死んで夜の世界にいるということなのだろう。 そして私は鵲に似た太極図があらわすように、陽が極まって陰となり、白い神(荒魂)から黒い神(和魂)へと変わっていくのだ。わずか31文字の中に、太極図、天の川伝説、トガノの鹿の伝説なども想像させ、実に味わい深い歌である。 秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ (秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。) 天智天皇が詠んだこの歌はもともとは万葉集の詠み人知らずの歌であるが、天智天皇が詠むにふさわしい歌だということで 天智天皇御作とされている。 同様に、 「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」も、家持が詠んだ歌ではないが家持が詠むにふさわしい歌ということで家持が詠んだ歌とさえたのかもしれない。 この歌が家持自身が詠んだものでまちがいなければ、家持の発する言葉にはとんでもない言霊があって、言葉が実現してしまったということになるかもしれない。
[ 2017/01/20 ]
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翁の謎⑭ 采女祭 『志貴皇子の母親は采女だった。』 より続きます~
●白髪が黒髪になった娘
勝尾寺の山門をくぐると橋があり、橋のしたには池がある。 池からはもくもくと霧が湧き出ているが、これは人工的に霧を発生させる装置を仕掛けてあるのだ。 人工的に作った霧ではあるが、なかなか雰囲気がいい。
勝尾寺には次のような伝説が伝えられている。 勝尾寺は727年に藤原致房の子の善仲、善算兄弟が草庵を開き、765年に光仁天皇の皇子の開成(かいじょう)皇子が善仲、善算兄弟に弟子入りした。 開成皇子は777年に大般若経600巻の書写を成し遂げ、弥勒寺を創建した。これが勝尾寺の前身である。 のち780年に妙観が十一面千手観音立像を刻んで本尊にした。 880年、清和天皇の病気平癒の祈祷を行って『勝王寺』の寺号を賜ったが、「王に勝つ」のは畏れ多いとして勝尾寺とした。
ここに「880年、清和天皇の病気平癒の祈祷を行って『勝王寺』の寺号を賜った」とあるが、清和天皇は881年に崩御されている。 ということはつまり、清和天皇の病気平癒の祈祷は効力がなかったということではないのか。
そんなことを考えながら、本堂へ向かう階段を歩いていくと、途中に三宝荒神社がある。

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[ 2017/01/19 ]
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翁の謎⑬ 春日若宮おん祭 『春日若宮様は志貴皇子だった?』 より続きます~ ●采女祭
 月の輝る夜の猿沢池を、采女と楽人を乗せた管弦船がゆっくりと巡る。 楽人たちが奏でる管弦の音は澄んでいるがどことなく物悲しい。 そう聞こえるのは、この池に悲しい伝説が伝わっているせいかもしれない。  猿沢池のほとりにある采女神社は鳥居に背を向け、後ろ向きに建つ珍しい神社である。 鳥居は猿沢池に面して建てられているので、采女神社の社殿は猿沢池に背を向けていることになる。 この采女神社について、平安時代に成立した『大和物語』は次のように記している。 奈良時代、帝の寵愛が衰えたのを嘆いて入水した采女を慰霊するために社を建てた。 入水した池を見るにしのびないと社は一夜のうちに後ろ向きになった。猿沢池の向う側には藤原氏の氏寺・興福寺の五重塔が見えている。 猿沢池は興福寺の放生池として749年に造られた人工池である。 興福寺の東にある春日大社は藤原氏の氏神で、明治に神仏分離令が出るまで興福寺と春日大社は一体化していた。 采女神社はこの春日大社の末社である。 ●春日大社の御祭神・アメノコヤネとは天智天皇のことだった。春日大社の主祭神はアメノコヤネ・タケミカヅチ・フツヌシ・ヒメガミの四柱の神々である。 このうち、アメノコヤネは藤原氏の祖神とされている。 翁の旅⑬ 春日若宮おん祭 『春日若宮様は志貴皇子だった?』に書いたように、アメノコヤネ(天児屋根命)とは天智天皇のことではないかと私は考えている。 というのは天智天皇の作として、は次のような歌が伝えられているからだ。 秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ (秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。) この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されている。。 万葉集には 「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており その内容から農民が詠んだ歌だと考えられている。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、 実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。
なぜ「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は、天智天皇の心を表す歌であると考えられたのだろうか。
一般には、農民の気持ちを思いやる優しさが、天智天皇にふさわしいと考えられたためだといわれている。 しかし、私はそうではないと思う。 672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。 天智天皇の皇子・大友皇子と天智天皇の弟・大海人皇子が皇位をめぐって争ったのである。 勝利したのは大海人皇子で、大海人皇子は即位して天武天皇となった。 壬申の乱がおこったため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。 『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。 石清水八幡宮 青山祭 ※風葬のようすをあらわしたものだとされます。古事記には「大国主神が八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠れた」という記述がある。 これは柴を沢山立てた中に死体が葬られていたということだが、大国主神はニニギに国譲りをして死んでいて、ニニギにとっては敵である。 そのため、高貴な身分の人であれば立派な陵をつくるところ、そうはせずに、庶民と同じように風葬にしたということではないかと思う。 天智天皇の歌にある、苫の荒い仮庵戸は大国主神が葬られたような八十青柴垣を意味しているのではないだろうか。 また、近年まで沖縄地方などで風葬が行われていたが、小さい小屋の中に死体を収めて風葬にするという地方もあった。 「秋の田の~」の歌は、死んだ天智天皇の霊が、きちんと埋葬されないわが身を嘆いた歌だと解釈され、天智天皇が詠むにふさわしい歌とされたのではないだろうか。 そして『児』には『小さい』という意味があり、天児屋命とは『小さい屋根の下におわす神』という意味になる。 仮庵のとまの粗い小屋の屋根はそれは小さいことだろう。 するとアメノコヤネは藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫だということになるが、藤原不比等は天智天皇の後胤であるという説がある。 藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけているが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』には記されている。 とすれば天智天皇が藤原氏の祖神だというのは辻褄があう。 ●春日若宮様とは志貴皇子のことだった。アメノコヤネとヒメガミは夫婦神であり、春日若宮様はこの二神から生まれた御子神とされている。 12月にこの春日若宮様のお祭り、おん祭が行われている。 12月16日深夜に若宮神社の前で新楽乱声(しんがくらんじょう)が奏される。 雅楽における楽譜のことを唱歌(しょうが)というが、その唱歌は『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』と記される。 春日大社の北の奈良坂に奈良豆比古神社があり、毎年10月に『翁舞』の奉納がある。 奈良豆比古神社は古来芸能の神として信仰されており、能の役者は奈良豆比古神社を参拝して興業許可を得ていたという。 能『翁」』は奈良豆比古神社の『翁舞』がルーツではないだろうか。 そして、奈良豆比古神社には次のような伝説が伝えられている。 天智天皇の孫で志貴皇子の子である春日王がハンセン病にかかり、春日王の子・浄人王が春日王の病平癒を祈って春日大社で舞を舞ったところ春日王の病が回復したと。 奈良豆比古神社の『翁舞』のルーツは、この浄人王の舞だと考えられる。  ところが地元にはもうひとつ裏の伝説が口承されている。 ハンセン病になったのは春日王ではなく、志貴皇子であり、翁とは志貴皇子のことだというのだ。 翁は『とうとうたらりたらりろ』と謎の呪文を唱える。 能の翁では『とうとうたらりたらりら』となっている。 おん祭の新楽乱声の唱歌を思い出してほしい。 それは『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』だった。 翁の『とうとうたらりたらりろ』と言うセリフは、おん祭で奏される新楽乱声の唱歌を唱えているのではないだろうか。 それは春日若宮様のテーマソングである。 そして春日若宮様はアメノコヤネとヒメガミの皇子とされているが、すでに述べたようにアメノコヤネとは天智天皇のことだと私は考えている。 春日若宮様とは天智天皇の皇子・志貴皇子のことであり、翁とは志貴皇子だという裏の伝説がある。 翁は『とうとうたらりたらりろ』と自分自身のテーマソングを歌っているのではないだろうか。 ●ヒメガミは志貴皇子の母親?すると、ヒメガミとは志貴皇子の母親の越道君伊羅都売(こしのみちのきみいらつめ)だということになるが、越道君伊羅都売は采女(天皇の身の回りのお世話をする女官)だった。 猿沢池に身を投げた采女とはこの越道君伊羅都売のことではないだろうか。 大和物語では采女が猿沢池に身を投げたのは奈良時代となっているが、天智天皇は飛鳥時代の人物なので時代があわない。 しかし奈良時代の780年11月21日に、春日大社のヒメガミが奈良豆比古神社に勧請されている。 これを昔の人々は「帝(アメノコヤネ)の采女(ヒメガミ)に対する寵愛が衰えた」と比喩的に表現したのではないだろうか。 翁の正体、「とうとうたらりたらりろ』という呪文の謎については解けたと思う。 しかし白色尉、黒色尉とは何なのかなど、まだ謎は残っている。 翁の謎⑮ 勝尾寺 三宝荒神社 『白は荒魂 黒は和魂?』 へつづく~ トップページはこちら→ 翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』
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[ 2017/01/18 ]
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