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翁の謎④ 北山十八間戸 『非人とハンセン病患者』


翁の謎③ 法華寺 『光明皇后と行基の前に現れた疫神』 より続きます~

北山十八間戸

※写真は北山十八間戸に霊山寺(奈良市中町3879)境内の文殊菩薩像を合成したものです。


●非人とハンセン病患者

なだらかな登り坂のつづく奈良坂を歩いていた。
呼吸の乱れを整えるために立ち止まり、振り返って見ると坂の下に興福寺の五重塔が見えていた。
大きく深呼吸をしてから再び歩き始める。
しばらくすると柵で囲われた細長い長屋が見えてきた。
長屋の裏に回ってみると18個の裏戸があり、そのひとつひとつに「北山十八間戸」と文字が刻まれていた。
柵の中に入って見学したいと思ったが、出入口には鍵がかけられていた。

見学することはできないのだろうか?

思い切って長屋の隣にあるお好み焼き屋さんに尋ねてみた。
するとおかみさんが店から出てきて出入口の鍵をあけて下さった。
どうやらこのお好み焼き屋さんが北山十八間戸を管理されているようである。
そして次のように説明していただいた。

「ここは鎌倉時代、ハンセン病患者を救済するための福祉施設だったところです。
奈良時代に光明皇后が建てたとも、鎌倉時代に僧の忍性さんによって建てられましたともいわれています。
ここからもうちょっと北に行ったところに般若寺さんがあるんですが、もともとはその般若寺さんの北東にあったそうです。
1567年に戦災で焼けまして、1660年から1670年ごろにここに移りました。
2畳くらいの部屋が17つ、4畳くらいの部屋がひとつで、合計18つの部屋があります。
4畳くらいの部屋は仏間です。
1万8千人のハンセン病患者が利用したと言われています。」

北山十八間戸がいつ誰によって建てられたものなのかについては、おかみさんが説明してくださったように2つの説があってはっきりしない。
しかし、なぜ奈良坂にハンセン病患者のための療養施設が作られたのかについてははっきりしている。
それは奈良坂が非人が住む町であったためである。

非人というと江戸時代に制定された身分制度を思い出すが、関西では中世より非人と呼ばれる人々がおり、多くは坂の町に住んでいた。
非人たちは寺社に隷属し、寺社の清掃、祭りの警備、死体の処理、神事などに携わっていた。

ここ奈良坂の非人たちは興福寺に隷属する民だった。

非人たちは非人宿(夙)に住み、病人の看護にも携わっていた。
奈良坂に北山十八間戸が作られたのは、ここに非人宿があったからだろう。
または北山十八間戸が先にあって、病人を看護するために非人宿が作られたのかもしれない。
いずれにせよ、北山十八間戸と非人に密接な関係があったことは事実である。

興福寺 夕景

荒池より興福寺を望む


●八の縁起担ぎ

さきほど、北山十八間戸は1万8千人の病患者が利用したと説明を受けたが、この数字は正確に数えたものではなく、北山十八間戸の「十八」の縁起を担いだものだろう。

八は字形が末広がりになっているので、中国では縁起のいい数字だと考えられているそうだ。
北京オリンピックの開会式も縁起を担いで8月8日午後8時開始にしたのだという。

一般に八は数の多さを示すと言われる。
八咫烏は大きいカラス、八咫鏡は大きい鏡という意味だというのだ。

しかし数の多さを表す数字としては、九十九(つくも)・九重などのように九も用いられている。
なので、八は単に数の多さをあらわすだけの数字であるとは私には思えない。

梅原猛さんは八は復活を意味する数字であるとしておられる。
八角墳は死者の復活を願って作られたお墓、法隆寺の夢殿に代表される八角堂は死者の復活を願って作られたお堂ではないかというのだ。

法隆寺 夢殿

法隆寺 夢殿

たしかに「八は復活を意味する数字」と考えたほうがしっくりくる言葉が多い。

八咫鏡はたしかに大きな鏡であっただろうが、それよりももっと重要なことは、それが天岩戸に籠った天照大神を岩戸の外へ引っ張り出した鏡だということである。
天岩戸には石室のイメージがある。天照大神は死んで石室に葬られていたのではないだろうか。
そして八咫鏡が死んだ天照大神を復活させたということではないかと思う。

八咫烏とは初代神武天皇を熊野から畿内へと道案内した烏のことである。
八咫烏は中国や朝鮮では太陽の中に描かれることが多い。

昔の人は死んだ人の魂は鳥になると考えていたのではないかと私は思う。
ササキという鳥がいるが、これに御をつけるとミササギとなる。
また巨大な前方後円墳は地上からではその形を認識することはできない。
前方後円墳は鳥の目線にあわせて作られているのだと思う。
記紀には死んだヤマトタケルが白鳥となって飛び立ったとか、アメノワカヒコの葬儀を鳥たちが行うという話もある。

八咫烏とはいったん死んだのち復活した(生き返った)太陽神なのではないだろうか。

七転八起は「『七回転んで、八回起き上がる。』という意味だとされているが、七回転んだら起きるのも七回である。
私は七とは死を意味する数字ではないかと思う。
人が死んだときの法要は初七日、二七日、三七日・・・・七七日と七日ごとに行う。
つまり七転八起とは七で死んで、八で復活するという意味なのではないだろうか。
北山十八間戸・・・奈良市川上町454

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12-12(Mon)18:23|翁の謎 |コメント(-) |トラックバック(-)

翁の謎③ 法華寺 『光明皇后と行基の前に現れた疫神』

翁の謎② 北野天満宮 東向観音寺 『神と怨霊は同義語だった。』

より続きます~


法華寺 桜


●光明皇后と行基には同様の伝説が伝えられていた。

平城宮跡の東500メートルほどのところに法華寺がある。
南大門をくぐると境内はしだれ桜や沈丁花が咲き乱れ、たいそう華やいだ雰囲気に包まれていた。
正面にある本堂の引き戸をあけると、中には尼さんがおられて「ようお参りです。」と声をかけてくださった。

法華寺は奈良時代に光明皇后が開いた寺院で、総国分尼寺であった。
開扉された厨子の中にはご本尊の十一面観音菩薩が安置されていた。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Hokkeiji_Nunnery_Eleven-Headed_Kwannon_I_%28303%29.jpg
よい香り、異様に長い腕、そして赤い唇が印象的だった。

この十一面観音は光明皇后の姿を映したものだと言い伝えられ、会津八一が「藤原の 大き后をうつしみに あひみるごとく あかきくちびる」と歌を詠んでいる。
(※藤原の大き妃とは藤原光明子=光明皇后のことである。)

境内の奥まったところには浴室(からぶろ)がある。

法華寺 山茱萸


この浴室は光明皇后の次のような伝説にちなむものである

光明皇后は千人の垢を長そうと発願された。
最後の一人は皮膚病の老人だった。
老人は光明皇后に背中の膿を口で吸いだしてくれ、と頼んだ。
光明皇后はためらうことなく、老人の背中の膿を口で吸いだした。
すると老人はたちまち阿閦如来となった。


これと同様の伝説が行基にもある。

行基は旅の途中で出会った病人を有馬温泉に連れていった。
病人は「温泉では私の皮膚病は治らないので、舐めてくれないか」と行基に頼んだ。
行基はためらうことなく、膿んで異臭のする病人の肌を舐めた。
すると病人の肌は金色に輝いて薬師如来になった。


●疫神となった長屋王の怨霊

光明皇后や行基の伝説に登場する病人が患っている皮膚病とは天然痘のことだろう。

なぜ光明皇后と行基には同じような伝説が伝わっているのだろうか。

奈良時代、光明皇后の父・藤原不比等が絶大な権力を掌握していたが、720年に死去した。
不比等には藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂と言われる子があったが、不比等が死去したとき、まだ四兄弟は若すぎ、父の後継をつとめるまでには至らなかった。
不比等に代わって政界のトップとなったのが長屋王だった。
724年に聖武天皇が即位すると、長屋王は左大臣となった。

しかし長屋王政権は長くは続かなかった。
729年、漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)が『長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。』と朝廷に密告したのである。
これを受けて藤原宇合の軍が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王と新田部親王によって糾問が行われた。
厳しい取調べに耐え切れず長屋王は自殺に追い込まれた。
妃吉備内親王と子の膳夫王も共に死んだ。
これを「長屋王の変」という。

長屋王が国家を傾けようとしたというのは事実ではなく、藤原氏の陰謀であったと考えられている。
長屋王の子・膳夫王が皇位継承の最有力者とされていたのを、藤原氏が廃そうと企てたというのである。

というのは、長屋王の変にかかわった中臣宮処東人という人物が大伴子虫と囲碁をしていたとき、うっかり口をすべらせて事件の真相について話したのである。
長屋王派の人物だった大伴子虫はこの話に激怒して、中臣宮処東人を斬殺してしまったが罪に問われることはなかった。

長屋王の没後、藤原四兄弟は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立て、藤原四子政権を樹立した。
ところが、737年、四兄弟は天然痘にかかって相次いで死亡した。
そして四兄弟の死は長屋王の怨霊の祟りであると噂された。

光明皇后と光明皇后の夫の聖武天皇は長屋王の怨霊をそれは恐れたことだろう。
745年、聖武天皇は東大寺の大仏造立を発願したが、その背景には長屋王の怨霊に対する恐れがあったと言われている。
つまり長屋王の怨霊の祟りに対する恐怖を大仏に救ってもらおうと聖武天皇は考えたということである。

行基はこの大仏造立の責任者であった。
行基は大仏を造立するにあたり、長屋王の鎮魂を祈願したにちがいない。

貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されることが多い。
疫病をもたらす疫病神は疫病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。
光明皇后と行基の前に現れた天然痘を患った病人とは天然痘をもたらした長屋王の怨霊なのではないだろうか。

かつて怨霊と神は同義語であったと言われる。
怨霊が祟らないように祀ったのが神だというのである。
また祟り神を祀り上げると守護神に転じるといった信仰もあった。
怨霊として恐れられた菅原道真が、現在では学問の神として信仰されているのは、そういうわけである。

さらに日本では古来より神仏は習合して信仰していた。
神仏習合のベースになった考え方は、日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿を現したものであるとする『本地垂迹説』である。
日本の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々が仮に姿を現した日本の神々のことを権現、化身などという。

例えば菅原道真を祀る北野天満宮の神護寺だった東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられている。
これは『日本古来の神である菅原道真の本地仏である十一面観音をお祭りしています。』というような意味で
この石碑は菅原道真が十一面観音の化身であると信仰されていたことを物語るものである。

これを長屋王のケースにあてはめてみると次のようになるのではないだろうか。

阿閦如来または薬師如来の化身・・・天然痘を患った病人=疫病神=長屋王
天然痘を患った病人=疫病神=長屋王の本地仏・・・阿閦如来または薬師如来

∴天然痘を患った病人=疫病神=長屋王=阿閦如来または薬師如来

光明皇后や行基が病人の体を洗ったというのは、光明皇后や行基が長屋王の怨霊に禊をさせたということなのだろう。
禊とは身を浄めることで、今でも祭の前に禊と称して入浴する習慣のある地方もある。
それゆえ伝説に浴室や温泉が登場するのだと思う。

そして禊(入浴)をさせた結果、長屋王は人々に祟るのをやめ、成仏して阿閦如来や薬師如来になったというのが、この話のテーマなのだと思う。

法華寺 沈丁花 
法華寺・・・奈良市法華寺町882

翁の謎④ 北山十八間戸 『非人とハンセン病患者』へつづく~
トップページはこちら→翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』


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