翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』 より続きます~
●怨霊と神は同義語だった。梅の花が咲き誇る北野天満宮。
境内にはひっきりなしに参拝者が訪れ、神殿の前には長い列ができていた。
参拝者の多くは合格祈願に訪れた受験生だろう。
北野天満宮では菅原道真を祀っており、学問の神として信仰を集めているのだ。
皆さんご存知のように菅原道真は平安時代の政治家である。
政治家のなぜ菅原道真がなぜ学問の神として信仰されるようになったのか。
それは彼が頭脳明晰で優秀な人物であったためではない。
現在ではある能力に長けた人物のことを尊敬の意を込めて「神」と呼ぶことがある。
例えばマイケル・シェンカーは「ギターの神」、B・B・キングは「ブルースの神」などと言われる。
しかし古における神とは能力に長けた人物のことではなかった。
もっとも、時代が下った戦国時代や江戸時代には優秀であるとか、立派な人物であるということで神として祀ることがあったようである。
豊臣秀吉や徳川家康は自らが神として祀られることを望み、彼らを祀る神社が作られた。
豊臣秀吉を祀る神社は豊国神社、徳川家康を祀る神社は東照宮である。
しかし、もっと古の時代には、優秀であるとか立派であるという理由だけで神として祀られることはなかったようである。
奈良時代や平安時代に神として祀られた人に共通点がある。
それは政治的陰謀によって不幸な死を迎えていることである。
このような人々は死後怨霊となり、疫病の流行や天災は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていた。
菅原道真が神として祀られるようになったのも、彼が不幸な死をとげ、死後、怨霊になったと信じられたためであった。
道真は宇多天皇の信頼を得て右大臣にまで上り詰め、醍醐天皇代にも優秀な政治家として活躍していた。
これに左大臣・藤原時平が嫉妬した。
そして時平は醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言したのである。
これをうけて醍醐天皇は道真を大宰府に左遷した。901年のことである。
903年、道真は失意のうちに大宰府で没した。
道真の死後、都では疫病が流行り、また天変地異が相次いだ。
930年、さらに追い打ちをかけるように清涼殿に落雷があり炎上するという事件がおき、多くの死傷者を出した。
その中には道真左遷にかかわった人々が含まれていたため、これらの一連の事件は道真の怨霊のしわざによるものだと考えらえた。
醍醐天皇は清涼殿落雷事件の3か月後に崩御されたが、これは醍醐天皇が道真の怨霊を恐れるあまりノイローゼとなったことが原因だともいう。
919年太宰府天満宮が、947年には北野天満宮が創建され、御祭神として菅原道真が祀られた。
古には神と怨霊は同義語であったと言われる。
怨霊が祟らないように祀ったものが神だというのである。
またこれはおそらく「陰が極まれば陽に転じる」とする陰陽道の考え方に基づくものだと思われるが、祟り神は神として祀り上げると守護神に転じるという考え方もあった。
菅原道真は怨霊として恐れられ、彼の怨霊を鎮めるため神として祀られたのである。
そして道真という怨霊を神として祀り上げた結果、怨霊は守護神に転じ、学問の神として信仰されるようになったというわけである。
下御霊神社(女性は葵祭に登場された方です。/合成)京都の下御霊神社では八所御霊と称して吉備聖霊(吉備真備?)崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原大婦人(藤原吉子)・藤原広嗣・橘逸勢・文屋宮田麻呂・火雷神・を祀っている。
火雷神は六座の(下御領神社では吉備聖霊は六座の心霊の和魂としているため)荒魂とされているが、他の六柱はいずれも実在した人物で不幸な死を迎え、死後怨霊になったと信じられた人物ばかりである。
吉備真備は称徳天皇崩御後、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、辞職している。
早良親王は桓武天皇の弟で皇太子にたてられていたが、藤原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となった。
無実を訴えてハンガーストライキを行い、淡路島へ流される途中、船の中で憤死したと伝わる。
藤原吉子は桓武天皇の婦人で伊予親王を生んだが、謀反の疑いで伊予親王とともに川原寺に幽閉され、伊予親王を道連れにして自殺した。
藤原広嗣は大宰府に左遷となり、反乱をおこしたが、捕えられて処刑された。
橘逸勢は承和の変に関与したとして伊豆へ流罪となる途中の船上で死亡した。
文屋宮田麿も謀反を企てたとして伊豆へ流罪となったが、のちに無実であるとして慰霊されている。
しかし八所御霊は神として祀りあげられた結果、現在では人々にご利益を与えて下さる神として信仰されている。
菅原道真のケースと全く同じである。
●菅原道真は十一面観音の化身だった。
北野天満宮の楼門を出て参道を大鳥居のほうへ向かって歩いていくと、途中、右手に東向観音寺という寺がある。
明治に神仏分離令が出されるまで、神仏は習合されて信仰されており、寺には鎮守の社が、神社には神宮寺(神護寺とも)があった。
東向観音寺はかつて北野天満宮の神宮寺だった寺で、門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられている。
「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とはどういう意味なのか。
日本では古来より神仏は習合して信仰されてきたが、その神仏習合のベースになったのが本地垂迹説である。
本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものである」とする考え方のことである。
日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿をあらわした存在である日本の神々のことを権現、化身などといった。
例えば天照大神の本地仏は大日如来であるとか、市杵島姫は弁才天の権現であるなどとして同一視された。
天満宮とは菅原道真のことである。
つまり「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「天満宮=菅原道真の本地仏である十一面観音をお祭りしています。」というような意味である。
菅原道真は十一面観音の化身であると信じられていたといってもいい。
怨霊と神が同義語であったということ。
そして本地垂迹説。
これが分からなければ昔の日本の信仰が理解できないので、ぜひ覚えておいてほしい。
北野天満宮・・・京都市上京区御前通今出川上る馬喰町
東向観音寺・・・京都市上京区今小路通御前通西入上る観音寺門前町 863
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[2016/11/18 19:38]
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写真がよくないので、全記事少しづつ書き直すことにしました。
写真はレタッチをやり直し、増やすつもりです。文章も手直ししようと思います。
また、新たに思いついたことなどもあるので、記事も追加したいと思います。
よろしくお願いします。
●鴨川は三途の川に喩えられていた?阪急河原町駅で下車し、四条通を東に向かって歩いていく。
しばらくすると鴨川があり、四条大橋の上を大勢の人が行き交っている。
中には晴れ着を着た人や、破魔矢を手に持つ人の姿がある。
今日は1月3日、八坂神社や六波羅光寺の初詣に行った帰りなのだろう。
橋を半分ほど渡ったところに般若心経を唱える托鉢の僧がいた。
僧の姿を見ると、今からあの世に行くのだ、という思いがこみ上げてきた。
『あの世に行く』とはどういうことか。
北に丘陵、南に湖沼、東に流水、西に大道がある土地のことを四神相応の地という。
丘陵には玄武、湖沼には朱雀、流水には青龍、大道には白虎という想像上の聖獣が棲むと考えられ、風水ではこのような場所を大変縁起のいい場所だとしている。
平安京は四神相応の地を選んで作られた。
すなわち、平安京は北の船岡山、南の小椋池(現存せず)、西の山陰道、東の鴨川に囲まれた土地を選んで建都されたのである。
四条大橋を超えて東山に向かうことは、平安京の外に向かうということである。
(厳密にいえば平安京の東の端は寺町通あたりなので、阪急四条河原町駅についたあたりで平安京を出たことになる。)
昔の人は平安京の中をこの世、平安京の外をあの世と考えたということを聞いた記憶がある。
すると四条大橋を渡ることはこの世(平安京)からあの世(平安京の外)へ行くことになる。
昔、鴨川はこの世とあの世の境を流れる三途の川に喩えられたのではないだろうか。
951年、京の町では疫病が流行し、鴨川のほとりは死体で溢れかえるほどの惨状となったと伝えられる。
当時の人々にとって鴨川はまさしく三途の川そのもののように映ったことだろう。
今でも鴨川の西は商店街や銀行、デパート、オフィスビルなどが立ち並んで人が生活する町という雰囲気であるのに対し、
鴨川の東は神社仏閣が多く、鳥辺野の風葬地の名残を残すという東大谷墓地などもあって、あの世という雰囲気が漂っている。
●まったく意味がわからなかった能・翁
四条大橋を超え、まっすぐに歩いていくと突き当りに赤い楼門が見えてくる。
八坂神社である。
大晦日から元旦にかけての深夜、八坂神社は大勢の初詣客で賑わう。
神前で手を合わせるために3時間も並んだなどという話も聞く。
この日は1月3日なので、そこまでのことはなかったが、それでも神前には参拝客の長い行列ができていた。
私は行列の後ろのほうで手を合わせてお参りをし、八坂神社境内にある能舞台へと向かった。
能舞台の前のベンチはすでに人で埋め尽くされていた。
この日、八坂神社では初能奉納があるのだった。
能の演目は「翁」である。
まもなく舞台の上に囃し方が登場し、つづいてシテ(役者)が登場した。
シテは舞台の上でお面をつけた。
舞台上でお面をつけるのは能の中でも翁だけである。
『翁」は『能にして能にあらず』『能というよりも神事である』などといわれている。
シテは舞台に立つ7日前から家族と寝食を別にし、食事を調理する火も共用することが許されない。
これを『別火を喰う』と言う。
「とうとうたらりたりらら」
翁(白式尉/はくしきじょう)のよく通る声が、冬の澄んだ青空にこだました。
「とうとうたらりたりらら」とはどういう意味なのか、よくわかっていないらしい。
おそらく古い言葉で、長い年月を経るうちにわからなくなってしまったのだろう。
和歌の枕詞などももともとは意味があったのだろうが、意味が分からなくなってしまったものが多い。
しばらくするとさきほどの翁とは別の翁がやはり舞台上で面をつけ、鈴を振って足拍子を踏み鳴らした。
私はその翁を見てとても驚いた。
翁の面が真っ黒だったからである。
黒い面の翁(黒式尉)は黒人なのか?
しかし顔立は日本人のようである。
私にとって初体験だった能「翁」。
正直言って、さっぱりわからなかった。
『とうとうたらりたりらら』とは何のことなのか。
八坂神社・・・京都市東山区祇園町北側625
初能奉納・・・1月 3日 9時より
[2016/11/10 12:10]
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