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毘沙門天を祀っているのになぜ吉祥寺? 

きっしょうじ もみじあおい 
●水銀地名

開運坂を登っていくと山の中腹に吉祥寺はあった。
境内には夏の暑さに負けないような真紅の紅葉葵が咲いていた。
ハイビスカスに似ている。
紅葉葵は、学名をHibiscus coccineusという。
どちらもアオイ科の植物なので似ているのだろう。

本堂前にある燈籠には毘沙門亀甲紋が描かれていた。
毘沙門天はもともとはクベーラというインドの神で、夜叉を使役して鉱山で財宝を採掘させる神であった。
毘沙門亀甲は鉱物の結晶をデザインしたものだと思う。

私は毘沙門天を祀っている山はかつて鉱山だったのではないかと考えているのだが、吉祥寺がある場所の地名を丹原という。
丹とは辰砂(水銀)のことである。
かつてこの地では辰砂が採掘されていたのではないだろうか。

● 柴水山宝塔院吉祥寺縁起

本堂前で手を合わせていると若いお坊様がやってきてお手製だというパンフレットをくださった。
(ありがとうございます!)
そこには次のような内容が記されていた。

816年、12月3日、空海は高野山の丑寅の方角に鬼門除けの毘沙門天を安置するため、高野山を下ると小高い山の山上に紫雲がたなびいているのをみて山に登った。  
すると生身の毘沙門天王が出現して、『ここは高野山の七里丑寅にあたる。私の姿を刻んでここに祀るように』と告げた。
空海が一夜で毘沙門天を刻むと、生身の毘沙門天王は姿を消した。  
空海はそこに堂宇を建立し、毘沙門天王の開眼にあたって身を清めようとしたが、山上には一滴の水もなかった。  
そこで『柴手水の法』をもちいて山内の檜葉をとり、印を結び真言を称えて身を清め、開眼供養をした。  
空海が『私はこれから高野山に伽藍を建立する。建立が成就すれば境内の樹木より檜葉を生えさせたまえ』と毘沙門天に誓って檜葉を投げると檜葉は木にかかり、そこから檜葉が生じた。
空海は『柴手水の法』から 『手』の一字を除いて『柴水山』と号し、毘沙門天が手に持つ宝塔を院号とし、脇立ちの吉祥天女の御名より柴水山宝塔院吉祥寺と名づけた。


●寅も百足もない

ここは日本三大毘沙門天王出現地霊場のひとつで、他のふたつは信貴山朝護孫子寺と鞍馬山鞍馬寺とされている。
私は朝護孫子寺も鞍馬寺もどちらも参拝したことがあるのだが、吉祥寺には朝護孫子寺や鞍馬寺にあるものがなかった。

朝護孫子寺には張子の虎があり、本堂の欄間には百足のレリーフがあった。
そして鞍馬寺のケーブルカーの乗り場には、百足を描いた茶碗などが展示されていて、本堂の前には狛犬の代わりに阿吽の虎の石像が置かれてあった。
しかしここには虎も百足も見当たらない。

毘沙門天がご本尊なのに脇立ちの吉祥天女の名前をとって寺名とするというのも不自然である。
吉祥天は毘沙門天の妻とされる女神である。

●井上内親王への信仰の厚い五條

五條は井上内親王に対する信仰の厚い土地であった。

井上内親王は光仁天皇の皇后で、ふたりの間には他戸親王があった。
771年、光仁天皇の皇太子に他戸親王がたてられた。
ところがその翌年の772年、井上内親王は光仁天皇を呪詛したとして皇后の位を剥奪された。
他戸親王も母・井上内親王に連座したとして廃太子となり、代わって山部王が立太子した。
井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡の没官(官職を取り上げられた人)の館、に幽閉され、775年に二人は幽閉先で逝去した。
その後、井上内親王は怨霊になったと考えられ、『本朝皇胤紹運録』には『二人は獄中で亡くなった後、龍となって祟った。』とあり、『愚管抄』には『井上内親王は龍となって藤原百川を蹴殺した。』と記されている。

また水鏡には『(井上内親王の祟りによって)777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。宇治川の水も絶えてしまいそうだ。12月、百川の夢に、百余人の鎧兜を着た者が度々あらわれるようになった。また、それらは山部王の夢にも現れたので、諸国の国分寺に金剛般若をあげさせた。』とある。

井上内親王と他戸親王が幽閉されたのは奈良県五條市須恵付近(五条駅南側)であるとされる。
須恵付近はかつて下馬町と呼ばれていて、ここを下馬せずに通行すると井上内親王の祟りで落馬すると言い伝えられていた。

また井上内親王は奈良から流される時、産屋峰(今の奈良カントリークラブ五条コースの辺り)で男児を出産したという。
男児は後に母と兄の怨みを晴らす為、雷神となったという伝説がある。

井上内親王の墓は奈良県五條市御山町にあり、吉祥寺から1kmも離れていない。

790年には井上内親王や早良親王を祀る御霊神社(御霊本宮)が、800年には霊安寺が創建されている。
その後、御霊本宮から分祀され、現在五條市内には23もの御霊神社があるという。
よほど井上内親王の怨霊は恐れられたらしい。

加えてこの地は高野山の東北、鬼門にあたっていた。
そのため、空海が井上内親王の霊をここから高野山方面に近づけないようにと建立したのが吉祥寺なのではないだろうか。

堂宇を建立した空海が清めようとしたが、山上には一滴の水もなかったというエピソードは興味深い。

『水鏡』には井上内親王の祟りによって、雨が降らず宇治川も涸れかかっていると記されている。
どうも井上内親王は旱魃をもたらす女神であったらしい。
吉祥寺・・・奈良県五條市丹原町914

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[2014/08/25 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

蜘蛛の巣に住む観音 (東大寺 三月堂) 

東大寺 三月堂 百日紅
三月堂と百日紅

●不空羂索観音と土蜘蛛

728年、聖武天皇と光明皇后が幼生した基皇子の菩提を弔うために若草山麓に山房を設けて9人の僧を住まわせた。
この寺が金鍾寺である。
8世紀半ば、金鐘寺には羂索堂や千手堂が存在していた。
この羂索堂が現在の東大寺三月堂だと考えられている。
その後、741年に聖武天皇は国分寺建立の詔を発し、742年に金鐘寺は大和国の国分寺となり金光明寺と改められた。

東大寺 三月堂 鹿
三月堂と鹿

三月堂はもとは寄棟造正堂と礼堂の二つの建物からなっていた。
鎌倉時代に礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつないだため、不思議な形をしている。
正堂は天平初期、礼堂は鎌倉時代の建築となる。
三月堂は現存する東大寺最古の建物である。

堂内には美しい天平仏たちが安置されている。
中央に安置されているのが三月堂御本尊の不空羂索観音である。
像高3.6メートルもある巨大な像で、宝冠には約2万粒の宝石がつけられている。 
三月堂・不空羂索観音 画像

不空羂索観音の四本ある左手のうち、下から二番目の手に羂索を持っておられる。

羂索とは狩猟の道具で、5色の糸をより合わせた縄の片端に環、もう一方の端に独鈷杵の半形をつけたものである。
不空羂索観音はその羂索であらゆる衆生をもれなく救済する観音であるといわれる。
同じく不空羂索観音をご本尊としている不空院(奈良市高畑町1365)を参拝したとき、「羂索とは網である」と説明を受けた。
私は不空羂索観音が羂索を投げる姿を想像してみた。
羂索の網はぱあっと広がって、まるで狂言や六斎念仏で演じられる土蜘蛛のようではないか。
清水寺 中堂寺六斎 土蜘蛛
そう思って改めて見てみると、不空羂索観音の光背は蜘蛛の巣に似ている。
不空羂索観音の腕は8本だが、蜘蛛の脚も8本である。
不空羂索観音とは土蜘蛛をあらわしたもので、その光背は蜘蛛の巣をイメージしたものなのではないだろうか。

土蜘蛛とは奈良時代の記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことである。
まつろわぬ民とは、謀反人のことであるといってもいいだろう。

不空羂索観音の肩にかけてあるケープのようなものは鹿の皮であるが、鹿もまた土蜘蛛同様、謀反人を比喩したものだとする説がある。

●志貴皇子暗殺説

以前、図書館で志貴皇子暗殺説について記された本を読んだのだが、本のタイトルや著者の名前を忘れてしまった。(申し訳ありません!)

その本には次のような内容が記されていた。

①日本書紀の仁徳天皇紀に『トガノの鹿』という物語が記されている。
雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。

かつて謀反の罪で殺された人は塩を振ることがあった。
トガノの鹿に登場する雄鹿は謀反人の比喩ではないか。

②萩は別名を『鹿鳴草』という。萩もまた謀反人を比喩したものではないか。

③笠金村が志貴皇子の挽歌を詠んでいる。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

志貴皇子の邸宅跡と伝わる百毫寺(奈良市白毫寺町392)に萩が植えられているのは、この挽歌にちなむものではないか。

百毫寺 萩
百毫寺 萩
④笠金村は志貴皇子の挽歌を二首詠んでいる。
a.高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
b.御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)

aの歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせ、bの歌は志貴皇子の死が実は最近のことではなく、ずいぶん以前のことであったかのようである。
万葉集詞書によれば志貴皇子の薨去年は715年としている。しかし正史では716年となっていて1年ずれがある。
志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年ほど伏せられていたのではないか。

⑤のちに志貴皇子の子である光仁天皇が即位している。志貴皇子には皇位継承権があったのではないか。

これらの説を読んで、私はなるほど、そのとおりだろう、と思った。

①のトガノの鹿の物語は、鹿の夏毛には白い斑点があるのを、塩に見立てたものだと思う。
また白い萩も塩を振ったように見える。
萩には紫色の花もあるが、こちらは雌鹿をイメージしたものだと思う。
というのは次のような歌があって、恋する女性は紫色に喩えられていたように思われるからである。
紫は 仄(灰)さすものぞ つば市の 八十のちまたに 逢へる児や誰 /詠み人知らず
紫色に布を染めるには灰を媒染として用いていた。
灰をいれると布が紫色に染まるように、男にあったとたん、女がぽっと赤くなった、というような意味だろうか。
紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも/大海人皇子
という歌もある。

⑤のちに志貴皇子の子である光仁天皇が即位していることから、志貴皇子には皇位継承権があったのではないか。
とあるが、これを裏付ける伝説が奈良豆比古神社にある。

『平城津彦神社由来』にはこのようにある。

大友皇子側についていた志貴皇子は壬申の乱の後は政治的に不遇で、その亡骸は奈良山の春日離宮に葬られた。 
志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していた。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は春日王をよく看病していた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)に長けており、ある日春日大社で神楽を舞い、父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊された。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれたが、これは奈良坂に住んだ春日王のことと関わりがあるかもしれない。 


しかし『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、地元の語り部・松岡嘉平さんは次のような語りを伝承しているという。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。


ここに「志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった」とある。

●志貴皇子を暗殺したのは誰?

志貴皇子暗殺説の本には、志貴皇子を暗殺したのは誰か、については記されていなかったと記憶しているが、私は元正天皇が怪しいと思う。

というのは、万葉集詞書によれば志貴皇子は715年に薨去したとされているが、この年、元正天皇が即位しているからである。
志貴皇子には正当な皇位継承権があり、元正天皇自分が皇位につくために志貴皇子暗殺を企てたのではないだろうか。

元正上皇と舎人親王が贈答しあった歌が、万葉集にある。

あしひきの 山行きしかば 山人の 我に得しめし 山つとぞこれ/元正上皇
(山道を歩いていたところ、たまたま逢った山人が、私にくれた山の土産であるぞ、これは。)

あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰/舎人親王
(陛下は山へ行かれて山人に土産をもらったとおっしゃるのですか。「山人」とは誰のことなのでしょうか。山人とは陛下のことではありませんか。)


山人とは『山に住む人』『仙人』という意味だが、『いきぼとけ』とよんで『心や容姿の美しい女性』のことをさす言葉でもあった。

私はこの歌は志貴皇子の次の歌に対応しているのではないかと思う。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)


大伴坂上郎女という人が次のような歌を詠んでいる。

大夫(ますらを)の 高円山に 迫めたれば 里に下り来る 鼯鼠(むささび)ぞこれ/大伴坂上郎女
(勇士たちが高円山で狩りをして、里に下りてきたむささびがこれです。)


大伴坂上郎の歌の中に『 高円山』とでてくるが、高円山には志貴皇子の墓がある。
つまり高円山に住むむささびとは志貴皇子のことである。
志貴皇子は自分自身をむささびに喩えて歌を詠んだのだろう。

元正上皇がいう『山人』とは志貴皇子、『山人がくれたみやげ』とは『志貴皇子の死』を意味しているのではないだろうか。

元正天皇が女の身でありながら皇位についたのは、弟の首皇子へ皇位をつなぐためであった。
首皇子を即位させることは、元正天皇の祖母・元明天皇の悲願だった。

707年、文武天皇が崩御すると、文武天皇の母親の安陪皇女は、文武天皇の子である首皇子へ皇位をつなぐために中継ぎの天皇として即位し元明天皇となった。
715年、首皇子はこのときまだ14歳と若く病弱であったこと、また藤原氏との対立などもあって、首皇子の同母姉の氷高皇女がやはり中次の天皇として即位して元正天皇となった。
724年、元正天皇の譲位を受けて首皇子が即位し聖武天皇となった。
727年、聖武天皇と藤原光明子の間に基王が生まれたが、基王は728年に夭逝してしまった。

聖武天皇や藤原光明子は基王が夭逝したのは志貴皇子の怨霊のせいだと考えたのではないだろうか。

想いだしてほしい。
三月堂は728年に聖武天皇と光明皇后が夭逝した基皇子の菩提を弔うために創建された金鐘寺の 羂索堂だったことを。
そして三月堂のご本尊・不空羂索観音の光背が蜘蛛の巣のように見え、手に持った羂索を投げる姿を想像すると、狂言や六斎念仏の土蜘蛛にそっくりであること。
不空羂索観音の肩には鹿革のケープがかけられており、鹿=謀反人をイメージさせることを。
三月堂の不空羂索観音は志貴皇子の怨霊封じ込めの像ではないだろうか。

●タケミカヅチの本地仏

鹿は春日大社の神使とされており、不空羂索観音は鹿皮のケープを身に着けている。
このようなところから、三月堂の不空羂索観音は春日大社の御祭神であるタケミカヅチの本地仏とされている。

春日大社は藤原氏の氏寺で、三月堂から歩いてすぐの場所にある。

本地仏とは本地垂迹説からくる言葉である。
日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮に姿をあらわしたものであるとする考え方のことを本地垂迹説といい、日本の神仏習合のもととなった。
そして日本古来の神々のことを垂迹(権現ともいう)、日本古来の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏といった。

平たく言うと、春日大社の御祭神のタケミカヅチは不空羂索観音の生まれ変わりであると考えられていたということである。

それにしても不思議なのは、三月堂は東大寺のお堂で、東大寺は天皇家の寺であるのに、なぜ藤原氏の氏神である春日大社のタケミカヅチと習合されているのかということである。

三月堂の隣には東大寺の鎮守・手向山八幡宮があって、応神天皇・姫大神・仲哀天皇・神宮皇后・仁徳天皇を御祭神としている。
習合するのであれば、春日大社の神よりも、手向山八幡の神のほうがふさわしいように思えるのだが。

春日大社の御祭神は藤原氏の守護神であるタケミカヅチとフツヌシ、祖神であるアメノコヤネノミコトとヒメ神である。

アメノコヤネノミコトは天児屋根命と書くが、私は天児屋根命とは天智天皇のことではないかと考えている。
天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味になる。
そして天智天皇は
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。)

と歌を詠んでいる。
仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことだろう。

天児屋根命は藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫ということになるが、『興福寺縁起』によれば藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけており、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であるとしている。

とすれば、天智天皇が藤原氏の祖神というのは辻褄があう。

春日若宮様は1003年旧暦3月3日、第四殿(比売神)に神秘な御姿で御出現になったとされる。
当初は母神の御殿内に、その後は暫らく第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られ、水徳の神として信仰されていた。

私は春日若宮様とは春日宮天皇とも呼ばれた志貴皇子のことだと思う。
天皇の皇子であるし、春日という名前も一致している。

つまり、東大寺の三月堂と春日若宮は同じ神、志貴皇子を祀っているのである。
春日神社の神は他にタケミカヅチ・比売神がいるが、春日明神とひとくくりにされることが多い。
それで、三月堂の不空羂索観音は春日大社のタケミカヅチの本地仏であるなどと言われているのではないだろうか。

東大寺・・・奈良市雑司町

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[2014/08/19 20:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

祇園精舎の鐘はどんな音? (六波羅蜜寺・六道珍皇寺) 

●六道の辻

古より西福寺・六波羅蜜寺・六道珍皇寺があるあたりの辻は『六道の辻』と呼ばれて畏れられていた。
六道とは仏教において生きとし生けるものが死後永遠に輪廻すると考えられた6つの世界、すなわち地獄道・餓鬼道・鬼畜道・修羅道・人間道・天上道のことである。

かつてこのあたりは鳥辺野の葬送地の入り口に当たり、六道にちなむ6つの寺院-六道珍皇寺・西福寺(地蔵堂)・六波羅蜜寺・愛宕念仏寺・姥堂・閻魔堂-があった。
(愛宕念仏寺・姥堂・閻魔堂は現存していない。
これらの寺では死者に引導を引き渡す役割を担っていた。

●六波羅蜜寺と平清盛

六波羅蜜寺のあるあたりはかつて六波羅と呼ばれていた。
六波羅は髑髏原からくるという説もある。
かつてこのあたりには髑髏がごろごろ転がっていたため、髑髏原と呼ばれていた、というのである。
しかしこのような恐ろしい場所、六波羅に邸宅を構えた人物があった。
平清盛である。

六波羅蜜寺は現在は小さな寺であるが、平安後期には広大な敷地を持っていた。
六波羅蜜寺境域内に平家一門の邸館が建てられ、その数は5200以上もあったといわれている。しかし1183年、平家没落の時、平家は自ら火をつけ、一面焼け野原となった。
ただ本堂だけが焼失を逃れたという。
六波羅蜜寺の宝物館には眼光鋭い僧形の平清盛像が安置されている。

●迎鐘

六波羅蜜寺を出て六道珍皇寺へ向かうとひっきりなしに籠った鐘の音が聞こえてくる。
京都ではお盆に六道珍皇寺の鐘をついてお精霊さん(おしょらいさん/先祖の霊のこと)を迎える習慣があるのだ。 

六道珍皇寺 迎鐘 


六道珍皇寺の鐘楼は四方を壁で囲んであり、壁に開けられた穴から出た綱をひっぱると鐘が鳴る仕組みになっている。
壁の中に鐘があるので籠もった音がする。
この鐘の音は十万億土の冥途にまで響くと言われている。

●祇園精舎の鐘はどんな音?

平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」という有名な七五調の文章で始まる。
この文章を初めて読んだのは小学校の国語の授業だったが、私は祇園精舎とは京都祇園にある寺のことなのかな、と思った。
ところが先生は祇園精舎とはインドにある寺だとおっしゃった。
まだうぶだった私は「へえー」なんぞと思ったものである。

しかし平家没落の無常について語るのに、誰も聞いたことがないインドの鐘の事を書いたりするものだろうか。

平家物語の著者は一級の文学者であると同時に、一級のジャーナリストでもあった。
フィクションを加えた部分もあるだろうが、千人以上に及ぶといわれる登場人物のほとんどが実在の人物である。
平家物語を書くためには、相当調査や取材を行ったにちがいない。
作者は取材のために、六波羅へもやってきたことだろう。
六波羅を訪れた作者が目にしたのは、5200もあった平家の館が焼け落ちて草がぼうぼうと繁る風景で、作者は諸行無常の思いにかられたことだろう。
作者が六波羅を訪れたのがお盆の時期であったとしたら、六道珍皇寺の迎鐘の音を聞いたはずだ。
もしかして、祇園精舎の鐘の声とは六道珍皇寺の迎鐘のことではないだろうか?
祇園精舎の鐘の声は諸行無常の響きがあるというが、お精霊さんを迎える迎鐘は「すべての人は必ず死ぬ」ということをいやがおうにも知らしめる鐘ではないか。

●祇園寺

六道の辻から東大路通に出て北へ500メートルほどいくと八坂神社がある。
八坂神社はもともとは観慶寺という寺で、別名を祇園寺といった。
祇園精舎とはこの祗園寺のことなのではないだろうか。

六道珍皇寺は鎌倉時代までは東寺に属していたが、室町時代に建仁寺の聞渓良聡が入寺したことによって臨済宗の寺となっている。
このように、寺が近隣の大寺の影響を受けることはままあったようだ。

すると六道珍皇寺が近隣にあった観慶寺の影響を受けたという可能性も考えられるのではないだろうか。

●耳無し芳一

『耳無し芳一』という怪談がある。

阿弥陀寺に芳一という盲目の琵琶法師が住んでいた。
芳一はひとりの武士に頼まれて、夜な夜な貴人の屋敷にいって「壇ノ浦の戦い」の下りを弾き語るようになった。
不審に思った和尚が寺男たちに芳一の後を付けさせた。
すると芳一は平家一門の墓地の中で無数の鬼火に囲まれて琵琶を弾き語っていた。
和尚は平家の怨霊に芳一が殺されてしまってはいけないと、芳一の全身に般若心経を書いた。
体にお経が書いておくと、怨霊には体が見えないのである。
しかし、和尚は芳一の耳にだけお経を書くのを忘れた。
そのため、平家の怨霊は芳一の耳だけとって去っていった。


平家物語は芳一のような盲目の琵琶法師によって弾き語られた。
琵琶法師は琵琶をひきつつ、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と語り始める。
祇園精舎の鐘を六道珍皇寺の迎鐘のことだとすると、迎鐘とはお精霊さん(死者の霊)をこの世に蘇らせる鐘なので、琵琶法師は迎鐘のことを語ることで、平家の亡霊を呼び寄せると考えられたのではないだろうか。

耳無し芳一の怪談はこのような発想から創作されたものではないだろうか。

※六道珍皇寺・・・京都市東山区東大路通松原西入ル小松町
※六波羅蜜寺・・・京都市東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町

※六道参り・・・8月7日~10日
※ 六道珍皇寺・六道まいり・・・8月7日~8月10日、午前午前6時~午後11時
※ 六波羅蜜寺・万灯会・・・8月8日~8月10日 午後8時~   
                 8月16日 午後8時~


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[2014/08/11 20:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

目のない白蛇 (龍泉寺) 

りゅうせんじ みずごり 
●目のない白蛇

洞川温泉に龍泉寺というお寺があり、次のような伝説がある。

昔、龍泉寺で働く男が村に住んでいた。
そこへ若い女が「一晩泊めてください」と言ってやってきた。
女はそのまま男の家に住みつき、ふたりは夫婦となり、子供が生まれた。
女は「子供にお乳を飲ませたり、添い寝する姿を見られるのが恥ずかしいので、家に帰ったときは必ず声をかけてください。」と男に告げた。
しかしあるとき、男は声をかけずに家の中に入った。
すると大きな白蛇が赤ん坊に添い寝していた。
「私は龍泉寺の池に住む蛇です。正体を知られたからにはもう夫婦ではいられません。
子供が泣いたらこれをなめさせてください。」
蛇はそういって自分の目玉をくりぬいて男に渡した。
子供は目玉をなめて育ったが、とうとうなめ尽くしてしまった。
すると龍泉寺の龍の口から白い蛇が現れ、もう片方の目玉を子供に与えた。
「私は、両目ともなくなってしまって二人の姿を見ることができないので、朝と夕にお寺の鐘を鳴らしてください。
その音を聞いて、二人のことを思い出します」
白蛇はこう言い残して消えた。


龍泉寺の近くには面不動鍾乳洞や五代松鍾乳洞がある。
鍾乳洞などの洞窟には洞穴生物(洞窟生物)が住んでいるケースがある。
洞穴生物は白っぽい色をしており、目がないものが多い。
龍泉寺の目のない白蛇伝説はこの洞穴生物をモチーフとして創作されたものなのではないだろうか。
洞川温泉という名前も、洞窟からくるのかもしれない。

●黄泉比良坂

そして龍泉寺の白蛇伝説から、私は記紀神話のイザナギといザナミの物語を思い出す。

イザナギは死んでしまった妻・イザナミを迎えに黄泉の国へいき、「愛する妻よ、国つくりはまだ終わっていない。一緒にもとの世界へ戻ってきてはくれないか」と頼んだ。
これに感激したイザナミは「黄泉の大王に相談するので、少し待ってください。その間決して振り返って私の姿をみないでくださいね」と言った。
しかしイザナギは我慢できなくなって振り返り、イザナミの姿を見てしまう。
イザナミの身体は腐り、蛆がわいていた。
それを見たイザナギは怖くなり、一目散に逃げ出した。


女が「姿を見ないでほしい」といったのに、男は約束を破ってその姿を見てしまうという点で、ふたつの物語は共通している。

イザナギとイザナミの神話は次のように続く。

イザナミは怒って黄泉の国の醜女にイザナギを追わせた。
イザナギが頭に付けていた黒い木のつるで作った輪を投げつけると、山葡萄が生えた。
醜女がやまぶどうを食べているうちにイザナギは逃げたが、醜女はまた追いかけてきた。
そこでイザナギは櫛の歯を折って投げつけた。
するとタケノコが生えた。
イザナギは醜女がタケノコを食べているすきに逃げた。
イザナミは黄泉の国の千五百もの化け物たちの軍隊を動員して後を追わせた。
イザナギは黄泉比良坂(黄泉の国の入り口へと降りる坂)までやってきて、そこに生えていた桃の木から身をもぎとって投げつけると化け物たちはみな逃げて行った。


山葡萄や筍が生えたというのが興味深い。
私はこの記述は鍾乳洞のようすを描いたものなのではないかと思う。

鍾乳洞には「ケイブパール」といって、丸い鍾乳石が見られる。
天井からしたたり落ちる水滴が水中の中の石を動かし、石と石がこすれることによって丸い形になる。
これが山葡萄の正体ではないか。

また「石筍」といって、下から柱のようにそそり立つ鍾乳石も見られる。
石筍はその字のとおり、筍のような形をしている。
これが筍の正体ではないだろうか。
昔の人は鍾乳洞をこの世とあの世を結ぶ道であると考えたのだと思う。

洞川温泉のあたりは、この世とあの世を結ぶ土地だと考えられ、龍泉寺の白蛇伝説は上記のイザナギとイザナミの物語をベースに作られたものだと私は思う。

●大峰山は黄泉の国

龍泉寺を出ると、東の方向に大峰山(山上ヶ岳)の姿が見えていた。
大峯山は修験道の修行の地であり、そのふもとにある洞川温泉のあたりは古くより宿場町として栄えていた。(温泉は近年ボーリングで掘り当てたものであるが)
鍾乳洞で有名な洞川温泉が黄泉の国への入り口であれば、大峯山は黄泉の国そのものという認識が古の人にはあったことだろう。

記紀神話に次のような物語がある。

大国主が根の国(黄泉の国)へ行き、根の国の大王・スサノオから様々な試練を与えられるが、最後にはスサノオから娘のスセリヒメと、刀と知恵を授かってこの世に戻る。

京都の法輪寺では4月13日に十三詣が行われている。
十三詣は13歳になった子供が法輪寺にお参りする行事だが、別名「知恵もらい」と呼ばれている。
法輪寺のご本尊・虚空蔵菩薩は知恵を授けてくださる神様として信仰されており、十三詣をすると虚空蔵菩薩より知恵を授かるといわれているのだ。
法輪寺の前には桂川が流れ、渡月橋がかけられている。
十三詣をした子供は渡月橋を渡りきるまで決して後ろを振り返ってはいけないという言い伝えがある。
後ろを振り返るとせっかく授かった知恵が台無しになってしまうのだと。

どうやら桂川は三途の川、その向こう側にある法輪寺はあの世に喩えられているらしい。

大峯山もまた法輪寺と同様、あの世に喩えられているのではないかと思う。
そして洞川温泉は黄泉の国への入り口だ。
明治まで神仏は習合されて信仰されていた。
スサノオと虚空蔵菩薩は習合されていたのだろう。
あの世である大峯山から戻ってくれば多大な知恵を授かる。
黄泉の国へいった大国主が黄泉の大王・スサノオよりスセリヒメと刀と知恵を授かってこの世に戻ってきたように。
大峯山修行はそういった信仰から生じたのではないだろうか。
洞川温泉・・・奈良県吉野郡天川村洞川
龍泉寺・・・奈良県吉野郡天川村洞川494

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[2014/08/05 20:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)