FC2ブログ












崇徳天皇の神霊に祈願した明治天皇(白峯神宮) 


●白峯神宮が創建された時代

1867年10月12日、孝明天皇が35歳の若さで崩御し、明治天皇が即位した。まだ14歳だった。
翌1868年、明治天皇は父・孝明天皇の遺志をついで京都に白峯神宮を創建し、崇徳天皇を御祭神とした。

白峯神宮が創建されたころの日本は、討幕の動きが高まっていた。
1867年11月10日には征夷大将軍・徳川慶喜が『大政奉還』を行い、1868年1月3には討幕派が『大政復古の大号令』を発していた。
『大政復古の大号令』とは江戸幕府と摂関制度を廃止し、明治新政府樹立を宣言するものである。
即位後、明治天皇は討幕のシンボルとして担ぎあげられることになる。

1868年1月27日、新政府軍vs幕府軍の内戦がおこり、幕府軍が大敗した。(鳥羽・伏見の戦い)
1868年4月6日、明治天皇は『五箇条の御誓文』を発布して新政府の基本方針を表明した。
また明治と改元し、江戸を東京と改めた。
江戸城は東京城と改めて東京奠都し、明治天皇は京都から東京へ移り、東京城を宮城として居住するようになった。

このような社会情勢から考えると明治天皇がなぜ白峯神宮を創建したのかが見えてくる。

●怨霊と畏れられた崇徳天皇

白峯神宮の御祭神・崇徳天皇(1119年-1164年)は平安時代後期の天皇である。
名目上は鳥羽天皇の第一皇子で母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)とされている。
しかし「古事談」によれば、崇徳天皇は鳥羽天皇の実子でなく、鳥羽天皇の祖父の白河法皇と待賢門院との間にできた子であったと記されている。
白河は自分の女である待賢門院を孫の鳥羽に与えたが、待賢門院は白河の子を身籠っていたというのである。
鳥羽は崇徳を『父の弟にして子』と言う意味で『叔父子(おじご)』と呼んで嫌っていたと「古事談」にはある。

1123年、崇徳は鳥羽天皇の譲位を受けて5歳で皇位についた。
しかし、白河が没すると鳥羽上皇は崇徳に退位を強要し、崇徳は異母弟の近衛天皇に譲位した。
近衛は崇徳の養子として即位する予定であったが、鳥羽によって発布された宣命には『皇太弟』と記されていた。
当時は院政が行われていたが、近衛が『皇太弟』では崇徳は院政を行うことができない。
そのため崇徳が上皇となってからも、政治の実権は鳥羽が握っていた。

近衛は17歳で崩御した。
このとき次期天皇候補として崇徳の子の重仁が有力視されていた。
ところが、近衛の死は崇徳と藤原頼長が呪詛したためだという噂がたち、怒った鳥羽は重仁ではなく、崇徳の同母弟の後白河天皇を天皇とした。

これを不満として崇徳は、左大臣藤原頼長や平忠正、源為義(鎮西八郎)らの武士を率いてクーデターを起こした。
(保元の乱)
しかし、後白河側についた平清盛・源義朝らによって鎮圧され、崇徳は讃岐に流罪となる。

崇徳は讃岐で五部大乗経を写本し、反省の証に朝廷に差し出した。
しかし後白河は受け取りを拒否し、写本を送り返してきた。
崇徳はこれに激怒して、自分の舌を噛み切り、その血で写本に次のように書き込んだ。
『日本国の大魔縁となり、この経を魔道に回向(えこう)す。』
『皇を取って民とし民を皇となさん』と。
そして爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になった。
『保元物語』によれば、状況調査のために派遣された平康頼は『院は生きながら天狗となられた』と報告したと記されている。
1164年、崇徳は崩御し、讃岐に埋葬された。
火葬の煙は都の方角にたなびいたという。

崇徳天皇の死後、武士である平家が権力を得た。
平家が没落すると源頼朝が鎌倉幕府を開いた。
権力を朝廷に取り戻そうとした後鳥羽院は『承久の乱』を起こすが失敗し、隠岐に流刑となった。
これらの一連の事件や、相次いだ天変地異などは、崇徳の怨霊の祟りであると考えられた。

陰陽道では荒ぶる怨霊は神として祀り上げれば、ご利益を与えてくださる和霊に転じると考える。
明治天皇は怨霊である崇徳天皇を京都に迎えて神として祀り上げ、そのご加護をえることで、討幕および王政復古を実現させようと考えたのだろう。

明治天皇の祈りが崇徳天皇に届いたのか、1869年、新政府軍は幕府軍および奥羽越列藩同盟との戦争(戊申戦争)に勝利し、新政府が幕府に代わって政権を掌握することになった。

●明治天皇、弘文天皇・仲恭天皇・淳仁天皇に諡号を贈る。

1870年8月20日、明治天皇は諡号が贈られていなかった三天皇に弘文天皇・仲恭天皇・淳仁天皇と諡号を贈った。

弘文天皇(648- 672)とは672年に皇位継承をめぐって大海人皇子(のちの天武天皇)と戦って(壬申の乱)自殺においこまれた大友皇子のことである。

仲恭天皇(1218~1234)は順徳天皇の子で、後鳥羽上皇の孫である。
1221年に即位したが、同年、祖父の後鳥羽上皇が承久の乱を起こして幕府軍に敗北した。
後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡に流罪となった。
これにともなって仲恭天皇は即位したもののわずか78日で廃され、代わって後堀川天皇が即位した。
そのため諡号、追号がなされず、九条廃帝、半帝、後廃帝と呼ばれていた。

淳仁天皇(733 - 765)は藤原仲麻呂の後押しを受けて758年に即位した。
ところが藤原仲麻呂と孝献上皇の関係が悪化し、764年仲麻呂と孝献上皇は軍事衝突することになる。(藤原仲麻呂の乱)
孝献上皇軍が勝利し、藤原仲麻呂は斬殺された。
淳仁天皇は仲麻呂と関係が深かったことを理由に皇位をはく奪され、淡路島に流罪となった。
765年10月、逃亡を図るが捉えられ、翌日亡くなった。
暗殺されたのではないかといわれている。

弘文天皇・仲恭天皇・淳仁天皇はいずれも不幸な人物であり、それゆえ、怨霊として恐れられていたのだろう。
明治天皇はこれらの天皇に諡号を贈ることで慰霊し、自分の守護神にしようと考えたのだと思う。
この3人のうち、淳仁天皇の神霊は1873年に白峯神宮に迎えて合祀されている。

明治という時代はそんなに昔ではないが、今とはちがい、まだまだ怨霊や神は身近な存在だったのだ。

白峯神宮・・・京都府京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町261番地


 

banner (5)
スポンサーサイト




[2014/07/04 21:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)