●祇園祭と壬生 都大路を祇園祭の山鉾が巡幸していく。 長刀鉾、月鉾などの巨大な山鉾に混じり、美しい2基の傘鉾の姿が見える。 綾傘鉾である。 傘鉾の前にはかわいらしい御稚児さんたちのほか、面をつけて太鼓をたたく人が二人、バトントワラーのように棒を振る人が一人いる。 棒を振るのは道を清めるためとされる。 壬生寺で行われている中堂寺六斎念仏の『祇園囃子』の演目において、この棒振りと同じパフォーマンスを見たことがある。 着物の柄や色は違うがデザインはほぼ同じである。 また白いマスクに赤熊のヘアースタイルは全く同じである。 壬生寺では壬生六斎念仏も行われているが、壬生六斎においても『祇園囃子』の中で同様の棒振りが行われている。 (詳しくはこちら → ☆) 実は祇園祭の綾傘鉾棒振り囃子は壬生六斎念仏保存会の人たちによって演じられているのだ。 壬生六斎念仏会の人々が綾傘の棒振り囃子を演じるようになったのは18世紀中頃以降だと言われているが、17世紀に描かれた「洛中洛外図屏風」の中に綾傘鉾と棒振りをする人、面を被って太鼓をたたく人の絵が記されている。 祇園祭は八坂神社の祭礼だが、壬生寺近くにある「元祗園梛神社」の社伝には次のようにある。 「869年、京で疫病が流行したとき、牛頭天王(素戔嗚尊)の神霊を播磨国広峰(現在の兵庫県姫路市)から椥神社勧請して鎮疫祭を行った。 この時、その神輿を梛の林中に置いて祀ったことが、椥神社の始まりである。 この地から八坂に遷祀したとき、この地の住人が風流傘を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を八坂に送ったのが祇園祭の起源である。 」 八坂神社は牛頭天皇の総本社を称しているが、本当の総本社は兵庫県姫路市にある広峰神社だという説がある。 梛神社の社伝にもあるように、869年、京で疫病が流行したとき、藤原基経が広峰神社の牛頭天皇を勧請したという記録があるのだ。 また、遷宮する途中で、神戸の祇園神社・大阪の難波八坂神社、京都の岡崎神社などで休憩したと伝えられている。 梛神社もまた、祇園神社・難波八坂神社などのように休憩した場所であったのかもしれない。 八坂神社と壬生の梛神社は関係が深い。 八坂神社の祭礼である祇園祭に壬生六斎保存会の人々が参加しているのは、壬生の地がもともと祇園社のあった場所だったためではないだろうか。 ●隼神社と隼人 梛神社の境内には隼神社がある。 もともとは蛸薬師坊城にあったのだが、1918年に現在地に移ったのだという。 蛸薬師坊城は現在の中京区壬生御所ノ内町のことで、現在の隼神社からほんのわずかばかり北である。 隼神社はずっと壬生の地にあったといっていいだろう。 隼神社は奈良にもあって、角振明神・角振隼明神・椿本神社とも呼ばれている。 平安京遷都のときに隼神社が平安京に分祀されたという記録があり、これが蛸薬師坊城都の隼神社のことだと考えられている。 京都の隼神社の御祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)だが、奈良の隼神社の御祭神は火酢芹命(隼神)と、角振神(火酢芹命の御子)となっている。 京都の隼神社は奈良の隼神社より分祀されたものなので、神の名前は違っても同じ神を祀る神社だと考えられる。 隼神=火酢芹命はニニギとコノハナノサクヤヒメの次男である。 長男が火照命(海幸彦)で三男が彦火火出見命(山幸彦)である。 古事記では隼人の先祖は火照命(海幸彦)だとされているが、日本書紀本文では火酢芹命は隼人の祖となっている。 『奈良市史社寺編』にも次のように記されている。 『隼神とは、火酢芹命(ほすせりのみこと)のことである。 これは隼人族の祖であり、海幸彦とも呼ばれ、神武天皇の祖父で山幸彦とも言われている、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の兄にあたる。 兄・海幸彦は、弟・山幸彦との戦いに敗れて、代々、宮城の警固に任じられた。 勝利した山幸彦は、天皇家の元を築いたと記紀で伝えられている。』 隼神は隼人の祖だったのである。 隼人とは古代薩摩や大隅(現在の鹿児島県)に住んでいたまつろわぬ民のことである。 隼人は度々反乱をおこしたため、朝廷は隼人たちを畿内に移住させる政策をとった。 畿内に移住させられた隼人たちは、ヤマト王権の支配をうけ、隼人司に属した。 そして朝廷の警護・祭祀・相撲・竹細工の製作などを行っていた。 隼人司に属していた隼人たちは、奈良の隼神社の近くに住んで隼神社の祭祀を行っていたのではないかと思う。 というのは、隼神は隼人の祖神だが、先祖の霊は子孫が祭祀すべきとされていたためである。 ということは、平安京に隼神社が分祀された際、何人かの隼人たちが神についていったのではないだろうか。 それはもちろん隼神を祭祀するためである。 隼神を祭祀するのは隼神の子孫である隼人に限られるのだから。 ●角振明神と牛頭天皇 私は奈良の隼神社が角振明神、角振隼明神と呼ばれていることが気になる。 隼には角はないが、牛には角がある。 角振明神とは牛の神、牛頭天皇と同一神、もしくは習合されたのではないだろうか。 そして広峯神社より勧請されて壬生へやってきた牛頭天皇は、隼人によって祀られたのではないかと私は思う。 さらに牛頭天皇が壬生から八坂に遷るとき、やはり隼人が八坂に移住して祀ったのではないだろうか。 八坂神社の近所の清水坂付近には犬神人と呼ばれる人々が住んでいた。 犬神人とは八坂神社に隷属し、神事・死体の処理・清掃・警護などに携わっていた人々のことである。 犬神人は『弦召せ』といって弓の弦を売り歩いていたところから『つるめそ』とも呼ばれていた。 「犬神人(つるめそ)の 緋縅着たる 暑さかな 」 この川柳は、祇園祭で緋色の着物を着た犬神人たちが警護のために町をうろついている様を詠んだものである。 一遍聖絵に犬神人の絵が描かれているが、結髪せず、口には白いマスクをつけている。 (こちらのサイトにも犬神人の絵が記されています。→ 「 犬神、戌神、犬神人」 それは壬生六斎の棒振りをする人のいでたちとよく似ている。 ●犬神人と隼人 犬神人というネーミングの「犬」とはどこからくるのだろうか。 「 犬神、戌神、犬神人」 上のサイトによれば「生きた犬を土の中に埋めて呪いを修したもの」が犬神であると説明がある。 また、「商売などの権利を得る代わりに神社の仕事を手伝っていた下級神職の人々を一般に神人と言い、そこに犬という接頭辞をつけたもの。」 「似て非なるものを犬といふ。これ本邦の故実與。水蓼(いぬたで)、竜葵(みずほうずき)、狗脊(いぬわらび)、・・・/燕石雑志 巻之一(十)物の名『日本随筆大成第二期19』(吉川弘文館1975) 」 「俗ニ陰事ヲ探ルモノヲ犬ニナルト云フ。(P.261)」 とも説明されている。 私は犬神人の『犬』は隼人からくるのではないかと考えている。 九州から大和に連れてこられた隼人たちは、犬の鳴き声を真似して宮中の警護にあたっていた。 その隼人が隼神社の遷宮に伴って壬生に移り住み、さらに壬生から八坂に遷宮した際、八坂の近所の清水坂に移り住んだのが犬神人なのではないだろうか。 八坂神社・・・京都市東山区祇園町北側625 梛神社・・・京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2 壬生寺・・・京都市中京区坊城通仏光寺上ル壬生梛ノ宮町31 祇園祭山鉾巡行・・・7月17日
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[2014/07/29 20:00]
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●「志賀」と「草子洗い」 祇園祭の山鉾のひとつ・黒主山は、謡曲・志賀を題材とした山である。 「今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む老人に出会った。 この老人が大友黒主で、和歌の徳を語って消え去るが、臣下の夢の中に現れて舞を舞う。(謡曲・志賀)」 大友黒主とは六歌仙(僧正遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康秀・小野小町・大友黒主)の一人で、古今和歌集仮名序(古今和歌集の仮名で記された序文)に『大友黒主はそのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし 。』と記されている。 謡曲・志賀出大友黒主が花の陰に休む老人として登場するのは、この古今和歌集仮名序の文章を受けたものなのだろう。 また能に『草紙洗い』という演目があり、やはり大友黒主が登場する。 『草子洗い』は次のような筋である。 小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。 歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん (種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。 小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町之歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。 ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。 黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。 策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(能・草紙洗い)『志賀』では黒主は『和歌の徳を語る老人』であるが、『草子洗い』では『小町の歌を盗み聞くずる賢い人物』として描かれている。 いったい、大友黒主とはどのような人物だったのだろうか? ●大友黒主は古の猿丸大夫の次なり。 古今集には仮名書のほかに「真名序」とよばれる漢文で記された序文がある。 内容は仮名書とほとんど同じだが、微妙に表現が違っている。 たとえば、仮名書では 大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。 となっているが、真名序は次のようになっている。(読み下し文) 大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。 真名序には『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とある。 これはどういう意味だろうか。 仮名序を書いたのは紀貫之だと言われているが、紀貫之は古今伝授の創始者である。 古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことで、伝授する人物は和歌の第一人者に限られ、伝授の方法は主に口頭で行われた。 和歌の極意を文章に記さず口頭で伝えるのは、情報が漏洩しないようにするためだろう。 鎌倉時代には藤原定家が父親であり師匠でもあった藤原俊家から古今伝授を受けている。 『古の猿丸大夫の次なり』の意味を定家ならば知っているかもしれない。 そう思って定家が撰んだ百人一首を調べてみた。 百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られている。 もしかしたら定家は『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』という仮名序の文章を受けて、百人一首において大友黒主の正体を明らかにしているのではないか、と思ったのだ。 つまり、猿丸大夫の次の歌人が、大友黒主ではないかと。 百人一首では猿丸大夫は5番だった。 その次・・・6番は大伴家持だった! 大友黒主は大伴黒主と記されることもある。 また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいるのだ。 白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主 (白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。) 白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持 (白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。) 古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』という。 本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことである。 大伴黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じ意味なので、本歌取りではない。 ほとんど同じと思われるふたつの歌の、一方は大伴黒主、一方は大伴家持の歌であるという。 このことからも、ふたりは同一人物ではないかと思われる。 ●そのさまいやし 大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄だった。 仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないだろうか。 また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。 仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないだろうか。 大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったかもしれない。 真名序に『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだろう。 『鄙し』とは『いやしい』という意味で、仮名序と同じ意味である。 ●万葉集を編纂した大伴家持 大伴家持は優れた歌人であり、万葉集を編纂した人物でもあった。 そして草紙洗に登場する家持以外の歌人、小野小町・紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らは古今和歌集の歌人である。 『草紙洗い』において、大友黒主=大伴家持は万葉集の中に小町の歌を書き入れているが、 『書き入れる』というのは『編纂する』という意味で、誰にでもできることではない。 万葉集を編纂した大伴家持(大友黒主)だからこそ小町の歌を万葉集に書き入れることができたのである。 小野小町はこれは『古今和歌集』の歌なので、『万葉集』に書き入れることはできませんよ、と大伴家持を諭したというのが、『草子洗い』のテーマだと思う。 つまり、『草子洗い』は大伴家持がタイムスリップして後世に現れたという物語だったのである。 また『志賀』において、黒主は和歌の徳を説いているが、これなども万葉集を編纂した大伴家持にふさわしい行為だといえるのではないだろうか。
[2014/07/22 20:27]
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●生玉・足玉と生島大神・足島大神 生國魂神社(大阪市天王寺区)は神武東征の際、神武天皇が難波碕(現在の上町台地)の先端に日本列島そのものの神である生島大神・足島大神を祀り、国家安泰を祈願したことに始まるとされる。 主祭神はもちろん生島(いくしま)大神・足島(たるしま)大神で、相殿に大物主大神を合祀している。 相殿の大物主大神とは前回お話した大神神社の御祭神であるが、生島大神・足島大神という神名はあまり馴染みがない。 いったい、どのような神様なのだろうか。 生國魂神社は生玉神社とも記すが、生玉とは十種神宝のひとつである。 十種神宝とは天照大神がニギハヤヒに与えたとされる十個の宝のことである。 ※十種神宝・・・沖津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死返玉(まかるかへしのたま)足玉(たるたま)・道返玉(ちかへしのたま)・蛇比礼(おろちのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品物之比礼(くさぐさのもののひれ) これらを用いて死者を生き返らせることもできるとされるが、現在、十種神宝の所在は不明である。 この十種神宝の中に足玉なるものも含まれている。 十種神宝の生玉は生島大神、足玉は足島大神と関係があるのではないだろうか。 weblio辞書 には、生玉とは「持つ人を長生きさせる玉」であると、こちらのサイトには説明がある。 十種の神宝 ← こちらのサイトでは生玉とは「生き生きした活動をもたらすもの」、足玉とは「その形体を具足させるもの」となっている。 ウィキペディア 生國魂神社には「二柱は日本列島そのものの神」であると記されている。 また、長野県上田市にはこの生島大神・足島大神を祀る生島足島神社があり、ウィキペディア 生島足島神社 には、「生島大神は万物を生み育て生命力を与える神、足島大神は国中を満ち足らしめる神」と説明がある。 なるほど、足島大神の「足」は「満たす」「足す」という意味だったのだ。 また、足と葦は音が同じなので、足島大神という神名から、私は葦原中国を思い出す。 足島とは葦島=葦原中国のことで、足島大神とは葦原中国を神格化した神なのではないだろうか。 だとすれば、ウィキペディア生國魂神社に記載された「日本列島そのものの神」であるということとも合致する。 ●生島大神・足島大神は長野の神? 生島足島神社の伝説によれば、「建御名方富命(摂社・諏訪神社祭神)が諏訪へ向かう途中、この地で生島大神・足島大神に米粥を献じたという。 この伝説から一般に、生島大神・足島大神はこの土地の地主神だと考えられている。 しかし、生島大神・足島大神を長野県上田市の神だとすると、辻褄のあわないことがいくつか生じる。 生國魂神社では「神武天皇が東征して畿内入りする際、難波先(現在の上町大地)のの先端に生島大神・足島大神を祀って国家安泰を祈願した。」としている。 神武東征のルートは、日向・高千穂→筑紫→豊国・宇沙(現 宇佐市)→阿岐国→吉備国→浪速国→紀国→熊野→大和・宇陀→忍坂となっていて、長野辺りには行っていない。 それなのに、なぜ長野県の神を難波国の上町台地に祀るのか。 また生島大神・足島大神は宮中においても生島巫(いくしまのみかんなぎ)によって祀られていた。 そして天皇即位の際には二神を祀る八十島(やそしま)祭が行われていた。 朝廷が天皇即位の際に長野の神を祀るというのもおかしな話である。 また古代、難波の地は淀川や大和川が運ぶ土砂によって多くの島が形成され、難波八十島と呼ばれていた。 生國魂神社の祭においても、氏子さんが「難波八十島に鎮座する生島大神・足島大神」というような意味の長歌を読み上げていた。 八十島祭という祭の名前は、難波八十島からくるものだと考えられる。 ●神武、物部王朝の神を祀る。 十種神宝は物部氏の祖先であるニギハヤヒが天照大神より授けられたものとされているが、生國魂神社のある大阪は物部氏の本拠地であった。 日向より東征してやってきた神武天皇は河内湾(河内湖/現在は陸地となっているが、かつて内海が形成されていた。)に侵入し、東大阪付近で上陸している。 前回、お話したように神武東征以前、物部氏の祖・ニギハヤヒという神が天の磐船を操って大阪府交野市付近に天下っていた。 ここから神武以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。 上陸した神武はニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコと激しく戦ったが、ナガスネヒコ軍に圧され気味で、いったん退いた。 そして迂回して紀州より畿内入りを果たすのである。 ニギハヤヒは神武に服し、ナガスネヒコは自分が神と奉じるニギハヤヒに殺されたと記紀には記されている。 生國魂神社は神武天皇が神武東征の際に生島大神・足島大神を祀ったというが、生島大神・足島大神は物部氏の神である可能性が高い。 陰陽道では「怨霊は神として祀り上げればご利益を与えてくださる神に転じる」と考えるそうだが、神武にとって物部氏の神は怨霊そのものであったことだろう。 そして怨霊を神に転じさせるために祀ったのが生國魂神社ではないだろうか。 生國魂神社・・・大阪府大阪市天王寺区生玉町13-9 生玉夏祭・・・7月11日、12日
[2014/07/17 21:00]
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●謎の三つ鳥居 大神神社の拝殿前に置かれた茅の輪が大雨でぐっしょりと濡れていた。 水無月晦日(6月30日)に茅の輪くぐり習慣があるが、茅の輪はひとつのみ、拝殿前に設置されるのが一般的である。 しかし大神神社の茅の輪は他とは違い、3つの輪が設けられていた。 大神神社には神殿はなく、拝殿より直接ご神体である三輪山を拝するという古い祭祀スタイルである。 残念ながら拝殿に遮られて見ることができないが、拝殿の向こう側には神殿のかわりに三ツ鳥居が置いてあるそうである。 写真→ ☆ (地図の三つ鳥居のところをクリックすると写真がでます。) 3つの輪が設けられた茅の輪は、この三つ鳥居のデザインを取り入れたものなのだろう。 上の写真は大神神社の摂社・檜原神社の三つ鳥居である。 大神神社本社の三つ鳥居もそうだが、これらの鳥居には扉がもうけられている。 一般的な鳥居には扉はなく、参拝者はその下をくぐって神域に入ることができる。 しかし扉が設けられた三つ鳥居の下を参拝者はくぐることはできない。 まるで参拝者の立ち入りを拒んでいるかのようでもある。 梅原猛氏は法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺で、法隆寺の中門の中央に柱があるのは聖徳太子の霊が表に出ないようにするための呪術的な仕掛けであると説かれた。 大神神社の三つ鳥居もまた、怨霊が外に出るのを防ぐ呪術的な仕掛けなのかもしれない。 ●御魂・和魂・荒魂と幸魂・奇魂 大神神社の主祭神は大物主神だが、大己貴神おおなむちのかみ)とと少彦名神(すくなひこなのかみ)が配神されている。 大己貴神は出雲大社に祀られている大国主神の別名である。 記紀神話に次のような話がある。 「大国主の前に光り輝く神があらわれ、「私を祀るように」といった。 大国主が神に名を問うと「私はあなたの幸魂、奇魂」と答えた。 こうして祀られたのが、大神神社である。」 つまり、大神神社の主祭神・大物主神は、大国主命の幸魂、奇魂というわけである。 ウィキペディアの「 荒魂・和魂」の説明によれば、 「和魂はさらに幸魂(さきたま、さちみたま、さきみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられる(しかしこの四つは並列の存在であるといわれる)。」とある。 しかし私は幸魂、奇魂という概念は古く、日本最古の神社であるとも言われる大神神社のみで用いられる言葉なのではないかと思う。 そしてその後、神をあらわす言葉としては御魂・和魂・荒魂という言葉が用いられるようになったのではないだろうか。 御魂は神の本質、和魂は神の和やかな側面、荒魂は神の荒々しい側面のことをいう。 そして女神は和魂を、男神は荒魂を表しているとする説がある。 とすれば御魂とは男女双体ということになるだろう。、 ●大己貴神は女神だった? 大神神社の配神・大己貴神は大国主命の別名とされるが、大穴持命と記されることもある。 名は体を表すというが、大穴持命とは「大きな穴を持った神」ということで、大きな穴を持った神とは女神のことだと思う。 大己貴神(大穴持命)は大国主命の別名で、大国主命は男神だ。 大国主命はたくさんの女神を妻としているではないか。 そう思われるかもしれないが、日本の神は性別がルーズで、聖徳太子が親鸞に「女に生まれ変わってあなたの妻になりましょう。」と言ったという話もある。 おそらく荒魂=男神、和魂=女神とする概念から、同じ神でも荒魂として現れるときには男神、和魂として現れるときには女神ということなのだろう。 そして大己貴神と同様、大神神社に配神されている少彦名神はその名前から男神だろう。 記紀神話によれば大己貴神と少名彦名神はきょうだいの契りをかわしてともに国つくりをしたというが、他にもきょうだいで国造りをした神がいる。 イザナギとイザナミである。 イザナギとイザナミは兄妹で夫婦となって国産み、神産みをした。 その後、死んだイザナミを黄泉の国まで迎えにいったイザナギは次のように発言している。 「愛しい妻よ、帰ってきておくれ。国造りはまだ終わっていない。」 イザナギは少彦名神と同一神、イザナミは大己貴神(大穴持命)と同一神ではないだろうか。 とすれば、やはり大己貴神(大穴持命)は女神だということになる。 大国主命の幸魂が女神の大己貴神(大穴持命)、奇魂が男神の少彦名神で、大己貴神(大穴持命)と少彦名神の男女双体の神が大神神社の主祭神・大物主命なのではないかと思う。 ● 神殿はおろか拝殿さえも作ることを拒んだ神
大神神社の御祭神・大物主神は出雲大社の大国主命の幸魂・奇魂とされていることはすでに述べたが、出雲大社の大国主命のほうは、天照大神が派遣したタケミカヅチに「国を譲れ」と迫られて、大きな神殿を作ることとひきかえに国を譲ることを許諾している。 さらに、大国主命は「神殿を作ってくれれば自分は黄泉の国からでない」とも言っている。 しかし「国を譲れ」といわれて「はい、どうぞ」と国を差し出す国王がいるだろうか。 実際には大国主命とタケミカヅチは壮絶な国撮り合戦を繰り広げたのではないだろうか。 そして「大神神社の大物主神は神殿はおろか、拝殿すらも作ることを拒んだ。」ということを聞いた記憶がある。 大物主神と大国主命の発言は対照的である。 大国主命・・・神殿を作ってくれれば国を譲り、黄泉の国から出ない。 大物主神・・・神殿はおろか、拝殿もいらない。 大物主神が「神殿はおろか拝殿もいらない」と言ったということは、「私は死んで黄泉の国へ好くのはまっぴらだ。国は譲らない。」という意味なのではないだろうか。 神武が東征して畿内入りするより以前、畿内にはニギハヤヒという神が天の磐船を操って天下っていたと記紀には記されている。 ニギハヤヒとは物部氏の祖神でここから神武以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。 ニギハヤヒは別名を天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまの ほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)という。 そして大神神社の御祭神・大物主は別名を倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)という。 櫛と玉(魂)が一致するので、二神は同一神ではないかとする説がある。 大物主神の「物」とは「物部氏」を意味しているのではないだろうか。 そして大神神社の三つ鳥居は、御魂(大物主神)・幸魂(大己貴神)・奇魂(少彦名神)の三柱の神々の怨霊を封じ込める神殿のかわりとして置かれているのではないかと私は思う。 次回につづきます。 大神神社・・・奈良県桜井市三輪1422 出雲大社・・・島根県出雲市大社町杵築東195
[2014/07/14 21:00]
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●蛸薬師と平清盛 新京極通商店街は、たくさんの店舗が軒を並べる中に小さなお寺が点在する異色の商店街である。 赤い座布団の上に巨大な蛸の像を安置した寺もあった。 永福寺である。 蛸の像は『なで薬師』といい、この像をさすって祈願すると病回復の御利益があると信仰されている。 永福寺には次のような伝説が伝わっている。 1181年、二条室町に住んでいた林秀というお金持ちが、比叡山の根本中堂に籠もって次のようにお願いした。 『比叡山に御参りするためには山を登らなければいけないが、自分は老人で山を登るのはたいへんである。つきましては、どうか自分のそばに薬師如来様をお与え下さい』と。 すると夢の中に薬師如来様が現れてこう言った。 『伝教大師(最澄)が私の姿を彫った石仏が山内に埋められているので、これを持ち帰るがよい。』 林秀は夢で薬師如来が教えてくれた場所を掘った。 するとそこにはお告げの通りに薬師如来様がおられた。 林秀はその薬師如来を持ち帰り、安置するお堂を建てた。 これが永福寺であり、もともとは室町通二条下ルにあったるとされる。 時は下って鎌倉時代の中頃のこと、永福寺に善光と言う僧が住んでいた。 建長年間(1249年~1256年)のこと、善光の母親が病気になった。 善光は寺に母親を引き取って看病したが一向に病状は回復しなかった。 病床の中で母親は『大好きな蛸を食べたい。そうすれば病気が治るかもしれない。』と言った。 僧侶である善光は蛸を買うことを憚ったが、母親のために市場に出かけ、蛸を買った。 善光が蛸を買うのを目撃した町の人々は、善光が手に持った箱を『あけて見せよ』と迫った。 善光は『薬師如来様、この蛸は母の病気を治す為に買ったものです。どうか、お助け下さい。』と祈って箱を開けた。 すると蛸の八本の足が八軸の経巻となり、霊光を放った。 人々が合掌し、南無薬師如来と称えると、経巻は蛸のすがたに戻った。 そして寺の門前にあった池に入り、光を放って善光の母を照らした。 すると母親の病気はたちまち回復した。 以来、人々はこの寺の薬師如来を蛸薬師と呼ぶようになった。 林秀が永福寺を建てたのは1181年だというが、1181年は平清盛が死亡した年である。 平清盛は清盛入道とか六波羅入道などと呼ばれていたが、入道とは剃髪して仏道にはいった人のことや、坊主頭の人のことをいう。 平清盛は1168年に病を患って出家している。 入道と呼ばれたのはそのためで、六波羅蜜寺にある清盛像は剃髪した姿で刻まれている。 蛸の頭は坊主頭=入道に似ている。 入道という坊主頭の妖怪がいるが、これは清盛のことなのではないだろうか。 永福寺には清盛の霊が祭られており、入道=蛸の連想から、蛸薬師と呼ばれているのではないだろうか。 また蛸は海の生物なので、強力な海軍を持っていた平家をあらわしているようにも思える。 伝説の中に、人々が南無薬師如来と称えると蛸が池の中にはいったという話があるが、これは壇ノ浦の戦いに敗れて入水して果てた平家を思わせる。 ●蛸が信仰された理由は8本脚にあり? 蛸を御仏として祀っているのは永福寺だけではない。 大阪府岸和田市にある天性寺は蛸地蔵として有名である。 イカではなく蛸が仏として祀られたのは、蛸の頭部が坊主頭に似ているというだけではないだろう。 イカと蛸は腕(脚)の本数が違う。 イカの腕は8本で、蝕腕(しょくわん)が2本、合計10本である。 一方蛸は8本の触腕が8本である。 蛸の足は8本あるので、仏として祀られるようになったのだと思う。 梅原猛氏によれば、8は復活を意味する数字ではないか、という。 八角墳や八角円堂は死者の復活を願って作られたものではないかというのだ。 易の本に、1は神・起源、2は対比・分裂、3は懐妊、4は実現・世界、5は智恵・想像力、6は六 星・健在意識と潜在意識の調和、7は神的受胎・休息・沈黙、8は無限、9は完成・達成、10は神・男性=1と女性=0の相互作用と書かれていた。 ここに8は無限、とある。 無限なのは、復活を繰り返すため、とも考えられる。 八は神道的・仏教的な数字だともいえる。 神道では八咫鏡、八咫烏、八百万の神々など八のつく言葉が多い。 スサノオノミコトは『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣つくる その八重垣を』と詠っている。 また仏教においても八角堂・八角塔・八部衆・八正道などやはり八のつく言葉が多い。 蛸は足が8本あるからこそ仏になれたのだと私は思う。 イカが仏になれなかったのは足が10本あるからだろう。 ●後花園院と豊臣秀吉の蛸薬師への信仰 永福寺は1441年に、後花園院の勅願寺となっている。 428年7月に称光天皇が崩御したが光天皇には嗣子がなく、将軍足利義教が伏見宮家の彦仁を天皇にたてた(後花園天皇)。 伏見宮家は本来皇統を出す家ではなく、後花園天皇の即位は予想外の出来事だったに違いない。 1433年には後花園天皇は親政を行うようになった。 同年、『永享の乱』が勃発した際には後花園天皇は治罰綸旨を発している。 これ以降、室町幕府の衰退と反比例するように天皇の権威は強くなっていった。 そして1441年、『嘉吉の乱』が起こる。 このとき6代将軍足利義教が赤松満祐の所領を没収し、寵臣の赤松貞村に与えようとしているという噂が流れた。 そこで赤松満祐は『鴨の子が多数出来たので見に来てほしい』と足利義教を自宅に招き、祝宴の最中に義教を殺害した。 それに対して山名持豊は赤松討伐のための治罰綸旨を奏請し、後花園天皇はこれを許している。 1441年の『嘉吉の乱』は、ますます天皇の権威を高めるのに役立ったことだろう。 後花園天皇は蛸薬師(清盛の霊)を深く信仰しており、自分の政治的権力が高まったことを、蛸薬師のご加護のおかげであると考えたのではないだろうか。 それで永福寺を勅願寺としたのだと思う。 その後、豊臣秀吉の時代、都の東の端の城壁代わりに大寺院が集められ、永福寺もここに移された。 秀吉も蛸薬師が清盛の霊を祀った寺であることを知っていて、城壁がわりにしたのではないだろうか。 清盛を祀る寺を城壁にすれば、それは心強かったことだろう。
[2014/07/09 21:00]
京都 |
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舞妓らが浴衣姿で芸向上祈る 上記記事によれば、祇園の芸妓さん、舞妓さんたちが7月7日、八坂神社を詣でて芸の向上と無病息災を祈る「お千度」という行事が行われたそうである。 芸妓さん、舞妓さんたちは柳とカエルを描いたそろいの浴衣を着ていた、という点に興味をひかれた。 七夕と蛙は関係が深いのである。 七夕の日、金峯山寺蔵王堂において蛙跳神事が行われた。 大きな蛙の面を被った人が四つん這いになってぴょんぴょんと跳ぶのを見て、私は思わずつぶやいた。 「空飛ぶ髑髏だ!」 飛鳥の亀石は亀ではなく蛙であるとも言われている。 上の写真は妖怪ストリート(京都一条 大将軍商店街)の店先に置いてあった妖怪「ぬらりひょん」の人形である。 ぬらりひょんの異様に大きな細長い頭部は亀石にそっくりである。 眉間に半月形の皺があるところまで同じである。 世界中に頭部を細長く頭蓋変形する習慣があり、現在でも頭蓋変形を行っている民族もいる。 ウィキペディアの「 頭蓋変形」のページに頭蓋変形を受けたインカの頭蓋骨の写真がある。 亀石はこの頭蓋変形を受けた頭蓋骨にもそっくりである。 また、平将門の首塚には蝦蟇(蛙)の置物がたくさん奉納されているが、平将門の首は京で晒されたのち東に向かって飛んだという伝説がある。 蝦蟇の置物が奉納されているのは「無事帰る」の語呂合わせだと言われているが、私は蝦蟇(蛙)の形が頭蓋骨に似ているからではないかと考えている。 蛙跳び神事が終わり、付近を散策していたところ「脳天大神→」と記された看板を見つけた。 脳天大神というネーミングにひかれ、→の方向に向かって谷をおりていくと谷底に脳天大神があった。 そこに狛犬のかわりに置かれてあったのは、なんと狛蛙だった。 脳天大神は金峯山寺の塔頭で正しくは龍王院といい、蔵王権現の化身である頭を割られた蛇を祀ったのだという。 そして首から上の守護神として信仰されている。 その脳天大神に狛蛙が置かれているのはなぜなのだろうか。 それはやはり蛙=蝦蟇は頭蓋骨を比喩したものだからなのではないだろうか。 かつてお盆は7月15日を中心とした行事で7月7日の七夕はもともとはお盆の行事だった。 お盆にはあの世から先祖の霊が戻ってくると考えられていた。 言い換えれば、お盆とは先祖の霊が復活する季節だということである。 江戸時代に弾圧を受けて消滅したとされる真言宗の一派に立川流があった。 立川流では髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作り、これを袋に入れて7年間抱いて寝ると8年目に髑髏本尊が命を持って語りだすと信仰されていた。 「髑髏本尊が命を持って語りだす」ということは「髑髏が復活する」ということであり、復活に髑髏はかかせない呪具だと考えらえていたのではないだろうか。 金峯山寺蔵王堂・龍王院/奈良県吉野郡吉野町吉野山 蛙跳神事/7月7日
[2014/07/07 21:00]
奈良 |
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●白峯神宮が創建された時代 1867年10月12日、孝明天皇が35歳の若さで崩御し、明治天皇が即位した。まだ14歳だった。 翌1868年、明治天皇は父・孝明天皇の遺志をついで京都に白峯神宮を創建し、崇徳天皇を御祭神とした。 白峯神宮が創建されたころの日本は、討幕の動きが高まっていた。 1867年11月10日には征夷大将軍・徳川慶喜が『大政奉還』を行い、1868年1月3には討幕派が『大政復古の大号令』を発していた。 『大政復古の大号令』とは江戸幕府と摂関制度を廃止し、明治新政府樹立を宣言するものである。 即位後、明治天皇は討幕のシンボルとして担ぎあげられることになる。 1868年1月27日、新政府軍vs幕府軍の内戦がおこり、幕府軍が大敗した。(鳥羽・伏見の戦い) 1868年4月6日、明治天皇は『五箇条の御誓文』を発布して新政府の基本方針を表明した。 また明治と改元し、江戸を東京と改めた。 江戸城は東京城と改めて東京奠都し、明治天皇は京都から東京へ移り、東京城を宮城として居住するようになった。 このような社会情勢から考えると明治天皇がなぜ白峯神宮を創建したのかが見えてくる。 ●怨霊と畏れられた崇徳天皇 白峯神宮の御祭神・崇徳天皇(1119年-1164年)は平安時代後期の天皇である。 名目上は鳥羽天皇の第一皇子で母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)とされている。 しかし「古事談」によれば、崇徳天皇は鳥羽天皇の実子でなく、鳥羽天皇の祖父の白河法皇と待賢門院との間にできた子であったと記されている。 白河は自分の女である待賢門院を孫の鳥羽に与えたが、待賢門院は白河の子を身籠っていたというのである。 鳥羽は崇徳を『父の弟にして子』と言う意味で『叔父子(おじご)』と呼んで嫌っていたと「古事談」にはある。 1123年、崇徳は鳥羽天皇の譲位を受けて5歳で皇位についた。 しかし、白河が没すると鳥羽上皇は崇徳に退位を強要し、崇徳は異母弟の近衛天皇に譲位した。 近衛は崇徳の養子として即位する予定であったが、鳥羽によって発布された宣命には『皇太弟』と記されていた。 当時は院政が行われていたが、近衛が『皇太弟』では崇徳は院政を行うことができない。 そのため崇徳が上皇となってからも、政治の実権は鳥羽が握っていた。 近衛は17歳で崩御した。 このとき次期天皇候補として崇徳の子の重仁が有力視されていた。 ところが、近衛の死は崇徳と藤原頼長が呪詛したためだという噂がたち、怒った鳥羽は重仁ではなく、崇徳の同母弟の後白河天皇を天皇とした。 これを不満として崇徳は、左大臣藤原頼長や平忠正、源為義(鎮西八郎)らの武士を率いてクーデターを起こした。 (保元の乱) しかし、後白河側についた平清盛・源義朝らによって鎮圧され、崇徳は讃岐に流罪となる。 崇徳は讃岐で五部大乗経を写本し、反省の証に朝廷に差し出した。 しかし後白河は受け取りを拒否し、写本を送り返してきた。 崇徳はこれに激怒して、自分の舌を噛み切り、その血で写本に次のように書き込んだ。 『日本国の大魔縁となり、この経を魔道に回向(えこう)す。』 『皇を取って民とし民を皇となさん』と。 そして爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になった。 『保元物語』によれば、状況調査のために派遣された平康頼は『院は生きながら天狗となられた』と報告したと記されている。 1164年、崇徳は崩御し、讃岐に埋葬された。 火葬の煙は都の方角にたなびいたという。 崇徳天皇の死後、武士である平家が権力を得た。 平家が没落すると源頼朝が鎌倉幕府を開いた。 権力を朝廷に取り戻そうとした後鳥羽院は『承久の乱』を起こすが失敗し、隠岐に流刑となった。 これらの一連の事件や、相次いだ天変地異などは、崇徳の怨霊の祟りであると考えられた。 陰陽道では荒ぶる怨霊は神として祀り上げれば、ご利益を与えてくださる和霊に転じると考える。 明治天皇は怨霊である崇徳天皇を京都に迎えて神として祀り上げ、そのご加護をえることで、討幕および王政復古を実現させようと考えたのだろう。 明治天皇の祈りが崇徳天皇に届いたのか、1869年、新政府軍は幕府軍および奥羽越列藩同盟との戦争(戊申戦争)に勝利し、新政府が幕府に代わって政権を掌握することになった。 ●明治天皇、弘文天皇・仲恭天皇・淳仁天皇に諡号を贈る。 1870年8月20日、明治天皇は諡号が贈られていなかった三天皇に弘文天皇・仲恭天皇・淳仁天皇と諡号を贈った。 弘文天皇(648- 672)とは672年に皇位継承をめぐって大海人皇子(のちの天武天皇)と戦って(壬申の乱)自殺においこまれた大友皇子のことである。 仲恭天皇(1218~1234)は順徳天皇の子で、後鳥羽上皇の孫である。 1221年に即位したが、同年、祖父の後鳥羽上皇が承久の乱を起こして幕府軍に敗北した。 後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡に流罪となった。 これにともなって仲恭天皇は即位したもののわずか78日で廃され、代わって後堀川天皇が即位した。 そのため諡号、追号がなされず、九条廃帝、半帝、後廃帝と呼ばれていた。 淳仁天皇(733 - 765)は藤原仲麻呂の後押しを受けて758年に即位した。 ところが藤原仲麻呂と孝献上皇の関係が悪化し、764年仲麻呂と孝献上皇は軍事衝突することになる。(藤原仲麻呂の乱) 孝献上皇軍が勝利し、藤原仲麻呂は斬殺された。 淳仁天皇は仲麻呂と関係が深かったことを理由に皇位をはく奪され、淡路島に流罪となった。 765年10月、逃亡を図るが捉えられ、翌日亡くなった。 暗殺されたのではないかといわれている。 弘文天皇・仲恭天皇・淳仁天皇はいずれも不幸な人物であり、それゆえ、怨霊として恐れられていたのだろう。 明治天皇はこれらの天皇に諡号を贈ることで慰霊し、自分の守護神にしようと考えたのだと思う。 この3人のうち、淳仁天皇の神霊は1873年に白峯神宮に迎えて合祀されている。 明治という時代はそんなに昔ではないが、今とはちがい、まだまだ怨霊や神は身近な存在だったのだ。 白峯神宮・・・京都府京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町261番地
[2014/07/04 21:00]
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「秋の始まりはお盆の始まり。(上賀茂神社 夏越神事)」 より続きます。 ●前回のまとめ 風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける (藤原家隆) (風が楢の葉をそよがせる楢の小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。六月祓のみそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。) ①家隆が夏越神事を見たのは旧暦の6月晦日であるが、現在、上賀茂神社では新暦の6月に夏越神事を行っている。 旧暦は新暦の約ひと月遅れとなるので、新暦に換算すると7月ごろに上賀茂神社の夏越神事は行われていたということになる。 7月の京都は暑いさかりで、秋の気配などみじんもない。 それなのに家隆はなぜ「禊(夏越神事)の様子だけが夏のしるしである(すっかり秋の気配が漂っている)などと歌に詠んだのか。 ②旧暦では1月・2月・3月を春、4月・5月・6月を夏、7月・8月・9月を秋、10月・11月・12月を冬としていた。 旧暦は新暦の約一月遅れなので、ざっくり考えて、新暦の2月・3月・4月が旧暦の春、新暦の5月・6月・7月が旧暦の夏、新暦の8月・9月・10月が旧暦の秋、新暦の11月・12月・1月が旧暦の冬に該当する。 ③つまり、旧暦では1年でもっとも暑い季節が秋の始まりだった。 ④旧暦の7月1日は釜蓋朔日(かまぶたついたち)といわれていた。 釜蓋朔日とは、地獄の釜の蓋が開く日であのことであり、この日からお盆が始まるとされていた。 そして6月晦日が夏のおわりで、7月1日は秋の始まりであった。 お盆とは秋の始まりを告げる行事であった。 ⑤ 『風そよぐ』の『そよぐ』は漢字では「『戦ぐ』と書く。 『戦』という漢字の意味は① 戦う。戦をする。② いくさ ③ おののく ふるえる ④ そよぐ そよそよと揺れ動く ⑤ はばかる 『風戦ぐ』とは、吹かれて心地よく感じる風ではなく、ざわざわと不気味さを感じる風のことではないか。 ⑥家隆は楢の葉がざわざわと不気味に揺れているのを見て、お盆になって戻ってきた霊が楢の葉を揺らしているのではないかと考え、ああ、お盆の季節がやってきたんだなあという気持ちを歌に詠んだのではないか。 ●楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり 古語辞典で『そよぐ』をひくと、『そよそよと音をたてる』とあり、文例として 岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり(平家物語・灌頂・大原入り) があげられていた。 上賀茂神社の禊川が『ならの小川』と呼ばれているのは、川べりに楢の木が生えているためである。 そよそよと音をたてるものは、ほかにもたくさんあるだろうと思われるのに、なぜ古語辞典には『楢』が文例にひかれているのだろうか。 偶然か。それとも『楢がそよぐ』ということが何かを意味しているのだろうか。 平家物語には次のように記されている。 建礼門院(平 德子)の父は平清盛、母は平時子で、高倉天皇の中宮として入内し、安徳天皇を産んだ。 平家没落の時、安徳天皇は祖母の時子に抱かれて入水した。 このとき、建礼門院も入水したのだが、死ぬことができず源氏方に捕らえられた。 彼女の母も、子も、一族の者も大勢死んだ。 壇ノ浦で入水したものの捕縛された建礼門院は東山の麓の吉田の地に隠棲し、長楽寺において出家した。 しかし大地震がおこり、築地が崩れて住めなくなった。 そこで人目のない大原に居を移した。 あるとき、庭に散り敷いた楢の葉を踏みしだく音がし、女院は捕り方がやってきたのかと思って身を隠そうとした。 しかしそれは鹿だった。 それを見ていた重衡の北の方が涙ながらに詠んだのが次の歌であった。 岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり 楢の葉をざわざわと戦がせたのは鹿だったと平家物語にはあるが、鹿といえば、私は日本書紀 仁徳天皇38年の記事にある『トガノの鹿』 を思い出す。 「 雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。 翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。 時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂した。 」 昔、謀反の罪で殺された人を塩漬けにすることもあり、鳴く鹿は謀反の罪で殺される者の象徴だったと考えることができる。 『トガノの鹿』の物語をふまえて、『岩根ふみ~』という歌を味わってみると、この歌は深みを増す。 平家物語を読んでいると、随所に怨霊の話が出てくる。 建礼門院が懐妊し、祈祷を行ったが、いまひとつ調子がよくないのを、平清盛は藤原成親の怨霊の仕業だろうと判断し、成親の息子・成経らを鬼界が島より召還させている。 また建礼門院が隠棲していた家は大地震で住めなくなってしまったが、この地震は安徳天皇や平家の怨霊によるものだとされ、怨霊は恐ろしいものであると人々は噂しあった、とも記されている。 琵琶法師の芳一が平家の霊にとり憑かれ、住職が全身にお経を書いて亡霊から芳一を守ったが、耳にお経を書くのを忘れたため、亡霊が芳一の耳をちぎって立ち去った話は有名だ。 能の『船弁慶』では、義経と弁慶が乗った船が風にあおられて沖に流された海上で平知盛の霊があらわれる。 義経は刀をぬいて亡霊と切りあうが、弁慶は『刀ではかなわないでしょう』と数珠を繰って経文を唱え、祈りの力で悪霊を退散させる。 これらの記述は当時、いかに怨霊というものの存在が信じられていたかを示すものだといえるだろう。 「岩根ふみ~」の歌に詠まれた鹿とは殺された平家の亡霊なのではないか。 重衡の北の方が、楢の葉を踏みしだく鹿の陰に安徳天皇や平家一門の怨霊を見たとしても不思議はない。 さらに『楢』を辞書でひくと、『楢葉守=ならの木の葉を守る神』とある。 そして文例に『楢葉守の祟りなし(浄瑠璃・会津山・近松)』がひかれていた。 古には楢葉守という神が存在すると考えられていたということがわかる。 しかもその神は祟る神、怨霊のようである。 家隆は楢の葉が戦ぐ様子にお盆になって戻ってきた死者の霊を感じ、秋の始まり=お盆の始まりを感じたと、そういう歌なのではないだろうか。 ●「大原入り」と「大祓い」 家隆が「風そよぐ~」の歌を詠んだのは、詞書から1229年だと考えられる。 平家物語の成立年代は不明だが、1240年に書かれた『兵範記』に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあり『平家物語』の前身として『治承物語』なる書物が存在していたと考えられている。 平家物語と家隆の歌のどちらが先でどちらが後かはわからない。 が、どちらかがどちらかの影響を受けている可能性はある。 その証拠に、平家物語の『大原入り』の段のタイトルから『おおはらいり』=『大祓(夏越神事のことを大祓ともいう)』という言葉が読み取れるではないか。 このような技法を、和歌では「もののな」という。 家隆の歌は、単に夏越神事の風景について詠んだ歌ではなく、 たいへん技巧的で、しかも深みのある歌だったのである。 『風そよぐ ならの小川』というフレーズから楢葉守や、平家物語にある『岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉のそよぐは鹿の渡るなりけり(平家物語/灌頂の巻・大原入りの段)』という歌を想起させる。 さらに夏越神事は別名を大祓という。 大祓から、大原入り(おおはらいり。/『岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉のそよぐは鹿の渡るなりけり』この歌の出典は平家物語/灌頂の巻・大原入りの段である。大原入りというタイトルの中に大祓と言う言葉がよみとれる。もののな。)の段を想起させる。 ●後鳥羽上皇 さて、楢の葉がざわつく様子を見て、家隆は誰の霊を感じたのだろうか。 それは後鳥羽上皇ではないだろうか。 後鳥羽院が崩御したのは1239年で、家隆が「風そよぐ~」の歌を詠んだのが1229年年なので、死んだ人の霊というよりは生霊であるが。 後鳥羽上皇は歌人としても優れた才能を持っていた人で、たびたび歌会を開いている。 この時代の代表的歌人である藤原定家や藤原家隆とも交流があった。 藤原定家は九条家に出仕して官位を上げていたが、1188年、源通親のクーデターにより九条家は失脚した。 その後1200年に定家は宮廷歌人となり、1201年には後鳥羽上皇から新古今和歌集の撰者に任命された。 ところが、歌の選定において定家は後鳥羽上皇と争い、1220年、後鳥羽上皇は定家の歌会への参加を禁じた。 しかしこのことは定家にとって災い転じて福となった。 なぜなら、1221年、後鳥羽上皇は承久の乱をおこして隠岐へ配流となったからである。 承久の乱後、定家は後鳥羽院とは一切の連絡を絶ち、高い官位を得て歌壇の頂点に立った。 一方、定家の兄弟弟子である家隆は変後も後鳥羽院と連絡をとりつづけている。 「絢爛たる暗号」の著者・織田正吉氏によれば、後鳥羽院と定家の歌は対応しているのではないか、という。 後鳥羽院の歌は次のようなものだ。 われこそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 こころして吹け (私は、新任の島守である。隠岐の荒き波風よ、それを心得て吹くがよい。) これに対して藤原定家の歌は次のようなものだ。 こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ (いくら待っても訪れてこない恋人を待ちこがれている私は、あの松帆の浦(淡路島)で夕なぎの頃焼くという藻塩のように、身もこがれるほど に苦しんでいます。) 織田正吉氏によれば、定家は、隠岐の荒波を煽動する後鳥羽院に対し、怒りを静めて欲しいという気持ちから、『夕なぎ』を詠んだのではないかという。 私は藤原家隆の歌もまた後鳥羽院の歌に対応していると思う。 風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける 『風そよぐならの小川』という言葉は『楢葉守』を想起させ、『新島守(後鳥羽上皇)』と対応しているのではないだろうか。 そして後鳥羽上皇は『荒き波風』、藤原定家は無風状態の『夕なぎ』、藤原家隆は『風そよぐ』でそよ風を詠っている。 三つの歌は風をテーマとして対応しているのである。 後鳥羽院が配流となった後、後鳥羽院と全く連絡をたった定家は新島守となった後鳥羽院が起こす風を無風状態にして歌を詠んでいるのに対し、後鳥羽院配流後も連絡をとっていた家隆は新島守となった後鳥羽院がおこす風をそよ風という形で受け入れているのが興味深い。 上賀茂神社・・・京都市北区上賀茂本山339 夏越神事・・・6月30日 20時より(確認をお願いします。)
[2014/07/02 21:00]
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