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矢田の神と春日明神(矢田寺) 

やたでら じゅうさんじゅうのとう

雨の中、私は傘をさして矢田寺の参道を歩いていた。
満開の紫陽花の花の中に埋もれるようにしてお堂が立ち並んでいる。
本堂の中央には地蔵菩薩、向かって左には吉祥天、向かって右には十一面観音が祀られていた。

地蔵菩薩は一般的には、右手に杖、左手に如意宝珠を持った姿で表されるが、矢田寺の地蔵菩薩のほとんどが右手の親指と人差し指を結んだ独特のスタイルで、『矢田型地蔵』と呼ばれている。
右手の親指と人差し指を結ぶ印は阿弥陀仏によく見られるもので、矢田型地蔵は阿弥陀仏の徳を併せ持った地蔵菩薩として厚く信仰されている。

『矢田寺地蔵縁起』には次のような説話が記されている。

「嵯峨天皇の御世、小野篁(802~852)という役人がいた。
小野篁は、身は現世のものだが、魂は閻魔(えんま)大王に仕えていた。
ある時、閻魔大王が篁に言った。
『自分には三熱の苦しみがある。この苦しみから離れるために菩薩戒を受けたいので、適任者を探してほしい。』と。
篁は適任者は矢田寺の満慶上人以外ないと考え、満慶上人を閻魔庁に案内した。
閻魔大王は満慶上人から菩薩戒を受け、そのお礼にと満慶上人を地獄に案内した。
満慶上人は、地獄の燃えさかる炎の中で、生身の地蔵菩薩に会った。
地蔵菩薩は『苦果を恐れるものは我に縁を結ぶべし。わが姿を一度拝し、わが名を一度唱える者は必ず救われる。』とおっしゃって亡者の身代わりとなって地獄の責め苦を受けておられた。
矢田寺へ戻った満慶上人は仏師に地蔵菩薩の姿を刻ませたが、思うように彫ることができなかった。
ある日、4人の翁があらわれ、大きな桐の木を用いて3日3晩のうちに地蔵菩薩を彫り上げた。
それは満慶上人が地獄で出会った地蔵菩薩そのままのお姿だった。
4人の翁は『我らは仏法守護の神である。』と告げて、五色の雲に乗って奈良の春日山へと飛び去った。
そのため、矢田寺の地蔵菩薩は、春日四社明神(春日大社の神)化身の作と伝えられている。
また満慶上人は、閻魔大王より手箱と印文を授けられた。
この手箱には米が入っており、使っても使っても常に米が箱いっぱいに満ちていた。
ここから人々は満慶を満米上人と言うようになった。」

『矢田寺地蔵縁起』に登場する小野篁は「昼間は宮中に、夜は閻魔庁に仕えた」という伝説があり、京都の六道珍皇寺には篁が閻魔庁へ通うのに用いたという井戸が残されている。
小野篁にはなぜこのような伝説があるのだろうか。

小野篁は平安時代の官僚で遣唐副使に任命されたが、仮病を使って出航しなかった。
というのは、篁の船と遣唐大使・藤原常嗣の船を交換するよう命じられたのだが藤原常嗣の船は壊れていたからだった。
さらに遣唐使事業や朝廷を批判する漢詩を詠んだため、嵯峨天皇の怒りを買って隠岐へ流罪となった。
しかし篁は2年ほどで許されて帰京している。

古の人々は都をこの世、都の外をあの世に喩える風潮があったという。
当時の人々にとって、都から離れた孤島である隠岐はまさしくあの世だという認識があったことだろう。
そして篁はあの世である隠岐からこの世である都へ戻ってきた。
このようなところから生じた伝説であるのかもしれない。

さて、『矢田寺地蔵縁起』によれば矢田寺のご本尊の地蔵菩薩は春日四社明神が刻んだものであるとしているが、春日四社明神とは藤原氏の守護神・タケミカヅチとフツヌシ、藤原氏の祖神・アメノコヤネノミコトとヒメ神である。

私はアメノコヤネノミコト(天児屋根命)とは天智天皇のことだと考えている。


天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味になる。

そして天智天皇は
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。)
と歌を詠んでいる。
仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことだろう。

天児屋根命は藤原氏の祖神だとされている。
ということは藤原氏は天智天皇の子孫だということになるが、大変流布した噂話に『藤原不比等は天智天皇の後胤である』というものがあり、辻褄はあう。
それによれば藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいるが、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったというのである。


矢田寺は天武天皇が矢田の神に壬申の乱の勝利祈願をし、それが叶えられたお礼とし創建した寺と伝わっている。

壬申の乱とは672年におきた内乱で、天智天皇が崩御したのち、天智天皇の弟・大海人皇子と天智天皇の皇子・大友皇子が皇位継承をめぐって争った。
叔父と甥が戦争をしたわけである。
結果、大海人皇子が勝利して即位し(天武天皇)、大友皇子は自害して果てた。

矢田寺の地蔵菩薩は、春日四社明神(春日大社の神)化身の作だと伝えられているが、春日四社明神のうち、一柱は天児屋根命=天智天皇だ。

その天智天皇を含む春日明神が、天武天皇が創建した矢田寺の地蔵菩薩を刻んだとはどういうことだろうか。

私は矢田寺は天智天皇の怨霊を慰霊するための寺ではないかと考えている。
天武天皇は天智天皇の怨霊を畏れたことだろう。
「自分は兄・天智の子である大友皇子を自殺に追い込んで、皇位についた。
兄(天智)は自分の子(大友皇子)を皇位につけたいと考えていた。
死んだ天智の霊は怒り、自分に祟りをもたらすのではないか」と。
そこで天智の怨霊を慰霊する必要性を天武は感じたのだろう。
そして祟り神は神として祀り上げると守護神に転じると考えられていた。
平安時代に春日四社明神が矢田寺にあらわれたというのは、祟り神であった天智が守護神に転じた姿なのだろう。

そう考えると、満慶上人のもとに春日四社明神があらわれた理由が理解できる。
矢田寺でお祀りされていたのは天智天皇=春日四社明神だったのである。
矢田寺・・・奈良県大和郡山市矢田3506




この記事を読んで2017年6月13日にメールをくださった方、ありがとうございました。
返事をおくろうと思いましたが、メールを送ることができませんでした。

天児屋根命=天智天皇であることの説明をしてほしいとのことですが、本文ピンク色の部分に理由を書いております。

再度、お読みいただけると嬉しいです。

よろしくお願いします。




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[2014/06/20 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)