妖怪がこぜ(元興寺)
元興寺 ハルシャギク
元興寺の境内にはオレンジ色のハルシャギクが咲き乱れており、花の間からたくさんの石仏が見え隠れしていた。 ハルシャギクは中心が紅色、周囲がオレンジ色の蛇目模様になっているので別名を蛇目草という。
蛇目というのは蛇の目のことである。
蛇といえば、『日本霊異記(822年ごろに成立)』に記された元興寺の伝説を思い出す。
その伝説の中に『頭に蛇を巻いた童子』が登場するのである。
敏達天皇(在位572-585)の頃、尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)の農家に、落雷と共に雷神が落ちてきた。
農夫が殺そうとしたが、雷神は『命を助けてくれるならば雷神のように力強い子供を授けよう。』と言った。
そこで農夫は雷神を殺さずに、空へ返した。
やがて農夫の妻が子供を産んだが、その子供は頭には蛇が巻きついた異様な姿であった。
成長した子供は元興寺の童子になった。
そのころ元興寺では連日童子たちが鬼に殺されるという事件がおきていた。
ある夜、童子が鐘楼で待ちぶせていると鬼が現れたので、鬼の髪の毛を掴んで引きずり回した。
髪をむしりとられた鬼は逃げ去り、童子はその後を追ったが、鐘楼の北東に当たる辻子の辺りで鬼を見失った。
童子は鬼が急に姿を消したことを不審に思った。
ここからこの辻子は『不審ヶ辻子』と呼ばれるようになった。
今も元興寺の北東に不審ヶ辻子町という町名が残っている。
血痕を辿って行くと、不審ヶ辻子の北東の鬼棲山の墓にたどりついた。
それは昔元興寺で働いていた下男の墓であった。
鬼棲山は現在の奈良ホテルのあたりとされる。
この鬼は『がこぜ(元興寺という漢字があてられる)』『がごじ』『ぐわごぜ」などと呼ばれる妖怪である。
その後、元興寺の田に水を引こうとしたとき、王族によって妨害されるという事件がおきた。
このときもこの童子の活躍によって無事水をひくことができた。
そのため童子は出家・得度することを許されて、道場法師と呼ばれた。
道場法師は尾張の国に元興寺(願興寺)を創建し、奈良の元興寺の支院とした。
頭に蛇を巻いた童子とあるが、興福寺の八部衆のひとつ、沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いた姿をしている。(写真→ ☆)
この物語には大きな矛盾がある。
元興寺は飛鳥にあった法興寺を前身とするが、法興寺が建立されたのは587年の丁未の乱(蘇我馬子vs物部守屋の戦い)以降のことである。
718年、法興寺は平城遷都に伴って奈良に移転し、元興寺と称するようになった。
伝説では敏達天皇の頃の話だとしているが、敏達天皇の在位は572年-585年である。
敏達天皇の御世、法興寺も元興寺もなかったのである。
あえて寺の創建年と時代の合わない天皇の御世の話だとしたのは、妖怪・元興寺の正体が、敏達天皇代の人物の怨霊であることを示唆しているのではないだろうか。
敏達天皇に仕えた人物で、元興寺に関係する人物に蘇我馬子がいる。
蘇我馬子が元興寺の前身である法興寺を飛鳥に建てたのは廃仏派の物部守屋との戦いに勝利したためだった。
このとき、馬子とともに戦った厩戸皇子(のちの聖徳太子)は『守屋との戦いに勝利したのは、四天王のご加護のおかげである。』として摂津国難波(大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。
その四天王寺の境内、絵堂の横には、聖徳太子や蘇我馬子と戦って戦死した物部守屋を祀る社があり、守屋祠・願成就宮と呼ばれている。
四天王寺は聖徳太子が物部氏の土地を没収し、物部氏の部民を使役して建てられた。
そして四天王寺が完成したのは、これを守屋の霊が許し、また助けたためであるとされ、願いが成就できたとして、守屋を祀ったのだという。
守屋祠が願成就宮と呼ばれているのはそのためである。
守屋祠の存在は、人々が物部守屋の怨霊を大変怖れていたということを示すものでもある。
人々が守屋を神として祀ったのは、人々が守屋の怨霊の祟りを畏れたためだとも考えられるからである。
そして四天王寺と法興寺はどちらも物部守屋との闘いに勝利したことをみほとけに感謝して建てられている。
現在の飛鳥寺(法興寺)には守屋を祀る神社は見当たらないが、近所に飛鳥坐神社があって、ここに守屋の霊が祀られているのではないか、と私は考えている。
飛鳥坐神社の御祭神の一に大物主神があるからだ。
大物主神は正式名称を倭大物主櫛甕魂命という。
そして物部氏の祖神であるニギハヤヒは先代旧事本紀によれば天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと) となっており、倭大物主櫛甕魂命と天火明櫛玉饒速日天照国照彦尊は『櫛』『魂(玉)』が同じなので、同一神ではないか、という説がある。
とすれば、大物主神とは物部氏の神だということになる。
そして大物主神は蛇神だとされており、大物主を祀る奈良県桜井市の大神神社には蛇の好物の玉子が供えられている。
物語に登場する頭に蛇を巻いた童子は物部氏の神(霊)、物部守屋の霊なのではないだろうか。
陰陽道では荒ぶる怨霊(荒霊)は神として祀り上げるとご利益を与えてくださる和霊に転じると考えるのだという。
また神はその現れ方によって御霊・和霊・荒霊の三つに分類される。
神の和やかな側面を和霊、神の荒々しい側面を荒霊、神の本質を御霊という。
頭に蛇を巻いた童子が和霊で、がこぜは荒霊であるが、その本性である御霊は物部守屋なのではないだろうか。
御霊・・・神の本質・・・・・・・物部守屋
和霊・・・神の和やかな側面・・・道場法師(頭に蛇を巻いた童子)
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・がこぜ
つまり守屋は自分で自分を退治したのである。
記紀に次のような話があって、大国主神と大物主神も同一神だと考えられる。
大国主の前に海の向こうから光り輝く神があらわれて『私を祀るように』と言った。
大国主が神に名前を問うと『私はあなたの幸霊・奇霊』と答えた。
こうして祀られたのが大神神社である。
従って、大国主神=大物主神となる。
大国主が大物主を祭ったというのは、『自分で自分を祀った』ということである。
『自分で自分を祀る』とは、『自分で自分を殺して神として祀る』『自分で自分を退治した』という意味なのではないだろうか。
もちろん、『自分で自分を殺して神として祀る』なんてことは普通はできない。
物部守屋は自ら死を選んだのではなく、蘇我馬子や聖徳太子によって殺されたのだ。(実際に守屋を矢で射たのは迹見赤檮)
『守屋は自ら死を選んだ』などというのは怨霊を畏れる人の自分勝手な考え方に他ならないと私は思う。
元興寺では節分には、『福は内、鬼も内』と言って豆を撒く。
福とは道場法師のことだろうが、鬼である『がこぜ』もまた道場法師のことなのだろう。
それで、元興寺では『鬼は外、福は内』でもなく、『福は内、鬼も内』といって豆撒きをするのではないだろうか。
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