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秋の始まりはお盆の始まり。(上賀茂神社 夏越神事) 

かみがもじんじゃ なごししんじ2


●旧暦ではもっとも暑い季節が秋の始まりだった。

風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける/藤原家隆
(風が楢の葉をそよがせる楢の小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。六月祓のみそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。)


百人一首でおなじみのこの歌は、鎌倉時代の歌人・藤原家隆(1158年-1237年)が上賀茂神社の夏越神事の様子を詠んだものである。
上賀茂神社では現在でも古いしきたりを守り、鎌倉時代と同じやり方で夏越神事を催行している。

参拝者たちは茅の輪潜りをしたのち、(茅の輪くぐりについては、「蘇民将来伝説と過ぎ越しの祭 (交野天神社)」を参照してください。)人形(ひとがた)に息をふきかける。
これは自らの穢れを人形に移すというおまじないである。
日没後、上賀茂神社の禊川である「ならの小川」では篝火がたかれ、神職さんが奉納された人形を一枚一枚くってはならの小川に流していく。
家隆が見た夏越神事の風景も、これと変わらぬものであったのである。

ただし、家隆が夏越神事を見たのは旧暦の6月晦日であるが、現在、上賀茂神社で夏越神事を行っているのは新暦の6月30日である。
旧暦は新暦の約ひと月遅れとなるので、新暦に換算すると7月ごろにかつての上賀茂神社の夏越神事は行われていたということになる。
7月の京都は暑いさかりで、秋の気配などみじんもない。
それなのに家隆はなぜ「禊(夏越神事)の様子だけが夏のしるしである(すっかり秋の気配が漂っている)などと歌に詠んだのだろうか。

旧暦では1月・2月・3月を春、4月・5月・6月を夏、7月・8月・9月を秋、10月・11月・12月を冬としていた。
旧暦は新暦の約一月遅れなので、ざっくり考えて、新暦の2月・3月・4月が旧暦の春、新暦の5月・6月・7月が旧暦の夏、新暦の8月・9月・10月が旧暦の秋、新暦の11月・12月・1月が旧暦の冬に該当する。

つまり、旧暦では1年でもっとも暑い季節が秋の始まりだったのである。
この歌は「涼しい風が吹いてすっかり秋の気配が漂っている」と訳されることもあるが、それは新暦と同じ感覚で旧暦をとらえたために訳を誤ったといわざるをえない。

ウィキペディアの「立秋」の項目にも次のように記されている。

『天気予報などでアナウンサーが「今日は立秋、暦の上では秋に入りましたが、相変わらず暑いですね」など語ることがあるが、暦の上では立秋こそ暑さの頂点であり、徐々に暑さが緩むのはその翌日からなので、立秋をそのように捉えることは誤りである。』
(上記サイトより引用)

立秋とは1太陽年を24等分した暦法・二十四節気のひとつであって、今も昔もグレゴリオ暦(新暦)の8月7日または8日である。
しかし多くの人が昔は旧暦だったから約ひと月遅れで、新暦の9月ごろが立秋だったと勘違いしているのである。

●旧暦ではお盆は秋の始まりを告げる行事だった。

6月晦日の翌日は7月1日であるが、旧暦の7月1日は釜蓋朔日(かまぶたついたち)といわれていた。
釜蓋朔日とは、地獄の釜の蓋が開く日であのことであり、この日からお盆が始まるとされていた。
お盆とはご存じのように先祖の霊を祀る行事のことである。
そして6月晦日が夏のおわりで、7月1日は秋の始まりであった。
お盆とは秋の始まりを告げる行事であったのである。

●楢の葉を戦がせる風は不気味な風?

『風そよぐ』の『そよぐ』は漢字では「『戦ぐ』と書く。
現代人にとって『そよ風』とは『優しい風』というイメージである。
オリビア・ニュートン・ジョンの『そよ風の誘惑』も優しい感じの曲だった。
そよ風を漢字で書くと微風であるが、微風と風が戦ぐのは違うのかもしれない。

漢和辞典で『戦』という漢字の意味を調べてみると、次のように書かれていた。
① 戦う。戦をする。
② いくさ 
③ おののく ふるえる 
④ そよぐ そよそよと揺れ動く
⑤ はばかる 

どうも『風戦ぐ』とは、吹かれて心地よく感じる風ではなく、ざわざわと不気味さを感じる風のように思われる。

家隆は楢の葉がざわざわと不気味に揺れているのを見て、お盆になって戻ってきた霊が楢の葉を揺らしているのではないかと考え、ああ、お盆の季節がやってきたんだなあ、という気持ちを詠んだのではないだろうか。

秋の始まりはお盆の始まり② 」につづきます。

上賀茂神社・・・京都市北区上賀茂本山339
夏越神事・・・6月30日 20時より(確認をお願いします。)  



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[2014/06/30 21:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

蘇民将来伝説と過ぎ越しの祭 (交野天神社) 

かたのてんじん ちのわ

交野天神社の拝殿前には茅の輪がもうけられており、私は次のように唱えながら3回茅の輪をくぐった。

水無月の 夏越の祓ひ する人は、千歳の命 延ぶといふなり (1回目/左回り)
思ふこと みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな(2回目/右回り)
蘇民将来 蘇民将来(3回目/左回り)

水無月(6月)の晦日(月の最終日のこと。)に茅の輪潜りをする習慣は全国にあるが、これは次の故事に基づくものである。

「神代の昔、蘇民将来と巨旦将来という二人の兄弟があった。
蘇民将来は貧乏で巨旦将来は金持ちだった。
しかし貧乏ではあったが蘇民将来は武塔神(素戔嗚尊)に宿をかし、巨旦将来はこれを断った。
後に疫病が流行ったとき、武塔神は蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて疫病から守ったが、茅の輪をつけない者はすべて死んだ。(備後国風土記) 」

私の友人はこんなことを言っていた。
「苗字が将来で、名前が蘇民と巨旦ということは、彼らは日本人ではないのではないか。
朝鮮や中国も苗字のあとに名前がくる。
名前のあとに苗字がくるのは西洋人である。
彼らは西洋人なのではないか。」と。

蘇民将来や武塔神という神の起原はよくわかっていない。
密教の神「武答天神王」を起原とする説、朝鮮系の神とする説などがあるが、そのルーツはもっと西にあるのではないかとする説もある。

琉球地方に『シマクサラシ(疫祓いの意)』という風習がある。
牛を屠り、その血にススキの穂や桑の葉を浸し、家の門口や四隅に塗っておく。
こうしておくと、悪霊が入ってこないと言い伝えられ、旧暦の2月に行われることが多い。

同じような話が旧約聖書の『出エジプト記』の『過ぎ越しの物語』にある。

「モーゼはすべての長老を呼び次のように言った。
『羊を過越の犠牲として屠りなさい。そしてその血にヒソプ(ハッカ科の植物)を浸し、鴨居と入り口の二本の柱に血を塗りなさい。そして夜があけるまで外に出ず、家の中に籠もっておくように。』と。
神ヤーベはエジプト人の家で生まれた初子を全て殺した。
その際、戸口に羊の血が塗られたユダヤ人の家には立ち寄らなかった。」

この話にちなんでユダヤでは毎年、太陽暦の3月末から4月初めころ、過越祭が行われている。

琉球の『シマクサラシ』とユダヤの『過越祭』は日本の蘇民将来伝説に似ている。
血と茅は音が同じであるところから、日本では血のかわりに茅を使うのだろうか、などと思ったりもする。

スサノオを祭る神社では『蘇民将来子孫也』と書いた護符を授与しており、人々はそれを求めて玄関に貼って魔よけにする。
同じ様にユダヤ人はメズサという神の言葉を書いた護符を家の門口につける。

蘇民将来は『将来蘇る民』と読める。
聖書には『終末にメシヤが到来し、死者は墓から蘇る』とある。
メシヤが蘇させるのはユダヤ人であって、エジプト人ではないだろう。
蘇民将来はユダヤ人、巨旦将来はエジプト人のイメージと重なる。

蘇民将来がもてなした武塔神はスサノオと同一視されている。
またスサノオは牛頭天王と習合されている。
牛頭天王に対する信仰が日本に伝わってスサノオになったという説もある。
牛頭天王像は牛を頭に載せた姿のものもあるが、角の生えた姿で作られているものもある。

ミケランジェロが刻んだモーゼにもまた角がある。
ヘブライ語で光のことをkornと記す。
角もまたkornであり、ミケランジェロは光と角を間違えたのだろうとされている。
スサノオはモーゼをモデルとして作られた日本の神様なのかもしれない。

佐伯好郎氏は論文『太秦を論ず」の中で次のように述べておられる。

「中国ではローマを『大秦』、景教(ネストリウス派キリスト教)の寺院のことを『大秦寺』と言った。
渡来人であった秦氏は京都市右京区の太秦を本拠地としていたが『太秦』と『大秦』は点ひとつの違いである。
そして広隆寺は別名『太秦寺』とも呼ばれていた。
さらに広隆寺の弥勒菩薩半迦思惟像の手の印は、壁画に描かれた景教徒の手の印と全く同じである。

秦氏は『秦の始皇帝の子孫である』と称しており、日本書紀は秦氏は百済より渡来したと記している。
しかし、秦氏が住んでいた地域から発掘される瓦のほとんどは新羅系であり、また新羅地方で広隆寺の弥勒菩薩像とそっくりな像が見つかっており、新羅系であるという説が有力である。
また朝鮮半島の南に伽耶という国があり、国力が弱く新羅や百済の影響を受けやすかった。
この伽耶が秦氏の故郷だとする説もある。

日本書紀には応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ/秦氏の先祖とされる。新撰姓氏録では融通王となっている。)が民を率いて日本にやってきたと記されている。
秦氏のルーツは中央アジアのバルバシ湖の南にあった『弓月王国』というキリスト教国ではないか。」と。



交野天神社・・・大阪府枚方市楠葉丘2-19-1

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[2014/06/26 21:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

蛇神と靱(ゆき) 鞍馬寺 竹伐会式 


午後2時、本堂前に丹波座、近江座より2組づつ、合計4組8人の鞍馬法師が登場した。
鞍馬法師は試し切りをしたのち、大蛇になぞらえた長さ4m、太さ10cmの青竹を節ごとに5段に伐る速さを競い合った。
早く伐り終えたほうが、豊作になると言い伝えられている。

この竹伐会式の行事は次の伝説にちなむものとされる。

「平安時代初期の僧である峯延(ぶえん)上人が寛平年間(889~897年)、鞍馬寺で護摩の行をしていると北の峰から大蛇が現れて上人に襲いかかった。
上人が真言を唱えて調伏すると、別の大蛇が現れ、蛇は鞍馬の御香水を守護するとを誓った。
このため、蛇は里人に神として祀られた。 」

つまり竹は蛇をイメージしたもので、これを伐ることで悪霊を退散させようというのがこの会式の主旨なのだろう。

竹伐会式が終了したのち、九十九折の道を降りていくと、途中に由岐神社があった。
拝殿は桃山時代のもので、真ん中が割れた珍しいデザインは割り拝殿と呼ばれている。

由岐神社 割拝殿


由岐神社はもともとは京都御所にあったのだが、地震や平将門の乱などが相次いだために朱雀天皇が詔を出し、940年9月9日に鞍馬に遷宮した。
遷宮にあたって矢を入れる靱(ゆき)を奉納したところから靱(ゆき)神社と命名され、由岐神社になったとも伝わる。
靱とは矢を入れる道具のことで、細長い袋状の形をしている。

由岐神社の御祭神は大己貴命と少彦名命で、八所大明神が相殿されている。

大己貴命とは大国主命の別名である。
大国主命は芦原中国をおさめていたが、天照大神は芦原中国は自分の子孫が収めるべきだとしてタケミカヅチとフツヌシを大国主命のもとに派遣した。
タケミカヅチとフツヌシは大国主命に「天孫(天照大神の子孫)に国を譲るように」とせまり、大国主命は立派な宮殿を建てることとひきかえに国を譲ったと記紀には記述がある。
この物語を「出雲の国譲り」という。

少彦名命は蛾の皮を着た小さな神様で、大己貴命と少彦名命は兄弟の契りをかわし、共に国作りをしたことが記紀に記されている。

江戸時代まで神仏は習合されて信仰されていた。
ということは、鞍馬寺の伝説に登場する蛇神とは由岐神社の神のことだと考えられる。

また由岐神社の拝殿の傍には3本の大杉があって、しめ縄がかけられていた。
三本杉は大神神社の御神紋だが、大神神社の御祭神の大物主神は蛇神とされていて、境内にはいつも蛇の好物である玉子がお供えされている。

さらに、記紀には大物主命と大国主命が同一神であることを示す記述がある。

「大国主の前に海の向こうから光り輝く神があらわれて『私を祀るように』と言った。
大国主が神に名前を問うと『私はあなたの幸霊・奇霊』と答えた。
こうして祀られたのが大神神社である。 (古事記・日本書紀) 」

従って、大己貴命(=大国主神・・・由岐神社の神)=大物主神(・・・大神神社の神)=蛇神 となる。

鞍馬寺の伝説では最初に上人に襲い掛かる蛇が登場し、その蛇が上人に調服されたのち、御香水守護を誓って神として祀られた別の蛇が登場している。
別の蛇、という書き方をしているが、実はこの二匹の蛇は同体で、上人に襲い掛かった蛇は荒霊、御香水守護を誓った蛇は和霊なのだと思う。

神はその表れ方で、御霊・和霊・荒霊のみっつに分けられるという。
御霊は神の本質、和霊は神の和やかな側面、荒霊は神の荒々しい側面である。

御霊・和霊・荒霊という観念は、陰陽道に基づくものだろう。
陰陽道では荒ぶる怨霊(陰)は十分に祀れば人々にご利益を与えてくださる神(陽)に転じると考える。
神と怨霊は同義語であるといわれるのはそのためである。

靱がは矢を入れるための細長い入れ物であることはすでにお話ししたが、靱は蛇を入れておくのにも具合がよさそうである。
蛇神様に靱の中に入っていただき、大人しくしてもらう。
そういった理由で京都御所から遷宮してきた際、靱が奉納されたのではないだろうか。

また大物主は矢の神でもある。というのは、次のような伝説があるのである。

「セヤダタタラヒメに一目ぼれした大物主は矢に姿を変えて流れていき、セヤダタタラヒメが用を足すために川へやってきたところを下から陰処をついた。(古事記) 」

靱は矢の神である大物主を封じ込めておく道具としてもふさわしいものであるといえるだろう。


鞍馬寺/京都府京都市左京区鞍馬本町1074
竹伐会式/6月20日午後2時より


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[2014/06/24 21:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

矢田の神と春日明神(矢田寺) 

やたでら じゅうさんじゅうのとう

雨の中、私は傘をさして矢田寺の参道を歩いていた。
満開の紫陽花の花の中に埋もれるようにしてお堂が立ち並んでいる。
本堂の中央には地蔵菩薩、向かって左には吉祥天、向かって右には十一面観音が祀られていた。

地蔵菩薩は一般的には、右手に杖、左手に如意宝珠を持った姿で表されるが、矢田寺の地蔵菩薩のほとんどが右手の親指と人差し指を結んだ独特のスタイルで、『矢田型地蔵』と呼ばれている。
右手の親指と人差し指を結ぶ印は阿弥陀仏によく見られるもので、矢田型地蔵は阿弥陀仏の徳を併せ持った地蔵菩薩として厚く信仰されている。

『矢田寺地蔵縁起』には次のような説話が記されている。

「嵯峨天皇の御世、小野篁(802~852)という役人がいた。
小野篁は、身は現世のものだが、魂は閻魔(えんま)大王に仕えていた。
ある時、閻魔大王が篁に言った。
『自分には三熱の苦しみがある。この苦しみから離れるために菩薩戒を受けたいので、適任者を探してほしい。』と。
篁は適任者は矢田寺の満慶上人以外ないと考え、満慶上人を閻魔庁に案内した。
閻魔大王は満慶上人から菩薩戒を受け、そのお礼にと満慶上人を地獄に案内した。
満慶上人は、地獄の燃えさかる炎の中で、生身の地蔵菩薩に会った。
地蔵菩薩は『苦果を恐れるものは我に縁を結ぶべし。わが姿を一度拝し、わが名を一度唱える者は必ず救われる。』とおっしゃって亡者の身代わりとなって地獄の責め苦を受けておられた。
矢田寺へ戻った満慶上人は仏師に地蔵菩薩の姿を刻ませたが、思うように彫ることができなかった。
ある日、4人の翁があらわれ、大きな桐の木を用いて3日3晩のうちに地蔵菩薩を彫り上げた。
それは満慶上人が地獄で出会った地蔵菩薩そのままのお姿だった。
4人の翁は『我らは仏法守護の神である。』と告げて、五色の雲に乗って奈良の春日山へと飛び去った。
そのため、矢田寺の地蔵菩薩は、春日四社明神(春日大社の神)化身の作と伝えられている。
また満慶上人は、閻魔大王より手箱と印文を授けられた。
この手箱には米が入っており、使っても使っても常に米が箱いっぱいに満ちていた。
ここから人々は満慶を満米上人と言うようになった。」

『矢田寺地蔵縁起』に登場する小野篁は「昼間は宮中に、夜は閻魔庁に仕えた」という伝説があり、京都の六道珍皇寺には篁が閻魔庁へ通うのに用いたという井戸が残されている。
小野篁にはなぜこのような伝説があるのだろうか。

小野篁は平安時代の官僚で遣唐副使に任命されたが、仮病を使って出航しなかった。
というのは、篁の船と遣唐大使・藤原常嗣の船を交換するよう命じられたのだが藤原常嗣の船は壊れていたからだった。
さらに遣唐使事業や朝廷を批判する漢詩を詠んだため、嵯峨天皇の怒りを買って隠岐へ流罪となった。
しかし篁は2年ほどで許されて帰京している。

古の人々は都をこの世、都の外をあの世に喩える風潮があったという。
当時の人々にとって、都から離れた孤島である隠岐はまさしくあの世だという認識があったことだろう。
そして篁はあの世である隠岐からこの世である都へ戻ってきた。
このようなところから生じた伝説であるのかもしれない。

さて、『矢田寺地蔵縁起』によれば矢田寺のご本尊の地蔵菩薩は春日四社明神が刻んだものであるとしているが、春日四社明神とは藤原氏の守護神・タケミカヅチとフツヌシ、藤原氏の祖神・アメノコヤネノミコトとヒメ神である。

私はアメノコヤネノミコト(天児屋根命)とは天智天皇のことだと考えている。


天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味になる。

そして天智天皇は
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。)
と歌を詠んでいる。
仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことだろう。

天児屋根命は藤原氏の祖神だとされている。
ということは藤原氏は天智天皇の子孫だということになるが、大変流布した噂話に『藤原不比等は天智天皇の後胤である』というものがあり、辻褄はあう。
それによれば藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいるが、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったというのである。


矢田寺は天武天皇が矢田の神に壬申の乱の勝利祈願をし、それが叶えられたお礼とし創建した寺と伝わっている。

壬申の乱とは672年におきた内乱で、天智天皇が崩御したのち、天智天皇の弟・大海人皇子と天智天皇の皇子・大友皇子が皇位継承をめぐって争った。
叔父と甥が戦争をしたわけである。
結果、大海人皇子が勝利して即位し(天武天皇)、大友皇子は自害して果てた。

矢田寺の地蔵菩薩は、春日四社明神(春日大社の神)化身の作だと伝えられているが、春日四社明神のうち、一柱は天児屋根命=天智天皇だ。

その天智天皇を含む春日明神が、天武天皇が創建した矢田寺の地蔵菩薩を刻んだとはどういうことだろうか。

私は矢田寺は天智天皇の怨霊を慰霊するための寺ではないかと考えている。
天武天皇は天智天皇の怨霊を畏れたことだろう。
「自分は兄・天智の子である大友皇子を自殺に追い込んで、皇位についた。
兄(天智)は自分の子(大友皇子)を皇位につけたいと考えていた。
死んだ天智の霊は怒り、自分に祟りをもたらすのではないか」と。
そこで天智の怨霊を慰霊する必要性を天武は感じたのだろう。
そして祟り神は神として祀り上げると守護神に転じると考えられていた。
平安時代に春日四社明神が矢田寺にあらわれたというのは、祟り神であった天智が守護神に転じた姿なのだろう。

そう考えると、満慶上人のもとに春日四社明神があらわれた理由が理解できる。
矢田寺でお祀りされていたのは天智天皇=春日四社明神だったのである。
矢田寺・・・奈良県大和郡山市矢田3506




この記事を読んで2017年6月13日にメールをくださった方、ありがとうございました。
返事をおくろうと思いましたが、メールを送ることができませんでした。

天児屋根命=天智天皇であることの説明をしてほしいとのことですが、本文ピンク色の部分に理由を書いております。

再度、お読みいただけると嬉しいです。

よろしくお願いします。




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[2014/06/20 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

天上から堕ちたビーナス②(三室戸寺)  

みむろとじ はす


前回の記事・「天上から堕ちたビーナス① 」において、私は次のような話をした。

①三室戸寺は山号を明星山という。明星とは金星のことである。
②記紀神話には星の神は天津甕星(アマツミカボシ)しか登場しない。
③『天津甕星は葦原中国平定において、最後まで抵抗した荒々しく凄まじい神である』と記されている。
④③より星の神とは天皇と対立する人物=謀反人をあらわすものと考えられる。
⑤仏教では金星の神は虚空蔵菩薩、北極星の神は妙見菩薩で同じ星の神であるところから同一視されていると一般には説明されている。
⑥天津甕星は『のちに言う金星』であると記されている。
⑦『のちに言う金星』とあるのは、天津甕星は始めは金星ではなかった、ということで、もともとは北極星だったのではないか。
それゆえ、金星の神・虚空蔵菩薩と北極星の神・尿剣菩薩は同一視さえているのではないか。
⑧陰陽道の宇宙観では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とする。
⑨三室戸寺の欄間にかけてあった観音像の左右には太陽と月が刻まれて いる。
中央に刻まれている観音は星を神格化したものではないか。




三室戸寺は770年、光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建した寺で、次のような創建説話が伝えられている。

天智天皇の孫である白壁王(後の光仁天皇)は、右少弁・藤原犬養に毎夜輝いて見える金色の光の正体を確かめるように命じた。
犬養は光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着いた。
その滝壺の中に身の丈二丈ばかりの千手観音像があった。
犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁が流れてきて、それが一尺二寸の二臂の観音像に変じた。
その観音像を安置するために寺が創建され、当初は御室戸寺といった。
その後、桓武天皇が二丈の観音像を造立、その胎内に先の一尺二寸の観音像を納めた。


二丈の観音像は寛正年間(1460 - 1466年)の火災で焼失したが、この観音像の胎内に納められていた一尺二寸の二臂の観音像は無事だったそうで、現在ご本尊として祀られている。

このご本尊、腕は二臂なのだが千手観音とされている。
焼失した観音像が千手観音だったのだろうか?

さて、三室戸寺の山号は明星山というのであった。
明星とは金星のことである。
滝壷の中の観音が光の正体で、それは空から堕ちた明星(北極星=金星)だったとこの創建説話は伝えようとしているのではないだろうか。

もちろん、実際に明星(北極星=金星)が落ちたというわけではない。
金星を神格化した神・天津甕星は天照大神の葦原中國平定に最後まで抵抗した荒々しい神であり、天皇に対抗した人物=謀反人のことだと考えられる。
光仁天皇に対抗した人物=謀反人の霊を慰めるために、三室戸寺は創建されたということだろう。

また三室戸寺が創建された770年に光仁天皇は即位している。
三室戸寺の由緒では光仁天皇は即位する前の白壁王という名で登場している。
ということは、白壁王が即位することができたことと、その謀反人は関係が深い人物だと考えられる。

白壁王は天智天皇の孫、志貴皇子の子であったが、皇位継承には遠い場所にいた。
壬申の乱(672年)で大海人皇子(天智天皇の弟)と大友皇子(天智天皇の子)が皇位継承をめぐって争った結果、大海人皇子が勝利して天武天皇となった。
それ以降、天武系の人物が皇位を継承するという慣習が生じたようで、天武ののち持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳とずっと天武系の天皇が立っている。
そんな流れの中で天智系の光仁天皇が即位したというのは、まさしくウルトラCを決めた出来事だったといっていい。

光仁天皇が即位したのは、先代の称徳天皇(孝謙天皇・阿倍内親王)が急病を患って崩御したためだった。
この称徳天皇こそ、ビーナス=明星というにふさわしい。

称徳天皇は718年に聖武天皇と光明皇后(藤原氏出身で初めて人臣から皇后となった女性)の間に産まれた皇女であった。
同母弟に基王があり、基王は生後まもなく立太子したが、1歳になる前に夭逝した。
聖武天皇の皇子には安積親王があったが、安積親王の母親は県犬養広刀自で藤原氏ではなかった。
そのため、光明皇后を母親に持つ阿倍内親王(のちの孝謙天皇・称徳天皇)が立太子したと考えられている。
史上初の女性皇太子だった。
藤原仲麻呂の乱を平定したり、『今の天皇(淳仁天皇)は小事を行え。大事と賞罰は自分が行う』と宣言して重祚したり、なかなかの女傑だったようである。
道鏡との男女関係が疑われたときには、出家して尼となり、そういう関係にはないことをアピールしたりもしている。 

当時、未婚で皇位についた女帝は結婚が許されておらず、称徳天皇には子供がなかった。
そこで称徳天皇は次期天皇に道鏡を考えていた。

769年、宇佐八幡宮で『道鏡を天皇にせよ』と託宣があり、称徳天皇は事の真偽を確かめるために、和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣した。
清麻呂は『天の日継は必ず帝の氏を継が締めむ』と奏上し、称徳の怒りを買って大隅国へ配流された(宇佐八幡宮神託事件)。
しかし、道鏡は志貴皇子の子であるとする史料もあり、もしそれが事実なら、道鏡には皇位継承権はあったということになる。

翌770年、称徳天皇は急病を患って病床につき、数日のうちに崩御した。
通常は行われるはずの病気回復を願う祈祷が行われていないので、称徳天皇は暗殺されたのではないかという説もある。

また称徳天皇は病床から統帥権を道鏡の弟の弓削清人から左大臣藤原永手と吉備真備に移す詔を出しているのも妙である。
道鏡を次期天皇にしたいと考えている彼女がそのような詔を出すものだろうか。
宮中は吉備真備の軍勢がを取り囲み、出入りが禁じられていた。
また看病のため出入りが許されていたのは真備の娘の由利だけであった。
この詔は偽造されたものなのではないだろうか。

称徳天皇の死によって道鏡は失脚し、下野国へ左遷となって数年後に死亡し庶民として葬られた。
そして藤原永手や藤原百川の推挙を受けて白壁王が即位して光仁天皇となった。

創建説話の中に藤原犬飼なる人物が登場しているが、藤原氏の系図の中には藤原犬飼という人物の名前はない。
藤原犬飼という人物は架空の人物なのではないだろうか。

橘三千代という人物がいる。
橘美千代は文美努王と結婚して葛城王など3人の子をもうけた。
しかし美努王が大宰府に左遷されるとさっさと離婚し、不比等と再婚した。
藤原不比等と橘三千代との間には光明子が生まれた。
聖武天皇と光明子の間に生まれたのが称徳天皇である。
橘姓は708年に元明天皇より三千代に贈られた姓で、橘姓を授けられる前は県犬養三千代という名前だった。
藤原犬飼という名前はここからイメージされた名前で、橘三千代の孫にあたる称徳天皇のことを暗に指しているのではないだろうか。
創建説話では藤原犬飼は滝つぼに飛び込んだとあるが、これは犬飼=称徳天皇が身投げしたということだろう。
陰陽道では祟り神は神として祀ればご利益を与えてくださる和霊に転じると考える。
諡号に徳の字のつく天皇は不幸な死を迎えて怨霊になった天皇だといわれているが、称徳天皇も崩御後怨霊になったと怖れられ、その怨霊を祀るために創建されたのが三室戸寺なのではないだろうか。

そして称徳天皇という祟り神を神として祀り上げた結果和霊に転じたのが三室戸寺の千手観音ではないかと私は思う。

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[2014/06/18 21:00] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

天上から堕ちたビーナス①(三室戸寺) ※一部書き直しました。 

みむろとじ あじさい新2

三室戸寺の山門をくぐると眼下に見える庭園では紫陽花の花が満開となっていた。
長い階段を上っていくと本堂や三重塔があり、傍らの寺務所では紫陽花の形をした金平糖を売っていた。
青や紫などの金平糖を透明な袋で包んで花に見立て、緑色の葉をあしらったものである。
金平糖なんて食べるのは久しぶりのことだった。
掌にのせた金平糖を眺めると、どことなく星のような形をしているように思えた。
そういえば、三室戸寺は山号を明星山というのだった。
明星とは金星のことである。

日本の神話には星の神はたった一柱しか登場しない。
夜空には無数の星がきらめいているのに、星の神がたった一柱しかいないというのは不自然である。
そのため星の神は抹殺されたのではないか、という説もある。

たった一柱のみ登場する星の神は天津甕星(アマツミカボシ)、またの名を香香背男(カカセオ)という。
日本書紀によれば『天津甕星は葦原中国平定において、最後まで抵抗した荒々しく凄まじい神である』と記されている。
この天津甕星が夜空にきらめく幾千億の星を代表する神であるとすれば、星の神とは天照大神と対立する神であるといえるだろう。
天照大神は天皇家の祖神である。
つまり星の神とは、天皇と対立する人物=謀反人をあらわしているのではないだろうか。

記紀神話に登場する星の神は一柱しかいないが、星の神だと思われる神はほかにもいる。スサノオである。
記紀神話によれば「イザナギが禊ぎをし、左目を洗ったところ天照大神が、右目を洗ったところ月読命が、鼻を洗ったところスサノオが生まれた。」とある。
この記述は陰陽道の宇宙観に基づくものだろう。
陰陽道では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とする。

イザナギの顔は宇宙で、左=東に太陽神・天照大神が、右=西に月の神・月読命が配置されている。
するとスサノオは中央の星だということになる。

東・・・左・・・太陽の定位置・・・天照大神
西・・・右・・・月の定位置・・・・・月読命
中央・・・・・・星・・・・・・・・・・・・スサノオ

スサノオは天照大神に悪戯をして高天原を追放された神である。
やはり星の神は天皇と対立する人物=謀反人だと考えていいようである。

仏教では金星の神は虚空蔵菩薩だとしている
神仏習合の時代、虚空蔵菩薩は天津甕星と習合されていたのだろう。
また仏教では北極星を神格化した神を妙見菩薩としている。
妙見菩薩に対する信仰はもともとは天皇家にだけに許された信仰であった。
しかしのちに虚空蔵菩薩に対する信仰が伝わると、同じ星の神であるというところから、妙見菩薩と虚空蔵菩薩は同一視されるようになったのだと一般には説明されている。

しかし天津甕星は『のちに言う金星』であるとも記されている。
ということは天津甕星は始めは金星ではなかったのではないだろうか。
天津甕星は天の中心にある北極星であったのが、のちに金星の神へと神格を変えられたのではないだろうか。
そのため、金星の神・虚空蔵菩薩と、北極星の神・妙見菩薩は同一視されたのではないか。

みくろとじ がく2

上の写真は三室戸寺・本堂の欄間部分に掛けてあったものである。

中央の観音様は三室戸寺のご本尊を表したものだろう。
お寺のお堂にはよくこのようなご本尊を模したレリーフがかけられていることがある。
三室戸寺のご本尊は秘仏で滅多に開帳されることがない。
もちろん堂内にお前立ちはあるが、お堂の扉がしまっているときにでも、ご本尊の姿をイメージできるようにとこのようなものを掛けてあるのかもしれない。
みむろとじ がく

観音様の左右には雲に乗ったなにやら丸いものが刻まれてる。
ご本尊の左(向かって右)は太陽、右(向かって左)は月だろう。
太陽や月はこのように雲に乗った形で表現されることが多い。
すると全体が丸いお盆のような形をしているのは単なるデザインなのではなく、宇宙空間を表すものだと考えられる。
そして中央の観音様は星を表しているのだろう。

明星山という山号が示すとおり、三室戸寺には星を神格化した観音様を祀っているようである。

三室戸寺のご本尊は飛鳥様式の二臂(腕が二本)の観音像だが、千手観音」であるといわれている。
さきほども述べたように、三室戸寺のご本尊は秘仏で滅多に開帳されることがない。
最近では2009年に84年ぶりに開帳されたが、うっかりしていて拝観し損ねた。
なので、どのようなお姿をした観音様なのかよくわからないのだが、お前立ち( 14枚目がお前立ちの写真)については梅原猛さんが法隆寺の救世観音()に似ているとおっしゃっている。
またお前たちの衣の部分に十字があるので、マリア観音だともいわれている。

いずれにせよ、この観音様は明星を神格化した観音さまであることは間違いないだろう。

天上に堕ちたビーナス②につづく
三室戸寺・・・京都府宇治市莵道滋賀谷

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[2014/06/16 21:00] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

皇位継承の糸を括る女神(岩船寺) 

がんせんじ じゅうさんじゅうのとう
岩船寺 十三重石塔

岩船寺は729年、聖武天皇の勅願により行基が創建したと伝わっているが、この年『長屋王の変』が起こっている。
その後、岩船寺には次々と堂塔が建立されているが、それぞれ天皇の誕生年、もしくは即位年と重なっている。

①806年、空海の甥・智泉大徳が伝法灌頂(密教の儀式)の道場として報恩院を建立・・・806年、平城天皇が即位。

②813年、嵯峨天皇が堂塔伽藍を整備・・・810年 嵯峨天皇の第二皇子・仁明天皇が誕生。
※813年の堂塔伽藍の整備は、嵯峨天皇が仁明天皇の誕生を感謝して行ったものだと寺伝にはっきりと明記されている。

③承和年間(834~847) 仁明天皇が智泉大徳を偲んで三重の塔を建立・・・833年 仁明天皇即位。

④946年 阿弥陀如来像が作られる・・・946年、村上天皇が即位。

私は前回の記事「天邪鬼の叫び(岩船寺」)において、岩船寺は長屋王の怨霊を鎮めるために創建された寺ではないかと述べた。
岩船寺は729年、聖武天皇の勅願により行基が創建したと伝わっているが、この年『長屋王の変』が起こっているからだ。

『長屋王の王の変』は藤原氏の陰謀によるものと考えられている。
その後737年に藤原四兄弟は天然痘にかかって相次いで死亡し、長屋王の怨霊の祟りであると噂された。
長屋王は怨霊として畏れられていたのである。

長屋王の邸宅は現在のイトーヨーカ堂奈良店のあたりにあった。
イトーヨーカ堂になるまえはそごう奈良店だったのだが、そごうは倒産したため、イトウヨーカ堂が出店したのだ。
そごうが倒産して閉店となったとき、「そごうが倒産したのは長屋王の祟りである。」という噂が流れた。
死後、1000年以上たっても祟るとは、長屋王の怨霊、恐るべし。

荒ぶる怨霊は神として祭り上げればご利益を与えてくださる和霊に転じるという、なんとも身勝手な信仰がかつての日本にはあった。

平城天皇、仁明天皇、村上天皇らは長屋王に皇位継承祈願をし、それがかなえられたとして岩船寺に堂塔を建てたのではないだろうか。

さてそごうデパートを建設するにあたり、建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われた。
ここから大量の木簡群(長屋王家木簡)が発見されたのだが、その木簡の中に「長屋王」ではなく「長屋親王」と記されたものがある。
ここから、長屋王は実際には長屋親王であり、皇位継承権があったとする説がある。
皇位継承祈願には皇位継承に敗れた人物に祈願するのが最も効果があると考えられていたのかもしれない。

本堂を出て、私はもう一度白山神社を参拝することにした。
私は「乱れた糸を括る女神(白山神社)」において、次のように述べた。

①白山神社は729年に創建されたもので、岩船寺の鎮守として柿ノ本二丸が社殿を造り、行基がイザナミを勧請した。
②白山神社の御祭神はイザナミだが、全国のほかの白山神社はククリヒメを御祭神としている。
③イザナミとククリヒメは同一視されたものと考えられる。
④ククリヒメは乱れた糸をくくり整え、仲を取り持ち和す神であると信仰されている。

白山神社が創建された729年は岩船寺の創建年と同じで、この年、長屋王が自殺している。

そして、女神は和霊を、男神は荒霊を表すとする説がある。
とすればイザナミ=ククリヒメは長屋王の和霊である。
ククリヒメは乱れた糸をくくり整えるというが、その糸とは皇位継承の糸なのだろう。

がんせんじ ふどうみょうおう あじさい
岩船寺 石室(不動明王立像)
岩船寺・・・京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43


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[2014/06/14 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

天邪鬼の叫び(岩船寺) 

岩船寺 紫陽花

白山神社(白山神社の記事はこちら→「乱れた糸を括る女神(白山神社)」 を参拝したのち、坂道を下りて岩船寺の山門をくぐった。
さっきまで止んでいた雨がまたしとしとと降り出してきた。
しかし雨は岩船寺の紫陽花の花にとてもよく似合う。

境内の奥にたつ三重の塔を見て、私は驚いた。
以前に参拝したときには塗装が剥げて茶色い木肌があらわになっていたのに、鮮やかな朱塗りの塔に変わっていたからだ。
どうやら修復工事をしたらしい。

塔の横手にある山道から三重塔を見ると、小さな天邪鬼が屋根を支えているのが見えた。

岩船寺 天邪鬼

この天邪鬼はガイドブックなどに「ユーモラスな姿をした・・・」と書かれることが多い。
しかし小さな背中で何百年も大きな屋根を支え続けてきたのだと思うと、私は天邪鬼が可哀相に思えた。

三重塔を参拝したのち本堂を参拝した。
行基の作とも伝わる阿弥陀如来像、普賢菩薩騎象像などすばらしいみほとけが並んでいたが、最も私の目をひいたのはガラスケースの中に入った小さな天邪鬼だった。

私はお坊様に聞いてみた。

「あのう、この天邪鬼は三重塔についていたものなのですか?」

「そうです。重要文化財ですよ。」

もう少し詳しく説明をお聞きしたいと思ったのだが、来客があってお坊様は出て行ってしまわれた。

最近、三重塔を修理したようだが、昭和18年にも解体修理が行われている。
この天邪鬼は昭和18年の解体修理の際に外されたものなのかもしれない。
このガラスケースの中の天邪鬼は、三重塔についていたものと表情がまるで違っていた。
目と口の部分は穴が開けられていて、まるでしゃれこうべのようだった。
ムンクの『叫び』に描かれた人物のようでもある。
天邪鬼は悲痛の叫びをあげているように見えた。

岩船寺は729年、聖武天皇の勅願により行基が創建したと伝わっているが、この年『長屋王の変』が起こっている。

漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)が『長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。』と朝廷に密告した。
これを受けて藤原宇合の軍が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王によって糾問が行われた結果、長屋王は自殺に追い込まれた。

聖武天皇の皇子の安積親王の母親は県犬養広刀自で、藤原氏ではなかった。
このため、長屋王の子・膳夫王が皇位継承の最有力者とされていたのを、藤原氏が廃そうと企てたのが事件の真相であると考えられている。

長屋王の没後、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立て、藤原四子政権を樹立した。
ところが、737年、四兄弟は天然痘にかかって相次いで死亡し、長屋王の怨霊の祟りであると噂された。
738年、中臣宮処東人が囲碁をしているときにうっかり大伴子虫に変の真相を話し、長屋王の信頼を得ていた大伴子虫が中臣宮処東人を斬殺するという事件が起こった。
しかしなぜか、大伴子虫は罪に問われていない。
中臣宮処東人の方に非があると考えられたためだろう。

岩船寺は聖武天皇の勅願によって建てられたというが、そのバックに藤原氏があったことは間違いない。

岩船寺は長屋王の鎮魂のために建立された寺なのではないだろうか。
三重塔の屋根を支えていた悲痛の叫びをあげる天邪鬼は長屋王の怨霊が暴れないようにするための呪術的な仕掛けなのかもしれない。

岩船寺・・・京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43
 

※6月11日、拍手ボタンを押してくださった方、ありがとうございました。

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[2014/06/12 21:00] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

乱れた糸を括る女神(白山神社) 

白山神社
白山神社

浄瑠璃寺から歩いて岩船寺までやってきた。
途中、いくつも点在している石仏を拝みながら、30分ほどかかっただろうか。
雨が降ったり止んだりするぐずついた天気で、蒸し暑い。

岩船寺の山門に続く階段の脇に石風呂がある。


棺のようにも見えるが、底に水抜き穴があいているので棺ではない。
鎌倉時代に作られたもので、かつてはこの石風呂で身を清めてから岩船寺を参拝するのがしきたりだった。

岩船寺の門の右手に坂道が伸びており、その坂道を登っていくと割拝殿がある。
割拝殿をくぐると赤い社殿がふたつ並んで建っていた。
向かって左が白山神社で岩船寺の鎮守の社、向かって右は白山神社の摂社の春日神社である。

白山神社は729年に創建されたもので、岩船寺の鎮守として柿ノ本二丸が社殿を造り、行基がイザナミを勧請したと伝わる。
春日神社は、江戸時代に建立されたものである。

白山神社の総本社は石川県白山市の白山比咩神社で、御祭神は菊理媛神(くくりひめのおおかみ)・イザナギ・イザナミの三柱となっている。
岩船寺鎮守の白山神社の御祭神はイザナミだがが、白山神社という社名から、人々はこの社にククリヒメのイメージを重ねたことだろう。

ククリヒメは、日本書紀の一書にたった一度だけ登場する女神である。

イザナギは、イザナミを連れ戻すために黄泉の国へいく。
しかしイザナギは蛆がわいたイザナミの姿を見て恐ろしくなって逃げ出した。
イザナギは泉津平坂(黄泉比良坂)でイザナミに追いつかれ、口論となった。
そこに泉守道者が現れ、イザナミの言葉を取継いで『一緒に帰ることはできない』と言った。
ククリヒメが何かを言うと、イザナギはそれを褒め、帰って行った。
(日本書紀 一書)
 

ククリヒメの発言の内容については何も記されていない。

日本書紀に記されているのはこれだけだが、白山比咩神社をはじめ、全国の白山神社ではククリヒメは縁結びの神として信仰されている。
ククリヒメは乱れた糸をくくり整え、仲を取り持ち和す神であるというのである。
これは、ククリヒメの発言がイザナギとイザナミの仲を取り持ち和したということからくる信仰なのだろう。

『ククリヒメ』の『ククリ』は『括り』『括る(糸を紡ぐ)』『潜り(水神)』『聞き入れる』などが転じたものとする説がある。

『潜る』は『水の中にもぐる』あるいは『水につかる』という意味で平安時代ぐらいまでは『くくる』と発音されていた。
『水の中にもぐる』『水につかる』とは禊ぎをすることである。

岩船寺の門の前に石風呂がおかれてあったのを思い出してほしい。
昔、参拝者は石風呂で禊ぎをしてから岩船寺を参拝したということだった。
江戸時代までの日本では神仏は習合されていたので、白山神社を参拝するのも岩船寺を参拝するのも同じことであった。
『ククリヒメ』は『潜り姫』で禊ぎの神なのではないだろうか。
そして『潜り姫』は語呂合わせで『括り姫』となり、縁結びの神にもなったのではないかと想像する。

語呂合わせによって神の神格を変えるというのは珍しいことではない。
例えば本来は和歌の神であった柿本人麻呂は人丸とも呼ばれ、『火止まる』の語呂合わせから『防火の神』に、『人生まる』の語呂合わせから『安産の神』へと神格を広げている。

また七福神の一である恵比寿は本来は海の神であるが、『お足が出ない』の語呂合わせから商売繁盛の神としても信仰されるようになった。

逆の『括り姫』から『潜り姫』になったんじゃないか、という意見があるかもしれないが、私はそれはないと考える。

神はその現れ方によって三つに分類される。
神の本質のことを御霊、神の荒々しい側面のことを荒霊、神の和やかな側面のことを和霊という。
『括り姫』は縁結びの神、ご利益をもたらす神、和霊である。

また神と怨霊は同義語であったともいう。
怨霊は祀らなければ祟りをもたらすが、十分に祀ればご利益をもたらす神に転じると考えられていた。

『ククリヒメ』はもともとは怨霊だったと考えられる。
黄泉の国へ行って変わり果てた姿となり、イザナギを追いかけてきたイザナミがククリヒメのもともとの姿ではないだろうか。
行基がイザナミを勧請して白山神社としたのは、そのためだと思う。

イザナミが禊ぎ、すなわち潜りをしたので『潜り姫』となり、禊をした結果和霊に転じて縁結びの神『括り姫』となったのだと私は考える。

天邪鬼の叫び(岩船寺)へ続く。


白山神社・・・京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43
 
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[2014/06/10 21:00] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

妖怪がこぜ(元興寺)  

元興寺 ハルシャギク
元興寺 ハルシャギク

元興寺の境内にはオレンジ色のハルシャギクが咲き乱れており、花の間からたくさんの石仏が見え隠れしていた。
ハルシャギクは中心が紅色、周囲がオレンジ色の蛇目模様になっているので別名を蛇目草という。

蛇目というのは蛇の目のことである。
蛇といえば、『日本霊異記(822年ごろに成立)』に記された元興寺の伝説を思い出す。
その伝説の中に『頭に蛇を巻いた童子』が登場するのである。

敏達天皇(在位572-585)の頃、尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)の農家に、落雷と共に雷神が落ちてきた。
農夫が殺そうとしたが、雷神は『命を助けてくれるならば雷神のように力強い子供を授けよう。』と言った。
そこで農夫は雷神を殺さずに、空へ返した。
やがて農夫の妻が子供を産んだが、その子供は頭には蛇が巻きついた異様な姿であった。
成長した子供は元興寺の童子になった。
そのころ元興寺では連日童子たちが鬼に殺されるという事件がおきていた。
ある夜、童子が鐘楼で待ちぶせていると鬼が現れたので、鬼の髪の毛を掴んで引きずり回した。
髪をむしりとられた鬼は逃げ去り、童子はその後を追ったが、鐘楼の北東に当たる辻子の辺りで鬼を見失った。
童子は鬼が急に姿を消したことを不審に思った。
ここからこの辻子は『不審ヶ辻子』と呼ばれるようになった。
今も元興寺の北東に不審ヶ辻子町という町名が残っている。
血痕を辿って行くと、不審ヶ辻子の北東の鬼棲山の墓にたどりついた。
それは昔元興寺で働いていた下男の墓であった。
鬼棲山は現在の奈良ホテルのあたりとされる。
この鬼は『がこぜ(元興寺という漢字があてられる)』『がごじ』『ぐわごぜ」などと呼ばれる妖怪である。
その後、元興寺の田に水を引こうとしたとき、王族によって妨害されるという事件がおきた。
このときもこの童子の活躍によって無事水をひくことができた。
そのため童子は出家・得度することを許されて、道場法師と呼ばれた。
道場法師は尾張の国に元興寺(願興寺)を創建し、奈良の元興寺の支院とした。


頭に蛇を巻いた童子とあるが、興福寺の八部衆のひとつ、沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いた姿をしている。(写真→ 

この物語には大きな矛盾がある。

元興寺は飛鳥にあった法興寺を前身とするが、法興寺が建立されたのは587年の丁未の乱(蘇我馬子vs物部守屋の戦い)以降のことである。
718年、法興寺は平城遷都に伴って奈良に移転し、元興寺と称するようになった。
伝説では敏達天皇の頃の話だとしているが、敏達天皇の在位は572年-585年である。
敏達天皇の御世、法興寺も元興寺もなかったのである。

あえて寺の創建年と時代の合わない天皇の御世の話だとしたのは、妖怪・元興寺の正体が、敏達天皇代の人物の怨霊であることを示唆しているのではないだろうか。

敏達天皇に仕えた人物で、元興寺に関係する人物に蘇我馬子がいる。
蘇我馬子が元興寺の前身である法興寺を飛鳥に建てたのは廃仏派の物部守屋との戦いに勝利したためだった。

このとき、馬子とともに戦った厩戸皇子(のちの聖徳太子)は『守屋との戦いに勝利したのは、四天王のご加護のおかげである。』として摂津国難波(大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。

四天王寺 ライトアップ-月 
四天王寺 五重塔

その四天王寺の境内、絵堂の横には、聖徳太子や蘇我馬子と戦って戦死した物部守屋を祀る社があり、守屋祠・願成就宮と呼ばれている。

四天王寺は聖徳太子が物部氏の土地を没収し、物部氏の部民を使役して建てられた。
そして四天王寺が完成したのは、これを守屋の霊が許し、また助けたためであるとされ、願いが成就できたとして、守屋を祀ったのだという。
守屋祠が願成就宮と呼ばれているのはそのためである。

守屋祠の存在は、人々が物部守屋の怨霊を大変怖れていたということを示すものでもある。
人々が守屋を神として祀ったのは、人々が守屋の怨霊の祟りを畏れたためだとも考えられるからである。

そして四天王寺と法興寺はどちらも物部守屋との闘いに勝利したことをみほとけに感謝して建てられている。

現在の飛鳥寺(法興寺)には守屋を祀る神社は見当たらないが、近所に飛鳥坐神社があって、ここに守屋の霊が祀られているのではないか、と私は考えている。

飛鳥坐神社の御祭神の一に大物主神があるからだ。
大物主神は正式名称を倭大物主櫛甕魂命という。
そして物部氏の祖神であるニギハヤヒは先代旧事本紀によれば天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと) となっており、倭大物主櫛甕魂命と天火明櫛玉饒速日天照国照彦尊は『櫛』『魂(玉)』が同じなので、同一神ではないか、という説がある。
とすれば、大物主神とは物部氏の神だということになる。

そして大物主神は蛇神だとされており、大物主を祀る奈良県桜井市の大神神社には蛇の好物の玉子が供えられている。
物語に登場する頭に蛇を巻いた童子は物部氏の神(霊)、物部守屋の霊なのではないだろうか。

陰陽道では荒ぶる怨霊(荒霊)は神として祀り上げるとご利益を与えてくださる和霊に転じると考えるのだという。

また神はその現れ方によって御霊・和霊・荒霊の三つに分類される。
神の和やかな側面を和霊、神の荒々しい側面を荒霊、神の本質を御霊という。
頭に蛇を巻いた童子が和霊で、がこぜは荒霊であるが、その本性である御霊は物部守屋なのではないだろうか。

御霊・・・神の本質・・・・・・・物部守屋
和霊・・・神の和やかな側面・・・道場法師(頭に蛇を巻いた童子)
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・がこぜ

つまり守屋は自分で自分を退治したのである。

記紀に次のような話があって、大国主神と大物主神も同一神だと考えられる。
大国主の前に海の向こうから光り輝く神があらわれて『私を祀るように』と言った。
大国主が神に名前を問うと『私はあなたの幸霊・奇霊』と答えた。
こうして祀られたのが大神神社である。

従って、大国主神=大物主神となる。

大国主が大物主を祭ったというのは、『自分で自分を祀った』ということである。
『自分で自分を祀る』とは、『自分で自分を殺して神として祀る』『自分で自分を退治した』という意味なのではないだろうか。

もちろん、『自分で自分を殺して神として祀る』なんてことは普通はできない。
物部守屋は自ら死を選んだのではなく、蘇我馬子や聖徳太子によって殺されたのだ。(実際に守屋を矢で射たのは迹見赤檮)
『守屋は自ら死を選んだ』などというのは怨霊を畏れる人の自分勝手な考え方に他ならないと私は思う。

元興寺では節分には、『福は内、鬼も内』と言って豆を撒く。
福とは道場法師のことだろうが、鬼である『がこぜ』もまた道場法師のことなのだろう。

それで、元興寺では『鬼は外、福は内』でもなく、『福は内、鬼も内』といって豆撒きをするのではないだろうか。


元興寺・・・奈良県奈良市中院町11

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[2014/06/07 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)