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早良親王と牡丹(乙訓寺)

乙訓寺 牡丹2
乙訓寺 牡丹

乙訓寺の境内は満開の牡丹の花で埋め尽くされていた。
それはまるで牡丹の花で描いた曼荼羅のようでもあった。

乙訓寺が牡丹寺となったのは、昭和15年ごろに奈良県桜井市の長谷寺から牡丹を献木されて以降である。
それ以前は表門から本堂にかけて松の並木が続いていたそうだ。

長谷寺が乙訓寺に牡丹を献木した昭和15年、私の母は7歳だった。
母は私が子供のころ、よく真顔で迷信めいたことを言っていたことを思い出す。
それは、たとえばこんなことだ。

「夜、口笛を吹くと蛇がくる。」
「新しい靴は夜おろしてはいけない。」
「夜爪を切ると親の死に目にあえない。」
「死んだ猫をかわいそうだと思ったら、魂を猫につれていかれる。」
「厄年の人がふるまう善哉を食べるとその人の厄をもらうことになるので食べてはいけない。」
「○○さんは狸にとりつかれて死んだ。」など。

母は今でもときどきこういうことを言うことがある。

昭和15年ごろの人々は私の母のように迷信やしきたり、言い伝えなどを信じる人が多かったのではないだろうか。
そんな時代に何の意味もなく長谷寺が乙訓寺に牡丹の献木をしたとは私には思えない。

肉食を禁じる仏教の影響を受け、日本では長い間、肉食が禁止されていた。
しかし、こっそりと肉食は行われ、ごまかすために、動物の肉に植物の名前をつけた。
猪は牡丹、鹿肉は紅葉、馬肉は桜、鶏肉は柏といわれた。

私は以前の記事「猪と陽炎の女神(摩利支尊天堂) 」 において、次のようなことを述べた。

①陰陽道では陰が極まると陽に転じると考える。
②祟り神を祀りあげれば守護神になるという信仰はこの陰陽道の考え方からくるのではないか。
③猪は摩利支天の神使いとされている。
④摩利支天は本来は女神像としてあらわされていたが、のちに男神像としても表されるようになった。
⑤神はその現れ方で御霊・荒霊・和霊の3つにわけられる。
また荒霊は男神・和霊は女神であるとする説もある。
御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御毛沼命・・・・・・・・・・・・・・崇徳天皇 ・・・・・・霜宮(霜害を防ぐ)
荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・鬼八・・・・・・・・・・・・・・・・・鵺・・・・・・・・・・・・冬の太陽
和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・生娘=猪=摩利支天・・・猪早太・・・・・・・・陽炎(太陽の光)

⑥位の高い人が没落していく様子を、古の人々は冬の太陽に喩えたのではないか。

②について補足をしておこう。
現代人は神とはご利益をもたらしてくれるものだと考えている人が多い。
しかし、それは本来は神の3つの形(御霊・荒霊・和霊)のうち、和霊の性質である。
神の性質には荒霊もあり、こちらの性質が表に出た場合には神は祟るのである。
荒霊は祟り神、怨霊などとも言われ、荒霊を神として祀り上げることで和霊(守護神)に転じることができると考えられていた。
「かつて神と怨霊は同義語だった」と言われるのはそのためである。

乙訓寺は長岡京跡からほど近い場所にあり、奈良時代末に早良親王が幽閉された寺として知られている。

784年、桓武天皇は平城京から長岡京に遷都した。
翌785年、造長岡宮使・藤原種継暗殺事件がおきた。
この事件に桓武天皇の同母弟・早良親王が事件に連座したとして皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉された。
早良親王は無実を訴えてハンガーストライキを決行し、淡路へ配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死したという。

後、桓武天皇の第1皇子・安殿親王(後の平城天皇)が発病したり、桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死など不幸な事件が相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとされた。

早良天皇の怨霊に悩む桓武天皇に和気清磨が進言をした。
怨霊で穢れた長岡京を捨て、平安京に遷都しましょうと。
その結果、長岡京は建都後わずか10年で捨てられ、桓武天皇は平安京に遷都した。
794年のことである。

④の表をもう一度見てみよう。
御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御毛沼命・・・・・・・・・・・・・・崇徳天皇 ・・・・・・霜宮(霜害を防ぐ)
荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・鬼八・・・・・・・・・・・・・・・・・鵺・・・・・・・・・・・・冬の太陽
和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・生娘=猪=摩利支天・・・猪早太・・・・・・・・陽炎(太陽の光)


御毛沼命は初代神武天皇の兄である。
御毛沼命は神武と同じく日向に住んでいたのだが、神武東征に従った。
熊野へ向かっているとき暴風にあい、波頭を踏んで常世に行ったと記紀には記述がある。
また、崇徳天皇は保元の乱をおこしたが後白河に負けて讃岐に流刑となっっている。

御毛沼命も崇徳天皇も没落していった人物であり、冬の太陽に喩えるにふさわしい。
そして早良親王もまた藤原種継暗殺事件に関与したとして流罪となっており、冬の太陽のイメージがある。

そして早良親王の怨霊を陰とすれば、これを陽に転じたのが猪である。
御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・早良親王
荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・・早良親王の怨霊・・・・冬の太陽
和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・猪・(摩利支天)・・・・・・陽炎(太陽の光)


その猪を表すため、猪の隠語である牡丹を乙訓寺に植えるようになったのではないだろうか。

乙訓寺・・・京都府長岡京市今里3--4-7

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