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中将姫の正体(當麻寺 練供養会式)

當麻のお練り

當麻寺 練供養会式(5月14日)

當麻寺・・・奈良県葛城市當麻1263

二十五菩薩が行列をつくり、来迎橋をゆっくりと渡ってくるのを、オレンジ色の夕日が照らしていた。

ここ、當麻寺では中将姫が一夜で織り上げたと伝わる當麻曼荼羅をご本尊としている。
775年の春、中将姫は29歳で入滅した。
このとき阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かったと伝えられている。
毎年5月14日に行われている練供養会式は、これを表現したものであるとされる。

前回の記事「中将姫と中将湯と天照大神」の中で中将姫伝説をご紹介したが、もう一度ここに記しておこう。

「藤原鎌足の曾孫・藤原豊成と妻・紫の前(品沢親王の娘)には長い間子供ができなかったが、747年、長谷寺の観音様に祈願して中将姫を授かった。
紫の前は中将姫が5歳のときに亡くなり、豊成は橘諸房の娘・照夜の前を後妻とした。
照夜の前は中将姫をうとみ、事あるごとに中将姫をいじめていた。
9歳のとき、孝謙天皇(女帝)に命じられて琴をひき、賞賛された。
13歳のとき、三位中将の位を持つ内侍となる。
中将姫が14歳のとき、父の豊成は諸国巡視の旅に出かけた。
照夜の前は豊成が留守の間に中将姫を殺してしまおうと考え、従者に中将姫の殺害を命じた。
しかし従者は中将姫を殺すにしのびず、雲雀山に置き去りにした。
中将姫は雲雀山に草庵を結んで暮らしていたが、1年後、遊猟にやってきた父・豊成と再会して都へ戻った。
中将姫は淳仁天皇より後宮へ入るよう望まれるが辞退した。
その後、出家して當麻寺に入り、法如という戒名を授かった。
26歳のとき、中将姫は蓮の茎から糸をつむぎ、石光寺の庭に井戸を掘って糸を浸した。
すると糸はたちまち五色に染まった。
中将姫はその蓮糸をつかって一夜のうちに當麻曼茶羅を織りあげた。
775年春、中将姫は29歳で入滅した。
阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かった。 」

この中将姫伝説にはいくつかのおかしな点がある。

①中将姫の母親の紫の前は品沢親王の娘とあるが、品沢親王なる人物がいくら探してもでてこない。
どうも品沢親王なる人物は実在していなかったように思われる。
②豊成は橘諸房の娘の照夜の前を後妻としたという。良時代の男性は複数の妻を持つのが当たり前だったので、前妻・後妻という言い方はしなかったのではないか。
③照夜は橘諸房の娘だというのだが、橘諸房なる人物もいくら探してもでてこない。
④伝説では中将姫が14歳のとき豊成は諸国巡視の旅にでかけたというが、中将姫が14歳であったのは760年である。
豊成は757年から難波の別荘で8年間隠遁生活を送っていた。
⑤豊成が都へ戻ったのは764年だが、伝説では761年に中将姫と再会して都へ戻ったということになっている。

このように史実と合致しない点や、実在しない人物がでてくるところをみると、中将姫も実在せず、物語の中で創作された人物なのではないかと思われる。
ただ、さすがに天皇を創作するのは憚られるので、天皇は実在した人物の名前を用いたのではないだろうか。

中将姫伝説には天皇以外に、たったひとりだけ実在した人物が登場する。
藤原豊成である。
なぜ実在した物として天皇以外では藤原豊成だけが物語に登場するのだろうか。

この藤原豊成という人物についてみてみよう。

藤原豊成は704年に藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の長男として生まれた。
737年、藤原四兄弟が天然痘を患って急死すると豊成は藤原氏の氏上(藤氏長者の前身)となる。
※藤原四兄弟とは藤原不比等の四人の子のこと。
武智麻呂・・・南家  房前・・・北家  宇合・・・式家  麻呂・・・京家
749年、孝謙天皇(女帝)が即位し、豊成は右大臣となる。
757年、7月、橘奈良麻呂の乱がおこる。
豊成はこれに連座したとして大宰府左遷が決定するが、「病気」と称して難波の別荘に籠り、8年間隠遁生活を送る。
豊成にかわって、豊成の弟の藤原仲麻呂(南家)が権力を掌握する。
764年、藤原仲麻呂、孝謙上皇と対立し、乱をおこすも殺害される。(藤原仲麻呂の乱)
淳仁天皇は乱に連座したとして淡路へ配流となる。
孝謙上皇、重祚して称徳天皇となる。
豊成は右大臣として政権に復帰した。
766年、豊成11月27日薨去。

豊成は孝謙天皇の即位とともに右大臣となっている。
弟の藤原仲麻呂が権力を握ると失脚したが、孝謙が重祚(再び皇位につくこと)して称徳天皇となると豊成も右大臣に復帰している。
豊成は孝謙(称徳)より信頼を得ていた人物だったように思われる。

称徳(孝謙)天皇は770年に急病を患って崩御したのち、藤原永手(北家)、藤原宿奈麻呂(式家)、藤原百河(式家)が推す白壁王が即位している。
その後、北家・式家が政界の中心となり、南家はふるわなかった。

私は豊成が難波に隠遁していたというのが気になる。
中将姫が織った當麻曼荼羅は當麻寺にあり、中将姫ゆかりの井戸は當麻寺の近くの石光寺にあるのだが、両寺はどちらも二上山のふもとにある。
奈良から見ると二上山は西の方角にあって、夕日は二上山の方角に没する。
二上山は夕日が没する山であり、二上山の向こう側には西方浄土があると考えられていたことだろう。
豊成が隠遁していた難波は二上山の向こう側、夕日が没する場所にある。
難波は西方浄土だと考えられていたのではないだろうか。
とすれば、生きながらにして極楽浄土に行ったのは、豊成だということになる。

それではなぜ豊成の娘として中将姫という女性が創作され、彼女が極楽浄土に行くという話になったのか。

神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられ、また女神は和霊を、男神は荒霊をあらわすという説がある。
豊成は荒霊、そして中将姫は豊成の和霊なのだと思う。

御霊・・・神の本質・・・男女双体
和霊・・・神の和やかな側面・・・女神・・・中将姫
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・藤原豊成

當麻寺は葛城氏の一派の當麻氏の氏寺であったと考えられているが、藤原豊成の妻・藤原百能(ふじわらのももよし)の母親は當麻氏の女性であった。
こういった関係から、當麻寺に豊成の娘・中将姫の物語が創作されたのではないだろうか。

當麻寺 牡丹4
當麻寺 牡丹

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[ 2014/05/23 ] 奈良の祭 | TB(-) | CM(-)