嫉妬深い皇后 (磐之姫陵)
磐之姫陵 杜若
磐之姫陵(平城坂上陵/ならのさかのうえのみささぎ)・・・奈良市佐紀町字ヒシゲ
不退寺の西側にはウワナベ古墳、コナベ古墳などの大型前方後円墳がたくさんあり、古墳の周囲には水壕がめぐらされている。
中でもヒシアゲ古墳は水濠にカキツバタの群生が花をついていて目を引いた。
ヒシアゲ古墳は磐之媛命(いわのひめのみこと)の墓に比定されている。
磐之媛命は仁徳天皇の皇后だった。
日本書紀によれば、磐之媛命は仁徳天皇35年(347年)筒城宮(つづきのみや)で薨去し、2年後の仁徳天皇37年(349年)に奈良山に葬られた、とある。
ヒシアゲ古墳は明治時代に磐之媛命陵に比定されたのだが、それまでは若草山の上にある鶯陵が磐之媛命陵とされていた。
奈良山がどの山をさすのかについてははっきりしたことはわからず、従って確実にここが磐之媛命陵であるとはいえない。
磐之媛命の夫、仁徳天皇の陵は大仙陵古墳(大阪府堺市堺区大仙町)に比定されている。
大仙陵古墳も確実に仁徳天皇陵であるとはいえないが、「百舌鳥に葬った」という記述があるので、現在の堺市あたりに葬られたことは確かだろう。 (堺市に百舌鳥という地名がある。)
夫婦は百舌鳥と奈良山に引き離されて葬られたのである。
仁徳天皇30年(342年)、仁徳天皇は磐之媛命が熊野に出かけて留守の間に八田皇女を宮中に迎えた。
磐之媛命はこれに激しく嫉妬して山城の筒城宮に移り住み、仁徳天皇のもとに戻らなかった。
そして、仁徳天皇を許すことなく、仁徳天皇35年(347年)筒城宮で没した。
二人の陵が離れたところに作られたのはそのためなのかもしれない。
日本書紀 仁徳天皇38年の記事に次のような話が記されている。、
「天皇と皇后が高台に登って暑を避けていた。
毎夜・菟餓野の方から鹿の鳴く音が聞こえてくるのを、二人はしみじみと聞いていた。
ところが急に鹿の声が聞こえなくなり、その翌日猪名県の佐伯部が贈り物を献上してきた。
その贈り物というのが菟餓野の鹿だった。
仁徳天皇は気を悪くして佐伯部を安芸の渟田に移した。」
そしてそのあとに続けてこんな話が記されている。
「猟師が菟餓野で野宿をしていると傍にいた二匹の鹿が話をしていた。
雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師は雄鹿を射て殺した。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂した。 」
また、摂津国風土記には次のような話もある。
「雄鹿は嫡妻(むかいめ)の雌鹿とともに摂津の刀我野に住んでいたが、側妻(そばめ)の雌鹿は淡路の野島(いまの北淡町野島)に住んでいた。
牡鹿は側妻にあうためにしばしば野島に行っていた。
あるとき牡鹿は嫡妻の雌鹿に言った、
『ゆうべ、背中に雪が積もり、薄が生える夢を見た。』と。
雌鹿は雄鹿を側妻のもとへ行かせまいとして、偽った夢占いをして言った。
『背中にススキが生えたのは、矢に射られるしるし。雪が積もるのは、殺されて塩を塗られるしるしです。海を渡ると船人に射られるので、行かないで下さい』と。
しかし牡鹿は側妻に会いたくて野島へと泳いで行き、海の真ん中で、船に遇って射殺された。
ここから刀我野を夢野と呼ぶようになった。」
日本書紀の鹿の物語は仁徳天皇の物語のあとに続けて記されており、雄鹿は仁徳天皇を比喩したものだと思われる。
摂津国風土記の話は雄鹿が仁徳天皇、嫡妻の雌鹿が磐之姫命で、側妻の雌鹿が八田皇女、ということだろう。
とすると、日本書紀に登場する偽った夢占をした雌鹿とは磐之姫命を比喩したものだと考えられる。
磐之姫命は仁徳天皇35年になくなっている。
そしてそののち八田皇女が仁徳天皇の皇后となっている。
日本書紀の記事は仁徳天皇38年となっているので天皇と高台で涼をとっていた皇后は八田皇女だろう。
そしてそのあとに記されたトガノの鹿に登場する雌鹿は嫉妬深い磐之姫命を喩えたものと考えられる。
仁徳天皇は嫉妬した磐之姫命の偽った夢占いによって崩御したと考えられていたのではないだろうか。
スポンサーサイト