五位鷺伝説 (神泉苑)
神泉苑 つつじ
神泉苑・・・京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町166
神泉苑には醍醐天皇と五位鷺にまつわる伝説が伝わっている。
醍醐天皇が神泉苑を訪れると、一羽の鷺がいた。
帝は召使に『鷺を捕らえよ』と命じたが鷺は逃げようとした。
召使が鷺に『帝の御意なるぞ』と言うと鷺はひれ伏し、そこで帝はこの鷺に『五位』の位を授けた。
伝説というものの多くは、歴史の真実を伝えるために比喩的な表現をもちいて伝えられたものではないかと私は考えている。
伝説は古の人々がしかけた謎々である、と言ってもいいのではないだろうか。
醍醐天皇の御代(在位/897年~930年)、藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣だった。
当時の官職や位は家の格によって最高位が定まっていた。
道真の右大臣という地位は菅原氏としては破格の昇進だった。
道真が権力を握ることを恐れた藤原時平は、醍醐天皇に次のように讒言した。
『道真は醍醐天皇を退位させ、斉世親王を皇位につけようとしている』と。
斉世親王とは醍醐天皇の異母弟で、道真の娘を妻としていた。
そのためだろう、醍醐天皇は時平の言うことを信じて道真を大宰府に流罪とした。
その数年後、道真は失意のうちに大宰府で死亡した。
その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次いだ。
また、道真左遷にかかわった人物が相次いで死亡した。
醍醐天皇の皇太子であった保明親王は21歳で早世した。
代わって孫の慶頼王を皇太子としたが、慶頼王は疱瘡を患ってわずか5歳で夭折した。
さらに旱魃対策会議を開いている真っ最中、清涼殿に落雷があった。
清涼殿は炎上し、多くの死傷者が出た。
醍醐天皇はこのショックでノイローゼとなって寝込み、3ヵ月後に崩御した。
これら一連の事件は道真の怨霊のしわざであると考えられた。
古事記に次のような記述がある。
アメノワカヒコが死んで葬儀を行ったが、河雁(かわかり)を供養の物持ちとし、鷺を掃持(ははきも)ちとし、翠鳥(そにどり)を料理を作る御食人(みけびと)とし、雀をウスを打つ碓女(うすめ)とし、雉(きざし)を導き嘆く哭女(なきめ)とした。
またササキという鳥があるが、これに御をつけるとミササギ(陵)となる。
以前、仁徳天皇陵に行ったことがあるが、あまりに大きすぎて地上から見たのではそれが前方後円墳であるとはとても認識できなかった。
空飛ぶ鳥の目線からなら、その形は容易に認識できるだろう。
古墳は鳥の目線を意識して作られていると思う。
ナスカの地上絵も同様だろう。
古の人々は死んだ人の魂は鳥となって天へ向かうと考えたのではないだろうか。
古の日本には怨霊信仰があった。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人の霊のことで、疫病や風水害は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていた。
怨霊が祟らないように慰霊したものを御霊といった。
平安時代の記録から、ここ神泉苑において御霊会(御霊を慰霊する会)が開かれたことがわかる。
神泉苑は死んだ人の霊が鳥となって現れる場所としてふさわしい。
五位鷺は道真の霊を表しているのではないだろうか。
道真は右大臣だったが、これは従二位に相当する地位である。
従二位は菅原氏の家の格には高すぎる。
それで、醍醐天皇は道真の霊である鷺に、家の格にふさわしい五位の位を与えた。
五位鷺伝説が伝えようとしているのは、そういうことなのではないだろうか。
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