西大寺 皐月 西大寺の四天王像は孝謙上皇が藤原仲麻呂の乱平定を祈願して発願したものであると伝わる。 そのご利益があったのか、藤原仲麻呂の乱は無事平定され、孝謙は重祚(再び皇位につくこと)した。(称徳天皇) そして乱の翌年の765年、称徳天皇(=孝謙上皇)がその四天王像を安置するために創建したのが西大寺である。 西大寺の本堂前に東塔跡がある。 西大寺 東塔跡
四角い基壇がそれであるが、基壇の周囲は八角系の形に柵がめぐらされている。 東塔は当初は八角七重の塔を作る計画であり、八角の基壇が造られたが、途中で四角い基壇に造りなおされ、七重ではなく五重塔が建てられた。 八角形の柵は最初に造られた八角基壇跡である。 『続日本紀』770年2月の条に、次のような記述がある。 「東大寺の東北にある飯盛山から西大寺の塔をつくるための礎石を切り出し、西大寺まで運ぶため、数千人の人夫で引いたが1日に数歩しか動かなかった。 そこで人夫を増やし、9日かけてようやく西大寺まで運んだ。 ところが、その石を東塔の心礎として据えようとしたとき、かんなぎたちが石に祟りがあると言い出した。 そこで、芝を積んで焼き、酒をそそいで石を割り、道に捨てた。 ところが一ヶ月後、天皇が病になった。 占うと、石の祟りであると出た。 そこで捨てた石を拾い、浄地に置いた。」 奈良市高畑町に破石町というバス停がある。 現在は高畑町になっているが、江戸時代ごろには破石町という地名であったらしい。 地名の由来となった破石は『えびす屋』さんの裏庭にある。 この破石が西大寺の八角塔の礎石にする予定だった石であるともいう。 こうして称徳天皇(孝謙上皇)の八角塔を建てるという夢は実現せずに終わったのだが、称徳天皇はなぜ八角塔を建てたいと思ったのだろうか。 もともとインドで作られていた仏塔は円形だったが、中国に伝わると八角塔が多く作られるようになった。 中国の人々は八という数字は特別に縁起のいい数字だと考えていた。 一説には、八という漢字は末広がりになっているので縁起がいいのだともいう。 北京オリンピックの開催式も2008年8月8日だった。 梅原猛さんによれば、8は復活を意味する数字だという。 八角堂や八角墳は死んだ人の魂の復活を願って作られたものではないか、というのだ。 称徳天皇は自らの魂が死後復活することを願って八角塔を作ろうとしたのかもしれない。 また、称徳天皇は大変な唐かぶれであったという。 そのため唐風の八角形の塔を作りたかったのかもしれない。 日本霊異記に次のような話が記されている。 「左大臣・藤原永手が西大寺の塔を八角から四角に、七層から五層に変更したため地獄に堕ちた。」 どうやら、かんなぎたちが礎石に祟りがあると騒いだ裏には藤原永手の思惑があったようである。 西大寺が創建されたころ、称徳天皇は僧の道教を重用し、道教を次期天皇にしたいとまで考えていた。 というのは称徳天皇は女性で結婚が許されず、子供がなかったためである。 西大寺建立には当時の仏教界のトップに君臨していた道鏡の思惑が絡んでいるものと考えられている。 西大寺に当時の日本には一基もない八角七重塔が建つことが、永手には許せなかったのではないだろうか。 というのは、永手と称徳天皇、道鏡の関係が良好なものであったとは思えないからだ。 770年、称徳天皇は病に臥せるようになった。 このとき、称徳天皇の看病のために近づけたのは吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、病気平癒のための祈祷も行われていない。 そして称徳天皇崩御後、次期天皇を誰にするかについての会議が行われた。 吉備真備は分室大市もしくは分室浄三を次期天皇に推した。 藤原永手は称徳天皇の遺詔を持っていたが、そこには「白壁王を次期天皇にすべし。」と記されていた。 しかし称徳天皇は道教を天皇にしたいと考えていたはずである。 この遺詔は永手らによって書き換えられたものだろう。 そして称徳天皇崩御後、道教は失脚して下野国に左遷となり、772年に死亡して庶民として葬られた。 基壇のまわりにめぐらされた八角形は称徳天皇の夢の跡なのである。
スポンサーサイト
[2014/05/30 21:09]
奈良 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
薬師寺 西塔と東塔の間に興福寺の五重塔、写真左端に東大寺大仏殿が見えている。
薬師寺の金堂にはブロンズの薬師三尊像が安置されている。(写真→ ☆) 薬師三尊像とは中央に薬師如来、薬師如来の左手(向かって右)に日光菩薩、薬師如来の右手(向かって左)に月光菩薩を配置する形式のことである。 薬師如来は南向きに安置されているので、薬師如来の左の日光菩薩は東に、薬師如来の右の月光菩薩は西に安置されていることになる。 この薬師三尊像の配置は、陰陽道の宇宙観を表したものだと思う。 陰陽道では、東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央は星とする のだと聞いたことがある。 すると、中央の薬師如来は星の神なのではないだろうか。 また、この薬師三尊像や陰陽道の宇宙観から、、記紀(古事記と日本書紀)にある天照大神・月読命・スサノオ誕生のシーンを思い出す。 黄泉から戻ったイザナギが禊をし、左目を洗ったところ天照大神が、右目を洗ったところ月読命が、鼻を洗ったところスサノオが生まれたとある。 (※地図では左が西で右が東だが、地図の側にたてば、左が東で右が西になる。) 天照大神は太陽神、月読命は月神である。 ところが、スサノオだけは神格がはっきりしない。 イザナギはスサノオに「大海原をおさめよ」と命じている。 ここから、スサノオは海の神だと考えられ、海神(わだつみ)と同一視されている。 かと思えば、根の国(地獄のような死後の国)の王として登場することもある。 船場俊昭氏は「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったとしておられる。 とすれば、陰陽道の宇宙観、薬師三尊像の配置、記紀の天照大神・月読命・スサノオ誕生の記述はすべて矛盾なく合致する。 左・・・・太陽・・・日光菩薩・・・天照大神(左目から生まれた。) 右・・・・月・・・・・月光菩薩・・・月読命(右目から生まれた。) 中央・・・星・・・・ 薬師如来・・・スサノオ(鼻から生まれた。※鼻は顔の中央にある。) 現在、スサノオには星の神という神格がなく、海の神または根の国の神だと考えられているが、海の神というのは星の神の二次的な神格であると考えられる。 星は太陽や月と違って毎日同じ方角から出て同じ方角に沈むので、航海の指標とされていたためである。 VOL.23: 航海カヌー〈ホクレア〉の誕生 :その4~星の航海術 ↑ こちらの記事には次のように記されている。 『昼間であれば太陽の位置によって方角がわかります。夜であれば、それは星の位置によって知ることができます。北半球にいる限り、北極星さえわかれば北がわかり、その高さによって緯度もわかる。あとはどの星がどこから昇ってくるか、あるいは沈むのか、その位置によって東西の経度がわかります。その指標となる星がいくつかあり、それを徹底的に覚え、その組み合わせから、現在、カヌーのいる位置を正確に割り出すわけです。』 上記サイトより引用。 スサノオは星の神という神格を奪われた神だと考えられるが、なぜ星の神という神格を奪われたのだろうか。 中国では天帝を祀るのは皇帝の義務だとされていた。 つまり、天帝は皇帝よりも偉大な存在である。 この天帝とは北極星のことであるとも、天そのものを神格化した神であるとも考えられていたようである。 スサノオは星は星でも天の中心にある北極星=天帝であると考えられていたのではないだろうか。 あるいは天にあるすべての星を抱く天そのものがスサノオであったのかもしれない。 天帝は中国の皇帝が祀る偉大な神である。 天皇家の祖神は太陽神・天照大神とされているが、スサノオが天帝であるとすると天照大神はスサノオよりも格下ということになってしまう。 それではまずい、ということで星の神は抹殺されたのではないだろうか。 初代神武天皇が日向より東征の旅に出立する際、シオツチの翁が「東にはすでにニギハヤヒが天の磐船を操って天下っている」と発言している。 ニギハヤヒは物部氏の祖神である。 ここから畿内には神武以前、物部王朝があったとする説がある。 東征して畿内入りした神武は地元の豪族であるナガスネヒコと戦った。 ナガスネヒコはニギハヤヒを神として奉じていたのだが、ニギハヤヒによって殺されたと記紀には記されている。 ニギハヤヒはナガスネヒコを見捨てて神武に服したということだろう。 『雲陽誌』という書物によれば、ニギハヤヒは星の神であると記述がある。 また、ニギハヤヒが天の磐船を操って天下った場所とされる磐船神社(大阪府交野市)近辺を流れる川は「天の川」といい、星田、星が丘など星のつく地名が多い。 スサノオとニギハヤヒは同一神なのではないかと思ったりもする。 磐船神社 ご神体・天の磐船薬師寺・・・奈良県奈良市西ノ京町457 磐船神社・・・大阪府交野市私市9丁目19-1
[2014/05/29 21:00]
奈良 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
薬師寺 日の出(太陽) 薬師寺 月 薬師寺の金堂にブロンズの薬師三尊像が安置されている。(写真→ ☆) 薬師三尊像とは中央に薬師如来、薬師如来の左手(向かって右)に日光菩薩、右手(向かって左)に月光菩薩を配置するものである。 今日はこの日光菩薩、月光菩薩にちなんで、太陽と月にまつわる中国の伝説についてお話したいと思う。 中国・道教の神に太陽星君(太陽公)・太陰星君(または嫦娥)がある。 太陽星君は太陽を神格化した神、太陰星君は月を神格化した神とされる。 太陰星君は西王母にもらった不老不死の薬を飲んで月まで飛んで行ったという伝説がある。 しかし太陽星君についての伝説はほとんど残されていない。 私は太陽星君、大陰星君のほか、伏義と女媧(図→ ☆)も太陽と月の神ではないかと思う。 ☆はウィキペディアに掲載されている伏義&女媧の絵だが、人頭胴蛇の姿で表されている。 伏義が手に持っているのは曲尺、女媧が手に持っているのはコンパスである。 中国では天円地方といって、天は丸で地は四角だと考えられていた。 女媧が手に持っているコンパスは丸で天を、伏義が手に持っている曲尺は四角で地をあらわすと考えられている。 すると女媧は天の神、伏義は地の神なのかと思えるが、そうではない。 陰陽では天は陽で地は陰、また男が陽で女が陰である。 なので伏義が天の神、女媧が地の神だと考えられる。(参照 → ☆3) 手に持つ道具が自身の神格を表しているとは限らない。 女媧が手に持つコンパスは伏義、伏義が手に持つ曲尺は女媧をあらわし、手に持つことでその道具が表すものと交わっていることを表現しているのではないだろうか。 つまり女媧はコンパスを手に持つことで伏義と交わっていることを、伏義は曲尺を手に持つことで女媧と交わっていることを表しているのではないかということである。 ☆の図をみると二神の周囲に星宿図のようなものが描かれ、上中央には菊の紋のようなものが、下中央にはクロワッサンのようなものが描かれている。 菊の紋のように見えるのは太陽、クロワッサンのように見えるものは月ではないだろうか。 ☆2 ↑ こちらの五盔墓4号墳の壁画に描かれた絵では、伏義が持ち上げている円の中には八咫烏が、女媧が持ち上げている円の中にはヒキガエルが描かれている。 日本でも信仰されている八咫烏は太陽の中に、陰気の動物であるヒキガエルまたはウサギは月に住むと考えられていた。 ここから、伏義は太陽の神、女媧は月の神でもあると考えられるのではないだろうか。 伏義&女媧は太陽星君&太陰星君はと同体と考えてもいいかもしれない。 いや、もっと広く伏義は陽の神、女媧は陰の神だというべきだろうか。 伏義と女媧には次のような伝説がある。 二人の兄妹が雷神を助けたところ、雷神がお守りをくれた。 このお守りを土に埋めると芽がでてみるみる内に大きくなって瓢箪の実がなった。 あるとき大洪水がおこって地上の人類はみな死んだが、兄妹は瓢箪の中に逃れていたので助かった。 そこで兄は瓢箪を意味する「伏羲」と名乗った。 その後、伏羲が妹の女媧にプロポーズしたところ、女媧は「私を捕まえることができたら結婚しましょう」といった。 女媧は木の周囲を回って逃げた。 伏羲はあとをおったがなかなか女媧を捕まえることができなかった。 そこで伏義はいったん止まり、逆に廻って妹を捕まえた。 こうして伏義と女媧は結婚した。 やがて女媧は出産したが、それは肉塊だった。 その肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散って人間となった。 「伏羲はあとをおったがなかなか女媧を捕まえることができなかった。」という点が興味深い。 伏義は陽、女媧は陰の神だと考えらえるが、伏義は太陽神、女媧は月神であるとも考えられる。 伏義=太陽が女媧=月をなかなか捕まえられないのは当然である。 太陽が月を捕まえるというのは、太陽と月が重なること、日食のことだろう。 古代中国では紀元前4世紀の天文学者・石申が月と太陽の相対位置から日食を予測する方法を説いている。 日食とは太陽と月が重なっておきる現象であるということは古くから知られていたのだ。 伏義はいったん止まり、逆に廻って妹を捕まえたとある。 しかし太陽は止まることはないし、逆に廻ることはない。 私はこの表現は目の錯覚を表現したものだと思う。 太陽や月は東から西に進むが、日食の影は西から東に進むので、太陽が逆に廻ったように錯覚したのではないだろうか。 2012年の金環日食では、かなり暗くはなったが、夜のように真っ暗にはならなかった。 しかし皆既日食では日没後20分から30分くらいたった程度に暗くなり、明るい星であれば観測されるという。 日食 「やがて女媧は出産した」とあるが、女媧が生んだものとは、太陽と月が重なって起きる現象=日食がもたらすものことである。 日食の結果、闇が生じて星が見える。 「それは肉塊だった。 その肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散って人間となった。」 とあるが夜空にきらめく無数の星は、切り刻んだものが飛び散ったかのように見える。 私は死んだ人の霊は星になると考えられていたのではないかと思う。 ベルセウス座流星群のピークがお盆と重なっているのは偶然ではないだろう。 たくさんの流星が流れる様子をみて、先祖の霊が帰ってくると、古の人々は考えたのではないだろうか。 つまり「肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散って人間となった。」というのは、人間は人間でも死んだ人間の霊=星のことなのではないだろうか。 そこでもう一度伏義と女媧の絵を見てみよう。(図→ ☆) 伏義(太陽)と女媧(月)が蛇身の下半身を絡ませ合い、その周囲にはたくさんの星が描かれている。 これは日食のようすを描いた絵だと思う。 伏義=太陽星君・・・陽の神(天・太陽・八咫烏・男性等) 女媧=太陰星君・・・陰の神(大地・月・ヒキガエル・ウサギ・女性等)
伏義・・・・・・・・男神・・・・・・・太陽 女媧・・・・・・・・女神・・・・・・・月 伏義&女媧・・・男女双体・・・星 薬師寺・・・ 奈良県奈良市西ノ京町457
[2014/05/28 21:00]
奈良 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
長谷寺 牡丹
長谷寺の長い登廊を歩く。 登廊の両脇の斜面にはたくさんの牡丹の花がうえられていて、今まさに満開を迎えていた。 長谷寺の牡丹にまつわる次のような伝説がある。 「唐18代の僖宗皇帝の皇后・馬頭(めず)夫人は馬面だったので、美しくなりたいと長谷寺の観音様にお願をかけた。 彼女の願いはかなえられて、大変な美人になった。 馬頭夫人は祈願成就のお礼に数々の珍宝を長谷寺に献上した。 その中に牡丹もあった。」 ウィキペディアには僖宗皇帝は唐21代の皇帝であると記されている。 ところが乙訓寺の栞の中に馬頭夫人と長谷寺の牡丹について記されてあったのだが、この栞では唐18代となっていた。 21代が正しいと思う。 ただ、18代とあるのは単純な間違いではなく、縁起を担いで18代としているのかもしれない。 というのは18日は観音様の縁日なのである。 僖宗皇帝に馬頭夫人という皇后がいたかどうかは疑問である。 というのは馬頭夫人についてぐぐってみても、長谷寺の縁起が出てくるばかりなのである。 また唐には立派な寺がたくさんあったと思われるのに、唐の皇后がわざわざ東の小国である日本の長谷寺に祈願するというのもおかしな話である。 馬頭観音を思わせるようなネーミングから考えても、馬頭夫人は想像上の人物なのではないかと思われる。 さらに長谷寺の古文書に『1700年に回廊の両側に牡丹を植えた』という記録がある。 長谷寺に牡丹が植えられるようになったのは1700年以降なのではないだろうか。 馬頭夫人の伝説はたぶん作り話だと思う。 牡丹は中国原産で、日本へは奈良時代に中国より伝わったと言われている。 そういったところから、僖宗皇帝の皇后が長谷寺に牡丹を献上したなどとという話が作られたのではないだろうか。 が、伝説が伝えようとしていることは、それだけではないと思う。 僖宗が皇帝だったころ、黄巣の乱がおこるなど、唐の国は乱れていた。 唐の都・長安が反乱軍に占拠されるなどして、僖宗は2度にわたって唐から逃亡している。 このような状況の中で、唐の権威は落ち、地方の軍閥が力を持つようになっていく。 戦乱がおさまって僖宗は長安に帰還したが朝政の実権は宦官の楊復恭が掌握していた。 同年、僖宗は崩御した。 その後、907年に朱全忠が後梁を開いて唐は滅亡し、五大十国時代へと突入していく。 僖宗は不運な皇帝であったといえるだろう。 日本では僖宗のような政治的に不幸な人物は死後怨霊になって祟ると考えられていた。 怨霊が祟らないように慰霊されたもののことを御霊という。 そして、神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊にわけられ、女神は和霊を、男神は荒霊をあらわすとする説がある。 御霊・・・神の本質 和霊・・・神の和やかな側面・・・女神 荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神 馬頭夫人とは僖宗の和霊として創作された人物なのではないだろうか。 私は前回の記事『祟りをもたらしたご神木(長谷寺)』において次のようなことを述べた。 荒霊は怨霊、和霊は怨霊が成仏してみほとけとなった状態のことでもあるのではないだろうかと。 馬頭夫人は僖宗の和霊だと考えられるが、その本地仏は馬頭観音(ばとうかんのん又はめずかんのん)をであるということで、馬頭夫人という名前がつけられているのではないだろうか。 御霊・・・神の本質 荒霊・・・神の荒々しい側面・・・・怨霊・・・・・・・・・・・・・・・・・男神・・・・僖宗皇帝 和霊・・・神の和やかな側面・・・・みほとけ(馬頭観音)・・・女神・・・・馬頭夫人 観音菩薩は慈悲を徳とするみほとけで、女性的な優しい姿で表現されることが多い。 しかし唯一、馬頭観音はつりあがった目、怒髪、牙をむき出すなど恐ろしい形相で表現されることが多い。(写真 → ☆ ) 馬頭観音は憤怒の相をしているが、明王と呼ばれるみほとけもまた憤怒の相である。 そのため、馬頭明王と呼ばれることもある。 この憤怒の相は単なる怒りを表すのではなく、仏教に帰依しない衆上を畏怖させて帰依させたり、煩悩や悪に対する怒りを表すと説明される。 ただ、一般人が仏教の予備知識なく馬頭観音を見ると、馬頭観音は煩悩にまかせて怒り狂っているように見える。 人々は馬頭観音は煩悩にまかせて怒り狂うみほとけだという認識を持っていたのではないだろうか。 僖宗皇帝という怨霊が、成仏したのが馬頭夫人だと私は考えるが、僖宗皇帝の怨霊としてのパワーはすさまじく そのため、一般的な女性的な優しい姿をした観音ではなく、恐ろしい形相をした馬頭観音になったと考えられたのではないか。 そして馬頭観音=馬頭夫人は美しくなりたいと長谷寺の観音様に祈願したというが、美しくなるとは怒りに狂った恐ろしい顔ではなく慈悲に満ちた優しい顔の観音に変化したということだと思う。 観音は情況に応じて33の姿に変身すると、法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)に記されている。 長谷寺・・・奈良県桜井市初瀬731-1
[2014/05/27 21:00]
奈良 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
長谷寺 牡丹 399段の登廊を登ると初瀬山の中腹にある本堂に出る。 掛け造りの舞台の上にたって本堂を見上げると、巨大な観音さまの姿が見える。 (写真→ ☆) 長谷寺の観音様は像高10m18㎝もあり、壁で仕切られた本堂の内陣に安置されているのだが、舞台の上から拝めるように壁に窓が設けられているのだ。 この観音さまは大変ご利益のある観音様だと考えられていたようで、長谷寺の観音様に祈願したところ子供を授かったなどという話がたくさんある。 この観音様について、次のような伝説がある。 「神亀年間(720年代)、初瀬川に巨大な神木が流れ着いた。 この神木が祟って、大いなる禍がおこり、村人たちは怯えていた。 そこで長谷寺の開祖・徳道が神木を刻んで観音菩薩像を造り、初瀬山に祀った。」 ここに「神木が祟った」とあるが、神木とは神が宿る木のことである。 その神がなぜ祟るのか。神とは人間にご利益を与えてくださる存在ではないのか。 もしかしたら、そう考える人があるかもしれない。 現在では神とはご利益を与えてくださる存在だと考えられることが多い。 しかし『かつて怨霊と神とは同義語であった』といわれている。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことであり、疫病の流行や天災は怨霊の祟りがもたらすと考えられていた。 そこで怨霊が祟らないように慰霊したもののことを御霊といった。 御霊は人々に祟らないだけではなく、ご利益をももたらすと考えられるようになった。 有名なのは菅原道真である。 菅原道真は無実の罪で大宰府に流刑となり、その地で失意のうちに亡くなった。 その後、疫病が流行ったり、天変地異がおこったりし、それらは菅原道真の怨霊の仕業であると考えられた。 北野天神絵巻には雷神となった菅原道真が清涼殿に火災をひきおこすなど大暴れする様子が描かれている。 そこで道真が祟らないように慰霊し、神として祀ったのが天満宮なのである。 現在、菅原道真は学問の神として信仰され、多くの受験生たちが天満宮に合格祈願にやってくる。 しかしもともとは菅原道真は怨霊であったのである。 さらに、明治まで神仏は習合されて信仰されていた。 菅原道真を祀る京都の北野天満宮の西隣に天満宮の神宮寺・東向観音寺がある。 その東向観音寺の門前に「天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩」と刻まれた石碑が立てられている。 天満宮とは菅原道真のことである。 そして本地仏とは本地垂迹説からくる言葉である。 本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が仮に衆上を救うためにこの世を表したものである。」とする考え方のことで、日本の神仏習合のベースとなっていた。 仏教の神々が衆上を救うために仮に姿を現した日本の神々のことを、「化身」「権現」などといい、日本の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを「本地仏」といった。 例えば天照大神の本地仏は大日如来、八幡神は阿弥陀如来の化身である、などといわれた。 「天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩」とは、「天満宮(菅原道真)は十一面観音の化身である。」というような意味である。 人が亡くなった際、「成仏してください」というのはなぜだろう。 それは死んだ人は怨霊になる恐れがあると考えられており、怨霊とならずに煩悩を捨てて悟りを開いてほしいというください気持ちから「成仏してください」というのではないだろうか。 東向観音寺の十一面観音は怨霊であった菅原道真の霊が煩悩を捨てて成仏したということを、目に見える形で表したものだといえるのではないだろうか。 神はその表れ方で御霊・荒霊・和霊の3つにわけられるという。 御霊・・・神の本質 荒霊・・・神の荒々しい側面 和霊・・・神の和やかな側面 荒霊は怨霊、和霊は怨霊が成仏してみほとけとなった状態のことでもあるのではないだろうか。 御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・菅原道真 荒霊・・・神の荒々しい側面・・・・怨霊・・・・・・・雷神(天満宮) 和霊・・・神の和やかな側面・・・・みほとけ・・・十一面観音 怨霊(政治的に不幸な死を迎えた人)とみほとけは表裏一体のものであるといえるだろう。 このように考えれば、祟りをもたらすご神木を刻んで長谷寺の観音菩薩像を作ったという意味がわかる。 初瀬川に流れ着いたご神木とは怨霊の宿る木であり、怨霊が祟らないよう成仏させるために、ご神木を観音の姿につくりかえたということだろう。 つまり、長谷寺は怨霊をまつる寺だということである。 怨霊の正体についてはまた後日。
[2014/05/26 21:00]
奈良 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
室生寺 石楠花
室生寺は古くから女人の入山を許しており、そのため『女人高野』と呼ばれていた。 清楚な淡いピンクの石楠花や、興福寺の五重塔の3分の1ほどしかないという可愛らしい五重塔も女性的で、女人高野の名前にぴったりである。
室生寺の五重塔の九輪の上には水煙のかわりに宝瓶(ほうびょう/壷状の飾り)がつけられている。 寺伝によれば、室生寺の創建にかかわった修円がこの宝瓶に室生の龍神を封じ込めたのだという。
室生山には古くから龍神が住むと考えられていた。 室生寺から1kmほどのところに室生龍穴神社がある。 室生寺よりも創建は古く、室生寺は室生龍穴神社の神宮寺であったともいわれている。
室生龍穴神社 拝殿 室生寺の栞には次のように記されていた。 『奈良時代の末期、山部親王(後の桓武天皇)のご病気平癒の祈願が興福寺の五人の僧によって行なわれ、これに卓効があったことから勅命によって創建された。』 栞には山部親王とあるが、山部親王という呼び方は一般的ではなく、山部王と呼ばれることが多い。 なので、ここでは山部王と記すことにする。 『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)に次のような記述がある。 『777年12月と778年3月の2回に渡り、山部王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、興福寺の五人の僧が室生の地において延寿の法を修した』と。 室生寺の栞に記されている『山部王の病気平癒の祈願』とはこの777年と778年に行われた延寿の法のことだろう。 山部王の病がどのようなものだったのかを知るてがかりが『水鏡』 にある。 『水鏡』の記述は次のようなものである。 『20日にわたって夜ごと瓦や石、土くれが降った。 777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。宇治川の水も絶えてしまいそうだ。 12月、藤原百川の夢に、百余人の鎧兜を着た者が度々あらわれるようになった。 また、それらは山部王の夢にも現れたので、諸国の国分寺に金剛般若をあげさせた。 』 777年は水不足に悩まされた年えあったらしい。 また瓦や石や土くれが降ったと記述があるのは、地震または雹だろうか。 その結果、藤原百川や山部王の夢の中に百余人の鎧兜を着た者があらわれたという。 山部王の病とはノイローゼだったのだろうか。 これをさかのぼる5年前の772年、井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして息子の他戸親王とともに大和国宇智郡の没官(官職を取り上げられた人)の館に幽閉されている。 井上内親王とは光仁天皇の皇后だった人である。 そして光仁天皇の皇太子には光仁天皇と井上内親王の間に生まれた他戸親王が立てられていた。 山部王の父親は光仁天皇だったが、母親は高野新笠だった。 高野新笠は百済王族の末裔とされ、身分が低かった。 ところが井上内親王の事件があったため、他戸親王は排太子となり、山部王が皇太子となった。 775年、井上内親王と他戸親王はに二人は幽閉先で逝去した。 『公卿補任(くぎょうぶにん)』によれば、この一連の事件は『藤原百川の策諜』とある。 藤原百川が策謀をたて、山部王を皇太子にする為に、井上内親王と他戸親王に無実の罪を被せた、というのである。 その後、井上内親王は怨霊になったと考えられたことが、いくつかの文献に記されている。 『本朝皇胤紹運録』 井上内親王と他戸親王は獄中で亡くなった後、龍となって祟った。 『愚管抄』 井上内親王は龍となって藤原百川を蹴殺した。 藤原百川や山部王が悪夢に悩まされたのが777年であるが、興福寺の5人の僧が室生山で山部王の病気平癒のための延寿の法を行なったのは777年と778年だった。 そしてその2年前の775年に井上内親王と他戸親王が逝去し、死後、井上内親王と他戸親王は龍になって祟ったと考えられた。 山部王の病は、龍になった井上内親王と他戸親王の怨霊の祟りがもたらしたものだと考えられたのだろう。 そして、井上内親王と他戸親王の怨霊は室生山の龍神とイメージが重ねられた結果、777年と778年に室生の地において山部王の病気平癒の祈祷が行われたのではないだろうか。 そう考えると、室生で祈祷を行ったのが、なぜ興福寺の僧であったのかについてもわかる。 藤原百川が藤原氏の氏寺である興福寺に依頼して、室生で井上内親王の怨霊を鎮めるための祈祷を行ったのだろう。 修円が室生寺の五重塔の宝瓶に封じ込めた室生の龍神とは、井上内親王の霊のことだと私は思う。 そして室生寺が女人の入山を許してきたのは、この寺が女人である井上内親王の鎮魂の寺であるからではないだろうか。 私は室生寺金堂の十一面観音を拝みながら、もしかしたら井上内親王はこのような容貌をしておられたのではないかと思ったりした。 十一面観音はふっくらした頬に切れ長の眼、赤くて小さい口元など、女性的な雰囲気を持っておられた。 (写真 → ☆)  室生龍穴神社 龍穴
室生寺・・・奈良県宇陀市室生区室生78 室生龍穴神社・・・奈良県宇陀市室生1297
[2014/05/25 21:00]
奈良 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
乙訓寺 牡丹 乙訓寺の境内は満開の牡丹の花で埋め尽くされていた。 それはまるで牡丹の花で描いた曼荼羅のようでもあった。 乙訓寺が牡丹寺となったのは、昭和15年ごろに奈良県桜井市の長谷寺から牡丹を献木されて以降である。 それ以前は表門から本堂にかけて松の並木が続いていたそうだ。 長谷寺が乙訓寺に牡丹を献木した昭和15年、私の母は7歳だった。 母は私が子供のころ、よく真顔で迷信めいたことを言っていたことを思い出す。 それは、たとえばこんなことだ。 「夜、口笛を吹くと蛇がくる。」 「新しい靴は夜おろしてはいけない。」 「夜爪を切ると親の死に目にあえない。」 「死んだ猫をかわいそうだと思ったら、魂を猫につれていかれる。」 「厄年の人がふるまう善哉を食べるとその人の厄をもらうことになるので食べてはいけない。」 「○○さんは狸にとりつかれて死んだ。」など。 母は今でもときどきこういうことを言うことがある。 昭和15年ごろの人々は私の母のように迷信やしきたり、言い伝えなどを信じる人が多かったのではないだろうか。 そんな時代に何の意味もなく長谷寺が乙訓寺に牡丹の献木をしたとは私には思えない。 肉食を禁じる仏教の影響を受け、日本では長い間、肉食が禁止されていた。 しかし、こっそりと肉食は行われ、ごまかすために、動物の肉に植物の名前をつけた。 猪は牡丹、鹿肉は紅葉、馬肉は桜、鶏肉は柏といわれた。 私は以前の記事「 猪と陽炎の女神(摩利支尊天堂) 」 において、次のようなことを述べた。 ①陰陽道では陰が極まると陽に転じると考える。 ②祟り神を祀りあげれば守護神になるという信仰はこの陰陽道の考え方からくるのではないか。 ③猪は摩利支天の神使いとされている。 ④摩利支天は本来は女神像としてあらわされていたが、のちに男神像としても表されるようになった。 ⑤神はその現れ方で御霊・荒霊・和霊の3つにわけられる。 また荒霊は男神・和霊は女神であるとする説もある。 御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御毛沼命・・・・・・・・・・・・・・崇徳天皇 ・・・・・・霜宮(霜害を防ぐ) 荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・鬼八・・・・・・・・・・・・・・・・・鵺・・・・・・・・・・・・冬の太陽 和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・生娘=猪=摩利支天・・・猪早太・・・・・・・・陽炎(太陽の光) ⑥位の高い人が没落していく様子を、古の人々は冬の太陽に喩えたのではないか。 ②について補足をしておこう。 現代人は神とはご利益をもたらしてくれるものだと考えている人が多い。 しかし、それは本来は神の3つの形(御霊・荒霊・和霊)のうち、和霊の性質である。 神の性質には荒霊もあり、こちらの性質が表に出た場合には神は祟るのである。 荒霊は祟り神、怨霊などとも言われ、荒霊を神として祀り上げることで和霊(守護神)に転じることができると考えられていた。 「かつて神と怨霊は同義語だった」と言われるのはそのためである。 乙訓寺は長岡京跡からほど近い場所にあり、奈良時代末に早良親王が幽閉された寺として知られている。 784年、桓武天皇は平城京から長岡京に遷都した。 翌785年、造長岡宮使・藤原種継暗殺事件がおきた。 この事件に桓武天皇の同母弟・早良親王が事件に連座したとして皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉された。 早良親王は無実を訴えてハンガーストライキを決行し、淡路へ配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死したという。 後、桓武天皇の第1皇子・安殿親王(後の平城天皇)が発病したり、桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死など不幸な事件が相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとされた。 早良天皇の怨霊に悩む桓武天皇に和気清磨が進言をした。 怨霊で穢れた長岡京を捨て、平安京に遷都しましょうと。 その結果、長岡京は建都後わずか10年で捨てられ、桓武天皇は平安京に遷都した。 794年のことである。 ④の表をもう一度見てみよう。 御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御毛沼命・・・・・・・・・・・・・・崇徳天皇 ・・・・・・霜宮(霜害を防ぐ) 荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・鬼八・・・・・・・・・・・・・・・・・鵺・・・・・・・・・・・・冬の太陽 和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・生娘=猪=摩利支天・・・猪早太・・・・・・・・陽炎(太陽の光) 御毛沼命は初代神武天皇の兄である。 御毛沼命は神武と同じく日向に住んでいたのだが、神武東征に従った。 熊野へ向かっているとき暴風にあい、波頭を踏んで常世に行ったと記紀には記述がある。 また、崇徳天皇は保元の乱をおこしたが後白河に負けて讃岐に流刑となっっている。 御毛沼命も崇徳天皇も没落していった人物であり、冬の太陽に喩えるにふさわしい。 そして早良親王もまた藤原種継暗殺事件に関与したとして流罪となっており、冬の太陽のイメージがある。 そして早良親王の怨霊を陰とすれば、これを陽に転じたのが猪である。 御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・早良親王 荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・・早良親王の怨霊・・・・冬の太陽 和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・猪・(摩利支天)・・・・・・陽炎(太陽の光) その猪を表すため、猪の隠語である牡丹を乙訓寺に植えるようになったのではないだろうか。 続きを読む
[2014/05/24 21:00]
京都 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
當麻寺 練供養会式(5月14日) 當麻寺・・・奈良県葛城市當麻1263 二十五菩薩が行列をつくり、来迎橋をゆっくりと渡ってくるのを、オレンジ色の夕日が照らしていた。 ここ、當麻寺では中将姫が一夜で織り上げたと伝わる當麻曼荼羅をご本尊としている。 775年の春、中将姫は29歳で入滅した。 このとき阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かったと伝えられている。 毎年5月14日に行われている練供養会式は、これを表現したものであるとされる。 前回の記事「 中将姫と中将湯と天照大神」の中で中将姫伝説をご紹介したが、もう一度ここに記しておこう。 「藤原鎌足の曾孫・藤原豊成と妻・紫の前(品沢親王の娘)には長い間子供ができなかったが、747年、長谷寺の観音様に祈願して中将姫を授かった。 紫の前は中将姫が5歳のときに亡くなり、豊成は橘諸房の娘・照夜の前を後妻とした。 照夜の前は中将姫をうとみ、事あるごとに中将姫をいじめていた。 9歳のとき、孝謙天皇(女帝)に命じられて琴をひき、賞賛された。 13歳のとき、三位中将の位を持つ内侍となる。 中将姫が14歳のとき、父の豊成は諸国巡視の旅に出かけた。 照夜の前は豊成が留守の間に中将姫を殺してしまおうと考え、従者に中将姫の殺害を命じた。 しかし従者は中将姫を殺すにしのびず、雲雀山に置き去りにした。 中将姫は雲雀山に草庵を結んで暮らしていたが、1年後、遊猟にやってきた父・豊成と再会して都へ戻った。 中将姫は淳仁天皇より後宮へ入るよう望まれるが辞退した。 その後、出家して當麻寺に入り、法如という戒名を授かった。 26歳のとき、中将姫は蓮の茎から糸をつむぎ、石光寺の庭に井戸を掘って糸を浸した。 すると糸はたちまち五色に染まった。 中将姫はその蓮糸をつかって一夜のうちに當麻曼茶羅を織りあげた。 775年春、中将姫は29歳で入滅した。 阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かった。 」 この中将姫伝説にはいくつかのおかしな点がある。 ①中将姫の母親の紫の前は品沢親王の娘とあるが、品沢親王なる人物がいくら探してもでてこない。 どうも品沢親王なる人物は実在していなかったように思われる。 ②豊成は橘諸房の娘の照夜の前を後妻としたという。良時代の男性は複数の妻を持つのが当たり前だったので、前妻・後妻という言い方はしなかったのではないか。 ③照夜は橘諸房の娘だというのだが、橘諸房なる人物もいくら探してもでてこない。 ④伝説では中将姫が14歳のとき豊成は諸国巡視の旅にでかけたというが、中将姫が14歳であったのは760年である。 豊成は757年から難波の別荘で8年間隠遁生活を送っていた。 ⑤豊成が都へ戻ったのは764年だが、伝説では761年に中将姫と再会して都へ戻ったということになっている。 このように史実と合致しない点や、実在しない人物がでてくるところをみると、中将姫も実在せず、物語の中で創作された人物なのではないかと思われる。 ただ、さすがに天皇を創作するのは憚られるので、天皇は実在した人物の名前を用いたのではないだろうか。 中将姫伝説には天皇以外に、たったひとりだけ実在した人物が登場する。 藤原豊成である。 なぜ実在した物として天皇以外では藤原豊成だけが物語に登場するのだろうか。 この藤原豊成という人物についてみてみよう。 藤原豊成は704年に藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の長男として生まれた。 737年、藤原四兄弟が天然痘を患って急死すると豊成は藤原氏の氏上(藤氏長者の前身)となる。 ※藤原四兄弟とは藤原不比等の四人の子のこと。 武智麻呂・・・南家 房前・・・北家 宇合・・・式家 麻呂・・・京家 749年、孝謙天皇(女帝)が即位し、豊成は右大臣となる。 757年、7月、橘奈良麻呂の乱がおこる。 豊成はこれに連座したとして大宰府左遷が決定するが、「病気」と称して難波の別荘に籠り、8年間隠遁生活を送る。 豊成にかわって、豊成の弟の藤原仲麻呂(南家)が権力を掌握する。 764年、藤原仲麻呂、孝謙上皇と対立し、乱をおこすも殺害される。(藤原仲麻呂の乱) 淳仁天皇は乱に連座したとして淡路へ配流となる。 孝謙上皇、重祚して称徳天皇となる。 豊成は右大臣として政権に復帰した。 766年、豊成11月27日薨去。 豊成は孝謙天皇の即位とともに右大臣となっている。 弟の藤原仲麻呂が権力を握ると失脚したが、孝謙が重祚(再び皇位につくこと)して称徳天皇となると豊成も右大臣に復帰している。 豊成は孝謙(称徳)より信頼を得ていた人物だったように思われる。 称徳(孝謙)天皇は770年に急病を患って崩御したのち、藤原永手(北家)、藤原宿奈麻呂(式家)、藤原百河(式家)が推す白壁王が即位している。 その後、北家・式家が政界の中心となり、南家はふるわなかった。 私は豊成が難波に隠遁していたというのが気になる。 中将姫が織った當麻曼荼羅は當麻寺にあり、中将姫ゆかりの井戸は當麻寺の近くの石光寺にあるのだが、両寺はどちらも二上山のふもとにある。 奈良から見ると二上山は西の方角にあって、夕日は二上山の方角に没する。 二上山は夕日が没する山であり、二上山の向こう側には西方浄土があると考えられていたことだろう。 豊成が隠遁していた難波は二上山の向こう側、夕日が没する場所にある。 難波は西方浄土だと考えられていたのではないだろうか。 とすれば、生きながらにして極楽浄土に行ったのは、豊成だということになる。 それではなぜ豊成の娘として中将姫という女性が創作され、彼女が極楽浄土に行くという話になったのか。 神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられ、また女神は和霊を、男神は荒霊をあらわすという説がある。 豊成は荒霊、そして中将姫は豊成の和霊なのだと思う。 御霊・・・神の本質・・・男女双体 和霊・・・神の和やかな側面・・・女神・・・中将姫 荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・藤原豊成 當麻寺は葛城氏の一派の當麻氏の氏寺であったと考えられているが、藤原豊成の妻・藤原百能(ふじわらのももよし)の母親は當麻氏の女性であった。 こういった関係から、當麻寺に豊成の娘・中将姫の物語が創作されたのではないだろうか。
[2014/05/23 21:00]
奈良の祭 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
石光寺 (牡丹)
石光寺・・・奈良県葛城市染野387 石光寺の境内に井戸があり、その井戸の横に尼僧姿の女性の石像が置かれている。 中将姫の像である。 中将姫には次のような伝説がある。 「藤原鎌足の曾孫・藤原豊成と妻・紫の前(品沢親王の娘)には長い間子供ができなかったが、747年、長谷寺の観音様に祈願して中将姫を授かった。 紫の前は中将姫が5歳のときに亡くなり、豊成は橘諸房の娘・照夜の前を後妻とした。 照夜の前は中将姫をうとみ、事あるごとに中将姫をいじめていた。 756年、9歳のとき、孝謙天皇(女帝)に命じられて琴をひき、賞賛された。 760年、13歳のとき、三位中将の位を持つ内侍となる。 中将姫が14歳のとき、父の豊成は諸国巡視の旅に出かけた。 照夜の前は豊成が留守の間に中将姫を殺してしまおうと考え、従者に中将姫の殺害を命じた。 しかし従者は中将姫を殺すにしのびず、雲雀山に置き去りにした。 中将姫は雲雀山に草庵を結んで暮らしていたが、1年後、遊猟にやってきた父・豊成と再会して都へ戻った。 767年、中将姫は淳仁天皇より後宮へ入るよう望まれるが辞退した。 その後、出家して當麻寺に入り、法如という戒名を授かった。」 當麻寺は石光寺を南に10分ほど行ったところにある。 當麻寺(蓮華草) 「26歳のとき、中将姫は蓮の茎から糸をつむぎ、石光寺の庭に井戸を掘って糸を浸した。 すると糸はたちまち五色に染まった。 中将姫はその蓮糸をつかって一夜のうちに當麻曼茶羅を織りあげた。 (當麻寺曼荼羅は當麻寺のご本尊とされている。) 775年春、中将姫は29歳で入滅した。 阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かった。 毎年、五月十四日に當麻寺で行われている練供養はこれを再現したものである。」 ツムラの中将湯のパッケージにはこの中将姫の絵が描かれている。 → ☆ 中将湯は婦人病に効能があるとされる漢方薬であるが、中将姫とどう関係があるのか。 中将湯は大和国宇陀郡の雲雀山青蓮寺の檀家・藤村家に代々伝えられていた漢方薬である。 雲雀山に中将姫が置き去りにされたとき、藤村家の者が中将姫をかくまい、お世話をした。 中将姫がそのお礼に藤村家の者に製法を教えたのが中将湯であると伝わっている。 株式会社ツムラの創業者・津村重舎の母親はこの藤村家の女性であった。 そこで津村重舎は中将湯の製法を受け継いで製造販売するに至ったという。 私は中将姫には次の2点の共通点から、天照大神のイメージがあると思う。 ①中将姫は當麻曼荼羅という織物を織ったが、天照大神も織女であった。 ②中将姫は婦人病に効く薬を伝えているが、天照大神の6番目の子供とされる淡島さん(淡島大社の神様)は婦人病にご利益があると信仰されている。 古事記および日本書紀の天照大神の記述についてみてみよう。 「天照大神は天の機屋で衣を織っていた。 ここにスサノオが馬を逆剥ぎにしたものを投げ入れて、ひとりの織女が梭で陰処をついて死亡した。 天照大神はこれにきれて天岩戸に隠れた。(古事記)」 「天照大神が梭で陰処をついて怪我をした。(日本書紀本文)」 「スサノオが神殿に糞をし、アマテラスが気付かずにそれに座って下の病気になって天岩戸に隠れた。(日本書紀 第二の一書)」 古事記では「ひとりの織女が梭で陰処をついて死亡した。」となっているが、日本書紀本文では陰処をついて死亡したのは天照大神となっている。 ここから、古事記に記された「死亡したひとりの織女」とは天照大神自身のことで、その後天岩戸に隠れたとあるのは、死んだ天照大神が石室に葬られているようすを表したものだと考えられている。 また天照大神が下の病気になったとあるが、和歌山県加太にある淡島大社は婦人病にご利益があると信仰されていた。 昭和のはじめくらいまで淡島願人という遊行僧が全国をまわって『淡島さん(淡島大社の神様)』の信仰を布教していた。 その淡島願人の説くところによれば、『淡島さん』とは天照大神の六番目の子で、住吉明神に嫁いだが、婦人病にかかったことにより淡島に流された。 それで淡島さんは婦人病の人々を救うと誓いを立てたのだという。 『淡島さん』は天照大神の六番目の子であるという点に注意してほしい。 神が子供を産むとは、神が分身をつくることだとする説がある。 とすれば、淡島さんとは天照大神の6番目の分身(分霊)だということになる。 太陽は東から昇って西へ沈む。 中将姫=天照大神=太陽であると考えると、伝説に「中将姫は生きながら西方浄土へ行った。」とあることの意味がわかる。 「中将姫は生きながら西方浄土へ行った。」というのは、「太陽が沈んだ」ということだろう。 奈良では二上山は太陽が没する山であり、石光寺は太陽が没する山・二上山の麓にある。 中将姫伝説はこのような奈良の地理から生じたものではないだろうか。 二上山 夕日
続きを読む
[2014/05/22 21:00]
奈良 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
磐之姫陵 杜若
磐之姫陵(平城坂上陵/ならのさかのうえのみささぎ)・・・奈良市佐紀町字ヒシゲ 不退寺の西側にはウワナベ古墳、コナベ古墳などの大型前方後円墳がたくさんあり、古墳の周囲には水壕がめぐらされている。 中でもヒシアゲ古墳は水濠にカキツバタの群生が花をついていて目を引いた。 ヒシアゲ古墳は磐之媛命(いわのひめのみこと)の墓に比定されている。 磐之媛命は仁徳天皇の皇后だった。 日本書紀によれば、磐之媛命は仁徳天皇35年(347年)筒城宮(つづきのみや)で薨去し、2年後の仁徳天皇37年(349年)に奈良山に葬られた、とある。 ヒシアゲ古墳は明治時代に磐之媛命陵に比定されたのだが、それまでは若草山の上にある鶯陵が磐之媛命陵とされていた。 奈良山がどの山をさすのかについてははっきりしたことはわからず、従って確実にここが磐之媛命陵であるとはいえない。 磐之媛命の夫、仁徳天皇の陵は大仙陵古墳(大阪府堺市堺区大仙町)に比定されている。 大仙陵古墳も確実に仁徳天皇陵であるとはいえないが、「百舌鳥に葬った」という記述があるので、現在の堺市あたりに葬られたことは確かだろう。 (堺市に百舌鳥という地名がある。) 夫婦は百舌鳥と奈良山に引き離されて葬られたのである。 仁徳天皇30年(342年)、仁徳天皇は磐之媛命が熊野に出かけて留守の間に八田皇女を宮中に迎えた。 磐之媛命はこれに激しく嫉妬して山城の筒城宮に移り住み、仁徳天皇のもとに戻らなかった。 そして、仁徳天皇を許すことなく、仁徳天皇35年(347年)筒城宮で没した。 二人の陵が離れたところに作られたのはそのためなのかもしれない。 日本書紀 仁徳天皇38年の記事に次のような話が記されている。、 「天皇と皇后が高台に登って暑を避けていた。 毎夜・菟餓野の方から鹿の鳴く音が聞こえてくるのを、二人はしみじみと聞いていた。 ところが急に鹿の声が聞こえなくなり、その翌日猪名県の佐伯部が贈り物を献上してきた。 その贈り物というのが菟餓野の鹿だった。 仁徳天皇は気を悪くして佐伯部を安芸の渟田に移した。」 そしてそのあとに続けてこんな話が記されている。 「猟師が菟餓野で野宿をしていると傍にいた二匹の鹿が話をしていた。 雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。 翌朝猟師は雄鹿を射て殺した。 時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂した。 」 また、摂津国風土記には次のような話もある。 「雄鹿は嫡妻(むかいめ)の雌鹿とともに摂津の刀我野に住んでいたが、側妻(そばめ)の雌鹿は淡路の野島(いまの北淡町野島)に住んでいた。 牡鹿は側妻にあうためにしばしば野島に行っていた。 あるとき牡鹿は嫡妻の雌鹿に言った、 『ゆうべ、背中に雪が積もり、薄が生える夢を見た。』と。 雌鹿は雄鹿を側妻のもとへ行かせまいとして、偽った夢占いをして言った。 『背中にススキが生えたのは、矢に射られるしるし。雪が積もるのは、殺されて塩を塗られるしるしです。海を渡ると船人に射られるので、行かないで下さい』と。 しかし牡鹿は側妻に会いたくて野島へと泳いで行き、海の真ん中で、船に遇って射殺された。 ここから刀我野を夢野と呼ぶようになった。」 日本書紀の鹿の物語は仁徳天皇の物語のあとに続けて記されており、雄鹿は仁徳天皇を比喩したものだと思われる。 摂津国風土記の話は雄鹿が仁徳天皇、嫡妻の雌鹿が磐之姫命で、側妻の雌鹿が八田皇女、ということだろう。 とすると、日本書紀に登場する偽った夢占をした雌鹿とは磐之姫命を比喩したものだと考えられる。 磐之姫命は仁徳天皇35年になくなっている。 そしてそののち八田皇女が仁徳天皇の皇后となっている。 日本書紀の記事は仁徳天皇38年となっているので天皇と高台で涼をとっていた皇后は八田皇女だろう。 そしてそのあとに記されたトガノの鹿に登場する雌鹿は嫉妬深い磐之姫命を喩えたものと考えられる。 仁徳天皇は嫉妬した磐之姫命の偽った夢占いによって崩御したと考えられていたのではないだろうか。
[2014/05/21 20:00]
奈良 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
| HOME |
次ページ≫
|