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流星と天狗(あまつきつね) 霊山寺 

霊山寺 干支祭2
霊山寺 干支祭(5月第3日曜日)


霊山寺・・・奈良県奈良市中町3879


鼻高仙人の正体 (霊山寺) よりつづく

前回、ご紹介した霊山寺の伝説をもう一度読んでみよう。

「小野富人(小野妹子の子であるという。)は壬申の乱に関与したため、672年に右大臣を辞して、登美山に住んだ。
684年、富人は熊野本宮大社に参篭した。
そのとき、薬師如来(熊野速玉大神の本地仏)が夢枕にあらわれて『薬湯を作り、病人をたすけよ』と告げた。
そこで富人は登美山に薬師如来を祀り、病人を癒すために薬湯を設けた。
人々は富人を登美仙人または鼻高仙人(びこうせんにん)と呼んで敬った。 」

そして私は次のようなことをお話しした。
①壬申の乱は、大友皇子(天智天皇の皇子)vs大海人皇子(天智天皇の弟)の争いで、大海人皇子が勝利した。
②小野富人は壬申の乱で大友皇子側についていたので、乱後、右大臣を辞したのだろう。
③ところが、歴代右大臣のリストの中には小野富人の名前がない。
④壬申の乱が起こったとき右大臣だったのは中臣金である。
⑤中臣 金は壬申の乱では大友皇子側について戦ったが、金は捕えられて処刑となり、金の子孫は流罪となった。
⑥中臣金が建立したと伝わる佐久奈度神社の宝物に鼻高面(天狗の面)がある。
⑦霊山寺の由来には「小野富人が672年に右大臣を辞して登美山にすみ、鼻高仙人と呼ばれた」とあるが、672年右大臣だったのは小野富人ではなく中臣金であった。
⑧中臣金が創建した佐久奈度神社に鼻高面がある。
 鼻高仙人と呼ばれた小野富人と中臣金は同一人物ではないか。
⑨小野富人が登美山に住んだというのは、死んだ小野富人の霊が登美山に住んだということではないか。
⑩小野富人が薬湯を設けたというのは、小野富人のご加護があって薬湯ができたということではないか。

さて、霊山寺の伝説には続きがあった。

「728年、流星が宮中に落下するという事件がおき、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)がノイローゼとなった。
このとき、聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、湯屋の薬師如来に祈れば治るとのお告げがあった。
聖武天皇は行基に命じて登美山を参拝させた。
するとたちまち阿倍内親王の病は回復した。
そこで734年、聖武天皇は行基に命じて大堂を造らせ、736年にインドバラモン僧の菩提僊那が寺名を霊山寺と名づけた。 」

「728年、流星が宮中に落下するという事件がおき、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)がノイローゼとなった。」とある。
現在では流星が流れて消えるまでの間に願い事を3回唱えることができればその願いは叶うなどといわれており、流星には希望のイメージがある。
しかし、古代には流星はまがまがしいものと考えられていたようである。

たとえば、日本書紀には637年、巨大な星が轟音を立てて東から西へ流れ、僧の旻が「流星ではない。これは天狗である。」と発言したと記されている。

小野富人が鼻高仙人と呼ばれていたことを思い出してほしい。
そして小野富人と同一人かもしれない中臣金が創建した佐久奈度神社には鼻高面があった。
鼻高面は鼻の高い天狗の面であった。
小野富人には天狗のイメージがある。

728年に宮中に落ちた流星とは、天狗=小野富人の霊だと考えられたのではないだろうか。
つまり、小野富人は怨霊で、宮中に流星が落ちたのは小野富人の怨霊の仕業だと考えられたのではないかと私は思うのである。


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[2014/05/20 18:12] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

鼻高仙人の正体 (霊山寺) 

霊山寺 干支祭 
霊山寺 干支祭(5月第3日曜日)

霊山寺・・・奈良県奈良市中町3879

霊山寺には次のような伝承が伝わっている。

「小野富人(小野妹子の子であるという。)は壬申の乱に関与したため、672年に右大臣を辞して、登美山に住んだ。
684年、富人は熊野本宮大社に参篭した。
そのとき、薬師如来(熊野速玉大神の本地仏)が夢枕にあらわれて『薬湯を作り、病人をたすけよ』と告げた。
そこで富人は登美山に薬師如来を祀り、病人を癒すために薬湯を設けた。
人々は富人を登美仙人または鼻高仙人(びこうせんにん)と呼んで敬った。
728年、流星が宮中に落下するという事件がおき、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)がノイローゼとなった。
このとき、聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、湯屋の薬師如来に祈れば治るとのお告げがあった。聖武天皇は行基に命じて登美山を参拝させた。
するとたちまち阿倍内親王の病は回復した。
そこで734年、聖武天皇は行基に命じて大堂を造らせ、736年にインドバラモン僧の菩提僊那が寺名を霊山寺と名づけた。 」

壬申の乱は672年に勃発した内乱である。
天智天皇の皇子である大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子が皇位継承をめぐって争い、大海人皇子が勝利して即位した。
敗れた大友皇子は自害して果てた。

小野富人はこれに関与して右大臣を辞した、とあるので大友皇子側についたのだと思われる。
ところが、歴代右大臣のリストの中には小野富人の名前がない。
壬申の乱が起こったとき右大臣だったのは中臣金である。

小野富人は小野妹子の子であるというが、ウィキペディアで小野妹子を調べても、子として毛人・広人の名前はあがっているが、富人の名前はない。

672年、本当に右大臣だった中臣 金(なかとみ の かね/?- 672年)は中臣鎌足の従妹である。
大化の改新で功績をあげた鎌足の死後、中臣金が急速に出世して、671年に右大臣となった。
672年に勃発した壬申の乱(大友皇子vs大海人皇子)では中臣金は大友皇子側について戦った。
しかし大海人皇子側が優勢で、大友皇子は自殺した。
金は捕えられて処刑となり、金の子孫は流罪となった。

この中臣金が天智天皇の勅をうけて天智天皇御宇8年に建立したと伝わる神社が滋賀県大津市大石中にある。
佐久奈度神社である。

御宇(ぎょう)とは「宇内(うだい/天下)を御する帝王が天下を治めている期間」のことである。
天智天皇の在位期間は668年~672年に崩御するまでの4年間であるが、天智は先代の斉明天皇が661年に崩御したのち、即位せずに称制している。
なので、天智天皇御宇8年とは、661年から8年目の669年を指すと思われる。

この佐久奈度神社の宝物に伊勢神宮より賜った神剣と鼻高面がある。(参照→ 
古より伊勢神宮を参拝する前に佐久奈度で禊ぎをする習慣があり、このような関係から伊勢神宮より賜ったものであるという。

鼻高面とは赤い顔をした天狗の面である。

霊山寺の由来には「小野富人が672年に右大臣を辞して登美山にすみ、鼻高仙人と呼ばれた」とあった。
しかし672年右大臣だったのは小野富人ではなく中臣金であった。
さらに中臣金が創建した佐久奈度神社には伊勢神宮より賜った鼻高面がある。

鼻高仙人と呼ばれた小野富人と中臣金は同一人物のように思われるのだが、どうだろうか。

小野富人=中臣金だとすれば、いくつかの矛盾点が生じる。
中臣金は672年に死亡しているが、小野富人はこの年より登美山に住むようになっている。
私は小野富人が登美山に住んだというのは、死んだ小野富人の霊が登美山に住んだということだと思う。
また薬湯を作ったのは小野富人ではない別の人物だろう。
そして、その薬湯は小野富人の御利益があって作られたという意味で、小野富人が作ったということにしたのだと思う。

嘘といえば嘘だが、嘘は信仰と言い換えることもできる。
今でも、たとえば家を建てたとして、実際に家を建てる資金を調達したのは自分自身であるにもかかわらず、「死んだ父のおかげで家を建てることができた」などと言うことがある。




[2014/05/19 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

平城天皇陵は5世紀の前方後円墳をリメイクしたものだった?(不退寺) 

不退寺 黄菖蒲2
不退寺 黄菖蒲
不退寺・・・奈良県奈良市法蓮東垣内町517
平城天皇陵(市庭古墳)・・・奈良市佐紀町塚本市庭

809年、平城天皇は病気を理由に弟の嵯峨天皇に譲位し、平安京を出て平城京に移り住んだ。
翌810年、健康を取り戻した平城上皇は藤原仲成・薬子兄妹らに担ぎ上げられて重祚(再び皇位につくこと)を企て、「都を平安京から平城京へ移す」と詔を出した。
このため平安京に住んでいた嵯峨天皇と対立し、平城上皇は挙兵のため東へ向かった。
しかし嵯峨天皇は先手を打って坂上田村麻呂を東に派遣しており、藤原仲成は処刑された。
藤原薬子は服毒自殺し、平城上皇は出家した。
これを『薬子の変』と言う。
不退寺は『薬子の変』で敗れた平城天皇が出家後に住んだ『萱の御所』があった場所だと伝わっている。

不退寺の西2kmほどのところに、市庭古墳があり平城天皇陵に比定されている。
市庭古墳は5世紀につくられた古墳だと考えられる。
一方、平城天皇は平安時代の人物なので、市庭古墳は平城天皇陵ではないとする説と、平城天皇陵は5世紀の古墳を流用して葬られたとする説がある。

1962-63年、市庭古墳の発掘調査を行ったところ、驚くべきことが判明した。
それまで市庭古墳は円墳だと考えられていたのだが、前方部が壊されていた跡が見つかったのである。
市庭古墳はもともとは前方後円墳だったのだ。
前方部は南向きで、平城京築造の障害になったため、前方部が取り壊されたものと考えられている。

しかし私は市庭古墳の前方部が壊されたのは、平城京築造の障害になったためではないと思う。

平安京は船岡山を起点として造営されている。
←平安京の北に船岡山公園とあるところが船岡山である。

これと同じく、平城京は市庭古墳の後円部を起点として造営されたのではないだろうか。
そして起点は後円部のみのほうがふさわしいということで、前方部は取り壊されたのではないか。
市庭古墳の後円部は平城京の真北に位置している。
 地図→☆ (左の+-のめもりを上から四番目くらいにあわせると、わかりやすいと思います。)
地図を見ると平城天皇陵の真南に平城宮跡、大極殿跡があるのがわかる。
市庭古墳(平城天皇陵)と平城京の位置関係は、平安京と船岡山の位置関係に似ている。

古墳を平城京建都の起点にするというのは異様なことのようにも思えるが、もともとの市庭古墳は平城京にとって重要な人物を葬った古墳だったのかもしれない。

さきほど、市庭古墳は平城天皇陵ではないとする説と、平城天皇は市庭古墳を流用して葬られたという説があるということを紹介したが、私は最初、古い古墳を流用して天皇陵とするなどとんでもない、と思っていた。
しかし調べていくうちに「平城天皇はもともとあった古墳を流用して葬られた可能性があるかもしれない」と考えるようになった。

市庭古墳が平城天皇陵に比定されたのは、江戸時代から明治にかけて天皇陵の治定が行われたときだろう。
なぜ市庭古墳は平城天皇陵に比定されたのだろうか。

明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、市庭古墳の近く(現在の佐紀幼稚園付近)には超昇寺という寺があった。
平城上皇の第三皇子・高岳親王が「薬子の変」ののち出家して眞如と称し、平城天皇が住んでいた楊梅の宮を寺にしたのが超昇寺であるという。
高岳親王は、中国から印度へ向かう途中、虎に襲われて亡くなったことで有名な人である。

超昇寺は平城天皇の揚梅宮跡にたつ寺だが、平城天皇陵は楊梅陵と記録にある。
揚梅陵とあるからには、揚梅宮の近くにあったのではないかと考えられ、揚梅宮跡にたつ超昇寺の近くにある市庭古墳が平城天皇陵であると治定されたのだろう。

高岳親王は何を目的として超昇寺を創建したのだろうか。
古より天皇陵を守護するための寺が建てられることがあった。
超昇寺は平城天皇陵の陵寺だったのではないだろうか。

日本では先祖の霊はその子孫が弔うべきだと考えられていた。
超昇寺を創建した高岳親王は平城天皇の第三皇子で、平城天皇を弔うのに最適の人物である。

薬子の変で敗れた平城天皇は謀反人であり、祟り神となる要素を持ち合わせていた。
昔の日本には「祟り神は祀り上げると守護神に転じる」という信仰があった。
そこで当時平安京に住んでいた皇族や貴族たちが、平城天皇を平城京の守護神とするため、市庭古墳に平城天皇を葬ったのかもしれない。

「天子南面す」といい、北はもっとも重要な方角だとされていた。
天皇という言葉は道教では北極星を神格化した神だとされている。
北極星は天の中心にあって全ての星は北極星を中心に回る。
北が重要な方角だとされたのは、この北極星の信仰から来るものだと思う。
この時代、都は平安京に移り、平城京は首都であったころの華やぎを失っていたことだろう。
平城天皇は古の奈良の都の天皇(北極星)というわけである。

不退寺は平城天皇の萱の御所のあった場所だと伝わるが、境内に傷だらけの石棺があるのが気になっている。
不退寺 石棺2
不退寺にある石棺
説明板には次のように記されていた。

「石棺
ウワナベ古墳南側の平塚古墳(現在24号線バイパス)から発掘されたもので、石材は砂岸の一種。
草刈の人がこれで釜を研いだ痕が沢山残っている。
長さは2.7mで舟型割竹くり貫き石棺ともいう。」

不退寺を出て関西本線の踏切をわたると国道24号線に出る。
平塚古墳はどうやらこのあたりにあったようだが、現存していない。

受付でもらったパンフレットには次のように記されていた。

「石棺(5世紀)
庫裏の庭にあって石材は春日 (砂岩の一種)で、心ない草刈の人がこれで釜を研いだと思われる痕が沢山残っている。
付近には古墳がたくさんあって、おそらくそこから運ばれたものであろうと言われている。」

釜を研いだあとがたくさんあることから、この石棺がしばらくの間、野に打ち捨てられていたことがわかる。
石棺は市庭古墳のもともとの被葬者のものなのではないか。
市庭古墳を平城天皇陵としたため、野に打ち捨てられていたのを、平城天皇と縁の深い不退寺に運ばれてきたものだったりしないだろうか。

私はそんなことを考えた。

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[2014/05/17 21:00] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

賽の河原の鬼(西院春日神社・高山寺) 

春日神社 藤
西院春日神社 藤

西院春日神社・・・京都市右京区西院春日町61
高山寺・・・京都市右京区西院高山寺町18 


823年、淳和天皇は異母兄・嵯峨天皇より譲位を受けて即位し、嵯峨天皇皇女の正子内親王を皇后とした。
ふたりの間には恒貞親王がうまれた。

833年、淳和天皇は嵯峨天皇の第二皇子、仁明天皇(淳和天皇皇后・正子内親王の弟)に譲位した。
仁明天皇の皇太子には淳和天皇の第二皇子・恒貞親王がたてられた。
淳和天皇は退位して淳和院という離宮に移り住んだ。
その際、淳和院の守護社として創建されたのが西院春日神社である。

840年、淳和上皇は崩御した。
その後、藤原良房が仁明天皇と妹の藤原順子との間にできた道康親王を皇太子につけたいと考えているとの噂が流れた。
伴健岑と橘逸勢は恒貞親王の身を案じ、恒貞親王を東国へ移す計画を立て、その計画を安保親王(51代平城天皇の皇子)に相談した。
しかし安保親王はこの計画にのらず、逆に伴健岑・橘逸勢の計画を橘嘉智子に密告した。
驚いた橘嘉智子は、これを藤原良房に伝えた。
この結果、伴健岑と橘逸勢は捕らえられて流罪となった。
恒貞親王は廃太子となり、出家した。
そして仁明天皇と藤原順子(藤原冬嗣の娘・藤原良房の同母姉)の間にできた道康親王(のちの文徳天皇)が立太子した。
これを承和の変(842年)という。

恒貞親王の母親・正子内親王は仁明天皇の同母姉で、仁明天皇とは同年の生まれである。
ここから仁明天皇と正子内親王は双子ではないかと言われている。
姉弟は承和の変によって、運命が真逆になってしまったのである。
正子内親王は自分の母・橘嘉智子を激しく恨んだという。

春日神社から徒歩5分くらいのところに高山寺があり、門前に「淳和院跡」と刻まれた石碑が建てられている。

高山寺 淳和院跡
高山寺

淳和上皇が崩御したのち、淳和院は皇后・正子内親王の御所となった。
874年に焼失した後、尼寺となり淳和院は西院とも呼ばれるようになった。
西院という地名はこれにちなむとされる。

その後、淳和院跡に高山寺が創建された。
創建年代は不明だが、本堂の子安地蔵は足利尊氏が近江堅田にあったものをこの地に移したと伝えられている。

現在西院は『さいいん』と読まれているが、江戸時代には『さい』と読まれていた。
そして西院は語呂合わせから『賽の河原』だと考えられた。
『賽の河原』とはあの世にあるという河原のことである。

賽の河原地蔵和讃という歌がある。

これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが 父恋し母恋し 
恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり 
かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め これにて回向の塔を組む
一重組んでは父のため 二重組んでは母のため 三重組んではふるさとの 兄弟我身と回向して
昼は独りで遊べども 日も入り相いのその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝らは何をする
娑婆に残りし父母は 追善供養の勤めなく ただ明け暮れの嘆きには 
酷や可哀や不憫やと 親の嘆きは汝らの 苦患を受くる種となる 
我を恨むる事なかれと くろがねの棒をのべ 積みたる塔を押し崩す 
その時能化の地蔵尊 ゆるぎ出てさせたまいつつ 
汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土はほど遠し 我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと
幼き者を御衣の もすその内にかき入れて 哀れみたまうぞ有難き 
いまだ歩まぬみどりごを 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御肌へに 
いだきかかえなでさすり 哀れみたまうぞ有難き 南無延命地蔵大菩薩


親より先に亡くなった子供は、親の供養のため、賽の河原で石を積んで塔を作ると考えられていた。
ところが鬼がやってきて石積みの塔を壊してしまう。
そこへお地蔵様がやってきて救ってくださるという内容の歌である。

淳和天皇は死後、自分が鬼にならないように火葬して散骨するように遺言したと伝わっている。
なぜ淳和天皇は自分が鬼になることを恐れたのだろうか。

淳和天皇の皇子・恒貞親王は承和の変で廃太子となり、淳和天皇の血をひく者がその後皇位につくことはなかった。
承和の変がおこったのは淳和天皇の死後であるが、淳和天皇は生前に藤原良房の陰謀を察していたのかもしれない。
そして藤原良房を恨む心から、自らが鬼になることを恐れ、散骨を遺言したのかもしれない。

淳和天皇の陵は小塩山の山頂のパラボラアンテナの隣にあるが、現在の淳和天皇陵は幕末から明治にかけて修造されたものである。
もともとは小石を積み重ねた「経塚原」「経塚」「清塚」があっただけだったという。
小石を積み上げた塔がある風景を想像すると、それはまるで賽の河原である。

賽の河原で子供たちが積み上げた塔を壊す鬼とは、淳和天皇のことなのではないだろうか。

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[2014/05/16 21:00] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

五位鷺伝説 (神泉苑) 

神泉苑 つつじ 
神泉苑 つつじ

神泉苑・・・京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町166

神泉苑には醍醐天皇と五位鷺にまつわる伝説が伝わっている。

醍醐天皇が神泉苑を訪れると、一羽の鷺がいた。
帝は召使に『鷺を捕らえよ』と命じたが鷺は逃げようとした。
召使が鷺に『帝の御意なるぞ』と言うと鷺はひれ伏し、そこで帝はこの鷺に『五位』の位を授けた。

伝説というものの多くは、歴史の真実を伝えるために比喩的な表現をもちいて伝えられたものではないかと私は考えている。
伝説は古の人々がしかけた謎々である、と言ってもいいのではないだろうか。

醍醐天皇の御代(在位/897年~930年)、藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣だった。
当時の官職や位は家の格によって最高位が定まっていた。
道真の右大臣という地位は菅原氏としては破格の昇進だった。


道真が権力を握ることを恐れた藤原時平は、醍醐天皇に次のように讒言した。
『道真は醍醐天皇を退位させ、斉世親王を皇位につけようとしている』と。
斉世親王とは醍醐天皇の異母弟で、道真の娘を妻としていた。
そのためだろう、醍醐天皇は時平の言うことを信じて道真を大宰府に流罪とした。
その数年後、道真は失意のうちに大宰府で死亡した。

その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次いだ。
また、道真左遷にかかわった人物が相次いで死亡した。
醍醐天皇の皇太子であった保明親王は21歳で早世した。
代わって孫の慶頼王を皇太子としたが、慶頼王は疱瘡を患ってわずか5歳で夭折した。
さらに旱魃対策会議を開いている真っ最中、清涼殿に落雷があった。
清涼殿は炎上し、多くの死傷者が出た。
醍醐天皇はこのショックでノイローゼとなって寝込み、3ヵ月後に崩御した。
これら一連の事件は道真の怨霊のしわざであると考えられた。

古事記に次のような記述がある。
アメノワカヒコが死んで葬儀を行ったが、河雁(かわかり)を供養の物持ちとし、鷺を掃持(ははきも)ちとし、翠鳥(そにどり)を料理を作る御食人(みけびと)とし、雀をウスを打つ碓女(うすめ)とし、雉(きざし)を導き嘆く哭女(なきめ)とした。

またササキという鳥があるが、これに御をつけるとミササギ(陵)となる。

以前、仁徳天皇陵に行ったことがあるが、あまりに大きすぎて地上から見たのではそれが前方後円墳であるとはとても認識できなかった。
空飛ぶ鳥の目線からなら、その形は容易に認識できるだろう。
古墳は鳥の目線を意識して作られていると思う。
ナスカの地上絵も同様だろう。

古の人々は死んだ人の魂は鳥となって天へ向かうと考えたのではないだろうか。

古の日本には怨霊信仰があった。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人の霊のことで、疫病や風水害は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていた。
怨霊が祟らないように慰霊したものを御霊といった。

平安時代の記録から、ここ神泉苑において御霊会(御霊を慰霊する会)が開かれたことがわかる。
神泉苑は死んだ人の霊が鳥となって現れる場所としてふさわしい。

五位鷺は道真の霊を表しているのではないだろうか。
道真は右大臣だったが、これは従二位に相当する地位である。
従二位は菅原氏の家の格には高すぎる。
それで、醍醐天皇は道真の霊である鷺に、家の格にふさわしい五位の位を与えた。

五位鷺伝説が伝えようとしているのは、そういうことなのではないだろうか。

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[2014/05/15 21:00] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

猪と陽炎の女神 (摩利支尊天堂) ※一部書き直しました。 

摩利支尊天 雪柳
摩利支尊天堂 雪柳

摩利支尊天堂・・・京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町146


不死王伝説① (久安寺)」・「不死王伝説② (久安寺)」の内容をまとめておこう。

a.近衛天皇は17歳で崩御しており不死王という名前にふさわしくない。
b.近衛天皇の死は崇徳の呪詛によるものだと考えられていた。
c.近衛天皇がおびえた鵺とは崇徳の生霊なのではないか。
d.鵺をしとめた猪早太は干支の戌亥(乾)のことであるとする説がある。
  猪=亥
  早=隼人=宮廷で犬の鳴き声をまねて警護していた=犬=戌
e.鵺は顔が猿である。猿=申、もしくは未申(坤)のことではないか。
f.八卦では乾は全陽、坤は全陰である。
g.陰陽道では陰が極まると陽に転じると考える。
h.祟り神を祀りあげれば守護神になるという信仰はこの陰陽道の考え方からくるのではないか。
i.陰=鵺、陽=猪早太で、猪早太とは鵺=崇徳の怨霊が陽に転じたものではないか。
j.池田には猪早太=猪に対する信仰があり、そこから落語「池田の猪買い」が創作されたのではないか。
 (実際にそういう信仰があったかどうかは未確認だが。)
k.宮崎県高千穂神社では鬼八の霊を鎮めるためにかつては16歳の乙女を人身御供としてささげていたが、現在では乙女のかわりに猪をお供えしている
l.鬼八と鵺はどちらも死体をばらばらにされていて、共通点がある。
m. 御霊・・・神の本質
  荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・鬼八・・・・・・・鵺
  和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・生娘=猪・・・猪早太

n.猪早太は女神なのか?




建仁寺塔頭の禅居庵境内に摩利支尊天堂があり、境内には狛犬ならぬ狛猪がおかれている。

摩利支尊天 猪
摩利支尊天堂 狛猪
なぜ摩利支尊天堂には狛猪が置かれているのか。
摩利支尊天堂はその名前からわかるように摩利支天を祀っているのだが、猪は摩利支天の神使いとされているためだ。
そのため摩利支天は猪に乗った姿で表されることが多い。
 ← こちらの写真では摩利支天は七頭の猪に乗っているが、摩利支尊天堂のご本尊も同様のお姿をしている。
摩利支天は本来は女神像としてあらわされていたが、のちに男神像としても表されるようになった。

これで「o.猪早太は女神なのか?」の謎がとける。
神はその現れ方で御霊・荒霊・和霊の3つにわけられる。
また荒霊は男神・和霊は女神であるとする説もある。
すると、荒霊である鵺が和霊に転じたものと考えられる猪早太は女神だということになってしまう。
しかし、もともとは女神像として表されていた摩利支天はいつのまにか男神像としても表されるようになった。
平家物語で鵺の話が記されたころ、摩利支天は男神であるとも考えられていたのではないだろうか。
それで摩利支天の化身として猪早太という名前の男神を創作したのだと思う。

摩利支天はは陽炎を神格化した神である。
陽炎は太陽の光だと考えてもいいだろう。
鬼八の人身御供とされた生娘や猪、猪早太は太陽の光を神格化したものだったのである。

とすると、その荒霊である鬼八や鵺は何を神格化した神なのだろうか。

私は鬼八や鵺は冬至の太陽を神格化した神ではないかと思う。

もう一度、、宮崎県・高千穂神社に伝わる鬼八伝説について見てみよう。

「蘭(あららぎ)の里の窟に住む鬼八は足がたいへん強く、昼間は辺り一帯を荒らしまわり、夜になると窟に隠れた。
鬼八には阿佐羅姫という美しい妻があった。
御毛沼命は阿佐羅姫が鬼八の妻であることを不憫に思い、鬼八を退治することにした。
鬼八は夜になると窟に隠れてしまうので、命は沈もうとしていた夕陽を呼び戻して鬼八をまちぶせ、そこへ現れた鬼八を剣で切って殺した。
命は鬼八の死体をばらばらにして、地中に埋めたが、鬼八は一夜のうちに蘇って、もとの姿に戻り、土地を荒らしまわった。
今度は田部重高という者が鬼八を殺し、頭を加尾羽(かおば)に、手足を尾羽子(おばね)に、また胴を祝部(ほうり)の地にそれぞれ分葬した。こうしてやっと鬼八は蘇生しなくなった。 
ところが、鬼八は死んだ後も地下で唸り声をあげ、霜を降らせて村人を困らせた。
村人は鬼八の祟りを恐れ、鬼八申霜宮という祠をたててその霊を祀り、また毎年16歳の生娘を人身御供としてさしだし、慰霊をした。
天正年間(1573-93年)に生娘のかわりに猪がささげられるようになり、猪掛祭(12月3日)と呼ばれている。
神前に猪をささげ、「鬼八眠らせ歌」を歌いながら笹を左右に振る「笹振り神楽」を舞う。
こうすることで鬼八は神となり、霜害を防ぐ「霜宮」に転生すると信仰されていた。」

赤文字で示した部分に注目してほしい。
鬼八は足がたいへん強く、昼間は辺り一帯を荒らしまわり、夜になると窟に隠れた。
昼に荒し、夜に隠れるというのは冬の太陽の性質である。
冬の太陽は勢いがなく霜をもたらして田畑を荒らし、夜になると沈む(隠れる)。

命は鬼八の死体をばらばらにして、地中に埋めたが、鬼八は一夜のうちに蘇って、もとの姿に戻り、土地を荒らしまわった。
太陽は地平線に没しても翌日になるとまた蘇って空に昇る。

鬼八は死んだ後も地下で唸り声をあげ、霜を降らせて村人を困らせた。
鬼八は太陽神ではあるが、夏の勢いのある太陽ではなく、冬の衰えた太陽だと考えられる。
そのため、霜を降らせるのだろう。

御霊・・・神の本質
荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・鬼八・・・・・・・鵺・・・・・・冬の太陽
和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・生娘=猪・・・猪早太・・・陽炎(太陽の光)


池田の久安寺に伝わる「不死王伝説」をもう一度見てみることにしよう。

「平安時代、鳥羽天皇の御世、賢実上人が久安寺において皇后の安産祈願を行い、その結果、皇后は懐妊して近衛天皇をお産みになられた。
そのためこの地は不死王村と呼ばれるようになり、不死王村が転じて伏尾になった。」

一夜のうちに蘇って、もとの姿に戻る鬼八は不死王という名前にぴったりである。

鬼八を退治した御毛沼命は初代神武天皇の兄である。
御毛沼命は神武と同じく日向に住んでいたのだが、神武東征に従った。
熊野へ向かっているとき暴風にあい、波頭を踏んで常世(あの世・死後の世界)に行ったと記紀には記述がある。
ところが宮崎の高千穂神社の伝説では御毛沼命は死んだのだと思う。
高千穂神社の伝説に伝わる御毛沼命は生きた人間ではなく、御霊だと思う。
御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことである。
御霊・荒霊・和霊という観念からみれば『神の本質』ということになる。

つまり御毛沼命は自分の荒霊である鬼八を、自分の和霊である16歳の生娘と抱き合わせることによって霜害を防ぐ霜宮になったということである。

御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御毛沼命・・・? ・・・・・・霜宮(霜害を防ぐ)
荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・鬼八・・・・・・・鵺・・・・・・冬の太陽
和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・生娘=猪・・・猪早太・・・陽炎(太陽の光)


御霊・・・神の本質
荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・鬼八・・・・・・・鵺・・・・・・?
和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・生娘=猪・・・猪早太・・・陽炎(太陽の光)

御毛沼命は近衛天皇とは異なる時代の人物である。
近衛天皇と同時代に、この御毛沼命とイメージが重ねられた人物がいたのではないか。

鬼八は人々に祟ったが、崇徳の死後、延暦寺の強訴、安元の大化、鹿ヶ谷の陰謀などがおこった。
また建春門院・高松院・六条院・九条院らが相次いで死去し、これらは崇徳の怨霊の仕業であると考えられた。

御毛沼命のイメージと重ねられたのは崇徳天皇だろう。
そして鵺は崇徳天皇の荒霊、猪早太は崇徳天皇の和霊である。
つまり崇徳天皇の和霊である猪早太が、崇徳天皇の荒霊である鵺をしとめたという話だと私は思う。
位の高い人が没落していく様子を、古の人々は冬の太陽に喩えたのだろう。

御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御毛沼命・・・崇徳天皇 ・・・・・・霜宮(霜害を防ぐ)
荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・鬼八・・・・・・・鵺・・・・・・・・・・・・冬の太陽
和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・生娘=猪・・・猪早太・・・・・・・・陽炎(太陽の光)


落語「池田の猪買い」では「猪は冷え気(淋病のこと)にきく」と言っている。
それは猪が荒霊「冬の太陽」を陽に転じさせた和霊の「陽炎」「太陽の光」であるめではないだろうか。
冬の太陽は勢いがなく空気が冷える。

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[2014/05/15 10:36] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

不死王伝説② (久安寺) ※一部書き直しました。 

文字色
久安寺 かきつばた
久安寺 かきつばた

久安寺・・・大阪府池田市伏尾町697


ちょっと長くなるが、前回のおさらいをしておこう。

私は前回 「不死王伝説① (久安寺)」、次の3つの話を紹介した。

①久安寺に伝わる伝説
「平安時代、鳥羽天皇の御世、賢実上人が久安寺において皇后の安産祈願を行い、その結果、皇后は懐妊して近衛天皇をお産みになられた。
そのためこの地は不死王村と呼ばれるようになり、不死王村が転じて伏尾になった。」

②妖・怪鵺
「近衛天皇が毎晩何かに怯えるようになり、源頼政が警護にあたった。
深夜、頼政が御所の庭を警護していたところ、艮(うしとら)の方角(=北東の方角)よりもくもくと黒雲が湧き上がり、その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という鵺と呼ばれる怪物が現れた。
頼政は弓で鵺を射、郎党・猪早太(いのはやた)が太刀で仕留めた。
その後、頼政は仕留めた鵺の体をバラバラに切り刻み、それぞれ笹の小船に乗せて海に流した。」

③落語『池田の猪買い』
「冷え気(淋病のこと)に悩む男が『冷え気には猪(しし)肉が効く』と聞き、池田の狩人の元を訪ね、『新しい肉が欲しいので射ちに行ってほしい』と頼んだ。
狩人は男を連れて山にいき、猪を討った。
男は狩人が打った猪を『あの猪は新しいか』と聞いた。
狩人が猪を鉄砲の台尻でたたくと、猪は鉄砲の音で目を廻していただけだったので、目を覚まして逃げていった。
その様を見て狩人は『どうじゃ。あの通り新しい。』と言った 。 」

そして次のようなことを述べた。
a.近衛天皇は17歳で崩御しており不死王という名前にふさわしくない。
b.近衛天皇の死は崇徳の呪詛によるものだと考えられていた。
c.近衛天皇がおびえた鵺とは崇徳の生霊なのではないか。
d.鵺をしとめた猪早太は干支の戌亥(乾)のことであるとする説がある。
  猪=亥
  早=隼人=宮廷で犬の鳴き声をまねて警護していた=犬=戌
e.鵺は顔が猿である。猿=申、もしくは未申(坤)のことではないか。
f.八卦では乾は全陽、坤は全陰である。
g.陰陽道では陰が極まると陽に転じると考える。
h.祟り神を祀りあげれば守護神になるという信仰はこの陰陽道の考え方からくるのではないか。
i.陰=鵺、陽=猪早太で、猪早太とは鵺=崇徳の怨霊が陽に転じたものではないか。
j.池田には猪早太=猪に対する信仰があり、そこから落語「池田の猪買い」が創作されたのではないか。
 (実際にそういう信仰があったかどうかは未確認だが。)




猪に対する信仰といえば、宮崎県・高千穂神社に伝わる「鬼八伝説」を思い出す。

「蘭(あららぎ)の里の窟に住む鬼八は足がたいへん強く、昼間は辺り一帯を荒らしまわり、夜になると窟に隠れた。
鬼八には阿佐羅姫という美しい妻があった。
御毛沼命は阿佐羅姫が鬼八の妻であることを不憫に思い、鬼八を退治することにした。
鬼八は夜になると窟に隠れてしまうので、命は沈もうとしていた夕陽を呼び戻して鬼八をまちぶせ、そこへ現れた鬼八を剣で切って殺した。
命は鬼八の死体をばらばらにして、地中に埋めたが、鬼八は一夜のうちに蘇って、もとの姿に戻り、土地を荒らしまわった。
今度は田部重高という者が鬼八を殺し、頭を加尾羽(かおば)に、手足を尾羽子(おばね)に、また胴を祝部(ほうり)の地にそれぞれ分葬した。こうしてやっと鬼八は蘇生しなくなった。 
ところが、鬼八は死んだ後も地下で唸り声をあげ、霜を降らせて村人を困らせた
村人は鬼八の祟りを恐れ、鬼八申霜宮という祠をたててその霊を祀り、また毎年16歳の生娘を人身御供としてさしだし、慰霊をした。
天正年間(1573-93年)に生娘のかわりに猪がささげられるようになり、猪掛祭(12月3日)と呼ばれている。
神前に猪をささげ、『鬼八眠らせ歌』を歌いながら笹を左右に振る『笹振り神楽』を舞う。
こうすることで鬼八は神となり、霜害を防ぐ霜宮に転生すると信仰されていた。」

この伝説では鬼八は死体をばらばらにされているが、妖怪・鵺の伝説でも鵺は死体をばらばらにされている。
鬼八と鵺には共通点がある。

さて、神はその表れ方で、御霊・荒霊・和霊の3つにわけられるという。

御霊・・・神の本質
荒霊・・・神の荒々しい側面
和霊・・・神の和やかな側面


前回、祟り神について説明したが、荒霊とは祟り神=陰であり、これを祀り上げることで守護神に転じさせたものが和霊=陽(守護神)だということだろう。
これは陰が極まれば陽に転じるとする陰陽道の考え方よりくるものだと思う。

御霊・・・神の本質
荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)
和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)


そして男神は荒霊を、女神は和霊を表すとする説がある。

御霊・・・神の本質
荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・男神
和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)御霊・・・神の本質・・・・女神


※本来は男が陽で女が陰となるはずである。
しかし祟り神とは鬼のことであるとも考えられ、鬼という言葉は陰からくるとされる。
よって荒霊=祟り神は陰と考えざるをえない。
陽=太陽、月=陰であるが日本では太陽神は女神となって逆になっている。
陰陽の逆転はこのことと関係があるのかもしれない。

鬼八申霜宮では生娘を人身御供としていたという。
鬼八は荒霊、生娘は和霊ということだろう。
そして生娘のかわりに供えられるようになったという猪もまた和霊だと思う。

御霊・・・神の本質
荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・鬼八・・・・・・・鵺
和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・生娘=猪・・・猪早太


鵺伝説においては、鵺が荒霊で、猪早太が和霊だろう。
ということは猪早太は女神なのか?

猪と陽炎の女神 (摩利支尊天堂) 」 へつづく

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[2014/05/14 10:39] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

不死王伝説① (久安寺) 

久安寺 
久安寺 つつじ

久安寺・・・大阪府池田市伏尾町697

久安寺には次のような伝説が伝わっている。

「平安時代、鳥羽天皇の御世、賢実上人が久安寺において皇后の安産祈願を行い、その結果、皇后は懐妊して近衛天皇をお産みになられた。
そのためこの地は不死王村と呼ばれるようになり、不死王村が転じて伏尾になった。」

この伝説に登場する近衛天皇は17歳で崩御されている。
それなのに、なぜ不死王村なのか?

平家物語に近衛天皇が鵺に怯えたという話が記されている。

「近衛天皇が毎晩何かに怯えるようになり、源頼政が警護にあたった。
深夜、頼政が御所の庭を警護していたところ、艮(うしとら)の方角(=北東の方角)よりもくもくと黒雲が湧き上がり、その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という鵺と呼ばれる怪物が現れた。
頼政は弓で鵺を射、郎党・猪早太(いのはやた)が太刀で仕留めた。
その後、頼政は仕留めた鵺の体をバラバラに切り刻み、それぞれ笹の小船に乗せて海に流した。」

私は鵺とは近衛の異母兄・崇徳の生霊ではないかと思う。
というのは、近衛の崩御は、前帝・崇徳が呪詛したためだという噂が流布していたためである。
崇徳の呪詛を妖怪の形にしたものが鵺である、といってもいいかもしれない。

崇徳と近衛はともに鳥羽天皇の皇子とされている。
しかし『古事談』には、崇徳の本当の父親は鳥羽ではなく鳥羽の祖父・白河であると記されている。
白河は養女としていた藤原璋子を鳥羽に与えたのだが、このとき璋子は白河の子である崇徳を身籠っていたというのである。
鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで嫌っていたという。
「叔父子」とは、叔父にして子、という意味である。

崇徳は1123年に4歳で即位したが、1141年、鳥羽に退位を迫られて異母弟の近衛に譲位した。
近衛は崇徳の養子として即位するはずだったのだが、譲位の宣命には「皇太弟」となっていた。
近衛が皇太弟であると崇徳は院政が行うことができない。
崇徳が近衛を呪詛したというのが本当なのかどうかはわからないが、崇徳が不満をつのらせていたことは確かだろう。

近衛が崩御したのち、崇徳の第一皇子・重仁親王が次期天皇として有力視されていたが、崇徳を嫌う鳥羽は後白河(崇徳の同母弟)を天皇とした。
1156年、崇徳は保元の乱を起こして後白河と争った。
後白河側が勝利して、崇徳は讃岐へ流罪となった。
崇徳が流刑地の讃岐で没したあと、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ヶ谷の陰謀などがおこった。
また建春門院・高松院・六条院・九条院らが相次いで死去し、これらは崇徳の怨霊の仕業であると考えられた。

鵺伝説に戻ろう。
この伝説の中で鵺を太刀でしとめた郎党の名前が猪早太とあるところに注目してほしい。

古代、九州に住んでいた民のことを隼人といった。
奈良時代、隼人たちは畿内に強制移住させられ、宮廷の警備の仕事をさせられていた。
隼人たちは犬の鳴き声をまねて警護を行っていたという。
ここから、早は隼人=犬=干支の戌、また猪は干支の亥を表し、猪早太とは干支の戌亥(いぬい/乾)を表すとする説がある。

乾は八卦では天、健、父、首などを表す。(参照→
 ←こちらのサイトでは「陽気が充実した全陽の塊が乾です。」と説明がある。

一方鵺は頭が猿とあるが、これは干支の申または羊申(ひつじさる/坤)を意味しているのかもしれない。
坤は八卦では地、順、母、原などを表す。(参照→
 ←こちらのサイトでは「全陰の相をもつ坤は、全陽の相をもつ乾とは正反対です。」と説明されている。

陰陽道では陰が極まると陽に転じると考えるそうだ。

またウィキペディアの「祟り神」の項目には次のように記されている。
「祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。」
 より引用

この「荒御霊は手厚く祀ると守護神になる」とする考え方は陰陽道の「陰が極まると陽に転じる」という考え方からくるものだろう。

ということは、猪早太(戌亥=乾)とは、鵺(未申=坤)が陽に転じたものなのではないだろうか。
鵺=崇徳の生霊と考えれば、崇徳の陰の気が、陽に転じたものが猪早太だということになる。

そして、池田を舞台にした落語に「池田の猪買い」がある。

「冷え気(淋病のこと)に悩む男が『冷え気には猪(しし)肉が効く』と聞き、池田の狩人の元を訪ね、『新しい肉が欲しいので射ちに行ってほしい』と頼んだ。
狩人は男を連れて山にいき、猪を討った。
男は狩人が打った猪を『あの猪は新しいか』とお聞いた。
狩人が猪を鉄砲の台尻でたたくと、猪は鉄砲の音で目を廻していただけだったので、目を覚まして逃げていった。
その様を見て狩人は『どうじゃ。あの通り新しい。』と言った 。」

私は池田には猪に対する信仰があったのではないかと考える。
猪とは、崇徳(鵺=未申=坤)の陰の気が、陽に転じた猪早太(戌亥=乾)に対する信仰である。
このような信仰があったところから、「池田の猪買い」という落語が作られたのではないかと思う。
ただし、実際に池田にそのような信仰があったかどうかは未確認である。 (汗~)

つづきはこちら→ 不死王伝説② (久安寺)


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[2014/05/13 15:40] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

隻眼のみほとけ・阿修羅 (興福寺) 

興福寺 
興福寺 夕景

興福寺/奈良県奈良市登大路町48


興福寺の国宝館に有名な八部衆の像が安置されている。

興福寺の八部衆のうち、5体には動物のイメージがある。(写真はこちら→

五部浄像(ごぶじょうぞう)は像の冠をかぶっている。
沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いている。
乾闥婆像(けんだつばぞう)は獅子の冠をかぶっている。
迦楼羅像(かるらぞう)は頭が鳥で体が人間である。
畢婆迦羅像(ひばからぞう)はニシキヘビを神格化した神である。
緊那羅像(きんならぞう)は一本の角と三つの目を持っている。角が生えているのは動物だといえるかもしれない。
鳩槃荼像(くばんだぞう)は夜叉であり、特別、動物のイメージはないように思われる。

興福寺の八部衆の中でもっとも有名な阿修羅には動物のイメージはあるだろうか。
私は阿修羅の細長い、筋肉のついていない腕は昆虫的だと思う。(写真はこちら→
蜘蛛に似ていると思うがどうだろうか。(蜘蛛の写真→

現在の阿修羅は合掌しているが、もともとは合掌していなかったという。
阿修羅の合掌する腕の肘から下を下にむければますます蜘蛛に似ている。
蜘蛛の脚は8本で、阿修羅の腕は6本で2本足りないが、脚をたすと蜘蛛と同じ8本になる。

また阿修羅像の左目は、いったん白でキャッチライトを入れたあと、墨で塗りつぶされている。
(写真はこちら→

古事記・日本書紀・風土記などでは、朝廷にまつろわぬ民のことを土蜘蛛と呼んでいる。
身体的特徴として『背が低くて手足が長い』と記されている。
阿修羅像の像高は台座の部分を含めて153.4cmと小柄で、脚の長さはそうでもないが、腕が長いことは確かである。

阿修羅をはじめとする八部衆像はもともとは西金堂に安置されていた。
西金堂は734年に光明皇后が亡母・橘三千代のために建立したものだが、現存していない。

西金堂が建立された734年、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた阿部内親王は16歳であり、阿修羅像は阿部内親王16歳の姿をうつした像ではないか、という説がある。

阿部内親王は女性として初めて皇太子に立てられた人物で、749年に即位して孝謙天皇となった。
758年には淳仁天皇に譲位したが、764年に重祚(再び天皇になること)し、称徳天皇となっている。

淳仁天皇から皇位を取り上げると宣言して重祚したり、藤原仲麻呂の乱を平定したりとなかなかの女傑だったようである。

『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、称徳天皇は蝦夷の安倍一族の出身であると記されている。

当時、日本の東国には蝦夷と呼ばれるまつろわぬ民が住んでおり、朝廷はたびたび蝦夷征伐の軍を送っていたが、あるとき、朝廷軍は蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたと
東日流外三郡誌には記されている。

安倍は阿部と記されることもあり、阿部内親王という名前が気になってくる。


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[2014/05/12 21:12] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)