※昔、ネガで撮影したものを安物のスキャナーで読み取ったものなので画質が悪くてすいません(汗)。 もうちょっとましなスキャナーを買おうかと検討中です。 おすすめなどありましたら教えてください! ●江文神社の八朔祭 すっかり日が暮れたころ、氏子さんたちが列をつくり、町名を書いた高張提灯(たかはりちょうちん)を掲げは伊勢音頭を歌いながら石段をあがってきた。 その後、氏子さんたちは輪をつくり、古風な踊を踊り始めた。 この踊は八朔踊といわれ、毎年9月1日に行われている。 地域の氏神の祭祀に携わる村落内の組織のことを宮座というが、八朔踊は宮座行事のひとつである。 江文神社の宮座には長男は15歳、次男以下は17歳で加入するのがしきたりで、八朔踊は主にそういった若い青年たちによって踊られる。 曲は道念音頭といって楽器を用いない独特のものである。 江文神社では倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)を祀っている。。 『ウカ』は穀物・食物を意味し、ウガノミタマは穀物神とされている。 そして八朔とは旧暦の8月1日のことで、早稲の穂が実るころである。 初穂=田の実ということで、『田の実の節句』ともいわれていた。 江文神社で八朔祭が行われるようになったのは、穀物神である倉稲魂命を祀っていためかもしれない。 ●江文神社ではなぜ伊勢音頭を歌うのか。 氏子さんたちは伊勢音頭を歌いながら階段を登ってきたが、なぜ伊勢音頭を歌うのだろうか。 伊勢音頭は『荷物にならない伊勢土産』といわれ、伊勢参りをした人々や伊勢御師(特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をした人のこと。)によって全国的に広まったとされる。 また江文神社の御祭神・ウガノミタマは天照大神と関係の深い神である。 伊勢神宮外宮の社伝によれば雄略天皇の夢枕に天照大神が現れて次のように言ったという。 『一人では安らかに食事がにできないので、丹波国にいる御饌の神・等由気大神(豊受大神)を呼び寄せるように。』と。 そして二見興玉神社ではウガノミタマは伊勢神宮外宮の豊受大神の別名であるとしている。 二見興玉神社の伝が正しければ、ウガノミタマと豊受大神は同一神であり、天照大神が伊勢に呼び寄せたのは、ウガノミタマだったということになる。 さらに『古事記』によれば、ウガノミタマはスサノオと神大市姫命(オオヤマツミの娘)との間に生まれたとある。 海部氏系図にこの神大市姫の名前が記されているが、それによれば、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫・、日女命(ひめのみこと)の別名である。 つまり、日女命と神大市姫は同一神と考えられる。 さらに日女命とは天照大神のことだと考えられるので、神大市姫命の子であるウガノミタマは天照大神の子だということになる。 神が子を生むというのは神が分身をつくるということだ、とする説がある。 とすればウガノミタマは天照大神の分身である。 昔の人はそういうことがわかっていて、それで江文神社の氏子さんたちは祭に伊勢音頭をとりいれたのかもしれない。 ●天照大神は男女双体の神? 私は天照大神とはサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神で、仏教の神・歓喜天と習合されていると思う。 歓喜天は大抵秘仏とされていてめったにお目にかかる機会がないが、像の頭を持った二体の仏が抱き合う姿で表現されることが多い。 歓喜天には次のような説話がある。 国中に不幸なできごとが蔓延し、それらは鬼王ビナヤキャの祟りであるとされた。 そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。 ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。 女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。 双身歓喜天像の相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音菩薩の化身ビナヤキャ女紳とされる。 (参照→ ☆) そして道祖神は猿田彦神と天鈿女の男女双体の神とされており、次のような神話がある。 天孫ニニギの葦原中国降臨の際、天上の道が八衢に分かれている場所に立ち、高天原から葦原中国までを照らす神があった。 天鈿女が名を尋ねると 『私は国津神で猿田彦神と申します。ニニギを葦原中国まで道案内しようと思い参りました』 と答えた。 こうしてニニギは猿田彦神に道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下った。 その後、ニニギは天鈿女に 『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り届け、猿田彦神の名前を伝えて仕え祭れ』 と命じた。 ここから天鈿女は猿女君と呼ばれるようになった。 のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死んだ。(古事記) 猿田彦神は高天原から葦原中国までを照らす神であったと記されているが、これにぴったりな神名を持つ神がある。 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)、ニギハヤヒである。 初代神武天皇は日向に住んでいたのだが、あまりに国の端だということで、東征をめざす。 その際、塩土の翁が『東にはニギハヤヒが天の磐船を操って既に天下っている』と発言している。 ここから、初代神武以前に物部王朝があったという説がある。 そして、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊が本当の天照大神ではないか、という説がある。 ニギハヤヒとナガスネヒコの妹・トミヤスヒメの間にできたウマシマジノミコトは物部氏の祖神とされている。 ここから、初代神武以前に物部王朝があったという説もある。 ニニギは猿田彦神に道案内されて葦原中国へ天下ったのち、天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り、彼の名前を伝えて仕え祭れ』と命じている。 『彼の名前を伝えて仕え祭れ』というのは、ニニギは天鈿女に『猿田彦と結婚せよ』と命じたということだろう。 次にニニギは天鈿女に『猿田彦神に仕え祭れ』と命じているが、『仕える』というのは『性的に奉仕する』ということだと思う。 天鈿女は天照大神が天岩戸に隠れたときにはストリップをして神々を笑わせた。 また猿田彦神に出会ったときにも胸を開き、帯をずらして誘惑するような行動を取っている。 天鈿女は性の女神なのである。 そして『祭る』というのは言うまでもなく『神として崇める』という意味だが、かつて神と怨霊は同義語であった。 というのは、陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に祀ればご利益を与えてくださる神に転じると考えられていたからである。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の祟りだと考えられていた。 そこで怨霊を神として祭り、祟りを鎮めるだけでなく、新たなご利益までも神に祈ったのである。 なんとも自分勝手な考え方ではある。 つまり「猿田彦は怨霊で祟る神であったため、神として祭りあげることでご利益を与えてくださる神にせよ」とニニギはアメノウズメに命じたということだろう。 猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死んでいる。 比良夫貝とはシャコ貝のことであるとか、月日貝のことであると言われている。 女性器のことを鮑に喩えることがあるが、シャコ貝は二枚貝なのでぴったり割れ目が塞がっている。 猿田彦神はシャコ貝のような女性器に手を挟まれて抜けなくなり、愛欲に溺れて死んだのだろう。 道祖神は猿田彦神と天鈿女が手を繋ぎ合う姿で表されることが多い。 しかし道祖神は手を繋ぎあっているのではなく、天鈿女によって猿田彦神の手がおさえつけられ、身動きできなくなった状態を表しているのではないだろうか。 歓喜天はビナヤキャがビナヤキャ女神に足をふみつけられているが、道祖神は足のかわりに手がおさえつけられているというわけである。 記紀には天照大神は女神であると明記されている。 しかし、天照大神は男神であるという伝承は各地に伝わっている。 私は天照大神とは男女双体の神だと思う。 それゆえ、天照大神はスサノオの姉として登場したり、ストリップに興味を持つ男性として登場したりするのだろう。 ということは、天照大神は天皇家の祖神とされるが、本当は物部氏の祖神だということになる。 天皇家が天照大神の子孫だと名乗っているのは、本当は男女双体の神である天照大神を女神として細工をしたためだと思う。 初代神武天皇は大物主神の娘のヒメタタライスズヒメを皇后としているが、大物主神は正式名称を倭大物主 櫛甕 魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)という。 そして天照國照彦天火明 櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒと櫛・魂(玉)が同じなので、二神は同一神ではないかともいわれている。 ニギハヤヒは物部氏の祖である。 神武は物部王朝に婿入りすることで政権を乗っ取り、ヒメタタライスズヒメを天照大神としたのだろう。 ヒメタタライスズヒメを天照大神とするということは、天照大神を女神にしたてあげたということである。 すると、神武の子孫は天照大神の子孫を称しても間違いではないということになる。 ●大原雑魚寝 かつて江文神社には節分の夜に雑魚寝する習慣があり、て大原雑魚寝と呼ばれていた。 むかし井出(かつて江文神社のあたりの地名を井出といった)の大淵に大蛇が人を食べるので、村中の男女は節分の日に江文神社の拝殿に参籠した。 そして、この夜にどのような情事があっても見逃したという。 この習慣は明治以前に禁止になった。 さて、なぜ江文神社では節分の日に雑魚寝する習慣があったのだろうか。 私はこのフリーセックスの習慣は一種の神事であり、先に述べた猿田彦とアメノウズメの説話に基づくものだと思う。 神はその表れ方によって、御霊・和霊・荒霊の3つに分けられるという。 そして男神は荒霊、女神は和霊をあらわすとする説がある。 御霊・・・・・神の本質・・・・・・・・・男女双神 和霊・・・・・神の和やかな側面・・・・・女神 荒霊・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神 歓喜天や猿田彦&アメノウズメの説話はこれをうまく言い表していると思う。 節分の日には鬼が出ると考えられていた。 鬼とは荒霊である。 そのため、男女和合によって荒霊を御霊とする呪術が、大原雑魚寝ではないだろうか。 またかつて真言立川流という仏教の宗派があったが、立川流では髑髏本尊をつくってその前で美女と性交をするという修法が行われていた。 江戸時代に邪教として迫害されて現在立川流は消滅したとされているが、かつてはたいへん流行った宗派であったという。 美女と性交をするというのは異様な修法のようにも思えるが、御霊・和霊・荒霊という陰陽道的な考え方に基づくものだと考えると、なるほどと納得がいくのではないだろうか。 そして立川流では髑髏本尊を7年間抱いて寝ると、8年目に髑髏は命を持って話し出すと考えていたそうである。 梅原猛さんによれば数字の8は復活を意味する数字ではないかという。 八角堂や八角墳は死者の復活を願って作られたものではないかというのである。 節分は暦法・二十四節気における元旦であった。 この日、雑魚寝することによって男女和合させた鬼は、八朔(8月1日)に神として復活し、その神のご利益で稲が実ることを祝うのが、江文神社の八朔祭なのではないだろうか。 江文神社・・・京都市左京区大原野村町643 八朔踊・・・9月4日 19時ごろより(確認をお願いします。)
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[2014/09/02 20:00]
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●六道の辻 古より西福寺・六波羅蜜寺・六道珍皇寺があるあたりの辻は『六道の辻』と呼ばれて畏れられていた。 六道とは仏教において生きとし生けるものが死後永遠に輪廻すると考えられた6つの世界、すなわち地獄道・餓鬼道・鬼畜道・修羅道・人間道・天上道のことである。 かつてこのあたりは鳥辺野の葬送地の入り口に当たり、六道にちなむ6つの寺院-六道珍皇寺・西福寺(地蔵堂)・六波羅蜜寺・愛宕念仏寺・姥堂・閻魔堂-があった。 (愛宕念仏寺・姥堂・閻魔堂は現存していない。 これらの寺では死者に引導を引き渡す役割を担っていた。 ●六波羅蜜寺と平清盛 六波羅蜜寺のあるあたりはかつて六波羅と呼ばれていた。 六波羅は髑髏原からくるという説もある。 かつてこのあたりには髑髏がごろごろ転がっていたため、髑髏原と呼ばれていた、というのである。 しかしこのような恐ろしい場所、六波羅に邸宅を構えた人物があった。 平清盛である。 六波羅蜜寺は現在は小さな寺であるが、平安後期には広大な敷地を持っていた。 六波羅蜜寺境域内に平家一門の邸館が建てられ、その数は5200以上もあったといわれている。しかし1183年、平家没落の時、平家は自ら火をつけ、一面焼け野原となった。 ただ本堂だけが焼失を逃れたという。 六波羅蜜寺の宝物館には眼光鋭い僧形の平清盛像が安置されている。 ●迎鐘 六波羅蜜寺を出て六道珍皇寺へ向かうとひっきりなしに籠った鐘の音が聞こえてくる。 京都ではお盆に六道珍皇寺の鐘をついてお精霊さん(おしょらいさん/先祖の霊のこと)を迎える習慣があるのだ。 六道珍皇寺の鐘楼は四方を壁で囲んであり、壁に開けられた穴から出た綱をひっぱると鐘が鳴る仕組みになっている。 壁の中に鐘があるので籠もった音がする。 この鐘の音は十万億土の冥途にまで響くと言われている。 ●祇園精舎の鐘はどんな音? 平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」という有名な七五調の文章で始まる。 この文章を初めて読んだのは小学校の国語の授業だったが、私は祇園精舎とは京都祇園にある寺のことなのかな、と思った。 ところが先生は祇園精舎とはインドにある寺だとおっしゃった。 まだうぶだった私は「へえー」なんぞと思ったものである。 しかし平家没落の無常について語るのに、誰も聞いたことがないインドの鐘の事を書いたりするものだろうか。 平家物語の著者は一級の文学者であると同時に、一級のジャーナリストでもあった。 フィクションを加えた部分もあるだろうが、千人以上に及ぶといわれる登場人物のほとんどが実在の人物である。 平家物語を書くためには、相当調査や取材を行ったにちがいない。 作者は取材のために、六波羅へもやってきたことだろう。 六波羅を訪れた作者が目にしたのは、5200もあった平家の館が焼け落ちて草がぼうぼうと繁る風景で、作者は諸行無常の思いにかられたことだろう。 作者が六波羅を訪れたのがお盆の時期であったとしたら、六道珍皇寺の迎鐘の音を聞いたはずだ。 もしかして、祇園精舎の鐘の声とは六道珍皇寺の迎鐘のことではないだろうか? 祇園精舎の鐘の声は諸行無常の響きがあるというが、お精霊さんを迎える迎鐘は「すべての人は必ず死ぬ」ということをいやがおうにも知らしめる鐘ではないか。 ●祇園寺 六道の辻から東大路通に出て北へ500メートルほどいくと八坂神社がある。 八坂神社はもともとは観慶寺という寺で、別名を祇園寺といった。 祇園精舎とはこの祗園寺のことなのではないだろうか。 六道珍皇寺は鎌倉時代までは東寺に属していたが、室町時代に建仁寺の聞渓良聡が入寺したことによって臨済宗の寺となっている。 このように、寺が近隣の大寺の影響を受けることはままあったようだ。 すると六道珍皇寺が近隣にあった観慶寺の影響を受けたという可能性も考えられるのではないだろうか。 ●耳無し芳一 『耳無し芳一』という怪談がある。 阿弥陀寺に芳一という盲目の琵琶法師が住んでいた。 芳一はひとりの武士に頼まれて、夜な夜な貴人の屋敷にいって「壇ノ浦の戦い」の下りを弾き語るようになった。 不審に思った和尚が寺男たちに芳一の後を付けさせた。 すると芳一は平家一門の墓地の中で無数の鬼火に囲まれて琵琶を弾き語っていた。 和尚は平家の怨霊に芳一が殺されてしまってはいけないと、芳一の全身に般若心経を書いた。 体にお経が書いておくと、怨霊には体が見えないのである。 しかし、和尚は芳一の耳にだけお経を書くのを忘れた。 そのため、平家の怨霊は芳一の耳だけとって去っていった。 平家物語は芳一のような盲目の琵琶法師によって弾き語られた。 琵琶法師は琵琶をひきつつ、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と語り始める。 祇園精舎の鐘を六道珍皇寺の迎鐘のことだとすると、迎鐘とはお精霊さん(死者の霊)をこの世に蘇らせる鐘なので、琵琶法師は迎鐘のことを語ることで、平家の亡霊を呼び寄せると考えられたのではないだろうか。 耳無し芳一の怪談はこのような発想から創作されたものではないだろうか。 ※六道珍皇寺・・・京都市東山区東大路通松原西入ル小松町 ※六波羅蜜寺・・・京都市東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町
※六道参り・・・8月7日~10日 ※ 六道珍皇寺・六道まいり・・・8月7日~8月10日、午前午前6時~午後11時 ※ 六波羅蜜寺・万灯会・・・8月8日~8月10日 午後8時~ 8月16日 午後8時~
[2014/08/11 20:00]
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●祇園祭と壬生 都大路を祇園祭の山鉾が巡幸していく。 長刀鉾、月鉾などの巨大な山鉾に混じり、美しい2基の傘鉾の姿が見える。 綾傘鉾である。 傘鉾の前にはかわいらしい御稚児さんたちのほか、面をつけて太鼓をたたく人が二人、バトントワラーのように棒を振る人が一人いる。 棒を振るのは道を清めるためとされる。 壬生寺で行われている中堂寺六斎念仏の『祇園囃子』の演目において、この棒振りと同じパフォーマンスを見たことがある。 着物の柄や色は違うがデザインはほぼ同じである。 また白いマスクに赤熊のヘアースタイルは全く同じである。 壬生寺では壬生六斎念仏も行われているが、壬生六斎においても『祇園囃子』の中で同様の棒振りが行われている。 (詳しくはこちら → ☆) 実は祇園祭の綾傘鉾棒振り囃子は壬生六斎念仏保存会の人たちによって演じられているのだ。 壬生六斎念仏会の人々が綾傘の棒振り囃子を演じるようになったのは18世紀中頃以降だと言われているが、17世紀に描かれた「洛中洛外図屏風」の中に綾傘鉾と棒振りをする人、面を被って太鼓をたたく人の絵が記されている。 祇園祭は八坂神社の祭礼だが、壬生寺近くにある「元祗園梛神社」の社伝には次のようにある。 「869年、京で疫病が流行したとき、牛頭天王(素戔嗚尊)の神霊を播磨国広峰(現在の兵庫県姫路市)から椥神社勧請して鎮疫祭を行った。 この時、その神輿を梛の林中に置いて祀ったことが、椥神社の始まりである。 この地から八坂に遷祀したとき、この地の住人が風流傘を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を八坂に送ったのが祇園祭の起源である。 」 八坂神社は牛頭天皇の総本社を称しているが、本当の総本社は兵庫県姫路市にある広峰神社だという説がある。 梛神社の社伝にもあるように、869年、京で疫病が流行したとき、藤原基経が広峰神社の牛頭天皇を勧請したという記録があるのだ。 また、遷宮する途中で、神戸の祇園神社・大阪の難波八坂神社、京都の岡崎神社などで休憩したと伝えられている。 梛神社もまた、祇園神社・難波八坂神社などのように休憩した場所であったのかもしれない。 八坂神社と壬生の梛神社は関係が深い。 八坂神社の祭礼である祇園祭に壬生六斎保存会の人々が参加しているのは、壬生の地がもともと祇園社のあった場所だったためではないだろうか。 ●隼神社と隼人 梛神社の境内には隼神社がある。 もともとは蛸薬師坊城にあったのだが、1918年に現在地に移ったのだという。 蛸薬師坊城は現在の中京区壬生御所ノ内町のことで、現在の隼神社からほんのわずかばかり北である。 隼神社はずっと壬生の地にあったといっていいだろう。 隼神社は奈良にもあって、角振明神・角振隼明神・椿本神社とも呼ばれている。 平安京遷都のときに隼神社が平安京に分祀されたという記録があり、これが蛸薬師坊城都の隼神社のことだと考えられている。 京都の隼神社の御祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)だが、奈良の隼神社の御祭神は火酢芹命(隼神)と、角振神(火酢芹命の御子)となっている。 京都の隼神社は奈良の隼神社より分祀されたものなので、神の名前は違っても同じ神を祀る神社だと考えられる。 隼神=火酢芹命はニニギとコノハナノサクヤヒメの次男である。 長男が火照命(海幸彦)で三男が彦火火出見命(山幸彦)である。 古事記では隼人の先祖は火照命(海幸彦)だとされているが、日本書紀本文では火酢芹命は隼人の祖となっている。 『奈良市史社寺編』にも次のように記されている。 『隼神とは、火酢芹命(ほすせりのみこと)のことである。 これは隼人族の祖であり、海幸彦とも呼ばれ、神武天皇の祖父で山幸彦とも言われている、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の兄にあたる。 兄・海幸彦は、弟・山幸彦との戦いに敗れて、代々、宮城の警固に任じられた。 勝利した山幸彦は、天皇家の元を築いたと記紀で伝えられている。』 隼神は隼人の祖だったのである。 隼人とは古代薩摩や大隅(現在の鹿児島県)に住んでいたまつろわぬ民のことである。 隼人は度々反乱をおこしたため、朝廷は隼人たちを畿内に移住させる政策をとった。 畿内に移住させられた隼人たちは、ヤマト王権の支配をうけ、隼人司に属した。 そして朝廷の警護・祭祀・相撲・竹細工の製作などを行っていた。 隼人司に属していた隼人たちは、奈良の隼神社の近くに住んで隼神社の祭祀を行っていたのではないかと思う。 というのは、隼神は隼人の祖神だが、先祖の霊は子孫が祭祀すべきとされていたためである。 ということは、平安京に隼神社が分祀された際、何人かの隼人たちが神についていったのではないだろうか。 それはもちろん隼神を祭祀するためである。 隼神を祭祀するのは隼神の子孫である隼人に限られるのだから。 ●角振明神と牛頭天皇 私は奈良の隼神社が角振明神、角振隼明神と呼ばれていることが気になる。 隼には角はないが、牛には角がある。 角振明神とは牛の神、牛頭天皇と同一神、もしくは習合されたのではないだろうか。 そして広峯神社より勧請されて壬生へやってきた牛頭天皇は、隼人によって祀られたのではないかと私は思う。 さらに牛頭天皇が壬生から八坂に遷るとき、やはり隼人が八坂に移住して祀ったのではないだろうか。 八坂神社の近所の清水坂付近には犬神人と呼ばれる人々が住んでいた。 犬神人とは八坂神社に隷属し、神事・死体の処理・清掃・警護などに携わっていた人々のことである。 犬神人は『弦召せ』といって弓の弦を売り歩いていたところから『つるめそ』とも呼ばれていた。 「犬神人(つるめそ)の 緋縅着たる 暑さかな 」 この川柳は、祇園祭で緋色の着物を着た犬神人たちが警護のために町をうろついている様を詠んだものである。 一遍聖絵に犬神人の絵が描かれているが、結髪せず、口には白いマスクをつけている。 (こちらのサイトにも犬神人の絵が記されています。→ 「 犬神、戌神、犬神人」 それは壬生六斎の棒振りをする人のいでたちとよく似ている。 ●犬神人と隼人 犬神人というネーミングの「犬」とはどこからくるのだろうか。 「 犬神、戌神、犬神人」 上のサイトによれば「生きた犬を土の中に埋めて呪いを修したもの」が犬神であると説明がある。 また、「商売などの権利を得る代わりに神社の仕事を手伝っていた下級神職の人々を一般に神人と言い、そこに犬という接頭辞をつけたもの。」 「似て非なるものを犬といふ。これ本邦の故実與。水蓼(いぬたで)、竜葵(みずほうずき)、狗脊(いぬわらび)、・・・/燕石雑志 巻之一(十)物の名『日本随筆大成第二期19』(吉川弘文館1975) 」 「俗ニ陰事ヲ探ルモノヲ犬ニナルト云フ。(P.261)」 とも説明されている。 私は犬神人の『犬』は隼人からくるのではないかと考えている。 九州から大和に連れてこられた隼人たちは、犬の鳴き声を真似して宮中の警護にあたっていた。 その隼人が隼神社の遷宮に伴って壬生に移り住み、さらに壬生から八坂に遷宮した際、八坂の近所の清水坂に移り住んだのが犬神人なのではないだろうか。 八坂神社・・・京都市東山区祇園町北側625 梛神社・・・京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2 壬生寺・・・京都市中京区坊城通仏光寺上ル壬生梛ノ宮町31 祇園祭山鉾巡行・・・7月17日
[2014/07/29 20:00]
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●白峯神宮が創建された時代 1867年10月12日、孝明天皇が35歳の若さで崩御し、明治天皇が即位した。まだ14歳だった。 翌1868年、明治天皇は父・孝明天皇の遺志をついで京都に白峯神宮を創建し、崇徳天皇を御祭神とした。 白峯神宮が創建されたころの日本は、討幕の動きが高まっていた。 1867年11月10日には征夷大将軍・徳川慶喜が『大政奉還』を行い、1868年1月3には討幕派が『大政復古の大号令』を発していた。 『大政復古の大号令』とは江戸幕府と摂関制度を廃止し、明治新政府樹立を宣言するものである。 即位後、明治天皇は討幕のシンボルとして担ぎあげられることになる。 1868年1月27日、新政府軍vs幕府軍の内戦がおこり、幕府軍が大敗した。(鳥羽・伏見の戦い) 1868年4月6日、明治天皇は『五箇条の御誓文』を発布して新政府の基本方針を表明した。 また明治と改元し、江戸を東京と改めた。 江戸城は東京城と改めて東京奠都し、明治天皇は京都から東京へ移り、東京城を宮城として居住するようになった。 このような社会情勢から考えると明治天皇がなぜ白峯神宮を創建したのかが見えてくる。 ●怨霊と畏れられた崇徳天皇 白峯神宮の御祭神・崇徳天皇(1119年-1164年)は平安時代後期の天皇である。 名目上は鳥羽天皇の第一皇子で母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)とされている。 しかし「古事談」によれば、崇徳天皇は鳥羽天皇の実子でなく、鳥羽天皇の祖父の白河法皇と待賢門院との間にできた子であったと記されている。 白河は自分の女である待賢門院を孫の鳥羽に与えたが、待賢門院は白河の子を身籠っていたというのである。 鳥羽は崇徳を『父の弟にして子』と言う意味で『叔父子(おじご)』と呼んで嫌っていたと「古事談」にはある。 1123年、崇徳は鳥羽天皇の譲位を受けて5歳で皇位についた。 しかし、白河が没すると鳥羽上皇は崇徳に退位を強要し、崇徳は異母弟の近衛天皇に譲位した。 近衛は崇徳の養子として即位する予定であったが、鳥羽によって発布された宣命には『皇太弟』と記されていた。 当時は院政が行われていたが、近衛が『皇太弟』では崇徳は院政を行うことができない。 そのため崇徳が上皇となってからも、政治の実権は鳥羽が握っていた。 近衛は17歳で崩御した。 このとき次期天皇候補として崇徳の子の重仁が有力視されていた。 ところが、近衛の死は崇徳と藤原頼長が呪詛したためだという噂がたち、怒った鳥羽は重仁ではなく、崇徳の同母弟の後白河天皇を天皇とした。 これを不満として崇徳は、左大臣藤原頼長や平忠正、源為義(鎮西八郎)らの武士を率いてクーデターを起こした。 (保元の乱) しかし、後白河側についた平清盛・源義朝らによって鎮圧され、崇徳は讃岐に流罪となる。 崇徳は讃岐で五部大乗経を写本し、反省の証に朝廷に差し出した。 しかし後白河は受け取りを拒否し、写本を送り返してきた。 崇徳はこれに激怒して、自分の舌を噛み切り、その血で写本に次のように書き込んだ。 『日本国の大魔縁となり、この経を魔道に回向(えこう)す。』 『皇を取って民とし民を皇となさん』と。 そして爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になった。 『保元物語』によれば、状況調査のために派遣された平康頼は『院は生きながら天狗となられた』と報告したと記されている。 1164年、崇徳は崩御し、讃岐に埋葬された。 火葬の煙は都の方角にたなびいたという。 崇徳天皇の死後、武士である平家が権力を得た。 平家が没落すると源頼朝が鎌倉幕府を開いた。 権力を朝廷に取り戻そうとした後鳥羽院は『承久の乱』を起こすが失敗し、隠岐に流刑となった。 これらの一連の事件や、相次いだ天変地異などは、崇徳の怨霊の祟りであると考えられた。 陰陽道では荒ぶる怨霊は神として祀り上げれば、ご利益を与えてくださる和霊に転じると考える。 明治天皇は怨霊である崇徳天皇を京都に迎えて神として祀り上げ、そのご加護をえることで、討幕および王政復古を実現させようと考えたのだろう。 明治天皇の祈りが崇徳天皇に届いたのか、1869年、新政府軍は幕府軍および奥羽越列藩同盟との戦争(戊申戦争)に勝利し、新政府が幕府に代わって政権を掌握することになった。 ●明治天皇、弘文天皇・仲恭天皇・淳仁天皇に諡号を贈る。 1870年8月20日、明治天皇は諡号が贈られていなかった三天皇に弘文天皇・仲恭天皇・淳仁天皇と諡号を贈った。 弘文天皇(648- 672)とは672年に皇位継承をめぐって大海人皇子(のちの天武天皇)と戦って(壬申の乱)自殺においこまれた大友皇子のことである。 仲恭天皇(1218~1234)は順徳天皇の子で、後鳥羽上皇の孫である。 1221年に即位したが、同年、祖父の後鳥羽上皇が承久の乱を起こして幕府軍に敗北した。 後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡に流罪となった。 これにともなって仲恭天皇は即位したもののわずか78日で廃され、代わって後堀川天皇が即位した。 そのため諡号、追号がなされず、九条廃帝、半帝、後廃帝と呼ばれていた。 淳仁天皇(733 - 765)は藤原仲麻呂の後押しを受けて758年に即位した。 ところが藤原仲麻呂と孝献上皇の関係が悪化し、764年仲麻呂と孝献上皇は軍事衝突することになる。(藤原仲麻呂の乱) 孝献上皇軍が勝利し、藤原仲麻呂は斬殺された。 淳仁天皇は仲麻呂と関係が深かったことを理由に皇位をはく奪され、淡路島に流罪となった。 765年10月、逃亡を図るが捉えられ、翌日亡くなった。 暗殺されたのではないかといわれている。 弘文天皇・仲恭天皇・淳仁天皇はいずれも不幸な人物であり、それゆえ、怨霊として恐れられていたのだろう。 明治天皇はこれらの天皇に諡号を贈ることで慰霊し、自分の守護神にしようと考えたのだと思う。 この3人のうち、淳仁天皇の神霊は1873年に白峯神宮に迎えて合祀されている。 明治という時代はそんなに昔ではないが、今とはちがい、まだまだ怨霊や神は身近な存在だったのだ。 白峯神宮・・・京都府京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町261番地
[2014/07/04 21:00]
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「秋の始まりはお盆の始まり。(上賀茂神社 夏越神事)」 より続きます。 ●前回のまとめ 風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける (藤原家隆) (風が楢の葉をそよがせる楢の小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。六月祓のみそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。) ①家隆が夏越神事を見たのは旧暦の6月晦日であるが、現在、上賀茂神社では新暦の6月に夏越神事を行っている。 旧暦は新暦の約ひと月遅れとなるので、新暦に換算すると7月ごろに上賀茂神社の夏越神事は行われていたということになる。 7月の京都は暑いさかりで、秋の気配などみじんもない。 それなのに家隆はなぜ「禊(夏越神事)の様子だけが夏のしるしである(すっかり秋の気配が漂っている)などと歌に詠んだのか。 ②旧暦では1月・2月・3月を春、4月・5月・6月を夏、7月・8月・9月を秋、10月・11月・12月を冬としていた。 旧暦は新暦の約一月遅れなので、ざっくり考えて、新暦の2月・3月・4月が旧暦の春、新暦の5月・6月・7月が旧暦の夏、新暦の8月・9月・10月が旧暦の秋、新暦の11月・12月・1月が旧暦の冬に該当する。 ③つまり、旧暦では1年でもっとも暑い季節が秋の始まりだった。 ④旧暦の7月1日は釜蓋朔日(かまぶたついたち)といわれていた。 釜蓋朔日とは、地獄の釜の蓋が開く日であのことであり、この日からお盆が始まるとされていた。 そして6月晦日が夏のおわりで、7月1日は秋の始まりであった。 お盆とは秋の始まりを告げる行事であった。 ⑤ 『風そよぐ』の『そよぐ』は漢字では「『戦ぐ』と書く。 『戦』という漢字の意味は① 戦う。戦をする。② いくさ ③ おののく ふるえる ④ そよぐ そよそよと揺れ動く ⑤ はばかる 『風戦ぐ』とは、吹かれて心地よく感じる風ではなく、ざわざわと不気味さを感じる風のことではないか。 ⑥家隆は楢の葉がざわざわと不気味に揺れているのを見て、お盆になって戻ってきた霊が楢の葉を揺らしているのではないかと考え、ああ、お盆の季節がやってきたんだなあという気持ちを歌に詠んだのではないか。 ●楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり 古語辞典で『そよぐ』をひくと、『そよそよと音をたてる』とあり、文例として 岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり(平家物語・灌頂・大原入り) があげられていた。 上賀茂神社の禊川が『ならの小川』と呼ばれているのは、川べりに楢の木が生えているためである。 そよそよと音をたてるものは、ほかにもたくさんあるだろうと思われるのに、なぜ古語辞典には『楢』が文例にひかれているのだろうか。 偶然か。それとも『楢がそよぐ』ということが何かを意味しているのだろうか。 平家物語には次のように記されている。 建礼門院(平 德子)の父は平清盛、母は平時子で、高倉天皇の中宮として入内し、安徳天皇を産んだ。 平家没落の時、安徳天皇は祖母の時子に抱かれて入水した。 このとき、建礼門院も入水したのだが、死ぬことができず源氏方に捕らえられた。 彼女の母も、子も、一族の者も大勢死んだ。 壇ノ浦で入水したものの捕縛された建礼門院は東山の麓の吉田の地に隠棲し、長楽寺において出家した。 しかし大地震がおこり、築地が崩れて住めなくなった。 そこで人目のない大原に居を移した。 あるとき、庭に散り敷いた楢の葉を踏みしだく音がし、女院は捕り方がやってきたのかと思って身を隠そうとした。 しかしそれは鹿だった。 それを見ていた重衡の北の方が涙ながらに詠んだのが次の歌であった。 岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり 楢の葉をざわざわと戦がせたのは鹿だったと平家物語にはあるが、鹿といえば、私は日本書紀 仁徳天皇38年の記事にある『トガノの鹿』 を思い出す。 「 雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。 翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。 時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂した。 」 昔、謀反の罪で殺された人を塩漬けにすることもあり、鳴く鹿は謀反の罪で殺される者の象徴だったと考えることができる。 『トガノの鹿』の物語をふまえて、『岩根ふみ~』という歌を味わってみると、この歌は深みを増す。 平家物語を読んでいると、随所に怨霊の話が出てくる。 建礼門院が懐妊し、祈祷を行ったが、いまひとつ調子がよくないのを、平清盛は藤原成親の怨霊の仕業だろうと判断し、成親の息子・成経らを鬼界が島より召還させている。 また建礼門院が隠棲していた家は大地震で住めなくなってしまったが、この地震は安徳天皇や平家の怨霊によるものだとされ、怨霊は恐ろしいものであると人々は噂しあった、とも記されている。 琵琶法師の芳一が平家の霊にとり憑かれ、住職が全身にお経を書いて亡霊から芳一を守ったが、耳にお経を書くのを忘れたため、亡霊が芳一の耳をちぎって立ち去った話は有名だ。 能の『船弁慶』では、義経と弁慶が乗った船が風にあおられて沖に流された海上で平知盛の霊があらわれる。 義経は刀をぬいて亡霊と切りあうが、弁慶は『刀ではかなわないでしょう』と数珠を繰って経文を唱え、祈りの力で悪霊を退散させる。 これらの記述は当時、いかに怨霊というものの存在が信じられていたかを示すものだといえるだろう。 「岩根ふみ~」の歌に詠まれた鹿とは殺された平家の亡霊なのではないか。 重衡の北の方が、楢の葉を踏みしだく鹿の陰に安徳天皇や平家一門の怨霊を見たとしても不思議はない。 さらに『楢』を辞書でひくと、『楢葉守=ならの木の葉を守る神』とある。 そして文例に『楢葉守の祟りなし(浄瑠璃・会津山・近松)』がひかれていた。 古には楢葉守という神が存在すると考えられていたということがわかる。 しかもその神は祟る神、怨霊のようである。 家隆は楢の葉が戦ぐ様子にお盆になって戻ってきた死者の霊を感じ、秋の始まり=お盆の始まりを感じたと、そういう歌なのではないだろうか。 ●「大原入り」と「大祓い」 家隆が「風そよぐ~」の歌を詠んだのは、詞書から1229年だと考えられる。 平家物語の成立年代は不明だが、1240年に書かれた『兵範記』に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあり『平家物語』の前身として『治承物語』なる書物が存在していたと考えられている。 平家物語と家隆の歌のどちらが先でどちらが後かはわからない。 が、どちらかがどちらかの影響を受けている可能性はある。 その証拠に、平家物語の『大原入り』の段のタイトルから『おおはらいり』=『大祓(夏越神事のことを大祓ともいう)』という言葉が読み取れるではないか。 このような技法を、和歌では「もののな」という。 家隆の歌は、単に夏越神事の風景について詠んだ歌ではなく、 たいへん技巧的で、しかも深みのある歌だったのである。 『風そよぐ ならの小川』というフレーズから楢葉守や、平家物語にある『岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉のそよぐは鹿の渡るなりけり(平家物語/灌頂の巻・大原入りの段)』という歌を想起させる。 さらに夏越神事は別名を大祓という。 大祓から、大原入り(おおはらいり。/『岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉のそよぐは鹿の渡るなりけり』この歌の出典は平家物語/灌頂の巻・大原入りの段である。大原入りというタイトルの中に大祓と言う言葉がよみとれる。もののな。)の段を想起させる。 ●後鳥羽上皇 さて、楢の葉がざわつく様子を見て、家隆は誰の霊を感じたのだろうか。 それは後鳥羽上皇ではないだろうか。 後鳥羽院が崩御したのは1239年で、家隆が「風そよぐ~」の歌を詠んだのが1229年年なので、死んだ人の霊というよりは生霊であるが。 後鳥羽上皇は歌人としても優れた才能を持っていた人で、たびたび歌会を開いている。 この時代の代表的歌人である藤原定家や藤原家隆とも交流があった。 藤原定家は九条家に出仕して官位を上げていたが、1188年、源通親のクーデターにより九条家は失脚した。 その後1200年に定家は宮廷歌人となり、1201年には後鳥羽上皇から新古今和歌集の撰者に任命された。 ところが、歌の選定において定家は後鳥羽上皇と争い、1220年、後鳥羽上皇は定家の歌会への参加を禁じた。 しかしこのことは定家にとって災い転じて福となった。 なぜなら、1221年、後鳥羽上皇は承久の乱をおこして隠岐へ配流となったからである。 承久の乱後、定家は後鳥羽院とは一切の連絡を絶ち、高い官位を得て歌壇の頂点に立った。 一方、定家の兄弟弟子である家隆は変後も後鳥羽院と連絡をとりつづけている。 「絢爛たる暗号」の著者・織田正吉氏によれば、後鳥羽院と定家の歌は対応しているのではないか、という。 後鳥羽院の歌は次のようなものだ。 われこそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 こころして吹け (私は、新任の島守である。隠岐の荒き波風よ、それを心得て吹くがよい。) これに対して藤原定家の歌は次のようなものだ。 こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ (いくら待っても訪れてこない恋人を待ちこがれている私は、あの松帆の浦(淡路島)で夕なぎの頃焼くという藻塩のように、身もこがれるほど に苦しんでいます。) 織田正吉氏によれば、定家は、隠岐の荒波を煽動する後鳥羽院に対し、怒りを静めて欲しいという気持ちから、『夕なぎ』を詠んだのではないかという。 私は藤原家隆の歌もまた後鳥羽院の歌に対応していると思う。 風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける 『風そよぐならの小川』という言葉は『楢葉守』を想起させ、『新島守(後鳥羽上皇)』と対応しているのではないだろうか。 そして後鳥羽上皇は『荒き波風』、藤原定家は無風状態の『夕なぎ』、藤原家隆は『風そよぐ』でそよ風を詠っている。 三つの歌は風をテーマとして対応しているのである。 後鳥羽院が配流となった後、後鳥羽院と全く連絡をたった定家は新島守となった後鳥羽院が起こす風を無風状態にして歌を詠んでいるのに対し、後鳥羽院配流後も連絡をとっていた家隆は新島守となった後鳥羽院がおこす風をそよ風という形で受け入れているのが興味深い。 上賀茂神社・・・京都市北区上賀茂本山339 夏越神事・・・6月30日 20時より(確認をお願いします。)
[2014/07/02 21:00]
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●旧暦ではもっとも暑い季節が秋の始まりだった。 風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける/藤原家隆 (風が楢の葉をそよがせる楢の小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。六月祓のみそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。) 百人一首でおなじみのこの歌は、鎌倉時代の歌人・藤原家隆(1158年-1237年)が上賀茂神社の夏越神事の様子を詠んだものである。 上賀茂神社では現在でも古いしきたりを守り、鎌倉時代と同じやり方で夏越神事を催行している。 参拝者たちは茅の輪潜りをしたのち、(茅の輪くぐりについては、「 蘇民将来伝説と過ぎ越しの祭 (交野天神社)」を参照してください。)人形(ひとがた)に息をふきかける。 これは自らの穢れを人形に移すというおまじないである。 日没後、上賀茂神社の禊川である「ならの小川」では篝火がたかれ、神職さんが奉納された人形を一枚一枚くってはならの小川に流していく。 家隆が見た夏越神事の風景も、これと変わらぬものであったのである。 ただし、家隆が夏越神事を見たのは旧暦の6月晦日であるが、現在、上賀茂神社で夏越神事を行っているのは新暦の6月30日である。 旧暦は新暦の約ひと月遅れとなるので、新暦に換算すると7月ごろにかつての上賀茂神社の夏越神事は行われていたということになる。 7月の京都は暑いさかりで、秋の気配などみじんもない。 それなのに家隆はなぜ「禊(夏越神事)の様子だけが夏のしるしである(すっかり秋の気配が漂っている)などと歌に詠んだのだろうか。 旧暦では1月・2月・3月を春、4月・5月・6月を夏、7月・8月・9月を秋、10月・11月・12月を冬としていた。 旧暦は新暦の約一月遅れなので、ざっくり考えて、新暦の2月・3月・4月が旧暦の春、新暦の5月・6月・7月が旧暦の夏、新暦の8月・9月・10月が旧暦の秋、新暦の11月・12月・1月が旧暦の冬に該当する。 つまり、旧暦では1年でもっとも暑い季節が秋の始まりだったのである。 この歌は「涼しい風が吹いてすっかり秋の気配が漂っている」と訳されることもあるが、それは新暦と同じ感覚で旧暦をとらえたために訳を誤ったといわざるをえない。 ウィキペディアの「 立秋」の項目にも次のように記されている。 『天気予報などでアナウンサーが「今日は立秋、暦の上では秋に入りましたが、相変わらず暑いですね」など語ることがあるが、暦の上では立秋こそ暑さの頂点であり、徐々に暑さが緩むのはその翌日からなので、立秋をそのように捉えることは誤りである。』 (上記サイトより引用) 立秋とは1太陽年を24等分した暦法・二十四節気のひとつであって、今も昔もグレゴリオ暦(新暦)の8月7日または8日である。 しかし多くの人が昔は旧暦だったから約ひと月遅れで、新暦の9月ごろが立秋だったと勘違いしているのである。 ●旧暦ではお盆は秋の始まりを告げる行事だった。 6月晦日の翌日は7月1日であるが、旧暦の7月1日は釜蓋朔日(かまぶたついたち)といわれていた。 釜蓋朔日とは、地獄の釜の蓋が開く日であのことであり、この日からお盆が始まるとされていた。 お盆とはご存じのように先祖の霊を祀る行事のことである。 そして6月晦日が夏のおわりで、7月1日は秋の始まりであった。 お盆とは秋の始まりを告げる行事であったのである。 ●楢の葉を戦がせる風は不気味な風?
『風そよぐ』の『そよぐ』は漢字では「『戦ぐ』と書く。 現代人にとって『そよ風』とは『優しい風』というイメージである。 オリビア・ニュートン・ジョンの『そよ風の誘惑』も優しい感じの曲だった。 そよ風を漢字で書くと微風であるが、微風と風が戦ぐのは違うのかもしれない。 漢和辞典で『戦』という漢字の意味を調べてみると、次のように書かれていた。 ① 戦う。戦をする。 ② いくさ ③ おののく ふるえる ④ そよぐ そよそよと揺れ動く ⑤ はばかる どうも『風戦ぐ』とは、吹かれて心地よく感じる風ではなく、ざわざわと不気味さを感じる風のように思われる。 家隆は楢の葉がざわざわと不気味に揺れているのを見て、お盆になって戻ってきた霊が楢の葉を揺らしているのではないかと考え、ああ、お盆の季節がやってきたんだなあ、という気持ちを詠んだのではないだろうか。 「 秋の始まりはお盆の始まり② 」につづきます。 上賀茂神社・・・京都市北区上賀茂本山339 夏越神事・・・6月30日 20時より(確認をお願いします。)
[2014/06/30 21:00]
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貴船祭 出雲神楽
前回の記事、「 貴船は紀船? (貴船神社 貴船祭) 」において、私は次のようなことをお話しした。 ①貴船神社・奥の院の船形石には次のような伝説がある。 「反正天皇の時代、黄色い船にのり、黄色い服を着た神が難波の津に降りたち、次のように言った。 『私は皇母玉依姫(神武天皇の母)である。私の船が止まるところに祠を作るように』 と。 船は蜑女崎(尼崎)、菟道川、鴨川を経て鞍馬川と貴船川の合流点に達し、貴船川を遡り、霊境吹井のある場所に鎮座した。 これが黄船の宮となったと伝わり、奥の院にある船形石はその船が人目を忌んで石に包まれたものである。 」 ②玉依姫という神は記紀神話にも登場する。 「兄・海幸彦(ホデリ)の釣り針をなくした弟の山幸彦(ホオリ)は釣り針を探して龍宮城にやってきた。 ホオリは海神の娘・豊玉姫と恋に落ちて結婚した。 しかし3年後、なくした釣り針は赤鯛の喉にひっかかっているのが見つかり、ホオリは元の世界へと戻っていった。 ホオリの子を身籠った豊玉姫はホオリを追ってホオリのいる世界へとやってきた。 そして『自分が出産する様子を決して見ないように』 とホオリに約束させるが、ホオリは我慢できなくなって覗き見てしまう。 産屋の中にいたのは、大きなワニであった。 豊玉姫は自分の本当の姿を見られたことを恥じて海の世界に戻ってしまった。 そして代わりに妹の玉依姫を遣わし、御子(ウガヤフキアエズ)を養育させた。 玉依姫は甥のウガヤフキアエズを養育し、後にウガヤフキアエズの妻となり、イツセ、イナヒ、ミケヌ、カムヤマトイワレビコを産んだ。 このカムヤマトイワレビコが初代神武天皇である。 ③兵庫県尼崎市に長洲貴布禰神社があり、次のように言い伝わっている。 「平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てた。」 ④高田祟史さんは貴船神社は紀船神社で紀氏が祭祀する神社だとおっしゃっている。
②の伝説では「ホオリは海神の娘である豊玉姫と結婚してウガヤフキアエズが誕生した。」となっている。 ここに登場する海神はスサノオと同一神とみなされることが多い。 というのは、スサノオはイザナギに「大海原をおさめよ」と命じられているからだ。 しかし、記紀(古事記と日本書紀)にはスサノオが大海原をおさめたという記述は ない。 そうではなくスサノオは根の国の王として登場する。 根の国とは死後の国のことである。 根の国がどこにあったのかについては諸説ある。 古事記・・・・・・・・・・黄泉平坂(この世と黄泉の国の境)と同じとする。 大国主が根の国へ行く前に「木の国」へ行ったという記述から、根の国は紀国にあるとする説もある。 大祓の祝詞・・・・・・海の彼方または海の底。 日本書紀・一書・・・イザナミが熊野に葬られたとあり、ここからイザナミが住む根の国は紀伊国、熊野であるとする説がある。 どうやら根の国は出雲の黄泉平坂であるとも、紀国・熊野であるとも考えられていたようである。 また大祓の祝詞で根の国を海の彼方または海の底としていることも紀国を示唆しているように思われる。 というのは、かつて紀国の那智勝浦において補陀落渡海が行われていたからである。 補陀落渡海とは南方海上にある補陀落という浄土に向かって船で旅立つことで、捨身行のひとつであった。 具体的には行者を閉じ込めて出られないような状態にした船を沖まで別の船が曳行し、綱を切った。 紀国において補陀落渡海が行われていたということは、紀国が海の神に対する信仰が厚い地域であったことを示すものだろう。 そして紀州を本拠地としていた紀氏は紀州の豊富な森林資源を生かした造船技術に優れていたことも、紀国の海の神に対する信仰と無関係ではないだろう。 尼崎市の長洲貴布禰神社は紀氏が創建したといい、京都の貴船神社も紀氏の氏神を祀る神社である可能性が高い。 そして、ホツマツタエという書物では、紀氏の祖神はソサノオであるとしている。 紀伊半島の南部を昔ソサといい、ソサで生まれたのでソサノオと名付けられたという。 とすれば、海神=スサノオ(ソサノオ)の娘・玉依姫は紀氏の神だということになる。 貴船祭では貴船神社奥の院において、出雲神楽が奉納されている。 それは次のような記紀の物語を神楽にしたものだった。 スサノオは天の機屋に馬の逆剥ぎを投げ込み、織女のひとりが死ぬという事件がおきた。 天照大神はこの事件に堪忍袋の緒を切らして天岩戸に籠ってしまう。 (天岩戸に籠るというのは、石室に死体が安置されているイメージである。 そのようなところから、死んだ織女とは天照大神自身のことだと考えられている。 ) 結局、天照大神は天岩戸から出てきたが、スサノオは罰せられ、高天原を追放されて葦原中国へ天下った。 アシナヅチ・テナヅチ・クシナダヒメ (貴船祭 出雲神楽より) 芦原中国へ天下ったスサノオはアシナヅチ・テナヅチという老夫婦に出会う。 老夫婦はスサノオに次のように言った。 「私たちには8人の娘がいたが、八岐大蛇に食べられてしまって今は娘はクシナダヒメ一人になってしまった。 今年は末娘のクシナダヒメが食べられてしまう。どうぞ助けてください。」 そこでスサノオはアシナヅチ・テナヅチに強い酒を用意させた。 そして八岐大蛇に酒を呑ませ、酔っぱらって眠ってしまったところを十拳剣で斬って退治した。 八岐大蛇の尾から草薙剣が出てきたので、これを天照大神に献上した。 スサノオがクシナダヒメと結婚して出雲の根之堅洲国(現;島根県安木市)の須賀の地にいき 「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」と歌を詠んだ。 この物語の舞台は出雲ではなく紀国であったのかもしれない。 さて、物語の中に根之堅洲国と出てくる。 根之堅洲国とは死後の世界のことである。 スサノオとクシナダヒメは結婚して死後の国へ行ったのである。 なぜ結婚して死の国へいくのか、と思われる方があるかもしれないが、男神=荒霊、女神=和霊で、男女が和合するということは、荒霊を鎮める呪術であったと私は思っている。 長くなるので、これについては次回。 八俣の大蛇を退治するスサノオ(貴船祭 出雲神楽より) 貴船神社・・・京都府京都市左京区鞍馬貴船町180 貴船祭・・・6月1日 午前11時~午後6時頃
[2014/06/05 21:00]
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