午後2時、本堂前に丹波座、近江座より2組づつ、合計4組8人の鞍馬法師が登場した。
鞍馬法師は試し切りをしたのち、大蛇になぞらえた長さ4m、太さ10cmの青竹を節ごとに5段に伐る速さを競い合った。
早く伐り終えたほうが、豊作になると言い伝えられている。
この竹伐会式の行事は次の伝説にちなむものとされる。
「平安時代初期の僧である峯延(ぶえん)上人が寛平年間(889~897年)、鞍馬寺で護摩の行をしていると北の峰から大蛇が現れて上人に襲いかかった。
上人が真言を唱えて調伏すると、別の大蛇が現れ、蛇は鞍馬の御香水を守護するとを誓った。
このため、蛇は里人に神として祀られた。 」
つまり竹は蛇をイメージしたもので、これを伐ることで悪霊を退散させようというのがこの会式の主旨なのだろう。
竹伐会式が終了したのち、九十九折の道を降りていくと、途中に由岐神社があった。
拝殿は桃山時代のもので、真ん中が割れた珍しいデザインは割り拝殿と呼ばれている。
由岐神社はもともとは京都御所にあったのだが、地震や平将門の乱などが相次いだために朱雀天皇が詔を出し、940年9月9日に鞍馬に遷宮した。
遷宮にあたって矢を入れる靱(ゆき)を奉納したところから靱(ゆき)神社と命名され、由岐神社になったとも伝わる。
靱とは矢を入れる道具のことで、細長い袋状の形をしている。
由岐神社の御祭神は大己貴命と少彦名命で、八所大明神が相殿されている。
大己貴命とは大国主命の別名である。
大国主命は芦原中国をおさめていたが、天照大神は芦原中国は自分の子孫が収めるべきだとしてタケミカヅチとフツヌシを大国主命のもとに派遣した。
タケミカヅチとフツヌシは大国主命に「天孫(天照大神の子孫)に国を譲るように」とせまり、大国主命は立派な宮殿を建てることとひきかえに国を譲ったと記紀には記述がある。
この物語を「出雲の国譲り」という。
少彦名命は蛾の皮を着た小さな神様で、大己貴命と少彦名命は兄弟の契りをかわし、共に国作りをしたことが記紀に記されている。
江戸時代まで神仏は習合されて信仰されていた。
ということは、鞍馬寺の伝説に登場する蛇神とは由岐神社の神のことだと考えられる。
また由岐神社の拝殿の傍には3本の大杉があって、しめ縄がかけられていた。
三本杉は大神神社の御神紋だが、大神神社の御祭神の大物主神は蛇神とされていて、境内にはいつも蛇の好物である玉子がお供えされている。
さらに、記紀には大物主命と大国主命が同一神であることを示す記述がある。
「大国主の前に海の向こうから光り輝く神があらわれて『私を祀るように』と言った。
大国主が神に名前を問うと『私はあなたの幸霊・奇霊』と答えた。
こうして祀られたのが大神神社である。 (古事記・日本書紀) 」
従って、大己貴命(=大国主神・・・由岐神社の神)=大物主神(・・・大神神社の神)=蛇神 となる。
鞍馬寺の伝説では最初に上人に襲い掛かる蛇が登場し、その蛇が上人に調服されたのち、御香水守護を誓って神として祀られた別の蛇が登場している。
別の蛇、という書き方をしているが、実はこの二匹の蛇は同体で、上人に襲い掛かった蛇は荒霊、御香水守護を誓った蛇は和霊なのだと思う。
神はその表れ方で、御霊・和霊・荒霊のみっつに分けられるという。
御霊は神の本質、和霊は神の和やかな側面、荒霊は神の荒々しい側面である。
御霊・和霊・荒霊という観念は、陰陽道に基づくものだろう。
陰陽道では荒ぶる怨霊(陰)は十分に祀れば人々にご利益を与えてくださる神(陽)に転じると考える。
神と怨霊は同義語であるといわれるのはそのためである。
靱がは矢を入れるための細長い入れ物であることはすでにお話ししたが、靱は蛇を入れておくのにも具合がよさそうである。
蛇神様に靱の中に入っていただき、大人しくしてもらう。
そういった理由で京都御所から遷宮してきた際、靱が奉納されたのではないだろうか。
また大物主は矢の神でもある。というのは、次のような伝説があるのである。
「セヤダタタラヒメに一目ぼれした大物主は矢に姿を変えて流れていき、セヤダタタラヒメが用を足すために川へやってきたところを下から陰処をついた。(古事記) 」
靱は矢の神である大物主を封じ込めておく道具としてもふさわしいものであるといえるだろう。
鞍馬寺/京都府京都市左京区鞍馬本町1074
竹伐会式/6月20日午後2時より
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[2014/06/24 21:00]
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當麻寺 練供養会式(5月14日) 當麻寺・・・奈良県葛城市當麻1263 二十五菩薩が行列をつくり、来迎橋をゆっくりと渡ってくるのを、オレンジ色の夕日が照らしていた。
ここ、當麻寺では中将姫が一夜で織り上げたと伝わる當麻曼荼羅をご本尊としている。
775年の春、中将姫は29歳で入滅した。
このとき阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かったと伝えられている。
毎年5月14日に行われている練供養会式は、これを表現したものであるとされる。
前回の記事「
中将姫と中将湯と天照大神」の中で中将姫伝説をご紹介したが、もう一度ここに記しておこう。
「藤原鎌足の曾孫・藤原豊成と妻・紫の前(品沢親王の娘)には長い間子供ができなかったが、747年、長谷寺の観音様に祈願して中将姫を授かった。
紫の前は中将姫が5歳のときに亡くなり、豊成は橘諸房の娘・照夜の前を後妻とした。
照夜の前は中将姫をうとみ、事あるごとに中将姫をいじめていた。
9歳のとき、孝謙天皇(女帝)に命じられて琴をひき、賞賛された。
13歳のとき、三位中将の位を持つ内侍となる。
中将姫が14歳のとき、父の豊成は諸国巡視の旅に出かけた。
照夜の前は豊成が留守の間に中将姫を殺してしまおうと考え、従者に中将姫の殺害を命じた。
しかし従者は中将姫を殺すにしのびず、雲雀山に置き去りにした。
中将姫は雲雀山に草庵を結んで暮らしていたが、1年後、遊猟にやってきた父・豊成と再会して都へ戻った。
中将姫は淳仁天皇より後宮へ入るよう望まれるが辞退した。
その後、出家して當麻寺に入り、法如という戒名を授かった。
26歳のとき、中将姫は蓮の茎から糸をつむぎ、石光寺の庭に井戸を掘って糸を浸した。
すると糸はたちまち五色に染まった。
中将姫はその蓮糸をつかって一夜のうちに當麻曼茶羅を織りあげた。
775年春、中将姫は29歳で入滅した。
阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かった。 」
この中将姫伝説にはいくつかのおかしな点がある。
①中将姫の母親の紫の前は品沢親王の娘とあるが、品沢親王なる人物がいくら探してもでてこない。
どうも品沢親王なる人物は実在していなかったように思われる。
②豊成は橘諸房の娘の照夜の前を後妻としたという。良時代の男性は複数の妻を持つのが当たり前だったので、前妻・後妻という言い方はしなかったのではないか。
③照夜は橘諸房の娘だというのだが、橘諸房なる人物もいくら探してもでてこない。
④伝説では中将姫が14歳のとき豊成は諸国巡視の旅にでかけたというが、中将姫が14歳であったのは760年である。
豊成は757年から難波の別荘で8年間隠遁生活を送っていた。
⑤豊成が都へ戻ったのは764年だが、伝説では761年に中将姫と再会して都へ戻ったということになっている。
このように史実と合致しない点や、実在しない人物がでてくるところをみると、中将姫も実在せず、物語の中で創作された人物なのではないかと思われる。
ただ、さすがに天皇を創作するのは憚られるので、天皇は実在した人物の名前を用いたのではないだろうか。
中将姫伝説には天皇以外に、たったひとりだけ実在した人物が登場する。
藤原豊成である。
なぜ実在した物として天皇以外では藤原豊成だけが物語に登場するのだろうか。
この藤原豊成という人物についてみてみよう。
藤原豊成は704年に藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の長男として生まれた。
737年、藤原四兄弟が天然痘を患って急死すると豊成は藤原氏の氏上(藤氏長者の前身)となる。
※藤原四兄弟とは藤原不比等の四人の子のこと。
武智麻呂・・・南家 房前・・・北家 宇合・・・式家 麻呂・・・京家
749年、孝謙天皇(女帝)が即位し、豊成は右大臣となる。
757年、7月、橘奈良麻呂の乱がおこる。
豊成はこれに連座したとして大宰府左遷が決定するが、「病気」と称して難波の別荘に籠り、8年間隠遁生活を送る。
豊成にかわって、豊成の弟の藤原仲麻呂(南家)が権力を掌握する。
764年、藤原仲麻呂、孝謙上皇と対立し、乱をおこすも殺害される。(藤原仲麻呂の乱)
淳仁天皇は乱に連座したとして淡路へ配流となる。
孝謙上皇、重祚して称徳天皇となる。
豊成は右大臣として政権に復帰した。
766年、豊成11月27日薨去。
豊成は孝謙天皇の即位とともに右大臣となっている。
弟の藤原仲麻呂が権力を握ると失脚したが、孝謙が重祚(再び皇位につくこと)して称徳天皇となると豊成も右大臣に復帰している。
豊成は孝謙(称徳)より信頼を得ていた人物だったように思われる。
称徳(孝謙)天皇は770年に急病を患って崩御したのち、藤原永手(北家)、藤原宿奈麻呂(式家)、藤原百河(式家)が推す白壁王が即位している。
その後、北家・式家が政界の中心となり、南家はふるわなかった。
私は豊成が難波に隠遁していたというのが気になる。
中将姫が織った當麻曼荼羅は當麻寺にあり、中将姫ゆかりの井戸は當麻寺の近くの石光寺にあるのだが、両寺はどちらも二上山のふもとにある。
奈良から見ると二上山は西の方角にあって、夕日は二上山の方角に没する。
二上山は夕日が没する山であり、二上山の向こう側には西方浄土があると考えられていたことだろう。
豊成が隠遁していた難波は二上山の向こう側、夕日が没する場所にある。
難波は西方浄土だと考えられていたのではないだろうか。
とすれば、生きながらにして極楽浄土に行ったのは、豊成だということになる。
それではなぜ豊成の娘として中将姫という女性が創作され、彼女が極楽浄土に行くという話になったのか。
神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられ、また女神は和霊を、男神は荒霊をあらわすという説がある。
豊成は荒霊、そして中将姫は豊成の和霊なのだと思う。
御霊・・・神の本質・・・男女双体
和霊・・・神の和やかな側面・・・女神・・・中将姫
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・藤原豊成
當麻寺は葛城氏の一派の當麻氏の氏寺であったと考えられているが、藤原豊成の妻・藤原百能(ふじわらのももよし)の母親は當麻氏の女性であった。
こういった関係から、當麻寺に豊成の娘・中将姫の物語が創作されたのではないだろうか。
[2014/05/23 21:00]
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