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シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑥ 副葬品・出土品



よりつづく

①太刀

・高松塚古墳出土の刀装金具は正倉院金銀鈿装唐太刀、東大寺大仏殿須弥壇下出土の金平脱珠玉装太刀に似ている。
(網干善教氏)

太刀パーツ

冑金

太刀各部名称

3枚とも高松塚 壁画館で撮影


・盗掘にあっているが、盗掘者は刀身のみ持ち去った。(網干善教氏)

わざわざ金物をはずして刀身のみ持ち去るなどということがあるだろうか。
もしかすると盗掘に入った際、壊れて金物が外れていたのかもしれない。
しかし、その場合でも美しい細工を施した金物も持ち帰りそうなものだ。
梅原猛氏が指摘されるように、最初からなかったと考えるのが妥当なように思うが、断定はできない。

・石突は正倉院黄金装太刀・横刀、東大寺大仏殿出土の金鈿装太刀、助戸新山国府出土の方頭太刀の外装具鞘尾金物などに似ている。(網干善教氏)


透金具

高松塚出土円形飾金具 金銅製透飾金具(高松塚 壁画館にて撮影)

聖徳太子の太刀

網干氏は本の中で「高松塚出土の大刀外装具(金銅製透飾金具)と共通点がみられる」として、聖徳太子像と王子像のこの写真を掲載しておられた。
ウィキペディアから画像をお借りして、本と同じようにトリミングし、文字をいれた。

・高松塚の棺金具は、正倉院の金銀鈿装唐大刀の透かし模様、東大寺出土の金鈿装大刀の把頭の透かし、法華堂・不空羂索観音光背の透かし金具、興福寺阿修羅像の衣服の模様、玉虫厨子の須弥座の透かし彫り金具に似ている。
(網干善教氏)


興福寺 阿修羅像 服飾の模様

興福寺 阿修羅像 服飾の模様

玉虫厨子の須弥座の透かし彫り金具というのは、これの事だろうか?
https://twitter.com/OreSunny/status/1426052539930218498/photo/2

・高松塚出土の大刀外装具(金銅製透飾金具)は中国では八稜銅鏡が似ている。(網干善教氏)

・「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)109pにおいて、網干善教氏はには新羅臨海殿出土の塼(立方体あるいは直方体の煉瓦)の写真を、高松塚出土金銅装透金具の写真と並べておられる。

・高松塚の棺金具と新羅臨海殿跡出土の塼(せん/煉瓦)の模様に似ている。
臨海殿は新羅統一(文武王 661-681)のころつくられたと考えられる。(土淵正一郎氏)

・透金具について、長広敏雄と五味充子は、唐・永泰公墓の墓誌石蓋の宝相華文との共通点を指摘。
長広氏はそのデザインの最古例として則天の母楊氏の順陵の大石の坐獅子の台座線刻もようをあげる。
楊氏は670年死亡、690年順陵に改葬されているので、それ以後のもの。(小林恵子氏)

・永泰公墓の墓誌石蓋の宝相華文よりも臨海殿出土の「塼(せん)」に似ている。
臨海殿は文武14年〈674年〉2月に作られたと「羅記」にあるが、文武王20年の銘文のある塼が出土している。
この模様の起原は670年まで遡るといえる。(小林恵子氏)


史料に674年とあり、出土した塼が681年であれば、遡ることができるのは674年である。
そうではあるが、高松塚の透かし金具のデザインと似たものが、則天の母楊氏の順陵「大石の坐獅子の台座線刻模様」にあり、
楊氏は670年死亡、690年順陵に改葬されているので、670年に遡るとされているのだろう。
しかし、この順陵「大石の坐獅子の台座線刻模様」は690年に作られたものであり、楊氏が死亡した670年にその模様があったとはいえなくはないだろうか?
興福寺 八部衆

興福寺 八部衆 向かって左・畢婆迦羅像、向かって右・沙羯羅像

・法隆寺心礎舎利容器、妙心寺梵鐘文、大官大寺出土隅木金具などの対葉華文と似ているとの指摘もある。
7世紀末から8世紀にかけてアジア全体に流行した模様だといえる。(小林恵子氏)

・高松塚出土の銀装大刀金具は正倉院のものににている。新羅文化の影響をうけたものではないか(土淵正一郎氏)。

・高松塚古墳出土品は新羅の影響を受けていそうなものが多い。
新羅は672年から695年の間に16回日本に外交使節をおくっている。(高句麗からは7回)
このときに海獣葡萄鏡、棺桶金具、刀身具がもたらされた可能性がある。(土淵正一郎氏)

②土器

・盗掘の際持ち込まれたと思われる土器が石槨内に流入した土の中や上、墳墓頂上部の攪乱土中から出土した。
これらはすべて燈明皿と推定されている。(小林恵子氏)

・墳丘基底面・下層から須恵器(古墳時代から平安時代にかけて日本で生産された陶質土器。青灰色で硬い。)の杯身と蓋の破片が発見された。これらの土器は藤原京時代かそれ以前のものと考えられている。(小林恵子氏)


・版築層・・・飛鳥Vを 上限とする土器が 出土 
・版築層の下層・・・飛鳥 ⅡからⅣが中心。飛鳥Vの土器も含まれる。古墳の築造時期の上限が飛鳥Vであることを示す。
・周溝の埋没年代・・・奈良時代後半

「飛鳥V」、「飛鳥 ⅡからⅣ」などのローマ数字は飛鳥時代を区分した年代を表しているとおもうが、記事に解説はされていないと思う。(見落としているのかもしれない。)

一般的に、飛鳥時代は崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の118年間のことをいう。
その118年間を5つに区分したものだろうか。
とすれば、一期は23.6年となる。ざっくりと、次のようになるのだろうか?(まちがっているかもしれない。)

Ⅰ・・・592~616年
Ⅱ・・・616~640
Ⅲ・・・640~664
Ⅳ・・・664~688
Ⅴ・・・688~710

③海獣葡萄鏡

1海獣葡萄鏡について

高松塚古墳出土_海獣葡萄鏡

高松塚古墳出土 海獣葡萄鏡

・海獣葡萄鏡は唐鏡の一種とするのが定説(直木孝次郎氏)

・海獣葡萄鏡は唐での流行とほぼ同時期に日本にも伝来していたと考えられる。
(直木孝次郎氏)

・『東大寺献物帳』(758年ごろ)に、鏡背の文様を「鳥獣花背」と記す。
(直木孝次郎氏)

・北宋の皇帝・徽宗(1082~1135年)は、『宣和博古図録』に7面の海獣葡萄鏡を記す。漢鏡だと考えられていた。
(直木孝次郎氏)

・清の乾隆帝 (1711~1799年)は『西清古鑑』に海獣葡萄鏡の名称で、円鏡27面・方鏡1面を掲載する。
・三宅米吉「日本の古社寺に伝来する海獣葡萄鏡は古墳などからの出土品とは思えない。推古朝以降に唐との交流で伝来したものではないか。」とした。
(直木孝次郎氏)

・1899年、高市郡高取町松山海獣葡萄鏡が出土した。
高橋健自「文様の特徴から唐鏡」
喜田貞吉「宋代に唐鏡を漢鏡に見誤るはずはない」
(直木孝次郎氏)

・原田淑人「海獣葡萄鏡の盛期は高宗(628-683)から玄宗(685-762)ではないか。」
(直木孝次郎氏)

・法隆寺五重塔の心柱礎石内に海獣葡萄鏡が埋納されていた。これを調査した梅原末治は海獣葡萄鏡を隋末唐初に成立した鏡式とした。(直木孝次郎氏)

・梁上椿、禽獣葡萄文(海獣葡萄鏡)は西アジアの影響だが、そのルーツは古代ギリシャやローマ。(直木孝次郎氏)

・高松塚古墳出土鏡の年代について、樋口隆康は8世紀初頭、王仲殊や長広敏雄は7世紀末頃、勝部明生は680年前後とする。(直木孝次郎氏)

・海獣葡萄鏡は朝鮮での出土例がほとんどないので、唐から持ち込まれた可能性が高い。(直木孝次郎氏)


・海獣葡萄鏡 隋または唐と言われていたが、樋口隆康氏が中国の出土例を検討し、7世紀末から8世紀初とされている。
後の時代に伝わるが上限は動かない。(森浩一氏)


高松塚古墳出土鏡の年代については中国の墳墓から出土した海獣葡萄鏡との比較などから、樋口隆康は8世紀初頭、王仲殊や長広敏雄は7世紀末頃、勝部明生は680年前後などとしている[27]。


樋口氏の意見が絶対的な支持をえているわけではなさそうだ。

・中国の海獣葡萄鏡の出土例では、高松塚と似たものが開元通宝といっしょにでている。銭から遺跡の年代を出すのは難しいが一つの参考になる。(森浩一氏)

開元通宝は唐で621年に初鋳され約300年間流通した貨幣である。
このように聞くと、年代を出すのはムリのようにも思えるが、いつどこで作ったかで、異なる特徴があるのかもしれない。

開元通宝

開元通宝

2出土状況

『壁画古墳 高松塚 調査中間報告』では、次のような内容を記している。

・南壁面、内側より奥83CMの東壁面に接した床面の漆喰に食い込むようにして出土した。鏡面が上向きになっていた。


「食い込むように」というのは鏡が動かないようになっていたのか、それとも動かせる状態だったのか、この説明ではわからない。
出土状況を撮影した写真を見ると、床面に浅い窪みがあるように見える。

・海獣葡萄鏡は、縁の部分が高く、模様の部分が空洞となっていたので錆が少なく、鈕(下の写真の鏡中央部。緒=ヒモが通せるようになっている。)に通した緒も残っていた。

たぶん、こういう状況だということだと思う。↓

海獣葡萄鏡 出土状況

・石槨に緒が密着した状態では緒は腐食が進んでいたと思われる。すると、移動されていないか、腐食が進んでいない時期に移動されたかどちらかだと考えられる。

・おそらく鏡は棺の外に置かれていた。その理由は東壁に鏡が密着しており、棺の厚みが東壁と鏡の隙間に挟まる余裕がないため。
↓ たぶん、こういう事だと思う。

鏡の位置①

鏡の位置2

3海獣葡萄鏡はいつ作られたか。

1で、法隆寺の五重塔の心礎から海獣葡萄鏡が発見されたと書いた。
長らく、法隆寺再建論と非再建論が対立していた。
再建論の根拠は『日本書紀』670年に「法隆寺が全焼した」という内容の記事があることだった。
ところが、1939年に若草伽藍が発掘調査されたところ、火災の後が発見されて
https://renaissance-media.jp/articles/-/10046)再建論が有力となった。

日本書紀670年法隆寺消失後、693年に西院伽藍で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)ことから、金堂はこのころまでに完成していたとみられている。
また、711年には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成(『法隆寺資財帳』)しているので、711年には五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられている。

ということは、五重塔心柱礎石内から発見された海獣葡萄鏡は711年以前に製造されたものということになる。

.樋口隆康氏によれば、高松塚と同製品と思われるものに、高松市の加藤達雄氏が所蔵するもの、西安十里337号墓出土鏡(高松塚とほとんど同じ)があるという。

加藤達雄氏所蔵の海獣葡萄鏡は下記リンク先掲載のものと思われるが、写真が不鮮明で確認ができない。

径16.5cmと記されているが、高松塚古墳出土のものは径16.8㎝。3㎜は誤差と言えるか?わからない。

獣葡萄鏡は同じ文様を有する同型鏡が多い事も特徴で、高松塚古墳出土鏡は中国西安十里鋪337号鏡など3面と、香取神宮鏡は正倉院宝物南倉70の9号鏡と同型鏡であることが知られている[16]。

とあるので、西安十里337号鏡と同型鏡であるのは確かなのだろう。

.樋口氏は次のように話をつづけておられる。
・西安十里337号墓から出土した鎮墓獣、天王桶、索馬胡桶、馬桶、駱駝桶が出土しているが、同じものが則天武后の武周時代〈690から705)以降の多くの墓から出土するので、西安十里337号墓は700年前後、8世紀初頭に充てる可能性が強い。(樋口隆康氏)

・高松塚古墳出土の海獣葡萄鏡の様式は、藤井有鱗館所蔵の鏡と、唐代盛期及びそれ以降のものとの中間。(樋口隆康氏)

・法隆寺五重塔心礎内より出土したものは、図柄は簡単になっているが唐代盛期とみていい。
法隆寺五重塔の塔心礎は711年以前にたてられたが、そこから出土した鏡が唐代盛期以降となる。(樋口隆康氏)

・以上の考察によって、高松塚古墳出土鏡の年代は中唐前半(7世紀後半)と考えられる。(樋口隆康氏)

現在、高松塚古墳の年代特定を考える上で、最も重要視されているのは独孤思貞墓(西安市)出土の海獣葡萄鏡だろう。
1958年、独孤思貞墓から海獣葡萄経が出土したのだが、独孤思貞墓には墓誌があり「独孤思貞は万歳通天二年(697年)に卒し,神功二年(698年)に遷葬された。」と記されていたのだ。

これをもとに多くの人が高松塚古墳の年代を推測を試みているが
独孤思貞が698年に葬られたから、この鏡も698年に作られたとはいえない。
たとえば親から譲りうけた古い鏡を、698年に独孤思貞墓の副葬品にしたとも考えられるわけだ。
確実にいえるのは、独孤思貞墓の海獣葡萄鏡は698年までに作られたということだけである。
(これについても、埋葬後何年もたってから副葬品としておさめた可能性もなくはない。)

それでは独孤思貞墓と同型鏡の高松塚古墳の海獣葡萄鏡はいつ作られたのか。
当然のことだが、独孤思貞墓の同型鏡だから698年までに作られた、とはいえない。
同じ型をもちいて、700年頃に作られた可能性もあるし、高松塚の者の法が古くて680年ごろに作られた可能性もあるといえるのではないか。
また、高松塚の海獣葡萄鏡が、680年から700年頃に作られたものとしても、先ほども述べたように副葬品の製造年と古墳の製造年は一致しないので、海獣葡萄鏡は高松塚が造営された年代を考える上で参考にはなっても、これだけで結論を出すことはできないと思う。

朝鮮出土の海獣葡萄鏡もあり、朝鮮からもたらされた可能性もあるとする説もあるが、朝鮮出土を海獣葡萄経は検索しても見つからなかった。(私が検索ヘタなせいかもしれない。)

・年代で決定的なのは鏡だと思う。少なくとも上限はわかる。
海獣葡萄鏡は初唐ぐらいから作られている。
高松塚のものは法隆寺の五重塔から出たものよりタイプが古い。(井上光貞氏)

・日本で出土したもので高松塚と同形のものはない。中国に照会してもらうことになっている。(伊達宗康氏)

高松塚古墳出土鏡の年代については中国の墳墓から出土した海獣葡萄鏡との比較などから、樋口隆康は8世紀初頭、王仲殊や長広敏雄は7世紀末頃、勝部明生は680年前後などとしている[27]。
より引用

このように高松塚出土の海獣葡萄鏡の年代については、現在でも諸説あって定まらない。


④不完全な三種の神器?

副葬品は海獣葡萄鏡、刀身を欠く剣の金具、玉などが発見された。
梅原氏はこれは三種の神器ではないのか、とおっしゃっている。

被葬者は朝賀の儀式を行っている中で眠っている。
しかし、被葬者には頭蓋骨がなく、天には北斗七星がなく、南には朱雀がないので、被葬者は軍を南に進めることができない。
正当な皇位継承権を示す三種の神器もあるが、太刀には刀身がない。

盗掘されたのだろうか。


・終末期古墳としては珍しく鏡と刀の両方が入っていた。(森浩一氏)

・ガラスの玉は装飾品か、玉枕かわからない。(森浩一氏)

玉枕

阿武山古墳 玉枕(複製品) 今城塚古墳歴史観にて撮影(撮影可)

・壬申の乱で近江京が消失し、一時的に中国製品などがなくなり副葬品がすくなくなったのかもしれない。(森浩一氏)

・盗掘であればなぜ遺物を残したのか。刀身がなくなって、装具を残しているような例を他にしらない。
高松塚はスコップで掘れるような柔らかい土ではない。政治争い的墓荒しの可能性もある。(森浩一氏)

・高松塚副葬品の刀の刀身がなかったが、腐ってしまったのだとすれば、鏡にも錆が大量に出そうだが、出ていない。(森浩一氏)

海獣葡萄鏡は床の漆喰にのめり込むような形で、鏡面を上にした形で出土した。
そのような環境のため鏡の緒まで残っていたとされるが、それを考慮しても、もっと錆びていたはずだといえるのだろうか。

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シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew ⑧  高松塚・キトラ古墳は南枕かも?

トップページはこちら。 →「シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew① 高松塚・キトラ古墳のある場所」

 よりつづく


間違っているところなどがあれば教えていただけるとありがたいです。

①天子南面す

・天子が軍を進めるにあたり、前に朱雀・後ろに玄武・左に青龍・右に白虎の旗をたて、上に北斗七星の柄のところにある星の旗をたてて行進する様を示す。(梅原猛氏)

天子は南面して、北から南に向かって軍を進めるということだろう。
古代中国で指南車が作られ、指北車が作られなかったのは(人形の向きを変えるだけで指北車はつくれる)、そのような思想に基づくものだと思う。

中国の国家の創立者である黄帝・軒轅が指南を用いたという伝説があり、
張衡(78年 - 139年)や馬鈞(生没年不明。三国時代(184年一280年)の学者)が実際に指南車を製作したという。

日本では斉明天皇4年(658年)と天智天皇5年(666年)に製作されたという。(日本書紀)


・蒲生君平は南面していることを陵墓(皇室関係の墓)のひとつの条件としてあげる。
喜田貞吉は「後期古墳の横〇(漢字がよめない 汗)が南面して開口しているのは、天子南面からくるものか」としている。(小林恵子氏)

・中国では「北方に葬り、北首(北枕)するは、三代の禮なり。」とし、北向きに葬る。(小林恵子)

中国では陵墓はほとんど北枕だということろうか。

②高松塚・キトラの被葬者は南枕だった?

記紀にイザナギの左目から天照大神(日神)が、右目から月読命(月神)が、鼻からスサノオが生まれたという記述がある。
イザナギの顔は宇宙空間に喩えられているのだろう。
陰陽道の宇宙観では、東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とするのだという。
高松塚古墳、キトラ古墳はまさしくこの陰陽道の宇宙観に基づいて壁画が描かれている。

高松塚 解体実験用石室

高松塚 解体実験用石室案内板(飛鳥資料館)より

キトラ展開図

キトラ展開図 キトラ古墳壁画体験館 四神の館にて撮影

すると、イザナギの顔の中心にある鼻からうまれたスサノオは星の神と考えられる。

薬師三尊像は中央に薬師如来、薬師如来の左手(向かって右)に月光菩薩、薬師如来の右手(向かって左)に日光菩薩を安置する。
左右は薬師如来からみた場合の左右。

薬師三尊像を上から見た図

星の神とはキトラ古墳天文図の中央に描かれた赤い円(内規/1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲)の中にある、北極星(地球の自転軸は歳差運動といって独楽がぶれるような動きをしているため、北極星は時代によって異なる。地球の歳差運動の周期は約25800年。)または北辰(天の北極)の神だと思う。

高松塚古墳星宿図では中心にある星宿「北極」「四輔」または北辰の神だろう。
キトラ高松塚
キトラ天文図 高松塚星宿図 キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)

つまり、北極星または北辰からみて左が東、右が西ということだ。

高松塚の星宿図やキトラの天文図は、石室に眠る被葬者が北枕で寝かされた状態で、空を見上げたときに、向かって右が月、向かって左が日がくるようなレイアウトになっている。
天井に描かれている図の側からみれば、左に月、右に日があるという状態になり
これでは「イザナギの左目から天照大神(日)が、イザナミの右目から月読命が(月)が生まれたという記述とあわなくなってしまう。

キトラ 被葬者は北枕?

上の図は「キトラ古墳 四神の館」で展示されていたものである。
被葬者は北枕で寝かされている。
この状態であれば、被葬者が見上げた空は上のキトラ天文図のように、被葬者の右手(向かって左)に月、被葬者の左手(向かって右)に日が見える。

キトラ古墳は木棺も朽ちてしまったのかほとんど残っていない状態だった。
人骨と歯は10点(4点は歯、6点は頭の骨の破片) http://www.asahi.com/special/kitora/OSK200406180048.html
のみ発見されているが、盗掘にあっており、その際に動かされた可能性もある。

北極星や北辰からみて、左手に太陽、右に月がある状態にしようと思ったら、南枕にする必要があると思う。
高松塚、キトラ古墳の被葬者はもしかしたら南枕だったという可能性も考えてみた方がよさそうに思える。

あるいは、地下の石室内で北枕で左手側を日、右手側を月とし、
これを反対側の地上から見下ろしたときには右手側が日、左手側が月になるように天文図・星宿図を描いているのは
何か意味のある呪術なのかもしれない。

もしかしたら、被葬者が北極星の神であるという考えがあったのかもしれない。
北極星からみて太陽の定位置である東は左、月の定位置である西は右になるので、被葬者を北極星の神に見立て、被葬者を北枕にしたのだろうか。

小林恵子氏が述べておられるように、中国では「北方に葬り、北首(北枕)するは、三代の禮なり。」とされていたのであれば、皇帝は北極星の神に見立てられていたため、北向きに葬られていた、とも考えられそうだ。

↑ 知恵袋だが、質問に次のようにある。

「中国歴代の帝王の陵墓は多くが南向きに作られていて、生前に王として南面していたことを示しているんですよね?でも秦では始皇帝に至るまでの陵墓は東向きに作られていて始皇帝の陪葬墓群、兵馬俑によって構成された陣形もすべてが同じく東を向いています。」上記記事より引用

どうやら東向きの陵墓もあるようである。

・高松塚の場合は「天子南面」の意識があったかもしれない。
高松塚の遺骨は散乱してどちら向きとは確定できないが、壁画の従者たちがすべて南向きに歩いていく様子から、南向きに葬られた可能性がある。(小林恵子氏)

朝賀の儀式のとき、広場には大勢の人が集まるのだろう。
そして天皇は大極殿にいて、広場にいる人々の拝賀をうけるのだから、南向きに座していることになる。
広場にいる人々は北向きにたって、大極殿を望む。これは「天子南面す」である。

ところが、高松塚の壁画に描かれた人々は南を向いているので、被葬者が天皇で、壁画に描かれた人々の群臣のほうをむいているとすると天皇は南枕で北を向いていることにならないだろうか。
「天子南面す」とはならない。


「壁画古墳 高松塚 調査中間報告」p167には次のような内容が記されている。

高松塚古墳の被葬者の遺骸は棺の金銅製飾り金具が1個石槨内の南壁付近から検出されており、阿武山古墳のケースと同様南枕であったのではないかと考えられる。
もしそうだとすれば、朝賀の儀式の詳細を記した貞観儀式に男子人物像は「舎人を率いて先頭の〇〇に立つ」とに規定された官人だと考えることができる。(岸俊男氏)

高松塚古墳の被葬者は南枕の可能性があるという。
そして、壁画の人物は舎人で、被葬者は舎人を率いて先頭に立つとおっしゃっている。

「先頭に立つ」ということは、被葬者は壁画の人物と同じ方角を向いていなければおかしいのではないか?
被葬者が壁画の人物と同じ方角を向く、ということは、被葬者は北枕で南を向くことになるのではないだろうか。

北枕の場合

南枕だと、被葬者は北を向くことになり、壁画の人物像と対面するような形になるのではないか?

南枕の場合

③高松塚古墳の棺は木棺

・乾漆棺は聖徳太子墓にもあるが阿武山古墳など天武陵の時代に多い。(森浩一氏)

・乾漆と木棺に漆を塗った棺はちがう。
牽牛子塚古墳は十数枚の布をはった乾漆棺。高松塚のものは乾漆が主体ではなく、木棺が主体。木棺に漆が塗られている。
・高松塚の棺は横によっていたが、意識して寄せたのか、盗掘でゆがんだのか。(末永雅雄氏)

”麻布や和紙を漆で張り重ねたり[1]、漆と木粉を練り合わせたものを盛り上げて形作る方法である。”
ウィキペディア「乾漆造」より引用


つまり乾漆棺とは、麻布や和紙を漆で張り重ねたり、漆と木粉を練ったもので形づくった棺の事を言うのだろう。
高松塚のものはこのような方法ではなく木棺に漆が塗られているということだ。

・脱乾漆の手法を用いたもの・・・夾紵棺(きょうちょかん)
 木心乾漆・・・乾漆木棺
 木棺に漆だけを塗る・・・漆木棺
 石棺に漆を塗ったもの

1.石棺に漆が塗られているもの・・・菖蒲池古墳
2.陶棺に漆が塗られているもの・・・恩坊山三号墳
3木棺に漆が直接塗られているもの・・・御嶺山古墳
4.木棺に布を張り漆塗り・・・・・・・・高松塚古墳
5.炭化物に布を張り漆塗り/・・・・・・塚穴山古墳
6.布を漆で張り合わす夾紵棺・・・・・牽牛子塚古墳・阿武山古墳・天武陵・聖徳太子陵・安福寺蔵品
(伊達宗康氏)

・漆喰純度は95%で、中尾山古墳と高麗(任那地方)の壁画古墳と一致。新羅系、旧任那刑の漆喰技術が用いられたと考えられる。
但し、高松塚は鉛含有量が0.28%で高い。(他の古墳は0.01%)

・漆塗木棺は檜とされていたが、昭和52年12月に杉と訂正された。
板の厚さは1.6cm、底・両側板・両木口板共、一枚板。銅釘で止める。
内、外とも板に麻布を二枚重ね、木糞漆で固めた上に鉛白を下地にして朱を塗り、外面には漆を3,4回塗った上に全体に金箔が貼られていた。
布は飛鳥、白鳳時代の中間の時代の物と考えられる。(伊達宗康氏)

・漆塗木棺の出土例は多い(大阪府茨木市初田二号墳、大阪府羽曳野市御嶺山古墳、マルコ山古墳など)(伊達宗康氏)

・百済王家との慣例を指摘。(扶余にある百済末期の陵山古墳のほとんどの石室から棺に用いたと思われる金箔辺と棺飾金具が出土しているため)(猪熊兼勝)

・木棺に貼られていた布は飛鳥、白鳳時代の中間の時代の物と考えられる。(小林恵子氏)

・高松塚多量鉛分
「『創立三五周年記念・橿原考古学研究所論集』昭和48年刊」
「古代漆喰の化学分析で新しく得られた二、三の知見について」
高松塚古墳の漆喰に鉛成分が多量に含有されている。
古代の漆喰の原料・貝殻には鉛は微量。高松塚の漆喰のみ多量。(安田博幸)

・鉛は棺の部分で多量に観測される。鉛は棺から流出した?(土淵正一郎氏)

・保刈成男 毒殺(雪華社刊) 古代ローマでは鉛管をもちいていた。この水は甘く、鉛糖と呼ばれた。
鉛糖は酢酸鉛 酸化塩が洗髪や化粧に用いられて害をもたらした。(鉛害)
漆喰でなく、被葬者が原因であれば、被葬者は毒殺の可能性がある。(土淵正一郎氏)

・金銅製花文座金具の類例は、牽牛子塚古墳出土のもの、御嶺山古墳出土のものがある。(網干善教氏)

座金具

高松塚 壁画館にて撮影

牽牛子塚古墳 座金具

牽牛子束古墳出土 金銅製八花形飾金具

・座金具は半島から日本に及ぶが、いずれも夾紵棺(きょうちょかん)または漆塗り木棺に付着している。(網干善教氏)

・高松塚古墳には棺台はない。牽牛子塚古墳、阿武山古墳、聖徳太子墓にはある。(岸俊夫氏)
御嶺山古墳は高松塚に似ている。切石を使っているが、棺台がある。

御嶺山古墳 棺台

御嶺山古墳 棺台

・終末期古墳の時代は合葬が多い。(牽牛子塚古墳、天武・持統陵、菖蒲池古墳)が高松塚は最初から合葬を意図していない。(ふたつの棺を置くスペースがない)(岸俊夫氏)

・天武ごろからの伝世品が正倉院などにあるのは、天皇が火葬されて副葬品が墓に治められなくなったからかも。(岸俊夫氏)

・床面に棺座とか棺台のようなものはなかった。(伊達宗康氏)

・高句麗とはちがった簡素な棺室。(伊達宗康氏)

・持統5年以降、日本書記に賻物(ふもち/ふもつ 死者に贈る品物)の記事がある。
賻物の初見が持統5年以降。直前の持統3年に浄御原令が出されている。
浄御原令に喪葬令賻物条があり、それに従って葬送を実施していたのだろう。
古代葬制史上、浄御原令(689年)の影響は大きい。(秋山日出雄氏)

・大化の薄葬令(646年)には王以上には轜車(きぐるま/棺を運ぶ車)を用いると規定されている。
養老喪葬令葬具条には、親王・一品・太政大臣には轜車を用いると規定されている。
木棺(たぶん石棺では車で運べないということだと思う)実例から考えると漆棺を運んだのだろう。(秋山日出雄氏)

・高松塚の古墳の規模は大化薄葬令にあっているし、出土した棺は漆棺であるので、薄送令(薄葬令の誤りと思われる)や浄御原令以降に作られたものだろう。(秋山日出雄氏)

・羨道(えんどう)はない。(伊達宗康氏)

・終末期には羨道が短くなったり、なくなっていく。(松本清張氏)

羨道、墓道、玄室の意味は下記イラストがわかりやすい。横穴各部の名称

柏原市立歴史資料館 説明板より

・高句麗、百済、扶余、公州には高松塚のような横口式石槨はない。(斉藤忠氏)

”横穴式石室(よこあなしきせきしつ)とは、中国の漢代に発達し、日本では古墳時代後半に盛んに造られるようになった古墳の横に穴をうがって遺体を納める玄室へつながる通路に当たる羨道(せんどう)を造りつけた石積みの墓制[1]。中国前漢代の中原で多くつくられ、前漢中期以降、中国全域に普及した塼室墓に起源をもつ。
~略~
横穴式石室は、中国の漢代に塼で築いたものが発達した[2]大陸系の墓制であり[3]、朝鮮を通過して日本に伝えられたものである[4]。具体的には、高句麗の影響が、5世紀頃に百済や伽耶諸国を経由して日本にも伝播したとみられ、主に6世紀から7世紀の古墳で盛んに造られた。”

6世紀の終わりから7世紀に広まる、新しい埋葬(まいそう)の施設(しせつ)
横口式石槨 - 全国こども考古学教室より引用

横穴式石室・・・
・古墳の横に穴をうがって遺体を納める玄室へつながる通路に当たる羨道(せんどう)を造りつけた石積みの墓制
・ルーツは中国であり、高句麗、百済、伽耶諸国を経由して日本に伝わった。
例として、石舞台古墳、岩屋山古墳などがあげられている。

横口式石槨・・・
・磨いた石を組みあわせて、棺の置き場を作ったもの。横穴式石室とは違い、一人を埋葬するための施設。
例として、鬼の爼・鬼の雪隠、牽牛子塚古墳、高松塚古墳、キトラ古墳、中尾山古墳、束明神古墳、石のカラト古墳などがあげられている。

斉藤忠氏によれば、「百済、扶余、公州には高松塚のような横口式石槨はない」という。
この横口式石槨は横穴式石室よりも時代が新しく、サイズも横穴式石室よりも小さいものが多いのは646年の薄葬令によるものだと思う。

・島根県には横口式の石棺でありながら、石室のような恰好を示したものがある。大阪の横穴式石室で奥の方にああいうものを特に設けて棺を設置しているが、そういうものの影響をうけているかもしれない。(斉藤忠氏)

・高松塚の様な横口式石槨に羨道をつけたものは河内にある。
羨道がなくて似ているのは、平城宮跡のカラト古墳。(斉藤忠氏)

石のカラト古墳 墳丘

石のカラト古墳

石のカラト古墳は上円下方墳で7世紀終り~8世紀初頭に造られた古墳と考えられている。
被葬者は天武天皇の皇子で、長皇子(?~715年。弓削皇子兄)6月4日薨去や穂積皇子(?~715年)ではないかと考えられている。


シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑥ 副葬品・出土品 
へつづく~






シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑪ 十二支は地獄の亡者を責めている?

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①十干・二十四方位・二十八宿

・十干 (甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)は万物は木火土金水から成るとする五行説からくる。)
 甲(きのえ)・・・木の兄
 乙(きのと)・・・木の弟
 丙(ひのえ)・・・火の兄
 丁(ひのと)・・・火の弟
 戊(つちのえ)・・・土の兄
 己(つちのと)・・・土の弟
 庚(かのえ)・・・金の兄
 辛(かのと)・・・金の弟
 壬(みずのえ)・・・水の兄
 癸(みずのと)・・・水の弟 (来村多加史氏)

・二十四方位は次の図のようになる。(来村多加史氏)

二十四方位

二十四方位


上の記事で
「『史記』『封禅書』によれば、人界五帝のうち、青帝・赤帝・白帝・黒帝の四帝を祀る檀を築いたが、中央に祀るべき黄帝太一の祭壇を避け、未の方角で祀られた。」
「黄帝に配属される麒麟も未の方角に描かれるべきと考えた孫機氏は、多くの鏡が未の方向に描かれていることを発見した。」
とする来村氏の発言について記した。

なぜこのような祀り方をしたのかについての来村氏の説明

五帝壇配置図
図1

帝    色   五行  方角  二十四方位
黒帝・・・黒・・・水・・・北・・・壬亥
青帝・・・青・・・木・・・東・・・甲寅
赤帝・・・赤・・・火・・・南・・・丙巳
黄帝・・・黄・・・土・・・南・・・丁未  ※本来、土は中央だが、中央を避けて未丁の位置に祀った。
白帝・・・白・・・金・・・西・・・庚申

方格規矩四神鏡

方格規矩四神鏡は上の図をデザインしたもの(孫機氏 説)

・二十四方位・二十八宿・四神の相関図

二十四方位・二十八宿・四神の相関図

図2

②黄龍は天、麒麟は地?

・五神は、北=玄武、東=青龍、南=朱雀、西=白虎、中央=麒麟だが、麒麟があまり描かれないのは
図1のような偏った配置でなく、図2のように四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)を中央においたためではないか。(来村多加史氏)

私はこの来村氏の意見には納得できない。
麒麟は置き換えられていないと思う。
図1、図2は平面図だが、本来は立体であるべきで、上が黄龍、下が麒麟なのではないか。
(五神のうち中央は黄龍または麒麟とされる。)

高松塚・キトラ古墳にあてはめて考えれば、天井(上)にある星宿図または天文図が黄龍に置き換えられたと考えられるのではないか。
また下にいると考えられる麒麟は被葬者ということになる。

なぜ麒麟が下なのか。
来村氏は麒麟のモデルは鹿だとおっしゃっていた。
そして「鹿は謀反人の比喩」とする説があり、私はこれを支持している。

日本書紀に「トガノの鹿」という物語がある。
雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢をみた」というと、雌鹿は偽った夢占いをして「霜だと思ったのは塩であなたは殺されて全身に塩を振られているのです」と答えた。
雌鹿の言葉通り、雄島は猟師に射られて死んでしまったという。
古には謀反の罪で死んだ人は塩漬けにされることがあったというのだ。

雄鹿の全身に霜が降る、というのは、鹿の夏毛の白い斑点を塩に喩えたものだろう。
そして動物のキリンは五行説の土を表す黄色をしており、白ではなく茶色だが、斑点がある。
ここから、鹿は麒麟という想像上の聖獣へと変化していったのではないか。

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漢代、猫はペットとして飼われていなかった?

・子は鼠、丑は牛、寅は虎、卯は兎、辰は?、巳は虫(蛇)、午は鹿、未は馬、申は環(猿に通じる)、酉は水(雉に通じる)、戌は老未、亥は豚。(秦代行政官の墓に副葬された巻物「日書」)
秦(紀元前905年 - 紀元前206年)の時代、干支は現在のものとちがっている。(来村多加史氏)

・後漢(25年 - 220年)時代の『論衡』に記されている干支は現在と同じ。(来村多加史氏)

・辰は貝、巳は蛇をあらわす漢字。(来村多加史氏)

・干支の虎,辰以外は身近な動物。(来村多加史氏)

・干支が整った漢代に猫は身近な存在ではなかった。猫がペットとして飼われるのは早くても南北朝時代。(来村多加史氏)

「5,300年前の中国遺跡で「飼いネコ」を発見」という記事があり、泉湖村で住居や貯蔵穴、陶器、そして植物や動物などの痕跡を発見し、その中に穀類で栄養を得ていたことを示すネコの骨、老齢まで生き延びたネコの骨も見つかっている。(人間がネコに餌を与えていた。)

「漢代に猫が身近な動物でなかった」というのは疑問である。
私の友人に之を話したところ、「猫と虎はどちらもネコ科の動物でかぶるので、猫は省いたのではないか」と意見をいただいた。

④干支は人を仙境へ導いているのではなく、地獄から悪いものが出ないように見張っているのかも?

・山西省右玉県大川村で発見された銅温酒樽(河平3年の紀年銘文がある。河平3年は紀元前26年)
上段には虎、羊、鹿、駱駝、猿、鼠、雁など。朱雀がはばたいている。(上空をあらわす)
下段には地穴から龍が顔をだし、足を踏ん張る虎がいる。仙人が山岳を駆ける。(低い位置をあらわす。)
伝統的な昇仙図。動物たちが人を仙境へ導く。(来村多加史氏)

虎、羊、鹿、駱駝、猿、鼠、雁が上段にいるのは、人を上段の仙境へ導いているからだと来村氏はおっしゃりたいのだろうが、そうであるならば、なぜ上段には人が描かれていないのだろうか。

・山西省離石氏午茂省 三号墓
前室から奥に、向かって左側の壁に馬車に乗って昇天する被葬者が描かれる。
その下には龍にのる仙人、さらにその下には戟(武器の一種)をつく鶏頭人身の門番がたつ。
右側の壁には婦人を乗せた車、その下には笏(官人が書きつけをする板)を持つ牛頭人身の門番がたつ。

鶏頭人身の門番、牛頭人身の門番は、何を守っているのだろうか。
天国へ悪い物が入らないように、天国の入り口を守っていると考えることもできるだろうか。
それは言い換えれば地獄に堕ちた悪い物が外に出ないように地獄の出口を守っているということでもある。

戟とは鉾のような武器である。(詳しい説明はこちらを参照。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%9F
笏とは、官人が書きつけをするための板を意味する漢字である。
この尺に地獄に堕ちた者の罪状を記すのだろうか?
また地獄を支配し、死者を裁く閻魔は尺をもっている。

桜町延命地蔵 閻魔大王2

山西省離石氏午茂省 三号墓の笏を持つ牛頭人身の門番は、閻魔大王のような神格を持っているのかもしれない。

・天鶏が毎朝太陽のカラスを呼ぶという伝説がある。
牽牛は牛に助けられて天に上ったという伝説がある。
そういった伝説から天の門番に抜擢されたのかも。(来村多加史氏)

日本では、鶏は伊勢神宮の神使いとされる。
伊勢神宮は太陽神・天照大神を祀る神社である。
太陽と鶏が結びついたのは、鶏が朝一番にコケコッコーとなくところから、鶏が朝(=太陽)を呼ぶと考えられたのではないかと思う。

牽牛はその名前のとおり、「牛を牽く若い男」という意味だろう。これは「牛を牽く童子」と言ってもいいと思う。
967年施行の日本の延喜式には次のように記されている。
「大寒の日、宮中の諸門に『牛を牽く童子の像』をたて、立春の前日=節分の日に撤去する。」
なぜこのようなことをするのだろうか。
牛は干支の丑を表すものだと思う。丑は12カ月では12月を表す。

干支

そして童子は八卦で艮(丑寅)をあらわす符である。
丑は12月、寅は1月なので、艮(丑寅)は1年の変わり目をあらわす。
つまり、『牛を牽く童子』は、『丑(12月)を艮(丑寅/1年の変わり目)』で、目には見えない冬の気を視覚化したものなのではないかと思う。

・婁叡墓〈570年)のドーム天井壁画
上部 天体
その下 十二支
    十二支の動物たちは右に向かって進んでいる。
    十二支のほかに描かれている聖獣は人の悪い心を読み取る「カイチ」か。
その下 雷神四神、10個の太鼓をたたく雷神も描かれる。
その下 被葬者を載せた牛車(来村多加史氏)

http://ea-art-history.jp/found.html 上記記事の図30、図26に写真がある。
ここに登場する雷神は、日本では菅原道真の怨霊とされている。
菅原道真は藤原時平の讒言によって流罪となり失意のうちに没し、その後、清涼殿に落雷があって道真流罪に関わった人達が大勢死亡した。このため、清涼殿落雷は怨霊の仕業と考えられた。

雷神について、中国では日本とは違った見方をしているかもしれないが、
もしも中国も日本と同様の考え方であるとすれば、被葬者を乗せた牛車は、怨霊である雷神の下で天に向かっているということになる。
そしてその雷神の上にいる十二支は、地獄の出口と、天国の入り口を守っているのではないか。

⑤キトラ古墳壁画の十二支像の顔の向きは一定ではなかった。

高松塚古墳のような女子群像、男子群像はキトラ古墳にはなく、十二支像が描かれていた。


上記記事には次のような内容が記されている。
・キトラ古墳では獣頭人身の十二支像は6体確認されていた。
・文化庁が泥に覆われている部分を蛍光エックス線を使って分析。
「十二支」の辰・巳・申にあたる場所に顔料の成分の水銀や銅の反応が検出された。
・データをもとに可視化すると、「巳」は衣装や舌が2つに割れている様子などほぼ全身が確認できた。

リンク先には新たに見つかった辰・己・申像の映像もある♪

キトラ古墳石室に十二支すべてが描かれていたと仮定してみる。
「キトラ古墳 四神の館」で確認したところ、寅は「東壁、向かって左」に、午(うま)は「南壁、中央」に描かれていた。
すると、十二支の配列はたぶん、下図のようにこうなっているのだと思われる。

方角を表す十二支

虎像

寅像 キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)

キトラ古墳の石室でこれまでに確認された十二支などの壁画は、古代中国の思想を背景に、東の方角は「青」、西は「白」、南は「赤」、北は「黒」と、それそれ異なる色で塗り分けられていた可能性が高いと考えられています。

とあるので、退色しているが、たぶん寅は青い着物をきていたのだろう。

午像

午像 キトラ古墳 四神の館にて撮影

午(うま)像は南に位置しているので赤い着物をきている。
「逆像ながら現れた十二支 午の姿です」とあるのは、絵の上に泥がへばりついていてとりのぞくことができなかったが
絵の保存のため、漆喰を剥がしたところ、裏から漆喰の上に塗った赤い顔料が見えていたので、泥ではなく、漆喰の方を丁寧にはがしていった。
そうしたところ、逆像として午像の姿が現れたということである。
研究者の方々や作業をされた方の感動が、私にも伝わってくるように感じられる。

上の絵は向かって右を向いているが、実際の像は寅像と同じく向かって左をむいていたということになる。

さきほどもご紹介したこの記事に登場する己像は、寅像、午像と違って左(向かって右)向きになっている。

韓国金庚信墓十二支像(拓本)

↑ これは韓国金庚信墓十二支像/拓本(キトラ古墳 四神の館にて撮影)である。
金庚信墓十二支像は墓石室の壁画ではなく、墓の周囲にめぐらした石に刻まれたものである。

十二支の顔は、キトラ古墳の寅像、午像と同じく全て右(向かって左)を向いている。
ところがキトラは十二支の顔の向きが全て同じではなく、異なっているものもあるということになる。

金庚信墓十二支像はほとんどの像が両手に武器を持っているように見えるが、巳像のみ、右手だけに武器を持っているように見える。

キトラの巳像は右手に何かを持っていることはわかるが、手元が不明瞭で左手に何かもっているかどうかはわからない。
キトラの辰も右手に武器を持っているのが確認できるが、左手、顔の向きはわからない。
申は顔の向きも武器の有無も確認できない。

寅・午のほか、肉眼で確認されている子・丑・戌・亥の画像を下に示す。
キトラ  子丑戌亥

子は右向きで左手はわからないが右手には武器をもっていそうである。
丑は右手に武器を持っているのはわかるが、顔の向き左手はわからない。
戌亥は着用している着物しかわからない。

⑥キトラ古墳は新羅の影響を受けている?

⑤で手に武器を持っていたと書いたが、これについて来村氏は次のようにおっしゃっている。

・子像・丑像は赤い棒状の盾(鉤鑲/こうじょう)をもっている。(来村多加史氏)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A4%E9%91%B2 に鉤鑲の写真、説明あり。

・鉤鑲は後漢時代に流行した武具で、湾曲した太い鉄の棒で敵の刀を受け止める。(来村多加史氏)

・キトラに描かれた鉤鑲は房飾りがついているので、実用ではないだろう。舞人舞踏に用いられたか。(来村多加史氏)

・寅像は房飾りのついた鉾をもっている。(来村多加史氏)

キトラ古墳 四神の館にあった説明版には
「手に武器をもっている点は中国の意匠ではみられない特徴ですが、仏教の影響とも鮮半島の影響とも言われています。」と書いてあった。

十二支像が描かれているのは韓国の金庚信墓である。

金庚信(きむ ゆしん、595年 - 673年)は、伽耶王家の血を引く人物で、三国時代の新羅の将軍である。
660年、新羅は高句麗と百済の麗済同盟に対抗して、唐と組んで百済へ進軍、百済を滅ぼした。
663年(天智2年)、百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍vs唐・新羅連合軍との間で戦争がおこる。
唐・新羅連合軍はこれに勝利し、さらに668年に高句麗も滅ぼしている。
金庚信はこれらの戦いで活躍した。

唐での十二支像は西安出土の加彩十二支俑がある。

上の記事をよむと「12体の俑を各方角へ配置することで、墓内に侵入する邪気を払う役割を果たしていたと考えられる。」と
「大唐皇帝陵」展カタログ には記されているようである。

この方のブログはその他にも、
四川万県唐墓出土 青磁十二支俑新羅の十二支像(景徳王陵)なども紹介してくださっている。

ここで思い出すのは土淵正一郎氏の見解である。
土淵氏は、次のような内容を述べておられた。

❶・高松塚の鏡は高松塚が711年より早い7世紀末の築造であることを推察させる。
・朝鮮出土の海獣葡萄鏡があり、高松塚鏡が唐から直接伝来したのではなく、新羅・高句麗などが介在して日本の天武・持統朝にもたらされた可能性を推察させる。
・そうであれば、704年の遣唐使帰国前に高松塚に埋蔵されたとも考えられる。(土淵正一郎氏)

❷高松塚の棺金具と新羅臨海殿跡出土の塼(せん/煉瓦)の模様に似ている。
臨海殿は新羅統一(文武王 661-681)のころつくられたと考えられる。(土淵正一郎氏)

❸高松塚から銀装大刀金具が出土した。正倉院のものににている。新羅文化の影響をうけたものではないか。(土淵正一郎氏)

❺高松塚古墳出土品は新羅の影響を受けていそうなものが多い。
新羅は672年から695年の間に16回日本に外交使節をおくっている。(高句麗からは7回)
このときに海獣葡萄鏡、棺桶金具、刀身具がもたらされた可能性がある。(土淵正一郎氏)


キトラもまた新羅の影響を受けているといえるだろうか。

⓻キトラ十二支は右前、高松塚群像は左前

・子像、丑像、寅像は右前で襟をあわせる。(来村多加史氏)

右前とは着物の襟の右を先に合わせることである。

舞妓

上は北野天満宮の節分会で撮影したものだが、舞妓さんは右前で着物を着ている。

左前

高松塚古墳 女子群像

高松塚古墳の女子群像をみると、左前のように見える。
右前で着物を着るのは、719年の「衣服令」で定められたという。
高松塚古墳の女子群像が左前になっていることから、719年までは左前で着物を着用していたと考えられているようである。

A.その中で着物の着方について庶民は右前、高貴な人は左前と決められたのです。しかし、亡くなったときのみは庶民も高貴な人と同じように左前で着ても良いと法令で定められました。

また奈良時代は人が亡くなると神様や仏様となるために、現世とは違う左前の服装をするという発想もありました。

黄泉の世界で良いことがあるようにという願いを込めた風習という説も存在します。

上の記事で書いてあることは事実だろうか。
衣服令の規定を読んでみたいと思ったが、残念ながら見つからなかった。
しかし、こう書いてある記事はあった。

なお元正天皇の養老三年(719)二月三日、「初令天下百姓右襟」と定められ、今までの左前(左袵・さじん)が右前(右袵・うじん)となりました。

「百姓」とは、現在では農業従事者のことをさす。
しかし、本来は「a天下万民」を指す語であった。
しかし、古代末期以降に「b被支配者階級」をさす言葉となり、明治ごろになって「c農業従事者」を指す言葉になったとされる。
もちろん、「初令天下百姓右襟」の「百姓」は「a天下万民」の意味だろう。
Aの記事はこれを、bcの意味だと誤認してしまったのではないだろうか。

高松塚、キトラ古墳に似ているといわれる高句麗壁画古墳、唐の壁画古墳の人物像をいくつか確認したところ、右前だった。

右前になっているキトラ古墳は719年以降に築造されたのだろうか。

このように考えることはできないだろうか。

現在では死に装束は左前で着付けするのが一般的である。
高松塚古墳とキトラ古墳は四神像などが酷似しているので、同時期に造られたと仮定する。
(四神像が似ているからといって、同時期に造られたとは断定できないが)

高松塚キトラが作られたとき、キトラの十二支像のように右前が一般的だった。
高松塚はキトラと同時期に造られたが、死に装束として壁画人物を左前に描いた。


⑧十二支は地獄で亡者を責める?

来村氏は「十二支は人を仙境に導くお供」だと仰るが、本当にそうだろうか。
婁叡墓は570年ごろつくられたものだが、そのころの中国にはすでに仏教が伝えられていた。

地獄の法廷を描いた中国の仏画

地獄の法廷を描いた中国の仏画

上の絵は ウィキペディア「閻魔」にあったものである。

画像が小さくて確認しづらいのだが、閻魔大王の向かって右には羊の顔の人がいる。
向かって左の人は牛の顔をしているように見える。
針の木の下にいる人は馬の顔、釜の向かって右にいる人は龍だろうか。
釜の向かって左の人も動物のような耳がある。
その下には虎の顔をした人が死者を運んでいる。テーブルの上の人を料理している人は鶏の顔だ。

そして獣頭人体のものたちが手に持っている武器は、韓国金庚信墓十二支像が手にもっている武器と同じようなものがある。

韓国金庚信墓十二支像(拓本)

日本の地獄絵は鬼が亡者を責めているが、中国の閻魔庁に仕えるのは鬼ではなく、動物の顔をした人(神)のようである。

上は朝鮮の地獄絵だが、泰廣大王の下にやはり動物の顔をした人がいる。

もしかして、これは十二支ではないか?

しかも獣頭人体の姿はキトラ古墳や韓国金庚信墓のものと同じである。

タイトルは「地獄の法廷を描いた中国の仏画」とあるだけで、描かれた時期、場所、作者などは示されていない。
なので、古より十二支が地獄の亡者を責める、という信仰があったかどうかわからないのが、もどかしい。

キトラ古墳の壁画に描かれた十二支はもしかして地獄の責め苦を行う役割を担う神なのだろうか?

中国に仏教が伝わったのは、紀元67年とされるが、前漢の時代(BC2年)には伝わっていたという話もある。
いずれにしても、唐(618年 - 907年)代の中国に仏教は確実にあった。
問題は、十二支が地獄の亡者を責めると言う信仰がいつごろからあったかである。

⑨四天王、十二神将は四神、十二支に対応する?

薬師三尊像

薬師三尊像〈薬師寺)

薬師三尊像は中央に薬師如来、薬師如来の左手(向かって右)に月光菩薩、薬師如来の右手(向かって左)に日光菩薩を安置するものである。

左右は薬師如来からみた場合の左右である。
なので、拝観者からみれば、向かって右が日光菩薩、向かって左が月光菩薩となる。

薬師三尊像を上から見た図

陰陽道では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とするそうである。
すると薬師三尊像の中央に安置される薬師如来は星を神格化した仏ということになり、陰陽道の宇宙観にあっている。

また記紀によればイザナギの左目から天照大神(日神)が、右目から月読命(月神)が、鼻からスサノオが生まれたという記述がある。
イザナギの顔は宇宙空間に喩えられているのだろう。
すなわち、スサノオは星の神ということである。
船場俊昭氏は「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったのではないかとおっしゃっている。

薬師本尊を中心とした仏教の世界は、日光・月光菩薩、四天王のほかに十二神将が周囲を取り巻くもので、願興寺にはこの十二神将も一体もかけることなく現存している。

上の記事に記されているように、薬師如来の周囲に四天王や十二神将が安置されることがある。

そして十二神将は十二支を神格化した仏だと考えられる。

十二神将像 京都府・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代(13世紀) 重要文化財 東京国立博物館及び静嘉堂文庫美術館分蔵 上段左から子神、丑神、寅神、卯神、辰神、巳神。下段左から午神、未神、申神、酉神、戌神、亥神

十二神将像 京都府・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代(13世紀) 重要文化財 東京国立博物館及び静嘉堂文庫美術館分蔵 上段左から子神、丑神、寅神、卯神、辰神、巳神。下段左から午神、未神、申神、酉神、戌神、亥神。

すると、仏教の薬師如来を中心とする世界は陰陽道の宇宙観を示したものだと考えられる。
また、それは中国の神と次のように対応しそうである。※()内は中国の神

方角       如来・菩薩(星・日・月) 四天王(四神)   十二神将(十二支)

中央・・・・・・・薬師如来(星)
北・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多聞天(玄武)・・・亥神(亥)・子神(子)・丑神(丑)
東(左)・・・・・日光菩薩(日)・・・・・・持国天(青龍)・・・寅神(寅)・卯神(卯)・辰神(辰)
南・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・増長天(朱雀)・・・午神(午)・未神(未)・申神(申)
西(右)・・・・・月光菩薩(月)・・・・・・広目天(白虎)・・・酉神(酉)、戌神(戌)、亥神(亥)

中国や朝鮮はどうか知らないが、日本では神仏は習合して信仰されていた。
そして梅原猛氏によれば、古には神と怨霊は同義語であったという。
現在でも怨霊を祀る神社は多数存在している。
各地に御霊神社という名前の神社があるが、御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことでもともとは怨霊出会った人々を神として祀っているのである。

陰陽道では怨霊(荒魂)は、神として祀り上げると、人々にご利益を与えて下さる和魂に転じると考えたという。

そして仏教の神々は、そういった怨霊である神々に「恨み」や「祟ってやる」という煩悩を捨てさせ、悟りを開いて「人々にご利益を与える存在」と考えられたのではないかと思う。

すると陰陽道の神と考えられる星、日、月、四神、十二支などは陰の存在、
仏教の薬師如来(星)、日光菩薩、月光菩薩、四天王、十二神将は陽の存在と考えられないだろうか。

日本に仏教が伝来したのは552年説、538年説などがあって、舒明天皇代(629- 641年)には百済大寺が、6世紀末には飛鳥寺や四天王寺が創建されたとみられている。

高松塚・キトラ古墳は646年の薄葬令以降に作られた古墳である可能性が高い。
つまり、すでに仏教は伝わっていたが、高松塚・キトラ古墳は仏式ではなく、神式(陰陽道)で祀られた墓だと考えられそうである。

そして仏教=陽、神道=陰と考えると、少なくとも日本においては、墓に描かれた十二支は被葬者を守護する目的で描かれたとは言い切れないように思う。

もしかすると、被葬者を守護するというよりは、被葬者の霊魂が迷い出ないように、十二神将が被葬者の霊魂を見張っているのかもしれない。


⓾キトラ古墳と隼人石は関係がある?

ここで、聖武天皇皇太子那富山墓の隼人石についてみておくことにしよう。

那富山墓(なほやまばか)は聖武天皇の第1皇子基王(727年-728年)の墓と伝えられる。方墳の可能性があるとのこと。そこに獣頭人身の像が描かれているという。
キトラ古墳には獣頭人身の像が描かれており、キトラ古墳との関係をうかがわせるではないか!

現在は4石だが、もともとは12石存在した可能性があるとされる。
が、現在は4石のみ残されている。
江戸時代から「犬石」や「狗石」「七疋狐」と呼ばれていたそうで、江戸時代には7石あった可能性が指摘されている。


第1石:墳丘北西隅にある。短い耳のネズミ(子)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、直立して胸元で拳を組んだポーズをとり、杖を持っている。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「北」と彫られている。

第2石:墳丘北東隅にある。耳の間に2本の角を持つウシ(丑)と見られる獣頭人身像。やや雑だが全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。

第3石:墳丘南西隅にある。長い耳のイヌ(戌)と見られる獣頭人身像。下半身の表現がなく、胸元で拳を組んだポーズをとる。
第4石:墳丘南東隅にある。長い耳のウサギ(卯)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「東」と彫られている


大阪府羽曳野市の杜本神社にも「隼人石」2石(同じ図像を左右対称にした石造物」があり、那富山墓の第1石(ネズミ)に似ているとのこと。はやといし
杜本神社 隼人石

⑪杜本神社は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦を与える神社?

先日、杜本神社を参拝してきた。
隼人石は本殿の左右にあるとのことだが、本殿前の拝殿が閉まっており、社家さんにお願いして開けてもらう必要があるようだった。
ところがどの家が社家さんなのかわからず、残念ながら隼人石見学はあきらめた。(写真はウィキペディアからお借りした。)
しかし、収穫はあった。

境内に藤原永手(714-771)の墓碑なるものが存在していたのだ。
という事は、この墓碑の後ろにある土の盛り上がった所が藤原永手の墓なのだろうか。

藤原永手 墓誌2

藤原永手の墓碑
藤原永手 墓誌

藤原永手の墓碑

上の方の文字は読めない。一番下の文字は墓だろう。その上は「藤原永手」の「手」のようには見えないが。「王」「里」のように見える。

藤原永手は766年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)・法王道鏡政権下で左大臣となっている。
770年、称徳天皇崩御。吉備真備は天皇候補として文室浄三・文室大市を推すが、藤原永手は藤原百川とともに白壁王を推し、結果白壁王が即位して光仁天皇となっている。

日本霊異記紀にこんな話がある。

藤原永手は生前に法華寺の幡を倒したり、西大寺に計画されていた八角七重の塔を四角五重塔に変更したなどの罪で、死後に地獄へ堕ちた。

もしも杜本神社の境内に藤原永手の墓があるとすれば、杜本神社は藤原永手を慰霊するための神社なのかもしれない。

いや、藤原永手に地獄の責め苦を与える神社といったほうがいいかもしれない。
その理由は、先ほどもご紹介したこの中国の仏画である。

地獄の法廷を描いた中国の仏画

地獄の法廷を描いた中国の仏画

獣面人身の者が地が亡者を責めている。
絵が小さいのでわかりにくいが、羊、牛、馬、虎、鶏、辰のような顔をした人(神?)が確認できる。
杜本神社本殿の左右におかれた十二支のネズミの像は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦をあたえているようにも見えてくる。
すると、キトラ古墳の十二支像もまた、被葬者に地獄の責め苦を与える目的で描かれているのではないか、と思ってしまう。

キトラ古墳の十二支は手に何か持っているのがわかるものもある。
来村多加史氏によれば、子像が持っているのは鉤鑲(こうじょう)と呼ばれる盾であるという。
鉤鑲は漢の時代に登場した兵器で、盾の上下に弓なり状のフックがついている。
この上下のフックで相手の武器を搦めとるのだという。
寅像が手に持っているのは鉾で、鉤鑲、鉾とも房飾りがついているので実践用ではないと来村氏は述べておられるが、どうだろうか。

⑫聖武天皇皇太子とは阿部内親王のことでは?

隼人石のある那富山墓は何故聖武天皇皇太子墓とされているのだろうか。
近くに聖武天皇陵、聖武天皇の皇后・光明皇后陵があるからかもしれない。
ウィキペディアに宮内庁治定陵墓の一覧があり、那富山墓の被葬者の項目に次の様に記されている。
「記載なし(基王)」

被葬者の記載がないとはどういうことなのだろうか。正史に基王を葬った記録がないということだろうか。
陵墓名の記載もない。
陵墓名は、天武・持統合同陵の桧隈大内陵の様に、正史に記載のある名前を記してあると思う。
陵墓名の記載もないということは、やはり正史に記録がないということではないかと思う。

基王は聖武天皇の第一皇子で生まれてすぐに皇太子にたてられた。
しかし生後1年ほどで亡くなってしまった。
那富山墓には獣面人身の像を描いた隼人石があるのだったが、隼人石とは被葬者に地獄の責め苦を与える十二支を描いた石だとすると、生まれてすぐ亡くなった基王もまた地獄に堕ちたのだろうか?
1歳になるかならないかぐらいの赤ん坊に罪を犯せるとは思えない。
そうではなく、聖武天皇皇太子とは阿倍内親王(孝謙天皇、重祚して聖徳天皇)のことではないか?

彼女は女性だが、基王の死後、聖武天皇の皇太子にたてられているのだ。
彼女の陵、高野陵は佐紀高塚古墳に比定されている。
しかし、この古墳は4世紀ごろに築造されたとみられる前方後円墳で、時代が合わない。
称徳天皇は独身で即位したため結婚が許されず、子供がなかった。
そして寵愛していた弓削道鏡を次期天皇にしようとしている。(宇佐八幡神託事件)
その後、称徳天皇は急病を煩って崩御し(暗殺説もあり)、杜本神社に墓誌がある藤原永手、藤原百川らが光仁天皇を擁立している。
称徳天皇は、道鏡を天皇にしようとした罪で、地獄の責め苦を与えられているのではないか?

藤原永手は西大寺の八角七重塔を四角五重塔にしたことなどが原因で地獄に堕ちたと言われるが、その西大寺を建立したのが、称徳天皇である。

藤原永手と聖徳天皇は関係が深いのだ。

⑬日本の地獄絵に登場する動物たち

日本の地獄絵は鬼が亡者を責めるものが多いが、よく見ると動物もいるので、ご紹介したい。(画質悪くてすいません)

西福寺 地獄絵 龍

西福寺 地獄絵 龍

西福寺 地獄絵 馬

西福寺 地獄絵 馬 ※もっともこれはおそらく畜生道を書いたもので、亡者が馬に変身させられた姿を描いた喪のだと思う。そばには黒鬼がいて馬になった亡者を責めているように見える。

西福寺 地獄絵 牛

西福寺 地獄絵 鶏、牛、羊、兎、己、犬など十二支の動物が確認できる。

西福寺 地獄絵 蛇

西福寺 地獄絵 人間の顔をした蛇

西福寺 地獄絵 

西福寺 地獄絵 獣頭人身の像。頭部は馬のように見える。

西福寺 地獄絵 牛2

西福寺 地獄絵 獣頭人身の像(牛)





シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑨高松塚人物像の持ち物



①人物の持ち物について

・貞観儀式に記されている朝賀の儀式の図と一致(岸俊男氏)
高松塚人物 持ち物

・人物画は朝賀の儀ではなく葬送を描いたもの 衣服は衣服令の規定をそのまま描いたのだろう。(土淵正一郎氏)

・供養行列ではないか。(原田淑人氏)

・葬送には鼓吹が伴うが、高松塚壁画にはない。(岸俊男氏)

・葬送の際に歌舞奏楽する埴輪像がある(斎藤忠氏)
埴輪 太鼓
太鼓と角笛の埴輪(城塚古代歴史館)

私は葬送を描いたものではないと思う。
その理由は葬儀の際には白い喪服を着用していたのではないかと思うからだ。

万葉集に柿本人麻呂が詠んだ高市皇子への挽歌がある。

全文、現代語訳はこちら ↓ のブログ記事にある。

長いので、現代語訳を要約して記しておく。

明日香の真神の原の地に宮殿を定めて神として天の岩戸にお隠れになった天武天皇が全国を平定しようとして、
東の国の兵を集め、「凶暴な人々を鎮めよ、従わない国を治めよ」と高市皇子に戦の指揮を任せられた。
高市皇子は腰に太刀をつき、手に弓をもって兵を率いた。
伊勢の宮から神風を吹かせて敵を惑わし、雲で太陽が見えないよう暗闇に包み込み、日本国を平定された。
天武天皇が自ら統治し、高市皇子が政務をとられて、栄えていたときに
高市皇子の宮殿を殯宮(あらきのみや/埋葬するまで仮に死体を安置しておく宮)と飾り立て
従者たちは白い麻の喪服を着て、埴安にある宮殿の広場に昼は一日中伏し、夕べには宮殿を仰ぎ見て這い回り
もう高市皇子にお仕え出来ない悲しみに嘆いていたが、その悲しみが終わらないうちに
(高市皇子は)百済の原を通過して、神として葬って、城上の宮を永遠の宮殿として高々と造ってみずから神としてそこに鎮座なさった。
けれど高市皇子が永久を願って造られた香具山の宮はいつまでもなくなることはないだろう。
大空仰ぐように見てしっかりお慕いしていこう(199)

ここに「高市皇子の宮殿を殯宮(あらきのみや/埋葬するまで仮に死体を安置しておく宮)と飾り立て
従者たちは白い麻の喪服を着て、埴安にある宮殿の広場に昼は一日中伏し、夕べには宮殿を仰ぎ見て這い回り
もう高市皇子にお仕え出来ない悲しみに嘆いていたが」とある。

死んでしまった高市皇子の従者たちは白い喪服を着ているのである。

そして高市皇子の生没年は654年?[~696年とされ、高松塚またはキトラ古墳の被葬者ではないかとする説もある。
このころの喪服は白色だったことが、この歌からわかる。

ただし白い喪服を着ているのは従者であり、従者でないものがどのような喪服を着ていたのかについては、この歌からはわからない。

・蓋(きぬがさ)
貴人の外出時に用いる。身分によって色が異なる。
儀制令(大宝令及び養老令/礼儀解)によれば、
皇太子・・・表紫 裏スハウ(蘇芳のことか?赤紫)頂四角 錦を覆い総を垂れる。
親王・・・・紫
一位・・・・深緑
三位以上・・・・紺
四位・・・・ハナタ
四品以上及び一位・・・頂角に錦を覆い、総を垂れる。
二位以下錦を覆う。ただし、大納言以上は総を垂れる。裏は朱。
高松塚の蓋は緑色で角を錦で覆い、緑色の房を垂れているので、一位。(上の動画1:42あたり)
諸臣一位に該当する者は中臣鎌足~天平時代の期間では、石上麻呂、藤原不比等しかいない。
もともとは紫であせて緑になった可能性もある。
この儀制令が天武朝でもあてはまるか。天武朝の『浄御原令』の蓋の規定は不明。(土淵正一郎氏)

・「養老令には縁の蓋は一位だと書いてある」猪熊兼勝氏

この傘が被葬者にさしかけられているとすれば、被葬者は一位なので天皇ではないということになる。

高松塚 男子像2


・男子像が持つ緑色の蓋は重圏連珠模様(重圏/二重丸)法隆寺金堂の木製天蓋の彩色装飾と関係がある。(秋山光和氏)

法隆寺金堂木製天蓋は下記記事に写真がある。

リンクが貼れないが、「仏様の頭上を荘厳する法隆寺金堂の天蓋は我が国最古…」というブログ記事の写真がわかりやすい。

連珠文

”珠 (たま) つなぎの円環の中に,樹木,狩猟図,獅子,天馬,唐草などの意匠モチーフを単独,あるいは組合せて表現した文様。ササン朝ペルシアの工芸品における典型的な文様で,ビザンチンや中国などにも同様な作例がみられる。中国を経て日本にも伝来し,古墳時代の珠文鏡,屋根瓦の瓦当装飾,正倉院や法隆寺の綾,錦などの染織品の文様に用いられ,法隆寺の『四天王文錦』は最も完全。また野中寺蔵『弥勒半跏像』や法隆寺壁画などにも用いられ,平安時代以後は密教法具などにも施された。”

コトバンク「連珠文」より引用

・野中寺の仏像の腰裳にある円環連珠文に似ている。(上原和)

野中寺

野中寺 金銅弥勒菩薩半跏像

↑ 野中寺の仏像とはこの仏像の事ではないかと思う。
「腰裳にある円環連珠文」戸は両方の脚のあたりにある柄のことだろうか。


次回へつづく~

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑧ 高松塚ファッションから古墳築造年代を考えてみる。






間違っているところなどがあれば教えていただけるとありがたいです。

①冠(男子)

・男子像の冠は天武11年(682年)6月条にある、『うるしぬりのうすはたのかうぶり』で、高松塚築造は天武11年6月以降。(秋山光和氏・五味充子氏)

・漆紗冠・・・天武11年(682年)7月に着用が定められた。(土淵正一郎氏)

・聖徳太子が被っているものと同種(三上次男氏)

聖徳太子像( 唐本御影)

聖徳太子像(唐本御影)

たしかに似ているように思える。

聖徳太子の生没年は、574年~622年。一方、漆紗冠は682年に着用が定められている。
聖徳太子の時代、この絵の様な冠を着用していたのかどうか、勉強不足で知らないが
聖徳太子像に描かれている冠が漆紗冠とすれば、後世になってから、聖徳太子が存命していた当事の服装ではなく、後世の衣装を描いたものということになる。

このような例は多い。
たとえば百人一首では、天智天皇、持統天皇など平安時代の衣装を着用しているが、実際にはこのような衣装を着用していなかったものと思われる。
上の聖徳太子像唐本御影は、聖徳太子を描いた最古のものと伝えられる肖像画のことをいい、8世紀半ばごろに描かれたと考えられている。

男子群像頭

②髪型(女子)

女子像は髪を後頭部で結び跳ね上げている。これは天武11年〈682年)の垂髪禁止に合致する。
朱鳥元年〈686年)垂髪に戻したが、詔より弱い勅なので、厳守されなかったのだろう。
慶雲二年〈705年)の結髪令の注には「語は前紀(持統帝の時代)にあり。是に至りて重ねて制す」とある。
大宝令では五位以上の令服は宝〇で金銀の飾りをつける。六位以下は義〇をつける。(〇は読み方がわからない。すいません。)
壁画の女性の髪型は簡素で、上記にはあたらない。朱鳥元年〈686年)と大宝令の中間の髪型。(土淵正一郎氏)

垂髪とは髪を結わずに垂らすヘアースタイルのことである。
ウィキペディアには、天武天皇11年4月23日 - 男子の髷、女子の垂髪を禁止とある。
「詔より弱い勅なので、厳守されなかったのだろう。」とおっしゃっているが、この意見は「そうも考えられる」というレベルであって根拠がない。
「詔より弱い勅なので、厳守されなかったのだろう。」という為には、「垂髪に戻した」686年以降に結髪していることを示す例が必要だろう。

・高句麗にも中国にも見られない。日本独自の髪型。結髪令(682年~686年)によるものではないか。(三上次男氏)

・結髪令ではなく、垂髪令(686年~705年)のものではないか。(原田淑人氏)

・垂髪令(686年~705年)のもの。無造作にひっつめた髪は便宜上のもの。 (五味充子氏)      

・五味氏に同意。垂髪令(686年~705年)のもの。(小林恵子氏)
垂髪では仕事をする際に不便なので、このような髪型にしているのではないか。

原田氏、五味氏、小林氏が主張されるように「垂髪令の時代の髪型ではあるが、不便なのでひっつめている」というのは、あるかもしれない。ただしこれも断言できるほどの根拠が示されていない。

・持統、文武朝には結髪の令がしばしばでているが高松塚女性の髪型は結髪の令によるものか。
また絵空事を描いた可能性もある。(松本清張氏)

・続日本紀をよむと、文武・持統あたりから、色についてはやかましくいっている。色物をきてはいけない、公式の場面のみ官位に応じた色の衣服を着けよなどとある。
高松塚の様なカラフルなファッションはありえただろうか。(松本清張氏)

漫画などでありえない髪型を描くことがあるのと同様で、そのようにも考えられるだろう。
例えば「エースをねらえ!」という作品に登場するお蝶夫人(竜崎麗華)は、日本人の高校生だが、金髪で巻き髪である。
毛染めをしてカーラーで巻くなどしなければ、多くの日本人はあのような髪型にならないが、たいていは校則で禁止されているはずだ。

・高句麗舞踏塚(4世紀末)と関係がある。(井上光貞氏)


上記記事で高句麗舞踏塚の壁画が紹介されている。
三上次男氏は「高句麗にも中国にも見られない日本独自の髪型」とおっしゃっているが、私は井上光貞氏がおっしゃるように、高松塚女子群像の髪型は高句麗舞踏塚の女子像の髪型に似ていると思う。

松本清張氏は「絵空事の可能性がある」とおっしゃるが、高松塚女子像の髪型は高句麗舞踏塚のものに似ているののもので、高句麗壁画古墳の影響を受けたものか、かつて実際にそのような髪型をしていたことがあると考えられると思う。

③髭

・高松塚の男性にはヒゲがある。(伊達宗康氏)

高松塚 髭2

向かって左から2番目の人は顎髭を生やしている。

高松塚 髭

向かって右の人は顎髭を生やしているように見える。

打ち合わせ

・養老3年〈719年)に右前にかわった。左前なので、それ以前。(土淵正一郎氏)

右前とは右を合わせてからその上に左を合わせることをいう。
下の舞妓さんは右前で着物を着ている。

舞妓

下は高松塚古墳壁画館に展示されていた人物像のスケッチであるが、上の舞妓さんとは打ち合わせが逆で左前になっている。
左前
高松塚人物像が左前になっていることをもって、719年以前は左前だったと考えられているようである。
しかし高松塚人物像が左前なのは、死の世界を描いたものだから、とも考えられるのではないかと思う。
現在でも死に装束は左前にあわせる。

埴輪の打ち合わせも左前になっているが、埴輪は古墳に並べられたものなので、これも死に関係するものということで、
普通の場合とは逆の打ち合わせにした可能性がないとは言えないように思う。

はにわ

中宮寺の天寿国繍張にも、高松塚女子群像と同様の衣装を身につけた女性が描かれている。

天寿国繍張-女性

上の図よりも大きな写真が下記リンク先に掲載されている。
国宝「天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を見に行こう!

打ち合わせを見ると右前の様にも見えるがよくわからない。

さて、天寿国繍張を見る上で、注意することがある。
天寿国繍張には「聖徳太子の薨去を悼んで妃の橘大郎女が作らせた」という内容の銘が記されている。
聖徳太子が薨去したのは622年なので、天寿国繍張はそのころ作られたものだと考えられているが(異説もある)
実は一部鎌倉時代のものが混ざっているとされる。

天寿国繍張は1274年に法隆寺綱封蔵より発見された。
このとき信如という尼僧がこの曼荼羅と同じ図柄の模本を新たに作らせ、1275年に開眼供養を行ったと史料にあるのだ。

ウィキペディア「天寿国繍張」 は次のような内容を記している。

●上段左の亀形や月、中段右や中段左の区画の人物群像の一部・・・飛鳥時代
・形の崩れがない。色は鮮明。
・台裂に紫色の羅が用いられている部分・・・
 輪郭線を刺繡で表し、その内側を別色の糸で密に繡い詰めている。
 糸は撚りが強く、中心部まで深く染められている。
 返し繡という技法
・撚りの強い糸を使い、単一の技法(この場合は返し繡)で密に繡い詰めるのは飛鳥時代刺繡の特色。
(法隆寺献納宝物等の繡仏や、藤ノ木古墳出土の刺繡など)

●下段左の建物、内部の人物を表した部分・・・鎌倉時代
・色糸がほつれ、褪色し、図柄がわからない。
・台裂に綾または平絹を用いた部分・・・
平繡、繧繝刺(うんげんざし)、朱子刺、駒繡、文駒刺(あやこまさし)、束ね繡、長返し繡、纏い繡、表平繡いの9つの技法。
・糸が台裂から浮き上がる部分が多い。
・染料が糸の中心部までしみ込んでいないものが多い。

天寿国繍張

天寿国繍張 打ち合わせ

上は天寿国繡帳の部分を切り取ったものであるが、打ち合わせは右前になっている。
向かって左についてはウィキペディアは飛鳥時代の物とも、鎌倉時代の物とも述べていない。
向かって右については「人物群像の一部は飛鳥時代」年ているが、この刺繍が飛鳥時代のものだとは明確に述べられていない。
色が鮮やかなのは飛鳥時代ということなので、おそらく飛鳥時代のものと考えられている刺繍なのだろうとは思う。
すると、飛鳥時代打ち合わせは既に右前であったことになってしまう。

但し、天寿国繡帳は飛鳥時代に製作されたものではないとする説もある。
東野治之氏は次のように述べておられる。

銘文では推古天皇をトヨミケカシキヤヒメ(等已弥居加斯支移比弥)と記しているが、この和風諡号は推古天皇崩御後に送られたものではないのか、と。(「トヨミケカシキヤヒメ」は生前から用いられていた尊称とする意見もある)

”人物の服装をみると、男女とも盤領(あげくび)と呼ばれる丸い襟に筒袖の上着を着け、下半身には男子は袴、女子は裳を着けている。また、男女とも褶(ひらみ、袴や裳の上に着けた短い襞状のもの)を着けるのが特色で、これは高松塚古墳壁画の男女像よりも古い服制であることが指摘されている。”

ウィキペディア 天寿国繡帳 より引用

高松塚よりも古い時代には右前だったということだろうか?
これは判断が難しい。
719年に打ち合わせは右前とされ、高松塚古墳が左前であることから、719年以前は左前だったと一般的には考えられているようだが、そうとは言い切れないように思った。

③衿

・男子は白衿をつけている。持統4年。〈690年)
大宝令は白縛口衿から白脛裳に逆戻りし、慶雲3年〈706年)に白衿にもどした。(土淵正一郎氏)

男子が白衿をつけているようには見えない。土淵氏が本を記したとき、画像が鮮明に解析されていなかったのだろう。

高松塚男子像 衿

④肩布(女子)

・高松塚女子像は肩布(ひれ)をつけていないので采女クラス。
采女の肩布が禁止されていたのは天武11年〈682年)~慶雲2年〈705年)。
垂髪令(686年~705年)の時期とかぶる。(横田健一氏)

・女子像は天武11年〈681年)の詔にしたがい、肩衣をつけていない。(土淵正一郎氏)

⑤すそつき

・天武十三年(684年 「会集の日にすそつきを着て長紐をつけよ」(土淵正一郎氏)
男子は全員すそつきをつけている。すそつきは上着の下部につけた別の布。大宝以前の服装。(土淵正一郎氏)

・男女の上着にある横線は襴(すそつき)。
・天武13年(684)の「会集の日には襴衣を着て長紐をつけよ」との詔が出されている。
高松塚は天武13年以後の朝服を描いたもの。(五味充子)

男女ともは上衣の下に筋がはいっているが、これが別布をつけた「すそつき」である。

男子服装

ひらみ

⑥帯

・男女とも織物の紐か帯を前に垂らしている。(かむはたの帯)持統4年(690)に定めた帯だろう。
和銅5年(712年)には「六位以下、白銅と銀を以って皮帯を飾るを禁ズ」
それ以前に皮帯に改められたことがわかる。遣唐節持使粟田真人が帰国した704年7月の直後だろう。

・帯が大宝令の皮でなくヒモなので大宝令(701年)以前のものではないか。
秋山氏、高田大和男氏も同意見。(上田正昭氏)

・すなわち、高松塚古墳の築造時期は持統4年(690年)4月14日の詔「身分の上下を通じて綺(組紐)の帯と白袴を用いよ」とある期間から大宝元年まで。(小林恵子氏)

ひらおび(褶)

・女子像は男子像と異なり、「ひらおび」をつけている。(土淵正一郎氏)
大宝令では皇族と内命夫の令服のみ復活したが、朝服はこれを欠く。
女子の「ひらおび」は黙認されたものだろう。701年の大宝令以降でなく、大宝令以前だろう。

「ひらおび」について調べると
「ひらび【褶】〘名〙 「ひらおび(褶)」の変化した語」
とでる。さらに

「裙の下には浅縹(うすきはなだ)の褶(ひらみ)[したも]をつけ、」
とでる。

土淵氏のおっしゃる「ひらおび」とは帯のことではなくて、褶の事ではないかと思う。
女子の上衣のすそから少しだけ見えているひだのようなものが褶である。

正倉院宝物

・養老の衣服令による文官礼服
養老の衣服令では朝賀、即位の儀式のみ男子も褶の着用が義務付けられていた。

・壁画中の人物が着用している下着は褶(ひらみ)だろう。
褶は682年に着用が禁止され、702年以降着用復活するので、壁画年代の上限は701年。(直木孝次郎氏)

⑧白袴

690年詔「身分の上下を通じて綺(組紐)の帯と白袴を用いよ」
701年、禁止されていた脛裳(はばきも/脚絆、ゲートルのようなもの)を再度着用することに
705年、完全に脛裳をなくして白袴となる。(石田尚豊氏)

高松塚 男子像2

袴と履物

⑨裳

裳

・日野西資孝は、当時の女子の服装は垂領(うちあわせの衿)の短衣に上から胸高に裳をつけていたので、前代の埴輪に見られるのと裳の付け方が外見上逆になったと指摘されている。(小林恵子氏)

上の高松塚女子群像は上着をスカートの上に出している。これは埴輪と同じである。
しかし、実際にはこの時代、上着をスカートの中に入れて着ていたということだろう。

はにわ

上の写真を見ると、上着をスカートの中に入れて着ており、四位の命婦(みょうぶ)=女官の礼服と説明がある。
養老の衣服令は718年である。
718年以前の女官は高松塚女子群像のようなファッションであったかもしれない、ということになるのだろうか。

・日野氏は「前代の埴輪に見られるのと裳の付け方が外見上逆になった」のは、隋唐の服装の影響とし、法隆寺摩耶夫人像、女子塑像を例にあげる。
日本でも同時代の唐とほとんど同じ服装をしていた。
高松塚の女性像は一昔前の古墳時代の服装で、儀式用あるいは公用ではないか。(小林恵子氏)

「前代の埴輪」とは「古墳時代の埴輪」のことだろう。埴輪は高松塚古墳と同じように上着を裳の外に出して着こなしている。「ところが飛鳥時代には裳を上着の上につけるようになった」と日野氏はおっしゃっているのだろう。

高松塚古墳

上のコスプレの女性は裳を上着の外に出して着こなしている。

そしてこの日野氏の意見を受けて、小林恵子氏は「高松塚の女性像は一昔前の古墳時代の服装で、儀式用あるいは公用ではないか。」と考えておられるのである。


塑造塔本四面具(五重塔安置)のうち東面侍者像

塑造塔本四面具(五重塔安置)のうち東面侍者像

アラブ世界を舞台とした漫画があるとして、漫画の中にヒジャブ・ニカブなどを身につけた女性がでてくるので、日本の女性もヒジャブ・ニカブを身に着けているとするのがおかしな論であることは、いうまでもない。
法隆寺の摩耶夫人像、女子塑像は唐を舞台として創作されたものであって、当時の人々の姿を映したものとは断言できないと思う。

⑨ファッションから高松塚築造年代を考える。

①~⑧での項目の年代をまとめてみた。

漆紗冠・・・天武11年(682年)7月
女子髪型・・・乗髪禁止 681年~686年 ※乗髪が何かわからない。
       結髪令  持統帝(690年 - 697年)の時代にもあったと記されている。
       大宝令 701年 ※髪に飾りをつけるとあるが、高松塚女子像は飾りをつけていない。
       結髪令 (682年~686年)
       垂髪令(686年~705年)のものではないか。
打ち合わせ・・・719年右前に変わった。高松塚は左前なのでそれ以前か?
肩布をつけていない。・・・肩布禁止686年~705年
すそつき・・・684年
長紐・・・・684年~701年
ひらおび(ひらみ)・・・701年より以前
            682年に着用が禁止され、702年以降着用復活
白袴・・・690年~701年、705年~

女子群像の髪型は結髪令なのか乗髪令によるものかわからないので、とりあえず省いて考えてみることにする。

またネットに次のような記事もあった。上のまとめと内容が一致するものに〇をつけ、不足情報は赤で示してみる。


男子群像 漆紗冠の着用 682年6月6日 ~687年 〇
      白袴の着用 682年6月6日 ~686年7月※石田尚豊氏の白袴の情報にはこれはなかった。
            690年4月~ 701年3月 〇
                                      706年12月~      ※石田尚豊氏の白袴の情報では705年になっている。
                   褶の未使用 682年6月6日~702年1月〇
     すそつき    684年~
                  長紐 684年~701年

女子群像 結髪の実施  682年4月23日 ~686年7月2日 ※結髪令か乗髪令なのかわからないので、省いて考える。
                                      705年12月19日 

     肩布禁止  686年~705年
     襟の左前   719年2月3日〇

私は算数が苦手で頭の回転が鈍いので(汗)、項目をふたつづつ突き合わせて,重なる時期をだしてみることにする。

漆紗冠の着用 682年6月6日 ~687年 ❶
 白袴の着用 682年6月6日 ~686年7月  690年4月~ 701年3月 706年12月~ ❷
❶と❷が重なる時期は682年6月6日~686年7月❸
                   
褶の未使用 682年6月6日~702年1月❹
❸と❹が重なる時期は682年6月6日~686年7月

すそつき 684年~❺
❹と❺が重なる時期は684年~686年7月❻

長紐 684年~701年❼
❻と❼が重なる時期は684年~686年7月❽

肩布禁止  686年~705年❾
❽と❾が重なる時期は686年~686年7月

 襟の左前   ~719年2月3日❿
❾と❿が重なる時期は
686年~686年7月

これが正しいとすると、高松塚人物像のファッションは、686年頃のものだということになりそうだが、
古墳が築かれた時期がこれに該当するかというと、そうもいえなさそうだ。
なぜならば、古い時代の装束を壁画に描くこともできるからだ。
たとえば現代に生きる我々が、飛鳥時代の装束を絵に描くこともできる。

ということは、壁画が描かれた時期を686年以降とすることはできるかもしれない。
また松本清張氏がおっしゃっているように絵空事を描いた可能性もないとはいえない。
女性のファッションが高句麗壁画に似ているとの指摘もあり、高句麗の風俗を描いたものとも考えられるかもしれない。

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑨高松塚人物像の持ち物
 へつづく~

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⓻ 高松塚星宿図・キトラ天文図・二十八宿


・『キトラ古墳は語る/来村多加史(生活人新書)』における来村多加史氏の意見
・『黄泉の王』における梅原猛氏の意見

上記はピンク色で、
ネット記事の引用は青色で、私の意見などはグレイの文字で示す。

間違っているところなどがあれば教えていただけるとありがたいです。

②星宿について。

・天井の二十八宿は中心の北斗七星が欠落している。(梅原猛氏)

高松塚古墳 星宿図

高松塚 星宿図(キトラ古墳 四神の館にて撮影 撮影可)

古星図に見る歴史と文化 

リンク先4ページ 図3にトルファン・アスターナ古墳の星宿図が掲載されている。
この星宿図の左上に8つの星で構成される柄杓の形をした星宿があるが、高松塚古墳星宿図では同じぐらいの位置に6つの星で構成される斗がされる描かれている。
これは北斗七星とは別の星から構成される星宿である。
従って、アスターナ古墳も北斗七星を欠くといえるかもしれず、高松塚古墳の星宿が異常かどうかは慎重に判断する必用がありそうである。

高松塚星宿図

高松塚星宿図

③キトラ星宿図には大きく描かれた星がある。

キトラ天文図

・キトラ古墳では4つの星が故意に大きかった。4星のうち、3つは北半球における可視領域の限界、外規に近い場所。
めったに見れない星。
大星のひとつは冬季に地上すれすれに観測される老人星。(来村多加史氏)

これについて検索したところ、次の様に書いてある記事があった。

”キトラ古墳天文図の星の大きさは直径約6mmで星によらずほぼ同じだが,3星のみ大きく,直径約9mmある.大きいのは,図で「天狼」「土司空カ」「北落師門カ」と書いてあるもので,天狼はα CMa(シリウス)で,同定に間違いはないと思われるが,土司空は β Cet,北落師門は α PsA(フォーマルハウト)で,位置の差が大きいので,星の同定が違っている可能性がある.ただし,この2星は,この付近に他に目立つ星がないので,なぜこれらの星だけ大きく書かれたのかは謎である。”
キトラ古墳天文図の解析 - 国立天文台 より引用

来村多加史氏は大きい星は4つだと記しておられるが、国立天文台の記事では3つとある。
実物を確認するのは難しいので、どちらが正しいのかわからない。

キトラ天文図4


④天文図に描かれた4つの赤い円は何を表している?

キトラ古墳の天文図に描かれた4つの赤い円。うち二つの円は交差している。
いったいこの円は何なのかと思っていたが、来村多加史氏が本の中で説明してくださっていた。

・内側の小さな円・・・内規・・・1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲
・外側の大きな円・・・外規・・・観測地点からの可視領域 この外にある星はみえない。
                観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない。
・中間の円・・・・・・赤道   天の北極から90度下におろした線(意味がわからない?)
                天の北極は地球の回転軸(地軸)が天球と交わる点なので、
                地球の赤道を天球に投影した円と考えてもよい。 地球の北極もその線上にある。
・ずれた円・・・・・・黄道   1年を通じた太陽の軌道 (来村多加史氏)

言葉にするとわかりにくいが、下の動画の図で見るとわかりやすいと思う。
2:49あたり・・・天の赤道
10:47あたり・・・黄道


地球の自転軸は公転軸から23.4度傾いているので、天の赤道と黄道は春分点と秋分天を交点として斜めにまじわる。

この動画の10:47あたりに登場する図を見ると黄道は理解できるのだが、キトラ天文図は地球上から天球を見上げた図である。
空間認識能力の弱い私には、地球上から見て黄道がこのような形に見えるというのが理解できなかった。😂

下の動画のように、地球は24時間かけて反時計回りに1周している。
そのため、太陽は毎日東から出て西へ進むわけである。


1年の太陽の動きは下の図のようになる。
下の図は夏至、春分・秋分、冬至のみ描いているが、太陽の動きを全て描き入れるとすると
コイルのように描くことができるだろう。
そして太陽の動きは冬至と夏至で折り返す。
すなわち冬至の南中高度の低い太陽は、冬至を境に再び南中高度をあげていき
夏至に達して南中高度が高くなった太陽は、夏至を境に再び南中高度をさげていく。
太陽が真南にある点をつないだものが黄道なのかもしれないが、その黄道はキトラ天文図のように円形にならない。
天球の上の一本の曲線をいったりきたりする形になるのではないか。(下図 「正午の太陽の動き」黄色の線)

黄道2


上の動画、1:39あたりで10月1日正午という文字がでてくる。
そして「昼なので見えないが、太陽の後ろに星座があり、それが誕生星座」とおっしゃっている。
さらに、次のような説明がある。
4:00 時間とともに太陽は動くが星座も太陽と共に動く。
4:43 太陽と星座は共に西へ動く。太陽は1日で360度、星座は1日で361度動く。1か月で30度ずれる。
8:06 何月何日に生まれた人は何座と決められたのはかなり昔。長い年月が経っているので、現在は星座が一つぐらいずれている。

太陽の高度は動画6:25、射手座を通るあたりで最も低くなっている。
射手座埋まれば11月23日〜12月21日である。
そして冬至は12月22日ぐらいで、この日最も太陽の南中高度が低くなる。
動画6:25あたりで、太陽の位置が低くなっているのは冬至で太陽の南中高度が低くなっていることを示しているのだと思う。

そこから再び太陽の位置が高くなっていき、6:46、おうし座とふたご座の中間あたりで太陽の南中高度は最も高くなっている。
おそらくこのあたりが夏至(6月22日ぐらい)だろう。
ちなみに、おうし座生まれは4月20日~5月20日、ふたご座生まれは5月21日~6月21日である。

地球のある時点で見たとき、正午の太陽は南に見え、この正午の太陽の線をつなぐとほぼ直線のような形になると思う。
(下図 「正午の太陽の動き」黄色の線)

黄道2

動画は太陽は高低さのみの動きで、星座は360度回転させてみせている。
しかし、天文図にはすでに星が描かれている。
星を動かすのではなく、太陽の方を動かすとキトラ天文図のようになるということだと思う。

③キトラの天文図が日本で作られたとは思えない。

キトラ古墳の天文図は不正確ではあるが、同時代の中国・朝鮮の墳墓ではこれほどの天文図は見つかっていない。
そうではあるが、来村氏はこのキトラの天文図を、飛鳥時代の日本で作るのはムリで、外国からもちこんだものだろうとする。
その理由は次のとおり。

・602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。(来村多加史氏)

・天文図の作成には渾天儀が必要だが、日本ではじめて渾天儀が持ちられたのは寛政年間(1789年から1801年)(来村多加史氏)

上は民時代の明時代(1368年~1644年)の渾天儀のレプリカだが、中国では古くから渾天儀を用いており、前漢(紀元前206年 - 8年)のころ、すでに渾天儀が存在していたようである。(来村多加史氏)

・中国では望遠レンズは開発されず、窺管(わくかん)という長い筒が用いられた。
窺管は上下左右に自在に動く。
観測したい星を睨めば星の緯度と経度が同時によめる。(来村多加史氏)

・漢書は118官、783星とした。のちに283、1464星とした。(官は明るい恒星)
張衡は改良を加えた渾天儀で星の数を444官、2500星、微星を含めた星の総数 1万1520とした。
また張衡は水運渾象(すいうんこんしょう)を製作した。
天球儀で、漏刻(水と刑)によって制御されながら、実際ん天球と同じ速度で自動回転する。
のち、北宋時代に蘇頌が水運儀象台をつくっている。(来村多加史氏)

・このような中国の進んだ天文学を考えると、キトラ古墳天文図は日本製ではないと思われる。(来村多加史氏)
水運儀象台
水運儀象台

⑤キトラ天文図は高句麗の夜空を描いたものではなかった。

来村氏は次のようにも述べておられた。
赤道と外規の半径比率から推算した観測地点の緯度が38度付近になるので、高句麗天文図の系譜をひくものとする説もある。

来村氏は名前はあげておられないが、これは宮島一彦氏の説である。

ネットで「キトラ古墳天文図の解析  相馬 充 (国立天文台) 」という記事が見つかり、その中で宮島氏の説についてもう少し詳しく記されていた。

それによれば、
・1998年、宮島一彦氏(同志社大学)は超小型カメラで撮影したキトラ天文図画像から、大まかな解析を行った。
その結果、キトラ天文図の内規と天の赤道の半径の比から、キトラ天文図は北緯38.4度の空を描いたもので
平壌の緯度(39.0度)に近いが、日本の飛鳥(34.5度)や中国の長安(34.2度)・洛陽(34.6度)は該当しないとした。
宮島氏はまた、1998年撮影の画像から天文図の星の位置を解析し、2つの異なる方法を用いて観測年代を紀元前65年と紀元後400年代後半と求めた。
2004年、宮島氏は緯度の推定値を37~38度に修正した。
ただし、宮島氏が用いた画像は不鮮明なので、星の同定や位置に誤りがありえるとした。

平壌は高句麗の都があったところである。

記事には、2004年高精細デジタルカメラで撮影されたキトラ天文図をもとに、相馬氏が解析を行った結果が記されている。
その結果、キトラ天文図は正確なものではなかった。

①黄道の位置が大きく異なる。
②昴宿(プレヤデス星団),畢宿(ヒアデス星団),觜宿(オリオン座の頭の3星 λ,φ1,φ2 Ori)などがかなり拡大されている 
③天津(はくちょう座 Cyg の翼)の向きが大きく異なる
④軫宿(からす座 Crv)の四角形の位置と形や向きが異なる
 ⑤翼宿(距星は α Crt)と張宿(距星は υ1 Hya)の東西位置が逆転している。
⑥張宿の距星の南北位置の誤差も大きい 
⓻北極という星座は 5星のはずだが,6星あり,曲がり方も逆。北極という星座でない可能性がある.

※⓻については、「附属星座ではないか」とする説がある。詳しくは以下の記事をお読みください。
「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊷ キトラ天文図・高松塚星宿図の北極星」
②キトラ天文図には附属星座がくっついている?

附属星座?

天球上の星の位置は赤経・赤緯で表す。
赤経・・・春分点から東向きに測る。
赤緯・・・天の赤道を基準に南北に測る。北向きを正とする。

地球の自転軸は約26,000年を周期に首振り運動をしている。(歳差運動)
そのため、各星の赤経・赤緯、天の北極や天の赤道近くの星も変化する。

各星座の星と天の赤道の位置関係、太陽の通り道である黄道などが正確であれば年代の推定が可能だが、キトラ天文図は正確でないので年代の推定ができない。

それは残念だ。
しかし相馬充氏は「天の赤道や内規などが書かれていることから、いくつかの星はそれらの線を頼りにして描き、残りの星は目分量で書いたのではないか」と考えた。
そしてキトラ天文図に描かれた二十八宿の距星(星宿の中で代表的な星)を測定し、理論値との比較を試みられた。

「西暦400年ごろに赤道近くの9星のうち、おとめ座α、オリオン座δ、ペガスス座α、ペガスス座γ、うみへび座αの5星の誤差が2º以内になる。」
上記記事より引用

この文章は少し意味がわかりにくいのだが、こういう意味だと思う。

相馬氏も説明してくださっているように、地球は歳差運動をしているため、年代によって北極星(天の北極に位置する星)も変わるし、星々の赤経・赤緯も変化する。
西暦400年ごろの理論値と、キトラ天文図を比較すると、赤道近くの9星のうち、おとめ座α、オリオン座δ、ペガスス座α、ペガスス座γ、うみへび座αの5星の誤差が2º以内になる。

9星のうちの5星もの星の誤差がこれほど小さくなるというのは偶然とは考えにくい。
天の赤道に近い距星の中でもこれらの明るい5星を、天の赤道に対して正確に描こうとしたと考えられる。
そこで、これらの5星の位置の誤差が最も小さくなる年代が観測年代だとして、最小二乗法により観測年代を求めた。
その結果は西暦384年±139年となった。
 
最初に「400年ごろ」と書かれているのは大雑把に見積もった年代で、さらに正確な観測年代を求めたところ、西暦384年±139年となった、ということだろうか。

内規・・・1年中地平線下に没しない北天の星 (周極星) の範囲を示す線
外規・・・南天の観測限界の範囲を示す線。
内規と外規の位置は観測地緯度によって決まる。
内規の赤緯は〔90度-緯度〕、外規の赤緯は〔緯度-90度〕。
内規や外規の赤緯が求められれば観測地緯度が得られる。
大気中で光が屈折することから、星の位置は真の位置より浮き上がって見える。(大気差)
地平線上の星の大気差は角度の約35分。
 キトラ古墳天文図では内規に接するように描かれている星が6星ある。
文昌の2星と八穀の4星(図2参照)で、東から、おおぐま座θ、おおぐま座15、やまねこ座15、やまねこ座UZ、きりん座TU、やまねこ座β。
北緯34°とした場合で,星と内規の位置関係がキトラ古墳天文図のものとよく一致する。
6星の位置を計算して観測地緯度を最小二乗法で求めると33.7±0.7度となった.  

 天の赤道と内規の近くの星を総合した解析 上の2節で赤緯が正確に描かれたと考えられる星が天の赤道近くで5星、内規近くで6星の計11星あることが判明した。
内規の近くの星も使って解析をやり直したところ、観測年:300年±90年、観測地緯度:33.9±0.7度 となった。
この緯度に当たる地点としては中国の長安や洛陽。日本の飛鳥もこの緯度に当たるが、日本ではまだ天文観測が行われていなかった。

細かい計算が正しいかどうかはわからないが、どのようにして計算をしたのかは何となく(笑)わかる。

つまり210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高いということだ。

これに該当する中国の王朝は次のとおり。

後漢(東漢) AD23〜AD220
魏(曹魏) 220〜265
呉(孫呉、東呉) 222〜280
蜀(漢、蜀漢) 221〜26
西晋 265〜316
東晋 317〜420
桓楚 403〜404

一方、日本では邪馬台国の卑弥呼が死亡したのが247年。
その後の日本の状況については不明で空白の4世紀と呼ばれる。
来村氏は著書の中で「602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。」と書いておられた。

⑥二十八宿を描いた天井壁画はアスターナ遺跡でも発見されている。

来村氏は「キトラ天文図は正確ではない」とおっしゃっているが、有坂氏は「高松塚の星宿は正確。」とされた。
天文図と星宿は別のものである。
キトラ天文図は正確でなくても、高松塚星宿は正確ではないとは言い切れないかもしれない。
(そもそも、何をもって正確というのかという問題もあるが)
しかし、高松塚の星宿図は一見して、夜空を忠実に写し取ったものというよりは、四角で囲んだ周辺部に星宿を並べたものである。

高松塚古墳 星宿図

高松塚古墳 星宿図

ちなみに同様の星宿図はトルファン・アスターナ古墳でも発見されている。
画像はこちら→古星図に見る歴史と文化 - 大阪工業大学 

アスターナ古墳群は中国新疆ウイグル自治区・トルファン市高昌区にある。
麹氏高昌・唐代618~907年の貴族の墓地とのこと。

高松塚古墳は6世紀末から7世紀はじめごろの古墳と考えられており、どちらが古いものなのかわからないが
来村氏がおっしゃるように、当時の日本で行われた天体観測をベースに高松塚の二十八宿が作られたとは考えにくい。

高松塚と同時期に築造されたと考えられるキトラの天文図は、相馬氏の研究から、210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高い。

すると星宿図も中国で作成され、それがトルファンや日本に伝わったと考えるのが妥当ではないかと思う。

高松塚古墳の星宿図が発見されたばかりのころは、類似した天文図が知られておらず、日本で独自に天文学が発展したとする説を多くの人が唱えていたそうである。

⓻二十八宿について

・キトラ、高松塚は二十八宿を表している。
二十八宿は月の交点周期を測る基準、星の座標をきめる基準、占星術に用いられた。
墓の二十八宿は占星術として描かれたのだろう。(来村多加史氏)

・月の周期は29.53日。地球の公転は1か月で30度。
月が次の満月の位置にくるまでには地球を実際に1回転するよりも余分に2日かかる。(地球が太陽の周囲を公転しているため)(来村多加史氏)

上記リンク先にわかりやすい図解がある。)

この誤差を引いた月の公転周期を恒星月といい、約27.32日
月が一夜毎に天体の中を動いていく様子を調べるには、一恒星月を整数とした27日か28日を単位として、
天球を27か28等分して目安となる星座を設定すればよい。
二十八宿のほか、二十七宿があるのはそのため。(来村多加史氏)

・中国天文学では星の緯度は天の北極からの角度によって表示される。(去極度)
星の経度は入宿度 二十八宿を基準点として計測された
二十八宿の基準点は 西端の星(距星)
二十八宿は赤道からかなり外れる星座も含まれる。(来村多加史氏)

・二十八宿の使い道のひとつに天文占がある。(星占い)
天体の異常現象(日食、月食、流星、彗星)が発生した場所の二十八宿が吉凶の判断基準となる。
二十八宿と人間社会との連帯を決定づける説(分野説)
本来、地球の方角を天球に投影することはできないが(地球は自転しているため)
黄道と赤道が交わる春分点を天の東方(地の西方)秋分天を天の西方(地の東方)の定点として天球に東西南北を与えた。
二十八宿にも方角が与えられる。(東西南北に7宿づつ)
人界の動向を天界の変異で語るため、宿ごとの支配地を論じた。(分野説)(来村多加史氏)



シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑥ 日像・月像



『キトラ古墳は語る/来村多加史(生活人新書)』における来村多加史氏の意見
『黄泉の王』における梅原猛氏の意見
『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子 現代思潮社(1988年)』における小林恵子氏の意見はピンク色で、
ネット記事の引用は青色で、私の意見などはグレイの文字で示す。

間違っているところなどがあれば教えていただけるとありがたいです。

①天文図について

高松塚古墳には日像・月像、星宿図、キトラ古墳には日像・月像、天文図が描かれている。
そこで、これらの像について見てみる前に、簡単に基礎知識を勉強しておこうと思った。

キトラ天文図

上はキトラ古墳天文図のイメージ図である。
赤色で描かれている円、外規、内規、黄道については、のちに高松塚星宿図・キトラ古墳天文図について述べる際に説明する。

まずは天文図の東西南北について。
地図では北を上にした場合、向かって右が東、向かって左が西になるが
天文図の場合は北を上にした場合、向かって右が西、向かって左が東になる。
キトラ天文図もそうなっている。

なぜこうなるかというと、地図の場合は地面を見下ろし、天文図の場合は見下ろすためだ。
地図の場合は顔を下にしてうつぶせに寝転び、天球図の場合は顔を上にして仰向けに寝転ぶと考えたほうがわかりやすいかもしれない。
普通の人はくどくど説明しなくても理解できるのだろうが、私は空間認識能力が鈍いので(汗)、図を描いてみた。

天文図と地図

②地球の自転について。

地球は24時間かけて一周している。
というより、地球が一周する時間を24時間と決めたと言った方が正しい。

上記記事には次のような内容が記されている。

・地球と月の距離が少しずつ長くなっており、それに伴って地球の自転速度も遅くなっている。
・地球は月の引力の影響を受けていて、月の位置によって満潮と干潮が起こります。その「潮汐力(月が地球を引っ張る力)」によって、1年に3.82センチのペースで、月は地球から離れていっている。
・地球から月までの距離
現在・・・約38万キロメートル
14億年前・・・34万900キロメートル
・地球から月までの距離に加え、地球の自転スピードも14億年前は今より速かった。
・14億年前の1日は18.68時間だった。
・1日の長さは、かつて、太陽が真南に位置する時刻から、次に太陽が真南にのぼるまでの平均時間を、24時間として定義された。
・現在はセシウム原子の振動数を基準にした「原子時計」を用いている。
・「原子時計」によって地球の自転は一定ではなく、わずかに遅くなったり速くなったりしていることが判明した。
・原子時計にもとづいた時刻と天文時でズレが0.9秒以内になるように、必要に応じて1秒単位の「うるう秒」を挿入して補正している。

↑こちらの記事には次のような内容が記されている。

・原子時計が発明されて以来、最も短い1日が観測された。
・2022年6月29日の地球の自転時間は、通常の1日24時間より1.59ミリ秒短かかった。
・1950年代以来、原子時計が使われている。
・太古の地球には1日の長さがもっと短い時代があった。
・恐竜がまだ生息していた7000万年前、1日の長さは約23時間半だったという研究結果もある。
・地球の自転速度は1820年代以来、減速が記録されていたが、ここ数年は加速し始めているという。
・自転速度がわずかに速くなった理由は不明。氷床の融解によって陸地が移動する「氷河性地殻均衡」が原因か。

つまり、長期的に見た場合は地球の自転速度は遅くなってきているが、近年のみの自転速度を見ると、遅くなったり速くなったりしていてその原因は不明、ということだ。

②地球の公転について。

地球は約365.25日で太陽の周囲を一周している。

1日は少しずつ長くなっている--地球の変化と公転速度を解説

・地球の公転が減速するにつれ、日の長さの平均時間も長くなっている。
・1日の長さは、100年ごとに平均して1.8ミリ秒(1,000分の1秒)長くなっている。
・日が長くなる理由は、月の重力による引力の作用によって、地球内部(固体部分)周囲に変位が起こり、隆起が生じること。
・地球が公転するにつれ、隆起群は月から遠ざかるが、月がそれらを再び引き戻す。
これによって地球の公転が遅くなる。
・数学的に言うと、地球にかかる月の引力が作用するなら、地球の公転はさらに遅くなるはず。
・100年ごとの日の長さの延長は2.3ミリ秒になる計算。
・しかし、実際には日の遅延はたったの1.8ミリ秒。地球の公転を速めている要因が他にあるはず。
・そのうちの1つの要因は、最後の氷河期。
その時期の氷の重みは地球の両極をわずかに押し下げましたが、その後、現在のように氷がほぼなくなり、両極がまた押し上がってきています。これによって、地球の多くの質量が両極付近に移動し、地球の公転を速めている。
・もうひとつ考えられる原因は地球の核とマントル。

公転と自転のスピードは関係しているだろうと思うが、具体的にどのように関係し、作用しているのかはよくわからなかった。

そうではあるが、自転も公転も長期的にはスピードが遅くなっていると考えればいいだろう。

地球の公転と自転のイメージは、下の動画がわかりやすい。


上の動画で、地球は「青い部分(太陽の光が当たっている部分)」と「黒い部分(太陽の光が当たっていない部分」がある。
この「青い部分」と「黒い部分」は面積が変化しているが、それは本来3次元(縦・横・高さの三つの次元)であるものを2次元(平面)で描いているため、見かけ上の面積が変化するためである。
実際には、常に「青い部分」と「黒い部分」の面積は1:1であるはずだ。

夏至の図


③地軸の傾きと季節、冬至・春分・夏至・秋分。

上の動画「地軸の傾きと季節」に描かれているように、地球の地軸(北極と南極をつなぐ線)は公転軸に対して約23.4度傾いている。
この地軸の傾きによって季節が生じる。

「上から見た図」を見ていただくとお分かりいただけると思うが、地軸の傾きは公転に従って変化するのではなく、
常に北極点が東に傾いたまま公転する。

北極点が太陽に近いとき、北半球では夏になる。
この時、南半球では太陽から遠くなるため冬になる。

上の動画では0:06あたりで、北極点が最も太陽に近くなっている。
この時、北半球は南半球に比べてより多く太陽の光があたる。
北半球では、この時点が夏至で、1年でもっとも昼が長く、夜が短い。
南半球ではこの時点が冬至で、1年で最も昼が短く、夜が長い。

夏至のとき

北極点が太陽から遠いとき、北半球では冬になる。
この時、南半球では太陽に近くなるため夏になる。
上の動画では0:01あたりと0:11あたりで、北極点が最も太陽から遠くなっている。
この時点が冬至。
北半球では1年でもっとも昼が短く、夜が長い。
南半球では1年でもっとも昼が長く、夜が短い。

冬至のとき

動画「地軸の傾きと季節」では、0:14あたりが春分、0:18あたりが秋分である。
このとき、地軸は太陽に対して垂直になっている。

春分点、秋分点にあるとき、地球のどの場所にいても、昼と夜の長さが同じになる。
地球から見て、太陽は真東から登り、真西に沈む。

春分・秋分のとき


上の動画は全部見てもいいが、特に7:00あたりの図がわかりやすい。

ということは、冒頭に示したキトラ天文図は若干のずれはあるのかもしれないが、真東に日が、真西に月が描かれているので、春分または秋分をあらわしているのではないか?
時間帯としては、朝である。
日が東から昇った時、西にはまだ月が残っている。そんな状態を描いたもののようにも思える。

④月の出が毎日約50分ずれるのはなぜ?

月の出る時刻は毎日約50分ずれる。これは何故だろうか。
地球は西から東に約24時間かけて自転している。
月は地球のまわり(360°)を約30日かけて公転している。
月は1日で地球の周囲を12°公転する。(360°÷30=12°/日)❶
地球は24時間で1周(360°)する。地球は1時間で15°動く。(360°÷24時間=15°/時)
地球は1分で0.25°動く。(15°÷60分=0.25°/分)
月が地球の周囲を12°公転するのに必要な時間は48分≓50分
(12°÷0.25°=48分)


実際には地球も公転していて、1日に1度ほど(360°÷365日≒1.12°)反時計回りにずれるので、厳密にいえばこの地球の公転による位置のずれも考える必要があるのだろうが、おおざっぱに月の出は1日に約50分ずれる、と考えておけばいいだろう。

⑥日の出時刻、日の入時刻について

日の出時刻、日の入時刻のほうは、月の出入時刻よりも複雑だ。
月の出入り時刻のほうが複雑でないのは、月の自転軸は公転面に対してほぼ垂直(1.5°)であり、季節がないためである。
すでに述べたように、地球は公転面に対して約24°傾いているため季節が生じる。
季節とは、太陽の日照時間の変化、およびそれに伴う気温の変化の事だといってもいいかもしれない。

リンク先の図が分かりやすいと思う。

地球の公転は1日で約1度ずれる。(360°÷365日=0.98≓1°/日)
夏至のころ(実際には数日ずれる)日の出時刻は最も早くなり、日の入時刻は遅くなる。
夏至付近で折り返して日の出時刻は遅くなっていき、日の入り時刻は早くなっていく。
日の出時刻が最も遅くなるのは冬至ごろ(実際には数日ずれる)である。
ここから折り返して再び日の出時刻は早く、日の入時刻は遅くなっていく。

⓻東に太陽、西に月が見えるのはいつ?

菜の花や 月は東に 日は西に/与謝蕪村

月は東の空から昇って間もなく、太陽はもうすぐ西の地平線に沈もうとしている夕方の光景を詠んだものである。
これは、太陽がほぼ真正面から月を照らしている状態であり、したがって月は満月に近い状態である。
私は実際にこのような光景を見たことがある。
場所は奈良斑鳩の里、法隆寺に近い法起寺付近だった。
このあたりには高い建物がなく、空が広い。ここへ私は満月の写真を撮りに行ったのだが
月を撮影しながら、ふりかえってみると、まだ夕日が西の空に残っていた。

ひむがしの 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ /柿本人麻呂

東の野に炎(かぎろひ)が立っているというのは、日の出前に朝焼けが広がっている光景を思わせる。
そしてふりかえって西を見ると月がいままさに沈もうとしている、というのだ。

これはまだ日が出ていない状態の様に思われるが、「菜の花や 月は東に 日は西に」の逆で「日は東に 月は西に」というような状態になることはあるだろうか。

記事の最初にキトラ古墳天文図の写真を貼ったが、金色の陽が東に、銀色の月が西に描かれている。
これは「日は東に 月は西に」という状態である。
高松塚の星宿図は天井に日像・月像は描かれていないが、東壁上部に日像、西壁上部に月像が描かれている。

高松塚古墳 レイアウト図

有明の月 ありあけのつき
上記記事によれば、「月齢15前後〜29までの月」が有明の月であるという。
有明の月の状態になる機会は多いのだ。
しかし、太陽と月が地平線に近い状態で見える機会はどのくらいあるのだろうか。

2024年の大阪の日の出、月の入、日の入、月の出、時刻を 「大阪(大阪府)のこよみ」で調べて、「日の出と月の入時刻」または「月の出と日の入時刻」が1時間以内のものをピックアップして、朝は赤、夕方は青で
その中でも30分以内のものは太字で示した。
さらに、日と月が同時に見れるものにアンダーラインを引いた。

その結果、日と月が同時に見えることは朝・夕ともあるが、特に規則性はないように思った。
(1年分しか調べていないが、本当は数年分調べるべきだろう。汗)
そうではあるが、高松塚・キトラ古墳の日像は東、月像は西に描かれているので春分または秋分の満月に近い日を描いたものなのかもしれないと思った。
春分、秋分には彼岸の行事が行われるが、もしかして古墳壁画の東に日像、西に月像を描くことと関係があるのだろうかと考えたりした。

細かい時間を見るのがメンドクサイという人は飛ばして次へ。

※月の出入時刻と日の出入時刻は、定義が違うので注意。
月の出・月の入の時刻・・・月の中心が地平線または水平線に一致する時刻
日の出・日の入の時刻・・太陽の上辺が地平線または水平線に一致する時刻
日の出・・・太陽が地平線または水平線から見え始める瞬間
日の入・・・太陽が地平線または水平線に沈みきって見えなくなった瞬間

”一方、月は形が変わるため、頂点と地平線との関係で「出」と「入り」を定義することができません。したがって、月の中心が地平線と重なった瞬間を「月の出」「月の入り」の時刻と定義しています。”
太陽と月の南中時刻の求め方と季節変化 それぞれの共通点・相違点は?より引用

※太陽の視直径(見かけ上の大きさ)・・・約0.5°(満月とほぼ同じ大きさ)①
太陽が天球(360°)を一周する時間・・・約24時間
太陽が1時間で天球を移動する角度・・・・・・360°÷24時間=15°
太陽が1分で天球を移動する角度・・・・・・・15°÷60分=約0.25°②
太陽の「出始め」から「出終わり」までに要する時間・・・①÷②=0.5°÷0.25°=2分

太陽は垂直には昇ってこないので、2分よりも時間がかかる。
日本では通常、太陽の「出始め」から「出終わり」まで、2分20秒~40秒ぐらいかかる。

月の視直径(見かけ上の大きさ)・・・約0.5°(満月)③
月は1日で地球の周囲を12°公転する。
月が1日に天球を移動する角度・・・360°+12°=372°
月が1時間で天球を移動する角度・・・372°÷24時間=15.5°
月が1分で天球を移動する角度・・・15.5°÷60分=0.258°④
満月の「出始め(満月の上部が見え始める瞬間)」から「出終わり」までに要する時間※0.5°÷0.258°=1.94≓2分
月は垂直には昇ってこないので、2分よりも時間がかかる。
どのくらいかかるかは調べてもわからなかった。
但し、「月の出・月の入の時刻」の定義は「月の中心が視地平線または水平線に一致する時刻」だった。
満月が地平線より半分出ている状態が月の出ということになる。
満月が地平線から完全に出るためには、1分よりも時間がかかるということになると思う。

1月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
24   15:41  6:06    12.6 7:02 17:18     
25   16:42  6:52    13.6 7:01 17:19
26   17:43    7:31     14.6 7:01 17:20
27   18:42    8:03     15.6    7:00   17:21 
28   19:40    8:31     16.6    7:00   17:22 


2月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
23  16:35  6:06  13.2    6:36   17:48
24  17:33    6:35  14.2     6:35   17:49  
※6:35は月が半分見えており、日が正に昇ろうとする瞬間。地平線が見えるならば、ぎりぎりで月も日もみえるだろう。
25    18:30    7:00  15.2   6:33  17:50 
26    19:25     7:24 16.2   6:32  17:50 
27    20:21     7:46  17.2     6:31  17:51

3月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
23  16:24    5:05    12.7 5:58 18:12 
24     17:20    5:29    13.7   5:56 18:13 
25     18:15    5:51    14.7   5:55  18:14 
※18:15、月は半分でている状態で、日は1分前の18:14に沈み切っている。月は1分くらいで半分でてくるので、太陽と月の両方が見えるかどうか、微妙だと思う。
26     19:11  6:14    15.7  5:53  18:15 
27     20:09    6:37    16.7    5:52 18:15

4月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
22  17:04    4:19     13.4 5:18 18:36
23  18:02    4:42     14.4 5:17    18:37 
24  19:02    5:07     15.4 5:15   18:37 
25  20:04    5:35     16.4 5:14   18:38 
26  21:07    6:08     17.4 5:13   18:39

5月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
21     16:51   3:09     13.0   4:51  18:59
22     17:53   3:36     14.0   4:50  18:59 
23     18:57   4:08     15.0   4:50  19:00 
24     20:02   4:46     16.0   4:49  19:01
25      21:05  5:32     17.0   4:49  19:02

6月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
20  17:48    2:41   13.6   4:45   19:14
21     18:52    3:24  14.6    4:45   19:15
22     19:53    4:17  15.6    4:46   19:15 
23      20:47   5:18  16.6    4:46   19:15 
24      21:33   6:27  17.6     4:46  19:15 

7月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
19     17:39    2:03  13.2  4:59  19:10
20     18:36    3:01  14.2  4:59  19:09 
21      19:27   4:08  15.2  5:00  19:09
22       20:09  5:21  16.2  5:01  19:08
23       20:45  6:35  17.2  5:02  19:07 

8月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
18  18:01    2:56  13.7      5:21  18:43 
19     18:40   4:11   14.7      5:21  18:41 
20     19:14   5:26   15.7      5:22  18:40 
21     19:45   6:39   16.7      5:23  18:39 
22     20:14   7:52    17.7     5:24  18:38

9月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
16      17:09  2:58    13.0     5:42 18:04 
17      17:41  4:13    14.0     5:42  18:02 
18   18:11   5:26    15.0     5:43  18:01 
19   18:41   6:40    16.0     5:44  17:59 
20      19:13   7:54    17.0  5:45  17:58 

10月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
16  16:37   4:12     13.3 6:33  16:53 
17     17:08   5:25     14.3 6:34  16:52 
18     17:42   6:40     15.3   6:35   16:52 
19     18:21   7:57     16.3 6:36  16:51
20   19:07  9:13      17.3   6:37  16:51 

11月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
15   16:11  5:27     13.6   6:32   16:53 
16     16:53  6:44     14.6   6:33   16:53 
17     17:44  8:00   15.6 6:34  16:52
18     18:43  9:10     16.6  6:35 16:52 
19      19:4710:12  17.6    6:36  16:51 

12月
日付 月出 月入 月齢 日出 日入
15      16:24  6:46    13.9    6:58  16:49
16      17:26  7:53    14.9    6:58  16:49 
17      18:33  8:49  15.9   6:59  16:49 
18      19:41  9:36    16.9    7:00  16:50 
19      20:46 10:13   17.9    7:00  16:50 

⓻高松塚の日像、月像は金銀箔がはぎとられていた。

・高松塚の日と月の金銀箔がはぎとられている。(梅原猛氏)

高松塚 日像

高松塚 日像(高松塚壁画館似て撮影)

高松塚 月像

高松塚 月像(高松塚壁画館似て撮影)

日像・月像・玄武の剥落は盗賊が驚いてこれらをつぶしたという説がある。
これについて梅原氏はつぎのようにおっしゃっている。

・死体をあばく盗賊がどうして玄武の絵などに恐怖をもとう。(梅原猛氏)

この梅原氏の意見には同意する。

・日月は金箔、銀箔をはがすためだという人があるが、金箔・銀箔は日月より天井により多く貼られているではないか。(梅原猛氏)

私は「金箔銀箔をはがすため」という可能性はあると思う。
天井の金箔をはがすために腕を上にあげるのはきつい作業になる。壁の金箔をはがす方が作業は楽そうだ。

・「死体には最初から頭蓋骨が無く、日月玄武は最初から傷つけられていた」
その理由は「死体を蘇らせないため」(梅原猛氏)

玄武

高松塚 玄武

②キトラ古墳 日像・月像には八咫烏、兎・樹木・ヒキガエルが描かれていた?

キトラ 日像

キトラ 日像

キトラ 月像

キトラ月像

・キトラ日像上部右寄りに黒い鳥の羽と尻尾の先端がある。八咫烏が描かれていたのだろう。
(永泰公主の墓にある八咫烏と一致する。)
月像月輪下部中央に器物の高台、左に曲がった獣の脚、上部に樹木の葉がある。(来村多加史氏)

・ウサギは崑崙山で西王母のために生薬を杵つき不老不死の薬を作っている。樹木は不老不死の生薬となる。
ヒキガエルも描かれていたと考えられる。高松塚にも描かれていたのではないか。(来村多加史氏)

③高松塚・キトラ古墳の日像・月像の下にある赤線は日の出、日の入りの海の色?

・(永泰公主墓・高松塚、どちらにも同様の海島と海が表現されているので)赤線は日の出、日の入りの海の色だろう。(来村多加史氏)


リンク先に、永泰公主墓の日輪図のイラストが掲載されているが、海ではなく山岳と雲海のように見える。
来村氏は海だとおっしゃるが、梅原氏は雲だとおっしゃっていた。
どちらが正しいかわからないが、日・月を雲の上に乗せる表現は後年の熊野勧心十戒曼荼羅や北野天満宮の三光門にもみられる。
ただし、キトラ古墳壁画のように線であらわすのではなく、もくもくとした雲である。

三光門 太陽?

北野天満宮 三光門

熊野勧心十戒曼荼羅

熊野勧心十戒曼荼羅

来村多加史氏は「日の出・日の入の海の色」とおっしゃっているが、もし日像・月像の下にひかれた赤線が海であるとすれば、それは日の入ではなく、日の出の海の色ではないかと思う。
その理由は、太陽が東に、月が西に描かれているからだ。
陰陽道の宇宙観では太陽の定位置を東、月の定位置を西、中央を星とするのだという。
高松塚・キトラ古墳の日像・月像は陰陽道の宇宙観に従って表現しただけかもしれないが、太陽が東に、月が西にあるのは日の出のときだからだ。

高松塚日像、月像は剥ぎ取られているため、よくわからないが、
日像は赤い線より上に、月像は赤い線から3分の2ほど出ているように思える。
赤い線が海だとすれば、日が昇り切り、月は3分の1ほど水平線に沈んだ状態をえがいたものなのかもしれない。

キトラ古墳のほうは、日像・月像ともに赤い線の中ににわずかに沈み込んでいる。


シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⓻ 高松塚星宿図・キトラ天文図・二十八宿  へつづく~

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑤四神



『キトラ古墳は語る/来村多加史(生活人新書)』における来村多加史氏の意見
『黄泉の王』における梅原猛氏の意見
『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子 現代思潮社(1988年)』における小林恵子氏の意見はピンク色で、
ネット記事の引用は青色で、私の意見などはグレイの文字で示す。

陰陽五行説と麒麟

高松塚古墳には、四神・人物群像・星宿図・日像・月像が
キトラ古墳には、四神・十二支像・天文図・日像・月像が描かれていた。

高松塚 解体実験用石室

高松塚 展開図 飛鳥資料館説明版より

キトラ天文図

キトラ展開図 キトラ古墳 壁画体験館 四神の館 説明板より

まず四神についてご紹介する前に、四神とは何か、についてみてみることにしよう。

四神とは、中国で発祥した陰陽五行説から生み出された聖獣である。
五行とは、万物は木火土金水の5つの要素でできているとする考え方で
木=青火=赤土=黄金=白水=黒であらわす。

季節では春=木、夏=火、秋=金、冬=水。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまうが
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割りふられた。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのである。

土用

春・・・旧暦1月2月3月・・・・・木性   3月の終わりの18~19日間=春土用
夏・・・旧暦4月5月6月・・・・・火性   6月の終わりの18~19日間=夏土用
秋・・・旧暦7月8月9月・・・・・金性   9月の終わりの18~19日間=秋土用
冬・・・旧暦10月11月12月・・・  水性     12月の終わりの18~19日間=冬土用

方角では
北・・・水・・・玄武(黒)
東・・・木・・・青龍
南・・・火・・・朱雀
西・・・金・・・白虎 

さきほど、「木=青、火=赤、土=黄、金=白、水=黒であらわす」と書いたが、玄武は黒、青龍は青、朱雀は赤、白虎は白であらわされ五行の色が用いられている。
ここでも季節の場合と同様、土(黄)があまってしまう。

土をあらわす聖獣は、麒麟である。

麒麟について来村多加史氏は次のようにおっしゃっている。

・部屋や墓室の天井と床は陰陽説の天地の面で、五行のものではなく、麒麟を描く場所はない。
・麒麟・・・胴体は鹿、蹄は馬、尻尾は牛荷にて、頭には根元を肉で包まれた柔らかい独角がある。
優しく、殺生をせず、聖人が王道を行っていれば現れる。
・麒麟の原型は鹿だろう。
・四神ではなく五神として論議するべき。(来村多加史氏)

麒麟
三才図会に描かれた麒麟(明代)

②黄龍

来村氏は述べておられないが、黄龍という聖獣もいる。
四神の玄武は北、青龍は東、朱雀は南、白虎は西の守護神である。
そして黄竜はそして中央の守護神であるという。
また、黄色は五行説の土に該当し、春夏秋冬それぞれに存在する土用(春土用、夏土用、秋土用、冬土用)を表すともいわれる。
中国古書『荊州占』では、「黄竜(庚辰)は太一の妻」と記されているとのこと。
黄龍は後に麒麟と置き換え、または同一視されるようになったらしい。

↑ これは集安地域の高句麗古墳壁画についての記事だが、墓室の天井に黄龍が描かれている。
天井に描かれているということは、黄龍は天の川を神格化したものなのかもしれない。
寺院の天井に龍が描かれていることがあるが、もしかしたらあれは黄龍をイメージしたものなのだろうか、などと考えてしまう。

四神にはそれぞれ司る方位、季節、そしてその象徴する色などがある。

四神(四獣)    五方 五時   五色   五行 四象     爻      五佐
青龍        東   春   緑(青)  木 少陽     少陽   句芒(こうぼう)
朱雀        南   夏   赤(朱)  火 太陽(老陽) 老陽   祝融(しゅくゆう) / 朱明(しゅめい)
白虎        西   秋   白     金 少陰     少陰   蓐収(じょくしゅう)
玄武        北   冬   黒(玄)  水 太陰(老陰) 老陰   玄冥(げんめい)
黄竜または麒麟   中央  土用  黄     土 后土(こうど)

来村さんも書いてくださっているが、陰陽五行説には『相生説』と『相克説』がある。
『相生説』とは、五行が対立することなく、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を生じていくという説。
『木生火』・・・・・・木は摩擦により火気を生ずる。
『火生土』・・・・・・火は燃焼して灰(土)を生ずる。
『土生金』・・・・・・土は金属を埋蔵している。
『金生水』・・・・・・金属は表面に水気を生ずる。
『水生木』・・・・・・水は植物(木)を育てる。

『相剋説』は五行同士が相互に反発し、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を剋していくとする説。
『木剋土』・・・・・・木は土中の栄養を奪う。
『土剋水』・・・・・・土は水の流れをせきとめる。
『水剋火』・・・・・・水は火を消す。
『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。
『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。

⓻十干・二十四方位・二十八宿

・十干 (甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)は万物は木火土金水から成るとする五行説からくる。)
 甲(きのえ)・・・木の兄
 乙(きのと)・・・木の弟
 丙(ひのえ)・・・火の兄
 丁(ひのと)・・・火の弟
 戊(つちのえ)・・・土の兄
 己(つちのと)・・・土の弟
 庚(かのえ)・・・金の兄
 辛(かのと)・・・金の弟
 壬(みずのえ)・・・水の兄
 癸(みずのと)・・・水の弟 (来村多加史氏)

・二十四方位

二十四方位


・『史記』『封禅書』によれば、人界五帝のうち、青帝・赤帝・白帝・黒帝の四帝を祀る檀を築いたが、中央に祀るべき黄帝太一の祭壇を避け、未の方角で祀られた。(来村多加史氏)

・黄帝に配属される麒麟も未の方角に描かれるべきと考えた孫機氏は、多くの鏡の未の方向に描かれていることを発見した。(来村多加史氏)

なぜこのような祀り方をしたのかについての来村氏の説明

五帝壇配置図
図1

帝    色   五行  方角  二十四方位
黒帝・・・黒・・・水・・・北・・・壬亥
青帝・・・青・・・木・・・東・・・甲寅
赤帝・・・赤・・・火・・・南・・・丙巳
黄帝・・・黄・・・土・・・南・・・丁未  ※本来、土は中央だが、中央を避けて未丁の位置に祀った。
白帝・・・白・・・金・・・西・・・庚申
(来村多加史氏)

方格規矩四神鏡

方格規矩四神鏡は上の図をデザインしたもの(孫機氏 説)

・二十四方位・二十八宿・四神の相関図

二十四方位・二十八宿・四神の相関図

図2

③黄龍は天、麒麟は地?

・五神は、北=玄武、東=青龍、南=朱雀、西=白虎、中央=麒麟だが、麒麟があまり描かれないのは
図1のような偏った配置でなく、図2のように四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)を中央においたためではないか。
(来村多加史氏)

私はこの来村氏の意見には納得できない。
図1、図2は平面図だが、本来は立体であるべきで、上が黄龍、下が麒麟なのではないか。
(五神のうち中央は黄龍または麒麟とされる。)

高松塚・キトラ古墳にあてはめて考えれば、天井(上)にある星宿図または天文図が黄龍に置き換えられたと考えられるのではないか。
また下にいると考えられる麒麟は被葬者ということになる。

なぜ麒麟が下なのか。
来村氏は麒麟のモデルは鹿だとおっしゃっていた。
そして「鹿は謀反人の比喩」とする説があり、私はこれを支持している。

日本書紀に「トガノの鹿」という物語がある。
雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢をみた」というと、雌鹿は偽った夢占いをして「霜だと思ったのは塩であなたは殺されて全身に塩を振られているのです」と答えた。
雌鹿の言葉通り、雄島は猟師に射られて死んでしまったという。
古には謀反の罪で死んだ人は塩漬けにされることがあったというのだ。

ここから、鹿とは死者のことだと考えられる。

雄鹿の全身に霜が降る、というのは、鹿の夏毛の白い斑点を塩に喩えたものだろう。
そして動物のキリンは五行説の土を表す黄色をしており、白ではなく茶色だが、斑点がある。
ここから、鹿は麒麟という想像上の聖獣へと変化していったのではないか。

とすれば、麒麟も鹿同様、死者を表すものだと考えられるのではないか。

1079290_s.jpg

④最古の四神

最古の四神の例は西水玻遺跡。
新石器時代の貝殻絵で、貝殻を並べて東に龍と西に虎が描かれている。
北側の足元には人の大腿骨日本と三角形に敷き詰めた貝殻を組み合わせてひしゃくの形をつくっていた。
北斗七星か、またはこぐま座かもしれない。
墓の南20mほどの場所には龍、虎、虎の背に乗る鹿、龍の頭に近づく雲が貝殻で表現されていた。
其の25mほどのところにも竜虎がある。(来村多加史氏)

ウィキペディアによれば龍虎のレリーフは6400年前とある。(すべてのレリーフが6400年前かどうかはわからない。)
↑ こちらの記事に図がしめされていた。

●上村嶺虢国墓(じょうそんれいかくこくぼ/春秋時代)から出土した鳥獣紋鏡は、上に鹿、下に鳥、向かって右に虎、向かって左に龍が描かれている。
古い時代には玄武は登場しない。(来村多加史氏)

四神図は一般的に次のようなレイアウトで描かれる。

四神図

東(向かって右)が青龍、西(向かって左)が白虎である。
ところが、鳥獣文鏡は、向かって右には虎、向かって左に龍が配置されていて、一般的な四神図と虎・龍の位置が反対になっている。


鳥獣文鏡

↑ これは鏡の模様のある面を上にして、鹿を北に向けておいた場合の図である。
しかし、鏡面が表なのではないかと思う。
そこで鏡面を上にして鹿を北に向けて(鏡面から鹿鳥龍虎は見えないが)置くと、四神図のレイアウトどおりになる。

・戦国時代初期(紀元前5世紀頃)曾侯乙墓(そうこういつぼ)から出土した衣装箱 
蓋上面に斗の字が描かれ、周囲に二十八宿の字が並ぶ。
南西に白虎、北東に青龍、龍型の面に舟形、虎方に蛙、南東には何も描かれていなかった。
鳥は他の衣装箱に描かれていたが、玄武は描かれていない。(来村多加史氏)

曾侯乙墓出土の漆塗衣裳箱のイラストが掲載されている。

・昔の大型土洞墓では、青龍、白虎、朱雀が描かれるが玄武はあまり描かれない。(来村多加史氏)

・「方に今、平城の地は四禽図に叶ひ・・・」と和銅元年の奈良遷都の詔にある。(梅原猛氏)
「四禽図に叶ひ」とは四神が四方からこの都を守っているという意味だろう。

・四神思想の原典は礼記であり、天子が軍を進めるにあたり、前に朱雀・後ろに玄武・左に青龍・右に白虎の旗をたて、上に北斗七星の柄のところにある星の旗をたてて行進する様を示す。(梅原猛氏)

礼記は周(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)から漢(前漢/紀元前206年 - 8年、後漢/25年 - 220年)にかけての儒学者がまとめた礼に関する記述を、前漢の戴聖が編纂したもの。

”四霊(しれい、Siling)は、『礼記』礼運篇に記される霊妙な四種の瑞獣のことをいう。四瑞(しずい)とも。
麟(りん、麒麟)・鳳(ほう、鳳凰)・亀(き、霊亀)・竜(りゅう、応竜)を言う[1][2]。
四神と通用する(四神を四霊(もしくは天之四霊)、あるいは四霊を四神と呼ぶことがある[3])。”
ウィキペディア「四霊」より引用
このときはまだ玄武・青龍・朱雀・白虎ではなくて、麒麟・鳳・亀・龍であったということだろうか。

こちらの記事には『淮南子(えなんじ)』(紀元前139年に献上)に登場する、とある。

⑤四神に守られたものは天皇?

・君主は天の世界の支配者でもある。四神に守られたものが天皇。(梅原猛氏)

つまり梅原猛氏は、高松塚に四神図を描いてあるのは被葬者が天皇に近い人物だとおっしゃりたいのかもしれない。
もし、そういう意味であれば唐や高句麗に四神が描かれている壁画古墳は、皇帝または皇帝に近い人物だということになるが、本当にそうなのだろうか。

⑥唐、高句麗の壁画古墳に描かれた四神

・高句麗の初期の壁画古墳には、人物・風俗を描いている。(小林恵子氏)
5世紀半ばから四神像がみられるようになり、人物・風俗と混在するようになる。
7世紀後半には、雄大な四神像のみ描かれるようになる。(小林恵子氏)

・唐の壁画古墳は10数基のみ。四神像が描かれているのは2基のみ。多くは人物像。
漢代には星宿が描かれていたが後期には天漢(銀河)に変わっている。(小林恵子氏)

・橿原市河西町新沢126号墳出土の円形の漆盤に四神が描かれていた。(小林恵子氏)

これはネットで検索しても画像が出てこないが、そういうものが出土したという記事はある。

⓻高松塚・キトラ古墳に描かれた四神

それでは高松塚・キトラ古墳に描かれた四神を見てみよう。

玄武
玄武

高松塚古墳 玄武 (高松塚壁画館にて撮影 撮影可)

「壁画古墳 高松塚」66ページで網干善教氏は「(高松塚の玄武像は)中央に大きく欠きとった痕跡があって」と記している。
玄武は人為的に削り取られたとみてよさそうである。


玄武

玄武 (キトラ古墳 四神の館にて撮影)

青龍

青龍 高松塚壁画館

高松塚 青龍

首に☒マークがあるのが特徴。薬師寺薬師如来台座の青龍にも同様のマークがある。

薬師寺 青龍



青龍

キトラ 青龍

白虎

白虎

高松塚 白虎

白虎

キトラ 白虎

キトラ古墳の白虎は高松塚古墳の白虎とよく似ているが、向きが逆になっている。
キトラのように向かって右向きに描かれる白虎は珍しいとのこと。
なぜキトラの白虎は逆向きに描かれたのだろうか?

朱雀

朱雀

キトラ 朱雀 

高松塚盗掘穴の石は残っていた。朱雀はないのではなく、漆喰がはがれている。/伊達宗康氏

高松塚古墳壁画の朱雀は漆喰が剥がれ落ちて、紛失されたと考えられているが
梅原猛氏は「最初から朱雀は描かれていなかったのではないか」と意見を述べられている。

「天子が軍を進めるにあたり、前に朱雀・後ろに玄武・左に青龍・右に白虎の旗をたて、上に北斗七星の柄のところにある星の旗をたてて行進する様を示す。」
と梅原氏は書いておられた。

天子は南面して、北から南に向かって軍を進めるということだろう。
しかし南には朱雀がないので、被葬者は軍を南に進めることができないという呪術的しかけなのだろうかと考えたりした。

衣装箱の場合だと、大事な衣装が外にでていかない。つまり、衣装持ちになれる。そういうわけで朱雀を描いていないのではないかと考えるのは、トンデモだろうか?(笑)



次回へつづく~

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew④遺骨から鑑定した被葬者の年齢



『高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(1972年)』
『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子 現代思潮社(1988年)』
『高松塚は高市皇子の墓/土淵正一郎(新人物往来社)』
における記述内容はピンク色文字で

「黄泉の王―私見・高松塚/梅原猛 (新潮社 1973年)6/1/」は水色文字で、
「壁画古墳 高松塚 調査中間報告調査中間報告/橿原考古学研究所(奈良県教育委員会)1972年」はオレンジ色文字
「壁画古墳 高松塚 調査中間報告調査中間報告/橿原考古学研究所(奈良県教育委員会)1972年」における表については緑色文字

私の意見などはグレイの文字で示す。

①高松塚の遺体には頭蓋骨がなかった。

・頭骨が全部残っているとある程度のことがわかる。頭骨がない場合には少しのことしかわからない。
歯はかなりよくわかる。大阪の黄金塚には歯しか残らなかったが、薄く切って顕微鏡で見て4,50代の男性でやや角張った丸顔と報告がある。(森浩一氏/「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(1972年)」)

・顎部以下の諸骨は残存しているのに、頭蓋骨は小破片すら残存しない。
高松塚古墳の被葬者の人骨については、頭蓋骨と下顎骨の破片も発見されていない。
骨を鑑定した島五郎氏によれば、頭蓋骨につづく舌骨、化骨甲状軟骨、前頸椎は残っているので斬首はありえない。
白骨になってから頭骨を引き抜いたのだろう。(小林恵子氏『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子 現代思潮社(1988年)」

・律によれば、謀反人は斬首。計画した者は絞首。斬首の方が罪が重く、首と胴体が離れる未来永劫に亘る死刑に処される。
斬首も絞首も同じと考えるのは現代人の感覚。(小林恵子氏『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子 現代思潮社(1988年)」)

・高松塚の遺骨から、筋骨発達し、腕が長く、足が大きい。大柄。大腿筋が発達している。乗馬の習慣があったか。慢性疾患はなく急死の可能性が高い。推定死亡年齢は熟年者(40~50歳)(小林恵子氏『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子 現代思潮社(1988年)」)

・着衣の切れ端も見つかっていない。棺材に残った麻布や鏡の紐は残っているので、最初から衣はなかったのだろう。
着衣もなく葬るというのはありえない。死者を冒涜するために初めから破壊されていたと推定される。(小林恵子氏『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子 現代思潮社(1988年)」)


②弓削皇子は30歳以下で亡くなった。

梅原猛氏は高松塚の被葬者を弓削皇子だと考えておられる。

弓削皇子の薨去年は699年だが、生年は不明である。
しかし、673年ごろに生まれたと考えられている。その理由は以下。

弓削皇子は693年に同母兄の長皇子とともに浄広弐に叙せられている。
大宝律令の蔭位の制によれば、親の位階によってその子孫が21歳になったときに位が与えられることになっていた。

蔭位資格者は皇親・五世王の子、諸臣三位以上の子と孫、五位以上の子となっている。

親王の子 → 従四位下
諸王の子 → 従五位下
五世王の嫡子 → 正六位上(庶子は一階を降す)

諸臣
一位の嫡子 → 従五位下
以下逓減して
従五位の嫡子 → 従八位上
(庶子は一階を降し、孫はまた一階を降す)

つまり、弓削皇子は浄広弐に叙せられた693年、21歳だったと考えられる。
すると、693年-21歳=672年となるが、21歳というのは数え年だと思われる。

数え年とは生まれたときを1歳とし、元日に年齢をひとつ加算していく年齢のカウント方法である。
なので、弓削皇子の生年は672年+1歳=673年。
弓削皇子の薨去年は699年なので、699年-673年=26歳(数え年では27歳)となる。

しかし、高松塚の遺骨の鑑定結果は、40歳から50歳となっている。

「高松塚古墳の被葬者が30歳以下の確率は約半分もある」は間違いだと思う。

島五郎氏は高松塚古墳の被葬者の年齢を次のように鑑定された。

骨の鑑定結果・・・30歳~70歳までの男子。筋骨たくましい初老の大男。
1本だけ残っていた歯の摩耗状態・・・40歳~50歳

梅原氏が創元社刊『高松塚壁画古墳』170pから引用されている島氏の鑑定は次のような内容である。

❶骨盤があればほぼ確実に性を決定できるのだが、小さな破片しか残っていなかった。

❷四肢骨は非常に太く、上腕骨の三角筋粗はよく発達し、その他の骨も筋肉付着部のきめがあらいことから、筋骨の発達良好な男性と考えられる。

❸歯は下顎の第三大臼歯が2本、小臼歯1本。

❹歯の咬耗度は、エナメル質全面にわたるものおよび象牙質が点状また線状に露出する程度。
歯の咬耗度から考えて、20歳~29歳以下である確率はかなり少ない。

❺第三大臼歯の萌出年齢は16~30歳と広いため、年齢推定はむずかしい。

❻咬耗度は2度。(6~8年程度で2度になる。)

これに対する梅原氏の反論。

❹❺❻から年齢推定は次のようになる。(16歳~30歳)+(6年~8年)=(16歳+6年)~(30歳+8年)=22歳~38歳
平均すると30歳。
30歳以下の確率は約半分もある。
そうであるのに、島氏は「❹歯の咬耗度から考えて、20歳~29歳以下である確率はかなり少ない。」としておられて矛盾している。

年齢を書きだしてみよう。
22歳、23歳、24歳、25歳、26歳、27歳、28歳、29歳、30歳、31歳、32歳、33歳、34歳、35歳、36歳、37歳、38歳
これらの年齢のちょうど真ん中が30歳となる。
そして30歳未満の年齢は22歳、23歳、24歳、25歳、26歳、27歳、28歳、29歳で8つ。
30歳超の年齢は31歳、32歳、33歳、34歳、35歳、36歳、37歳、38歳で8つ。
それで梅原氏は30歳以下の確率は約半分もある、とおっしゃったのだろう。

私は理数系が苦手なので自信がないが(汗)、梅原氏のように考えるのではなくて、
それぞれの年齢で第三大臼歯が生えてくる割合を考慮する必用があるのではないだろうか。

仮に(実際の数字ではない)
❶16歳から20歳で第三大臼歯がはえてくる人の割合を10%、
❷21歳から25歳で第三大臼歯が生えてくる人の割合80%
❸26歳から30歳で第三大臼歯が生えてくる人の割合を5%
としよう。

10%+80%+5%=95%で100%にならないような数字にしたのは、大三大臼歯は親知らずであり、生えてこない人もいるからである。

咬耗度が人によって大きな違いはないと仮定し、6~8年で咬耗度が2度になるということは
❶(16歳+6年)~(20歳+8年)=22歳~28歳 10%
❷(21歳+6年)~(25歳+8年)=27歳~33歳 80%(❹仮に27歳~30歳20%、❺30歳~33歳60%とする。)
❸(26歳+6年)~(30歳+8年)=32歳~38歳 5%

この場合、被葬者が30歳以下である確率は❶+❹で30%となるのではないだろうか。

③島氏は第二臼歯と第三臼歯の両方の可能性を示している。

以下は梅原氏の『黄泉の王』に引用された『調査中間報告書/橿原考古学研究所』(「壁画古墳 高松塚 調査中間報告調査中間報告/橿原考古学研究所(奈良県教育委員会)1972年」の事だと思われる。)における島氏の発言をまとめたものである。

歯牙による推定年齢
残存歯牙大臼歯2、小臼歯1
・下顎右側大臼歯は第一大臼歯ではない。第三大臼歯と考えているが、第二大臼歯かもしれない
 咬耗はエナメル質のほぼ全面に及ぶ 象牙質がゴマ粒大、より小さい点状大の二か所で露出
・上顎左側大臼歯は第三大臼歯。
 咬耗はエナメル質全面 象牙質の露出なし象牙質露出直線の状態

大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー

     下顎第2大臼歯  下顎大3臼歯       上顎 第三大臼歯
     象牙質が点状または線状に露出        エナメル質全面にわたる
20~29歳 14.3%       0.%            19.6%
30~39歳 16.3%       2.4%            55.0%
40~49歳 43.8%       37.0%           69.0%
50~59歳 27.1%       20.7%           76.9%
60歳以上 14.9%       43.5%            30.4%

・第2第3臼歯の咬耗が、エナメル質全面に亘るもの、象牙質が点状、線状に露出するものの頻度は、20~29歳群では高くない。
・このような咬耗度をもつ大臼歯による推定年齢の変異幅は広い。
・萌出年齢の変異幅の広い歯牙(第三大臼歯の萌出年齢は16~30歳)
・大臼歯の萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる)

これに対する梅原氏の反論

❶『中間報告書』と『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』で歯の種類が異なっている。

『中間報告書』・・・・下顎右側第三臼歯(第二大臼歯の可能性も)1
           上顎左側大臼歯は第三大臼歯 1
           小臼歯1                       
『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』・・・下顎の第三臼歯2、
                 (第3臼歯は左右一本づつなので、左右の第三臼歯があるということだろう。)
                  小臼歯1

❷下顎右側第三臼歯(第二大臼歯の可能性も)
とあるが、歯を特定しなければ年齢の鑑定がかわってくる。
第二大臼歯(15歳ぐらいまでにはえる)と第三臼歯(親知らずなので、16歳~30歳くらいではえてくる。)

『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』は未確認だが、梅原氏のいうとおりであれば、
梅原氏の❶の指摘はそのとおりだ。

もしも、『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』の記述が正しいのであれば、島氏は『中間報告書』の記述は「誤りであった」と一言書いておくべきだったかもしれない。

❷もそのとおりだが、島氏は下顎右側の大臼歯が第三大臼歯なのか、第二大臼歯がわからないため、
次の表で第三大臼歯なと第二大臼歯両方の確率をしめされている。

大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー

    下顎第2大臼歯    下顎大3臼歯       上顎 第三大臼歯
     象牙質が点状または線状に露出        エナメル質全面にわたる   
20~29歳 14.3%       0.%            19.6%
30~39歳 16.3%       2.4%            55.0%
40~49歳 43.8%       37.0%           69.0%
50~59歳 27.1%       20.7%           76.9%
60歳以上 14.9%       43.5%            30.4%


島氏は高松塚古墳の被葬者の下顎大臼歯を「象牙質が点状または線状に露出」した状態であり、
この下顎大臼歯が第2大臼歯の場合、20~29歳である確率は14%、第3大臼歯の場合0%ですよ、
と言っているのである。

つまり、第2大臼歯であろうと、第3大臼歯であろうと、いずれにしても30歳以下の可能性は少ないと島氏はおっしゃっているのである。

大臼歯の萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる?

上緑色の文字で示した表「大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー」のデータ元は
栃原博氏が昭和32年に熊本医学科雑誌に発表した「日本人歯牙の咬耗に関する研究」にある表である。

私は図書館で「壁画古墳 高松塚 調査中間報告調査中間報告/橿原考古学研究所(奈良県教育委員会)1972年」を借りることができたのだが、このp193で島氏は
「i  第2、第3大臼歯と年齢の関係は次表のとおりである。(栃原、昭、32)」と記しておられる。

ただし、梅原氏によれば、島氏の表の「象牙質が点状または線状に露出」の数字は栃原氏の表では「3段」の数字
島氏の表の「エナメル質全面にわたる」の数字は栃原氏の表では「4段」の数字である。

3段とか4段というのは、歯の咬耗度を表す数値で、無咬耗から7段までの8段階になっている。
つまり、島氏の表にある「象牙質が点状または千状に露出」は「3段」の咬耗度、
「エナメル質全面にわたる」は「4段」の咬耗度というわけだ。栃原氏の表に咬耗度を書き入れてみよう。(太字)

大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー

 下顎第2大臼歯    下顎大3臼歯       上顎 第三大臼歯
     象牙質が点状または線状に露出        エナメル質全面にわたる
     (咬耗度3段)               (咬耗度4段)
20~29歳 14.3%       0.%            19.6%
30~39歳 16.3%       2.4%           55.0%
40~49歳 43.8%       37.0%           69.0%
50~59歳 27.1%       20.7%           76.9%
60歳以上 14.9%       43.5%           30.4%

そして、梅原氏は次の様に推測されている。

島氏は、上顎の大臼歯を咬耗度3段としたのだろう。
上顎大臼歯咬耗度3段は、20~29歳では19.6%。

下顎の大臼歯は第二大臼歯とすると、咬耗度4段は20~29歳では14.3%。
第三大臼歯とすると咬耗度4段は20~29歳では0%
ゆえに、高松塚の被葬者は30歳以下の可能性は少ないとしたのだろうと。

これは私が③で「島氏は下顎右側の大臼歯が第三大臼歯なのか、第二大臼歯がわからないため、
次の表で第三大臼歯なと第二大臼歯両方の確率をしめされている。」と書いたのと同じことである。

その上で、梅原氏は島氏を次のように批判した。

❶歯の鑑定が不安定。(第二大臼歯か第三大臼歯か不明)
❷島氏が栃原氏の八段階の鑑別を正確に行ったか不明。
❸栃原氏の調査は現代日本人のものであって、飛鳥時代の人間にあてはめることができるのか。
❹島氏は「大臼歯の萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる」と断言しているが、
6歳で第一大臼歯が生えた子供は12,3歳で上のような状態になってしまっておかしい。

❶については、③で述べたように、島氏は『中間報告書』で、歯が第2大臼歯か第3大臼歯か特定できないから、
第2大臼歯と第3大臼歯の両方の30歳以下の確率を示したのであり、それ以上しようがないと思う。
ただ、その後『高松塚壁画古墳/朝日新聞社』において、島氏は「下顎の第三大臼歯2」と特定し、
『中間報告書』での記述(下顎の第3大臼歯または第2代臼歯)と異なった鑑定結果になってしまっていることが、梅原氏の不審を招いているように思える。
❸もその通りだと思う。
❷は島氏の説明不足だろう。

❹はわからないが、❹を考慮すれば上の緑色の表は
20~29歳で咬耗度3段(象牙質が点状または線状に露出)は、下顎第2大臼歯14.3% 下顎大3臼歯 0.% となっているのが、さらに数字が小さくなり、ますます高松塚古墳の被葬者の年齢は30歳以下である可能性が低くなってしまう。

④マイルズの研究

『壁画古墳 高松塚 調査中間報告調査中間報告/橿原考古学研究所(奈良県教育委員会)1972年』p196で島氏は次のように記しておられる。

ii .大臼歯が萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる。(Miles,1963)。
この歯牙昨日年数に基く推定年齢も亦栃原成績から得た結果と一致する。

梅原氏によると、マイルズの研究は次のようなものである。

マイルズはイギリスの古い墓地から鑑定可能と思われる157体を選び、年齢推定を試みた。
第3大臼歯が生えるのを18歳とし、18歳以下と思われる38体を選び出して咬耗度を調べた。
彼らはほぼ同一人種。食べているものもほぼ同じ。
第1大臼歯は約6歳、第二大臼歯は約12歳、第3代臼歯は約18歳で生える。
マイルズは大臼歯はだいたい同じ程度に咬耗すると考えるが、奥にいくほど、歯の使用の程度(咬耗度)は大きくなる。
その比率は、だいたい7:6.5:6。
すると18歳の人間の第一大臼歯、第二大臼歯と同じ咬耗度をもつ第二大臼歯、および第二大臼歯と同じ咬耗度の第三大臼歯を持つ人間の推定年齢は18歳+6+0.5=24.5歳になる。
ただし、この計算は他の骸骨の集合体には使えない、考古学的素材には使えない。

高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑨歯が第2大臼歯であろうと、第3大臼歯であろうと30歳以下の可能性は低いことを島氏は示した。」
私が上の記事を書いたとき、恥ずかしながら「18歳の人間の第一大臼歯、第二大臼歯と同じ咬耗度をもつ第二大臼歯、および第二大臼歯と同じ咬耗度の第三大臼歯を持つ人間の推定年齢は18歳+6+0.5=24.5歳」という計算がどうしてもわからなかった。
その理由は「奥にいくほど、歯の使用の程度(咬耗度)は大きくなる。その比率は、だいたい7:6.5:6。」をどのように計算したらいいか、わからなかったからだ。

とりあえず「奥にいくほど、歯の使用の程度(咬耗度)は大きくなる。その比率は、だいたい7:6.5:6。」はを無視して、「大臼歯はだいたい同じ程度に咬耗する」とし、仮に消耗していない場合の消耗度を0、6年で咬耗する度合いを1とし、12年で咬耗する度合いを2として考えてみよう。

18歳の人の場合、
第三大臼歯は生えたばかりで、咬耗していないので、咬耗度0
第二大臼歯は12歳ではえ、6年経過しているので消耗度1
第一大臼歯は6歳で生え、12年経過しているので消耗度2

       第一大臼歯   第二大臼歯     第三大臼歯
a18歳の人   6歳で生える 12歳で生える    18歳で生える
        咬耗度2   消耗度1      消耗度0

b?歳の人                                  消耗度2       咬耗度1
             12歳ではえて12年経過 18歳ではえて6年経過

するとbの年齢は24歳となる。 

「奥にいくほど、歯の使用の程度(咬耗度)は大きくなる。その比率は、だいたい7:6.5:6。」
ということは、奥に行くほど、消耗にかかる期間が短くなるという事なので、bは24歳よりも若干若いかもしれない。

梅原氏によれば、マイルズはbの年齢を「18歳+6+0.5=24.5歳」としているということだが、
bの第三大臼歯が18歳ではえて6年経過するとaの第二大臼歯の消耗度と同じになるため、18歳に6を足しているのだと思う。
0.5を足す意味はわからない。

『壁画古墳 高松塚 調査中間報告調査中間報告/橿原考古学研究所(奈良県教育委員会)1972年』p196で島氏は次のように記しておられるのだった。
「ii .大臼歯が萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる。(Miles,1963)。」

梅原氏はマイルズの論文を読み「奥にいくほど、歯の使用の程度(咬耗度)は大きくなる。その比率は、だいたい7:6.5:6。」と記していられるが、マイルズの論文の引用がないので確認ができない。

梅原氏は「マイルズの報告書には島氏が言うような『大臼歯が萌出の地、咬耗面に象牙質が点状、乃至線状に露出するまでに要する歯牙機能年数は六~七年である』という言葉はない」という。

確かに、マイルズの研究が梅原氏の引用のとおりであれば、そんなことは言っていない。

ただ、島氏は「ii .大臼歯が萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる。(Miles,1963)。
この歯牙昨日年数に基く推定年齢も亦栃原成績から得た結果と一致する。」と言っている。

栃原成績から得た結果とは、上に緑色文字で示した「大臼歯の咬耗度(%)と年齢ー男性ー」の表のことである。
マイルズが梅原氏が主張されているように「『大臼歯が萌出の地、咬耗面に象牙質が点状、乃至線状に露出するまでに要する歯牙機能年数は六~七年である」と言っていなかったとしても、すでに記したように
栃原成績が「下顎の大臼歯は第二大臼歯とすると、咬耗度4段は20~29歳では14.3%。第三大臼歯とすると咬耗度4段は20~29歳では0%。ゆえに、高松塚の被葬者は30歳以下の可能性は少ない」とでている。

これも繰り返しておくが、梅原氏は
❹島氏は「大臼歯の萌出後、咬耗面に象牙質が点状、線状に露出するまでに6、7年かかる」と断言しているが、
6歳で第一大臼歯が生えた子供は12,3歳で上のような状態になってしまっておかしい。

とおっしゃっているが、咬耗にもっと時間がかかるとすると、ますます高松塚古墳の被葬者の年齢は30歳以下である可能性が低くなってしまう。

まとめとしては、島氏の歯による年齢鑑定には、わかりにくい点がある。
また第2大臼歯か第3大臼歯か特定できていないが、島氏は栃原氏の研究にあてはめて歯が第2大臼歯であろうと、第3大臼歯であろうといずれにしても30歳以下の可能性は低いことを示した。
しかし、これは現代人のデータによるものであり、飛鳥時代の人物に用いることができるかどうかは、検討の余地がある。
そういう事になると思う。

また梅原氏は、高松塚古墳被葬者の骨を専門家に見せたところ相当老化していると言ったとも書いておられる。

⑤人骨について(島五郎氏の説明)創元社版での発言について

・第3大臼歯(親知らず)は人によってはえる年齢がちがう。
しかし、使用期間が同じであれば減り方は同じになるが、はえた時期がわからなければ被葬者の年齢は特定できない。
減り方は2度で、6年~8年使ったとみられる。
28で生えて8年つかうと36歳ぐらい。30歳代か、それ以上で上限はわからない。

・舌骨は20~30歳では化骨するのが22±13.4%。誤差が22%の13.46%で、数字は数学的にあてにならない。(?)
30~50歳代では67%が化骨する。年寄りは85%が化骨する。若い人は化骨しない。
この結合部はする。「20歳、30歳台では硬骨状態で化骨しない。40歳になって化骨し始める。50歳で進行する。」という人もいる。40歳以上ぐらいで化骨し始める。したがって(高松塚古墳の被葬者は)40歳以上。

・甲状軟骨(のどほとけ)は20代では化骨しない。のどぼとけの一番上の部分が残っているが化骨している。
骨に変わるのは下からなので、かなり広範囲に骨にかわっていた。40歳以上の熟年だろう。

・顎骨が1番から7番までのこっている。

・リショカの結合という背骨の増殖が見られる。これが進むと、変形性脊椎症にって背中が痛くなる。病気ではなく、加齢現象。
19歳で0、20代で10%、30代で40%、40代で80%、50代で90%の人が変形性脊椎症になる。

(以上、『高松塚は高市皇子の墓/土淵正一郎(新人物往来社)』より)

⑥『創立三五周年記念・橿原考古学研究所論集』昭和48年刊」

「高松塚古墳出土人骨のX線学的研究」(城戸正博・阿部国昭・土井仲悟・玉木正雄)
・全ての骨に骨萎縮状態がない。
・死直前の慢性消耗性疾患、長期臥床はない。
・何らかの原因による急死の可能性。
・変形性骨変化は加齢によるもので病ではない。
・上部頸椎から中部頸椎、椎体広報部の変化という特殊性から、頸部外傷歴、乗馬の習慣を考慮したい。
・中節指骨の骨皮質の小突起、櫛状突起をみいだすので、年齢は30歳以上。
・年齢上限の判定は決定的所見はなし。
頸椎の変化、四肢関節面での変化、骨端線痕跡像、骨皮質の厚さなどを総合して生理的高齢者は否定できる。足は変形なし。

(以上、『高松塚は高市皇子の墓/土淵正一郎(新人物往来社)』より)

⓻キトラ古墳の被葬者の年齢については、こちらの記事に説明がある。(いつ書かれた記事なのかがわからない。)


奈良文化財研究所が石室にたまった土砂の中から約100片の人骨と、23本の歯を発見し、片山一道・京大大学院教授(自然人類学)が歯と骨を鑑定した。
・骨はすねの部分の破片1点。あとはすべて頭骨。
・重複する部分はなく、被葬者は1人。
・目の付近の骨が丸みを帯び、耳の後ろの骨が凸凹して頑丈なことなど男性の特徴が目立つ。
頭骨は全体にがっちりしており、骨太の印象があるという。身長は推定できなかった。
・歯は全体に大きめで、すり減り方や奥歯の根元に付着した石灰、頭骨の状態などから、50代の可能性が高い。
右上の奥歯1本はかなりひどい虫歯だった。

どのように鑑定したのかなど、もっと詳しいことを知りたいが、
高松塚の被葬者30歳代から40歳以上、キトラの被葬者は50代ぐらいで、どちらも男性ということになりそうだ。

キトラ古墳被葬者の歯

キトラ古墳 被葬者の歯(キトラ古墳 壁画体験館 四神の館にて撮影)
上側右側犬歯の中央がへこんでおり、モノをくわえる習慣があったと考えられているが何をくわえていたかは謎とのこと。


シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew③大きさ



キトラ古墳はやや小さいが、高松塚は小さくはない。

①薄葬令の墳墓の大きさの規定は無視されている。

森浩一氏などが「高松塚古墳は薄葬令(646年)の影響がある。」と指摘されている。
646年の薄葬令では、古墳の大きさを次のように規定する。

王以上・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 9尋 高さ5尋)
上臣・・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 7尋 高さ3尋)
下臣・・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 5尋 高さ2.5尋)
大仁・小仁・・・・内部(長さ9尺 幅4尺 4尺)封土なし
大礼から小智・・・内部(長さ9尺 幅4尺 4尺)封土なし
庶民・・・・・・・地に収め埋める


『壁画古墳 高松塚 ₋調査中間報告/奈良県教育委員会・奈良県明日香村(昭和47年)』などの古い書籍では高松塚古墳の大きさを直径18mと記している。
しかし、ウィキペディア『高松塚古墳』は「直径23 m(下段)及び18 m(上段)、高さ5mの二段式の円墳」と記している。
昭和47年当時、高松塚古墳は二段式の円墳であることがわかっていなかったのかもしれない。

薄葬令の一尺が何メートルに該当するのかわからないが、検索すると1尋は1.5m、古代中国では8尺(約1.m)とでてくる。
1尋を1.5mとすると、高松塚古墳は直径15.3尋、高さ3.3尋、1尋を1.8mとすると12.8尋、高さ2.8尋。
いずれにしても直径は薄墓令の王以上の規定・9尋を超えるサイズになる。

いくつか古墳の大きさを調べて、方の大きい順に並べてみた。
王以上の規定(方9尋、高さ5尋)以上の古墳は赤でしめす。
※1尋は2mとして計算している。1尋=1.8m、1.5mとした場合の1尋は下の数値よりさらに大きくなる。


野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西29尋(58m)・高さ4.5尋(9m)
岩屋山古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・方22.5尋(45m)、高さ6尋(12m)               
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・・・ ・・対角長15尋(30m)
※ 現在の墳丘は対角長直径10m程だが、中近世の神社境内の整備による。発掘の結果、対角長30mの八角形墳であったことが判明した。
菖蒲池古墳(蘇我入鹿?/645)・・・・・・・方15尋(30m)、高さ3.75尋(7.5m)
栗原塚穴古墳(文武天皇陵に治定されているが、別の古墳である可能性が大きい)・・・・径14尋(28m)、高さ1尋(2m)
高松塚古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)・高さ2.5尋(5m)
真弓鑵子塚古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・径11.5尋(23m)、高さ2.5尋(5m)
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長11尋(22m)・高さ2尋(4m)
                       ※石敷・砂利敷部分を含むと32m 
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・・・径10尋(20m)・高さ2.15尋(4.3m)
中尾山古墳(文武天皇真陵であることが確実/707)・・・・・・・・・対辺長9.75尋(19.5m)・高さ2尋(4m)
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・・・ 方9.65尋(19.3m)  
薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・・・方9尋(18m)・高さ5尋(10m)
久渡古墳群2号墳 (高市皇子墓とされているが疑問)/696)・・・・・・径8尋(16m)
キトラ古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・径6.9尋(13.8 m)・高さ1.65尋(3.3m)
越塚御門古墳(大田皇女/667)・・・・・・・・ 方5尋(10m)
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ 方3.8尋(7.6m)
※大津皇子の墓は二上山墓に治定されているが、鳥谷口古墳が有力視されている。

このようにしてみると薄葬令の「方の規定」はほぼ無視して古墳は築かれているように思える。
一方、高さは薄葬令の規定以下のものが多い。
これは力学的、技術的に薄葬令の高さに近いものをつくることが難しかったということかもしれない。

また、キトラ古墳の墳墓はまあ、小さい部類に入るかもしれないが、高松塚古墳の墳墓は決して小さい古墳とはいえない。

②高松塚の石槨は小さいが墳墓は決して小さくはない。キトラは石槨も墳墓も小さい。

薄葬令は石槨の大きさも規定している。
石槨とは「 石で築いてつくった、棺を納める室」のことである。
横穴式石室の事を玄室とも言い、石槨と玄室はほぼ同じ意味であると考えていいのではないだろうか。

王(みこたち)以上        ・・・長さ9尺、高さ広さ5尺
上臣(大臣、大宝令では三位以上) ・・・長さ9尺、高さ広さ5尺
下臣(大徳小徳 大宝令では四位) ・・・長さ9尺、高さ広さ5尺
大仁小仁以下(五位以下)     ・・・長さ9尺、高さ広さ4尺

尺について、ウィキペディアはつぎの様に記している。
隋代には、一般に使われる長い尺を大尺、旧来の短い尺を小尺として制定し、唐でもそれを継承した。大尺は小尺の1.2倍にあたる。唐の大尺は、日本の正倉院蔵の尺の長さの平均によって296 mm前後と推測されている。唐代以後は小尺は使われなくなった。

とりあえず1尺30cmとして各古墳の石槨の大きさを求め、薄葬令より大きなものは赤で示す。
※羨道の大きさは省いた。

羨道、墓道、玄室の意味は下記イラストがわかりやすい。

横穴各部の名称

柏原私立歴史資料館 説明板より


野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・不明
岩屋山古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・長さ16.3尺(4.9m)、幅9尺(2.7m)、高さ10尺(3m)            
真弓鑵子塚古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・奥室:長さ12.3尺3.7m、幅7.3尺(2.2m)、高さ8尺 2.4m 
                       玄室:長さ 21.7尺(6.5m)、幅14.3尺(4.3m)、高さ14.3尺(4.3m)
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・長さ11.7尺16.7尺(3.5m)、幅16.7尺(5m)、高さ8.3尺(2.5m)
                       ※牽牛子塚古墳の被葬者は2人仕切り壁で2つの空間に仕切られている。
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・・・ ・・長さ10.2尺(3.06m)幅7.1尺(2.12m)推定高さ8.3尺(2.50m)
菖蒲池古墳(蘇我入鹿?/645)・・・・・・・・長さ24尺(7.2m) ・幅8.3尺(2.5m)高さ11.67尺(3.5m)
栗原塚穴古墳(文武天皇陵に治定されているが、別の古墳である可能性が大きい)・・・・不明
薄葬令(四位以上)・・・・・・・・・・・・・長さ9尺(2.7m)、広さ5尺(1.5m)、高さ5尺(1.5m)
薄葬令(五位以下)・・・・・・・・・・・・・長さ9尺(2.7m)、広さ4尺(1.2m)、高さ4尺(1.2m)
高松塚古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・長さ8.9尺(2.655m)、幅3.5尺(1.035m)、高さ3.8尺(1.134m)                   
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・・・長さ8.3尺(2.48m)、幅6.7尺(2m)
                      開口部は幅1.3尺(0.4m)・高さ1.7尺(0.5m)
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・・・不明
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・長さ3尺(0.9m、 幅3尺(0.9m)、 高さ、?
                       ただし、中尾山古墳の被葬者は火葬されている。 
久渡古墳群2号墳 (高市皇子?/696)・・・・・?
キトラ古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・長さ8.7尺(2.6m)、幅3.3尺(1m)、高さ0.65尺(1.3m)
越塚御門古墳(大田皇女/667)・・・・・・・  長さ8尺(2.4m)、幅3尺(0.9m)、高さ2尺(0.6m)
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ ・長さ5.3尺(1.58m)・幅2尺(0.6m)・高さ2.3尺(0.7m)


このように見てみると、石槨(玄室)も薄葬令の規定より大きい物が多くある。
その中で高松塚古墳、キトラ古墳の石槨は「小さい」といえそうである。

③墳丘指数

掘田啓一氏は、墳丘指数を勘案されているそうである。
墳丘指数=高さ÷直径✖100

実際に①で示した古墳の墳丘指数(緑色で示す)を計算して、大きい順に並べてみよう。

薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・・・方9尋(18m)・高さ5尋(10m)    55.56
岩屋山古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・方22.5尋(45m)、高さ6尋(12m)   26.67               
菖蒲池古墳(蘇我入鹿?/645)・・・・・・・方15尋(30m)、高さ3.75尋(7.5m)            25.00
キトラ古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・径6.9尋(13.8 m)・高さ1.65尋(3.3m)  23.91
高松塚古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)・高さ2.5尋(5m)  21.74
真弓鑵子塚古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・径11.5尋(23m)、高さ2.5尋(5m)   21.74
中尾山古墳(文武天皇真陵であることが確実/707)・・・対辺長9.75尋(19.5m)・高さ2尋(4m)20.51
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・・・径10尋(20m)・高さ2.15尋(4.3m)   19.54
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長11尋(22m)・高さ2尋(4m)       18.18
                       ※石敷・砂利敷部分を含むと32m 
野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西29尋(58m)・高さ4.5尋(9m)          15.5
栗原塚穴古墳(文武天皇陵に治定されているが、別の古墳である可能性が大きい)・・・・径14尋(28m)、高さ1尋(2m)7.14

束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・・・ ・・対角長15尋(30m)高さ?                       
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・・・ 方9.65尋(19.3m) ? 
久渡古墳群2号墳 (高市皇子墓とされているが疑問)/696)・・・・・・径8尋(16m)?
越塚御門古墳(大田皇女/667)・・・・・・・・ 方5尋(10m)?
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ 方3.8尋(7.6m)?
                      ※大津皇子の墓は二上山墓に治定されているが、鳥谷口古墳が有力視されている。


このように比較してみると、高松塚古墳は直径が変更されたせいもあって、さほど墳丘指数が大きいということはないと思う。

高松塚古墳

高松塚古墳

キトラ古墳

キトラ古墳

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳(斉明天皇、間人皇女の墓である可能性が高い。隣接して越塚御門古墳があり、大田皇女の墓の可能性が高い。)

野口王墓

野口王墓(天武・持統陵)

文武天皇陵

栗原塚穴古墳(文武天皇陵とされているが、文武天皇陵は中尾山古墳の可能性が高い。)

中尾山古墳

中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)

かんす塚古墳

真弓鑵子塚古墳 被葬者は不明

束明神古墳

束明神古墳