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モースが見た明治期の日本④ 日本の役病について。(おわびと訂正)


このシリーズは前回で終わる予定だったのだが、
モースが見た明治期の日本① モースの勘違い😄  の中の疫病に関する記述に誤りがあったので(すいません!)
その部分については削除し、ここに書きなおすことにする。(お詫びして訂正します😴)

①標準化死亡率と、普通死亡率
”東京の死亡率が、ボストンのそれよりもすくないということを知って驚いた私は、この国の保健状態に就いて、多少の研究をした。それによると赤痢及び小児霍乱(コレラ)は全く無く、マラリヤによる熱病はその例を見るが多くはない。”

モースは”東京の死亡率が、ボストンのそれよりもすくない”といっているが、何の死亡率についておっしゃっているのかがわからない。

調べると、
標準化死亡率と、普通死亡率があることがわかった。

”標準化死亡率
異なる人口集団間における死亡水準を比較する場合における年齢構成の違いによる影響を除去するため、年齢構成が一定であったときに予期される死亡率を推計したもの。国立社会保障・人口問題研究所においては、昭和5年の全国人口の男女別年齢構成を基準として、都道府県別に推計している。”

”普通死亡率
ある期間(通常1年間)の人口集団における人口1000人に対する死亡発生数をいう。死亡水準を示す指標として一般的に用いられているが、年齢構成の異なる人口集団間における死亡水準を厳密に比較する場合には、標準化死亡率(※)が用いられる。”


モースのいう死亡率が標準化死亡率なら、あまり問題余りはなさそうに思えるが、普通死亡率なら問題が残る。
ボストンの方が東京よりも高齢者が多ければボストンの方が死亡率は高くなるのはあたりまえだし
当時は出生時に死亡する子供も多かっただろうから、出生数も考慮する必用がありそうに思える。

ちなみに明治初期の乳児死亡率は出生数1,000に対して250,普通死亡率は27,平均寿命は男子32年,女子35年程度であったようである。(https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/h17/danjyo_hp/html/honpen/chap01_00_01_06.html)

⓶日本での赤痢流行の記録は平安時代よりある。

”赤痢及び小児霍乱(コレラ)は全く無く” とモースは書いているが、

日本における「赤痢」の歴史は古く、以下のように史料に記録が残されているようである。

貞観3年(861年)  赤痢流行『三代実録』
延喜15年(915年)  赤痢流行『日本紀略』
正暦元年(990年) 一条天皇が赤痢にかかった。『小右記』
永延元年(987年) 藤原実資が発病『小右記』(藤原実資は『小右記』の作者)
寛弘8年(1011年) 冷泉院、赤痢によって崩御。『権記』『御堂関白記』
長和5年(1016年) 右大臣藤原顕光、大納言藤原道綱が赤痢にかかった。『小右記』
承保4年(1077年) 源俊房、疱瘡にかかり次いで赤痢にかかった。『水左記』(源俊房の日記)
承元3年(1209年) 藤原経家 赤痢で死亡
康元元年(1256年)九条頼経 死亡

”痢病とは主に赤痢のようです。「痢病」の「痢」は赤痢の「痢」ですね。原因は赤痢菌という細菌です。この痢病というのはたびたび流行したようで、雲雀沢村にも下市田村にも何度も出てきます(資料6~7頁と資料11頁)。死者も出ていますね。やはり子どもが多いようです。 ”
https://takamori-tokinoeki.com/wp-content/uploads/2022/09/r3-2.pdf より引用


上の記事は江戸時代の感染症について書いたもので、江戸時代にも赤痢は流行ったようである。

ただし明治のころのアメリカでは、日本の感染症の歴史は詳しく知られていなかったのかもしれない。
また日本においても、明治時代には感染症の歴史研究が不十分であった可能性もある。

赤痢は明治16~18年にも流行している。
このときの感染届け出数は5008人、死亡者は1511人だった。

モースが日本にやってきたのは1877年(明治10年)、1878年(明治11年)~1879年(明治12年)、1882年(明治15年)~1883年(明治16年)である。
明治16~18年の赤痢流行とモースの日本滞在時期が若干ずれていたのかもしれない。

③小児霍乱が何を意味するのかわからない。

次に、小児霍乱(コレラ)について。
小児霍乱とは何だろうか。

”霍乱は激しい下痢や嘔吐を伴う病気として理解されており、今日の急性腸炎・赤痢などを含む古い名称であるが、19世紀にはコレラの別名として用いられることが多かった。”

”急に倒れる日射病、あるいは真夏に激しく吐き下しする病気の古称である。現代でいう急性胃腸炎、コレラ、疫痢(えきり)などの総称に該当するものと思われる。”

とあるので、小児霍乱(コレラ)の意味としては、複数考えることができる。
1.子供のコレラ
2.日射病
3.急性胃腸炎
4.疫痢

”疫痢は、小児にみられる細菌性赤痢の重症型で、循環不全(血圧の低下、意識障害など)を起こすなどで短期間に死亡します。”
https://katei-igaku.jp/dictionary/detail/250443000.html より引用

小児霍乱(コレラ)が「1.子供のコレラ」のことだとすると、明治期にもたびたびコレラは発生し多くの死者がでている。
当然、子供のコレラ患者もいたことだろう。

1877年(明治10年)死者13,816人、患者8,027人  ※この年、モース来日
1879年(明治12年)死者105,786人、患者12,637人 ※1878年(明治11年)~1879年(明治12年)モース来日
1882年(明治15年 死者33,784人、患者51,631人  ※1882年(明治15年)~1883年(明治16年)。モース来日
1885年(明治18年)死者9,329人、患者13,824人
1886年(明治19年)死者9,329人、患者155,923人
1890年(明治23年)死者35,227人、患者46,019人
1895年(明治28年)死者40,154人、患者55,144人
1902年(明治35年)死者8,012人、患者12,891人

死者数、患者数は ウィキペディア「コレラの歴史」による。

「死者13,816人、患者8,027人」のように、死者数が患者数を上回っているのは、
患者数は感染者数ではなく、死に至らず回復した人の数ということだろうか?ちょっとよくわからない。

ところが『JAPAN DAY BY DAY』をよみ進めていくと次のように記されている。

”横浜と東京とにアジア虎疫(コレラ)が勃発したという、恐しい言葉が伝った。この国の政府の遠慮深謀と徹底さとには、目ざましいものがある。この尨大な都会は、ニューヨークの三倍の地域を占め、人力車が五、六万台あるということだが、その各が塩化石灰の一箱を強制的に持たされている。毎朝、小使が大学の廊下や入口を歩いて、床や筵に石炭酸水を撒き散し、政府の役人は、内外人を問わず、一人残らず阿片丁幾アヘンチンキ、大黄、樟脳等の正規の処方でつくった虎疫薬を入れた小さな硝子瓶を受取る。これには、いつ如何にしてこの薬を用うべきかが印刷してあるが、私のには簡潔な英語が使用してあった。”
モースの『JAPAN DAY BY DAY』にはほとんど日付は記されていないが(日付のしるされている箇所もある。)、日記形式で記されているのかもしれない。
モースがやって来た時には、「コレラはなかった」ので「それによると赤痢及び小児霍乱(コレラ)は全く無く」と書いたが、
その後、「コレラが流行した」ので、「横浜と東京とにアジア虎疫(コレラ)が勃発したという、恐しい言葉が伝った。」とモースは書いたのかもしれない。

しかし、コレラはモースがやってくる以前、江戸時代にも流行している。

1822年、対馬、下関~大阪・京都 患者・死者数は十数万人(推計)
1858年~1,861年 安政コレラ。江戸の死者数12万3309人~30万人
1862年、江戸の死者数7万3000人。

小児霍乱コレラとは、子供のコレラという意味ではないのかもしれない。

”赤痢及び小児霍乱(コレラ)は全く無く” とモースが書いているところからみると、「4.疫痢」の可能性が高いかもしれない。

「疫痢は、小児にみられる細菌性赤痢の重症型」なのであった。

しかし「⓶日本での赤痢流行の記録は平安時代よりある。」のところに書いたように、江戸時代にも赤痢はある程度流行しているようであり、「全くない」とはいえない。

”リューマチ性の疾患は外国人がこの国に数年間いると起る。然し我国で悪い排水や不完全な便所その他に起因するとされている病気の種類は、日本には無いか、あっても非常に稀であるらしい。これは、すべての排出物資が都市から人の手によって運び出され、そして彼等の農園や水田に肥料として利用されることに原因するのかも知れない。我国では、この下水が自由に入江や湾に流れ入り、水を不潔にし水生物を殺す。そして腐敗と汚物とから生ずる鼻持ちならぬ臭気は、公衆の鼻を襲い、すべての人を酷い目にあわす。日本ではこれを大切に保存し、そして土壌を富ます役に立てる。”
赤痢、コレラは糞便および汚染された手指、食品、器物、水などから感染する。
したがって、”然し我国で悪い排水や不完全な便所その他に起因するとされている病気の種類は、日本には無いか、あっても非常に稀であるらしい。”

という記述もまちがいである。

”し尿処理が不十分:かつてわが国において,し尿は貴重な肥料として利用されてきた.肥溜めの中では多数の嫌気性微生物が繁殖し,発酵熱によって病原体は死滅した.しかし戦後,し尿の農業利用が年々減り,一方で都市人口は急増した.結果として,し尿を山間部や海洋に投入するにいたって,環境の悪化を招く結果となった.”


とあるので、肥溜は赤痢菌、コレラ菌を死滅させるのに多少は効果があったかもしれない。
しかし、くみ取って肥溜に運ぶまでの間は糞便は便所にあり、それによって汚染されたのではないだろうか。

④マラリアは日本に古くからあった。

「マラリヤによる熱病はその例を見るが多くはない。」というのは、どの程度を多いといっているのかわからないが、
同時期に日本にやってきたシドモアはマラリアについて書いている。

”蓮”論争は、いまだ首都を二分して侃々諤々の様相ですが「蓮はマラリア発生源だ」と声高に責めたてられるのは、どうも理不尽です。壕からの発生物であろうと、地表から流出した汚泥であろうと、マラリア発生地区・築地の土壌こそ最大の害毒のもとなのです。”

「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」p116 より引用

マラリアはハマダラカに刺されて体内にマラリア原虫がはいることによって発熱・悪寒・頭痛・関節痛・筋肉痛・嘔吐・下痢などの症状を引き起こす。
しかし、シドモアの記事をよむと、どうも蓮の花が原因だと考えられていたらしい?
シドモアは「壕からの発生物であろうと、地表から流出した汚泥であろうと、マラリア発生地区・築地の土壌こそ最大の害毒のもとなのです」といっている。

つまり、シドモアは
・マラリアの発生は蓮には関係がなく、土壌に問題がある。
・マラリアの原因は濠からの発生物、または汚泥かもしれない。
というような認識をもっていたのだろう。

”1903年(明治36年)時には全国で年間20万人の土着マラリア患者があったが、その後は急速に減少し、1920年(大正9年)には9万人、1935年(昭和10年)には5000人に激減している。第二次世界大戦中・戦後に復員者による一時的急増があったが、減少傾向は続き、1959年に彦根市の事例を最後に土着マラリア患者は消滅した[29]。
しかし現在も海外から帰国した人が感染した例(いわゆる輸入感染症)が年間100例以上ある。
また、熱帯熱マラリアが増加傾向にある。現在第4類感染症に指定されており、診断した医師は7日以内に保健所に届け出る必要がある。”

それ以前の日本にもマラリアはあったようで、平清盛(1118年~1181年)、敦良親王(1036年~1045年)、藤原頼通(992年~1074年)はマラリアに感染していたと考えられている。

⑤どんな人の言うことであっても、うのみにするべきではない。

「どうもモースは日本の感染症について勘違いしているのではないか?」と私は思うが、日本語の分からない当時のアメリカ人の認識には限界があったとも考えられる。

これはモースの認識に問題があるのではなく、現代人である我々読み手の問題だろう。

人間は間違いをするものなので、どんな人の言うことであっても、うのみにするべきではない、ということである。


安政5年(1858年)のコレラ大流行による死者の棺桶で混雑する火葬場。『安政箇労痢流行記概略』

安政5年(1858年)のコレラ大流行による死者の棺桶で混雑する火葬場。『安政箇労痢流行記概略』




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モースが見た明治期の日本③モースはアメリカ人のためになると考えて日本人をほめた。

↑ 青空文庫 日本その日その日
JAPAN DAY BY DAY
エドワード・シルヴェスター・モース Edward Sylvester Morse
石川欣一訳

※ピンク色文字はすべて「日本その日その日/エドワード・シルヴェスター・モース」からの引用。

モースはJAPAN DAY BY DAYにおいて、日本人は正直だと盛んにほめてくださっている。
ネットの記事、動画などをみると、このモースの文章を引用して「日本すばらしい」という日本人が結構いるように思える。
「日本すばらしい」というだけならまだしも、モースの文章を引用して「欧米文化は日本文化に劣る」という人までいる。
これは自分の事はへりくだり、相手の事は立てるという日本人の心を失った発言であるようにも感じられた。
逆にモースのほうが、自分のことはへりくだり、相手の事は立てているようにも思える。
そしてJAPAN DAY BY DAYをよむと、モースは必ずしも日本をほめているだけではない。
モースが日本をほめているところだけを抜き出して「日本すばらしい」とやるのはいうまでもなく、チェリーピッキングである。
そこで、私はあえて、モースが日本についてほめていない部分や、現代人が明治を勘違いしていそうな記述について引用してみることにした。

※全部読んでから、内容をまとめて記事にするべきなのだが、読み進めるごとに記事を書いているので(すいません!)、
前回、前々回と重複する項目があることをお詫びします。

①日本人は見返りを要求した?

”東京市の消防夫の多くは、建築師や大工で、火を消すと彼等は、手助をした者の名――消防隊のなり、個人のなり――をはり出し、そこで建物の持主に向って、贈物やあるいは家を建てる機会を請求する。”

これが事実であるとすれば(モースは日本語が分からないので、勘違いしている可能性もある。)災害に遭った気の毒な人に対して、見返りを要求する態度である。

⓶明治の日本には華族という特権階級があった。

「日本には階級制、身分制はなかった」と真顔でいう人がいる。
もちろん、そんなことはない。
それは、モースの次の文章を読んでも分かる。

”四十人の若い娘の一級クラスを連れて来た、華族学校の先生数名は、非常に奇麗だった。”
”また溶けて行く氷菓の一滴が美しい縮緬ちりめんの衣服に落ちたりすると、彼等は笑って、注意深く、持っている紙でそれを取り除く。この紙はまるでポケットに似た袂に仕舞い込み、最後に立ち去る時には、注意深く畳を調べ菓子の屑を一つ残らず拾い、あとで棄てるように紙につつむのであった。貴族の子女がかかる行儀作法を教え込まれているということは、私には一種の啓示であった。
 私は華族の子弟だけが通学する華族学校で、四回にわたる講義をすることを依頼された。校長の立花子爵はまことによい人で、私が発した無数の質問に、辛抱強く返事をしてくれた。”

ここに「華族学校」「貴族の子女」「華族の子弟」という言葉がでてくる。

明治になって、身分制度は廃止され、四民平等とされたのだが、華族という特権階級が設けられていた。

”華族(かぞく)は、1869年(明治2年)から1947年(昭和22年)まで存在した近代日本の貴族階級。”

ときどき「ウィキペディアの書いて在ることなんか信用できない。嘘ばかり。」という人がいるが、
モースの旅行記に華族、貴族と名前がでてくるので、ウィキの記述は嘘とは言い切れないことが理解していただけると思う。
「モースの書いていることもウソだ」という人もいるかもしれない。確かにその通りだ。
しかし、「モースの書いていることもウソだ」という理屈では、
「①日本人は他人のものを盗まない?」に書いた、次の文章もウソだといわなければいけない。

”未だかつて、日本中の如何なる襖にも、錠も鍵も閂かんぬきも見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験を敢てしようと決心し、恐らく私の留守中に何回も客が入るであろうし、また家中の召使いでも投宿客でもが、楽々と入り得るこの部屋に、蓋の無い盆に銀貨と紙幣とで八十ドルと金時計とを入れたものを残して去った。
 我々は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰って見ると、時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋の無い盆の上にのっていた。”

明治17年、華族令がだされ、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五爵制が定められた。
公爵・・・親王諸王より臣位に列せらるる者、旧摂家、徳川宗家、国家に偉勲ある者
侯爵・・・旧清華家、徳川旧三家、旧大藩(現米15万石以上)知事、国家に勲功ある者
伯爵・・・大納言宣任の例多き旧堂上、徳川旧三卿、旧中藩(現米5万石以上)知事、国家に勲功ある者
子爵・・・一新前家を起したる旧堂上、旧小藩知事、国家に勲功ある者
男爵・・・一新後華族に列せられたる者、国家に勲功ある者

華族の特権
財産・・・差し押さえられない。
政治・・・貴族院の議員になれる。
教育・・・華族は試験を受けなくても華族学校(現在の学習院)に入学できた。

"私はこの学校で初めて、貴族の子供達でさえも、最も簡単な、そしてあたり前の服装をするのだということを知った。ここの生徒達は、質素な服装が断じて制服ではないのにかかわらず、小学から中等学校に至る迄、普通の学校の生徒にくらべて、すこしも上等なみなりをしていない。階級の如何に関係なく、学校の生徒の服装が一様に質素であることに、徐々に注意を引かれつつあった私は、この華族女学校に来て、疑問が氷解した。簡単な服装の制度を立花子爵に質問すると、彼は、日本には以前から、富んだ家庭の人々が、通学する時の子供達に、貧しい子供達が自分の衣服を恥しく思わぬように、質素な服装をさせる習慣があると答えた。その後同じ質問を、偉大なる商業都市大阪で発したが、同じ返事を受けた。"
貴族の子供が質素な服装をするのは、貧しいからではないのだ。
戦前は超格差社会であったという。

③貧富の差
”ドクタア・ビゲロウと私とは、吉川氏の家へ招待された。同家は三十代も続いた家で、吉川氏は以前周防(すおう)の大名であった。彼は眼鏡橋の近くに広大な土地と五軒の家とを持っている。我々が到着すると、大きな門がサッと開かれ、一人の供廻りが我々を礼儀正しく、一定の通路を通じて部屋部屋へ案内し、我々は吉川氏や同家の役員数名に紹介された。次に我々は二階の美麗な部屋へ導かれたが、この部屋は日本の家屋の内部の特徴である、例の細部の簡素と絶対的な清楚とを具えていた。中原氏が通訳の労をとった。部屋の隅々には、最も素晴しい黄金漆器や最古のカケモノがあった。同家の看守者――執事をこう呼んでもいいと思う――は、過去の愉快な精神それ自身であった。互に挨拶を換し、そこで我々が古い刀剣を見たいと希望すると、一つ一つ持ち出されたが、いずれも絹の袋につつまれ、吉川家の紋を金で置いた美事な漆塗の箱に入っていた。一番最初に見た刀は七百年にもなるので、吉川氏の先祖の一人がある有名な敵の頭をはねたものである。鞘は柄を巻いた紐と同じく革で出来ていた。その一部は年代の為粉末になって了っているが、その粉末がまた紙に包んであった。鞘、柄、鍔その他の部分が、非常に形式的に且つ重々しく畳の上に置かれ、我々は刀身を見よといわれた。他の刀も見せてくれたが、これ程美事な刀身のいくつかは、それ迄見たことがない。”

”それは非常に暗い夜で、私は又しても下層民の住家が、如何に陰鬱であるかを目撃した。雨戸を閉めると、夜の家は土牢みたいであろう。”

広大な土地と5軒の家を持つ元大名の家。部屋の中には黄金漆器、刀のコレクションなどがある。
日本の漆器はマリーアントワネットもコレクションしていた。
フランスの王妃がコレクションするのだから、高価なものであったにちがいない。

モースが下層民とよぶ庶民の住家の詳細については、モースは具体的には記していない。
しかし、JAPAN DAY BY DAYの中に何度も繰り返しでてくる「下層民」という言葉は、明治の日本に下層民という人々がおり、貧富の差があったことを証明している。
貧民ということばも何度か登場する。

”然しながら料理に就いては清潔ということがあまり明らかに現われていないので、食事を楽しもうとする人にとっては、それが如何にして調えられたかという知識は、食慾催進剤の役をしない。これは貧乏階級のみをさしていうのであるが、恐らく世界中どこへ行っても、貧民階級では同じことがいえるであろう。”
”日本の社会は今や公に、上流、中流、下流の三つにわけてある。現在の日本人は、以前にくらべて、人力車夫やその他の労働者に、余程やさしく口を利くようになった。”

④名古屋城は質素ではない。

「日本にやってきた外国人が、殿さまの城が質素なのに驚いた」というような話をする人がいる。
その外国人が誰なのかわからないが、モースは名古屋城を巨大・荘厳と表現し、金のしゃちほこの価値を述べてい

”これは極めて朧気おぼろげに城の外見の観念を伝えるに過ぎぬ。この建築の巨大さと荘厳さとは著しいものである。建築上からいうとこの城は、上を向いた屋根のかさなり、破風はふに続く破風、大きな銅の瓦、屋根の角稜への重々しい肋リブ、偉大な屋根の堂々たる曲線、最高の屋梁むねの両端に、陽光を受けて輝く、純金の鱗を持つ厖大な海豚(いるか)等で、見る者に驚異の印象を与える。黄金は殆ど百万ドルの三分一の価値を持っている。我々は頑丈な、石垣の間の通路をぬけ、幅の広い石段を上って、主要な城へと導かれた。厚い戸をあけると、そこは広々とした一室で、壁や天井の桁の大きさは、封建時代にあって、かかる建築が如何に強いものであるかを示していた。”
名古屋城

名古屋城

⑤働く女性

「日本では女性は家で子育てと家事をやり、男性は外に働きに出た」という人がいるが、大きな勘違いである。

”これ等は粗末な、原始的な、木造の機械ではあるが、而も皆、我国の紡績工場にある大きな機械に似ている。
百人以上の女と三十人の男とが雇れているが、男は全部袴をはき、サムライ階級に属することを示している。”

おそらく華族の様な金持ちの家の女性は外に働きに出たりはしなかったのではないかと思うが、庶民の女性は紡績工場などで働いていたのである。

⑥子守をする少年

”男の子の群が、その殆どすべてが背中に赤坊をくくりつけて、紙鳶をあげているのは、奇妙な光景である(図750)。”
母親は紡績工場などに仕事にでているか、家にいるとしても家事や家業の手伝いで忙しかったのだろう。
明治には少女だけでなく、少年も子守をしていたのだ。
しかも、少年の群れの中のほとんどが赤ん坊を背負っていたとある。


⓻宮島で人は死ぬことができなかった?

”宮島は非常に神聖な場所とされているので、その落つきと平穏さとは、筆舌につくされぬ程である。この島にあっては、動物を殺すことが許されなかった。数年前までは、人間とてもここでは死ぬことが出来なかったそうである。以前は、人が死期に近づくと、可哀想にも小舟にのせられて、墓地のある本土へと連れて行かれた。”
宮島とあるが、厳島神社のある厳島のことを言っていると思う。
厳島神社の住所は 広島県廿日市市宮島町であり、また厳島は宮島ともいうそうである。

ウィキペディアにも次のように記されている。

”『棚守房顕覚書』によれば、島に死人が出ると即座に対岸の赤崎の地に渡して葬っている。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。「~の向こう」と言うと「あの世」を連想するため、「~の前」と言い換えていた。この風習は第二次世界大戦頃までは続いていた。また、島には墓地も墓も築いてはならず、現在でも1箇所も1基も存在しない。島の妊婦については、『棚守房顕覚書』に「婦人、児を産まば、即時に子母とも舟に乗せて地の方に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり」とあるように、出産が近づくと対岸に渡り、そこで出産を終えたのち、100日を過ごすことで血の穢れが払われれば、ようやく島へ戻れるという仕来りがあった。 厳島神社の境外摂社を「地御前神社」(所在地:廿日市市地御前、江戸時代における安芸国佐伯郡地御前村)というように、ここでいう「地の方」とは対岸の本州を指す。また、生理中の女性も、やはり血の穢れを忌避されて、町衆が設けた小屋に隔離されて過ごした。この様子を『棚守房顕覚書』は「『あせ山』とて東町・西町の上の山にあり。各々茅屋数戸を設けたり。『あせ山』は血山なるべし。島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし。」と記している。”


鉄の農具を土に立てることを忌み、耕作は禁じられた。また、この島は「女神の御神体内」とされたことから、女性の仕事の象徴とみなされていた機織や布晒(ぬのさらし)も禁忌とされていた(山の神』を参照)。『棚守房顕覚書』は「絶えて五穀を作らず、布織り布さらす事を禁ず」と記している。特に耕作が禁じられていることはよく知られ、島に生活する人のために対岸から行商人が船を出す光景は第二次世界大戦後まで続いた。廿日市の町は鎌倉時代、厳島神社の祭礼最終日(毎月20日)に立った市場から発展した町である。


厳島神社

宮島 厳島神社


⑧妻は夫より早起きしなければならない。

朝夙(はや)く烏がカー カー 即ち「女房」と鳴く。だから神さんは亭主よりも早く起きねばならぬ。

これは、「下層階級の間に行われる迷信と習慣のひとつ」としてモースが分中に記していることである。
このように言われていたということは、実際にも妻は夫よりも早起きするべき、という考え方が人々の中にあったという事ではないかと思う。

現在でも同様のことを言う人はいる。



”ソロ活動を始めてからもその傾向は変わらず、「雨やどり」(1977年)では「軟弱」と罵られ、自身最大の炎上ソング「関白宣言」(1979年)は「女性蔑視」だと糾弾された。そのタイトルと一部の歌詞が槍玉に挙げられて大炎上し、今もなおその火はくすぶり続けている。しかし実際は深い愛を歌ったもので、母親からも「これで関白ならあんたの人生たいしたことない」と鼻で笑われたという。”

「夫より妻は早起きするべき」については、少なくとも明治のころから、烏の鳴き声とこじつけて、言われてきた道徳のようである。
この道徳については、正しい道徳であるとは思えず、やはり男尊女卑だなあと思ってしまう。
(さだまさしさんの関白宣言について言っているのではない。)

たとえば、共働き世帯で妻が残業で遅く帰宅し、帰宅後も家事におわれて短い睡眠時間しかとれなかったとしよう。
しかし「夫より妻は早起きするべき」が当たり前の道徳であったとすると、妻はそんなときにも夫より早く起きなければならない、ということになってしまうし
夫が妻の事情に対して配慮しないことに対しての「言い訳」としても使えてしまえそうである。

さださんの歌に関していえば、2:10あたりの歌詞を聞けば、妻につらい思いをさせるつもりはない、と言っているように思えるし、妻となる人がそれでよいのであれば、関係ない人々が横からごちゃごちゃ言うのはヤボということになると思う。

⑨昆虫食

”竹中は伯母さんから、瓶に一杯入れた煮たばったを、御飯につけてお上りとて貰った。ドクタアと私とはそれを何匹か食って見たが、小海老に似た味で、中々美味だった。ばったを副食物として食うのは、この地方では普通のことで、我国でもばったをこのように利用出来ぬ訳は無いと思う。”

※「ばった」は(「虫+奚」「虫+斥」)と表記されているが、変換できないため「ばった」と表記した。
「ばった」とあるのは「いなご」のことだと思われる。

※この話は、川越での話として記されている。千葉県川越市か。

前回も書いたが、ネットでときどき見かける「日本では飢饉の際にも昆虫食はしなかった」は間違いである。
逆にアメリカでは昆虫食はしなかったのか、モースは「我国でもばったをこのように利用出来ぬ訳は無いと思う。」と書いている。

⓾えた・非人の存在

”その後高嶺は、私を特定区域へ案内した。以前、彼等は不潔であると見られ、彼等は皮革の仕事をし、動物の死体を運搬し、概してこの都市の掃除人であった。この階級と結婚することは許されず、またそのある者は富裕であったにかかわらず、彼等は避けられ、嫌われていた。彼等は、人々から離れて、ある区域に住む可く余儀なくされ、誰もその区域を通行しなかった。今や法律的の制限はすべてなくなったのであるが、而も彼等は、彼等だけ一緒に住んでいる。主要街路は妙にさびれて見えた。人力車はどこにも見えず、店もあるか無しかである。看板はすこしあるが、店の前の紙看板や提灯は無い。”


⑪明治に日本人は信仰を捨てた?
”食卓には二十人以上の人がいたが、ブライト夫人は、そこに列る紳士達の宗教を知り度いといい出した。これはいささか困った質問だったのである。私は前もって彼女に教養ある日本人は、彼等がかつては持っていたであろう、仏教なり神道なりの信仰から、既に進歩して脱出して了っていることを、説明しておいたのである。この質問は鍋島侯爵によって巧に提出されたが、一人のこらず、ニコニコ笑いながら、宗教的の信仰から自由になっていることを自白した。”
よく「日本人には宗教や信仰はない」という人がいるが、それは明治以降の事であり、それ以前の日本人は信仰心の厚い民族であったのかもしれない。

⑫骨董商人が不正直なのは世界共通(日本も含む)

”日本の骨董商人は、世界の他のすべてに於ると同じく、正直なので有名だということは無い。欧洲なり米国なりでつかませられた贋物、古い家具、油絵、特に「昔の巨匠」の絵、エジプトの遺物等を思い出す人は、日本の「古薩摩」(屡々窯から出たばかりでポカポカしている)や古い懸物やその他の商人を、あまりひどく非難しないであろう。悪いことではあるが、これ等のごまかしのある物が、実に巧妙であるのには、感心せざるを得ぬ。”

”権左と呼ばれる老商人は、私が名古屋へ行った時、あの大きな都会中の骨董屋へ私を案内して大いに働いてくれ、この男こそは大丈夫だろうと思っていたのだが、その後私をだまそうとした。その方法たるや私が日本の陶器をよく知っていなかったら、ひどくだまされたに違いないようなものであった。私は古い手記から、初期の瀬戸の陶器のある物の、ある種の切込み記号を、非常に注意深く写し取った。これ等の写しを権左に送り、それ等の署名のある品をさがし出してくれ、そうすれば最高の値段を払うといってやった。数ヶ月後名古屋から箱が一つ私のところへとどいた。それには権左の、古い陶工の歴史を書いた手紙がついていた。そして私が彼に送った写しと同じような記号のついた、これ等の陶工がつくった茶入、茶碗その他が入っていた。私は一目してそれ等が、三百年昔のものではなく、精々三、四十年位にしかならぬことを知るに充分な位、日本の陶器に関する知識を持っていた。石鹸と水と楊子とを使うと、一度こすった丈で、なすり込んだ塵埃が取れ、切り込んだ記号が奇麗に、はっきりあらわれた。”

⑭モースはアメリカ人のためになると考えて日本人をほめた。弱点を認めることは劣等な国民として咎めることではない。

”終に臨んで一言する。読者は日本人の行為が、しかも屡々我々自身のそれと、対照されたのを読んで、一体私は米国人に対して、どんな態度を取っているのかと不思議に思うかも知れぬ。私は我々が日本の生活から学ぶ可きところの多いことと、我々が我々の弱点のあるものを、正直にいった方が、我々のためになることを信じている。”
モースの文章の一部分を切り取って「日本すばらしい」というだけならともかく「欧米の文化は劣っている」という人は、モースの態度を見倣ってほしい。
中には日本の良くない点について述べると「自虐史観」「反日」「貴方は日本人ではない」等の言葉を投げかける人もいる。

戦後、GHQは報道機関に対して規制を行っていた(プレスコード)。
これが「自虐史観」につながったという点は多少はある。
しかし、「弥生人はおらずNHKが捏造したもの」であるとか、「稲作は日本ではじまった」とか、
「人類の発祥は日本」「アイヌは鎌倉時代に日本にやってきた」のように、非科学的なことを述べることは決して日本のためにならないだろう。

”我々のこの弱点を感じることは、何も我等を劣等な国民として咎めることにはならず、我々はホール・ケインが『私の物語』に書いたような、米国を真に評価した文章を、誇の感情を以て読み、そして信じるのである。「我々はこの国民を愛する。彼等は世界の他の者が、あたかもひそかにするが如く見える自由を、彼等の権利として要求しているからである。私はこの国民を愛する。彼等がこの世界で、最も勤勉で、熱心で、活動的で、発明の才ある人々であり、そして、何よりも先ず、最も真面目だからである。何故となれば、表面的な観察者の軽薄な審判はともあれ、彼等は国民性に於て最も子供らしく、最も容易に哄笑し、最も容易に涙を流すまで感動し、彼等の衝動に最も絶対的に真実であり、賞讃を与えるに最も大度だからである。私は米国の男性を愛する。彼等の女性に対する挙止は、私がいまだかつて見たものの中で、最も見事に騎士的だからである。私は米国の女性を愛する。彼女等は疑う可くもない純潔さを、あからさまなる、そして不自然ならぬ態度と、性の美事な独立とで保持し得るからである。」”


モースが見た明治期の日本② 昆虫食、市立救貧院は動物園の檻


↑ 青空文庫 日本その日その日
JAPAN DAY BY DAY
エドワード・シルヴェスター・モース Edward Sylvester Morse
石川欣一訳
※ピンク色文字はすべて「日本その日その日/エドワード・シルヴェスター・モース」からの引用。

モースはJAPAN DAY BY DAYにおいて、日本人は正直だと盛んにほめてくださっている。
ネットの記事、動画などをみると、このモースの文章を引用して「日本すばらしい」という日本人が結構いるように思える。
「日本すばらしい」というだけならまだしも、モースの文章を引用して「欧米文化は日本文化に劣る」という人までいる。
これは自分の事はへりくだり、相手の事は立てるという日本人の心を失った発言であるようにも感じられた。
逆にモースのほうが、自分のことはへりくだり、相手の事は立てているようにも思える。

そしてJAPAN DAY BY DAYをよむと、モースは必ずしも日本をほめているだけではない。
モースが日本をほめているところだけを抜き出して「日本すばらしい」とやるのはいうまでもなく、チェリーピッキングである。

そこで、私はあえて、モースが日本についてほめていない部分や、現代人が明治を勘違いしていそうな記述について引用してみることにした。

③昆虫食

これはモースが日本をほめていない文章ではない。
そうではあるが、最近、ネットで「日本人は昔から飢饉の際にも昆虫は食べなかった」とする記事や動画があったので記しておこうと思う。
現在でも、イナゴやスズメバチ、ハチノコなどは食べられている。
”下層民が使用する食物の名を列記したら興味があるであろう。海にある物は殆ど全部一般国民の食膳にのぼる。魚類ばかりでなく、海胆(うに)、海鼠(なまこ)、烏賊(いか)及びある種の虫さえも食う。
ある場所では一人の男が、ばったを食料品として売っていた。ばったは煮たか焙ったかしてあった。私は一匹喰って見たが、乾燥した小海老みたいな味がして、非常に美味いと思った。ばったは我国にいる普通のばったと全く同一に見えた。我国でだって、喰えぬという理由は更に無い。”
※「ばった」は漢字で「虫+奚」、「虫+斥」、で記されているが、変換しないので、平仮名表記とした。

モースがいう「ばった」とは「イナゴ」のことかもしれない。
イナゴはバッタの一種だということである。

また「下層民が」という言葉があり、「上層民」がいたことを示している。
「日本は平等で階級制、身分制度はなかった」という人をみかけるが、そんなことはなかっただろう。

いなご
”晩飯に私は海産の蠕(ぜん)虫――我国の蚯蚓みみずに似た本当の蠕虫で、只すこし大きく、一端にある総ふさから判断すると、どうやら Sabellaの属〔環形動物毛足類毛足多毛目サベラリア・アルベオラタ〕に属しているらしい。これは生で食うのだが、味たるや、干潮の時の海藻の香と寸分違わぬ。私はこれを大きな皿に一杯食い、而もよく睡った。”
「而もよく睡った。」とあるのは「皿もよく舐(ねぶ)った」という意味ではないかと思うがどうだろう?
「舐る」とは「なめる」という意味である。
そうでないと意味が通じないように思う。

⓶日本に障害のある人が少なかった理由

”この国民に奇形者や不具者が、著しくすくないことに気がつく。その原因の第一は、子供の身体に気をつけること、第二には殆ど一般的に家屋が一階建てで、階段が無いから、子供が墜落したりしないことと思考してよかろう。指をはさむドアも、あばれ馬も、噛みつく犬も、角ではねる牛もいない。牝牛はいるが必ず紐でつながれている。鉄砲もピストルもなく、椅子が無いから転げ落ちることもなく、高い窓が無いから墜落もしない。従って背骨を挫折したり[#「背骨を挫折したり」はママ]することがない。”
前回、モースが「日本に乞食は少ない」と書いているのは、乞食は監獄に入れられていたからだと書いた。

”1869年(明治2年)に東京府が乞食行為を禁止したことを嚆矢として全国的に乞食行為への取り締まりが行われ、1871年(明治4年)には賤民廃止令により身分としての乞食も亡くなった。

”東京府における監獄が浮浪・乞食にどのように介入していたのかを達で確認すると、明治 11(1878)年 7 月 5 日警視庁達第 106 号では、乞食体の者及び無籍者を市ヶ谷監獄に送致するよう達し、浮浪・乞食の監獄収容を行う 5)。また、同日
の同達 115 号では、他県の者でも東京府のものでも「瘋癲ヲ発シ候者」で引取人のいない者は監獄署に送付するよう定め、その書式も提示している。”

”「脱籍無産ノ者」の死亡者の数の多さは懲治監の衛生環境が良くなかったこともあるだろうが、先述の通り警視庁達で行旅病人死亡法にかかる者や「瘋癲ヲ発シ候者」が監獄送りになっていたことを考えると、むしろ病弱な者を多く収容してい
たと見るべきであろう。”

※瘋癲(ふうてん)・・・精神疾患、無職で町中をふらつくこと。

身体に障害があって定職に就けない人は、多く監獄に入れられたのではないかと思うがどうだろう。

③精神疾患のある人々は檻に入れられていた。
”市立救貧院へ行った時は悲しかった。ここには何人かの狂人が入れられていた。これ等の不幸な人達が、長く並んだ、前に棒のある部屋に、まるで動物園の動物みたいに入っているのは、悲しい光景であった。番人達は、恐怖の念を以て彼等を見るらしく思われる。彼等は親切に取扱われてはいるが、全体として、狂人を扱う現代的の方法には達していない。私はニューヨーク州のユテイカにある大きな収容所で見たのと同じ様な、痴呆と欝憂病の典型的な容態を見た。私はある人々と握手をし、彼等はすべて気持よく私と話したが、彼等の静かな「サヨナラ」には何ともいいようのない哀れな或物があった。”
「市立救済院」というのは⓶で述べた、監獄のようなところだろうか?
「瘋癲(精神疾患)ヲ発シ候者」は監獄送りであったといい、モースのいう「市立救済院」には、前の棒があったという。
前に棒があるというのは、檻のことだからだ。

④繕い物をする男性

”今日実験所の小使が子供の衣類をつくろっていた。彼の細君は私の宿屋の女中をしていて、こんな仕事をする暇がないのである(図167)。”

「日本では男女は役割分担がされていた。男は外にでて働き、女は家の仕事をした。だから現在の女性も家の仕事をするべき。子育てや家事は立派な仕事である。」というようなことを言う人がいる。

しかしモースは、彼の下で働く男性の妻は宿屋で働いていて、繕いものをするひまがない、といっている。

またシドモアもこう書いている。

”さらに痛ましい光景は、夕暮れ時、婦人たちが赤ちゃんを背にし、作業倉庫から家路へとぼとぼ歩いて帰る姿です。赤ちゃんといえば、一日中倉庫の前庭で遊びまわる兄や姉の背中で跳ねたり、母親のいる炭火鍋に違い、片隅の安全なところに寝かせられたりします。
以前、とても教養のある婦人に「なぜ、託児所や全日保育の運営を慈善事業として考えないのですか?」と尋ねたことがあります。その答えは、「外人共同社会はあまりにも小規模なため、そのような制度を支えるのは財政的にとても無理です」とのことでした。各倉庫には大きな専用託児所を必要としますが、貧しい婦人たちは、稼ぎがわずかなため負担する余裕もなく、この問題は倉庫責任者地震が解決しなくてはなりません。”

「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」p442 より引用

昔の女性は家にいて家事・子育てをしていたと思っている人がいるが、明治期に赤ん坊を職場につれてきて仕事をしていた女性がいたのだ。
日本で専業主婦が定着したのは戦後の1950年代とされる。

⑤チップをうけとった見世物屋

”この見世物の入場料が、一セントの十分の一だということを知らぬ私は、二セント出した所が、男は非常にうやうやしく礼をいったあげく、入場券を渡したが、それは長さ一フィートの木の札だった。”
「日本はチップを受け取らない正直な文化で、欧米のチップを受け取る文化はよくない」という人がいる。
しかし、この人は、0.1セントのものを2セント受け取っている。1.9セントはチップといえる。

また、日本にも「おひねり」や「ご祝儀」という習慣はあった。
遊郭の女性が働いているのはほとんどすべて借金の返済なので、客からのご祝儀が無ければ現金収入がなかったのではないかと思う。
チップ、おひねり、ご祝儀を受け取ることが悪いともいえない。

⑥報酬を断ったモース

”翌日江木氏が私の宅を訪問し、入場料は十セントで学生は半額、部屋の借代がこれこれ、広告がこれこれと述べた上、残りの十ドルを是非とってくれと差出した。こんなことは勿論まるで予期していなかったので、私は断ろうとした。然し私は強いられ、そこで私は、前日が、そもそも組織的な講演会という条件のもとに、外国人が講義をした最初だと聞いたので、この十ドルで何か買い、記念として仕舞っておくことに決心した。この会は私に、連続した講義をしないかといった。私は、秋になったら、お礼をくれさえしなければやると申し出た。主題はダーウィン説とする。”

”我々は町唯一つの茶店へ、路を聞き聞き行ったが、最初に私の目についたのは、籠に入った僅な陶器の破片で、それを私は即座に、典型的な貝墟陶器であると認めた。質ねて見ると、これは内陸の札幌から来た外国人の先生が、村の近くの貝墟で発見したもので、生徒達に、彼等が手に入れようと希望している所の、他の標本と共に持って帰る事を申渡して、ここに置いて行ったのだとのことであった。私は直ちに鍛冶屋に命じて採掘器具をつくらせ、午後、堆積地点へ行って見ると、中々範囲が広く、我々は多数の破片と若干の石器とを発見した。私は札幌の先生が、もしこれ等を研究しているのならば、今日の発掘物も進呈しようと思っている。”

私がこれらの文章を引用したのは、「欧米人はお金で動く」という人がいるからである。
しかしモースは「お礼がなければ講義をする」「今日の発掘物も進呈しようと思っている。」と言っている。
このモースの行動が、欧米において特殊な行動であったといいきることはできない。
そもそも「欧米人はお金で動く」と言っている人は、なぜ「欧米人はお金で動く」といえるのか、その根拠を示していない。

⓻アイヌの刺青より日本人のお歯黒のほうが醜悪

”我々が小舎にいた時、アイヌ女が一人入って来た。彼女の顔は大きく粗野で、目つきは荒々しく、野性を帯びていた。彼女は一種の衣類を縫いつつあったが、ちょいちょい手を休めては蚤を掻いた。私は今迄にアイヌの女を三人見たが、皆口のまわりに藍色の、口鬚に似た場所を持っていた(図366)。これは奇妙な習慣であり、見た所は勿論悪いが、日本人の既婚婦人の黒い歯の方が倍も醜悪である。”

アイヌの刺青や、中国の纏足を醜いという人がいるが、外国人から見て、日本のお歯黒も醜悪に映ったといういことは知っておいたほうがいいだろう。
私はこれらは単に美意識の違いの問題で、どちらが優れているか等を測ったりはできないものだと思う。

東京の人力車の客引き

”人力車も、ここでは非常に数が少ない。東京の車夫が、うるさく客を引くことから逃れた丈でも、気がせいせいする。”

客引きは現在でも、夜の町などで行われているが、鬱陶しいものである。同様のことが、明治の東京でもあったのである。




「これらは一例であって、日本のすべてをあらわすものではない」という反論があるかもしれない。
そのとおりである。
しかし、そうであればモースが日本について褒めている点も一例から数例といえ、日本のすべてがそうだというわけではない。
前回ものべたが、誠実さなどを国別で比較するのであれば、誠実の定義を決め、10万人あたりの犯罪率などで比較するべきだと思う。


モースが見た明治期の日本③モースはアメリカ人のためになると考えて日本人をほめた。 へつづく~



モースが見た明治期の日本① モースの勘違い😄 



先に、エドワード・シルヴェスター・モースの『JAPAN DAY BY DAY』から明治期の日本を考えるということを、ちゃちゃっと片づけてしまおうと思った。
『JAPAN DAY BY DAY』は青空文庫にあり、ぱっとみたところ、さほど量も多そうに思えなかったからだ。

しかし実際に読んでみると、調べたいことが次から次にでてきて(汗)ちゃちゃっとはすみそうにない。
そういうわけなのだが、とにかく、『JAPAN DAY BY DAY』について記し、これが終わったのち、『シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた』シリーズに再度とりかかりたいと思う。

(そういえば、『シドモアが見た明治期の日本』シリーズもやりかけだった!)


↑ 青空文庫 日本その日その日
JAPAN DAY BY DAY
エドワード・シルヴェスター・モース Edward Sylvester Morse
石川欣一訳

※ピンク色文字はすべて「日本その日その日/エドワード・シルヴェスター・モース」からの引用。

①日本人は他人のものを盗まない?

ネットを検索すると、よくモースの次の文章を取り上げて、「明治の日本は、人々が他人のものを盗まない正直な国だった」と結論づけている記事を目にする。
” そこで亭主に、私が帰る迄時計と金とをあずかってくれぬかと聞いたら、彼は快く承知した。召使いが一人、蓋の無い、浅い塗盆を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品を入れる物だといった。で、それ等を彼女が私に向って差出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いた儘で、出て行った。しばらくの間、私は、いう迄もないが彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。然し下女はかえって来ない。私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかと質ねた。彼女は、ここに置いてもいいのですと答える。私は主人を呼んだ。彼もまた、ここに置いても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も、他の品物も持っていないのであるといった。未だかつて、日本中の如何なる襖にも、錠も鍵も閂かんぬきも見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験を敢てしようと決心し、恐らく私の留守中に何回も客が入るであろうし、また家中の召使いでも投宿客でもが、楽々と入り得るこの部屋に、蓋の無い盆に銀貨と紙幣とで八十ドルと金時計とを入れたものを残して去った。
 我々は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰って見ると、時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋の無い盆の上にのっていた。米国や英国の旅館の戸口にはってある、印刷した警告や訓警の注意書を思い出し、それをこの経験と比較する人は、いやでも日本人が生得正直であることを認めざるを得ない。而も私はこのような実例を、沢山挙げることが出来る。日本人が我国へ来て、柄杓が泉水飲場に鎖で取りつけられ、寒暖計が壁にねじでとめられ、靴拭いが階段に固着してあり、あらゆる旅館の内部では石鹸やタオルを盗むことを阻止する方法が講じてあるのを見たら、定めし面白がることであろう。”

現在の日本ではいたるところに、備品のトイレットペーパーや消毒用アルコールを持ち帰らないようにと警告する張り紙が貼られているし、トイレットペーパーやアルコールの瓶は以っていかれないように紐などで固定されていることが多い。

本当に日本の旅館では、お盆の上に貴重品を乗せておいて、盗難にあうことはなかったのだろうか?

懐中時計

⓶日本の民家には鍵がない❔

モースは次の様にも書いている。
”日本人が正直であることの最もよい実証は、三千万人の国民の住家に錠も鍵も閂かんぬきも戸鈕も――いや、錠をかける可き戸すらも無いことである。”
私は30年ほど前に、鍵のない豪邸があるのを知った。
その家の女主人が言うには、障害のある息子さんと二人暮らしで、鍵を掛けると、何かあった場合に近所の人が助けようとしても鍵があると家の中に入れないから鍵をつけていないのだと。

そういう家が、わずか30年ほど前の日本にもあることはあった。
明治時代にはそういう家が多かったのだろうか。

検索すると「しんばり棒」といって、引き戸が開かないように使うつっかえ棒が広く使われていた、というものもあったが
事実かどうかわからない。
庶民は貧しくて、家にものがないので鍵をつけなくてもとられるものがない、という記事もあった。

しかし、明治時代にも窃盗はおきている。アメリカと比較して多いか少ないかはわからないが。(モースはアメリカ人)
モースも次のように書いている。
”この日記の叙述には大ざっぱなものが多い。一例として日本人が正直であることを述べてあるが、私はかかる一般的な記述によって、日本に盗棒がまるでいないというのではない。巡査がいたり、牢屋や監獄があるという事実は、法律を破る者がいることを示している。諺のようになっている古道具屋の不正直に関しては、三千世界のいずこに正直な古道具屋ありやというばかりである。”


ここにあるデータをもとにグラフを作ってみた。
窃盗の件数

これをみるとたしかに明治時代は窃盗の件数が少ないが、平成15年をピークに窃盗は低下傾向で、最も窃盗が少ないのは令和3年の304.19件(10万人あたり)である。
(新型コロナウイルス対策の行動制限が関係しているかもしれないが)

「日本は西欧文明をとりいれたので、悪くなった。」という人がいるが、近年の窃盗の減少傾向をみると、そんなことは言えないと思うし、
「自国の悪化を他国の文明のせいにする」のは、「日本人らしくない」と私などは思ってしまう。

ウィキペディア 日本の犯罪と治安「世界の諸国との犯罪発生率の比較」には、次のような内容が記されている。

1、国連加盟229国・地域のうち犯罪と刑事司法の統計をUNODCに報告している国の中で、日本は殺人、強盗の暴力犯罪の10万人当たりの発生率は低い。

2、報告書を提出した国全体の数を100として低い方からみた場合、性的暴力と侵入盗は10~20%の間、深刻な暴行と略取・誘拐は20~30%の間、窃盗(強盗・侵入盗・自動車盗は除く)及び自動車盗は40~50%。

3、国の人口構成には大きな差があるので、国別の単純比較は比較対照として適切でない場合もあるが、日本は先進国である西欧・北欧諸国よりも発生率が低い。

3は「10万人あたりの犯罪件数」ではなく「国の犯罪件数」の比較ということだろう。
人口が多いと犯罪件数も増えるだろうから、10万人あたりの犯罪率でみるべきだと思うが
 日本の人口 1億2,330万人は、西欧・北欧の各国の人口と比較して多いので、10万人あたりにしても、西欧・北欧より少ないということになるだろうか。

4.10万人あたりの日本の犯罪発生件数と順位(低い順)
故意の殺人(既遂)・・・・・0.23(2021年)107国中4位。
女性に対する故意の殺人・・・0.21(2021年)94国中7位。
性的暴力・・・・・・・・・・4.34(2020年)74国中9位。
深刻な暴行・・・・・・・・・14.99(2020年)80国中24位。
略取・誘拐・・・・・・・・・0.27(2020年)143国中38位。
強盗・・・・・・・・・・・・1.20(2019年)68国中3位。
窃盗(強盗・侵入盗・自動車盗は除く。)・・・295.07(2020年)79国中34位。
侵入盗・・・・・・・・・・・34.86(2020年)70国中13位。
自動車盗(日本は自動車盗とオートバイ盗を合わせた認知件数で計上)・・・11.25(2020年)71国中で29位。

5.昔から他国と比較して治安が良かったわけではなかった。
殺人既遂率についてG7の国々と比較(1890年/明治23年以降)
日本がG7の中で最低だったのは盧溝橋事件が起きた年の1937年~1943年
日中平和友好条約が締結された翌年の1979年以降

6.日本で初めて衆議院議員総選挙が行われた1890年は、データの無いアメリカとカナダを除いて、イタリア(10万人当たり約5.7件)に次いで約2.7件と殺人既遂率が高かった。

7.1900年代前半の殺人既遂率はアメリカ(1900年代前半平均:約1.4件)よりも高かった。

5.6,7をまとめると以下のようになる。
1890年~1936年 日本の殺人既遂率はG7中最低ではなく、アメリカよりも高かった。
1937年~1943年 日本の殺人既遂率はG7中最低だった。
1944年~1978年 日本の殺人既遂率はG7中最低ではなかった。
1979年以降    日本の殺人既遂率はG7中最低だった。

モースが来日した期間は次のとおり。
1877年(明治10年)6月~11月初め、
1878年(明治11年)4月~1879年(明治12年)9月
1882年(明治15年)6月初~1883年(明治16年)2月

5の「殺人既遂率についてG7の国々と比較」データは1890年(明治23年以降)であり、モースが帰国してから7年が経過してからのことである。
そうではあるが、わずか7年で日本が激変するとも思えない。

やはりモースのような外国人の個人的な印象は正しいとは言い切れず、実際のデータを見て判断するべきだということになろうかと思う。

【追記⓶】

”江戸時代には、庶民にとって鍵はほとんど必要のないものだった。当時の治安は比較的よかった上に、用心する際はほとんど心張り棒で戸締りをしていたからである。鍵をかけるのは当時の金持ちが蔵にかけるぐらいであったが、その鍵は手で簡単に開けられるようなものなど、防犯の意味をあまり成さず、ほとんど飾りだけのようなものが多かった。ただし、城門の|閂(かんぬき)には頑丈な錠前が備え付けられていた。なお、蔵などには雨戸などで用いられる落とし錠[注 1]が用いられることもあった[9]。”

ウィキペディア鍵 より引用

とある。
でモースが日本にきたのが1877年(明治10年)なので、江戸時代の状態が続いていたってことかもしれない。

江戸時代、窃盗が少なかったのは刑罰がきつかったせいもあるかもしれない。
10両(130万円)盗んだら死刑だったそうである。

③明治期の日本の男性は女性に対する礼儀ができていなかった?

”また、続けさまにお辞儀じぎをする処を見ると非常に丁寧であるらしいが、婦人に対する礼譲に至っては、我々はいまだ一度も見ていない。一例として、若い婦人が井戸の水を汲むのを見た。多くの町村では、道路に添うて井戸がある。この婦人は、荷物を道路に置いて水を飲みに来た三人の男によって邪魔をされたが、彼女は彼等が飲み終る迄、辛棒強く横に立っていた。我々は勿論彼等がこの婦人のために一バケツ水を汲んでやることと思ったが、どうしてどうして、それ所か礼の一言さえも云わなかった。”

これはモースらが、婦人に対して礼儀正しく振る舞う男性を見た事がない、ということであって
婦人に対して礼儀正しく振る舞う男性もいただろう。
しかし、①の「お盆に時計と金を置いても盗まれない」話も一例にすぎず、「日本すばらしい」「日本正直」にあう話だけを取り上げて話をするのは、チェリーピッキングである。

チェリー・ピッキング(英語: cherry picking)とは、数多くの事例の中から自らの論証に有利な証拠のみを選び、それと矛盾する証拠を隠したり無視する行為のことである[4][5][6]。

チェリーピッキングは質の悪い科学または疑似科学の特徴であり、多くの証拠が自分たちに不利であるにもかかわらず、立場を支持するように見える範囲(狭い時間範囲、地理的地域、亜集団、年齢層)、テキストの抜粋を見つけることができるため、論理的結論を受け入れることを拒否するときにこの戦術を使用する[7]。


④日本は火葬が多い?
”日本人はいろいろな点で訳の分った衛生的な特色を持っているが、火葬の習慣もその一である。死体の何割位を火葬にするのか私は知らないが、兎に角多い。”

”明治時代の火葬率は30%前後だったそうですが、その歴史は意外と古く、古墳時代後期の陶器千塚古墳群の一部である「カマド塚」に火葬の痕跡があります。つまり6世紀ごろには火葬は行われていたようです。

また、日本書紀には法相宗の開祖である道昭が700年に火葬されたと記されており、これが記録として残っている最初の火葬のようです。

さらに、702年に亡くなった持統天皇は天皇としては最初に火葬されましたが、それ以後天皇にならって一部の僧侶や貴族などの間で火葬が行われるようになりました。

その後、火葬は仏教の普及とともに国内に少しずつ広まりましたが、その背景には釈迦が火葬されたことにちなんでいるとされています。”

”平安時代になると、火葬は皇族をはじめ、貴族や僧侶の間にさらに大きく広まっていきました。当時は墓地などに浅い溝を掘って、石や土器などで火床を作った火葬場が作られていました。

鎌倉時代に浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗など鎌倉仏教が庶民に普及すると、庶民へも火葬が広まっていきました。この頃の火葬は、野原に薪を積み、その上に遺体を置いて焼く野焼きでした。ほとんどの地域でこの形が江戸時代末まで続いています。”

”江戸時代には、お寺の境内や墓地の敷地に火葬場が作られるようになり、となりました。このころの火葬場は、簡易な屋根や壁を使った小屋の中に設ける火家と呼ばれるものでした。鎌倉時代の野焼きと比較して、徐々に現在の形に近づいてきました。

とは言え、火葬はまだまだ主流とは言えず、地域によっては土葬が主流であったことも多いようです。

火葬が主流にならなかった理由のひとつには、火葬による臭気や煙の問題がありました。実際に浅草や下谷の20数ヵ所のお寺の火葬場が幕府指定地へ移転させられました。”

ここに
・明治時代の火葬率は30%
・江戸時代は都市部を中心に庶民も火葬をすることが一般的になった。
・江戸時代は地域によっては土葬が主流。
とある。

モースは主に横浜や東京の話を書いており、都市部を旅していると思われる。
それで火葬が多いと書いたのだろうが、全国的に見て火葬は30%ということは、残りのほとんどは土葬だと考えられる。
(一部風葬などもあったかもしれないが)

モースはアメリカ人である。アメリカ人はクリスチャンが多い。(2011年は75%がクリスチャン)
そしてキリスト教の基本は土葬である。
アメリカではじめて火葬が行われたのは1876年のルモイーヌ博士とされる。
1876年は明治9年である。そしてモースが日本にやってきたのは1877年(明治10年)。
モースはほとんど火葬を見たことがなかったであろうと思われる。

ある人が「日本は火葬文化」とおっしゃっていたのは、このモースの記述をよまれて、そう思われたのかもしれない。
(その方はモースの文章の引用をよくされている。)

なるほど、アメリカに比べれば日本は火葬の文化だといえる。火葬の歴史も古い。
しかし、その率は明治期で30%程度であるので、主流は土葬だったといえるだろう。

⑤日本人は種痘の功徳を理解した?
”これ等不幸な人達は疱瘡ほうそうで盲目になったのであるが、国民のコンモンセンスが種痘の功徳を知り、そして即座にそれを採用したので、このいやな病気は永久に日本から消え去った。我々は我国にいて、数字や統計の価値を了解すべく余りに愚鈍である結果、種痘という有難い方法を拒む、本当とは思えぬ程の莫迦者共のことを、思わずにはいられなかった。このような人達は適者生存の法理によって、いずれは疱瘡のために死に絶え、かくて民族は進歩の途をたどる。”

ウィキペディア種痘をよむと、シーボルトや日本の医師らが熱心に研究、普及に努めたことがわかる。
1849年には京都・大坂に「除痘館」が、1851年には福井藩「除痘館」を開設するなど急速に広まったようである。
明治維新後の新政府も「牛痘種継所」を設けて日本各地へ配布できるシステムを整備するなどし、
1909年には「種痘法」をつくるなど天然痘撲滅に努力している。
1948年(昭和23年)施行の予防接種法では計3回の定期接種が義務付けられ、1980年(昭和55年)に天然痘の撲滅が確認されている。

しかし日本においても迷信や不信感の様なものはあったようで、ウィキペディア「種痘」には次のように記されている。

”江戸では嘉永2年(1849年)3月に、既得権益を守りたい、または用例が未だ少ない蘭方医学に対する不信感を持つ漢方医(多紀元堅ら医学館の関係者)らの働きかけから「蘭方医学禁止令」が布達された影響もあり、普及は遅れた。”

”この「西洋種痘法の告諭」の中で江川は、自身の子供二人にも施したことに触れた上で、当時の民衆の間で流布していた、種痘に対する得体の知れないものへの恐怖、迷信、噂などを打ち消そうとした。”

”当時は、牛痘に対して「打ったところから牛の頭が生える」「四つ足で歩くようになる」といった迷信も流行した[8]。”


モースは
”我々は我国にいて、数字や統計の価値を了解すべく余りに愚鈍である結果、種痘という有難い方法を拒む、本当とは思えぬ程の莫迦者共のことを、思わずにはいられなかった。このような人達は適者生存の法理によって、いずれは疱瘡のために死に絶え、かくて民族は進歩の途をたどる。”

といっている。

我国とはアメリカのことで、迷信からアメリカの種痘を拒む人々のことを莫迦者と言っているのではないか、と思う。
”いずれは疱瘡のために死に絶え、かくて民族は進歩の途をたどる。”
というのは、莫迦者たちはいずれ疱瘡で死に絶えて、いなくなるので、アメリカは進歩するだろう、というような意味だろうか。

しかし、モースは日本における種痘の迷信については書いていないし、彼の記述から、日本とアメリカの迷信の差を知ることはできない。
また同胞であるアメリカ人の一部を莫迦者と呼ぶのは同胞とアメリカという国を愛するが故の言葉かもしれないと思った。
我が子かわいさゆえ、莫迦と叱ったりすることはよくあることだ。
しかし他人の子をなかなか莫迦とはいえない。
それは、「他人の子がどうなろうと、自分には責任がない。勝手にしろ。」ということでもある。

⑥乞食は監獄に収容されていた。

”「私は盲です」という札を胸にかけている乞食は一人もいない――第一乞食がいないのである。”

ここでモースは”乞食がいない”と言っている。
しかし、『JAPAN DAY BY DAY』をよみ進めると、あとのほうにこういう記述がでてくる。
”ある町で、私は初めて二人の乞食を見たが、とても大変な様子をしていた。即ち一人は片方の足の指をすっかり失っていたし、もう一人の乞食の顔は、まさに醗酵してふくれ上らんとしつつあるかのように見えた。おまけに身につけた襤褸ぼろのひどさ! 私が銭若干を与えると彼等は数回続けて、ピョコピョコと頭をさげた。”
”第一乞食がいないのである。”というモースの記述はやや誇張されたもので、「乞食がいない」とは「乞食が少ない」という意味だととらえるべきだろう。

さて「日本に乞食は少ない」は事実だろうか。

”1869年(明治2年)に東京府が乞食行為を禁止したことを嚆矢として全国的に乞食行為への取り締まりが行われ、1871年(明治4年)には賤民廃止令により身分としての乞食も亡くなった。 

どうやら、乞食行為は禁止されたらしい。

”東京府における監獄が浮浪・乞食にどのように介入していたのかを達で確認すると、明治 11(1878)年 7 月 5 日警視庁達第 106 号では、乞食体の者及び無籍者を市ヶ谷監獄に送致するよう達し、浮浪・乞食の監獄収容を行う 5)。また、同日
の同達 115 号では、他県の者でも東京府のものでも「瘋癲ヲ発シ候者」で引取人のいない者は監獄署に送付するよう定め、その書式も提示している。”
なるほど、乞食体の者は監獄にいれられたのだ。

この頃の「懲役場」すなわち監獄は、純粋自由刑施設ではなく救貧院の役割も果していたということは隅谷(1955)の研究でも指摘されるところである。明治 4(1871)年の脱籍者復籍規定より、生活の安定しない脱籍無産の徒を監獄施設に収容して授産をさせた経験は、わが国におけるハウス・オブ・コレクションの萌芽と見ることも可能である。”

”そのため、近代初期のヨーロッパでは浮浪・乞食を労働者に陶冶する House of Correction(以下ハウス・オブ・コレクション)が設立され、これが近代的自由刑施設、つまり刑務所の起源となった。浮浪・乞食の増大と従来の残虐な身体刑
から距離を置こうとする啓蒙思想の発達、そしてルターの職業観やカルヴィン主義によって労働の価値が引き上げられ、施しの宗教的権威の低下から怠惰が悪の根源とされたことも、ハウス・オブ・コレクション設立の基盤となった(小野坂 
1969:64-65)。
ハウス・オブ・コレクションはロンドンのブライドウェル(1555)に作られたのが始めであると言われる。オランダのアムステルダム(1595)にも同様の施設が作られ、これがドイツ語圏を中心とするヨーロッパ各地に設けられ、近代的自由刑施設(刑務所)の起源であるとされる。こうした施設は、救貧院・工場・刑罰施設の機能を兼ね備えたものであった。”


取り締まられ、監獄にいれられた乞食体の者たちは、その後どうなったのだろうか。

上記サイトの表 1 ことも「懲治監の人員(明治 9 ~ 13 年)」をみると、復籍になっている者が多いが、その後、きちんと生計をたてられるようになったのだろうか。
後、死亡者が多いことも気になるが、これについては、次のように説明されている。

”「脱籍無産ノ者」の死亡者の数の多さは懲治監の衛生環境が良くなかったこともあるだろうが、先述の通り警視庁達で行旅病人死亡法にかかる者や「瘋癲ヲ発シ候者」が監獄送りになっていたことを考えると、むしろ病弱な者を多く収容してい
たと見るべきであろう。”

https://jwu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2168&file_id=22&file_no=1   より引用

これについてはまた機会を見て、調べることができればと思う。
ここでは東京でモースが乞食を見ることが少なかったのは、彼らが取り締まられて監獄にいれられたためであり、
日本が乞食のいない社会であったわけではない、ということを認識しておこう。

⓻外国人旅行者は過去の日本で間引きが行われていたことをしらない。

”いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致する事がある。それは日本が子供達の天国だということである。この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少く、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。赤坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人々なりの背に乗っている。刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、五月蠅うるさく愚図愚図ぐずぐずいわれることもない。日本の子供が受ける恩恵と特典とから考えると、彼等は如何にも甘やかされて増長して了いそうであるが、而も世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること日本の子供に如しくものはない。爾なんじの父と母とを尊敬せよ……これは日本人に深く浸み込んだ特性である。”

”分娩後の間引きは残酷で、膝(ひざ)やふとんで窒息させたり、臼(うす)ごろといって石臼で圧殺したり、紙はりといってぬらした紙を顔にはって窒息させたりした。たいてい取上げ婆(ばば)(免許制以前の産婆)が処理した。霊魂信仰の考え方では、生児は成長に応じて次々に霊魂を付与し人間らしくなっていくので、胎児、嬰児、幼児の人権は重視されていなかった。妊婦、産婦の心情はいまも昔も変わりがないが、社会的な人権意識が足りなかった。間引いた子は自宅の床下や縁の下に埋める例もあり、生まれ変わることを期待する気持ちがあった。間引きのことを「返す」「戻す」などというのはそのためであり、桟俵(さんだわら)にのせて川に流す例もある。”


”間引き法としては濡紙を口に当てる、手で口をふさぐなどの直接的なものとネグレクトなど間接的方法があった。これらの根底には貧しさがあり、親たちが生きるためのやむにやまれぬ選択であった。そして、そこには「7歳までは神の領域に属するもの」として「子どもを神に返す」という古来の日本人の精神があった。また、七五三に見られる通過儀礼は、子どもが無事に生まれ、無事に育つことの困難な時代にあって不安定な時期を乗り越えた節目の儀礼であった。”
「江戸時代後期の堕胎・間引きについての実状と子ども観(生命観)」より引用
”徳満寺の本堂廊下には、「間引絵馬」が掲げられています。絵馬には、母親が必死の形相で生まれたばかりの子供の口をふさいでいる様が描かれており、水害と天明の飢饉に襲われた農民の悲惨さを象徴しています。”