fc2ブログ

アジアの独立 と 日本

①明治・大正・昭和は「独立の時代」?

武田邦彦さんは、日本の明治・大正・昭和の時代を「独立の時代」とおっしゃっていた。
私はこれに大変違和感があった。
なぜならば、日本は長い歴史の中で、飛鳥時代から現在にいたるまで、植民地になったことがないからである。
確かに幕末頃には欧米の船がやってきて日本に開国をせまった。
不平等条約を結ばされたこともあったが、日本は植民地にはならなかった。

⓶GHQ解体=独立?

しかし、武田邦彦さんの次の発言を聞いて「独立」の意味がわかった。

https://www.youtube.com/watch?v=QZi_z9YNGak

1:35
アジア独立の時代のいつからするかっていうのはちょっとあるんですが
一応日本を中心に考えますと、まあだいたい江戸時代の終わりからですね。
四国戦争下関ですね、下関の四国戦争と
薩英国戦争薩摩とイギリス 東洋艦隊との戦い。
まあこれぐらいが最初ですので、1860年あたりを起点にしますとね
日本が戦争が終わったのは1945年。日本が独立したのが1950年。

1945年は日本がポツダム宣言を受諾して終戦した年である。
その後、日本はGHQ支配下となる。
そして、武田先生は日本が独立したのが1950年とおっしゃっているが、
1952年に日本は主権回復し、GHQ解体している。
おそらく、1950年はまちがいで、この日本が主権を回復した1952年のことを「日本が独立した年」とおっしゃっているのだと思う。

しかし、GHQおよび連合国は日本を植民地にしたわけではない。
植民地について調べると、次のようにある。
「本国からの移住者によって経済的に開発され(植民・移民)、本国に従属する地域」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0 より引用

日本はGHQの支配は受けたが、連合国からの移住者によって経済的に開発されるというようなことはなかった。

③日本の戦争は日本にGHQ支配をもたらし、目的を達成したGHQが解体されて日本は主権を取り戻した。

GHQが行ったことは次のようなものである。

・憲法改正(象徴天皇制、平和主義)
・五大改革指令(1)女性の解放(2)労働者の団結権の保障(3)教育の民主化(4)秘密警察の廃止(5)経済の民主化
・結党の自由と政治犯の釈放
・財閥解体
・産業解体
・農地改革
・飲食営業緊急措置令
・武装解除
・外地(台湾・朝鮮)・租借地(関東州)・委任統治区域(南洋群島)を日本からとりあげる。
・内地はソ連の侵攻によって南樺太・千島列島が占領された。アメリカによって沖縄が占領された。
・占領軍への労務と物資の調達
・言論統制(プレスコードなど)

1952年、主権が日本に回復したのは、GHQが目的を果たしたと判断して解体したからだ。
日本は主権回復のために戦ったりはしていない。

そして1952年の主権回復を独立であるとすると
「日本の戦争がアジア・アフリカの独立をもたらした」と一部でいわれているが
日本自身に関しては、「日本の戦争によって独立をもたらした」とはいえなくなる。
日本の戦争が日本にもたらしたものは、GHQの日本占領である。

目的を達成したと判断したGHQが解体されて、日本は独立(独立という言葉が正しければ)したのである。

④日本の戦争がアジア・アフリカの独立をもたらした?

「日本の戦争がアジア・アフリカの独立をもたらした」というのは本当だろうか。
日本会議の「世界はどのように大東亜戦争を評価しているか」という記事には、次のような発言が掲載されている。

■オランダ
◎サンティン・アムステルダム市長 現内務大臣
「本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現した。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わった。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成した。日本の功績は偉大であり、血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむことを止め、…その誇りを取り戻すべきであります。」
(1985年日本傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時行われた市長主催の親善パーティの歓迎挨拶)

https://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/844 より引用

他にも、日本の戦争がアジアに独立をもたらしたと評価する文章が並んでいる。

しかし、これは日本を評価する言葉ばかりを集めたものであることは、容易に想像がつく。

「日本の戦争がアジア・アフリカの独立をもたらした」というのは本当か、という
その解答を出すためにはもっと勉強しなければいけない。

とりあえず、調べた結果、いまのところ、「日本の戦争がアジア・アフリカの独立をもたらした」側面もあるが
「日本はただ、他国の独立の実を願って戦争したのではなく、自国の利益をはかって戦争した」とはいえるのではないかと考えている。

調べていくうちにまた考え方が変わるかもしれないが、とりあえず調べたことを書いておこうと思う。

⑤「日本は満州をロシアから守ろうとした」というけど、ロシアに満韓交換論を提案していた。

こんなことを言う人がいる。

日本は満州にいるロシア人と戦ってロシア人を満洲から追い出した。
そして満州に鉄道を敷くなどして、近代都市を建設した。

かなりおおざっぱだが、ざっと満洲の歴史をみてみよう。

17世紀、ロシア帝国の南下。清露国境紛争。
1689年、ネルチンスク条約。国際的に満洲全域が正式に清朝の国土と定められた。
1858年、アイグン条約、1860年11月14日の北京条約の不平等条約で外満洲地域はロシアに割譲された。
1900年、義和団の乱に乗じてロシアが満洲を軍事占領(満洲還付条約)。
1904年 日露戦争で日本が勝利し、満洲還付条約で確保されていたロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものは日本へ引き渡された。
1911年 辛亥革命で清倒される。
1912年 中華民国おこり、清朝領土の継承を宣言する。満洲、中華民国政府の統治下に。
袁世凱と孫文の対立から、中華民国は各地域の軍閥による群雄割拠の状態に。
満洲では張作霖の軍閥が台頭しその支配下となる。
ロシア支配力低下、北満洲及び外満洲の大部分、さらにはバイカル湖周辺までを日本軍が占領する。
1920年 日本占領下のニコラエフスクを赤軍パルチザンが襲撃し、住民虐殺が行われ6,000人余りが処刑された。日本人も700人余りが殺戮された(尼港事件)
1920年、日本以外の連合軍撤退。
1922年、日本撤退し占領は解除される。
1928年、ソビエト連邦ロシアから東清鉄道の経営権を継承していたが、満洲を実効支配する張学良政権が武力によって略奪を行おうとした。
ソ連は北満洲に侵功、占領して、中華民国軍を破り中東鉄道の権益を確保し、権益を再確認する協定を結んだ後撤退した(中東路事件)。
1931年、日本満洲全域を侵攻、占領し、翌1932年に満洲国を建国した(満洲事変)。
清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)とした。
日本は南満洲鉄道や満洲重工業開発などの産業投資を行い、品種改良で寒さに強い品種を植えて農地を開墾した。
病院や工場、学校設立。
中国民国側から多くの移民が流入。
1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻。
ソ連は満洲を占領して中華民国への返還を遅らせた(東北問題)。
その後、中国共産党が国共内戦に勝利し、満洲は中華人民共和国の領土となる。

これだけよめば、下の発言は正しいようにも思える。

日本は満州にいるロシア人と戦ってロシア人を満洲から追い出した。
そして満州に鉄道を敷くなどして、近代都市を建設した。

しかし、日露戦争前の1903年の日露交渉で
日本は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという満韓交換論をロシア側へ提案している。

当事ロシアに占領されていた満洲の人々はひどい目にあっていたのかもしれないが、
そんなことお構いなしに日本はロシアに
「満州はロシアさんにあげますさかい、朝鮮半島はうちにくださいな」
と持ち掛けたということである。

当たり前のことだが、日本は単なるお人好しでなかったのだ。

⑥南方占領地行政実施要領

1941年、大本営政府連絡会議は「南方占領地行政実施要領」を決定している。

❶占領地に対しては差し当り軍政を実施し治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及作戦軍の自活確保に資す」
石油やゴムなどの南方資源の獲得と、日本軍の食料等については現地調達を原則とする。

❷「民生に及ぼさざるを得ざる重圧は之を忍ばしめ」、民衆に反抗せず我慢するように宣伝せよということ。

❸「其の独立運動の如きは過早に誘発せしむることを避くるものとす」、民衆が独立運動にはしらないように注意せよ、ということ。

特に❸の項目は、各国の独立を阻止するようにとの内容で、日本がアジアを独立させようとしていたとは思えない内容になっている。

⑦抗日勢力ベトミン

日本の支配下にあった地域では抗日勢力が登場している。

19世紀末~20世紀初頭 インドシナはフランスの侵略を受け、植民地化される。
1940年(昭和15年)日本軍はフランスとの合意の下に仏印進駐を行う。
1940年(昭和15年)、北部バクソンで蜂起が起こりトー族、ヌン族が日本軍に抵抗する。
1941年5月19日ホー・チ・ミンが指導するベトナム独立同盟会(ベトミン)結成。
アメリカ合衆国および中華民国から資金援助を受けた。
1941年、南部メコンデルタで大規模な蜂起が起き、革命委員会が権力を掌握。
農民に土地を再分配したが、フランス軍に鎮圧され、6,000人が逮捕、数百人が処刑された。
1944年(昭和19年)、コメが不足で大飢饉が起こる。ベトミンは日本軍の食糧庫を襲撃。
1945年(昭和20年)3月9日、日本軍、フランス軍を制圧した。
3月11日、保大帝がベトナム独立を宣言しベトナム帝国が樹立された。
ベトミンはこのベトナム帝国を日本の傀儡政権として、対日ゲリラ活動を行う。
1945年(昭和20年)8月15日に日本が無条件降伏。
8月18日から8月28日にかけてベトミンが指導する蜂起が全土で起こる。
保大帝を退位させる。(ベトナム八月革命)。
9月2日に、ベトナム民主共和国の樹立を宣言した。

⑧フクバラハップ

1898年フィリピン、アメリカの植民地となる。
1935年アメリカ、フィリピンの10年後の独立を決める。(軍事費がかかること、民衆の反対などが理由)

1942年日本がフィリピンを占領する。
日本は「アジアの解放」を掲げていたが、アメリカがすでにフィリピンの独立を約束していたため
日本軍はフィリピン人に歓迎されなかった。
日本人はフィリピン人にこまごました労働を強いたため、フィリピン人は親米的であったという。
日本軍占領下のフィリピンで、ルイス・タルクをリーダーとして抗日組織・フクバラハップが結成された。
ゲリラ戦で日本を苦しめる。
1943年、日本フィリピンを独立させる。(アメリカが1945年のフィリピン独立を決定していたため)
1944年10月20日。アメリカはレイテ島上陸を皮切りにフィリピンを再占領し、1945年2月にフィリピンを奪還する。
米軍とフクバラハップは対日協力を結んでいたが、のちアメリカはフクバラハップを弾圧するようになる。。

1945年、日本敗戦に伴い、フィリピンは再びアメリカの植民地となるが、
1946年のマニラ条約で、戦前から約束されていたフィリピン第三共和国が再独立した。

ほかにも、抗日勢力として、ビルマ(現ミャンマー)の反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)なども存在していた。




スポンサーサイト



プロフィール

写真・文章の無断使用はご遠慮ください。 ご意見・ご感想はお気軽にメールフォームにてお問い合わせください。

ぜっと

Author:ぜっと

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー

11 | 2023/12 | 01
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

カウンター

ブログ村ランキング

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

QR