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シドモアが見た明治期の日本32 東海道➀

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。


➀東海道本線

p240
最初の鉄道は英国人技師によって建設され、英国式車両が配備され、これを日本人技師が模倣し、敷設した鉄道は日本人が管理しました。

p240
長いトンネルをはじめ、富士山周辺の難所や各河川の巨額な土木工事の必要性から、全線開通は一八八九年[明治二二]まで手間どりました。

慶応3年(1867年)6月、幕府はアメリカ領事館書記官のアルセ・ポートマンに江戸・横浜市間の鉄道設営免許を与えた。
明治になってからアメリカは鉄道建設要請を行ったが、明治政府は幕府による許可であることを理由に認めなかった。
明治2年(1869年)11月に自国管轄方式によって新橋・横浜間の鉄道建設を決定した。
イギリスより技術や資金援助をうけることにし、明治3年(1870年)イギリスのエドモンド・モレルを建築師長として工事が始まる。
明治4年(1871年)に井上勝が鉱山頭兼鉄道頭に就任した。

シドモアが見た明治期の日本29 富士登山 ➀
↑ こちらの記事にも書いたように、
1872年(明治5年)、新橋駅(後の汐留貨物駅、現・廃止) - 横浜駅(現・桜木町駅)間が日本最初の鉄道として開業。

開業当時の新橋駅

開業当時の新橋駅

開業当時の横浜駅(現 桜木町駅)の全景

開業当時の横浜駅(現 桜木町駅)の全景

1874年(明治7年)に大阪駅 - 神戸駅間が開業
1887年(明治20年)には木曽川駅 - 加納駅(現在の岐阜駅) - 大垣駅間、横浜駅 - 国府津駅間、浜松駅 - 大府駅間が開業。
1889年(明治22年)7月に新橋駅 - 神戸駅間の全線が開業。
1914年(大正3年)東京駅が開業

東京駅

1914年ごろの東京駅

⓶東海道五十三次双六

p241
世間では五十三次の名称で知られ、これにちなんだゲームに前進、退却を素早く繰り返す大衆的ゲーム[双六]があります。


↑ これはいつごろ作られたものかわからないが、日本では明治期にはじめて登場した馬車鉄道が描かれている。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1310718?tocOpened=1

↑ こちらは上の動画のものとちがって、振出しが江戸の日本橋、中央のあがりが京都になっている。

↑ こちらは安政2年・1855年、歌川広重作の『浮世道中膝栗毛滑稽双六』は、振出しが神田八丁堀で、上りの京都へいたるまでそれぞれのコマの絵が分かりやすく掲載されている。


↑ 東海道五十三次 新板道中双六 明治初期 

③箱根

p242
東海道の旅のふりだしは宮野下のホテル[富士屋ホテル]からで、椅子式四人担ぎの駕籠に外人女性二人[シドモア女史と母キャサリン?]が乗り、日本人ガイドを伴い出発。続いて一行の引率者である旦那さん[兄ジョージ?]は軟弱な趣向を笑われながらも、金剛杖、藁保安帽、赤褐色の靴といった出立で大きく足を上げ前進、同時に私たちの後に駕籠いっぱいの食糧箱と荷物が続きました。



富士屋ホテル オーストリア皇太子一行。1893年

富士屋ホテル オーストリア皇太子一行。

富士屋ホテルについてはこちらの記事にも書いた。↓
シドモアが見た明治期の日本29 富士登山 ➀

おさらいしておこう。
宮ノ下には奈良屋という、老舗旅館(徳川綱吉のころ(将軍在職:1680年 - 1709年)の創業と伝えらえる)だったが
1868年(明治11年)に富士屋ホテルが開業したあと、奈良屋と富士屋は協定を結び、
1923年(大正元年)まで奈良屋は日本人専門旅館、富士屋は外国人専門ホテルとされた。
奈良屋は2001年に廃業し、現在跡地にはリゾートホテル「エクシブ箱根離宮」が立っている。

「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録であり
この時奈良屋は日本人専門旅館となっている。
なのでシドモアは富士登山の際にも、この富士屋ホテルを利用したのだと思う。

p242
すぐに一行は竹藪に覆われた山道を登り、さらに草深い高地を越え箱根湖[芦の湖]に向かいました。

上の地図の富士屋ホテルの西にある大きな湖が芦ノ湖である。

芦の湖

芦の湖

p242
太古は噴火口だった湖も、今では全く火が消えています。

芦ノ湖は箱根山のカルデラ湖である。

芦の湖といえば、東京箱根間往復大学駅伝競走の往路ゴール、復路スタート地点であるが、
駅伝が始められたのは1920年(大正9年)である。
シドモアの生没年は 1856年ー1928年だが、「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、シドモアが駅伝を見ることはなかっただろう。

p242
駕籠かき忍足は歌いながら大股で歩き、息切れする昇りもものともせず、さらに芦之湯硫黄温泉や箱根ブッダ[六道地蔵]を通過します。

芦之湯温泉は「箱根七湯」のひとつ。
泉質は硫黄泉、硫酸塩泉などとのこと。

1890年頃の芦之湯 (日下部金兵衛撮影)

1890年頃の芦之湯 (日下部金兵衛撮影)

歌川広重 箱根七湯図会_芦のゆ

歌川広重『箱根七湯図会』より「芦のゆ」

絵の中央に描かれているのは、源泉だと思う。
下の写真は日光湯元温泉の源泉地。

湯元温泉


六道地蔵は神奈川県足柄下郡箱根町元箱根にある磨崖仏群(元箱根石仏群)のひとつ。
元箱根石仏群は六道地蔵(高さ3.2m)二十五菩薩(実数は26体)火焚き地蔵(3体)からなり、五輪塔3基・宝篋印塔1基もある。
1293年(永仁元年)から1311年(応長元年)に造られた。

六道地蔵

六道地蔵

p242
ブッダの膝の小石の山は巡礼による祈祷登録です。


写真をよく見ると、石仏の膝のあたりに石が積まれているように見える。

「二十五菩薩」は西方浄土から来迎する二十五の菩薩で、
観音・勢至・薬王・薬上・普賢・法自在王・獅子吼・陀羅尼・虚空蔵・宝蔵・徳蔵・金蔵・金剛蔵・山海慧・光明王・華厳・衆宝王・月光王・日照王・三昧王・定自在王・大自在王・白象王・大威徳・無辺際の各菩薩のことである。


↑ これは奈良県當麻寺で行われている二十五菩薩練供養で、二十五菩薩が中将姫を迎えにやってくる場面を再現している。

しかし元箱根石仏群の二十五菩薩は、阿弥陀如来立像1体、供養菩薩立像1体のほかは、地蔵菩薩立像なのだという。

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上の写真中央に映っているのが、26体ある二十五菩薩像のうちの阿弥陀如来立像だと思う。
供養菩薩立像がどれなのかはわからない。

六道地蔵の六道とは、生きとし生きるものが輪廻するという六つの世界、天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道のことだろう。
墓地の入り口などに六地蔵が置かれているのもよく見かけるし、京都では6つの街道に地蔵菩薩を祀る寺があり、8月23日、24日の地蔵盆に6つの寺をめぐる習慣がある。

なぜ箱根峠沿いの街道筋に元箱根石仏群がつくられたのか、興味があるが、全く見当がつかないw

p242
半島御用邸[恩賜箱根公園]の菊の門の門扉はしかりと閉められ、円錐形の富士が湖を取り囲む尾根の肩越しにちらりと姿を見せ、底なし湖の水面に映っています。

これは箱根離宮のことで、シドモアが半島御用邸と書いているのは芦ノ湖の半島・塔ヶ島にあるためだろう。

「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録であり
このころは御用邸として用いられていたのだが、1946年に一般開放され、現在は恩賜箱根公園となっている。

「疎林の広場」から見た芦ノ湖、箱根外輪山、富士山

恩賜箱根公園「疎林の広場」から見た芦ノ湖、箱根外輪山、富士山

p243
ここで、私たちは靴にワラジを被せて結び、東海道の滑らかな石畳に沿って歩くうち、再び上りとなって箱根峠へ導かれ、すぐ頂上に着き、そこから広い谷間を越え南方向に太平洋が眺められました。

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上の写真は https://www.photo-ac.com/main/detail/23715664 からダウンロードさせていただいたもので(ありがとうございます)
タイトルは「駿河湾と富士山」となっていて、タグに「箱根峠」とあるので、箱根峠から望んだ風景ではないかと思う。
(まちがっていればご指摘ください。)

 

p243
ぎこちない足にワラジを結んだ荷馬が、石畳の道を青い仕事着姿の農民によって引かれて行きます。彼らは定番の青と白の木綿手拭いを被り、しかも人も馬もその足を同じようにワラジで覆い、つるつる滑る状態を防いでいます。

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箱根旧街道の石畳:三島宿

箱根八里は東海道の最大の難所でした。標高800mを越える山中であることに加え、ひとたび雨や雪などが降ると、旅人はすねまで泥につかるありさまで、歩くのがたいへん困難だったからです。そこで旅人の便宜を図るためにつくられたのが石畳の道です。
しかしはじめから石畳が敷かれていたわけではありません。寛永元年(1624)に来朝した第3次朝鮮通信使の記録によると、竹が敷きつめられていてまるで乾いた道を行くようであった、と記録されています。これは箱根山に群生している通称「箱根竹」と呼ばれる細竹のことです。
ところが道に敷かれた竹は腐ってしまうため毎年敷き替えなければなりません。そのために多くの竹と人手、お金を必要としました。
そこで幕府は、延宝8年(1680)公金1400両あまりをかけて、箱根峠から三島宿に至る西坂のうち、約10kmを石畳の道としたのです。箱根峠から小田原宿へと下る東坂には、現在7地点、3.3kmにわたって石畳が残っていますが、それについては史料がないため詳しいことはわかっていません。

藤枝宿での積荷の載せ替え

藤枝宿での積荷の載せ替え

当事の荷馬には上の絵のようにワラジをはかせていたようだ。

確かに普通の靴ならはズルっと滑りやすく、かなり気を遣って歩みを進める必要がある。しかしながら、わらじであれば苔むした石畳でも滑りにくく、むしろ歩きやすい道だといえるのだ。

↑ こちらは実際にワラジをはいて石畳の道を歩かれた方の体験談。(貴重な体験談をありがとうございます。)






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シドモアが見た明治期の日本31 富士登山 ③

➀御室浅間神社跡、古御岳神社

p226
私たちに同行したポーター15人のうち三名が一組となり、それぞれ女性に付きました。彼らは女性軍をおんぶしてでも頂上へ連れていく決意です。堂々とした富士を目指し、先頭のポーターが女性登山者の腰回りに綱を堅く結んで出発し、別のポーターが彼女を前方へ押しました。さらに本人はもう一人のポーターの長い竹竿につかまり、灰から自分の脚を持ちあげる個人的義務(!?)を果たしながら、文字どおり頂上へ向け引っ張られ押し上げられ前身しました。

p226
苔に覆われた丸太作りの階段を登ると、神社の門や戸口に御幣(祭礼用紙片)が飾られ、さらに野晒しのまま祭壇が据えられた境内[御室浅間神社]を通り抜けました。

御室浅間神社は山梨県南都留郡富士河口湖町勝山の富士山二合目にある。
しかし、御室浅間神社があるのは吉田ルートだ。

シドモア一行は須走に到着し、そこから神社(東口本宮富士浅間神社と思われる)、馬返と移動しているので
須走ルートで山頂をめざすものと思われる。
須走ルートには現在、御室浅間神社はないようだが、御室浅間神社跡が小山町にある。
https://yamap.com/activities/1202576/article

たぶんこの御室浅間神社跡のことを言っているのではないかと思う。
御室浅間神社跡についてはぐぐってもあまり情報がでてこない。
現在は石碑しかないが、シドモアが訪れた明治時代には社や鳥居などがあったのだろう。

p226
ある神社[古御岳神社]では、私たち一行の足音が近づくとほら貝ラッパを吹き、吊し太鼓をドーンと叩いて合図し、紫と白の上着に厚紙の黒烏帽子姿の神官たちが快活に出迎え、温かい麦茶をふんだんに出してくれました。私たちの依頼で朱の大文字が書かれた御札と、この二合目基地(現・五合目)の印を服に張り付け、神社の紋章を焼印した正規の巡礼杖を売ってくれました。


地図を見ると、かなり登って来られたのだなあ、と思う。


 

⓶八合目

p228
私たち一行のうち、パイクス山[コロラド州ロッキー山脈の山]登頂を経験したベテラン二人は、はるかかなた、濃いチョコレート色の斜面に白い点となって見えました。


p229
快活な小柄のポーターが木綿着をずぶぬれにしながら、私を励まし溶岩の角の周りにロープを張って一休みしました。

p229
ところが、傾斜した溶岩沿いの道を一瞥した瞬間、太陽が照っているはずのあの空から、泡立つ波頭が落下してきました。奔流がうなり押し寄せ、大参事に巻き込まれる寸前、辛うじて落下ルートの横断に間に合いました。

p229
目もくらむ雨、吹きまくる嵐の中、二時間もの厳しい登りの後、ようやく八合目の避難小屋に到着したときには体はすっかり冷え切り疲労困憊の体でした。

p231
土曜日から火曜日まで三日三晩切れ目なく渦巻く嵐は、私たちを暗く煙の充満した小屋の中に囚人のごとく高速しました。

p233
二日目の午後、頂上小屋の管理人が突然、窓に現れました。半分死んだような姿を見て、ポーターらは興奮して引っ張り込み、手足の傷ついた遭難者を介抱しながら、唇へ暑い酒を数杯注ぎました。富士頂上で為す術もなく吹き曝され、嵐と戦った彼の話は「晴れ」を待望している全員の気持ちをいっそう暗くしました。彼は米櫃が空となり、食糧調達に決死の旅を試みたのです。すぐに私たちは、ここの管理人にも同じ絶望的努力が強いられると予感しました。

天候が荒れた際の富士山登山の大変さが伝わってくる。

③富士山頂

p234
戸口の閂が外されると、淡い陽の光と静かな風が虜囚のいる薄暗い穴蔵に入り込み、晴れゆく天気を予想させました。

p234
頂上の傍、噴火口の縁にある鳥居を潜り、険しい溶岩の階段を登ると、最終基地[十合目]へ到着しました。

これは久須志神社(富士山本宮浅間大社東北奥宮)の鳥居の事ではないかと思う。

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p234
風が吹き始め、雲が立ち込める寸前に辛うじて山頂に到着すると、下界は再び濃密な雨の渦巻く海原と化しました。

p234
たくさんの社がある噴火口の縁を一周する余裕も、火口底部の鳥居に飾られた小道をたどる余裕もありませんでした。私たちは神社の手続きを急ぎ、寒さに凍えた神官から金剛杖に焼印を推してもらったり、ハンカチや服にスタンプしてもらったり、さらに山頂登攀記念に挿絵入りの証明書をもらったりしました。

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富士山火口

残念なことにシドモア一行はお鉢巡りが叶わなかったのである。
お鉢巡りとは、富士山の火口の縁をめぐるもので、所要時間は約1時間30分ほど、距離は約2.6キロである。

④富士下山

p235
八合目の基地で会計帳簿を作成し待っていた小屋の主人が、記録メモをたくさんめくり、三日間の外人部隊まかない請求を読み上げました。あらゆるものが品目ごとに箇条書きにされ、皇位で勧めたはずの日本酒や茸シチューさえも含まれていました。主人は本能的に頭をひょいと下げ、私たち七人に総額五八ドルの請求書を見せ、ひたすら言い訳を繰り返し、さらにポーターやボーイからの抗議、避難には一切耳を塞ぎ、日本語や英語の脅迫、毒舌を延々と続けました。シャイロック[シェイクスピアの戯曲「ベニスの商人」の登場人物]のごとき宿主は、ついに半額の三〇ドルで同意し、起源より受け取る段となり、ようやく諍いは終わりました。

これと同様の値段のつりあげについては、イザベラ・バードも書いていた。
「江戸~明治期の日本人は正規の料金を偽らなかった」という保守の論者がいるが、そんなことはなかったのである。
宿主は30ドルで同意したということは、この値段が正規の料金か、または若干高めの料金なのだろう。
その倍もふっかけるというのは、現代の日本人の感覚ではあまりにひどいw

p235
黄色い服を着たポーターが私をロープでしっかり結び、一緒に飛び込み滑走を開始しました。緩い燃殻の急流を転がり、濡れた灰の中に足首までつかり、まるで競技場の選手さながら駆け下りました。昇りコースではたくさん時間を費やした区間をたった数分で滑り降り、途中温かいお茶を飲むため止まった休憩小屋はわずか数ヵ所でした。

p238
聖なる山が夜明け間近の淡い灰色の中に明るくくっきりと見え、しばらく昇る朝日を見るため待機しました。急に海側からくすんだ茶の霧が押し寄せ、天高く照るつきを横切り、あっという間に眼下の平野を消しました。カンパンやチョコレートで四時の朝食を済ませた私たちはブロッケン現象の陰をそのままに、また籠に戻りました。

シドモア一行は富士山をおり、乙女峠まで戻ってきてここから朝日を望んでいる。
方角的に、富士山は朝日が出る方向とは反対側の西に見えるはずである。
朝日が昇って来るのを見、振り返って朝日のあたる富士山をみようとすると、霧がでて富士山のある方角にブロッケン現象が現れたのだろう。

ブロッケン現象(ブロッケンげんしょう、英: Brocken spectre)とは、太陽などの光が背後から差し込み、影の側にある雲粒や霧粒によって光が散乱され、見る人の影の周りに、虹と似た光の輪となって現れる大気光学現象。


 

p239
ところで、輪が母国のレーニア山[ワシントン州中西部の高峰・タコマ富士]も万年雪に覆われ、斜面の森林がピュージット湾内に濃い緑の影を落とし、昔も今も変わらぬ愛すべき山です。

レーニア山

レーニア山


シドモアが見た明治期の日本30 富士登山 ⓶

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

④須走

p222
黒い溶岩の燃殻や塊は火山に近づいたことを教えてくれます。道は緑の草原を抜け、石炭粉塵の様なインク色の跡を残しています。炭鉱のボタ山のような火山岩滓の体積が道脇に露呈し、荷車がざらざらした鉱滓を騒々しく磨りつぶして通ります。
絵のような典型的日本の村・須走の全住民が街道に集まり、私たち一行を歓迎してくれました。

「岩滓」とは、火山から噴出された暗色で多孔質の塊のものをいう。スコリアともいう。
本には「がんし」と読み仮名がふられているが、ウィキペディア、goo辞書などネット記事では「がんさい」とする例が多い。

スコリア

スコリア

「鉱滓」は金属の製錬の際、炉の中の溶融金属の上に浮かぶかすのことである。

富士山は現在は活火山ではないが、平安時代には活火山であったとする記録がある。

また1707年(宝永4年)の宝永大噴火では須走村がほぼ全焼全壊している。



須走は上の地図で赤で囲んだ地域のことである。

富士山と丹沢山地にはさまれた標高800mの高原に位置する。西側は富士山頂までが村域であり、富士登山道須走口が続いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E8%B5%B0%E6%9D%91 より引用

上のサイトに富士参詣須走口図が掲載されている。
シドモア一行はこのルートで富士山頂をめざすようである。

p222
広い街道の両側を水が勢いよく躍って渦巻き、機械仕掛けで玩具の軍隊を吹き動かしたり、ケーキや砂糖菓子の売り場に吊るした蠅除けを回しています。

蠅取り紙は昭和、ハイトリックは大正の発明品のようで、明治時代にはなかったと思われる。
シドモアがいう回転する蠅除けとはどのようなものだろうか。
水で動く玩具の軍隊も見てみたいものだ。

⑤東口本宮富士浅間神社

p222
道路の茂みには、古びた神社へ導く鳥居があり、登山前に富士巡礼の全員が祈りを捧げます。

この神社は東口本宮冨士浅間神社だと思う。
富士参詣須走口図で富士浅間神社となっている。


延暦21年(802年)、富士山東麓が噴火し、須走で鎮火の祈願を行ったところ、噴火がおさまったので、807年に神社を創建したと伝わる。

須走村の御師(参詣者のために祈祷、案内、宿泊の世話をする神職)は小田原藩及び京都の吉田家の庇護を受けて、関東一円で活動を行ったという。
寛延2年(1749年)、既存御師12名と御師活動を行う有力百姓5名の計17名で御師株が結成され、彼らが御師の活動を独占した。

p222
やがて太陽が沈み、消えかかる最後の深紅の輝きとともに、雲がうねり去ると、堂々たる円錐富士が頭上に屹立し、夕暮れの変化する光の中で、斜面がバラ色、さらに菫色へと染まってゆきます。

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夕暮れの富士山(須走から撮影されたものではありません)

p223
午前四時、私たちは太陽とともい気象し、えもいわれぬ朝の大気の中で全山ピンクと薄紫になっている富士を仰ぎました。

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朝日に照らされる富士山(須走から撮影されたものではありません)

p222
あわただしく朝食をとり、女性は駕籠に乗り、男性は乗馬で元気いっぱい出発すると、すぐに山麓からつながっている道で、燃殻を広く敷き詰めた並木道に連れ出されました。明るい光の中に海抜一万二〇〇〇フィート[三七七六メートル]の富士が倍になって見え、その瞬間「この大斜面を苦労しても足を使って登るぞ」という気持ちが急に萎えてしまいました。

「この大斜面を苦労しても足を使って登るぞ」というのは途中で駕籠をおりて、歩いて登る予定ということである。

p223
林道にそってずっと苔むした石[一里塚]が距離を標し、ある場所には霊峰の聖域教会を示す石垣と見張り灯籠門の遺跡があります。

一里塚、見張り灯籠門はわからなかった。

⑥馬返

p223
たとえ馬や駕籠で、馬返と称する一マイル[一・六キロ]先の筵小屋の基地まで行くことが許されても、この地点から大地は山の神の領域となります。雄大な富士は、ここから上方へ向け一定の曲線を描いていくのです。石段の最上段にある高い鳥居は、履物をつけ自分の脚だけで神聖なる土地を踏む、正式な登攀開始の地点を示しています。

上記サイトの富士参詣須走口図の下のほうに馬返と記された場所がある。
ここから先は馬ではいけないということで、馬返と呼ばれたのだろう。
p222でシドモアは
「この大斜面を苦労しても足を使って登るぞ」という気持ちが急に萎えてしまいました。
と書いているように、馬返から、女性たちも駕籠をおりて歩いて富士山を登るのだろう。

p223
筵小屋で駕籠を止め、私たちは二日間の休養をとりました。出発日、荷物が分けられ、ポーター[荷物運搬人]の背に結ばれました。いつの間にか、彼らは身を華やかに飾り、まるで戦闘態勢を整えた北米インディアンのような恰好になっていました。このインディアン集団はたくさんの予備ワラジを腰に結んだり、荷物にぶら下げたりしました。

こちらの記事に、かつて富士登山で強力(ごうりき)をされていた方について記されている。
シドモア一行は宮ノ下で案内役兼ポーター(荷物運搬人)を雇っているが、この人たちが強力なのだろう。

伝統衣装をまとったスー族の戦士、ジトカラ・サ(19世紀の撮影)

伝統衣装をまとったスー族の戦士、ジトカラ・サ(19世紀の撮影)

上のインディアン、スー族の戦士は体にいろんなものをつけている。
このような感じで強力さんたちは体にワラジやいろんなものを身に着けていたのだろう。

⑦須走登山ルート

p223
裸の燃殻や溶岩を超えると、窪みのない平坦な傾斜が連続し、さらにジグザグ道となって着実な登りを妨げます。森の中に三つの小さな神社があって、巡礼の祈願や奉納を促し、さらに神聖なお札を杖や衣服に付けるよう招いています。この神社を過ぎると、一〇ヵ所の休憩所(基地)が登山道沿いに均等に置かれ、一番目、つまり一合目は森の端にあり、十合目は頂上にあります。

https://www.fujisan223.com/pap/subashiri/

上のサイトの図を見ると、須走ルートは次のようになっている。

富士浅間神社(東口本宮富士浅間神社)→馬返→大日(大日堂)→役行者(行者堂)→中宮役所→ラムロ(?)→明王(明王堂)→一合

シドモアが三つの神社と書いているのは、馬返→一合の間にあることになるが、何がそれに該当するのかわからない。
もしかすると、大日(大日堂)→役行者(行者堂)→ラムロ(?)→明王(明王堂)のうちの3つがそれに該当するのかもしれない。

現在では車やバスで5合目までいって、そこから登ることができるようだ。
それをふまえると、やはり明治の富士登山はきびしい。

須走

p224
神官や基地管理人は六月下旬に山開きし、降雪が始まる直前の九月にしめます。真夏の数週間、全斜面は白装束の巡礼行列で埋まり、杖に飾られた鈴のリンリン鳴る音で全山大合奏となります。

江戸時代の富士登山。浮世絵「冨嶽三十六景 諸人登山」。北斎画。

江戸時代の富士登山。浮世絵「冨嶽三十六景 諸人登山」。北斎画
※向かって右上に書かれている穴のようなものは何でしょう?


⑧富士講

p224
毎年三万近くの巡礼が富士ヤマに登ります。この敬虔な聖地巡礼団の多くは農業従事者で、彼らは共同協力会を作って細やかな年会費を治め、会員は総費用を順番に負担してもらい旅に出ます。

江戸時代、庶民にとって旅費は安いものではなかった。
そこで集団で『お伊勢講』をつくり、お金を出し合って二、三人の代表者が伊勢参りをするということが行われた。
代表者はくじ引きで決められ、農閑期に旅に出た。
講の人々に変わってお伊勢さんに祈り、お土産を買って帰った。

富士講もこの『お伊勢講』と同様のものである。

このような講は、戦後GHQが賭博行為として禁じるまで続いた。(地域によっては現在でも存在しているそうである。)

なぜ講が賭博行為とされたのかといえば、
参加した会員が一定の金を拠出して資金を集め、くじ引きで数人がその資金のすべてを手にするからだろう。

ただし、お伊勢講、冨士講などの講では、くじ引きで代表に選ばれた人は、次回のくじ引きには参加できないなどのルールがあり、全員が代表に選ばれる仕組みになっていたそうなので、賭博行為とはいえないと思う。

それはともかく、シドモアが富士登山を行ったのは明治だが、この時代においても富士講が盛んであった様子がうかがえる。

⑨富士山の伝説

p224
富士ヤマは伝説に包まれ、巡礼たちは躊躇なく信じます。聖なる山は二〇〇〇年前、わずかひと晩で生まれ、地上にそびえ立ちました。そのとき西方に大きな窪地が出現し、すぐ水になったのが琵琶湖です。


これはおそらく、「ダイダラボッチという巨人の妖怪が近江の土で富士山をつくり、掘った跡が琵琶湖になった」という伝説について述べているのだと思う。
ダイダラボッチとは一つ目の巨人で、私は台風を擬人化した妖怪だと考えている。


p225
山の女神フジは同性を嫌っていると信じられ、女性を襲って空中に放り投げるという鬼の話は、世の旧幣から完全に脱皮したはずの日本婦人の登山をいまだに妨げています。女神は他の神々と喧嘩した後、自分専用の気高い山を見つけ、独り平穏に暮らすことになったといわれています。

富士山は1872年(明治5年)まで女人禁制だった。
「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録であり
シドモアが富士山を登ったのは、女人禁制がとけて少なくとも12年ほどはたっていたはずだが、それでも長年の習慣はなかなか変わらなかったのだろう。

一般的に山の神は女性で、醜く嫉妬深いので女性の入山を禁じていたなどといわれる。
しかし富士山の神とされ、東口本宮富士浅間神社の御祭神でもあるコノハナノサクヤヒメは、美人であると記紀は記している。

天孫ニニギが葦原中国に天下ったとき、オオヤマツミという神が娘のコノハナノサクヤヒメとイワナガヒメをニニギの妻にさしだしたが
面食いのニニギは、美しいコノハナノサクヤヒメだけを妻とし、醜いイワナガヒメは返してしまったとあるのだ。

醜い女性の神、と言えばコノハナノサクヤヒメではなく、イワナガヒメのようで、いつの間にか二柱の女神が入れ替わっているかのようで不思議に思うが、その疑問はいまだにとけていない。

その山の神である鬼が、女性登山者を放り投げるという話は聞いたことがないが、かつてそんな伝説が語り継がれていたのかもしれない。

赫夜姫(かぐやひめ)伝説が富士山南麓に伝わっている。
かぐや姫といえば、平安時代に記された「竹取物語」に登場するヒロインである。
竹取物語のあらすじは次のようなものである。

かぐや姫は翁が切った竹の中から生まれ、たいへんな美女に育つ。
そのため、大勢の男たちがかぐや姫に求婚するのだが、かぐや姫は結婚の条件として、無理難題を押し付ける。
石作皇子には「仏の御石の鉢」を、車持皇子には「蓬萊の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)」を
右大臣阿倍御主人には「火鼠の裘(かわごろも、焼いても燃えない布)」を、大納言大伴御行には「龍の首の珠」を
中納言石上麻呂には「燕の産んだ子安貝」を持ってきたら、結婚しましょう。
そうかぐや姫は告げたが、5人の貴公子は全員それに失敗する。
ついに帝までもがかぐや姫に求婚したが、やはりかぐや姫はかたくなに拒んだ。
三年後、かぐや姫は翁に「自分はこの国の人ではなく月の都の人であって、十五夜に月に帰らねばならない。」と告げた。
これを知った帝は二千人の軍隊を翁の家に送った。
子の刻(真夜中頃)、大空から人が雲に乗って降りて来たが、軍隊は戦力を失って戦うことができなかった。
かぐや姫は翁に手紙を、帝には不死の薬と和歌をおくった。
その後、かぐや姫は物思わなくなる天の羽衣を着せられて、車に乗って月へ昇ってしまった。
帝は悲しんで、天に近い富士山で不死の薬と手紙を焼くよう命じた。
ここから、この山は「ふじの山」というようになり、その煙は今も立ち昇っている。


「煙が今も立ち昇っている」というのは、竹取物語が記された平安時代、富士山の火山活動が活発であったことだ。
そしてかぐや姫の正体は月の女神であり、最後は月に帰っていく。

月へ帰って行くかぐや姫

月へ帰って行くかぐや姫(土佐広通、土佐広澄・画)

ところが富士山南麓に伝わる赫夜姫伝説では、かぐや姫は月ではなく、富士山に戻って洞穴にはいるという筋になっているそうである。
つまりかぐや姫は月の女神ではなく、富士山の女神というわけである。 

富士市の「下方五社(しもかたごしゃ/富知六所浅間神社、瀧川神社、今宮浅間神社、日吉浅間神社、入山瀬浅間神社)」と呼ばれる神社では御祭神として、かぐや姫やかぐや姫をそだてた竹取の翁・竹取の媼(おうな)を祀っている神社があるということである。

またこ「富士山と八ヶ岳の背くらべ」という伝説もある。

昔、女神の富士山と男神のハヶ岳が、どちらが背が高いかで言い争いをし、木曽の御岳山の阿弥陀如来に背くらべの判定約を依頼した。
阿弥陀如来は、水は高い方から低い方へ流れるので、二つの山のの頂上に長い「とい」をわたして水を流すことにした。
すると水は富士山の方へ流れたので、富士山はくやしくたのでなって八ヶ岳の頭を叩いた。
すると、八ヶ岳の頭は八つにわれてしまい、富士山が日本一背の高い山になった。

シドモアが「女神は他の神々と喧嘩した後、自分専用の気高い山を見つけ、独り平穏に暮らすことになった」といっているのは、かぐや姫伝説と、富士山と八ヶ岳の背くらべの二つの話を合わせたような話の様にも思えるが
若しかしたら、シドモアが言うような伝説がつたえられていたのかもしれない。

p225
この秀麗無比の山は夢に見ることだけでも、幸せが必ず約束されるのです。富士は大空を旋回するコウノトリや昇り龍とともに、人生の成功や艱難の克服を象徴しています。

「富士山の夢を見ると幸せが約束される」というのは、初夢で見ると縁起がいいものとして、「一富士、二鷹、三茄子」と言われることを言っているのだろう。

「赤ん坊はコウノトリのくちばしで運ばれてくる」「コウノトリが住み着いた家には幸福が訪れる」などとこれはよく言われるが、これはドイツにコウノトリによく似たシュバシコウという鳥がおり、シュバシコウが赤ちゃんを運んでくるという言い伝えがあり、それが日本に伝わってコウノトリが赤ちゃんを運んでくる、と言われるようになったのだともいわれる。

記紀にでてくる、鵠(くぐい)は白鳥とされているが、コウノトリのことではないかともいわれている。

日本書記には、言葉をしゃべることのできなかったホムチワケが鵠をみて「これは何者ぞ」と言葉を発し
これに喜んだ天皇は鵠をつかまえさせてホムチワケの遊び相手としたところ、ホムチワケは話せるようになったという話がある。

昇り龍とは天に向かって昇っていく龍のことだが、転じて、勢い付いている様子を登り龍のようだ、などといったりする。

⓾富士山の噴火

p225
一五〇〇年頃まで、富士は年中噴煙の渦巻を帯び、また全世紀を通じ大噴火を繰り返してきました。最近起きた一七〇七年[宝永四]の噴火は一ヵ月にも及び、荒い燃殻、灰、焼けた赤土の塊を放出し、今でも山を覆っています。火山灰は五〇マイル[八〇キロ]先にも広がり、登山道の川をせき止め、麓の平原を高さ六フィート[一・八メートル]の燃殻で覆い、粗に北斜面にたん瘤[宝永山]を作り、禁制のとれた完璧な円錐形を台なしにしました。


宝永山

宝永山

富士山の噴火の歴史を下記にまとめた。

・約70万年前~20万年前  小御岳火山
現在の富士山の位置で小御岳火山、南東にある愛鷹山の活動が活発になる。
富士山北斜面5合目の小御岳は小御岳火山のなごり。

 

・約10万年前~ 古富士火山
小御岳火山が休止し、古富士火山の活動が活発になる。
大量のスコリア、火山灰や溶岩を噴出し、標高3,000メートルに成長。
宝永山周辺など富士山中腹に古富士火山のなごりあり。
火山泥流が頻発。

・約11,000年前
約2,000年間にわたり、大量の溶岩を流出した。
玄武岩質のため遠くまで流れ、最大40キロメートルも流れ、南は駿河湾にいたった。
その後約4000年間活動を休止する。

・約5千年前~ 新富士火山
溶岩流、火砕流、スコリア、火山灰、山体崩壊、側火山の噴火などを伴う活動。

・約3,000年前
縄文時代後期、4回の爆発的噴火が起こる。(仙石スコリア、大沢スコリア、大室スコリア、砂沢スコリア)

・約2,300年前
富士山の東斜面で大規模な山体崩壊が発生(御殿場泥流)

・800年 延暦大噴火
旧暦3月14日から4月18日にかけて大規模な噴火が起こる。(日本紀略)

・802年(延暦21年)1月8日 噴火 相模国足柄路が一次閉鎖され、箱根路が代わりに用いられた。

・864~866年 貞観大噴火
噴火し、北西斜面(現在の長尾山)から大量の溶岩を流す。
溶岩は当時あった『せの海』を西湖と精進湖に分断した。
また溶岩は斜面を流れて青木が原溶岩(青木ヶ原樹海)となった。





・1707年 宝永大噴火
宝永地震の49日後の12月16日、富士山は大量のスコリアと火山灰を噴出。火山雷が発生。月末まで断続的に続く。
江戸にも多量の灰がふる。川崎では灰が5センチメートル積もる。
山麓で家屋や耕地に大きな被害。洪水等の土砂災害も。

・江戸時代晩期~昭和中期
山頂火口南東縁の荒巻(朝日岳の手前にある鞍部)を中心に噴気活動を観測。
1854年の安政東海地震がきっかけか。
1957年50度を観測。

・1987年8月20日~27日
富士山で一時的に火山性地震が活発化。山頂で有感地震を4回記録(最大震度3)

・2000年10月~12月、2001年4月~5月
富士山のやや深部で、低周波地震が多発する。

※新富士火山の噴火は781年以後17回の記録がある。


シドモアが見た明治期の日本29 富士登山 ➀

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

➀東海道線

p220
距離にして四〇マイル[六四キロ]、昔の東海道線を蒸気機関車で小田原[相模]湾の底深い海岸沿いを走り、太平洋側にある青い箱根連山の稜線を目指しました。国府ッで遊覧四輪馬車に乗り換えましたが、平野をガタガタ走って東海道沿いの谷あいを登る途中、子供たちを馬蹄で蹴散らしたり、駕籠かき人足とトラブルを起こしたりしました。この御者は険しい谷間を一〇マイル[一六キロ]も荒れ狂って飛ばす、とても向こうみずな人間なので、人力車に乗り換えたときは本当にほっとしました。

日本の律令制における、広域地方行政区画で五畿七道がさだめられた。
五畿は畿内ともいい、大和、山城、摂津、河内、和泉(現在の奈良県、京都府中南部、大阪府、兵庫県南東部)の五国をさす。
七道は東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道のことである。

東海道:現在の茨城、千葉、埼玉、東京、神奈川、山梨、静岡、愛知、三重(熊野地方を除く)の各都県を合わせた地域。
東山道:現在の青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島の東北6県と、栃木、群馬、長野、岐阜、滋賀の各県を合わせた地域。
北陸道:現在の新潟、富山、石川、福井の各県を合わせた地域。
山陽道:現在の兵庫県南西部と、岡山、広島、山口の各県を合わせた地域。
山陰道:現在の京都府北部と兵庫県北部および、鳥取、島根の各県を合わせた地域。
南海道:現在の香川、徳島、愛媛、高知の四国4県と、三重県熊野地方、和歌山県、淡路島を合わせた地域。
西海道:現在の福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎、熊本、鹿児島の九州7県の地域。


上の図がわかりやすい。

ウィキの記述にあるとおり、東海道は茨城、千葉、埼玉、東京、神奈川、山梨、静岡、愛知、熊野地方を除く三重のことで、東海道は「うみつみち」ともよむ。

また、七道の各国の国府をつなぐ幹線官道(駅路)が設けられ、それらの道のことも東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道と呼ばれていた。

東海道とか山陰道というのは道のことだと思っていたが、地域の名前でもあったのだw(反省w)

現在、JR東海道本線は、東京駅(東京都千代田区)~神戸駅(兵庫県神戸市中央区)を結んでいる。

1872年(明治5年)、新橋駅(後の汐留貨物駅、現・廃止) - 横浜駅(現・桜木町駅)間が日本最初の鉄道として開業。
シドモアも船で横浜港に到着し、ここから鉄道で新橋へ向かったものと思われる。
というのは、シドモアは次のように記しているからである。

p53
世間から見れば、東京と横浜は一つの運命共同体です。二つの都市は一八マイル[二九キロ]の鉄道で結ばれ、社交パーティーの訪問や招待にはとても便利です。東京の大臣が舞踏会を催す際、特別夜行列車で横浜の客を送迎します。

1874年(明治7年)に大阪駅 - 神戸駅間が開業
1889年(明治22年)7月に新橋駅 - 神戸駅間の全線が開業。
1914年(大正3年)東京駅が開業

国府津駅(こうづえき)は、神奈川県小田原市国府津にある駅で、1887年に開業した。

国府津駅(1909年)

国府津駅(1909年/明治42年)

 

上の地図の赤いマーカーがついたところが、国府津、その南西方向に富士箱根伊豆国立公園とあるが、そこに箱根はある。
地図を拡大してみるとわかりやすいと思う。

⓶宮ノ下

p220
素晴らしい夏のリゾート・宮ノ下は、日本人にも外国人にも人気のある場所です。


p220
そこには優れたホテルがいくつかあって[奈良屋、富士屋ホテル]、西洋ファッション、澄んだ山の空気、鉱泉、美しい風景に富むとても楽しい温泉郷の中心です。

明治期の奈良屋(玉村康三郎撮影)。右手に見えるのが1877年(明治20年)築の西洋館。

明治期の奈良屋(玉村康三郎撮影)。右手に見えるのが1877年(明治20年)築の西洋館。

奈良屋は徳川綱吉のころ(将軍在職:1680年 - 1709年)の創業と伝えられる老舗旅館であったが
1868年(明治11年)に富士屋ホテルが開業したあと、奈良屋と富士屋は協定を結び、
1923年(大正元年)まで奈良屋は日本人専門旅館、富士屋は外国人専門ホテルとされた。
2001年に廃業し、現在跡地にはリゾートホテル「エクシブ箱根離宮」が立っている。

「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録であり
この時奈良屋は日本人専門旅館となっているので、シドモアがとまったのは、富士屋ホテルののほうではないだろうか。

富士屋ホテル オーストリア皇太子一行。1893年

富士屋ホテル オーストリア皇太子一行。1893年

タイ国王、オーストリア皇太子、ウィンストン・チャーチルやヘレン・ケラー、チャーリー・チャップリン、ジョンとオノ・ヨーコなどもここに泊まったそうである。
きっと、シドモアが泊まったのもここだと思う。

 

p220
ここのホテルは1年中よく管理され、真冬の気候は中国南部の港町でかかったマラリア病毒の特効薬となります。

これはつまり、箱根の冬の気候と衛生的なホテルの環境はマラリアを回復させるということだろうが、迷信だろう。
以前の記事にも書いたのだが(シドモアが見た明治期の日本16 東京⓾ )  
現在、日本でマラリアはほとんどないが、明治36年には年間20万人もの患者があった。
「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、シドモアは日本でのマラリア流行を目の当たりにしているわけである。

マラリアはハマダラカに刺されて体内にマラリア原虫がはいることによって発熱・悪寒・頭痛・関節痛・筋肉痛・嘔吐・下痢などの症状を引き起こす。

1880年、フランスの医師シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴランがマラリア原虫と、キニーネが血液から寄生虫を除去すると提唱したのだが、彼の説はなかなかみとめられず
1884年の油浸レンズ、1890-91年に従来のものより優れた染色法が開発されたことによってようやく認められた。

先ほども書いたように「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、まだその原因や治療法が確立されていなかったと考えられるのだ。

p221
また宮ノ下の寄木細工は有名で、どの家も日本式ゲーム、家庭用品、玩具、小間物の工作場を持ち、美しい木目の国産樹木でんんでも造り、植物性ワックスで滑らかに磨き上げます。一〇〇以上もの木片縞模様からなる精巧なモザイクを見て、誰もが仕上げの良さや値段の安さにびっくり、これを買わずには村からでられません。

寄木細工

これはかなり以前に私が購入したものだが、箱根寄木細工で検索するとこれと同じような箱がでてくる。
かつて大阪梅田の阪神百貨店前地下に土産物屋を売る店が並んでおり、そこで買ったか
東急ハンズで買ったか、どちらだったか忘れてしまった。(どちらでも同様の寄木細工の箱が販売されていた。)

p221
宮ノ下到着後、ここで案内役兼ポーター(荷物運搬人)を雇い、朝六時、婦人を駕籠三台[駕籠かき人足兼ポーター(九人)]に載せて出発、これに四人の屈強な男性、二人のボーイ、さらに六人のポーターが続きました。

木曾道中熊谷宿の駕籠(渓斎英泉)

木曾道中熊谷宿の駕籠(渓斎英泉)

もともとシドモア一行は男性4人、女性3人 日本人ボーイ(使用人)2人であった。
うち女性3人は駕籠で、男性は徒歩。
女性3人が乗る駕籠は3台だが、訳者の註尺として)[駕籠かき人足兼ポーター(九人]とある。
駕籠は前後二人で担げるが、交代要員をいれて三人一組(三枚肩)、四人一組(四枚肩)などと呼ばれていたらしい。
ここでは三枚方だったので、3枚方×3組で9人なのだろう。

さらにもともと随行していた二人の日本人ボーイのほか、あらたにやとった六人のポーター(荷物運び、案内人)が加わっり、総勢24人である。

うち、17人は使用人という、一般庶民からすれば大変贅沢な旅である。

③乙女峠から御殿場へ

p221
広い道を登り、乙女峠で有名な刃渡り馬道をジグザグと進みます。


彫刻の森美術館の西650mほどのところに富士屋ホテルはある。

乙女峠という地名の由来は以下のとおり。

箱根の仙石原に「とめ」という娘が住んでおり「おとめさん」と呼ばれていた。
娘は父の病の治癒を願って、この峠を越えて御殿場の地蔵堂へ百日詣した。
願いがかなって父親の病は回復したが、娘は父の身代わりとなってこの峠でなくなった。

この伝説はなんとなく深草少将が小野小町のもとへ百夜通いしたという話を思い出させる。
深草少将はあと1日で百日といいう九十九日目の雪の夜になくなってしまうのだ。

江戸時代、仙石原には関所が設けられ、通行の際、ここでしばしば足止めされたことからら「御留峠」となり、「乙女峠」になったともいう。


「刃渡り馬道」とは何のことをいっているのだろうか。
「刃渡り」とは「 刃物の刃の長さ」または、「刀の刃の上を歩く軽業」のことである。

次のような記事があった。

「刃渡り」……読んで字のごとく、鋭い刃物の上を歩いて渡っているかのような場所である。

その刃物の側面に、ほとんど柵はない。つまり、崖そのもの。


刃渡り馬道とは、鋭い刃物の上を歩くかのような、側面が崖になった馬道のことではないだろうか。

乙女峠からは富士山が一望できるようである。

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↑ こちらの記事を見ると、
乙女峠からつづく乙女道路はじぐざぐになっている。


上の動画はシドモアとは逆方向(シドモアは乙女峠→御殿場だが、動画は御殿場から乙女峠へむかっている。)だが
曲がりくねった道でところどころガードレールになっている。
明治時代の道が同じ場所にあったかどうかわからないが、やはりこのように曲がりくねった道で、
それを「ジグザグと進みます。」と表現したのだろう。

p221
峠から半島御用邸[恩賜箱根公園]と一緒に宮ノ下や箱根湖[芦の湖]が目に入り、格子縞の緑の警告を振り返って眺めると、縞模様の原野の彼方に富士ヤマが変わらぬ頑固あで頭を雲に隠し、目前に真っ直ぐ聳えていました。この平らな原野に向け、まっしぐらに駆け下りると、御殿場へ到着しました。
 

恩賜箱根公園の西にある湖が芦ノ湖である。
宮ノ下はすでに述べたようにシドモアが宿泊したと思われる富士屋ホテルの有るところで、彫刻の森美術館の東あたりにある。
これらが乙女峠あたりから見えたというのである

半島御用邸は函根離宮のことであり、芦ノ湖の塔が島と呼ばれる半島にあった。
1946年に一般開放され現在は恩賜箱根公園と呼ばれている。
シドモアが旅をしたころは箱根離宮だったといいういことだ。

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芦ノ湖

終戦前の御殿場市街

終戦前の御殿場市街

シドモアが訪れたころは、こんなに電線はたくさんなかっただろう。





シドモアが見た明治期の日本28 中禅寺と湯元 ⓶

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

③中禅寺湖畔の宿

p212
五件の茶屋が水際に並行して並び、各茶屋は湖を見わたすため水上に歩廊を三組持っています。特に蔦屋、イズミヤ、ナカマルヤ[中村屋?]での宿泊と休息は日光によくある宿よりも、ずっと純日本的な安らぎがあります。外国人のために椅子やテーブルは用意されますが、宿泊客は皆床に寝ます。広々した中庭に出て共同洗面器で顔や手を洗い、さらに靴下のままか、備えられた堅い猿皮スリッパで室内を動き回ります

こちらの記事に次の様な内容が記されている。

・つたや旅館は慶応4(1868)年創業の老舗。
・つたや旅館→メモリアルホテル蔦舎→ホテル蔦舎→ホテル湖畔亭→シンプレスト日光と変遷した。
・ 「一日の行楽ー中禅寺行き」(田山花袋 博文館 大正7)に、「私はいつも蔦屋に泊った。」と記されている。
・ホテル湖畔亭はおおるりグループの宿


この記事には「ゆとりろ日光」というホテルの口コミとして
・おおルリグループの買い取ったホテルの中で一番よいのがここかもしれない。
・蔦屋時代からの料理長が創意工夫して頑張っている。
とある。

さらに調べると、ゆとりろ日光(旧シンプレスト日光) 住所:栃木県日光市中宮祠2484 とあり「シンプレスト日光」は「ゆとりろ日光」と名称がかわったらしい。

この「ゆとりろ日光」のルーツである「つたや旅館」は慶応4(1868)年創業ということなので、シドモアが言っているのはこの「つたや旅館」のことなのだろう。

ネットで検索すると有限会社和泉屋旅館 栃木県日光市中宮祠2484 とでてくるが、地図を確認しても和泉屋旅館はない。
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=291601837
上記に、和泉屋旅館の絵ハガキが掲載されている。

ナカマルヤ[中村屋?]はわからなかった。

しかしこれらの旅館はかつて栃木県日光市中宮祠2484あたりに並んでいたのだろう。

 

地図の+マークを推すとわかるが、場所は前回書いた日光二荒山神社中宮祠のすぐ近くである。

二荒山神社 中宮祠

二荒山神社 中宮祠

上のグーグルマップを拡大して中禅寺湖周辺を見てみると
フランス大使館別荘、ベルギー大使館別荘、英国大使館別荘記念公園、イタリア大使館別荘記念公園などの文字が見つかる。

戦前には、多くの欧米の国の大使館の別荘がここにあったそうである。
既に紹介したが、シドモアも次のように記していた。

p192
毎年夏になると、東京の公使館の半分はそっくり日光へ移動します。社寺、僧坊、聖職者の住居、そて村の上側の民家は外人へ賃貸され常時増えています。日光の住宅は、まだ避暑地ニューポート[米国ロードアイランド州ロード島の都市]にある別荘の値段ほどではありませんが、一シーズン三カ月で三〇〇円ないし五〇〇円という法外な値が地元相場になっています。

「猿皮」とあるのは、猿の毛皮という意味だろうか。
かつて猿皮空穂(矢をいれる道具)などがあったようである。

http://l-phoenix.sblo.jp/article/59279674.html

上記ブログには、漫画家・矢口高雄さんの作品「サルカ三十文」にでてくる話として、次のように書いておられる。

・当時の猿の毛皮の価値はくまの毛皮の3倍
・胆嚢や骨も薬として使われた
・牛馬の病気よけの呪いとして猿の頭蓋骨や骨を吊るす習慣があった
・山麓の村々にはサルマタギ専用の宿屋もあった (上記記事より引用)

猿皮ではなく、サル皮と呼ばれるものがある。
これは皮で作った輪っかのことである。
この輪っかにベルトの端を通しておくことで、ベルトの余った部分がぶらぶらしないように留めておくのである。

すると皮ではあるが、皮の輪っかではスリッパはつくれないので、これではなさそうであるw

シドモアはp206「日光」のところで「私たちが逗留する夏の別荘は」と書いていたり、
p211「中禅寺湖」のところで「毎年八月、白装束に大きな藁帽子を被り、藁敷き雨具を肩に巻いた大勢の巡礼がやってきます。」と書いているので、
シドモアが日光にある中禅寺湖を訪れたのも夏だと思っていたが、ページを遡ってみると、私がうっかり次の文章を読み飛ばしていたことが分かった。

p210
道をたどると、刈り取り後の蕎麦、黍、稲、じゃが芋の田畑、茅葺屋根の農家、道端の神社や茶店が次々と目に入ります。

蕎麦・黍・稲を収穫するのは秋だ。
シドモアが中禅寺湖にやってきたのは秋なのだろう。白装束の巡礼は以前に見かけたか、聞いた話として書いているのだと判断できる。
すると猿皮のスリッパとは猿の毛皮で作ったスリッパである可能性が高い。

p212
米、野菜、魚、台所用品、家族の衣類を洗うには、家屋の最も低い床に通じる平板桟橋を使います。同じような桟橋が各宿にあり、娘たちはそこに集まって竹籠で米をといだり、洗ったりしながら楽しそうにおしゃべりします。また各宿の従業員は洗面器、歯磨き、コップ一式を持ってあちこち湖畔へ出向くので、桟橋は小さな社交舞台となり、自然な形で交流がなされます。


桟橋

桟橋とは上の写真のような形状のものをいう。
このようなものが、各宿にあり、湖の水で洗濯をしたり、米をといだりしていたのだろう。
娘たちが集まると、おしゃべりになるのは今も昔も変わらない。

④戦場ヶ原

p213
丸太造りの茶店の潜む濃い緑の松林の間から、ようやく湖の突端が現れ、そこから菖蒲が浜で知られた低い岸辺の一部が見えます。


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菖蒲ヶ浜付近

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さらに円形劇場のような壮大な山壁が中禅寺村をぐるっと囲み、はるかかなたには地獄川と龍頭の滝があり、渓流が何本もリボン状に分かれ苔むした岩棚を滑り流れます。

龍頭の滝

龍頭の滝

p213
大昔、敗北した軍勢の血に染まったといわれるレッド・プレイン[戦場ヶ原]が広がり、秋霜とともに例の深い色合いに変わります。[戦場ヶ原には、赤城山の主・百足と男体山の主・大蛇が大軍勢を繰り出して争ったとの伝説がある]。

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戦場ヶ原

シドモアが「例の深い色合い」と書いているのはこの色のことだろう。

p213
この高原の端から薄暗い山々が立ち上がっていますが、中でも男体山は緑や紫のベールと浮雲の王冠に包まれ、巨大な陰を見せています。高原には居住や開拓の形跡はなく、松の点在する人跡稀な光景は、米国の高地シエラ[カリフォルニア州シエラネバダ]のたにまにとてもよく似ています。

戦場ガ原

戦場ヶ原

Owens Valley and the Sierra Escarpment

Owens Valley and the Sierra Escarpment

p213
日本のどの地方に行っても、水辺から山頂まで木が茂り、緑陰に覆われ、耕作されています。でも冬の奥日光は荒涼として、道に積もる深雪は下界を完全に遮断します。茶屋は閉まり、住人は温かな谷あいへ逃避し、春の到来と旅人だけが、この地を再び復活させるのです。

ここでシドモアは冬の奥日光について書いているが、「深雪は下界を完全に遮断します。」とあるので、シドモアもまた下界から奥日光にはやって来れなかったものと思われる。

⑤湯ノ湖

p214
山道は、この寂しい高原を超え、湯の湖へ向けて七〇〇フィート[二一〇メートル]ほど険しい丘の正面に沿いあがります。道は数フィートの幅に狭まり、小石、多量の泡、水煙、湯気が滑り落ちてきます。細かく凹凸に切り立つ斜面と森に囲まれたこの湖は、壮麗な山々の秘密の鏡で、その山の一つ、白根山は眠れる火山です。蒸気の多い硫黄泉が湖の端・陸地部の厚い地殻を通して泡立ち、さらに湖底自体からも硫黄が噴出し、魚が棲めないほど湖水全体を濁らせ熱しています。


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湯ノ湖

ロープウェイ山頂駅から望む日光白根山

白根山

シドモアは「蒸気の多い硫黄泉が湖の端・陸地部の厚い地殻を通して泡立ち、さらに湖底自体からも硫黄が噴出し、魚が住めないほど湖水全体を濁らせ熱しています。」と書いているが、
上の湯の湖の写真を見ると水はそんなに濁っているようにはみえない。
また、釣りも行われているので、魚が住めないということもない。

ただしウィキペディアには次のように記されている。

「日光白根山からの水に加え、湖畔にある日光湯元温泉からの湯が流れ込んでいる。温泉成分や山からの砂などで水深が浅くなり、湿地化する危機にあったが、1992年から浚渫工事が行われ[2]、危機を乗り越えた。温泉の湯が流れ込んでいるものの、水深が浅いため冬季には全面結氷することもある。」


1992年の浚渫工事以前は水が濁り、魚の姿も少なかったのかもしれない。

硫黄のにおいはたちこめているらしい。

⑥湯元温泉

p214
温泉の一つが村の入り口で泡立ち、たっぷり湯の入った約一〇フィート[三メートル]角の湯舟が四本柱の屋根に覆われ、側面全部が大気に開放されて準備万端、牧歌的素朴さが漂っています。

湯元温泉の入り口に露天風呂があったことは、シドモアと同時期に日本にやってきたイザベラ・バードも記しているという。

p214
このような温泉場が村はずれにたくさんあり、どこも同じように開放的で、たくさんの人が褐色の肌を見せ茹だったり冷ましたりしています。

湯元温泉

湯元温泉の温泉街のはずれの湯ノ平湿原に源泉地がある。(写真上)
この源泉は湯元の旅館のほか、光徳温泉・中禅寺温泉にまで送られているそうである。

小林清親『日光湯元温泉』-1896年・明治29年

小林清親『日光湯元温泉』-1896年・明治29年

「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので
上の絵はちょうどシドモアがやってきたころの湯元温泉を描いたものだと考えられる。

小林清親『日光湯元温泉』(1896年・明治29年)部分

湯の湖温泉の向こうに見えている温泉街のあちこちから湯煙がでている。

絵の下のほうには駕籠に乗ったり、徒歩で温泉に向かう人の姿が描かれている。

小林清親『日光湯元温泉』(1896年・明治29年)部分2

p216
ある種の湯舟は端の長い管に小さな懐炉をつけているので、ほんの一握りの木炭で短時間に湯が沸きます。これまで大勢の入浴車の生命を奪ってきた炭酸ガス中毒をこの器用な工夫でなくしたのです。

炭酸ガス中毒とは、空気中の二酸化炭素が高濃度の状態になることが原因であらわれ中毒症状のことをいいます。 火事や、ドライアイスの貯蔵庫に長期間滞在することが原因となります。 二酸化炭素濃度が3~4%でめまいや吐き気、頭痛などの症状があらわれ、7%を超えると意識を失います。

「長い管に小さな懐炉をつけている」というお風呂を沸かす装置についてはよくわからない。

p216
熱い風呂を好む好む日本人は、一にも二にも沸騰させることが目的で地元の人たちはひるむことなく高温に耐えます。グリフィス博士[米国人教育者『皇国』の著者]は自分の本に、酷寒の日、街道沿いに湯気を立てる戸外の大釜から、入浴者が火傷で踊り出す珍事を書いてるほどです。

415px-Picture_of_William_Elliot_Griffis.jpg

ウィリアム・グリフィス

p216
裸の闊歩は、いつもと変わらぬ芝居訳者の様に威厳がありました。私はびっくりし、「はたして、この紳士は着物と一緒にプライドまで脱ぎ捨てたのだろうか?」と疑いました。ところが、宿の主人には裸になった意図的理由はありませんでした。彼は「衣服は人生の仮の姿であり、本質的なものではなく、古びた尊大な魂を本当に「封じ込めているわけではない
」との哲学を、それとなく語っていたのです。

p218
無着衣の裸体に関し、欧州人があれこれ妙な不快感を示し誤解している点を、日本人は「あまりにも下らない話だ」と笑っています。

p218
夜間、冷え込んだ空気が硫黄の臭みを大地に押しつぶす時刻、湯元の通りは盲目のマッサージ師(按摩)の悲し気な笛が鳴り響きます。

按摩師については、こちらの記事に詳しく書いた。
とんでももののけ辞典69 大座頭 

按摩師

笛の音はこちらで聞くことができる。

⑦秋の日光・中禅寺湖

p217
中善寺湖は誇大な宝石・無疵のサファイアとなり、男体山は鮮やかなビザンチン着色法によるモザイク模様が描かれます。

スターサファイア
上の写真はスターサファイアである。
中禅寺湖がこのサファイアのように美しい青色だったのだろう。

ビザンティン美術の例:アヤソフィアにある、キリストと11世紀の皇帝コンスタンティノス9世夫妻のモザイク画

ビザンティン美術の例:アヤソフィアにある、キリストと11世紀の皇帝コンスタンティノス9世夫妻のモザイク画

鮮やかなビザンチン着色法によるモザイク模様というのは、男体山が、上のモザイク画のように鮮やかで様々な色を用いた色に染まっていることを言っているのだと思う。

華厳の滝と中禅寺湖

華厳の滝と中禅寺湖

男体山

男体山

p219
ある日とうとう、道路を封鎖する最初の冬の雪に見舞われ、最後まで中禅寺に残りオープンしていた一軒の茶屋も店仕舞となり、私たちは足尾銅山経由で旅を終えました。

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足尾銅山

1895年頃の足尾鉱山

1895年頃の足尾鉱山



シドモアが見た明治期の日本25 日光 ③

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

⑭白糸の滝・滝尾神社

p201~p202
さらに登ると、滝[白糸の滝]が泡を噴出しながらリボン状に細く裂けて流れ、これよりも高い所に古い社寺[滝尾神社、弘法大師ゆかりの地]があって、巡礼や旅人が祈祷したり感嘆したりしますが、この無防備の聖域を乱す人はいません。ここの建造物の一つに等身大の雷神と風神の彫像がおさまっています。



滝尾神社拝殿

滝尾神社拝殿

白糸の滝

白糸の滝

シドモアは「ここの建造物の一つに等身大の雷神と風神の彫像がおさまっています。」と書いている。
「ここ」は「滝尾神社」を指すものと思われる。

 

上の動画、12:00 あたりに門がでてくる。
このような門などをの左右には通常、仁王や風神雷神像、二天像などが安置されるが、この門には何も置かれていない。

ここに風神雷神像があったのだろうか。
とすれば、その風神雷神像はどこにいってしまったのか?

二荒山は東照宮・二荒山神社・輪王寺の二社一寺である。
そのうち、輪王寺の大猷院・二天門には四天王のうちの持国天と広目天が安置されており、
その裏側に風神雷神像が安置されている。
(私が参拝したときには残念ながら二天門は修理中で二天、風神雷神像は見ることはできなかった。なんてこったいw
三仏堂に移されているというので行ってみたが、堂内は撮影禁止だったー。)



上の動画↑3:39あたりに風神雷神像がでてくる。
しかし、この風神雷神像はもともと東照宮の陽明門にあったものを、明治4年に二天門に移したものだ。

大猷院 二天門 修理中

「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、
シドモアは二天門の風神雷神像を見たはずである。
しかしシドモアは二天門の風神雷神像については記しておらず、滝尾神社に風神雷神像があったといっている。
これはいったいどういうことなのか

p202
ある聖堂[
行者堂]は、筋肉質の朱の仏像を祀っていますが、囲いもなく車夫のたまり場となり、信者は仏像に対して活力ある脚を持つよう嘆願しながら、一足のワラジを奉納します。

上の動画17:17あたりに行者堂が映し出されている。
行者堂は役小角を祀っていると、ナレーションが入っている。

堂内の写真はこちらにあった。
https://tabi-mag.jp/tg0203/

役行者

上は奈良吉野山の金峯山寺付近にあった役小角像である。

シドモアは「筋肉質の朱の仏像」といっているが、役小角は着衣の姿であらわされることがほとんどであり、筋肉質かどうか判断しがたいので、かなり違和感を感じる。
役小角の左右に置かれているのは、
役小角に従った前鬼・後鬼といわれる鬼である。
こちらのほうならば、筋肉質といえなくもないが、役小角について述べないで、前鬼・後鬼を述べるというのもおかしい。

しかし行者堂には草鞋が奉納されているので、行者堂の事を言っているようではある。
シドモアは少し記憶間違いをしているのかもしれない。

⑮含満ヶ淵

p202
御影石の地蔵一体が大きな日除け帽子[菅笠]を被り、面の赤い布きれを喉元にむすんでいました。慈悲深い顔と燃えるような赤い衣装全体に細かい紙片が張り付けられ、神には信者の願い事が書かれています。石像の傍らの灯籠には参拝者の置いた石が積み重なり、すぐ近くにはヒンズー教の神に似た仏が片膝を立てて座り、その膝に腕を立て頭を支え、熱心に思索に耽っていました。
川岸の暗がりには、ブッダの後継者一〇〇名の苔むした石仏[羅漢像]が迷走しながら座っています。[現在、”並び地蔵”と称され、明治三五年の大洪水以降七〇体程度になる]。
p202
橋から弘法大師に縁のある広い霊地まで石仏が並び、その数を数えるのが習わしですが、誰が数えても決して数が合わないと言われています。

ここへは行ったことがないのだが、知人に写真を提供してもらうことができた。(ありがとうございます)↓

並び地蔵

[現在、”並び地蔵”と称され、明治三五年の大洪水以降七〇体程度になる]と注釈があるとおり、
1902年(明治35年)の大洪水で、慈雲寺本堂、霊庇閣、並び地蔵が流されたようである。
慈雲寺本堂と霊庇閣は、1970年代に再建されたものとのこと。

ウィキペディアには並び地蔵ではなく化地蔵と記されている。
化地蔵と呼ばれるのは、シドモアが書いているように、何回数えても数があわないからなのだそうだ。

並び地蔵

洪水で流出する前の化地蔵

「御影石の地蔵一体が大きな日除け帽子[菅笠]を被り、面の赤い布きれを喉元にむすんでいました。」
とあり、友人が撮影したお地蔵様とは別のお地蔵様があるのかもしれないと思い、いくつか動画を見てみたがよくわからなかった。

Photo ACさんを検索したら一体、他のお地蔵様よりも一回り大きそうなお地蔵さまがあった。↓(下の写真)
もしかしたらこのお地蔵さまのことかもしれない。(詳しい方、教えてくださるとうれしいです。)

含満が淵

そのお地蔵様には赤い衣装が着せられ、その上に願い事を書いた紙片が張り付けられているのだという。
地蔵菩薩には塩や油をかけたり、縄をしばりつけたりする信仰がある。
これらと類似の信仰で、地蔵菩薩の上に紙片を大量に張り付けて祈願していたのだろう。
しかし、現在はそのような習慣は廃れているようである。

「石像の傍らの灯籠には参拝者の置いた石が積み重なり」
とあるのは賽の河原伝説に由来するものだと思う。
親より早く亡くなった子供は賽の河原で親のために石を積んで塔をつくる。
しかし地獄の鬼がその塔を壊してしまうが、地蔵菩薩が救ってくれる。
そんな話があり、石を積み上げて塔を作る人があり、お寺の隅などでそのようなものを見かけることがある。
私はやったことがないが、どのような人が石を積み上げておられるのだろうか。
(伝説では死んだ子供が石を積み上げるのだが、実際にある場所で死んだ子供が石を積み上げることはできない)

  

「すぐ近くにはヒンズー教の神に似た仏が片膝を立てて座り、その膝に腕を立て頭を支え、熱心に思索に耽っていました。」

とあるのは如意輪観音の石像だろう。
日光を散策すると、道端などに如意輪観音の石像をよく見かけたので。
私は関西に住んでいるのだが、関西では如意輪観音の石像はあまりみかけない。

日光付近の如意輪観音

如意輪観音の石像 日光付近

⑯被差別部落

p203
このあたりには、世間から見捨てられた人たちの暮らす被差別部落があります。それは動物の屠られた死体を扱い、皮や毛皮で衣服をつくる人を蔑んだためです。差別の起源には彼らが朝鮮から渡来した人の子孫であるとか、皇室の鷹狩りの実行者や提供者として長く務めたという伝説的理由もありますが、むしろ動物の生命を奪うことを禁じた仏教戒律の影響と思われます。部落民の人たちは以前は、身分制度の中で、より身分の高い近隣住民とは孤立した生活を送ることを余儀なくされてきました。
明治維新後、特権勢力の舞台は幕を閉じ、低階層は身分制度の暴虐から漸次解放され、部落民は市民となり法律によって保護されました。以前として、恥ずべき偏見は部落民自身を狭い村に閉じ込めていますが、部落民の立ち去った後、そこに居たところに塩を撒いて清めるという失敬な話はもはやありません。

近年、教科書から江戸時代の身分制度として士農工商や、四民平等の表記をしなくなった。

その理由について、東京書籍の説明をまとめると次のようになる。

・身分制度を表す語句として「士農工商」という語句そのものが適当でない。
「武士-百姓・町人等、えた・ひにん等」が存在し、ほかにも、天皇・公家・神主・僧侶などが存在した。
・武士は支配層として上位
・他の身分については、上下、支配・被支配の関係はない。
・特に、「農」が国の本であるとして、「工商」より上位にあったと説明されていたが、そのような関係はなく、対等であった。
・近世被差別部落やそこに暮らす人々は「武士-百姓・町人等」の社会から排除された「外」の民とされた人として存在させられ、身分の下位・被支配の関係にあったわけではなく武士の支配下にあった。
・士農工商という言葉を使わなくなったのにあわせ、平成17年度の教科書から「四民平等」の用語は使用しないことにした。
・「四民」という言葉は、もともと中国の古典に使われている言葉で、『管子』(B.C.650頃)には「士農工商の四民は石民なり」とある。「石民」とは「国の柱石となる大切な民」という意味である。
ここから転じて、「四民平等」の「四民」という言葉は、「士農工商」は、「国を支える職業」といった意味で使われていた。
・江戸時代になると、「士」「農」「工」「商」の順番にランク付けするような使われ方をするケースがも出てくる。
・「四民」本来の意味で使用するのは、わかりにくい、説明しにくいなどの指摘があった。
・「四民平等」の語は、明治政府の一連の身分政策を総称するものだが、公式の名称ではない。
「江戸時代の身分制度は改められ、すべての国民は平等であるとされ」と表記の記述の方が、近代国家の「国民」創出という改革の意図をよりわかりやすく示せた。

https://www.tokyo-shoseki.co.jp/question/e/syakai.html

これを勘違いして、士農工商は単なる職業区分で身分の上下はないと勘違いしているネットの書き込みを多くみかける。
繰り返しておくが、士が支配者階級で上、農工商はいずれも被支配者階級で、武士の下の身分ということである。
つまり、身分の上下はあったということである。

また士農工商は嘘だった(戦後の教科書が自虐史観を押し付けたという意味)」という人がいるが、これも間違った認識だといえる。
東京書籍の説明にもあるが、単に研究が十分でなく、勘違いされていたというだけだろう。

戦後の教科書が自虐史観をうえつけるため、士農工商という身分制度を教えたという人は
「士農工商の4つの身分は単なる職業区分であって身分の差がないのに、身分差別があると教えていた」という誤った認識をもっている。
しつこく繰り返しておくが、現在教科書で教えているのは、士農工商が平等ということではない。
「➀士が支配者階級で上、農工商はいずれも被支配者階級で、武士の下の身分」=「⓶身分制度があった」 と教えているのだ。
➀と⓶のちがいは、階級の数の違いでしかない。
階級の数を偽ったとしても階級があったことにはかわりなく、そんなことをGHQがさせる理由がわからない。

現在の教科書の記述を読めば理解できるだろう。
孫引きになってしまうが、教科書の表記がどうなっているかみてみよう。

「江戸時代の社会は、支配者である武士をはじめ、百姓や町人など、さまざまな身分の人々によって構成されていました」
「また、百姓や町人とは別に厳しく差別されてきた身分の人もいました。これらの人々は、差別の中でも、農業や手工業を営み、芸能で人々を楽しませ、また治安などをになって、社会を支えました」
(東京書籍「新しい社会6」)
https://www.city.uki.kumamoto.jp/hihyoji0/hihyoji/2027913 より引用


「武士が支配者」と書いてあって、支配者階級と被支配者階級があることが分かるような記述になっている。

しかし、私は東京書籍さんの「江戸時代の身分制度は改められ、すべての国民は平等であるとされ」という表記が正しいとは思えない。

1870年(明治3)農民や町人が姓(苗字)を名のることを許された。
1871年 穢多・非人などの差別的呼称と身分を廃止した。
    公卿と諸藩藩主を華族、武士を士族、農工商を平民という呼称に改めた。  
    華・士族、平民間で居住・職業・結婚などの自由を認めた。

華族・士族・平民というのは階級ではないのか。

士族は主に江戸時代の武士階級で、華族以外のものの身分階級である。

当初、士族は江戸時代の習慣をひきつぎ、世襲の俸禄(家禄)を受ける、名字帯刀、切捨御免などの身分的特権を持っていたが、こうした士族の特権は段階的に剥奪されていく。
1873年(明治6年)徴兵制によって国民皆兵となる。
1876年(明治9年)廃刀令。
1873年、家禄・賞典禄を自主的に奉還した者に対して起業資金(秩禄公債)を発行する。。
1876年、金禄公債(強制的に禄を廃止し、その代償として公債を発行。)

公家・大名家・国家への勲功のあったもの・臣籍降下した元皇族などは華族という身分を得た。
華族には貴族院の構成、皇族・王公族との通婚、旧・堂上華族保護資金(旧・堂上華族保護資金令)などの特権が与えられていた。

士族はともかく、華族の存在があるのに、「すべての国民は平等」というのは詭弁である。

シドモアは「明治維新後、特権勢力の舞台は幕を閉じ、」
と書いているが、すでに述べたような理由でまちがいである。

しかし、1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録としてつづられた「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」に江戸時代に特権階級や被差別部落が存在していたと書いてあることは重要である。

シドモアは江戸時代の日本については知らないはずなので、日本人ガイドなどにそういう話を聞いたか
「江戸時代の日本には特権階級がいて被差別部落が存在していた」ことは新聞などを通じて知っていたのだと思われる。

そしてシドモアが日本にやってきたのは明治で、日本がGHQの支配下にあった時代よりも以前である。

GHQがプレスコードと呼ばれる出版物の検閲をしていたのは事実だが、
それを理由に、日本には階級制はなかった、階級制があったとする人がいて、それはいくら何でも結論を急ぎ過ぎだと思う。

GHQ以前の日本にやってきたシドモアの文章は、当然のことだが、GHQのプレスコードの影響をうけておらず
江戸時代の日本には階級制度があったことを証明しているように思える。

いやいや、シドモアは日本を貶める目的で「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」を書いたんだ、と主張される方がいるならば、丁寧かつ具体的な説明をお願いしたい。

⑰骨董屋

p204
毎夏、日光の骨董市場は拡大してゆき、骨董は当然宗教的色彩を帯び、鉦、太鼓、銅鑼、香炉、彫像、旗印、錦織の反物、聖職者用の扇などが、どの行商人の荷物の中にも詰まっていますが、もちろんこれらの品々は近辺の社寺の宝蔵から出たことは保障つきです。

文化財保護法が制定されたのは、昭和25年(1950年)なので、それ以前には重文クラスのものも骨董屋で売買されていたのかもしれない。

p205
日光の観光客は必ずユオキ[柚餅子]を買います。クルミと大麦糖でT繰ら得た子の樫は、一インチ[二・五センチ]角、長さ六インチ[一五センチ]の平たい厚切りの状態で乾いた竹皮に包まれ、日本人客の買い物意欲を高めるため優美な木箱に入っています。

ゆべし

土産物屋には寄らなかったので、日光の名物が柚餅子なのかどうか、わからないが
ネットで検索するとそれらしいものはでてこない。
最近ではあまり土産物として作られていないのかもしれない。

p206
障子の影絵が室内のうときや集いの様子を繰り返し映し出し、さらに家族入浴の秘密が湯水のバシャバシャ音と一緒に漏れ、お祖父さんから赤ちゃんまで全身茹でられ(!?)、ごしごし体の現れている様子が伝わってきます。やがて雨戸がバタンと占められ、翌日明け方まで休憩時間となります。

日本に来て本当に驚いたことの一つは、家族で一緒にお風呂に入るのがあまりにも日常的であることだったな。というのも、本当に幼い子どもとの入浴を除いて、これはアメリカではありえないからね。日本では、小さな女の子でもお父さんと一緒にお風呂に入るよね。アメリカでの一般的な経験則では、子どもが就学年齢の5歳くらいになるまでに、親と一緒にお風呂に入ったりシャワーを浴びたりしなくなる。
だから、日本のこの慣習に最初少し違和感があったけど、今ではすっかり慣れたし、お風呂の時間は家族の「絆の時間」とも言えることを理解しているよ。親子が一緒にお風呂に入っている間に、最高の会話が生まれることもあるからね。

https://ej.alc.co.jp/entry/20210223-qaamerica-06 より引用

シドモアもこの米国人の様に驚いたのだろう。



シドモアが見た明治期の日本25 日光 ⓶

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。


⑨東照宮と大猷院
p195
各神殿には、最初に参拝者を導くはばひろい上り石段があり、外庭に立つ壮麗な幾つもの楼門[表門・陽明門(東照宮)、仁王門・二天門・夜叉門(大猷院)]には精緻な彫刻が施され、金銀の豪華な板金が嵌められ、すべて極彩色と金塗装で輝いています。かぎりない細部の構成と装飾、重厚な楼門の屋根を支える梁と腕木の複雑さには目が眩みます。

東照宮 表門

東照宮 表門

陽明門

東照宮 陽明門

大猷院 仁王門

仁王門 大猷院

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二天門 大猷院

大猷院-夜叉門

夜叉門 大猷院

⓾家康の墓

p196
かつて、二つの神殿は、全体が仏教の象徴と浮か混ざりで輝き、線香が強く薫り、鉦や銅鑼の調べも美しく、毎日念仏供養が院内に響き渡っていました。しかし、維新後、神道が国家神教となり、天皇が日光へ巡礼された際、家康の霊廟からは祭壇の壮麗な装飾、旗印、紋章が剥ぎ取られ、素朴な鏡と空なる神道の御幣に置き換わりました。

p197
一方、家光の神殿は排斥処分から助命されて、神聖な書の入った華美な漆箱が並んでいます。またそこには金箔の仏像、黄金の蓮の葉、じゅうりょかんおある蝋燭、太鼓、銅鐸、旗指物、垂れさがる飾りも尾、加えて青煙を淡く薫らせ外に発散する大香炉がありますが、それらはみな昔たいせつな儀式に使った仏具です。

奥社 唐門と銅宝塔(徳川家康墓)

奥社 唐門と銅宝塔(徳川家康墓)

これは事実かどうか確認できなかったが、奥宮にある家康の墓はその他の東照宮の建物と比べてかなり地味な印象なので
もしかしたらそういうことがあったのかもしれない。

明治政府は明治元年(1868)神仏分離令をだし、次のようなことを布達している。
一、神社名の権現・牛頭天王などの仏教語を神号に変えること
二、仏像を神体としているものは取り除き、神体は幣か鏡に取り替えること
三、神社にある鰐口・梵鐘・懸け仏などは取り除くこと

その結果、徳川家康の墓所はそれまでは東照大権現と呼んでいたのを東照宮というようになったそうだが、
二、三は行われたのかどうかわからない。

⑪水盤舎

p197
各神殿の外側には素晴らしい水槽があり、また広い休憩所には、御影石製雨どい付きの荘重な屋根がかかり、それを堅固な隅柱が支えています。各水溜まり場には精密にくりぬいた大きな単独岩石があり、均等に磨かれガラスリポ詠いに見えるこの岩石の底からは、水が沸き上がり、周辺の縁へ滑らかに流れでています。家光の神殿の噴水は鍋島藩主の贈り物で、休憩所の軒には、大神殿を礼拝した巡礼たちの残した無数の小旗がひらひらしています。

これはお水屋のことを書いたものだろう。
大猷院のお水屋は佐賀藩藩主の鍋島勝茂が奉納したものである。

大猷院 手水

水盤舎 大猷院

東照宮 水盤舎

東照宮 水盤舎

⑫彫刻、逆柱

p199
神聖な白馬がほごされている神厩の上には、目や耳や国を手で塞ぐ猿の集団[三猿]を描いた彩色彫刻があります。どんな邪悪にも、人は”見ざる聞かざる言わざる”が安全だという意味です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Shinkyusha.jpg

神厩の写真はこちら ↑

日光東照宮 三猿

三猿

この三猿は、志貴皇子・弓削道鏡・弓削浄人をあらわしているのではないかと思う。
興味ある方はこちらの記事を読んでほしい。


p199
見事に彫刻された楼門[陽明門]の小さな二匹の虎の円形浮き彫り[木目の虎]は、とても巧妙に工夫され、木目の曲線や木の節は、ビロード外側の柔らかな縞状や厚い毛皮の趣を利用すされ、描かれています。

これ↑のことだろうか?

p199
この楼門の彫刻円柱の一部は、故意に逆さまに立てられていますが[逆柱]、これは建築家があまりにも完璧で驚異的な出来栄えをかえって危惧したからです。

逆柱 

逆柱

日光東照宮 陽明門の柱の模様

正しい柱

ウィキペディアには次の様に説明されている。

日光東照宮の陽明門はこの逆柱があることで知られている。柱の中の1本だけ、彫刻の模様が逆向きになっているため、逆柱であることがわかる。しかしこれは誤って逆向きにしたわけではなく、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という伝承を逆手にとり、わざと柱を未完成の状態にすることで災いを避けるという、言わば魔除けのために逆柱にしたとされている。また、妖怪伝承の逆柱とは全く異なるものである[2]。

鎌倉時代の「徒然草」には、完全なものは決して良くはない、それで内裏を造る時も、必ず1か所は造り残しをする、とある。江戸時代には、家を建てる時「瓦三枚残す」と言ったという[5]。


p199
もう一つの楼門[坂下門付近の潜門]の上には、猫が丸くなって心地よく眠り[左甚五郎の眠り猫]、雨がくると瞬きをして知らせるということで、この白い猫は大谷川沿いにあるどんな立派な作品にも負けない評判を取っています。

東照宮 眠り猫

眠り猫

これとよく似た彫刻が四天王寺にもある。

四天王寺 眠り猫

これについて、興味のある方は、こちら ↓ の記事を読んでほしい。
四天王寺 紫陽花 猫の門 『日想観を修する眠り猫と厩に閉じ込められた聖徳太子』

雀

眠り猫の裏側には雀と竹の彫刻がある。

この眠り猫の意味については、ざまざまな説がある。

➀警戒心の強い猫すらも安心して眠れる世の中の到来を意味している。
⓶天敵である猫が眠っているときに雀のような弱い者も安心して過ごせる世の中を意味している。
③眠り猫は寝たふりをして、家康公の墓の番をしている。

実は、➀⓶は近年、昭和51年ごろ、東照宮の神職さんが考えたことである。
それまで東照宮では「③眠り猫は寝たふりをして、家康公の墓の番をしている」と説明していたのだが
神職の高橋さんが、「春日大社(奈良県)所蔵の国宝「金地螺鈿(らでん)毛抜形太刀」の鞘に、竹林で猫が雀を捕まえる図柄が描かれている」ことから「平和のシンボルとして『眠っている』と考える方が妥当」と訴え、それがメディアに取り上げられて広まったのだという。

そのほかにも次のような説がある。
④鼠一匹通さない。

家康は寅年なのだそうだ。
そして、雀はアマノワカヒコの葬儀に登場するなど、死のイメージがある。
寅年生まれの家康が亡くなったのでネコのようにおとなしくなり、死んだ家康の霊は雀となり、
地下茎で増える筍の様に徳川家は子孫繁栄する、なんて意味ではないかなw
(子供を産まない女性は筍を探し続ける地獄に落ちるといわれていた。その理由は筍は種がなくても地下茎で増えるため)

⑬巫女

p199
日光の最も神秘的な祭祀は、家康の霊廟で舞う巫女で年齢六〇くらいにみえます。~略~巫女の前のしんせいな朱の階段上には賽銭箱があり、そこへ敬虔で好奇心の強い人たちから賽銭が投げ込まれます。すると巫女は立ち上がり、こちらの通路は数歩、あちらの通路を数歩とおごそかに進みます。各方向転換の直前にベビー・ガラガラ[鈴]を右手で振り、開いた扇をひだりてにして手招きします。

巫女2

巫女

上の2枚は奈良の鏡作坐天照御魂神社の若い巫女さんであるが、シドモアが見たのはこのようなものであったと想像する。
シドモアがベビー・ガラガラと表現したのは下のGIFアニメである。

ジェラード・シオドール 『新しいがらがら』 1875年

ジェラード・シオドール 『新しいがらがら』 1875年

赤ちゃんをあやすためのおもちゃで、ふると音がなる。
現在でも販売されているが、そのルーツは古代ギリシャであるという。

日本では室町時代に、御所の女官たちが紙張子の文箱に小物をいれてつくったのがルーツで、雀、犬、ウサギなどの形をしたものが作られたそうだ。

大猷院 

皇嘉門 大猷院 

日光東照宮

輪蔵 鼓楼 東照宮


シドモアが見た明治期の日本22 日光

※ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

➀大谷川に住む巨人・妖精・悪魔・怪物

p192
支配者や高僧は日光に埋葬されることを強く望み、僧侶、歌人、学者、芸術家、巡礼は永くここに滞在したがりました。

この文章をよむと日光東照宮に日本の支配者や高僧の墓がたくさんあるように思えるが、そんなことはなさそうである。
(墓があれば教えてください。)

p192
鉢石村へ向け長い一本道を進むと、狭い谷間を勢いよく流れとどろく大谷川の築堤の終点に付きますが、これより先は青くくっきりとした霊峰・男体山によって塞がれています。この大谷川の谷には、この世にあり得ようもない巨人・妖精・悪魔・怪物が棲んでいるとの伝説が信じられています。

男体山

大谷川より男体山・女峰山を望む 

   

赤いマーカー部分が鉢石町(鉢石村)大谷川の南にある。

「この大谷川の谷には、この世にあり得ようもない巨人・妖精・悪魔・怪物が棲んでいるとの伝説が信じられています。」
というのは、有名な次の伝説の事ではないかと思う。

昔、男体山の神と赤城山(群馬県前橋市)の神が領地争いをした。
男体山の神は白い大蛇に、赤城山の神は大ムカデに変身して闘った。
男体山の神は弓の名手・猿丸太夫に援助を頼んだ。
猿丸太夫は大ムカデの目を射抜いた。それで男体山の神が勝った。


⓶外国人の避暑地

p192
毎年夏になると、東京の公使館の半分はそっくり日光へ移動します。社寺、僧坊、聖職者の住居、そて村の上側の民家は外人へ賃貸され常時増えています。日光の住宅は、まだ避暑地ニューポート[米国ロードアイランド州ロード島の都市]にある別荘の値段ほどではありませんが、一シーズン三カ月で三〇〇円ないし五〇〇円という法外な値が地元相場になっています。

公使館とは公使が駐在国で公務を執行する公館のことである。
東京は暑いので、日光の住宅を借りて公使館としていたのだろうか。
「村の上側」とはどういう意味だろうか。

原文を読んでみないと断言できないが
英語でアップタウン、ダウンタウンなどという。

主に米国英語で用いられる表現で、
都市の中心部、都市中心あたりの商業地区(オフィス街・ビジネス街)をダウンタウンという。
ダウンタウンに対して、アップタウンとは「郊外」や「住宅街」を意味する。

街の中心は標高が低いところにあり、街の中心から離れたところは標高が高いという認識からこのようにいわれるのだという。

訳者は「村の上側」と訳したが、これは「山の手(高台)」のことではないだろうか。

③田母沢御用邸

p193
このような外人保養客に加え日本人定住者も大勢いますし、夏の離宮[田母沢御用邸]で過ごされている皇太子殿下[大正天皇]には、毎日街道や森の小径、社寺境内でお目にかかります。

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田母沢御用邸公園

田母沢御用邸は、明治32年(1899年)皇太子時代の大正天皇の静養所として、もともとこの土地に建てられていた別荘(銀行家小林年保が所有)を利用したり、東宮御所から建物を移築したりして造営された。
現在は田母沢御用邸公園として一般公開されている。
屋内には御玉突所もある。



「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、シドモアが日光を訪れたのは、1899年から1902年の間だということになる。

大正天皇崩御後は、昭和天皇、香淳皇后の避暑地として利用され、1944年(昭和19年)には第125代天皇明仁がここに疎開していた。

1947年(昭和22年) - 田母沢御用邸は廃用となった。

田母沢御用邸 謁見所

謁見所

田母沢御用邸 御学問所の丸窓より望む、中央の建物は御食堂

御学問所の丸窓より望む、中央の建物は御食堂

④神橋

p193
大谷川にかかる二つの橋は、日光の評判を高めている森と霊廟へ導いてくれます。一つの橋[日光橋は簡素な普通の白木造りで、人力車がゴロゴロとうるさく音をたて、通行人と一緒に往来します。もう一つはかつて将軍専用通路として管理してきた神聖な橋[神橋]で、現在は天皇だけが通行できます。

神橋



※ 拡大してみると、境内の配置などもわかりやすいと思います。

シドモアは東照宮の入り口までやってきて、当事、天皇しか渡ることのできなかった神橋を日光橋から見たのだろう。
私も神橋は渡らずに、神橋の隣にある橋を渡った。この橋が日光橋だろうか。
橋を渡ったところにある横断歩道は赤信号になったままなかなか青に変わらない長い信号だったw

現在は300円で神橋に立ち入ることができるのだが、ここから東照宮にはいけないらしい。
私は神橋の東にある橋を渡った。この橋が日光橋だろうか?

p194
しかも敬虔な祈祷に神々が応え、雲からこの虹の橋へ降臨するとの言い伝えがあり、その尊厳は大切に守られています。かつて天皇はグラント将軍[第一八代米国大統領]へできるかぎりの経緯を表したいと考え、賓客が橋を渡れるよう障害物の除去を命じました。しkし、慎み深い将軍は「神聖な赤い橋を信仰する敬虔な人々を、冒涜すべきではない」と考え、名誉ある措置を丁寧に断りました。

神橋に伝えられている伝説とは次のようなものである。

奈良時代の末、下野の人沙門勝道は、伯父・大中臣諸清たちと二荒山(男体山)に登り、人々の幸福を願った。
766年、勝道上人一行は大谷川を渡ろうとしたが、激流で渡る方法がなかった。
勝道上人が祈ると、身の丈一丈余の夜叉のような姿をし、右手に二匹の蛇をまく神があらわれて、こう述べた。
「我は深沙大王である。あなたを彼の岸に渡しましょう」
神が赤と青二匹の蛇を放つと虹のような橋を作った。
上人一行が橋をわたって振り返ってみると、神も橋も消えていた。
それ以来この橋を山菅の蛇橋と呼んだ。

勝道上人は二荒山(男体山)を開いた人物である。

⑤四本龍寺

その後、勝道は大谷川の対岸に千手観音を安置する寺をたて、紫雲立寺と名付けたが、のちに「四本龍寺」と改めた。
四本龍寺は神橋の東北の大谷川北岸にあり、現在、そこには観音堂と三重塔が建っている。
日光東照宮は参拝したのだが、三重塔の存在を知らず、残念ながら見損ねた⤵
シドモアも三重塔については書いていないので、見損ねたのかもしれないw

 

その翌年の767年(790年説もあり)、勝道は四本龍寺に隣接する土地(現在の本宮神社付近)に男体山(二荒山)の神を祀った。

782年、勝道は、ご神体の男体山(2,486メートル)登頂に成功し、観音浄土である補陀洛山から山の名前を二荒山と名付けた。
のちに二荒は音読みでニコウと転じ、日光と呼ばれるようになったといわれる。

(ふたらさん)と名付け、後に「二荒」を音読みして「ニコウ=日光」と呼ばれるようになり、これが「日光」の地名の起こりであるという。

⑥日光修験

784年、勝道は、四本龍寺西方の男体山麓にある中禅寺湖のほとりに中禅寺を建立した。
中禅寺湖は神橋から10kmほど西にある。
中禅寺は湖の北岸にあったが、1902年(明治35年)の大山津波で押し流され、湖の東岸に移転した。

「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録なので、もしかしたら1902年の中禅寺湖大山津波のニュースを日本で聞いたかもしれないが、シドモアは中禅寺や中禅寺湖については書いていない。
たぶん、ここへは訪問しなかったのだろう。

中禅寺湖と男体山

中禅寺湖と男体山

 

p193
七月から八月にかけて、あちこち無数の白装束の巡礼が群れを成し、荘重な社寺周辺を、杖を手に鈴をリンリン鳴らして絵のような光景をみせ、霊峰・男体山の陰の写る中禅寺湖畔の神社へ向け、てくてく歩いていきます。

※中禅寺湖は男体山の東にある。

これは日光修験について述べたものだろうか?
杖というのは金剛杖、鈴は錫杖のことか?
http://oomine.gozaru.jp/isyou.html

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錫杖

阿比太神社 山伏

大阪府箕面市 阿比太神社付近で撮影した修験者
日光修験も同様のいでたちである。

1210年(承元4年)に日光山の第24世 ..第24世座主・弁覚法印が日光修験を創始した。

ウィキペディアには「明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって日光修験は禁じられ一旦は途絶した」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E4%BF%AE%E9%A8%93

田母沢御用邸のところにも書いたように
シドモアが日光を訪れたのは、1899年(明治32年)から1902年(明治35年)の間だということになる。
一旦は途絶したが、明治32年ごろには復活していたのか、それとも禁じられてもかまわず行われていたのか。
あるいは、日光修験の行者ではないのか。

二荒山神社 中宮祠

二荒山神社 中宮祠

日光東照宮の隣にある二荒山神社が本社、中禅寺湖にあるのは中宮祠、男体山山頂の二荒山神社が奥宮。

二荒山神社 こまいぬ

二荒山神社 中宮祠 狛犬

⑥日光三所権現

平安時代、嵯峨天皇から「満願寺」の名前を下賜される。

仁治年間(1240年から1242年のころ)、源実朝が現在日光東照宮がある場所に本堂を移し、
このころより「日光三所権現」(男体山、女峰山、太郎山の神)を祀るようになる。

戦国時代には壬生氏の支配を受けるようになり、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏側に加担したため寺領を没収されている。
戦国時代の寺には僧兵は当たり前におり、軍事力を保有していたのである。

元和3年(1617年)、徳川家康の霊を祭る東照宮が設けられ、その際、本堂は、現在の日光二荒山神社社務所がある付近に移された。

正保4年(1647年)、本堂が大雪で倒壊するが、徳川家光によって再建された。

承応2年(1653年)、3代将軍徳川家光の霊廟である大猷院(たいゆういん)霊廟が設けられた。

こうして日光山は二荒山神社・日光東照宮・輪王寺の二社一寺となる。

興味深いのは、家康の霊廟の日光東照宮は神式、家光の霊廟の大猷院霊廟は仏式になっていることである。
なにか呪術的な意味があるのだろうと思う。

明暦元年(1655年)、後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜される。
その後、輪王寺は親王が住持する門跡(輪王寺宮)となる。

輪王寺宮は輪王寺、江戸上野の輪王寺、び寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、比叡山にも権力を有していたという。

の明治2年(1869年)に明治政府によって輪王寺の称号は没収されて「満願寺」に戻された。
明治4年(1871年)の神仏分離令により、政府の命令により、本堂は現在の場所に移転した。
三仏堂は取り壊しを免れて、移築され輪王寺の本堂とされるなどしたが
明治15年(1883年)に栃木県の働きかけによって、輪王寺を正式の寺号とすることが許された。

二荒山神社・日光東照宮・輪王寺の関係が分かったところで、シドモアの旅を追いかけてみよう。

⑦鳥居

p194
そびえる五重塔と同様、荘重な各楼門が驚異的遠近法をとって長い並木道の終点に見え、青銅鳥居や石鳥居は生なる場所へ向かう敬虔な入口をしるします。鳥居は民族独特の構造物であり、日本の壮大な円柱と上向きに反った横材のあるこの骸骨門は、とても印象的です。

シドモアが長い並木道と書いているのは境内をのびる長い参道の事だと思う。

日光東照宮 参道

日光東照宮への参道 

東照宮 石鳥居

東照宮 石鳥居

福岡藩の初代藩主・黒田長政(1568年-1623年)によって寄進された。
社殿に見える動物石鳥居は高さ9m。
ウィキペディアには「日本最大の鳥居」とあるが、まちがいで、もっと大きな鳥居は数多くある。

❶総本宮熊野本宮大社(和歌山県田辺市 竣工平成12年)33.9m。
❷大神神社(奈良県桜井市 竣工昭和61年)32.2m
❸彌彦神社 (新潟県弥彦村 竣工昭和57年)30.16m
❹最上稲荷大鳥居(岡山市北区 竣工昭和47年)27.5m
❺豊国神社(名古屋市中村区 竣工昭和4年)24.5m
❻平安神宮 (京都市 竣工昭和4年)24.422m
❼北口本宮富士浅間神社 (山梨県 竣工昭和29年)18m ※木造鳥居で日本一  江戸末期よりあり60年に一度建て替え❽出雲大社 (島根県 竣工大正4年)14m

東照宮 青銅鳥居

唐銅鳥居

1636年、日本で最初に建てられた青銅製鳥居といわれ、徳川家光が寄進したもの。高さ6m

⑧五重塔

p195
朱漆の壁を持ち、屋根や横木に真鍮飾りを付けた五重塔ほど美しい仏塔はほかになく、角々すべてにへんそくした鐘[風鐸]が釣s狩り、さらに風変わりな栓抜き[相輪]が超上へ向け螺旋状に登り、深い緑の森の中で宝石工芸店のように見事な作品をすべて陳列しています。

日光東照宮 五重塔

日光東照宮 五重塔

相輪とは五重塔の先端についているもののことである。
「風変りな栓抜き」という表現に噴出してしまったw




シドモアが見た明治期の日本22 日光への旅

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

➀日本鉄道 日光鉄道

p182
今では日光まで鉄道がありますが[明治二三年開通]、宇都宮から最後の美しい日光街道二五マイル[四〇キロ]を人力車で行く旅も楽しく、木々に覆われたまっすぐな街道が鉢石や日光の村々を抜け、長く感ずることも退屈もしません。


明治23年に開通した鉄道とは、かつて日本に存在していた日本鉄道株式会社の宇都宮ー日光をつなぐ日光線のことである。

1881年、岩倉具視ら華族が中心とり、私立鉄道会社「日本鉄道」が設立された。初代社長は吉井友実。
日本鉄道が設立されたのは、北海道開拓に東京ー青森間の鉄道が必用であったためである。
民間の会社として設立されたのは、西南戦争の出費などで政府の財政が窮乏していたためであるという。
しかし、国有地の無償貸与、建設国営など、実質上は「半官半民」であった。

1883年に上野 - 熊谷間が開業した。その後、どんどん路線が延ばされていき、1885年には大宮 - 宇都宮が開業している。
1890年6月1日には支線として宇都宮 - 今市、1890年8月1日には今市 - 日光が支線延伸開業し、宇都宮と日光がつながった。
1891年9月1日に現在の東北本線全線(上野 - 青森間)が開業した。

その後、山陽鉄道・九州鉄道・北海道炭礦鉄道などの新たな私鉄会社が日本各地で創設された。

1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により日本鉄道は国有化された。

東京上野山下より中仙道往復蒸気鉄道の図 東京従上野山下中仙道往復蒸氣鐵道之圖

東京上野山下より中仙道往復蒸気鉄道の図 東京従上野山下中仙道往復蒸氣鐵道之圖

上は上野駅を描いたものだが、このような蒸気機関車が上野ー宇都宮ー日光間を走っていたのだろう。


↑ こちらの記事には次のような内容が記されている。

明治19年6月 上野‐宇都宮間が開通。日本鉄道会社 日本鉄道二区線
明治23年5月 宇都宮‐日光間が開通。日本鉄道会社 日光鉄道・日光鉄道技線
明治39年11月1日に、日本鉄道株式会社所有から国有化された。「東北本線」「日光線」

上野:午前6時40分発(始発)―10時5分宇都宮着
宇都宮‐日光間の電車は午前10時20分に宇都宮発―11時50分日光着

明治23年の開通の頃の日光ー宇都宮間の運賃 下等二十五銭、中等五十銭、上等七十五銭

「シドモア日本紀行」は1884(明治17)年から1902(明治35年)の記録であり、
宇都宮―日光間が開通したのは明治23年なので、シドモアが日光を訪れたのは、明治23年から明治35年の間ということになる。

シドモアは「宇都宮から【最後の】美しい日光街道二五マイル[四〇キロ]を人力車で行く旅も楽しく」と記している。
何が【最後】なのかというと、「宇都宮から日光への行程」が、「出発地点から日光までの旅の行程」の最後という意味だと思う。

それではシドモアは出発地から宇都宮まで、交通機関は何を利用したのか。
それは日本鉄道の蒸気機関車だろう。
宇都宮で乗り換えて日光まで行けるのだが、シドモアは蒸気機関車を利用せずに人力車を利用したということだと思う。

全行程 出発地--------------------------------------------------------------------------------------日光
    出発地---------------日本鉄道-------------------------宇都宮--------人力車--------日光 (赤色文字が最後の行程)

シドモアは続けて次のように記している。

p182
八月、夏真っ盛りの猛暑の日、私たちは伸縮自在の日本式トランク(行李)を荷造りし、日光連山を目指し都会を脱出しました。煙と誇りが汽車の窓に舞い注ぎ、屋根は灼熱でパチパチ音を立て、目の回る速さで通り過ぎる緑の木立や繁茂した牧草地は炎熱で揺らいでいます。

やはりシドモアは日光まで汽車でやってきたのだ。

p182
幸いにも、宇都宮で気の利いた茶屋を見つけ休むことにし、同情する姐さん方の世話を受けながら、冷たい鉱泉水の入った盥に手を浸し顔を洗いました。

汽車に乗ったことのない人はわからないかもしれないが、汽車がトンネルを走る際、窓をしめておかないと顔が煤で真っ黒になるのだ。
しかしエアコンのない時代の8月、窓をあけないと暑くてたまらなかったことだろう。
そんなこともあって、シドモアの顔は煤で黒く汚れてしまい、それで茶屋のお姐さんが水の入った盥をもってきてくれたのだろう。

⓶人力車

p183
人力車隊は、それぞれ二人組となり縦一列で、一〇マイル[一六キロ]の杉並木を競争しながら走ります。

ここで、シドモアが日本の旅の中で頻繁に利用している人力車について、調べてみることにしよう。


上記記事に次のような内容が記されている。
❶人力車が登場し、活躍したのは明治期。
❷明治2 年(1869)に東京の八百屋鈴木徳次郎・車職高山幸助・福岡藩士和泉要助らが人力車を作って営業を開始する。
❸三重県では明治10年、4,000台以上が走っていた。
❹乗客に法外なお金を要求したり、雨の日や夜中には車を出すのを断ったり、客を道の途中で降ろしたりする車夫がいた。❺三重県では明治15年に「人力車取締規則」が施行された。
・人力車を営業するときは必ず鑑札を受け組合に入ること
・混雑しているところや橋の上を走るときには掛け声を掛けながら徐行すること
・往来の妨げになる場所に車を止めないこと など
❻明治10年、メーター付きの人力車が登場。鉄輪であった車輪がゴムタイヤとなる。
❼明治14年県内で5,400台を超えた人力車は、それをピークに減少していく。
『県統計書』によれば、大正5年(1916)は2,500台、そして昭和15年(1940)に161台、昭和25年に26台。

人力車 日本、1886年 シルバープリントに彩色。

人力車 日本、1886年 シルバープリントに彩色

③日光杉並木街道

p183
鉄道が宇都宮まで敷設される以前には、横浜発の旅行者は船旅を終えると、木陰の道七〇マイル[一一二キロ]を人力車ツアーしたものです。二〇〇年前、徳川の将軍家は一族の埋葬地として日光を選ぶ際、この並木道を作りました。そしてこの神々しい樹木は壮麗な古武士の葬式行列や、家康や家光の墓へ参拝する後継者の荘重な庚申に濃い影を落としたのです。

日光杉並木街道

日光杉並木街道

日光杉並木(日光〜今市間)

日光杉並木(日光〜今市間)

日光杉並木街道は、大沢 - 日光間16.52km、小倉 - 今市間13.17km、大桑 - 今市間5.72kmの杉並木で総延長35.41kmの世界最長の並木道である。

徳川家康、秀忠、家光に仕えた松平正綱(1576年ー1648年)が、家康の没後、日光東照宮への参道にあたる3街道に杉を植樹して東照宮に寄進したもの。

シドモアが見た日光杉並木街道は植樹されてから250年以上(シドモアは200年前と書いているが)、私が見たのは350年以上たったものである。

④別れの挨拶

p185
茶屋全員の「サヨナラ」の甘い歌声に送られ再び出発する頃には、東の空が明るくなり、月の出を予兆しました。


明治期の人やお店は、別れの挨拶を丁寧かつ長くする習慣があったのだろうか。

シドモアは東京の紅葉館(現在の東京タワー付近)で、歓待を受けた際の帰り際での出来事を次の様に書いていた。

p125
煙草盆の登場からすでに六時間が経過し、私たちは帰り支度のため立ち上がりました。メイド全員が玄関先まで付き添い、果てしないお辞儀と別れの言葉の後、無類の活人画となって敷物に座りました。彼女たちの可愛らしい「サヨナラ」は芝公園の暗い並木道を走り抜け、はるか離れた人力車の後ろまで耳に響きました。

⑤ワックス代わりの風呂の水?

p187
さらにギャラリーは光沢を帯びるまでつるつるに磨かれました。ニスも塗らず、油もつけず、ワックスも擦り込みませんが、毎朝、風呂の水に濡らして絞った布でこすります。というのは、その水は特殊な艶を出すに足る油脂分を含んでいるからです。三年間毎日、熱い布でこすると満足な効果が現れ、翌年以降は鮮やかな色合いと光沢が障子、古い茶屋や寺院にある普通の松阪廊下でも、バラの木や樹齢六〇〇年の樫で作ったような素敵な渡り廊下となります。

これはよくわからないが、油分を含んだ温泉でも湧き出ていたのだろうか?
北海道の豊富温泉など油分を含んだ温泉はある。

⑥今市の宿

p187
和紙の貼られた美しい格子枠でベランダを遮り、室内に特別柔らかな日光を入れるスクリーンは障子です。これらのスクリーンの取り扱いには念入りな作法を必要とし、躾の善い人や訓練された従業員は、開け閉めに膝を折り、親指と他の指をきちんと正しくつかいます。ところで、この滑りのよいスクリーンを開閉する作法の中に、客への未病な嘲りや致命的侮辱を含みつたえることもあるので要注意です。

p188
夜間や天候の悪い場合はベランダの外側に雨戸が閉められますが、これは堅固な木製シャッターで、溝の中を前後にごろごろとどろかせバタンとしめます。このシャッターには窓や空気孔がなく、「しかも従業員あ換気用に隙間を開ける気もありません。「ちゃんと閉めないと泥棒だけでなく河童がはいるかもしれません!」と大声で応え、想像上の動物なのに、その河童はいつも人間をかどわかす怪物だと信じ込んでいるのです。

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享和元年(1801年)に水戸藩東浜で網にかかった河童の姿。

享和元年(1801年)に水戸藩東浜で網にかかった河童の姿。

p189
日本式ベッドはじかに床に敷かれ、木箱の首当てが枕代わりになり、布団が書けも尾代わりとなります。

   

シドモアがいっているのは箱枕だろう。昔の人は髷をゆっていたが、この髷がくずれないように、高さのある枕を使用していた。
枕は布団の上ではなく、外におき、首のあたりを箱枕に乗せていた。

p188
旅行者は自前の指揮布団や毛布、羽枕や空気枕、さらに野宮家の製粉が必用で、特に畳や布団には蚤が充満し、このため惜しみない製粉の添加やまんべんないハッカ油の擦り込みが必用で、これなしに眠ることはできません。

蚤が多いことは、1878年(明治11年)に日本の東北地方から北海道などを旅したイザベラ・バードも嘆いていた。


シドモアが見た明治期の日本21 東京近郊⓶

ピンク色の文字部分は、すべて著書「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」よりの引用です。

⑧池上本門寺

p176
ここ池上の地で、仏教宗派の開祖・日蓮が亡くなりました。六〇〇年間、この壮麗な寺院[本門寺]は日蓮上人に対する賛歌で谺し、僧侶は今でも厳格に教義を説きます。日蓮宗は日本最大の組織を持ち、最大の財力を有し、最も強い影響を及ぼしている積極的宗派です。彼らは仏教の新教徒派であり、その信仰は堅く冷徹で、他州の心情をすべて虚偽として拒絶し、熱心に改宗を勧めています。

池上本門寺については、こちらの記事にも書いた。シドモアが見た明治期の日本15 東京⑨


弘安5年(1282年)、日蓮は病を患い、湯治のために身延山から、常陸(茨城県)へ向かった。
その途中、池上宗仲の館にたちより、池上氏館の背後の山上に建立されたお堂を日蓮が開堂供養したのが、池上本門寺の起源とされる。
日蓮はそのまま同地でなくなり、池上宗仲は法華経の字数(69,384)と同じ六万九千三八四坪を寺領として寄進し
日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承した。
第二次世界大戦の空襲を受けたが、五重塔、総門、経蔵、宝塔は焼け残った。
従って、これらの建物はシドモアが見たのと同じものある。

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シドモアは「日蓮宗は日本最大の組織を持ち」と書いている。
当事と現在では異なるだろうが、現在のデータをみてみると

1 浄土真宗本願寺派(西本願寺) 784万人
2 真宗大谷派(東本願寺) 735万人
3 浄土宗 602万人 
4 曹洞宗(禅宗) 367万人
5 天台宗 153万人
6 真言宗豊山派 ※高野山真言宗についてはデータなし 142万人
7 法相宗 56万人

https://true-buddhism.com/shuha/ranking/ 

となっていて、日蓮が開いた日蓮宗は入っていない。

日蓮宗の修行は厳しく、過去には死者もでている。

https://www.bengo4.com/c_5/n_450/
上記記事には次のような内容が記されている。

❶千葉県市川市の中山法華経寺で毎年11月1日から2月10日にかけて「100日間荒行」が行われる。
修行僧は1日7回水を浴び、その合間に読経を続ける。
食事は朝夕2回、粥と汁物のみ。睡眠時間は約3時間。
日蓮宗の修行で、30代の僧侶が死亡する事故が起きた。
❸修行僧の健康管理は外部から医師を招いて行なっているが、日蓮宗の内部からも「行き過ぎた指導があったのではないか」という意見がある。
❹主催者と参加者との間に、契約ないし一定の法律関係がある場合、主催者は参加者の生命・身体に危険が生じないように、具体的な状況に応じて配慮すべき義務がある。(安全配慮義務)
❺参加者が無理に荒行を続けた場合は、参加者の過失が認められることもある
❻契約関係等がなかったとしても、注意義務違反があれば、不法行為責任を問われる可能性がある。



日蓮は、各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などを遊学し、妙法蓮華経(法華経)が最も優れていると考えるにいたった。
そして、「念仏と禅宗が妙法蓮華経(法華経)を誹謗している、南無妙法蓮華経の題目のみを唱えるべき」と説いた。

日蓮は鎌倉で弘教活動をはじめたが、1257年、鎌倉に大地震があり、ほとんどの民家が倒壊する被害がでた。
日蓮は「立正安国論」に「地震の原因は浄土宗の流行によるもの。浄土宗の信仰をやめて法華経を信仰するべき」という内容を書いて鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に提出した。
しかし、鎌倉幕府はこれを無視した。また、浄土宗信者より襲撃される事件もおきた。(松葉ヶ谷の法難)。

1261年には、伊豆の伊東に流罪となり、1263年に許されて日蓮は故郷の安房国故郷に戻る。
しかし浄土宗信者の東条景信によって襲撃され、日蓮は頭に傷を受け、左手を骨折する。

1268年、蒙古と高麗の軍事的侵攻をちらつかせる国書が鎌倉に贈られた。
日蓮はこれを自分の「立正安国論」の予言どおりであるとし、幕府に対し、鎌倉仏教界の主要僧侶との公場対決を要求した(十一通御書)。
しかし幕府は日蓮の主張を無視した。

1271年、極楽寺良観(忍性)が、旱魃に際して幕府に祈雨の祈願を要請した。
これに対して日蓮は「7日の間に雨が降るならば日蓮が良観の弟子となるが、降らないならば良観が妙法蓮華経(法華経)に帰依せよ」と申し出た。
しかし良観は応じなかった。

日蓮は幕府によって逮捕され、斬首のため、龍の口の刑場へと連れてこられたが
刑が執行されようとした直前、江の島の方角から強烈な球電が現れたため、刑の執行は中止された。

斬首を免れた日蓮は、佐渡国へ流罪となる。
また日蓮の弟子ら260余人が逮捕・監禁、追放、所領没収などの処分を受けた。
日蓮の弟子の多くが「法華経の行者には諸天の加護があるはずなのに加護がないばかりか、迫害される」として離れていった。
日蓮は諸天善神の加護がない理由を次のように説明した。
①経文や歴史上の先人の例に照らして行者が難を受けるのは当然。
②行者が難に遭うのは行者自身に謗法の罪があるため。
③迫害者に地獄に堕ちる重罪がある場合には、現世に現罰は現れない。
④行者に諸天の加護がないのは諸天善神が謗法の国を去っているため

1272年、鎌倉と京都で幕府内部の戦が生じた(二月騒動)。
幕府中枢が、北条一門の名越時章・教時兄弟、北条時輔を謀反の罪を着せて誅殺したのだ。
これは日蓮の予言が実現したと考えられた。

1274年北条時宗は日蓮を赦免した。
平頼綱は日蓮に蒙古襲来の時期について日蓮に尋ね、日蓮は年内に襲来するだろうと答えた。
日蓮は甲斐国身延(現在の山梨県身延町)で布教活動を行うが、体調を崩しがちになる。

やがて3万数千人の蒙古・高麗軍が対馬、壱岐を経て博多湾に上陸した。
戦闘は一週間ほどで終了したが、日本側は大きな被害をうける。(文永の役)

1275年、「撰時抄」をあらわし、次のような内容を述べた。
❶蒙古襲来は日本国が法華経の行者を迫害する故に諸天善神が日本国を罰した結果なので、法華経に従わない鎌倉中の寺や鎌倉大仏を焼き払い、禅僧・念仏僧を由比ヶ浜で処刑せよ。
❷真言僧が敵国降伏の祈祷をしているので日本の滅亡はやむなし。
❸第3代天台座主の慈覚大師円仁(794年~864年)を五大院安然(841年~915年?)・恵心僧都源信(942年~1017年)と並べて「師子の身の中の三虫」とした。
❹自分は「日本第一の行者」「日本第一の大人」「一閻浮提第一の智人」である。

弟子の日興らの活発な布教活動の結果、日興が供僧をしていた四十九院や岩本実相寺、龍泉寺などの天台宗寺院が改宗して日蓮門下となり、日蓮門下と天台宗側との抗争が生じる。

1279年、熱原竜泉寺の院主代・行智は、武装した武士の騎馬集団を用いて20人の農民信徒を捕えたが、彼らは法華経の信仰を捨てず、3名は斬首、ほかは禁獄処分となった。

1279年 蒙古は再び日本を責めようとしたが、大型台風の直撃を受けて退却した。(弘安の役)

公安の役は真言僧の祈祷によるものと考えられた。

1282年、日蓮は温泉での療養を行うため、弟子を連れて出発し、武蔵国荏原郡(現在の東京都大田区)にある池上氏の館に到着したが、衰弱が進んでそれ以上の旅を続けることができず入滅した。

シドモアは「その信仰は堅く冷徹で、他州の心情をすべて虚偽として拒絶し、熱心に改宗を勧めています。」といっているが、上の日蓮の行動からみて、シドモアが言っていることはまず正しいと言えるだろう。

日蓮はとにかく、「他の宗派はダメ、法華経以外信仰するべきではない」という頑固な考えをもっていたようだ。

日蓮は「四箇格言(しかかくげん)」を述べて、他宗派を批判している。
四箇格言とは、「真言亡国・禅宗天魔・念仏無間・律国賊」というもので、
要するに、真言宗は亡国をまねく。禅宗は仏法を害する悪魔、浄土宗は絶え間ない苦しみが続く、律宗は国賊で、
これらの宗派はだめというわけである。

p176
それにしても、宗祖の受難はたいへん過酷なものでした。たとえ流刑され、投獄され、拷問あれ、死刑判決が下っても信者を増やし、真の大教団を見届けるまで生き続け、池上大本山の最高の聖人として崇められるに至りました。人気の高い芝居「日蓮」では、いかに敬虔な宗祖や弟子たちが苦難に堪えたか、ぞっとするような法難を目にします。

これも、シドモアがいっていることはほぼ正しいといえる。

日蓮の受難をまとめておこう。

浄土宗信者より襲撃される。(松葉ヶ谷の法難)。
1261年、伊豆の伊東に流罪(1263年に赦免される)
1263年、東条景信によって襲撃され、頭に傷を受け、左手を骨折する。
1271年、日蓮逮捕され、斬首されそうになったところを球電の出現で免れる。
    佐渡国へ流罪となる。(1274年に赦免される)
    また日蓮の弟子ら260余人が逮捕・監禁、追放、所領没収などの処分を受けた。
1279年、熱原竜泉寺の院主代・行智は20人の農民信徒を捕えた。

しかし、現代人の私は日蓮という人物を評価できない。

「鎌倉の大地震や、元寇を浄土宗の流行によるもの。浄土宗の信仰をやめて法華経を信仰するべき」
「雨が降らなけば良観が信仰している律宗は間違いなので、法華経を信仰せよ」
と日蓮はいっているが、地震や他国からの軍事的信仰。降雨は浄土宗の信仰とは無関係である。
(当事の宗教はどこも日蓮がいうような関連性のないことがらを、宗教と結びつけていたのかもしれないが)

日蓮の弟子ら260余人が逮捕・監禁、追放、所領没収などの処分を受けた際の言い訳もひどいw
特に⓶

①経文や歴史上の先人の例に照らして行者が難を受けるのは当然。
②行者が難に遭うのは行者自身に謗法の罪があるため。
③迫害者に地獄に堕ちる重罪がある場合には、現世に現罰は現れない。
④行者に諸天の加護がないのは諸天善神が謗法の国を去っているため

1275年、「撰時抄」で、禅僧・念仏僧を処刑せよ。といっているのも過激すぎる。
当事の僧侶は平気で殺生をしたのかもしれないが。

また、自分は「日本第一の行者」「日本第一の大人」「一閻浮提第一の智人」というなど、うぬぼれているw

日蓮入滅後、弟子6人のうち5人は日蓮の排他的な考えを緩和した。
弟子のひとり、日興は日蓮宗富士門流(現在は日蓮正宗)という名称で日蓮の排他的な考えを引き継ぐ宗派をたちあげた。
ちなみに創価学会はこの日蓮正宗の関連団体であったが、1912年、日蓮正宗は創価学会を破門にしている。

⑨池上本門寺 お会式

p176
毎年一〇月の一二、一三日には、特別法要[御会式]が主訴日蓮を記念して営まれます。そこには数えきれないほどの人が参加し、祭の初日は鉄道が押し合いへし合いの騒ぎとなり、夜になると篝火や提灯[万灯]の林が大森駅を明るく照らし、昼は高い竹竿の先に、大きな造花で飾った葦の輪生をぱっと咲かせ、祭の開催を近隣に告げます。

p178
荘重な屋根を持つ朱塗りの楼門[仁王門(戦災で焼失)、昭和五二年再建]が大きくそびえ、広大な前庭へ向かう民衆の流れを呑み込み、前庭を三方に囲む大小の伽藍からは数珠を擦る音、賽銭を投げる音とともに、僧侶の詠唱、団扇太鼓の
連打、敬虔な祈祷が聞こえます。


「高い竹竿の先に、大きな造花で飾った葦の高い竹竿の先に、大きな造花で飾った葦の輪生」とあるが「輪生」について、ウィキペディアはつぎの様に説明している。

輪生(りんせい)とは、生物の体において、ある器官が一定の箇所から輪を描くように並んで生じることである。植物の葉や花に関して使われることが多い。

シドモアは3:16あたりにでてくる造花のことをいっているのだろうか。

p180
貫首は巨大な赤傘に庇護され、行列のほぼ真ん中に入って歩みます。彼はクロージャー(司教杖)ににた聖地な朱塗の杖を手にし、下駄も朱塗りです。の地上の儀式はローマ・カトリック様式を思わせ、赤い法衣と笠に覆われた仏教カージナル[枢機卿]は西洋世界の聖職者そっくりです。

これは映像をみつけることができなかった。

p177
フライ、シチュー、炒め物、焼き肉が香ばしい匂いを大気に薫らせ、さらにボール状やサイコロ状の様々な食べ物(おでん)、バターの塊、ケーキ、おいしそうな塊や手巻き類(稲荷寿司にのり巻き)が、田圃の道ぞいに並べられています。鮮やかな赤で着色した奇妙な海草の薄皮は、チューインガムに似て飛ぶような売れゆきです。

「鮮やかな赤で着色した奇妙な海草の薄皮」とは、酢昆布だろうか。
酢昆布といえば、中野の都昆布を思い浮かべるが、中野物産の創業は昭和6年( 1931年)なので、また別のものかもしれない。

バターの塊はわからない。

ケーキとあるのはカルメラだろうか。

カルメ焼きともいい、水を加えて溶かしたザラメに重曹をくわえて膨らませる。
炭酸ナトリウムを熱すると二酸化炭素が発生し、カルメラを膨らませる。
それを水で濡らした布巾に乗せて急冷すると固まる。
その歴史は戦国時代、ポルトガルから伝えられたといわれる。

 

p178
境内にはさまざまな色の砂袋を持った”砂男”がいて、細工する間中、休みなくしゃべりながらどたばた走り回り、何もない綺麗な地面に美しい絵を描きます。まず最初、たくさんのまっしろな砂を手でふるいながら地面に振りかけ、続いて黒や赤の砂を握った手で篩にかけ細く流しながら、極めて迅速、かつ簡潔な技巧で武士、娘、龍神、花、風景を描きます。


↑ こういう感じのものだろうか。実際にパフォーマンスと作品をみてみたいものだ。

p178
軽業師が、空中に輪、玉、短剣を放り投げて手玉にとり、二〇フィート[六メートル]の竿の先で皿を回し、同時に仲間が大きな竹竿を肩で釣り合いをとり、これに小柄な少年がの追って先端の横木で妙技を披露します。


『人倫訓蒙図彙』(元禄3年(1690年)頃刊行)の挿図より「放下」(右)「住吉踊り」(左) 放下師は路上で皿回しをしている。

『人倫訓蒙図彙』(元禄3年(1690年)頃刊行)の挿図より「放下」(右)「住吉踊り」(左) 

p178
魔術師は火のついたパイプを飲みこみ水を飲み、口笛をんラしてパイプを出し、一吹き二吹きしてから、またパイプをん見込むと、いかにも満足気に幻想的煙の輪や竜巻を口から次々放出します。


⓾髪の毛の奉納

p178
ある廟の格子に結ばれた脂っこい髪の房は、内陣の本尊に救いを求める信者の奉納品です。

理由についてはわからないが、髪の毛を奉納する習慣は各地にあった。
京都・六波羅蜜寺の鬘掛地蔵は左手に毛髪をもっており、たくさんの神の毛が奉納されている。
東本願寺には髪の毛で作った毛綱がある。
京都の菊野大明神、大分県の椿堂にも髪の毛が奉納されているそうだ。

⑪オニーダ号追悼碑

p180
池上はアメリカ合衆国民にとって特別感心のある場所です。とうのは、一八七〇年[明治三]一月二三日[碑文では二四日]、江戸[東京]湾口の近くで米国軍艦オニーダ(オネイダ)号がP&O輝線ボンペイ豪に衝突され、無念にも将兵とともに沈没した事故と深い関わりがあるからです。当時なぜか、わが米国政府は難破船の引き上げや創作する努力を怠りました。しかも、なんたることでしょう!一五〇〇ドルでこの沈没船を日本のサルベージ会社へ売却したのです。
日本の作業員は軍艦の残骸の中に、たくさんの水死した乗組員の遺体を発見しました。仕事が完全に終了すると、なんと彼らは自主カンパで池上[本門寺]境内に追悼記念日を建てたのです!
さらに一八八九年[明治二二]五月、感銘深い仏教儀式・施餓鬼(飢えた霊魂へ御馳走する供養)が執り行われました。この偉大なる寺院は追悼式の準備を整え、僧侶七五名が豪華な最高級の法衣をまとい一丸となって協力しました。[当事の貫首は日亀上人]
追善供養には米国軍艦から提督と士官一〇〇名、さらにオニーダ号から脱出した唯一の生存者も参加しました。



↑こちらの記事にオネイダ号の事故について記されている。だいたい次のようなないようだ。

❶1870年1月24日、横須賀・観音崎沖で米艦船「オネイダ号」が英国船と衝突し、沈没した。
❷米軍人ら115人が犠牲らが犠牲になった。日本人漁師らに救助された乗船者もいたらしい。
❸身元不明者らは池上本門寺に埋葬され、本門寺には慰霊碑がある。

https://ja.foursquare.com/v/%E3%82%AA%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%83%80%E5%8F%B7%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A2%91/514e94dee4b06ae75c968135

↑ こちらの記事に慰霊碑の写真がある。


上記動画2:12あたりにオネイダ号の写真がある。
上の動画ではオネイダ号は沈んだままと言っているが、
シドモアは船は日本のサルベージ会社(海洋上で沈没した船舶の引き上げ回収を行う会社)に売却され、作業員が軍艦の中から遺体を発見した、と言っている。
船の引き上げは行わず、遺体のみ引き上げたのだろうか。

上の動画でも言っているが、
2010年、フジテレビの番組で、明治初期に横須賀・観音崎沖で沈没したアメリカ軍艦・オネイダ号がみつかり、遺物を一部引揚げたらしい?

https://www.jstage.jst.go.jp/article/houseiken/19/0/19_KJ00008637187/_article/-char/ja/
こちらの記事を日本語に自動翻訳するとシドモアが述べているとおり「米国は売却によりオネイアダの財産権を放棄した。」と記されている。