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八咫烏は復活した太陽神だった。 (上賀茂神社 烏相撲) 

上賀茂神社 烏相撲  
●烏相撲

上賀茂神社の細殿前には砂で作った二基の円錐形が並んでいた。
立砂と言い、神様の寄代である。

立砂の前には土俵がつくられており、大勢の参拝者が土俵をとりまいていた。
まもなく式典が始まり、十二単姿の斎王代が登場して細殿の中に座り、白い褌をしめた子供力士たちが登場した。

烏帽子に白張姿の刀弥がピョンピョンと横飛びして弓矢や太刀を運び、立砂の前に置くしぐさがおもしろい。
その後、正座をして「カーカーカー」「コーコーコー」と3回鳴き、烏相撲が始まった。

●上賀茂神社と下鴨神社

『山城国風土記』の賀茂神社縁起に次のように記されている。

ある日川から丹塗りの矢が流れてきた。
玉依姫がこれを持ち帰り、枕元に置いて寝るとやがて妊娠した。
こうして産まれたのが上賀茂神社の御祭神・別雷命である。


上賀茂神社では別雷命を、下鴨神社では賀茂建角身命と玉依姫を祀っている。
玉依姫は別雷命の母神、賀茂建角身命は玉依姫の父神なので、別雷命にとっては祖父神ということになる。

賀茂建角身命は記紀神話に登場するヤタガラスのことである。
烏相撲では刀弥が烏の鳴きマネをするが、刀弥には八咫烏の神霊が乗り移っているということなのだろう。

●八咫烏は復活した太陽神である。

梅原猛氏は数字の八は復活を意味する数字だといっておられる。
『八角墳』や『八角堂』は死者の復活を願って作られたものではないかというのだ。
なるほど、八は復活を意味する数字と考えると辻褄のあう言葉がたくさんある。

『八咫鏡』とは死んで天岩戸に籠もった天照大神を岩戸から出して復活させるのに用いられた鏡。
『八所御霊』とはもともとは怨霊であった人たちのことで、慰霊されて神として復活した者たち。

そして『八咫烏』は中国や朝鮮では太陽の中に描かれることが多く、復活した太陽神のことだと考えられる。

記紀は八咫烏は天孫・神武天皇を道案内した烏だとしているが、神代には『猿田彦神』という神が天孫・ニニギを葦原中国へ道案内したという話がある。
八咫烏と猿田彦神は同じ様に天孫を道案内しているので、同一神だと考えられる。

八咫烏=猿田彦神

猿田彦は高天原から葦原中国までを照らす神であると記されている。
それにぴったりくる名前を持つ神がいる。
照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)、つまり物部氏の祖とされるニギハヤヒのことである。

猿田彦神=ニギハヤヒ
八咫烏=猿田彦神
∴八咫烏=猿田彦神=ニギハヤヒ


そして天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊、という神名を持つこの神が本当の天照大神だという説がある。

天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)=天照大神

また記紀では鳥が葬儀を行ったり、死んだヤマトタケルが白鳥となって飛び立つ話などがあって、鳥は死んだ人の魂を表すものと考えられる。

ゆえに、八咫烏とは復活した天照大神=ニギハヤヒ=猿田彦神のことだと考えられる。

●物部王朝

神武天皇は東征に出立するにあたって、『東にはニギハヤヒが既に天の磐船を操って天下っている』と発言している
ここから神武以前に物部王朝があったとする説がある。

そしてニギハヤヒは別名を天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊というが、大神神社の御祭神・大物主神は別名を倭大物主櫛甕魂命という。
二神は「櫛」「玉(魂)」が同じなので同一神だとする説がある。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、ニギハヤヒと大物主が同一神だとすれば大物主もまた物部氏の神だということになる。

初代神武天皇は大物主神の娘を皇后としているが、これは神武が物部王朝に婿入りしたということだろう。
また、先ほども述べたように本当の天照大神は天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)だとする説があり、だとすれば、天照大神はもともとは物部氏の神だったということになる。

天照大神が天皇家の祖神とされているのは、神武が物部王朝に入り婿となったためだと考えられる。
神武が物部王朝の入り婿になったのであれば、天皇家の祖神が天照大神だといっても間違いではない。(母方の祖神)
天照大神が男神ではなく女神とされているのは、そのためではないだろうか。

そして陰陽道では『怨霊は神として祀りあげればご利益を与えてくれる和霊に転じる』と考える。
神武に政権を奪われたニギハヤヒは当然怨霊として恐れられただろう。
八咫烏は怨霊であるニギハヤヒが復活して和霊に転じた神なのだろう。

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[2014/09/09 20:00] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

大友黒主の正体 (祇園祭 黒主山) 


●「志賀」と「草子洗い」

祇園祭の山鉾のひとつ・黒主山は、謡曲・志賀を題材とした山である。

「今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む老人に出会った。
この老人が大友黒主で、和歌の徳を語って消え去るが、臣下の夢の中に現れて舞を舞う。(謡曲・志賀)」


大友黒主とは六歌仙(僧正遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康秀・小野小町・大友黒主)の一人で、古今和歌集仮名序(古今和歌集の仮名で記された序文)に『大友黒主はそのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし 。』と記されている。
謡曲・志賀出大友黒主が花の陰に休む老人として登場するのは、この古今和歌集仮名序の文章を受けたものなのだろう。

また能に『草紙洗い』という演目があり、やはり大友黒主が登場する。
『草子洗い』は次のような筋である。

小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。
歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。

蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん
(種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)

当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。
小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町之歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。
ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。
黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。
策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(能・草紙洗い)


『志賀』では黒主は『和歌の徳を語る老人』であるが、『草子洗い』では『小町の歌を盗み聞くずる賢い人物』として描かれている。
いったい、大友黒主とはどのような人物だったのだろうか?

●大友黒主は古の猿丸大夫の次なり。

古今集には仮名書のほかに「真名序」とよばれる漢文で記された序文がある。
内容は仮名書とほとんど同じだが、微妙に表現が違っている。
たとえば、仮名書では
大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。 
となっているが、真名序は次のようになっている。(読み下し文)
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。 

真名序には『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とある。
これはどういう意味だろうか。

仮名序を書いたのは紀貫之だと言われているが、紀貫之は古今伝授の創始者である。
古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことで、伝授する人物は和歌の第一人者に限られ、伝授の方法は主に口頭で行われた。
和歌の極意を文章に記さず口頭で伝えるのは、情報が漏洩しないようにするためだろう。

鎌倉時代には藤原定家が父親であり師匠でもあった藤原俊家から古今伝授を受けている。
『古の猿丸大夫の次なり』の意味を定家ならば知っているかもしれない。
そう思って定家が撰んだ百人一首を調べてみた。

百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られている。
もしかしたら定家は『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』という仮名序の文章を受けて、百人一首において大友黒主の正体を明らかにしているのではないか、と思ったのだ。
つまり、猿丸大夫の次の歌人が、大友黒主ではないかと。

百人一首では猿丸大夫は5番だった。
その次・・・6番は大伴家持だった!

大友黒主は大伴黒主と記されることもある。

また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいるのだ。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)



白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』という。
本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことである。
大伴黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じ意味なので、本歌取りではない。

ほとんど同じと思われるふたつの歌の、一方は大伴黒主、一方は大伴家持の歌であるという。
このことからも、ふたりは同一人物ではないかと思われる。

●そのさまいやし

大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄だった。
仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないだろうか。

また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。
仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないだろうか。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったかもしれない。

真名序に『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだろう。
『鄙し』とは『いやしい』という意味で、仮名序と同じ意味である。

●万葉集を編纂した大伴家持 

大伴家持は優れた歌人であり、万葉集を編纂した人物でもあった。
そして草紙洗に登場する家持以外の歌人、小野小町・紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らは古今和歌集の歌人である。

『草紙洗い』において、大友黒主=大伴家持は万葉集の中に小町の歌を書き入れているが、 『書き入れる』というのは『編纂する』という意味で、誰にでもできることではない。
万葉集を編纂した大伴家持(大友黒主)だからこそ小町の歌を万葉集に書き入れることができたのである。

小野小町はこれは『古今和歌集』の歌なので、『万葉集』に書き入れることはできませんよ、と大伴家持を諭したというのが、『草子洗い』のテーマだと思う。

つまり、『草子洗い』は大伴家持がタイムスリップして後世に現れたという物語だったのである。

また『志賀』において、黒主は和歌の徳を説いているが、これなども万葉集を編纂した大伴家持にふさわしい行為だといえるのではないだろうか。

祇園祭 黒主山 ご神体 


祇園祭・・・阪急烏丸駅付近             
詳しくはこちらをご覧ください・・・ http://kyoto-design.jp/special/gionmatsuri/schedule


 
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[2014/07/22 20:27] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

妖怪・入道 (永福寺) 

たこやくし

●蛸薬師と平清盛

新京極通商店街は、たくさんの店舗が軒を並べる中に小さなお寺が点在する異色の商店街である。
赤い座布団の上に巨大な蛸の像を安置した寺もあった。 永福寺である。
蛸の像は『なで薬師』といい、この像をさすって祈願すると病回復の御利益があると信仰されている。

永福寺には次のような伝説が伝わっている。

1181年、二条室町に住んでいた林秀というお金持ちが、比叡山の根本中堂に籠もって次のようにお願いした。
『比叡山に御参りするためには山を登らなければいけないが、自分は老人で山を登るのはたいへんである。つきましては、どうか自分のそばに薬師如来様をお与え下さい』と。
すると夢の中に薬師如来様が現れてこう言った。
『伝教大師(最澄)が私の姿を彫った石仏が山内に埋められているので、これを持ち帰るがよい。』
林秀は夢で薬師如来が教えてくれた場所を掘った。
するとそこにはお告げの通りに薬師如来様がおられた。
林秀はその薬師如来を持ち帰り、安置するお堂を建てた。


これが永福寺であり、もともとは室町通二条下ルにあったるとされる。

時は下って鎌倉時代の中頃のこと、永福寺に善光と言う僧が住んでいた。
建長年間(1249年~1256年)のこと、善光の母親が病気になった。
善光は寺に母親を引き取って看病したが一向に病状は回復しなかった。
病床の中で母親は『大好きな蛸を食べたい。そうすれば病気が治るかもしれない。』と言った。
僧侶である善光は蛸を買うことを憚ったが、母親のために市場に出かけ、蛸を買った。 善光が蛸を買うのを目撃した町の人々は、善光が手に持った箱を『あけて見せよ』と迫った。
善光は『薬師如来様、この蛸は母の病気を治す為に買ったものです。どうか、お助け下さい。』と祈って箱を開けた。
すると蛸の八本の足が八軸の経巻となり、霊光を放った。
人々が合掌し、南無薬師如来と称えると、経巻は蛸のすがたに戻った。
そして寺の門前にあった池に入り、光を放って善光の母を照らした。
すると母親の病気はたちまち回復した。
以来、人々はこの寺の薬師如来を蛸薬師と呼ぶようになった。


林秀が永福寺を建てたのは1181年だというが、1181年は平清盛が死亡した年である。
平清盛は清盛入道とか六波羅入道などと呼ばれていたが、入道とは剃髪して仏道にはいった人のことや、坊主頭の人のことをいう。
平清盛は1168年に病を患って出家している。
入道と呼ばれたのはそのためで、六波羅蜜寺にある清盛像は剃髪した姿で刻まれている。

蛸の頭は坊主頭=入道に似ている。
入道という坊主頭の妖怪がいるが、これは清盛のことなのではないだろうか。
永福寺には清盛の霊が祭られており、入道=蛸の連想から、蛸薬師と呼ばれているのではないだろうか。

また蛸は海の生物なので、強力な海軍を持っていた平家をあらわしているようにも思える。
伝説の中に、人々が南無薬師如来と称えると蛸が池の中にはいったという話があるが、これは壇ノ浦の戦いに敗れて入水して果てた平家を思わせる。

●蛸が信仰された理由は8本脚にあり?

蛸を御仏として祀っているのは永福寺だけではない。 
大阪府岸和田市にある天性寺は蛸地蔵として有名である。

イカではなく蛸が仏として祀られたのは、蛸の頭部が坊主頭に似ているというだけではないだろう。
イカと蛸は腕(脚)の本数が違う。
イカの腕は8本で、蝕腕(しょくわん)が2本、合計10本である。
一方蛸は8本の触腕が8本である。
蛸の足は8本あるので、仏として祀られるようになったのだと思う。

梅原猛氏によれば、8は復活を意味する数字ではないか、という。
八角墳や八角円堂は死者の復活を願って作られたものではないかというのだ。

易の本に、1は神・起源、2は対比・分裂、3は懐妊、4は実現・世界、5は智恵・想像力、6は六 星・健在意識と潜在意識の調和、7は神的受胎・休息・沈黙、8は無限、9は完成・達成、10は神・男性=1と女性=0の相互作用と書かれていた。
ここに8は無限、とある。
無限なのは、復活を繰り返すため、とも考えられる。

八は神道的・仏教的な数字だともいえる。

神道では八咫鏡、八咫烏、八百万の神々など八のつく言葉が多い。
スサノオノミコトは『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣つくる その八重垣を』と詠っている。

また仏教においても八角堂・八角塔・八部衆・八正道などやはり八のつく言葉が多い。

蛸は足が8本あるからこそ仏になれたのだと私は思う。
イカが仏になれなかったのは足が10本あるからだろう。

●後花園院と豊臣秀吉の蛸薬師への信仰

永福寺は1441年に、後花園院の勅願寺となっている。
428年7月に称光天皇が崩御したが光天皇には嗣子がなく、将軍足利義教が伏見宮家の彦仁を天皇にたてた(後花園天皇)。
伏見宮家は本来皇統を出す家ではなく、後花園天皇の即位は予想外の出来事だったに違いない。
1433年には後花園天皇は親政を行うようになった。
同年、『永享の乱』が勃発した際には後花園天皇は治罰綸旨を発している。
これ以降、室町幕府の衰退と反比例するように天皇の権威は強くなっていった。

そして1441年、『嘉吉の乱』が起こる。
このとき6代将軍足利義教が赤松満祐の所領を没収し、寵臣の赤松貞村に与えようとしているという噂が流れた。
そこで赤松満祐は『鴨の子が多数出来たので見に来てほしい』と足利義教を自宅に招き、祝宴の最中に義教を殺害した。
それに対して山名持豊は赤松討伐のための治罰綸旨を奏請し、後花園天皇はこれを許している。
1441年の『嘉吉の乱』は、ますます天皇の権威を高めるのに役立ったことだろう。

後花園天皇は蛸薬師(清盛の霊)を深く信仰しており、自分の政治的権力が高まったことを、蛸薬師のご加護のおかげであると考えたのではないだろうか。
それで永福寺を勅願寺としたのだと思う。

その後、豊臣秀吉の時代、都の東の端の城壁代わりに大寺院が集められ、永福寺もここに移された。
秀吉も蛸薬師が清盛の霊を祀った寺であることを知っていて、城壁がわりにしたのではないだろうか。
清盛を祀る寺を城壁にすれば、それは心強かったことだろう。
蛸薬師・・・京都市中京区新京極蛸薬師東側町

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[2014/07/09 21:00] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

天上から堕ちたビーナス②(三室戸寺)  

みむろとじ はす


前回の記事・「天上から堕ちたビーナス① 」において、私は次のような話をした。

①三室戸寺は山号を明星山という。明星とは金星のことである。
②記紀神話には星の神は天津甕星(アマツミカボシ)しか登場しない。
③『天津甕星は葦原中国平定において、最後まで抵抗した荒々しく凄まじい神である』と記されている。
④③より星の神とは天皇と対立する人物=謀反人をあらわすものと考えられる。
⑤仏教では金星の神は虚空蔵菩薩、北極星の神は妙見菩薩で同じ星の神であるところから同一視されていると一般には説明されている。
⑥天津甕星は『のちに言う金星』であると記されている。
⑦『のちに言う金星』とあるのは、天津甕星は始めは金星ではなかった、ということで、もともとは北極星だったのではないか。
それゆえ、金星の神・虚空蔵菩薩と北極星の神・尿剣菩薩は同一視さえているのではないか。
⑧陰陽道の宇宙観では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とする。
⑨三室戸寺の欄間にかけてあった観音像の左右には太陽と月が刻まれて いる。
中央に刻まれている観音は星を神格化したものではないか。




三室戸寺は770年、光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建した寺で、次のような創建説話が伝えられている。

天智天皇の孫である白壁王(後の光仁天皇)は、右少弁・藤原犬養に毎夜輝いて見える金色の光の正体を確かめるように命じた。
犬養は光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着いた。
その滝壺の中に身の丈二丈ばかりの千手観音像があった。
犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁が流れてきて、それが一尺二寸の二臂の観音像に変じた。
その観音像を安置するために寺が創建され、当初は御室戸寺といった。
その後、桓武天皇が二丈の観音像を造立、その胎内に先の一尺二寸の観音像を納めた。


二丈の観音像は寛正年間(1460 - 1466年)の火災で焼失したが、この観音像の胎内に納められていた一尺二寸の二臂の観音像は無事だったそうで、現在ご本尊として祀られている。

このご本尊、腕は二臂なのだが千手観音とされている。
焼失した観音像が千手観音だったのだろうか?

さて、三室戸寺の山号は明星山というのであった。
明星とは金星のことである。
滝壷の中の観音が光の正体で、それは空から堕ちた明星(北極星=金星)だったとこの創建説話は伝えようとしているのではないだろうか。

もちろん、実際に明星(北極星=金星)が落ちたというわけではない。
金星を神格化した神・天津甕星は天照大神の葦原中國平定に最後まで抵抗した荒々しい神であり、天皇に対抗した人物=謀反人のことだと考えられる。
光仁天皇に対抗した人物=謀反人の霊を慰めるために、三室戸寺は創建されたということだろう。

また三室戸寺が創建された770年に光仁天皇は即位している。
三室戸寺の由緒では光仁天皇は即位する前の白壁王という名で登場している。
ということは、白壁王が即位することができたことと、その謀反人は関係が深い人物だと考えられる。

白壁王は天智天皇の孫、志貴皇子の子であったが、皇位継承には遠い場所にいた。
壬申の乱(672年)で大海人皇子(天智天皇の弟)と大友皇子(天智天皇の子)が皇位継承をめぐって争った結果、大海人皇子が勝利して天武天皇となった。
それ以降、天武系の人物が皇位を継承するという慣習が生じたようで、天武ののち持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳とずっと天武系の天皇が立っている。
そんな流れの中で天智系の光仁天皇が即位したというのは、まさしくウルトラCを決めた出来事だったといっていい。

光仁天皇が即位したのは、先代の称徳天皇(孝謙天皇・阿倍内親王)が急病を患って崩御したためだった。
この称徳天皇こそ、ビーナス=明星というにふさわしい。

称徳天皇は718年に聖武天皇と光明皇后(藤原氏出身で初めて人臣から皇后となった女性)の間に産まれた皇女であった。
同母弟に基王があり、基王は生後まもなく立太子したが、1歳になる前に夭逝した。
聖武天皇の皇子には安積親王があったが、安積親王の母親は県犬養広刀自で藤原氏ではなかった。
そのため、光明皇后を母親に持つ阿倍内親王(のちの孝謙天皇・称徳天皇)が立太子したと考えられている。
史上初の女性皇太子だった。
藤原仲麻呂の乱を平定したり、『今の天皇(淳仁天皇)は小事を行え。大事と賞罰は自分が行う』と宣言して重祚したり、なかなかの女傑だったようである。
道鏡との男女関係が疑われたときには、出家して尼となり、そういう関係にはないことをアピールしたりもしている。 

当時、未婚で皇位についた女帝は結婚が許されておらず、称徳天皇には子供がなかった。
そこで称徳天皇は次期天皇に道鏡を考えていた。

769年、宇佐八幡宮で『道鏡を天皇にせよ』と託宣があり、称徳天皇は事の真偽を確かめるために、和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣した。
清麻呂は『天の日継は必ず帝の氏を継が締めむ』と奏上し、称徳の怒りを買って大隅国へ配流された(宇佐八幡宮神託事件)。
しかし、道鏡は志貴皇子の子であるとする史料もあり、もしそれが事実なら、道鏡には皇位継承権はあったということになる。

翌770年、称徳天皇は急病を患って病床につき、数日のうちに崩御した。
通常は行われるはずの病気回復を願う祈祷が行われていないので、称徳天皇は暗殺されたのではないかという説もある。

また称徳天皇は病床から統帥権を道鏡の弟の弓削清人から左大臣藤原永手と吉備真備に移す詔を出しているのも妙である。
道鏡を次期天皇にしたいと考えている彼女がそのような詔を出すものだろうか。
宮中は吉備真備の軍勢がを取り囲み、出入りが禁じられていた。
また看病のため出入りが許されていたのは真備の娘の由利だけであった。
この詔は偽造されたものなのではないだろうか。

称徳天皇の死によって道鏡は失脚し、下野国へ左遷となって数年後に死亡し庶民として葬られた。
そして藤原永手や藤原百川の推挙を受けて白壁王が即位して光仁天皇となった。

創建説話の中に藤原犬飼なる人物が登場しているが、藤原氏の系図の中には藤原犬飼という人物の名前はない。
藤原犬飼という人物は架空の人物なのではないだろうか。

橘三千代という人物がいる。
橘美千代は文美努王と結婚して葛城王など3人の子をもうけた。
しかし美努王が大宰府に左遷されるとさっさと離婚し、不比等と再婚した。
藤原不比等と橘三千代との間には光明子が生まれた。
聖武天皇と光明子の間に生まれたのが称徳天皇である。
橘姓は708年に元明天皇より三千代に贈られた姓で、橘姓を授けられる前は県犬養三千代という名前だった。
藤原犬飼という名前はここからイメージされた名前で、橘三千代の孫にあたる称徳天皇のことを暗に指しているのではないだろうか。
創建説話では藤原犬飼は滝つぼに飛び込んだとあるが、これは犬飼=称徳天皇が身投げしたということだろう。
陰陽道では祟り神は神として祀ればご利益を与えてくださる和霊に転じると考える。
諡号に徳の字のつく天皇は不幸な死を迎えて怨霊になった天皇だといわれているが、称徳天皇も崩御後怨霊になったと怖れられ、その怨霊を祀るために創建されたのが三室戸寺なのではないだろうか。

そして称徳天皇という祟り神を神として祀り上げた結果和霊に転じたのが三室戸寺の千手観音ではないかと私は思う。

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[2014/06/18 21:00] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

天上から堕ちたビーナス①(三室戸寺) ※一部書き直しました。 

みむろとじ あじさい新2

三室戸寺の山門をくぐると眼下に見える庭園では紫陽花の花が満開となっていた。
長い階段を上っていくと本堂や三重塔があり、傍らの寺務所では紫陽花の形をした金平糖を売っていた。
青や紫などの金平糖を透明な袋で包んで花に見立て、緑色の葉をあしらったものである。
金平糖なんて食べるのは久しぶりのことだった。
掌にのせた金平糖を眺めると、どことなく星のような形をしているように思えた。
そういえば、三室戸寺は山号を明星山というのだった。
明星とは金星のことである。

日本の神話には星の神はたった一柱しか登場しない。
夜空には無数の星がきらめいているのに、星の神がたった一柱しかいないというのは不自然である。
そのため星の神は抹殺されたのではないか、という説もある。

たった一柱のみ登場する星の神は天津甕星(アマツミカボシ)、またの名を香香背男(カカセオ)という。
日本書紀によれば『天津甕星は葦原中国平定において、最後まで抵抗した荒々しく凄まじい神である』と記されている。
この天津甕星が夜空にきらめく幾千億の星を代表する神であるとすれば、星の神とは天照大神と対立する神であるといえるだろう。
天照大神は天皇家の祖神である。
つまり星の神とは、天皇と対立する人物=謀反人をあらわしているのではないだろうか。

記紀神話に登場する星の神は一柱しかいないが、星の神だと思われる神はほかにもいる。スサノオである。
記紀神話によれば「イザナギが禊ぎをし、左目を洗ったところ天照大神が、右目を洗ったところ月読命が、鼻を洗ったところスサノオが生まれた。」とある。
この記述は陰陽道の宇宙観に基づくものだろう。
陰陽道では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とする。

イザナギの顔は宇宙で、左=東に太陽神・天照大神が、右=西に月の神・月読命が配置されている。
するとスサノオは中央の星だということになる。

東・・・左・・・太陽の定位置・・・天照大神
西・・・右・・・月の定位置・・・・・月読命
中央・・・・・・星・・・・・・・・・・・・スサノオ

スサノオは天照大神に悪戯をして高天原を追放された神である。
やはり星の神は天皇と対立する人物=謀反人だと考えていいようである。

仏教では金星の神は虚空蔵菩薩だとしている
神仏習合の時代、虚空蔵菩薩は天津甕星と習合されていたのだろう。
また仏教では北極星を神格化した神を妙見菩薩としている。
妙見菩薩に対する信仰はもともとは天皇家にだけに許された信仰であった。
しかしのちに虚空蔵菩薩に対する信仰が伝わると、同じ星の神であるというところから、妙見菩薩と虚空蔵菩薩は同一視されるようになったのだと一般には説明されている。

しかし天津甕星は『のちに言う金星』であるとも記されている。
ということは天津甕星は始めは金星ではなかったのではないだろうか。
天津甕星は天の中心にある北極星であったのが、のちに金星の神へと神格を変えられたのではないだろうか。
そのため、金星の神・虚空蔵菩薩と、北極星の神・妙見菩薩は同一視されたのではないか。

みくろとじ がく2

上の写真は三室戸寺・本堂の欄間部分に掛けてあったものである。

中央の観音様は三室戸寺のご本尊を表したものだろう。
お寺のお堂にはよくこのようなご本尊を模したレリーフがかけられていることがある。
三室戸寺のご本尊は秘仏で滅多に開帳されることがない。
もちろん堂内にお前立ちはあるが、お堂の扉がしまっているときにでも、ご本尊の姿をイメージできるようにとこのようなものを掛けてあるのかもしれない。
みむろとじ がく

観音様の左右には雲に乗ったなにやら丸いものが刻まれてる。
ご本尊の左(向かって右)は太陽、右(向かって左)は月だろう。
太陽や月はこのように雲に乗った形で表現されることが多い。
すると全体が丸いお盆のような形をしているのは単なるデザインなのではなく、宇宙空間を表すものだと考えられる。
そして中央の観音様は星を表しているのだろう。

明星山という山号が示すとおり、三室戸寺には星を神格化した観音様を祀っているようである。

三室戸寺のご本尊は飛鳥様式の二臂(腕が二本)の観音像だが、千手観音」であるといわれている。
さきほども述べたように、三室戸寺のご本尊は秘仏で滅多に開帳されることがない。
最近では2009年に84年ぶりに開帳されたが、うっかりしていて拝観し損ねた。
なので、どのようなお姿をした観音様なのかよくわからないのだが、お前立ち( 14枚目がお前立ちの写真)については梅原猛さんが法隆寺の救世観音()に似ているとおっしゃっている。
またお前たちの衣の部分に十字があるので、マリア観音だともいわれている。

いずれにせよ、この観音様は明星を神格化した観音さまであることは間違いないだろう。

天上に堕ちたビーナス②につづく
三室戸寺・・・京都府宇治市莵道滋賀谷

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[2014/06/16 21:00] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

天邪鬼の叫び(岩船寺) 

岩船寺 紫陽花

白山神社(白山神社の記事はこちら→「乱れた糸を括る女神(白山神社)」 を参拝したのち、坂道を下りて岩船寺の山門をくぐった。
さっきまで止んでいた雨がまたしとしとと降り出してきた。
しかし雨は岩船寺の紫陽花の花にとてもよく似合う。

境内の奥にたつ三重の塔を見て、私は驚いた。
以前に参拝したときには塗装が剥げて茶色い木肌があらわになっていたのに、鮮やかな朱塗りの塔に変わっていたからだ。
どうやら修復工事をしたらしい。

塔の横手にある山道から三重塔を見ると、小さな天邪鬼が屋根を支えているのが見えた。

岩船寺 天邪鬼

この天邪鬼はガイドブックなどに「ユーモラスな姿をした・・・」と書かれることが多い。
しかし小さな背中で何百年も大きな屋根を支え続けてきたのだと思うと、私は天邪鬼が可哀相に思えた。

三重塔を参拝したのち本堂を参拝した。
行基の作とも伝わる阿弥陀如来像、普賢菩薩騎象像などすばらしいみほとけが並んでいたが、最も私の目をひいたのはガラスケースの中に入った小さな天邪鬼だった。

私はお坊様に聞いてみた。

「あのう、この天邪鬼は三重塔についていたものなのですか?」

「そうです。重要文化財ですよ。」

もう少し詳しく説明をお聞きしたいと思ったのだが、来客があってお坊様は出て行ってしまわれた。

最近、三重塔を修理したようだが、昭和18年にも解体修理が行われている。
この天邪鬼は昭和18年の解体修理の際に外されたものなのかもしれない。
このガラスケースの中の天邪鬼は、三重塔についていたものと表情がまるで違っていた。
目と口の部分は穴が開けられていて、まるでしゃれこうべのようだった。
ムンクの『叫び』に描かれた人物のようでもある。
天邪鬼は悲痛の叫びをあげているように見えた。

岩船寺は729年、聖武天皇の勅願により行基が創建したと伝わっているが、この年『長屋王の変』が起こっている。

漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)が『長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。』と朝廷に密告した。
これを受けて藤原宇合の軍が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王によって糾問が行われた結果、長屋王は自殺に追い込まれた。

聖武天皇の皇子の安積親王の母親は県犬養広刀自で、藤原氏ではなかった。
このため、長屋王の子・膳夫王が皇位継承の最有力者とされていたのを、藤原氏が廃そうと企てたのが事件の真相であると考えられている。

長屋王の没後、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立て、藤原四子政権を樹立した。
ところが、737年、四兄弟は天然痘にかかって相次いで死亡し、長屋王の怨霊の祟りであると噂された。
738年、中臣宮処東人が囲碁をしているときにうっかり大伴子虫に変の真相を話し、長屋王の信頼を得ていた大伴子虫が中臣宮処東人を斬殺するという事件が起こった。
しかしなぜか、大伴子虫は罪に問われていない。
中臣宮処東人の方に非があると考えられたためだろう。

岩船寺は聖武天皇の勅願によって建てられたというが、そのバックに藤原氏があったことは間違いない。

岩船寺は長屋王の鎮魂のために建立された寺なのではないだろうか。
三重塔の屋根を支えていた悲痛の叫びをあげる天邪鬼は長屋王の怨霊が暴れないようにするための呪術的な仕掛けなのかもしれない。

岩船寺・・・京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43
 

※6月11日、拍手ボタンを押してくださった方、ありがとうございました。

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[2014/06/12 21:00] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

乱れた糸を括る女神(白山神社) 

白山神社
白山神社

浄瑠璃寺から歩いて岩船寺までやってきた。
途中、いくつも点在している石仏を拝みながら、30分ほどかかっただろうか。
雨が降ったり止んだりするぐずついた天気で、蒸し暑い。

岩船寺の山門に続く階段の脇に石風呂がある。


棺のようにも見えるが、底に水抜き穴があいているので棺ではない。
鎌倉時代に作られたもので、かつてはこの石風呂で身を清めてから岩船寺を参拝するのがしきたりだった。

岩船寺の門の右手に坂道が伸びており、その坂道を登っていくと割拝殿がある。
割拝殿をくぐると赤い社殿がふたつ並んで建っていた。
向かって左が白山神社で岩船寺の鎮守の社、向かって右は白山神社の摂社の春日神社である。

白山神社は729年に創建されたもので、岩船寺の鎮守として柿ノ本二丸が社殿を造り、行基がイザナミを勧請したと伝わる。
春日神社は、江戸時代に建立されたものである。

白山神社の総本社は石川県白山市の白山比咩神社で、御祭神は菊理媛神(くくりひめのおおかみ)・イザナギ・イザナミの三柱となっている。
岩船寺鎮守の白山神社の御祭神はイザナミだがが、白山神社という社名から、人々はこの社にククリヒメのイメージを重ねたことだろう。

ククリヒメは、日本書紀の一書にたった一度だけ登場する女神である。

イザナギは、イザナミを連れ戻すために黄泉の国へいく。
しかしイザナギは蛆がわいたイザナミの姿を見て恐ろしくなって逃げ出した。
イザナギは泉津平坂(黄泉比良坂)でイザナミに追いつかれ、口論となった。
そこに泉守道者が現れ、イザナミの言葉を取継いで『一緒に帰ることはできない』と言った。
ククリヒメが何かを言うと、イザナギはそれを褒め、帰って行った。
(日本書紀 一書)
 

ククリヒメの発言の内容については何も記されていない。

日本書紀に記されているのはこれだけだが、白山比咩神社をはじめ、全国の白山神社ではククリヒメは縁結びの神として信仰されている。
ククリヒメは乱れた糸をくくり整え、仲を取り持ち和す神であるというのである。
これは、ククリヒメの発言がイザナギとイザナミの仲を取り持ち和したということからくる信仰なのだろう。

『ククリヒメ』の『ククリ』は『括り』『括る(糸を紡ぐ)』『潜り(水神)』『聞き入れる』などが転じたものとする説がある。

『潜る』は『水の中にもぐる』あるいは『水につかる』という意味で平安時代ぐらいまでは『くくる』と発音されていた。
『水の中にもぐる』『水につかる』とは禊ぎをすることである。

岩船寺の門の前に石風呂がおかれてあったのを思い出してほしい。
昔、参拝者は石風呂で禊ぎをしてから岩船寺を参拝したということだった。
江戸時代までの日本では神仏は習合されていたので、白山神社を参拝するのも岩船寺を参拝するのも同じことであった。
『ククリヒメ』は『潜り姫』で禊ぎの神なのではないだろうか。
そして『潜り姫』は語呂合わせで『括り姫』となり、縁結びの神にもなったのではないかと想像する。

語呂合わせによって神の神格を変えるというのは珍しいことではない。
例えば本来は和歌の神であった柿本人麻呂は人丸とも呼ばれ、『火止まる』の語呂合わせから『防火の神』に、『人生まる』の語呂合わせから『安産の神』へと神格を広げている。

また七福神の一である恵比寿は本来は海の神であるが、『お足が出ない』の語呂合わせから商売繁盛の神としても信仰されるようになった。

逆の『括り姫』から『潜り姫』になったんじゃないか、という意見があるかもしれないが、私はそれはないと考える。

神はその現れ方によって三つに分類される。
神の本質のことを御霊、神の荒々しい側面のことを荒霊、神の和やかな側面のことを和霊という。
『括り姫』は縁結びの神、ご利益をもたらす神、和霊である。

また神と怨霊は同義語であったともいう。
怨霊は祀らなければ祟りをもたらすが、十分に祀ればご利益をもたらす神に転じると考えられていた。

『ククリヒメ』はもともとは怨霊だったと考えられる。
黄泉の国へ行って変わり果てた姿となり、イザナギを追いかけてきたイザナミがククリヒメのもともとの姿ではないだろうか。
行基がイザナミを勧請して白山神社としたのは、そのためだと思う。

イザナミが禊ぎ、すなわち潜りをしたので『潜り姫』となり、禊をした結果和霊に転じて縁結びの神『括り姫』となったのだと私は考える。

天邪鬼の叫び(岩船寺)へ続く。


白山神社・・・京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43
 
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[2014/06/10 21:00] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

貴船は紀船? (貴船神社 貴船祭) 

貴船神社 神輿 
貴船祭(貴船神社 6月1日)

貴船川には既に夏の風物詩である川床が出され、その下を清流が轟音をたてて流れていた。
「ほいっと、ほいっと」という掛け声が轟音をかき消したかと思うと、御神輿を担いだ氏子さんたちが現れた。
お神輿は貴船川を遡って奥宮へと向かっていった。

奥宮は鬱蒼とした木立に囲まれて、昼間だというのに薄暗い。
神殿の傍らには船形石があり、子供たちがその周囲を「おせんどんどん」と言いながら回っていた。
お千度参りである。

船形石には次のような伝説がある。

「反正天皇の時代、黄色い船にのり、黄色い服を着た神が難波の津に降りたち、次のように言った。
『私は皇母玉依姫(神武天皇の母)である。私の船が止まるところに祠を作るように』 と。
船は蜑女崎(尼崎)、菟道川、鴨川を経て鞍馬川と貴船川の合流点に達し、貴船川を遡り、霊境吹井のある場所に鎮座した。
これが黄船の宮となったと伝わり、奥の院にある船形石はその船が人目を忌んで石に包まれたものである。 」

玉依姫という神は記紀神話にも登場する。
次のような物語である。

兄・海幸彦(ホデリ)の釣り針をなくした弟の山幸彦(ホオリ)は釣り針を探して龍宮城にやってきた。
ホオリは海神の娘・豊玉姫と恋に落ちて結婚した。
しかし3年後、なくした釣り針は赤鯛の喉にひっかかっているのが見つかり、ホオリは元の世界へと戻っていった。
ホオリの子を身籠った豊玉姫はホオリを追ってホオリのいる世界へとやってきた。
そして
『自分が出産する様子を決して見ないように』
とホオリに約束させるが、ホオリは我慢できなくなって覗き見てしまう。
産屋の中にいたのは、大きなワニであった。豊玉姫はワニであったのだ。
豊玉姫は自分の本当の姿を見られたことを恥じて海の世界に戻ってしまった。
そして代わりに妹の玉依姫を遣わし、御子(ウガヤフキアエズ)を養育させた。
玉依姫は甥のウガヤフキアエズを養育し、後にウガヤフキアエズの妻となり、イツセ、イナヒ、ミケヌ、カムヤマトイワレビコを産んだ。
このカムヤマトイワレビコが初代神武天皇である。

伝説では海神(スサノオ)の娘である玉依姫は黄色い船に乗って現れたとあるが、
黄色い船=黄船=貴船、という謎々になっているのだろう。

そして小説家の高田祟史さんによれば、貴船とは紀船で紀氏が祭祀する神社であるという。
貴船=黄船=紀船
と、謎々にはまだ奥があったのだ。

兵庫県尼崎市に長洲貴布禰神社があり、次のように言い伝わっている。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼に吉備真備に謀ってこの社を建てたと。

貴船神社は貴布禰神社と記すこともある。

また貴船神社の伝説によれば、玉依船が乗った船は蜑女崎(尼崎)→菟道川→鴨川→鞍馬川と貴船川の合流点→貴船川→霊境吹井と移動しているが、この中に蜑女崎(尼崎)がある。
紀氏は平安遷都後に長洲貴布禰神社を創祀したのだが、貴船神社の玉依姫の伝説は、反正天皇代の話とされているが、実際には平安遷都後で、尼崎に 長洲貴布禰神社があったところから、このような伝説が作られたのかもしれない。

とすれば、やはり高田祟史さんがおっしゃるように、貴船神社は紀氏が祭祀した神社なのだろう。

紀氏の本拠地は紀州で、豊富な森林資源を生かして優れた造船技術を持っていたらしい。
尼崎市の長洲貴布禰神社の言い伝えに「平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた」とあるが、調度は船に乗せて河を下ったのだろう。

貴船神社は長年、下鴨神社の摂社とされてきた。
貴船神社はこれを不服として訴え続けてきたが、明治になって独立した神社と認められている。

下鴨神社は鴨氏の氏寺であるので、紀氏の氏寺である貴船神社は下鴨神社の摂社とされることが耐え難かったのではないだろうか。

貴船神社・・・京都市左京区鞍馬貴船町180


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[2014/06/03 21:00] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

早良親王と牡丹(乙訓寺) 

乙訓寺 牡丹2
乙訓寺 牡丹

乙訓寺の境内は満開の牡丹の花で埋め尽くされていた。
それはまるで牡丹の花で描いた曼荼羅のようでもあった。

乙訓寺が牡丹寺となったのは、昭和15年ごろに奈良県桜井市の長谷寺から牡丹を献木されて以降である。
それ以前は表門から本堂にかけて松の並木が続いていたそうだ。

長谷寺が乙訓寺に牡丹を献木した昭和15年、私の母は7歳だった。
母は私が子供のころ、よく真顔で迷信めいたことを言っていたことを思い出す。
それは、たとえばこんなことだ。

「夜、口笛を吹くと蛇がくる。」
「新しい靴は夜おろしてはいけない。」
「夜爪を切ると親の死に目にあえない。」
「死んだ猫をかわいそうだと思ったら、魂を猫につれていかれる。」
「厄年の人がふるまう善哉を食べるとその人の厄をもらうことになるので食べてはいけない。」
「○○さんは狸にとりつかれて死んだ。」など。

母は今でもときどきこういうことを言うことがある。

昭和15年ごろの人々は私の母のように迷信やしきたり、言い伝えなどを信じる人が多かったのではないだろうか。
そんな時代に何の意味もなく長谷寺が乙訓寺に牡丹の献木をしたとは私には思えない。

肉食を禁じる仏教の影響を受け、日本では長い間、肉食が禁止されていた。
しかし、こっそりと肉食は行われ、ごまかすために、動物の肉に植物の名前をつけた。
猪は牡丹、鹿肉は紅葉、馬肉は桜、鶏肉は柏といわれた。

私は以前の記事「猪と陽炎の女神(摩利支尊天堂) 」 において、次のようなことを述べた。

①陰陽道では陰が極まると陽に転じると考える。
②祟り神を祀りあげれば守護神になるという信仰はこの陰陽道の考え方からくるのではないか。
③猪は摩利支天の神使いとされている。
④摩利支天は本来は女神像としてあらわされていたが、のちに男神像としても表されるようになった。
⑤神はその現れ方で御霊・荒霊・和霊の3つにわけられる。
また荒霊は男神・和霊は女神であるとする説もある。
御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御毛沼命・・・・・・・・・・・・・・崇徳天皇 ・・・・・・霜宮(霜害を防ぐ)
荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・鬼八・・・・・・・・・・・・・・・・・鵺・・・・・・・・・・・・冬の太陽
和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・生娘=猪=摩利支天・・・猪早太・・・・・・・・陽炎(太陽の光)

⑥位の高い人が没落していく様子を、古の人々は冬の太陽に喩えたのではないか。

②について補足をしておこう。
現代人は神とはご利益をもたらしてくれるものだと考えている人が多い。
しかし、それは本来は神の3つの形(御霊・荒霊・和霊)のうち、和霊の性質である。
神の性質には荒霊もあり、こちらの性質が表に出た場合には神は祟るのである。
荒霊は祟り神、怨霊などとも言われ、荒霊を神として祀り上げることで和霊(守護神)に転じることができると考えられていた。
「かつて神と怨霊は同義語だった」と言われるのはそのためである。

乙訓寺は長岡京跡からほど近い場所にあり、奈良時代末に早良親王が幽閉された寺として知られている。

784年、桓武天皇は平城京から長岡京に遷都した。
翌785年、造長岡宮使・藤原種継暗殺事件がおきた。
この事件に桓武天皇の同母弟・早良親王が事件に連座したとして皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉された。
早良親王は無実を訴えてハンガーストライキを決行し、淡路へ配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死したという。

後、桓武天皇の第1皇子・安殿親王(後の平城天皇)が発病したり、桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死など不幸な事件が相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとされた。

早良天皇の怨霊に悩む桓武天皇に和気清磨が進言をした。
怨霊で穢れた長岡京を捨て、平安京に遷都しましょうと。
その結果、長岡京は建都後わずか10年で捨てられ、桓武天皇は平安京に遷都した。
794年のことである。

④の表をもう一度見てみよう。
御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御毛沼命・・・・・・・・・・・・・・崇徳天皇 ・・・・・・霜宮(霜害を防ぐ)
荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・鬼八・・・・・・・・・・・・・・・・・鵺・・・・・・・・・・・・冬の太陽
和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・生娘=猪=摩利支天・・・猪早太・・・・・・・・陽炎(太陽の光)


御毛沼命は初代神武天皇の兄である。
御毛沼命は神武と同じく日向に住んでいたのだが、神武東征に従った。
熊野へ向かっているとき暴風にあい、波頭を踏んで常世に行ったと記紀には記述がある。
また、崇徳天皇は保元の乱をおこしたが後白河に負けて讃岐に流刑となっっている。

御毛沼命も崇徳天皇も没落していった人物であり、冬の太陽に喩えるにふさわしい。
そして早良親王もまた藤原種継暗殺事件に関与したとして流罪となっており、冬の太陽のイメージがある。

そして早良親王の怨霊を陰とすれば、これを陽に転じたのが猪である。
御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・早良親王
荒霊・・・神の荒々しい側面 ・・・陰(祟り神)・・・男神・・・・早良親王の怨霊・・・・冬の太陽
和霊・・・神の和やかな側面・・・陽(守護神)・・・女神・・・猪・(摩利支天)・・・・・・陽炎(太陽の光)


その猪を表すため、猪の隠語である牡丹を乙訓寺に植えるようになったのではないだろうか。

乙訓寺・・・京都府長岡京市今里3--4-7

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[2014/05/24 21:00] 京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

賽の河原の鬼(西院春日神社・高山寺) 

春日神社 藤
西院春日神社 藤

西院春日神社・・・京都市右京区西院春日町61
高山寺・・・京都市右京区西院高山寺町18 


823年、淳和天皇は異母兄・嵯峨天皇より譲位を受けて即位し、嵯峨天皇皇女の正子内親王を皇后とした。
ふたりの間には恒貞親王がうまれた。

833年、淳和天皇は嵯峨天皇の第二皇子、仁明天皇(淳和天皇皇后・正子内親王の弟)に譲位した。
仁明天皇の皇太子には淳和天皇の第二皇子・恒貞親王がたてられた。
淳和天皇は退位して淳和院という離宮に移り住んだ。
その際、淳和院の守護社として創建されたのが西院春日神社である。

840年、淳和上皇は崩御した。
その後、藤原良房が仁明天皇と妹の藤原順子との間にできた道康親王を皇太子につけたいと考えているとの噂が流れた。
伴健岑と橘逸勢は恒貞親王の身を案じ、恒貞親王を東国へ移す計画を立て、その計画を安保親王(51代平城天皇の皇子)に相談した。
しかし安保親王はこの計画にのらず、逆に伴健岑・橘逸勢の計画を橘嘉智子に密告した。
驚いた橘嘉智子は、これを藤原良房に伝えた。
この結果、伴健岑と橘逸勢は捕らえられて流罪となった。
恒貞親王は廃太子となり、出家した。
そして仁明天皇と藤原順子(藤原冬嗣の娘・藤原良房の同母姉)の間にできた道康親王(のちの文徳天皇)が立太子した。
これを承和の変(842年)という。

恒貞親王の母親・正子内親王は仁明天皇の同母姉で、仁明天皇とは同年の生まれである。
ここから仁明天皇と正子内親王は双子ではないかと言われている。
姉弟は承和の変によって、運命が真逆になってしまったのである。
正子内親王は自分の母・橘嘉智子を激しく恨んだという。

春日神社から徒歩5分くらいのところに高山寺があり、門前に「淳和院跡」と刻まれた石碑が建てられている。

高山寺 淳和院跡
高山寺

淳和上皇が崩御したのち、淳和院は皇后・正子内親王の御所となった。
874年に焼失した後、尼寺となり淳和院は西院とも呼ばれるようになった。
西院という地名はこれにちなむとされる。

その後、淳和院跡に高山寺が創建された。
創建年代は不明だが、本堂の子安地蔵は足利尊氏が近江堅田にあったものをこの地に移したと伝えられている。

現在西院は『さいいん』と読まれているが、江戸時代には『さい』と読まれていた。
そして西院は語呂合わせから『賽の河原』だと考えられた。
『賽の河原』とはあの世にあるという河原のことである。

賽の河原地蔵和讃という歌がある。

これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが 父恋し母恋し 
恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり 
かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め これにて回向の塔を組む
一重組んでは父のため 二重組んでは母のため 三重組んではふるさとの 兄弟我身と回向して
昼は独りで遊べども 日も入り相いのその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝らは何をする
娑婆に残りし父母は 追善供養の勤めなく ただ明け暮れの嘆きには 
酷や可哀や不憫やと 親の嘆きは汝らの 苦患を受くる種となる 
我を恨むる事なかれと くろがねの棒をのべ 積みたる塔を押し崩す 
その時能化の地蔵尊 ゆるぎ出てさせたまいつつ 
汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土はほど遠し 我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと
幼き者を御衣の もすその内にかき入れて 哀れみたまうぞ有難き 
いまだ歩まぬみどりごを 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御肌へに 
いだきかかえなでさすり 哀れみたまうぞ有難き 南無延命地蔵大菩薩


親より先に亡くなった子供は、親の供養のため、賽の河原で石を積んで塔を作ると考えられていた。
ところが鬼がやってきて石積みの塔を壊してしまう。
そこへお地蔵様がやってきて救ってくださるという内容の歌である。

淳和天皇は死後、自分が鬼にならないように火葬して散骨するように遺言したと伝わっている。
なぜ淳和天皇は自分が鬼になることを恐れたのだろうか。

淳和天皇の皇子・恒貞親王は承和の変で廃太子となり、淳和天皇の血をひく者がその後皇位につくことはなかった。
承和の変がおこったのは淳和天皇の死後であるが、淳和天皇は生前に藤原良房の陰謀を察していたのかもしれない。
そして藤原良房を恨む心から、自らが鬼になることを恐れ、散骨を遺言したのかもしれない。

淳和天皇の陵は小塩山の山頂のパラボラアンテナの隣にあるが、現在の淳和天皇陵は幕末から明治にかけて修造されたものである。
もともとは小石を積み重ねた「経塚原」「経塚」「清塚」があっただけだったという。
小石を積み上げた塔がある風景を想像すると、それはまるで賽の河原である。

賽の河原で子供たちが積み上げた塔を壊す鬼とは、淳和天皇のことなのではないだろうか。

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