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「アイヌは先住民族ではない」はまちがい。

640px-AinuGroup jpeg

1904 photograph of a group of Ainu people


ミトコンドリアDNAのみ語ってY染色体DNAを語らないのは変では(竹田学校)

↑ この記事のつづきです。


①先住民族の定義は明治以前


ウヨ系の論者などが「アイヌは先住民族ではない」として「アイヌ新法」を批判している。

前回も述べたように、私は「アイヌ新法」を批判するな、などというつもりはない。

問題にしているのは

「アイヌは13世紀ごろオホーツク系民族が北海道にやってきて、成立した民族なので先住民族ではない」という点についてである。


それが、明確にまちがいだといえる理由が、国立アイヌ民族博物館の記事に書いてあった。


アイヌ民族はなぜ先住民族と認められているのですか?

日本政府は、2019(令和元)年、「アイヌ施策推進法」(略称)でアイヌ民族を「先住民族」と規定しました。

その意味については2009(平成21)年7月にまとめられた『アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書』が参考になります。

 それによれば、

「先住民族とは、一地域に、歴史的に国家の統治が及ぶ前から、国家を構成する多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ民族として居住し、
その後、その意に関わらずこの多数民族の支配を受けながらも、なお独自の文化とアイデンティティを喪失することなく同地域に居住している民族である
(下線は引用者が付加)

とされています。

アイヌの場合は、近代国家(明治政府)が形成される過程で、多数民族の支配を受け、

それでもなお独自の文化とアイデンティティを保持していることから、「先住民族」と考えることができるとされています。

つまり、アイヌ民族にとっては近代国家(明治政府)からの支配を受ける以前から、住んでいたことがポイントなのです。


https://nam.go.jp/inquiry/#q7-%e3%82%a2%e3%82%a4%e3%83%8c%e6%b0%91%e6%97%8f%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e5%85%88%e4%bd%8f%e6%b0%91%e6%97%8f%e3%81%a8%e8%aa%8d%e3%82%81%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b%e3%81%ae  より引用

1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌの男性。


⓶「アイヌが先住民族かどうか」より、「先住民族をどのように定義するべきか」述べる必要があった。


つまり国が規定する先住民族の定義とは明治以前に存在していたかどうかであって

この定義に従う以上、アイヌが鎌倉期にやってきたといくら言っても、

「アイヌが先住民族である」という事実は変わらないということになる。

「アイヌが先住民族である」と言うことに反論するのであれば、

「明治以前に存在していたかどうかで先住民族を規定するのはおかしい。なぜならば~」と論を展開しなければならない。

しかし、竹田さんはそのような論理展開をされていない。


③占有に直接関係する証拠が必用かも


しかし私は、先住民族の定義を明治以前とするのは、妥当だと思う。

(アイヌ新法が妥当と言う意味ではない。先住民族の定義を明治以前に設定する点において妥当といっている。)


たとえば、あなたがこう言われたとしたら、困惑するのではないだろうか。

「あなたの先祖が鎌倉時代にわれわれの土地を奪ったので、あなたが相続して所有している土地はあなたのものではない。」


「そんなこといわれたって、そんな古いことは知らないし、

第一鎌倉時代のあとに戦国時代があって、土地取り合戦やってるじゃん。

仮に私の先祖が土地を奪ったというのが事実としても、鎌倉時代から800年もたってるじゃん。時効だよ!」


そう思う人が多いのではないだろうか。


https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/kenkyu/takeshima/chapter01_column_02.html


上記には次のような内容が記されている。


❶イギリスとフランスが、国際司法裁判所で、マンキエ・エクレオの帰属をめぐって争った。

❷両国間に係争領域の帰属を明記する条約がなく、互いに古くから当該領域を領有してきたと主張していた。

❸両国は、中世以降の歴史的事実に基づき、「古くからの権原」や「原始権原」を保持していると主張した。

❹ 裁判所によれば、決定的に重要なのは、中世の出来事から導かれる間接的な推定ではなく、占有に直接関係する証拠。

 (裁判記録、課税、土地の登記、関係法律の制定及び施設の構築)


この❹の規定を、むりやり北海道にあてはめれば、もっとも古く遡ったとしても松前藩成立ぐらいになりそうだ。


③アイヌの瞳は青いか


これについては

ミトコンドリアDNAのみ語ってY染色体DNAを語らないのは変では(竹田学校)

でも疑問を述べたのだが、こういう記事が見つかったので、追記しておく。

ただし、アイヌ人々の中に青い瞳の人はいないと結論づけたわけではない。


ロシア人探検家は古モンゴロイドであるアイヌ人の事を「毛深い」「浅黒い」「髪と目が黒い」と認識し、顎髭のあるロシアの貧農、もしくはロマに似ていると記している。

より引用


④擦文文化からアイヌ文化が繋がっていることを示す記事


前回も詳しく述べたように、

DNAハプロタイプには、父系(Y遺伝子DNA)と 母系(ミトコンドリアDNA)があり

Y1は母刑だが、父系でみると、アイヌ人は縄文系の80%が縄文系のハプログループD1a2aを持っているのだ。

母系のみ語って父系は語らないでもいいのだろうか。

やはり両方の遺伝子で語る必用があるように思う。


母系でみれば、たしかに現代アイヌ人には縄文人や弥生人にはないミトコンドリアDNA Y1を持つ人が20%いる。
おそらくオホーツク文化人との交流によるものだろうが、それがいつ入ったのか、わからない。
あくまでも、Y1を持っているのは、現代のアイヌ人の方々であって、古のアイヌ人ではないのである。


弥生時代に渡来人が九州あたりにやってきて、渡来系弥生人、縄文系弥生人、両者の混血 などに寄って弥生人は形成された。

しかし北海道は稲作に適さないので、渡来人が及ばなかった。

この弥生時代にオホーツク文化人がやってきたのかもしれないし、擦文時代にやってきたのかもしれない。

13世紀ごろにオホーツク文化人がやってきたとは言い切れない。


また、13世紀ごろにオホーツク文化人がやってきて、縄文人と混血してアイヌが形成されたのだとしても

日本人だって、縄文人と弥生人が混血しているので、

アイヌが先住民族ではないと言うならば、日本人も先住民族ではないといわなければおかしいことになる。


竹田さんはオホーツク文化人が13世紀にやってきたとおっしゃっているが、
それは擦文文化とアイヌ文化の変わり目が13世紀となっていることから判断したに過ぎないと思う。

なぜなら、竹田さんはなぜ13世紀にオホーツク文化がやってきてアイヌになったといえるのか

一切の説明をされていないからだ。


そして、ウィキには次のように記されている。

・アイヌは、人類学的には日本列島の北海道縄文人と近く、約3万8千年前に海を渡った本州以南との交易も行われた。
・7世紀以降、東北地方から石狩低地帯への古墳文化人の子孫の移住が見られる。
移住者たちは江別古墳群や祭祀に用いる語彙などの痕跡を残したが、地元人と同化したとみられている。
この頃より続縄文文化が変化して擦文土器に代表される擦文文化が始まっている。
古代の文書に記された「蝦夷」にアイヌが含まれていたかどうかには議論があるが、
これら擦文文化やオホーツク文化は、アイヌ文化の原型が見られるものである
13~14世紀頃には狩猟・漁撈・採集と一部の農耕を組み合わせ、交易を行うアイヌの文化的特色が形成された

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C#%E6%AD%B4%E5%8F%B2 より引用


石狩アイヌは、シュムクルの居住圏である千歳川流域を除く石狩川流域一帯(ほぼ石狩国に相当する)を居住地とする集団。
石狩川流域は擦文時代から鮭漁で栄えた地域であり、先住の擦文集団と後に移住してきた奥羽アイヌが交わる形で成立したのではないかと考えられている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C#%E7%9F%B3%E7%8B%A9%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%EF%BC%88%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AB%EF%BC%89

より引用


ウィキの記述が間違っている可能性もないとはいえないが、こんな記事もある。


擦文文化からアイヌ文化への雑穀農耕の継続性
研究機関 北海道開拓記念館
研究代表者

山田 悟郎 北海道開拓記念館, 総務部, 主任学芸員 (00113473)


13世紀から18世紀初頭にかけた石狩低地帯や日高地方、噴火湾岸のアイヌ文化期7遺跡から、コメを含めたヒエ、アワ、アサなど11種類の作物が出土している。
また、石狩地方や日高地方の1667年に噴出した樽前b火山灰や1739年に噴出した樽前a火山灰下から出土した鍬先や鋤先、鎌などの鉄製農機具や、
噴火湾岸で発見された1663年年に噴出した有珠b火山灰や1640年に噴出した駒ヶ岳d火山灰で直接埋積された畠跡の存在は、
アイヌ民族によって農具を使用して畝をもった畠が造られていたことを示している。
畠の規模は長さ10m前後の畝が10列前後からなる小規模なものだが、発見された砂丘上や台地上一面に広がっており、
小単位の畠が継続して造られていたことを示している。
畠跡の土壌からは寄生虫卵も検出されており、施肥を行っていたことも明らかになった。

また、アイヌ文化の遺跡で農耕活動の痕跡を辿ることができた8遺跡の内5遺跡では、
その下位から擦文文化の遺構や農耕活動に関わる遺物が発掘され、
擦文文化から近世初頭のアイヌ文化まで雑穀を栽培した農耕活動が継続していたことを示している。

石狩、日高と噴火湾岸には、交易品生産の傍らで農耕活動が行われ、擦文文化の要素が残存していた。

近世後半期の記録にはアイヌ民族によった農耕は、鍬や鋤などの農具を使用せず、畝をもった畠を造らず、施肥をせず、
除草もしない粗放的な農耕と記載されているが、自ら望んでそうしたのではなく、
1669年の「シャクシャインの戦い」後に松前藩によってアイヌ民族統治の強化や、
鉄製品の供給制限と粗製化の強行によって、アイヌ民族が鉄製農具を保持することが出来なくなった結果と考えられる。

https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-10610405/106104052001kenkyu_seika_hokoku_gaiyo/ より引用


あるいは、擦文文化を滅ぼした上にアイヌ文化を作ったのではないかといいう人がいるかもしれないが

遺跡に争ったあとがあれば、それについて書いてあるはずだと思う。

書いていないということは、争ったあとがないということだろう。


今後研究が進んで、新発見などがあり、アイヌは13世紀にオホーツク文化人がやってきたというようなことにならないとも限らないが、

現状は擦文文化とアイヌ文化は連続していると考えられているのではないかと思う。



ミトコンドリアDNAのみ語ってY染色体DNAを語らないのは変では(竹田学校)※追記1、追記2あり


①アイヌは目が青いのか?

00:30 よく言われるのはアイヌ人てみた感じもちょっと普通の日本人と違うと。目が青い。

アイヌ人だけでなく、東北地方にも青い目の人がいると聞いたことはあるが、お会いしたことがなくよくわからない。
アイヌ人の方々の写真を見ると黒い瞳をしておられるように見える。多くのアイヌ人の瞳は黒いのではないだろうか。

⓶アイヌ語が別言語は事実

00:41 それからアイヌ語はこれ明らかに日本語じゃないんですよね。文法も違うわけですよ。

アイヌ語が日本語とはかなり異なる言語であることは確かなようだ。
この件について竹田さんは詳しく説明されていない。
下記動画が詳しい。

 

アイヌ語について述べられたところをまとめてみる。

基本的なアイヌ語の単語は日本語に似ていない。
あえて探せばそれらしい単語も見つかるが、少数。
文法もアイヌ語と日本語は全く異なる。
基本的な文系は sov 主語目的語動詞の順でこの点は日本語と同じ。
❺抱合語。東シベリア・アメリカ先住民族・シベリア諸語・アメリカ先住民署語などと共通の特徴を持つ。
動詞に主語及び目的語 (授与動詞では間接目的語も)の人称および数を示す接辞がつけられ
さらにその他の意味を加える接辞(動詞の相や体、先行名詞との関係を示す関係詞的なものなど)
が付加されて動詞だけでも文に相当する表現が可能。
なお名詞でも体の部分など特に個人と切り離せない関係にあるものには、所有者を示す所有接辞が必須的に付加される。
❻20進法。
60・・・3つの20と表現
フランス語も20進法

文章を読んでもよくわからないが、とにかく日本語とはちがうということは理解できるw

つまり竹田さんが「アイヌ語はこれ明らかに日本語じゃないんですよね。」といっているのは正しいということである。

③純粋に歴史学、考古学として考えてみる。

01:11 近年は法律もできましたね。アイヌを特別扱いするというそういう法律もできましたし
アイヌは日本の北海道の先住民族だという話もありまして、しかもそれにいいタイミングでですね
いまいましいことにロシアがアイヌ人というのは自分たちの同じ系統なんだと
ロシア系なんだなんてことを言い始めちゃって
要するに北海道もロシアの領土だと言いたいみたいですね。

「アイヌを特別扱いする法律」とは「アイヌ新法」のことを言っているのだろう。

「アイヌ民族支援法」(アイヌ新法)はアイヌの人びとを日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であるとの認識を示し、
アイヌの人びとの誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進について国や自治体が責務を負うことを定めています。

例えば、地域の活性化を目指してアイヌ文化を活かした事業を計画する市町村が国の認定を受けて交付金を受給する仕組みや、
独自の文化を継承していくためにアイヌ民族の儀式で用いる樹木の国有林での採取や、自治体の許可が必要な川での伝統的なサケ漁の手続きの簡素化などの規制緩和も盛り込まれています。


「ロシアがアイヌ人というのは自分たちの同じ系統なんだと、ロシア系なんだなんてことを言い始めちゃって」
というのは、この記事のことを言っているのだと思う。

プーチン氏は以前、『アイヌ民族をロシアの先住民族に認定する』という考えを示した(2018年12月、モスクワでの人権評議会)。
北方領土への不法占拠が続くなか、今度は北海道が危ない。
ロシアが『アイヌ民族保護』を名目に北海道に乗り込んでくる危険性がある。
ロシアのような独裁国家が今回と同じく、自国民の保護を名目に他国を力で侵略し、国家承認することがまかり通れば、
世界の秩序は完全に崩壊する。日本を含む国際社会はこれ以上、プーチン氏を増長させてはならない。


また モシㇼ コㇽ カムイの会 がプーチンにこんな書簡を送ったという記事もある。
(実際におくったのかどうか、この団体がどのくらいの規模なのかについては不明)

・クリル諸島をアイヌ民族の自治州/区としてください。
・クリル諸島沿海域をアイヌ民族による漁業資源管理エリアとしてください。
・クリル諸島の自然環境を保全してください。とくに南クリル地域については、UNESCO世界自然遺産登録地である知床半島(北海道島)との一体的な保全管理をご検討ください


歴史と政治には密接な関係があるが、政治的意図を念頭においた歴史学・考古学は、学問ではなく
プロパカンダ(特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為)である。

ここでは、このような事情はいったんおいておいて、ここでは純粋に歴史学・考古学として考えてみたい。
(歴史・考古学に無知な私が言うのも変だがw)

④岩宿時代にアイヌはいなかったが、日本人もいなかった。

02:22 岩宿時代は石器が作られたり3万8000年前から始まりましたよね。
この時どんな時代だったかということなんですけども、3万8000年前は今と違って寒冷期ですので
とても寒くて海面の高さが今よりだいぶ低かったわけなんですね。
~略~
本州・北海道そして樺太・大陸というのはですね、ひとつの通路のようにつながっていたという風に見られます。
~略~
岩宿時代ねこの時代に、3万8000年前から始まったこの岩宿時代に、北海道に住んでたの何人でしょうか。
岩宿人なんですね。
前回ね、ちょっと言いましたけどもまあいろんないくつかの系統の人が日本列島に来て、
うほうほとかから始まって気づいたら共通の言葉を持つようになったって話をしましたよね。
そして北海道から沖縄までほぼ均一の文化になったんですね。
同じように磨製石器を作るようになり、磨製石器が出る遺跡は北海道から沖縄へ出るんですね。
~略~
岩宿時代はアイヌ人は北海道には住んでません。

3万8000年前の地図を調べたが、本州・北海道そして樺太・大陸が繋がっているというのは、そのとおりだった。
岩宿時代に、北海道にアイヌ人が住んでいなかったというのもそのとおりだろう。
但し、日本人も住んでいなかったと言える。

その理由を説明する。

岩宿時代の後の時代、縄文時代には、日本列島には縄文人が住んでいた。
その後縄文時代が終わって弥生時代になり、弥生時代には日本列島には弥生人が住んでいたとされる。

その弥生人は大きく分けて3種類あったと考えられる。
①縄文系弥生人
⓶渡来系弥生人
③①と⓶の混血

「NHKが縄文人を加工して弥生人と偽った」という誤った情報が拡散されているので
納得できない人も多いかもしれない。

しかし「NHKが縄文人を加工して弥生人と偽った」というのは、デマであって、NHKの本の写真は加工されていないし、ある人が「NHKが加工した」と主張する写真のタイトルは、弥生人ではなく、縄文人なので
「縄文人を加工して縄文人と偽った」と言うおかしな主張になってしまう。
放送のほうで縄文人と弥生人を比較した映像はあったが、CGであり、その人が見せているような写真ではない。
またCGを作成したのはNHKではなく、ひとりの研究者である。

これについては下記記事で詳しく説明したので参照してほしい。

またこのような記事がある。

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

本州の人々は縄文人のゲノムを10%しか持っていないのだ。
渡来人がやってきたということがなければ、もっと多くの現代人が縄文人ゲノムをもっているはずだと思うが、どうだろうか。
そして弥生時代初期の人骨が、同時期の中国で発見される人骨に似ている、などの研究もあって
弥生時代に渡来人がやってきたと考えられているのである。

そして弥生時代を経たのちに国らしいものが成立する。

一方、北海道は寒冷な気候が稲作に向かなかったため、渡来人は北海道まで足をのばすということはなかったと考えられている。
おそらくだが、渡来人の特徴を持った人骨が北海道では発見されていないということではないかと思った。

簡単に書くとこんな感じになる。

本州以南・・・岩宿人→縄文人→弥生人(渡来人と縄文系の混血がすすむ)→ 日本人
北海道・・・・岩宿人→縄文人→続縄文時代(アイヌ人?)→擦文文化(アイヌ人?)→アイヌ人

これで岩宿時代人や、縄文人が日本人とはいえないことが理解していただけたと思う。

⑤なぜアイヌが13世紀に現れたといえるのか。

05:53 アイヌ人が北海道に現れたのは13世紀です。アイヌ文化は13世紀より前は存在しません
~略~
なんでこんなことが分かるかっていうのをですね、まあ徐々に見ていくだけなんですけども

とおっしゃるので、ずっと聞いたが、13世紀にアイヌ人が現れることについての根拠は述べられていない。

これについても、上の動画 /何??「アイヌは先住民族ではない」→???→調べてみた。
で説明されている。

内容をまとめてみる。

①竪穴式住居は縄文時代に作られていたもので、その起源は1万年前まで遡る。
しかしアイヌ文化の担い手たちは掘立柱建物に住んでいた。
縄文時代にはこの形式は祭壇や見張り台に使用されていた。
1万年間竪穴式住居が作られてきた北海道の地でなぜ800年前から異なる方式の住居が作られるようになったのか。
縄文→続縄文→擦文の変化は段階的スムーズであるのに対し
擦文アイヌの変化には断絶がある

⓶アイヌ文化は北海道限定で出現しておりしかも得意なものでした。
アイヌ文様の独特の入れ墨の習慣のトリカブトの毒を使った毒矢による狩猟は本州には見られない

これに対し、瀬川拓郎さんの「アイヌと縄文」には次のような内容が記されていた。

①擦文文化ののちの時代をアイヌ文化と呼んでいるが、ニブタニ文化と呼ぶべき。
②アイヌ文化とはアイヌ語、口承文芸、模様、祭祀、儀礼、生業など近世アイヌの生活文化全体をさす。
③考古学でいうアイヌ文化は擦文文化に続く平地住居・鉄鍋・漆塗椀などの物質文化の組み合わせをさす。
一般的な意味でのアイヌ文化とは異なる。
④考古学の文化の設定はその文化に特徴的な物質文化や遺跡がみつかった土地の地名をつける。
⑤アイヌ文化は民俗の名前をつけてしまったため、「13世紀になってアイヌ人がどこからかやってきた」と誤解が生じている。
⑥擦文文化からアイヌ文化への移行はゆるやかで連続的。人間集団の交代を想定する研究者はいない。
⑦よって、ニブタニ遺跡の名前にちなんで、ニブタニ文化と呼ぶべきである。
⑧11世紀ごろ、竪穴式住居が平地住居におきかわり、土器が漆器・鉄鍋におきかわったのは、日本海沿岸だけ。
その他の地域では12世紀から13世紀初めごろまで土器と竪穴住居が用いられていた。

⑥アイヌははプログループY1を20%持っている。

竹田さんの話の続きを聞いてみよう。

岩宿時代北海道に住んでいたのは北海道岩宿人であり、その子孫が北海道縄文人ですよ。
それが北方からやってきたオホーツク人、このオホーツク人って結構凶暴なんですよね。
そしてガンガン北海道に来て、殺戮しまくって、北海道縄文人をたぶん犯しまくったんですよ。
それで一時期この5世紀から10世紀って書いてありますけど、北海道のほぼ全土がオホーツク文化に入れ替わったんですね。
もともとの縄文文化がほぼ消滅して完全にオホーツク文化になっちゃったんですよ
でオホーツク文化ってどういう人達かというとシベリアの沿海、それから樺太・カムチャッカ、
ここらへんが、オホーツク文化なんですね。
このオホーツク文化の人たちが北海道に上陸して、侵略してほぼ制圧しちゃったのがこの約500年間で5世紀から10世記

その時にオホーツク文化人と北海道縄文人の混血がどんどん進んでいきます

あのアイヌ人のミトコンドリア dna のですねうち2割の頻度で現れるのが y 1なんですよ。
 y 1っていうのはまさにこれなんです。オホーツク文化。
これを明らかにわかりますオホーツク周辺のですね、少数民族でいうと、たとえばニヴフっていう民族ありますけど
ニブニの7割が y 1持っています。ウリチの約4割。ネギタールの2割。
オホーツク周辺の民族の多くはy1を持っているので、y1の震源地は地はオホーツク文化ですね
アイヌ人のミトコンドリア dna の2割にこのy1が現れる。
もともと縄文人はy1なんかないんで、y1というのはオホーツク文化の担い手なんですね
だか縄文人とオホーツク文化人が混血混血混血て進んでいくと、その後江戸時代近世以降アイヌ人にy1が現れる。
これはもう完全にオホーツクの血筋が入り込んでいるということですね
だから元々の縄文人の血統にオホーツク文化の血統が完全に混血してアイヌ人ができたということがもうミトコンドリア dna のハプログループからわかるんですよね

ハプログループy1(ミトコンドリアDNA)について、ウィキには次のように記されていた。
※ミトコンドリアDNA(mtDNA)は母系で遺伝するハプログループ。母親から娘にも息子にも伝えられる。
父系で遺伝するY染色体のハプログループもある。

ハプログループYのうちY1系統はオホーツク海周辺の民族で高頻度である。ニヴフに約66%、ウリチに約38%、ネギダールに約21%、アイヌに約20%である 。
またカムチャツカ半島の先住民(コリヤーク人、イテリメン族)にもみられる。

Y2系統
インドネシアやフィリピンにはY2系統が分布している。

アイヌとオホーツク人
アイヌはハプログープYを持つが、縄文人には全く観察されていない。
いっぽうオホーツク人のなかにハプログループYが確認され、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明した。


竹田さんはこのことを言っていたのだ。
アイヌが縄文人にはないハプログループY1を持っていることは間違いないだろう。

⑦ハプログループY1の情報だけでは不十分では

アイヌ人はY1を2割の人が持っていて、オホーツク人の血をひいていることはわかった。
しかし、それは2割であって、8割の人はもっていないのに、
オホーツク人が縄文人を殺し、縄文人の女性を犯しまくって、北海道のほぼ全土がオホーツク文化に入れ替わったのが
アイヌ人だと言えるんだろうか?

そして、アイヌ人は縄文人のゲノムを70%を、本州は10%を、沖縄は30%を引き継ぐという記事もあるのだが?

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。


ゲノムとは、遺伝子(gene)と染色体(chromosome)から合成された言葉で、DNAのすべての遺伝情報のことです。
遺伝とは、たとえば鼻の形が似ている、ある病気にかかりやすいなどの、親の生物学的な特徴が子供に伝わることで、
それを伝えるDNAの特定の部分が遺伝子です。


⑧アイヌの80%が縄文系のハプログループD1a2a

ハプログループD1a2a (Y染色体)をウィキで調べたところ次のように書いてあった。

各地における頻度
日本各地で高い頻度を誇るが、特に東日本や沖縄(八重山除く)に多い。

青森:38.5%
静岡:32.8%
徳島:25.7%
九州:26.4%
沖縄:55.6%
(Hammer et al. 2006)

アイヌ:87.5%(Tajima et al. 2004)
また、国外では韓国、ミクロネシア、ティモール島などで低頻度にみられる。

ミクロネシア:5.9%(1/17; Hammer et al. 2006)
韓国:4.0% (3/75; Hammer et al. 2006)
ティモール島:0.2%(Meryanne et al. 2014)
縄文人の古代DNA
北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800-3,500 年前))から出土した人骨・船泊5号のY染色体は、ハプログループD1a2a2a(D-CTS220)であった。これにより「ハプログループD1a2a系統は縄文系である」という従来からの仮説が立証された。


竹田さんはオホーツク系のハプログループy1(ミトコンドリアDNA)がアイヌの20%あるので
アイヌは縄文人ではない、と結論づけていたが

縄文系のハプログループD1a2a (Y染色体)を見ると、アイヌの80%もっている。
これを竹田さんは、どう説明するのか?

新しい発見があって、もしかするとアイヌ人は元寇で逃げてきた人々だった、なんてことにならないとも限らないが
論法としておかしいと思う。

※追記 「現在アイヌと名乗っている人は実際にはアイヌではない」と言う意見もある。
この場合、縄文系のハプログループD1a2a (Y染色体)をアイヌの80%がもっているというが
この80%は非アイヌだという主張ですね。(勘違いしていました。すいません)
そうであれば、竹田さんのハプログループによる説明ではなく、アイヌがアイヌではないことの証明が必用となるだろう。

※追記2
No nameさんよりコメントをいただき、記事を紹介していただいた。(ありがとうございました。)

 現在、北海道で確認されている最も古い人類の足跡は、約2万2000年前の後期旧石器時代です。それは、地球規模の最後の氷河期で、大雪山や日高山脈は氷河や万年雪でおおわれていました。海水面は現在より約80~100m前後も低く、宗谷海峡は陸橋として北方大陸と陸続きとなっており、当時、北の厳しい氷河気候から逃れてきた動物を追って人類が北海道にやってきたと考えられています。
 約1万2000年前ころから世界的に気候が温暖化し、氷河期は終わりを告げます。日本各地ではこのころから縄文式土器を使用した狩猟・漁労・採集を基盤とした縄文文化がおこり、約1万年にわたり続きます。様似町(アポイ岳ジオパーク)でも、縄文後期(約3,000年前)ごろを中心とした遺跡が28か所確認されています。


私は上の文章に次の様に書いた。
・竹田恒泰さんの発言
岩宿時代北海道に住んでいたのは北海道岩宿人であり、その子孫が北海道縄文人ですよ。
それが北方からやってきたオホーツク人、このオホーツク人って結構凶暴なんですよね。
そしてガンガン北海道に来て、殺戮しまくって、北海道縄文人をたぶん犯しまくったんですよ。
それで一時期この5世紀から10世紀って書いてありますけど、北海道のほぼ全土がオホーツク文化に入れ替わったんですね。

しかし、どうやら岩宿時代に北海道には人が住んでいたことは確認されておらず、無人であったと考えられているようだ。
すると、どうなるだろう?
次のような可能性が考えられるだろうか。

①岩宿時代人は縄文人ではなく、遅れてやってきた縄文人に駆逐された。(岩宿時代人はY染色体ハプログループC?)
⓶岩宿時代人は本州で縄文人となり、北海道へ渡って縄文人となり、アイヌ人となった。
(アイヌの80%が縄文系のY染色体ハプログループD1a2aをもっている。)

竹田氏は
そしてガンガン北海道に来て、殺戮しまくって、北海道縄文人をたぶん犯しまくったんですよ。
それで一時期この5世紀から10世紀って書いてありますけど、北海道のほぼ全土がオホーツク文化に入れ替わったんですね。
とおっしゃっていて、アイヌ人はオホーツク人の子孫だといいたいようである。
しかし、すでに述べたように、アイヌの80%が縄文系のY染色体ハプログループD1a2aをもっている。
ということは、アイヌは縄文人の子孫だといえる。

寒冷な気候の北海道では稲作ができず、弥生文化は伝播せず、縄文時代から擦文時代へ移行する。
北海道にオホーツク文化人がやってきたことは事実だが、駆逐されたのは擦文文化人ではなく、オホーツク文化人のほうだとされている。
そしてこの擦文文化がアイヌ文化へ移行したと考えられている。

日本人が最も早く人間になったとはいえない(竹田学校)※追記あり


①砂原遺跡11万年前の遺跡を作ったのは旧人の可能性が高い。

03:24
朝鮮半島では(発掘された最古の打製石器)が50万年前だ、中国では100万年だとか言っているわけです。
ほんまかいな、というところなんですけれども。
そこでですね、まぁちょっと考えてみたいんですが
分子生物学という学問がありまして、近年、大体20年ぐらいの間ですかね、猛烈な勢いで進化してきました。
人間の過去の営みを知る上でですね、
色んな出土物を調べて、だいたいこの地層からでだから何万年前ここにこんな人がいたんだろうなとかっていう
のはわかるんですけれども
それとは別の角度で、人間の遺伝子情報を解析していきまして、そこで人類のどの人たちがどこで混血したのか
どの時期にどう映ってきたのかっていうのがかなり克明にわかるようになってきたんですね。
分子生物学でどういうふうに何がわかるかっていう具体的なことはまた次回以降やりますけれども
人類はかつて全部アフリカにいたらしいんですね。
そして現世人類、つまりかつての猿と人間の中間みたいなのではなくて
私たちと同じような姿形。ホモサピエンス、現世人類と言いますけども、現世人類はアフリカで発生したと。
でアフリカで発生した時期なんですよ。約20万年前から10万年前ということなんですね。
この段階でアフリカで発生しましたと。
そしてアフリカをはじめて出た現世人類はこれ「出アフリカ」というふうに言われるんですけども
これがだいたい6万年前なんですよ
人類は20万年前から10万年前ちょっと開きがありますけどこの時にアフリカで出現しました。
そしてアフリカを最初に出た人類は6万年前なんですね。
ということは何ですか。この砂原遺跡11万年前。
これもし11万年の年代が本当だとしたら、これは人間が作ったんじゃないということです
だから10万年前だが15万年前に人間が住んでてその子孫がついに(3万8000年前の)磨製石器を作ったんじゃなくって
6万年以上前の遺跡って人間の遺跡じゃないということなんですよ

0:17 日本列島に来た旧人原人といえばデニソワ人じゃないかと言われているんですけども、彼らは滅びてしまったということなんですね

砂原遺跡の打製石器を作ったのがデニソワ人ではないか、ということは、こちらの記事ですでに述べた。


小名木氏が次のような内容の記事を書いておられたので、それは新生人類ではなく、デニソワ人であると私は述べたのだった。

a.現生人類が誕生してからおよそ4万年、ネアンデルタール人などの旧人が誕生してからおよそ20万年といわれている。

b.(現生人類はアフリカで誕生し、日本には4万~3万年前にやってきたとする)もっともらしい図が流布しているが、日本ではなぜかおよそ11万~12万年前の石器(島根県出雲市の砂原遺跡)が発見されている。(2013年6月7日発表)。

c.ミトコンドリア・イブの解析によって、人類の始祖はおよそ20万年前〜15万年前あたりに中央アフリカのあたりで発祥し、およそ6万年〜4万年前あたりにそれがイラクのあたりに移動し、そこからヨーロッパや亜細亜方面に広がったのだと、まことしやかにいわれている。

d.しかし人は移動する生き物なので、一箇所にとどまっていると考えるのは不自然。

e.日本で11〜12万年前の石器が発見されたからといって、人類の始祖が日本人であるとも限らない。
万年の単位で人類史を考えるときには、いまとまったく異なる地形を前提に考えなければならないからである。

小名木氏は旧人、デニソワ人などが作った可能性については全く述べておられない。

竹田氏のいう、砂原遺跡はデニソワ人が作った、というのは考え方としてまあ正しいと思うし
私も同様の内容の記事を書いた。

⓶「中国100万年の歴史」と言ったのは誰?

しかし竹田氏の発言のこれは?。

07:52 残念ですけど(中国の)100万年前の打製石器、(半島の)50万年前の打製石器。まだ成績人間じゃないです。
あなたたちの先祖じゃない。はやい時期にきたけどもう滅びちゃった人たちなんですね
だからいきがて、古いのだ、古いのだって言えば言うほど全部無関係の遺跡でしたよねっていうことになっちゃったわけですよ
嘘つくもんじゃないですね。100万年の歴史とか言うもんじゃないですよ。

100万年前、50万年前の打製石器が発見されたら、普通は旧人が作ったものだと判断するだろう。
本当に中国人が「100万年の歴史」などと言ったのか?
言った人がいたとしたら、それは考古学を知らない一般の人でちょっと勘違いしただけだろう。
考古学者がそんな勘違いをするとは思えない。

竹田さん、誰が「中国 100万年の歴史」とか言っておられたんですか?教えて下さいw

③オーストラリアの磨製石器は現生人類が作ったもの?

前回の記事 
で、最古の磨製石器は日本の3万8000年前ではなく、オーストラリアの6万5000年前だとお話しした。

竹田さんの発言をもう一度みてみよう。

03:34 分子生物学という学問がありまして、近年、大体20年ぐらいの間ですかね、猛烈な勢いで進化してきました。
人間の過去の営みを知る上でですね、
色んな出土物を調べて、だいたいこの地層からでだから何万年前ここにこんな人がいたんだろうなとかっていう
のはわかるんですけれども
それとは別の角度で、人間の遺伝子情報を解析していきまして、そこで人類のどの人たちがどこで混血したのか
どの時期にどう映ってきたのかっていうのがかなり克明にわかるようになってきたんですね。
分子生物学でどういうふうに何がわかるかっていう具体的なことはまた次回以降やりますけれども
人類はかつて全部アフリカにいたらしいんですね。
そして現世人類、つまりかつての猿と人間の中間みたいなのではなくて
私たちと同じような姿形。ホモサピエンス、現世人類と言いますけども、現世人類はアフリカで発生したと。
フリカで発生した時期なんですよ。約20万年前から10万年前ということなんですね。
この段階でアフリカで発生しましたと。
そしてアフリカをはじめて出た現世人類はこれ「出アフリカ」というふうに言われるんですけども
これがだいたい6万年前なんですよ
人類は20万年前から10万年前ちょっと開きがありますけどこの時にアフリカで出現しました。
そしてアフリカを最初に出た人類は6万年前なんですね。

竹田さんは
・アフリカで(現生人類)が発生した時期は約20万年前から10万年前。
・アフリカを最初に出た人類は6万年前

といっている。

オーストラリアの磨製石器が作られたのは6万5000年前。
このとき、現世人類は生まれている。
しかし、アフリカを出たのは6万年前。

オーストラリアの磨製石器を作ったのは、旧人なのか。現生人類なのか?

これまでオーストラリア大陸に人類が定住したのは47,000年から50,000年前とされてきた。
しかし、最近、研究者チームが北部準州(NT)のカカドゥ国立公園に近い土地の岩窟を調査した結果、
実際にはそれより18,000年遡る65,000年以上前という推定が強まってきた。

 ABC放送(電子版)が伝えた。

 しかし、この岩窟発掘現場そのものの年代について30年近く争われてきた。

 この発掘現場からは磨製石斧、砥石、火打ち石、オーカーなど多様な遺物に加え、現場一帯に焚き火跡が残っている。
この遺跡はマジェドベベと呼ばれており、ここがオーストラリア国内でこれまでに発見されたうちでは
もっとも古い人類の定住の痕跡であることを認める学者は多かったが、
現場の堆積物を最新の年代決定機器にかけた結果、世界でも有数の文化遺跡、人類学的に重要な遺跡であることが確認された。


この記事では、
・オーストラリア大陸に(現生)人類が定住したのは47,000年から50,000年前とされてきた。
・実際にはそれより18,000年遡る65,000年以上前という推定が強まってきた。

とある。

この記事では、オーストラリアの磨製石器を作ったのは旧人ではなく、新生人類と考えているようである。

ネアンデルタール人は毛皮をまとい、洞窟に住み、石器を使い、狩猟採集生活を行っていた。
石器は打製石器である剥片石器の技術を使っている。
これは、ルヴァロワ式石器ともいわれる旧石器文化が最も発達した形式である。
ネアンデルタール人の遺跡からは、石器で肉を引き剥がされ、骨がたたき割られた人骨が出土する。
これは彼らが食人を行っていた証拠とされる。
一方で、明らかに埋葬された人骨が見つかっており、家族や部落の仲間の死を悼む心を持っていた。
頭蓋骨の内側の形で大脳皮質がどの程度発達しているかが判り、前頭葉が一定の大きさに達していたこと、喉や胸骨の構造も現代人とほとんど同じであることなどから、
複雑な石器の製造や、狩猟での集団作業で言葉を使ったことは十分考えられる。
しかし、抽象的、象徴的言語を用いることはなかっただろう。


こちらの記事には、ネアンデルタール人は磨製石器は使っていない、と書いてある。

いまのところ、オーストラリアの6万5000年前の磨製石器は現生人類がつくったもの、と考えてよさそうである。

④竹田さんの理屈では、最初に人間になったのは当時オーストラリアに住んでいた人。

11:18 ちょっと前ぐらいに日本列島に住み始めた人でも最初は文化を持っていないただの方がの人だったわけですね
ところがあるとき才覚(?)した。

11:49 そこで磨製石器を作っちゃったわけですよ。そこで人は人間になったんですね。
ですからそのとき地球のあちこちに人はいたんでしょう。
でも最初に人間になったのは日本列島に住んでいた現生人類。ホモサピエンス。

磨製石器をつくったら、人間になる、という理屈は「は?」と思うし
磨製石器をつくった時期がはやかったからどうだといいたいのか、よくわからないが
竹田さんの理屈に従えば、最初に人間になったのは65000年前にオーストラリアに住んでいた人、ということになる。

(日本の旧石器時代の磨製石器は数が多い、と反論してくるかもしれないが。)の原住民

⑤砂原遺跡が現生人類の遺跡である可能性は?

ウィキの記事にも、竹田さんの話でも「砂原遺跡はデニソワ人など旧人の遺跡」と結論づけている。
私も以前の記事で、「砂原遺跡はデニソワ人によるもの」と述べた。

しかし、今回記事を検索してみて、現生人類の遺跡である可能性も、もしかしたらあるかもしれないと思った。

❶2015年10月14日にNatureに報告された、中国南部の洞窟で出土した歯化石によって、
ホモ・サピエンスが約10万年前には中国に到達していたことが明らかになった1。
これまで多くの研究者は、この年代に我々ホモ・サピエンスがアフリカから遠く離れた地域に達していたとは考えていなかった。

歯の年代の特定は容易ではなかった。
この化石には放射性炭素(5万年でほぼ消滅する)が含まれていなかったのだ。
そこで研究チームは、化石が含まれていた地層の上に堆積した方解石堆積物の年代測定を行った。
その結果、この化石が少なくとも8万年より古く、また同時に発見された動物化石が更新世後期(約12万~1万年前)によく見られるものであることから、
このヒトの歯がおそらく12万~8万年前のものであるという結論に達した。


日本最古とみられる約12万年前の旧石器が出土した島根県出雲市の砂原遺跡について、同遺跡学術発掘調査団の団長で、
同志社大の松藤和人教授は23日、都内で開かれた日本考古学協会総会で
「国内最古級の石器であることには変わりないが、年代は約12万年前から7万年前までの可能性が出てきた」と発表した。
松藤教授によると、12万7千年前ごろにできた地層の上に石器が出土した地層があり、その層のすぐ上にあった火山灰層は、
昨年の記者会見では三瓶木次層(約11万年前)と発表していたが、分析の結果、三瓶雲南層(約7万年前)と判明したという。

旧石器発掘捏造(ねつぞう)問題とは無関係な遺跡の金取遺跡(岩手県遠野市)では国内最古級の9万~5万年前の石器が出土している。

松藤教授は「前回は発掘面積も狭かった。今後さらに石器や地層を調査したい」としている。


❶の記事・・・ホモ・サピエンスが約10万年前には中国に到達していたことが明らかになった。

とあり、すると、人類がアフリカを出た年代を竹田さんは6万年前とおっしゃっているが、もう少し古く修正する必用がでてきた。

❷の記事・・・砂浜遺跡は12万年前から7万年前の可能性がでてきた。

中国にホモサピエンスが到達したのが10万年前で、砂原遺跡が7万年前なら、7万年前の砂原遺跡もホモサピエンスのものという可能性もあるのではないだろうか。

今後の研究に注目したい。

※追記

ある方からコメントを戴いて、次の記事を紹介していただいた。(ありがとうございます!)

現生人類、5万年前以降にに中国南部に出現か 最新研究で解明
2021年2月13日 19:30 発信地:中国 [ 中国 中国・台湾 ]
新華社
現生人類、5万年前以降にに中国南部に出現か 最新研究で解明‹ ›

【2月13日 Xinhua News】中国の南京大学の孫雪峰(Sun Xuefeng)副教授率いる国際共同研究チームはこのほど、解剖学的現代人(現生人類)が中国南部で出現した時期について、5万年以内の可能性があるとの研究成果を発表した。同大学が12日、明らかにした。

 論文の共同筆頭著者である孫氏によると、研究チームは中国南部にある洞窟5カ所(湖北省鄖西県の黄竜洞、同省建始県の楊家坡洞、同省宜昌市の三遊洞、広西チワン族自治区田東県の陸那洞、湖南省道県の福岩洞)を調査。研究者は詳細な地形・層序学的調査を行い、洞窟内の未固結堆積物や石灰質堆積物、哺乳類の化石、人類の化石を総合的に年代測定するとともに、上海市の復旦大学と協力して人類化石の古代DNAを分析した。

 その結果、5カ所の洞窟から採取した未固結堆積物と石灰質堆積物に比べ、哺乳類化石の堆積物の大半が比較的遅く形成されたことが判明した他、放射性炭素年代測定や古代DNA解析の結果、化石人類の年代も5万年前を超えないことが明らかになった。

 孫氏は、中国南部のカルスト地形にある洞窟で見つかった古人類遺跡の大半が、水流による浸食や再堆積など複雑な過程を経て形成されたと説明。上部の石灰質堆積層が下部の化石層を覆っているのは、堆積過程で形成された「偽の覆い」の可能性があり、新しい地層の上に古い地層がかぶさる「地層の反転」が起きやすい傾向があったと指摘した。

 孫氏はさらに「こうした状況下で、従来の年代測定法を用いても化石人類の年代を正確に特定できない。ここ数年の国際的な研究では、現生人類は7万年前から13万年前に中国に出現していたとされているが、今回の研究は学術的論争に重要な年代学的証拠を提供することとなる」と語った。


私は上に下記の記事を引用した。

「中国南部の洞窟で出土した歯化石によって、
ホモ・サピエンスが約10万年前には中国に到達していたことが明らかになった1。


この記事は2015年のものだが
ご紹介いただいた記事は、2021年のものであり、どうやら新生人類が中国に到達したのは、5万年前以降と修正されたようだ。

シロウトが書いているブログなので、間違い、情報が古いなどいろいろあると思います(汗)
何かお気づきの点があれば、どんどんコメントいただけると嬉しいです。


日本の旧石器時代の磨製石器は、大陸の磨製石器のルーツとはいいきれない。(竹田学校)


※追記 「オーストラリアの磨製石器は摩耗か磨製かの判断は難しい」とのコメントを戴いています。
(記事のかなり下のほうにコメント欄あります。)
確認できればお知らせします。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%80%E9%83%A8%E7%A3%A8%E8%A3%BD%E7%9F%B3%E6%96%A7
(局部磨製【
石斧】)では
「この年代は、日本出土のものが世界最古とされている。」と微妙な書き方をしていました。

オーストラリアの6万5000年前のものとされる磨製石器の写真⤵

①世界最古の磨製石器はオーストラリア

上記動画 05:44辺りで、竹田さんは、次の様に発言されている。

ところが関東ローム層(岩宿遺跡)からでてきちゃったんですね、この磨製石器が。
でこれがですね、35000年前だったんです。なんと世界最古の磨製石器だったんですよ。


コメント欄で何人かの視聴者さんが指摘されているが、世界最古の磨製石器はオーストラリアのものだとウィキペディアには記されている。

磨製石器は新石器時代を代表する道具で、世界で広く使われた。
世界最古の磨製石器は、オーストラリアで、6万5000年以上前に遡る。
日本最古は、旧石器時代の3万8千年前から3万5千年前で、刃部磨製石斧(局部磨製石斧)が作られたが、3万年前には見られなくなった。
鉄器が普及しなかった一部地域では、20世紀に入っても石斧が普通に使われていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%A8%E8%A3%BD%E7%9F%B3%E5%99%A8#%E4%BD%BF%E7%94%A8%E6%99%82%E6%9C%9F より引用

「鉄器が普及しなかった一部地域では、20世紀に入っても石斧が普通に使われていた。」というのはおかしいw
2世紀の間違いだろうか。

そういう間違いはあるが、「世界最古の磨製石器は、オーストラリアで、6万5000年以上前に遡る。」というのは間違いではなさそうである。

というのは、次のような記事があるからだ。

これまでオーストラリア大陸に人類が定住したのは47,000年から50,000年前とされてきた。
しかし、最近、研究者チームが北部準州(NT)のカカドゥ国立公園に近い土地の岩窟を調査した結果、実際にはそれより18,000年遡る65,000年以上前という推定が強まってきた。

 ABC放送(電子版)が伝えた。

 しかし、この岩窟発掘現場そのものの年代について30年近く争われてきた。

 この発掘現場からは磨製石斧、砥石、火打ち石、オーカーなど多様な遺物に加え、現場一帯に焚き火跡が残っている。
この遺跡はマジェドベベと呼ばれており、ここがオーストラリア国内でこれまでに発見されたうちではもっとも古い人類の定住の痕跡であることを認める学者は多かったが、現場の堆積物を最新の年代決定機器にかけた結果、世界でも有数の文化遺跡、人類学的に重要な遺跡であることが確認された。


⓶35000年前の日本の磨製石器は、一部を磨いたもの。

ネットの書き込みを読むと、勘違いしている人がいたので、書いておくが、
35000年前の日本の磨製石器は石器の一部のみ磨いたもので、石器全面を磨いたものではない。
たとえば、下記リンク先のようなものではないので注意してほしい。

上記サイト、図③に日本の旧石器時代の磨製石器のイラストが掲載されている。
これが日本の旧石器時代の磨製石器である。

③無土器時代という言葉は古い言葉では。

07:38 土器が作られる前ですから 先土器時代とか無土器時代とかっていう名前なんですよ。
でもさ、先土器とか無土器とか、何々が無い時代っていうのをなんか変でしょ
何かがある時代って言わないといけないのね
だから無土器時代・先土器時代というのは、私はつまんないと思うんですね
そこで提唱されている中でこれがいいなと思うのはこれです。岩宿時代。

次のように記された記事があった。

一九七二(昭和四七)年九月、都建設局公園緑地部都市公園課は、都立城北中央公園の整備事業として、明大、武蔵野博調査個所(一九五一年、P地点と仮称) の旧馬場跡、現グラウンドの改造計画を都文化課に相談した。栗原遺跡は、現在、復元家屋が公園内に残っており、旧石器時代(当時、「無土器時代」と呼ばれた) の石器類が出土したP地点の崖は、この家屋の南側の石神井川直上に位置している。


旧石器時代(当時、「無土器時代」と呼ばれた)とあるのに注意してほしい。
当時「無土器時代」と呼ばれたということは、現在は旧石器時代とよばれているということではないだろうか。

「岩宿時代」と提唱しているのは誰なのか。検索したがわからなかった。

磨製石器は3万年以降見られなくなった。

>10:43 日本でとのあっちこっちにですね、3万6000年前の遺跡がダーッとできますから
まあ3万8000年前ぐらい前から徐々に磨製石器が作られ始め、
それがどんどんトン2000年の間に日本中に増えていったということになるんですね

発言に間違いはないが、言葉が足らないので、視聴者に誤解を与えそうだ。

磨製石器は新石器時代を代表する道具で、世界で広く使われた。
世界最古の磨製石器は、オーストラリアで、6万5000年以上前に遡る。
日本最古は、旧石器時代の3万8千年前から3万5千年前で、刃部磨製石斧(局部磨製石斧)が作られたが、3万年前には見られなくなった。
鉄器が普及しなかった一部地域では、20世紀(2世紀の誤りか?)に入っても石斧が普通に使われていた。
 より引用

一九八〇年代になると、全国規模で旧石器文化の磨製石斧が発見され出した。その分布範囲は、北は東北地方北部から南九州地方にまで及び、現在では約九〇〇点を超える膨大な数に上っている。時期的には、南関東地方の層位的事実から、立川ローム下半部の姶良Tn火山灰(AT)堆積層(第VI層、約二万九〇〇〇~二万六〇〇〇年前)以前の、第II黒色帯(第VII~IX層)~第X層中で、年代にして約三万二〇〇〇~三万年前頃に集中している(須藤二〇〇七)。


これらの記事には「磨製石器は30000年以降は見られなくなった」
「年代にして約三万二〇〇〇~三万年前頃に集中している」とある。
これを抑えておかないと、そのあとの話を勘違いしてしまう。

⑤磨製石器は3万年前、四大文明は紀元前10000~5000年。

※四大文明という言葉は現在はあまり使われないが、タイトルが長くなるので総称としてこの言葉を用いた。

>15:10 実は日本ってこの時代世界最先端犯のものづくりの地域だったんですね。
人類の最先端の最先端です。
だいたい教科書を見てるとね、その文明は中国の黄河文明
だとかね
あとは長江文明、インド・インダス文明・メソポタミア文明・エジプト文明
こう
進んでて、日本は中華文明の亜流みたいな感じでね

この話には非常におかしな点がある。

④から、日本の磨製石器は3万8000年前から、3万年前と思われる。
そして、それぞれの文明の年代は、次のとおり。

中国文明(紀元前14000年から紀元前12000年頃)
インダス文明(紀元前7000年頃)
メソポタミア文明(紀元前5500年頃)
エジプト文明(紀元前5000年頃)

磨製石器と、これら諸文明は年代がまったく異なっている。

仮に3万年前、縄文人が最先端の技術をもっていたとしても(あくまで仮の話。石器のみで文化は測れない)
1万年前も同じではない。
その差は2万年もあり、それだけの期間があれば遅れていた文化が他の文化を追い越したりすることは十分にある。

上記文明と比較するのであれば、縄文時代、弥生時代と比較するべきだろう。
旧石器時代 – 紀元前14000年頃
縄文時代 前14000年頃 – 前10世紀
弥生時代 前10世紀 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃


⑥「磨製石器は明らかに日本から中国・朝鮮半島に伝わった」などとはいえない。

個人的には、①の日本の「磨製石器が世界最古」は、ちょっとした間違いで、大した問題ではないと考えている。

それよりも、次の発言が問題だと思う

6:36 つまんない高校学者たちが、石器の文明はね中国大陸とかシベリアから日本にわたってきて受け取ったって言うんですけれども、「は?」って話ですよ。
文明って高い所から低い所に流れるのはあるんですけど、低いところから高いところに流れるのはありませんから。
シベリアにも半島にも中国大陸にも何の磨製石器もない時代に、日本でコツコツと磨製石器を作ってたわけですね
打製石器に関して受け取ったものがあるでしょうけど、磨製石器に関しては、あきらかに日本から伝播したものであって
石器文化がね、よその地域から渡ってきたって、みんな言うんですけども、とんでもない話なんですよ
何かあると全部、半島から来た、大陸から来たって言うけど、いやもちろんきたものもありますよ。
でも日本が最先端で日本から渡したものもたくさんありますから
何を受け取ったのかで何を渡したのか両方を見てこそ初めて文化の交流 っていうのはわかりますからね。

こう書くと、「なんでも大陸から日本にやってきたというのか」と怒る人がいそうだが、そうではない。
言いたいことは
「(おそらく)日本で発見されている世界最古級の磨製石器は3万年前以降は見られなくなっている」
ということを踏まえて考えなければいけないということだ。

大陸系磨製石器(たいりくけいませいせっき)とは、弥生時代になって朝鮮半島から水稲農耕技術が流入するとともに日本列島に流入した、朝鮮半島に直接的な起源を持つ磨製石器の一群である。
多くは、水稲農耕技術や、それに伴って列島に渡来した様々な生活様式を採用するに伴って、新たに必要になった道具である。


弥生時代とは、前10世紀 – 後3世紀ごろの時代をさす。
紀元前10世紀とは、紀元前1000年 – 紀元前901年のことであり、
大陸系磨製石器とは、そのころに大陸から日本に伝わったと考えられている磨製石器である。

岩宿・栗原などの旧石器時代の磨製石器は38000年前ごろより作られ始め、30000年前には見られなくなったようである。
そうであれば、旧石器時代の磨製石器と、弥生時代の大陸系磨製石器には連続性がないということになるだろうし
仮に継続して作られていたとしても、朝鮮半島のものと似たようなものであれば、「ルーツは別ではないか」と考えるべきだと思う。

14:30
日本は3万8000年前、中国大陸で1万5000年前、朝鮮半島で7000年前。

とおっしゃっている。
日本の旧石器時代の磨製石器が30000年前以降みられなくなったというのが正しければ
中国の磨製石器とは1万5000年、朝鮮半島とは2万3000年時期がちがっている。
これだけ時期がずれていては、「磨製石器に関しては、あきらかに日本から(中国・朝鮮半島へ)伝播したもの」
などとはいえないと思う。
磨製石器が、中国や朝鮮半島で独自に生み出された可能性もあるし、
もしかしたらオーストラリアから中国や朝鮮半島に伝えられた可能性もあるかもしれない。

下記リンク先に大陸系磨製石器の写真が掲載されている。

https://www.kaf2.org/josetsu/yayoi/yayoi_ibutsu/yayoi_tools


弥生時代の水稲耕作は、初期の水田にみられるように当初から完成した形で伝来している。使用された主な農耕具も太形蛤刃石斧・扁平片刃石斧・柱状片刃石斧・石庖丁などの大陸系磨製石器や木製農具など、新しい道具によって構成されている。これらの道具のうち、大陸系磨製石器は朝鮮半島の遺跡から出土するものと類似し、特に抉入(えぐりいり)柱状片刃石斧・有柄(ゆうへい)式磨製石剣・柳葉形磨製石鏃や、擦切(すりきり)技法による孔を施す石庖丁などは日本と朝鮮半島南部にだけ分布するものである(第2図)。


最古の大陸系磨製石器の年代、写真
最古の朝鮮半島磨製石器の年代(年代については竹田さんが7000年といっているが)写真
などを知りたかったが、よくわからなかったので、この点は宿題とさせていただく。

⑦世界最古の釣り針かどうか不明。

18:18
人類最古の釣り針は日本列島から出土してます。
これは沖縄なんですけどね
平成28年2016年に沖縄県の南城市のサキタリ洞っていうところで23000年前の釣り針が発見されました。
これまでの世界最古はどこかといいますと、パプアニューギニアの18000年前ですよ。

これについては次のような記事があり、釣り針かどうか議論がわかれているようだ。

沖縄県立博物館・美術館が9月19日、発表した。釣り針は貝製で幅約14ミリ。使われていたのは、2万3000年前(後期旧石器時代)だという。


この針で魚を釣れるのか。BuzzFeed Newsは、国内大手の釣り具メーカーに聞いてみた。
釣り針かどうかを社内で話し合ったといい、こう回答してくれた。

「針の先端近くに、食いついた魚が外れないための『カエシ』がないため、判断はつきません」

仮に釣り針であるとするなら、魚を釣ることは可能なのか。

「一般的な釣り針の概念から、魚を釣ることは可能だと思います。針先が尖っていることと、針が全体的に丸みを帯び、魚を逃しにくい形状だからです。その形状から、魚を”引っ掛ける”ことは可能であると推測します。ただし、引っ掛けた魚との引き合いに耐えうる強度の素材であるかといった判断はできないので、あくまで形状からの判断です」

沖縄県立博物館・美術館の藤田主任もこう主張する。


「疑う意見はありますが、私たちはこれを釣り針だと考えています。まず、釣り針の形をしていること。さらに、同じ地層から魚の骨が多数見つかったことから、魚を獲るなんらかの手段があったのは明らかだからです。素材となった貝は、イノシシの骨よりも強度があります」

これまでの世界最古の釣り針は、東ティモールの同じく貝製の釣り針(2万3000〜1万6000年前)。国内最古は、神奈川県横須賀市の夏島貝塚で見つかった約1万年前のイノシシの骨製のものだ。



おわり


※ 以下は自分用メモw

①1949(昭和24)年、群馬県岩宿遺跡の発掘調査で、日本に縄文時代以前に「無土器文化」の存在が確認された。

⓶1951(昭和26)年、「栗原遺跡」にも無土器時代の存在が確かめられた。

③栗原遺跡の発掘調査の結果、1973(昭和48)年に、「立川ローム第X層」(約32000年前)から「磨製石斧」が発見された。
当時、長野県茶臼山遺跡、同県杉久保A遺跡か、千葉県三里塚No55遺跡からも磨製石斧の発見があったが、年代がわからなかった。
「関東ローム層」は32000年前と年代が確定されていたので、栗原遺跡は32000年前のもの。

④記事には「日本最古の暦製石斧」(世界でも最古)と記されているが、
この記事の日付が2017年5月であり、オーストラリアの磨製石器が世界最古と認められたのは2017年7月なので、この記事を書いた2017年5月当時は日本の磨製石器が世界最古だったということになる。
竹田さんの動画は2020/03/29に公開されたものなので、世界最古はオーストラリアとするべきだった。

⑤1949(昭和24)年、群馬県岩宿遺跡で「旧石器文化」が発見される以前は、日本最古の文化は「縄文時代」と考えられていた。

⑥稲荷台遺跡の発掘調査で、黒色土の下に厚く堆積していた「赤土」の最上部軟質部(ソフトローム)に10cm程食い込んで撚糸文土器が発見された。

⑦この赤土は岩宿遺跡で「旧石器文化包含層」と判明する前は、火山活動が活発な時代で人間の生活痕跡(遺跡) が無いと考えられ、発掘されてこなかった。(竹田さんもそういう説明をされている。)
しかし⑤をうけて、発掘されるようになり、岩宿遺跡や茂呂遺跡の大発見に繋がった。

⑧1938~9年、(昭和13~14)栗原遺跡で撚糸文様の土器片・尖底土器片・刃部磨製石斧が発見された。

⑨「栗原式」と命名された撚糸文土器型式は、その後の研究史では消滅してしまったが、現在の縄文土器編年では早期の平坂式あるいは花輪台II式に相当する。

⑩栗原遺跡は無土器時代、縄文時代、弥生時代、そして奈良・平安時代にかけての大集落遺跡であることが確認された。

⑪1972年についての記述のところに、旧石器時代(当時、「無土器時代と呼ばれた) という記述がある。

⑫栗原遺跡 第X層、約四万~三万二〇〇〇年前の「局部磨製石斧」が発見された。

⑬当時、磨製石器は無土器文化では長野県茶臼山遺跡、同県杉久保遺跡、それと千葉県三里塚遺跡No55地点の資料などしかなく、いずれも時代的認定(混入か) やローム層準の判定などに議論が存在していた。

⑭岩宿遺跡や磯山遺跡例は、「磨製か磨耗か」という論争に決着が着いていなかった。

⑮刃部を研磨した石斧、いわゆる「磨製石斧」は、一般的には1万年前以降の完新世の「新石器時代」から登場する石器。
磨製石斧は地球上のあらゆる石器文化段階の人々が使用した道具。
金属器時代の到来で「鉄斧」が出現すると、やがてその役割を終え消滅した。

⑯1949(昭和24)日本で初めて「旧石器文化」が岩宿遺跡で発見された。
ヨーロッパの旧石器時代下部(前期)文化段階に伴う「ハンドアックス」と呼ばれる特徴的な石器器種に類似していた。

⑰ヨーロッパ旧石器時代前期の真正なハンドアックスの形態より退化した終末的な段階と考えられたが
岩宿Ⅰの両面加工石器の1点が「磨製石器」ではないかという意見もあった。

⑱確かな旧石器文化陪から明確な「研磨痕」をもつ磨製石斧が出土したことによって、「旧石器時代の磨製石器」とされた。

⑲関東地方の遺跡の磨製石器の石材は緑色凝灰岩、緑色岩、輝緑岩、砂岩、透閃石岩ホルンフェルス、千枚岩など
緑色系岩石を多く使用している

ことから、他の石器石材(黒曜石、頁岩)と異なり、何か「緑色」に意義を持たせたことが推察されている。これは縄文時代に多用された、蛇紋岩製磨製石斧(緑色系石材)の利用意識とも共通しているという。

⑳現在、旧石器時代の磨製石斧は、ヨーロッパ、ロシア、オーストラリアなどで発見されている

㉑オーストラリア・ナワモイン遺跡(21,450±380Y.B.P.)から一六点。マランガンガー遺跡(29,000±11,OOOY.B.P.)から五点の磨製石斧が出土している。
自然礫の一端を直接磨いた例が多い。原住民のアボリジニによって、この種の磨製石斧が現代にまで長く受け継がれて使用されている。

㉒日本の旧石器時代の磨製石斧は、東北地方北部からと九州地方離島部まで約二五〇ヵ所近くの遺跡から約九〇〇点以上出土している。その大半は約三万二〇〇〇~三万年前に集中している。

㉓日本列島に初めて人類(ホモ・サピエンス)遺跡が確認されるのは、この立川ローム最下層部の「第X層文化」(約四万~三万二〇〇〇年前) 。

㉔ 石刃技法をもつ旧石器人の渡来
 磨製石斧は先ナイフ形石器文化には未だ存在せず、次のナイフ形石器文化Ⅰに集中して発見される。
この時期の特徴は、それまでの不定形剥片を使用した錐状石器やナイフ状石器、そして礫器に特徴を持った石器群に代わって、石刃技法を持ち、基部加工のナイフ形石器、横長剥片を使用した台形状石器が登場している。
こうした石器群は、先ナイフ形石器文化には認められないことから、新しく日本列島に渡来した石器群と考えることが可能である。

いまのところ周辺大陸の旧石器文化との比較は難しいが、「石刃技法」の存在という観点から推定すると、南の東南アジア方面の礫核石器群より、北の剥片石器群(中国北部、朝鮮半島) の旧石器文化との関係を検討していく必要が あろう(小田二〇一三)。

㉕ いまのところ、周辺大陸には認められないことから、日本列島内で発生した可能性が大きい。


「NHKが縄文人の人骨を弥生人の人骨と偽った」というのはねずさんの嘘⓶

①小名木氏が提示する写真は、左右どちらも縄文人だった。

「NHKが縄文人の人骨を弥生人の人骨と偽った」というのはねずさんの嘘

こちらの記事で、私は次のような主張をした。


 


4:06あたりで小名木氏は次のように発言している。
「向かって右側の白っぽい写真、平べったい写真を線対称にしてコピーを繰り返した。
人間の顔は左右でちがう。細く写るほうを使って(?)線対称にしてコピーを繰り返しながらこういう写真を捏造した。」


頭蓋骨

上記動画より引用


①この2枚の写真は同じ被写体を左右反転させていることがわかるが、おそらくどちらか一方はフィルムを裏焼きしたのだろう。
ミスはミスだが、「縄文人の写真を加工して弥生人にした」とはいえない。
というのは、どちらの写真もタイトルが縄文人となっているからだ。


「日本人はるかな旅⑤ そして日本人が生まれた(日本放送出版協会)』に掲載されている写真のタイトルを確認すると
むかって左は「岩手県宮野貝塚の縄文人(本138p)」
向かって右は「縄文時代晩期の男性頭骨[国立科学博物館(本37p)」である。


⓶動画で提示されている写真のタイトルは、
「岩手県宮野貝塚の縄文人(左)と島根県古浦遺跡の縄文系弥生系人(右)(本138p)」
の右上に
「縄文時代晩期の男性頭骨[国立科学博物館(本37p)を重ねたものと思われるので
向かって右の写真を「島根県古浦遺跡の縄文系弥生系人(右)」と勘違いする人がいそうだ。

右端に32という数字があるが、本にはこのような数字は記されておらず、何の数字かわからない。


⓶輪郭がつぶれて背景と同化しているため細長い輪郭に見えていた。


写真向かって左が細長く見えるのは、画質が悪く、頭蓋骨の輪郭がつぶれて背景と同化しているためだ。
本の写真と、小名木氏が提示している写真を比較すればすぐわかる。

縄文人 写真比較①

縄文人 写真比較⓶

③放送を見てみたが、縄文人・弥生人の比較は写真ではなくCG


「NHKが放送し、本にした写真」と書いてあるので、本を確認したのだが、
「放送で偽造写真が用いられたのではないか」という意見があった。
NHKがこんなに画質の悪い写真を使うはずがないだろう、と思ったが番組を見てみることにした。


 日本人はるかな旅 第5集 「そして”日本人”が生まれた」 の内容を簡単に記す。


①約2400年前の板付遺跡は縄文時代には見られない環濠集落で、あぜや水路が完備された水田などが発掘された。
縄文の遺跡にはない特徴を持っているので、渡来人がやってきた可能性が考えられた。


⓶板付遺跡に近い福岡空港から2300年前の人骨が見つかった。(水田稲作集落から見つかった始めての人骨)



③人骨は損傷が激しかったため研究チームは CT スキャンによって採取したデータをもとにコンピューター上で骨の修復を試みた。



ここで縄文人の人骨と比較した写真がでてくる。
弥生人(福岡の人骨)と縄文人の人骨比較をしているのはこれだけであるが、
コンピューター上で人骨を修復したCGのようなものであって、小名木氏が提示しているような写真ではない。


また輪郭、歯の並びなども小名木氏が提示しているものとは全く違うし、本に掲載されているものとも違っていた。


④断絶に近い違いがみられるのは渡来人だから



そして次のようにナレーションが入っている。


「その結果新たな人々の顔つきは縄文人と大きく異なっていたことがわかったのです。
左の福岡の人骨はかなり面長な印象です 一方右の縄文人はエラの張った四角い顔に見えます。
計測の結果、顔の横幅はほとんど同じなのに 縦の長さは福岡の人骨が2センチ以上も長くなっていました。
さらに横から見ると 福岡の人骨の方が眉間から鼻にかけての隆起が小さく 扁平な顔をしていることが分かりました。」



そのあと比較研究をしている中橋孝博さんが、次の様に発言している。


「単なる違いが大きいということだけじゃなくて内容的に断絶に近い違いが見られるんですね。
ですから単純に文化的な影響で顔立ちが方が変わったというよりはですね、
おそらくや時代に別の遺伝的な特徴を持った集団が流れ込んできたと思いますね」


小名木氏は、動画3:10あたりでこうのべている。
縄文人と弥生人は民俗がいれかわるくらい大きな変化があったんだという証拠に使われている写真。


中橋孝博さんは「単なる違いが大きいということだけじゃなくて内容的に断絶に近い違いが見られるんですね。」
とおっしゃっているが、これは
「縄文人と弥生人は民族が入れ替わるくらい大きな変化があった」という意味ではない。



この福岡の人骨は渡来系弥生人と考えられている。
だから縄文人とは全く顔つきが違っていると考えられるのだ。



そして縄文人とは、縄文時代に生きていた人々のことをいい、
渡来系弥生人、縄文の血をひいた人、渡来系と縄文系の混血もひっくるめて弥生人という。



⑤日本では一方がもう一方を徹底的に滅ぼしてしまうようなことはなかった。


番組を最後まで聞いてみよう。


①山口県豊北町の土井ヶ浜遺跡で福岡の人骨と同じタイプの骨が大量に発掘された。
埋葬された人骨は20度北を向いた方角に顔を向けて葬られていた。
これは朝鮮半島、中国大陸の方向であり、土井ヶ浜の人々が大陸方面からの渡来人だと考えられるようになった。



⓶中国山東省でリンシで土井ヶ浜遺跡とほぼ同じ時期の人骨が大量に出土した。
人類学者の松下孝之さんは発見された人骨を1体1体を細かく計測した。
中国の人骨は土井ヶ浜の人骨とよく似ていた。
土居ヶ浜の人々は中国大陸からきたのではないか。


ここで写真による土井が浜の人骨と、中国の人骨比較が行われているが、
これは渡来系弥生人である土井ヶ浜の頭蓋骨と、中国で発見された人骨の比較なので
縄文人を加工して弥生人と偽ったとはいえない。
また放送で用いられていた土井が浜の渡来系弥生人の写真は、下記向かって右の「土井が浜遺跡の図骨」と記されている方の写真で、左の縄文時代晩期の男性頭骨ではない。



縄文人 弥生人2

日本人はるかな旅⑤より引用

下の宮野貝塚の縄文人でもない。


縄文人 弥生人


日本人はるかな旅⑤より引用

③日本列島に渡来人が現れた頃、中国大陸は春秋戦国時代。戦乱を逃れて日本にやってきたのではないか。


④人類遺伝学者の徳永勝士さんは、血液の中に含まれる ヒト白血球抗原 通称HLA という物質を分析することで日本人のルーツを調べている。
HLA とは白血球の表面にあって免疫反応を司るタンパク質。 分子構造の違いによって1万を超えるタイプに分かれる。
現代日本人に最も多いタイプD 52₋ DR2は、西日本そして韓国、中国北部に多く分布している。
朝鮮、中国北部から日本へやってきた人たちがいたのではないか。
その数は正確にはわからないが、数百年にわたって何波にも分かれてやってきたと考えられる。



⑤九州大学の中橋 孝博 さんの研究によれば福岡のある遺跡の渡来人の墓は50年で2倍、100年では6倍以上に増加している。
渡来人たちは水田稲作による安定した生活の中で急速に人口を増やしたのではないか。


⑥2300年前、渡来系の人たちは水田稲作によって人口をふやす。数十年で縄文系の人々を上回ったと考えられている。 渡来系の人々は戦いに使う武器を作り、縄文系の人々と争った。
新方遺跡の縄文系の人の骨には17個もの矢尻がささっていた。



⑦考古学者の松木武彦さんは、春秋戦国の乱世を生きた渡来人によって、大陸から戦いが持ち込まれたと考える。
生まれながらにして戦争のある社会に育っているので、戦うことに躊躇はなかっただろう。



⑧大阪平野に住む渡来系の人々は武器に用いるサヌカイトを四国までとりにきていた。



⑨渡来系の人々は濃尾平野に達したが、それ以上東へはなかなかすすめなかった。
遺跡の分布の研究から縄文人の85%は東海・北陸以東の東日本に住んでいたことが分かっている。
水田を切り開くことは困難な深い森 そして縄文系の人々の高い人口密度が東へ進むことを妨げた。


このような状態が200年ほどつづく。


⑩兵庫県伊丹市から、深い溝を複雑に組み合わせた文様の土器が発掘され、考古学者の小林青樹さんが調査を行った。
文様が一致したのは長野県を中心に分布する氷式土器と言う縄文系の土器だった。
しかし粘土は地元の物を使っていると考えられた。
東の縄文人がこちらにきて、地元の土を使って作った土器ではないか。
同様の土器は中国地方の遺跡でも見つかった。
渡来系の人々が大陸からもたらした最先端の生産技術が縄文系の人々を惹きつけ 交流を促した?



⑪約2100年前、渡来系の人々は関東平野に姿をあらわす。
小田原の中里遺跡は面積6万平方メートル、東京ドームが2つ入る。
水田があり、多いときは200人以上の人々が暮らしていた。
西日本の渡来系の集落を思わせるが、縄文系の人々も暮らしていた。(縄文系土器がみつかっている。)
渡来系の小さな斧に混じって縄文系の牛の鍬が見つかっている。
渡来系の人々は縄文系の人々の協力を得て、関東平野に進出した?
遺物の中には武器はほとんどない。
このような例はほかにもあり、日本では一方がもう一方を徹底的に滅ぼしてしまうようなことはなかった。



⑫岩手県北上山地にあるアバクチ洞窟で、約2000年前の弥生時代中頃に葬られた人骨が発掘された。
目のくぼみが丸い・・・渡来系の人々の特徴
鼻の付け根太い・・・・縄文系の人々の特徴
縄文系、渡来系の混血?


※ここでも頭蓋骨の映像が用いられているが、子供の人骨で、小名木氏が提示している写真とは異なっている。



⑬人類学者の松村博文さんは人骨に残された歯を分析している。
小ぶりな歯は縄文系、右の大きな歯は渡来系
松村さんは古代から現代までに1500人の歯を統計的に分析し縄文系・渡来系、どちらの要素が強いか鑑定した。
どちらの要素が強いかは人によって大きなばらつきがあった。
渡来系と土着の縄文系の混じり合いの度合いは地域によっても異なっていた。
西日本は渡来系要素が強く、東に行くほど縄文系の要素が強い。


⑭奈良県の大和盆地に古代国家が芽生える。その中心地、纒向遺跡から形や文様がさまざまな土器が派遣された。
九州から関東まで。当時大和盆地に日本列島の各地から人々がやってきていた。


「日本では一方がもう一方を徹底的に滅ぼしてしまうようなことはなかった。」とあるのに注意してほしい。
小名木氏は「縄文人と弥生人は民俗がいれかわるくらい大きな変化があったんだという証拠に使われている写真。」
といっているが、番組では民族がいれかわるくらい大きな変化があったとはいっていないのだ。


⑥写真を引用しなければ説明できないので、著作権法違反ではない。

この写真の使用が著作権法違反だという人がいるので、説明させていただく。
この記事は、「NHKが縄文人の写真を細長く加工して弥生人と偽った」という小名木氏の主張がまちがいであるということを示すために書いたものである。

そのためには該当する写真を引用しなければ説明できない。
このような場合には著作権法違反にはならないと思う。

https://innovarth.co.jp/writing/copyright.html


三内円山遺跡は1万人が住む都市ではなかった。(竹田学校について)


①【竹田学校】歴史・縄文時代編⑮~縄文都市「三内丸山遺跡」~



上記動画の内容をまとめる。読むのがめんどくさい人は、とばして⓶へ。


①歴史の教科書では、世界4大文明(中国・インダス・メソポタミア・エジプト)というのが必ず出てくる。
⓶すべての文明はこの4つのから派生した、亜流だというふうに言われていた。
③日本文明はう中国文明の亜流だとも言われていた。
④現在、亜流という考え方は否定されている。
⑤4大文明を教えている国は世界で日本だけ 。
⑥ 日本文明は中国から来たものではない。中国よりも古い磨製石器・土器がある。
⑦日本から中国に伝わったものもある。
⑧文明という言葉自体が西洋の歴史学者たちが創り出した概念なので、日本にあてはまらない。
⑨三内丸山遺跡(青森県)は巨大な遺跡で、縄文都市と呼んでもいいほど
⑩土器を作る技能を持った人が、大陸から日本にやってきたわけではない。
もともと日本に住んでいた人たちが土器を作る技術を独自に編み出した。
⑪縄文人は岩宿人。岩宿人の子孫が縄文人。縄文人の先祖は岩宿人。
⑫岩宿時代に代々日本人の血統の原型はできている。
⑬縄文時代に大量に外国から、半島やその大陸からたくさん人が渡ってきた痕跡はない。
(DNA、考古学からみて)
渡来人がやってくるのは、縄文から弥生に切り替わるころ。農耕の技術を持った人が中国大陸の南方の方から多少きたということがわかっている。
⑭縄文土器の一番古い大平元Ⅰ遺跡は縄文がついてなかった。
⑮1877年エドワード・モースが大森貝塚を発見し、出土した土器に縄目がついていたので縄文と名付けた。
(考古学の始まり)
⑯土偶がどう使われていたのか何の意味があるのかよくわからない。
全国で出土している。これまで出土した土偶は1万5千個以上
女性。妊娠のも多い。
⑰日本人の価値観の根本的な部分はもしかしたらこの縄文時代にはあの確立していたのではないかともいわれる。
⑱縄文時代は狩猟生活採取経済なので、大規模な集落はないと言われていたが
三内丸山遺跡は大きな集落だった。しかも5,900年前から4300年前まで1600年間営まれている。
広さが35ヘクタール、。3000棟以上。もしかしたら一万何千人にも住んでたのでは。争いのあともない。
栗、瓢箪、エゴマを栽培していた。
糸魚川のヒスイ、岩手の琥珀、それから秋田のアスファルトなども出土している。
何百キロにわたるネットワークができていた。
⑲縄文時代の遺跡からは戦争の跡と思われる出土物がない。
大きなお墓もなく、平等で尊重し合いながら平和に暮らしていたということがわかる。
⑳弥生時代には、西日本などに、戦争で傷ついたと思われる人骨が発見されている。
㉑日本は奪い合うのではなく、分け合う文化といわれるが、縄文時代から日本人の精神性が出来始めていた。
㉒漆は中国大陸から日本に伝わったと考えられていたが、逆転した。
中国より古い漆が平成12年、北海道で発見された。(函館市の垣ノ島B遺跡)
それまで一番古いと考えられていたのは7千年前
㉓日本にはもともと漆の木は自生していなかったと考えられていたが、中国大陸よりも古い時代、12600年前の漆の木が出てきた(福井県三方神中郡若狭町の鳥浜貝塚)
㉔今、最古と言っても次の瞬間には新たな発掘があって塗り替えられる可能性もある。
㉕日本は世界のいろんな地域と比べても少なくとも岩宿時代と縄文時代に関しては主要な品目に関しては最先端をいっていた。


⓶3000棟以上の民家跡は一時期にそれだけの民家があったのではない


⑱縄文時代は狩猟生活採取経済なので、大規模な集落はないと言われていたが
三内丸山遺跡は大きな集落だった。しかも5,900年前から4300年前まで1600年間営まれている。
広さが35ヘクタール、。3000棟以上。もしかしたら一万何千人にも住んでたのでは。


この文章を一読しただけで、あれ?と思う人が大勢いると思う。
そう、3000棟以上の民家跡があるというが、この遺跡は1600年間営まれた集落なので、
普通に考えて3000棟以上の民家跡は一時期にそれだけの民家があったのではなく
1600年という長い期間にわたって存在し、発見された民家跡の数が3000棟なのではないか、
一時期に存在していた民家の数はもっと少ないのではないか、ということだ。

微妙な言葉のニュアンスが読み取れず、勘違いしているといけないので、実際の発言を書きだしてみる。

10:11 だいたい3000棟以上3000棟ですからもしかしたら一万何千人住んでたんじゃないかっていう風に考えられるんですね。

12:51 1万人を超す人が一箇所に整然と暮らしていて争いもなくね

12:51ではっきり「1万人を超す人が一箇所に暮らしている」と発言されているので、私の勘違いではない。


③発掘された住居跡は800程度。3000は発掘見込みでは。

ウィキペディアには次のように記されている。

遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1#%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81
より引用

また、次のように記された記事もあった。

これまでの発掘調査で、600棟近くの住居跡が見つかっているが、さらに発掘が進められることで最終的には3000棟にも及ぶものと推定されている。多いように思えるが、この数字は1500年間の集積である。これから同一時期にどれだけの住居が建っていたのかを推定するのは極めて難しい。

 今から4500年前の最盛期の住居数は約100棟。1棟に4、5人が住んでいたとすれば、人口400人から500人くらいの集落になっていた可能性が高いといわれる一方で、多くてせいぜい100人とする説(小林達雄)もあり、学者の意見はまちまちである。

http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/038_sannai/038.htm
より引用

3000棟は発掘見込みの数字、ウィキの記事が記されたあと、発掘された住居跡の数は増えたかもしれないが、実際に発掘されたのは800棟程度ではないだろうか。

⑨三内丸山遺跡(青森県)は巨大な遺跡で、縄文都市と呼んでもいいほど


という竹田さんの発言がある。
巨大な遺跡であることは間違いない。


都市とは、「人口の集中した地域で、政治・経済・文化の中心になっている大きなまち。」とコトバンクには記されている。
https://kotobank.jp/word/%E9%83%BD%E5%B8%82-105089 

そういう意味で三内円山遺跡は縄文都市といってもいいだろうが、
「一時期に3000棟あり1万人を超す人がすんでいた」という発言は言い過ぎだろう。
一般的には、一時期に住んでいたのは400~500人と考えられており(この推定が間違いである可能性もあるが)
1万人だと、20倍にもなってしまう。

④縄文人の先祖は大陸からやってきたと考えられている。

⑩土器を作る技能を持った人が、大陸から日本にやってきたわけではない。
もともと日本に住んでいた人たちが土器を作る技術を独自に編み出した。

⑬縄文時代に大量に外国から、半島やその大陸からたくさん人が渡ってきた痕跡はない。

については一般的に、竹田さんが述べておられるように考えられていると思う。
竹田さんは間違ったことは言っていない。ただし、若干誤解を生む表現であるかもしれない。

様々な説があるが「三段階渡来説」について次のように説明されている記事があった。

第一段階は旧石器時代から縄文時代中期に、ユーラシア大陸各地から狩猟採集民が渡来した。
第二段階は縄文後晩期の渡来人の波。大陸沿岸の漁業を中心とした「海の民」が日本列島に移住した。北部と南部にはほとんど影響がなかった。
第三段階は弥生時代以降。前半に朝鮮半島を中心に大陸から遺伝的に少し異なる人々が渡来。九州北部に水田稲作をもたらした。後半(古墳時代以降)は引き続き大陸から渡来民が到来し、列島中央部の政治の中心が九州北部から現在の近畿地方に移った。北海道北部にはオホーツク文化人が渡来し、第一段階の渡来人との混血が進みアイヌが形成されたとの説だ。


また、第三段階で列島中央部に中心軸が形成され、北陸など周辺部分との「うちなる二重構造」が生じたと考えている。

今回のプロジェクトではこのモデルの検証も大きなテーマに掲げているが、「渡来時期など異なる見方もあり、さらに列島内の地域性を詳しく調べる必要がある」(斎藤さん)ため、結論はなお先になりそうだ。

より引用

つまり、縄文人は大陸からやってきたのではなく、石器時代に縄文人の先祖が日本列島にやってきたと考えられているのだ。

もともと日本列島に人が住んでいたのではないか、と言われるかもしれない。


日本列島はユーラシア大陸とつながっていたのが、約3000万年前に大陸から離れたと考えられている。
そして日本列島が形成されたあと、10数万年前に人類はアフリカで誕生し、世界へ拡散したと考えられている。
この説をとれば、日本列島にはもともと人は住んでおらず、どこからかやってきたと考えられるということになると思う。

⑪縄文人は岩宿人。岩宿人の子孫が縄文人。縄文人の先祖は岩宿人。

について。


岩宿遺跡は、群馬県みどり市にある旧石器時代の遺跡で、この遺跡の発見によって、日本に石器時代が存在したことが解明された。

つまり、竹田さんは石器時代人が縄文人の先祖だといっているわけで、そのとおりである。

しかし、すでに述べたように、日本列島が形成されたのは約3000万年前で、日本列島が形成されたあと、10数万年前に人類がアフリカで誕生し、世界へ拡散したと考えられているので、
石器時代の人々の先祖はどこからか日本列島に住んでいたと考えられる。

⑥漆は日本の自生種は本当か?

㉒漆は中国大陸から日本に伝わったと考えられていたが、逆転した。
中国より古い漆が平成12年、北海道で発見された。(函館市の垣ノ島B遺跡)
それまで一番古いと考えられていたのは7千年前

これについて調べてみたところ、年代については、下記サイトでも同様の記述がなされていた。
https://urushi-joboji.com/urushi/uruwashi


㉔今、最古と言っても次の瞬間には新たな発掘があって塗り替えられる可能性もある。

という発言も好感がもてる。

㉓日本にはもともと漆の木は自生していなかったと考えられていたが、中国大陸よりも古い時代、12600年前の漆の木が出てきた(福井県三方神中郡若狭町の鳥浜貝塚)

について

ウィキペディアでも竹田さんと同様の記述がなされている。



さらに、こんな記事がみつかった。

http://okinawa.ave2.jp/okinawa/masat/130521Jomon/Urushi-Torihama/Torihama.html

上記記事に次のような内容が記されている。

①鳥浜貝塚から、1984年に発見され、11000年前頃の土器と共に出土した炭化した樹木から作られたプレパラートが最近になって樹種を同定出来るようになり、2012年に12600年前のウルシと判定された。



⓶形状は小枝。樹液の採取痕はない。

③ 現在日本に見られるウルシであるという表現が曲解され、日本固有種と受け取られ独り歩きしている。

④調査の過程でDNA分析は行われていない。組成検査という目視と、炭素分析という燃えカスによる分析。


⑤  三内丸山遺跡出土の漆は佐藤洋一郎氏(静岡大学)によってDNA分析が行われ、比較した中国産とは違うと鑑定された。これを、日本の漆は日本固有種という意味に曲解されたようだ。

⑥Wikipediaの誤りから、ネット上の言葉が研究者の言葉や、事実と誤認された。


⑦鳥浜貝塚から出土した漆の小枝は12,600年前。
鳥浜貝塚出土の漆工芸品は6500年前で、島根県松江市の夫手遺跡からは6,800年前、新潟県大武遺跡は6600年前、石川県三引遺跡は6800年前。日本海側の遺跡からはほぼ同じくらいの年代に完成品が現れる。
12,600年前以後6000年の間漆製品が発見されていないのは、ウルシ採取。漆工芸品の生産は行っていなかったということ


⑧もし生産を行っていれば、カリンバ遺跡のように工房跡が出てくる。


三内丸山遺跡のウルシについて
「日本列島のどこかで栽培された可能性が高いことが示された」栽培種であり、自然木でないと言っている。
長江下流説と北方ルートの検証で中国から北方ルートでもたらされたとの見方が強まった。
 (長江下流から直接、または、半島経由で、日本に持ちこまれた説は否定的と言っている。)


⑩それに対して、日本は日本独自の固有種で、独自の技術であると主張。
漆のDNA分析で日本と中国は別種であると流布されているが、それを裏付ける文書はどこにもない。


このうち、
⑦鳥浜貝塚の漆製品 については、竹田さんは述べられていない。


また「漆の木は帰化植物だと言われていたんですけれどももしかしたら原産地日本じゃないの、ということもですね想定されるようになった。実際これわかりません。まだね中国から出たとかあるかもも知れませんから分かりません」
とおっしゃっていて、「漆の原産地が日本である」と断言されているわけでもない。


従って、これは竹田さんの発言に対しての批判ではないので、念のため、申し添えておく。

ただ、垣ノ島B遺跡では工房跡が見つかっているのか、ということは気になる。
ウィキの記述には記述がないし、単に見つかっていないだけかもしれないが、漆製品が出ただけでは生産をおこなっていたとは断言できなさそうである。








 

「中国ではなく、支那と呼ぶべき」について、調べてみた。


「中国ではなく支那とよぶべきだ」という意見がネット上などに一定数ある。
これについて、調べたことをまとめて書いてみる。

①中華民国は外交文書に「支那共和国」と記されることに反発した。


上記、ウィキ「中華思想」-中華民国 にこんな内容が書かれていた。

・章炳麟、孫文、梁啓超ら清朝を倒し、1912年に中華民国を建国し、「中華」を正式な国名とした。
・日本の駐清大使伊集院彦吉は、立憲君主制国家の成立を目指していたため共和政体に不満があった。
そのため本国内において「中華民国」の国号を用いず、欧米の「China」の用法にしたがって「支那共和国」と呼称するように具申した。
・これは閣議決定によって承認され、日本側は外交文書に「支那共和国」の国号を用い、中華民国政府側はこれに反発した。

支那という言葉は差別用語ではなく、それまで中国では自分達を支那と呼んででいたのかもしれないが(調査不足すいません)、
1912年以降、「自分達は支那ではなく中華民国である」という意識がめばえた。
にも拘わらず、「日本は外交文書に「支那共和国」と書いている、けしからん。」となったのだと思う。

⓶漢字を用いてきた国は「シナ」ではなく「中国」からくる国名を用いている。

英語「チャイナ」ドイツ語「ヒーナ」オランダ語「シーナ」もシナが変化したものだ。
なぜ日本が「シナ」といってはいけないのか、という意見がある。

たしかにほとんどの国がシナに基づく呼び方をしている。、

しかし朝鮮語の「チュングク」とベトナム語の「トゥルンコック」は「中国」からくる呼称である。
これについて、朝鮮やベトナムは中国の属国だから、という意見があるようである。
日本は聖徳太子の時代から、中国と対等にわたりあってきた国なので、中国と呼んではいけないというのだ。

しかし私は朝鮮やベトナムが中国に基づいた呼称を用いているのは、属国だからではなく、
漢字を使っていた国だからではないかと思う。

漢字文化圏は中国大陸、台湾、ベトナム、朝鮮半島、日本列島である。

韓国では1970年に漢字が廃止されてハングルを使うようになった。
ベトナムでは17世紀にフランスのカトリック宣教師、アレクサンドル・ドゥ・ロードがベトナム語のローマ字転写法を考案し、
これが19世紀後半のフランス植民地化以降「クオック・グー(国語)」と呼ばれるようになって普及して次第に漢字は使われなくなった。
1945年のベトナム民主共和国成立後、北部では漢字教育が行われなくなったが
南ベトナムでは1975年まで中等教育に「漢文科」があった。

韓国・・・1970年まで漢字を用いていた。
ベトナム・・・1975年まで中等教育に「漢文科」があった。
       
つまり、中華民国ができた1912年、韓国・ベトナムにおいても漢字が用いられていたのである。

モンゴルはモンゴル文字、ペルシャはペルシャ文字を使っている。

漢字を使わない国は、それまでの呼称であるチャイナなどで構わないが、漢字を使う国なのに
外交文書に「中華民国」ではなく「支那共和国」と記されて、気分を害する気持ちは分かるように思う。

③中国が外交文書に日本ではない言葉を用いても構わない?


上記記事によると、中国では日本(Rìběn)と呼び、日本国(Rì běn guó)からジパングという言葉ができたとある。

また、11区(11區/Shíyī qū)、泥轰(泥轟/Ní hōng)、霓虹(Ní hóng)岛国(島國)などの語もあると記されているが、これは呼称だろう。
外交文書には「日本」が用いられていると思う。(未確認)

※「泥轟」の「泥爆弾」、「霓虹」の「にじ」に、特に蔑視の意味はなく、「ニホン」という音写から来た表現、だと説明があるが、泥轟(泥爆弾)という漢字表記には若干嫌みがあるかもしれないw

「シナと呼ぶべき」とする人々は「差別語や侮蔑しているわけではない。相手をどう呼ぶかは呼ぶ側が決めること。」
と主張しているようである。

この理屈でいえば、外交文書に日本ではないちがう名前、たとえばジャパンに漢字の音を当てたものなどを書かれても
日本は文句を言ってはいけないということになる。
しかし、そんなことをされると大勢の日本人が不快感をもつだろう。

④中国において「中国」という言葉は紀元前より用いられていた。

「シナと呼ぶべき」という人々は、日本の地方名である中国の歴史は古く1000年前から使っている。
一方日本でシナを中国と呼ぶようになったのは戦後だと主張している。
古には「もろこし」「から」と呼んでいた、というのだ。(未確認)

上記記事によれば、中国において「中国」という言葉は紀元前(西周時代)すでに史書に現れていたとあり
次のような用例が示されている。

皇天既付中國民越厥疆土于先王(皇天既に中國民と厥疆の土地を先の王に付す)
民亦勞止 汔可小康 惠此中國 以綏四方 (この中国に恵あれ、四方安らかに)

また、次の様にも記されている。
しだいに中国という言葉は中華思想に基づく「文化的優越性を持った世界の中心」という意味をもつようになると。

秦始皇は中国を防衛のため長城に建てた。
いにしえより中国には何百もの山と原があり。など。

そして、唐王朝に入ると「現在中国本土と呼ばれる領域が「中国」と認識されるようになったとある。

⑤「中国4000年の歴史」はマスコミによる歴史の捏造ではない。

最近できたばかりの国なのに、「中国4000年の歴史」といってマスコミが歴史を捏造している、という意見もあったが
中国はもともと国名ではなく地域をさす名前であり、黄河文明の始まりは(文明といえるかどうか微妙だが)
紀元前7000年にさかのぼり、殷の成立は紀元前17世紀ごろとされるので「中国4000年の歴史」というのは捏造とはいえない。

⑤中華という言葉は「華夏文化の優越性」というニュアンスを含む。


上記によれば
中華(ちゅうか)あるいは華夏(かか)という用語は、「優れた文化を持つ者」を意味し、漢民族の間で「中国」と同様の自称とある。

また、この言葉は、「中心の国に住む優れた文化の担い手」という意味で、「華夏文化の優越性」というニュアンスを含んでいたと説明がある。

中華思想に基づき、古代日本を倭、卑弥呼などのよくない意味の漢字を当てて呼んでいたこともある。

つまり、支那は差別語ではないが、
中華民国・中国などの国名は、「他国に勝る国」というニュアンスを含み、
周辺国を蔑視する言葉で、差別語といえるかもしれない。

なので、中華民国という国名によい印象を持たない日本人が多いということは理解できる。


上記にも次のように記されている。

・伊集院彦吉が「支那共和国」と呼称するように具申した意図は、
「中華民国と呼べば世界の中心の国として認めることとなり、日本をその付属国としてしまう」
というものであったと分析されている。

・1930年ごろ、日本国内において中華民国という国号を呼ぶ動きには反対が多く見られた。

・しかし幣原喜重郎外相は中国国民の感情などにも配慮し、外交文書上での正式国号は中華民国と呼ぶ方針を決定し、
軟弱外交として批判された。

⑥なぜ民国ではなく中国としたのか?


上記記事によれば、昭和21年(1946年)、外務省は、東京都内の主要マスコミに対して次のような通達を出したとある。

中華民國の國名として支那といふ文字を使ふことは過去に於ては普通行はれて居たのであるが
其の後之を改められ中國等の語が使はれてゐる處
支那といふ文字は中華民國として極度に嫌ふものであり,現に終戰後同國代表者が公式非公式に此の字の使用をやめて貰ひ度いとの要求があつたので、
今後は理屈を拔きにして先方の嫌がる文字を使はぬ樣にしたいと考え念のため貴意を得る次第です。
要するに支那の文字を使はなければよいのですから用辭例としては
中華民國、中國、民國。
中華民國人、中國人、民國人、華人。
日華、米華、中蘇、英華
などのいづれを用ひるも差支なく
唯歴史的地理的又は學術的の敍述などの場合は必しも右に據り得ない
例へば東支那海とか日支事變とか云ふことはやむを得ぬと考へます

中華民国のことを中国でも民国でもよいとしているが、なぜ中国という表現を用いるようになっただろうか。
そのあたりのこともわかれば、追記を入れる。


アダムの肋骨からイブを作ったから、欧米は女性蔑視?



7:54 あたり 

「ヨーロッパとか中国とか野蛮な国は、男が女を所有するんですよ。
だからたとえばアダムという男のあばら骨からイブという女性ができたとか、そういう話になる。
ところが日本は一番上の神様は天照大神、女性ですよね。男の神様スサノオは三男坊。そういう風に日本はできてて・・・・」

最近、ネットでよく聞く話に
「アダムの肋骨からイブを作ったと聖書に書いてある。だからキリスト教徒の欧米は男尊女卑の文化である。」
というのがある。

「変なこと言う人が大勢いるなあ」と思っていたが、大学教授までこういういことを言うとは、びっくりだ。

Albrecht Dürer - Adam and Eve (Prado) 2

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Albrecht_D%C3%BCrer_-_Adam_and_Eve_(Prado)_2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Albrecht_D%C3%BCrer_-_Adam_and_Eve_%28Prado%29_2.jpg
Albrecht Dürer / Public domain


ひとつのエピソードから全体がそうであるかのように語るのは間違い。

あたり前のことだが、聖書はひとつのエピソードだけでなりたっているものではない。
聖書を読んだことがないので、詳細な内容までは知らないが、聖書がたくさんのエピソードから成り立っていることは事実だ。
キリスト教や聖書を語る場合には、それらの多くのエピソードを全体としてとらえて語るべきで
ひとつのエピソードから全体がそうであるかのように語るのは間違いなのだ。

今津基督教会館

ヴォーリス通り 今津基督教会館


イブがアダムから出たように、男もまた女からうまれた。

たとえば聖書にはこういう一文もある。

「主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女(イブ)が男(アダム)から出たように、男もまた女から生まれたからである。そして、すべてのものは神から出たのである」(コリント人への手紙第一、一一・一一~一二)

イブはアダムから生まれたが、男は女から生まれたので、男と女は互いに助け合うべき存在であるというような意味だろうか。

御堂筋イルミネーション-セントラファエロチャペル御堂筋

御堂筋の教会

キリスト教の男女平等的な思想

私は宗教については詳しくないが、ぐぐってみたところ、キリスト教の男女平等的な思想として、
②のほかに、次のようなものがみつかった。

⑴あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。……もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」(ガラテヤ人への手紙三・二六~二八)

⑵イエス・キリストは、五回離婚した女性に真の幸福について諭した。彼女が信仰心を持ったとき、胸がいっぱいで食事になかなか手をつけようとしなかった。
⑶姦淫の現行犯で捕らえられた女性を責め立てるものたちに、キリストはこういった。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」


なばなの里 くまモン プロジェクション マッピング

なばなの里 イルミネーション 天草教会群

④キリスト教の男尊女卑的な思想

キリスト教の男尊女卑的な思想もあげておこう。

⑷旧約時代のルツ記では男が女を守り、女性は従うという思想がある。

⑸キリストの奇跡の話で、集まった人々のうち、、男性の人数だけが伝えられ、女性の人数は伝えられていない。

陀々堂 鬼走り 大般若経転読

陀々堂 大般若経転読

⑤仏教は男尊女卑的な宗教だった?

④をよんで、「ほら、やっぱりキリスト教は男尊女卑じゃないか」といわれるかもしれないが、
我々日本人になじみの深い仏教にも男尊女卑的な思想はある。

というか、もしかしたら仏教のほうが男尊女卑が激しいかもしれない。

㈠糞尿に満ちた女に、私はたとえ足ででも触れたくない。スッタニパータ〈835)

㈡子供を産まない女性は筍を探し続ける地獄に堕ちるとして、地獄絵にも描かれている。
※なぜ筍なのかというと、筍は種子でなく地下茎で増えるからということらしい。

㈢女性が仏や菩薩になるためには、一度男子に生まれ変わらなけれならない。(変成男子/へんじょうなんし)

http://www.totetu.org/assets/media/paper/t175_203.pdf#search=%27%E4%BB%8F%E6%95%99+%E7%94%B7%E5%A5%B3%E5%B9%B3%E7%AD%89%27
↑上の記事なども参考にしてほしい。

しかしブッダは遊女を教団に迎え入れたりもしている。

「キリスト教と仏教、どちらが男尊女卑的思想が強い宗教だったか」についてはもっと深く掘り下げて研究する必用があるだろうが
ここではキリスト教・仏教どちらにも「男女平等的な思想」と『男尊女卑的」な思想の両方があったことを押さえておいてほしい。

法隆寺 夕日

法隆寺


⑥聖書の一文から欧米の文化を断定することができるのであれば、仏教の聖典の一文から日本の文化を断定することができるとしなければ筋が通らない。


仏教は我々日本人にはなじみが深い。

「アダムの肋骨からイブを作ったと聖書に書いてある。だからキリスト教徒の欧米は男尊女卑の文化である。」
というのであれば
同時に、
「ブッダは女性を糞尿にまみれたと言っている。だから仏教徒の多い日本は男尊女卑の文化である。」と言わなくてはいけないことになる。

「アダムの肋骨からイブを作ったと聖書に書いてある。だからキリスト教徒の欧米は男尊女卑の文化である。」

「ブッダは女性を糞尿にまみれたと言っている。しかし仏教徒の多い日本は男尊女卑の文化ではない。」というのは矛盾している。

聖書の一文から欧米の文化を断定することができるのであれば、仏典の一文から日本の文化を断定することができるとしなければ筋が通らない。

もちろん、聖書や仏典の一文から欧米や日本の文化を断定することはまちがいであるが。

永観堂 雪 

永観堂

⑦天照大神が女神だから日本は男女幸福社会だった?

「ヨーロッパとか中国とか野蛮な国は、男が女を所有するんですよ。
だからたとえばアダムという男のあばら骨からイブという女性ができたとか、そういう話になる。
ところが日本は一番上の神様は天照大神、女性ですよね。男の神様スサノオは三男坊。そういう風に日本はできてて・・・・」

曖昧な表現だが、武田氏は「神道は一番上の神が天照大神という女神なので、男女幸福社会である」と言いたいのだと思う。

「男女平等である」という主張ではないと思う。
武田氏の主張では日本では、男は外で仕事をし、女は家を守るという役割分担があるが、お互いを尊重していて男女幸福社会なのだそうだ。

もちろんこれも、一つの神話から全体を語るという間違った話法である。

神道では血を穢れとし、生理のある女性の境内への立ち入りを禁じたり、神事の参加を禁じたりしいる。
それは単なる習慣だ、というかもしれないが、
生理のある女性は穢れているからダメ、という思想が根底にあるのだ。

また、神道の神話は記紀に記されているもので、元明天皇に献上されたものだ。
元明天皇は女帝である。そのため、天照大神を女神にしたとする説もある。

「日本では女性元首もいる。男女平等社会じゃないか。」といわれるかもしれないが、日本の女帝はすべて男子を即位させるための中継ぎとしての即位である。

また独身で即位した天皇、元正・孝謙(称徳)・明正・後桜町は全員結婚が許されていない。
男性天皇は結婚して子を持つことができたが、独身で即位した女性天皇は女として生きることが許されなかったのだ。

人権侵害甚だしいと私は思うが、女として生きることを奪う社会をはたして、男女幸福社会といえるだろうか。
疑問である。

知井八幡神社2 
知井八幡神社

⑧なぜ大勢の人が口をそろえて「アダムの肋骨からイブをつくったから欧米は男尊女卑」というのか。


それにしても、なぜ大勢の人が一律に口をそろえて「アダムの肋骨からイブをつくったから欧米は男尊女卑」というのか。
おそらく、誰かがそういうことを言い出し、それが多くの人に広まっていったのだろう。

ということは、聞いたことをそのまま、あたかも自分の意見であるかのように語っている人が大勢いるということで、
こういう人が自分の頭できちんと考えているかどうか疑わしい。

それぞれが自分の頭で考えてそれぞれで結論をだしたのであれば、もっといろんな例をあげそうなものである。

伏見稲荷大社 千本鳥居 雪 
伏見稲荷大社 


⑨自分の主張にあう事例だけを列挙して論じてはいけない。

もうひとつ、武田氏の論法の問題点を あげておく。

2:29あたりでこんなことをおっしゃっている。

それ以上望むな。生物として一番大切な子供を産んで育てることができる。
女性は長寿だし、性格もしぶといし、かっとしないし、言語中枢が発達している、これで何で文句いってるんだ。
デパートの売り上げは8割が女性、2割が男性。女性が損してるってどこ損してるんですかね。


この女性が得していることの羅列は、単に武田氏の主張である「女性は損していない」に合うものだけを並べているのである。

特に女性差別の問題は労働の現場で問題視されていることであるのに、彼は労働に関する事例をひとつもあげていない。

たとえば女性のみ掃除やお茶くみをさせられる、女性のほうが貧困率が高い、女性であることを理由に昇進昇給がおさえられている、出産育児によって働けない時期が生じる。

このような事例もとりあげて、話をするべきだろう。

私は、「キリスト教は男尊女卑とはいいきれない」という主張をしたが、キリスト教の男尊女卑でない例だけでなく、キリスト教の男尊女卑の例もあげた。
自分の主張にあう事例だけを列挙して論じてはいけないのだ。

藤森神社 藤森祭 神輿

藤森神社


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仁徳天皇陵が公共事業で造られたという証拠がないと思う。


百舌鳥八幡宮 模型   

堺市役所21階展望ロビーにあった模型(見やすくするため一部加工しました。)




①述べ人数と実人数を混同していた!仁徳天皇陵造営の作業員は一日平均1190人。

世界一の敷地面積を誇る巨大古墳・仁徳天皇陵。
この古墳を築造するのに、いったいどれくらいの作業員数が必要だったのか。

大手ゼネコン大林組が試算したところ、仁徳天皇陵を古代工法で建設すると、工期は15年8カ月に及び、作業員数が延べ680万7000人(ピーク時で1日当たり2000人)、総工費は796億円に上った。
https://okwave.jp/qa/q9716890.htmlより引用

この大林組が計算した「作業員数680万7000人」というのはよく知られていて、ネット上でもよくでてくる。
そして、この作業員数から、次のような説が流布しているようである。

仁徳天皇陵を造営するのに述べ680万7000人もの作業員が必要と計算されているが、当時の日本列島の人口4~500万人。
15年8か月もの長期間、民を墓作りのためだけに働かせると民が餓えて死んでしまう。
従って仁徳天皇陵造営は公共工事であったと考えられる。


日本の人口は8世紀には450〜650万人。1000万人を越えたのは中世後期、早くとも15世紀以降と考えられている。江戸時代前半の17世紀に急増し、18世紀から19世紀は3000万人前後で安定化した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88 より引用

とあるので、当時の日本の人口が4~500万人というのは妥当な数字だと思う。

680万7000人と4~500万人を比較すると、たしかにその作業員の多さに驚きそうになる。

しかし、680万人という数字は述べ人数である。
述べ人数とは「1つの事を成し遂げるときに動員した人数の合計」のことである。
1日に必要な作業員数が1500人、作業日数が3日であれば、述べ人数は1500人×3日=4500人となる。

実人数というのもあって、こちらは実際に作業した作業員の数である。
1500人で15年8か月の工事をやり遂げたのであれば、1500人。
15年8か月の工期の中で人員の入れ替わりがあり、3000人が携わった場合には3000人となる。

作業員数680万7000人というのは随分が多すぎると私は感じていたのだが、それは恥ずかしながら、延べ人数と実人数を混同していたからなのだったw。

さきほどの記事をもう一度読んでみよう。

大手ゼネコン大林組が試算したところ、仁徳天皇陵を古代工法で建設すると、工期は15年8カ月に及び、作業員数が延べ680万7000人(ピーク時で1日当たり2000人)、総工費は796億円に上った。
https://okwave.jp/qa/q9716890.htmlより引用

「ピーク時で1日当たり2000人」と明記されている。

680万7000人から1日平均の作業員数をざっくりと計算してみると、次のようになる。

680万7000人÷15年8か月(15.66か月)=434674.33人・・・・1年の作業員数(延べ人数)
434674.33人÷365日=1190.89人・・・・・・・・・・・・・1日の平均作業員数

1日平均1190人という作業員数はビッグプロジェクトには違いない。
しかし、農閑期などに農民一人あたり60日ほど無給で働かせても飢え死にするようなレベルではないと思う。
(負担は大きかっただろうが)

仁徳天皇陵 
↑ 全長840メートルの仁徳天皇陵(木が生い茂って丘のように見える部分)は境市庁舎21階展望ロビーから見ても、ぜんぜん前方後円墳だとはわかりません。

②クフ王ピラミッド建造に必要な作業員数は最低でも仁徳天皇陵の2.7倍

仁徳天皇陵はクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と並び「世界三大墳墓」のひとつとされている。

この中のクフ王のピラミッドについて、次のような記事があった。

ピラミッド建造にかかる人手

 ピラミッドの建造は 1.石を切り出す 2.石を運ぶ 3.石を削って据え付けるという3つの工程に分けることができる。
まずは1.の採石から。クフ王の大ピラミッドを23年で建造するには、一日におよそ322個の石材のブロックを切り出す必要があった。レーナーのチームの12人の採石工は、22日間で186個、1日当たり8.5個の石材のブロックを生産することができた。しかし、彼らが鉄のケーブルを持ったウィンチを使ったことを考えると、クフ王の時代ではさらに20人の労働者がこの作業に必要だったかもしれない。計32人で一日8.5個とすると、322個の石材を切り出すには、1212人の採石工がいればよいことになる。

 次は、切り出された石を運ぶ作業。クフ王の採石場から大ピラミッドまでは約300メートルの距離がある。この道のりを、1個平均2.5トンの石材をソリに載せて引いていく。ピラミッド建造実験によると、ソリに載せた重さ2トンのブロックは10〜12人で引けることがわかった。ということは、1組20人のチームであれば、2.5トンの石材を十分に運ぶことができただろう。採石場とピラミッドの往復に2時間かかるとしたら、1チームあたり1日5個の石材をピラミッドに供給できたことになる。ピラミッドを23年で完成させるためには1日340個の石材を据え付ける必要があったため、20人のチームが68組、計1360人の引き手がいたと推測される。

 最後に、石を削って据え付ける作業。建造実験の結果から、テコを使って石を持ちあげるのに4人、石を押して位置を調節するのに2人、石材を削って仕上げをするのに2人、これに予備の2人を加えると、ピラミッドの現場でブロック1個に必要な人員は10人になる。採石場からは1時間当たり34個(340÷10)の石材が届けられるので、それを10人が1時間でひとつ据え付けるとすると、340人がこの作業に従事していたことになる。しかし、このペースを維持し続けるのは少々きついようだ。仮に人員を倍の40人にしたとすると、石を削って据え付ける作業には、約680人の労働者が必要だったことになる。

 石を切り出すのに1212人、運ぶのに1360人、削って据え付けるのに680人、合計すると3252人。これ以外にも、石材をピラミッドの上部に運ぶための「傾斜路」の建設に多くの人員が必要だったと考えられている。道具とソリを作る大工や、切断工具を作ったり研いだりする金属細工師、水を運ぶ労働者、労働者の食事を準備する職人もいたことを考えると、クフ王のピラミッド建造に関わった人々は、2万~2万5千人にのぼった可能性が指摘されている。では、それは一体どのような人々だったのだろうか。

http://tokidesign.jp/howto/story01.htmlより引用

採石一日に切り出す必要のある石・・・322個(工期23年より計算)
実験では12人で鉄のケーブルを持ったウィンチを用い1日あたり8.5個の伐り出しが可能だった。
古代エジプトいはウィンチはなかったと考えられるので、追加で作業員20人が必要とし、32人とする。
32人で8.5個の伐りだしを行ったとすると、1日322個のノルマを果たすためには1212人の作業員が必要。

322個÷8.5個×32人=1212人・・・・1日に必要な砕石の作業員数
運搬運搬距離300メートルを、1個平均2.5トンの石材を運ぶ。
実験では2トンの石材を10~12人でひくことが可能だった。
2.5トンを20人でひいたと仮定し、所要時間を2時間として計算。
20人椀チームで1日5個の運搬が可能。
1日に運搬する必用のある石・・・340個

340個÷5個×20人=1360人・・・1日に必要な運搬の作業員数
加工・据付テコを使って石を持ちあげる・・・4人
位置調整・・・・・・・・・・・・2人(実験より確認)
仕上げ・・・・・・・・・・・・・2人
予備・・・・・・・・・・・・・・2人

ブロック1個に必要な人員・・・・10人

採石場からは1時間当たり34個(340個÷10時間)の石材が届けられる。

その石材を10人が1時間でひとつ据え付ける・・340人・・一日に必要な加工・据付の作業員数
しかし、重労働すぎるので、人員を倍にする・・・340人×2倍=680人
その他傾斜路建設、道具を作る大工、金属細工師、料理人・・・2万人
まとめ採石1212人、運搬1360人、加工・据付680人。合計3252人。
その他2万人。

ピラミッド建造従事者は2万人から2万5000人に及ぶか。

この記事で算出している作業員数は仁徳天皇陵の述べ人数の計算とは異なり、1日当たりの作業員数である。

仁徳天皇陵の一日当たりの作業員数・平均1190人と比較すると、採石・運搬・加工据付の作業員数だけでも2.7倍となる。

Khufu CEM

クフ王像 (en)(エジプト考古学博物館)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Khufu_CEM.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6f/Khufu_CEM.jpg
Khufu.JPG:derivative work: JMCC1 / Public domain

③ピラミッド建造は公共事業だった説の根拠

この記事は続けてこんなことも記している

ピラミッドをつくった人々

 古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、ピラミッドは身分の低い労働者を奴隷のように働かせてつくられた、と書き記している。しかし、今ではこの話を信じている専門家はほとんどいない。「ピラミッド建造実験」を行ったマーク・レーナーは、クフ王の大ピラミッドがそびえるギザ台地の南東に、ピラミッドの建造に従事した人々の街を発見した。この街の一角からパンを焼くための甕(かめ)や壺が見つかったことから、ここにはパン焼き場があったことがわかっている。ゴミ捨て場の調査からは、労働者たちが、当時とても貴重だった牛肉を食べていたことも判明した。さらに、この街の近くでは、労働者の墓も見つかっている。古代エジプト人にとって墓を持つというのはひとつの特権であった。これらのことから、ピラミッドを建造したのは奴隷ではなく、エジプトの一般市民、ことによると、ある種のエリートとさえいえる人々だったと推測されるのだ。遺骨調査の結果から、そこには女性も含まれていたと考えられている。ピラミッド労働者たちは仕事を終えて街に戻り、焼きたてのパンと貴重なタンパク源である肉、そして、当時の「アフターファイブ」にも欠かすことのできなかったビールによって、一日の疲れを癒していたのだ。しかし、そんな「エリート」たちが、なぜこの過酷な「プロジェクト」に参加したのだろうか。

ピラミッド建造のモチベーション

 古代エジプト人は死後の世界、すなわち来世を信じていた。死者が来世で「有力者」となるためには、葬送儀礼や死後の供物といった、生者の「世話」が必要だとされていた。そのため、死者は生者に自らの世話を求め、逆に生者は死者が来世で力を持つことによって、家を守り、維持していくことを求めたのである。ピラミッドが王の墓であることは先に述べた通りだが、それは同時に、王が天に昇るための「装置」でもあった。ピラミッド内部の墓室に記された「ピラミッド・テキスト」には、死者となった王は太陽光線に導かれて天に昇っ ていくとあり、そのため、ピラミッドとは雲の切れ間から降り注ぐ太陽光線を物質化したものだ、と考える説もある。古代エジプト人にとって王とは神であり、全エジプトの家長であった。つまり、ピラミッドをつくることは、国の事業に従事するという栄誉に浴するだけでなく、自らが属する共同体全体を、王の死した後の新たな世界へと運ぶ準備に関わることだったのである。

 4500年前のエジプトに思いを馳せてみる。そこでは、今日も、誇り高き労働者たちが、石を切り出し、石を引き、太陽に向かって、ひとつひとつ、据え付けていたことだろう。父なる王のため、愛する家族のため、そして、何物にも代えがたい、仕事の後の一杯のビールのために。

http://tokidesign.jp/howto/story01.htmlより引用

この記事の内容を箇条書きにまとめておこう。

①古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、「ピラミッドは身分の低い労働者を奴隷のように働かせてつくられた」と書いている。

②しかし、ヘロドトスの説を信じる専門家は現在ではほとんどいない。

③マーク・レーナーは、ピラミッドの建造に従事した人々の街を発見した。(ワークマンビレッジ)
●パンを焼くための甕(かめ)や壺が発見された・・・パン焼き場があった。
●ゴミ捨て場の調査・・・・・・・・・・・・・・・作業員たちは当時貴重だった牛肉を食べていた。
●労働者の墓が発見された・・・・・・・・・・・・古代エジプト人にとって墓を持つというのは特権だった。
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ピラミッドを建造したのは奴隷ではなく、エジプトの一般市民またはエリート?

④古代エジプト人は、死者が来世で「有力者」となるためには、葬送儀礼や死後の供物といった、生者の「世話」が必要だとされていた。

⑤ピラミッド内部の墓室に記された「ピラミッド・テキスト」には、「死者となった王は太陽光線に導かれて天に昇っ ていく」とある。

⑥古代エジプト人にとって王とは神であり、全エジプトの家長であった。
つまり、ピラミッドをつくることは、国の事業に従事するという栄誉に浴するだけでなく、自らが属する共同体全体を、王の死した後の新たな世界へと運ぶ準備に関わることだった。

Kheops-coupe

クフ王のピラミッド断面図 1.入口 2.盗掘孔 3.上昇通路入口 4.下降通路 5.未完の地下室 6.上昇通路 7.女王の間 8.水平通路 9.大回廊 10.王の間 11.控えの間 12.脱出孔

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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/73/Kheops-coupe.svg
Kheops-coupe.jpg: MONNIER Franckderivative work: Malyszkz / Public domain


④古代エジプト人がビールを飲んでいたとされる根拠

上の記事にはエジプト人がビールを飲んでいたことについては記されているが、その根拠については記されていない。
そこで調べてみると、証拠として次のようなものがあることがわかった。

男性が女性を所有する文化って具体的にはどんな文化?

武田邦彦氏の論法にはいくつかの問題点があると私は考えている。

言ってもいないことを、主観で決めつけて事実のように話すのは『嘘』 
上記記事では、武田氏の次のような論法について批判した。

武田氏は他人の顔つきや態度から他人の心情を決めつけて批判している。
よくない態度、人を不快にさせる態度というのはあると思うが、それでは具体的にどういう態度であったかという説明が必要である。
しかし、武田氏は具体的な説明をせず、
「俺達のやることは正義なんだ。」「お前らバカなんだから」「公金を使って展示して何が悪い」というような態度
と言っている。
「~のような態度」と言っているところから判断して、批判している相手が実際に「俺達のやることは正義なんだ。」「お前らバカなんだから」「公金を使って展示して何が悪い」などと発言したわけではないのだろう。
武田氏がそう思った、というだけのことである。
批判された相手としては、言ってもいないことを批判されても、困るだけである。




今回の動画ではこんなご発言をされている。

5:35あたり
「中国・ヨーロッっていうのは男が女を所有する文化ですから男は女に飯をつくれ、といって作らせるというのが欧州中国スタイルですね。
日本は女性のほうに全権がありまして男は農事記録文書の作成の3つしかできないというのが、日本の社会の原則でした。」

6:40あたり
「全権があるというのがどういうことかというと女性は何でもやっていい。一番そのころ大切なのは家庭ですからね。
食事をつくる。子供を育てる。家庭を守る。洗濯をする。縫物をするってことで最低の生活が全部確保できる。
これは全部女性の権利で、あとはまあ小説を書くとか飾り物をするとか 日常の生活は全部女がすると
女が権限を持っている。 義務じゃない。」


野菜

①男が女を所有する文化とは何かについての説明がない。

武田氏は「中国・ヨーロッパは男が女を所有する文化」と言っているが、「男が女を所有する文化とは何か」についての説明がない。
言葉の定義を定めずに話すのは武田氏の悪いクセである。

言葉の定義を定めてから話すべきである。

また具体例を示して話をするべきだが、具体例を出さないことが多い。

「武田氏は男は女に飯をつくれ、といって作らせると具体例を出しているじゃないか」と言われるかもしれないが、
中国やヨーロッパの男性の何パーセントが妻に対してそういう発言をしているのか。
そんなプライベートな内容の統計があるとも思えないし、武田氏も統計を提示したりもしていない。
武田氏が根拠なく決めつけているだけではないだろうか?

箒とちりとり

②男が女を所有するとは人身売買のことか?

一般に人が人を所有するということは、富裕な人が奴隷などを所有することを言う思う。
奴隷は人権をもたない物であり、物であるので売買の対象となった。また強制労働を強いられた。

そういう意味では、過去には日本でも人身売買が行われており「男が女を所有する」ことはあったといえる。

幕府は人身売買を禁じていたが、実際には、女衒(ぜげん)と呼ばれる“人買いに親が娘を妻を売ることがあったようである。

その例として「からゆきさん」がある。
明治ごろ、貧しい家庭に生まれた娘は、嬪夫(斡旋業者)・女衒たちの仲介によって海外に渡航し、奉公することがあり
これを「からゆきさん」といった。
親は娘を奉公に出したのち、仲介業者から金を受け取った。(つまり身売り)
奉公といっても、からゆきさんたちが勤めたのは売春宿である。

売られるのは娘であることが多かったようだが、男(父親)が女(娘)を売ったことはまちがいない。
やむない事情があってのことだと思うが、
父親が娘を売って代金を受け取ったということは、娘は父親の所有物だということになる。

糸巻き  

③欧米も日本も男尊女卑の考え方があった。


「欧米が男が女を所有する文化」について次のような説明をする人が結構いる。

聖書は神の姿に似せてアダム(男)を作り、アダムの肋骨からイブ(女)を作ったとしている。
だからキリスト教徒の多い欧米は男尊女卑世界であると。

この説明はだめだ。
なぜならば聖書の物語というのはフィクションであって、事実ではないからである。

そして、聖書にあることが描かれているということと、リアルの世の中は別のものである。
リアルな世の中でおこった出来事や習慣をベースにして語らなければ、導き出した結論が正しいとはいえない。

聖書に書いてある=現実の世の中も同じ・・・・✖


またキリスト教は男尊女卑だといわれるが、日本で広く信仰されていた仏教も男尊女卑である。

たとえば、スッタニパータに次のようにある。

835.
「私は嘗て『渇望』と『不満』と『貪欲』と(いう女)を見たが
それと一つになろうとは決して思わなかった
この尿と糞とに充ちた汚いもの それが一体何であろうか
私は足でそれに触れようとさえ思わない」

○中村元先生訳

https://76263383.at.webry.info/201503/article_27.html より引用

中世の地獄絵には筍を探し続ける地獄が描かれており、子供を産まない女性がおちるとされていた。
なんで筍を探し続けるのかといえば、竹は種子ではなく地下茎で増えるからということである。

洗濯板 

④「大きな歴史」という概念からくる考え方の間違い

文化の比較をする場合、当然、比較する文化について深く掘り下げて知識をえることが必要である。
武田氏はそういうことをやっていないと思う。
もし様々な文化について深く掘り下げて知識を得ているのであれば、実例をあげて話をすることができるはずである。

武田氏がこういった間違った結論を導き出すのは氏がよく言っている「大きな歴史」に問題があると思う。
「大きな歴史」というと聞こえはいいが、それは「浅い知識で語る歴史」とイコールなのである。

大きな歴史=浅い知識で語る歴史

男尊女卑についても、スッタニパータの文や、地獄絵等、細かな知識をもっていなければ語ることはできない。

現在ではネットでぐぐるとかなりの情報がでてくるので、動画の更新頻度を下げてでも知識の補充に努めたほうが内容の濃い動画になると思う。

 室内干し


⑤武田氏は「所有(強制)」「権利」などの言葉の概念を持て遊んでいるだけでは?

武田氏発言をまとめると次のようになると思う。

中国・ヨーロッパ・・・・男は女に飯をつくれ、といって作らせる。(強制)
日本・・・・家事は女性の権利で、義務じゃない。(権利)

中国・ヨーロッパは女性の家事は強制、日本では女性の家事は権利であると武田氏は言っているのだ。
女性が家事をするというのは中国・ヨーロッパ・日本でも同じということである。

①で武田氏が「所有」という言葉の定義や実例、統計をあげていないことを指摘したが
武田氏は、権利や強制という言葉の定義、実例、統計もあげていない。

言葉の定義がなく曖昧だと、どんな風にでもいえるわけで、こういうのは科学的であるとはいえない。

実際に犯罪をおかした証拠がない人に対して、犯罪者であるというレッテルを貼るようなものである。
ある人を犯罪者と認定するためには、その人がどのようなことをして、それがなぜ罪にあたるのかという理由が必要である。

中国・ヨーロッパ・日本とも、女性が家事をしていたという点は同じである。
武田氏は「強制」「権利」などの言葉の概念を持て遊んでいるだけ
 のように思える。

アイロンがけ





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