1⃣かまど神
一般にはかまどや炉のそばの神棚に幣束や神札を祀るが[6]、祀り方の形態は地方によって様々である。東北地方では仙台藩領の北部(宮城県北部から岩手県南部)では、竈近くの柱にカマ神やカマ男と呼ばれる粘土または木製の面を出入口や屋外に向けて祀る[7]。新築する際に家を建てた大工が余った材料で掘るもので、憤怒の形相をしており陶片で歯を付けたりアワビの貝殻を目に埋め込んでいるのが特徴[8]。信越地方では釜神といって、約1尺の木人形2体が神体であり、鹿児島県では人形風の紙の御幣を祀っている。竈近くの柱や棚に幣束や神札を納めて祀ったり、炉の自在鉤や五徳を神体とする地方もある[1]。島根県安来市につたわる安来節も火男を象徴しているということが言われている。沖縄、奄美群島ではヒヌカン(火の神)といって、家の守護神として人々には身近な神である。
日本の仏教における尊像・三宝荒神は、かまど神として祀られることで知られる。これは、清浄を尊んで不浄を排する神ということから、火の神に繋がったと考えられている[9]。また近畿地方や中国地方では、陰陽道の神・土公神がかまど神として祀られ、季節ごとに春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭へ移動すると考えられている[9][10]。
神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である。
2⃣大黒天はかまどの神
前回は、ウィキペディアの記事にあるカマ神(かまど神)=火男=ひょっとこ についてお話した。 今回はウィキペディアには記されていないが、大黒天についてお話したいと思う。
大黒天は、インドから中国を経由して日本に伝わってきました。特に中国では「かまどの神」と崇められていたため、日本でも大黒天は台所のかまどを司る神様として崇められるようになっていきます。
大黒天はかまどの神なのだ。
3⃣延暦寺
大晦日、私は滋賀県大津市の延暦寺に行った。 延暦寺では大晦日の午後11時ごろより追儺式を行っている。
黄鬼は笑い鬼で、『むさぼりの心』を
青鬼が泣き鬼で『"ねたみ"の心』を
赤鬼は怒り鬼で"『怒りの心』を表しているという。 
法師の法力によって心を入れ替えた赤鬼・青鬼・黄鬼は力を合わせて無明鬼を倒す。
灰色の着物に黒い面を被っているのが『無明鬼』である。
黄鬼は「むさぼりの心」、青鬼は「ねたみの心」、赤鬼は「怒りの心」を表すというような もっともらしい説明で納得してはいけない 笑。 もうすこしつっこんで、それでは説明のない無明は何をあらわしているのか、と考えることが必用ではないか?
②闇の神、厨房の神になる。
追儺式が終わると年が明けて元旦になった。 そのあと比叡山国宝殿に行ってみると、数点の大黒天像が安置されていた。
大黒天はもとはヒンズー教のマハーカーラという神だった。
マハーカーラとは『大いなる闇』という意味で、シヴァ神の化身とされ、破壊・戦闘の神だった。 ところがマハーカーラはしだいに厨房の神へと神格を変えていく。
唐の僧義浄が著した「大唐南海寄帰内法伝」には
『インドの寺院の台所の柱には、金の袋を持ち、像高二尺から三尺(約60~90センチ)ほどのマハーカーラが祀られている。
油で拭かれて黒くなっている。 』
と記されているそうである。
日本へは遣唐使だった最澄が持ち帰り、ここ延暦寺の厨房の神(かまどの神)として祀ったのが最初と伝えられている。
③闇の神はなぜ厨房の神になったのか?
マハーカーラはなぜ厨房の神(かまどの神)となったのか?
厨房では火を扱うため、ときとして火事になることがある。
マハーカーラは『大いなる闇』なので、火消しにぴったりの神として信仰されるようになったのではないだろうか。
すると追儺式に登場する『無明鬼』とは『明りのない鬼」という意味なので、マハーカーラ(大いなる闇)と同一神なのかもしれない。
これは興福寺追儺式に登場した大黒天
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1⃣かまど神
一般にはかまどや炉のそばの神棚に幣束や神札を祀るが[6]、祀り方の形態は地方によって様々である。東北地方では仙台藩領の北部(宮城県北部から岩手県南部)では、竈近くの柱にカマ神やカマ男と呼ばれる粘土または木製の面を出入口や屋外に向けて祀る[7]。新築する際に家を建てた大工が余った材料で掘るもので、憤怒の形相をしており陶片で歯を付けたりアワビの貝殻を目に埋め込んでいるのが特徴[8]。信越地方では釜神といって、約1尺の木人形2体が神体であり、鹿児島県では人形風の紙の御幣を祀っている。竈近くの柱や棚に幣束や神札を納めて祀ったり、炉の自在鉤や五徳を神体とする地方もある[1]。島根県安来市につたわる安来節も火男を象徴しているということが言われている。沖縄、奄美群島ではヒヌカン(火の神)といって、家の守護神として人々には身近な神である。
日本の仏教における尊像・三宝荒神は、かまど神として祀られることで知られる。これは、清浄を尊んで不浄を排する神ということから、火の神に繋がったと考えられている[9]。また近畿地方や中国地方では、陰陽道の神・土公神がかまど神として祀られ、季節ごとに春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭へ移動すると考えられている[9][10]。
神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である
2⃣ひょっとこは火男
東北地方ではひょっとこをかまど神として祀る地方があり、次のような伝説が伝えられているという。
おじいさんは火の神様から変な顔をした男の子をもらい、「火男」と名付けて育てた。 火男はヘソをいじりすぎて腫れてしまった。 おじいさんがキセルでヘソを叩くと小判が出てきて、ヘソは小さくなった。 それを見たおばあさんは、巨大なキセルを持って火男を追いかけまわし、火男は、火になってかまどに飛び込み、火の神様のもとへ帰ってしまった。 おじいさんは悲しんで、火男のお面を彫ってかまど近くの柱にかけた。
この火男が訛ってひょっとこになったという。
3⃣火男、防火の神から安産の神に転じる。
京都のお盆の風物詩といえば六斎念仏だが、その六斎念仏の演目の中に『祇園囃子』がある。 祇園囃子というと祇園祭の山鉾がかなでるゆっくりしたリズムを思い浮かべる方も多いかもしれないが、 六斎念仏の祇園囃子はそれよりも少しテンポが早い。
京都にはいくつかの六斎念仏保存会があり、同じタイトルの演目でも微妙に内容がちがっていたりするのだが 祇園囃子の中に、ひょっとことおかめが登場するものがある。
ひょっとこは手に「火の用心」と書かれた巻物をもっている。  梅津六斎
おかめはお腹の大きい妊婦の姿をしている。 
梅津六斎
これは、かまど神=火男=ひょっとこが、防火の神、安産の神に変身したということだろうと思う。
なぜならば、このような言い伝えがあるからだ。 和歌の神・柿本人麻呂は人丸ともよばれており、「火止まる」から「防火の神」へ、「人産まる」から「安産の神」に転じたと。
かまど神=火男=ひょっとこも「火止まる」から「防火の神」へ、「人産まる」から「安産の神」に転じたと考えられるだろう。
3⃣ひょっとこの正体は聖徳太子?
私はひょっとこの正体は聖徳太子かもしれない、と思ったりする。 その理由は、2⃣でお話しした伝説に登場する子供は「火男」ということだったが、 「ひょうとく」と言う名前であったともつたえられているのだ。 「ひょうとく」と聖徳は音がよく似ている。
音が似ているというだけならば、説として弱いが、ほかにも理由がある。
京都の千本釈迦堂にはこんな話が伝えられているのだ。
千本釈迦堂 おかめ千本釈迦堂の本堂を建てるとき、長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)という大工の棟梁が謝って柱を短く切ってしまった。 棟梁はどうしたものかと困り果てていたが、妻の阿亀(おかめ)が、全ての柱を短く切って升型の受けを作ってはどうかと助言した。
棟梁はおかめの助言に従って無事本堂を完成させることができた。
妻のおかめは夫の失敗が人に知れないようにと、本堂の完成を待たずに自殺した。
大報恩寺 柱の升組
大報恩寺本堂 矢印が示す場所に升受けがある。
しかし、このおかめ伝説には、ちょっとひかかるところがある。
それは、おかめの夫の大工の棟梁、長井飛騨守高次についてである。
飛騨守というのは役職名である。
古代から中世にかけて、朝廷は各地に国司という行政官を派遣していた。
その国司には、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)などの役職があった。
つまり、長井飛騨守高次とは、飛騨守、飛騨の国司なのである。
飛騨守という役職についている役人が兼業で大工の棟梁をやったりするだろうか?
飛騨は過疎地帯であったため、租庸調(税金)のうち庸調が免除されていた。
そのかわり、飛騨の人々は大工として挑発されたので、大工業が発達した。
おかめの夫の長井飛騨守高次は創作の人物で、建築の神なのではないだろうか。
建築の神として信仰されているのは聖徳太子である。
世界最古の企業は大阪にある金剛組だといわれています。
創業は飛鳥時代の578年で、現在も四天王寺からほど近い場所にある。
聖徳太子=ひょうとく=ひょっとこ 聖徳太子=建築の神=長井飛騨守高次 ∴ひょっとこ=長井飛騨守高次
そしてひょっとことペアになるのはおかめである。 そういうわけで長井飛騨守高次の妻はおかめであるとして、千本釈迦堂の伝説は作られたのではないか?
この千本釈迦堂には聖徳太子の信仰があったとおもわれるふしもある。 大報恩寺を出ようと門の方へ向かって歩いていくと、門の手前に小さなお堂があり、お堂の上部には、太子堂と記した額がかけられていた。
大報恩寺 太子堂 説明板
お堂の額には太子堂と記されているが、説明板は「北野経王堂 願成就寺」となっていた。
説明板には次のような内容が記されています。
1391年、明徳の乱がおこった。
1392年、足利義満は明徳の乱の戦没者を悼んで北野経王堂 願成就寺という大寺を建てた。
北野経王寺 願成就寺では、毎年10月、10日間に渡って万部経会を行って戦没者を供養していた。
江戸時代に荒廃し、1671年に解体縮小されて小堂となったのがこのお堂である。
説明板には、このお堂になぜ太子堂という額がかけられているのかの説明はなかった。 しかし、太子とは聖徳太子のことではないだろうか。
4⃣応仁の乱の戦火をまぬがれた寺
大報恩寺は1223年、義空上人が釈迦念仏道場として開いた。
この付近は西陣と呼ばれますが、それは『応仁の乱(1467-1477)』で西軍の陣が置かれたことに由来する。
このとき千本釈迦堂にも兵火が及びましたが、奇跡的にも焼失をまぬがれた。
「応仁の乱で焼けなかったのは火の神のご利益にちがいない」と、人々は噂したことだろう。
竜斎閑人正澄画『狂歌百物語』より「神隠(かみかくし)」の題で描かれた隠し神(右)
1⃣神隠し 子供などが行方不明になって、見つからず、いつまでたっても帰ってこないような場合、 「神隠しにあった」などという。 神隠しを行う神を隠し神というそうである。
この神の正体については、考察するまでもなく、行方不明になったのは神の仕業(悪い神を含む)だと考えたか そう自分の心に言い聞かせることで、大切な人がいなくなってしまったことを自分自身を納得させようとしたものといえるだろう。
2⃣人身売買
神隠しとは行方不明のことなので、その原因としては、迷子・家出・誘拐・遭難事故のほか、間引きなども考えられる。 誘拐の目的は昔なら人身売買がありそうである。
現在の日本にはネトウヨと呼ばれる人々がいる。 ネトウヨはネット右翼の略。 その定義をウィキペディアから引用させていただこう。
ICTディレクターの横田一輝は「特定の国や人種に対する差別的発言を繰り返したり、新聞社の社説や記事、歴史修正、テレビ局の放送内容に対する批判、などを、誹謗中傷、侮蔑的表現として掲示板やブログに投稿したりする人々が「ネトウヨ」と呼ばれる[1]。」と解説している。
渡辺豪[注釈 2]によれば、過激な表現で排外主義などをインターネット上で発信する人々の呼称であるという[11]。辻大介[注釈 3]によれば、厳格な定義はないが、おおよそ、保守的で排外主義的な書き込みや情報発信を行うユーザーのことを指すといい、排外主義的な傾向が薄いものを「ネット保守」と呼んで「ネット右翼」と区別する向きもある、という[12]。安田浩一は「ネット掲示板などを通じて「愛国」や「反朝鮮」「反中国」「反サヨク」を呼び掛ける人たちは、一般的にネット右翼と呼称される」と述べた[13]。 ネトウヨと呼ばれる人々の中には、「日本すばらしい国」「日本には奴隷がいなかった」という人が少なくない。
奴隷とは、他人の所有物とされ、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた人々のことである。 ネトウヨさんたちは、何を根拠に「日本には奴隷がいなかった」と言っているのだろうか。
3世紀頃の日本にあったと考えられる邪馬台国では、魏王へと生口を献上したとか、卑弥呼の死の際、100人の奴婢が殉死させられたなどの記述が魏志倭人伝にある。
律令制の時代には五色の賎といって、5段階の賎民がいたが、そのうち下の2段階が奴婢(売買されていた)だった。 平安時代の宇多天皇、醍醐天皇の御代に奴婢廃止令がだされたが、 その後も売買される奴婢は存在していたようである。 戦国時代には戦のあと、兵士が人狩りすることが半ば容認されていた。これを「乱妨取り」という。 大坂夏の陣屏風には「乱妨取り」の様子が生々しく描かれている。 人狩りされた人は売買されたのだという。
江戸幕府は度々禁令を発して人身売買を禁止している。 ということは、江戸時代にも奴隷はおり、人身売買が行われていたということだ。
3⃣間引き
行方不明のほか、間引きをして神隠しにあったことにした、というケースもありそうだ。
間引きについてはこちらの記事に書いた。
間引きのことを「返す」「戻す」といった。どこに返したり、戻したりするのだろう。 神に返したり、戻したりするのではないか。 『7歳までは神の領域』といわれることがあるが、その意味は「7歳までは神の領域だから殺して神に返しても構わない」という意味なのかもしれない。
7歳までは神のうち――かつての日本には、このような悲しい言葉があった。簡単に言えば「7歳まではいつ死んでもおかしくない」という意味である。
同時期の同地方における年齢別の死亡率を見ていくと、ある年代において、女性の死亡率が男性のそれを大きく上回っていることに気づく。その年代とは、20代~40代前半である。特に、20代後半の女性の死亡率は、なんと10パーセントを超えている(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』)。
この理由は、あえて説明するまでもない。出産に関連して、死亡しているのである。先ほどのデータから言えば、20代後半の女性のうち、10人に1人以上が出産の際、あるいはそのすぐ後で、命を落としているということになる。出産数約5.8人という数字の背後に、これほど厳しい現実があったことも知っておく必要があるだろう。
4⃣叺親父
叺親父(かますおやじ)
青森県津軽地方。叺(袋の一種)を背負った鬼のような大男が、泣いている子供を見つけると、叺の中に無理やり詰め込んでさらって行ってしまうという[5][7]。同様の妖怪は秋田県鹿角地方では叺背負(かますしょい)の名で伝わっている[7]
叺とはわらむしろで作った袋のことである。
また「かます」と言う言葉がある。 英語のdoのような意味をもつ。
「何ぼけかましとるんや」は「何をぼけているんだ」 「一発かましてくるわ」は「一発やったるで」みたいな意味である。 子どもをさらうことも「かます」ということは可能である。
ちょっと苦しいか。笑。
5⃣神隠しと櫛
『吾妻鏡』の記述として、平安時代の武将平維茂の子である平繁成は、誕生間もなく行方不明となり、4年後、夢の中のお告げで狐塚[2]の中から発見されたという伝承がある。この時、狐が翁の姿に変じて現れ、刀と櫛を与えていった(この刀と櫛は家宝となった)。権威付けのための伝承ではあるが、神隠しの記述としては古い部類に入り、後述の沖縄の伝承と含めて、東北から沖縄にかけて、神隠しにあった者と櫛が関連して語られていることが分かる。
沖縄県では、神隠しを物隠しとも呼び、いったん物隠しに逢った者は自分の櫛を持って帰ろうと戻って来る。そして再び出て行ってしまうとされる。そのため、物隠しに逢った家族は早速当人の櫛を隠して取られないようにする。それでも、締め切っている部屋の中から知らないうちに取られてしまうこともあるとされる。研究者によると、櫛と神の関係をよく示している伝承としている。神を祀る者は櫛を必要としたため、物隠しに逢った者は櫛を取りに戻るとされる。近世になり、天狗の仕業と捉えるようになった本州より、古い型の伝承と見られる。
これは、「かます=叺」の語呂合わせよりも強くそう思うのだが 「櫛=奇し」の語呂合わせになっているのではないだろうか。
「櫛」という文字が名前についている神は結構おられる。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命 天神櫛玉命 櫛八玉神 玉櫛媛 櫛磐間戸神 櫛名田姫神 櫛真智命 などである。
こんな話がある。 大国主の前に光り輝く神があらわれて、「私はあなたの幸魂・奇魂」といった。こうして祀られたのが大神神社であると。
また、髪は神の語呂合わせになっているため、髪にさす櫛が神聖視されたという側面もあったのかもしれない。
1⃣権五郎火
権五郎火(ごんごろうび)
新潟県三条市本成寺地方に伝わる。五十野の権五郎という名の人物が旅の博打打ちとサイコロの博打で争った末に大勝ちし、良い気持ちで帰っていたところ、夜道を追って来た相手の博打打ちに殺害され、その怨念が怪火と化したものとされる。付近の農家では、この権五郎火は雨の降る前触れとされており、権五郎火を見た農民は稲架の取り込みを急いだといわれている[14]。
2⃣五郎は御霊
オヤジギャクというと、寒いイメージを持たれるかもしれないが(笑) 古において、それは掛詞と呼ばれ、和歌に二重の意味を持たせるテクニックでもあった。
そして、こんな話をきいたことがある。 五郎は御霊の掛詞である、と。
御霊とは、政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人(怨霊という)を慰霊し神として祀ったもののことである。
そこから権五郎もまた御霊ではないのか、と思えてくる。
ネットで検索してみると御霊神社(鎌倉権五郎神社)などがでてくる。 鎌倉権五郎景政(平影政)を主祭神とする神社であるという。 やはり五郎だけでなく、権五郎も御霊なのではないだろうか。
とすれば、五十野の権五郎は御霊だということになる。
2⃣五十野の権五郎は太陽神? 「権五郎火は雨の降る前触れ」という言葉から、次の言い伝えを思い出す。
晩年、小野小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。 すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。 (妙性寺縁起)
五十日→五十火→火事になる→五十河→河の水で火が消える→火止まる→ひとまる→人産まれる このような語呂合わせのマジックで村の火事はなくなり、女性は安産になったというわけである。
小野小町は日の神(天照大神)であったが、火の神となり、さらに河の神(水の神)に転じた物語であるとも考えられる。
五十野の権五郎も、日の神→火の神→河の神(水の神)と転じ、 その結果、「権五郎火があらわれると、雨が降る」と言われるようになったのだろうか。
3⃣権五郎火は天然ガスの自然発火?
権五郎火の舞台は新潟県三条市ということだが、ここにはかつて大面油田があった。
権五郎火伝説が伝えられる本成寺はこちら↓
JR帯錦駅の東が大面。このあたりに大面油田があった。 距離は6kmほど。
1916年(大正5年)から1963年(昭和38年)まで石油の採掘が行われていたらしい。
またそれ以前にも、「地中の火」「燃える風」と呼ばれた怪現象があり、これらは天然ガスの自然発火だと考えられている。
なぜ天然ガスが自然発火すると、雨が降るのか。 私の友人がこんなことを教えてくれた。
地中にある天然ガスは気圧が低くなると、地上にでてくる。 気圧が低いと雨になるのではないかと。
4⃣権五郎はなぜさいころ博打をやっていたのか。
権五郎はなぜさいころ博打をやっていたのだろうか。 これもオヤジギャグが関係しているかもしれない。
鉄火場という言葉がある。
鉄火場(てっかば) 丁半博打の形の崩れたものをいう。賽子(さいころ)2個を壺に入れ、振って出た目の合計が丁(偶数)か半(奇数)かで勝負が決まる。鉄火場は、専門の「壺振り(つぼふり)」がいなくてもよく、むしろ賭客が「廻り壺(まわりつぼ)」といって交代で壺振りを行う。壺振りが胴元を兼ねるものに「四三(シソウ)」と「四六(シロク)」があり、これらは丁と半が一致しなくてもよく、儲けがあれば胴元が取り、損をすれば胴元が負担する。ただし、4と3、あるいは4と6の目が出ればその半額が胴元の利益になる、といったものである。鉄火場も、賭場を開いた者にテラ銭(寺銭)を支払う。
鉄火(てっか・鐡火)とは、鍛冶などにおいて鉄に熱を加えて赤く焼けている様や、それらを鍛造する時の火花をさす。または鍛冶の事。または、マグロの赤身料理などに使用される名。 ~略~ 鉄火塚 - 地境や入山権や土地の所有をめぐって行われた火起請のその紛争地に慰霊や祈念として建立された塚。元和5年(1619年)に、現在の滋賀県日野町で鉄火裁判が行われ、それを祈念して日野町音羽の雲迎寺(うんこうじ)の境内には「喜助翁鉄火記念の碑」が建てられている。このような火起請が行われた場所は、古くから神域とされてきたところも多く、そのため紛争の鎮魂の理由だけでなく、日本各地に鉄火塚や鉄火の道祖神が存在するが、その土地に鍛冶の工房があり、町名や村名や字(あざな)が鉄火や鍛冶であることから、たんに鉄火という塚がある場合もある。
火起請(ひぎしょう)とは、中世・近世の日本で行われた神判の一種で、火誓(かせい)、鉄火(てっか)、鉄火起請(てっかきしょう)とも称する。赤く焼けた鉄(鉄片・鉄棒)を手に受けさせ、歩いて神棚の上まで持ち運ぶなどの行為の成否をもって主張の当否を判断した。
博打→鉄火場→火起請(鉄火) ということは、何か裁判に関係しているのだろうか? そういえば、ウィキ「大面油田」には次の様に記されている。
会社は石油の収入で潤ったが、その一方で田畑の作物への補償話もあって、頭を悩ましたと伝わる。
新潟県三条市大面付近に鉄火塚は無いだろうかと思って調べてみたが、残念ながら、わからなかった。
また鉄火は天然ガスの自然発火の比喩であるかもしれない。
①かなつぶて
かなつぶては、大和国奈良坂[注 1]で金礫という武器を使って人々から略奪を働いたという化生の者。金礫、金飛礫とも。平安時代末期の治承3年(1179年)頃に平康頼が記した仏教説話集『宝物集』の中で鈴鹿山の立烏帽子と並んで奈良坂のかなつぶてという盗賊が処刑されたことが記されている[注 2][1]。
御伽草子版
『宝物集』で記された金礫の説話が御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』などの田村語りに採り入れられると、金礫を打つこの化生の名前として、こんざう[原 1]、りゃうせん(りょうせん)[原 2]などがみえる。『田村の草子』によるあらすじは次のとおりである。
大和国奈良坂に金礫を打つりょうせんという化生の者が現れて都への貢ぎ物や多くの人の命を奪ったので、帝は稲瀬五郎坂上俊宗に鬼退治の宣旨を下した[2]。俊宗は500騎の兵を連れて奈良坂へと向かい、良い小袖を木々の枝に掛け並べてりょうせんを待った[2]。すると背丈が2丈(約6メートル)もある異様な風体の法師が現れ、並び立てた着物を置いていけと大笑いする声が聞こえた[2]。俊宗が着物を渡すわけにはいかないというと、法師は三郎礫と名付けられた金の礫を打ち、俊宗は扇で落とした[2]。続けて次郎礫が打たれるが、これも俊宗に打ち落とされ、最後に太郎礫を打つも鐙の端で蹴落とされた[2]。りょうせんは山へと逃げはじめるが、俊宗が三代に渡って受け継いできた神通の鏑矢を射放つと7日7夜に渡ってりょうせんを追い続け、りょうせんはついに降伏する[2]。りょうせんを捕縛した俊宗は都へと凱旋して御門に閲覧し、りょうせんは船岡山で処刑されることとなった[2]。その首は8人ががりで切り落とされて獄門にかけられ、行き交う者たちにさらされた[2]。
⓶金礫とは何か?
上に「法師は三郎礫と名付けられた金の礫を打ち、俊宗は扇で落とした[2]。続けて次郎礫が打たれるが、これも俊宗に打ち落とされ、最後に太郎礫を打つも鐙の端で蹴落とされた」とある。
金礫とはなんだろうか。 ウィキペディアは次の様に説明している。
武器としての金礫
『田村の草子』では、りょうせんが金礫を打つ腕前は唐土にて500年、高麗国にて500年、日本で80年、奈良坂で3年かかって磨いたものであったという[2]。また太郎礫、次郎礫、三郎礫という3つの金礫を使い、太郎礫は600両の金を使い山を盾にしようとも微塵に打ち崩してしまうほどの金の礫で、三郎礫は300両の金の礫である[2]。
「小石を投げる」ことを「飛礫(つぶて)を打つ」という。 つまり、りょうせんは金礫を投げる修行を、中国で500年、朝鮮で500年、奈良坂で3年したということだろう。
りょうせんの金礫は太郎礫、次郎礫、三郎礫の三種類。 太郎礫・・・600両の金を用いて作った礫。礫から身を守るために山を盾にしても破壊する。 三郎礫・・・300両の金を用いて作った礫。
③奈良坂は都に通じる坂
次に奈良坂の場所を確認しよう。 グーグルマップで奈良坂を検索すると京都府木津川市市坂奈良坂とでてくるが、ここではないだろう。 かねつぶてがあらわれるのは「大和国奈良坂」とあり、大和国とは奈良のことなので、 奈良市の般若寺・奈良豆比古神社付近の坂のことを言っていると思う。
奈良坂は平安京の南に位置する。古には京への貢物の運搬にこの奈良坂が用いられていたのだろう。
④三人翁と郎礫、次郎礫、三郎礫は関係ある?
奈良坂にある奈良豆比古神社には伝統芸能「翁舞」が伝えられている。 能(江戸時代までは猿楽といった)に翁という作品があり、翁舞はこの翁のルーツであると考えられるのだが 能の翁に登場する翁は1人であるのに対し、奈良豆比古神社の翁舞には三人の翁が登場し、三人翁と呼ばれている。 
奈良豆比古神社 翁舞
りょうせんの金礫は太郎礫、次郎礫、三郎礫の三種類だったことを思い出してほしい。 三人翁はりょうせんの金礫と関係がありそうにも思える。
⑤浄人王は弓削浄人?
奈良豆比古神社には翁舞に関係する、次のような伝説が伝えられている。
志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。 春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。 兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。 そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。 都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。 桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。 春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。 兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。 そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。 都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。 桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
『桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、』 とあるが、これは皇族であった浄人王を臣籍降下させて弓削姓を与えたということだろう。 臣籍降下した浄人王は弓削浄人と名乗ったのではないか? 弓削浄人と言う名前には聞き覚えがある。
奈良時代、女帝の称徳天皇の寵愛をえて政治の実権を握った僧侶、道鏡。 宇佐八幡で「道鏡を天皇にすべし」との神託があり、称徳天皇は確認のため和気清麻呂を宇佐に派遣する。 しかし和気清麻呂は「「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし(道鏡を天皇にするべきではない)。」とする別の神託をうけとって都に戻り称徳天皇に伝えた。 これを聞いた称徳天皇は怒り、和気清麻呂を流罪にしてしまう。 しかしその翌年、称徳天皇は急死し、道鏡は失脚して下野へ流罪となり、失意のまま亡くなった。 弓削浄人はこの道鏡の弟である。 道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴(浄人王の兄弟が安貴王なので)というのかもしれない。
⑥ハンセン病を患ったのは志貴皇子だった?
5⃣の伝説では、「志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患って奈良坂の庵で療養した。」とある。 に「しかし『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』には、奈良豆比古神社の地元の語り部・松岡嘉平さんが上の伝説とは別の語りを伝承していると書いてあった。
志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。
地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。
⑦志貴皇子と春日王は同一人物?
志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。
そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになる。
志貴皇子・・・春日宮御宇天皇・・・田原天皇
春日王・・・・・・・田原太子
皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。 志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。
神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
さらに『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されている。
とすれば道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高い。
すると5⃣の伝説は、ハンセン病を患ったのは志貴皇子、浄人王は弓削浄人、安貴王は弓削道鏡ということになる。
⑧志貴皇子暗殺説
本のタイトルや著者名を忘れてしまったのだが(すいません!)
以前図書館で借りた本次のような内容が記されていた。
❶ 日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせる。
また笠金村は 次のような歌も詠んでいる。
御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)
こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。
これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたように思われる。
❷ 萩は別名を『鹿鳴草』というが、日本書紀に次のような物語がある。
雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないか。
笠金村は
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに と歌を詠んでいるが、
志貴皇子を野辺の秋萩にたとえており、志貴皇子が謀反人であることを示唆しているように思われる。
❸ のちに志貴皇子の子・白壁王は即位して光仁天皇となっていることから、志貴皇子には正統な皇位継承権があったのではないか。
この一連の推理が正しければ、道鏡にも正当な皇位継承権があったということになる。 すると称徳天皇が和気清麻呂の奏上にかんかんになって怒った理由がわかる。 「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」とは何だ。 道鏡には正当な皇位継承権があるではないかと。
⑨猿丸大夫は志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?
京都府宇治田原市・大宮神社の境内に「田原天皇社舊(旧)跡」がある。 田原天皇とは7⃣に書いたように、志貴皇子のことである。 宇治田原という地名は志貴皇子=田原天皇にちなむ地名なのではないだろうか。 田原天皇社舊(旧)跡
そしてこの大宮神社からほど近いところに、猿丸神社があり、猿丸大夫を祀っている。
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき/猿丸大夫
猿丸神社 歌碑
猿丸神社境内にはこの歌を刻んだ歌碑があり、楓の木が植えられている。 たぶん、この歌にぴったりだということで、石碑の横に楓を植えたのではないだろうか。
しかし、実はこの歌は楓の紅葉を歌った歌ではない。
古今和歌集は隣あった和歌は同じ語句が用いられている。
214. 山里は 秋こそことに わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/読み人知らず
216 秋はぎに うらびれをれば あしひきの 山したとよみ 鹿のなくらむ/読み人知らず
214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっている。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じだ。
しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「紅葉」と「秋はぎ」でつながっているとみられている。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、萩の黄葉だということになる。
また『定家八代抄』では次のような順番で歌が掲載されている。
a.下もみぢ かつ散る山の 夕時雨 濡れてや鹿の 独り鳴くらん
b.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
c.秋萩に うらびれ居れば あしびきの 山下とよみ 鹿の鳴くらん
こちらも古今和歌集と同じように語句で歌と歌がつながっているようである。
(番号もつけられているのかもしれないが、わからないので、仮にabcとしておく。)
こちらでもやはりbの歌の「もみぢ」とcの歌の「秋萩」が対応しており、もみぢとは萩の黄葉ということになる。
「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思える。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく)
下の写真は志貴皇子邸宅跡と伝わる奈良市・白毫寺であるが、子の挽歌にちなんでか、境内にはたくさんの萩が植えられている。
猿丸神社には狛犬ならぬ狛猿が置かれているが、その狛猿は能(猿楽)のルーツかもしれない翁舞の三番叟(さんばそう)の姿をしている。(能・翁や奈良豆比古神社の翁舞では長い烏帽子をかぶった三番叟の舞がある。)
鈴の代わりに御幣を持っているが、細長い烏帽子など同じである。
猿丸神社 狛猿
奈良豆比古神社 翁舞 三番叟
この猿丸神社の狛猿は猿丸大夫そのものの姿であると私は思う。
各地の神社に猿の像があるが、それらの猿の像は翁舞の三番叟の姿をしているものが多い。
新日吉神社 猿のレリーフ
そして高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、猿丸大夫とは道鏡の弟の弓削浄人のことだと伝えられているのだ。
すでにお話ししたように道鏡は称徳天皇が次期天皇にしたいと考えていた人物だったが、称徳天皇が急死したことによって失脚し、下野に流罪になった。
このとき道鏡の弟の弓削浄人は土佐に流罪となったのだ。
そして道鏡が流罪になった下野には二荒山神社があるが、かつて猿丸社とも呼ばれており、二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。
二荒山神社の隣には日光東照宮があるが、そこには有名な三猿のレリーフがある。
日光東照宮 三猿
また猿丸大夫とは道鏡のことであるとする説もある。
私はこの三猿のレリーフをみて、これは三人翁の姿であり、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の姿でもあるのではないかと思った。
そして、猿丸大夫は政治的に不遇であった父と二人の息子、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称なのではないだろうか。
⓾猿の撃退法
上の記事、3ページに「サルの撃退法口承」について次のように記されている。
左礫の村では、農作物を荒す猿を追い払うための方法として、次のようなことを行ったと記されている。
❶藁に火をつける
❷葬式のマネをする。
❸サル撃ち
❹槍でついた(明治時代)
❺サルマキ 雪が深いとき、猿が足から血を出すくらいに追う。
❻杖地区 猿をとると祟りがある
❼田に入り込んできた猿に石をなげて追った
❽殺した猿はみせしめに柿の木につるしたの図がある。
「❼田に入り込んできた猿に石をなげて追った」とある。 礫とは小さい石のことなので、これはまさしく「礫を打つ」ことである。 礫を打って、猿を追うわけである。
「かなつぶて」とは志貴皇子、道鏡、弓削浄人の三猿が金の礫に化成したものなのかもしれない。
片輪車 著者不詳『諸国百物語』より「京東洞院かたわ車の事」
1⃣片輪車
京都の片輪車
延宝年間の怪談集『諸国百物語』巻一「京東洞院かたわ車の事」に記述がある。京都の東洞院通で毎晩のように片輪車が現れ、人々はみな外出を控えていた。ある女が興味本位で夜、家の扉の隙間から外を覗くと、牛車の車輪だけが転がって来て、車輪の中央には凄まじい形相の男の顔が小さな人間の足をくわえており「我を見るより我が子を見ろ」と叫んだ。驚いて女が我が子のもとへ行くと、子供は足を裂かれて血まみれになっていた。片輪車がくわえていたのは、その子供の足だったのである[1]。
滋賀県の片輪車
寛保年間の雑書『諸国里人談』に記述がある。寛文時代の近江国(現・滋賀県)甲賀郡のある村で、片輪車が毎晩のように徘徊していた。それを見た者は祟りがあり、そればかりか噂話をしただけでも祟られるとされ、人々は夜には外出を控えて家の戸を固く閉ざしていた。しかしある女が興味本位で、家の戸の隙間から外を覗き見ると、片輪の車に女が乗っており「我見るより我が子を見よ」と告げた。すると家の中にいたはずの女の子供の姿がない。女は嘆き「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車のやるかたわかぬ子をばかくしそ」と一首詠んで戸口に貼り付けた。すると次の日の晩に片輪車が現れ、その歌を声高らか詠み上げると「やさしの者かな、さらば子を返すなり。我、人に見えては所にありがたし」と言って子供を返した。片輪車はそのまま姿を消し、人間に姿を見られてしまったがため、その村に姿を現すことは二度となかったという[2]。
2⃣江戸時代は車の使用は禁止だった?
延宝とは元号のひとつで、期間は江戸時代の1673年から1681年まで。
江戸時代には人が移動する際には徒歩、または駕籠がよく用いられていた。
これについて、江戸時代には車は禁止だったという話を聞いたことがある。
たとえば「教えてgoo」には、こんな回答がある。
技術的問題ではなく、幕府が軍事的な配慮から車の使用を禁じていたからです。
その為、東海道など主要街道では大八車もありません。
例外的に許されたのが京都でして、物流の関係で昔から使われていたので許可されたようです。
これ以外にも名古屋、静岡、江戸、仙台・・・の町にも許可されたようです。
これらの街には「くるまみち」という地名が残り、当時を伝えております。
2004年に投稿されたもので、参考URLのリンクが貼られているが、リンク先記事は削除されており、確認ができない。
3⃣江戸時代、一部地域では車が使用されていた。
江戸に入ってくる商品荷物は、上方・東北地方より船による場合と陸上を牛馬背で運送される場合とがあった。市内における運送手段には牛馬背、人背負・大八車・牛車が使用されていた。
~略~
貴族の乗用車である牛車(ぎっしゃ)は京都で発達していたが、江戸時代には衰退していた。荷物運搬用の牛車(うしぐるま)は、京都・駿府(静岡市)・江戸・仙台、幕末には箱館等の限定された都市でしか使用されなかった。
~略~
牛馬だけでなく人力による荷車輸送も全国的な展開はなかった。
~略~
全国的には未発達の車輌交通が、江戸においては大八車、牛車ともに許可されており、改めて近世都市江戸のもつ意味が問題となろう。なお、辞典においては「江戸は徳川家康の入国以来、大津牛を招いて荷車に用い、牛原や車町に配置されて、建築資材を中心とする輸送にあてたが、大八車の普及につれて、地名にその面影を残すにすぎなくなった。」と説明されている(『国史大辞典4』、九四三頁、吉川弘文館、昭和五十九年、参考文献は明記されていないが、司馬江漢「春波楼筆記」かと思われる)。ここでは地名だけでなく実態を追求するつもりである。
本稿は、錦絵、絵馬、地誌類の挿絵などに出ている牛・牛車の資料も掲載し検討の素材とした。
タイトルは「都史紀要32 江戸の牛」となっており、目次をみると興味をそそられるタイトルが並んでいる。
早速ネット注文して、読んでみた。
内容をざくっとまとめてみる。
①1707年に江戸橋広小路に200坪の牛置場がつくられた。
諸国より海・川を船で運ばれてきた荷物は、牛置場に待機する牛車で市中の各問屋へ送られた。
⓶家康 全国統一後、「伝馬の制」を確立した。
「伝馬の制」とは、 公用の書状や荷物を、宿場ごとに人馬を交替して運ぶ制度のこと。
大伝馬町、南伝馬町・・・道中筋伝馬御用
小伝馬町・・・・・・・・江戸府内伝馬御用
③1657年、江戸大火後の復興事業後、大八車が使われる。
1662年「江戸名所記」 に地車(小車)、代八と記されている。
飼料代がかからないなどメリットがあり増えた。馬持の荷物を奪う。
伝馬町、大八車に口銭をかけることを出願した。
極印賃徴収は元禄16年12月 諸運上停止に関連して中止
④人力による荷車は江戸のほか、京都、大坂のベカ車、名古屋の大八車・小車・貧乏車・鬼カミ・しゅら、駿府(静岡市)など一部の地域で使用されたのみ
⑤幕府は、人足と馬背による場合を公的機関としていたため、牛車・大八車を限定した地域にしか採用せず、伝馬町・馬持の保護をした。
⑥1845年、中山道樽井・今須宿(岐阜)に板車導入願がだされた。(樽井がどこにあったのかについては、わからなかった。)
1857年 使用許可される。
⑦1808年、馬持が「鞍判を受けて伝馬助役を務めた上で商売をしているが、諸商人の手引車と荷付牛が荷物を江戸市中に運んでいて、商売あがったりなので、これらを禁止してほしいと願い出て認められた。
⑧京都の牛車は1614の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た。
京車・伏見車・鳥羽車・嵯峨車などにわかれていた。
京車の主要業務は年間50~60万俵の大津為登米輸送のほか、幕府御用。
http://liaj.lin.gr.jp/uploads/161-3.pdf(リンク先に京車の浮世絵あり)
⑨江戸の牛車は寛永期(1624~43]に土木普請工事のため京都から招き、芝高輪に居住地をさだめ、四日市(江戸橋広小路)・八丁堀牛置場を拠点として活動していた。
⓾安藤広重の高輪を描いた浮世絵53点中10点に牛車が描かれている。
1829年成立の江戸名所図会には高輪牛町、尾張町、魚籃観音堂、麻生一本松、神田明神祭礼に牛車の絵がある。
⑪狂歌、川柳にも牛車をよんだものがある。
⑫京都周辺では、淀・納所・横大路・上鳥羽・京都苦情にいたる鳥羽街道、伏見、武田街道、大津、逢坂、山科、日岡、粟田口にいたる山科街道で牛車が行われていた。
山科街道は未知の損傷を防ぐため敷石舗道だった。
⑬「摂津名所図会」では武庫の山中で採掘される御影石を諸国へ運送するのに牛車を利用している。
⑭1772年頃より西宮町ないの酒屋から積問屋、咳所までの咲け荷物浜出しの運搬にあたる西宮地車組が開始された。
⑮「明治政府になって車通行は解禁となり、馬車・牛車・荷車・人力車の第数は表八のようにいずれも急速にのびてるが」と50pに記されている。
解禁とは「法律、その他のとりきめで禁止していたことを、解きゆるすこと」である。
「解禁となり」という言葉は、車が禁止されていたという風にもよめる。
⑯1707年 町触などから交通規制があったことがわかる。
⑰宰領付添 は牛車・大八車で犬などをひき殺さないため、生類憐みの目的から1686年に出されていた。
⑱牛の産地・・・出羽・省内・陸奥・会津・南部
肥育地・・・飛騨・越中・越後・信濃
⑲駿府への牛車導入は1609年城廊工事のため伏見・鳥羽から招聘されていた。
4⃣幕末期、車使用許可申請が出されている。
↑ こちらの記事には、次のような内容が記されている。
❶幕末期の東海道では「車」が使用されており、旅人を載せて運ぶ営業もなされていた。
❷江戸時代、健康な一般人は武士も庶民も一切駕籠に乗ることは禁止されていた。
駕籠は街道筋では旅客用として許可されていた。(宿駕籠)
❸近世大阪では「べか車」が用いられていた。
❹シュンベリー 「江戸参府随行記」の記述
「この国の道路は一年中両行な状態であり、広く、かつ排水用の溝を備えている。」
シーボルトの記述
「地面を平らにし、数インチの厚さに小石・丸石または砂利を敷き、踏みかためてから、歩行者が歩きやすいように砂を撒く。(中略)また必要に応じて堀・堤防、水路を設けている」
❺車があまり用いられていなかった理由
・日本は地勢が急峻で車両交通に不便
・架端技術が未熟だった
・街道の路面を痛ませないため
1774年、「べか車の使用が橋の損傷を招くのでべか車の端上通行禁止」の触書がでている。
・馬方や船方の営業を脅かされる。
「べか車の進出により馬方や船方の荷物運送の営業権が脅かされるので使用をさしひかえよ」との触書が1791年、1799年にでている。
❻1845年、 中山道 垂井・今須宿、人を載せる車の使用許可を求め、3年後許可される。
1854年 東海道二川、御油、赤坂、藤川宿も願いでて許可される。
1862年全面許可
❼1865年、松兵衛が人と荷物を輸送する営業許可を江戸町奉行に出願したが認められなかった。
しかし、そこに「右は東海道岡崎辺りより草津宿までの間にてもっぱら合用い」とあり、
岡崎―草津間は旅人を車に乗せて運ばれていたことがわかる。
5⃣車の使用を禁じる制度の名前がでてこない?
私の疑問は、幕府は車の使用を禁じていたというが、それはなんという名前の制度で、またどのような形でその制度が広報されたのか、ということである。
例えば、4⃣❺に触書の内容がでてくるが、このようなものは残っていないのだろうか。
検索してもでてこない。調べたりないのかもしれないが。
そうではあるが、
4⃣❻「1845年、 中山道 垂井・今須宿、人を載せる車の使用許可を求め、3年後許可される。」
「1854年 東海道二川、御油、赤坂、藤川宿も願いでて許可される。」 4⃣❼「1865年、松兵衛が人と荷物を輸送する営業許可を江戸町奉行に出願したが認められなかった。」などとあり
中山道、東海道、江戸で人を載せる車を使用するためには許可を得る必要があったようである。
荷物を運ぶ車は、
3⃣⑧「京都の牛車は1614の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た。」
とあり、やはり許可が必要だったのか?
6⃣江戸時代には交通事故が頻繁におきていた。
「江戸時代には車は使用されていなかった」というのは都市伝説で、実際には牛車や代八車、べか車などが一部地域で用いられていたことがわかった。
それも結構な交通量があり、残念ながら、こちらも一次資料的なものが見つけられていないが、
事故も頻繁におきていたと記したネット記事が多数ある。
元禄以前には、個人の飼い犬よりも町全体で養われている「町犬」の方が多く、路上では「大八車」という物を運搬する車に犬がひかれる事故が多発していました。そのため、幕府から「大八車、牛車による犬の事故防止」と、「飼い主のない犬にも食事を与え、生き物を憐れむこと」というお触れが出ます。
7⃣京都の片輪車は交通事故をおこす牛車、滋賀県の片輪車は大八車?
ようやく本題にはいる。(笑)
妖怪かるた「京の町へ出るかたわ車」の絵札
源氏車と言う模様があるが、牛車の車を模様にしたもののように見える。 この源氏車に波文様をあしらい車輪が半分見えない状態になった模様を「片輪車」というそうである。
牛車の車輪は、乾燥を防ぐために外して、鴨川の流れに浸したといい、それを模様にしたものであるという。
また片輪車の模様について、次のように説明された記事もあった。
秀吉の家来が朝鮮出兵の時、満潮になり牛車が波で動かなくなるのをかまわず進め、波の上を牛車が滑るように進んだ。」源氏車と波が美しい景色で人々に感嘆の声をあげさせたとか。勿論、敵に快勝したために秀吉に許されそれを家紋にしたという話を読んだことがある。
妖怪の片輪車は、おそらく京都でも頻発したであろう、牛車の事故をルーツとしているのではないだろうか。
3⃣⑧、「(京都の牛車は)1614年の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た」のだった。 京都でも交通事故がおきたことだろう。 そしてその事故は人から人へうわさ話として伝わっていく。
写真、テレビ、パソコンなどがない、視覚に訴えかける情報が少ない時代である。 噂話が伝聞するうちに、人々の想像力が片輪車というの妖怪を生み出したのではないだろうか。 妖怪・片輪車がくわえている脚は牛車に引かれた子供の脚だと思う。
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「片輪車」
リンク先の大八車は車の前にT字型の持ち手がついていて、上の絵の片輪車と同じ形である。
追記 8⃣なぜ事故を起こす車の妖怪が片輪車と呼ばれたのか?
なぜ事故を起こす車の妖怪が片輪車と呼ばれたのだろうか。 車輪が外れやすかったのか? そういうこともあっただろうが、わたしは「片輪」と「かたわ」を掛けてあるのではないかと思う。
「かたわ」と言う言葉は差別的な表現であるとして、現在はあまり使われないが身体に障害がある人のことをさす言葉であり、源氏物語にもでてくるという。
ウィキペディアで「かたわ」を検索すると、漢字表記で片端・片輪とでてくる。
「片」はそれだけで不完全という意味を持ち、「かたわ」は不完全なもの、不恰好な物を意味する。片足しかなかったり片側の輪が無い車輪など)。もっとも、どちらが先に語源となったかは定かではない。 片輪車とかたわは関係があるようである。
妖怪・片輪車に脚をもぎとられた子供は、身体障害者である。
1⃣蟹坊主
山梨県山梨市万力の長源寺には、以下の伝説が伝えられている。かつて甲斐国万力村にあった同寺の住職のもとを雲水が訪ねて問答を申し込み、「両足八足、横行自在にして眼、天を差す時如何」と問うた。答に詰まる住職を雲水は殴り殺し、立ち去った。その後も代々の住職が同様に死に、とうとう寺は無人となった。話を聞いた法印という旅の僧がここに泊まったところ、例の雲水が訪ねて来て同様の問答を仕掛けたので「お前はカニだろう」と言って独鈷を投げつけると、雲水は巨大なカニの正体を現し、砕けた甲羅から血を流しつつ逃げ去った。以来、寺には何も起こることはなくなったという[1]。このカニの大きさは2間四方とも[2]、全長4メートルともいわれる[3]。
別説では、法印が寺に泊まると、夜中に身長3メートルもある怪僧が現れて問答を仕掛けたが、正体を見破られた上に独鈷で刺されて逃げ去り、翌朝に法印が村人たちと共に血痕を辿ると、そこには巨大なカニが死んでいたという[4]。また、長源寺の本尊は千手観音だが、このカニの死体から千手観音の姿が現れ、法印がそれに感激して千手観音を寺の本尊に祀ったとも[2]、法印は救蟹法師(きゅうかいほうし)と名を改めて寺の住職となったともいう[5][6]。
なお長源寺の山号は蟹沢山というが、享保11年(1726年)までの山号は富向山といっていたため、蟹坊主の伝説が語られたのは享保11年より後と考えられている[5]。長源寺ではこの化蟹伝説に基いた1885年(明治18年)作成の「救蟹伝説掛軸」二幅が伝来している。
この伝説にちなみ、カニが逃げ去ったといわれる場所には蟹追い坂、蟹沢といった地名が残されており、長源寺にはカニの爪跡とされる2つの穴があいた石や、カニが投げつけたという1メートル以上もの巨石などが残されている[7]。かつてはカニの甲羅も残されていたというが[6]、後に紛失している[5][7]。
長源寺と同様に、無人の寺に泊まった旅の僧にカニの化け物が問答をしかけ、僧がこれを暴いて退治するという伝説や昔話は、石川県珠洲市の永禅寺[8]、富山県小矢部市の本叡寺などに見られ、小矢部市には伝説にちなんで「北蟹谷」の名が残されている[9]。岩手県西磐井郡花泉町(現・一関市)の伝承では、甲橋という橋で巨大なカニが僧に化けて問答をしかけたが、寛法寺という寺の住職に鉄扇で退治されたという[10]。このような問答を仕掛けるカニの化け物の話は、狂言の『蟹山伏[11]』がルーツとされる[4]。
長いので内容をまとめておこう。
・雲水は長源寺(山梨県山梨市万力)の住職に「両足八足、横行自在にして眼、天を差す時如何」と問うた。 答に詰まる住職を雲水は殴り殺した。その後も代々の住職が同様に殺された。 そこで法印という旅の僧が長源寺に宿泊したところ、雲水が訪ねて来て同様の質問をした。 訪印が「お前はカニだろう」と言って独鈷を投げつけると、雲水は巨大なカニ(2間四方または全長4メートル)に変身し、血を流して逃げた。 正体を見破られた雲水が逃げ、血痕を辿ると、巨大なカニが死んでいたともいう。
・カニの死体から千手観音の姿が現れ、祭ったのが長源寺の御本尊の千手観音だとされる。
・長源寺の山号は蟹沢山というが、享保11年(1726年)までの山号は富向山だったため 蟹坊主伝説は享保11年より後に生じたと考えられている。
・永禅寺(石川県珠洲市)、本叡寺(富山県小矢部市)にも同様の話が伝わっている。
・岩手県西磐井郡花泉町(現・一関市)の甲橋という橋で巨大なカニが僧に化けて問答をしかけたが、寛法寺という寺の住職に鉄扇で退治されたと伝わる。
・とカニの妖怪の話は、狂言の『蟹山伏』がルーツとされる。
2⃣蟹山伏
狂言の曲名。山伏狂言。修行を終えた山伏が強力(ごうりき)をしたがえて帰国の途中,蟹の精が飛び出してきたのに出会う。強力が金剛杖で打ちかかると,かえってはさみで耳をはさまれてしまう。山伏が行法で離してやろうとさまざまに祈るが,蟹の精は反対に強力の耳を強く締めつけ,ついには山伏の耳まではさんでしまう。蟹の精はころあいを見はからって2人を突き倒して逃げ去り,あとを山伏主従が追い込む
3⃣カニの姿をした千手観音
長源寺のご本尊の写真はこちら↓
腕の付き方がカニの脚のように見える。
滋賀県長浜市の高月観音の里には珍しい千手千足観音がおられるが、この観音様は二体のカニが合体した観音様ではないかと思う。
これは蟹の交尾を撮影したものとのこと。
男女双体の神としては、歓喜天などがある。
聖天(歓喜天)
4⃣蟹満寺
蟹といえば、京都府木津川市にある蟹満寺を思い出す。
蟹満寺には次のような伝説が伝えられている。
昔、この地に住む娘が近所の人がとらえた蟹をたすけて逃した。
その後、この娘の父親が、蛇が蛙を飲み込もうとしているところに遭遇した。
父親は蛇に「自分の娘をあなたの嫁としてさしだすので、蛙を助けてあげてほしい」といった。
蛇は蛙を飲み込むのをやめ、夜になって娘をもらうためにやってきた。
娘の父親は「3日後にきてくれれば娘をさしあげる」といい、観音経を唱え続けた。
すると蟹が大勢の仲間を引き連れてやってきて、蛇を殺した。
蟹もまた死んでしまい、蟹と蛇を弔うために蟹満寺が建てられた。
蟹満寺
今昔物語集等に掲載されている「蟹の恩返し」の舞台が蟹満寺である。
寺の所在地の地は名綺田(かばた)というが、古には「蟹幡」「加波多」と書いて「カニハタ」「カムハタ」と読まれていたようだ。 「ハタ」という音をともなっているところをみると、秦氏と関係のあるお寺なのかもしれない。
私はこの蟹満寺を参拝したことがあるが、ご本尊は釈迦如来像だった。 しかし観音霊験説話であること、当時の山号の普門山も法華経の観世音菩薩普門品に因むものであることから、当寺の本来の本尊は観音菩薩であったと考えられている。
娘を助けた蟹は観音様の化身なのではないだろうか。
5⃣みほとけの化身として信仰されたタコ
↓ こちらは京都の新京極通にある蛸薬師堂(永福寺)の「なで薬師」である。
蛸薬師 なで薬師
この「なで薬師」さんを左手で撫でると病治癒に霊験があると信仰されている。
また大阪府岸和田市には天性寺というお寺があり、「蛸地蔵」と呼ばれている。
どうも蟹だけでなく、タコもみほとけの化身であると考えられていたようだ。
6⃣イカの神もいた!
蛸に似た動物にイカがある。 イカも神仏として信仰されていたのだろうか?
そう思って調べてみたところ 島根県西ノ島町浦郷地区にある「由良比女神社」に「イカ寄せ浜の伝説」が伝えられているという。
国づくりの神・由良比女命が出雲大社へ出かけ、芋桶に乗って隠岐へ帰る際、海に浸した手にイカが噛み付いた。 イカはそのおわびとして、神社前の由良の浜に大群でやってくる。 昭和20年代までは、大群でやってきたイカを捕獲する人々の姿が見られたとのこと。
明治まで神仏は習合して信仰されていたのでイカを神格化したみほとけが西ノ島にあるかもしれない。
7⃣みほとけは動物の形を象ったもの?私はみほとけは動物の形を象った姿に造られることが多いのではないかと思っている。 これについてはこちらの記事でのべる。 → 動物の形をしたみほとけたち
1⃣金玉(カネダマ)
その名の通り玉のような物または怪火で、これを手にした者の家は栄えるという[8][9]。
東京都足立区では轟音と共に家へ落ちてくるといい[8]、千葉県印旛郡川上町(八街市)では、黄色い光の玉となって飛んで来たと伝えられている[9]。
静岡県沼津地方では、夜道を歩いていると手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来るといい、家へ持ち帰って床の間に置くと、一代で大金持ちになれるという。ただし金玉はそのままの姿で保存しなければならず、加工したり傷つけたりすると、家は滅びてしまう[10][11]。
江戸時代の奇談・怪談集である『兎園小説』では、1825年(文政8年)の房州(現・千葉県)での逸話が語られている。それによれば、丈助という農民が早朝から農作業に取り掛かろうとしていたところ、雷鳴のような音と共に赤々と光り輝く卵のようなものが落ちて来た。丈助はそれを家を持ち帰り、秘蔵の宝としたという[12]。この『兎園小説』では「金玉」ではなく「金霊」の名が用いられているため、金霊を語る際にこの房州での逸話が引き合いに出されることがあるが、妖怪研究家・村上健司はこれを、金霊ではなく金玉の方を語った話だと述べている[13]。また同じく妖怪研究家の多田克己は、この空から落ちてきたという物体を、赤々と光っていたとのことから、隕鉄(金属質の隕石)と推測している[11]。
東京都町田市のある家では、文化・文政時代に落ちてきたといわれる「カネダマ」が平成以降においても祀られているが、これも同様に隕石と考えられている[2]。
金玉(かねたま)の特徴を箇条書きにしてみよう。 ①轟音と共に家へ落ちてくる。 ⓶黄色い光の玉 ③手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来る。 ④早朝にも見える。
2⃣金玉は火球?
「①轟音とともに落ちてくる」光の玉というと、火球ではないかと思われる。
上の動画0.48あたりで、火球が流れたあとの轟音が録音されている。
↑ こちらの火球は黄色に見える。(⓶黄色い光の玉)
赤い火球もある。(③赤い光の玉)
緑色もある。
上の動画1:39あたりからの字幕には次のようにある。 「流れ星に含まれる組成 大気の組成と2つの理由によって流れ星の色が決まるんです」 「鉄のスペクトルを多くふくんでいて緑色になったそうです」 上記動画より引用
こんな記事もあった。
流星は大気圏に高速で突入した際、流星を構成する物質や大気がプラズマ化(「気化」や「イオン化」とも言われます)して発光します。そのとき、どのような色で発光するかは元素によって異なります。一般的にマグネシウムは青緑色、カルシウムは紫色、ニッケルは緑色の光を放射します。しかし、赤は一般的に地球の大気中に存在する窒素と酸素に由来しています。
「ファイアーボール(火球)」のように輝く流星は、含まれる化学元素によって鮮やかに色を変える。地球大気に高速で突入する際に、流星物質は溶融・蒸発し、衝突する大気粒子とともにプラズマ化して発光する。このとき、ナトリウムは黄色からオレンジ色、銅は青から緑、カリウムはマゼンタ、ケイ素は赤く輝く。また、大気中の酸素粒子は緑色に光る。
説明が異なっているが、どちらのケースもありうるということだろうか。
マグネシウム 銅・・・青緑
カルシウム・・・・・・村崎
ニッケル 酸素・・・・緑
窒素 酸素 ケイ素・・赤 ナトリウム・・・・・・黄~橙 カリウム・・・・・・・マゼンダ
「④早朝に見える」ということは、空が明るいときに見えたということだろうが、火球は日中でも見える。
3⃣金霊(カネダマ)
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「金霊」
鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『今昔画図続百鬼』によれば、善行に努める家に金霊が現れ、土蔵が大判小判であふれる様子が描かれている。石燕は同書の解説文で、以下のように述べている。
金だまは金気也 唐詩に 不貪夜識金銀気といへり 又論語にも富貴在天(ふうきてんにあり)と見えたり 人善事を成せば天より福をあたふる事 必然の理也
「不貪夜識金銀気」は中国の唐代の詩選集『唐詩選』にある杜甫の詩からの引用で、無欲な者こそ埋蔵されている金銀の上に立ち昇る気を見分けることができるとの意味である。 また「富貴在天」は文中にもあるとおり、中国の儒教における四書の一つ『論語』からの引用で、富貴は天の定めだと述べられている。これらのことから石燕の金霊の絵は、実際に金霊というものが家に現れるのではなく、無欲善行の者に福が訪れることを象徴したものとされている[1]。
同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例があるが、いずれも金銭が空を飛ぶ姿で描かれている。1803年(享和3年)の山東京伝による草双紙『怪談摸摸夢字彙(かいだんももんじい)』では「金玉(かねだま)」の名で記載されており、正直者のもとに飛び込み、欲に溺れると去るものとされている[2][3]。
昭和以降の妖怪関連の文献では、漫画家・水木しげるらにより、金霊が訪れた家は栄え、金霊が去って行くと家も滅び去るものとも解釈されている。また水木は、自身も幼い頃に実際に金霊を目にしたと語っており、それによれば金霊の姿は、轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿だったという[4]。
東京都青梅市のある民家では、実際に人家に金霊が現れたという目撃例がある。家の裏の林の中に薄ぼんやりと現れるもので、家の者には恐れられているが、その家でも見れば幸運になれるといわれている[5]。
似た仲間に、江戸時代の怪談本『古今百物語評判』に記述されている「銭神(ぜにがみ)」がある。銭霊(ぜにだま)ともいい[6]、黄昏時に世界中の銭の精が薄雲状となって人家の軒を通るもので、刀で切り落とすと大量の銭がこぼれ落ちるという。同書の著者・山岡元隣によれば、これは世界中の銭の精が集まって、空中にたなびいているのだと解説されている[7]。
3⃣金霊は1769年の彗星から創作された?
上の記事によれば
明和6年(1769年)夏 天保14年(1843年)2月
に彗星が出現したとある。
明和6年夏の彗星は、全国的に記録が残っており、畿内の民衆は「豊年之瑞」として「稲星」と呼んだようです。一方、公家社会では凶兆と見て、臨時に御神楽を行って危機の打開を図りました。
「金霊」が描かれている『今昔画図続百鬼』は、1779年(安永8年)に刊行された鳥山石燕(1712 - 1788年)の妖怪画集である。 石燕も1769年の彗星を目撃したのかもしれない。
同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例がある
『怪談摸摸夢字彙』より「金玉」。北尾重政画。(1803年)
水木しげるさんが目撃された「轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿」のものは、UFO❔
竹原春泉画『絵本百物語』より「帷子辻」
1⃣帷子辻
平安時代初期、嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子(たちばなの かちこ、786年 - 850年)は仏教の信仰が厚く、檀林寺[3]を建立したことから「檀林皇后」と呼ばれた。また貴族の子弟教育のために学館院を設けるなど、多くの功績があった[4]。 伝説によると、檀林皇后はすばらしい美貌の持ち主でもあり、恋慕する人々が後を絶たず、修行中の若い僧侶たちでさえ心を動かされるほどであった。こうした状況を長く憂いてきた皇后は、自らが深く帰依する仏教の教えに説かれる、この世は無常であり、すべてのものは移り変わって、永遠なるものは一つも無い、という「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こそうと、死に臨んで、自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよと遺言した。
遺言は守られ、皇后の遺体は辻に遺棄されたが、日に日に腐り、犬やカラスの餌食となって醜く無残な姿で横たわり、白骨となって朽ち果てた。人々はその様子を見て世の無常を心に刻み、僧たちも妄念を捨てて修行に打ち込んだという。皇后の遺体が置かれた場所が、以後「帷子辻」と呼ばれた場所である[4]。一説には皇后の経帷子(死装束)に因んだ名とされる[5]。
「九相図」(九相詩絵巻)[6]は檀林皇后(または小野小町等)の遺体が朽ち果てる様を九つの絵で描いたものとされる。
また詩書には「檀林皇后の御尊骸を捨てし故にや、今も折ふしごとに女の死がい見へて、犬鳥などのくらふさまの見ゆるとぞ、いぶかしき事になん[7]」とある。この意味について「もともと帷子辻は、こうして自らをなげうって人々の魂を救済しようとした檀林皇后の遺志の源であったはずであるが、その後この辻を通りかかると、犬やカラスに食い荒らされる女の死体の幻影が見えると恐れられるようになった[8]」との解釈もあるが、「後にも檀林皇后の例に倣い、女の死体が捨てられることがある」との意味に解釈すれば怪異でも何でもない、との指摘もある[9]。
2⃣帷子の辻はどこだ?
檀林寺は橘嘉智子が嵯峨野に創建した寺で、現在、天龍寺がある場所にあったという。 一条天皇:(在位986~1011)のころ、廃絶したと考えられている。 の頃には廃絶したとみられる。 現在、天龍寺の近所に法寳閣檀林寺があるが、1964年に壇林皇后の遺徳を偲んで再興されたものである。
橘嘉智子の遺体が朽ちていく様子を描いた九相図は東山区・六道の辻にある西福寺で見た。
帷子の辻の場所はこちら↓
辻とは十字路のことだが、どこが帷子の辻なのだろうか?
こんな記事があった。
彼女が亡くなった時に棺にかけられていたのが、絹や麻糸で織った着物(帷子)でした、お葬式の際にこのあたりを通った時に、三条通と交わる辻(交差点)で帷子が風に舞ってはらりと落ちたことから、このあたりが帷子ノ辻と呼ばれるようになったそうです。
三角形の形をした太秦帷子の辻町の東の角、112と数字のある道が三条通である。 つまり三角形の角のように鋭くとがった角のある場所が、帷子の辻だと思われる。 昔からこの角があったのだろうか。 とすればこの特徴的な交差点の形が帷子の辻という地名の由来ではないかと思えてくる。 友人は死装束の天冠のイメージから、死装束である経帷子の辻・・・・帷子の辻となったのではないかという。 また帷子で画像検索すると、下のように帷子を広げて三角状にした写真がたくさんでてくる。 https://maruai.up.seesaa.net/image/Picture20989.png
千本閻魔堂狂言で亡者が額に着けている天冠
3⃣橘嘉智子の系譜
橘嘉智子の墓は右京区嵯峨鳥居本深谷町にある。 わずかに残った骨だけを葬ったとも考えられるが、「橘嘉智子の遺体が帷子ノ辻に打ち捨てられた」というのは事実ではないだろう。 皇后の遺体を粗末に扱うというのはちょっと信用できないからだ。
それでは橘嘉智子にまつわるこんな伝説が、なぜ創作されたのだろうか。
若宮社の橘諸兄(684~757)は敏達天皇の5世(もしくは4世)子孫で葛城王といった。
父親は美努王、母親は橘美千代である。 736年、橘諸兄は、弟の佐為王と共に母・橘三千代の姓氏である橘宿禰を継ぐことを願い出て許され、 葛城王はこれ以後、橘諸兄と称した。
橘三千代は夫の美努王が大宰府に単身赴任しているすきに藤原不比等と再婚して光明皇后を産んでいる。
光明皇后は橘諸兄の異父妹なのである。 737年、天然痘が流行し、藤原不比等の子である藤原四兄弟や舎人親王ら多くの政府高官が死亡した。
738年、こういった情況下で橘諸兄は右大臣となり、743年には左大臣になった。
755年、諸兄の従者が『諸兄は酒宴の席で朝廷を誹謗した』と讒言をした。
聖武太上天皇は問題視しなかったが756年、これを恥じた諸兄は辞職し、翌757年死亡している。 このころ、光明皇后の信任を得た藤原仲麻呂が勢力を伸ばしており、この事件には仲麻呂の思惑が働いていたのではないかと思われる。
758年、橘諸兄の子である奈良麻呂は藤原仲麻呂の専横に不満を持ち、クーデターを計画したが密告によって捕らえられた。
このクーデター計画にかかわった多くの人が厳しい拷問によって死亡している。 続日本紀の拷問死した人物の記述の中に、奈良麻呂の名は記されていないが、やはり拷問死したと考えられている。
奈良麻呂の子の橘清友は、777年に渤海大使都蒙を接待したとき、 『骨相から見るとあなたの子孫は繁栄するが、あなた自身は32歳で厄があるでしょう』
といわれ、その予言どおりに32歳で死亡した。
この橘清友の娘が橘嘉智子である。 。
4⃣承和の変
『骨相から見るとあなたの子孫は繁栄するが、あなた自身は32歳で厄があるでしょう』という予言どおり、橘清友の子孫は繁栄した。
娘の橘嘉智子は嵯峨天皇の皇后となり、橘嘉智子が生んだ正良親王は54代仁明天皇に、正子内親王は53代淳和天皇の皇后となった。
橘嘉智子の息子の橘嘉智子の正良親王は藤原順子との間に道康親王をもうけた。 橘嘉智子の娘の正子内親王は淳和天皇の皇后となり、恒貞親王をもうけた。
833年、正子内親王の夫・淳和天皇は、正子内親王の弟・正良親王(仁明天皇)に譲位した。
仁明天皇の皇太子には、淳和天皇と正子内親王の間に生まれた恒貞親王が立った。
このころ、藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て権力を強めつつあった。
良房は恒貞親王ではなく、仁明天皇(正良親王)と妹順子の間にできた道康親王の皇位継承を望んでいた。
淳和上皇と恒貞親王はしばしば皇太子辞退を奏請しているが、それはおそらく良房を恐れてのことだろう。
しかし、恒貞親王の皇太子辞退は嵯峨上皇に慰留されていた。
840年、淳和上皇が崩御し、842年嵯峨上皇が病に伏せると、後ろ盾をなくした恒貞親王は不安定な立場に立たされる。 伴健岑と橘逸勢(橘嘉智子の従兄弟)は恒貞親王の身を案じて恒貞親王を東国へ移す計画をたてた。 ふたりはこの計画を安保親王(第51代平城天皇の皇子。在原業平の父)に相談するが、阿保親王はこれに与せず、橘嘉智子に密告した。 さらに橘嘉智子がこれを藤原良房に相談し、仁明天皇は伴健岑・橘逸勢らを逮捕した。恒貞親王は廃太子となる。 橘逸勢は姓・官位を剥奪、『非人』の姓を与えられて流罪になり、その護送途中に病没した。(承和の変)
従来『承和の変』は藤原良房による他氏排斥だと考えられていたが、当時良房はまだ中納言で第六位の身分にすぎなかった。
そんな良房がひとりでこんな事件を起こせるはずがない、仁明天皇や橘嘉智子もこの事件に深く関与しているのではないか、と言う説が近年となえられている。
『日本三代実録』によれば、恒貞親王の母・正子内親王は激しく怒り泣いて母・嘉智子太皇太后を恨んだとも記されています。
橘嘉智子は自分の孫の繁栄を願って仁明天皇と藤原順子の間に生まれた道康親王の立太子を画策したのだろう。
しかし、道康親王の立太子は適ったものの、橘氏はその後ぱっとせず、藤原氏の栄華の手助けをしたに過ぎなかったという結果に。
しかも橘嘉智子はそのために娘の正子内親王の恨みを買い、孫の恒貞親王を犠牲にしてしまっている。
橘氏の没落を招いたのは橘嘉智子だったといえるかもしれない。
橘嘉智子は我が国最初の禅寺である檀林寺を創建し、奨学・養老・施薬の施設をととのえるなど、大変信仰心の厚い女性であったとされる。
私は橘嘉智子が深く仏教に帰依したのは、自らの罪の重さにおののいたためではないかと思う。
「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こそうと、死に臨んで、自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよと遺言した。
『本所七不思議之内 片葉の芦』(片葉の葦)三代目 歌川国輝・画
1⃣片葉の葦
江戸時代の頃、本所にお駒という美しい娘が住んでいたが、近所に住む留蔵という男が恋心を抱き幾度も迫ったものの、お駒は一向になびかず、遂に爆発した留蔵は、所用で外出したお駒を追った。そして隅田川からの入り堀にかかる駒止橋付近(現在の両国橋付近の脇堀にかかっていた橋)でお駒を襲い、片手片足を切り落とし殺した挙げ句に堀に投げ込んでしまった。それ以降、駒止橋付近の堀の周囲に生い茂る葦は、何故か片方だけの葉しか付けなくなったという。
2⃣本所の葦
この物語の舞台は東京都墨田区本所である。
上の地図の赤い点線で囲まれた隅田川の東岸にある地域が現在の本所である。 葦は池沼、河岸、湿地など、水辺に生えるので、本所にも葦が茂っていたのだろう。
本所の料亭 広重
広重の絵にも葦のようなものが描かれている。
葦
葦
3⃣居多神社の片葉の葦
ウィキペディア「片葉の葦」のところに、次の様に記されている。
越後七不思議の一つの「片葉の芦」については「居多神社」をご覧ください。
どうやら片葉の葦は本所だけでなく、居多神社にもあるらしい。
境内には、葉が片方にのみ生える芦「片葉の芦」が群生する[3]。伝承では、親鸞が居多神社に参拝して祈願をすると境内の芦が一夜にして片葉になったという[3]。この片葉の芦は「越後七不思議」の1つにも数えられている[3]。
居多神社 片葉の芦
4⃣お駒は片葉の葦を擬人化したもの?
本所七不思議の「 片葉の芦」では、「留蔵が自分になびかないお駒の片手片足を切り落として殺した」とある。 片葉の葦を、人間の片手片足を切り落とした状態に喩えたものではないかと思う。 お駒は片葉の葦を擬人化したものと言ってもいいだろう。
葦はお駒の切り落とされた「足」の語呂合わせにもなっている。
留蔵は片葉の葦の、葉のないほうに立っていて、それで片葉の葦の葉が自分のほうに「なびかない」のではないか。
5⃣葦は男女のカップルをイメージさせる?
百人一首にこんな歌がある。
難波江の 蘆のかりねの 一よゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき/皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう) (難波江の、蘆を刈ってつくった小屋での、たった一夜の仮の一夜、蘆の一節(ひとよ)のような一夜のために、難波江に建てられている澪標の言葉と同じように身を尽くして 恋しつづけるべきでしょう。)
難波潟 みじかき蘆の ふしのまも 逢はで此の世を 過ぐしてよとや/伊勢 (難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。)
どちらも恋の歌である。 肩葉の葦ではないふつうの葦が、両側に葉をつける。 古の人々は、両側に葉をつける葦から、男女のカップルを思い浮かべたのではないだろうか。 それで葦と恋をむすびつけた歌を詠んでいるのではないかと思った。
6⃣伊勢にも片葉の葦の伝説があった。
下記動画では伊勢の国・長井の里の井出のお宮を舞台とする話で 渡り鳥である雁が葦の葉をもらって長い渡りの旅に出て、疲れればその葉を海に浮かべて、体をやすめるという。
なんだか雁風呂を思わせる話である。
月の夜、雁は木の枝を口に咥えて北国から渡ってきて、飛び疲れると波間に枝を浮かべ、その上に停まって羽根を休める。そうやって津軽の浜までたどり着くと、要らなくなった枝を浜辺に落とす。日本で冬を過ごした雁は早春の頃、浜の枝を拾って北国に戻って行く。雁が去ったあとの浜辺には、生きて帰れなかった雁の数だけ枝が残っている。浜の人たちは、その枝を集めて風呂を焚き、不運な雁たちの供養をしたという[1]。
2012年、青森県立図書館の調査により、上記の伝説は1974年のテレビCMで広まったものであり、青森県内で伝承されたものではないと判明した[1]。また、伝説の基となった物語は四時堂其諺『滑稽雑談』(1713年(正徳3年)成立)巻16に収められているが、日本ではなく他国の島での話として収められた物語と判明した[1]。
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