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とんでももののけ辞典113 かなつぶて

①かなつぶて

かなつぶては、大和国奈良坂[注 1]で金礫という武器を使って人々から略奪を働いたという化生の者。金礫、金飛礫とも。平安時代末期の治承3年(1179年)頃に平康頼が記した仏教説話集『宝物集』の中で鈴鹿山の立烏帽子と並んで奈良坂のかなつぶてという盗賊が処刑されたことが記されている[注 2][1]。

御伽草子版
『宝物集』で記された金礫の説話が御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』などの田村語りに採り入れられると、金礫を打つこの化生の名前として、こんざう[原 1]、りゃうせん(りょうせん)[原 2]などがみえる。『田村の草子』によるあらすじは次のとおりである。
大和国奈良坂に金礫を打つりょうせんという化生の者が現れて都への貢ぎ物や多くの人の命を奪ったので、帝は稲瀬五郎坂上俊宗に鬼退治の宣旨を下した[2]。俊宗は500騎の兵を連れて奈良坂へと向かい、良い小袖を木々の枝に掛け並べてりょうせんを待った[2]。すると背丈が2丈(約6メートル)もある異様な風体の法師が現れ、並び立てた着物を置いていけと大笑いする声が聞こえた[2]。俊宗が着物を渡すわけにはいかないというと、法師は三郎礫と名付けられた金の礫を打ち、俊宗は扇で落とした[2]。続けて次郎礫が打たれるが、これも俊宗に打ち落とされ、最後に太郎礫を打つも鐙の端で蹴落とされた[2]。りょうせんは山へと逃げはじめるが、俊宗が三代に渡って受け継いできた神通の鏑矢を射放つと7日7夜に渡ってりょうせんを追い続け、りょうせんはついに降伏する[2]。りょうせんを捕縛した俊宗は都へと凱旋して御門に閲覧し、りょうせんは船岡山で処刑されることとなった[2]。その首は8人ががりで切り落とされて獄門にかけられ、行き交う者たちにさらされた[2]。


⓶金礫とは何か?

上に「法師は三郎礫と名付けられた金の礫を打ち、俊宗は扇で落とした[2]。続けて次郎礫が打たれるが、これも俊宗に打ち落とされ、最後に太郎礫を打つも鐙の端で蹴落とされた」とある。

金礫とはなんだろうか。
ウィキペディアは次の様に説明している。

武器としての金礫
『田村の草子』では、りょうせんが金礫を打つ腕前は唐土にて500年、高麗国にて500年、日本で80年、奈良坂で3年かかって磨いたものであったという[2]。また太郎礫、次郎礫、三郎礫という3つの金礫を使い、太郎礫は600両の金を使い山を盾にしようとも微塵に打ち崩してしまうほどの金の礫で、三郎礫は300両の金の礫である[2]。


「小石を投げる」ことを「飛礫(つぶて)を打つ」という。
つまり、りょうせんは金礫を投げる修行を、中国で500年、朝鮮で500年、奈良坂で3年したということだろう。

りょうせんの金礫は太郎礫、次郎礫、三郎礫の三種類。
太郎礫・・・600両の金を用いて作った礫。礫から身を守るために山を盾にしても破壊する。
三郎礫・・・300両の金を用いて作った礫。

③奈良坂は都に通じる坂

次に奈良坂の場所を確認しよう。
グーグルマップで奈良坂を検索すると京都府木津川市市坂奈良坂とでてくるが、ここではないだろう。
かねつぶてがあらわれるのは「大和国奈良坂」とあり、大和国とは奈良のことなので、
奈良市の般若寺・奈良豆比古神社付近の坂のことを言っていると思う。


奈良坂は平安京の南に位置する。古には京への貢物の運搬にこの奈良坂が用いられていたのだろう。

④三人翁と郎礫、次郎礫、三郎礫は関係ある?

奈良坂にある奈良豆比古神社には伝統芸能「翁舞」が伝えられている。
能(江戸時代までは猿楽といった)に翁という作品があり、翁舞はこの翁のルーツであると考えられるのだが
能の翁に登場する翁は1人であるのに対し、奈良豆比古神社の翁舞には三人の翁が登場し、三人翁と呼ばれている。

奈良豆比古神社 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞

りょうせんの金礫は太郎礫、次郎礫、三郎礫の三種類だったことを思い出してほしい。
三人翁はりょうせんの金礫と関係がありそうにも思える。

⑤浄人王は弓削浄人?

奈良豆比古神社には翁舞に関係する、次のような伝説が伝えられている。

志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。

志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。

『桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、』
とあるが、これは皇族であった浄人王を臣籍降下させて弓削姓を与えたということだろう。
臣籍降下した浄人王は弓削浄人と名乗ったのではないか?
弓削浄人と言う名前には聞き覚えがある。

奈良時代、女帝の称徳天皇の寵愛をえて政治の実権を握った僧侶、道鏡。
宇佐八幡で「道鏡を天皇にすべし」との神託があり、称徳天皇は確認のため和気清麻呂を宇佐に派遣する。
しかし和気清麻呂は「「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし(道鏡を天皇にするべきではない)。」とする別の神託をうけとって都に戻り称徳天皇に伝えた。
これを聞いた称徳天皇は怒り、和気清麻呂を流罪にしてしまう。
しかしその翌年、称徳天皇は急死し、道鏡は失脚して下野へ流罪となり、失意のまま亡くなった。

弓削浄人はこの道鏡の弟である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴(浄人王の兄弟が安貴王なので)というのかもしれない。

⑥ハンセン病を患ったのは志貴皇子だった?

5⃣の伝説では、「志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患って奈良坂の庵で療養した。」とある。
に「しかし『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』には、奈良豆比古神社の地元の語り部・松岡嘉平さんが上の伝説とは別の語りを伝承していると書いてあった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。

地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。

⑦志貴皇子と春日王は同一人物?

志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになる。

志貴皇子・・・春日宮御宇天皇・・・田原天皇
       春日王・・・・・・・田原太子

皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。
志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。

神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。

さらに『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されている。
とすれば道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高い。

すると5⃣の伝説は、ハンセン病を患ったのは志貴皇子、浄人王は弓削浄人、安貴王は弓削道鏡ということになる。

⑧志貴皇子暗殺説

本のタイトルや著者名を忘れてしまったのだが(すいません!)
以前図書館で借りた本次のような内容が記されていた。

❶ 日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。

この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせる。

また笠金村は 次のような歌も詠んでいる。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)

こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。
これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたように思われる。

❷ 萩は別名を『鹿鳴草』というが、日本書紀に次のような物語がある。

雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。

謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないか。

笠金村は
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに 
と歌を詠んでいるが、
志貴皇子を野辺の秋萩にたとえており、志貴皇子が謀反人であることを示唆しているように思われる。

❸ のちに志貴皇子の子・白壁王は即位して光仁天皇となっていることから、志貴皇子には正統な皇位継承権があったのではないか。

この一連の推理が正しければ、道鏡にも正当な皇位継承権があったということになる。
すると称徳天皇が和気清麻呂の奏上にかんかんになって怒った理由がわかる。
「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」とは何だ。
道鏡には正当な皇位継承権があるではないかと。

⑨猿丸大夫は志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?

京都府宇治田原市・大宮神社の境内に「田原天皇社舊(旧)跡」がある。
田原天皇とは7⃣に書いたように、志貴皇子のことである。
宇治田原という地名は志貴皇子=田原天皇にちなむ地名なのではないだろうか。

田原天皇旧跡2

田原天皇社舊(旧)跡

そしてこの大宮神社からほど近いところに、猿丸神社があり、猿丸大夫を祀っている。

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき/猿丸大夫

猿丸神社

猿丸神社 歌碑

猿丸神社境内にはこの歌を刻んだ歌碑があり、楓の木が植えられている。
たぶん、この歌にぴったりだということで、石碑の横に楓を植えたのではないだろうか。

しかし、実はこの歌は楓の紅葉を歌った歌ではない。

古今和歌集は隣あった和歌は同じ語句が用いられている。

214. 山里は 秋こそことに  わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/読み人知らず
216 秋はぎに うらびれをれば  あしひきの 山したとよみ 鹿のなくらむ/読み人知らず

214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっている。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じだ。
しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「紅葉」と「秋はぎ」でつながっているとみられている。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、萩の黄葉だということになる。

また『定家八代抄』では次のような順番で歌が掲載されている。
a.下もみぢ かつ散る山の 夕時雨 濡れてや鹿の 独り鳴くらん
b.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
c.秋萩に うらびれ居れば あしびきの 山下とよみ 鹿の鳴くらん

こちらも古今和歌集と同じように語句で歌と歌がつながっているようである。
(番号もつけられているのかもしれないが、わからないので、仮にabcとしておく。)
こちらでもやはりbの歌の「もみぢ」とcの歌の「秋萩」が対応しており、もみぢとは萩の黄葉ということになる。

「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思える。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく)

下の写真は志貴皇子邸宅跡と伝わる奈良市・白毫寺であるが、子の挽歌にちなんでか、境内にはたくさんの萩が植えられている。

白毫寺

猿丸神社には狛犬ならぬ狛猿が置かれているが、その狛猿は能(猿楽)のルーツかもしれない翁舞の三番叟(さんばそう)の姿をしている。(能・翁や奈良豆比古神社の翁舞では長い烏帽子をかぶった三番叟の舞がある。)
鈴の代わりに御幣を持っているが、細長い烏帽子など同じである。

猿丸神社 

猿丸神社 狛猿

翁舞 黒式尉(三番叟)

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟

この猿丸神社の狛猿は猿丸大夫そのものの姿であると私は思う。
各地の神社に猿の像があるが、それらの猿の像は翁舞の三番叟の姿をしているものが多い。

日吉大社 猿

新日吉神社 猿のレリーフ

そして高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、猿丸大夫とは道鏡の弟の弓削浄人のことだと伝えられているのだ。

すでにお話ししたように道鏡は称徳天皇が次期天皇にしたいと考えていた人物だったが、称徳天皇が急死したことによって失脚し、下野に流罪になった。
このとき道鏡の弟の弓削浄人は土佐に流罪となったのだ。
そして道鏡が流罪になった下野には二荒山神社があるが、かつて猿丸社とも呼ばれており、二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。
二荒山神社の隣には日光東照宮があるが、そこには有名な三猿のレリーフがある。

日光東照宮 三猿

日光東照宮 三猿

また猿丸大夫とは道鏡のことであるとする説もある。
私はこの三猿のレリーフをみて、これは三人翁の姿であり、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の姿でもあるのではないかと思った。
そして、猿丸大夫は政治的に不遇であった父と二人の息子、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称なのではないだろうか。

⓾猿の撃退法

上の記事、3ページに「サルの撃退法口承」について次のように記されている。

左礫の村では、農作物を荒す猿を追い払うための方法として、次のようなことを行ったと記されている。
❶藁に火をつける
❷葬式のマネをする。
❸サル撃ち
❹槍でついた(明治時代)
❺サルマキ 雪が深いとき、猿が足から血を出すくらいに追う。
❻杖地区 猿をとると祟りがある
❼田に入り込んできた猿に石をなげて追った
❽殺した猿はみせしめに柿の木につるしたの図がある。

「❼田に入り込んできた猿に石をなげて追った」とある。
礫とは小さい石のことなので、これはまさしく「礫を打つ」ことである。
礫を打って、猿を追うわけである。

「かなつぶて」とは志貴皇子、道鏡、弓削浄人の三猿が金の礫に化成したものなのかもしれない。

トンデモもののけ辞典112 片輪車 ※追記あり

片輪車

片輪車 著者不詳『諸国百物語』より「京東洞院かたわ車の事」

1⃣片輪車

京都の片輪車
延宝年間の怪談集『諸国百物語』巻一「京東洞院かたわ車の事」に記述がある。京都の東洞院通で毎晩のように片輪車が現れ、人々はみな外出を控えていた。ある女が興味本位で夜、家の扉の隙間から外を覗くと、牛車の車輪だけが転がって来て、車輪の中央には凄まじい形相の男の顔が小さな人間の足をくわえており「我を見るより我が子を見ろ」と叫んだ。驚いて女が我が子のもとへ行くと、子供は足を裂かれて血まみれになっていた。片輪車がくわえていたのは、その子供の足だったのである[1]。
滋賀県の片輪車
寛保年間の雑書『諸国里人談』に記述がある。寛文時代の近江国(現・滋賀県)甲賀郡のある村で、片輪車が毎晩のように徘徊していた。それを見た者は祟りがあり、そればかりか噂話をしただけでも祟られるとされ、人々は夜には外出を控えて家の戸を固く閉ざしていた。しかしある女が興味本位で、家の戸の隙間から外を覗き見ると、片輪の車に女が乗っており「我見るより我が子を見よ」と告げた。すると家の中にいたはずの女の子供の姿がない。女は嘆き「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車のやるかたわかぬ子をばかくしそ」と一首詠んで戸口に貼り付けた。すると次の日の晩に片輪車が現れ、その歌を声高らか詠み上げると「やさしの者かな、さらば子を返すなり。我、人に見えては所にありがたし」と言って子供を返した。片輪車はそのまま姿を消し、人間に姿を見られてしまったがため、その村に姿を現すことは二度となかったという[2]。

2⃣江戸時代は車の使用は禁止だった?

延宝とは元号のひとつで、期間は江戸時代の1673年から1681年まで。

江戸時代には人が移動する際には徒歩、または駕籠がよく用いられていた。
これについて、江戸時代には車は禁止だったという話を聞いたことがある。

たとえば「教えてgoo」には、こんな回答がある。

技術的問題ではなく、幕府が軍事的な配慮から車の使用を禁じていたからです。
その為、東海道など主要街道では大八車もありません。
例外的に許されたのが京都でして、物流の関係で昔から使われていたので許可されたようです。
これ以外にも名古屋、静岡、江戸、仙台・・・の町にも許可されたようです。
これらの街には「くるまみち」という地名が残り、当時を伝えております。

2004年に投稿されたもので、参考URLのリンクが貼られているが、リンク先記事は削除されており、確認ができない。

3⃣江戸時代、一部地域では車が使用されていた。

江戸に入ってくる商品荷物は、上方・東北地方より船による場合と陸上を牛馬背で運送される場合とがあった。市内における運送手段には牛馬背、人背負・大八車・牛車が使用されていた。
~略~
貴族の乗用車である牛車(ぎっしゃ)は京都で発達していたが、江戸時代には衰退していた。荷物運搬用の牛車(うしぐるま)は、京都・駿府(静岡市)・江戸・仙台、幕末には箱館等の限定された都市でしか使用されなかった。
~略~
牛馬だけでなく人力による荷車輸送も全国的な展開はなかった。
~略~
全国的には未発達の車輌交通が、江戸においては大八車、牛車ともに許可されており、改めて近世都市江戸のもつ意味が問題となろう。なお、辞典においては「江戸は徳川家康の入国以来、大津牛を招いて荷車に用い、牛原や車町に配置されて、建築資材を中心とする輸送にあてたが、大八車の普及につれて、地名にその面影を残すにすぎなくなった。」と説明されている(『国史大辞典4』、九四三頁、吉川弘文館、昭和五十九年、参考文献は明記されていないが、司馬江漢「春波楼筆記」かと思われる)。ここでは地名だけでなく実態を追求するつもりである。
本稿は、錦絵、絵馬、地誌類の挿絵などに出ている牛・牛車の資料も掲載し検討の素材とした。

タイトルは「都史紀要32 江戸の牛」となっており、目次をみると興味をそそられるタイトルが並んでいる。
早速ネット注文して、読んでみた。
内容をざくっとまとめてみる。

①1707年に江戸橋広小路に200坪の牛置場がつくられた。
諸国より海・川を船で運ばれてきた荷物は、牛置場に待機する牛車で市中の各問屋へ送られた。

⓶家康 全国統一後、「伝馬の制」を確立した。
「伝馬の制」とは、 公用の書状や荷物を、宿場ごとに人馬を交替して運ぶ制度のこと。
大伝馬町、南伝馬町・・・道中筋伝馬御用
小伝馬町・・・・・・・・江戸府内伝馬御用 

③1657年、江戸大火後の復興事業後、大八車が使われる。
1662年「江戸名所記」 に地車(小車)、代八と記されている。 
飼料代がかからないなどメリットがあり増えた。馬持の荷物を奪う。
伝馬町、大八車に口銭をかけることを出願した。
極印賃徴収は元禄16年12月 諸運上停止に関連して中止 

④人力による荷車は江戸のほか、京都、大坂のベカ車、名古屋の大八車・小車・貧乏車・鬼カミ・しゅら、駿府(静岡市)など一部の地域で使用されたのみ 

⑤幕府は、人足と馬背による場合を公的機関としていたため、牛車・大八車を限定した地域にしか採用せず、伝馬町・馬持の保護をした。

⑥1845年、中山道樽井・今須宿(岐阜)に板車導入願がだされた。(樽井がどこにあったのかについては、わからなかった。)
1857年 使用許可される。

⑦1808年、馬持が「鞍判を受けて伝馬助役を務めた上で商売をしているが、諸商人の手引車と荷付牛が荷物を江戸市中に運んでいて、商売あがったりなので、これらを禁止してほしいと願い出て認められた。

⑧京都の牛車は1614の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た。
京車・伏見車・鳥羽車・嵯峨車などにわかれていた。
京車の主要業務は年間50~60万俵の大津為登米輸送のほか、幕府御用。
http://liaj.lin.gr.jp/uploads/161-3.pdf(リンク先に京車の浮世絵あり)

⑨江戸の牛車は寛永期(1624~43]に土木普請工事のため京都から招き、芝高輪に居住地をさだめ、四日市(江戸橋広小路)・八丁堀牛置場を拠点として活動していた。

⓾安藤広重の高輪を描いた浮世絵53点中10点に牛車が描かれている。
1829年成立の江戸名所図会には高輪牛町、尾張町、魚籃観音堂、麻生一本松、神田明神祭礼に牛車の絵がある。

⑪狂歌、川柳にも牛車をよんだものがある。

⑫京都周辺では、淀・納所・横大路・上鳥羽・京都苦情にいたる鳥羽街道、伏見、武田街道、大津、逢坂、山科、日岡、粟田口にいたる山科街道で牛車が行われていた。
山科街道は未知の損傷を防ぐため敷石舗道だった。

⑬「摂津名所図会」では武庫の山中で採掘される御影石を諸国へ運送するのに牛車を利用している。

⑭1772年頃より西宮町ないの酒屋から積問屋、咳所までの咲け荷物浜出しの運搬にあたる西宮地車組が開始された。

⑮「明治政府になって車通行は解禁となり、馬車・牛車・荷車・人力車の第数は表八のようにいずれも急速にのびてるが」と50pに記されている。
解禁とは「法律、その他のとりきめで禁止していたことを、解きゆるすこと」である。
「解禁となり」という言葉は、車が禁止されていたという風にもよめる。

⑯1707年 町触などから交通規制があったことがわかる。

⑰宰領付添 は牛車・大八車で犬などをひき殺さないため、生類憐みの目的から1686年に出されていた。

⑱牛の産地・・・出羽・省内・陸奥・会津・南部
肥育地・・・飛騨・越中・越後・信濃

⑲駿府への牛車導入は1609年城廊工事のため伏見・鳥羽から招聘されていた。

4⃣幕末期、車使用許可申請が出されている。

↑ こちらの記事には、次のような内容が記されている。

❶幕末期の東海道では「車」が使用されており、旅人を載せて運ぶ営業もなされていた。

❷江戸時代、健康な一般人は武士も庶民も一切駕籠に乗ることは禁止されていた。
駕籠は街道筋では旅客用として許可されていた。(宿駕籠)

❸近世大阪では「べか車」が用いられていた。

❹シュンベリー 「江戸参府随行記」の記述
「この国の道路は一年中両行な状態であり、広く、かつ排水用の溝を備えている。」
シーボルトの記述
「地面を平らにし、数インチの厚さに小石・丸石または砂利を敷き、踏みかためてから、歩行者が歩きやすいように砂を撒く。(中略)また必要に応じて堀・堤防、水路を設けている」

❺車があまり用いられていなかった理由
・日本は地勢が急峻で車両交通に不便
・架端技術が未熟だった
・街道の路面を痛ませないため
1774年、「べか車の使用が橋の損傷を招くのでべか車の端上通行禁止」の触書がでている。
・馬方や船方の営業を脅かされる。
「べか車の進出により馬方や船方の荷物運送の営業権が脅かされるので使用をさしひかえよ」との触書が1791年、1799年にでている。

❻1845年、 中山道 垂井・今須宿、人を載せる車の使用許可を求め、3年後許可される。
1854年 東海道二川、御油、赤坂、藤川宿も願いでて許可される。
1862年全面許可

❼1865年、松兵衛が人と荷物を輸送する営業許可を江戸町奉行に出願したが認められなかった。
しかし、そこに「右は東海道岡崎辺りより草津宿までの間にてもっぱら合用い」とあり、
岡崎―草津間は旅人を車に乗せて運ばれていたことがわかる。

5⃣車の使用を禁じる制度の名前がでてこない?

私の疑問は、幕府は車の使用を禁じていたというが、それはなんという名前の制度で、またどのような形でその制度が広報されたのか、ということである。
例えば、4⃣❺に触書の内容がでてくるが、このようなものは残っていないのだろうか。
検索してもでてこない。調べたりないのかもしれないが。

そうではあるが、
4⃣❻「1845年、 中山道 垂井・今須宿、人を載せる車の使用許可を求め、3年後許可される。」
「1854年 東海道二川、御油、赤坂、藤川宿も願いでて許可される。」
4⃣❼「1865年、松兵衛が人と荷物を輸送する営業許可を江戸町奉行に出願したが認められなかった。」などとあり
中山道、東海道、江戸で人を載せる車を使用するためには許可を得る必要があったようである。

荷物を運ぶ車は、
3⃣⑧「京都の牛車は1614の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た。」
とあり、やはり許可が必要だったのか?

6⃣江戸時代には交通事故が頻繁におきていた。

「江戸時代には車は使用されていなかった」というのは都市伝説で、実際には牛車や代八車、べか車などが一部地域で用いられていたことがわかった。

それも結構な交通量があり、残念ながら、こちらも一次資料的なものが見つけられていないが、
事故も頻繁におきていたと記したネット記事が多数ある。

元禄以前には、個人の飼い犬よりも町全体で養われている「町犬」の方が多く、路上では「大八車」という物を運搬する車に犬がひかれる事故が多発していました。そのため、幕府から「大八車、牛車による犬の事故防止」と、「飼い主のない犬にも食事を与え、生き物を憐れむこと」というお触れが出ます。

7⃣京都の片輪車は交通事故をおこす牛車、滋賀県の片輪車は大八車?

ようやく本題にはいる。(笑)

かたわ車

妖怪かるた「京の町へ出るかたわ車」の絵札

源氏車と言う模様があるが、牛車の車を模様にしたもののように見える。
この源氏車に波文様をあしらい車輪が半分見えない状態になった模様を「片輪車」というそうである。

牛車の車輪は、乾燥を防ぐために外して、鴨川の流れに浸したといい、それを模様にしたものであるという。

また片輪車の模様について、次のように説明された記事もあった。

秀吉の家来が朝鮮出兵の時、満潮になり牛車が波で動かなくなるのをかまわず進め、波の上を牛車が滑るように進んだ。」源氏車と波が美しい景色で人々に感嘆の声をあげさせたとか。勿論、敵に快勝したために秀吉に許されそれを家紋にしたという話を読んだことがある。

妖怪の片輪車は、おそらく京都でも頻発したであろう、牛車の事故をルーツとしているのではないだろうか。

3⃣⑧、「(京都の牛車は)1614年の大坂冬の陣の際、二条城へ兵糧米、武具などを運搬した功績により、牛車の全国営業許可を得た」のだった。
京都でも交通事故がおきたことだろう。
そしてその事故は人から人へうわさ話として伝わっていく。
写真、テレビ、パソコンなどがない、視覚に訴えかける情報が少ない時代である。
噂話が伝聞するうちに、人々の想像力が片輪車というの妖怪を生み出したのではないだろうか。
妖怪・片輪車がくわえている脚は牛車に引かれた子供の脚だと思う。

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「片輪車」

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「片輪車」

滋賀県の片輪車のほうは、牛車ではなく大八車ではないだろうか。
上の絵は滋賀県の片輪車を描いたものだが、車輪の前に車輪を引っ張るための棒がついている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%85%AB%E8%BB%8A#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:20081004%E8%8D%92%E4%BA%95%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85%E6%B6%88%E9%98%B2%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%97%E8%BB%8A.jpg

リンク先の大八車は車の前にT字型の持ち手がついていて、上の絵の片輪車と同じ形である。

追記
8⃣なぜ事故を起こす車の妖怪が片輪車と呼ばれたのか?

なぜ事故を起こす車の妖怪が片輪車と呼ばれたのだろうか。
車輪が外れやすかったのか?
そういうこともあっただろうが、わたしは「片輪」と「かたわ」を掛けてあるのではないかと思う。

「かたわ」と言う言葉は差別的な表現であるとして、現在はあまり使われないが身体に障害がある人のことをさす言葉であり、源氏物語にもでてくるという。

ウィキペディアで「かたわ」を検索すると、漢字表記で片端・片輪とでてくる。

「片」はそれだけで不完全という意味を持ち、「かたわ」は不完全なもの、不恰好な物を意味する。片足しかなかったり片側の輪が無い車輪など)。もっとも、どちらが先に語源となったかは定かではない。

片輪車とかたわは関係があるようである。

妖怪・片輪車に脚をもぎとられた子供は、身体障害者である。





トンデモもののけ辞典111 蟹坊主


1⃣蟹坊主

山梨県山梨市万力の長源寺には、以下の伝説が伝えられている。かつて甲斐国万力村にあった同寺の住職のもとを雲水が訪ねて問答を申し込み、「両足八足、横行自在にして眼、天を差す時如何」と問うた。答に詰まる住職を雲水は殴り殺し、立ち去った。その後も代々の住職が同様に死に、とうとう寺は無人となった。話を聞いた法印という旅の僧がここに泊まったところ、例の雲水が訪ねて来て同様の問答を仕掛けたので「お前はカニだろう」と言って独鈷を投げつけると、雲水は巨大なカニの正体を現し、砕けた甲羅から血を流しつつ逃げ去った。以来、寺には何も起こることはなくなったという[1]。このカニの大きさは2間四方とも[2]、全長4メートルともいわれる[3]。
別説では、法印が寺に泊まると、夜中に身長3メートルもある怪僧が現れて問答を仕掛けたが、正体を見破られた上に独鈷で刺されて逃げ去り、翌朝に法印が村人たちと共に血痕を辿ると、そこには巨大なカニが死んでいたという[4]。また、長源寺の本尊は千手観音だが、このカニの死体から千手観音の姿が現れ、法印がそれに感激して千手観音を寺の本尊に祀ったとも[2]、法印は救蟹法師(きゅうかいほうし)と名を改めて寺の住職となったともいう[5][6]。
なお長源寺の山号は蟹沢山というが、享保11年(1726年)までの山号は富向山といっていたため、蟹坊主の伝説が語られたのは享保11年より後と考えられている[5]。長源寺ではこの化蟹伝説に基いた1885年(明治18年)作成の「救蟹伝説掛軸」二幅が伝来している。
この伝説にちなみ、カニが逃げ去ったといわれる場所には蟹追い坂、蟹沢といった地名が残されており、長源寺にはカニの爪跡とされる2つの穴があいた石や、カニが投げつけたという1メートル以上もの巨石などが残されている[7]。かつてはカニの甲羅も残されていたというが[6]、後に紛失している[5][7]。
長源寺と同様に、無人の寺に泊まった旅の僧にカニの化け物が問答をしかけ、僧がこれを暴いて退治するという伝説や昔話は、石川県珠洲市の永禅寺[8]、富山県小矢部市の本叡寺などに見られ、小矢部市には伝説にちなんで「北蟹谷」の名が残されている[9]。岩手県西磐井郡花泉町(現・一関市)の伝承では、甲橋という橋で巨大なカニが僧に化けて問答をしかけたが、寛法寺という寺の住職に鉄扇で退治されたという[10]。このような問答を仕掛けるカニの化け物の話は、狂言の『蟹山伏[11]』がルーツとされる[4]。

長いので内容をまとめておこう。

・雲水は長源寺(山梨県山梨市万力)の住職に「両足八足、横行自在にして眼、天を差す時如何」と問うた。
答に詰まる住職を雲水は殴り殺した。その後も代々の住職が同様に殺された。
そこで法印という旅の僧が長源寺に宿泊したところ、雲水が訪ねて来て同様の質問をした。
訪印が「お前はカニだろう」と言って独鈷を投げつけると、雲水は巨大なカニ(2間四方または全長4メートル)に変身し、血を流して逃げた。
正体を見破られた雲水が逃げ、血痕を辿ると、巨大なカニが死んでいたともいう。

・カニの死体から千手観音の姿が現れ、祭ったのが長源寺の御本尊の千手観音だとされる。

・長源寺の山号は蟹沢山というが、享保11年(1726年)までの山号は富向山だったため
蟹坊主伝説は享保11年より後に生じたと考えられている。

・永禅寺(石川県珠洲市)、本叡寺(富山県小矢部市)にも同様の話が伝わっている。

・岩手県西磐井郡花泉町(現・一関市)の甲橋という橋で巨大なカニが僧に化けて問答をしかけたが、寛法寺という寺の住職に鉄扇で退治されたと伝わる。

・とカニの妖怪の話は、狂言の『蟹山伏』がルーツとされる。

2⃣蟹山伏

狂言の曲名。山伏狂言。修行を終えた山伏が強力(ごうりき)をしたがえて帰国の途中,蟹の精が飛び出してきたのに出会う。強力が金剛杖で打ちかかると,かえってはさみで耳をはさまれてしまう。山伏が行法で離してやろうとさまざまに祈るが,蟹の精は反対に強力の耳を強く締めつけ,ついには山伏の耳まではさんでしまう。蟹の精はころあいを見はからって2人を突き倒して逃げ去り,あとを山伏主従が追い込む


3⃣カニの姿をした千手観音

長源寺のご本尊の写真はこちら↓

腕の付き方がカニの脚のように見える。
 
25541674_s.jpg

滋賀県長浜市の高月観音の里には珍しい千手千足観音がおられるが、この観音様は二体のカニが合体した観音様ではないかと思う。

これは蟹の交尾を撮影したものとのこと。

男女双体の神としては、歓喜天などがある。

歓喜天

聖天(歓喜天)

4⃣蟹満寺

蟹といえば、京都府木津川市にある蟹満寺を思い出す。
蟹満寺には次のような伝説が伝えられている。

昔、この地に住む娘が近所の人がとらえた蟹をたすけて逃した。
その後、この娘の父親が、蛇が蛙を飲み込もうとしているところに遭遇した。
父親は蛇に「自分の娘をあなたの嫁としてさしだすので、蛙を助けてあげてほしい」といった。
蛇は蛙を飲み込むのをやめ、夜になって娘をもらうためにやってきた。
娘の父親は「3日後にきてくれれば娘をさしあげる」といい、観音経を唱え続けた。
すると蟹が大勢の仲間を引き連れてやってきて、蛇を殺した。
蟹もまた死んでしまい、蟹と蛇を弔うために蟹満寺が建てられた。

蟹満寺

蟹満寺 

今昔物語集等に掲載されている「蟹の恩返し」の舞台が蟹満寺である。

寺の所在地の地は名綺田(かばた)というが、古には「蟹幡」「加波多」と書いて「カニハタ」「カムハタ」と読まれていたようだ。
「ハタ」という音をともなっているところをみると、秦氏と関係のあるお寺なのかもしれない。

私はこの蟹満寺を参拝したことがあるが、ご本尊は釈迦如来像だった。
しかし観音霊験説話であること、当時の山号の普門山も法華経の観世音菩薩普門品に因むものであることから、当寺の本来の本尊は観音菩薩であったと考えられている。

娘を助けた蟹は観音様の化身なのではないだろうか。

5⃣みほとけの化身として信仰されたタコ

↓ こちらは京都の新京極通にある蛸薬師堂(永福寺)の「なで薬師」である。

nade.jpg

蛸薬師 なで薬師

この「なで薬師」さんを左手で撫でると病治癒に霊験があると信仰されている。

また大阪府岸和田市には天性寺というお寺があり、「蛸地蔵」と呼ばれている。

どうも蟹だけでなく、タコもみほとけの化身であると考えられていたようだ。

6⃣イカの神もいた!

蛸に似た動物にイカがある。
イカも神仏として信仰されていたのだろうか?

そう思って調べてみたところ
島根県西ノ島町浦郷地区にある「由良比女神社」に「イカ寄せ浜の伝説」が伝えられているという。

国づくりの神・由良比女命が出雲大社へ出かけ、芋桶に乗って隠岐へ帰る際、海に浸した手にイカが噛み付いた。
イカはそのおわびとして、神社前の由良の浜に大群でやってくる。
昭和20年代までは、大群でやってきたイカを捕獲する人々の姿が見られたとのこと。

明治まで神仏は習合して信仰されていたのでイカを神格化したみほとけが西ノ島にあるかもしれない。

7⃣みほとけは動物の形を象ったもの?

私はみほとけは動物の形を象った姿に造られることが多いのではないかと思っている。
これについてはこちらの記事でのべる。 → 動物の形をしたみほとけたち




とんでももののけ辞典 金玉(カネダマ)


金玉


1⃣金玉(カネダマ)

その名の通り玉のような物または怪火で、これを手にした者の家は栄えるという[8][9]。

東京都足立区では轟音と共に家へ落ちてくるといい[8]、千葉県印旛郡川上町(八街市)では、黄色い光の玉となって飛んで来たと伝えられている[9]。

静岡県沼津地方では、夜道を歩いていると手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来るといい、家へ持ち帰って床の間に置くと、一代で大金持ちになれるという。ただし金玉はそのままの姿で保存しなければならず、加工したり傷つけたりすると、家は滅びてしまう[10][11]。

江戸時代の奇談・怪談集である『兎園小説』では、1825年(文政8年)の房州(現・千葉県)での逸話が語られている。それによれば、丈助という農民が早朝から農作業に取り掛かろうとしていたところ、雷鳴のような音と共に赤々と光り輝く卵のようなものが落ちて来た。丈助はそれを家を持ち帰り、秘蔵の宝としたという[12]。この『兎園小説』では「金玉」ではなく「金霊」の名が用いられているため、金霊を語る際にこの房州での逸話が引き合いに出されることがあるが、妖怪研究家・村上健司はこれを、金霊ではなく金玉の方を語った話だと述べている[13]。また同じく妖怪研究家の多田克己は、この空から落ちてきたという物体を、赤々と光っていたとのことから、隕鉄(金属質の隕石)と推測している[11]。

東京都町田市のある家では、文化・文政時代に落ちてきたといわれる「カネダマ」が平成以降においても祀られているが、これも同様に隕石と考えられている[2]。


金玉(かねたま)の特徴を箇条書きにしてみよう。
①轟音と共に家へ落ちてくる。
⓶黄色い光の玉
③手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来る。
④早朝にも見える。

2⃣金玉は火球?

「①轟音とともに落ちてくる」光の玉というと、火球ではないかと思われる。

上の動画0.48あたりで、火球が流れたあとの轟音が録音されている。

 

↑ こちらの火球は黄色に見える。(⓶黄色い光の玉)


赤い火球もある。(③赤い光の玉)


 

緑色もある。 

上の動画1:39あたりからの字幕には次のようにある。
「流れ星に含まれる組成 大気の組成と2つの理由によって流れ星の色が決まるんです」
「鉄のスペクトルを多くふくんでいて緑色になったそうです」
上記動画より引用

こんな記事もあった。

流星は大気圏に高速で突入した際、流星を構成する物質や大気がプラズマ化(「気化」や「イオン化」とも言われます)して発光します。そのとき、どのような色で発光するかは元素によって異なります。一般的にマグネシウムは青緑色、カルシウムは紫色、ニッケルは緑色の光を放射します。しかし、赤は一般的に地球の大気中に存在する窒素と酸素に由来しています。


「ファイアーボール(火球)」のように輝く流星は、含まれる化学元素によって鮮やかに色を変える。地球大気に高速で突入する際に、流星物質は溶融・蒸発し、衝突する大気粒子とともにプラズマ化して発光する。このとき、ナトリウムは黄色からオレンジ色、銅は青から緑、カリウムはマゼンタ、ケイ素は赤く輝く。また、大気中の酸素粒子は緑色に光る。

説明が異なっているが、どちらのケースもありうるということだろうか。

マグネシウム 銅・・・青緑
カルシウム・・・・・・村崎
ニッケル 酸素・・・・緑
窒素 酸素 ケイ素・・赤
ナトリウム・・・・・・黄~橙
カリウム・・・・・・・マゼンダ

「④早朝に見える」ということは、空が明るいときに見えたということだろうが、火球は日中でも見える。


3⃣金霊(カネダマ)

金霊

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「金霊」

鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『今昔画図続百鬼』によれば、善行に努める家に金霊が現れ、土蔵が大判小判であふれる様子が描かれている。石燕は同書の解説文で、以下のように述べている。

金だまは金気也 唐詩に 不貪夜識金銀気といへり 又論語にも富貴在天(ふうきてんにあり)と見えたり 人善事を成せば天より福をあたふる事 必然の理也

「不貪夜識金銀気」は中国の唐代の詩選集『唐詩選』にある杜甫の詩からの引用で、無欲な者こそ埋蔵されている金銀の上に立ち昇る気を見分けることができるとの意味である。 また「富貴在天」は文中にもあるとおり、中国の儒教における四書の一つ『論語』からの引用で、富貴は天の定めだと述べられている。これらのことから石燕の金霊の絵は、実際に金霊というものが家に現れるのではなく、無欲善行の者に福が訪れることを象徴したものとされている[1]。

同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例があるが、いずれも金銭が空を飛ぶ姿で描かれている。1803年(享和3年)の山東京伝による草双紙『怪談摸摸夢字彙(かいだんももんじい)』では「金玉(かねだま)」の名で記載されており、正直者のもとに飛び込み、欲に溺れると去るものとされている[2][3]。

昭和以降の妖怪関連の文献では、漫画家・水木しげるらにより、金霊が訪れた家は栄え、金霊が去って行くと家も滅び去るものとも解釈されている。また水木は、自身も幼い頃に実際に金霊を目にしたと語っており、それによれば金霊の姿は、轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿だったという[4]。

東京都青梅市のある民家では、実際に人家に金霊が現れたという目撃例がある。家の裏の林の中に薄ぼんやりと現れるもので、家の者には恐れられているが、その家でも見れば幸運になれるといわれている[5]。

似た仲間に、江戸時代の怪談本『古今百物語評判』に記述されている「銭神(ぜにがみ)」がある。銭霊(ぜにだま)ともいい[6]、黄昏時に世界中の銭の精が薄雲状となって人家の軒を通るもので、刀で切り落とすと大量の銭がこぼれ落ちるという。同書の著者・山岡元隣によれば、これは世界中の銭の精が集まって、空中にたなびいているのだと解説されている[7]。


3⃣金霊は1769年の彗星から創作された?


上の記事によれば

明和6年(1769年)夏
天保14年(1843年)2月 

に彗星が出現したとある。

明和6年夏の彗星は、全国的に記録が残っており、畿内の民衆は「豊年之瑞」として「稲星」と呼んだようです。一方、公家社会では凶兆と見て、臨時に御神楽を行って危機の打開を図りました。

「金霊」が描かれている『今昔画図続百鬼』は、1779年(安永8年)に刊行された鳥山石燕(1712 - 1788年)の妖怪画集である。
石燕も1769年の彗星を目撃したのかもしれない。

同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例がある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%9C%8A より引用

とあるのは、1769年の彗星を見た人々がこれを「豊年の瑞(めでたいしるし)」と考えたところから、金霊なるものを創作したということかもしれない。

『怪談摸摸夢字彙』より「金玉」。北尾重政画。

『怪談摸摸夢字彙』より「金玉」。北尾重政画。(1803年)

水木しげるさんが目撃された「轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿」のものは、UFO❔


トンデモもののけ辞典109 帷子辻

竹原春泉画『絵本百物語』より「帷子辻」

竹原春泉画『絵本百物語』より「帷子辻」

1⃣帷子辻

平安時代初期、嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子(たちばなの かちこ、786年 - 850年)は仏教の信仰が厚く、檀林寺[3]を建立したことから「檀林皇后」と呼ばれた。また貴族の子弟教育のために学館院を設けるなど、多くの功績があった[4]。
伝説によると、檀林皇后はすばらしい美貌の持ち主でもあり、恋慕する人々が後を絶たず、修行中の若い僧侶たちでさえ心を動かされるほどであった。こうした状況を長く憂いてきた皇后は、自らが深く帰依する仏教の教えに説かれる、この世は無常であり、すべてのものは移り変わって、永遠なるものは一つも無い、という「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こそうと、死に臨んで、自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよと遺言した。
遺言は守られ、皇后の遺体は辻に遺棄されたが、日に日に腐り、犬やカラスの餌食となって醜く無残な姿で横たわり、白骨となって朽ち果てた。人々はその様子を見て世の無常を心に刻み、僧たちも妄念を捨てて修行に打ち込んだという。皇后の遺体が置かれた場所が、以後「帷子辻」と呼ばれた場所である[4]。一説には皇后の経帷子(死装束)に因んだ名とされる[5]。
「九相図」(九相詩絵巻)[6]は檀林皇后(または小野小町等)の遺体が朽ち果てる様を九つの絵で描いたものとされる。
また詩書には「檀林皇后の御尊骸を捨てし故にや、今も折ふしごとに女の死がい見へて、犬鳥などのくらふさまの見ゆるとぞ、いぶかしき事になん[7]」とある。この意味について「もともと帷子辻は、こうして自らをなげうって人々の魂を救済しようとした檀林皇后の遺志の源であったはずであるが、その後この辻を通りかかると、犬やカラスに食い荒らされる女の死体の幻影が見えると恐れられるようになった[8]」との解釈もあるが、「後にも檀林皇后の例に倣い、女の死体が捨てられることがある」との意味に解釈すれば怪異でも何でもない、との指摘もある[9]。

2⃣帷子の辻はどこだ?

檀林寺は橘嘉智子が嵯峨野に創建した寺で、現在、天龍寺がある場所にあったという。
一条天皇:(在位986~1011)のころ、廃絶したと考えられている。
の頃には廃絶したとみられる。
現在、天龍寺の近所に法寳閣檀林寺があるが、1964年に壇林皇后の遺徳を偲んで再興されたものである。

橘嘉智子の遺体が朽ちていく様子を描いた九相図は東山区・六道の辻にある西福寺で見た。

九相図

帷子の辻の場所はこちら↓


辻とは十字路のことだが、どこが帷子の辻なのだろうか?

こんな記事があった。

彼女が亡くなった時に棺にかけられていたのが、絹や麻糸で織った着物(帷子)でした、お葬式の際にこのあたりを通った時に、三条通と交わる辻(交差点)で帷子が風に舞ってはらりと落ちたことから、このあたりが帷子ノ辻と呼ばれるようになったそうです。

三角形の形をした太秦帷子の辻町の東の角、112と数字のある道が三条通である。
つまり三角形の角のように鋭くとがった角のある場所が、帷子の辻だと思われる。
昔からこの角があったのだろうか。

とすればこの特徴的な交差点の形が帷子の辻という地名の由来ではないかと思えてくる。

友人は死装束の天冠のイメージから、死装束である経帷子の辻・・・・帷子の辻となったのではないかという。
また帷子で画像検索すると、下のように帷子を広げて三角状にした写真がたくさんでてくる。

https://maruai.up.seesaa.net/image/Picture20989.png

千本閻魔堂狂言 

千本閻魔堂狂言で亡者が額に着けている天冠

3⃣橘嘉智子の系譜

橘嘉智子の墓は右京区嵯峨鳥居本深谷町にある。
わずかに残った骨だけを葬ったとも考えられるが、「橘嘉智子の遺体が帷子ノ辻に打ち捨てられた」というのは事実ではないだろう。
皇后の遺体を粗末に扱うというのはちょっと信用できないからだ。

それでは橘嘉智子にまつわるこんな伝説が、なぜ創作されたのだろうか。

若宮社の橘諸兄(684~757)は敏達天皇の5世(もしくは4世)子孫で葛城王といった。
父親は美努王、母親は橘美千代である。
736年、橘諸兄は、弟の佐為王と共に母・橘三千代の姓氏である橘宿禰を継ぐことを願い出て許され、
葛城王はこれ以後、橘諸兄と称した。

橘三千代は夫の美努王が大宰府に単身赴任しているすきに藤原不比等と再婚して光明皇后を産んでいる。
光明皇后は橘諸兄の異父妹なのである。
737年、天然痘が流行し、藤原不比等の子である藤原四兄弟や舎人親王ら多くの政府高官が死亡した。
738年、こういった情況下で橘諸兄は右大臣となり、743年には左大臣になった。

755年、諸兄の従者が『諸兄は酒宴の席で朝廷を誹謗した』と讒言をした。
聖武太上天皇は問題視しなかったが756年、これを恥じた諸兄は辞職し、翌757年死亡している。
このころ、光明皇后の信任を得た藤原仲麻呂が勢力を伸ばしており、この事件には仲麻呂の思惑が働いていたのではないかと思われる。

758年、橘諸兄の子である奈良麻呂は藤原仲麻呂の専横に不満を持ち、クーデターを計画したが密告によって捕らえられた。
このクーデター計画にかかわった多くの人が厳しい拷問によって死亡している。
続日本紀の拷問死した人物の記述の中に、奈良麻呂の名は記されていないが、やはり拷問死したと考えられている。

奈良麻呂の子の橘清友は、777年に渤海大使都蒙を接待したとき、
『骨相から見るとあなたの子孫は繁栄するが、あなた自身は32歳で厄があるでしょう』
といわれ、その予言どおりに32歳で死亡した。

この橘清友の娘が橘嘉智子である。


4⃣承和の変

『骨相から見るとあなたの子孫は繁栄するが、あなた自身は32歳で厄があるでしょう』という予言どおり、橘清友の子孫は繁栄した。

娘の橘嘉智子は嵯峨天皇の皇后となり、橘嘉智子が生んだ正良親王は54代仁明天皇に、正子内親王は53代淳和天皇の皇后となった。
橘嘉智子の息子の橘嘉智子の正良親王は藤原順子との間に道康親王をもうけた。
橘嘉智子の娘の正子内親王は淳和天皇の皇后となり、恒貞親王をもうけた。

833年、正子内親王の夫・淳和天皇は、正子内親王の弟・正良親王(仁明天皇)に譲位した。
仁明天皇の皇太子には、淳和天皇と正子内親王の間に生まれた恒貞親王が立った。

このころ、藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て権力を強めつつあった。
良房は恒貞親王ではなく、仁明天皇(正良親王)と妹順子の間にできた道康親王の皇位継承を望んでいた。

淳和上皇と恒貞親王はしばしば皇太子辞退を奏請しているが、それはおそらく良房を恐れてのことだろう。
しかし、恒貞親王の皇太子辞退は嵯峨上皇に慰留されていた。

840年、淳和上皇が崩御し、842年嵯峨上皇が病に伏せると、後ろ盾をなくした恒貞親王は不安定な立場に立たされる。
伴健岑と橘逸勢(橘嘉智子の従兄弟)は恒貞親王の身を案じて恒貞親王を東国へ移す計画をたてた。
ふたりはこの計画を安保親王(第51代平城天皇の皇子。在原業平の父)に相談するが、阿保親王はこれに与せず、橘嘉智子に密告した。
さらに橘嘉智子がこれを藤原良房に相談し、仁明天皇は伴健岑・橘逸勢らを逮捕した。恒貞親王は廃太子となる。
橘逸勢は姓・官位を剥奪、『非人』の姓を与えられて流罪になり、その護送途中に病没した。(承和の変)

従来『承和の変』は藤原良房による他氏排斥だと考えられていたが、当時良房はまだ中納言で第六位の身分にすぎなかった。
そんな良房がひとりでこんな事件を起こせるはずがない、仁明天皇や橘嘉智子もこの事件に深く関与しているのではないか、と言う説が近年となえられている。

『日本三代実録』によれば、恒貞親王の母・正子内親王は激しく怒り泣いて母・嘉智子太皇太后を恨んだとも記されています。
橘嘉智子は自分の孫の繁栄を願って仁明天皇と藤原順子の間に生まれた道康親王の立太子を画策したのだろう。
しかし、道康親王の立太子は適ったものの、橘氏はその後ぱっとせず、藤原氏の栄華の手助けをしたに過ぎなかったという結果に。
しかも橘嘉智子はそのために娘の正子内親王の恨みを買い、孫の恒貞親王を犠牲にしてしまっている。

橘氏の没落を招いたのは橘嘉智子だったといえるかもしれない。

橘嘉智子は我が国最初の禅寺である檀林寺を創建し、奨学・養老・施薬の施設をととのえるなど、大変信仰心の厚い女性であったとされる。
私は橘嘉智子が深く仏教に帰依したのは、自らの罪の重さにおののいたためではないかと思う。

「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こそうと、死に臨んで、自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよと遺言した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B7%E5%AD%90%E8%BE%BB より引用

というのは、橘嘉智子の行動(孫の恒貞親王を廃太子によって、正子内親王の恨みを買い、橘氏を没落させたなど)が背景に会って、生み出されたのかもしれない。


トンデモもののけ辞典108 片葉の葦 

『本所七不思議之内 片葉の芦』(片葉の葦)三代目 歌川国輝・画

『本所七不思議之内 片葉の芦』(片葉の葦)三代目 歌川国輝・画

1⃣片葉の葦

江戸時代の頃、本所にお駒という美しい娘が住んでいたが、近所に住む留蔵という男が恋心を抱き幾度も迫ったものの、お駒は一向になびかず、遂に爆発した留蔵は、所用で外出したお駒を追った。そして隅田川からの入り堀にかかる駒止橋付近(現在の両国橋付近の脇堀にかかっていた橋)でお駒を襲い、片手片足を切り落とし殺した挙げ句に堀に投げ込んでしまった。それ以降、駒止橋付近の堀の周囲に生い茂る葦は、何故か片方だけの葉しか付けなくなったという。


2⃣本所の葦

この物語の舞台は東京都墨田区本所である。


上の地図の赤い点線で囲まれた隅田川の東岸にある地域が現在の本所である。
葦は池沼、河岸、湿地など、水辺に生えるので、本所にも葦が茂っていたのだろう。

本所の料亭 広重

本所の料亭 広重

広重の絵にも葦のようなものが描かれている。

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葦


3⃣居多神社の片葉の葦

ウィキペディア「片葉の葦」のところに、次の様に記されている。

越後七不思議の一つの「片葉の芦」については「居多神社」をご覧ください。

どうやら片葉の葦は本所だけでなく、居多神社にもあるらしい。

境内には、葉が片方にのみ生える芦「片葉の芦」が群生する[3]。伝承では、親鸞が居多神社に参拝して祈願をすると境内の芦が一夜にして片葉になったという[3]。この片葉の芦は「越後七不思議」の1つにも数えられている[3]。

360px-片葉の芦

居多神社 片葉の芦

4⃣お駒は片葉の葦を擬人化したもの?

本所七不思議の「 片葉の芦」では、「留蔵が自分になびかないお駒の片手片足を切り落として殺した」とある。
片葉の葦を、人間の片手片足を切り落とした状態に喩えたものではないかと思う。
お駒は片葉の葦を擬人化したものと言ってもいいだろう。

葦はお駒の切り落とされた「足」の語呂合わせにもなっている。

留蔵は片葉の葦の、葉のないほうに立っていて、それで片葉の葦の葉が自分のほうに「なびかない」のではないか。

5⃣葦は男女のカップルをイメージさせる?

百人一首にこんな歌がある。

難波江の 蘆のかりねの 一よゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき/皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)
(難波江の、蘆を刈ってつくった小屋での、たった一夜の仮の一夜、蘆の一節(ひとよ)のような一夜のために、難波江に建てられている澪標の言葉と同じように身を尽くして 恋しつづけるべきでしょう。)

難波潟 みじかき蘆の ふしのまも 逢はで此の世を 過ぐしてよとや/伊勢
(難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。)


どちらも恋の歌である。
肩葉の葦ではないふつうの葦が、両側に葉をつける。
古の人々は、両側に葉をつける葦から、男女のカップルを思い浮かべたのではないだろうか。
それで葦と恋をむすびつけた歌を詠んでいるのではないかと思った。

6⃣伊勢にも片葉の葦の伝説があった。

下記動画では伊勢の国・長井の里の井出のお宮を舞台とする話で
渡り鳥である雁が葦の葉をもらって長い渡りの旅に出て、疲れればその葉を海に浮かべて、体をやすめるという。


なんだか雁風呂を思わせる話である。

月の夜、雁は木の枝を口に咥えて北国から渡ってきて、飛び疲れると波間に枝を浮かべ、その上に停まって羽根を休める。そうやって津軽の浜までたどり着くと、要らなくなった枝を浜辺に落とす。日本で冬を過ごした雁は早春の頃、浜の枝を拾って北国に戻って行く。雁が去ったあとの浜辺には、生きて帰れなかった雁の数だけ枝が残っている。浜の人たちは、その枝を集めて風呂を焚き、不運な雁たちの供養をしたという[1]。

2012年、青森県立図書館の調査により、上記の伝説は1974年のテレビCMで広まったものであり、青森県内で伝承されたものではないと判明した[1]。また、伝説の基となった物語は四時堂其諺『滑稽雑談』(1713年(正徳3年)成立)巻16に収められているが、日本ではなく他国の島での話として収められた物語と判明した[1]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%81%E9%A2%A8%E5%91%82#%E6%A6%82%E8%A6%81 より引用

それはともかく、肩葉の葦はあちこちに生息していそうである。
今度、川辺にいったら探して見ようと思う。

トンデモもののけ辞典107 片脚上臈


➀片脚上臈

片脚上臈(かたあしじょうろう)は、愛知県八名郡山吉田村(現・新城市)に伝わる妖怪。
姫上﨟ともいう。栃の窪という地からハダナシ山という山にかけて現れるという、美しい上臈姿の片脚の妖怪。紙製の鼻緒の草履を履いた者がいると、その片方を奪うという。山吉田村の阿寺には栃の窪を水源とする阿寺の七滝という滝があり、そこには不妊の女性に子宝の霊験のある子抱き石という石があったが、そこへ行くには紙緒の草履を履いていかなければならないとされ、そのような女性が片方の草履を奪われたという。
また山中で、猟師が獲物を一時的に置いて水を飲みに行ったときなど、その隙に獲物を奪い取るともいい、獲物から離れなければならないときなどに、猟銃と山刀を十字に組んでおくか、袢纏をかけておくと、片脚上臈の怪異を避けるまじないになるという。
獲物を奪うのは山男の仕業ともいわれるが、実際には山犬の仕業との説もある。


片脚上臈の伝承のある阿寺の七滝

片脚上臈の伝承のある阿寺の七滝

上臈とは江戸時代の大奥女中の最高位の役職名である。
将軍や御台所への謁見が許され(御目見以上)で、京都の公家出身の女性が役職につくことが多かった。
生家の名前とは関係なく、姉小路・飛鳥井・万里小路・常磐井などの名前を代々受け継いだ。
主に御台所(将軍の妻)の相談役をつとめた。

⓶子孫に王位を継承することができなかった達磨と天智天皇

この妖怪の話で興味深いのは、履物を奪うことである。
なぜ片脚上臈は履物を奪うのだろうか。

トンデモもののけ辞典㊹ 雪だるま と 塗り壁

私は上の記事で次の様に書いた。

『江戸名所道戯尽 廿二 御蔵前の雪』(歌川広景)

『江戸名所道戯尽 廿二 御蔵前の雪』(歌川広景)

なぜ広景は鼻緒を結びなおす人を描いたのだろうか?
『景徳伝燈録』に次のような物語がある。

『景徳伝燈録』は達磨没後の道教の尸解に類した後日譚を伝える。
中国の高僧伝にはしばしば見られるはなしである。
それは達磨の遷化から3年後、西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原の葱嶺という場所で達磨に出会ったというものである。
その時、達磨は一隻履、つまり履き物を片方だけ手にして歩いており、宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うと達磨は「インドに帰る」と答えたという。
また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。
宗雲は帰国してからこのことを話してまわった。
帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。
孝荘帝が達磨の墓を開けさせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。

※遷化とは、高僧の死亡のことである。
つまり、広景の絵に描かれている鼻緒を結び直す男性は、達磨の幽霊だと思う。

『景徳伝燈録』にある、達磨が履き物の片方を手にして歩いていたという伝説は、天智天皇の伝説を思わせる。
蹴鞠をしていた中大兄皇子(のちの天智天皇)の沓が脱げ、それを中臣鎌足が拾ってさしだしたというものである。

また、天智天皇陵のそばに沓石が置かれており、この沓石にこんな伝説がある。

天智天皇は騎乗して山林に入り、行方不明になった。
そのため、沓が落ちていた場所を陵とした。(『扶桑略記』)

中大兄皇子の伝説は達磨の伝説をもとに創作されたのではないだろうか。

達磨はインドの王の第三王子として生まれたのに、王位をつげず、出家して僧となっている。
出家したということは子孫も残せなかったのかもしれない。
仮に出家前に子をなしていたとしても、彼の子孫は王位につけなかっただろう。

天智天皇(中大兄皇子)は皇位にはついたが、崩御後、弟の大海人皇子(天武天皇)vs子の大友皇子が争い(壬申の乱)
大海人皇子が勝利して即位したので、自らの血を皇位継承させることができなかった。
奈良時代末、天武系天皇の血筋が絶えてしまい、
天智天皇の皇子・志貴皇子の子である光仁天皇が即位したことで、天智天皇の子孫が皇位継承することになったのだが。
もしかしたらそのような点から、中大兄皇子と達磨は同一視されたのかもしれない。

③脱げた履物は、子孫に王位を継承させられなかったことをあらわしているのではないか?

藤原氏の祖は中臣鎌足である。
中臣鎌足は死の間際に天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜ったとされる。
この藤原鎌足(中臣鎌足)の次男が藤原不比等だが、藤原不比等は天智天皇の後胤とする説がある。

藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけているが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などに記されている。

興福寺

藤原氏の氏寺・興福寺

すでに書いたように、天智天皇の皇子は長らく皇位につくことができなかった。

天智以下、皇位は次のように継承されている。(赤字は女帝)

38代 天智
39代 弘文(即位したかどうか不明)
40代 天武(天智の弟)
41代 持統(天智の娘・天武の妻)
42代 文武(天武の孫)
43代 元明(文武の母)
44代 元正(天武の孫、元明の娘、文武の姉)
45代 聖武(文武の子)
46代 孝謙(聖武の娘)
47代 淳仁(天武の孫)
48代 称徳(聖武の娘/孝謙と同じ人物)
49代 光仁(天智の孫)

40代天武から48代称徳までが天武系で、ここで天武系の血筋がたえてしまったため、49代には天智系の光仁が即位したのである。
9代にわたって天智の子孫は皇位につけなかったわけである。

しかし、鎌足の子・藤原不比等が天智天皇の子であるとすれば、不比等の娘が天皇に入内することで、女系によって天智の血は繋がれたといえる。

藤原宮子・・・・・・・不比等の長女・・・文武天皇の夫人、聖武天皇の母
藤原光明子・・・・・・不比等の三女・・・聖武天皇の皇后、孝謙(称徳)天皇の母

蹴鞠で脱げた中大兄皇子(天智)の沓を中臣(藤原)鎌足が拾って皇子にさしだしたというのは
天智の子孫は皇位継承することができなかったが(沓が脱げた)

鎌足は天智天皇の子である藤原不比等を自分の子として育て、不比等の娘が天皇に入内し、
また不比等の働きによって、天智系天皇が再び皇位についた(鎌足が天智の脱げた沓を拾った)
という事を言っているのではないかと思ったりする。

談山神社 中臣鎌足像

談山神社 中臣鎌足像

つまり、沓や下駄、草履などの履物は子孫繁栄の象徴であるともいえる。

妖怪・片脚上臈は、子宝を望んでやってくる女性に対して、そうはさせじとして紙製鼻緒の草履を奪おうとしているのかもしれない。





トンデモもののけ辞典106 火前坊

鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「火前坊」

鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「火前坊」


➀火前坊


平安時代頃に葬送地として知られた京都の鳥部山に現れるという妖怪で、画図では炎と煙に包まれた乞食坊主の姿で描かれている[2]。


鳥部山は有力な皇族や貴族が葬られており、10世紀末頃には高僧たちがこの地で焚死往生を願って自らの体に火を放って命を絶ったといわれ、その信仰儀式を人目見ようとする庶民たちも多かったが、中には儀式に反し、現世に未練があるなどして極楽往生できなかった者もいたらしく、そうした僧の霊が僧形の怪火となって鳥部山に現れたものが火前坊とされている[1][2]。


また、江戸麻布の地名「我善坊谷」から鳥山石燕が創作したものとする異説もある[3]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%89%8D%E5%9D%8A より引用


絵に添えられた文章はつぎのとおり。


鳥部山の烟たちのぼりて、龍門原上に骨をうづまんとする三昧の地よりあやしき形出たれば、

くはぜん坊とは名付たるならん


・鳥辺山は京都に古くからあった葬送の地。
・烟は煙。
・「龍門原上に骨をうづまん」は白居易「題故元少尹集」にある言葉。

龍門は登竜門のことで、難所を突破できれば出世につながることのたとえである。

「龍門に骨は埋められたが、書き残した遺文によって名声は後世に残る。」「死後に高い評価をえる」というような意味でる。
・三昧は仏教の言葉で「雑念をさり没入することによって対象を正しく認識する」というような意味。
しかし「三昧の地」といっているので、「三昧場」のことを言っているのではないかと思う。
「三昧場」は僧が死者の冥福 を祈るため、墓の近くに設ける堂のことで、転じて、墓所・葬場のことを三昧場というようになった。

・「ならん」は「~だろう。」


通して現代語訳すると次のようになるだろうか。


葬送の地である鳥辺山の煙が立ち上って、龍門原上に骨をうずまんとしている(捨身である焼身をして名声を残そうとしている)
葬場からあやしい形が出ているのを見て、火前坊と名付たのだろう。


⓶入定


「10世紀末頃には高僧たちがこの地で焚死往生を願って自らの体に火を放って命を絶ったといわれ」という

ウィキペディアの説明はかなりショッキングである。

本当にこんなことが行われていたのだろうか。

捨身行は行われていた。


まず、入定である。


五穀を絶って木の皮や実のみを食べる木食修行を行って、体の脂肪を減らし、腐りにくい体にする。
そして漆のお茶を飲んで胃の中のものを吐きだし、さらに漆の作用で体を腐りにくくし、
地下に彫られた穴のようなところに籠ってお経をあげる。
お経の声が聞こえなくなったら行者は死亡しているのだが、その肉体は過酷な木食修行によって腐ることなく後世に残るのである。


しかし実際には腐ってしまった例も数多くあったようだ。


③補陀落渡海


次に、補陀落渡海である。


補陀落渡海とは、南方海上にある観音浄土を目指す行である。
やり方としては、行者が乗り込んだ船の出口を釘で塞いだ上で、伴走船が曳航していく。
沖までやってきたら綱を切る。
渡海船はそのまま海を漂って南方海上にある観音浄土に到着する・・・・なんてはずがない。

波にのまれて船が沈没し、行者は水死することが多かっただろう。
そう、観音浄土とはあの世、死の国のことなのである。


補陀落渡海のメッカは紀伊・那智勝浦(868年から1722年の間に20回実施された/熊野年代記)で、ほかにも足摺岬(高知)、室戸岬(高知)、那珂湊(茨城)他、鹿児島県や茨城県、島根県などでも行われている。


江戸時代になると補陀落渡海は生きた行者ではなく、死者を渡海船に乗せるようになる。


④焼身


それでは焼身はどうか。これについても本当に行われていたようである。

「平安時代の焼身往生について 根井浄」という記事が参考になった。

❶捨身は菩薩道の布施行。投身、焼身、入定、入水。

❷捨身、焼身を説く経典

『金光明経』の摩詞薩唾太子の捨身飼虎

『浬繋経』の雪山童子の捨身羅刹、

『法華経』薬王菩薩本事品の喜見菩薩の焼身供養。

❸中国の六朝時代から階唐時代の捨身は、多く法華経行人によつて行われていた。

❹日本でも『本朝法華験記』に、捨身、焼身の話を多く載せている。

❺文献上の日本最古の捨身は、『日本霊異記』(下巻・第一)にみえる禅師

彼は常に法華を諦し、麻の縄で足をしばり、崖に身を投じた。

❻熊野那智山の応照は、日本最初の焼身者、

法華を読諦することをその業となし、喜見菩薩を恋慕随喜して焼身した(『本朝法華験記』第九話)。

❼薩摩国一沙門、千部の法華経を読調し、喜見に異ならずして焼身した(『本朝法華験記』第十五話)。

さらに『元亨釈書』にみえる信州戸隠山の長明も、法華経を諦し、一切衆生喜見菩薩と言つて焼身自殺した(巻十二)。

❽奈良時代『僧尼令』第二十七条の「凡僧尼、不二得焚レ身捨身」僧尼の焚身、捨身を禁止

❾『続日本紀』(養老元年四月条)

「小僧行基井弟子等、零二ー畳街備↓妄説二罪福↓合訓構朋党↓焚ニー剥指管{歴門仮説、強乞二余物↓詐称二聖道肉妖二ー惑百姓こという行基とその集団に出された詔。

❿行基等は、身体の一部を焼いて、庶民教化の一方便としていた。

指を焼いたり、身の皮を剥いでそれに写経する。(血書・刺血写経)『令集解』

⓫「皮を剥ぎて紙となし、血を刺して墨となし、髄を以て水となし、骨を析きて筆となし、仏戒を書写せよ」『梵網経』(巻下)には、とある。

⓬同様の記述は空也上人(空也謙)、釈信敬、釈賢憬(元亨釈書)にもみられる。

⓭平安時代の焼身の記録

(1)六波羅蜜寺の覚信、菩提寺北辺にて焼身『日本紀略』長徳元年(995年)九月十五日※華山法皇以下公卿が拝んだ。

(2)某比丘尼、鳥辺野にて焼身(『日本紀略』万寿三年(1026年)五月十五日

(3)薬王品尼、鳥辺野にて焼身(『左経記』万寿三年(1026年)七月十五日)

(4)四条釈迦堂の文豪、鳥辺野にて焼身『扶桑略記』治暦元年(1065年)五月十五日※道俗市を成す

(5)某上人、船岡野にて焼身(『百練抄』承安四年( 1174年)七月十五日※上下群を成した

(6)某上人、阿弥陀峯にて焼身(『百練抄』長徳元年(995年)九月十六日) ※上下の雲集が集まった。

(7)僧円観、伊予国久米郡にて焼身『後拾遺往生伝』康平五年(1062年)八月十五日

(8)僧長明、戸隠山にて焼身(『拾遺往生伝』元保年中三月十五日を終焉とす)。
※元保という元号はない。

天台宗。信濃(しなの)(長野県)戸隠(とがくし)山にすみ,25歳のとき言語を絶って法華経をとなえた。最後に薪(まき)をつみ,みずから火をはなって往生した。没年に永保年間(1081-84),康保(こうほう)年間(964-968),康平年間(1058-65)の3説がある。法名は「ちょうめい」ともよむ。
https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E6%98%8E-569092 より引用

その他、『三外往生伝』『本朝新修往生伝』にも、焼身の僧の例がある。

六波羅蜜寺 萬燈会

六波羅蜜寺

⓮京都では、阿弥陀峯、鳥辺野、船岡野といつた霊場、葬場で行われた。

⓯見せ物的要素もあつた。

⓰焼身はがほとんど月の十五日に行なわれた。

月の十五日は、戒律を守り、各々、罪を告白し、繊悔する布薩の日。

『廿五三昧起請』(起請八ケ条)「可三毎月十五日勤二修念仏三味一事、右今日是弥陀垂二感応哨閻王記二善悪一之斉也、結縁殊慎三二業{堅護二衆戒嚇不レ生二放逸之行剛勿レ従二世路之事こと』とある。

慶滋保胤を中心とした勧学会・・・三、九月の十五日

源信を中心とする念仏結社であつた二十五三昧会・・・毎月十五日に

阿弥陀仏の縁日である十五日に焼身すれば、必ず往生できるという信仰。

七月十五日の孟蘭盆の日に焼身するケース・・・「孟蘭盆捨身上人」(『顕広王記』)「薬王品尼」(『左経記』)



鳥辺山は鳥辺野とも呼ばれた。
どのあたりを鳥辺野と呼んでいたのか、はっきりしないが、
⓭平安時代の焼身の記録に (1)六波羅蜜寺とある。
この六波羅蜜寺のあたりは鳥辺野の入り口付近だといわれる。
ここから東南の方向へ少し行くと大谷本廟があって、登り坂となり、清水寺などがある。
このあたりが鳥辺野だろうか。
鳥辺野を阿弥陀ヶ峰西麓一帯と記した記事もある。


鳥辺野は風葬の地とよく説明されているが、それは室町の頃の事であるらしい。
それ以前の平安時代には野焼き場(露天の火葬場)があったそうである。

藤原道長が火葬されたのも鳥辺野であるという。

そして鳥辺野で実際に焼身がおこなわれていたようである。


トンデモもののけ辞典105 風の神


※「シドモアが見た明治期の日本」は、図書館で借りていた「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー」を返却期限がきて返したので(「買えよ」って感じですねw)、しばらく中断します。
購入する予定です。入手ししだい、再開します。よろしくお願いします♪

風の神

奇談集『絵本百物語』巻第5 第39「風の神」。絵/竹原春泉

➀風の神

5-4(第三十九 風の神)風の神(かぜのかみ)
「風にのりて所々をありき人を見れば口より黄なるかぜを吹(ふき)かくる其(その)かぜにあたればかならず疫(えき)傷寒(しやうかん)をわづらふ事とぞ」(風に乗って様々な所を歩き、人を見れば口から黄色い風を吹きかける。その風に当たれば必ず流行り病や傷寒を患うことになるということだ)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B5%E6%9C%AC%E7%99%BE%E7%89%A9%E8%AA%9E より引用

この話は「絵本百物語」に掲載されているものである。
1841年に刊行された奇談集で、著者は桃山人(序の署名では桃花山人。戯作者・桃花園三千麿のことか)、
挿絵は竹原春泉斎である。

「傷寒」について調べると、次のようにある。
昔の、高熱を伴う疾患。 熱病。 いまのチフスの類

ウィキの記述はこれだけだが、ネットを検索すると、どうも記述はこれだけではないようである。

「黄なる気をふくは黄は土にして湿気なり」

とも記されているようだ。

⓶土は水に勝つので、土(黄砂)によって水が蒸発して湿気になる?

この風の神の正体は推理するまでもなく黄砂だろう。

「黄なる気をふくは黄は土にして湿気なり」を現代語訳すると
「黄色い気をふくのは、黄色は土で、湿気である」というような意味だろうか。
これは、陰陽五行説を踏まえた文章であると思う。

陰陽五行説では万物は木火土金水の5つの要素からなると考える。
そして木は青、火は赤、土は黄、金は白、水は黒であらわすのだ。

そして、次のような関係があるとされる。
五行相生「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず」
五行相剋「水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝つ」

「湿気なり」は、土は水に勝つので、土(黄砂)によって水が蒸発して湿気になるということだろうか?

③風の神は風邪の神?

それにしても、黄砂の神をなぜ風の神と表現したのだろうか。
黄砂が風によって運ばれてくることは間違いないが、黄砂がひどい日は4月、5月ぐらいで、どちらかというと風が穏やかな日が多い。

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黄砂に霞む広島市内-西区竜王公園から広島湾

寒冷前線の前面で激しい砂塵あらしがおき、ゴビ沙漠・タクラマカン沙漠の砂塵をまきあげる。
砂塵あらしは強いものをカラブラン(黒風)、やや強いのをセリクブラン(黄風)と呼ばれている。
カラブランがおこると1m先もみえないほどになるという。

上空にまきあげられた砂塵は上空の偏西風で東に運ばれながら拡散し、粒径が10マイクロメートル(1マイクロメートルは1ミリメートルの1000分の1)以上の比較的大きな粒子が先に落ちる。
日本に落ちるのは、それよりも小さい粒子である。

このような軽くて小さい粒子は空気に漂うので、強風の日は太平洋のほうへ飛ばされてしまい、穏かな日に観測されやすいのではないかと思う。
(まちがっていたら教えてください!)

穏かな日に観測されるのに、なぜ妖怪は風の神と命名されているのだろうか。

ただ空気がもやっとするだけでなく、屋外に置いておいたものなどに砂埃がついているので、
黄砂がどこからやってくるのかわかっていなくとも、その正体が砂であることは分かっていただろうと思う。
そしてその砂は空気がもやっと霞んでいるときに多いので、霞の原因が空気中を漂う砂であることもわかっていただろう。
空気中を漂う砂は、どこからか風に運ばれてきたのだということも容易に考えつく。

黄砂が降ると、アレルギー症状、花粉症などを生じる。
花粉症はクシャミ、鼻水、微熱がでることもある。その症状は風邪に似ている。

黄砂の神は風に乗ってやってきて、さらに風邪をもたらす神だと考えられた結果、風邪と風の語呂合わせで、風の神とされたのかもしれない。

この説が成立するためには、いつから「かぜ」という言葉を使っていたかが重要になるが、こんな記述を見つけた。

江戸時代に入ると記録はさらに詳細になり、インフルエンザを連想させる疾患を「かぜ」或いは「はやりかぜ」と呼ぶようになりました。

絵本百物語は江戸時代の1841年に刊行された奇談集なので、年代的にはいけそうであるw




トンデモもののけ辞典104 影女『影と話をする陰』

鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「影女」

①鳥山石燕が描いた影女

上の絵はちょっとわかりにくい。
↑ こちらに掲載されているもののほうが鮮明でわかりやすい。

松の枝のように見えるが、長い髪を逆立てた人が逆立ちするような形で障子に映っている。

絵に添えられた文章には次のように記されている。

「もののけある家には月かげに女のかげ障子などにうつると云。荘子にも罔両と景と問答せし事あり。景は人のかげ也。罔両は景のそばにある微陰なり」

「もののけある家には月かげに女のかげ障子などにうつると云。」
を現代語訳すると「もののけがいる家には、月かげに女のかげが障子などにうつるという」というような意味になると思う。

「荘子にも罔両と景と問答せし事あり。景は人のかげ也。罔両は景のそばにある微陰なり」
については、他の方が書かれた記事を引用させていただこう。

 石燕が例に出している問答は『荘子』斉物論篇にあるもので、罔両が影に「歩いたり止まったり節操のないことだ」と言うと、影は「自分の意思で動いているのではなく、ただ人間の動きに従っている」と答えたというものです。

なるほど、「罔両と景と問答せし事」とはこのことを言っているのだ。

⓶罔両は「うっすらしたかげ」「妖怪」を意味する。

罔両は人の名前かと思ったが、そうではなかった。
罔両について調べると次のようにでる。

 [1] 〘名〙
① 陰影のふちに生じる薄い影。ぼんやりした影。
~略~
② ⇒もうりょう(魍魎)
[2] 〘形動タリ〙 よりどころがないさま。たよりないさま。
~略~


さらに陰影の意味についても調べてみた。

陰影

1 光の当たらない、暗い部分。かげ。「ライトを当てて被写体に―をつける」
2 物事の色・音・調子や感情などに含みや趣があること。ニュアンス。「―に富んだ文章」


物体にライトを当てると、物体に明るい部分と暗い部分ができる。その物体の暗い部分の事を陰影というのだろう。

 

陰影について、上の動画がわかりやすいと思う。

石膏像の向かって右のほうは、向かって左の方に比べて色が濃く見える。
この部分のことを陰影というのだろう。(間違っていたら指摘お願いします。)

そして石膏像の向かって右の壁のあたりにうっすらとした陰ができている。
この陰は光が石膏像によってさえぎられることによって生じたものである。

 罔両とは、「 陰影のふちに生じる薄い影。」ということなので、この石膏像の向かって右の壁のあたりに生じている陰のことをいうようである。

また魑魅魍魎という言葉があるが魅(ちみ)罔兩(もうりょう)とも記すようである。

ちみ-もうりょう【魑魅魍魎】
人に害を与える化け物の総称。また、私欲のために悪だくみをする者のたとえ。▽「魑魅」は山林の気から生じる山の化け物。「魍魎」は山川の気から生じる水の化け物。

うっすらとしたかげ。妖怪。〔左伝、宣三年〕鼎を鑄て物を象(かたど)り、~民をして姦を知らしむ。故に民、川澤山林に入るも、不(ふじやく)(怪物)にはず、魅(ちみ)罔兩も能く之れにふ(な)く、用(もつ)て能く上下に恊(かな)ひ、以て天の休(福)を承(う)く。

ともあり、罔兩には妖怪という意味もある。

③景、影,陰の意味


景、影,陰の意味は以下のとおり。

①ありさま。ようす。けしき。 ②あおぐ。したう。 ③そえる。たす。 ④大きい。めでたい。

①光がさえぎられてできる黒いかげ。 ②ひかり。日月などのひかり。 ③光に映し出された姿形。 ④まぼろし。

①かげ。日かげ。物におおわれているところ。 ②人目につかない。人知れず。③暗い。 ④消極的な。静的な。⑤時間。

ややこしいのは、「①光がさえぎられてできる黒いかげ」のことも、「③光に映し出された姿かたち」のことも
影といい、さらに陰「①かげ。日かげ。物におおわれているところ。」と同じ発音になっていることである。

混乱しないようにするため、個々では便宜上、仮に次のように定義して話を進めることにする。

景・・・・・・ありさま
影・・・・・・光に映し出された姿形
かげ・・・・・光がさえぎられてできる黒いかげ
陰・・・・・・かげ 物におおわれているところ

影の「①光がさえぎられてできる黒いかげ」とは、上の動画の石膏デッサンの物体の暗い部分(物体にできた暗い部分)のことをいうのだろうか。
陰の「①かげ。日かげ。物におおわれているところ」は石膏像に光がさえぎられて壁にできた暗い部分(光が物体にさえぎられて壁や地面などにできた暗い部分)のことだろうか。
よくわからないが、ややこしくなるので、便宜上、上のように定義して話をすることにする。

④影女は言葉遊び?

もう一度、石燕の絵に添えられた文章を読んでみよう。

「もののけある家には月かげに女のかげ障子などにうつると云。荘子にも罔両と景と問答せし事あり。景は人のかげ也。罔両は景のそばにある微陰なり」

「月かげ」は漢字表記すると「月影」だろう。
月影には、3つの意味がある。①月の姿。⓶月の光。③月光に照らしだされる人や物の姿。

最近の町は夜でも明るいので、気がつきにくいが、
太陽の光に照らされて人や物の「かげ」ができるように、月の光に照らされて、人や物の「かげ」ができることがある。
我が家でも月の明るい夜に家の照明を落とすと、窓から月の光が差し込み、窓の格子の形が「かげ」になって床に映ることがある。
しかし、「月影」とはその「かげ」ではなく、「月の姿」「月の光」「月光に照らし出される人や物」という意味であったのだ。(勘違いしていたw)

❷「女のかげ」の「かげ」の漢字表記は「影」だろうか。
影の意味、①光がさえぎられてできる黒いかげ。 ②ひかり。日月などのひかり。 ③光に映し出された姿形。 ④まぼろし。
のうち、①③の可能性が高いと思う。
ここでは③「光に映し出された姿形」としておく。

❸荘子にも罔両と景と問答せし事あり。

『荘子』斉物論篇の問答
罔両が影に「歩いたり止まったり節操のないことだ」と言うと、影は「自分の意思で動いているのではなく、ただ人間の動きに従っている」と答えたというものです。

この記事では影となっているが、「罔両と景と問答せし事」とあるので、罔両が話をしたのは影ではなく景とするのが正しいのではないのだろうか。

景の意味は①ありさま。ようす。けしき。 ②あおぐ。したう。 ③そえる。たす。 ④大きい。めでたい。だった。

罔両と問答をした景とは「①ありさま。ようす。けしき。」ではないだろうか。
景がどんな「ありさま」だったかというと、「歩いたり止まったり節操のない」ありさまだったのである。

「歩いたり止まったり節操のない」景(ありさま)は、「ただ人間の動きに従っている」と答えているので、
景(ありさま)の正体は、影だろう。

影には4つの意味があった。
①光がさえぎられてできる黒いかげ。 (物体の暗い部分)②ひかり。日月などのひかり。 ③光に映し出された姿形。 ④まぼろし。

「人間の動きに従うもの」なので、⓶ではない。④もちがうだろう。
すると、①光がさえぎられてできる黒いかげ。 (物体の暗い部分) ③光に映し出された姿形 のいずれかだということになるが、
 ③光に映し出された姿形としておこう。

そして景(ありさま)と問答をした罔両は「かげ」だろう。

つまり、「景(ありさま)=影(姿かたち)」と「かげ」は問答しているわけである。

❹「景は人のかげ也。罔両は景のそばにある微陰なり」

「景」は「歩いたり止まったり節操のない(ありさま)」であり、影「姿形」である。
そして、罔両は影(光がさえぎられてできる黒いかげ)であると同時に
景(姿形)のそばにあるわずかな陰(ものに覆われているところ)であるともいえる。

さらに罔両には妖怪という意味もあるので、障子に妖怪の姿としてかげが現れたという事ではないかと思う。

⑤影女の正体は女郎?

影女について、ウィキペディアは次のように記している。

伝記作家・山田野理夫の著書『東北怪談の旅』には「影女」と題し、山形県の怪談が以下のように述べられている[2]。

その昔。増田という者が鶴岡城下に住む友人の酒井吉左衛門の家を訪ねた。家の近くまで来ると、窓から若い女の姿が見えた。

家に入り、益田が吉左衛門と2人で酒を酌み交わしていると、やがて障子越しに女の影が見えた。吉左衛門が言うには、それは影女であるという。

話している内に今度は庭に女の姿が現れたが、家の中には近づいて来なかった。



窓から若い女の姿が見えた・・・・影 (光に映し出された姿形)
障子越しに女の影が見えた・・・・かげ (光がさえぎられてできる黒いかげ)・・・罔両(うっすらしたかげ)

となっていて、「罔両と景と問答せし事」と同様の書き分けがなされている。

そして、女の影は罔両(うっすらしたかげ)でもあるので罔両(妖怪)にも転じたということだろう。
家の中に近づいてこないのは、罔両は「うっすらしたかげ」で実態のないものであるためではないだろうか。

かげ【影/▽景】 の解説
《「陰」と同語源》
1 日・月・星・灯火などの光。「月の―」「木陰にまたたく灯火 (ともしび) の―」
2 光が反射して水や鏡などの表面に映った、物の形や色。「湖面に雲の―を落とす」
3 目に見える物の姿や形。「どこへ行ったのか子供たちの―も見えない」
4 物が光を遮って、光源と反対側にできる、そのものの黒い像。影法師。投影。「夕日に二人の―が長く伸びた」
5 心に思い浮かべる、人の顔や姿。おもかげ。「かすかに昔日の―を残す」
6 ある現象や状態の存在を印象づける感じ。不吉な兆候。「忍び寄る死の―」「社会に暗い―を落とす事件」
7 心に思い描く実体のないもの。幻影。まぼろし。
「そのころの幸福は現在の幸福ではなくて、未来の幸福の―を楽しむ幸福で」〈二葉亭・浮雲〉
8 つきまとって離れないもの。
「寄るべなみ身をこそ遠く隔てつれ心は君が―となりにき」〈古今・恋三〉
9 やせ細った姿のこと。
「恋すれば我身は―となりにけりさりとて人に添はぬものゆゑ」〈古今・恋一〉
10 死者の霊魂。
「亡き―やいかが見るらむよそへつつ眺むる月も雲隠れぬる」〈源・須磨〉
11 よく似せて作ったもの。模造品。
「誠の小水竜は、蔵に納め―を作りて持ったる故」〈浄・五枚羽子板〉
12 江戸時代、上方の遊里で揚げ代2匁の下級女郎。


「12 江戸時代、上方の遊里で揚げ代2匁の下級女郎。」とあるところを見ると、影女の正体は女郎だったのかもしれない。