①陰陽に描き分けられた物部守屋と聖徳太子
「587年、排仏派の物部守屋は崇仏派の蘇我馬子や聖徳太子と戦い、榎の枝で指揮をとっていたところ、迹見赤檮に矢で射られて死亡した丁未の乱(丁未の乱) という話はすでに何度かした。
この丁未の乱で、聖徳太子は蘇我馬子側について参戦していた。 そして聖徳太子も矢で射られそうになったが、椋の木の中に隠れて難を逃れたという伝説がある。
大聖将軍寺 神妙椋樹
どうも、物部守屋と聖徳太子は陰陽に描き分けられているように思える。
聖徳太子・・・ 子供 弓で射られそうになるが椋の木の洞に隠れて難を逃れた。 物部守屋・・・ 大人 榎木の上で指揮をとっていたところを弓で射られて死んだ。
聖徳太子が1度に10人の言うことを聞き分けることができるほど耳がよかったという伝説は有名である。
そして、前回、蛭子神、榎本明神は耳が悪いので、壁をたたいて参拝する習慣があるとお話しした。 堀川戎神社には壁をたたいて参拝する習慣はないが、境内に榎本神社に似た名前の榎木稲荷神社がある。
私は、蛭子神=榎本明神=榎木稲荷神社だと考えているのだが 榎木の神とは、榎木の枝で指揮を執っているところを弓で射られて死んだ物部守屋の霊ではないかと考えている。
これが正しければ、ここでも聖徳太子と物部守屋は陰陽に描き分けられている。
聖徳太子・・・耳がいい。 物部守屋・・・耳が悪い。
⓶物部守屋は殺された太陽、聖徳太子は殺されなかった太陽?
聖徳太子が、弓で射られそうになったが、椋の木の洞に隠れて難を逃れたという伝説があることをお話ししたが、
椋の木は、樹洞ができやすいそうである。
それで、椋の木の洞に聖徳太子が隠れたとかいう話が創作されたのだろう。
我々の先祖は、実に自然をよく観察している。
一方、物部守屋は榎木の枝で指揮をとっているときに弓で射られて死んでいるが、
榎木も洞ができやすいようである。
さらに、椋は榎木に似ていて、ムクエノキともいうようである。
椋と榎木は兄弟のような木なのである。
ここで、またいままでとは違う信仰の形がでてきたようである。
椋も榎木も落葉するということは、どちらも冬至に向けて勢いが衰えていく太陽を意味していそうである。
しかし、守屋は弓で射られて死に、聖徳太子は洞に隠れて難を逃れている。
ゲイが10個の太陽を弓で射て、一つだけにしたと言う古代中国の物語があったが
弓は月の象徴であり、弓矢で射られた物部守屋は、殺された太陽
樹洞に隠れて難を逃れた聖徳太子は殺されなかった太陽、ということかもしれない。
⑧玉虫の厨子の太陽・月は位置が逆なのはなぜ?
聖徳太子が創建したと伝えられる寺に法隆寺があるが、法隆寺は有名な玉虫厨子を所蔵している。
玉虫の厨子には、八咫烏が描かれた太陽と、月のようなものが描かれている。
もう少し大きくして見てみよう。
向かって左は三本脚の八咫烏を描いた太陽だと思われるが、位置が変である。 太陽の定位置は東、左(向かって右)だった。 それなのに、この円は向かって左に描かれている。
向かって右(左)には何がえかかれているのか、よくわからないが、二羽のウサギのように見える。 月にはがヒキガエルに姿をかえられたゲイの妻・ が住んでいるという話をしたが、これは中国の伝説であった。 日本では月にはヒキガエルではなく、ウサギが住むとされる。 それでウサギが描かれているのかもしれない。 ウサギは二羽で男女和合のウサギのように見える。
なぜ玉虫の厨子は、太陽が西(向かって左)で、月が東(向かって右)に描かれているのだろうか。 それとも八咫烏が描かれているのが月で、ウサギが描かれているのが太陽なのだろうか。
同時期に作成されたと思われる中宮寺の天寿国繡帳も見てみよう。
向かって左上(右)に月があり、ウサギが描かれている。 「天寿国繡帳」とは「聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繡で表した帳(とばり)の意であり、「天寿国」とは、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指すものと考証されている」とウィキペディアには記されている。
死後の国、天寿国にはウサギの棲む月があると考えられていたようである。
太陽は現世にあり、死後の国である天寿国にはないと考えられた結果、月だけが描かれているのだろう。 位置は、向かって左(右)なので西であり、陰陽道では月の定位置は西なので、こちらは陰陽道の宇宙観にあっている。
なぜ、玉虫厨子のほうは太陽と月の位置が逆になっているのだろうか。
この疑問は宿題として、次の旅にもっていこう。 次の旅も、きっと楽しい旅になるにちがいない。
end.
長々とおつきあいくださり、ありがとうございましたー。
※追記 なぜ、玉虫厨子のほうは太陽と月の位置が逆(向かって左=右=日、向かって右=月)になっているのか。
それはたぶんこういうことではないだろうか。
太陽と月は玉虫厨子の背面に描かれたものである。 玉虫厨子がもともとどのような向きで置かれていたのかわからないが、「天子南面す」という言葉もあるところから、南向きに設置されていたと考えてみよう。 すると、厨子の向かって右(左)が東、向かって左(右)が西となる。 北から見れば、向かって右(左)が西、向かって左(右)が東である。 そういうわけで、向かって左=右=日、向かって右=左=月という配置としたのではないだろうか。
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①本殿のない物部氏の祭祀スタイルと榎木の神
前回の旅で、私たちは次のようなことを見てきた。
前回、書き忘れたこともあったので(すいません)ここにまとめておきたいと思う。
❶長野県の諏訪大社は本殿がない。 ❷諏訪大社は奈良県の大神神社に倣って本殿のない神社としたと、『上宮鎮坐秘伝記』に記述がある。
❸大神神社には拝殿のみあって、本殿がない。
❹肩野物部氏の本拠地であった大阪府枚方市・交野市にも本殿や社殿がなく、拝殿のみという神社がいくつかある。
(妙見宮、磐船神社、片埜神社の境外社・瘡神社 など) ❺物部氏は本殿をつくらない祭祀スタイルの様に思える。
❻諏訪大社もまた、物部氏の神なのか?
❼代々、諏訪大社上社の大祝を務めてきた一族・諏訪氏は大神氏(大物主を祖神とする)の同族ではないかとする説もある。
❽磐船神社の御祭神・ニギハヤヒは先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と記されている。
そして大神神社の御祭神・大物主神は正式名称を 倭大物主櫛甕魂命といい
櫛と魂(玉)が一致するので、二神は同一神ではないかとする説がある。
とすれば、大物主神の「物」は「物部氏の物」で、大神神社は物部氏の神ということになる。
❾諏訪大社のご神体は守屋山で、物部守屋が鎮座する山の様に思える。
❿和歌山県・丹生酒殿神社摂社の鎌八幡宮、兄井の鎌八幡宮(元鎌八幡)、大阪の鎌八幡(円珠庵)にも本殿(社殿)がない。これらも物部氏が祀る神社なのかもしれない。
⓫兄井の鎌八幡(元鎌八幡)の隣には❶の諏訪大社から勧請した諏訪明神社があるが ❶で書いたように、諏訪大社には本殿がなく物部氏が祭祀する神社の様に思える。(ただし、兄井の諏訪明神社には社殿はある)
⓬大阪堀川戎神社は物部守屋の本拠地であった大阪にあり、境内に榎木稲荷神社がある。 榎木稲荷神社とは榎木の樹の上で指揮を執っているところを弓矢で射られてしんだ物部守屋の霊を祭る神社ではないか。 大阪の鎌八幡の御神木は榎木であり(和歌山の2か所の鎌八幡の御神木はイチイガシ) 大阪鎌八幡も物部守屋の霊を祭っているように思える。
⓶えべっさんは耳が悪いので社殿の裏を叩いて参拝する。
かなり鎌八幡の正体が見えてきた気がするが(気のせいかもw) もうひとつ、思うところがあるので書いておこうと思う。
えべっさん(蛭子神)は耳が悪いと言われ、えべっさんに聞こえるように社殿の裏を叩いて参拝する習慣が
大阪の今宮戎神社、佐太神社、京都の京都ゑびす神社などにある。
蛭子神=耳が悪い
京都ゑびす神社
③榎本の神も耳が悪い。
奈良・春日大社にある榎本神社の神、榎本明神も耳が悪いと言われ、次のような伝説がある。
榎本の神はタケミカヅチに『土地を三尺譲ってほしい』といわれ、承諾した。
ところがタケミカヅチの言う三尺とは地下三尺という意味だった。
榎本の神は広大な神域をタケミカヅチに奪われた。
榎本の神を祀る祠は春日大社本殿のそばにあるが、榎本の神は耳が遠いので、柱を叩き、祠を回って参拝する習慣がある。
蛭子神と榎本の神は同一神なのかもしれない。
蛭子神=榎本の神=耳が悪い
榎本神社
④榎本の神=猿田彦=ニギハヤヒ?
榎本神社の御祭神は猿田彦である。
記紀によれば、猿田彦は「高天原から葦原中国までを照らす神」だと記されているが、これにぴったりな神名を持つ神がいる。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)である。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊というのは先代旧事本紀の記述で、記紀では単に、ニギハヤヒとなっている。
ニギハヤヒは物部氏の祖神である。 榎本の神は物部氏の神ではないだろうか。
榎本の神=猿田彦=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)=物部氏の神 ∴蛭子神=榎本の神=耳が悪い=物部氏の神
⑤榎木稲荷神社は守屋を祀る神社?
堀川戎神社には、拝殿の後ろを叩いて参拝する習慣はない。 しかし、摂社に榎木稲荷神社がある。 榎木稲荷神社は1839年に堀川戎神社に遷宮されたが、 遷宮されたのは、堀川戎神社と榎木稲荷神社、それぞれに祀られている神が同一神であるとの認識が、当時の人々にはあったためではないだろうか。
蛭子神=榎木の神?
榎木稲荷神社
そして私は、榎木稲荷神社に祭られている神は物部守屋ではないかと考えている。
その理由は次の2点である。 ❶堀川戎神社のは大阪にあり、その摂社に榎木稲荷神社がある。大阪は守屋の土地であったと考えられる。 ❷守屋は榎木の枝で戦の指揮をとっているところを弓矢で射られてしんだ。
蛭子神=榎木の神=物部守屋 ∴蛭子神=榎本の神=榎木の神=耳が悪い=物部氏の神=物部守屋
さらに 榎本の神と榎木稲荷神社の漢字表記は横棒があるかないかの違いしかない。
榎本の神=榎木の神 ∴蛭子神=榎本の神=榎木の神=耳が悪い=物部氏の神=物部守屋
このように考えていくと、鎌をエノキにつきたてて祈願する習慣のある大阪の鎌八幡(円寿庵)は、やはり物部守屋の霊を祭っているように思える。
鎌は三日月のように見える。 そして冬至に向かって落葉する榎木は、冬至に向かって衰えていく冬の太陽をあらわしているようである。
その榎木は、物部守屋の霊の宿る木であり、そこに鎌がつきたてられているのであるが、鎌は三日月ににている。 弓もまた三日月に似ているが、物部守屋は榎木の上で指揮を執っているところを弓で射られて死んだのだった。 太陽神・物部守屋は月の神である弓矢で殺されたということにならないだろうか。
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①物部氏の祭祀スタイルは本殿をつくらない?
前回、長野県の諏訪大社についてのウィキペディアの記事をご紹介した。
その中に、次のような内容があった。
❸守屋山を上社のご神体とする最古の文献は天文22年(1553年)の『上宮鎮坐秘伝記』。
現代語訳すると、だいたい、こんな意味になると思う。
「古記によれば、神の岩隠が諏方国鎮座したとき、宮社を造らず、拝殿のみをたて、山をご神体とした。
諏訪明神(建御名方神)の父神、大和国三輪の大神神社に倣って創建された。神の和魂・陰霊鎮座したところである。」
この大神神社には何度が参拝したことがある。
上の写真は大神神社の拝殿を撮影したものである。 通常、拝殿の向こう側に本殿があるのだが、大神神社には拝殿しかない。 拝殿から直接ご神体の三輪山を拝するという祭祀スタイルである。
また、大阪府枚方市・交野市にも本殿や社殿がなく、拝殿のみという神社がいくつかある。
星田妙見宮、磐船神社、片埜神社の境外社・瘡神社 などである。
星田妙見宮
磐船神社
瘡神社
上3枚の写真の写っている建物は全て拝殿であって、社殿ではない。
そして大阪府枚方市・交野市あたりは肩野物部氏の本拠地であったところで、磐船神社では物部氏の祖神・ニギハヤヒを祀っている。
どうも、物部氏は本殿をつくらない祭祀スタイルであるように思える。 すると、本殿をつくらない諏訪大社もまた、物部氏の神を祀るのではないかと思える。
そして、諏訪大社は ❶上社本宮には本殿がなく、本宮の神体は守屋山とする説がある。
ということだった。
やはり諏訪大社は物部守屋を祀る神社の様に思える。
⓶鎌八幡にも社殿がない。
ここまで書いて気がついたのだが、そういえば、3か所の鎌八幡(丹生酒殿神社境内社、兄井、円珠庵)にも、社殿がなかった。
丹生酒殿神社 境内社 鎌八幡宮
兄井 鎌八幡宮(元鎌八幡)
円珠庵の境内は写真撮影禁止だが、社殿はなかった。
鎌八幡も物部氏に関連する神社なのではないかと思える。
③物部氏の祖神・ニギハヤヒと大物主は同一神?
磐船神社の御祭神・ニギハヤヒは先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と記されている。
そして大神神社の御祭神・大物主神は正式名称を 倭大物主櫛甕魂命といい
櫛と魂(玉)が一致するので、二神は同一神ではないかとする説がある。
とすれば、大物主神の「物」は「物部氏の物」で、大神神社は物部氏の神ということになる。
③布都御魂は月の神?
大神神社から山辺の道を北に向かうと石上神宮がある。
石上神宮は物部氏の祭祀する神社で、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)をご神体としている。
現在、石上神宮には本殿があるが、これは1913年につくられたもので、それ以前には本殿は存在せず
拝殿の奥の禁足地「布留高庭」をご神体としていた。
布留高庭には神宝が埋められていると伝わっており、発掘調査したところ、布都御魂剣や曲玉などが出土した。
この布都御魂剣のレプリカの写真が下記サイトに掲載されている。
刃の部分が内側に曲線を描く珍しい形をしている。これは三日月に似ている。
石上神宮の南にある大神神社のご神体は三輪山だが、1月ごろ、三輪山から太陽がのぼってくる。
三輪山
もしかすると、石上神宮は月、大神神社は太陽に擬えられているのかもしれない。
陰陽道の宇宙観では、東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とするのだった。 石上神宮は北、大神神社は南で方角が90度ずれているが、北野天満宮の三光門も90度ずれていて 月が北、太陽が南、中央が星となっていた。 
石上神宮が月、大神神社が太陽とすると中央の星は何か。 石上神宮と大神神社の間には、巻向古墳群とよばれる多くの古墳がある。 もしかすると、この古墳が星だろうか?
と考えたが、これはこじつけっぽいかもしれないw
巻向古墳群はJR柳本周辺。 下記ブログ記事に掲載されている地図がわかりやすい。
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①榎木稲荷神社は物部守屋を祀る社?
大阪の鎌八幡(円珠庵)の境内は撮影禁止のため、写真はないが、外から御神木の榎木の写真を撮影することができた。 黄色い葉をつけているのが榎木である。 この榎木の下部にたくさんの鎌がつきたてられており、幹に長い箒状の注連縄がはられていた。
そして、この円珠庵の西北、南森町駅付近に堀川戎神社があり、その境内に榎木稲荷神社がある。
上の写真の建物の中には、地車型の神殿がまつられている。これが榎木稲荷神社である。
かつて天満堀川の堀止めに側に榎があり、その根元に木の神・句句廼知神を祀る祠があった。
榎の大の木の根元には吉兵衛という老狸が住んでいて、毎夜、決まった時間に地車囃子の真似をしていた。
1839年、その地に本殿・拝殿を造営して正式に榎木神社を創建し、堀川戎神社末社の稲生神社の分霊を合祀した。
明治40年に堀川戎神社と合併してここに遷座した。
願い事が叶った夜には地車囃子が聞こえるといわれる。
私はこの榎木稲荷神社とは物部守屋を祀る神社ではないかと考えた。
その理由は、このあたりは飛鳥時代には物部守屋の土地であったようで 円珠庵の南にある四天王寺は「聖徳太子が、物部守屋の土地と奴婢を用いて建立した」とされており 物部守屋は蘇我馬子との闘いの際、榎木の枝の上で指揮をとっていたところをトミノイチイに弓で射られて死んでいるからだ。
榎木の根元で地車囃子を奏でる狸とは物部守屋の霊ではないか。 そう私は考えたのである。
⓶鎌八幡宮と諏訪明神は同一神?
私は和歌山・兄井の鎌八幡宮を思い出していた。 そこには、円珠庵と同様、鎌が突き立てられた御神木があった。 兄井のほうの御神木はイチイガシで、円珠庵の御神木は榎木で、木の種類が違うものの、鎌が突き立てられている点は同じだ。
この兄井の鎌八幡宮の隣には諏訪明神社がある。
鎌八幡宮の遷座を思い出してみよう。
.香川県多度郡屏風浦の熊手八幡宮(白方八幡宮)
↓
伊都郡兄井村
↓
高野山
↓
.明治二年(1869)の神仏分離令の際、兄井村の諏訪神社へ遷座。
↓
丹生酒殿神社へ遷座。
香川県の熊手八幡宮は、現在の和歌山県の兄井の地に遷座し、さらに高野山に移され、明治2年に再び兄井の地に戻ったということだろう。 そして、明治2年の時点で、兄井にはすでに諏訪神社があり、その隣に熊手八幡宮は遷座したということである。 熊手八幡宮がいつから鎌八幡宮と呼ばれるようになったのかについてはわからない。
このように見てみると、鎌八幡宮はどうやら諏訪神社と関係がありそうに思える。 鎌八幡宮と諏訪明神は同一神とみなされていたのかもしれない。
兄井 諏訪明神社
③諏訪大社のご神体は守屋山?
諏訪神社の総本社は長野県の諏訪大社である。 諏訪大社には参拝したことがないので、ウィキペディアを調べてみると、次のような内容が記されている。
❶上社本宮には本殿がなく、本宮の神体は守屋山とする説がある。
❷明治時代初期まで、諏訪明神(建御名方神)の「御正体」(依り代)・大祝(おおほうり/諏訪氏出身の人物)が上社の神体ないし現人神だった。
❸守屋山を上社のご神体とする最古の文献は天文22年(1553年)の『上宮鎮坐秘伝記』。 現代語訳すると、だいたい、こんな意味になると思う。 「古記によれば、神の岩隠が諏方国鎮座したとき、宮社を造らず、拝殿のみをたて、山をご神体とした。 諏訪明神(建御名方神)の父神、大和国三輪の大神神社に倣って創建された。神の和魂・陰霊鎮座したところである。」
❹江戸時代の文献には守屋山に筆頭神官の神長官を務める守矢氏の祖先(洩矢神あるいは物部守屋)の霊を祀るとある。
❺守屋山を神体山とする説は明治時代以降から見られる。
❻守屋山山頂の石祠は物部守屋を祀る守屋神社(伊那市高遠町)の奥宮とされており、諏訪に背を向けている。
❼『諏訪信重解状』(伝・1249年)には、諏訪明神が守屋大臣(洩矢神)と覇権争いをした際に降臨した場所は守屋山の麓と書かれている。
❽織田氏による甲州征伐(1582年)の際に神輿を担いだ神官たちが避難した先は守屋山だった。
❾室町時代書写の『諏訪上社物忌令之事』(1237年成立)には次のような内容が記されている。 中世の上社の社壇は三檀三折の地形で、上壇(現在の拝殿・斎庭とその奥の禁足地)には「石の御座」があり、中壇には宝殿があり、下壇は神事を行うところ。
❿『画詞』の記述。 「社頭の体、三所の霊壇を構えたり、其の上壇は尊神の御在所、鳥居・格子のみあり」 上壇には磐座があった。この磐座は拝殿の右側の少し高いところにある「硯石(すずりいし)」。 古くは硯石を通してその背後にある守屋山を遥拝していたという説がある。 (硯石は中世以降に他所から移された可能性があるという指摘もある)
⓫原正直は諏訪明神の磐座を拝殿の奥にある「えぼし岩」とし、 文献に見られる「蛙石」や「甲石(かぶといし)」や「御座石」はすべてこの岩のことを指すという説を挙げている。
⓬大祝となる童男が諏訪明神の神体となるためには、柊の木のある鶏冠社(前宮境内)の石の上に立ち大祝の装束を着せられる。この儀式を受けることによって少年が神となるとされた。
これを読むと、諏訪大社のご神体は守屋山であり、守屋山に祀られているのは守矢氏の祖先(洩矢神あるいは物部守屋)であるという信仰が、少なくとも明治時代にはあったように思われる。
くりかえしになるが、大阪の鎌八幡(円珠庵)の御神木は榎木であり、守屋は榎木の木の上で指揮をとっているところを弓で射られて死んだ。
堀川戎神社には榎木稲荷神社があり、榎木明神とは守屋のことであるとも考えられる。
⓶で書いたように、鎌八幡宮と諏訪明神は同一神とみなされていたのではないだろうか。少なくとも明治時代には。
つまり、御神木のイチイガシや榎木に鎌を突き立てる信仰は、物部守屋信仰と関係があるのではないかということである。
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①冬至にむかって衰えていく太陽のような榎木に、月をイメージさせる鎌を打ち込むことで、古い太陽を完全に殺す?
前回、私たちは大阪の鎌八幡(円珠庵)を訪れた。 (写真撮影禁止のため、境内の写真はなかったがw)
鎌八幡(円珠庵)
和歌山の鎌八幡宮は、丹生酒殿神社摂社の鎌八幡宮と、兄井の鎌八幡宮(ここから丹生酒殿神社に遷宮したのだが、この地でも祀られている。)の二か所あったが、 いずれもイチイガシに鎌がつきたてられていた。
大阪の鎌八幡宮ではイチイガシではなく、榎木に鎌がつき立てられていた。
丹生酒殿神社の御神木のイチョウは冬至に向かって勢いが衰えていく太陽の木、 (樹形が丸い。太陽の色は黄色でイチョウの黄葉は同じ色をしている。冬至に向かって落葉する様は冬至に向かって勢いが衰える太陽のよう。イチョウは一陽来復の一陽と音が同じ)
丹生酒殿神社 御神木 イチョウ
丹生酒殿神社摂社の鎌八幡宮・兄井の鎌八幡実の御神木のイチイガシは月の木 (樹形が丸い。三日月の形をした鎌をつきたてて祈願する。)
兄井・鎌八幡宮 御神木 イチイガシ
と私は考えたのだが、大阪の鎌八幡の御神木の榎木は秋に色づいて落葉し、イチイガシというよりは、イチョウのイメージに近い。 つまり、太陽の木に三日月が突き立てられているのである。(私にはそうみえる。)
鎌八幡(円珠庵)黄色い葉をつけているのが御神木の榎木
これは、冬至にむかって衰えていく太陽のような榎木に、月をイメージさせる鎌を打ち込むことで、古い太陽を完全に殺し、冬至以降、復活する(南中高度をあげ勢いをます)太陽を迎えるという儀式ではないかと思った。
⓶榎木稲荷神社
私は 大阪市北区 の天神橋筋商店街近くにある堀川戎神社を思い出していた。 堀川戎神社境内に榎木稲荷神社があるのだ。
堀川戎神社 摂社 榎木稲荷神社
榎木神社は地車(だんじり)の形をしているので、地車稲荷とも呼ばれていおり、次のような伝説がある。
かつて天満堀川の堀止めに側に榎があり、その根元に木の神・句句廼知神を祀る祠があった。 榎の大の木の根元には吉兵衛という老狸が住んでいて、毎夜、決まった時間に地車囃子の真似をしていた。
1839年、その地に本殿・拝殿を造営して正式に榎木神社を創建し、堀川戎神社末社の稲生神社の分霊を合祀した。
明治40年に堀川戎神社と合併してここに遷座した。
願い事が叶った夜には地車囃子が聞こえるといわれる。
堀川戎神社 摂社 榎木稲荷神社
一般的には稲荷神社といえば狐だが、榎木神社は狸なのだ。 京都の辰巳明神も狸だ。
四国の稲荷神社も多くが狸なのだという。
弘法大師が四国の狐を追い出して、狸を開放したなどとも言われるが 実際には四国にも狐はいるそうである。
③榎木明神は物部守屋?
私はこの榎木明神とは物部守屋ではないかと考えている。 その理由を述べる。
a.榎木稲荷神社は大阪市北区にあるが、このあたりはかつて物部守屋の土地だった。 森ノ宮という地名があるが、この地名の語源は「守屋の宮」とする説がある。 また大阪市天王寺区には四天王寺があるが、四天王寺建立の由緒は次の通りである。 ・587年、崇仏派の蘇我馬子vs廃仏派の物部守屋が争い、馬子が勝利した。(丁未の乱) ・馬子側についていた聖徳太子は、守屋の土地と奴婢を用いて四天王寺を建立した。 つまり、四天王寺があるこの付近は守屋が支配する土地だったということである。
b.587年の丁未の乱で、守屋は榎木の枝の上で指揮をとっていたところを、トミノイチイに弓で射られて死んだ。
前回、私たちが訪れた鎌八幡宮(円珠庵)も、四天王寺に近い場所にある。
上の地図の円珠庵(鎌八幡宮)を手のひらツールで下(南)にずらして地図をみてほしい。 大阪城の西北に南森町駅があるが、その近くに堀川神社、榎木稲荷神社はある。
榎木稲荷神社が物部守屋を祀る神社であれば、円珠庵(鎌八幡宮)の御神木の榎木は、物部守屋の霊が宿る木なのではないか?
堀川戎神社 しころ
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①大阪にも鎌八幡宮があった。
大阪にも鎌八幡宮と呼ばれている寺がある。円珠庵である。
円珠庵のホームページには次のように由来が記されている。
遠い昔、このあたりは三韓坂と言われた古道で、そのわきに一本の榎の霊木があり、人々の信仰を集めていた。
下って、大阪冬の陣のとき、真田幸村がこの土地に陣所を構えたが、この信仰を聞き伝えて、鎌を打ちつけ、鎌八幡大菩薩と称して祈念したところ、大いに戦勝をあげたと伝えられている。
江戸時代初期には、この鎌八幡の境内に、国文学者として有名な高僧契沖阿闍梨が居を定め、円珠庵と称した。契沖は、ここで万葉代匠記や和字正鑑要略を著し、国文学の研究に専念すると同時に、深く鎌八幡を信仰した。この頃から「鎌八幡」は「祈とう寺」として、人々の信仰が広まった。
大正11年に、境内全域が大阪市では最初の国の史跡指定を受けたが、境内の大部分は、戦災で損壊したあと復興したものである。その間、霊木は蘇生し、絶えなる信仰と多くの霊験が得られている。
この近くには真田幸村の陣所と伝わる真田丸跡、三光j神社境内には、真田の抜け穴などもあった。
真田丸顕彰碑
〇で囲んだ部分が真田丸
円珠庵境内は撮影禁止となっているので写真はないが、丹生酒殿神社摂社の鎌八幡宮、兄井の鎌八幡宮(元鎌八幡宮)同様、大量の鎌が御神木につきたてられており、長い箒状の注連縄がはられていた。
⓶大阪の鎌八幡宮の御神木はイチイガシではなく榎木だった。
円珠庵由緒で気になるのは、御神木が榎木と記されている点だ。 丹生酒殿神社摂社の鎌八幡宮、兄井の鎌八幡宮(元鎌八幡宮)では櫟樫に鎌がつきたてられていたが 円珠庵では榎木に鎌がつきたてられているのだ。
円珠庵(鎌八幡)
上の写真の、黄色い葉をつけているのが榎木である。
榎木は落葉樹で、落葉する前には黄色く色づく。 私が円珠庵を訪れたのは12月半ば過ぎで、紅葉の見ごろは過ぎたころだったが まだわずかに葉が残っていた。
私は丹生酒殿神社の御神木のイチョウは太陽、 丹生酒殿神社摂社の鎌八幡宮、兄井の鎌八幡宮(元鎌八幡宮)の御神木・櫟樫は月であらわすのではないかと考えた。
丹生酒殿神社 イチョウ
兄井 鎌八幡宮(元鎌八幡宮) イチイガシ ↑ ↓
上は熊野勧心十戒曼荼羅だが、向かって右の黄色の丸は太陽、向かって左の灰色の丸は月を表していると思う。 そしてイチョウの落葉前の葉の色は黄、櫟樫の暗い緑色は灰色のように見えるので、
イチョウは冬至に向かって衰えていく太陽を、櫟樫は月をあらわし、三日月の形をした鎌を突き立てるのだろうと考えた。
しかし天寿庵の鎌を突き立てられている榎木は、常緑樹の櫟樫よりは、落葉樹のイチョウににている。
これはどう考えれば辻褄があうのか。
③榎木は太陽のイメージ。
信仰の形はひとつとは限らない。 むしろ、信仰にはさまざまなバリエーションがあると考えたほうが自然だろう。 (イチョウ=冬至に向かって衰えていく太陽、櫟樫=月)と考える信仰とは別の信仰があってもおかしくはない。
黄色く色づいて落葉する榎木は樹形も丸く、冬至に向かって葉をちらしていく様子は公孫樹と同じく、冬至にむかって衰えていく太陽のイメージがある。 ここに、月をイメージさせる鎌を打ち込むことで、古い太陽を完全に殺し、冬至以降、復活する(南中高度をあげ勢いをます)太陽を迎えるという儀式だったりして?
太陽と月が重なる現象である日食は、太陽の光をさえぎって、世の中を夜のようにしてしまう。 そういう意味で、月は太陽を殺す存在と考えられてたのかもしれない。
④男女双体の神 神はその現れ方によって3つに分けられるといわれる。
御霊・・・神の本質 和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面
そして、男神は荒魂を、女神は和魂を表すといわれる。とすれば御霊は男女双体の神と言うことになると思う。
大聖歓喜天は象頭をした男女双体の神で、次のような伝説がある。
人々に祟りをもたらしていたビナヤキャは十一面観音の化身であるビナヤキャ女神に一目ぼれし、ビナヤキャ女神に結婚を申し込んだ。 ビナヤキャ女神は「仏法守護を誓うならあなたと結婚しましょう」といった。
ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神と結ばれた。
大聖歓喜天の、足を踏みつけているほうがビナヤキャ女神、足を踏まれているほうがビナヤキャとされる。
この説話は御霊、和魂、荒魂の性質をうまく表していると思う。
すなわち、男神である荒魂は、女神である和魂に足をふみつけられて、動けない状態にされている。
これが「神の結婚」の意味なのだと思う。 榎木は雄花と雌花をもつ雌雄同体の植物で、4月から5月ごろ、葉の根元に小さな花をつける。
そして10月ごろ、黄葉した葉の後ろに、直径5 - 6ミリメートル (mm) の丸い実をつけるのだという。
雌雄同体である榎木は、この歓喜天のイメージがある。
古には「愛」は「え」と呼んだ。 榎木(エノキ)の語源は、「愛(え)の木」であり、太陽と月が和合した樹であると考えられたのかもしれない。 
そして、この鎌八幡宮の神紋は、二つの鎌が交差する形であり、これは聖天さんの違い大根の紋に似ている。

待乳山聖天
交差する形は、男女和合を表しているようにも見える。
へつづく~
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太陽の木 と 月の木① 太陽は赤色ではなく、黄色
①丹生都比賣神社は星をあらわす?
丹生酒殿神社のイチョウは太陽、
丹生酒殿神社・摂社の鎌八幡宮のイチイガシは、月を表しているのではないかという話をした。
どちらの樹形も太陽や月のように丸く、イチョウは葉の色が太陽を表す黄色、イチイガシには三日月の形をした鎌がつきたてられているからだ。
丹生酒殿神社摂社の鎌八幡宮は近年、兄井・鎌八幡宮から遷宮したもので、もともとは兄井の地に鎮座していた。 丹生酒殿神社に遷宮したのちも兄井の地にも鎌八幡宮は残され、兄井の鎌八幡宮のイチイガシにも鎌がつきたてられている。
丹生酒殿神社(太陽)は東、兄井の鎌八幡宮(月)は西にあるが、これは陰陽道の宇宙観にあっている。 陰陽道では、東は太陽の定位置、西は月の定位置、中央を星としているのだ。
上は西福寺に展示されていた熊野観心十界曼荼羅であるが、陰陽道の宇宙観にもとずき、 上部右に太陽(黄色の丸)、上部左に月(灰色の丸)が描かれている。 太陽、月のやや下、中央に心と記した丸がある。
丹生酒殿神社、兄井の鎌八幡宮のある場所は、かつて熊野と呼ばれた土地でもあるし、 丹生酒殿神社の公孫樹が太陽、兄井・鎌八幡宮の櫟樫が月をあらわすのであれば、 心を記した丸を表す場所もあるのではないだろうか?
上の地図の手のひらツールを使い、ピンがたっている丹生都賣神社を下にずらして地図をみてほしい。 その丹生都賣神社の上部、東に丹生酒殿神社が、西に兄井・鎌八幡宮がある。
丹生酒殿神社が熊野観心十界曼荼羅の太陽、兄井・鎌八幡宮が熊野観心十界曼荼羅の月にたとえらえているとすれば 熊野観心十界曼荼羅の心にたとえられているのは、丹生都比賣神社だと考えられるのではないだろうか。 ここが心をあらわす場所ではないか?
そして熊野観心十界曼荼羅に描かれている心は星を意味しているのではないだろうか?
東・・・・太陽の定位置・・・太陽・・・・・丹生酒殿神社? 西・・・・月の定位置・・・・月・・・・・・兄井・鎌八幡宮? 中央・・・星・・・・・・・・心・・・・・・丹生都比賣神社?
⓶天野は星を思わせる地名
丹生都比賣神社は別名を「天野大社」「天野四所明神」という。
天野と言うのは神社がある土地の地名なのだが、星を思わせる名前である。
大阪府枚方市、交野市あたりには七夕伝説発祥の地ともいわれ、星田、星ヶ丘などの地名があり 星田妙見宮、天田神社などがあるからだ。 そして、そこを流れる川はずばり、天野川という。
大阪府枚方市 天の川
熊野観心十界曼荼羅で、心の字を記した丸は、太陽と月の中央下にあるが 陰陽道の宇宙観では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星としており、 心の字を記した丸は星であるとも考えられる。
丹生都比賣神社の境内に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのが美しいアーチを描く太鼓橋である。 この太鼓橋は熊野観心十界曼荼羅の太陽と月の間にある橋状のものに見えてくる。
また、心は4画なので、4つの本殿は、心を表しているようにも思えてきたが、これはこじつけっぽいかw
③大食津比売大神は月の神?
丹生都比賣神社の御祭神は、丹生都比売大神・高野御子大神・大食津比売大神・市杵島比売大神の4柱である。 大食津比売大神は「おおげつひめのおおかみ」と読む。
「大いなる食物の女神」という意味だが、大月姫ではないかとも思える。
イザナギとイザナミの国産みで、伊予之二名島(四国)を産むのだが、その中の阿波国の別名として「大宜都比売」とある。 阿波という地名は、粟が多く生産されていたためだとされるが、
上の写真を見ればわかるように、粟の穂がは三日月の形をしている。 阿波国の別名が「大宜都比売」なのは、粟の穂が三日月の形をしているためではないだろうか。
すると同音の大食津比売大神も、月の神ではないかと思える。
③高野御子大神は太陽にすむ月の神?
高野御子大神は太陽にすむ月の神ではないかと思う。
その理由を述べる。
『今昔物語集』によれば、
高野御子神(狩場明神)が空海を大和国宇智郡から紀伊国境まで道案内し、 丹生都比売神(丹生明神)の化身である山民が空海を高野山に導いたとある。
高野御子神は、空海を道案内する神なのだが これは記紀にある神武天皇に熊野の道案内をした八咫烏の話に似ている。
烏のプロポーションや爪は三日月の形をしていて、月の神だと思われる。
※爪の写真はこちらを参照してください。
https://blog.goo.ne.jp/romeo135bb/e/9c5e64f8d731d476d5d14cf3bb0ae1a6
鷹の爪もまた、三日月の形をしている。嘴も三日月形だ。
ハリスホーク(鷹の一種)↑ ↓
鷹も八咫烏と同じく、月の神だろう。
八咫烏は月の神だと私は思うが、太陽の中に描かれる。
上の絵は中国の神、伏羲と女媧を描いたものである。
男神・伏羲は手に直角定規をもち、女神・女媧は手にコンパスをもっている。
古代中国では天円地方といい、天は円く、地は方形であると考えられていた。
直角定規は方形を、コンパスは円を描く道具である。
そして陰陽の関係はつぎのようになっている。
陽・・・・・・天(コンパス)・・・・男
陰・・・・・・地 (直角定規)・・・・女
すると、伏羲が地をあらわす直角定規を、女媧が天をあらわすコンパスをもっているが、逆ではないかと思える。
これは、記紀神話のスサノオと天照大神の誓約の子産みの話を照らし合わせて考えることができるかもしれない。
スサノオは『誓約(うけい)の子産み』をしようと言った。
まず天照大神がスサノオの物実である十拳剣(とつかのつるぎ)を噛み砕き、ふっと吹き出した息の霧から三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。
次にスサノオが天照大神の物実である『八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠』を噛み砕き、ふっと吹き出した息の霧から 五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)が生まれた。
スサノオの十拳剣からうまれた三柱の女神はスサノオの子、天照大神のみすまるの珠からうまれた五柱の男神は天照大神の子とされた。
天照大神はスサノオの十拳剣を、スサノオは天照大神の八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠をかみ砕いている。
伏羲が直角定規を、女媧がコンパスをもっているのはこれと同様で、
お互いの物実〈もの事の元になるもののこと)を手に持つのは、男女のちぎりをかわすことを表しているのではないだろうか。
(スサノオと天照大神は「誓約の子産み」をしている。と言うことは、スサノオと天照大神は男女の契りをかわしたということだ。)
そして八咫烏は太陽に、月にはヒキガエルが住むといわれるが カラスの爪は三日月型、ヒキガエルの「ヒキ」を漢字で書くと「蟇」だが、「蟇」から虫を除いた「莫」という字は、
草原に太陽が沈む様子をあらわしているので 八咫烏は月、ヒキガエルは太陽と考えられる。
太陽の中に住んでいる八咫烏は復活した月の神、月の中に住んでいるヒキガエルは復活した太陽の神と考えるのが
筋が通った考え方の様に思える。
そして高野御子神はこの八咫烏のイメージと重ねられているのではないか?
④高野は鷹の?
私の知り合いに鷹野と書いて「たかの」と読む名字の人がいる。 高野御子神は鷹なのではないか?
『丹生祝氏本系帳』には、丹生氏がもと狩人で神の贄のため二頭の犬を連れて狩りをしたという伝承があるが 鷹狩には犬を用いていたようである。
(左)「御鷹方諸事控帳」(16.45-77③) 鷹狩とは、鷹場にいる鳥を犬がはやしたてて、飛び立った鳥を鷹が捕まえるというものでした。 そのため、鷹狩では犬も重要な役割を担っていたといえます。 この史料から、犬の餌の内容がわかります(享保9年当時)。金沢・江戸にいる犬ともに、餌は1日で米5合でした。 江戸の鷹犬はこれに加え1ヶ月約6本の鰹節が与えられていました。
これは江戸時代の鷹狩りについて記したものだが、もっと古い時代にも同様に行われていたのではないだろうか。
⑤隼人はなぜ犬の鳴きまねをしていたのか?
古代、九州南部に昔、隼人と呼ばれる人々が住んでいた。 彼らは畿内に強制移住させられて宮中の警護をさせられていたが、その際、犬の鳴きまねをしていたという。
鷹狩には隼を用いることもあった。 隼人と言われる人々が犬の鳴きまねをして警護を指せらえていたのは、彼らが鷹狩をする民族であり、その際、犬を用いていたからではないだろうか。
話を元に戻そう。 高野御子神とは鷹の御子神を意味し、狩場明神と言う別名は、鷹狩からくるのではないか。 そして、八咫烏と同様の伝説を持つ高野(鷹の)御子神もまた復活した月の神と考えられるのではないか、ということである。
⑤高野御子神は水銀の神でもある。
高野御子神は水銀の神でもあるだろう。 丹生都比賣神社の丹とは水銀のことであり、
上の記事でのべたように、正月に見ると縁起がいい夢の「二鷹」とは植物の鷹の爪((実)であり、その赤い色は辰砂の赤色を、実が鈴なりになっているのは坑道を表しているのではないかと思う。
実際、高野山には水銀の鉱脈があるとされ、それゆえ空海は高野山を欲したのではないかとする説もある。
鷹の爪
⑥蟻通神は、「有りと星」神?
『延喜式』神名帳(927年成立)の記載では祭神は1座。その後に上記2座になり、平安時代末頃からは4座になったと見られている[11]。仁平元年(1151年)の文書に「第三神宮」の記載があるほか[11]、正応6年(1293年)には天野四所明神の「三大神号蟻通神」の神託が見え、第三殿に「蟻通神」が祀られていたことがわかる[11]。祭神の増加に関して、『高野春秋』によれば承元2年(1208年)10月に北条政子の援助で行勝上人と天野祝により、気比神宮の大食比売大神[注 2]、厳島神社の市杵島比売大神が勧請されたという[11]。年代は史料間で食い違うものの、現在の祭神はこれに基づいている。
上記ウィキペディアの記事をまとめる。
『延喜式』神名帳(927年)・・・・・祭神は1座・・・丹生都比売大神 その後に上記2座になる・・・・・・・祭神は2座・・・丹生都比売大神 高野御子神 平安時代末頃か・・・・・・・・・・・祭神は4座・・・丹生都比売大神 高野御子神 蟻通神(第三殿)?(第4殿) 1208年・・・・・・・・・・・・・・・気比神宮の大食比売大神、厳島神社の市杵島比売大神が勧請された。
平安末期ごろ、祭神が4柱になったというが、第4殿の祭神がわからない。 第3殿には蟻通神が祀られたという。
和歌山県かつらぎ市に蟻通神社があり御祭神は思兼命となっている。
大阪府泉佐野市の蟻通神社は大国主をまつっている。 創建年はどちらが古いかわからない。
泉佐野の蟻通神社には紀貫之に関する伝説が伝えられている。
貫之は蟻通神社神域と気がつかず、騎乗したまま境内に乗り込んだところ、馬が倒れてしまい 「かきくもり あやめもしらぬ おほそらに ありとほしをば おもふべしやは」と歌を詠んだ。
「曇って分別のつかない大空に、蟻通明神が鎮座されているとは思えなかった」というような意味とされるが 蟻通は「有りと星」で、「星があるとは思えなかった」という意味をかけると考えられている。
蟻通神社は星の神と考えられるかもしれない。
⑦丹生都比売大神は水銀の神?
丹とは水銀のことなので、丹生都比売大神は水銀の神だと思う。
奈良・東大寺二月堂の修二会、お松明の行事に関係するこんな伝説が伝えられている。
若狭彦神社の遠敷明神(おにゅうみょうじん)は漁に出かけていて、修二会に遅刻した。
遠敷明神がそのお詫びに閼伽水を送ることを約束すると、二月堂の下の岩が割れ、白黒二羽の鵜とともに清水が湧き出した。
遠敷(おにゅう)や二羽の鵜とは丹生(ニュウ。丹とは水銀のこと)の意味ではないかといわれ 二月堂のお松明の行事は、大仏に鍍金をほどこす様を再現したものではないかという説がある。
東大寺の大仏建立の際、大仏に金アマルガム(金に水銀をまぜて溶かしたもの)を塗り、水銀を加熱して蒸発させることで鍍金(金メッキ)をほどこしたといわれているのだ。
お松明の火の粉は星のようにみえるところから、水銀の神は星の神に転じたのかもしれない。
⑧市杵島比売大神は星の神
市杵島比売大神は宗像三女神の一である。 宗像三女神を祀る宗像大社の、沖津宮(沖ノ島)、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮(総社)配置はオリオン座の三ツ星の配置になっているとする説がある。
とすれば、市杵島比売大神は星の神ということになりそうである。
丹生都比売大神・・・星の神 水銀の神
高野御子大神・・・・月の神 水銀の神 大食津比売大神・・・月の神 市杵島比売大神・・・星の神
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①「一富士・二鷹・三茄子」は鉱物の隠語?
初夢で見ると縁起がいいとされる「一富士・二鷹・三茄子」の富士・鷹・茄子とは鉱山の隠語ではないかと私は考えている。
その理由を述べる。
❶栃木県那須町の近くには足尾銅山がある。 愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山がある。
銅は茄子色をしている。そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないか。
❷延暦寺には『なすび婆』の伝説が伝えられている。 昔宮中に仕えていた女が人を殺して地獄に堕ちた。
しかし仏の慈悲によって心は比叡山に住むことが許された。
織田信長の比叡山焼き討ちのとき、なすび婆は大講堂鐘楼の鐘をついて人々にこれを知らせた。
なすび婆とは比叡山大講堂鐘楼の鐘を擬人化したものではないか。
❸鷹は鷹の爪ではないか。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすを坑道に見立てたのではないか。
❹富士は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのではないか。
富士はまた藤をも意味し、藤の花が房になって咲くようすが坑道に喩えられたのではないか。
白毫寺
⓶「一富士・二鷹・三茄子」には続きがある。
「一富士・二鷹・三茄子」には続きがある。 「四扇・五煙草・六座頭」とも「四葬式、五雪隠」「四葬礼・五糞」「四葬式、五火事」と言ったりするそうだ。
③四扇・五煙草・六座頭も鉱山の隠語?
「四扇・五煙草・六座頭」も「一富士・二鷹・三茄子」と同様、鉱山に関する隠語だと私は考えている。
●扇は露天掘跡?
生野銀山 露天掘跡
上の写真は兵庫県生野銀山の露天掘の跡 (慶寿ひ)である。 鉱物が地表近くにある場合、坑道を作らずに地表から地下をめがけて掘っていくこともあり、これを露天堀といった。
露天掘の跡は様々な形があるのだろうが、生野銀山の露天堀跡は扇状になっている。
生野銀山
上記サイトの和銅採掘露天掘跡もやや縦長ですが扇の形に見える。
●煙草は口にくわえた松明?
残念ながら、今探してみても見つからないが、日本の鉱山で働く人々が口に松明をくわえている絵をネット上で見た記憶がある。 江戸時代の絵のように思えた。
鉱山で働く人が、口に松明をくわえているのは、作業に両手が使えるようにするためではないだろうか。 日の光が届かない坑道の中は真っ暗だっただろう。 松明は灯りとして口にくわえていたのではないだろうか。 あるいは、空気の存在を確認するためとも考えられる。
生野銀山
●煙草を吸う鉱山の神・ティオ
ボリビア・ポトシ鉱山の坑道にはティオという神様の像が祀られていて、煙草をお供えする習慣がある。
なぜ煙草なのかというと、鉱山で働く人々は口に松明をくわえるので、それを煙草に見立てたのではないだろうか。
でしょうか。
ティオの写真はこちら↓
●大子町にあるタバッコ峠
茨城県大子町にはタバッコ峠という地名があり、空海が峠を超えるときに煙草を吸ったところからタバッコ峠となったという伝説が残されている。
煙草が日本に伝えられたのは1601年なので空海が煙草をたしなんだということはないだろう。
大子町には栃原金山などの金山もある。
奈良時代、大子町で砂金が発見されている。
安土桃山時代から江戸時代にかけては常陸佐竹氏によって金山開発が行われた土地だった。
大子町は古くから鉱山があったので、鉱夫たちが口にくわえた松明をタバコ(煙草)と呼び、そこからタバッコ峠となったのではないかと想像する。
●六座頭は暗闇で働く坑夫を意味する?
座頭とは江戸時代の盲人の階級のひとつである。 今観光施設となっている坑道などでは照明がついているが、昔の坑道には照明などなく真っ暗だったことだろう。
そのため口に松明をくわえて作業したのではないかと想像するのだが、暗いと物がよく見えない。ませんね。 座頭とは坑夫の隠語ではないかと思ったりする。
●盲目はたたらの職業病
またたたら場で働く人々は片目をつぶって火の温度を見るため、片目を失明することが多かったという。
それを座頭と言っているのかもしれない。
④「四葬式、五雪隠」「四葬礼・五糞」「四葬式、五火事」は?
正月の初夢で縁起がいいものが、葬式(葬礼)・雪隠(トイレのこと。糞は同じ意味だろう)・火事というのは、おもしろい。 この葬式・トイレ・火事も鉱山に関わるもののような気がする。
葬式の際、土を掘って穴に遺体をおさめる。これは穴を掘ってその中にはいる鉱夫のイメージではないだろうか。
トイレは現在は水洗が主流だが、汲み取り式トイレは穴の中に排泄する。これも鉱山のイメージだ。
浦安郷土博物館 汲み取り式トイレ(展示物)
火事は、たたら吹きや鋳造のようすを比喩的に表現したものだと思う。
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①なぜ太陽の中に月の神・八咫烏が、月の中に太陽の神・ウサギ、ヒキガエルが住んでいるのか?
八咫烏は月の神、ヒキガエルは太陽の神、ウサギは陰陽を和合させる神ではないかと述べた。
カラスの爪とプロポーションは三日月の形をしており、
※爪の写真はこちらを参照してください。
ヒキガエルは太陽のような丸い形をしている。
ヒキガエルの「ヒキ」を漢字で書くと「蟇」だが、「蟇」から虫を除いた「莫」という字は、
草原に太陽が沈む様子または日暮れを意味するのだという。
とすると、ヒキガエルは太陽は太陽でも、昇る太陽ではなく、沈む太陽をあらわしているように思える。
沈む太陽は、冬至にむかって勢いの衰えていく太陽の比喩であるとも考えられると思う。
ウサギは太陽のような丸い体と三日月のような耳をもっている。 ウサギは月で餅つきをしていると考えられるが、杵破は男性(陽)のシンボル、臼は女性(陰)のシンボルだともいわれる。 ウサギは陰陽を和合させる神ではないか。 陰陽を和合させる神は、男(陽)女(陰)を和合させる神、太陽(陽)と月(陰)を和合させる神だともいえる。
そのように考えると、疑問が生じる。
中国では太陽の中には八咫烏(月)が、月にはヒキガエル(太陽)が住んでいるといわれる。 なぜ太陽の中に月の神・八咫烏が住んでいるのか? なぜ月の中に太陽の神・ウサギ、ヒキガエルが住んでいるのか?
熊野本宮大社 向かって左の旗に八咫烏が描かれている。
⓶男神・伏羲が地をあらわす直角定規を、女神・女媧が天をあらわすコンパスをもっているのはなぜ?
上は中国の神、伏羲と女媧を描いたものである。 男神・伏羲は手に直角定規をもち、女神・女媧は手にコンパスをもっている。 これは陰陽思想で考えると、一見変なことの様に思える。
古代中国では天円地方といい、天は円く、地は方形であると考えられていた。 直角定規は方形を、コンパスは円を描く道具である。
そして陰陽の関係はつぎのようになっている。
陽・・・・・・天(コンパス)・・・・男 陰・・・・・・地 (直角定規) ・・・・女
つまり陰陽でいえば、男神である伏羲は天をあらわすコンパスを、 女神である女媧は地を表す直角定規を持っていてしかるべきと思われるのに、逆になっているのだ。
これはなぜなのだろうか。
③パートナーの物実〈もの事の元になるもののこと)を手に持つのは、男女の契りをかわすことを表している?
記紀神話に「誓約の子産み」という物語がある。
高天原にやってきたスサノオを、天照大神は「高天原を奪いにきたのではないか」と疑った。
そこでスサノオは疑いをはらすために『誓約(うけい)の子産み』をしようと言った。
まず天照大神がスサノオの物実である十拳剣(とつかのつるぎ)を噛み砕き、ふっと吹き出した息の霧から三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。
次にスサノオが天照大神の物実である『八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠』を噛み砕き、ふっと吹き出した息の霧から 五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)が生まれた。
スサノオの十拳剣からうまれた三柱の女神はスサノオの子、天照大神のみすまるの珠からうまれた五柱の男神は天照大神の子とされた。
スサノオは「私の心に邪心がないので、私の産んだ子は女神だったのです。」といった。
天照大神はスサノオの十拳剣を、スサノオは天照大神の八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠をかみ砕いている。 伏羲が直角定規を、女媧がコンパスをもっているのはこれと同様で、 お互いの物実〈もの事の元になるもののこと)を手に持つのは、男女のちぎりをかわすことを表しているのではないだろうか。 (スサノオと天照大神は「誓約の子産み」をしている。と言うことは、スサノオと天照大神は男女の契りをかわしたということだ。)
すると太陽と月は契りをかわした結果、太陽の中には月神である八咫烏が、月の中には太陽神であるヒキガエルがいるのではないか考えることができる。
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①ウサギは陰陽和合した動物?
前回、「何故、太陽に住む八咫烏が月の神なのかについて、次回、説明したいと思う。」と書いたが、 もう少し、月の中に住むウサギとヒキガエルの話をしようと思う。
八咫烏は月の神、ウサギ・ヒキガエルは太陽の神ではないかと述べた。
カラスの爪とプロポーションは三日月の形をしており、
カラス
※爪の写真はこちらを参照してください。
ウサギとヒキガエルは丸い形をしているからだ。
ヒキガエル
ヒキガエルの「ヒキ」を漢字で書くと「蟇」だが、「蟇」から虫を除いた「莫」という字は、
草原に太陽が沈む様子または日暮れを意味するのだという。
ヒキガエルは沈みゆく太陽のイメージがある。
日本では月にウサギがすむといわれているが、現在の中国では月にはヒキガエルがすむと考えられているようである。
しかし、かつて中国にも月にウサギがすむという信仰があったと思われる。
このことは、前回ご紹介した、次の記事からもわかる。
❿楚とその先行文明を色濃く残した地・湖南省長沙市の漢代の馬王堆(まおうたい)遺跡の帛画(はくが:絹衣に描かれた絵)には、扶桑に宿る十個の太陽とカラス、それに三日月にウサギが描かれている。
月にはウサギより大きくヒキガエルが描かれ、カラスは二本足。
陰陽道の宇宙観では、東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とする。
中国の西方にあるという崑崙山は月、崑崙山にすむ西王母は月そのもの、もしくは月に住む女神と考えられる。
すると西王母に従っているウサギは、太陽神ではなく、月に住む太陽の神のように思える。
もう一度、ウサギの写真を見てみよう。
確かにウサギがまるまったプロポーションは丸く太陽を表しているかのようである。 しかしヒキガエルと大きく異なる点がある。長い耳である。
このウサギの長い耳は三日月に似ているようにも思われる。
しかし、ウサギの丸い体は太陽の神のようであり、耳は月神のようである。
ウサギは太陽神であり、かつ月の神でもあるのかもしれない。
⓶ウサギの餅つきは陰陽和合をあらわす?
月でウサギは餅つきをしているといわれるが、なぜウサギは餅つきをしているのだろう?
一説によると、餅をつく杵は男性のシンボル、臼は女性のシンボルであり、餅つきは男女和合をあらわすのだという。 太陽のように丸い体と、三日月のような耳を持つウサギは、陰(女・月)陽(男・太陽)和合した動物だと考えられたため 餅をついているのではないか。
❾兎は上下対称で中央部を持って搗く杵(きね)で、餅ではなく不死の薬草を煎じる。
とあるが、臼と杵を用いて薬草を煎じているのであれば、それもまた陰陽和合を意味していると考えてよいだろう。
③八咫烏と八咫ヒキガエル
❿楚とその先行文明を色濃く残した地・湖南省長沙市の漢代の馬王堆(まおうたい)遺跡の帛画(はくが:絹衣に描かれた絵)には、扶桑に宿る十個の太陽とカラス、それに三日月にウサギが描かれている。
月にはウサギより大きくヒキガエルが描かれ、カラスは二本足。
ここに「ウサギより大きくヒキガエルが描かれ」とあるのに注意したい。
八咫烏の咫とは大きさの単位で、八は「大きい」と言う意味なので、八咫烏は大きなカラスという意味だとされる。 ウサギより大きく描かれたヒキガエルは、大きなヒキガエルで、八咫ヒキガエルといえるだろうか。
八咫烏いて、(月の神)と八咫ヒキガエル(太陽神)がいて、ウサギが月の神と太陽の神を和合させているということなのかもしれない。
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