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惟喬親王の乱㊺ (最終回) 『日よ沈むな、月よ沈むな』

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惟喬親王の乱㊹ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』  よりつづきます~


「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。



日置天神社 お祓い 
日置天神社の秋祭のはじまり、はじまり~♪

①交野ケ原に残る惟喬親王の伝説

天田神社の由緒書に次のように書いてある。

「平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。
その頃、住吉信仰が流行し一方、磐船の神も海に関係があると考えられ、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神社の祭神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)から、海神であり和歌の神である住吉神に替わって、今日に至っている。」

「平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、」とあるが、その宮廷貴族の中に紀有常、在原業平らがいる。

彼らは惟喬(これたか)親王の寵臣だった。
伊勢物語には、彼らが惟喬親王のお供で狩にやってきて、歌会を開いたという話が記されている。

大阪府交野市・枚方市あたりはかつては交野ケ原と呼ばれていた。
そして枚方市には惟喬親王の伝説がいくつか残されている。

渚の院 淡墨桜 
渚の院

枚方市の渚の院跡(保育園の隣にあって鐘楼が残っているだけ)で、惟喬親王・紀有常・在原業平らは歌会を開いた。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松跡(枚方市茄子作南町)

1321年、融通念仏宗中興の法明上人が男山八幡(石清水八幡宮)の神よりお告げを受けて、深江の庵室(現大阪市東成区南深江 法明寺)より男山へ向かっていたところ、
ここで、同じ夢告げを受けた八幡宮の使者に出会い、十一尊天得如来画像を授けられたと伝えられる。

茄子作という地名の由来は、ここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれる。

そしてここ、日置天神には次のような伝説が伝えられている。

惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹のの姿が見えなくなったので、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と天神に祈願した。

日置天神社 だんじり 彫刻 鷹

日置天神社には8台ものだんぢりが残されていて、秋祭に公開されている。
そのうち1台は氏子さんたちによって町を引き回される。

氏子さんにだんじりの彫刻の内容について聞いてみたが、「わからない」ということだった。

引き回されるだんじりの側面に、鷹の彫刻があったが
これは茄子作の地名由来伝説に登場する惟喬親王の愛鷹にちなむものなのかもしれない。

日置天神社 だんじり 彫刻 菊 
だんぢりの正面には菊の彫刻があり、やはり惟喬親王を連想させた。
 大皇器地祖神社は木地師の祖として惟喬親王を祀っているが、神紋が十六菊である。
この彫刻の花びら数えてみたら20弁で、数がちがってはいるが。

日置天神社 だんじり 彫刻 巻物 
↑ これはひきまわさない別のだんじりだが、巻物を持っているのが、惟喬親王を思わせる。
というのは、惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があるのだ。
巻物持っているのは女性だが、私は小野小町の正体は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。

詳しくは次のシリーズをお読みください。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html

全部読む時間がない方はこちらを読んでいただけると嬉しいです♬
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 
小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

日置天神社 だんじり

さあ、だんじりが出発しますよ~。
ながらくだんじりの引き回しは行われていなかったとのことですが、数年前から復活したそうです。嬉しいね。


②「日よ、沈むな」と「月よ、沈むな」




日置天神社 だんじり


さて、日置天神社の伝説についてもう一度見てみよう。

惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹のの姿が見えなくなったので、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と天神に祈願した。


この伝説は、伊勢物語・渚の院にある話を思い出させる。

昔、惟喬親王という親王がおられた。
山崎の向こうの水無瀬といふ所に宮があった。
毎年、桜の花盛りには、そのへいらっしゃった。
その時、右馬頭と言う人を常に連れてこられた。
随分昔のことなので、右馬頭の名前は忘れてしまった。

狩りは熱心にはやらず、酒を飲んでは和歌を詠んでいた。
今狩りする交野の渚の家、その院(御所)の桜が特にすばらしかった。
その木のもとに馬から下りて座り、枝を折って髪にさし、上、中、下の者身分を問わず、みな歌詠んだ。

馬頭が詠んだ。
世の中に たえて桜の なかりせば  春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)


また他の人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になに か久しかるべき
(散るからこそ桜はすばらしいのだ。悩み多き世の中に、変わらないものなどあるだろうか。)


このように歌を詠んで、その木のもとを立って帰る途中日暮れになった。

お供の人が酒を従者にもたせて野より出てきた。
この酒を飲んでみようと、飲むのにふさわしい場所を探していくと天の河というところにやってきた。

親王に馬頭が大御酒をさしあげた。
親王は言った。

「交野を狩りをして天の河のほとりにたどりついた、を題に歌を詠んで杯をつげ。」

馬頭は歌を詠んだ。

狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり
一日中狩りをして日が暮れてしまったので、織姫に宿を借りよう。天の河原に私はやってきたのだから。)


親王は何度も歌を繰り返され、返歌することができない。

紀有常も御供されており、紀有常が返した。
ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ
織姫は一年に一度いらっしゃる君(=彦星)を待っているのだから、宿を貸す人はないだろう。


帰って宮に入った。
夜が更けるまで酒を呑み、語り、主人の親王は床に入ろうとなさった。

十一日の月が山に隠れようとしているのであの馬頭が詠んだ。

飽かなくに まだきも月の 隠るるか 山の端逃げて 入れずもあらなむ
(ずっと眺めていても 飽きないのに 早くも月は隠れてしまうのか。山の端が逃げて月を入れないでおいてほしい。)

親王にかわり申し上げて紀有常

おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを
(すべての峰が平らになってほしい。山の端がなくなれば月は入らないだろう。)


日置天神社の伝説から思い出されるのは、上の渚の院の話の中の次の部分である。

飽かなくに まだきも月の 隠るるか 山の端逃げて 入れずもあらなむ
(ずっと眺めていても 飽きないのに 早くも月は隠れてしまうのか。山の端が逃げて月を入れないでおいてほしい。)

親王にかわり申し上げて紀有常

おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを
(すべての峰が平らになってほしい。山の端がなくなれば月は入らないだろう。)

日置天神の伝説・・・・・
惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹のの姿が見えなくなったので、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と天神に祈願した。


渚の院の記述・・・・・
すべての峰が平らになってほしい。山の端がなくなれば月は入らないだろう。)

日置天神の伝説では惟喬親王は「日よ、沈むな」と詠い、
渚の院では惟喬親王の代理の紀有常が「月よ、沈むな」と詠っている。

これはなにか関係がありそうだ。とあり

「十一日の月が山に隠れようとしているので」
とあり、月齢が11日であることがわかる。
季節は桜の咲くころなので、旧暦3月11日(新暦4月11日ごろ)だろうか。

月齢、月の形については下記イラストを参照してください。
https://www.nomu.com/ouchi/special/201309/03.html

大阪府の4月の月の出、月の入時刻は下記。

2021年 4月
方位[°]南中高度[°]入り方位[°]月齢[日]
122:30115.32:4337.88:02247.918.7
223:41119.53:4133.38:46242.719.7
3--:------4:4030.49:36239.420.7
40:47121.65:4029.110:33238.221.7
51:46121.46:3929.611:34239.322.7
62:36119.27:3531.612:38242.223.7
73:18115.48:2734.913:41246.624.7
83:54110.49:1539.214:43252.125.7
94:25104.610:0144.115:43258.326.7
104:5498.310:4349.316:40264.827.7
115:2091.911:2554.717:37271.328.7
125:4685.512:0660.118:33277.80.0
136:1279.312:4765.219:29283.91.0
146:4073.513:2969.920:26289.52.0
157:1168.314:1374.021:23294.33.0
167:4564.014:5977.322:20298.04.0
178:2460.815:4879.523:16300.55.0
189:0959.016:3980.6--:------6.0
1910:0058.817:3180.40:10301.37.0
2010:5660.318:2378.80:59300.58.0
2111:5863.519:1575.91:45298.09.0
2213:0268.320:0671.62:25293.910.0
2314:0974.520:5766.33:02288.411.0
2415:1781.821:4860.23:36281.712.0
2516:2689.722:3953.64:09274.213.0
2617:3897.923:3146.84:41266.314.0
2718:52105.8--:------5:15258.415.0
2820:07112.80:2640.55:53251.016.0
2921:22118.11:2535.26:36244.817.0
3022:34121.22:2631.37:25240.418.0


月齢11日は2021年4月では23日で、月の出は午後2時9分、月の入は翌日の午前3時2分となっている。
彼らは随分遅くまで酒をのんでは歌を詠んでいたということがわかる。

しかし、わかるのはここまでである。

なぜ日置天神では「日よ沈むな」と詠い、渚の院では「月よ沈むな」と詠ったのか?
長い文章を45話も書き、その間中考えていたが、結局わからなかった。

しかし、これから旅を続けるなかで、もしかしたらその答えを導くヒントにであえるかもしれない。


日置天神社 だんじり


長々とお付き合いくださいまして、ありがとうございました。

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惟喬親王の乱㊹ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』


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惟喬親王の乱㊸ 『業平はなぜ高子と駆け落ちをしたのか』 よりつづきます~


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龍田川

龍田川

①現代語訳が難しい業平の龍田川の歌


ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

この歌は現代語訳が難しい。
もちろん、千早という花魁が龍田川という相撲取りを振った、という意味ではないw
(参照/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%97%A9%E6%8C%AF%E3%82%8B

「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞。
「神代も聞かず」は「神代にも聞いたことがない」
「竜田川」は奈良県生駒郡斑鳩町竜田あたりを流れる川である。
「からくれなゐ」の「から」は「韓の国」や「唐土(もろこし)」という意味。
当時、韓や唐土の物産は大変高価で価値があるものだったとされる。
今でいうシャネルとかエルメスみたいなブランド品だったということだ。
「くれなゐ」は「紅色」。
なので「からくれなゐ」は「韓や唐土から日本に持ち込まれたブランド品の衣の紅色」みたいな意味になると思う。

ここまではそんなに難しいところはない。

龍田川 紅葉2

⓶「水くくる」に二つの解釈


問題は「水くくる」である。
もちろん、千早という花魁が入水したという意味ではないw。

この「水くくる」には2つの解釈がある。

a.水を「括り染め」にした。
「括り染め」とは布にところどころ糸を巻き付けて括ったのち、染色することや、こうして出来上がった生地のことをいう。
糸でくくった部分は染まらないので、それで模様をつくる。

b.水を潜った。川を埋め尽くすように散った紅葉の下を水が流れる。

現代語訳は
aの場合、「神代にも聞いたことがない。竜田川が韓や唐土の衣の鮮やかな紅のように水を括り染めにするとは。」
b
の場合は「神代にも聞いたことがない。韓や唐土の衣の鮮やかな紅に染まった紅葉の下を竜田川の水が流れていくとは。」
となる。

藤原高子が春宮の御息所と呼ばれていたときに詠んだ歌

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

古今和歌集はこの歌に次のような詞書をつけている。
二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる


「この詞書は大変重要なことを書いてある」と私は思う。
まるで業平の歌は謎々で、この詞書はその謎々をとくヒントのようだ。

一語づつみていこう。

「二条の后」とは清和天皇に入内した藤原高子のことである。
「春宮」は「とうぐう」と読み、皇太子を意味する。
「みやす所」はもともとは「天皇の休憩所」という意味で、ここから天皇に侍る官女や、皇子・皇女を産んだ女御・更衣を指す言葉となった。

藤原高子は清和天皇に入内して女御の位となり、清和天皇にとの間に貞明親王(のちの陽成天皇)をもうけている。
この貞明親王が春宮(皇太子)となったので、高子は「春宮のみやす所」と呼ばれたので華以下と思う。

その藤原高子が在原業平を召したとき、業平は竜田川に紅葉が流れる屏風絵を見てこの歌を詠んだのである。

龍田川 紅葉

④在原業平と藤原高子の駆け落ち

「伊勢物語 芥川」に、高子が清和天皇に入内する以前、業平と高子は駆け落ちをしたと記されている。
(現代語訳はこちら→http://www.raku-kobun.com/ise6.html

駆け落ちの途中、雷が鳴りだしたので業平は高子を蔵の中にいれた。
ところが蔵には鬼がいて高子は鬼にくわれてしまったとある。

本当に高子が鬼にくわれてしまったのではなく、高子は兄・藤原基経に連れ戻されたのである。
こうして二人の駆け落ちは失敗に終わった。

このかつて駆け落ちをした二人が並んで屏風絵を見ているのである。なにか意味深な感じがする。

⑤業平がその気もないのに高子のもとへ通っていた理由

どうも業平は高子を本気で愛していたので駆け落ちしたというわけではないようである。
というのは、古今和歌集詞書に次のような記述があるのだ。

五条の后)の宮の西の対にすみける人に、本意)にはあらで物言ひわたりけるを、

「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられています。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味になる。

業平はなぜその気もないのに高子のもとへ通い、駆け落ちまでしたのだろうか?

百人一首かるた


⑥陽成天皇の父親は在原業平だった?

業平と高子は駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は業平の子ではないかとする説がある。
そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともある。

業平がその気もないのに高子のもとへ通っていたのは、清和天皇に入内する予定の高子を妊娠させるのが目的だったのではないだろうか?
高子が産んだ子は清和天皇の皇子とされるはずだ。
そしてその皇子は将来皇太子となり、天皇となる可能性がきわめて高い。

⑦在原業平の祖父は平城上皇だった。

在原業平の祖父は平城上皇、父親は阿保親王だった。
ところが平城上皇は嵯峨天皇と対立して挙兵し、敗れた。(薬子の変)

⑧阿保親王、子供(行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許される。

このため、平城上皇は出家し、阿保親王は連座したとして大宰府に流罪となる。
10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻った。
そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されている。
阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないだろうか。

⑧平城上皇の竜田川の歌

龍田川の紅葉について、業平の祖父・平城上皇も歌に詠んでいる。

龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)
(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。)

祖父(平城上皇)と孫(在原業平)がどちらも龍田川の歌を詠んでいるのは、「偶然ではない」と私は思う。
業平は平城上皇の龍田川の歌を受けて、自分も龍田川の歌を詠んだのではないだろうか。

平城上皇は龍田川を皇位継承の血筋に喩えているのではないだろうか。
そして自分が薬子の変をおこしたため、私の子孫は皇位につくことができないということを「錦 なかや絶えなむ」と呼んだのだと思う。

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

業平のこの歌は平城上皇の歌を受けて詠まれたものだと私は考える。

「平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」と業平は詠んだのだと思います。

⑨陽成天皇の父親が在原業平であることがばれた?


皇太子となった貞明親王は9歳で即位して陽成天皇となる。
そして高子の兄の藤原基経が摂政になった。

ところがどうも陽成天皇の父親が業平であることが基経にばれたようである。
私がこう思うのは、陽成天皇が源益を殴殺したといて退位させられているからである。

基経は陽成天皇の叔父である。
仮に陽成天皇が源益を殺したというのが本当でも、甥が天皇であるということは基経にとってメリットが大きいはずなので
普通なら事件をもみ消すのではないかと思う。
さらに基経と高子は実の兄妹でありながら大変仲が悪かったとされる。

これらは陽成天皇の父親が業平であることが、高子の兄・藤原基経にばれたのだと考えると辻褄があうように思える。

そしてその後、陽成天皇の子孫が皇位につくことはなかった。
業平の計画は失敗に終わったのだ。
 
八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め


 
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次回につづきます~


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「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


①玉が塵の様に散ったから芥(塵と言う意味)川?

芥川といえば伊勢物語を思い出す。

男(在原業平)が藤原高子と駆け落ちをして芥川へやってきた。
高子は草の上の露をみて「あれはなあに?白玉なの?」と聞いた。
道中はまだ長く、夜がふけ、雷が鳴り響き、雨もひどくなってきたので、男は高子を蔵の中にいれ、自分は弓とやなぐいを背負って扉の前で見張っていた。
蔵の中には鬼がいて、高子を一口で食べてしまった。
高子は「あれえ」と言ったが、雷に打ち消されて男の耳には届かなかった。
夜が明けてきて男が蔵の中を見ると高子がいない。
男は地団駄を踏んで泣いたが、どうしようもなかった。

白玉か 何ぞと人の 問ひしとき 露と答へて 消えなましものを
(あれは真珠?何なの?と高子が問うたとき、露と答えていれば、消えてしまっただろうに。)


※「なまし」とは「①~しまうかもしれない。②きっと~だろう。」という意味。
※「高子が鬼に食われた」というのは比喩的表現で、実際には高子は兄の藤原基経に連れ戻されたとされる。

私は業平と高子は関係を持っていたと思うが、この物語は創作だと思った。
というのは、地名を掛詞として用いているように思えるからだ。

芥川のほとりには玉川という地名がある。
高子が「あれはなあに?白玉なの?」と聞くのにぴったりの地名である。

白玉か なにぞと人の問ひしとき 露と答えて 消えなましものを
(白玉なの?何なの?と高子が私に問うたとき、あれは露だと答えて、露のように消えてしまえばよかったのに。)


この歌の「消えなましものを」は一般的に、「業平自身が消えてしまえばよかった」という意味だとされている。
しかし私は高子が消えてしまえばよかったという意味ではないかと考えている。

何故そう思うのかと言う理由は⑥で述べる。

それはさておき、芥川の「あくた」とは「チリ、くず」という意味である。
玉が散ってしまった場所として芥川という地名はぴったりではないだろうか。

また、三島江の西には玉川という地名があり、歌垣(和歌の題材とされた日本の名所旧跡のこと)として有名だった。
「白玉か~」の歌はこの「玉川」という地名を踏まえて詠んだようにも思える。

⓶三島江は逢引するのにぴったりの場所

芥川を詠んだこんな歌がある。

はつかにも 君をみしまの 芥川 あくとや人の おとづれもせぬ (伊勢)

この歌のなかに「みしま」とあるのは「三島江」の事だと思われる。
三島江とは、大阪府高槻市にある地名である。

芥川が淀川と合流する地点よりやや南西辺りが三島江である。
三島江も古より歌枕として有名なところで、多くの歌人が歌を詠んでいる。

高槻 コスモスロード 碧流寺


伊勢の歌には「芥川」とでてくるところから
この歌にある「みしま」は「三島江」のことだと思われるが、「みしま」は「見し間」の掛詞になっている。

平安時代、貴族の女性は男性に姿を見せないのが一般的でだった。
なので「逢う」「見る」などは、そのまま男女の関係になることを意味する言葉だった。

業平の「白玉か~」の歌には直接出てこないが、芥川に近い三島江という地名も、「白玉か~」の歌は意識していそうに思える。

つまり、三島江でふたりが関係を持ったことをにおわせ
玉川にちなんで高子は「あれはなあに?白玉なの?」と聞いた。
このとき業平は高子の質問に答えなかったが「露」と答えていれば、芥川の芥(塵)のように高子は散ってしまったのに、という意味がこめられているのではないかと思うのだ。



芥川 桜2 
③業平は高子が好きで駆け落ちしたのではなかった?

情熱的な恋の物語?
私は違うと思う。
高子は業平のことを愛していたと思うが、業平はそうでもなかったのではないだろうか。

そう思うのは、古今和歌集の詞書に次のようにあるからだ。

五条の后)の宮の西の対にすみける人に、本意)にはあらで物言ひわたりけるを、

これは

「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられている。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味である。

芥川 桜 

④業平は高子が惟仁親王に入内するのを阻止しようとした?

業平はなぜその気もないのに高子のもとへ通い、駆け落ちまでしたのだろうか?

業平の父親は阿保親王、阿保親王の父親は平城天皇である。
つまり業平は平城天皇の孫と言う高貴の生まれである。

平城天皇が薬子の変をおこして、嵯峨天皇に敗れたため、業平の父・阿保親王は薬子の変に関与したとして大宰府に流罪となった。
阿保親王は許されて帰京した後、自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て、許された。
こうして業平は在原姓を賜ったのである。

阿保親王は自分の子供の臣籍降下を願い出ることで、朝廷に逆らう意思がないことを証明しようとしたのかもしれない。

その後、在原業平は惟喬親王の寵臣として仕える。

惟喬親王の父親は文徳天皇、母親は紀静子だった。
文徳天皇には藤原明子との間に惟仁親王もあった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談したが、源信は当時の権力者・藤原良房(藤原明子の父)を憚って天皇を諫めた。
こうして藤原良房の孫・惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子となった。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王はたびたび歌会を開いているが、その歌会のメンバーに僧正遍照・在原業平・紀有常(紀静子の兄・惟喬親王の叔父)らの名前がある。
また在原業平は紀有常の娘を妻としており、紀氏側の人間だった。
彼らは歌会と称し、惟喬親王をもちあげてクーデターを計画していたのではないかとも言われている。

藤原高子と兄・藤原基経は当時の権力者・藤原良房の養子である。
良房は娘・明子を文徳天皇に入内させたが、これについで、養女の高子を惟仁親王(のちの清和天皇)に入内させることでさらに権力を高めようと考えたのだろう。
そして在原業平が高子をさらったのは、高子が惟仁親王(のちの清和天皇)に入内するのを阻止するためだったとも言われている。

しかし、業平の計画は失敗し、高子は兄・基経に連れ戻され、惟仁親王(のちの清和天皇)に入内してしまうのだが。

教宗寺 
芥川橋近くにある教宗寺

⑤六歌仙は全員藤原氏と敵対関係にあった人物だった。

古今和歌集仮名序で名前をあげられた6人の歌人(僧正遍照・在原業平・文屋康秀・小野小町・喜撰法師・大友黒主)のことを六歌仙と言う。

高田祟史さんは六歌仙は藤原氏と敵対関係にあった人物で、怨霊であるとおっしゃっている。

そこで六歌仙ひとりひとりについて調べてみると、全員藤原氏と確執があることがわかる。

喜撰法師紀名虎または紀有常だという説がある。
私は喜撰法師とは紀氏の血のこい惟喬親王のことだと考えている。
参照/私流トンデモ百人一首 8番 わが庵は『喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王のことだった?』 

遍照は桓武天皇の孫ですが父の良岑安世が臣籍降下しました。遍照は藤原良房にすすめられて出家したと伝わるが、彼は出家した理由を決して人に話さなかったと伝わる。

在原業平は紀有常の娘を妻としており、惟喬親王 の寵臣でもあり紀氏側の人物だった。

文屋は分室とも記され、文屋康秀は分室宮田麻呂と血のつながりがあると思われる。
分室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となっているが、死後冤罪であったことが判明している。
分室宮田麻呂は藤原北家に暗殺されたのではないかとする説もあります。

大友黒主
は大伴黒主とも記され、大伴家持とほとんど同じ内容の歌が残されている。
大友黒主とは大伴家持のことだと私は考えている。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして当時すでに死亡していたのだが、死体が掘り起こされて流罪となっている。
参照/ 陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? 

残る小野小町について、私は「小野宮」と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えている。
惟喬親王はもちろん男性なのだが、古今和歌集には男性が女性の身になって詠んだ歌というのがたくさんある。
古今和歌集の編者の一人である紀貫之も土佐日記で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自らを女と偽って日記を書いている。
参照/ 私流 トンデモ百人一首 9番 花のいろは・・・  『小町の歌は男らしく堂々とした歌だった。』 

惟喬親王像

滋賀県東近江市 惟喬親王陵 惟喬親王像

⑥ことばたらず=「露」と答えなかった?

古今和歌集仮名序は在原業平のことを次のように書いている。

ありはらのなりひらは、その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花の、いろなくて、にほひのこれるがごとし。  
(月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして。
おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人のおいとなるもの。
ねぬるよのゆめをはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな。)

※()内は注釈。

「その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花の、いろなくて、にほひのこれるがごとし。  」は、そのあとの注釈にある3つの歌の説明のようでもあるが
私は、伊勢物語 芥川の話の事を言っているように思える。

男(在原業平)が藤原高子と駆け落ちをして芥川へやってきた。
高子は草の上の露をみて「あれはなあに?白玉なの?」と聞いた。
道中はまだ長く、夜がふけ、雷が鳴り響き、雨もひどくなってきたので、男は高子を蔵の中にいれ、自分は弓とやなぐいを背負って扉の前で見張っていた。
蔵の中には鬼がいて、高子を一口で食べてしまった。
高子は「あれえ」と言ったが、雷に打ち消されて男の耳には届かなかった。
夜が明けてきて男が蔵の中を見ると高子がいない。
男は地団駄を踏んで泣いたが、どうしようもなかった。

白玉か 何ぞと人の 問ひしとき 露と答へて 消えなましものを
(あれは真珠?何なの?と高子が問うたとき、露と答えていれば、消えてしまっただろうに。)


教宗寺2 
川橋近くにある教宗寺

高子は露を見て「あれはなあに?」と聞きましたが、業平はそれには答えていない。
「ことばたらず。」とは、このことを言っているように思えるのだ。

業平はこのとき、高子に「露」とこたえるべきだった。
そうすれば、言霊の力で高子は露のように消えてしまい、高子は惟仁親王(のちの清和天皇)に入内することなく、高子の養父の藤原良房がますます権力を高めることはなかったのに。

古今和歌集仮名序が伝えたいことはそういうことなのではないだろうか。

「消えなましものを」は一般には業平が「自分が消えてしまったらよかったのに」と考えたと訳される。
日本語は主語を省略することがあるので、あいまいだ。
私は業平が消えてしまえばよかったのにと考えたのは、自分自身のことではなく、高子のことではないかと思う。

芥川 桜 
芥川

 
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惟喬親王の乱㊷『天つ風~は藤原高子入内を妨害する歌?』


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惟喬親王の乱㊶『身投げした姥の正体とは?』  よりつづきます~


「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

①六歌仙は古今和歌集仮名序で名前をあげられた六人の歌人

惟喬親王の乱 ⑳璉珹寺 茉莉花 『女人裸形の阿弥陀如来は小野小町のイメージ?』  
↑ こちらの記事で六歌仙について記した。
思わずこのシリーズは長くなり、今回で42回、上の記事を書いてからもう3か月近くがたってしまった。

もう一度、六歌仙についておさらいをしておこう。

紀貫之が書いたといわれる古今和歌集仮名序の中で名前をあげられた六人の歌人、僧正遍照・在原業平・喜撰法師・文屋康秀・小野小町・大友黒主のことを六歌仙という。

ただし、古今和歌集仮名序の中で「六歌仙」という言葉は用いられておらず、後の世になってこの6人の歌人のことを「六歌仙」と呼ぶようになったと考えられている。

八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め

⓶喜撰法師は紀名虎または紀有常?

六歌仙のひとり、喜撰法師とは紀仙法師であり、紀名虎またはその子の紀有常のことではないかとする説がある。

紀名虎の娘(紀有常の妹)の紀静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産んだ。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのだが、藤原良房の娘の藤原明子が産んだ惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子になった。

平家物語などに紀名虎と藤原良房が、いずれの孫を立太子させるかでもめ、相撲や高僧の祈祷合戦などのバトルを繰り広げた結果、藤原良房が勝利したと記されている。

これは史実ではない。
というのは、惟仁親王が生まれたときすでに紀名虎はなくなっていたからだ。
しかし、紀氏と藤原氏に確執があったことは確かだろう。

③六歌仙は怨霊だった?

高田祟史さんは六歌仙とは怨霊であるとおっしゃっている。
なるほどそういわれると、その通りかもしれないと思う。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことであり、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。
そして六歌仙は全員藤原氏と敵対関係にあった人物なのだ。

遍照は桓武天皇の孫だが、父の良岑安世が臣籍降下した。遍照は俗名を良岑宗貞といった。
彼は藤原良房にすすめられて出家したというが、出家の理由を誰にも話さなかったという。

在原業平は惟喬親王の寵臣だった。
惟喬親王は文徳天皇と紀静子(紀名虎の娘)の間に生まれた長子で、文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていた。
しかし、文徳天皇には藤原明子(藤原良房の娘)との間に惟仁親王もあり、惟仁親王のほうが皇太子となった。(のちの清和天皇)
惟喬親王の寵臣である業平を藤原良房がいいように思うはずがなく、業平はなかなか昇進することができなかった。
また業平は紀静子(惟喬親王の母)の兄・紀有常の娘を妻としていて藤原氏と敵対していた紀氏側の人間だった。

大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、私は大伴家持と同一人物だと考えている。
私流 トンデモ百人一首 6番 …『大伴家持、白い神から黒い神に転じる?』 
大伴家持は藤原種次暗殺事件の首謀者とされ、当事すでに亡くなっていたのだが、死体が掘り出されて流罪となった。

文屋康秀の文屋は分室と記されることもあり、文室宮田麻呂の子孫かもしれない。
文室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となったが、死後無罪であることがわかって863年、神泉苑の御霊会で慰霊されている。

小野小町について、私は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。
これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。
a古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

④惟喬親王のクーデター計画?


世継ぎ争いに敗れた惟喬親王はたびたび歌会を開いているが、その歌会のメンバーに遍照・在原業平・紀有常らの名前がある。

紀有常=喜撰法師とすると、六歌仙(遍照喜撰法師在原業平・文屋康秀・小野小町・大友黒主)のうち3人までが惟喬親王の歌会メンバーだったことになる。
彼らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてクーデターを企てていたのではないかという説がある。

大友黒主とは大伴家持のことだと私は考えているので、すると彼は六歌仙の他の歌人とは時代がちがってくる。
(家持は奈良時代の人物。他の歌人は平安時代で、同時代に生きている。)

文屋康秀については、小野小町を「一緒に三河にいきませんか」と誘ったとする詞書があり、
小野小町=惟喬親王とすれば、彼もまたクーデターに参加していたのではないかとも考えられる。

そして大阪府東大阪市にある千手寺の寺伝では「惟喬親王の乱によって堂宇は灰燼に帰した」と伝えているのだった。

惟喬親王の乱㊵ 千手寺 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』 

千手寺

千手院

⑤和歌は呪術だった?

また、高田祟史さんは和歌とは文学ではなく呪術であったとして、次のような例をあげておられた。

桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに
(桜花よ、散り乱れて空を曇らせておくれ。老いというものがやってくるという道が花びらでまぎれて見分けられなくなるように。)


業平は五七五七七の初句に「かきつばた」を読み込んだ歌を詠んでいる。

唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
(何度もきて身になじんだ唐衣のように、慣れ親しんだ妻を都に置いてきたので はるばる遠いところまで やってきた旅を しみじみと思う)


らころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる  びをしぞおもふ

上の歌の五七五七七の初句をつなげると「かきつはた」となる。

花 りかひくもれ いらくの むといふなる まがふがに

上の歌も、「かきつばた」の手法が用いられていると高田祟史氏は主張する。
五七五七七の初句をつなげると「桜散老来道」となる。
「桜散老来道」は漢語であり、読み下すと「桜散り老い来る道」となり、業平が藤原基経を呪った歌だというのだ。

⑥世の中に藤原氏がいなければ、春の心がこんなにイライラすることはなかっただろうに

高田祟史さんの説を受けて、私は渚の院の歌を次のように解釈してみた。

世の中に たえて桜の なかりせば  春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)


また他の人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になに か久しかるべき
(散るからこそ桜はすばらしいのだ。悩み多き世の中に、変わらないものなどあるだろうか。) 


この二首は藤原良房が詠んだ次の歌を受けたものだと思う。

染殿の后のおまへに花瓶(に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば 
()は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房
(年を経たので、齢は老いた。そうではあるが、美しい桜の花をみれば物思いにふけることもない)

染殿の后とは藤原良房の娘、明子のことである。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし/在原業平

この歌に詠まれた、桜とは藤原氏のことで
「世の中に藤原氏がいなければ、春の心がこんなにイライラすることはなかっただろうに。」という意味ではないだろうか。

渚の院 淡墨桜 
渚の院 淡墨桜(惟喬親王の歌会はここで行われた)

⑦乙女の姿しばしとどめむ


ようやく本題であるw。
歌会メンバーのひとり、僧正遍照の歌についてみてみよう。

天つ風  雲の通ひ路  吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ/僧正遍照
(天の風よ、吹いて雲のすきまを閉じてしまっておくれ。乙女の姿をもう少し見ていたいから。)

この歌は詞書に「五節の舞姫をみてよめる」とありる。

大嘗祭や新嘗祭に行われる、4,5人の舞姫による舞を五節舞という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9E#/media/File:Gosechi_no_Mai-Hime_Shozoku.JPG(ウィキペディア 五節舞姫装束)

遍照は宮中を天上になぞらえ、そのため宮中に吹く風を「天つかぜ」と表現したと解釈されている。

僧侶がこんな好色な歌詠んでいいのか、と思っていたが(笑)、古今和歌集では作者は「よしみねのむねさだ(遍照の在俗時の名前)となっており、遍照が出家する以前に詠んだ歌だと一般には考えられている。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

⑦藤原高子、五節舞姫となる。

さて惟喬親王との世継ぎ争いに勝利した惟仁親王は859年に即位して清和天皇となったのであるが
この際の大嘗祭で、藤原良房の養女・藤原高子が五節舞姫をつとめている。
そして866年に藤原高子は清和天皇に入内して女御となった。

高子が清和天皇に入内したことで藤原良房はますます権力を高めていった。
藤原良房にとって高子は、天皇家と結びつきを強めるための大切な存在であった。

⑧「天つかぜ~」は高子入内を妨害する呪いの歌だった?

すると、僧正遍照が 
天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
と歌を詠んだ真意が見えてくるような気がする。

この歌にある「をとめ」とは859年の清和天皇即位に伴う大嘗祭で五節舞姫をつとめた藤原高子のことではないだろうか。
遍照は宮中を天上になぞらえてこの歌を詠んだとされていることを思い出してほしい。
遍照は「風よ、高子を天上(宮中)に入れないでくれ。清和天皇に入内させないでくれ」という意味で、この歌を詠んだのではないだろうか。

古今和歌集ではこの歌の作者名は「よしみねのむねさだ」と遍照が在俗時の名前になっているので、出家する前に詠んだ歌だと考えられている。
遍照が出家したのは849年、高子が五節舞姫を務めたのが859年なので、遍照が詠んだ五節舞を舞う乙女とは高子のことではない、と思われる方もいるかもしれない。

遍照出家後に詠んだ歌ではあるが、「高子を入内させないでくれ」というとんでもない内容の歌なので、
呪ったことがばれないように、あえて在俗時の名前で掲載されたという可能性もあると思う。

今は人を呪っても罪にはならないが、古には権力者を呪うことは罪として罰せられたのである。

あるいは「僧侶が好色な歌を詠むとはいかがなものか」との批判を避ける目的があったのかもしれない。

京都御所 平安装束の女性たち  
京都御所。(八坂神社 かるた始めに登場したかるた姫さんたちを合成)

 




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惟喬親王の乱㊶『身投げした姥の正体とは?』


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惟喬親王の乱㊵ 千手寺 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』  よりつづきます~


「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

①注連縄掛神事(お笑い神事)『天岩戸神話と冬至』

12月25日はクリスマスだが、この日、 枚岡神社では注連縄(しめなわ)掛神事(お笑い神事)が行われる。
白装束の氏子さんたちが藁で新しい注連縄を作り、古い注連縄を外して新しい注連縄につけかえるのだ。

枚岡神社 注連縄掛神事 

新しい注連縄につけかえたあと、神職さん、巫女さん、氏子さん、一般の参拝者の方々も注連縄の前に並び、一斉に「わっはっはー」と笑う。
それだけ。シンプルな神事である。

枚岡神社 お笑い神事 

次のような神話がある。

天照大神が天岩戸にこもったとき、アメノウズメがストリップダンスをし、それを見ていた神々が笑った。
天照大神はその笑い声を聞いて「何を笑っているんだろう」と思い、少し天岩戸をあけたところを引っ張り出され、再び世の中に太陽の光がさすようになった。


「お笑い神事」はこれを表したものといわれている。

上の神話が何を表しているのかについて、二つの説がある。

①日食をあらわしているという説。
②冬至になって勢いが衰えた太陽をあらわしているという説。

「お笑い神事」はもともとは冬至の日におこなっていたそうなので、天照大神が天岩戸にこもったという神話は、⓶の「冬至になって勢いが衰えた太陽をあらわしている」ではないかと思える。

⓶池の中に浮かぶ神社

枚岡神社のご本殿の玉垣から中をのぞいてみると、そこは池になっており、鯉が泳いでいた。
そして池の向こう側に4つの本殿が並んでいる。
つまり、拝殿があり、池を挟んで本殿が並ぶという配置になっているのだ。
本殿前に池があるというのは珍しくないだろうか。
少なくとも、私は本殿前に池がある神社はここ枚岡神社しか知らない。

http://hiraoka-jinja.org/grounds-of-a-shrine/
上記、枚岡神社のhpには照沢池と書いてある。

枚岡神社 照沢池

 
水辺や池の中にある島に祀られることが多いのは、弁財天という女神である。

枚岡神社の御祭神は天児屋根命・比売御神・経津主命・武甕槌命で、一般には比売御神は女神、比売御神以外は男神だと考えられている。

そうではあるが、枚岡神社の神は女神のイメージが強い神であるような印象をうける。

枚岡神社 照沢池とご本殿

③姥ヶ火

ここ枚岡神社を舞台とした怪談がある。

600年前ごろ、枚岡神社の御神燈の油が盗まれるという事件が相次ぎ、生活に困った老婆が油を盗んで売っていたことが発覚した。
老婆は気の毒だとして許されたが、人の噂にいたたまれなくなり池に身投げした。、
その後、雨の夜になると池のあたりに青白い炎があらわれるようになった。(枚岡神社 姥ヶ池 説明版より)

あるとき、河内に住んでいる者が夜道を歩いていたところ、直径30㎝ほどの火の玉が顔に当たった。
よく見ると鶏のような形をしていたが、やがて火の玉に戻った。(諸国里人談)


Saikaku shokoku banashi Ubagabi

井原西鶴『西鶴諸国ばなし』より「身を捨て油壷」

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/Saikaku_shokoku_banashi_Ubagabi.jpg よりお借りしました。
Ihara Saikaku (井原西鶴, Japansese, *1642, †1693), Public domain, via Wikimedia Commons



枚岡神社本殿から向かって左に歩いていくと、緩やかな山道がある。
この山道を100mほども歩いていくと「姥ヶ池」と記された石碑があり、玉垣の中にコの字の形をした池がある。

土砂が埋まっていたのを、ボランティア団体が復元させたのだという。

姥ヶ池

池の中に弁財天が祀られるときには、下の写真に▲で示した場所に祠が作られることが多いのではないだろうか。
しかし、姥ヶ池の祠は異なる場所にある。

姥ヶ池

これは復元するときに誤った場所に社を建ててしまったのだろうか?
それとも何か呪術的な意味があるのだろうか?

④姥の正体は年をとった天照大神?

それはともかく、姥ヶ火、姥ヶ池というのだから、この妖怪(=神)は女性だ。
そして、鶏のような形をしているというのだから、この妖怪(女神)の正体は天照大神ではないかと思う。
というのは、天照大神の神使は鶏だからだ。

池に身投げした姥の正体は年をとった天照大神なのではないだろうか。

お笑い神事がかつては冬至に行われていたということを思い出してほしい。
冬至とは太陽の南中高度が最も低くなる日のことで、その日を境に太陽は再び南中高度をあげていく。
つまり、冬至とは古い太陽が死んで、新しい太陽が生まれる日だともいえる。

姥が火になった老女は、冬至の古い太陽(年とった天照大神)を比喩したものだといえるかもしれない。

姥ヶ池2

⑤日の神、語呂合わせで火の神に転じる?

こんな話がある。

晩年、小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。
すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。
再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなった。
九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)
後に深草の少将が小町を慕ってやってきたが、やはり、この地で亡くなった。
(妙性寺縁起)


五十日→五十火→火事になる→五十河→河の水で火が消える→火止まる→ひとまる→人産まれる
このような語呂合わせのマジックで村の火事はなくなり、女性は安産になったというわけである。

小野小町は日の神(天照大神)であったが、河の神(水の神)に転じた物語であるとも考えられる。

姥ヶ火伝説の老女のほうは、もともと日の神(天照大神)だったが、語呂合わせで火の神=姥が火に転じたという物語のように思える。

⑥姥ヶ池は石油が湧き出る池だった?

『西鶴諸国ばなし』には「身を捨て油壷」と記されている。
「身を捨て油壷」とは「姥が身を捨てて油壷になったという意味だろうか。

油壺とは油を入れる壺のことかとおもったが、どうも油が湧き出るくぼみのことも油壷というようである。

https://naka-go.at.webry.info/201408/article_4.html
上記ブログ写真2枚目に「油壷跡」の写真がある。

姥が池とはもしかしたらこのような石油が湧き出る油壷だったのだろうか。

日本でも新潟県などかつて石油が採掘されていた場所はある。
しかし枚岡神社近辺で石油が採掘されていたという話は聞かないが、どうだろう?

枚岡神社のhpにも
「ご本殿周辺また若宮社周辺には神の森から絶えず命の水が湧き出ています。」
http://hiraoka-jinja.org/grounds-of-a-shrine/ より引用

とあり、姥ヶ池はご本殿からそう離れていないところから、油田ではなく、水がたまった池だった様にも思えるが。

油さし」というと、姥が火が消えるのはなぜ?

この老女が姥ヶ火となった話は、『西鶴諸国ばなし』でも「身を捨て油壷」として記述されている。
姥ヶ火は一里(約4キロメートル)をあっという間に飛び去ったといい、姥ヶ火が人の肩をかすめて飛び去ると、その人は3年以内に死んでしまったという。ただし「油さし」と言うと、姥ヶ火は消えてしまうという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%A5%E3%83%B6%E7%81%ABより引用

なぜ「油さし」というと姥ヶ火は消えるのだろうか。

天ぷら油は360度以上になると発火するそうである。
火を消す方法のひとつに油をたして温度をさげるというのを聞いたことがある。
それで「油さし」というと姥が火は消えるなどと言う話が作られたのではないだろうか。
ただし、油をいれて温度を下げる方法は危険な場合もあるようなので、下記のような方法を試したほうがいいかもしれない。

※天ぷら油
が発火したときの対処法
・鍋の全面を覆うふたをして、空気を遮断しましょう。油温が十分に下がるまで時間をかけましょう。
・炎が大きくなってしまったら、消火器を使用し、速やかに消火しましょう。
・濡れたシーツやバスタオル等で覆い、空気を遮断します。(引火しないように注意してください)。

https://www.nikki-net.co.jp/knowledge/knowledge04  より引用

⑧油壺は血で染まった池?

油壺という地名もある。
神奈川県三浦半島に存在する湾のことを油壺湾といい、その付近(三浦市三崎町小網代の一部)の地名も油壺というようだ。

この地を支配していた三浦氏は、北条早雲の軍と戦ったが、1516年三浦義同(道寸)らは討死にし、残る者は油壺湾へ身を投げたという。
その際、湾一面が血で染まり、まるで油を流したようであったところから「油壺」と呼ばれるようになったといわれる。

『西鶴諸国ばなし』に「身を捨て油壷」とあるのは「姥が身を捨てて血でそまって油のようにみえた」ところからのネーミングだろうか?

⑨姥ヶ火はリンが燃えてできた人魂?

あるいは姥ヶ火は人魂の一種と考えることができるかもしれない。
人魂の正体について、次のようにいわれることがある。

土葬が主流だった時代、異体から抜け出したリンが雨水と反応して青白く光ったのではないか、と。

しかし、人や動物の骨に含まれるリンは発光しないそうだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%AD%82

⑩長木を作った離宮八幡宮の神官は惟喬親王?

それはさておき姥が火の伝説に
枚岡神社の御神燈の油が盗まれるという事件が相次ぎ、生活に困った老婆が油を盗んで売っていたことが発覚した。
とあるのに注意してほしい。

私たちは長木とよばれる油を絞る道具を作った神官の話を知っている。
そう、平安時代に離宮八幡宮の神官が長木を作ったのだった。
(参照/惟喬親王の乱⑲離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』  

山崎 油売り

長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

この長木の「棒に綱を巻き付ける構造」は、惟喬親王が発明したといわれるろくろに似ている。

ろくろ

また離宮八幡宮は石清水八幡宮の元社である。

もともと離宮八幡宮の地に石清水八幡宮があったのだが、石清水八幡宮は淀川の対岸にある男山にうつり
この社は離宮八幡宮と神社名が改められたのだ。

私は
搾油器を発明した離宮八幡宮の神官とは惟喬親王ではないかと考えている。
惟喬親王は巻物が転がるのを見てろくろを発明したと伝えられるが、これと同じように、巻物を転がるのを見て搾油器を発明した、と信じられたのではないか?

石清水八幡宮を創建した清和天皇と惟喬親王(844-897)は異母兄弟である。

どちらも父親は文徳天皇、清和天皇の母親は藤原良房の娘・明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘・静子である。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたかった。
しかし、時の権力者は藤原良房。
源信はこの藤原良房を憚って、「惟喬親王を皇太子にしたい」という文徳天皇を諫めた。
こうして清和天皇が皇太子についた。

惟喬親王と清和天皇の間には藤原氏と紀氏の世継争いという因縁があるのだ。

山崎 油売り2

離宮八幡宮 説明板より

⑪八幡神は身をひくことで皇位継承をもたらす神

八幡宮の総本社は宇佐八幡宮である。
奈良時代、この宇佐八幡宮は「道鏡を天皇とするべし」「道鏡を天皇にしてはならない」という相反する二つの神託を下している。

また宇佐八幡宮には天皇即位や国家異変の際に勅使(ちょくし―天皇の使い)が派遣される習慣があった。
八幡神は皇位継承の神として信仰されていたのだと思う。

そして八幡宮の主祭神は応神天皇だが、この応神天皇が伊奢沙和気大神(福井県敦賀市の気比神宮の神)と名前を交換したという話が古事記にある。

応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされた。
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたという話のように思える。
これは政権交代を意味する物語ではないだろうか。

つまり、八幡神=応神天皇は自分の身をひくことによって、他者の皇位継承をもたらす神だといえ、
惟喬親王のイメージと重なるのである。

⑫離宮八幡宮の搾油機を作った神官(陽)と、枚岡神社の油を盗んだ姥(陰)は同じ神?

離宮八幡宮の神官は油を搾る道具をつくり、枚岡神社ではご神燈を盗んだ老女が姥ヶ火という妖怪になった。
そして枚岡神社は藤原氏の氏神だが、同じく藤原氏の氏神である大原野神社の狛鹿の雄島は巻物をくわえ、雌鹿はどんぐりの帽子をかぶっていた。

大原野神社 雄鹿 
↑↓ 大原野神社の狛鹿

大原野神社 雌鹿




上の動画で、こんなことを言っている。

1:10あたり 惟喬親王はあるものを見てお椀の形を思いついた。そのあるものとは・・・・どんぐりの帽子。
3:55あたり 手挽きろくろも惟喬親王があるものを見て考案した。そのあるものとは・・・・巻物。

また大原野神社には文徳天皇(惟喬親王の父)が作った鯉沢池や、清和天皇(惟喬親王の異母弟)が産湯につかった瀬和井などもある。

私は大原野神社の御祭神には惟喬親王のイメージが重ねられていると考えた。

すると同じ藤原氏の氏神である枚岡神社の神にも惟喬親王のイメージが重ねられているのではないか?
そして油を盗んだ姥とは年老いた惟喬親王ではないか?

神社名伝説陰陽
離宮八幡宮平安時代、神官が搾油機の長木を発明
枚岡神社約600年前、姥が枚岡神社御神燈の油を盗んだ


惟喬親王は男である。しかし、私は小野小町の正体とは男であり、小野宮と呼ばれた惟喬親王の事ではないかと考えている。
これについては詳しく

これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。

a
古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

とすれば、小野小町は100歳の老婆になったという話があり、枚岡神社の姥とは小野小町=惟喬親王をモデルに創作されたものだと考えられる。

なんでもかんでも惟喬親王に結び付けすぎだよ!
とか言われそうだw。

しかし、ここ枚岡神社は千手寺に近く、直線距離で1.5kmほどしか離れていない。
そして、千手寺パンフレットにはこんな伝説が伝えられていたのだった。

その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
 維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。

[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社


惟喬親王の乱が本当にあったとしたら、枚岡神社付近にもその影響は及んだことだろう。





石切劔箭神社


・清和天皇は文徳天皇の第二皇子として850年に生まれ、生まれたばかりで皇太子となった。
そして858年、わずか8歳で即位した。政治は清和天皇の外祖父の藤原良房がとっていた。
石清水八幡宮の創建は860年、清和天皇の勅命によってとされるが、このとき清和天皇は10歳。
石清水八幡宮の創建は藤原良房の意思によるものだと考えるのが妥当。

 ・文徳天皇には清和天皇のほかに第一皇子の惟喬親王があった。
清和天皇の母親は藤原良房の娘の藤原明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘の紀静子だった。
文徳天皇は惟喬親王のほうを皇太子につけたいと考えており、これを源信に相談している。
源信は藤原良房をはばかって文徳天皇をいさめたという。

・世継争いに敗れた惟喬親王は御霊として大皇器地祖神社
(おおきみきじそじんじゃ)、筒井神社、玄武神社などに祀られている。
御霊とは、怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいう。
つまり、惟喬親王は怨霊であったということである。

・石清水八幡宮の神主は代々紀氏が世襲していた。
日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていた。
石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないか。




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惟喬親王の乱㊷『天つ風~は藤原高子入内を妨害する歌?』 につづきます~


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惟喬親王の乱㊵ 千手寺 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』


トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  

惟喬親王の乱㊴『大原野神社の神相撲は世継争いに負けたことを知らしめるための行事?』  よりつづきます~


「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


大阪府東大阪市 千手寺

石切神社

石切劔箭神社

①千手寺

新石切駅から石切劔箭神社へ。
石切劔箭神社から石切参道商店街の緩やかな坂をのぼると
石切大仏がある。

石切大仏 

石切大仏

石切は精力ドリンク「赤まむし」などを製造・販売するサカンポー(阪本漢方製薬)の創業地で、
そのサカンポーの4代目・阪本昌胤さんが石切大仏を建立したそうである。

そういえば石切商店街にこんな ↓ 看板があった。店自体はなかったが、看板のみ残してあるのだろう。

石切参道商店街3

石切大仏からさらに登っていくと千手寺がある。

千手寺

千手寺

②維喬親王=惟喬親王、維仁親王=惟仁親王

千手寺について、次のように記されているサイトがあった。

当山の縁起は1574年(天正2年)に記された寺伝によれば、今から約1300年前、笠置山の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に出会い、一宇を創建し、恵日山千手寺と名付けた。以後里人はこの堂を光堂とよび、この地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。
 また、平安時代の初め、弘法大師がこの寺に止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢に現れ、補陀落山の香木を与えた。大変喜んだ大師はこの木で千手観音像を刻し本尊とした。
 その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
 維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。

 いずれにしても、役行者、弘法大師、維喬親王、在原業平と歴史上の人物が次々と登場するこの寺の寺伝は一大叙事詩でもある。

[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社



http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-2/newpage175.htmより引用

ここに維喬親王(これたかしんのう:844~897)とでてくるが、これは惟喬親王のまちがいだろうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
上記ウィキペディアに惟喬親王について記されているが、生没年も同じだし、文徳天皇の第1皇子というのも同じである。
また第4皇子を維仁親王(後の清和天皇)としてるが、こちらも惟仁親王のまちがいではないかと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
あるいは維喬親王・維仁親王のように記すこともあったのかもしれないが、ネット上でそういった表記は他に見たことがない。

もしかしたら千手寺では惟喬親王・惟仁親王ではなく維喬親王・維仁親王と伝えているのかもしれない。

維喬親王は惟喬親王、維仁親王は惟仁親王と考えて間違いはないだろう。
ややこしくなるので、以下、維喬親王・維仁親王ではなく惟喬親王、惟仁親王と記すこととする。

惟喬親王像 

惟喬親王像 (木地師の里)

惟喬親王の乱

②でご紹介した記事に「惟喬親王の乱で、堂宇は灰燼に帰した。」とある。

私は惟喬親王については大変興味があり、いろいろ調べて記事をたくさん書いている。
しかし「惟喬親王の乱」というのはウィキペディアにも記述がないし、他のサイトでも読んだことがない。

上の記事でも次のように記している。

「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。」


しかし、私は「惟喬親王の乱」がなかったとはいいきれないと思う。

千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社 

千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社

④藤原氏vs紀氏のバトル!

惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の惟仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかった」について、このシリーズで何度も書いたが、復習の意味で繰り返しておく。

文徳天皇は紀静子(紀名虎の娘)との間に第一皇子の惟喬親王、藤原明子(藤原良房の娘)との間に第四皇子の惟仁親王をもうけていた。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたいと考えて源信に相談しましたが、源信は時の権力者・藤原良房を憚って天皇をいさめた。

こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となった。

平家物語などに次のように記されている。

藤原良房と紀名虎はいずれの孫(惟仁親王vs惟喬親王)を立太子させるかでもめ、高僧による祈祷合戦、相撲などによるバトルを繰り返した末、藤原良房が勝利し、惟仁親王が立太子した。

この話は史実ではない。
というのは惟仁親王が生まれたとき、紀名虎はすでに亡くなっていたからだ。
しかし藤原氏と紀氏に確執があったことは確かだろう。

ちなみに愛宕山にはこれに関係する次のような伝説が伝えられている。

空海の高弟であった知恵優れた僧が、惟喬親王と惟仁親王(後の清和天皇)の皇位争いの際に惟喬親王について、
惟仁親王についた天台僧と壮絶な呪詛合戦を繰り広げた末に敗北し、この恨みをはらすために天狗(怨霊)となって天皇家を脅かし続けた。
この天狗が、生前に修行を積んだ愛宕山に住み着いて太郎坊天狗となった。

惟喬親王の乱㉟ 愛宕神社 『惟喬親王側について呪詛合戦をした太郎坊天狗』 


千手寺2

⑤惟喬親王の歌会はのろいの会だった?

紀名虎の子で紀静子の兄(つまり惟喬親王の叔父)・紀有常、在原業平は惟喬親王の寵臣だった。
世継争いに敗れた惟喬親王は紀有常や在原業平をお供として交野ケ原(現在の交野市・枚方市付近)に狩をしにやってきて、渚の院(枚方市)で桜をめでつつ歌会を催すなどしている。

これについて、世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は文学の世界に情熱を傾けたのだろう、と一般にはいわれている。

しかし、そうではなく、彼らは歌会と称して藤原氏をのろっていたのではないかというような意味のことを高田祟史さんがおっしゃっていた。

私は彼の説を支持する。

たとえば伊勢物語「渚の院」の段ににこんな歌が掲載されている。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき ※この歌を詠んだのは右馬頭ではない別の人だと記されているだけで、名前は記されていません。
(散るからこそ、桜はすばらしいのです。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)


渚の院 歌碑 

⑥馬頭は在原業平

ここに登場する右馬頭とは在原業平のことである。
というのは伊勢物語に記された右馬頭の歌は古今和歌集では在原業平作となっているからである。

「右馬頭の名前は忘れた」と伊勢物語の作者は言っているが、これは嘘なのである。
伊勢物語の作者は紀貫之ではないかといわれているが、紀貫之は古今和歌集を編纂した人物であって、知らないはずがないのだ。
彼は土佐日記では自らを女と偽って日記を書いているし、
古今和歌集仮名序でも喜撰法師のことを「よく知らない」と書いているが、おそらく喜撰法師とは紀仙法師で紀名虎(紀有常の父)または紀有常、または惟喬親王のことだと思われ、親族である彼らのことを貫之が知らないはずがない。
紀貫之と言う人は一筋縄ではいかない人だという印象を私は持っている。

⑦惟喬親王と惟仁親王の世継争い。

文徳天皇には紀静子(紀名虎の娘、紀有常の妹)との間に長子の惟喬親王、藤原良房の娘・藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)があった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと源信に相談している。
文徳天皇が世継ぎにしたいと考えていたのは藤原明子所生の惟仁親王ではなく、紀静子所生の惟喬親王だったのだ。
源信は当時の権力者・藤原良房を憚って文徳天皇を諌め、惟仁親王が皇太子になったのだが。

⑧在原業平と紀氏、藤原氏の関係


業平は惟喬親王の寵臣で、また紀静子の兄・紀有常の娘を妻としていて完全に紀氏側の人間だった。
また世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いていますが、歌会と称してクーデターを計画していたのではないかとも言われている。

伊勢物語・渚の院は、惟喬親王の歌会のようすを描いたものである。

在原業平は惟喬親王の歌会のメンバーであり、クーデターの首謀者だったのではないかとする説もある。
在原業平はなぜか「色好み」ばかりがクローズアップされているが、政治的に不遇で、反骨精神にあふれた人物であったと考えられる。

⑨桜散り老い来る道

言霊という言葉がある。
口に出した言葉は実現する力を持つという信仰のことである。

言霊はプラス思考のことだととらえられがちだ。
例えば、「私はできる」と考えると本当にできるようになると言われる。
これはある程度正しい。

しかし、古の日本人はこのようなプラス思考のほかに、呪術的な目的をもって言霊を信仰していたように思われる。
呪術は他人に気がつかれないようにかけなければいけない。
古には国家や貴人を呪うことは重罪とされていたからだ。
和歌の掛詞・縁語・もののななどのテクニックはこのようなことを背景にできたのではないかと思う。

高田祟史さんは和歌は呪術ではないかとし、在原業平が藤原基経(藤原良房の養子)に送った次のような歌の例をあげておられる。

桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに
(桜花よ、散り乱れて空を曇らせておくれ。老いというものがやってくるという道が花びらでまぎれて見分けられなくなるように。)


業平は五七五七七の初句に「かきつばた」を読み込んだ歌を詠んでいる。

唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
(何度もきて身になじんだ唐衣のように、慣れ親しんだ妻を都に置いてきたので はるばる遠いところまで やってきた旅を しみじみと思う)


らころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる  びをしぞおもふ

上の歌の五七五七七の初句をつなげると「かきつはた」となる。

花 りかひくもれ いらくの むといふなる まがふがに

上の歌も、「かきつばた」の手法が用いられていると高田祟史氏は主張する。
五七五七七の初句をつなげると「桜散老来道」となる。
「桜散老来道」は漢語であり、読み下すと「桜散り老い来る道」となり、業平が藤原基経を呪った歌だというのだ。

⑩桜は藤原氏または藤原氏の栄華の象徴?

惟喬親王の渚の院での歌会は、呪術会だったのではないか?

世の中に たえて桜の なかりせば  春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)


また他の人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になに か久しかるべき
(散るからこそ桜はすばらしいのだ。悩み多き世の中に、変わらないものなどあるだろうか。) 


この二首は藤原良房が詠んだ次の歌を受けたものだと思う。

染殿の后のおまへに花瓶(に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば 
()は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房
(年を経たので、齢は老いた。そうではあるが、美しい桜の花をみれば物思いにふけることもない)

染殿の后とは藤原良房の娘、明子のことである。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし/在原業平

この歌に詠まれた、桜とは藤原氏の栄華のことで
「世の中に藤原氏の栄華がなければ、春の心がこんなにイライラすることはなかっただろうに。」という意味ではないだろうか。

また

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき 
 
は藤原氏の栄華は散るからめでたいのだ。思い悩むことの多い世の中だが、藤原氏の繁栄がいつまでも続いたりはしないだろうという意味だと思う。

古の日本では言霊信仰といって、口に出した言葉には実現させる力があると信じられていた。
これは、つまり歌は文学などではなく呪術であったということである。

惟喬親王は歌会と称して藤原氏を呪っていたのではないだろうか。

渚の院 淡墨桜 
渚の院 淡墨桜

⑪なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているのか?

枚方市には茄子作という地名がありここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれている。

惟喬親王は鉄鋼鋳造と関係が深そうに思える。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(枚方市茄子作)

大阪府三島郡島本町広瀬には粟辻神社があって、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と在原業平を祀っている。

なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているのだろうか。

惟喬親王は木地師の祖とされているが、木地師が用いるカンナはかつては木地師自身で作っていたという。
つまり、木地師は鍛冶屋でもあったのだ。
そのため惟喬親王は鍛冶屋の祖とされているのかもしれない。

また、かつて鍛冶屋は刀や弓矢などの武器をつくっていた。
惟喬親王と在原業平は挙兵をけいかくしており、武器を製造していたため、鍛冶屋の祖神として祀られているのかもしれない。


粟辻神社

粟辻神社

⑫腰掛石は怨霊の執念がしみついた石?

在原業平腰掛石 

千手寺 在原業平腰掛石

千手寺境内には在原業平腰掛石があった。

腰掛石と呼ばれるものはほかの寺にもある。

宇多天皇が創建した京都の仁和寺には菅公腰掛石があり、次のような伝説がある。

道真は藤原時平の讒言により流罪となった。
道真は大宰府に向かう途中、仁和寺に立ち寄り、冤罪であることを宇多上皇に訴えようとした。
しかし宇多上皇は留守だった。
仕方なく道真は石に座って帰りを待っていたが、会うことができないまま大宰府へ流されていった。


仁和寺 菅公腰掛石

仁和寺 菅公腰掛石

また奈良の手向山八幡宮にも菅公腰掛石がある。

道真は宇多天皇の行幸に付き従って手向山八幡宮へやってきてこんな歌を詠んだとされる。


このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに/菅家(菅原道真)
(今回の旅は急な旅で幣も用意することができませんでした。かわりに紅葉の錦を捧げます。どうぞ神の御心のままお受け取りください。)


手向け山八幡宮 紅葉

手向山八幡宮

『このたびは』の『たび』は『度』と『旅』に掛かる。

幣とは神への捧げ物のことで、絹や紙を細かく切ったものを道祖神の前で撒き散らす習慣があった。
今でも、神事のときに神主さんが細かく切った紙をまき散らしているのを見かけるが、これが幣だと思う。

一言主神社 天狗と幣を撒く人

幣(一言主神社にて)

道真が手向山八幡へやってきたとき、風がふいて紅葉がはらはらと散っていたのだろう。
それで、道真は紅葉を幣のかわりにしたということだろう。

菅原道真は宇多天皇にひきたてられて昇進した人物だった。
897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位した。
このとき宇多天皇は『ひきつづき藤原時平と菅原道真を重用するように』と醍醐天皇に申し入れた。

醍醐天皇の御代、菅原道真は右大臣、藤原時平は左大臣になった。
当時の官職や位は家の格によって最高位が定まっており、道真の右大臣という地位は菅原氏としては破格の昇進だった。

道真の能力を恐れた藤原時平は醍醐天皇に次のように讒言した。
『道真は斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀っている』と。
斉世親王は宇多天皇の第3皇子で、醍醐天皇の異母弟である。
そして斉世親王は道真の娘を妻としていた。

醍醐天皇は時平の讒言を聞き入れ、901年、道真を大宰府に流罪とした。
そして903年、道真は失意のうちに大宰府で死亡した。

大阪天満宮 人形 

大阪天満宮に展示されている雷神となって祟る菅原道真の怨霊の人形

その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次ぎ、これらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられた。

⑬菊野大明神

京都市中京区に法雲寺という寺があり、境内に菊野大明神が祀られている。

菊野大明神

菊野大明神


ご神体は深草少将が腰掛けたという石だというが、柵で囲まれているので御神体の石がどこにあるのかわからなかった~。

髄心院に伝わる伝説によれば、深草少将は小野小町に「百夜通したならば100日目に会ってあげる。」と言われて実行したのだが、99日目の夜に死んでしまったとされる。

深草少将腰掛石にはその恨みが籠もっているので男女の仲を裂くといわれている。

このように見てみると、官公腰掛石は官公の、菊野大明神の深草少将腰掛石は深草少将の恨みが籠った石ではないかと思える。
すると在原業平腰掛石もまた、業平の恨みが籠った石なのではないだろうか?

千手寺 在原業平腰掛石 
千手寺 在原業平腰掛石

千手寺-石切観音 水子地蔵 
千手寺-石切観音 水子地蔵




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惟喬親王の乱㊴『大原野神社の神相撲は世継争いに負けたことを知らしめるための行事?』

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惟喬親王の乱㊳『大原野神社の鹿の巻物とどんぐり帽子』 よりつづきます~

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大原野神社 御田刈祭 行列 

①大原野神社は惟喬親王を祀る神社?

惟喬親王の乱㊳『大原野神社の鹿の巻物とどんぐり帽子』 
こちらの記事で、私は次のようにのべた。

惟喬親王は大原野神社の四柱の神(武御賀豆智命・伊波比主命・天之子八根命・比咩大神)いずれかと同一視して祀れれているのではないか、と。

その理由は、神殿前の鹿の像の一体が巻物をくわえ、もう一体が頭にどんぐりの帽子を乗せていることにあった。

大原野神社 雄鹿 
大原野神社 狛鹿 ↑ ↓

大原野神社 雌鹿

惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師が用いるろくろを発明し、どんぐりの帽子から茶碗の形を思いついたという伝説があるだ。

また、大原野神社には文徳天皇が作ったとされる鯉沢池や、清和天皇が産湯に使ったと伝わる瀬和井(せがい)があるが
文徳天皇は惟喬親王の父親、清和天皇は惟喬親王の異母弟である。

文徳天皇は紀静子との間にできた惟喬親王を皇太子にしたいと考え、源信に相談している。
源信は藤原良房(藤原明子の父・清和天皇の祖父)をはばかって天皇を諫めた。
こうして文徳天皇と藤原明子の間にできた惟仁親王(後の清和天皇)が皇太子となったのだった。

このように惟喬親王と関係の深い人物ゆかりの地と伝わっていることも、惟喬親王が大原野神社の神と同一視されているのではないかとの推論を裏付けているように思える。(気のせいかw)

大原野神社 御田刈祭

⓶重陽とは何か

この大原野神社では9月第2日曜日に御田刈祭が行われ、神相撲が奉納されている。
 1717年より300年以上続く伝統神事であるという。

大原野神社の神相撲はたぶん、9月9日の重陽の節句にちなむ行事ではないかと思う。

陰陽道ではすべてのものは陰陽両面をもつと考える。
例えば人間は男が陽で女が陰。天地では天が陽で地が陰である。
数字では、奇数が陽、偶数が陰である。

古代中国では、1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は、「陽(月)+陽(日)=陰」になるとして避邪の行事が行われていた。
1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は五節句といわれ、お祝いをしたりするが、もともとは避邪の行事だったのである。

特に9は一桁の奇数としては一番大きな数であるために「陽の極まった数」と考えられ、「陽の極まった数の重日」ということで「重陽」と呼ばれていた。
日本においても宮中では「観菊の宴」などが開かれ、盛大に祝われた。

大原野神社 御田刈祭3

③重陽と惟喬親王

京都では様々な寺社で重陽の節句の行事が行われているが、中でも有名なのは法輪寺の重陽神事だろう。

周の穆王が寵愛していた少年・菊慈童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となった。
穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言った。
菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となった。
そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得た。

この伝説にちなみ、法輪寺では菊滋童の舞が奉納される。

そしてこの法輪寺に惟喬親王が籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説がある。
即身仏となるべく入定する際に漆のお茶を飲んだという。
そうすることで胃の中の者を吐き出し、また漆の防腐作用で死後腐りにくい体になったという。

昔の人は腐らない肉体があることを不老長寿と考えていたようで、即身仏となる目的は56億7000万年後に弥勒菩薩があらわれる、その際に復活して彼の聖業に参加することであったと聞いたことがある。

そう考えると惟喬親王と菊滋童のイメージが重なる。



法輪寺 重陽神事2

法輪寺 重陽神事




平家物語などに紀名虎と藤原良房が、いずれの孫を立太子させるかでもめ、相撲や高僧の祈祷合戦などのバトルを繰り広げた結果、藤原良房が勝利したと記されている。

これは史実ではない。
というのは、惟仁親王が生まれたときすでに紀名虎はなくなっていたからだ。
しかし、紀氏と藤原氏に確執があったことは確かだろう。

惟喬親王の乱⑬ 上加茂神社 烏相撲 『紀名虎&藤原良房の世継ぎ争い』  

そしてこちらの記事には次のように書いた。

「烏相撲は上賀茂神社の親神である松尾の大山咋神に見せるために行われている」といわれているが

紀名虎または惟喬親王は、松尾の大山咋神とイメージが重ねられており
烏相撲は、紀名虎または惟喬親王に、「世継ぎを決める相撲で、あなた方は負けたんだよ」ということを思い出させるために行われているのかもしれないと。

上賀茂神社 烏相撲

上賀茂神社 烏相撲

この上賀茂神社の烏相撲と同様、大原野神社の神相撲もまた
紀名虎または惟喬親王に、「世継ぎを決める相撲で、あなた方は負けたんだよ」ということを思い出させるために行われているのかもしれない。


大原野神社 御田刈祭2 


大原野神社 赤ちゃん土俵入り4


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惟喬親王の乱㊳『大原野神社の鹿の巻物とどんぐり帽子』


トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱㊲ 粟辻神社『惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖だった』 よりつづきます~

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大原野神社 鳥居3

①大原野神社

大原野神社の御祭神は武御賀豆智命(武甕槌命)・伊波比主命(経津主命)・天之子八根命(天児屋根命)・比咩大神(比売神)の四神である。

この四神を総称して春日明神とよぶ。
武御賀豆智命
(武甕槌命)
雷神。剣の神。相撲の元祖。要石に住む地震を引き起こす大鯰をおさえこむ神。
伊波比主命
(経津主命)
・イザナギが火の神カグツチを斬ったとき、十握剣の刃から滴る血が固まって天の安河のほとりにある
岩群・五百箇磐石(イオツイワムラ)となり、これが経津主神の祖。
軻遇突智の血が五百箇磐石を染めて磐裂神・根裂神が生まれ、
その御子の磐筒男神・磐筒女神が経津主神を生んだ。(第七の一書)
天之子八根命
(天児屋根命)
中臣連の祖(藤原氏の祖・中臣鎌足は天智天皇より藤原姓を賜っている。)
比咩大神
(比売神)
天児屋根命の妻の天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)


大原野神社 鳥居4

⓶大原野神社は文徳天皇、清和天皇ゆかりの地

大原野神社 鯉沢池 
鯉沢池。文徳天皇が作ったという。

大原野神社 瀬和井  
瀬和井(せがい) 清和天皇が産湯を使ったという。清和天皇は文徳天皇の第四皇子である。

文徳天皇には紀静子との間に第一皇子の惟喬親王が、藤原明子との間に第四皇子の惟仁親王(後の清和天皇)があった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談したが、源信は藤原良房(藤原明子の父)を憚って天皇を諫め、惟仁親王が皇太子になった。

この話は以前にも何回も繰り返したとおりである。

③大原野神社の鹿の巻物とどんぐり帽子

大原野神社 鳥居 

大原野神社 拝殿 

大原野神社 雄鹿 
拝殿前には雌雄の鹿の像。雄鹿は巻物を、雌鹿はどんぐりの帽子のようなものを頭にのせていた。

大原野神社 雌鹿

えーーっ、もしかして、大原野神社に祀られているのは文徳天皇の第一皇子の惟喬親王?(清和天皇との皇位争いに敗れた)


えーーっ、もしかして、大原野神社に祀られているのは文徳天皇の第一皇子の惟喬親王?(清和天皇との皇位争いに敗れた)
驚きの発見に心臓バクバク状態になったw



上の動画で、こんなことを言っている。

1:10あたり 惟喬親王はあるものを見てお椀の形を思いついた。そのあるものとは・・・・どんぐりの帽子。
3:55あたり 手挽きろくろも惟喬親王があるものを見て考案した。そのあるものとは・・・・巻物。

その巻物とどんぐり帽子が、なぜ大原野神社の鹿の像につけられているのか。
しかも、大原野神社には惟喬親王の父親である文徳天皇が作った池、
惟喬親王の異母弟でライバルの惟仁親王が産湯に使った瀬和井(せがい)があるのだ。

これは偶然とは思えない。

もしかして、藤原氏は大原野神社の御祭神四柱のうちの一柱を惟喬親王のイメージと重ね、神として祀っていたのではないか?

大原野神社は藤原氏の女性が、皇后・中宮になれますようにと祈願する神社で、祈願がかなえられると行列を作ってお礼まいりをする習慣があったという。

そして陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に慰霊すればご利益を与えてくださる和魂に転じると考えられていたという。

惟喬親王は御霊として、玄武神社・惟喬神社などたくさんの神社の御祭神として祀られている。
御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことで、つまり惟喬親王は怨霊なのだ。
その怨霊である惟喬親王を大原野神社の四柱の神いずれかと同一視して祀り、
藤原氏の女性たちは惟喬親王に対して「皇后になれますように」と祈ったと、そういうことだと思われる。

これはありそうなことである。
皇位につけなかった神である惟喬親王は、皇位継承に祟りそうである。
藤原氏の戦略は娘を天皇に入内させて親王を産ませ、その親王を天皇とし、自らは外祖父として権力を握るというやり方である。
つまり、皇位継承とは藤原氏の女性が皇后・中宮になれるかどうかにかかっているのだ。
そのため、皇位継承に祟る惟喬親王の霊を鎮める必要があり、神として慰霊しているのではないだろうか?

大原野神社 鳥居2 


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惟喬親王の乱㊲ 粟辻神社『惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖だった』


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惟喬親王の乱㊱交野天神社 本尊掛松『鍛冶と惟喬親王の関係は?』 よりつづきます~

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①離宮八幡宮は惟喬親王の離宮跡?

離宮八幡宮 外観

離宮八幡宮


惟喬親王の乱⑲離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』  

↑ こちらの記事でこんなことを書いた。

・水無瀬の離宮八幡宮は石清水八幡宮の元社だった。
日本では先祖の霊は子孫が祭祀するべきとする考え方があった。
 石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲である。
 藤原良房は八幡宮の御祭神・応神天皇に惟喬親王(母親/紀静子)のイメージを重ねて石清水八幡宮を創建したのではないか。(清和天皇が創建したとされるが、当事10歳なので外祖父で摂政の良房の意志が働いているとみるのが自然だと思う)
・伊勢物語の第八十二段には、こんな話が記されている。
惟喬親王は在原業平や紀有常らの寵臣とともに、水無瀬離宮から交野ケ原へ向かい、渚の院で歌会を開いたと。
水無瀬は離宮八幡宮から近い。
離宮八幡宮という名前は、嵯峨天皇の離宮があったところからつけられたというが、本当は惟喬親王の離宮があったところからつけられたのではないか。

離宮八幡宮 門

離宮八幡宮

⓶惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖

また近所には粟辻神社があって、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と在原業平を祀っている。

 粟辻神社 

「粟辻安永記」には「春日明神小社」とあり、1724年ごろ 堂の講より水無瀬家に願いでて免許され、そのころより粟辻明神と名付けたとある。

938年に創建で、春日神社と称していたが、1531年惟喬親王が粟辻氏の祖先にあたるので粟辻神社と改称されたともいう。

この粟辻神社の存在からも、離宮八幡宮は嵯峨天皇の離宮があったところからついたというよりも
惟喬親王の水無瀬離宮があったところから離宮八幡宮になったのではないか、と思ってしまう。


 


③惟喬親王の伝説の多い交野市・枚方市はは鍛冶と関係が深そうに思える。


それはさておき、なぜ惟喬親王と在原業平が鍛冶屋の祖神なのだろうか?

前回の記事惟喬親王の乱㊱交野天神社 本尊掛松『鍛冶と惟喬親王の関係は?』 を思い出してほしい。

大阪府枚方市・交野市あたりは惟喬親王の伝説が多い。


渚の院は惟喬親王が歌会を開いた場所だったし、交野市から枚方市を流れる天の川のほとりにも惟喬親王一行はやってきている。
惟喬親王の乱㉑  渚の院跡 『惟喬親王の歌会は呪術会だった?』 
惟喬親王の乱㉖ 中山観音寺跡と機物神社 『惟喬親王=小野小町=織姫?』 

まだ記事を書いていないが、枚方市の日置天神社にも惟喬親王の伝説が伝えられている。

さらに、枚方の交野天神社は継体天皇の宮跡と伝わるが、継体天皇の和風諡号(しごう)は次のように記される。

日本書紀・・・・男大迹王(をほどのおおきみ)
古事記・・・・・袁本杼命(をほどのみこと)

ヲホドとは小火床であり、鍛冶に関係があるのではないかとも言われている。
火床とは鍛冶をするための簡単な炉のことである。

交野天神 貴船神社 
交野天神社 貴船神社

また、交野天神社からそう離れてはいない枚方市岡本町に下井戸跡があり、案内板に次のように記されている。

枚方宿4カ村の内、岡村の地下水は鉄気が多く飲料水に適さなかったため、古来より万年寺山や別子丘陵に取水の元井戸を掘り、導水管により水を供給していました。

https://ja.localwiki.org/hirakata/%E4%B8%8B%E4%BA%95%E6%88%B8%E8%B7%A1より引用

そして枚方市茄子作は喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれている。

④一富士・二鷹・三茄子は鉱物の隠語?

初夢で見ると縁起がいいとされるものとして、一富士・二鷹・三茄子という。
私は、一富士・二鷹・三茄子とは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えている。

栃木県那須町の近くには足尾銅山がある。
愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山がある。
銅は茄子色をしている。
そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないだろうか。
つまり、茄子は銅を表す隠語ではないかと思うのだ。

鷹は鷹の爪。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすをやはり坑道に見立てたのではないだろうか。

富士は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのだと思う。
藤の花が房になって咲くようすもやはり坑道に喩えられたのだと思う。

惟喬親王の伝説が多く残る大阪府枚方市には茄子作(なすつくり)のほかに藤田川(とうだがわ)・高田(こうだ)・という地名があり、一富士・二鷹・三茄子が揃っている。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(枚方市茄子作)(桜に気をとられすぎて、松が写っておりませんが~汗)


鈴は金属のスズを表しているのかもしれないし、愛鷹は鷹の爪=水銀を表しているようにも思える。

このように枚方市交野市あたりは古くは鍛冶と関係があったのではないかと思われるふしがある。

⑤惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖神

離宮八幡宮近くにある粟辻神社では、惟喬親王と在原業平を鍛冶屋の祖神として祀っているというのだ。



上の動画は私も行ったことのある木地師資料館で木地師保存会の小椋さんに取材を行ったものだ。
この動画の3:02あたりで、「元の木地師は丸棒の刃物から叩いて鍛冶屋をして自分の形にあうように鉋をつくっております」

とおっしゃっている。

木地師は鍛冶屋でもあったのだ。そういうわけで木地師の祖・惟喬親王は鍛冶師の祖ともされているのかもしれない。

在原業平はなぜ惟喬親王と一緒に鍛冶師の祖とされているのだろう?
在原業平は惟喬親王の寵臣だったからだろうか?




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惟喬親王の乱㊱交野天神社 本尊掛松『鍛冶と惟喬親王の関係は?』



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惟喬親王の乱㉟ 愛宕神社 『惟喬親王側について呪詛合戦をした太郎坊天狗』 よりつづきます~

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交野天神 拝殿2 
交野天神社 拝殿

①交野天神

交野天神社(大阪府枚方市)は閑静な住宅街の中にあり光仁天皇・天児屋根命・菅原道真をお祭りしている。
しかし周囲は深い森に囲まれているので、住宅街とは別世界のような印象を受ける。

『続日本紀』や『石清水神宮縁起』に「787年、桓武天皇が交野に父・光仁天皇を祀るための郊祀壇を設けた」という記述があり、それがこの交野天神の創建だと考えられている。

天児屋根命は中臣氏の祖神。
中臣鎌足は中大兄皇子より藤原姓を賜ったので、藤原氏の氏神である春日大社にも祀られ春日明神と呼ばれている。

菅原道真は901年に藤原時平の讒言で大宰府に流罪となり、903年に大宰府で没した。
その後、都では疫病の流行、天災などが相次ぎ、それらは菅原道真の怨霊の仕業であるとして、怨霊を鎮めるため北野天満宮や大阪天満宮などが作られた。

天児屋根命・・・・藤原氏の祖神
菅原道真・・・・・藤原時平の讒言で流罪となった。

藤原氏と菅原道真はライバル関係にあるのに、同時に祀られているのはなせなのだろうか。

②継体天皇と鍛冶

交野天神 貴船神社2 
交野天神社 境内

神社の奥まったところに小高い丘があり、階段のふもとに「継体天皇樟葉宮地」と刻まれた石碑が建てられていた。
交野天神は継体天皇樟葉宮の跡地であるとも伝えられているのだ。

継体天皇の和風諡号(しごう)は次のように記される。

日本書紀・・・・男大迹王(をほどのおおきみ)
古事記・・・・・袁本杼命(をほどのみこと)

ヲホドとは小火床であり、鍛冶に関係があるのではないかとも言われている。
火床とは鍛冶をするための簡単な炉のことである。

交野天神社からそう離れてはいない枚方市岡本町に下井戸跡があり、案内板に次のように記されているそうだ。

枚方宿4カ村の内、岡村の地下水は鉄気が多く飲料水に適さなかったため、古来より万年寺山や別子丘陵に取水の元井戸を掘り、導水管により水を供給していました。

https://ja.localwiki.org/hirakata/%E4%B8%8B%E4%BA%95%E6%88%B8%E8%B7%A1より引用

交野天神 説明板


③樟葉宮伝承地と貴船神社

②に貼った写真の、階段を上っていくと貴船神社があり、その神社の傍らにも「継体天皇樟葉宮跡伝承地」と刻んだ石碑がたてられていた。

交野天神 貴船神社 
交野天神社 貴船神社

貴船神社の御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)と継体天皇である。

兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっている。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てた。


貴船神社(貴布禰神社)は紀氏の神で、もともとは紀船神社だったのではないかと思うが
なぜ継体天皇樟葉宮跡伝承地に紀氏の神をまつる貴船神社があって継体天皇を祀っているのだろうか?

『日本書紀』に次のような内容が記されている。

507年、継体天皇、樟葉宮(大阪府枚方市)で即位。
511年、筒城宮(京都府京田辺市)に遷都
518年、弟国宮(京都府長岡京市)に遷都
526年、磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に遷都


http://zan35441.on.coocan.jp/sub10-33.html
上のサイトに、紀氏の荘園が記されているが「古代京都府南部」とあり、
京田辺・長岡京などは紀氏の荘園があったようである。

また枚方の天田神社は紀氏が祭祀する石清水八幡宮の所領だったとされ、紀氏の母親をもつ惟喬親王の別荘・渚の院もあった。

天田神社 神楽 猿田彦行列

天田神社

渚の院 淡墨桜

渚の院跡

石清水八幡宮が創建されたり、惟喬親王が渚の院で歌会を開いたりしたのは平安時代だが、それ以前から紀氏の土地であったため天田神社付近が紀氏の所領になったり、惟喬親王の別荘がつくられたりしたのかも?

継体天皇が樟葉宮で即位したのも、継体天皇と紀氏に関係があるからかもしれない。

交野天神 拝殿屋根を支える天邪鬼 

交野天神社 拝殿をささえる天邪鬼

④茄子作

⓶で継体天皇と鍛冶は関係が深いと書いたが、枚方の茄子作という地名も鍛冶・鉱物と関係が深いように思われる。
しかも、その地名は我らの惟喬親王と関係があるという伝説がある。

茄子作という地名の由来は、惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれているのだ。

初夢で見ると縁起がいいとされるものとして、一富士・二鷹・三茄子という。
徳川家ゆかりの駿河国での高いものの順(富士山、愛鷹山、初物のなすの値段)など様々な説があるが、
私は、一富士・二鷹・三茄子とは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えている。

栃木県那須町の近くには足尾銅山がある。
愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山がある。
銅は茄子色をしています。
そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないだろうか。
つまり、茄子は銅を表す隠語ではないかと思うのだ。

鷹は鷹の爪だと思う。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすをやはり坑道に見立てたのではないだろうか。

富士は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのだと思う。
藤の花が房になって咲くようすもやはり坑道に喩えられたのだと思う。

大阪府枚方市には茄子作(なすつくり)のほかに藤田川(とうだがわ)・高田(こうだ)・という地名があり、一富士・二鷹・三茄子が揃っている。

鈴は金属のスズを表しているのかもしれませんし、愛鷹は鷹の爪=水銀を表しているようにも思える。

このようにこの土地は古くは鍛冶と関係があったのではないかと思われるふしがある。

天筆如来と本尊掛松

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(枚方市茄子作)(桜に気をとられすぎて、松が写っておりませんが~汗)


枚方市茄子作には本尊掛松遺跡がある。
子の本尊掛松は、大阪府守口市にある
来迎寺と関係がある。

859年、奈良大安寺の行教上人は九州の宇佐八幡宮に国家安泰を祈願した。
その満願の日、行教上人の袈裟の上にみほとけが姿をあらわした。
このみほとけのお姿を写したものを「天筆如来」といい、石清水八幡宮のご神体とした。

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき

石清水八幡宮


1342年4月15日の夜、石清水八幡宮の宮司と深江の法明上人(融通念仏宗の中興)に夢告げがあった。
それは石清水八幡宮のご神体である「天筆如来」を法明上人に授けるというお告げだった。
石清水八幡宮の宮司と法明上人は、現在の枚方市茄子作一本松で会い、宮司は法明上人に天筆如来を授けた。

法明上人は、弟子の実尊上人に「天筆如来」を授けた。
実尊上人は、1347年にこの天筆如来をご本尊として紫雲山来迎寺を創建したとされる。

来迎寺3

来迎寺

惟喬親王の乱⑰ 石清水八幡宮 『石清水八幡宮の神主が紀氏の世襲なのはなぜ?』 
こちらの記事で書いたように、石清水八幡宮は惟喬親王を祀る神社のように思われる。

その理由をまとめておく。

・清和天皇は文徳天皇の第二皇子として850年に生まれ、生まれたばかりで皇太子となった。
そして858年、わずか8歳で即位した。政治は清和天皇の外祖父の藤原良房がとっていた。
石清水八幡宮の創建は860年、清和天皇の勅命によってとされるが、このとき清和天皇は10歳。
石清水八幡宮の創建は藤原良房の意思によるものだと考えるのが妥当。

 ・文徳天皇には清和天皇のほかに第一皇子の惟喬親王があった。
清和天皇の母親は藤原良房の娘の藤原明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘の紀静子だった。
文徳天皇は惟喬親王のほうを皇太子につけたいと考えており、これを源信に相談している。
源信は藤原良房をはばかって文徳天皇をいさめたという。

・世継争いに敗れた惟喬親王は御霊として大皇器地祖神社 (おおきみきじそじんじゃ)、筒井神社、玄武神社などに祀られている。
御霊とは、怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいう。
つまり、惟喬親王は怨霊であったということである。

・石清水八幡宮の神主は代々紀氏が世襲していた。
日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていた。
石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないか。

石清水八幡宮 石清水社 
石清水八幡宮 石清水社

このように考えると石清水八幡宮のご神体「天筆如来」は惟喬親王のイメージが重ねられているように思える。

大阪府枚方市・交野市あたりには惟喬親王の伝説が多い。

渚の院は惟喬親王が歌会を開いた場所だったし、交野市から枚方市を流れる天の川のほとりにも惟喬親王一行はやってきている。
惟喬親王の乱㉑  渚の院跡 『惟喬親王の歌会は呪術会だった?』 
惟喬親王の乱㉖ 中山観音寺跡と機物神社 『惟喬親王=小野小町=織姫?』 

まだ記事を書いていないが、枚方市の日置天神社にも惟喬親王の伝説が伝えられている。



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