『今昔物語集』の猿神退治
①猿神伝説
ウィキペディア「猿神」に記されている猿神伝説の記述を要約してまとめてみる。
❶『耀天記(ようてんき)』
漢字の発明者・蒼頡(伝説上の人物)「神の出現前に、釈迦が日本の日吉に猿神として現れ吉凶を示す」と知り、「申(さる)に示す」と意味で漢字の「神」を発明した。
蒼頡は釈迦の前世の姿で、釈迦が日吉に祀られると猿たちは日吉大社に集まった。
❷『日本現報善悪霊異記』
近江国野洲郡(現・滋賀県野洲市) の三上山の僧のもとにサルが現れて、
「自分はインドの王だったが生前の罪でサルに生まれ変わり、この神社の神となった」と語った。
『絵本太閤記』
豊臣秀吉の母が男子を授かるよう日吉神に願ったところ、体内に太陽が入る夢を見て秀吉を身ごもった。
❸妖怪の猿神『今昔物語集』「美作國神依猟師謀止生贄語」
美作国(現・岡山県)の中山の神である大ザルは年に一度、人間たちに女性の生贄を求めていた。
若い猟師が大猿退治をするため、少女の身代りとなってサル退治の訓練をつんだ犬とともに櫃に入って生贄となった。
そこへ身長7,8尺(約2メートル以上)の大猿が100匹ほどの猿を引き連れて現れた。
猟師は櫃から飛び出してサルたちを次々にやっつけた。
一匹残った大猿は宮司につき、「二度と生贄を求めないので許してくれ」といったので、猟師は大猿を逃がした。
❹『藤袋の草子』「室町時代)
近江国(現・滋賀県)の老人が畑を耕しながら「猿でもいいから、仕事を手伝ってくれた者を自分の婿にする」と言った。すると大猿が現れて畑仕事を手伝った。
翌日、大猿は老人の娘を奪って山へ連れて行った。
大猿は娘を藤袋に閉じ込めたが、大猿がその場を離れた隙に、貴族が娘を救いだした。
そして袋に犬を入れた。
戻ってきた大猿は犬に噛み殺された。
❺『太平百物語』(享保)
能登国(現・石川県北部)で、武士が化物屋敷の厠に入ると、何者かが尻を撫でた。
引きずり出して刺殺し正体を確認すると老いた猿だった。
屋敷の裏には猿に食われた人骨が無数にあった。
❻岡山県備前地方や徳島県那賀郡木頭地方
猿に憑かれた人は暴れ出す。その害は犬神より大きい。
⓶猿神と狒々は関係が深い
❸❹の話は以前にお話しした妖怪・狒々の話と類似している。
また❷に豊臣秀吉と日吉神の関係が記されているが、日吉大社の神使は猿である。
そして狒々を退治した岩見重太郎は、豊臣秀吉に仕えていた薄田隼人正兼相のことだといわれる。
役職名に隼人正とあるが、隼人とは古に九州南部に住んでいた民で、都に強制移住させられ、宮中の警備の仕事をさせられていた。
隼人たちは犬の鳴きまねをして警備をしていた。
そこから岩見重太郎=薄田隼人正兼相=隼人=犬
と発想されたと考えられる。
秀吉は容貌も猿に似ていたとされるので、犬猿の仲
(「秀吉=猿=狒々」「岩見重太郎=薄田隼人正兼相=犬」)という発想から、岩見重太郎が狒々を退治したという話が創作されたのではないか。
※ただし、物語としての設定であり、秀吉と薄田隼人正兼相が対立していたわけではない。
③猿丸大夫
猿の神については秀吉以外にも思い当たる人物がいる。猿丸大夫である。
猿丸大夫は生没年は不明だが、古今和歌集や百人一首に
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき
という歌が掲載されている。
(ただし古今和歌集では「よみびとしらず」となっている。)
京都・宇治田原にこの猿丸大夫を祀る猿丸神社がある。
猿丸大夫は神なのである。
猿丸神社
④猿丸大夫の正体は志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?
猿丸大夫は公的史料の名前がないため、本名ではないとする説がある。
梅原猛さんは「猿丸大夫=柿本猨=柿本人麿説」を唱えておられるが、
私は猿丸大夫とは志貴皇子、弓削浄人、道鏡の三人の総称ではないかと考えている。
❶猿丸神社には三番叟を舞う姿をした猿の像がある。
猿丸神社
また京都・日吉神社、京都御所の猿が辻などの猿像も三番叟の姿をしている。
どうやら、猿と三番叟は関係が深そうである。
※三番叟とは猿楽(猿楽は明治以降能と呼ばれるようになった。)・翁において、黒い翁面をつけて舞うもののことである。
八坂神社 翁 三番叟
京都・新日吉神宮
❷奈良豆比古神社では猿楽「翁」とほぼ同じ内容の「翁舞」が奉納されている。
ただし、猿楽の「翁」は一人なのにたいし、「翁舞」の翁は三人である。
❸奈良豆比古神社の「翁舞」は同神社に伝わる次のような伝説に基づくものである。
壬申の乱で志貴皇子は異母兄弟・大友皇子側についたが、大友皇子は敗れて大海人皇子が天皇になった。(壬申の乱)
そのため乱後の志貴皇子は不遇だった。
その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があって、この兄弟が熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
奈良豆比古神社「翁舞」
❹地元ではハンセン病を患ったのは春日王ではなく志貴皇子だという、もう一つの伝説と伝えられている。
志貴皇子は別名を春日宮天皇、田原天皇という。(追尊であり、実際に好意についていたわけではない。)
春日王は別名を田原太子ともいう。
志貴皇子と春日王は親子で全く同じ名前で呼ばれていたことになる。
志貴皇子・・・・・春日宮天皇・・・田原天皇
志貴皇子の子・・・春日王・・・・・田原太子
このようなケースはないと思う。志貴皇子と春日王は同一人物ではないか。
❺道鏡は志貴皇子の子とする史料がある。(『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』)
そして伝説では「浄人王に『弓削首夙人』の名と位を与えて」とある。
夙とは中世、畿内に住んでいたとされる賎民のことである。
つまり浄人王は皇族の身分から賎民=非人の身分にされ、名前は弓削浄人となったということだろう。
弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
少なくとも、奈良豆比古神社付近に住む人々は、志貴皇子、道鏡、弓削浄人は親子であると考えていたということだと思う。
❻志貴皇子の薨去年は正史では716年だが、万葉集詞書では715年となっている。
そのため、志貴皇子は715年に暗殺されたが、その死が1年ちかく隠されていたとする説がある。
また、笠金村がよんだ次の歌は、志貴皇子の死が隠されていることを想起させる。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)
志貴皇子邸宅跡と伝わる白毫寺には萩がたくさんうえられている。
❼奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき/猿丸大夫
猿丸神社
この歌は楓の紅葉を歌った歌ではない。
古今和歌集は隣あった和歌は同じ語句が用いられている。
214. 山里は 秋こそことに わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/読み人知らず
216 秋はぎに うらびれをれば あしひきの 山したとよみ 鹿のなくらむ/読み人知らず
214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっている。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じだ。
しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「紅葉」と「秋はぎ」でつながっているとみられている。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、萩の黄葉だということになる。
『定家八代抄』では次のような順番で歌が掲載されている。
a.下もみぢ かつ散る山の 夕時雨 濡れてや鹿の 独り鳴くらん
b.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
c.秋萩に うらびれ居れば あしびきの 山下とよみ 鹿の鳴くらん
こちらも古今和歌集と同じように語句で歌と歌がつながっているようである。
(番号もつけられているのかもしれないが、わからないので、仮にabcとしておく。)
「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思える。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく)
❽道鏡を寵愛していた称徳天皇が崩御すると、道鏡は流罪となった。
道鏡の流罪先の下野には二荒山神社があり、かつて猿丸社とも呼ばれており、二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。
二荒山神社
二荒山神社の隣には日光東照宮があるが、そこには有名な三猿のレリーフがある。
日光東照宮
❾道鏡が流罪になったとき、道鏡の弟の弓削浄人は土佐に流罪になった。
高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、次のように記されている。
佐川町指定文化財 猿丸太夫伝説の墓
元従二位大納言弓削浄人(猿丸太夫)は、位人臣を極めた兄弓削道鏡の失脚により、土佐の地に流され、ここ猿丸山に居住したといわれている。
佐川における猿丸太夫(弓削浄人)の墓の伝説は、彼の流罪の年、宝亀元年(770)から数えて千二百年余りを経ていて奈良朝時代から夢の跡が長く伝わっているのは他にない。
平成四年三月一日建立
高知県文化財保存事業
佐川町教育委員会
❿猿丸神社境内には「猿丸太夫故址」としるされた石柱があり、猿丸神社からそう離れていない場所に大宮神社があり、その境内に「田原天皇社舊(旧)跡」がある。
田原天皇とは志貴皇子のことである。
宇治田原は志貴皇子と関係の深い土地であり、宇治田原に志貴皇子の陵墓があったとも伝えられている。
猿丸神社
田原天皇社舊(旧)跡
③猿神=道鏡は称徳天皇と男女の仲だった。ゆえに猿神=女好き?
❸の美作国(現・岡山県)中山の神の大ザルは年に一度、人間たちに女性の生贄を求めていた。
❹の近江国の猿は老人の娘をさらったが、最後は犬に書き殺されている。
犬の早太郎が狒々を退治したという伝説があり、やはり猿神と狒々はかなり伝説がかぶっているようである。
女好きという点でも、猿神と狒々は共通している。
さて、猿神はなぜ女好きだと考えられたのだろうか。
その理由はいくつか考えられる。
猿神とは志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称だと私は考えているのだが
このうちの道鏡は、一般に称徳天皇(女帝)の寵愛を受けていたと考えられている。
井沢元彦さんは「逆説の日本史」の中で、道鏡と称徳天皇は男女の仲ではなかったとしておられる。
図書館で借りて読んだので、今手元に本がないが、
当事は鑑真が戒律を持ち込んだばかりであり、称徳天皇も戒律を受けている。
また道鏡は法王という身分であり、そのような身分の人が戒律をおかすはずがない。
寵愛を受けていたとするのは、藤原氏が流したデマだ、というような内容であったと思う。
私はこの説を支持しているが、それはひとまずおいておく。
猿神=志貴皇子・道鏡・弓削浄人
その中の一柱である道鏡は、称徳天皇と男女の仲だった。
∴ 猿神=女好き
このような連想から、猿神は女好きとされたのかもしれない。
④男女和合は荒神(男神)を鎮める呪術?
もうひとつ考えられることは、男女和合は荒神(男神)を鎮める呪術だったのではないか、ということだ。
神はその現れ方によって3つに分けられるといわれる。
御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面
そして、男神は荒魂を、女神は和魂を表すといわれる。
とすれば御霊は男女双体の神と言うことになると思う。
御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神
大聖歓喜天(聖天)は象頭をした男女双体の神で、次のような伝説がある。
人々に祟りをもたらしていたビナヤキャは十一面観音の化身であるビナヤキャ女神に一目ぼれし、ビナヤキャ女神に結婚を申し込んだ。
ビナヤキャ女神は「仏法守護を誓うならあなたと結婚しましょう」といった。
ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神と結ばれた。
歓喜天
大聖歓喜天の、足を踏みつけているほうがビナヤキャ女神、足を踏まれているほうがビナヤキャとされる。
この説話は御霊、和魂、荒魂の性質をうまく表していると思う。
すなわち、男神である荒魂は、女神である和魂に足をふみつけられて、動けない状態にされている。
これが「神の結婚」の意味なのだと思う。
つまり猿神が女好きということは、猿神(猿丸大夫)はそれだけ祟る神だったということである。
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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑲田原祭は春日若宮おん祭に似ていた。※追記あり よりつづきます~
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猿丸神社①「もみぢ」は楓ではなく萩の黄葉だった。長い旅を経て、私は再び猿丸神社にやってきた。
境内の入り口には鮮やかに色づいた楓の根元に石碑があり、有名な猿丸大夫の歌が刻まれている。
「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき」
たぶん、この歌にぴったりだということで、石碑の横に楓を植えたのではないかと思う。
しかし、実はこの歌は楓の紅葉を歌った歌ではないのだ。
古今和歌集は隣あった和歌は同じ語句が用いられている。
1.年の内に 春は来にけり ひととせを こぞとや言はむ 今年とや言はむ/在原元方
2. 袖ひちて むすびし水の こぼれるを 春立つ今日の 風やとくらむ/紀貫之
3.春霞 立てるや いづこ み吉野の 吉野の山に 雪は降りつつ/よみ人知らず
4.雪の内に 春はきにけり うぐひすの こほれる涙 今やとくらむ/二条后1番の「春は来にけり(春は立春のこと。陰暦では1月2月3月が春だった)は、2番の「春立つ(立春)」につながる。
2番の「春立つ」は3番の「春霞」の春と「立てる」につながる。
3番の「春霞」は4番の「春はきにけり」の春に、「雪はふりつつ」の雪は「雪の内に」の雪につながる。
5.梅が枝に きゐるうぐひす 春かけて 鳴けども今だ 雪は降りつつ/よみ人知らず
6.春たてば 花とや見らむ 白雪の かかれる枝に うぐひすの鳴く/素性法師4番の「うぐひす」「雪」と同じ語句が5番の歌にもある。
5番に「梅が枝」とあるので、6番の「花」は「梅の花」を意味しています。
また5番と6番はどちらにも「枝」「うぐひす」「雪」「鳴く(鳴けども)」という同じ語句があって、繋がっています。
それでは古今和歌集にある「奥山に」の歌は前後の歌とどのようにつながっているのかをみてみましょう。
秋上
214. 山里は 秋こそことに わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/読み人知らず
216 秋はぎに うらびれをれば あしひきの 山したとよみ 鹿のなくらむ/読み人知らず214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっている。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じだ。
しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「紅葉」と「秋はぎ」でつながっているとみられている。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、萩の黄葉だということになる。
また『定家八代抄』では次のような順番で歌が掲載されている。
a.下もみぢ かつ散る山の 夕時雨 濡れてや鹿の 独り鳴くらん
b.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
c.秋萩に うらびれ居れば あしびきの 山下とよみ 鹿の鳴くらんこちらも古今和歌集と同じように語句で歌と歌がつながっているようである。
(番号もつけられているのかもしれないが、わからないので、仮にabcとしておく。)
こちらでもやはりbの歌の「もみぢ」とcの歌の「秋萩」が対応しており、もみぢとは萩の黄葉ということになる。
⓶猿丸大夫と志貴皇子の死を悼んだ挽歌は対応している?
「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思える。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく)
奈良大文字送り火は高円山に点火される。③藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首を志貴皇子作として鑑賞すると・・・古今和歌集では「奥山に」の歌は詠み人しらずとなっているが、百人一首では猿丸太夫が詠んだことになっている。
平安中期の藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首も、猿丸太夫=志貴皇子と考えればぴったりくるように思える。
●をちこちの たつきもしらぬ 山中に おぼつかなくも 呼子鳥かな
(遠くも近くも見当もつかない山中にたよりなく呼子鳥が鳴いているよ)
これは高円山に葬られた志貴皇子の霊が詠んだ歌のように思える。
●ひたぐらしの 鳴きつるなへに 日は暮れぬと 見しは山のかげにざりける
(ひぐらしが鳴き始めて日が暮れたと思ったのは勘違いで、本当は山の影に入っていたのだった)
こちらは志貴皇子の霊が、自らの死を読んだ歌のように思える。
※暗くなったので夜になったと思っていたが、私は高円山に葬られていたのだった?
●奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
(深い山の中で 紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くと秋が悲しく思えてくる。)※私が葬られた高円山の萩の黄葉を踏み分けて鹿が鳴いているのを聞くと、わが身があわれに思えてくることだ?
春日宮天皇(志貴皇子)陵へ向かう長い参道
春日宮天皇(志貴皇子)陵
④天智天皇が詠むのにふさわしい歌なので天智天皇御製とした
死んだ志貴皇子の霊が和歌を詠んだりできるはずがない、といわれそうなので、それについて説明しておこうと思う。
古には著作権という考え方は存在していなかった。
そこで、Aという人が詠んだとするのにふさわしいと考えられる歌の作者をAとする、というようなケースがあった。
秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)
この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されている。
万葉集には
秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける
という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられている。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。
詳しくはこちらの記事をお読みください。近江神宮 かるた祭 かるた開きの儀 『秋の田の・・・は埋葬されないわが身を嘆く歌だった?』
猿丸神社には瘤のある木がたくさん奉納されていた。
⑤猿丸神社はなぜ瘤取りの神として信仰されているのか?
猿丸神社は瘤取りの神として信仰されており、瘤のある樹木の枝がたくさん奉納されていた。
なぜ猿丸神社は瘤取りの神として信仰されているのだろうか。
奈良豆比古神社には、春日王または志貴皇子がハンセン病にかかったという伝説があるのだった。
そしてハンセン病になると結節 と呼ばれる瘤ができることがあるということである。
また瘤は音が鼓舞に通じるが、鼓舞のもともとの意味は「鼓を打って舞を舞う」ことである。
そこから転じて「大いに励まし気持ちを奮いたたせること」を鼓舞というようになったようだ。
奈良豆比古神社 翁舞 三番叟
鼓を打って舞を舞うというのは、まさしく猿楽(能)のことである。
そしてその猿楽のルーツともいうべき翁舞は、弓削浄人または志貴皇子がハンセン病治癒を願って行ったものだった。
⑥うそぶきは志貴皇子?
奈良豆比古神社には古い能面が数多く展示されており、その中に額右に瘤のあるうそぶきの面もあった。

奈良豆比古神社の伝説では、志貴皇子の子・春日王または志貴皇子がハンセン病を患ったという。
つまり奈良豆比古神社の神はハンセン病の神なのだ。
そしてハンセン病では鼓舞(結節)ができることもあるという。
奈良豆比古神社の神=ハンセン病の神=瘤(結節)の神=鼓舞の神=うそぶき
このうそぶきは志貴皇子の神の姿をあらわしたもののように思える。
⑦猿丸大夫は志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?
猿丸神社には狛犬ならぬ狛猿が置かれているが、その狛猿は猿楽のルーツかもしれない翁舞の三番叟の姿をしている。
鈴の代わりに御幣を持っているが、細長い烏帽子など同じである。
この猿丸神社の狛猿は猿丸大夫そのものの姿であると私は思う。
各地の神社に猿の像があるが、それらの猿の像は翁舞の三番叟の姿をしているものが多い。
新日吉神社 御神猿
高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、猿丸大夫とは道鏡の弟の弓削浄人のことだと伝えられている。
道鏡は称徳天皇が次期天皇にしたいと考えていた人物だったが、称徳天皇が急死したことによって失脚し、下野に流罪になった。
このとき道鏡の弟の弓削浄人は土佐に流罪となったのだ。
そして道鏡が流罪になった下野には二荒山神社があるが、かつて猿丸社とも呼ばれており、二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。
二荒山神社の隣には日光東照宮があるが、そこには有名な三猿のレリーフがある。

また猿丸大夫とは道鏡のことであるとする説もある。
私はこの三猿のレリーフをみて、これは三人翁の姿であり、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の姿でもあるのではないかと思った。
『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されている。
とすれば、道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高い。
また奈良豆比古神社の伝説によれば、弓削浄人(浄人王)の父親は志貴皇子の子の春日王となっているが
志貴皇子の別名は春日宮天皇・田原天皇、春日王の別名は田原太子で同じ名前なので、志貴皇子と春日王は同一人物ではないかと思う。)
猿丸神社境内には「猿丸太夫故址」としるされた石柱があった。
そしてここからそう離れていない場所に大宮神社があり、その境内に「田原天皇社舊(旧)跡」がある。
田原天皇とは志貴皇子のことだ。
宇治田原は志貴皇子と関係の深い土地であり、宇治田原に志貴皇子の陵墓があったとも伝えられている。
⑧宇治田原と春日宮天皇田原陵の近くに茶畑があるのは偶然か?

↑ 春日宮天皇田原陵近くの茶畑

↑ 宇治田原の茶畑

↑ これは猿丸神社境内だが、大きな茶壺のようなものが置いてあり、猿丸大夫と茶には何か関係がありそうに思える。
どういう意味があるのか、まだ考えはまとまっていない。
しかし猿丸大夫の正体についての輪郭はかなり浮かび上がってきたように思える。
「とうとうたらりたらりろ」
そう謡いながら猿丸大夫は黒式尉は舞いつづけている。
私にはそう思えてならない。
end.
ながながとおつきあいくださり、ありがとうございました♪
また旅の中でお会いしましょう~。
写真ぶろぐ 心の旅
考えるぶろぐ 調べてみた。考えてみた。 もよろしくおねがいします。
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫①近江神宮 かるた祭1月10日、午前8時ごろ、私と友人K子は近江神宮に到着した。
車のドアをあげて外に出ると吐く息が白い。
急いでコートを着込み、マフラーを巻く。底冷えするような寒さだ。
向こうから若い神職さんが歩いてこられたので、声をかけた。
「おはようございます。あのう、今日のかるた祭はどこで行われますか?」
「神楽殿で行われます。どうぞ、ご案内しますので。」
神職さんは神楽殿まで案内してくださり、扉の鍵をあけて私とK子を中に入れてくださった。
「今日は寒いですから中でお待ちになってください。始まるまでにまだ1時間ほどもありますから。」
そう言いながらファンヒーターのスイッチも入れてくださったので、私たちは温かい部屋でかるた祭が始まるのを待つことができた。
(ありがとうございました!)
「近江神宮の御祭神は天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ)ゆうねん。」
こう私はK子に話しかけた。
「天命開別大神?聞いたことないなあ?」
「天智天皇ことや。天智天皇の神名が天命開別大神やねん」
「あ、そうなんや。」
「鎌倉時代に藤原定家が選集した小倉百人一首には百首の歌にそれぞれ1~100までの番号が振られてる。」
「1番は天智天皇の
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ やったね。」
「そう、近江神宮でかるた祭をやってるのは、天智天皇の歌が百人一首の1番歌やからなんやて。」
ファンヒーターの熱風に手をかざしながら、そんな話をしているうちに、ひとり、またひとりと人がやってきた。
15~6人の人が集まったところで、かるた祭は始まった。
采女装束のかるた姫たちが登場し、スローモーションのようにゆっくりと、優雅に腕を伸ばして札をとっていく。
私は元旦にK子と百人一首かるたをしたときのことを思い出していた。
K子は百人一首が得意で、上の句の5文字が読み上げられただけで、鋭く札を跳ね飛ばしていた。
近江神宮のかるた姫の優雅さはK子とはえらい違いだ(笑)。
②埋葬されないわが身を嘆く歌帰路、車の中でK子はこう話しかけてきた。
「なあ、悠太。知ってる?
万葉集に天智天皇の歌は4首あるねんけど、
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ
という歌は万葉集にはないねん。」
「えっ、そうなん?」
「この歌は958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されてるねん。
万葉集には似たような歌はあるけど。
秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける
作者は読人知らずやけどね。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ
は
秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける
を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌じゃないけど、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられてるんやって。」
K子は百人一首かるたが得意なだけでなく、こういったうんちくも詳しいんだなと私は感心した。
「なあ、K子。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ
いう歌は、なんで天智天皇の心を表す歌であると考えられたんやろう?」
「この歌はどう考えても農民の歌やん。天智天皇は身分の高い天皇なんやけど、貧しい農民の気持ちになって歌を詠んだ。
そのくらい天智天皇は思いやりのある人だったということとちがう?」
「うーん?」
「悠太はどう思う?」
「後撰和歌集の撰者たちはこの歌を『死んだ天智天皇の霊が、埋葬されないわが身を嘆く歌』やと考えたんとちゃうかなあ?」
「えっ?」
赤信号で止まり、K子の顔を覗き込む。K子は目を丸くしてきょとんとした顔をしている。
信号が青に変わり、私はアクセルを踏み込みながら話を続けた。
「672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。」
「天智天皇の皇子の大友皇子と、天智天皇の同母弟の大海人皇子が皇位をめぐって争ったんやったっけ。」
「そう、で壬申の乱がおこったので、天智天皇の遺体を埋葬する余裕がなかった。
天智天皇の遺体は長い間放置されていたと考えられてる。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年なんや。」
「28年も? それじゃあほとんど天智天皇の遺体は白骨化してたのかも。」
「古事記にこんな記述があるねん。
大国主神が国譲りして、八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠れたと。
これは大国主神が風葬された様子を記したもので、古には柴を沢山立てた中に死体を葬る風葬の習慣があったと考えられてる。
また万葉集にこんな長歌がある。
荒磯面に いほりてみれば 波の音の 繁き浜辺を しきたえの 枕になして 荒床に 自伏す君が・・・・」
「ああ、柿本人麻呂や。
荒磯の上に仮小屋を作って見やると、波の音が頻繁に聞こえる浜辺を枕として荒々しい岩の床に伏している人がいる・・・」
「荒床とは、風葬するときに死体の下に敷くむしろのことなんやって。
すると『荒磯の上につくったいほり(仮小屋)』は風葬するときに死体を安置する小屋のことなんとちゃうかなあ。
天智天皇の時代、天皇は一定期間、殯宮に安置されるのが一般的やった。
でも壬申の乱がおこったんで、天智天皇のために殯宮さえ作られなかったのかも。」
「天智天皇の遺体は風葬された?」
「つまり
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ
この歌の『かりほの庵』とは風葬するときに死体を安置する粗末な建物で、あまりに粗末であるため雨漏りがして遺体がぐっしょりと濡れている。
それを死んだ天智天皇の霊が嘆いている歌であると後撰集の撰者たちは考えたんとちゃうやろか。」
「なる、壬申の乱では、大海人皇子が勝利して即位し(天武天皇)、追い詰められた大友皇子は自害して果てた。
そのため大友皇子の父・天智天皇は反逆者の父であるとして長年埋葬されることもなく、放置されていたのかも。」
車窓から外を眺めるとちらちらと白い雪が降り始めていた。
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑭ とうとうたらりたらりろ は志貴皇子のテーマソングだった? へ続きます~
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