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トンデモもののけ辞典⑫ 猿神 


猿神

『今昔物語集』の猿神退治

①猿神伝説

ウィキペディア「猿神」に記されている猿神伝説の記述を要約してまとめてみる。

❶『耀天記(ようてんき)』
漢字の発明者・蒼頡(伝説上の人物)「神の出現前に、釈迦が日本の日吉に猿神として現れ吉凶を示す」と知り、「申(さる)に示す」と意味で漢字の「神」を発明した。
蒼頡は釈迦の前世の姿で、釈迦が日吉に祀られると猿たちは日吉大社に集まった。

❷『日本現報善悪霊異記』
近江国野洲郡(現・滋賀県野洲市) の三上山の僧のもとにサルが現れて、
「自分はインドの王だったが生前の罪でサルに生まれ変わり、この神社の神となった」と語った。
『絵本太閤記』
豊臣秀吉の母が男子を授かるよう日吉神に願ったところ、体内に太陽が入る夢を見て秀吉を身ごもった。

❸妖怪の猿神『今昔物語集』「美作國神依猟師謀止生贄語」
美作国(現・岡山県)の中山の神である大ザルは年に一度、人間たちに女性の生贄を求めていた。
若い猟師が大猿退治をするため、少女の身代りとなってサル退治の訓練をつんだ犬とともに櫃に入って生贄となった。
そこへ身長7,8尺(約2メートル以上)の大猿が100匹ほどの猿を引き連れて現れた。
猟師は櫃から飛び出してサルたちを次々にやっつけた。
一匹残った大猿は宮司につき、「二度と生贄を求めないので許してくれ」といったので、猟師は大猿を逃がした。

❹『藤袋の草子』「室町時代)
近江国(現・滋賀県)の老人が畑を耕しながら「猿でもいいから、仕事を手伝ってくれた者を自分の婿にする」と言った。すると大猿が現れて畑仕事を手伝った。
翌日、大猿は老人の娘を奪って山へ連れて行った。
大猿は娘を藤袋に閉じ込めたが、大猿がその場を離れた隙に、貴族が娘を救いだした。
そして袋に犬を入れた。
戻ってきた大猿は犬に噛み殺された。

❺『太平百物語』(享保)
能登国(現・石川県北部)で、武士が化物屋敷の厠に入ると、何者かが尻を撫でた。
引きずり出して刺殺し正体を確認すると老いた猿だった。
屋敷の裏には猿に食われた人骨が無数にあった。

❻岡山県備前地方や徳島県那賀郡木頭地方
猿に憑かれた人は暴れ出す。その害は犬神より大きい。

⓶猿神と狒々は関係が深い

❸❹の話は以前にお話しした妖怪・狒々の話と類似している。

また❷に豊臣秀吉と日吉神の関係が記されているが、日吉大社の神使は猿である。

そして狒々を退治した岩見重太郎は、豊臣秀吉に仕えていた薄田隼人正兼相のことだといわれる。
役職名に隼人正とあるが、隼人とは古に九州南部に住んでいた民で、都に強制移住させられ、宮中の警備の仕事をさせられていた。
隼人たちは犬の鳴きまねをして警備をしていた。
そこから岩見重太郎=薄田隼人正兼相=隼人=犬
と発想されたと考えられる。

秀吉は容貌も猿に似ていたとされるので、犬猿の仲
(「秀吉=猿=狒々」「岩見重太郎=薄田隼人正兼相=犬」)という発想から、岩見重太郎が狒々を退治したという話が創作されたのではないか。
※ただし、物語としての設定であり、秀吉と薄田隼人正兼相が対立していたわけではない。

③猿丸大夫

猿の神については秀吉以外にも思い当たる人物がいる。猿丸大夫である。

猿丸大夫は生没年は不明だが、古今和歌集や百人一首に
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき
という歌が掲載されている。
(ただし古今和歌集では「よみびとしらず」となっている。)

京都・宇治田原にこの猿丸大夫を祀る猿丸神社がある。
猿丸大夫は神なのである。

猿丸神社 

猿丸神社

④猿丸大夫の正体は志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?

猿丸大夫は公的史料の名前がないため、本名ではないとする説がある。
梅原猛さんは「猿丸大夫=柿本猨=柿本人麿説」を唱えておられるが、
私は猿丸大夫とは志貴皇子、弓削浄人、道鏡の三人の総称ではないかと考えている。

これについては20回シリーズ 「謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?」に詳しく書いたので、ここではできるだけ簡潔にその理由をまとめてみたいと思う。

❶猿丸神社には三番叟を舞う姿をした猿の像がある。

猿丸神社 狛猿

猿丸神社

また京都・日吉神社、京都御所の猿が辻などの猿像も三番叟の姿をしている。
どうやら、猿と三番叟は関係が深そうである。
※三番叟とは猿楽(猿楽は明治以降能と呼ばれるようになった。)・翁において、黒い翁面をつけて舞うもののことである。

おきな 三番叟

八坂神社 翁 三番叟

日吉大社猿

京都・新日吉神宮

❷奈良豆比古神社では猿楽「翁」とほぼ同じ内容の「翁舞」が奉納されている。
ただし、猿楽の「翁」は一人なのにたいし、「翁舞」の翁は三人である。

❸奈良豆比古神社の「翁舞」は同神社に伝わる次のような伝説に基づくものである。

壬申の乱で志貴皇子は異母兄弟・大友皇子側についたが、大友皇子は敗れて大海人皇子が天皇になった。(壬申の乱)
そのため乱後の志貴皇子は不遇だった。
その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があって、この兄弟が熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。

奈良豆比古神社 三人翁

奈良豆比古神社「翁舞」

❹地元ではハンセン病を患ったのは春日王ではなく志貴皇子だという、もう一つの伝説と伝えられている。
志貴皇子は別名を春日宮天皇、田原天皇という。(追尊であり、実際に好意についていたわけではない。)
春日王は別名を田原太子ともいう。
志貴皇子と春日王は親子で全く同じ名前で呼ばれていたことになる。

志貴皇子・・・・・春日宮天皇・・・田原天皇
志貴皇子の子・・・春日王・・・・・田原太子

このようなケースはないと思う。志貴皇子と春日王は同一人物ではないか。

❺道鏡は志貴皇子の子とする史料がある。(『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』)
そして伝説では「浄人王に『弓削首夙人』の名と位を与えて」とある。
夙とは中世、畿内に住んでいたとされる賎民のことである。
つまり浄人王は皇族の身分から賎民=非人の身分にされ、名前は弓削浄人となったということだろう。
弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
少なくとも、奈良豆比古神社付近に住む人々は、志貴皇子、道鏡、弓削浄人は親子であると考えていたということだと思う。

❻志貴皇子の薨去年は正史では716年だが、万葉集詞書では715年となっている。
そのため、志貴皇子は715年に暗殺されたが、その死が1年ちかく隠されていたとする説がある。
また、笠金村がよんだ次の歌は、志貴皇子の死が隠されていることを想起させる。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)

白毫寺

志貴皇子邸宅跡と伝わる白毫寺には萩がたくさんうえられている。

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき/猿丸大夫

猿丸神社

猿丸神社

この歌は楓の紅葉を歌った歌ではない。

古今和歌集は隣あった和歌は同じ語句が用いられている。

214. 山里は 秋こそことに  わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/読み人知らず
216 秋はぎに うらびれをれば  あしひきの 山したとよみ 鹿のなくらむ/読み人知らず

214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっている。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じだ。
しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「紅葉」と「秋はぎ」でつながっているとみられている。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、萩の黄葉だということになる。

『定家八代抄』では次のような順番で歌が掲載されている。
a.下もみぢ かつ散る山の 夕時雨 濡れてや鹿の 独り鳴くらん
b.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
c.秋萩に うらびれ居れば あしびきの 山下とよみ 鹿の鳴くらん

こちらも古今和歌集と同じように語句で歌と歌がつながっているようである。
(番号もつけられているのかもしれないが、わからないので、仮にabcとしておく。)

「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思える。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく)

❽道鏡を寵愛していた称徳天皇が崩御すると、道鏡は流罪となった。
道鏡の流罪先の下野には二荒山神社があり、かつて猿丸社とも呼ばれており、二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。

二荒山神社

二荒山神社

二荒山神社の隣には日光東照宮があるが、そこには有名な三猿のレリーフがある。

日光東照宮 三猿

日光東照宮

❾道鏡が流罪になったとき、道鏡の弟の弓削浄人は土佐に流罪になった。
高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、次のように記されている。

佐川町指定文化財 猿丸太夫伝説の墓
元従二位大納言弓削浄人(猿丸太夫)は、位人臣を極めた兄弓削道鏡の失脚により、土佐の地に流され、ここ猿丸山に居住したといわれている。
佐川における猿丸太夫(弓削浄人)の墓の伝説は、彼の流罪の年、宝亀元年(770)から数えて千二百年余りを経ていて奈良朝時代から夢の跡が長く伝わっているのは他にない。

平成四年三月一日建立
高知県文化財保存事業
佐川町教育委員会

❿猿丸神社境内には「猿丸太夫故址」としるされた石柱があり、猿丸神社からそう離れていない場所に大宮神社があり、その境内に「田原天皇社舊(旧)跡」がある。
田原天皇とは志貴皇子のことである。
宇治田原は志貴皇子と関係の深い土地であり、宇治田原に志貴皇子の陵墓があったとも伝えられている。

猿丸神社 境内

猿丸神社

田原天皇旧跡2

田原天皇社舊(旧)跡

③猿神=道鏡は称徳天皇と男女の仲だった。ゆえに猿神=女好き?

❸の美作国(現・岡山県)中山の神の大ザルは年に一度、人間たちに女性の生贄を求めていた。
❹の近江国の猿は老人の娘をさらったが、最後は犬に書き殺されている。

犬の早太郎が狒々を退治したという伝説があり、やはり猿神と狒々はかなり伝説がかぶっているようである。
女好きという点でも、猿神と狒々は共通している。

さて、猿神はなぜ女好きだと考えられたのだろうか。
その理由はいくつか考えられる。

猿神とは志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称だと私は考えているのだが
このうちの道鏡は、一般に称徳天皇(女帝)の寵愛を受けていたと考えられている。

井沢元彦さんは「逆説の日本史」の中で、道鏡と称徳天皇は男女の仲ではなかったとしておられる。
図書館で借りて読んだので、今手元に本がないが、
当事は鑑真が戒律を持ち込んだばかりであり、称徳天皇も戒律を受けている。
また道鏡は法王という身分であり、そのような身分の人が戒律をおかすはずがない。
寵愛を受けていたとするのは、藤原氏が流したデマだ、というような内容であったと思う。

私はこの説を支持しているが、それはひとまずおいておく。

猿神=志貴皇子・道鏡・弓削浄人
その中の一柱である道鏡は、称徳天皇と男女の仲だった。
∴ 猿神=女好き

このような連想から、猿神は女好きとされたのかもしれない。

④男女和合は荒神(男神)を鎮める呪術?

もうひとつ考えられることは、男女和合は荒神(男神)を鎮める呪術だったのではないか、ということだ。

神はその現れ方によって3つに分けられるといわれる。

御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面

そして、男神は荒魂を、女神は和魂を表すといわれる。
とすれば御霊は男女双体の神と言うことになると思う。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神

大聖歓喜天(聖天)は象頭をした男女双体の神で、次のような伝説がある。
人々に祟りをもたらしていたビナヤキャは十一面観音の化身であるビナヤキャ女神に一目ぼれし、ビナヤキャ女神に結婚を申し込んだ。
ビナヤキャ女神は「仏法守護を誓うならあなたと結婚しましょう」といった。
ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神と結ばれた。

歓喜天

歓喜天

大聖歓喜天の、足を踏みつけているほうがビナヤキャ女神、足を踏まれているほうがビナヤキャとされる。

この説話は御霊、和魂、荒魂の性質をうまく表していると思う。
すなわち、男神である荒魂は、女神である和魂に足をふみつけられて、動けない状態にされている。
これが「神の結婚」の意味なのだと思う。

つまり猿神が女好きということは、猿神(猿丸大夫)はそれだけ祟る神だったということである。





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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑳ 最終回 紅葉は楓ではなく萩だった。 

 謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑲田原祭は春日若宮おん祭に似ていた。※追記あり  よりつづきます~
トップページはこちらです→
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫

猿丸神社 

猿丸神社

①「もみぢ」は楓ではなく萩の黄葉だった。

長い旅を経て、私は再び猿丸神社にやってきた。

境内の入り口には鮮やかに色づいた楓の根元に石碑があり、有名な猿丸大夫の歌が刻まれている。

猿丸神社 歌碑

「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき」

たぶん、この歌にぴったりだということで、石碑の横に楓を植えたのではないかと思う。
しかし、実はこの歌は楓の紅葉を歌った歌ではないのだ。


古今和歌集は隣あった和歌は同じ語句が用いられている。

1.年の内に 春は来にけり ひととせを こぞとや言はむ 今年とや言はむ/在原元方
2. 袖ひちて むすびし水の こぼれるを 春立つ今日の 風やとくらむ/紀貫之
3.霞  立てるや いづこ  み吉野の  吉野の山に  は降りつつ/よみ人知らず
4.の内に  はきにけり  うぐひすの  こほれる涙  今やとくらむ/二条后


1番の「春は来にけり(春は立春のこと。陰暦では1月2月3月が春だった)は、2番の「春立つ(立春)」につながる。
2番の「春立つ」は3番の「春霞」の春と「立てる」につながる。
3番の「春霞」は4番の「春はきにけり」の春に、「雪はふりつつ」の雪は「雪の内に」の雪につながる。

5.が枝に  きゐるうぐひす  かけて  鳴けども今だ  は降りつつ/よみ人知らず
6.たてば  とや見らむ  白の  かかれる枝に  うぐひすの鳴く/素性法師


4番の「うぐひす」「雪」と同じ語句が5番の歌にもある。
5番に「梅が枝」とあるので、6番の「花」は「梅の花」を意味しています。
また5番と6番はどちらにも「枝」「うぐひす」「雪」「鳴く(鳴けども)」という同じ語句があって、繋がっています。

それでは古今和歌集にある「奥山に」の歌は前後の歌とどのようにつながっているのかをみてみましょう。

秋上
214.里は こそことに  わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ はかなしき/読み人知らず
216  秋はぎに うらびれをれば  あしひきの 山したとよみ 鹿なくらむ/読み人知らず


214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっている。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じだ。

しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「紅葉」と「秋はぎ」でつながっているとみられている。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、萩の黄葉だということになる。

また『定家八代抄』では次のような順番で歌が掲載されている。

a.下もみぢ かつ散るの 夕時雨 濡れてや鹿の 独り鳴くらん
b.奥に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
c.秋萩に うらびれ居れば あしびきの 下とよみ 鹿鳴くらん


こちらも古今和歌集と同じように語句で歌と歌がつながっているようである。
(番号もつけられているのかもしれないが、わからないので、仮にabcとしておく。)

こちらでもやはりbの歌の「もみぢ」とcの歌の「秋萩」が対応しており、もみぢとは萩の黄葉ということになる。

⓶猿丸大夫と志貴皇子の死を悼んだ挽歌は対応している?

「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思える。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく)


奈良大文字送り火 

奈良大文字送り火は高円山に点火される。

③藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首を志貴皇子作として鑑賞すると・・・

古今和歌集では「奥山に」の歌は詠み人しらずとなっているが、百人一首では猿丸太夫が詠んだことになっている。

平安中期の藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首も、猿丸太夫=志貴皇子と考えればぴったりくるように思える。

●をちこちの たつきもしらぬ 山中に おぼつかなくも 呼子鳥かな
(遠くも近くも見当もつかない山中にたよりなく呼子鳥が鳴いているよ)

これは高円山に葬られた志貴皇子の霊が詠んだ歌のように思える。

●ひたぐらしの 鳴きつるなへに 日は暮れぬと 見しは山のかげにざりける
(ひぐらしが鳴き始めて日が暮れたと思ったのは勘違いで、本当は山の影に入っていたのだった)
こちらは志貴皇子の霊が、自らの死を読んだ歌のように思える。
※暗くなったので夜になったと思っていたが、私は高円山に葬られていたのだった?

●奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
(深い山の中で 紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くと秋が悲しく思えてくる。)

※私が葬られた高円山の萩の黄葉を踏み分けて鹿が鳴いているのを聞くと、わが身があわれに思えてくることだ?

春日宮天皇陵 
春日宮天皇(志貴皇子)陵へ向かう長い参道


春日宮天皇陵2 
春日宮天皇(志貴皇子)陵

④天智天皇が詠むのにふさわしい歌なので天智天皇御製とした

死んだ志貴皇子の霊が和歌を詠んだりできるはずがない、といわれそうなので、それについて説明しておこうと思う。
古には著作権という考え方は存在していなかった。
そこで、Aという人が詠んだとするのにふさわしいと考えられる歌の作者をAとする、というようなケースがあった。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)

この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されている。

万葉集には
秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける
という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられている。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。

詳しくはこちらの記事をお読みください。近江神宮 かるた祭 かるた開きの儀 『秋の田の・・・は埋葬されないわが身を嘆く歌だった?』 

猿丸神社 奉納された瘤のある木 
猿丸神社には瘤のある木がたくさん奉納されていた。

⑤猿丸神社はなぜ瘤取りの神として信仰されているのか?


猿丸神社は瘤取りの神として信仰されており、瘤のある樹木の枝がたくさん奉納されていた。
なぜ猿丸神社は瘤取りの神として信仰されているのだろうか。

奈良豆比古神社には、春日王または志貴皇子がハンセン病にかかったという伝説があるのだった。
そしてハンセン病になると結節 と呼ばれる瘤ができることがあるということである。

また瘤は音が鼓舞に通じるが、鼓舞のもともとの意味は「鼓を打って舞を舞う」ことである。
そこから転じて「大いに励まし気持ちを奮いたたせること」を鼓舞というようになったようだ。

奈良豆比古神社 三番叟 

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟

鼓を打って舞を舞うというのは、まさしく猿楽(能)のことである。
そしてその猿楽のルーツともいうべき翁舞は、弓削浄人または志貴皇子がハンセン病治癒を願って行ったものだった。

うそぶきは志貴皇子?

奈良豆比古神社には古い能面が数多く展示されており、その中に額右に瘤のあるうそぶきの面もあった。

奈良豆比古神社 うそぶきの面

奈良豆比古神社の伝説では、志貴皇子の子・春日王または志貴皇子がハンセン病を患ったという。
つまり奈良豆比古神社の神はハンセン病の神なのだ。
そしてハンセン病では鼓舞(結節)ができることもあるという。

奈良豆比古神社の神=ハンセン病の神=瘤(結節)の神=鼓舞の神=うそぶき

このうそぶきは志貴皇子の神の姿をあらわしたもののように思える。

⑦猿丸大夫は志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?

猿丸神社には狛犬ならぬ狛猿が置かれているが、その狛猿は猿楽のルーツかもしれない翁舞の三番叟の姿をしている。
鈴の代わりに御幣を持っているが、細長い烏帽子など同じである。

猿丸神社 狛猿

この猿丸神社の狛猿は猿丸大夫そのものの姿であると私は思う。

各地の神社に猿の像があるが、それらの猿の像は翁舞の三番叟の姿をしているものが多い。

新日吉神社 猿のレリーフ 

新日吉神社 御神猿

高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、猿丸大夫とは道鏡の弟の弓削浄人のことだと伝えられている。

道鏡は称徳天皇が次期天皇にしたいと考えていた人物だったが、称徳天皇が急死したことによって失脚し、下野に流罪になった。
このとき道鏡の弟の弓削浄人は土佐に流罪となったのだ。

そして道鏡が流罪になった下野には二荒山神社があるが、かつて猿丸社とも呼ばれており、二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。

二荒山神社の隣には日光東照宮があるが、そこには有名な三猿のレリーフがある。

日光東照宮 三猿

また猿丸大夫とは道鏡のことであるとする説もある。
私はこの三猿のレリーフをみて、これは三人翁の姿であり、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の姿でもあるのではないかと思った。

『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されている。
とすれば、道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高い。

また奈良豆比古神社の伝説によれば、弓削浄人(浄人王)の父親は志貴皇子の子の春日王となっているが
貴皇子の別名は春日宮天皇・田原天皇、春日王の別名は田原太子で同じ名前なので、志貴皇子と春日王は同一人物ではないかと思う。)

猿丸神社 境内 
猿丸神社境内には「猿丸太夫故址」としるされた石柱があった。


そしてここからそう離れていない場所に大宮神社があり、その境内に「田原天皇社舊(旧)跡」がある。

田原天皇旧跡2 
田原天皇とは志貴皇子のことだ。
宇治田原は志貴皇子と関係の深い土地であり、宇治田原に志貴皇子の陵墓があったとも伝えられている。

⑧宇治田原と春日宮天皇田原陵の近くに茶畑があるのは偶然か?

春日宮天皇陵付近の茶畑

↑ 春日宮天皇田原陵近くの茶畑

宇治田原 茶畑

↑ 宇治田原の茶畑

猿丸神社 境内


↑ これは猿丸神社境内だが、大きな茶壺のようなものが置いてあり、猿丸大夫と茶には何か関係がありそうに思える。

どういう意味があるのか、まだ考えはまとまっていない。

しかし猿丸大夫の正体についての輪郭はかなり浮かび上がってきたように思える。

「とうとうたらりたらりろ」

そう謡いながら猿丸大夫は黒式尉は舞いつづけている。
私にはそう思えてならない。



end.



ながながとおつきあいくださり、ありがとうございました♪

また旅の中でお会いしましょう~。




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心の旅 
考えるぶろぐ 
調べてみた。考えてみた。  もよろしくおねがいします。




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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑲田原祭は春日若宮おん祭に似ていた。※追記あり 


謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑱俵藤太は田原藤太だった? よりつづきます~
トップページはこちらです→謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫

①田原祭に翁が登場するのは偶然?

今年はコロナの影響でたぶん10月13日の田原祭還幸祭は中止になるのではないかと予想している。
しかし、
http://blog.livedoor.jp/rekishi_tanbou/archives/1793222.html
↑ こちらのブログに祭の様子が詳細に記されており、楽しく読ませていただいた。(ありがとうございました。)


田原祭還幸祭では「聲翁(せいのお)」という芸能が奉納されるとあり、写真も掲載されている。

https://livedoor.blogimg.jp/rekishi_tanbou/imgs/c/e/cedf5d51.jpg


聲翁とあり、翁面のようなものをつけている。
ただし一般的な能の翁面は顎の部分が割れているのに対し、田原祭の面は割れていない。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

翁とは能(猿楽)の演目であるが、そのルーツは奈良豆比古神社の翁舞ではないかと思う。

そして奈良豆比古神社には次のような伝説がある。

㈠志貴皇子の子の春日王がハンセン病になり、春日王の子の浄人王と安貴王が看病していた。
㈡浄人王が春日王のハンセン病治癒のため舞を舞ったところ春日王の病は快癒した。
㈢桓武天皇が浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えた。

㈠について。
志貴皇子の別名は春日宮天皇、田原天皇。春日王の別名は田原太子。
親子は同じ名前であったことになる。こういう例はないと思う。志貴皇子と春日王は同一人物ではないか。

㈡について。
奈良豆比古神社に伝えられる翁舞のルーツは、春日王(志貴皇子と同一人物か?)のハンセン病治癒祈願の舞ということだろう。

㈢について。
浄人王は臣籍降下させられて弓削姓を賜った、つまり、浄人王は弓削浄人という名前になったということではないか。
弓削浄人は道鏡の弟の名前である。
また『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。
とすれば、道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高い。


そして猿丸大夫とは道鏡の弟の弓削浄人であるという言い伝えが土佐にはある。
奈良豆比古神社の翁舞は猿楽(能)の演目「翁」のルーツであるとも考えられるが、翁の中で演じられる三番叟の姿をした猿の像が各地にある。
猿丸大夫とは土佐の伝説とおり、弓削浄人ではないだろうか。

奈良豆比古神社 三番叟 

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟

日吉大社 猿  

新日吉神社 御神猿

そして宇治田原には猿丸大夫を祀る猿丸神社がある。
また、宇治田原の大宮神社境内には「田原天皇社舊(旧)跡」もある。
田原天皇とは志貴皇子のことだ。

もう一度繰り返しておく。
『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。
とすれば、道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高いのだ。

その志貴皇子とゆかりの深い能(猿楽)翁。
志貴皇子の子かもしれない弓削浄人(弓削首夙人の姓と位を与えられた浄人王)と同じ翁面をかぶった人が田原祭に登場するのは偶然なのか?

⓶「聲翁」と「細男」

記事中で次のように記されているのも、興味深かった。

「春日若宮おん祭」と同様の名称が「田原祭」にあるので興味を持っていたのです。例えば「聲翁」。「おん祭り」では、「細男」と書き、どちらも「せいのお」と呼びます。「おん祭」は立烏帽子に白丁姿の6人、目の下に白布を下げて覆面していて独特の出で立ちです。海底の精霊を表すともいわれています。「田原祭」はかつて、烏帽子、白衣、羽織袴姿で翁面をつけた2人
が舞っていたそうです。

http://blog.livedoor.jp/rekishi_tanbou/archives/1793222.html より引用

そこでおん祭の細男について調べてみた。
おん祭の御渡り祭は数回行ったことがあるのだが、すべて雨や雪で中止となりいまだに見学したことがないのだw。



おん祭「細男」の動画が見つかった。(ありがとうございます。)

田原祭の聲翁は翁面だが、おん祭の「細男」は布で口元をかくしている。
私はこれと同様のものを見たことがあった。

 祇園祭 棒振り

山鉾巡行 綾傘鉾

山鉾巡行 綾傘鉾 

山鉾巡行 綾傘鉾

祇園祭綾傘鉾に登場する人々だ。

この人々のいでたちは犬神人ではないかと思う。
犬神人は祇園社(現在の八坂神社)に隷属する非人で、「弦召せ」と言って弓の弦を売り歩いていたので「つるめそ」とも呼ばれていた。

犬神人(つるめそ)の 緋縅着たる 暑さかな 

この川柳は、祇園祭で緋色の着物を着た犬神人たちが警護のために町をうろついている様を詠んだものである。

本願寺聖人伝絵に犬神人の絵が描かれているが、やはり口元を白い布で覆っている。

犬神人 本願寺聖人伝絵

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg よりお借りしました。

<a title="覚如 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で" href="
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg"><img width="256" alt="犬神人 本願寺聖人伝絵" src="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg"></a>


細男は非人ではないだろうか。
すると聲翁も非人ではないかと思えるが、ここで奈良豆比古神社の伝説をもう一度思い出してほしい。

㈠志貴皇子の子の春日王がハンセン病になり、春日王の子の浄人王と安貴王が看病していた。
㈡浄人王が春日王のハンセン病治癒のため舞を舞ったところ春日王の病は快癒した。
㈢桓武天皇が浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えた。

㈢について。
浄人王は臣籍降下させられて弓削姓を賜った、つまり、浄人王は弓削浄人という名前になったということではないか。
弓削浄人は道鏡の弟の名前である。
また『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。
とすれば、道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高い。


そして弓削首夙人の夙とは非人のことである。

奈良豆比古神社の翁舞では「とうとうたらりたらりろ」という謡いにあわせて翁が舞う。
そして春日若宮おん祭で12月16日に若宮神社の前で奏される新楽乱声(しんがくらんじょう)の唱歌(しょうが/邦楽における楽譜のようなもの)は「『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』である。

私は翁の「とうとうたらりたらりろ」はこの唱歌であり、春日若宮様のテーマソングなのではないかと思う。

つまり、春日若宮とは翁・・・志貴皇子なのではないかと私は考えているのだ。

すると、田原祭に春日若宮おん祭と同じ聲翁=細男が演じられるのも、偶然とは思えなくなってくる。

宇治田原の大宮神社に「田原天皇社舊(旧)跡」が存在しているからだ。
田原天皇とはすでに説明したように志貴皇子のことである。

つまり、春日若宮おん祭も、田原祭も志貴皇子を慰霊するための祭ではないかということである。

もしかすると宇治田原という地名も田原天皇からくるのかもしれない。

王の鼻=猿田彦=ニギハヤヒ=志貴皇子?

↓ これは王の鼻というらしい。

天狗のように見える。木製の兜の上には茶色い鶏がついている。

https://livedoor.blogimg.jp/rekishi_tanbou/imgs/f/0/f08be360.jpg



【追記】「王の鼻」の独特の動きについて友人に聞いてみたところ、「鶏をまねているのではないか」と意見を述べてくれた。
友人の意見は鋭いと思う。
以前、千本閻魔堂狂言の二人大名という演目を見たことがあるが、大名が鶏のマネをする際、片足をあげ、その足指には扇子をつけていた。
扇子は鶏の尾をイメージしているのだろう。
「王の鼻」の歩き方も鶏っぽい。




↑ 千本閻魔堂狂言保存会さんの「二人大名」の動画お借りしました。

「王の鼻」の茶色い鶏に注意してほしい。

私はこれと同様の鶏の像を見た記憶があった。

岩戸山ご神体 天照大神 

祇園祭 岩戸山 ご神体 天照大神 (こちらの天照大神は男神です。)神使の鶏がいます。

祇園祭・岩戸山のご神体、天照大神の前におかれていたのがやはり茶色い鶏だったのだ。
岩戸山の天照大神は男神である。

天照大神が男神であるというのは、各地に伝わっており、物部氏の祖神・ニギハヤヒは先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)となっており、この神が本当の天照大神ではないかともいわれている。
そして天皇家以前、畿内には物部王朝があったのではないかとする説もある。

また猿田彦という神は記紀において「高天原から葦原中国までを照らす神」と記されている。
高天原とは天、芦原中国は国なので、猿田彦は天照国照彦だといえる。
ニギハヤヒと猿田彦は同一神ではないだろうか。

猿田彦は天孫であるニニギを高天原から葦原中国まで道案内した神である。
猿田彦=ニギハヤヒとすれば、猿田彦は物部氏の神だということになる。
その猿田彦=ニギハヤヒがなぜライバルである天皇家の祖神・ニニギを葦原中国まで道案内したのか。

これはたぶん、陰陽道による考え方だと思う。
陰陽道では、荒ぶる怨霊は十分に慰霊すればご利益を与えてくださる和魂に転じると考える。
つまり、ニギハヤヒは怨霊であったが、慰霊されて和魂に転じた結果、猿田彦という神になったということではないだろうか。

そして、さきほど、私は弓削浄人が猿丸大夫だとする説があると書いたが、弓削氏は物部氏の一派なのだ。

そして祭に登場する天狗はたいてい猿田彦と呼ばれていて、猿丸大夫と関係があるように思える。

そういえば、猿丸大夫と同一人物だという伝説が伝わる弓削浄人の兄、弓削道鏡は、称徳天皇が次期天皇にしたいと考えていた人物だった。
しかし称徳天皇が急死したことで失脚し、志貴皇子の子である光仁天皇が即位した。
つまり光仁天皇が即位できたのは、弓削道鏡のおかげということで、天孫ニニギを葦原中国まで道案内した猿田彦と道鏡のイメージがだぶる。

もしかしてこの「王の鼻」とは弓削道鏡を現しているのではないか?

いや、王の鼻は志貴皇子を表しているのかもしれない。
というのは奈良豆比古神社にはこんな伝承も伝えられているからだ。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた


「志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった」とあるのに注意してほしい。

男神・天照大神である猿田彦(天狗)は志貴皇子ではないか。

そういえば、「聲翁」は「烏帽子、白衣、羽織袴姿で翁面をつけた2人が舞っていた」ということだった。

猿田彦(天狗)が志貴皇子で、「聲翁」のふたりは道鏡(安貴王)と弓削浄人(浄人王)なのではないか。

④田楽の年配の男性は志貴皇子、二人の少年は浄人王(弓削浄人)と安貴王(道鏡)?

田楽も同様に共通していますが、今は簡略化された「田原祭」でもかつては、烏帽狩衣姿の人と、饅頭笠をつけ赤紐を顎下で結んだ人によって演じられていたようです。烏帽子の人が「開口」といって能に先駆けて祝言の謡をすると、饅頭笠の人が舞い、次に2人が舞い謡い、最後に「閉口」の謡がありました。さらに、今年の「おん祭」の「日使」は、神戸製鋼所の佐藤会長が務められましたが、この役は忠通の名代として一行(約千人)を先導する大役。一方の「田原祭」の「日使」は、「荒木一族座」に属するおよそ40歳くらいまでの若者が務めるそうです。

このように「春日若宮おん祭」の影響が色濃い「田原祭」を実見できて本当に良かったです。

http://blog.livedoor.jp/rekishi_tanbou/archives/1793222.html より引用

上の記事で述べられているように、田原祭と春日若宮おん祭には上に述べた点のほかにも田楽、日使などの共通点があるようである。

春日若宮おん祭 田楽坐宵宮詣  
春日若宮おん祭 田楽座宵宮詣

上の写真は12月17日の春日若宮おん祭の御渡り祭ではなく、12月16日の田楽坐宵宮詣である。
御渡り式は何回行っても雨だが、前日のこの日は晴れたw

かつての田原祭では「烏帽狩衣姿の人と、饅頭笠をつけ赤紐を顎下で結んだ人によって演じられていたようです」と書いてあるが
現在は「年配の男性が狩衣、烏帽子姿の二人の少年をひきつれて3周し最後に拝礼する。」ようである。

https://livedoor.blogimg.jp/rekishi_tanbou/imgs/f/7/f7184fbd.jpg

なぜ年配の男性が二人の少年をひきつれているのだろうか。

私は再び奈良豆比古神社の翁舞を思い出した。

奈良豆比古神社 翁舞

もしかして年配の男性は志貴皇子、二人の少年は志貴皇子の子の浄人王(弓削浄人)と安貴王(道鏡)だったりして?

そのほか、日使も春日若宮おん祭と共通しているということである。


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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑱俵藤太は田原藤太だった? 

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑰猿丸神社のある宇治田原は志貴皇子ゆかりの地だった。 よりつづきます~
トップページはこちらです→謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫大宮神社 本殿大宮神社①仮想の旅で田原祭へ

大宮神社の本殿前に田原祭のポスターが貼られてあった。
「神幸祭が10月10日で、一ノ宮(御栗栖)、大宮、三ノ宮神社から三機の神輿が郷之口の御旅所まで渡御する」と書いてある。
また「還幸祭は10月13日で、お旅所で神事、芸能(舞)、掛け馬などが行われる」そうである。

見に行ってみたいと思いながらなかなか行けずにいたところ、今年(2020年)コロナウィルスが流行して軒並み祭は中止となってしまった。
祇園祭の山鉾巡行も禁止になった。
祇園祭は疫神スサノオを慰霊するのが目的の祭なのに、コロナの前には疫神スサノオも手も足もでない、といったところか。ふ

きっと田原祭も中止だろう。残念。
しかしインターネットで仮想の旅に出かけることはできる。

大宮神社大宮神社 
②俵藤太はもともとは田原藤太だった?

田原祭は平安時代、藤原藤太秀郷が平将門を滅ぼした恩賞として田原郷の領主となって以後、村の平和を祈願して神輿を担ぎ出したのが起源だと伝えられているそうである。

おー、藤原藤太秀郷!
藤原秀郷のことだ。藤原秀郷は俵藤太と呼ばれている。
また藤原秀郷は平貞盛とともに平将門討伐を行っているので、間違いない。
彼は田原郷の領主だったのだ。

以前の記事、 謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑮道鏡と猿丸太夫  で、「俵藤太の百足退治伝説」について書いた。


藤原秀郷が琵琶湖の瀬田の唐橋を渡ろうとすると、橋の上に大蛇がいた。
秀郷は気にとめもせず、蛇を踏んで橋をわたった。
蛇は老人に姿を変えた。
そして、藤原秀郷を勇気のある人物とみこんで、三上山の百足を退治してくださいと頼んだ。
秀郷は三上山の百足を弓で射て退治した。
老人の正体は龍神で、ムカデ退治のお礼にと秀郷に米のつきない俵、つきない巻絹を与えた。
それで藤原秀郷は俵藤太と呼ばれるようになった。
また竜神は秀郷を竜宮にまねき、赤銅の釣鐘も与えた。
赤銅の釣鐘は三井寺に奉納された。


俵藤太 ムカデ退治の図 
瀬田の唐橋の説明板より

藤原秀郷はムカデ退治のお礼にと龍神から米のつきない俵をもらったので、俵藤太と呼ばれるようになったという。
しかし、もともとは俵藤太ではなく、田原郷の藤太という意味で、田原藤太と呼ばれていたのではないか。

先ほども述べたように藤原秀郷は平貞盛とともに平将門を討伐している。
三上山の大百足とは平将門の比喩だろう。
そして貞盛は将門討伐の恩賞として田原郷を与えられた。
そのため、藤原秀郷は田原藤太と呼ばれるようになり、同音であることから田原から俵に転じたのではないかと思う。

藤原秀郷の百足退治と同様の話は下野国にもある。

男体山と赤城山は領地争いをしていたが、男体山の神は弓の名手・猿丸太夫に援助を頼んだ。
猿丸太夫は赤城山の大ムカデの目を射抜いた。それで男体山の神が勝った。

男体山 
大谷川より男体山・女峰山を望む 


藤原秀郷の本拠地は下野だった。
もともと下野国に大ムカデ退治の話があり、俵藤太の本拠地だということで、俵藤太と結びついて瀬田の唐橋の伝説がつくられたのではないかと思う。

それではなぜ宇治田原ではなく、滋賀に下野と同様の伝説があるのか。

瀬田の唐橋の東詰に雲住寺という寺がある。

雲住寺 百足供養塔

雲住寺 百足供養堂

雲住寺は1408年に城主・蒲生高秀が創建した寺だが、蒲生高秀は藤原秀郷の14代目の子孫である。

その蒲生氏が、御先祖の俵藤太の伝説を近江の地にあてはめて創作したのだと思う。
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑲田原祭は春日若宮おん祭に似ていた。
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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑰猿丸神社のある宇治田原は志貴皇子ゆかりの地だった。 

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①志貴皇子=春日王、浄人王=弓削浄人(道鏡の弟)、道鏡=志貴皇子、猿丸大夫=志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?

私は宇治田原に向かって車を走らせていた。
宇治田原には猿丸神社がある。
猿丸神社の御祭神は猿丸大夫だ。
私は以前にも何度か猿丸神社を参拝しているのだが、再び参拝したいという気持ちが大きくなってじっとしておられず
こうして車を運転しているのだった。
そして、運転しながら、こんなことを考えていた。

A.奈良豆比古神社の伝説について。

㈠志貴皇子の子の春日王がハンセン病になり、春日王の子の浄人王と安貴王が看病していた。
㈡浄人王が春日王のハンセン病治癒のため舞を舞ったところ春日王の病は快癒した。
㈢桓武天皇が浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えた。

㈠について。
志貴皇子の別名は春日宮天皇、田原天皇。春日王の別名は田原太子。
親子は同じ名前であったことになる。こういう例はないと思う。志貴皇子と春日王は同一人物ではないか。

㈡について。
奈良豆比古神社に伝えられる翁舞のルーツは、春日王(志貴皇子と同一人物か?)のハンセン病治癒祈願の舞ということだろう。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞

㈢について。
浄人王は臣籍降下させられて弓削姓を賜った、つまり、浄人王は弓削浄人という名前になったということではないか。
弓削浄人は道鏡の弟の名前である。
また『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。
とすれば、道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子だということになる。

B.猿丸大夫とは道鏡の弟の弓削浄人であるという言い伝えが土佐にはある。
奈良豆比古神社の翁舞は猿楽(能)の演目「翁」のルーツであるとも考えられるが、翁の中で演じられる三番叟の姿をした猿の像が各地にある。
猿丸大夫とは土佐の伝説とおり、弓削浄人ではないか。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟

新日吉神社 猿のレリーフ 

新日吉神社 御神猿



Ⅽ.『日光山縁起』によれば、小野猿丸が猿丸大夫であるとし、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となったと伝える。日光の二荒山神社はかつて猿丸社とも呼ばれていた。

道鏡は下野国に流罪となっており、出生地は河内国若江郡(現在の八尾市の一部)である。
小野猿丸とは道鏡のことであり、下野国河内郡という地名は、弓削氏にちなむものではないか。

弥生祭 花家体 門前にて

二荒山神社

日光東照宮 三猿

二荒山神社に隣接する日光東照宮には三猿のレリーフがあるが、これは三人翁を意味しているのかもしれない。

Ⅾ.猿楽・翁に登場する翁は一人である。
ところが奈良豆比古神社の翁舞は三人翁だ。
猿丸大夫とは志貴皇子・道鏡・弓削浄人三人の総称ではないか。

奈良豆比古神社 翁舞

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁


②宇治田原は施基皇子ゆかりの地だった。

田原川の川岸に植えられた桜が満開となっており、花見をする人々が堤防をそぞろ歩いている。
余りに桜が美しいので私も写真を撮りたくなった。
どこかに駐車場はないかな?
そう思ってゆっくりと車を走らせていると鳥居が見えてきた。
大宮神社と書いてある。
どんな神社なのか気になったので、花見はあとにしてまずは神社を参拝することにした。

大宮神社 鳥居 
大宮神社 

鳥居から続く参道は階段になっていて車ではすすめないが、ぐるっと回ってみると車が侵入できる道が神社へと続いていた。

田原川の堤防には大勢の人が花見をしていたが、大宮神社境内には誰もいない。
しかし本殿のわきには美しいしだれ桜があった。
もう数日すれば満開となって、さらに美しいことだろう。

大宮神社 本殿

本殿前には宝篋印塔が立てられており、説明板に次のように記されていた。

施基皇子の菩提を弔うために建立されたものといわれ、高さは179cmで、塔身四面に梵字を刻んでいる。鎌倉時代後期の作と推定される。 平成10年5月6日 宇治田原町教育委員会


大宮神社3


なんだって?施基皇子?
志貴皇子は施基皇子とも書く。

なぜここに施基皇子の菩提を弔うための宝篋印塔があるんだろうか?

本殿の向かって左手には文殊まんだらの石碑があった。

大宮神社 文殊曼荼羅の石碑
 
大宮神社 文殊曼荼羅の石碑2
 
ハンセン病患者は文殊菩薩の生まれ変わりと考えられていたという。
そして奈良豆比古神社には、志貴皇子または志貴皇子の子の春日王がハンセン病を患ったという伝説がある。
こういったところにも、志貴皇子のおもかげが見えるような気がする。

私は車で坂を上ってくるとき、道端に小さな石碑があったのを思い出し、徒歩で坂を下ってみることにした。

田原天皇旧跡2 
「田原天皇社舊(旧)跡」と書いてある。
田原天皇とは志貴皇子のことだ。

やはりここは志貴皇子と関係のある場所だったのだ!

ここから少し行ったところに猿丸神社があるのは、偶然とは思われない。

 傍らには田原天皇社由来と記された説明板が立てられていたが、ネットで検索してみると私が見た説明版よりも古い説明板の写真が見つかった。
文字が薄くなっていたり、苔が生えたりして残念ながら一部読み取ることができなかったが、現在の説明板より詳しい内容が記されていた。

田原天皇社由来

天智天皇第七王子(皇子の間違いと思われる) 光仁天皇の父 桓武天皇の祖父で 施基親王が当郷荒木に隠棲されたが薨去の地
この田原と奈良春日との 二説がある。
現在は春日山が一応定説にはなっているが実際はどちらともわからない。
この時、施基親王の霊を弔ったと言う其の綾親王の第六皇子白壁王が光仁天皇として即位されるとすぐに父親王に田原天皇の諡を奉り

霊亀三年(717年)九月五日勅使を前右大臣正二位吉備真備を参向させて正一位田原天皇を奉って田原天皇社を造らせて以降元就に崇め祀ることを命じて封戸百二十戸〇田中に町を賜った。
〇〇勲二等を授与され毎年十一月八日に奉幣使いを立てられていたがいつのまにかそのことも廃れてしまったという。
明治四十年四月十六日大宮神社に合祀された。

         弘文天皇
天智天皇 -[
         施基皇子―光仁天皇ー桓武天皇

諸戸神社 施基王(田原天皇)と橡姫には白壁王 後の光仁天皇が生まれている。
この橡姫の父親が紀諸戸で光仁天皇の父親に当たる田原天皇・・・・・・(あとは読めず)

※諸戸と書いてあるように思えるが、苔が生えていて読みづらく、まちがいであるかもしれない。
境内の社殿前には諸仁神社と書いてある。

 そのほか、田原天皇社旧跡について調べてみると、次の様な内容が出てくる。

田原天皇(施基皇子)」は天智天皇の皇子で万葉歌人。伝承では宇治田原の高尾と荒木に館を構え、そこで亡くなったために陵墓が作られたという。天皇谷の入口、現在の大宮神社裏参道横に田原天皇社が祀られたが、明治になって大宮神社に合祀された。跡地には三宅安兵衛建立の石碑が建つ。
https://ochanokyoto.jp/spot/detail.php?sid=132 より引用

天智天皇の第七王子光仁天皇の父桓武天皇の祖父で施基親王が当郷荒木に穏栖されたが薨去の地この田原と奈良春日との二説がある。現在は春日山が一應定説にはなっているが実際はどちらともわからない。この時施基親王の霊を弔ったと言う其の後親王の第六子白壁王が光仁天皇として即位されるとすぐに父親王に田原天皇の謚を奉り宝亀三年九月五日勅使を前右大臣正二位吉備真備を参向させて正一位田原天皇を奉って田原天皇社を造営させて以後厳重に崇め祀ることを命じて封戸百二十戸佐田十二町を賜った。
なお、勲一等を授与され毎年十一月八日に奉幣使を立てられていたがいつのまにかそのことも廃れてしまったという。明治四十年四月十六日大宮神社に合祀された。
出典:宇治田原町ホームページ
https://www.cyber.kbu.ac.jp/edu/amagase-club/map/map_ujitawara/tawara_55tawaratennou.html より引用


③大宮神社は紀氏が祭祀する神社?

境内に諸仁神社があり、諸仁親王と記されていたが、これは橡姫の父・紀諸戸のことだろう。

大宮神社2 
諸人神社 

諸仁親王となっているが、ウィキペディアで調べてみると諸仁ではなく紀諸人となっており、白壁王の祖父ではあるが、皇族ではなく、親王であったとは記されていない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E8%AB%B8%E4%BA%BA

どうやらこの大宮神社は紀氏が祭祀する神社であり、宇治田原は紀氏の土地であったのではないかと思える。

紀諸人の娘・橡姫が志貴皇子の妻であり、二人の間に白壁王が生まれ、この白壁王が即位して光仁天皇となったところから、紀氏が志貴皇子を祀る田原天皇社を建立して祀っていたのではないかと思える。

わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人のいふなり

この歌を詠んだのは喜撰法師だが、喜撰とは紀仙であり、紀名虎または紀有常ではないかともいわれている。
宇治には紀氏のおもかげが濃い。

貴人の墓が複数あることは珍しくないが、志貴皇子の墓は春日山で、宇治田原にあったというのは紀氏があとづけで作った伝説なのではないかと思った。
だろうか。


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 ①志貴皇子=春日若宮=猿丸太夫?

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

①猿丸太夫は弓削浄人という伝説


深い深い闇が広がっていた。
その闇の中にオレンジ色の小さな光が見える。
近づいてみるとそれは篝火だった。
篝火はパチパチという音をたてながら、ぼんやりと三人の人らしき姿を照らし出している。
いや、人ではなく神だろうか?

目をこらしてみると、三人は白い翁面をつけていた。

静けさを破るように小鼓の音が響き渡った。
小鼓の音と「いーやー、あいやー、おんはー」という掛け声が耳鳴りのように響く。
私は三人の翁たちに向かって言った。

「あなたがたはどなたですか?
奈良豆比古神社にはこんな伝説があると聞きました。
志貴皇子がハンセン病になり、面をつけて神に祈りの舞をしたところ、病が面に移ってハンセン病が治ったと。
あなたがたは志貴皇子ですか?
なぜ、志貴皇子が三人もおられるのですか?」

翁たちはそれには答えずに「とうとうたらりたらりろ」と謡いながら舞った。

「『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』は春日若宮おん祭で12月16日に若宮神社の前で奏される新楽乱声(しんがくらんじょう)の唱歌(しょうが/邦楽における楽譜のようなもの)ですよね。

もしかして『とうとうたらりたらりろ』は、『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』で、
あなたがたは若宮様のテーマソングを口ずさんでおられるのですか?

なぜ、あなたがたは若宮様のテーマソングを口ずさんでおられるのですか?
もしかして、春日若宮様とは志貴皇子なのですか?」

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑭ とうとうたらりたらりろ は志貴皇子のテーマソングだった? 


舞殿をみると、三人の翁の姿はなく、黒い翁の面をかぶった人が鈴を鳴らして舞っていた。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟

いつの間に入れ替わったのだろうか、と不思議に思っていると、三番叟は猿に変わった。

猿は「奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき」と詠った。
私は猿に言った。

「それは猿丸太夫の歌ですね。あなたはなぜ猿丸太夫の歌を詠っているのですか?
あなたは猿の姿をされていますが、本当は志貴皇子であり、春日若宮様なんじゃありませんか?
あなたの名前を教えてください!」

そう叫んだところで目が覚め、三番叟の姿をした狛猿と目があった。

猿丸神社 狛猿

猿丸神社 狛猿

よくみると、それは猿丸神社で私が撮影した狛猿の写真だった。
魔除けになるかと思い、A4サイズにプリントして壁に飾っておいたのだった。

しかし魔除けになるどころか、私は猿丸太夫に取りつかれてしまい、ことあるごとに猿丸太夫のことを考えてしまっているw。

②猿丸太夫は弓削浄人

眠い目をこすりながら、私はパソコンの電源をいれ、「猿丸太夫 弓削浄人」とキーワードをいれて検索ボタンを押した。

なぜ弓削浄人というキーワードを入れたのか。

私は夢の中で「志貴皇子がハンセン病になり、面をつけて神に祈りの舞をしたところ、病が面に移ってハンセン病が治ったという伝説がある」と3人の翁たちに語り掛けた。

しかし、奈良豆比古神社の伝説はふたつあって、こんな話も伝わっているのだ。

志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


私は浄人王という名前と、弓削首夙人という名と位が気になっていた。
弓削首夙人という名と位というのは、たぶん弓削が名(姓)で首夙人が位だと思う。
つまり、浄人王は皇族であったが臣籍降下させられ、弓削姓を賜ったということではないかと思う。

浄人王は、弓削浄人という名前になったということか?
私はこの名前には聞き覚えがあった。道鏡の弟の名前が弓削浄人というのだ。

さて、パソコン画面を覗き込むと、なんとリストの中に、「
猿丸太夫伝説の墓 - 伝説では弓削道鏡の弟・弓削浄人とされる


という記事があったので、私はいっぺんに目が覚めてしまった。

なんだって?高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓がある?
そして、説明板に次のように記されている?

佐川町指定文化財 猿丸太夫伝説の墓

元従二位大納言弓削浄人(猿丸太夫)は、位人臣を極めた兄弓削道鏡の失脚により、土佐の地に流され、ここ猿丸山に居住したといわれている。

佐川における猿丸太夫(弓削浄人)の墓の伝説は、彼の流罪の年、宝亀元年(770)から数えて千二百年余りを経ていて奈良朝時代から夢の跡が長く伝わっているのは他にない。

平成四年三月一日建立
高知県文化財保存事業
佐川町教育委員会

猿丸太夫伝説の墓 - 伝説では弓削道鏡の弟・弓削浄人とされる  より引用

私は旅を続ける中で、猿丸太夫と猿楽、三番叟、田原天皇(志貴皇子)、浄人王、安貴王には何か関係がありそうだと感じていた。

そしてこの土佐国・佐川町に伝わる伝説で、これらのキーワードが繋がって形をなしていくように感じた。
錯覚かもしれないがw。

③猿丸大夫は弓削浄人?

猿丸神社 拝殿

猿丸神社

猿丸大夫をまつる猿丸神社の狛猿は三番叟の姿をしていた。
三番叟とは能・翁で演じられる黒式尉の舞のことである。
また能は江戸時代までは猿楽と呼ばれており、猿丸大夫は猿楽と関係が深そうだと思った。

その猿楽のルーツとも思える翁舞という伝統芸能が奈良豆比古神社には伝えられている。
そしてその翁舞に関する伝説に、志貴皇子の子の春日王がハンセン病を患ったとあるが、志貴皇子は田原天皇、春日宮天皇とも呼ばれていた。
一方、春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり親子は春日、田原と同じ名前なのだ。こういうケースが皇族にあったとは聞かない。
ここから、私は志貴皇子と春日王は同一人物ではないかと考えた。

また春日王(志貴皇子と同一人物か?)の子の浄人王が弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)という名と位を光仁天皇より授かったという伝説もある。

つまり、浄人王は弓削浄人という名前になったということだと思うが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
その道鏡の弟である弓削浄人が、猿楽のルーツともいうべき翁舞を舞ったというのが奈良豆比古神社の伝説である。

すると春日王(志貴皇子と同一人物か?)のもう一人の子である安貴王とは道鏡のことではないか。
道鏡というのは出家して僧となって得た法名で、道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴というのではないだろうか。

さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしているのだ。

そして高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、そこでは猿丸太夫とは弓削浄人だと伝えているという。
これは偶然とは思えない。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉

従二位・弓削浄人は大夫といえる

続いて私はウィキペディアの猿丸太夫の項目を調べてみた。

苦いモーニングコーヒーを飲みながら、ウィキペディアに記されていた内容をメモする。


⑴「大夫」とは五位以上の官位をもっている者のことをいう。

⑵「猿丸大夫」という名は公的史料には登場しないことから本名ではないとする考えが古くからある。

⑶猿丸太夫の正体については諸説ある。
a.弓削王(山背大兄王の子、聖徳太子の孫)
b.弓削皇子(天武天皇の子)
c.道鏡
d.小野猿丸(二荒山神社神職・小野氏の祖)
e.芦屋市や堺に猿丸大夫の子孫と称するものがいた。
f.長野県戸隠に猿丸村があるが関係があるかも?

⑶鴨長明の『方丈記』には「サルマロマウチギミ」とある。
サルマロ」は「猿丸」、「マウチギミ」は「大夫」に当たる。
陽明文庫蔵の『古今和歌集序注』でも猿丸大夫の「大夫」の字の脇に「マウチキミ」と振り仮名が付けられている。
「マウチギミ」とは天皇のそば近く仕える者、すなわち大臣や側近という意味。

⑷『方丈記』が書かれた頃には、「大夫」は五位の官人の通称となっていた。
しかしそれ以前は五位より上の高位の官人のことを称した。

⑸『日光山縁起』に拠ると、小野(陸奥国小野郷か?)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫。
下野国河内郡日光権現と上野国の赤城神が神域について争った時、鹿島明神(使い番は鹿)の勧められ
女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利した。
これにより猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となった。
二荒山神社はかつて猿丸社とも呼ばれていた。
※これについては、一部、こちらの記事に書いた。→
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑮道鏡と猿丸太夫 

⑹梅原猛氏が『水底の歌-柿本人麻呂論』において柿本人麻呂と猿丸大夫は同一人物と説いた。
根拠
●柿本人麻呂が『古今和歌集』の真名序では「柿本大夫」と記されている。
反論
●猿丸大夫の大夫は「五位以上の位階」を意味するが、柿本人麻呂は官位がなかった。


私は梅原猛氏のファンだが、猿丸大夫=柿本人麻呂説は違うと思う。
というのは、猿丸大夫の正体を追ういままでの旅の中で、柿本人麻呂の影は一切感じられなかったからだ。
浮かんできたのはすでに述べたように柿本人麻呂ではなく、志貴皇子、道鏡、弓削浄人である。

そして高知県高岡郡佐川町・猿丸峠の猿丸大夫の墓の説明板には、猿丸大夫の後ろに(弓削浄人)と記されており、
猿丸大夫と弓削浄人は同一人物であると読める。

説明版には「元従二位大納言弓削浄人(猿丸太夫)」とあった。
ウィキペディアの弓削浄人の項目を確認しても「従二位・大納言」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E5%89%8A%E6%B5%84%E4%BA%BA


⑷『方丈記』が書かれた頃には、「大夫」は五位の官人の通称となっていた。
しかしそれ以前は五位より上の高位の官人のことを称した。


とウィキペディア、猿丸太夫の項目には記されていた。
弓削浄人は従二位なので、辻褄があう。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

④小野猿丸は道鏡?

猿丸大夫の正体については道鏡だとする説もある。
その理由についてはウィキペディアには記されていなかった。

他には「帋灯・猿丸と道鏡」という柿花 仄という人が書いた本がでてくるが、内容などはでてこない。

二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。

⑸『日光山縁起』に拠ると、小野(陸奥国小野郷か?)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫。
下野国河内郡日光権現と上野国の赤城神が神域について争った時、鹿島明神(使い番は鹿)の勧められ
女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利した。
これにより猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となった。
二荒山神社はかつて猿丸社とも呼ばれていた


もしかして、この小野猿丸とは道鏡のことではないだろうか?
そう思う理由は、道鏡は下野国に流罪となっているからだ。
そして下野郡河内郡とあるのも気になる。

道鏡の出生地が河内国若江郡(現在の八尾市の一部)なのだ。
下野郡河内郡という地名は、道鏡もしくは弓削氏の本拠地である河内からくるのではないか?

護王神社絵巻に描かれた道鏡 
護王神社絵巻に描かれた道鏡


⑤小野姓の不思議

それはおかしい、それならなぜ弓削猿丸ではなく、小野猿丸なんだ?といわれるかもしれない。
しかし小野姓というのは不思議なのだ。

小野小町は小野氏ではなく、小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと思う。
小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

霊山寺の由来には「小野富人が672年に右大臣を辞して登美山にすみ、鼻高仙人と呼ばれた」とあるが
672年右大臣だったのは小野富人ではなく中臣金で、中臣金が創建した佐久奈度神社には伊勢神宮より賜った鼻高面があって
鼻高仙人と呼ばれた小野富人と中臣金は同一人物のように思えるのだ。
霊山寺 薔薇会式・えと祭 『鼻高仙人の正体とは』 

小野という言葉には、小野=オノ=オン=オニという意味が込められているのかもしれない、と思ったりもするがよくわからない。

しかし、皇族の惟喬親王が小野小町、中臣金が小野富人だと考えられることを思うと、同じように弓削姓の道鏡が小野猿丸と呼ばれることもありそうに思える。


⑥猿丸大夫は志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?


とここまで考えたとき、今朝の夢をおもいだして「まてよ」と私は独り言を言った。
能・翁に登場する翁は一人である。
ところが奈良豆比古神社の翁舞は三人翁だ。

奈良豆比古神社 翁舞



そして、こう伝えられている。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた


また

陽明文庫蔵の『古今和歌集序注』でも猿丸大夫の「大夫」の字の脇に「マウチキミ」と振り仮名が付けられている。
「マウチギミ」とは天皇のそば近く仕える者、すなわち大臣や側近という意味。


赤い衣装を着た中央の翁は志貴皇子、そして左右の翁は志貴皇子の子であり、志貴皇子に近く仕える道鏡、弓削浄人なのではないか?

そして黒い面をつけた翁は猿丸大夫で、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称なのかもしれない。

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑰猿丸神社のある宇治田原は志貴皇子ゆかりの地だった。 へ続きます~



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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑮道鏡と猿丸太夫 

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑭ とうとうたらりたらりろ は志貴皇子のテーマソングだった? よりつづきます~
トップページはこちらです→謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫

①男体山の百足退治伝説

友人が栃木県日光市に転勤になり、遊びに来いよ、と言われたので日光にでかけた。
日光といえば東照宮。
関西では見かけない派手な五重塔に驚くw。

日光東照宮 五重塔 

日光東照宮 五重塔

ちょうど東照宮では例大祭を行われており、友人と私は百物揃千人武者行列などを見学して楽しんだ。
友人は高校の民俗学研究サークルの仲間で、趣味があうのだ。

日光東照宮 百物揃千人武者行列 稚児2

百物揃千人武者行列


日光東照宮 百物揃千人武者行列 武者

百物揃千人武者行列

その後、友人の車で友人の家に向かう。この日は友人の家に泊めてもらうことになっていたのだ。

長い長い杉並木が続いている。日光杉並木街道だ。

日光杉並木街道2

日光杉並木街道

松平正綱(1576-1648)が日光東照宮の参道となる3つの街道に杉を植樹したものが、長い年月を経てこんな立派な並木道になったのだという。

大沢ー日光間16.52km、小倉―今市13.17km、大桑 - 今市間5.72kmの杉並木で世界最長の並木道としてギネスブックに登録されているのだと、友人が教えてくれた。

男体山 
大谷川より男体山・女峰山を望む 

大谷川にかかる橋の上から車窓の外を眺めると二つの頂をもつ山が見えた。
関西に住んでいる私は奈良と大阪の県境にある二上山を思い出しながらその山を見つめていた。

友人が言う。

「向かって左が男体山、向かって右が女峰山やと思う。まちがってるかもしれへんけど。(なんじゃ、そりゃw)

昔、男体山の神と赤城山の神が領地争いをしたっちゅう話があるみたいやで。
男体山の神は白い大蛇に、赤城山の神は大ムカデに変身して闘ったとか。」

②俵藤田の百足退治伝説

私は言った。

「へーえ、なんか似たような伝説聞いたことあるで。
琵琶湖に瀬田の唐橋ってあるやん。
藤原秀郷が唐橋を渡ろうとしたら、橋の上に大蛇がおった。
秀郷は気にとめもせず、蛇を踏んで橋をわたった。
蛇は老人に姿を変えた。
そして、藤原秀郷を勇気のある人物とみこんで、三上山の百足を退治してくださいと頼んだ。
秀郷は三上山の百足を弓で射て退治した。
老人の正体は龍神で、ムカデ退治のお礼にと秀郷に米のつきない俵、つきない巻絹を与えた。
それで藤原秀郷は俵藤太と呼ばれるようになった。
また竜神は秀郷を竜宮にまねき、赤銅の釣鐘も与えた。
赤銅の釣鐘は三井寺に奉納されたそうな。

瀬田の唐橋のほとりにある説明板に絵が書いてあった。」

俵藤太 ムカデ退治の図 
瀬田の唐橋の説明板より

③下野国は俵藤太の本拠地


私の話を聞いて、友人はハンドルを握りながら大きくうなづき、そしてこう言った。

「あー、俺もその説明板見たわ。ちょっと前に瀬田の唐橋のあたりに花火見にいったことがあるねん。」

建部大社 船幸祭 花火2

瀬田の唐橋


「彼女と?」

「まあね」

友人は少しにやけた顔をしw、話をつづけた。

「このあたりは昔下野国っていうたやろ、ほんで下野国は俵藤太(藤原秀郷の呼び名)・・・藤原秀郷の本拠地なんやってん。
もともと下野国に大ムカデ退治の話があって、俵藤太の本拠地やっちゅうことで俵藤太と結びついて、瀬田の唐橋の伝説がつくられたんとちゃうかな。」

烏丸半島 蓮

三上山

「なるほどね。
だけど瀬田の唐橋付近から三上山見えへんかと思って探してみたけど、わからんかったな。
天気のいい日やったら見えるんかもしれへんけど。
烏丸半島からは見えたな。」

②なぜ滋賀に下野と同様の伝説があるのか。

私は話を続けた。

「でもなんで下野から離れた近江の国におんなじような伝説があんねんやろ?」

「瀬田の唐橋の東詰に雲住寺というお寺があったやろ。」

「ああ、そういえばあったな。境内には百足(ムカデ)供養堂があった。」

雲住寺 百足供養塔

「雲住寺は1408年に城主・蒲生高秀が創建した寺やと聞いた。
それで、蒲生高秀は藤原秀郷の14代目の子孫なんや。」

友人はよくものを知っているなと感心しながら、私はいった。

「なるほど、その蒲生氏が、御先祖の俵藤太の伝説を近江の地にあてはめて創作した、みたいな。」

④猿丸太夫登場!

「まあ、そんなとこちゃうかと思う。
それで男体山と赤城山の伝説のつづき。

男体山の神は弓の名手・猿丸太夫に援助を頼んだ。
猿丸太夫は大ムカデの目を射抜いた。それで男体山の神が勝った。

瀬田の唐橋の話では俵藤田・・・藤原秀郷が弓を射て大ムカデを退治したことになってるけど
もともとは猿丸太夫の話やったんや。」

「へーえ、猿丸太夫が・・・・・」

そういいかけて、私は黙り込んでしまった。

猿丸太夫だって?
それは私が常日頃気になって仕方がない謎の歌人の名前じゃないか!

⑤能・翁と猿

私はこれまでの旅の記憶を思い返していた。

猿丸太夫を祀る猿丸神社の境内には狛犬ならぬ狛猿が置かれていた。

猿丸神社 狛猿

猿丸神社 狛猿

猿丸神社の狛猿は三番叟の姿に似ていた。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟

猿丸神社の狛猿は手に御幣を持っていた。
一方、奈良豆比古神社の三番叟が手に持っているのは扇子と鈴だった。
持ち物は違うが、頭にかぶっている帽子のようなものがとてもよく似ていた。

そして、私は旅の中でたくさんの三番叟の姿をした猿の像や狂言の猿を見てきた。

三番叟とは猿丸太夫の舞なのではないだろうか?

猿が辻 猿の像

京都御所 猿が辻の猿の像


千本閻魔堂狂言 靭猿

千本閻魔堂狂言 靭猿

新日吉神社 猿のレリーフ 

新日吉神社 御神猿

新日吉神社 猿の像


新日吉神社 狛猿

三番叟とは能・翁で演じられる黒式尉の舞のことである。現在では独立してこの三番叟のみが演じられることも多い。
翁は芸能というよりは神事であるなどともいわれ、能のルーツともいうべきものである。

そして能はかつては猿楽と呼ばれていた。
猿と能は関係が深そうに思える。

その能・翁のルーツは奈良豆比古神社の翁舞だと思われる。

⑥浄人王は弓削浄人(道鏡の弟)?


その奈良豆比古神社で、ある人にこんな話を教えていただいた。

奈良豆比古神社にある3つの社のうち、中央は平城津彦(ならづひこ)神という産土の神を祀っている。

その向かって右には志貴皇子を祀っている。
『いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも』
という有名な歌を詠まれた方である。
志貴皇子の子、白壁王が即位して光仁天皇となられた。
その際、光仁天皇は父親の志貴皇子を春日宮御宇天皇と追尊された。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

向かって左には志貴皇子の子の春日王を祀っている。
春日王は田原太子とも呼ばれている。

志貴皇子は天智天皇の第七皇子であったが、672年の壬申の乱(大友皇子vs大海人皇子)では大友皇子側についた。
壬申の乱では大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害して果てた。
そのため乱後の志貴皇子は政治的に不遇であった。

その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養された。
春日王の二人の息子・浄人王と安貴王は熱心に春日王の看病をされた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


奈良豆比古神社 社殿

奈良豆比古神社 社


この話を聞いて私はこんなことを考えた。

⑴「貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されることが多い。
疫病をもたらす疫病神は疫病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。
春日王はハンセン病を患ったというが、本当にハンセン病を患ったという意味ではなく、ハンセン病をもたらす怨霊だったのではないか?

⑵日本には先祖の霊はその子孫が祭祀(供養)すべきという考え方があった。
春日王が怨霊であったとすれば、春日王は謀反人として不幸な死を迎えた人であったと考えることができる。
春日王の怨霊の祟りを鎮めることができるのは春日王の子である浄人王と安貴王、また彼らの子孫だということになる。

⑶浄人王と安貴王は夙冠者黒人と呼ばれていたが、夙とは中世から近年にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民のことである。
春日王の子の浄人王と安貴王は非人だったのである。

⑷平安時代に承和の変をおこしたとして橘逸勢が姓を非人と改められて流罪になっている
非人とは謀反人もしくはその子孫のことではないか。

⑸桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えたというが、これは桓武天皇が浄人王と安貴王の官位をはく奪し『弓削』という名前を与えて非人にした、ということだろう。

⑹浄人王は皇族であったが、父の春日王が謀反人とされたため非人とされ弓削浄人という名前になったのだろう。
弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡は称徳女帝が次期天皇にしたいと考えていた人物である。

護王神社絵巻に描かれた道鏡 
護王神社絵巻に描かれた道鏡

⑦志貴皇子と春日王は同一人物?道鏡・弓削浄人は志貴皇子の子?

先日、図書館で『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』という雑誌を借りて読んだ。
その中にここ奈良豆比古神社の翁舞についての記事があり、地元の語り部・松岡嘉平さんが次のような語りを伝承していると書いてあった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。

室町時代、金春流の祖となる人が奈良坂に能を習いに通っていた。
京都御所でおこなわれる能舞台に立つために奈良豆比古神社に伝わる『肉つき面』を借りた。
しかし面はなかなか返却されず、ようやく戻ってきたのは『肉つき面』ではなかった。
村人たちは激怒して坂下で殺し、金春塚に葬った。


なんと、地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。

志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。

志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。

神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。

桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。
さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉(三人翁)


⑧宇佐八幡宮神託事件

769年、宇佐八幡神託事件がおこった。

宇佐八幡で「道鏡を天皇にすべし」との神託があり、これを確認させるために女帝の称徳天皇は和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣した。
宇佐から帰京した和気清麻呂は称徳天皇に「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を奏上した。

「我が国は開闢以来、君主・臣下の身分が定まっている。臣下を君主にしたことはない。天皇は必ず皇室のものにせよ。皇室と関係のないものを天皇にしてはいけない。」というような意味だ。

これを聞いた称徳天皇はカンカンになって怒り、和気清麻呂を流罪にした。

しかし、770年に称徳天皇は急死してしまい、称徳天皇が重用していた道鏡は失脚して下野薬師寺に流罪となる。
そして志貴皇子の子である光仁天皇が即位した。
道鏡は数年後に下野でなくなり、庶民として葬られた。

しかし、道教もまた光仁天皇と同様、志貴皇子の子であったとしたら、どうだろうか?

「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」
という和気清麻呂の奏上を聞いて、称徳天皇がカンカンになって怒った理由がわかる。

「道鏡は志貴皇子の子で皇緒ではないか!無道なものではない!清麻呂の大ウソつき!」
と称徳天皇が言ったかどうかは知らないがW。


⑨下野国と猿丸太夫と道鏡。俵藤田と田原天皇と宇治田原。


・・・・うん?
道鏡は下野国で亡くなった?
猿丸太夫は下野国の男体山の神を助け、赤城山の大ムカデの目を射抜いたのだった。

そして猿丸太夫は能・翁の三番叟と関係が深そうに思われ、
能・翁のルーツと考えられる奈良豆比古神社の伝説に登場する春日王の子、浄人王は桓武天皇より弓削姓を賜った。
つまり、浄人王は弓削浄人という名前になったということだと思う。
弓削浄人は道鏡の弟の名前だ。
すると道鏡は安貴王だろう。

道教が流罪となって亡くなったのが下野国。
その下野国に猿丸太夫の伝説があるというのは偶然だろうか?

そして猿丸太夫と同様の伝説のある俵藤太。
俵藤太は田原藤太と書かれることもある。

志貴皇子の別名は田原天皇で、何か関係がありそうに思える。
あっ、そういえば、猿丸神社のある場所の地名も宇治田原だった・・・・。

猿丸神社 歌碑 

猿丸神社 歌碑 

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑯猿丸大夫は弓削浄人?へ続きます~



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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑭ とうとうたらりたらりろ は志貴皇子のテーマソングだった? 


謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑬ 天児屋根命は天智天皇? よりつづきます~
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①春日若宮おん祭

春日大社 舞楽始2

春日大社

春日大社は広大な敷地面積を有する神社で、一の鳥居から二の鳥居まで1km以上もある。
石燈籠が立ち並ぶ長い長い参道のつきあたり左手に朱塗りの回廊をめぐらせた一画がある。
ここに春日大社の主祭神である四柱の神々がが祀られている。

武甕槌命(たけみかづちのみこと)・・・藤原氏守護神
経津主命(ふつぬしのみこと)・・・・・藤原氏守護神
天児屋根命(あめのこやねのみこと)・・藤原氏祖神
比売神(ひめがみ)・・・・・・・・・・天児屋根命の妻


ここから南に100mほどいったところに若宮社がある。

春日若宮 

春日若宮社


12月に行われる春日若宮おん祭はこの若宮社のお祭りである。

若宮様は本社の第三殿・天児屋根命と第四殿・比売神の御子神で、神名を天押雲根命という。
『長保五年(1003年)旧暦3月3日、第四殿に神秘な御姿で御出現になった』と春日大社のhpには記されている。
『神秘な御姿で御出現になった』というのは具体的にはどんなお姿だったのだろうか。
もしかしたら若宮様の幽霊が出たということなのかもしれないw。

若宮様は出現後、母神の御殿内に、その後は第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られていた。
その後、長承年間の大雨によって、洪水・飢饉・疫病の流行などで人々は苦しんだ。
そこで藤原忠通公が保延元年(1135年)にここに若宮社を造営したという。
長承年間の洪水・飢饉・疫病は若宮様の怨霊の祟りだと考えられ、慰霊する必要があるとして社殿を建てたのではないだろうか。
さらにその翌年の1136年より祭礼を行うようになった。
これが今も行われている春日若宮おん祭りの始まりである。

春日若宮おん祭は12月17日のお渡り式が有名である。
私も3度ほど見にいったことがあるのだが、3度とも雨や雪でお渡り中止になった。
おん祭のころ、奈良ではよく雨や雪が降るのかもしれない。

そういうわけで、お渡り式はいまだ見学したことがないのだが、16日の大和士宵宮詣(やまとさむらいよいみやもうで)・田楽座宵宮詣は見学させていただいた。
春日大社 おん祭

春日若宮おん祭 大和士宵宮詣

②天児屋根命=天智天皇?

前回の記事に書いたように、私は春日大社の御祭神で藤原氏の祖神とされる天児屋根命とは天智天皇のことではないかと考えている。
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑬ 天児屋根命は天智天皇? 

秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。)

この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されている。

万葉集には「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられている。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。


天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味である。

仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことだろう。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。

沖縄では近年まで風葬の習慣が残っていたが、自然の洞窟に遺体をおさめたり、小さな小屋のようなものをつくって遺体をおさめたりしていたようである。

誰かがほとんど風葬といってもいいような状態にされていた天智天皇の身になって、「もっと立派な墓に葬ってほしい」という気持ちを詠んだのが、「秋の田の~」の歌だと思う。

藤原氏の祖神である天児屋根命が天智天皇だとすると、藤原氏は天智天皇の子孫だということになるが、『興福寺縁起』には次のように記されていて、辻褄はあう。
「藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけており、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっていた。これが藤原不比等である。」

春日大社 おん祭2 
春日若宮おん祭 田楽座宵宮詣

③春日若宮様の正体とは?


すると春日若宮様は天智天皇の子だということになる。
春日若宮様とは、天智天皇の落胤だといわれる藤原不比等のことなのだろうか。
そうではないと私は思う。

天智天皇には多くの皇子があったが、その一人に志貴皇子がいる。

天武系の最後の女帝・称徳天皇が崩御したのち天智系の光仁天皇が即位したが、光仁天皇は父親である志貴皇子に『春日宮天皇』と追尊している。
この春日宮天皇=志貴皇子が春日若宮様なのではないだろうか。


④『とうとうたらりたらりら』は志貴皇子のテーマソングだった。

残念ながら見ることができなかったのだが、12月16日の22時30分、23時、23時30分の三度に渡り、南都楽所の楽人さんたちによって若宮神社の前で新楽乱声(しんがくらんじょう)が奏されるのだという。

南都楽所の楽人さんのhp(
http://www.eonet.ne.jp/~believe-in-snow/onmaturi.htm)に『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥  』と記されている。

これは奈良豆比古神社で10月8日に行われている『翁舞』の冒頭の台詞『とうとうたらりたらりろ』によく似ている。

能の『翁』では『とうとうたらりたらりら』となっており、言葉の意味は不明だとされている。

南都楽所の楽人さんのhpに記されている『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』とは一体何なのか。

邦楽をやっている友人に聞いてみたところ、これは唱歌(しょうが)だと教えてくれた。
唱歌とは邦楽における音楽を口伝するための表現方とのこと。

『とうとうたらりたらりろ』や『とうとうたらりたらりら』は、若宮様がおでましになる、テーマソングなのではないだろうか。

そして、
地元の語り部・松岡嘉平さんが伝承している語りは次のようなものだった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。


翁とは志貴皇子のことであり、志貴皇子は舞台に登場する際に春日若宮さまのテーマソングを口ずさんでいたのだ。

これはどういうことなのか。

志貴皇子は光仁天皇に「春日宮天皇」と追尊されている。
春日若宮とは天智天皇の皇子・志貴皇子のことではないのか。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁 
奈良豆比古神社 翁舞




謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑮道鏡と猿丸太夫 へ続きます~



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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑫天皇の 神の御子の 御駕の 手火の光りぞ ここだ照りたる  よりつづきます~
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①近江神宮 かるた祭

1月10日、午前8時ごろ、私と友人K子は近江神宮に到着した。
車のドアをあげて外に出ると吐く息が白い。
急いでコートを着込み、マフラーを巻く。底冷えするような寒さだ。

向こうから若い神職さんが歩いてこられたので、声をかけた。

「おはようございます。あのう、今日のかるた祭はどこで行われますか?」

「神楽殿で行われます。どうぞ、ご案内しますので。」

神職さんは神楽殿まで案内してくださり、扉の鍵をあけて私とK子を中に入れてくださった。

「今日は寒いですから中でお待ちになってください。始まるまでにまだ1時間ほどもありますから。」

そう言いながらファンヒーターのスイッチも入れてくださったので、私たちは温かい部屋でかるた祭が始まるのを待つことができた。
(ありがとうございました!)


近江神宮 かるた祭

「近江神宮の御祭神は天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ)ゆうねん。」

こう私はK子に話しかけた。

「天命開別大神?聞いたことないなあ?」

「天智天皇ことや。天智天皇の神名が天命開別大神やねん」

「あ、そうなんや。」

「鎌倉時代に藤原定家が選集した小倉百人一首には百首の歌にそれぞれ1~100までの番号が振られてる。」

「1番は天智天皇の 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ やったね。」

「そう、近江神宮でかるた祭をやってるのは、天智天皇の歌が百人一首の1番歌やからなんやて。」

ファンヒーターの熱風に手をかざしながら、そんな話をしているうちに、ひとり、またひとりと人がやってきた。
15~6人の人が集まったところで、かるた祭は始まった。

采女装束のかるた姫たちが登場し、スローモーションのようにゆっくりと、優雅に腕を伸ばして札をとっていく。

私は元旦にK子と百人一首かるたをしたときのことを思い出していた。
K子は百人一首が得意で、上の句の5文字が読み上げられただけで、鋭く札を跳ね飛ばしていた。
近江神宮のかるた姫の優雅さはK子とはえらい違いだ(笑)。


近江神宮 かるた祭2 

②埋葬されないわが身を嘆く歌


帰路、車の中でK子はこう話しかけてきた。

「なあ、悠太。知ってる?
万葉集に天智天皇の歌は4首あるねんけど、
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ
という歌は万葉集にはないねん。」

「えっ、そうなん?」

「この歌は958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されてるねん。
万葉集には似たような歌はあるけど。
秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける
作者は読人知らずやけどね。

秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ

秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける
を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌じゃないけど、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられてるんやって。」

K子は百人一首かるたが得意なだけでなく、こういったうんちくも詳しいんだなと私は感心した。

「なあ、K子。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ
いう歌は、なんで天智天皇の心を表す歌であると考えられたんやろう?」

「この歌はどう考えても農民の歌やん。天智天皇は身分の高い天皇なんやけど、貧しい農民の気持ちになって歌を詠んだ。
そのくらい天智天皇は思いやりのある人だったということとちがう?」


近江神宮 かるた祭3

「うーん?」

「悠太はどう思う?」

「後撰和歌集の撰者たちはこの歌を『死んだ天智天皇の霊が、埋葬されないわが身を嘆く歌』やと考えたんとちゃうかなあ?」

「えっ?」

赤信号で止まり、K子の顔を覗き込む。K子は目を丸くしてきょとんとした顔をしている。
信号が青に変わり、私はアクセルを踏み込みながら話を続けた。

「672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。」

「天智天皇の皇子の大友皇子と、天智天皇の同母弟の大海人皇子が皇位をめぐって争ったんやったっけ。」

「そう、で壬申の乱がおこったので、天智天皇の遺体を埋葬する余裕がなかった。
天智天皇の遺体は長い間放置されていたと考えられてる。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年なんや。」

「28年も? それじゃあほとんど天智天皇の遺体は白骨化してたのかも。」

「古事記にこんな記述があるねん。
大国主神が国譲りして、八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠れたと。

これは大国主神が風葬された様子を記したもので、古には柴を沢山立てた中に死体を葬る風葬の習慣があったと考えられてる。

また万葉集にこんな長歌がある。

荒磯面に いほりてみれば 波の音の 繁き浜辺を しきたえの 枕になして 荒床に 自伏す君が・・・・

「ああ、柿本人麻呂や。
荒磯の上に仮小屋を作って見やると、波の音が頻繁に聞こえる浜辺を枕として荒々しい岩の床に伏している人がいる・・・」

「荒床とは、風葬するときに死体の下に敷くむしろのことなんやって。
すると『荒磯の上につくったいほり(仮小屋)』は風葬するときに死体を安置する小屋のことなんとちゃうかなあ。

天智天皇の時代、天皇は一定期間、殯宮に安置されるのが一般的やった。
でも壬申の乱がおこったんで、天智天皇のために殯宮さえ作られなかったのかも。」

「天智天皇の遺体は風葬された?」

「つまり
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ
この歌の『かりほの庵』とは風葬するときに死体を安置する粗末な建物で、あまりに粗末であるため雨漏りがして遺体がぐっしょりと濡れている。
それを死んだ天智天皇の霊が嘆いている歌であると後撰集の撰者たちは考えたんとちゃうやろか。」

「なる、壬申の乱では、大海人皇子が勝利して即位し(天武天皇)、追い詰められた大友皇子は自害して果てた。
そのため大友皇子の父・天智天皇は反逆者の父であるとして長年埋葬されることもなく、放置されていたのかも。」

車窓から外を眺めるとちらちらと白い雪が降り始めていた。



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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑫天皇の 神の御子の 御駕の 手火の光りぞ ここだ照りたる  

①奈良大文字送り火

浮見堂 夕景 2 
夕暮れの鷺池、浮見堂。
 

浮見堂 夕景 

闇の色が少しづつ深くなり、それと反比例するようにライトアップされた浮見堂が浮かび上がってくる。

奈良大文字送り火

空の色が群青から黒へ変わったころ、浮見堂の向こうの山に大文字の送り火が点火された。

奈良の大文字送り火は昭和35年8月15日に戦没者慰霊と世界平和を祈って始められた。

大文字送り火の由来

大文字送り火が点火される山は高円山である。

高円山に大文字送り火の由来を記した碑があり、次のように記されているそうである。

高円山はかつて聖武天皇が離宮を営んだ地であり、弘法大師の師匠で大安寺の僧であった勤操が岩渕寺を創建した霊山である。
また護国神社のご神体の裏に位置する。こういったことから、高円山に大文字送り火を点火することにした。


護国神社は明治維新から第二次世界大戦までの奈良県出身の戦死者29,110柱の英霊を祀る神社で、昭和17年に創祀された。

④岩淵寺は志貴皇子を慰霊するための寺?

春日山岩渕寺は奈良時代に大安寺の僧、勤操(ごんぞう)によって創建されたと伝えられる。
勤操は空海の師匠で、空海は岩渕寺で勤操に弟子入りをした。

ところがいつのことか、岩渕寺は廃寺となってしまった。
新薬師寺の十二神将はもとは岩渕寺にあったものだといわれている。
また白毫寺は岩渕寺の一院ではないかともいわれている。
 
白毫寺は志貴皇子の邸宅跡だともいわれているので、
岩渕寺は志貴皇子の霊を弔うための寺だったのはないかと思ったりする。

志貴皇子の葬列の送り火

なぜ大文字送り火を点火する山として高円山が選ばれたのか。
それはもちろん、奈良市内からよく見える山だということもあるだろうが
唱和17年当時の人々の心に、笠金村が詠んだ志貴皇子の挽歌が思い起こされたからではないかと思ったりした。

万葉集に笠金村が詠んだ志貴皇子への晩歌が掲載されている。

亀元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨ぜし時に作る歌 并せて短歌

梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 得物矢(さつや)手挟み 立ち向ふ
高円山(たかまどやま)に 春野焼く 野火と見るまで 燃ゆる火を 何(い)かと問へば
玉鉾の 道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白栲の 衣ひづちて 立ち留まり 吾に語らく
なにしかも もとな唁(と)ふ 聞けば 泣(ね)のみし哭(な)かゆ
語(かたら)へば 心ぞ痛き天皇(すまらぎ)の 神の御子の 御駕(いでまし)の 手火(たび)の光りぞ ここだ照りたる

(梓弓を手に持ち、勇士たちが狩の矢を指に挟み持ち、立ち向かい狩をする高円山。
その高円山に、春野を焼く野火のように火が燃えている
「この火は何か、」と問うと、小雨が降ったかのように涙で真っ白な喪服を濡らしながら道を歩いて来る人が立ち止まって答えた。
「どうしてそんなことをお尋ねになるのですか。
聞けば、ただ泣けるばかり。語れば、心が痛みます。
天皇の尊い皇子様の、御葬列の送り火の光が、これほど赤々と照っているのです。」)

前回、私は春日宮天皇(志貴皇子のこと。志貴皇子は天皇ではなかったが、子の光仁天皇が春日宮天皇の追尊した。) 田原西陵を参拝した。
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑪ 志貴皇子が眠る場所 

田原西陵はこの高円山の向こう側にある。
そして大文字送り火が燃え盛る高円山の中腹に志貴皇子の邸宅跡と伝わる百毫寺がある。

大文字送り火が志貴皇子のご葬列の送り火のように見えてくる。

百毫寺 萩4

志貴皇子邸宅跡と伝わる百毫寺


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