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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑩ 志貴皇子 暗殺説 



謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑨志貴皇子と春日王は同一人物? よりつづきます~
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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫


①鹿鳴草

百毫寺 萩

自然石を積んだ長い石段が白毫寺の山門へと続く。
その石段に覆いかぶさるように、白と紫の萩の花が咲き乱れていた。
萩が風をうけてなびく様は、見ているだけでなぜか心が 切なくなってくる。
秋はなぜ人の心を感傷的にするのだろうか・・・。

萩は別名を鹿鳴草と言う。
なぜ、萩の別名は鹿鳴草なのか。

日本書記に『トガノの鹿』という物語が記されている。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。


奈良の鹿 親子

鹿の夏毛には白い斑点があるが、その斑点を塩に見立てたのだと思う。

そして謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の比喩ではないか、とする説がある。

萩の花には白と紫があるが、白い花のほうはまるで塩を振ったかのように見える。
萩の白い花は殺された雄鹿を表しているのだろう。

紫の花のほうは雌鹿をあらわしているのではないだろうか。

というのは次のような万葉歌があるからだ。

紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)

紫 の 匂える妹を憎くあらば ひと妻ゆえに 我恋めやも/大海人皇太子
(紫のように美しい貴女を憎く思えたならばどんなによかったでしょう。人妻であるのに私はこんなに貴女に恋焦がれています。)


これらの歌を鑑賞すると、紫とは男に出会った女がぽっと顔を染める様子を表す言葉であるように思える。

百毫寺 万葉歌碑

③高円の野辺の秋萩

本堂の奥の萩の茂みの中には歌碑が建てられていた。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)


この歌は笠金村が志貴皇子の死を悼んで詠んだ晩歌である。
百毫寺は志貴皇子の邸宅跡と伝わっている。
そのためここに歌碑をたてたのだろう。

また笠金村は 次のような歌も詠んでいる。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)


タイトルや著者名を忘れてしまったのだが(すいません!)
以前、図書館で借りて詠んだ本に、こんな内容が記されていた。

日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。

笠金村のはじめの挽歌から、志貴皇子が人知れず死んだことがイメージされる。
そして二番目の挽歌では『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。

志貴皇子の子である白壁王は、女帝の称徳天皇が急死したのち、即位して光仁天皇となっている。
これは志貴皇子には正統な皇位継承権があったということではないか。
そして志貴皇子は715年に暗殺されて、その死が1年近く隠されていたのではないか。


④志貴皇子を暗殺した人物とは

志貴皇子を暗殺したのは、元正天皇と舎人親王ではないかと私は考えている。

元正天皇が即位したのは715年である。
志貴皇子の薨去年が万葉集の詞書にあるように715年だったとしたら、志貴皇子の死はあまりに元正天皇にとってタイミングが良すぎる。
志貴皇子の死の原因を、周囲の人々はいぶかしく思うかもしれない。
そのため志貴皇子の死を隠したのではないだろうか。

百毫寺 萩4

元正上皇と舎人親王が贈答しあった歌が、万葉集にある。

あしひきの 山行きしかば 山人の 我に得しめし 山つとぞこれ/元正上皇
(山道を歩いていたところ、たまたま逢った山人が、私にくれた山の土産であるぞ、これは。)

あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰/舎人親王
(陛下は山へ行かれて山人に土産をもらったとおっしゃるのですか。「山人」とは誰のことなのでしょうか。山人とは陛下のことではありませんか。)

私はこの歌は志貴皇子の次の歌に対応しているのではないか、と思う。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)


大伴坂上郎女という人が次のような歌を詠んでいる。

大夫(ますらを)の 高円山に 迫めたれば 里に下り来る 鼯鼠(むささび)ぞこれ/大伴坂上郎女
(勇士たちが高円山で狩りをして、里に下りてきたむささびがこれです。)


大伴坂上郎の歌の中に『 高円山』とでてくるが、志貴皇子の邸宅跡とされる百毫寺は高円山の西の山麓にある。
高円山に住むむささびとは志貴皇子を比喩したものなのではないだろうか。

浮見堂 月

鷺池より高円山を望む


そして元正上皇がいう『山人』もまた志貴皇子を比喩していったもので、『山人がくれたみやげ』とは『志貴皇子の死=元正天皇の即位』を意味しているのではないか。

山人とは『山に住む人』『仙人』という意味であるが、『いきぼとけ』とよんで『心や容姿の美しい女性』のことをさす言葉でもあった。
それで舎人親王は、「山人=仙人=志貴皇子のことなどしらない。山人とは美しい女性という意味で、元正上皇のことではありませんか。」と答えたのだと思う。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)

この歌によまれたむささびとは志貴皇子自身のことで、漁師とは元正天皇または舎人親王のことをさしているのだと思う。

志貴皇子は、自分が元正天皇と舎人親王の陰謀で囚われの身となってしまったと嘆く歌のように私には思える。

百毫寺 萩2

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑪ 志貴皇子が眠る場所 に続きます~





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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑨志貴皇子と春日王は同一人物? 

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑧道教の弟・弓削浄人  よりつづきます~
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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫

①浄人王は弓削浄人?

長い坂を登って、ようやく奈良豆比古神社へ到着した。

前回、ここを参拝したとき、10月8日に翁舞が行われると教えてくれた人があった。
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑧道教の弟・弓削浄人 

その方はこんな伝説も教えてくれた。

志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


私は浄人王という名前と、弓削首夙人という名と位というのが気になっていた。
弓削首夙人という名と位というのは、たぶん弓削が名(姓)で首夙人が位だと思う。
つまり、浄人王は皇族であったが臣籍降下させられ、弓削姓を賜ったということではないかと思う。

葛城王は臣籍降下して橘姓を賜り橘諸兄と名のった。
橘が姓(セカンドネーム)、諸兄は名前(ファーストネーム)である。

弓削姓を賜った浄人王も橘諸兄のように、弓削何某という名を名乗っていたかもしれない。
しかし、弓削と浄人を単純にくっつけると弓削浄人となる。

私はこの名前には聞き覚えがあった。道鏡の弟の名前が弓削浄人というのだ。

この伝説を聞いて以来、弓削浄人という名前が気になって仕方なく、事あるごとにその名前が頭の中でリフレインされていた。

そして浄人王が春日大社で舞ったという父・春日王のハンセン病治癒を祈る舞をどうしても見たいという気持ちでいっぱいになった。

そういうわけで私は奈良坂を登ってきたのだった。翁舞を見るために。

②三番叟は猿丸太夫の舞?

日が暮れると舞殿前の篝火に火が入れられ、翁舞が始まった。
奈良豆比古神社 翁舞 千歳
篝火がたかれる中、小鼓の音と「いーやー、あいやー、おんはー」という掛け声が続く。
少年が扮する千歳が舞を舞ったのち、三人の大夫が舞台上で翁の面をつけた。
シテに神が憑依する瞬間である。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2

一人の大夫が舞ったのち、三人翁の舞となった。
京都の八坂神社で見た能の『翁』では翁は一人であったが。

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?② 『翁は猿丸太夫の舞?』 

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

三人翁が退出したのち、三番叟が登場した。
三番叟は舞を舞ったのち、舞台上で黒い翁の面をつけ、鈴を持ってさらに舞った。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2

千歳・三人翁の舞はゆったりしたスローテンポの舞だが、三番叟の舞は激しい。
田植えをする所作のようにも見える。
三番叟の舞が終わると割れるような拍手が響き渡った。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

動作は奈良豆比古神社の翁舞のほうが激しいものの、八坂神社で見た能・翁とほとんど同じだ。

八坂神社 翁 黒式尉

八坂神社 翁 三番叟

猿丸神社の狛猿は手に御幣を持っていた。
黒式尉が手に持っているのは扇子と鈴で持ち物は違うが、頭にかぶっている帽子のようなものがとてもよく似ていた。

猿丸神社 狛猿

猿丸神社 狛猿

猿丸神社の御祭神は猿丸太夫である。
そして、私たちは旅の中でたくさんの三番叟の姿をした猿の像や狂言の猿を見てきた。
三番叟とは猿丸太夫の舞なのではないだろうか?

猿丸神社 狛猿


猿が辻 猿の像

京都御所 猿が辻の猿の像


千本閻魔堂狂言 靭猿

千本閻魔堂狂言 靭猿


新日吉神社 猿のレリーフ 

新日吉神社 御神猿


新日吉神社 猿の像

新日吉神社 狛猿


③ハンセン病をもたらす神

前回、ここを訪れたとき、ひとりの男性にあい、次のようなことを教えていただいた。

奈良豆比古神社にある3つの社のうち、中央は平城津彦(ならづひこ)神という産土の神を祀っている。

その向かって右には志貴皇子を祀っている。
『いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも』
という有名な歌を詠まれた方である。
志貴皇子の子、白壁王が即位して光仁天皇となられた。
その際、光仁天皇は父親の志貴皇子を春日宮御宇天皇と追尊された。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

向かって左には志貴皇子の子の春日王を祀っている。
春日王は田原太子とも呼ばれている。

志貴皇子は天智天皇の第七皇子であったが、672年の壬申の乱(大友皇子vs大海人皇子)では大友皇子側についた。
壬申の乱では大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害して果てた。
そのため乱後の志貴皇子は政治的に不遇であった。

その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養された。
春日王の二人の息子・浄人王と安貴王は熱心に春日王の看病をされた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


奈良豆比古神社 社殿

奈良豆比古神社 社

この話を聞いて私はこんなことを考えた。

⑴「貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されることが多い。
疫病をもたらす疫病神は疫病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。
春日王はハンセン病を患ったというが、本当にハンセン病を患ったという意味ではなく、ハンセン病をもたらす怨霊だったのではないか?

⑵日本には先祖の霊はその子孫が祭祀(供養)すべきという考え方があった。
春日王が怨霊であったとすれば、春日王は謀反人として不幸な死を迎えた人であったと考えることができる。
春日王の怨霊の祟りを鎮めることができるのは春日王の子である浄人王と安貴王、また彼らの子孫だということになる。

⑶浄人王と安貴王は夙冠者黒人と呼ばれていたが、夙とは中世から近年にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民のことである。
春日王の子の浄人王と安貴王は非人だったのである。

⑷平安時代に承和の変をおこしたとして橘逸勢が姓を非人と改められて流罪になっている
非人とは謀反人もしくはその子孫のことではないか。

⑸桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えたというが、これは桓武天皇が浄人王と安貴王の官位をはく奪し『弓削』という名前を与えて非人にした、ということだろう。

⑹浄人王は皇族であったが、父の春日王が謀反人とされたため非人とされ弓削浄人という名前になったのだろう。
弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡は称徳女帝が次期天皇にしたいと考えていた人物である。

護王神社絵巻に描かれた道鏡 
護王神社絵巻に描かれた道鏡

④春日王は志貴皇子の荒霊?

先日、図書館で『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』という雑誌を借りて読んだ。
その中にここ奈良豆比古神社の翁舞についての記事があり、地元の語り部・松岡嘉平さんが次のような語りを伝承していると書いてあった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。


室町時代、金春流の祖となる人が奈良坂に能を習いに通っていた。
京都御所でおこなわれる能舞台に立つために奈良豆比古神社に伝わる『肉つき面』を借りた。
しかし面はなかなか返却されず、ようやく戻ってきたのは『肉つき面』ではなかった。
村人たちは激怒して坂下で殺し、金春塚に葬った。


なんと、地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。

志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。

志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。

神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。

桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。
さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしているのだ。
⑤瘤のあるうそぶき面

翁舞の奉納のあと、特別に公開されていた宝物館を見学させていただいた。
古い能面・狂言面が展示されていた。

その中にうそぶき(ひょっとこ)のお面があった。
額の右に瘤がある。

奈良豆比古神社 うそぶきの面

そういえば猿丸神社に瘤のある木がたくさん奉納されていたっけ・・・・。

猿丸神社 奉納された瘤のある木




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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑧道教の弟・弓削浄人 

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑦ハンセン病患者は文殊菩薩の化身だった。  よりつづきます~
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①志貴皇子と春日王

般若寺の参拝をすませたあと、般若寺の向かいにある植村牧場さんソフトクリームを買い(ミルクの味が濃くてとても美味しいです。)ソフトクリームを食べながら、さらに奈良坂を登っていった。

ソフトクリームを食べ終わったころ、私は奈良豆比古神社に到着した。

境内の奥には丹塗りの玉垣と鳥居があり、鳥居の下から中をのぞき込むと3つの社が建てられていた。


奈良豆比古神社 社殿  

参拝を済ませた私に「こんにちは」と声をかけてくださる方があった。
振り向いてみると年配の男性が立っていた。
話を伺ったところ近所に住んでおられるということだった。
男性は次のようなことを教えてくださった。

「3つ社がありますやろ、真ん中の社に祀られている神さんは平城津彦(ならづひこ)神ゆうて、産土の神・・・この土地の守護神ですわ。
向かって右は志貴皇子です。有名な歌がありますやろ、
いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも
この歌を詠みはった人です。
田原天皇・春日宮天皇ともいいますね。」

「ああ、志貴皇子の子の白壁王が即位して光仁天皇となられ、父親の志貴皇子を春日宮御宇天皇と追尊されたんでしたっけ。」

「そう、実際には志貴皇子は天皇ではなかったんですが、息子の光仁天皇が天皇の位をおくられたわけですわ。
志貴皇子の陵は高円山にあるんですけど、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれています。
それから向かって左には志貴皇子の子の春日王をお祭りしています。
春日王は田原太子とも呼ばれていますが」

「えっ、父親が田原天皇で息子が田原太子ですか?」

「そうです、志貴皇子は天智天皇の第七皇子やったんですが、672年に壬申の乱がおきましてね・・・・」

「天智天皇の皇子の大友皇子と、天智天皇の弟の大海人皇子が皇位をめぐって争った戦いですね。」

「はい、その壬申の乱で志貴皇子は異母兄弟である大友皇子側につかれました。
御存じのように大友皇子は敗れて大海人皇子が天皇になられました。
そういうわけで乱後の志貴皇子は不遇でした。

その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養されました。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があって、この兄弟が熱心に春日王の看病をされました。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈りはった。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かったそうです。

浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてておられました。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだそうです。
親孝行な兄弟の評判が桓武天皇にの耳にもはいりまして、桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とされたそうです。」

「弓削・・・・・・?」

「木や竹を削っ弓を作ってはったんで弓削という名前を与えはったんと違いますかな。
・・・・・そうそう、10月にはここで翁舞の奉納がありますんで、よかったら見に来てください。」

「えっ、翁舞?能の翁と何か関係があるんですか?」

私は正月に八坂神社で翁という能を見たことを思い出していた。
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?② 『翁は猿丸太夫の舞?』 

八坂神社 翁 白式尉

八坂神社 翁 白式尉


八坂神社 翁 黒式尉

八坂神社 翁 三番叟

「奈良豆比古神社は古くから芸能の神として信仰されてましてね、明治維新頃までは能や歌舞伎の役者は奈良豆比古神社を参拝して興行許可を得とったそうです。
能の翁のルーツはここの翁舞やと私は思います。
セリフとかもよう似てますし。
ここの翁舞は三人翁いうて、翁が3人出てきますけどね。

10月8日に翁舞奉納がありますので、ぜひ見に来てください。」


②春日王はハンセン病をもたらす怨霊だった?

古においては神と怨霊は同義語であったとされる。
怨霊とは政治的陰謀により不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えらえていた。
おそらく陰陽道の考えによるものなのだろうが、このような怨霊は神として祀り上げることで、守護神に転じるという信仰があった。
つまり、穢れ多い怨霊と、神聖なる神は表裏一体の存在だったのである。

ハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていた。
先ほどお参りしてきた般若寺はハンセン病を患ったといわれる春日王を慰霊するための寺だと私は考える。
もしかすると春日王がハンセン病を患ったというのは事実ではないかもしれない。

こんな伝説がある。

光明皇后は千人の垢を長そうと発願された。
最後の一人は皮膚病(天然痘)の老人だった。
老人は光明皇后に背中の膿を口で吸いだしてくれ、と頼んだ。
光明皇后はためらうことなく、老人の背中の膿を口で吸いだした。
すると老人はたちまち阿閦如来となった。


貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されることが多い。
疫病をもたらす疫病神は疫病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。
光明皇后と行基の前に現れた天然痘を患った病人とは天然痘をもたらした神ではないだろうか。

法華寺 山茱萸 

光明皇后の千人風呂伝説が伝わる奈良・法華寺の浴室(からぶろ)


729年、長屋王が左道(正しくない方法)を用いて国家を傾けようとしているの密告があり、長屋王は厳しい取り調べにたえきれず自殺してしまった。
この事件は藤原四兄弟(藤原不比等の4人の息子、武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の陰謀と考えられており、長屋王の死後、藤原四兄弟の妹・光明子は人臣として初めて皇后となり、藤原氏の権力は強固なものとなった。

ところがこの後、藤原四兄弟は天然痘で相次いで亡くなり「長屋王の怨霊のしわざ」だと噂された。
光明皇后の前にあらわれた天然痘を煩った老人とは長屋王の怨霊ではないだろうか。

しかし光明皇后が長屋王の怨霊の背中の膿を口で吸いだしたので、長屋王の怨霊は煩悩を捨てて成仏し、阿閦如来になったと、そういう話ではないかと思う。

これと同様、ハンセン病をもたらす神はハンセン病を患った姿をしていると考えられたのかもしれない。
すなわち、春日王は政治的陰謀によって不幸な死を迎え、死後怨霊になったと考えられた。
そしてハンセン病は春日王の怨霊の仕業でひきおこされると考えられていたのではないかということである。

③どんな人が非人になったのか

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑦ハンセン病患者は文殊菩薩の化身だった。 でお話したように、かつてここは非人の町だった。
一方、翁は能というよりは神事であるといい、、『別火を喰う』と言って、舞台に立つ7日前から家族と寝食を分かち、食事を調理する火も共用することが許されないという。
それほど神聖で穢れを嫌う神事を、非人が行っていたということに疑問を感じる人がいるかもしれない。
非人とは穢れた存在として差別された人々のことではなかったのか、と。

『別火』についてだが、昭和の時代の部落出身の人が『別火といって煙草の火を貸してもらえなかった』という意味の文章を書いておられたことを思いだす。
昭和という時代には『別火を喰う』ことは、神聖視というよりも蔑視の意味合いを持っていたようだ。

非人とは「人に非ず」という意味だが、人に非ずとは鬼であり、また神でもあるという両面の意味を持っていたのではないかと私は思う。
というのは先ほども述べたように、古において怨霊(鬼)と神は同義語であったとされるからだ。

それではどのような人たちが非人となったのだろうか。

日本には先祖の霊はその子孫が祭祀(供養)すべきという考え方があった。
その例は記紀にも記述がある。
崇神天皇代に大物主神の怨霊の祟りで疫病が流行ったが、大物主神の子の大田田根子を大神神社(大物主神を御祭神としている)の神官にしたところ疫病がおさまったというのである。
この話は、子孫が祭祀することで怨霊の祟りを鎮めることができるという信仰があったことを物語っている。

春日王が怨霊であったとすれば、春日王は謀反人として不幸な死を迎えた人であったと考えることができる。
春日王の怨霊の祟りを鎮めることができるのは春日王の子である浄人王と安貴王、また彼らの子孫だということになる。

さきほどの男性の話では、兄弟は夙冠者黒人と呼ばれていたということだったが、夙とは中世から近年にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民のことである。
奈良坂に住む賎民は北山夙と呼ばれていた。
夙と非人は同様のものだと考えてもいいだろう。
春日王の子の浄人王と安貴王は非人だったのである。

また平安時代に承和の変をおこしたとして橘逸勢が姓を非人と改められて流罪になっている
非人とは謀反人もしくはその子孫のことではなかっただろうか。

桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えたということだったが、これを栄誉あることであるなどと考えてはいけない。
橘逸勢のケースと同様で、桓武天皇は浄人王と安貴王の官位をはく奪し『弓削』という名前を与えて非人にした、ということだろう。

浄人王は皇族であったが、父の春日王が謀反人とされたため非人とされ弓削浄人という名前になったのだろう。

弓削浄人という名前には聞き覚えがある。
奈良時代の女帝・称徳天皇が寵愛し、次期天皇にしたいとまで考えていた僧の名前を道鏡という。
道鏡は弓削氏の出身のため弓削道鏡とも呼ばれている。
その道鏡の弟の名前が弓削浄人なのだ。
弓削氏は王族ではないが・・・・。

護王神社絵巻に描かれた道鏡 
護王神社絵巻に描かれた道鏡





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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑥ 道鏡は本当に悪人なのか? よりつづきます~

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北山十八間戸

※北山十八間戸に霊山寺(奈良市中町3879)境内の文殊菩薩像を合成。

①非人とハンセン病患者

なだらかな登り坂が続く奈良坂。
呼吸の乱れを整えるために立ち止まり、振り返ると坂の下に興福寺の五重塔が見えていた。
大きく深呼吸をしてから再び歩き始める。

しばらくすると柵で囲われた細長い長屋が見えてきた。
長屋の裏に回ってみると18個の裏戸があり、そのひとつひとつに「北山十八間戸」と文字が刻まれていた。
柵の中に入って見学したいと思ったが、出入口には鍵がかけられていた。

見学することはできないのだろうか?

思い切って長屋の隣にあるお好み焼き屋さんに尋ねてみた。
「あのう、北山十八間戸を見学したいんですが、どうしたらいいんでしょうか?」

するとおかみさんが
「はいはい、今鍵をあけますね。ちょっと待っててくださいね」
と言いながら、ぽんと好み焼きをひっくり返した。
どうやらこのお好み焼き屋さんが北山十八間戸を管理されているようである。

おかみさんはすぐに出てきて柵の鍵をあけてくださった。
そして次のように説明していただいた。

「ここは鎌倉時代、ハンセン病患者を救済するための福祉施設だったところです。
奈良時代に光明皇后が建てたとも、鎌倉時代に僧の忍性さんによって建てられましたともいわれています。
ここからもうちょっと北に行ったところに般若寺さんがあるんですが、もともとはその般若寺さんの北東にあったそうです。
1567年に戦災で焼けまして、1660年から1670年ごろにここに移りました。
2畳くらいの部屋が17つ、4畳くらいの部屋がひとつで、合計18つの部屋があります。
4畳くらいの部屋は仏間です。
1万8千人のハンセン病患者が利用したと言われてるんですよ。」

北山十八間戸がいつ誰によって建てられたものなのかについては、おかみさんが説明してくださったように2つの説があってはっきりしない。
しかし、なぜ奈良坂にハンセン病患者のための療養施設が作られたのかについてははっきりしている。
それは奈良坂が非人が住む町であったためである。

非人というと江戸時代に制定された身分制度を思い出すが、関西では中世より非人と呼ばれる人々がおり、多くは坂の町に住んでいた。
非人たちは寺社に隷属し、寺社の清掃、祭りの警備、死体の処理、神事などに携わっていた。

ここ奈良坂の非人たちは興福寺に隷属する民だった。

非人たちは非人宿(夙)に住み、病人の看護にも携わっていた。
奈良坂に北山十八間戸が作られたのは、ここに非人宿があったからだろう。
または北山十八間戸が先にあって、病人を看護するために非人宿が作られたのかもしれない。
いずれにせよ、北山十八間戸と非人に密接な関係があったことは事実である。

興福寺 夕景

荒池より興福寺を望む


②ハンセン病患者は文殊菩薩の化身

北山十八間戸からさらに坂を上っていくと般若寺がある。
境内にはコスモスが咲き乱れ、その中にうずもれるように本堂が建っていた。
本堂の厨子の中には、獅子にのる文殊菩薩像が安置されていた。
文殊菩薩のお顔は少年のようであり、若々しく生き生きとしている。

般若寺 十三重石塔 コスモス

般若寺

般若寺は629年高句麗の僧・慧灌(えかん)によって創建された。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したといわれる。文殊菩薩の巨像を御本尊としていたが1490年に焼失した。
現在の文殊菩薩像は1324年に慶派仏師・康俊が刻んだもので、もともとは経像の本尊で秘仏だった。
本堂の御本尊が焼けてしまったのでかわりに本尊にしたという。

文殊菩薩は『智慧の菩薩』と言われている。
仏教の修行の結果として得られたさとりの智慧のことを般若という。
般若寺という寺名は文殊菩薩を祀っているところからくるのだろう。

能に用いる般若の面は『嫉妬や恨みの篭る女の顔』を表したもので、角が生えた恐ろしい形相をしている。
なので、鬼のことを般若というのだとずっと思っていたが、それは間違いだったのである。

般若坊という僧侶が面を作ったので般若面と呼ばれるのだとか、
『源氏物語』の葵の上が六条御息所の生霊にとりつかれた時、般若経を読んで怨霊を退治したところからそう呼ばれるようになったなどと言われている。

さきほど見学してきた北山十八間戸は、ハンセン病患者を救済するための福祉施設であったが、かつてハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていたそうである。

宿の町・奈良坂にある般若寺の御本尊が文殊菩薩なのはこのためだろう。
般若寺はハンセン病患者の霊を弔うための寺なのだろうか。
いや、無名のハンセン病患者の霊を弔う寺だとは考えられない。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てたということは、それなりの身分で、ハンセン病を患った人がおり、その人物を弔うための寺であったのではないだろうか。

聖武天皇と同時代で、それなりの身分でハンセン病を患った人物がいる。
春日王だ。


回へつづきます~

般若寺  コスモス 阿弥陀如来 石仏

般若寺


謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑧道教の弟・弓削浄人 へ続く~





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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑥ 道鏡は本当に悪人なのか? 

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑤猿楽と猿の三番叟 よりつづきます~

トップページはこちらです→謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫

 
護王神社 亥子祭2 

①亥子祭


平安時代、亥の日・亥の刻(10月の亥の日、午後10時ごろ)に亥子餅を食べると病気にならないという信仰があり、宮中において玄猪(げんちょ)の儀式が行われていた。
亥子祭はこの平安時代の宮中行事を再現したもので、11月1日に護王神社で行われている。
  
護王神社 亥子祭 
護王神社の舞殿に十二単姿の女房たち、束帯姿の殿上男たちが登場し、聖上を取り囲むようにして席につくと
舞殿の上は平安絵巻の世界へと一変する。 

聖上が「神奈月時雨のあめのあしごとに我がおもふことかなへつくつく」と唱えながら小さな臼と柳の杵でゆっくりと餅をつく。
殿上男たちは「いのちつくつかさ」
女房たちは「いのちつくさいわい」 と唱えた。

護王神社 行列 

護王神社 行列2 
その後、人々は餅を献上するため、行列をつくって御所へ向かった。

②正史と喰い違いをみせる「護王神社絵巻」

護王神社の外壁には絵巻物風のパネルが複数枚展示されていた。
タイトルは『護王神社絵巻』となっていて、769年の宇佐八幡宮神託事件などについて記されていた。
護王神社の御祭神は和気清麻呂と清麻呂の姉の広虫であるが、彼らはこの宇佐八幡宮神託事件に大きく関わった人物なのである。

私はこの『護王神社絵巻』を読んで、「えっ?」と思った。
少し私が知っている宇佐八幡神託事件とは内容が異なっていたからだ。

護王神社絵巻が正史の記述と違うからといって、護王神社絵巻の内容が嘘だとはいえない。
しかし正史と内容が違うということはきちんと認識しておいたほうがいいだろう。

※ピンク色の文字は、護王神社絵巻に記された文章を転記したもの。

そのころ弓削道鏡という僧侶がいて政治に口出しをして勝手なことをしていました。
役人たちは恐れてご機嫌を取るだけでした。

ある時、宇佐八幡宮のお告げとして「道鏡を天子さまにするように」と伝えた者がありました。
そこで天子さまは清麻呂公をお呼びになって
「その宇佐八幡宮のお告げが本当かどうか正してまいれ。」
と言いつけられました。 

護王神社絵巻 
絵巻向かって左にはピンク色の僧衣を着た人物が描かれている。これが道鏡だろう。
道鏡の後ろには御簾があって、その中から女物の着物の裾が見えている。
これが天子さま、称徳天皇だと思われる。
天子さまは女性だったのだ。

道鏡は清麻呂に『わしの望みがかなったなら、おまえを重い役にしてやるからよろしく頼む。』と言いました。

ウィキペディアの説明は正史の記録をもとに記述したものだと思うが、このような記述はない。

宇佐に着いた清麻呂公は八幡宮に一心にお祈りしました。
すると
「我が国は神代から君と家来の区別がはっきりと決まっている。
どんなことがあっても家来を天子さまにすることはできない。道にそむく者は早く追払ってしまえ。」
という神様のお告げがありました。
清麻呂公は都に帰り、神様のお告げを天子さまにお答えしました。


道鏡は怒って清麻呂公を大隈国へ、広虫姫を備後国へ流しました。

※ウィキペディアの説明では、清麻呂の奏上に怒って流罪としたのは道鏡ではなく、称徳天皇となっている。

道鏡は清麻呂公を途中で殺そうと思い、家来に追いかけさせました。
その時、急に大嵐になったのでみんな逃げてしまいました。


※このような記述もウィキペディアにはない。

清麻呂公は大隈国で少しの間も天子さまのことを忘れません。
藤原百川はお米を送って慰めました。
広虫姫が備後国で暮らしていた時、都から干し柿が届きました。
姫が育てた子供たちが送ってくれたのでした。


※藤原百川がお米を送ったというのは、『百川伝』にも記されているので史実とみていいだろう。

1年あまりたちました。
天子さまからお使いがあって、清麻呂公と広虫姫は、都へ呼び戻されることになりました。

護王神社絵巻2 
頭を下げているのが和気清麻呂だろう。 
その前に座っているのは天子さまの使者だろうか?

③天子さまは二人いた。

あることがらについて、故意に話さないということは、世の中で頻繁に行われている。
護王神社絵巻は単に護王神社に伝わる伝説をそのまま描いただけで、故意ではないと思うが、重要なことが抜けている。

天子さまからお使いがあって、清麻呂公と広虫姫は、都へ呼び戻されることになりました。
とある。
ここにある「天子さま」とは誰のことだろうか。

「その宇佐八幡宮のお告げが本当かどうか正してまいれ。」
と和気清麻呂にいいつけた天子さま、つまり称徳天皇のことだと思う人が多いのではないだろうか。

しかしこの天子さまは称徳天皇ではない。


宇佐八幡宮信託事件があった翌年の770年、称徳天皇は急病を患って崩御した。
看病のため称徳天皇に近づけたのは女官の吉備由利だけで、病回復のための祈祷も行われていない。
こうしたことから称徳天皇は暗殺されたのではないかとする説がある。

さらに称徳天皇の遺勅には「白壁王を天皇とすべし」と記されていたが
この遺勅は藤原永手や藤原百川らがとりかえたものではないかとする説がある。
その結果、藤原永手・藤原百川らが推挙した白壁王が即位して光仁天皇となり、
道鏡は下野国へ流罪となり数年後に亡くなって庶民として葬られた。

和気清麻呂の罪が許されたのは称徳天皇が崩御されたあとのことで、光仁天皇の意思によるものだったのだ。

絵巻の文章は称徳天皇も光仁天皇もどちらも「天子さま」としており、称徳天皇が崩御されたことについては一言も触れられていない。
宇佐八幡宮神託事件についてご存じない方がこの『護王神社絵巻』をよむと、天子さまはひとりだと勘違いしかねない。

護王神社絵巻3

上の絵の女性は称徳天皇ではない。(このとき称徳天皇はすでに崩御されている。)

③道鏡は皇族だった?

道鏡の父親は志貴皇子だとしている史料もあり、そうであれば道鏡は皇族であって正当な皇位継承権があったということになる。
とすれば称徳天皇が和気清麻呂の奏上、
「我が国は神代から君と家来の区別がはっきりと決まっている。
どんなことがあっても家来を天子さまにすることはできない。道にそむく者は早く追払ってしまえ。」

を聞いてかんかんになって怒った理由もわかる。

道鏡は平将門・足利尊氏らとともに日本三大悪人のひとりに数えられるが、本当に彼らは悪い人間なのだろうか?
彼らが日本三大悪人とされたのは明治から戦前の皇国史観によるものだ。

道鏡の地元・大阪府八尾市には「道鏡を知る会」があり、道鏡の名誉回復に努力されているそうである。 

護王神社 亥子祭 行列2 


謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑦ハンセン病患者は文殊菩薩の化身だった。 へつづきます~





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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑤猿楽と猿の三番叟 



謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?④猿と三番叟 よりつづきます~

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①新日吉神社は豊国神社の復活を目的として再建された?

前回、新日吉神社と方広寺・豊国神社・妙法院・豊国廟(豊臣秀吉の墓)の関係について記した。
方広寺は豊臣秀吉が大仏を建てた寺で、創建当時の方広寺の敷地は、妙法院・現在の豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の敷地を含む広大なものだった。

秀吉の墓は方広寺東にある阿弥陀ヶ峯山頂に埋葬され、阿弥陀ヶ峯の山ろくに廟所が建立された。
廟所は豊国神社と命名された。

1615年、豊臣家が滅亡すると徳川家康は豊国神社を廃絶させた。
(現在、方広寺の隣にある豊国神社は1868年に明治天皇の勅命によって再興されたもの。)

1640年、旧豊国神社参道上(現在地よりもやや北がわ)に新日吉神社が再建された。
(1160年、後白河天皇が法住寺殿の鎮守として現在地より南に創建されたが、遷宮を繰り返していた。)
これについて、豊国廟への参拝を妨げるため、幕府が豊国神社旧参道に新日吉神社を再建したのではないかとする説がある。

しかし、ウィキペディアは次のような理由から、新日吉神社の再建は豊国神社の復活ではないかと記しており、
私はこれを支持している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA

a.新日吉神社は、豊国神社の参道を塞ぐように再建されたため、「幕府が豊国廟への参拝を妨げるために再建した」との説が明治以降流布した。

b.新日吉神社の再建に幕府が積極的に関わった形跡はなく、伝承では再建したのは後水尾上皇、直接に関与したのは妙法院の尭然法親王(後水尾実弟)である。

c.再建新日吉神社には明暦元年(1640)に樹下(このした)社(現在は豊国社と改称)が勧請され、そこには妙法院で密かに保管されていた豊国神社のご神体も祀られた。
秀吉の元姓は木下、幼名は日吉丸だった。

d.a~cの理由から、新日吉社の再建は、実は「豊国神社の復活」ではなかったかとの見方もある。


②後白河上皇の御所・法住寺殿を偲ぶ

前回、この付近を訪れたのは紅葉が色づく秋だった。
季節はめぐり、今は春。
桜の花で薄紫色に煙る東山を私はぶらぶらと散歩していた。

新日吉神社 
新日吉神社

豊国神社を復活させるために再建されたとも考えられる新日吉神社。
この新日吉神社の歴史は豊臣秀吉以前に遡る。

平安時代末期、後白河上皇は法住寺殿という広大な御所に住んでおり、新日吉神社はその法住寺殿の鎮守として創建されたのだ。

新日吉神社から少し歩くと法住寺もあるが、大変小さな寺で、広大な敷地面積を有していた法住寺殿の面影はない。

法住寺 

法住寺

法住寺の向かい側には三十三間堂がある。
細長い堂内には千一体もの千手観音が安置されていることで有名である。
三十三間堂は法住寺殿の鎮守寺だった。

三十三間堂 桜

三十三間堂

三十三間堂から東大路通を南に向かって歩いていくと、新熊野神社がある。

新熊野神社

新熊野神社は1160年、後白河上皇の命を受けた平清盛が紀伊国・熊野三山の熊野権現を勧請し、後白河上皇の御所・法住寺殿の鎮守社として創建された。

後白河上皇は33回または34回もの熊野御幸を行ったことで有名である。
厚く熊野の神を信仰しており、そのため法住寺殿の鎮守社として熊野の神を勧請したのだろう。








旧熊野本宮境内図2 

境内にはかつての新熊野神社付近の地図を描いた案内板が建てられていた。


②熊野本宮大社

新熊野神社 説明板 

旧熊野本宮境内図 

境内には和歌山県にある熊野本宮大社についての説明板もあった。






イザナギ イザナミ 

↑ 新熊野神社のHPを見るとこの像の写真の下に次のような説明が記されていた。
花の窟(はなのいわと)とは三重県熊野市有馬にあり、日本書紀にはイザナミ命の葬られた場所と記されている。現在は切り立った大岸壁の前に鳥居が建っているに過ぎないが、熊野信仰の原点ともいえる場所である。春と秋に例大祭が行われるが、その時には長さ170mの〆縄が張られ、そこに季節の花や果物・扇などが吊り下げられる。この社では、表面にイザナギ・イザナミ命の国造り神話を描くことで、当社の主祭神イザナミ命の神格を記している。

http://imakumanojinja.or.jp/keidaiannai2.html より引用

新熊野神社の御祭神はイザナミなのである。

ちなみに和歌山の熊野本宮大社の御祭神は家津美御子(けつみみこ/スサノオ)である。

熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社をあわせて熊野三山といいそれぞれ御祭神は次のようになっている。

熊野本宮大社 御祭神 家津美御子(けつみみこ/スサノオ)
熊野速玉大社 御祭神 熊野速玉大神(イザナギ)
熊野那智大社 御祭神 熊野夫須美大神(イザナミ)

③今熊野猿楽

新熊野神社には今熊野猿楽についての石碑も建てられていた。

世阿弥 義光 碑

石碑に「世阿弥 義光 機縁の地」と書いてあり、その傍らの説明板には次のように記されていた。
能楽大成、機縁の地

当地は能楽の大成者世阿弥が、まだ藤若丸と称していた文中三年(1374)のころ
父の観世清次と共に大和の猿楽結崎座を率い観勧興業を行ったところで、
世に「今熊野勧進猿楽」と呼ばれ、見学していた室町幕府第三代将軍義光が、その至芸に感激、二人を同朋衆に加え
父子を、それぞれ観阿弥・世阿弥と名乗らせた機縁の地である。
時の将軍の援助をうけた世阿弥は父の志をつぎ後顧の憂いなく猿楽の芸術性を高めるため日夜研究努力を重ね、
これを今日の能楽に大成させた。
謡曲史跡保存会

※改行は筆者が適当に入れた。

この説明板に猿楽という言葉が出てくる。
帰宅後、ネットで調べてみたところ、能楽と呼ばれるようになったのは明治以降で、それ以前、能楽は猿楽と呼ばれていたそうである。

今熊野猿楽図

今熊野能楽の絵が記された石碑もあった。
向かって左上の黒い面、黒い着物を着た人物は三番叟だ。

八坂神社 翁 黒式尉

八坂神社 翁 三番叟

④猿が三番叟の姿をしているのは猿楽だから?

ここまでの旅の中で、私たちはいくつかの猿の三番叟を見てきた。

猿丸神社 狛猿

猿丸神社 狛猿



猿が辻 猿の像

京都御所 猿が辻の猿の像


千本閻魔堂狂言 靭猿

千本閻魔堂狂言 靭猿


新日吉神社 猿のレリーフ 

新日吉神社 御神猿


新日吉神社 猿の像

新日吉神社 狛猿


猿が三番叟の姿をしているのは、三番叟が猿楽の演目だからなのだろうか?



謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑥ 道鏡は本当に悪人なのか? に続きます~





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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?④猿と三番叟 

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?③三番叟  よりつづきます~

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豊臣秀吉、善光寺如来の祟りで死亡。豊国神社の御祭神となる。

1567年、『東大寺大仏殿の戦い』で東大寺大仏殿は戦火によって消失し、大仏の首も落ちてしまった。
(現在の東大寺大仏殿は1709年に再建されたもの。大仏の頭部も江戸時代に補修された。)

豊臣秀吉は東大寺の大仏に変わるものとして新しく大仏を造立し、京都の方広寺大仏殿に安置した。
当時の方広寺の敷地は、妙法院・現在の豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の敷地を含む広大なものだった。



ところが1596年、慶弔伏見地震によってこの大仏は倒壊してしまう。
そこで1597年、秀吉は善光寺如来(善光寺の御本尊だが、当時は甲斐にった。)を大仏殿に移して本尊とした。

1598年 秀吉は病を患い、善光寺如来の祟りではないかということで、善光寺如来は信濃の善光寺へ戻された。
しかし1599年に秀吉は死亡してしまった。

1599年、遺命に従い、秀吉の遺体は方広寺東にある阿弥陀ヶ峯山頂に埋葬され、阿弥陀ヶ峯の山ろくに廟所が建立された。

秀吉は奈良東大寺大仏殿の鎮守・手向山八幡宮にならって自分を「新八幡」として祀るように遺言していた。
しかし、朝廷は「新八幡」ではなく「豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)」の神号を与え、廟所は豊国神社と命名された。
毎年8月18日の秀吉の年忌には豊国祭と呼ばれる盛大な祭りが行われたという。

②徳川家康、方広寺鐘銘に大激怒!豊臣家を滅亡させる。

秀吉の死後、豊臣秀頼が方広寺の大仏を作り直す計画をたてた。
秀吉が作った大仏は木造漆膠だったが、秀頼は銅造で大仏を作ろうとした。
ところが1602年、流し込んだ銅が漏れ出て火災が起き、造営中の大仏と方広寺大仏殿は消失してしまった。

1610年、方広寺大仏殿は再建され、1610年には梵鐘が完成した。
ところが家康がこの梵鐘の銘文「国」「君臣豊楽」に大激怒!

「国家安康」だと?これは家康の名前を切っているじゃないか!
「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」という意味ではないか!
けしからんーーーー!と。

そしてこれを理由に豊臣秀頼の居城・大阪城を責め、豊臣家を滅亡させてしまったのである。

 ③新日吉神社は豊国廟への参拝を妨げるために再建された?

1615年、豊臣家が滅亡すると徳川家康は、後水尾天皇の勅許をえて豊国大明神の神号を剥奪し、豊国神社も廃絶させた。
(現在、方広寺の隣にある豊国神社は1868年に明治天皇の勅命によって再興されたもの。)

1640年、旧豊国神社参道上(現在地よりもやや北がわ)に新日吉神社が再建された。
(1160年、後白河天皇が法住寺殿の鎮守として現在地より南に創建されたが、遷宮を繰り返していた。)

これについて、こんなことがまことしやかに言われている。

豊国廟への参拝を妨げるため、幕府が豊国神社旧参道に新日吉神社を再建したのではないかと。
 
④新日吉社の再建は豊国神社の復活?

ところがウィキペディアを調べてみると、次のようなことが記されていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA

a.新日吉神社は、豊国神社の参道を塞ぐように再建されたため、「幕府が豊国廟への参拝を妨げるために再建した」との説が明治以降流布した。

b.新日吉神社の再建に幕府が積極的に関わった形跡はなく、伝承では再建したのは後水尾上皇、直接に関与したのは妙法院の尭然法親王(後水尾実弟)である。

c.再建新日吉神社には明暦元年(1640)に樹下(このした)社(現在は豊国社と改称)が勧請され、そこには妙法院で密かに保管されていた豊国神社のご神体も祀られた。
秀吉の元姓は木下、幼名は日吉丸だった。

d.a~cの理由から、新日吉社の再建は、実は「豊国神社の復活」ではなかったかとの見方もある。

この説はつじつまがあっており、読むとなるほどと納得させられる。

⑤猿の三番叟

そんな歴史を頭の中に思い描きながら、私は京都の町を練り歩いていた。
かつては広大な敷地面積を有していたという方広寺だか、現在は小さな寺で像高19mもあったという大仏もない。

大仏は1610年に作り直されたが、1662年の地震で大破。
大仏に用いられていた銅は銅銭にされたという。

1667年、大仏は木造で作り直された。
ところが1798年の落雷でまたしても焼失している。

天保年間(1830年 - 1844年)、尾張国の有志により、上半身のみの大仏が木造で再興されたが
1973年、この大仏も火災で焼失してしまったという。

 かつて大仏殿があったという場所には小さな石碑が建てられているだけである。
ガラス張りの本堂内部には廬舎那仏像が安置されているが、像高は2mぐらいだろうか。

方広寺 

方広寺

ただ、徳川家康を激怒させた梵鐘は現存しており、「国」「君臣豊楽」の文字もはっきりと読み取れた。

方広寺 鐘楼

方広寺 鐘楼

方広寺 鐘銘 

方広寺鐘銘

方広寺の隣には1868年に明治天皇の勅命によって再興された豊国神社があった。

豊国神社 紅葉

方広寺より豊国神社を望む(柵の向こう側が豊国神社)

豊国神社の一本東の通りには豊国神社のご神体が密かに保管されていた妙法院がある。

妙法院 紅葉

妙法院の南に面した道路には豊国廟参道と記された石碑が建てられていた。

豊国廟参道 紅葉

この道を東にまっすぐ進んでいくと新日吉神社だ。

新日吉神社 紅葉

新日吉神社の拝殿の前には金網をかぶせられた阿吽の猿が置かれていたが、その阿形の猿は三番叟のいでたちをしていた。

新日吉神社 猿の像

三番叟とは能・翁で、黒い翁面をつけて舞う舞のことを言う。

八坂神社 翁 黒式尉

八坂神社 翁 三番叟

今回の旅のスタート地点・猿丸神社にも同様の像があったが、手には鈴と扇ではなく御幣を持っていた。
ただし、頭にかぶっている帽子は三番叟のものにそっくりである。

猿丸神社 狛猿

猿丸神社 狛猿

また、京都御所の猿が辻や千本閻魔堂狂言の演目「靭猿」なども三番叟の細長い帽子をかぶっていたが、手には御幣や扇子をもっていた。

猿が辻

猿が辻 東北の角をつくらないよう、塀を内側に凹ませてある。

猿が辻 猿の像

京都御所 猿が辻の猿の像(塀の瓦の下に設置されている。)

千本閻魔堂狂言 靭猿

千本閻魔堂狂言 靭猿

しかし、新日吉神社の猿は手に鈴と扇子をもっており、八坂神社で見た三番叟と持ち物が全く同じだった。

新日吉神社 猿のレリーフ 

新日吉神社 御神猿

さらに新日吉神社本殿向拝柱上方にある御神猿(説明版の写真)もまた手に鈴と扇子を持っており三番叟だと考えてよさそうだった。

どうも、三番叟と猿は関係が深そうである。





謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑤猿楽と猿の三番叟 に続きます~





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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?③三番叟 



①米原子供歌舞伎

古い民家が立ち並ぶ細い道を、はっぴ姿の若者たちが曳山を曳いてやってくる。
曳山は御殿のような造りになっていて、その中で子供歌舞伎が行われた。 

米原子供歌舞伎 松翁山 

松翁山で上演された「神霊矢口の渡し」。
ヒロイン役の男の子の色っぽさにしびれる❤
j歌舞伎義太夫さんの語りもすばらしい。

●人形振り

もともと人形浄瑠璃・文楽の演目だったものを歌舞伎の演目としたものがある。
このような演目のものを「義太夫狂言(ぎだゆうきょうげん)」という。
義太夫狂言では俳優が人形の動きをまねて演じる『人形振り』が演じられる。 

米原子供歌舞伎 松翁山-人形振り2   

米原子供歌舞伎 松翁山-人形振り 

『ガラスの仮面』の北島マヤもやっていたが、人形を演じるというのは難しそうだ。

②生き稚児は神の使い?

芝居が終わると大人の男性が子供の役者を抱きかかえて山からおろした。

米原子供歌舞伎 松翁山2 

これを見て、私は祇園祭を思い出した。

長刀鉾 生き稚児 

祇園祭 長刀鉾
 

祇園祭・長刀鉾には生き稚児と呼ばれる少年を乗せる。

その生き稚児を鉾から降ろすさい、強力とよばれる男性が稚児を肩に載せて下すのだ。

祇園祭の生き稚児や子供歌舞伎の俳優さんたちはは神の使いなので、地面に足をつけてはいけないと考えられたのではないだろうか。

米原子供歌舞伎 寿山 

米原子供歌舞伎 寿山 

③童子は艮=鬼をあらわす?

少年が神聖視されたのは世俗に汚されていないためだろうが、他にも理由があると思う。

干支の丑寅は方角では東北で、東北は鬼の出入りする方角=鬼門とされている。

干支


また鬼の温羅は別名を丑寅御前といい、艮=丑寅は鬼そのものをさす言葉でもあったように思われる。

そして丑寅=艮は八卦では童子を表している。
つまり、童子=艮=鬼、なのだと思う。

節分の鬼は結髪していないが、結髪しないのは子供の髪型で童形(どうぎょう)といわれる。


千本釈迦堂 おかめ節分 鬼

千本釈迦堂 おかめ節分 

京都・八瀬の人々は鬼の子孫と称し、かつては大人になっても結髪しない童形であったため八瀬童子と呼ばれていたという。
このことから考えても、童子は鬼を表しているといえるのではないだろうか。

そして鬼は怨霊と言ってもいいだろうが、日本では怨霊と神とは同義語であったといわれる。
怨霊=祟り神は祀り上げることでご利益を与えてくださる神に転じるというような信仰が古の日本にはあったのである。

子供歌舞伎に登場する少年たちは、鬼でありまた神であると信仰されていたのではないだろうか。

↓舞台の縁側部分は折り畳み式になっていて、俳優さんが縁側を通るときは大人の男性が縁の下に入って縁側を支える。
まさしく縁の下の力持ちである。 

④『縁の下の力持ち』の語源


米原子供歌舞伎 松翁山3

ただ縁側を支えるというだけなら縁の下に太い柱などを置いてもよさそうなものだ。
わざわざ人が支えているのは、その上で演技をする子供の役者さんたちを神聖視しているからではないだろうか。

「縁の下の力持ち」の語源は大阪・四天王寺で経供養の際、聖霊院の庭で「縁の下の舞」が行われたことからくるとも言われている。
「縁の下」は建物の縁の下にある庭で行うことを意味しているのだと思う。
経供養の舞は昔は非公開だったそうで、そこから人目につかないところで骨を折ることに例えられたといわれる。

四天王寺 経供養 
四天王寺 経供養(この日は雨天のため、建物の中で行われたが、通常は庭で行われる。)
現在、経供養の舞は公開されていて、誰でも見学することができる。


しかし、米原子供歌舞伎のほうが「縁の下の力持ち」という言葉にピッタリくるように思える。
案外、「縁の下の力持ち」の語源は米原子供歌舞伎の舞台を支える人の姿が語源なのかもしれない。
⑤三番叟

旭山では、以前八坂神社で見た、翁の舞に似たような舞が行われていたので、小さく「あっ」と声をあげてしまった。

黒い面は被っていないが、長細い帽子、手に鈴と扇をもっているなどいでたちも似ている。

米原子供歌舞伎 三番叟

地元の人に伺ったところ、これは三番叟だという。

「かつて能・翁では父尉・翁・老人(叟)の順に舞を舞うとたんですわ。
室町時代ごろ、父尉が省かれるようになりましてん。
老人の舞を三番叟といい、大変おめでたい舞やいうことで、三番叟のみを舞うようにもなったみたいですね。」

やはり、『翁』だったのだ。 

 

八坂神社 翁 黒式尉 

八坂神社 翁 黒式尉(三番叟)

猿丸神社 狛猿

猿丸神社 狛猿





謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?④猿と三番叟  につづきます~






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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?② 『翁は猿丸太夫の舞?』 

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫  よりつづきます~

トップページはこちらです→謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫 

①鴨川は三途の川に喩えられていた?

阪急河原町駅で下車し、四条通を東に向かって歩いていく。
しばらくすると鴨川があり、四条大橋の上を大勢の人が行き交っている。
中には晴れ着を着た人や、破魔矢を手に持つ人の姿がある。
今日は1月3日、八坂神社や六波羅光寺の初詣に行った帰りなのだろう。

橋を半分ほど渡ったところに般若心経を唱える托鉢の僧がいた。
僧の姿を見ると、今からあの世に行くのだ、という思いがこみ上げてきた。

『あの世に行く』とはどういうことか。

北に丘陵、南に湖沼、東に流水、西に大道がある土地のことを四神相応の地という。
丘陵には玄武、湖沼には朱雀、流水には青龍、大道には白虎という想像上の聖獣が棲むと考えられ、風水ではこのような場所を大変縁起のいい場所だとしている。

平安京は四神相応の地を選んで作られた。
すなわち、平安京は北の船岡山、南の小椋池(現存せず)、西の山陰道、東の鴨川に囲まれた土地を選んで建都されたのである。

四条大橋を超えて東山に向かうことは、平安京の外に向かうということである。
(厳密にいえば平安京の東の端は寺町通あたりなので、阪急四条河原町駅についたあたりで平安京を出たことになる。)

昔の人は平安京の中をこの世、平安京の外をあの世と考えたということを聞いた記憶がある。
すると四条大橋を渡ることはこの世(平安京)からあの世(平安京の外)へ行くことになる。
昔、鴨川はこの世とあの世の境を流れる三途の川に喩えられたのではないだろうか。

951年、京の町では疫病が流行し、鴨川のほとりは死体で溢れかえるほどの惨状となったと伝えられる。
当時の人々にとって鴨川はまさしく三途の川そのもののように映ったことだろう。

今でも鴨川の西は商店街や銀行、デパート、オフィスビルなどが立ち並んで人が生活する町という雰囲気であるのに対し、
鴨川の東は神社仏閣が多く、鳥辺野の風葬地の名残を残すという東大谷墓地などもあって、あの世という雰囲気が漂っている。

②翁は猿丸太夫の舞?

四条大橋を超え、まっすぐに歩いていくと突き当りに赤い楼門が見えてくる。
八坂神社である。

大晦日から元旦にかけての深夜、八坂神社は大勢の初詣客で賑わう。
神前で手を合わせるために3時間も並んだなどという話も聞く。
この日は1月3日なので、そこまでのことはなかったが、それでも神前には参拝客の長い行列ができていた。
私は行列の後ろのほうで手を合わせてお参りをし、八坂神社境内にある能舞台へと向かった。
能舞台の前のベンチはすでに人で埋め尽くされていた。
この日、八坂神社では初能奉納があるのだった。
能の演目は「翁」である。

まもなく舞台の上に囃し方が登場し、つづいてシテ(役者)が登場した。

シテは舞台の上でお面をつけた。
舞台上でお面をつけるのは能の中でも翁だけである。

八坂神社 翁 面をつける白式尉 

『翁」は『能にして能にあらず』『能というよりも神事である』などといわれている。
シテは舞台に立つ7日前から家族と寝食を別にし、食事を調理する火も共用することが許されない。
これを『別火を喰う』と言う。

「とうとうたらりたりらら」
翁(白式尉/はくしきじょう)のよく通る声が、冬の澄んだ青空にこだました。

八坂神社 翁 白式尉


「とうとうたらりたりらら」とはどういう意味なのか、よくわかっていないらしい。
おそらく古い言葉で、長い年月を経るうちにわからなくなってしまったのだろう。
和歌の枕詞などももともとは意味があったのだろうが、意味が分からなくなってしまったものが多い。

しばらくするとさきほどの翁とは別の翁がやはり舞台上で面をつけ、鈴を振って足拍子を踏み鳴らした。
私はその翁を見てとても驚いた。

八坂神社 翁 黒式尉 


翁の面が真っ黒だったからである。
黒い面の翁(黒式尉)は黒人なのか?
しかし顔立は日本人のようである。

また、このいでたちは、猿丸神社の狛猿を思いださせる。

猿丸神社 狛猿

猿丸神社 狛猿

猿丸神社の狛猿は手に御幣を持っていた。
黒式尉が手に持っているのは扇子と鈴で持ち物は違うが、頭にかぶっている帽子のようなものがとてもよく似ているではないか。

もしかして能・翁とは猿丸太夫の舞なのだろうか?


八坂神社 舞殿 
八坂神社 舞殿


八坂神社 楼門

八坂神社 西楼門



謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?③三番叟 につづきます~



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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫 




京都府綴喜郡宇治田原町 猿丸神社
2019年12月1日 撮影

 猿丸神社 歌碑 

①謎の歌人・猿丸太夫

奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/猿丸大夫
(奥山でもみじを踏み分けて鳴く鹿の声を聞くと、秋は切ないなあとしみじみ感じることだ。)


京都府綴喜郡宇治田原町にある猿丸神社はこの猿丸大夫を祀る神社である。

百人一首にもとられているこの歌の作者、猿丸太夫の実体はほとんどわかっていない。
猿丸太夫は謎の歌人なのだ。

猿丸太夫という歌人の名前が初めて文献に登場するのは平安時代初期に成立した勅撰和歌集・古今和歌集真名序である。
※古今和歌集には仮名でかかれた序文の仮名序と漢文でかかれた序文の真名序のふたつある。
※古今和歌集仮名序には、その成立について次のように記されている。
●醍醐天皇の勅命によって編纂された。
●『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んだ。
●905年に奏上された。(現存する『古今和歌集』には、延喜5年以降に詠まれた和歌も入っている。905年以降に手を加えたか)

古今和歌集真名序には次のように記されている。
「大友黒主之哥、古猿丸大夫之次也(大友黒主の歌は古の猿丸太夫の次である)」

「次」とあるが、何の次なのかさっぱりわからない。

そして古今和歌集真名序に猿丸太夫と記されてはいるが、古今和歌集には猿丸太夫の歌は一首もない。
それだけでなく、万葉集にも、その後の勅撰集にも猿丸太夫の名前はなく、正史にも登場しない。。

『猿丸大夫集』という歌集があるが、万葉集の異体歌と古今集のよみ人しらず歌ばかりで、本当に猿丸太夫が詠んだと確認できる歌は一首もないとされる。

 猿丸神社 拝殿


②古今和歌集詠み人知らずの歌は猿丸太夫が詠んだ歌?

平安中期の藤原公任は猿丸太夫を『三十六人撰』の一人に選び、代表歌として三首選んでいる。

●をちこちの たつきもしらぬ 山中に おぼつかなくも 呼子鳥かな
(遠くも近くも見当もつかない山中にたよりなく呼子鳥が鳴いているよ)

●ひたぐらしの 鳴きつるなへに 日は暮れぬと 見しは山のかげにざりける
(ひぐらしが鳴き始めて日が暮れたと思ったのは勘違いで、本当は山の影に入ったいたのだった)

●奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
(深い山の中で 紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くと秋が悲しく思えてくる。)

さきほど猿丸太夫の歌は古今集に1首もないと書いたが、この3首は古今和歌集に掲載されている。
ただし作者は猿丸太夫ではなく、よみ人知らずとなっている。

また藤原盛房の『三十六人歌仙伝』に「延喜の御宇、古今集を撰せらるの日に臨みて
()の大夫の歌多く()の集に載す。(醍醐天皇代、古今集撰集に際し、猿丸大夫の歌が多く古今集に載せられた)」

藤原清輔の歌学書『袋草紙』には「猿丸大夫集の歌多くもつてこれを入れ、読人知らずと称す」とある。

『猿丸大夫集』と『古今和歌集』のよみ人しらずの歌は同じ歌が24首あるが、この24首は猿丸太夫が詠んだ歌である可能性がある。

 猿丸神社 狛猿

狛猿が参拝者を出迎えてくれる。

③猿丸太夫と柿本人麻呂は同一人物?

猿丸太夫といえば、梅原猛さんの「水底の歌」を思い出す。
梅原猛さんは次のように説かれた。

769年に和気清麻呂が称徳天皇の怒りをかって「別部穢麻呂」と改名されられて流罪になったケースがある。
これと同様、柿本人麻呂も皇族の怒りを買い、改名させられて水死させられたのではないか。
『続日本紀』708年の項に柿本猨の死亡記事があるが、この柿本猨は柿本人麻呂と同一人物ではないか。
そして、この柿本人麻呂=柿本猨=猿丸大夫ではないかというのだ。

私は飛鳥時代の蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿などは蔑称ではないかと考えている。

馬子とは馬をひいて荷物を運ぶ仕事をする人のことである。
蝦夷は東北に住むまつろわぬ民。
入鹿は音が海豚に通じる。
古事記には大量の鼻を傷つけられた海豚が浜にうちあげられていたという話があり、政治的敗者の象徴とされているように思える。

そう考えると、柿本人麻呂の別称が柿本猨であり、柿本人麻呂=柿本猨=猿丸大夫であるかもしれないと思ってしまう。

しかし井沢元彦さんは、当時、動物を名前につけた例はあるとして
『柿本猨は柿本人麻呂が改名させられたものではない』としておられるようである。
(井沢元彦さんの「猿丸幻視行」を読んでいないので、詳しいことはわからないが。)

梅原猛氏が指摘されるように猿丸太夫の正体は、柿本人麻呂=柿本猨なのだろうか。



猿丸神社 境内 
猿丸太夫故址としるされた石柱があった。
 
⑥猿丸神社には謎をとくいくつかのヒントがあった。

これから、私はみなさんと一緒に、猿丸太夫の正体を解き明かす旅にでかけようと思う。
その第一回目はここ猿丸神社だ。

現在はネットで多くの情報が得られるが、私はやはり実際現地に足を運んでみるのが好きだ。
実際に行ってみないとわからないことも多い。
たとえばその土地の地理、方角、境内におかれているいろいろなものなどがヒントになって謎がとけることがあるのだ。(とけたと思っているだけかもしれないがw)

掲載したいくつかの写真の中にも猿丸太夫の謎をとくいくつかのヒントがあった。

猿丸神社 絵馬

絵馬には猿の顔が描かれていた。

猿丸神社 お札? 

これはお札だろうか?

猿丸神社 奉納された瘤のある木
 
猿丸神社は瘤取りの神として信仰されており、瘤のある木がたくさん奉納されていた。

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?② 『翁は猿丸太夫の舞?』 につづきます~





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