FC2ブログ












ミシャグジ様の謎⑬ 「酌をたつ神?」 

ミシャグジ様の謎 ⑫ 『疳の虫の神』  よりつづきます~
トップページはこちらです→
ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

一心寺 ジャカランダ3

①本多忠朝の墓

四天王寺からとことこと歩いて数分、一心寺にやってきた。
紫色のジャカランダの花が満開で、境内に彩を添えていた。

一心寺は1185年に四天王寺の別当・慈円の要請を受けて法然が草庵を結んだのが始まりとされる。
一心寺は四天王寺と関係の深いお寺なのだ。

このあたりは大阪の陣の舞台となったところでもある。
一心寺の北向かいの安居神社は真田幸村終焉後とされる。
真田幸村は15,000の松平忠直隊を破って家康本陣に攻め込み、一時、家康に自害を考えさせるほどの勢いだった。
しかし幸村は安居神社で味方の傷ついた兵士を看病していた際に、敵に襲われてしまった。
「わしの首を手柄にされよ」
幸村はそう言い、敵に首を討ちとられたという。

安居神社

安居神社


一心寺には大阪夏の陣・天王寺・岡山の戦いで討ち死にした本多忠朝の墓がある。

一心寺 ジャカランダ4


本多忠朝は大変な酒呑みで、それが原因で冬の陣では負けてしまい、家康にこっぴどく叱られたそうである。
そこで名誉挽回とばかりに夏の陣では頑張ったのだが、討ち死にし 死ぬ間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれている。

そんなわけで本多忠朝の墓は「酒封じの神」として信仰され、禁酒祈願に訪れる人が大勢いるとのことである。

②本多忠朝はミシャグジ神?

本多忠朝の墓所に、たくさんのしゃもじが奉納されていた。
これは「ミシャグジ神」に対する信仰ではないか。

本多忠朝の墓は大きな石の五輪塔なので、石神として信仰され、そのためしゃもじを奉納する習慣が生じたのではないだろうか?

また四天王寺にはミシャグジの信仰があったと推測される。

というのは、四天王寺には石神堂と咳の地蔵尊があるからだ。

牛王尊

四天王寺 石神堂

四天王寺 咳の地蔵尊

四天王寺 咳の地蔵尊

咳の地蔵尊は石神堂の神と関係のある地蔵尊ではないかと思う。
横浜市の社宮司社は、「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、この社に奉納されている杓子を持って帰り、のどを撫でると咳の病が治ると信仰されているという。
石は「せき」と読むので、石神堂の石神(牛王尊の巨石)は咳の地蔵尊に変化したのではないだろうか。


参照/
ミシャグジ様の謎⑪ 『咳の地蔵尊はミシャクジ様?』 


そして一心寺は四天王寺と関係が深い寺である。

1185年、法然が四天王寺別当・慈円の要請を受けて四天王寺の西門の近くに源空庵という草庵を結んだのが一心寺のルーツとされているのだ。

四天王寺にはミシャグジに対する信仰があったため、四天王寺と関係の深い一心寺でもミシャグジが信仰されるよういなったのかもしれない。

③ミシャグジ様は物部氏の神?

いやまて、本多氏と本田氏はもともと同族であったともいうし、もしかしたら本田忠朝の墓に杓子が奉納されているのは、本田善光と関係があるのかも?

本田善光は物部守屋が難波の堀江に流した仏像を持ち帰り、善光寺に祀ったとされる人物である。

※難波の堀江は、大阪の和光寺、奈良明日香村の難波池など諸説ある。

和光寺 

和光寺の阿弥陀池

向源寺 難波池  

向原寺近くにある難波池


善光寺 ライトアップ

善光寺

宮元 健次さんが、『善光寺の謎 (祥伝社黄金文庫)』という本の中で次のような意味のことを書いておられるそうである。

①善光寺内陣に守屋柱と呼ばれている柱がある。
②戒壇めぐりを行うことは、守屋柱を一周し、錠(独鈷)によって守屋柱に宿る守屋の霊を封じることである。
③善光寺は物部守屋を慰霊するための寺である。
(参照/
善光寺 門前町 ライトアップ 『善光寺は物部守屋を慰霊する寺だった?』 

もしかして本田善光とは物部氏であり、本多忠朝の先祖も物部氏だったりして?
すると、ミシャグジ様とは物部氏の神なのか、と想像が膨らむ。

そういえば物部氏が祭祀する神社には本殿がなく、磐(石)をご神体として直接拝するというスタイルが多かった。

参照/
ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル? 


磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船


星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

また、物部氏が祭祀する石上神宮の石上は石神と音が同じである。

石上神宮 3

石上神宮


④ミシャグジ様は疳の虫にご利益がある?

私は谷町筋近くにある自性院に行った時のことを思い出した。
自性院は権大僧都俊栄が開いたと伝わっているそうだが、戦災で全焼し、資料などすべて焼失してしまったため、詳しいことはわからないそうである。
そしてネット記事によれば、疳の虫封じにご利益があると信仰されているそうである。

自性院のある場所は四天王寺からそんなに離れていない。
そこで私は「四天王寺の牛王尊=石神および咳の地蔵尊に関係さまを自性院ではお祭りしているのかもしれない」と考えた。

自性院

自性院

そして、ネットにミシャクジさまにはどうやら疳の虫封じの信仰があったと考えられる書き込みがあった。
石神とは御石神(ミシャクジ)様のことだと思う。
このミシャクジ様について、次のような書き込みを見つけたのだった。

26:本当にあった怖い名無し:2006/10/29(日) 17:12:06 ID:y9X8lt7V0

ttp://talto.sakura.ne.jp/cgi/diary/hidiary.cgi?move_month=200511&pagemsg=all
諏訪大社。
諏訪湖の近くにある神社なのですが
上社と下社があり、それぞれ前宮と本宮があります。
つまり計4つの建物があるわけですね。
今回は時間の関係で上社しか行けなかったのですが
それだけでも十分でした。
神社で祭られている神様が予想とは全く異なり
嬉しい期待はずれだったのですよ。
実は諏訪大社の神様はミシャクジ様であることが判明。
ミシャクジ様ですよー。
日本に現存する古代神のひとりですよー。
縄文時代から伝わるアニミズム信仰の原点ですよー。
もう嬉しすぎて寝込んでしまいそうですよ。あはー。
ミシャクジ様は漢字で書くと御石神様。
ここからも元々は石の精霊であることが伺えますね。
後に疳の虫とつながりがあるとも言われ
ミシャクジ様の近くにはさみの絵を描いた紙を
お供えするという風習もあるそうですよ。
昔は疳の虫を切る儀式をハリガネムシで代用したと
聞いたこともありますね。

この期におよんでまたハリガネムシかい(笑)


https://hobby7.5ch.net/test/read.cgi/occult/1162037686/より引用

●長野県にある諏訪大社の神様がミジャクジ様である。
●ミジャクジ様は疳の虫と関係があるとされ、ミジャクジの近くにはさみの絵を描いた髪をお供えする風習があった。
●疳の虫を切る儀式をハリガネムシで代用した。

ミジャクジ様には杓子(しゃもじ)を奉納する習慣があるが、杓子をひっくり返すとお燗(かん)の徳利のような形になる。
それで、燗の神→疳の虫の神となったのかもしれない。

自性院でそう私は考えたのだった。

参照/
ミシャグジ様の謎 ⑫ 『疳の虫の神』 

多賀屋

多賀大社前 多賀屋さんの看板は杓子の形をしている。

⑤「燗を断つ」「酌を断つ」


本多忠朝の墓が酒断ちの神として信仰されているのは、「燗をたつ」を意味しているのかもしれない。

また、酒をつぐことを「酌をする」という。
御石神(みしゃくじ)の「しゃく」を語呂合わせで酌にかけたのかもしれない。

一心寺 ジャカランダ2

一心寺 ジャカランダ

次回につづきます~



いつも応援ありがとうございます♪

写真ブログのはずだったのにほとんど歴史ブログになってしまった 
心の旅 もよろしくおねがいします。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。


 
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


スポンサーサイト




[2019/11/28 13:53] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎 ⑫ 『疳の虫の神』 

ミシャグジ様の謎⑪ 『咳の地蔵尊はミシャクジ様?』  よりつづきます~
トップページはこちらです→
ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 



法性寺 
法性寺 立派な仁王門のあるお寺。

①谷町筋にお寺が多いのは日想観の聖地だったから~(チコちゃん風に)


谷町筋にはたくさんのお寺があって、ぶらぶら歩いていると楽しい。

聖徳太子が建てた四天王寺もある。
現在四天王寺から西の海岸線までは8kmほども離れているが、かつての海岸線は四天王寺付近まであったとされる。
淀川や大和川が大量の土砂を運び、また埋め立てられたりして平野が増えたというのだ。

平安時代以降、四天王寺付近から西に沈む太陽を望んで極楽浄土に思いをはせる日想観という修行が盛んに行われた。
谷町筋に寺院が多いのは、この界隈がそういった聖地であったからではないかと言われている。

四天王寺 夕日 

四天王寺 夕景

②疳の虫封じのお寺・自性院

自性院というお寺があった。

権大僧都俊栄が開いたと伝わっているそうだが、戦災で全焼し、資料などすべて焼失してしまったため、詳しいことはわからないそうである。
ネットの情報では、疳の虫(かんのむし)封じのご利益があると信仰されているとのこと。

権大僧都俊栄でぐぐって見ると東京都西東京市の総持寺(田無不動尊)がヒットする。
しかしこちらのほうは疳の虫封じの信仰はとくにはないようである。

なぜ自性院は疳の虫封じの信仰が生じただろうか?

自性院 
谷町筋付近 自性院 ↑ ↓

自性院2 

④京都の虫封じの寺社。


京都にもいくつか虫封じにご利益があるとされる寺社がある。

北向虫八幡神社桂川の草津湊にあったが1872年に伏見の田中神社境内(明治5年)に遷宮
平安時代、藤原安子が憲平親王(後の冷泉天皇)の癇の虫治癒祈願し効果があった。
社殿が北を向いているのは平安京鎮護のためといわれる。
三十三間堂三十三間堂の僧侶が夢のお告げで夜泣泉(よなきせん)を発見した。
すすり泣きに似ているので夜泣泉の名前がある。
冷たく、おなかをこわさない。枯れることがない。
夜泣泉の隣には夜泣地蔵がある。
お地蔵様の前掛けを持ち帰り、幼児の枕に敷くと、夜泣きが治るという。
剣神社願掛けの期間中は飛び魚を断って祈願する。
疳の虫と神、白山姫命を祀る。
壬生寺塔頭・中院の夜泣き地蔵(おせき地蔵)が幼児の夜泣きにご利益あり。
三宅八幡宮通称虫八幡。子供の疳の虫除けや夜泣きにご利益がある

夜泣き地蔵=お石地蔵=お咳地蔵?

壬生寺の「夜泣き地蔵」は「おせき地蔵」とも呼ばれている。
「おせき地蔵」は石像なので「お石地蔵」となり、ここからさらに「お咳地蔵」となったのではないかと想像する。

①で谷町筋は日想感の聖地だったと書いたが、その信仰の中心地は四天王寺だった。
その四天王寺の境内には牛王尊を祀る「石神堂」がある。

牛王尊

牛王尊とは厄神の牛頭天皇ではないかと思う。
そしてその牛王尊=石神ということなのだろう。

さらに 四天王寺境内には「咳(せき)の地蔵尊」がある。

四天王寺 咳の地蔵尊

咳の地蔵尊は牛王尊=石神と関係のある地蔵尊ではないかと思う。

壬生寺の夜泣き地蔵=おせき地蔵が疳の虫にご利益があると信仰されているということは、
四天王寺の牛王尊=石神および咳の地蔵尊も疳の虫にご利益があると信仰され、その四天王寺の牛王尊=石神および咳の地蔵尊に関係する仏さまを自性院ではお祭りしているのだったりして?

雲雷寺 
雷雲寺 谷町筋付近にはこんな ストゥーパのあるお寺もありました。

⑥ミシャグジさまに疳の虫をきるはさみをお供えする?


石神とは御石神(ミシャクジ)様のことだと思う。
このミシャクジ様について、次のような書き込みを見つけた。

26:本当にあった怖い名無し:2006/10/29(日) 17:12:06 ID:y9X8lt7V0

ttp://talto.sakura.ne.jp/cgi/diary/hidiary.cgi?move_month=200511&pagemsg=all
諏訪大社。
諏訪湖の近くにある神社なのですが
上社と下社があり、それぞれ前宮と本宮があります。
つまり計4つの建物があるわけですね。
今回は時間の関係で上社しか行けなかったのですが
それだけでも十分でした。
神社で祭られている神様が予想とは全く異なり
嬉しい期待はずれだったのですよ。
実は諏訪大社の神様はミシャクジ様であることが判明。
ミシャクジ様ですよー。
日本に現存する古代神のひとりですよー。
縄文時代から伝わるアニミズム信仰の原点ですよー。
もう嬉しすぎて寝込んでしまいそうですよ。あはー。
ミシャクジ様は漢字で書くと御石神様。
ここからも元々は石の精霊であることが伺えますね。
後に疳の虫とつながりがあるとも言われ
ミシャクジ様の近くにはさみの絵を描いた紙を
お供えするという風習もあるそうですよ。
昔は疳の虫を切る儀式をハリガネムシで代用したと
聞いたこともありますね。
この期におよんでまたハリガネムシかい(笑)


https://hobby7.5ch.net/test/read.cgi/occult/1162037686/より引用

長野県にある諏訪大社の神様がミシャクジ様であり、ミシャクジ様の近くにはさみの絵を描いた髪をお供えする風習があるというのだ。
それに続いて、疳の虫を切る儀式をハリガネムシで代用したと記されている。


ハリガネムシとは針金のような形をした虫で、バッタ・コオロギなどに寄生するという。
このハリガネムシを疳の虫にみたて、これをはさみで切ることによって疳の虫が治ると考えられたということだろう。

青字で示した文章には、ミシャクジ様と疳の虫の関係について明確に記されてはいない。
しかしミシャグジ様にはさみの絵をお供えするとあるので、ミシャクジ様が疳の虫を切ってくださるという信仰があったのか、と思える。


もしかしたら、この儀式をミシャグジさまのそばで行ったのかもしれない。

江國禅寺2 
谷町筋付近 江國禅寺

⑧ミシャグジ様に奉納する杓子をひっくり返せば燗をする徳利の形に

ミシャグジ様が疳の虫治癒の神様でもあるとすれば、なぜミシャグジさまは疳の虫治癒に霊験があると考えられたのだろうか。

ミシャグジ様は杓子(シャクシ/しゃもじ)の音に通じるため、杓子を奉納する習慣がある。

滋賀県の多賀大社にはしゃもじを奉納する習慣があるが、多賀大社もミシャグジ様と関係があるのだろう。
胡宮神社には青龍山山頂に胡宮の磐座(いわくら)があり、多賀大社の奥の院と呼ばれている。
磐座の神は石神である。

多賀屋 


多賀大社前にある多賀屋さんの看板は多賀大社に奉納するしゃもじを象ったものである。
このしゃもじをひっくり返すとお燗(かん)の徳利のような形になる。
それで、燗→疳の虫となったのかも?

江國禅寺

谷町筋付近 江國禅寺

江國禅寺付近  
谷町筋付近 江國禅寺

圓妙寺 

谷町筋付近 圓妙寺

圓妙寺2 

谷町筋付近 圓妙寺





次回につづきます~



いつも応援ありがとうございます♪

写真ブログのはずだったのにほとんど歴史ブログになってしまった 
心の旅 もよろしくおねがいします。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。


 
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村








[2019/11/06 19:20] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑪ 『咳の地蔵尊はミシャクジ様?』 

ミシャグジ様の謎⑩ 千の仏頭が現れた山   よりつづきます~
トップページはこちらです→
ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

四天王寺 紫陽花

四天王寺 紫陽花

①四天王寺のミシャグジ神?

橘寺を参拝した私は、今度大阪の四天王寺を参拝してみたくなった。
橘寺も四天王寺も聖徳太子が創建したと伝わっている。

587年、廃仏派の物部守屋vs崇仏派の蘇我馬子の戦争があった。
聖徳太子は蘇我馬子側に参戦していた。
戦争は蘇我馬子が勝利し、聖徳太子が物部守屋の土地と奴婢をもちいて建立したのが四天王寺なのだ。

石鳥居の前に立つと、中心伽藍である五重塔や金堂が見える。
昭和9年(1934)の室戸台風で五重塔は倒壊、その後、昭和15年(1940)に債権されるも、昭和20年(1945)の大阪大空襲で境内のほとんどの建物は消失したという。

四天王寺 夕日 

四天王寺 夕景

現在の本堂や五重塔は1959年(昭和34年)に再建された鉄筋コンクリート造ということだが、外観は伝統的な様式を踏襲しているように見える。

六時堂を参拝し、聖霊院へ向かう途中で、小さなお堂が目に留まった。
「牛王尊」「石神堂」と墨書された板が掲げられている。

牛王尊

四天王寺 石神堂

石神堂は推古元年(593)創建とされ、建築資材である石や材木を運搬した牛が、伽藍が完成すると石になったと伝えられている。
堂内には牛王尊の巨石が安置されている。
後世、牛は草を食べるところから、「瘡を食べてくれる神」として信仰された。
瘡とは皮膚病のことで天然痘のことも瘡といわれた。

牛王尊とは厄神(特に天然痘をもたらす神と信仰された。)の牛頭天皇ではないかと思う。
そしてその牛王尊を祀るお堂が石神堂なのだろう。

なぜ石神堂なのかというと、牛王尊=石神ということではないだろううか。

私は橘寺にあった二面石を思い出していた。

二面石

橘寺 二面石

橘寺の本堂にはたくさんの杓子(しゃもじ)が奉納されていた。
そしてミシャグジ様という神に杓子を奉納する習慣があること、ミシャグジ様とは御石神様のことだと聞いたことがあった。
私はこの二面石が御石神様であり、そのため橘寺には杓子を奉納する習慣があるのではないかと考えた。

杓子を奉納するのは、御石神→ミシャグジ→御杓子 という語呂合わせだろう。

そして橘寺と同じく聖徳太子が創建したと伝わる四天王寺境内には石神堂がある。
牛王尊=石神とすれば、四天王寺にも杓子が奉納されているのではないか?

私は境内を歩き回って杓子を探してみたが、見つけることはできなかった。
(探したりないのかもしれない。)

しかしあきらめて帰りかけたとき、中の門あたりで
「咳(せき)の地蔵尊」と刻まれた石碑をみつけたので、一気にテンションがあがってしまった。

咳の地蔵尊は牛王尊=石神と関係のある地蔵尊ではないかと思う。
横浜市の社宮司社は、「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、この社に奉納されている杓子を持って帰り、のどを撫でると咳の病が治ると信仰されているという。
名古屋市南区の石神社ではミシャグジという神様に杓子を奉納する習慣があるそうである。

石は「せき」と読むので、石神堂の石神(牛王尊の巨石)は咳の地蔵尊に変化したのではないだろうか。

四天王寺 咳の地蔵尊

四天王寺 咳の地蔵尊

②石上神宮は石神(ミシャグジ)?


さきほどものべたように、四天王寺は物部守屋の土地と奴婢を用いて聖徳太子が建立した寺とされる。
四天王寺がある辺りはもともとは物部氏の土地であったのだろう。
(もともと四天王寺は森ノ宮あたりにあったといわれるが)

奈良県天理市にある石上神宮は物部氏が祭祀する神社だった。
もしかして石上神宮の石上とは「石神」が転じたもので、ミシャグジとは物部氏の神様なのではないのだろうか。

石上神社 紅葉 
石上神宮

そういえば、肩野物部氏の本拠地だった大阪府交野市には巨大な岩を祀る神社、磐船神社・星田妙見宮があった。

物部氏は岩を信仰していた氏族なのだ。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 天の磐船

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮 織女石(たなばたいし)


ミシャグジ様の謎⑤ 交野ヶ原の天の川伝説 
ミシャグジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

③洩矢神=ミシャグジ=物部守屋?

長野県諏訪地方では洩矢神(もりやしん、もれやしん)が厚く信仰され、ミシャグジ神と同一視されているそうである。

洩矢と守屋は発音が同じである。

そしてこの洩矢神の後裔が守矢氏で、代々諏訪大社の神長官を務めてきたそうである。
そしてこの守矢氏が守ってきた「七本の峯のたたえ」はミシャグジ神が降りる木だと言われているそうである。

諏訪大社上社の御神体は‘守屋’山とされているが、守屋山は物部守屋と同じ名前である。

さらに諏訪大社上社の南西6kmほどの場所には守屋神社があり、物部守屋を祀っている。
そして諏訪大社上社の御神体・守屋山に頂上にある磐座は守屋神社の奥宮ともされているとのことである。

守屋神社では諏訪大社との関係は否定されているそうだが、私には関係がありそうに思える。

つまり、私は次のように推測するのである。
①守屋山の頂上にある磐座に降臨する神=洩矢神=ミシャグジ神=物部守屋の霊
②守屋山を御神体とする諏訪大社上社=物部守屋を祀る神社
③代々諏訪大社の神長官を務めた守矢氏=洩矢神の後裔=物部守屋の後裔

四天王寺の境内には守屋祠もある。

守屋祠

さらに次のように推測する。

④四天王寺は守屋の霊を慰霊するための寺であり、守屋に対する信仰があった。
⑤①で説明したように、洩矢神=ミシャグジ神=物部守屋の霊だと考えられる。
⑥四天王寺にはかつてミシャグジ神に対する信仰があったが、なんらかの理由で咳の地蔵尊におきかえられた。


ミシャグジ様の謎 ⑫ 『疳の虫の神』 につづきます~



いつも応援ありがとうございます♪

写真ブログのはずだったのにほとんど歴史ブログになってしまった 心の旅 もよろしくおねがいします。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。


 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村




[2019/10/23 17:55] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑩ 千の仏頭が現れた山  


ミシャクジ様の謎⑨ 30kmも運ばれた丈六の仏像 よりつづきます~
トップページはこちらです→
ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

①聖徳太子は怨霊だったby梅原猛氏

2019年1月12日梅原猛さんの訃報を告げるニュースが流れた。
彼は哲学者だが、どちらかというと歴史に関する著作が有名である。
特に彼の著書「隠された十字架―法隆寺論」は聖人として今なお厚く信仰されている聖徳太子を怨霊であったと説いて人々に衝撃を与えた。

私も彼の本をわくわくしながら読んだ読者のひとりだった。
私は彼の説のすべてを支持するわけではないが、歴史を考える彼の手法には多いに学ばせてもらった。
そんな梅原猛さんに心からお礼の言葉を述べて、別れの言葉に変えさせていただきたいと思う。

梅原猛さんの訃報を聞いた後、「隠された十字架」の舞台、法隆寺を訪れた。

法隆寺の南大門をくぐり、松並木がつづく参道を歩いていくと、中門と五重塔が見えてくる。

法隆寺 中門と五重塔 

この門はかなり変わった門である。
どこが変わっているのかというと、四間のため中央に柱があるのだ。


喜光寺 門 本堂 
上は喜光寺の門を撮影したものだが、通常の門はこの喜光寺の門のように奇数間のため中央に柱がくることはない。
梅原猛氏は門に柱を建てれば閂で、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺ではないかと説かれた。

法隆寺 夢殿 
法隆寺 夢殿

法隆寺 夢殿は開扉すると大地震がおこると言い伝えられており、長年扉が開かれたことがなかった。
1908年フェノロサが夢殿の扉をあけたところ、聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音が発見されたのだが
布でグルグル巻きにされたフランケンシュタインのような状態であった。
また、光背が頭に直接釘で打ち付けられていた。(一般的には足元にたてた棒に光背をつける。)
このほかにも多くの事例をあげ、梅原さんはこの救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像ではないかと説かれたのだった。


GUZE Kannon Horyuji

法隆寺 救世観音
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:GUZE_Kannon_Horyuji.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/GUZE_Kannon_Horyuji

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、古には疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。

聖徳太子がなぜ怨霊になったのかというと、彼の子孫は蘇我入鹿に攻められて、山背大兄王(聖徳太子の子)以下全員、斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって亡くなったからだと梅原猛氏はいう。

聖徳太子は立派な人物として今でも厚く信仰されているが、現在の日本人に彼の血は一滴も流れていないのである。

井沢元彦さんは梅原さんの説を受けて、先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべきとされているのに、聖徳太子には祭祀供養する子孫がいなくなった。
そのため怨霊になったと考えられたのではないかとおっしゃっている。

法隆寺 夕日 
法隆寺

②仏頭山

飛鳥にある橘寺は聖徳太子生誕の地で、聖徳太子創建の寺と伝わっている。
橘寺の山号は仏頭山という。

橘寺 彼岸花

お寺の後ろに写っている山が仏頭山である。

③千の仏頭が現れた伝説。


橘寺にはこんな伝説が伝えられている。

あるとき聖徳太子が3日間にわたり勝鬘経(しょうまんきょう)の講義を行うと、
蓮の花が庭に降り積もり、仏頭山に千の仏頭が現れ光り輝いた。
推古天皇はこれにたいそう驚かれて、この地に寺を建てるようにと聖徳太子に命じた。
そこで聖徳太子が橘の宮を寺と改めた。


仏頭といえば思い出すのが前回お話しした、興福寺所蔵で、もと山田寺にあったとされる仏頭である。 

Buddha Head Yamadadera

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Buddha_Head_Yamadadera.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Buddha_Head_Yamadadera.JPG よりお借りしました。
作者 匿名Unknown author [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


仏頭とはみほとけの頭部のことである。
体から切り離された頭部というのは気持ち悪い。
しかも、その仏頭の数は千も仏頭山に現れたというのだからそれは不気味な光景であったことだろう。


橘寺 彼岸花 白

法隆寺

④千の仏頭は聖徳太子の子孫の霊のドクロ?

①でお話ししたように、聖徳太子の子孫は、蘇我入鹿に責められて山背大兄王以下、全員斑鳩寺(法隆寺)首をくくって自害している。
千の仏頭とは、首をくくって自害した聖徳太子の子孫の霊のドクロなのではないだろうか。

聖徳太子の子と孫は大勢いたが千人は大すぎる。
誇張して千の仏頭としたのではないだろうか。

二面石

⑤二面石はミシャグジ様?

本堂の奥の聖徳太子像を拝み、本堂を出ようとしたとき、壁にたくさんのしゃもじがつりさげられているのに気が付いた。

なぜ橘寺にしゃもじが奉納されているのだろうか?

たしか、ミシャグジ様という神様がいて、杓子(しゃもじのことを杓子ともいう)を奉納する習慣があると聞いたことがあるが、橘寺にもミシャグジ信仰があったのだろうか?

そんなことを考えながら本堂を出ると、右手に奇妙な形をした石像があった。

二面石というそうで、表裏に善悪ふたつの顔を刻んだものであるという。

そういえば、ミシャグジ様とは、御石神様のことである、と聞いた記憶があった。
二面石は石像であるので、御石神様といえるかもしれない。

この二面石が境内にあるところから、橘寺には杓子(しゃもじ)を奉納する習慣があるのだろうか?

 橘寺 本堂 ライトアップ


ミシャグジ様の謎⑪ 『咳の地蔵尊はミシャクジ様?』 につづきます~



いつも応援ありがとうございます♪

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。


 
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村





[2019/10/10 11:17] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑨ 30kmも運ばれた丈六の仏像 



ミシャグジ様の謎⑧ 大神神社は物部氏が祭祀する神社?  よりつづきます~
トップページはこちらです→ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

興福寺 五重塔

興福寺 五重塔 八重桜

①巨大な仏頭

奈良を訪れたのは晩春で、もうソメイヨシノは散ってしまっていた。
こんな時期になぜ奈良を訪れたのかというと、東大寺知足院に咲くナラノヤエザクラを見たいと思ったからだった。
ナラノヤエザクラは遅咲きなのだ。
しかし残念ながらナラノヤエザクラは咲いていなかった。
それでも遅咲きの八重桜と藤が今を盛りと咲いていて心は落胆している暇がなかった。

興福寺 藤

興福寺 南円堂 藤

花を見ただけでは飽き足らず、御仏の姿も拝んでみたくなったので、興福寺国宝館に行ってみることにした。
国宝館には阿修羅像をはじめとする八部衆もあり、八部衆の前には人だかりができていた。
阿修羅の筋肉のついていない昆虫的な腕や少女のような憂いを含んだ顔に、私もしばし見とれた。
しかし阿修羅よりももっと私の度肝を抜いたのは、巨大な仏頭だった。高さは98.cmもある。

Buddha Head Yamadadera

山田寺仏頭(
興福寺蔵)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Buddha_Head_Yamadadera.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Buddha_Head_Yamadadera.JPG よりお借りしました。
匿名Unknown author [Public domain]


さらに驚いたことは、この仏頭はもともとは飛鳥の山田寺のご本尊であったというのだ。
その山田寺のご本尊の仏頭がなぜ興福寺にあるのか。またなぜ頭部だけなのか。

②蘇我倉山田石川麻呂

山田寺を創建した蘇我倉山田石川麻呂(? - 649年)は蘇我馬子の孫で蘇我倉麻呂の子として生まれた。
蘇我蝦夷は叔父、蘇我入鹿は従妹である。

      蘇我蝦夷ー蘇我入鹿
蘇我馬子<
      蘇我倉麻呂ー蘇我倉山田石川麻呂
            蘇我日向(倉山田石川麻呂の異母弟)


同族ではあるが、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏本宗家の蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子と対立していたようである。

蘇我倉山田石川麻呂、乙巳の変のメンバーに。

626年、蘇我馬子が死亡し、子の蝦夷が大臣となった。
蘇我蝦夷・入鹿親子は権力を増大させ、豪族達は朝廷ではなく蘇我家に出仕する有様であったという。

642年、蘇我蝦夷と入鹿は、自分達の陵墓築造のために公民を動員している。
聖徳太子の一族の領民も動員され、聖徳太子の娘の大娘姫王が抗議したという記録が残っている。

643年、蘇我蝦夷は朝廷の許可をえず蘇我入鹿を大臣とし、次男を物部の大臣とした。

こうした蘇我氏の専横に対し、中臣鎌足&中大兄皇子らは蘇我入鹿殺害を計画した。
この蘇我入鹿殺害計画のメンバーに、蘇我倉山田石川麻呂もはいっていた。
蘇我倉山田石川麻呂は娘の遠智娘(おちのいらつめ)を中大兄皇子の后にするなど、姻戚関係も結んでいる。

645年、蘇我入鹿は中大兄皇子に斬られて没し、その翌日、蘇我蝦夷は自宅に火を放って自殺した。
こうして蘇我本宗家は滅んだ。

皇極天皇は孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子が皇太子となった。
皇太子となった中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任命した。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)
 
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)中大兄皇子に首を斬られた蘇我入鹿。入鹿の首は皇極天皇の御簾にくらいついたと伝えられる。

③蘇我倉山田石川麻呂、冤罪で自害。

右大臣の地位を手に入れた蘇我倉山田石川麻呂。
しかし彼の栄華はわずか5年で異母弟・蘇我日向によって壊されてしまう。

649年、蘇我日向は、「蘇我倉山田石川麻呂は謀反を企てている」と中大兄皇子に密告したのだ。
蘇我倉山田石川麻呂のもとへ孝徳天皇の軍がさし向けられ、蘇我倉山田石川麻呂は一族とともに山田寺仏殿前で自害した。

この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされる。

④蘇我倉山田石川麻呂の死後も続けられた山田寺建立。

山田寺は641年に整地工事が始まり、643年には金堂の建立が始まっている。
648年には僧が住むようになっていた。

しかし、この翌年の649年に蘇我倉山田石川麻呂が自害してしまったため、山田寺造営は中断してしまった。

663年(天智天皇2年)、中断していた山田寺建立工事が再開した。
676年(天武天皇5年)に塔が完成した。
678年(天武天皇7年)には丈六仏像鋳造が始まり、685年(天武天皇14年)丈六仏像が開眼され、天武天皇が山田寺に行幸しています。

※丈六/仏像の像高。立像で約4.8m、坐像はその約半分。

天智天皇と持統天皇は蘇我倉山田石川麻呂の怨霊を恐れた?

③でも述べたように蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘は中大兄皇子〈天智天皇)の妃となっている。
遠智娘は中大兄皇子の子として健皇子・大田皇女・ 鸕野皇女を産んだ。
鸕野皇女は天武天皇の皇后となり、天武天皇崩御後、持統天皇として即位している。

蘇我倉山田石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられたのは、持統天皇・天武天皇の力添えがあったのではないかと考えられている。

私は天智天皇(中大兄皇子)やその娘の持統天皇が、蘇我倉山田石川麻呂の怨霊を恐れ、そのため山田寺の建立を行ったのではないかと思う。

蘇我倉山田石川麻呂が自殺においやられたのは中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であった。
また、『末代まで祟ってやる』などというように、怨霊は憎い本人だけでなく、その子孫にも祟ると考えられていたようである。

奈良時代には長屋王が謀反を企てていると讒言され、厳しい取り調べを受けて自殺に追い込まれている。(長屋王の変)
長屋王の変は藤原四兄弟の陰謀だと考えられている。
その後、天然痘が流行り、藤原四兄弟は相次いで死亡してしまうが、これは長屋王の怨霊のしわざだと噂された。

 飛鳥時代にもこれと同じような怨霊信仰があったのではないかと思うのだ。

つまり、山田寺の丈六仏像は蘇我倉山田石川麻呂の怨霊封じ込めの像ではないかと思うのである。

⑥興福寺の僧兵、山田寺講堂本尊を強奪!

『玉葉』(九条兼実の日記)に次のような内容が記されている。

「1187年、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊とした」と。
この山田寺講堂本尊の薬師三尊像の中尊の薬師如来は685年(天武天皇14年)に開眼された丈六仏像だと考えられている。

1180年、興福寺は平重衡の兵火によって炎上しているが、このとき、興福寺・東金堂の本尊も焼失してしまったのかもしれない。

興福寺は藤原氏の氏寺だが、藤原氏の祖は中臣鎌足である。
中臣鎌足は死の間際に天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜ったとされる。
この藤原鎌足(中臣鎌足)の次男が藤原不比等だが、藤原不比等は天智天皇の後胤とする説がある。

藤原鎌足は天智天皇の后・鏡王女を妻としてもらいうけているが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などに記されているのだ。

すると、藤原氏にとって蘇我倉山田石川麻呂は親戚(天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘の間に生まれたのが持統天皇なので)ということになる。

          鏡王女
           |――藤原不比等(興福寺縁起などによる。一般に藤原不比等は中臣鎌足の次男とされる。)
          天智天皇
           |――持統天皇
蘇我倉山田石川麻呂―遠智娘


興福寺は山田寺に対して、次のような理由を申し立てて仏像を強奪したのではないだろうか。
a.藤原氏は天智天皇の後胤である。
b蘇我倉山田石川麻呂の死後,山田寺に塔が建立されたのは天智天皇の資金援助を得たためである。(⑤を参照)

また陰陽道では荒ぶる怨霊(荒魂)は十分に慰霊するとご利益を与えてくださる和魂に転じると考えた。
さらに、明治まで神仏は習合して信仰されていた。

藤原氏の祖・天智天皇にとって蘇我倉山田石川麻呂は恐ろしい怨霊であるが、十分に慰霊・供養すれば和魂に転じる。
そういうわけで蘇我倉山田石川麻呂の怨霊封じ込めの像である山田寺の丈六仏像を興福寺は欲したのかもしれない。

1411年、興福寺東金堂で火災が発生し、丈六仏像も焼けてしまった。
ところが昭和12年、その後新しく新しく造られた本尊像の台座内から仏頭が発見された。
どうやら1411年の火災で丈六仏像の頭部が落ちて焼け残り、後に台座内にしまいこまれたようである。

これが興福寺国宝館に安置されている仏頭である。

美しく、端正な顔をしている。
しかし、頭部だけの仏像というのは首級を思い出させて気持ち悪いと思った。


興福寺国宝館をあとにした私は、桜井市にある山田寺跡へ行ってみることにした。
興福寺から車で50分ほど、直線距離で30kmも離れている。
この距離を丈六仏像を運ぶというのは、よほど厚い信仰心がないとできないだろう。

山田寺 白藤

山田寺跡 白藤


山田寺跡はただがらんとした何もない空き地のようなところだった。
そして空き地のすみに、明治25年
に再興されたという小さなお堂が建てられているだけだった。

山田寺 赤い楓

山田寺跡


ミシャグジ様の謎⑩ 千の仏頭が現れた山  につづきます~



いつも応援ありがとうございます♪

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。


 
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2019/10/07 16:17] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑧ 大神神社は物部氏が祭祀する神社? 


ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル? よりつづきます~
トップページはこちらです→
ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

①三つ鳥居は怨霊を封じるためのもの?

前回、私たちは石上神宮について見てきた。
ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル? 

今日はこの石上神宮から山辺の道を歩いて南へ6kmほどの場所にある大神神社を参拝してみることにしよう。

大神神社 茅の輪

コンクリート造りの大鳥居をくぐり、参道を歩いていくと大神神社の拝殿が見えてくる。
拝殿の前に置いてある輪は茅の輪である。

6月晦日の夏越の祓で、茅の輪潜りをする習慣が全国の神社にある。
その作法は神社ごとに多少の違いはあるが、だいたい、次のような文言を唱えながら輪をくぐる。

水無月の 夏越の祓ひ する人は、千歳の命 延ぶといふなり (1回目/左回り)
思ふこと みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな(2回目/右回り)
蘇民将来 蘇民将来(3回目/左回り)


生田神社 夏越大祓式 

上は生田神社(兵庫県神戸市)の夏越大祓式の写真である。
通常の茅の輪は生田神社のもののように一つの輪があるだけである。

大神神社は三輪山をご神体とする神社で、拝殿より直接ご神体の三輪山を拝する。

三輪山 日の出

大神神社 ご神体の三輪山


拝殿と大神神社の間には三つ鳥居がおかれているそうである。
私はなんとか三つ鳥居を見ることができないかといろんな場所から拝殿の向こう側をのぞいてみたが、残念ながら三つ鳥居は見ることができなかった。

三つ鳥居の写真は大神神社のhpに写真が掲載されていた。
http://oomiwa.or.jp/keidaimap/02-mitsutorii/

三つの輪を持つ茅の輪はこの三つ鳥居を模して作ったのだろう。

 三つ鳥居の中央には御簾のようなものがかけられているが、以前、大神神社のhpを見たときには鳥居の中央には御簾ではなく彫刻を施した扉のようなものがついていたと思う。
もしかしたら最近この三つ鳥居を作り直したのかもしれない。

いずれにせよ、この鳥居が普通の鳥居と性質が異なることは確かだろう。
普通の鳥居は参拝者がその下をくぐって神域に入ることができる。
いわば門のような役割をはたしている。
しかし、御簾や扉のついた鳥居では、その下を参拝者が通ることはできない。
 
三輪山は聖なる山、禁足地として参拝者の通行を制止するためのものなのか?
いや、どちらかというと、三輪山は怨霊の住まう山であり、怨霊が出てこないようにとの配慮からこのような御簾や扉のついた鳥居を作ったのではないかと私は思う。

というのは大神神社の御祭神・大物主は怨霊なのだ。
こんな話がある。

崇神天皇の夢枕に大物主があらわれ、こういった。
「今疫病が流行っているのは私の仕業である。自分の血をひく大田田根子に私を祀らせたならば、疫病はおさまるだろう。」
そこで天皇が大田田根子を探し出したところ、彼は「父は大物主神、母は活玉依姫」と答えたので、大物主神の祭主とした。
するとたちまち疫病は収まった。


怨霊とは政治的陰謀により不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業でひきおこされる、と考えられていた。
疫病を引き起こした大物主は怨霊だといえる。

②大田田根子は秦氏のオオ氏?

大田田根子は神君、鴨君の祖先だとされているが鴨氏が祭祀する上賀茂神社の摂社に大田神社がある。
また大田田根子は秦氏のオオ氏ではないかとする説がある。

秦氏は渡来人で、百済からやってきたとされるが、秦氏の祖が弓月君という人物であるところから、中央アジアにあった弓月王国の民ではないか、
そして弓月王国はキリスト教国であり、秦氏はクリスチャンではないかともいわれている。

秦氏の本拠地・京都の太秦には秦氏の氏寺である広隆寺があるが、広隆寺はかつて別名を太秦寺といった。
そして唐のネストリウス派キリスト教(景教)の寺院は大秦寺といい、太秦寺とは点があるかないかの違いしかない。
蚕の社はその広隆寺の鎮守として創建されたとも伝わるが、そこには珍しい三柱鳥居があり、キリスト教の三位一体をあらわすのではないかといわれている。

蚕の社 三柱鳥居 

蚕の社 三柱鳥居 3つの鳥居で三角柱の形を作っている。


三柱鳥居が秦氏の信仰によるものであるならば、大神神社の三つ鳥居もまた秦氏によるものではないか、とも考えられる。

③物部氏の祖神・ニギハヤヒと大物主は同一神?

大田田根子が秦氏だとすると、大物主は秦氏なのか?
私は大田田根子の母親の活玉依姫が秦氏の女性であったのではないかと思う。

大田田根子の父親、大物主は物部氏ではないだろうか。

物部氏の祖神はニギハヤヒだが、先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表記している。

そして大物主神は正式名称を倭大物主命という。
櫛・玉(魂)が共通するので、二神は同一神ではないかとする説があるのだ。

④本殿をもたないのは物部氏の祭祀スタイル?


そういえば、肩野物部氏の本拠地である大阪府交野市・枚方市あたりには本殿のない神社がいくつかあった。

磐船神社・星田妙見宮は巨岩をご神体とし、交埜神社の境外社の瘡(くさがみ)神社は拝殿の後ろにある沼をご神体としていた。
いずれも本殿はない。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 天の磐船

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮 織女石(たなばたいし)

瘡(くさがみ)神社
 

瘡(くさがみ)神社 拝殿より後方の沼を拝する。
鳥居の左右の脚の長さがちがっていたw 2018年の台風で折れたのかも?

そして前回訪れた石上神宮には現在は本殿があるが、もともとは本殿はなく拝殿の奥の聖地を「布留高庭」として祀っていたのだった。
石上神宮は物部氏が祭祀する神社である。

石上神宮 3

石上神社


そして、ここ大神神社にも拝殿はあるが本殿がない。
拝殿より直接ご神体である三輪山を廃するという祭祀スタイルである。

大神神社の御祭神・大物主神は物部氏の神で、大物主神の「物」とは「物部氏」を意味しているのではないか。

星田妙見宮には次のような伝説が伝わっているとネット記事で読んだ記憶がある。

星田妙見宮は何度本殿を作っても火事になって焼失してしまう、それでこの神様は本殿は欲しくないのだろうということになり、本殿をつくっていない。

そしてこれとほとんど同じ伝説を、大神神社に伝わる伝説として聞いた記憶があった。
しかし随分昔のことであり、テレビか何かの本で読んだのだと思うが、覚えていない。
なので残念ながらこれについてのソースを示すことができない。

⑤大物主神と大国主神は同一神?

大神神社の御祭神・大物主神と出雲大社の御祭神・大国主神は同一神とされている。

というのは、次のような神話があるからだ。

大国主神は少名彦名神とともに国作りを行っていたが、国作りの途中で少名彦名神は常世の国へいってしまった。
大国主神はこれからどうやって国作りをすればいいのかと途方にくれていたが、そこへ海の向こうから光り輝く神があらわれた。
大国主が神に名前を問うと、「私はあなたの幸魂、奇魂。私を祀れば国造りは完成するだろう」と言った。
そこで大国主が祀ったのが大神神社であるという。


Izumotaisha 17feb1875

国立公文書館所蔵「出雲大社絵図」(1875年〈明治8年〉頃作成)
中央にある一番大きな建物が神殿だろう。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Izumotaisha_17feb1875.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/66/Izumotaisha_17feb1875.jpg
不明 [Public domain]


⑥出雲大社の本殿は15階建てビルに匹敵する大きさだった。

大国主を祀る出雲大社には大きな本殿がある。
現在でも破格の大きさだが、かつてはもっと大きかったらしく、出雲大社の言い伝えでは、神殿の高さは上古には32丈(約96m)もあったという。
970年に源為憲が書いた『口遊(くちずさみ)』によれば『雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)』とある。
雲太は出雲太郎、和二は大和二郎の略で東大寺大仏殿、京三は京三郎の略で京都の大極殿を表しており、出雲大社・大仏殿・大極殿の順で建物が大きいという意味だ。
その当時の東大寺大仏殿の高さは15丈であり、出雲大社の本殿は十六丈(約48m)はあったと想定される。
高さ十六丈は現在の15階建ての高層ビルに匹敵する。

また、3本の木を鉄の輪で1つに束ね、柱の太さが1丈(3m)もある金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』なども伝えられていた。
金輪御造営差図のような建物は構造的に無理だと考えられていたが、平成11年(1999)年から平成12年に行われた発掘調査の結果、拝殿北側から3本の柱の根本部分が発見され、しかも3本を束ねた柱の直径は約3mもあった。
こうして『金輪御造営差図』が現実のものであったことがわかった。

Izumo-taisha scale model 121281969 6127ff6b17 o

古代の本殿の模型
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Izumo-taisha_scale_model_121281969_6127ff6b17
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8e/Izumo-taisha_scale_model_121281969_6127ff6b17_o.jpg
Blue Lotus [CC BY 2.0 (
https://creativecommons.org/licenses/by/2.0)]

⑥出雲の国譲り

大国主といえば国譲りの神話で知られる。

天照大神に派遣されたタケミカヅチが大国主神に「国を譲れ」とせまった。
大国主は「二人の息子に聞いてくれ」と言った。
そこでタケミカヅチが大国主神の息子の事代主神に「国を譲れ」と迫ったところ、事代主神は「承知した」と答えて
逆手を打ち、海を青芝垣に変え、船を踏み傾けて姿を消した。(入水したのだろう。)

次にタケミカヅチは大国主神のもうひとりの息子タケミナカタと相撲をとった。
タケミナカタはタケミカヅチに手をつぶされて諏訪湖まで逃げたが逃げ切れず「国は天孫にさしあげる」と約束した。

大国主神は「二人の息子がそういうならば国は天孫にさしあげる。そのかわり天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を作ってほしい。そうすれば私はその宮殿に籠って外に出ることはないだろう。」

この大国主の言葉に従って作られたのが出雲大社で、出雲大社の社殿が大きいのは大国主の願いを聞き入れた、ということだろう。

⑦本殿を作らないのは、天皇家に従わないという意思表示だった?

一方、大物主神を祀る大神神社には本殿がない。
これについて、こんなことを言う人がいる。
「大国主神は宮殿をつくってもらえたが、大物主神は宮殿を作ってもらえなかったのだ。」

しかし伝説では、大物主のために何度本殿(宮殿)をつくっても潰れてしまうので、人々は大物主自身が本殿(宮殿)を欲していないと考えたということだった。

この伝説をどう考えるべきだろうか。

ニギハヤヒは初代神武天皇より早く畿内に天下った神であり、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。

日本書紀に次のような記述がある。

ニギハヤヒを神と奉じていたナガスネヒコは、日向より東征して畿内入りした神武と対峙し、次のように発言した。

「昔ニギハヤヒという天孫が天下り、私は妹のトミヤスヒメをニギハヤヒと結婚させた。
二人の間にはウマシマジノミコトという御子も生まれた。
あなたは天孫だというが、天孫がふたりもいるのか。
あなたは天孫だと偽って土地を奪おうとしているのではないか。」

神武は天つ神の子である証拠の天の羽羽矢と歩靱(かちゆき)を見せた。
それでもナガスネヒコは考えを改めなかったので、神武に服したニギハヤヒによってナガスネヒコは殺された。

(日本書紀)

ナガスネヒコは神と奉じていたニギハヤヒに殺されたとあるが、これは信用できない。
日本書紀は舎人親王らが編纂し元正天皇に奉納したものであり、天皇家に都合よく改竄されている可能性が高いからだ。

③で書いたように、大物主神=倭大物主命は物部氏の祖神・ニギハヤヒ=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と同一神であったのだろう。

実際のニギハヤヒ=大物主神は誇り高い人物であり、簡単に国を明け渡すような人物ではなかったのではないだろうか。

「私は宮殿などいらない。私は宮殿にこもったりはしない。もちろん国を天孫に譲ったりもしない!」
大物主はそんな風に考えているににちがいない、と人々は考え、大神神社に関しては出雲大社のように本殿をつくるということをしなかったのではないか。

しかしそれではあまりに大物主の祟りが恐ろしいということ大田田根子は大物主の怨霊を封じるため、三つ鳥居をつくり、三輪山から大物主神の怨霊が彷徨い出ないような呪術的な仕掛けをつくったのではないだろうか。

また本殿を造るのは秦氏の祭祀スタイルであり、本殿を作らず巨岩・沼・山などをご神体とするのは物部氏の祭祀スタイルだと考えられると思う。





ミシャクジ様の謎⑨ 30kmも運ばれた丈六の仏像 につづきます~



いつも応援ありがとうございます♪

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。


 
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村







[2019/09/21 16:28] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル? 

ミシャグジ様の謎⑥ 沼をご神体とする神社  よりつづきます~
トップページはこちらです→
ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

①刀剣を神格化した神フツヌシ

春日大社の御祭神はアメノコヤネノミコト・タケミカヅチ・フツヌシ・ヒメガミの4柱である。
アメノコヤネノミコトは藤原氏の祖神、タケミカヅチ・フツヌシは藤原氏の守護神、ヒメガミはアメノコヤネノミコトの妻とされる。

春日大社の一柱・フツヌシは、刀剣を神格化した神だと考えられている。

春日大社 舞楽始 

春日大社

②神武天皇を助けた刀剣・フツノミタマ

記紀には「フツノミタマ」という神剣が登場する。

高倉下(タカクラジ)はこんな夢をみた。
葦原中国が騒がしいので、天照大神と高木神はタケミカヅチを葦原中国に派遣しようとした。
タケミカヅチは「自分が葦原中国へ行かなくとも、国を平定した剣があるのでそれを降ろせばいい」と言った。
高倉下が目覚めて倉の中を見てみると、倉の中に剣があった。

神武天皇が率いる軍は熊野で悪神の毒気にあたって倒れてしまった。
しかし、高倉下がこのフツノミタマをもたらすと意識を戻した。

 春日大社 萬灯篭2

春日大社


③フツノミタマ、物部氏が祭祀する石上神宮から出土。

フツノミタマは石上神社(奈良県天理市)にあると記紀には記されている。

石上神社はかつて地元では「いわがみさん」などとも呼ばれており、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を御祭神としている。
石上神社は古代軍事氏族の物部氏が祭祀し、大和政権の武器庫であったと考えられている。

石上神社にはもともと拝殿があるだけで本殿はなかった。
そして拝殿の奥の聖地を「布留高庭」として祀っていた。

「布留高庭」には二つの神宝が埋められていると言い伝えられていた。
1874年の発掘調査で布都御魂剣が、1878年の発掘調査では天羽々斬剣が出土し、1913年、これらを祀るための本殿が建造された。

 
石上神宮 3

石上神社


④物部氏の祭祀する神社は神殿がない

大阪府交野市付近は肩野物部氏の本拠地だったが、星田妙見宮・磐船神社・など神殿のない神社が多い。
どちらの神社も拝殿より直接ご神体の巨大な岩を拝するという祭祀スタイルである。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船


星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

磐船神社は物部氏の祖神・ニギハヤヒを御祭神とする神社なので、物部氏が祭祀する神社でまちがいないといえそうだ。
また交野市の隣・枚方市にある片埜神社の境外社・瘡(くさがみ)神社も拝殿よりその背後にあるご神体の沼を拝する。
交野市・枚方市は肩野物部氏の本拠地だったところである。

瘡(くさがみ)神社 

瘡神社 鳥居の左右の脚の長さがちがっていたw 2018年の台風で折れたのかも?

石上神社ももともとは本殿がなかったということであるし、本殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイルなのではないだろうか。
物部氏以外にもそういう祭祀スタイルを持つ氏族はあるのかもしれないが。

④伊勢神宮は陽=生の神、石上神宮は陰=死の神?

石上神宮境内では鶏がたくさん飼われていた。
鶏は石上神宮の神使なのだ。
白い鶏もいたが、その多くは茶色の鶏だった。

石上神宮 鶏

鶏といえば伊勢神宮でも神とされて飼われているそうである。
私は伊勢神宮は参拝したことがない。
そこで、「伊勢神宮 鶏」で画像検索してみると、茶色い鶏もいるが、白い鶏の写真の方が多いようである。
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE+%E9%B6%8F
きちんと確認する必用があり、推論にすぎないが、

伊勢神宮の神使・・・白い鶏・・・・・・・・・・・陽
石上神宮の神使・・・黒い(色のついた)鶏・・・・陰

のように、陰陽の関係になっているようにも思える。

参照/
陰陽 黒と白⑳最終回 『まとめ と 神の性別を変える呪術』  

陰陽道では万物は陰陽両面を持つと考える。
生死を陰陽で表すと、生が陽、死が陰である。
性別天体光度天気生死
陰(黒)
陽(白)太陽

また陽は白、陰は黒で表される。

Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


すると、伊勢神宮は陽=生の神、石上神宮は陰=死の神 なのではないかと思える。

また、伊勢神宮は呼名を「磯宮」といったそうだが、石上神宮を思わせる神社名である。

物部氏の祖神・ニギハヤヒは先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表記されており、ニギハヤヒが本当の天照大神ではないかとする説がある。

またニギハヤヒは初代神武天皇が日向から東征して畿内入りする以前、すでに畿内に天下っていたとされる。
ここから初代神武以前、畿内には物部王朝があったとする説もある。

私は天照大神とは男神・ニギハヤヒのことであったと思う。
そして天照大神の子孫が葦原中国をおさめるべきというようなルールがあったのではないかと思うのだ。

岩戸山ご神体 天照大神

祇園祭 岩戸山 ご神体の天照大神は男神だった。天照大神を男神とする伝承は各地にある。鳥居にとまっているのは茶色い鶏である

あとから畿内にやってきた神武(天皇家の先祖)には葦原中国を支配する方法はある。
物部王朝に婿入りし、物部氏の女性である自分の妻を王として、自分は摂政のような形で政権を牛耳るというやり方だ。

さらに本来男神であった天照大神を女神に変え、同複の兄妹または姉弟の結婚を禁忌とする。
(古事記の衣通姫と軽太子の話は同複の兄妹または姉弟の結婚を禁忌とする。)
そして、皇位継承を男系に限る。

そうすれば、神武(天皇家の祖先)の血筋がずっと皇位継承されることになる。
これが天皇家の万世一系の正体なのではないかと思う。

そして男神の天照大神を石上神宮に祀って死霊とし、女神の天照大神を伊勢神宮に祀って生霊としたのかも?

石上神宮 雨 
石上神宮


ミシャグジ様の謎⑧ 大神神社は物部氏が祭祀する神社? につづきます~



いつも応援ありがとうございます♪

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。


 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2019/09/03 12:07] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑥ 沼をご神体とする神社 

ミシャグジ様の謎⑤ 交野ヶ原の天の川伝説 よりつづきます~
トップページはこちらです→
ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 


片埜神社2 
片埜神社

①アテルイの首塚


おや、片埜神社(大阪府枚方市)の境内に鬼の面が。

このあたりは豊臣秀吉が築城した大坂城の鬼門(東北)にあたる。
そのため片埜神社は大阪城の鬼門除けの神社として信仰されたという。
それで、ここに鬼の面が置いてあるのだろう。

片埜神社-鬼の面 

②アテルイの首塚

しかし私はこの鬼の面を見ると、片埜神社の隣の牧野公園にあるアテルイの首塚(地元では蝦夷塚と呼ばれている。)や牧野公園の東北3丁(327m)離れた場所(枚方市宇山東町6-1)にあったというアテルイの胴塚をイメージしてしまう。

アテルイの首塚がある牧野公園はかつては片埜神社の境内であったといわれる。

アテルイは吾妻鏡などに登場する悪路王と同一視されているが、悪路王は伝説の中では鬼とされていることがある。

アテルイ(?~802年)は大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)などとも記され、奈良時代末期から平安時代初期ごろ、東北地方に住んでいた蝦夷の首長だった。

このころ、東北にはまつろわぬ民(朝廷に従わない人々)が結構いたようで、蝦夷と呼ばれていた。
802年、征夷代将軍・坂上田村麻呂は東北のまつろわぬ民を攻撃し、苦戦の末、勝利を納めた。
坂上田村麻呂は蝦夷の首長であるアテルイとモレを京へ連れ帰った。
坂上田村麻呂は朝廷にアテルイとモレの助命を嘆願したが、聞き入れられず、ふたりは河内国杜山で処刑された。

アテルイの首塚 
牧野公園 アテルイの首塚

アテルイ・モレが処刑された場所は「杜山」のほか、「植山」「椙山」と記した史料もある。
しかしいずれも河内国には存在しない。

枚方市宇山は江戸時代初期には上山という地名だった。
そこで植山は上山で、現在の枚方市宇山にある塚がアテルイの墓ではないかとする説がある。

昭和63年に枚方市教育委員会が牧野公園の東北にある塚(アテルイの胴塚と考えられていた。)を発掘調査した結果、6世紀後半の円墳と判明した。(宇山1号墳)
アテルイの墓とするには時期がずれている。
現在はその上にマンションが建てられていて、現存しない。

宇山1号墳の東には宇山2号墳があったそうだが、こちらも現存しない。

牧野公園東の坂道(府道17号枚方高槻線)は、「祟り坂」と呼ばれ、ここで転ぶとケガは一生治らないと言い伝えられているそうである。

この話を聞いた限りでは、牧野公園のアテルイの首塚は発掘調査されていないようであるが?

アテルイが処刑された場所が現在の牧野公園かどうかわからない。

しかし、宇山1号墳(2号墳は詳しい情報がつかめていないため、わからない)は6世紀後半の円墳なので、アテルイの胴塚ではないだろう。

③宇山1号墳は肩野物部氏の墓?

このあたりは古には肩野物部氏の本拠地だった。
宇山1号墳は肩野物部氏の首領クラスが眠る墓ではないだろうか。

初代神武天皇がやってくるより早く、このあたりにニギハヤヒという神が天下っていたということは
こちらの記事に書いた。→ ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

ニギハヤヒは物部氏の祖神とされている。

ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコという者があり、神武にこういった。

「私の妹は天孫ニギハヤヒの妻となり、ウマシマジノミコトという御子も生まれた。
あなたは天孫だというが、天孫は二人もいるのか。あなたは天孫だと偽って土地を奪おうとしているのではないか。」

神武はナガスネヒコに天孫の証である天の天羽々矢(あまのははや)と歩靱(かちゆき)を見せたが、それでもナガスネヒコは納得しなかった。

ナガスネヒコは神武に服したニギハヤヒに殺された。

と日本書紀には記されている。

その後、ニギハヤヒの子孫である物部氏は蝦夷とともに東へのがれたともいわれる。
ニギハヤヒの兄・アビヒコは安倍氏の祖だといわれるが、阿倍氏は蝦夷である。
このように物部氏は蝦夷と関係が深そうに思われる。

アテルイの首塚が地元で蝦夷塚と呼ばれているのは、アテルイが蝦夷であるというだけでなく、物部氏が蝦夷と関係が深いところからそう呼ばれているのかもしれない。

④朝原神社と瘡神社は道祖神?

片埜神社から東へ歩いていくと片埜神社の境外社の朝原神社がある。猿田彦神を祀っている。

朝原神社 

朝原神社

朝原神社の隣は枚方東消防署阪出張所で、その隣が同じく片埜神社の境外社の瘡(くさがみ)神社である。

瘡(くさがみ)神社 

瘡神社 鳥居の左右の脚の長さがちがっていたw 2018年の台風で折れたのかも?

瘡神社は次のような伝説を伝えている。

菅原道真が無実の罪で流罪となり大宰府へ向かう途中、この地で道真の馬が倒れた。
道真は馬を地元の人に託して大宰府へ向かった。
地元の人は手厚く介抱したが、馬は死んでしまった。
馬が埋葬された場所には馬の好物である草がたくさんお供えされ、「草神様」と呼ばれるようになった。
この「草神」が「瘡(くさ)神」に転じて「瘡神社」となり、皮膚病にご利益があると信仰された。


私たちは、磐船神社・星田妙見宮など神殿のない神社を見てきた。
磐船神社・星田妙見宮は大阪府交野市にあるが、片埜神社のある枚方市は交野市と隣接している。
そして交野市・枚方市のあたりは古には交野ケ原と呼ばれていた。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船

星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

片埜神社の境外社・瘡神社にも神殿がない。
写真の建物は「お籠り堂」で、かつてここに籠って皮膚病祈願が行われていたが、現在は拝殿となっている。
ご神体は岩ではない。拝殿の奥にある沼がご神体となっている。

沼や池には弁財天が祀られることが多い。
女神は水神なのだ。

瘡神社の現在の祭神は火酢芹命だが、もともとは異なる神を祀っていたという。
もともとここに祀られていた神は、女神のアメノウズメではないだろうか。

日本では道祖神は猿田彦神とアメノウズメの男女双体の神とされている。
朝原神社と瘡神社で、道祖神をあらわしているのかもしれない。
参照/ミジャクジ様の謎③ 『ニギハヤヒは太陽神?それとも星の神?』 

河治温泉 如意輪観音 道祖神

川治温泉の道祖神(向かって左)




ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル?  につづきます~



いつも応援ありがとうございます♪

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。


 
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村





[2019/08/30 16:49] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(2)

ミシャグジ様の謎⑤ 交野ヶ原の天の川伝説 


ミシャグジ様の謎④ 『何度作っても神殿が焼けてしまう神社』  よりつづきます~
トップページはこちらです→ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 


①天田神社はアルタイル、星田妙見宮の織女石はベガ

前回の記事で、私は次のように書いた。

星田妙見宮から天野川を挟んだ対岸には天田神社があり、天田(豊に実る田)の神を祀っている。
この天田は牽牛が耕す田で、対岸の織女石は織姫であると考えられたという。

このような伝説があり、交野ケ原と呼ばれた大阪府交野市・枚方市あたりは七夕伝説発祥の地とされている。

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮 織女石

天田神社

天田神社

七夕伝説とはみなさんよくご存じのように、年に一度、旧暦の7月7日に牽牛と織姫が天の川にかけられた鵲の橋をわたって逢瀬を楽しむという伝説である。

この伝説は夏の夜空を擬人化したものとされている。

すなわち牽牛はアルタイル(牽牛星)、織姫はベガ(織女星)であり、鵲がかける橋は白鳥座だといわれている。

観音山公園付近 石碑

中山観音寺近くにある説明板

天田神社はアルタイル、星田妙見宮の織女石はベガに喩えられたのだろう。
そして天田神社と星田妙見宮の間を流れる川はずばり、天の川という名前である。

②中山観音寺の牽牛石はアルタイル、機物神社はベガ

交野が原にはもう一組、牽牛星・織女星に喩えられた場所がある。

中山観音寺跡(観音山公園)にある牽牛石と、機物神社である。

下の地図の東側、第二京阪道路とJR片町線が交差するあたりに機物神社が、西側香里ヶ丘中央公園の南あたりに中山観音寺跡がある。
5kmほど離れているだろうか。



郡津駅の西側を南北に流れる川は天野川である。

天野川は天上の天の川を、中山観音寺はアルタイル(牽牛星)を、機物神社はベガ(織女星)を表すものとされ
天野川には牽牛と織姫が年に一度逢瀬を楽しむという合逢橋もある。


観音山公園 牽牛 七夕飾り 
中山観音寺跡(観音山公園)

中山観音寺 牽牛石 
中山観音寺跡(観音山公園) 牽牛石

機物神社 七夕飾り 
機物神社

機物神社の背後には交野山があり、巨大な磐座がある。もしかしたらこれが機物神社のご神体で、織女石かもしれないと思った。

交野山

交野山 ↑↓


交野山

交野山 観音岩

交野山 磐座

③小さな男神と大きな女神

牽牛石に比べて交野山の磐座ははるかに巨大である。
その巨大な磐座が女神の織姫を表す磐であるというのはおかしいように思うかもしれない。

しかし、雛人形のルーツになったともいわれる和歌山県加太の淡島大社の雛守りは、男装をした神功皇后と赤子の応神天皇のペアであり、神功皇后の方が大きく作られている。

また少彦名神と大穴持命のペアの話が記紀にあるが、大きな穴を持つ神(命)とは女神ではないだろうか。

大穴持命は大国主の別名とされ、大国主には妻があるところから男神だと考えらえる。
すると大穴持命も男じゃないのか、といわれそうだが、
どうも日本の神は性別がルーズなようで、

謡曲三輪では男神であるはずの三輪明神は女神として登場している。
また祇園祭の岩戸山のご神体の天照大神は女神ではなく男神だった。

聖徳太子が女性に生まれ変わって親鸞の妻になろう、と言ったという話もある。

また交野山が女神、磐座は男神で男女和合を表しているようにも見える。

④天田神社に牽牛石はあるか?

もう一度、天田神社の写真を見てみよう。

天田神社

天田神社

天田神社由緒と記された説明板の後ろにある石は、なんとなく中山観音寺の牽牛石に似ている。
もしかするとこの説明板の後ろにある石が天田神社の牽牛石なのかもしれない。

中山観音寺 牽牛石 
中山観音寺跡(観音山公園) 牽牛石

枚方パーク 夕景

天の川より枚方パーク観覧車を望む。



ミシャグジ様の謎⑥ 沼をご神体とする神社 につづきます~



いつも応援ありがとうございます♪

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。


 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村




[2019/08/28 14:51] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎④ 『何度作っても神殿が焼けてしまう神社』 


ミジャクジ様の謎③ 『ニギハヤヒは太陽神?それとも星の神?』 よりつづきます~
トップページはこちらです→ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

①隕石が落ちた神社


初回の記事ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? で私たちは磐船神社を訪れた。
今回はこの磐船神社の西北2kmほどのところにある星田妙見宮を訪ねてみよう。

星田妙見宮 鳥居 紅葉

星田妙見宮

星田妙見宮

星田妙見宮 絵馬堂


妙見山の頂上近くに星田妙見宮の拝殿があり、その奥に織女石(たなばたいし)が祀られている。
たぶんこの織女石が御神体なのだろう。本殿はないようである。

星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮の説明板に次のような旨が記されていた。

816年、ここに隕石が落ちたことで山が吹き飛ばされ、馬蹄形になっている。
落ちたのはペルセウス座流星群の母彗星スイフト・タッフル彗星からの隕石である。

星田妙見宮 滝の説明版

星田妙見宮-説明版

どうやら816年ここに隕石が落ちたというのは、星田妙見宮に伝わっている話であり、正史に記録があるというわけではなさそうであるが。

また星田妙見宮には隕石が落ちてきたという伝説はあっても、本物の隕石が存在しているわけではなさそうである。


②古の人々は巨石を空から落ちてきた星だと考えた?


「拝殿の奥にある織女石が、星から落ちてきた隕石である。」
古の人々はそう考えたのではないかと私は思う。
その理由を述べる。

『雲陽誌』には『星降って石となる』という古語があると記されている。
それが隕石であるかどうかは別にして、古の人は巨岩を空から落ちてきた星だと考えたのではないかと思われる。

初回にご紹介した磐船神社の御神体・天の磐船。
磐船神社の御祭神はニギハヤヒという物部氏の祖神で、ニギハヤヒはこの天の磐船を操ってここに天下ったとされる。

さらに『ニギハヤヒは星の神である』との旨が『雲陽誌』には記されている。

天の磐船は隕石ではないが、古の人は巨石を空から落ちてきた星であると考え、
「ニギハヤヒがこの天の磐船を操って地上に天下った」という物語を創作したのではないかと思うのだ。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船

③作っても作っても神殿が焼けてしまう神社

ネットでぐぐってみたところ、「星田妙見宮は何度神殿を作っても火事になって焼失してしまう、それでこの神様は神殿は欲しくないのだろうということになり、神殿をつくっていない」という記事を読んだ。

しかしもう何年も前のことで、記憶が定かではない。

また今ぐぐってみても、この記事は見つからない。

④星田妙見宮と天野川を挟んで対面する天田神社

天田神社 
天田神社

ついでなので、星田妙見宮から天野川を挟んだ対岸にある天田神社にも立ち寄ってみることにしよう。

天田神社は天田(豊に実る田)の神を祀っている。
この天田は牽牛が耕す田で、対岸の織女石は織姫であると考えられたという。

天田神社 絵 
天田神社に奉納された絵


星田妙見宮に神殿はなかったが、天田神社には神殿があった。



天田神社付近の田圃 
天田神社周辺には田圃が広がっていた。





ミシャグジ様の謎⑤ 交野ヶ原の天の川伝説  につづきます~



いつも応援ありがとうございます♪

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。


 
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2019/08/23 13:37] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)