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ミシャグジ様の謎⑱ 『ミシャグジ様は聖徳太子?それとも物部守屋?』 


ミシャグジ様の謎⑰ イザナギ&イザナミは物部氏の神?  よりつづきます~
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ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 


①ミシャグジ様は聖徳太子?それとも物部守屋?

磐船神社 天の磐船

磐船神社 天の磐船


星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

ここまでの考察によって、ミシャグジ様のの正体についての輪郭はかなり浮かび上がってきたと思う。

ここまでの考察を簡単にまとめておこう。.
a名古屋市の石神社ではミシャグジ様に杓子を奉納する習慣がある。ミシャグジ様とは御石神様のことではないか。
御石神→ミシャクジン様→ミシャグジ様と転じた?
b物部氏の祭祀する神社は本殿をもたず拝殿より直接磐座を拝する神社が多い。
磐船神社・星田妙見宮など。大神神社も物部氏の神である可能性が高い。
神殿を持たず磐座をご神体とする物部氏の祭祀する神ではないか。
c横浜市の社宮司社は「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれている。石と咳はどちらも「セキ」とよむ。
d大阪市四天王寺に石神堂・咳の地蔵尊がある。
また物部守屋を祀る守屋祠がある。
聖徳太子が創建した四天王寺は物部守屋を鎮魂する寺ではないか。
(聖徳太子は物部守屋との闘いに勝利して四天王寺を建立した。)
e諏訪大社の御祭神はミシャグジ様(御石神様)。
長野県諏訪地方では洩矢神が厚く信仰され、ミシャグジ神と同一視されている。
洩矢と守屋は発音が同じである。
洩矢神=ミシャグジ様は物部守屋ではないか。
fミシャクジ様は疳の虫を切る神として鋏の絵を描いた紙を お供えする習慣があった。杓子をひっくり返すと酒の燗の形になる処から、ミシャグジ様は疳の虫の神としても信仰されたのではないか。
g四天王寺に関係の深い一心寺の本多忠朝の墓は酒絶ちの神として信仰され杓子が奉納されている。杓子の杓が酌に通じる。また杓子をひっくり返すと燗の形になるところから、酌または燗を絶つ神として信仰されたのではないか。
h聖徳太子を祀る祇園祭太子山の民家に疳の虫の薬「奇応丸」の看板があげられている。聖徳太子は疳の虫の神として信仰されたのか。
i聖徳太子を祀る橘寺に杓子が奉納されていた。聖徳太子はミシャグジ様として信仰されたのか。
J多賀大社には杓子を奉納する習慣がある。多賀大社はミシャグジ様か。
k多賀大社の別院・胡宮神社の「胡」は「首」「異民族」などの意味がある。胡宮神社・多賀大社は首の神、異民族の神か。
杓子は人間の首を思わせる形をしている。

ミシャグジ様の正体は御石神様であり、石の神から咳の神に転じた。
また御石神様はミシャクジン様からミシャグジ様と訛り、その結果杓子を奉納する習慣が生じた。
杓子をひっくり返すと酒の燗(かん)の形ににている。そこからミシャグジさまは疳の虫封じの神へと神格を広げた。またミシャクジンのシャクは「酒を酌する」の「酌」に通じるので、杓子をひっくり返して「酌をたつ神」「酒絶ちの神」にもなった。
杓子は人間の首を思わせる形をしているので、ミシャクジさまはドクロの神にもなった。

五箇山 上梨 村上家 鬼門除け

五箇村 村上家住宅 鬼門除け(猿のドクロではないかと思う。)


いや、もしかすると石神とはもともとドクロの神であるので首をおもわせる杓子を奉納する習慣が生じ、ミシャグジさまとして信仰されるようになったのかもしれない。

橘寺は山号を仏頭山というが、たくさんの仏頭が現れたことから仏頭山と名付けられたという。
橘寺は聖徳太子を祀っているが、聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員斑鳩寺で首をくくって死んだ。
現れたたくさんの仏頭とは首をくくって自害した聖徳太子の子孫の霊ではないかと思える。

橘寺 観音堂 ライトアップ

橘寺

しかし、石神を祀るのは物部氏の祭祀スタイルではないかと思われるし、
洩矢神=物部守屋とも考えられる。
大阪の四天王寺は聖徳太子がたてたとされるが、境内には守屋祠があって物部守屋を祀っている。

ミシャグジ様のイメージに聖徳太子と物部守屋の二人が同時に浮かび上がってくるのはどういうことなのだろうか?

587年、廃仏派・物部守屋vs崇仏派・蘇我馬子の戦いがあった。
蘇我馬子が勝利して、物部守屋は戦死した。
この戦いで、聖徳太子は蘇我馬子側について参戦している。

物部守屋と聖徳太子は対立するライバルだったのだが?

守屋祠


四天王寺 守屋祠

②菅原道真は十一面観音の生まれ変わり

北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺のご本尊は道真御作と伝えられてるが
東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられている。

天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことだろう。
本地仏は本地垂迹説からくる言葉である。
本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものであるとする考え方のことで
仏教の神が仮にこの世に姿をあらわした日本古来の神々のことを「権現」、
日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを「本地仏」といった。
つまり、「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」というような意味になると思う。

東向観音寺 

東向観音寺

すると、「道真御作」というのは本当に道真が十一面観音を刻んだという意味ではなく、「怨霊として(道真の死後、疫病や天災があいつぎ、これらは道真の怨霊の仕業と考えられました。)人々に畏れられた道真が成仏して十一面観音になった」という意味ではないかと思える。

③重なる聖徳太子と物部守屋のイメージ

大神神社の神宮寺だった平等寺では聖徳太子御作の十一面観音をご本尊としている。
平等寺の十一面観音が聖徳太子御作だというのも、怨霊として畏れられた聖徳太子が成仏して十一面観音になった」という意味ではないかと思える。

しかし、神殿をもたず、拝殿より直接ご神体の三輪山を拝する大神神社は物部氏の神社ではないかとも思える。

三輪山 日の出 
大神神社 ご神体の三輪山

なぜこんなにも聖徳太子と物部守屋のイメージが重なるのか?
もしかして聖徳太子と物部守屋は同一人物ではないかと思えるほどだ。

平等寺 

平等寺

⑪陰陽に描き分けられた守屋と聖徳太子

下図に示したように守屋と聖徳太子は陰陽に描き分けられている。

聖徳太子物部守屋
少年大人
崇仏派廃仏派
弓で射られたが椋の木に隠れて難を逃れた。榎木の木の上にいるところを弓で射られて死んだ。

聖徳太子と物部守屋が同一人物だというのはあまりにもトンデモで、物部守屋は陰、聖徳太子は陽の存在とされているため、
イメージが重なって見えるのかもしれない。


謎は残るが、これからの新しい旅の中で、謎を解けるヒントが見つかるかもしれない。
新しい旅が楽しみだ。

end.

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[2020/01/05 17:21] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑰ イザナギ&イザナミは物部氏の神? 

あけましておめでごうございます。みんなでよい年にしていきましょう!


ミシャグジ様の謎 ⑯ 『糸切餅は何をデザインしたもの?』  よりつづきます~
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胡宮神社 鳥居 桜

胡宮神社

①胡という漢字を調べてみるといろんなことがわかった。

多賀大社の別宮・胡宮神社の胡という漢字を漢和辞典で調べてみると、次のように書いてあった。

①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
③なんぞ。なに。いずくんぞ。
④いのちがながい。としより。おきな。
⑤とおい。はるか。
⑥えびす。北方の異民族の名。
⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
⑧祭器。
⑨でたらめのこと。
⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。
角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。


胡宮神社は多賀大社の別宮なので、神社の性格としては胡宮神社と多賀大社は共通するものを持っていると考えていいだろう。
そこで、多賀大社について次のように推測することが出来ると思う。

④いのちがながい。としより。おきな。多賀大社は延命にご利益があると信仰されている。
⑥えびす。北方の異民族の名。えびすは戎・夷のほか胡とも記される。
大和朝廷にまつろわぬ民のことを、蝦夷、戎などといっていた。
戎に胡の字があてられることもあったのではないだろうか。
多賀大社は蝦夷の神を祀っているのではないかと思う。
つまり多賀大社の御祭神・イザナギ&イザナミは蝦夷の神ではないかということである。
⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。1274年と1281年の2度にわたり、蒙古(モンゴル帝国)が日本にせめて来た。
しかし神風が吹いて、蒙古は撤退した。
その後、人々は蒙古が撤退したのは神のご加護があったからだと考えて、多賀大社にお供え物をした。
その中に糸切餅があったという伝承がある。

日本にとって蒙古は外国からやってきた異民族である。
多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=異民族の神をまつる神社なので、蒙古=多賀大社と考えられたのではないだろうか。

日本では古来より怨霊を神として祀る習慣があった。
たとえばスサノオはもともとは恐ろしい流行り病をもたらす疫神なのだが、厄病除けの神としても信仰されている。
つまり、疫神であるスサノオに「私を疫病にかからないようにしてください」と拝むわけだ。

これと同じように、異民族である蒙古がせめてきたとき、異民族の神・多賀大社の神様に「異民族である蒙古より我々を守ってください」と人々は祈ったのではないか。
②くび多賀大社には杓子(しゃもじ)をお供えする習慣がある。
なぜ多賀大社に杓子をお供えする習慣があるのだろうか?
多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=首(ドクロ)の神を祀る神社
という発想から杓子が奉納されたのではないだろうか。

杓子は人間の頭部と首を連想させる形をしているではないか。


②神武以前、畿内には物部王朝があった?

今回は⑥の中でのべた「イザナギ・イザナミは蝦夷の神ではないか」についてもう少し詳しく説明しておきたい。

⑥えびす。北方の異民族の名。

えびすは戎・夷のほか胡とも記される。
大和朝廷にまつろわぬ民のことを、蝦夷、戎などといっていた。
戎に胡の字があてられることもあったのではないだろうか。
多賀大社は蝦夷の神を祀っているのではないかと思う。
つまり多賀大社の御祭神・イザナギ&イザナミは蝦夷の神ではないかということである。


記紀によれば、初代神武天皇が日向より東征して畿内入りするより早く天の磐船を操ってニギハヤヒが天下っていたと明記されている。
ニギハヤヒは物部氏の祖神とされている。
ここから初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。

③神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル?

ニギハヤヒが天下ったとされる大阪府交野市の磐船神社のご神体は天の磐船といわれる巨大な磐座で神殿はない。
拝殿より直接ご神体である天の磐船を拝むという祭祀スタイルである。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船

大阪府交野市枚方市付近はかつて肩野物部氏の本拠地であった場所だが、この付近には神殿がなく直接ご神体である岩や沼を拝む神社が多い。

星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

瘡(くさがみ)神社 

瘡(くさがみ)神社 拝殿より後方の沼を拝する。鳥居の左右の脚の長さがちがっていたw 2018年の台風で折れたのかも?


また奈良県天理市の石上神宮も物部氏が祭祀する神社で、現在は神殿はあるが、もともとは神殿はなく
宝剣を埋めた庭をご神体としていたという。

石上神社 紅葉 
石上神宮

④大神神社は物部氏が祭祀する神社?

さらに奈良県桜井市の大神神社も神殿がなく、拝殿より直接ご神体である三輪山を拝する。
大神神社の御祭神は大物主神だが、大物主神とニギハヤヒは同一神だとする説がある。

物部氏の祖神はニギハヤヒだが、先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表記している。

そして大物主神は正式名称を倭大物主命という。
櫛・玉(魂)が共通するので、二神は同一神ではないかというのだ。

大神神社は物部氏が祭祀する神社である可能性が高い。

大神神社 茅の輪

大神神社 拝殿

三輪山 日の出

大神神社 ご神体の三輪山

本殿を作らないのは、天皇家に従わないという意思表示だった?

そして、星田妙見宮と大神神社にはほとんど同じ伝説が残されている。

何度本殿(宮殿)をつくっても潰れてしまうので、人々は神は本殿(宮殿)を欲していないと考えた。

この伝説について「大物主神は宮殿を作ってもらえなかった。」という人がいるが、私は違うと思う。

大物主神と大国主神は同一神と考えられている。
とういうのは、こんな伝説があるからだ。

大国主神は少名彦名神とともに国作りを行っていたが、国作りの途中で少名彦名神は常世の国へいってしまった。
大国主神はこれからどうやって国作りをすればいいのかと途方にくれていたが、そこへ海の向こうから光り輝く神があらわれた。
大国主が神に名前を問うと、「私はあなたの幸魂、奇魂。私を祀れば国造りは完成するだろう」と言った。
そこで大国主が祀ったのが大神神社である。


大国主といえば国譲りの神話で知られる。

天照大神に派遣されたタケミカヅチが大国主神に「国を譲れ」とせまった。
大国主は「二人の息子に聞いてくれ」と言った。
そこでタケミカヅチが大国主神の息子の事代主神に「国を譲れ」と迫ったところ、事代主神は「承知した」と答えて
逆手を打ち、海を青芝垣に変え、船を踏み傾けて姿を消した。(入水したのだろう。)

次にタケミカヅチは大国主神のもうひとりの息子タケミナカタと相撲をとった。
タケミナカタはタケミカヅチに手をつぶされて諏訪湖まで逃げたが逃げ切れず「国は天孫にさしあげる」と約束した。

大国主神は「二人の息子がそういうならば国は天孫にさしあげる。そのかわり天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を作ってほしい。そうすれば私はその宮殿に籠って外に出ることはないだろう。」

この大国主の言葉に従って作られたのが出雲大社で、出雲大社の社殿が大きいのは大国主の願いを聞き入れた、ということだろう。

一方、大物主神を祀る大神神社には本殿がない。

日本書紀に次のような記述がある。

ニギハヤヒを神と奉じていたナガスネヒコは、日向より東征して畿内入りした神武と対峙し、次のように発言した。

「昔ニギハヤヒという天孫が天下り、私は妹のトミヤスヒメをニギハヤヒと結婚させた。
二人の間にはウマシマジノミコトという御子も生まれた。
あなたは天孫だというが、天孫がふたりもいるのか。
あなたは天孫だと偽って土地を奪おうとしているのではないか。」

神武は天つ神の子である証拠の天の羽羽矢と歩靱(かちゆき)を見せた。
それでもナガスネヒコは考えを改めなかったので、神武に服したニギハヤヒによってナガスネヒコは殺された。
(日本書紀)


ナガスネヒコは神と奉じていたニギハヤヒに殺されたとあるが、これは信用できない。
日本書紀は舎人親王らが編纂し元正天皇に奉納したものであり、天皇家に都合よく改竄されている可能性が高いからだ。

④に書いたように、大物主神=倭大物主命は物部氏の祖神・ニギハヤヒ=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と同一神であったのだろう。

実際のニギハヤヒ=大物主神は誇り高い人物であり、簡単に国を明け渡すような人物ではなかったのではないだろうか。

「私は宮殿などいらない。私は宮殿にこもったりはしない。もちろん国を天孫に譲ったりもしない!」
大物主はそんな風に考えているににちがいない、と人々は考え、大神神社に関しては出雲大社のように本殿をつくるということをしなかったのではないか。

私はそう考える。

⑥多賀大社は石神を祀っているので杓子を奉納する習慣が生じた?

イザナギとイザナミを祀る多賀大社には本殿はあるが、寿命石と呼ばれる石もがある。
東大寺再建を命じられた重源が多賀大社に東大寺再建を果たすまでの延命祈願をし、東大寺再建後に座り込んでなくなった石だと言われている。

多賀大社 長命石
 

多賀大社 寿命石

寿命石は多賀大社の神の石だといえる。
多賀大社は石神であり、御石神→ミシャクジン→ミジャグジとなり、杓子が奉納されるようになったのではないだろうか。

⑦石神は物部氏の神?&物部王朝に婿入りした神武

神々の系譜は次のように続いている。

イザナギ&イザナミ(同複の兄妹)
  ↓
天照大神&スサノオ(同複の姉弟)
  ↓
ニニギ&コノハナノサクヤヒメ(葦原中国のオオヤマツミの娘)
  ↓
山幸彦&豊玉姫(海神の娘)
  ↓
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊&玉依姫(海神の娘、豊玉姫の妹)
  ↓
神武天皇&ヒメタタライスズヒメ(日本書紀では大物主の娘)

このうち同複の兄妹または同複の姉弟で結婚しているイザナギ&イザナミ、天照大神&スサノオは物部氏の神だと考えられるのではないだろうか。

ニニギは高天原から葦原中国に天下って葦原中国のオオヤマツミの娘・コノハナノサクヤヒメと結婚している。
山幸彦は竜宮にいき、海神の娘、豊玉姫と結婚している。
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊も竜宮にすむ海神の娘・玉依姫と結婚している。

ニニギ・山幸彦・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊は婿入りしたということである。

神武天皇は日向から畿内にやってきて、畿内の大和にある大神神社の御祭神・大物主の娘・姫多々良五十鈴と結婚しているので、やはり婿入りしたということになる。

しかも、大物主神=ニギハヤヒと考えられるので、神武は物部王朝に婿入りすることによって天皇になったと考えられる。


ミシャグジ様の謎⑱ 『ミシャグジ様は聖徳太子?それとも物部守屋?』 につづきます~



  

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[2020/01/03 18:19] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎 ⑯ 『糸切餅は何をデザインしたもの?』 

ミシャグジ様の謎⑮ 胡宮神社の胡という漢字を調べたらいろんなことがわかった。  よりつづきます~
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①お多賀杓子の由来は信じられるか。

満開の枝垂桜がゆれる春の多賀大社。

多賀大社 枝垂れ桜

多賀大社

おや、太鼓橋の向こうに大きな杓子が見える。

多賀大社 橋

多賀大社より門前町をのぞむ

過去の記事で橘寺・一心寺・本多忠朝の墓などに杓子を奉納する習慣があることをお話しした。
ミシャグジ様の謎⑩ 千の仏頭が現れた山  
ミシャグジ様の謎⑬ 「酌をたつ神?」 

しかし杓子を奉納する習慣があることにおいて関西で最も有名なのはここ、多賀大社だろう。

太鼓橋の向こうに見えているのは、土産物などを売っている多賀屋さんであるが
この多賀屋さんにも大きな杓子の看板がかけられている。

多賀屋 

多賀大社に奉納するしゃもじを象った看板 

 多賀大社前駅構内にお多賀杓子の説明を書いたものが展示されていた。
内容をまとめると次のようになる。

元正天皇(在位717~723)が病気になったとき、多賀大社の神官たちが病気平癒の祈祷をした。
強飯を焚き、神木でつくった杓子をそえて献上したところ、天皇の病は快癒したところから、無病長寿のシンボルとされるようになった。

おたまじゃくしはお多賀杓子がなまったものだといわれている。
お多賀杓子を作った残りのシデ((ケヤキ)の枝を地面に挿したところ大木となった。
これが尼子にある飯盛木(男木と女木)だといわれている。

しかし、この手の由緒はあとづけでこじつけたものが多いと思う。
テレビなどが視聴者の反応を憚ってあまりにえげつない真実を報道しないことがあるが、それに似たようなものだと思う。

お多賀杓子の真実はこの言い伝えとは別のところにあると思う。

②多賀大社はミシャグジ様を祀る神社だった?

多賀大社には、寿命石と呼ばれる石がある。
東大寺再建を命じられた重源が多賀大社に東大寺再建を果たすまでの延命祈願をし、東大寺再建後に座り込んでなくなった石だと言われている。

多賀大社 長命石 

多賀大社 寿命石

寿命石は多賀大社の神の石だといえる。
つまり多賀大社は石神であり、御石神→ミシャクジン→ミジャグジとなり、杓子が奉納されるようになったのではないだろうか。

多賀大社の御祭神はイザナギ・イザナミである。
つまりイザナギ・イザナミは石の神ではないか、ということである。

ミシャグジ様の信仰は横浜市の社宮司社など全国にあり、杓子を奉納する習慣のあるところが多いが
ミシャグジ様の正体は御石神様であり、御石神→ミシャクジン→ミジャグジと転じて杓子を奉納する習慣が生じたのではないかと思う。

弓の弦で切って作る糸切餅

多賀屋さんの巨大な杓子の看板の横には糸切餅の看板が掲げられていた。
糸切餅は多賀大社の名物で多賀屋さんのほか、数件の店で販売している。

多賀屋 糸切餅 看板 

多賀屋さん糸切餅の看板

青と赤のラインが美しい。誰がこんな洗練されたデザインを思いついたのか。

糸切餅は長く引き伸ばした米粉のお餅を三味線の弦で切って作る。
しかしもともとは三味線の弦ではなく、弓の弦で切っていたそうである。 
  
糸切餅の起源は約700年前の「蒙古襲来」にまで遡ると言われる。。

1274年と1281年の2度にわたり、蒙古(モンゴル帝国)が日本にせめて来た。
しかし神風が吹いて、蒙古は撤退した。
その後、人々は蒙古が撤退したのは神のご加護があったからだと考えて、多賀大社にお供え物をした。
その中に糸切餅があったというのである。
気になる赤と青の三本線のデザインは蒙古軍旗を模したものだという。

帰宅後、蒙古軍旗のデザインをネットで調べてみたが全くわからなかった。

それはともかく、「弓の弦で切っていた」と聞いて私は心臓バクバク状態に!

その理由とは?

弓でひいて音を出す楽器を胡というのはなぜ?

前回ご紹介した胡宮神社は多賀大社の別宮である。

胡宮神社 鳥居 桜

胡宮神社

胡宮神社の胡という漢字を漢和辞典で調べてみると、次のように書いてあった。

①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
③なんぞ。なに。いずくんぞ。
④いのちがながい。としより。おきな。
⑤とおい。はるか。
⑥えびす。北方の異民族の名。
⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
⑧祭器。
⑨でたらめのこと。
⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。
角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。

多賀大社 しだれ桜3

多賀大社

④いのちがながい。としより。おきな。

とあるが、多賀大社は延命にご利益があると信仰されている。

⑥えびす。北方の異民族の名。

えびすは戎・夷のほか胡とも記される。
大和朝廷にまつろわぬ民のことを、蝦夷、戎などといっていた。
戎に胡の字があてられることもあったのではないだろうか。
多賀大社は蝦夷の神を祀っているのではないかと思う。
つまり多賀大社の御祭神・イザナギ&イザナミは蝦夷の神ではないかということである。
これについては次回、詳しく説明したいと思う。

⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。

日本にとって蒙古は外国からやってきた異民族である。
多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=異民族の神をまつる神社なので、蒙古=多賀大社と考えられたのではないだろうか。

日本では古来より怨霊を神として祀る習慣があった。
たとえばスサノオはもともとは恐ろしい流行り病をもたらす疫神なのだが、厄病除けの神としても信仰されている。
つまり、疫神であるスサノオに「私を疫病にかからないようにしてください」と拝むわけだ。

これと同じように、異民族である蒙古がせめてきたとき、異民族の神・多賀大社の神様に「異民族である蒙古より我々を守ってください」と人々は祈ったのではないかと思うのである。

②くび

多賀大社には杓子(しゃもじ)をお供えする習慣がある。
なぜ多賀大社に杓子をお供えする習慣があるのだろうか?
多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=首(ドクロ)の神を祀る神社
という発想から杓子が奉納されたのではないだろうか。

杓子は人間の頭部と首を連想させる形をしているではないか。

橘寺にも杓子を奉納する習慣があるが橘寺の山号は仏頭山である。
仏頭とは仏の頭のことで、聖徳太子が勝鬘経(しょうまんきょう)の講義を行うと、千の仏頭が現れ光り輝いたという伝説うから仏頭山という。

 橘寺 彼岸花

仏頭山 橘寺

③弓で弾く楽器を胡弓というのはなぜ?

胡弓という楽器がある。
三味線に似ているが、三味線と違って弓で弾く。



動画お借りしました。動画主さんありがとうございます!

四角い箱に柄がついたような形をしていて、杓子に似ている。
また胴体から切り離した頭部(首・ドクロ)にも似ている。
それで胡弓という名前がつけられたのではないだろうか。

琉球には胡弓(クーチョー)という楽器があるが、やはり弓で弾く。
琉球の胡弓は昔は椰子の実を割って胴にしていたというので、日本の胡弓よりさらに頭部(首・ドクロ)のイメージに近い。
中国の楽器・二胡も弓で弾き、「胡」の文字が使われている。

さらに、擦弦楽器を総称して胡弓と呼ぶこともあり、明治初期にはバイオリンのことも胡弓といっていた。

つまり弓でひくものが胡弓であり、似たような形をしていてもバチで弾いて音を出す三味線には胡という漢字は用いられない。
これはなぜだろうか?

それは弓でひくことに、首を刀などで切断しているイメージがあるからではないだろうか?

菱屋さん 

糸切餅を製造販売している菱屋さん

 ④糸切餅は胡弓の弓で切っていた?

糸切餅のデザインを思い出してほしい。
胡弓には弦が3本ある。
糸切餅の3本の線は、蒙古の旗だと言うが、本当は胡弓の3本の弦をイメージしたものではないだろうか。

糸切餅は現在は三味線の弦で切っている。しかしもともとは弓の弦で切っていたのだった。
弓というと、弓矢の弓を思いがちだが、弓は弓でも、胡弓の弓で糸切餅を切っていたのではないだろうか。

これが正しければ、糸切餅の起源は蒙古襲来よりも、うんと時代が下って江戸時代ではないかなと思ったりする。
胡弓が歴史上に登場するのは江戸時代だからだ。

糸切餅

菱屋さんの糸切餅

ミシャグジ様の謎⑰ イザナギ&イザナミは物部氏の神? につづきます~



  

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[2019/12/29 10:54] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑮ 胡宮神社の胡という漢字を調べたらいろんなことがわかった。 

ミシャグジ様の謎⑭ 『聖徳太子は疳の虫の神?』 よりつづきます~
トップページはこちらです→ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

胡宮神社 鳥居 桜

胡宮神社にはミシャグジ信仰があった?

胡宮(このみや)神社は多賀胡宮とも呼ばれ、イザナギ・イザナミ・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)を祀り、延命にご利益があるとされる。

胡宮神社は多賀大社の別宮で、敏達天皇代(572~585)胡宮神社境内に敏満寺が建立され、敏満寺は多賀大社の奥の院となった。
残念ながら敏満寺は戦国時代末期に浅井長政によって焼かれて焼失した。

急いでいたので、このときは写真を1枚撮っただけだったが、青龍山には石仏谷と呼ばれる場所があり、たくさんの石仏が置かれているそうである。
また、青龍山には胡宮の磐座があるそうである。
こちらのサイトに写真が多数掲載されている。http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_kinki/shi_konomiya/konomiya.htm

先ほど胡宮神社は多賀大社の別宮だと書いたが、多賀大社には杓子を奉納する習慣があり、ミシャグジ信仰がうかがえる。
というのはミシャグジ様に杓子を奉納するという習慣が各地にあるのだ。
おそらく、御石神→ミシャグジ→御杓子という語呂合わせからだと思う。

多賀屋

多賀大社前 多賀屋さんの看板は杓子の形をしている。

多賀大社の別宮・胡宮神社で杓子は見かけなかったが、石仏谷の石仏と古宮の磐座はミシャグジ信仰に関係が深そうに思える。
石仏も磐座も御石神だといえるからだ。

胡という漢字を漢和辞典で調べてみたら、色んなことがわかった。

胡という漢字を家にあった古い漢和辞典で調べてみると、次のように書いてあった。

①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
③なんぞ。なに。いずくんぞ。
④いのちがながい。としより。おきな。
⑤とおい。はるか。
⑥えびす。北方の異民族の名。
⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
⑧祭器。
⑨でたらめのこと。
⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。
角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。


多賀大社 橋

多賀大社

③胡宮神社は蝦夷の神?

⑥えびす。北方の異民族の名。
とある点に注意してほしい。。
胡宮神社という神社名は、北方の異民族の神、という意味ではないだろうか?

東北地方にはまつろわぬ民・蝦夷が住んでいた。
蝦夷はエビスともいわれていたが、エビスは戎、夷のほか、胡とも記された。
胡宮神社の胡宮とは蝦夷=エビスの宮という意味ではないだろうか。

④なぜ多賀大社や胡宮神社は延命にご利益があるとされているのか。

胡には「⑥えびす。北方の異民族の名。」という意味があり、蝦夷(胡)の神の宮という意味で胡宮神社というのだと思うが
胡には「④いのちがながい。としより。おきな。」という意味もある。

そこから胡宮神社は延命にご利益があると考えられるようになったのではないだろうか。

⑤なぜ弓でひくものを胡弓というのか?

①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
というのが特に気になる。

胡弓という楽器がある。
三味線に似ているが、三味線と違って弓で弾く。

琉球には胡弓(クーチョー)、中国には二胡と読いう楽器があるが、やはり弓で弾く。
さらに、擦弦楽器を総称して胡弓と呼ぶこともあり、明治初期にはバイオリンのことも胡弓といっていた。

つまり弓でひくものが胡弓であり、指やバチではじく三味線やギターは胡弓ではないのだ。

もしかしてそれは弓でひくことに、首を刀などで切断しているイメージがあるからではないだろうか?



動画お借りしました。動画主さんありがとうございます!

そう考えると、胡宮神社とはドクロ(首)の神であり、胡宮神社を別宮とする多賀大社もドクロの神ではないかと思われる。

しゃもじは胴体から切り離した首=ドクロを思わせる形をしているではないか。

たがSLパーク跡  Ⅾ51  
多賀SLパーク跡


ミシャグジ様の謎 ⑯ 『糸切餅は何をデザインしたもの?』 につづきます~



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[2019/12/26 23:02] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑭ 『聖徳太子は疳の虫の神?』 

ミシャグジ様の謎⑬ 「酌をたつ神?」  よりつづきます~
トップページはこちらです→ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 


祇園祭 太子山 
祇園祭 太子山

①太子山と奇応丸

7月16日、祇園祭宵山で京都烏丸駅付近は大変な賑わいを見せていた。
人の波に飲まれそうになりながら、私は太子山のある太子山町までやってきた。
祇園祭宵山では7月17日に山鉾を出すそれぞれの町(山鉾町という)でご神体やタペストリーなどを飾っており、多くの人が見物にやってくるのだ。

歩行者天国となった道に太子山の山鉾がたてられ、たくさんの提灯が飾り付けられていた。
その前の古民家の薄暗い屋内に聖徳太子像が安置されていた。
髪をみずらを結った少年の姿の聖徳太子だ。

祇園祭 太子山 ご神体 
祇園祭 太子山 ご神体 聖徳太子像

山鉾の中心には真木と呼ばれる木をたてる。
この真木は松が用いられるが、太子山のみ杉を用いている。

というのは、次のような伝説があるからだ。

聖徳太子が四天王寺を建てる際、良材を求めて山に入った。
山で出会った老人が杉の霊木を教えてくれたので、その霊木を用いて六角堂を建てた


つい最近、私は四天王寺を参拝していた。
太子山はその四天王寺と関係が深い山だったのだ。
ミシャグジ様の謎⑪ 『咳の地蔵尊はミシャクジ様?』 

四天王寺 夕日 

四天王寺 夕景

現在の四天王寺に六角堂はなかったと思うが、昔は六角堂があったのだろうか?(写真は八角堂)
京都には聖徳太子が建てたという六角堂があるが。

そんなことを考えながらご神体に手を合わせ、建物の外にでる。
そして建物の前にたち、あらためて建物を見上げてみると、「奇王丸」と記された看板とランプがあるのに気が付いた。

京都 奇応丸の看板

関西の人なら「ひや きおーがん♪」と歌われるCMソングを聞いた記憶があるかもしれない。
「ひや」は「樋屋」で「樋屋製薬会社」という会社名、「奇応丸」は赤ちゃんの夜泣き・疳の虫に効能があるとされる薬である。

この民家はかつて薬屋さんを営んでいたのだろう。

奇応丸は奈良時代に鑑真が6度目の渡航で来日に成功した歳、戒律とともに日本に伝えたとされる生薬である。
のちに東大寺の太鼓を修理した際、腔裏(こうり)にその製法が記されており、これをもとに奇応丸が作られるようになったといわれる。

太子山を祀る山鉾町に奇応丸の看板があるのは偶然なのか?

私には聖徳太子と奇応丸には関係があったのではないかと思える。その理由をお話ししたいと思う。

京都 町屋 

②疳の虫封じの寺社

京都や大阪に虫封じにご利益があるとされる寺社がある。
北向虫八幡神社(京都)桂川の草津湊にあったが1872年に伏見の田中神社境内(明治5年)に遷宮
平安時代、藤原安子が憲平親王(後の冷泉天皇)の癇の虫治癒祈願し効果があった。
社殿が北を向いているのは平安京鎮護のためといわれる。
三十三間堂(京都)三十三間堂の僧侶が夢のお告げで夜泣泉(よなきせん)を発見した。
すすり泣きに似ているので夜泣泉の名前がある。
冷たく、おなかをこわさない。枯れることがない。
夜泣泉の隣には夜泣地蔵がある。
お地蔵様の前掛けを持ち帰り、幼児の枕に敷くと、夜泣きが治るという。
剣神社(京都)願掛けの期間中は飛び魚を断って祈願する。
疳の虫と神、白山姫命を祀る。
壬生寺(京都)塔頭・中院の夜泣き地蔵(おせき地蔵)が幼児の夜泣きにご利益あり。
三宅八幡宮(京都)通称虫八幡。子供の疳の虫除けや夜泣きにご利益がある
自性院(大阪)疳の虫にご利益があるとされるが、由緒などは不明。

自性院 
谷町筋付近 自性院 

③夜泣き地蔵=お石地蔵=お咳地蔵?

上表4壬生寺の「夜泣き地蔵」は「おせき地蔵」とも呼ばれている。
「おせき地蔵」は石像なので「お石地蔵」となり、ここからさらに「お咳地蔵」に転じたのではないだろうか。

上表6自性院は大坂の谷町筋近くにある寺だが、このあたりはかつて日想観の聖地だった
日想観とは沈みいく夕日を見て西国浄土に思いをはせるという仏教の修業のことを言う。
日想観の信仰の中心地は四天王寺だったが、その四天王寺には牛王尊を祀る「石神堂」がある。

牛王尊

四天王寺 石神堂

牛王尊とは厄神の牛頭天皇ではないかと思うが、その牛王尊=石神ということだろう。

さらに
四天王寺境内には「咳(せき)の地蔵尊」がある。
咳の地蔵尊は牛王尊=石神と関係のある地蔵尊ではないかと思う。

四天王寺 咳の地蔵尊

四天王寺 咳の地蔵尊

石は「せき」と読むので、石神は咳の地蔵尊に変化したのではないだろうか。
実際、咳を治してくれる神としてミシャクジ様を信仰している神社もある。(横浜市の社宮司社)

そして、壬生寺の夜泣き地蔵=おせき地蔵が疳の虫にご利益があると信仰されているということは、
四天王寺の牛王尊=石神および咳の地蔵尊も疳の虫にご利益があると信仰され、
その四天王寺の牛王尊=石神=咳の地蔵尊に関係する仏さまを自性院ではお祭りしているのではないかと私は考えた。
(四天王寺と自性院は場所が近い。自性院の由緒などはよくわかっていない。)

④ミシャクジ様は疳の虫を切る神

牛王尊=石神とは御石神(ミシャクジ)様のことだと思う。

このミシャクジ様について、次のような内容の書き込みを見つけた。

1.諏訪大社の御祭神はミシャグジ様(御石神様)。
2.疳の虫とつながりがあるとされ、ミシャクジ様の近くにはさみの絵を描いた紙を お供えするという風習がある。
3.昔は疳の虫を切る儀式をハリガネムシで代用した。

https://hobby7.5ch.net/test/read.cgi/occult/1162037686/ №26

ミシャクジ様と疳の虫を切る儀式との関係については明確に記されていないが、
ミシャグジ様にはさみの絵をお供えする習慣があったということは、「ミシャクジ様は疳の虫を切ってくださる神様」という信仰があったということだと思う。
そしてハリガネムシ(針金のような形をした虫)を疳の虫に喩え、これをはさみで切る儀式をミシャクジ様の前で行ったということではないだろうか。

⑤ミシャグジ様に奉納する杓子をひっくり返せば燗をする徳利の形に

ミシャグジ様が疳の虫治癒の神様でもあるとすれば、なぜミシャグジさまは疳の虫治癒に霊験があると考えられたのだろうか。

ミシャグジ様は杓子(シャクシ/しゃもじ)の音に通じるため、杓子を奉納する習慣がある。

滋賀県の多賀大社にはしゃもじを奉納する習慣があるので、多賀大社もミシャグジ様と関係があると思う。
胡宮神社には青龍山山頂に胡宮の磐座(いわくら)があり、多賀大社の奥の院と呼ばれている。
磐座の神は石神である。

多賀屋

多賀大社前 多賀屋さんの看板は杓子の形をしている。

 多賀大社前にある多賀屋さんの看板は多賀大社に奉納するしゃもじを象ったものである。
このしゃもじをひっくり返すとお燗(かん)の徳利のような形になる。
それで、燗→疳の虫となったのではないだろうか。

⑥本多忠朝の墓にしゃもじを奉納するのはなぜ?

そう考えると、四天王寺近くにある一心寺に祀られている本多忠朝の墓にしゃもじが奉納されている理由が説明できる。

本多忠朝は本多忠朝はお酒が大好きで、そのため冬の陣では負けてしまい、家康にこっぴどく叱られたという。
それで名誉挽回とばかりに夏の陣では頑張ったのだが、討ち死にし 死ぬ間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれる。

しゃもじは酒の燗をする徳利の形に似ている。
そのため、酒絶ちの神・本多忠朝に「徳利」「燗」に似た形をしたしゃもじを奉納するのではないだろうか。

一心寺 ジャカランダ4

一心寺 本多忠朝の墓
  
⑦石神=聖徳太子?

四天王寺は聖徳太子が建てた寺なので、石神=ミシャクジ様=咳の神=疳の虫の神の正体は聖徳太子なのだろうか。
そういえば、聖徳太子を祀っている奈良県明日香村の橘寺にもしゃもじが奉納されていた。

すると、聖徳太子をご神体とする太子山の山鉾町に疳の虫の薬・奇応丸を販売する薬屋があるのは偶然ではないかもしれない。
奇応丸を販売する薬屋は疳の虫封じの神として聖徳太子を信仰しており、そのため祇園祭で太子山を奉仕していたのではないかと思える。そして

橘寺 彼岸花

橘寺

そして橘寺には二面石と呼ばれる石があるが、これは石で作られた神、石神、ミシャグジ様だとも考えられる。

二面石

橘寺 二面石

祇園祭 宵山2 
祇園祭 宵山 ↑ ↓

祇園祭 宵山 



ミシャグジ様の謎⑮ 胡宮神社の胡という漢字を調べたらいろんなことがわかった。 につづきます~



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[2019/12/17 18:42] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑬ 「酌をたつ神?」 

ミシャグジ様の謎 ⑫ 『疳の虫の神』  よりつづきます~
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一心寺 ジャカランダ3

①本多忠朝の墓

四天王寺からとことこと歩いて数分、一心寺にやってきた。
紫色のジャカランダの花が満開で、境内に彩を添えていた。

一心寺は1185年に四天王寺の別当・慈円の要請を受けて法然が草庵を結んだのが始まりとされる。
一心寺は四天王寺と関係の深いお寺なのだ。

このあたりは大阪の陣の舞台となったところでもある。
一心寺の北向かいの安居神社は真田幸村終焉後とされる。
真田幸村は15,000の松平忠直隊を破って家康本陣に攻め込み、一時、家康に自害を考えさせるほどの勢いだった。
しかし幸村は安居神社で味方の傷ついた兵士を看病していた際に、敵に襲われてしまった。
「わしの首を手柄にされよ」
幸村はそう言い、敵に首を討ちとられたという。

安居神社

安居神社


一心寺には大阪夏の陣・天王寺・岡山の戦いで討ち死にした本多忠朝の墓がある。

一心寺 ジャカランダ4


本多忠朝は大変な酒呑みで、それが原因で冬の陣では負けてしまい、家康にこっぴどく叱られたそうである。
そこで名誉挽回とばかりに夏の陣では頑張ったのだが、討ち死にし 死ぬ間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれている。

そんなわけで本多忠朝の墓は「酒封じの神」として信仰され、禁酒祈願に訪れる人が大勢いるとのことである。

②本多忠朝はミシャグジ神?

本多忠朝の墓所に、たくさんのしゃもじが奉納されていた。
これは「ミシャグジ神」に対する信仰ではないか。

本多忠朝の墓は大きな石の五輪塔なので、石神として信仰され、そのためしゃもじを奉納する習慣が生じたのではないだろうか?

また四天王寺にはミシャグジの信仰があったと推測される。

というのは、四天王寺には石神堂と咳の地蔵尊があるからだ。

牛王尊

四天王寺 石神堂

四天王寺 咳の地蔵尊

四天王寺 咳の地蔵尊

咳の地蔵尊は石神堂の神と関係のある地蔵尊ではないかと思う。
横浜市の社宮司社は、「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、この社に奉納されている杓子を持って帰り、のどを撫でると咳の病が治ると信仰されているという。
石は「せき」と読むので、石神堂の石神(牛王尊の巨石)は咳の地蔵尊に変化したのではないだろうか。


参照/
ミシャグジ様の謎⑪ 『咳の地蔵尊はミシャクジ様?』 


そして一心寺は四天王寺と関係が深い寺である。

1185年、法然が四天王寺別当・慈円の要請を受けて四天王寺の西門の近くに源空庵という草庵を結んだのが一心寺のルーツとされているのだ。

四天王寺にはミシャグジに対する信仰があったため、四天王寺と関係の深い一心寺でもミシャグジが信仰されるよういなったのかもしれない。

③ミシャグジ様は物部氏の神?

いやまて、本多氏と本田氏はもともと同族であったともいうし、もしかしたら本田忠朝の墓に杓子が奉納されているのは、本田善光と関係があるのかも?

本田善光は物部守屋が難波の堀江に流した仏像を持ち帰り、善光寺に祀ったとされる人物である。

※難波の堀江は、大阪の和光寺、奈良明日香村の難波池など諸説ある。

和光寺 

和光寺の阿弥陀池

向源寺 難波池  

向原寺近くにある難波池


善光寺 ライトアップ

善光寺

宮元 健次さんが、『善光寺の謎 (祥伝社黄金文庫)』という本の中で次のような意味のことを書いておられるそうである。

①善光寺内陣に守屋柱と呼ばれている柱がある。
②戒壇めぐりを行うことは、守屋柱を一周し、錠(独鈷)によって守屋柱に宿る守屋の霊を封じることである。
③善光寺は物部守屋を慰霊するための寺である。
(参照/
善光寺 門前町 ライトアップ 『善光寺は物部守屋を慰霊する寺だった?』 

もしかして本田善光とは物部氏であり、本多忠朝の先祖も物部氏だったりして?
すると、ミシャグジ様とは物部氏の神なのか、と想像が膨らむ。

そういえば物部氏が祭祀する神社には本殿がなく、磐(石)をご神体として直接拝するというスタイルが多かった。

参照/
ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル? 


磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船


星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

また、物部氏が祭祀する石上神宮の石上は石神と音が同じである。

石上神宮 3

石上神宮


④ミシャグジ様は疳の虫にご利益がある?

私は谷町筋近くにある自性院に行った時のことを思い出した。
自性院は権大僧都俊栄が開いたと伝わっているそうだが、戦災で全焼し、資料などすべて焼失してしまったため、詳しいことはわからないそうである。
そしてネット記事によれば、疳の虫封じにご利益があると信仰されているそうである。

自性院のある場所は四天王寺からそんなに離れていない。
そこで私は「四天王寺の牛王尊=石神および咳の地蔵尊に関係さまを自性院ではお祭りしているのかもしれない」と考えた。

自性院

自性院

そして、ネットにミシャクジさまにはどうやら疳の虫封じの信仰があったと考えられる書き込みがあった。
石神とは御石神(ミシャクジ)様のことだと思う。
このミシャクジ様について、次のような書き込みを見つけたのだった。

26:本当にあった怖い名無し:2006/10/29(日) 17:12:06 ID:y9X8lt7V0

ttp://talto.sakura.ne.jp/cgi/diary/hidiary.cgi?move_month=200511&pagemsg=all
諏訪大社。
諏訪湖の近くにある神社なのですが
上社と下社があり、それぞれ前宮と本宮があります。
つまり計4つの建物があるわけですね。
今回は時間の関係で上社しか行けなかったのですが
それだけでも十分でした。
神社で祭られている神様が予想とは全く異なり
嬉しい期待はずれだったのですよ。
実は諏訪大社の神様はミシャクジ様であることが判明。
ミシャクジ様ですよー。
日本に現存する古代神のひとりですよー。
縄文時代から伝わるアニミズム信仰の原点ですよー。
もう嬉しすぎて寝込んでしまいそうですよ。あはー。
ミシャクジ様は漢字で書くと御石神様。
ここからも元々は石の精霊であることが伺えますね。
後に疳の虫とつながりがあるとも言われ
ミシャクジ様の近くにはさみの絵を描いた紙を
お供えするという風習もあるそうですよ。
昔は疳の虫を切る儀式をハリガネムシで代用したと
聞いたこともありますね。

この期におよんでまたハリガネムシかい(笑)


https://hobby7.5ch.net/test/read.cgi/occult/1162037686/より引用

●長野県にある諏訪大社の神様がミジャクジ様である。
●ミジャクジ様は疳の虫と関係があるとされ、ミジャクジの近くにはさみの絵を描いた髪をお供えする風習があった。
●疳の虫を切る儀式をハリガネムシで代用した。

ミジャクジ様には杓子(しゃもじ)を奉納する習慣があるが、杓子をひっくり返すとお燗(かん)の徳利のような形になる。
それで、燗の神→疳の虫の神となったのかもしれない。

自性院でそう私は考えたのだった。

参照/
ミシャグジ様の謎 ⑫ 『疳の虫の神』 

多賀屋

多賀大社前 多賀屋さんの看板は杓子の形をしている。

⑤「燗を断つ」「酌を断つ」


本多忠朝の墓が酒断ちの神として信仰されているのは、「燗をたつ」を意味しているのかもしれない。

また、酒をつぐことを「酌をする」という。
御石神(みしゃくじ)の「しゃく」を語呂合わせで酌にかけたのかもしれない。

一心寺 ジャカランダ2

一心寺 ジャカランダ

ミシャグジ様の謎⑭ 『聖徳太子は疳の虫の神?』 につづきます~



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写真ブログのはずだったのにほとんど歴史ブログになってしまった 
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[2019/11/28 13:53] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎 ⑫ 『疳の虫の神』 

ミシャグジ様の謎⑪ 『咳の地蔵尊はミシャクジ様?』  よりつづきます~
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法性寺 
法性寺 立派な仁王門のあるお寺。

①谷町筋にお寺が多いのは日想観の聖地だったから~(チコちゃん風に)


谷町筋にはたくさんのお寺があって、ぶらぶら歩いていると楽しい。

聖徳太子が建てた四天王寺もある。
現在四天王寺から西の海岸線までは8kmほども離れているが、かつての海岸線は四天王寺付近まであったとされる。
淀川や大和川が大量の土砂を運び、また埋め立てられたりして平野が増えたというのだ。

平安時代以降、四天王寺付近から西に沈む太陽を望んで極楽浄土に思いをはせる日想観という修行が盛んに行われた。
谷町筋に寺院が多いのは、この界隈がそういった聖地であったからではないかと言われている。

四天王寺 夕日 

四天王寺 夕景

②疳の虫封じのお寺・自性院

自性院というお寺があった。

権大僧都俊栄が開いたと伝わっているそうだが、戦災で全焼し、資料などすべて焼失してしまったため、詳しいことはわからないそうである。
ネットの情報では、疳の虫(かんのむし)封じのご利益があると信仰されているとのこと。

権大僧都俊栄でぐぐって見ると東京都西東京市の総持寺(田無不動尊)がヒットする。
しかしこちらのほうは疳の虫封じの信仰はとくにはないようである。

なぜ自性院は疳の虫封じの信仰が生じただろうか?

自性院 
谷町筋付近 自性院 ↑ ↓

自性院2 

④京都の虫封じの寺社。


京都にもいくつか虫封じにご利益があるとされる寺社がある。

北向虫八幡神社桂川の草津湊にあったが1872年に伏見の田中神社境内(明治5年)に遷宮
平安時代、藤原安子が憲平親王(後の冷泉天皇)の癇の虫治癒祈願し効果があった。
社殿が北を向いているのは平安京鎮護のためといわれる。
三十三間堂三十三間堂の僧侶が夢のお告げで夜泣泉(よなきせん)を発見した。
すすり泣きに似ているので夜泣泉の名前がある。
冷たく、おなかをこわさない。枯れることがない。
夜泣泉の隣には夜泣地蔵がある。
お地蔵様の前掛けを持ち帰り、幼児の枕に敷くと、夜泣きが治るという。
剣神社願掛けの期間中は飛び魚を断って祈願する。
疳の虫と神、白山姫命を祀る。
壬生寺塔頭・中院の夜泣き地蔵(おせき地蔵)が幼児の夜泣きにご利益あり。
三宅八幡宮通称虫八幡。子供の疳の虫除けや夜泣きにご利益がある

夜泣き地蔵=お石地蔵=お咳地蔵?

壬生寺の「夜泣き地蔵」は「おせき地蔵」とも呼ばれている。
「おせき地蔵」は石像なので「お石地蔵」となり、ここからさらに「お咳地蔵」となったのではないかと想像する。

①で谷町筋は日想感の聖地だったと書いたが、その信仰の中心地は四天王寺だった。
その四天王寺の境内には牛王尊を祀る「石神堂」がある。

牛王尊

牛王尊とは厄神の牛頭天皇ではないかと思う。
そしてその牛王尊=石神ということなのだろう。

さらに 四天王寺境内には「咳(せき)の地蔵尊」がある。

四天王寺 咳の地蔵尊

咳の地蔵尊は牛王尊=石神と関係のある地蔵尊ではないかと思う。

壬生寺の夜泣き地蔵=おせき地蔵が疳の虫にご利益があると信仰されているということは、
四天王寺の牛王尊=石神および咳の地蔵尊も疳の虫にご利益があると信仰され、その四天王寺の牛王尊=石神および咳の地蔵尊に関係する仏さまを自性院ではお祭りしているのだったりして?

雲雷寺 
雷雲寺 谷町筋付近にはこんな ストゥーパのあるお寺もありました。

⑥ミシャグジさまに疳の虫をきるはさみをお供えする?


石神とは御石神(ミシャクジ)様のことだと思う。
このミシャクジ様について、次のような書き込みを見つけた。

26:本当にあった怖い名無し:2006/10/29(日) 17:12:06 ID:y9X8lt7V0

ttp://talto.sakura.ne.jp/cgi/diary/hidiary.cgi?move_month=200511&pagemsg=all
諏訪大社。
諏訪湖の近くにある神社なのですが
上社と下社があり、それぞれ前宮と本宮があります。
つまり計4つの建物があるわけですね。
今回は時間の関係で上社しか行けなかったのですが
それだけでも十分でした。
神社で祭られている神様が予想とは全く異なり
嬉しい期待はずれだったのですよ。
実は諏訪大社の神様はミシャクジ様であることが判明。
ミシャクジ様ですよー。
日本に現存する古代神のひとりですよー。
縄文時代から伝わるアニミズム信仰の原点ですよー。
もう嬉しすぎて寝込んでしまいそうですよ。あはー。
ミシャクジ様は漢字で書くと御石神様。
ここからも元々は石の精霊であることが伺えますね。
後に疳の虫とつながりがあるとも言われ
ミシャクジ様の近くにはさみの絵を描いた紙を
お供えするという風習もあるそうですよ。
昔は疳の虫を切る儀式をハリガネムシで代用したと
聞いたこともありますね。
この期におよんでまたハリガネムシかい(笑)


https://hobby7.5ch.net/test/read.cgi/occult/1162037686/より引用

長野県にある諏訪大社の神様がミシャクジ様であり、ミシャクジ様の近くにはさみの絵を描いた髪をお供えする風習があるというのだ。
それに続いて、疳の虫を切る儀式をハリガネムシで代用したと記されている。


ハリガネムシとは針金のような形をした虫で、バッタ・コオロギなどに寄生するという。
このハリガネムシを疳の虫にみたて、これをはさみで切ることによって疳の虫が治ると考えられたということだろう。

青字で示した文章には、ミシャクジ様と疳の虫の関係について明確に記されてはいない。
しかしミシャグジ様にはさみの絵をお供えするとあるので、ミシャクジ様が疳の虫を切ってくださるという信仰があったのか、と思える。


もしかしたら、この儀式をミシャグジさまのそばで行ったのかもしれない。

江國禅寺2 
谷町筋付近 江國禅寺

⑧ミシャグジ様に奉納する杓子をひっくり返せば燗をする徳利の形に

ミシャグジ様が疳の虫治癒の神様でもあるとすれば、なぜミシャグジさまは疳の虫治癒に霊験があると考えられたのだろうか。

ミシャグジ様は杓子(シャクシ/しゃもじ)の音に通じるため、杓子を奉納する習慣がある。

滋賀県の多賀大社にはしゃもじを奉納する習慣があるが、多賀大社もミシャグジ様と関係があるのだろう。
胡宮神社には青龍山山頂に胡宮の磐座(いわくら)があり、多賀大社の奥の院と呼ばれている。
磐座の神は石神である。

多賀屋 


多賀大社前にある多賀屋さんの看板は多賀大社に奉納するしゃもじを象ったものである。
このしゃもじをひっくり返すとお燗(かん)の徳利のような形になる。
それで、燗→疳の虫となったのかも?

江國禅寺

谷町筋付近 江國禅寺

江國禅寺付近  
谷町筋付近 江國禅寺

圓妙寺 

谷町筋付近 圓妙寺

圓妙寺2 

谷町筋付近 圓妙寺





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[2019/11/06 19:20] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑪ 『咳の地蔵尊はミシャクジ様?』 

ミシャグジ様の謎⑩ 千の仏頭が現れた山   よりつづきます~
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ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

四天王寺 紫陽花

四天王寺 紫陽花

①四天王寺のミシャグジ神?

橘寺を参拝した私は、今度大阪の四天王寺を参拝してみたくなった。
橘寺も四天王寺も聖徳太子が創建したと伝わっている。

587年、廃仏派の物部守屋vs崇仏派の蘇我馬子の戦争があった。
聖徳太子は蘇我馬子側に参戦していた。
戦争は蘇我馬子が勝利し、聖徳太子が物部守屋の土地と奴婢をもちいて建立したのが四天王寺なのだ。

石鳥居の前に立つと、中心伽藍である五重塔や金堂が見える。
昭和9年(1934)の室戸台風で五重塔は倒壊、その後、昭和15年(1940)に債権されるも、昭和20年(1945)の大阪大空襲で境内のほとんどの建物は消失したという。

四天王寺 夕日 

四天王寺 夕景

現在の本堂や五重塔は1959年(昭和34年)に再建された鉄筋コンクリート造ということだが、外観は伝統的な様式を踏襲しているように見える。

六時堂を参拝し、聖霊院へ向かう途中で、小さなお堂が目に留まった。
「牛王尊」「石神堂」と墨書された板が掲げられている。

牛王尊

四天王寺 石神堂

石神堂は推古元年(593)創建とされ、建築資材である石や材木を運搬した牛が、伽藍が完成すると石になったと伝えられている。
堂内には牛王尊の巨石が安置されている。
後世、牛は草を食べるところから、「瘡を食べてくれる神」として信仰された。
瘡とは皮膚病のことで天然痘のことも瘡といわれた。

牛王尊とは厄神(特に天然痘をもたらす神と信仰された。)の牛頭天皇ではないかと思う。
そしてその牛王尊を祀るお堂が石神堂なのだろう。

なぜ石神堂なのかというと、牛王尊=石神ということではないだろううか。

私は橘寺にあった二面石を思い出していた。

二面石

橘寺 二面石

橘寺の本堂にはたくさんの杓子(しゃもじ)が奉納されていた。
そしてミシャグジ様という神に杓子を奉納する習慣があること、ミシャグジ様とは御石神様のことだと聞いたことがあった。
私はこの二面石が御石神様であり、そのため橘寺には杓子を奉納する習慣があるのではないかと考えた。

杓子を奉納するのは、御石神→ミシャグジ→御杓子 という語呂合わせだろう。

そして橘寺と同じく聖徳太子が創建したと伝わる四天王寺境内には石神堂がある。
牛王尊=石神とすれば、四天王寺にも杓子が奉納されているのではないか?

私は境内を歩き回って杓子を探してみたが、見つけることはできなかった。
(探したりないのかもしれない。)

しかしあきらめて帰りかけたとき、中の門あたりで
「咳(せき)の地蔵尊」と刻まれた石碑をみつけたので、一気にテンションがあがってしまった。

咳の地蔵尊は牛王尊=石神と関係のある地蔵尊ではないかと思う。
横浜市の社宮司社は、「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、この社に奉納されている杓子を持って帰り、のどを撫でると咳の病が治ると信仰されているという。
名古屋市南区の石神社ではミシャグジという神様に杓子を奉納する習慣があるそうである。

石は「せき」と読むので、石神堂の石神(牛王尊の巨石)は咳の地蔵尊に変化したのではないだろうか。

四天王寺 咳の地蔵尊

四天王寺 咳の地蔵尊

②石上神宮は石神(ミシャグジ)?


さきほどものべたように、四天王寺は物部守屋の土地と奴婢を用いて聖徳太子が建立した寺とされる。
四天王寺がある辺りはもともとは物部氏の土地であったのだろう。
(もともと四天王寺は森ノ宮あたりにあったといわれるが)

奈良県天理市にある石上神宮は物部氏が祭祀する神社だった。
もしかして石上神宮の石上とは「石神」が転じたもので、ミシャグジとは物部氏の神様なのではないのだろうか。

石上神社 紅葉 
石上神宮

そういえば、肩野物部氏の本拠地だった大阪府交野市には巨大な岩を祀る神社、磐船神社・星田妙見宮があった。

物部氏は岩を信仰していた氏族なのだ。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 天の磐船

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮 織女石(たなばたいし)


ミシャグジ様の謎⑤ 交野ヶ原の天の川伝説 
ミシャグジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

③洩矢神=ミシャグジ=物部守屋?

長野県諏訪地方では洩矢神(もりやしん、もれやしん)が厚く信仰され、ミシャグジ神と同一視されているそうである。

洩矢と守屋は発音が同じである。

そしてこの洩矢神の後裔が守矢氏で、代々諏訪大社の神長官を務めてきたそうである。
そしてこの守矢氏が守ってきた「七本の峯のたたえ」はミシャグジ神が降りる木だと言われているそうである。

諏訪大社上社の御神体は‘守屋’山とされているが、守屋山は物部守屋と同じ名前である。

さらに諏訪大社上社の南西6kmほどの場所には守屋神社があり、物部守屋を祀っている。
そして諏訪大社上社の御神体・守屋山に頂上にある磐座は守屋神社の奥宮ともされているとのことである。

守屋神社では諏訪大社との関係は否定されているそうだが、私には関係がありそうに思える。

つまり、私は次のように推測するのである。
①守屋山の頂上にある磐座に降臨する神=洩矢神=ミシャグジ神=物部守屋の霊
②守屋山を御神体とする諏訪大社上社=物部守屋を祀る神社
③代々諏訪大社の神長官を務めた守矢氏=洩矢神の後裔=物部守屋の後裔

四天王寺の境内には守屋祠もある。

守屋祠

さらに次のように推測する。

④四天王寺は守屋の霊を慰霊するための寺であり、守屋に対する信仰があった。
⑤①で説明したように、洩矢神=ミシャグジ神=物部守屋の霊だと考えられる。
⑥四天王寺にはかつてミシャグジ神に対する信仰があったが、なんらかの理由で咳の地蔵尊におきかえられた。


ミシャグジ様の謎 ⑫ 『疳の虫の神』 につづきます~



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[2019/10/23 17:55] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑩ 千の仏頭が現れた山  


ミシャクジ様の謎⑨ 30kmも運ばれた丈六の仏像 よりつづきます~
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ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

①聖徳太子は怨霊だったby梅原猛氏

2019年1月12日梅原猛さんの訃報を告げるニュースが流れた。
彼は哲学者だが、どちらかというと歴史に関する著作が有名である。
特に彼の著書「隠された十字架―法隆寺論」は聖人として今なお厚く信仰されている聖徳太子を怨霊であったと説いて人々に衝撃を与えた。

私も彼の本をわくわくしながら読んだ読者のひとりだった。
私は彼の説のすべてを支持するわけではないが、歴史を考える彼の手法には多いに学ばせてもらった。
そんな梅原猛さんに心からお礼の言葉を述べて、別れの言葉に変えさせていただきたいと思う。

梅原猛さんの訃報を聞いた後、「隠された十字架」の舞台、法隆寺を訪れた。

法隆寺の南大門をくぐり、松並木がつづく参道を歩いていくと、中門と五重塔が見えてくる。

法隆寺 中門と五重塔 

この門はかなり変わった門である。
どこが変わっているのかというと、四間のため中央に柱があるのだ。


喜光寺 門 本堂 
上は喜光寺の門を撮影したものだが、通常の門はこの喜光寺の門のように奇数間のため中央に柱がくることはない。
梅原猛氏は門に柱を建てれば閂で、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺ではないかと説かれた。

法隆寺 夢殿 
法隆寺 夢殿

法隆寺 夢殿は開扉すると大地震がおこると言い伝えられており、長年扉が開かれたことがなかった。
1908年フェノロサが夢殿の扉をあけたところ、聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音が発見されたのだが
布でグルグル巻きにされたフランケンシュタインのような状態であった。
また、光背が頭に直接釘で打ち付けられていた。(一般的には足元にたてた棒に光背をつける。)
このほかにも多くの事例をあげ、梅原さんはこの救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像ではないかと説かれたのだった。


GUZE Kannon Horyuji

法隆寺 救世観音
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:GUZE_Kannon_Horyuji.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/GUZE_Kannon_Horyuji

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、古には疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。

聖徳太子がなぜ怨霊になったのかというと、彼の子孫は蘇我入鹿に攻められて、山背大兄王(聖徳太子の子)以下全員、斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって亡くなったからだと梅原猛氏はいう。

聖徳太子は立派な人物として今でも厚く信仰されているが、現在の日本人に彼の血は一滴も流れていないのである。

井沢元彦さんは梅原さんの説を受けて、先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべきとされているのに、聖徳太子には祭祀供養する子孫がいなくなった。
そのため怨霊になったと考えられたのではないかとおっしゃっている。

法隆寺 夕日 
法隆寺

②仏頭山

飛鳥にある橘寺は聖徳太子生誕の地で、聖徳太子創建の寺と伝わっている。
橘寺の山号は仏頭山という。

橘寺 彼岸花

お寺の後ろに写っている山が仏頭山である。

③千の仏頭が現れた伝説。


橘寺にはこんな伝説が伝えられている。

あるとき聖徳太子が3日間にわたり勝鬘経(しょうまんきょう)の講義を行うと、
蓮の花が庭に降り積もり、仏頭山に千の仏頭が現れ光り輝いた。
推古天皇はこれにたいそう驚かれて、この地に寺を建てるようにと聖徳太子に命じた。
そこで聖徳太子が橘の宮を寺と改めた。


仏頭といえば思い出すのが前回お話しした、興福寺所蔵で、もと山田寺にあったとされる仏頭である。 

Buddha Head Yamadadera

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Buddha_Head_Yamadadera.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Buddha_Head_Yamadadera.JPG よりお借りしました。
作者 匿名Unknown author [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


仏頭とはみほとけの頭部のことである。
体から切り離された頭部というのは気持ち悪い。
しかも、その仏頭の数は千も仏頭山に現れたというのだからそれは不気味な光景であったことだろう。


橘寺 彼岸花 白

法隆寺

④千の仏頭は聖徳太子の子孫の霊のドクロ?

①でお話ししたように、聖徳太子の子孫は、蘇我入鹿に責められて山背大兄王以下、全員斑鳩寺(法隆寺)首をくくって自害している。
千の仏頭とは、首をくくって自害した聖徳太子の子孫の霊のドクロなのではないだろうか。

聖徳太子の子と孫は大勢いたが千人は大すぎる。
誇張して千の仏頭としたのではないだろうか。

二面石

⑤二面石はミシャグジ様?

本堂の奥の聖徳太子像を拝み、本堂を出ようとしたとき、壁にたくさんのしゃもじがつりさげられているのに気が付いた。

なぜ橘寺にしゃもじが奉納されているのだろうか?

たしか、ミシャグジ様という神様がいて、杓子(しゃもじのことを杓子ともいう)を奉納する習慣があると聞いたことがあるが、橘寺にもミシャグジ信仰があったのだろうか?

そんなことを考えながら本堂を出ると、右手に奇妙な形をした石像があった。

二面石というそうで、表裏に善悪ふたつの顔を刻んだものであるという。

そういえば、ミシャグジ様とは、御石神様のことである、と聞いた記憶があった。
二面石は石像であるので、御石神様といえるかもしれない。

この二面石が境内にあるところから、橘寺には杓子(しゃもじ)を奉納する習慣があるのだろうか?

 橘寺 本堂 ライトアップ


ミシャグジ様の謎⑪ 『咳の地蔵尊はミシャクジ様?』 につづきます~



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[2019/10/10 11:17] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

ミシャグジ様の謎⑨ 30kmも運ばれた丈六の仏像 



ミシャグジ様の謎⑧ 大神神社は物部氏が祭祀する神社?  よりつづきます~
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興福寺 五重塔

興福寺 五重塔 八重桜

①巨大な仏頭

奈良を訪れたのは晩春で、もうソメイヨシノは散ってしまっていた。
こんな時期になぜ奈良を訪れたのかというと、東大寺知足院に咲くナラノヤエザクラを見たいと思ったからだった。
ナラノヤエザクラは遅咲きなのだ。
しかし残念ながらナラノヤエザクラは咲いていなかった。
それでも遅咲きの八重桜と藤が今を盛りと咲いていて心は落胆している暇がなかった。

興福寺 藤

興福寺 南円堂 藤

花を見ただけでは飽き足らず、御仏の姿も拝んでみたくなったので、興福寺国宝館に行ってみることにした。
国宝館には阿修羅像をはじめとする八部衆もあり、八部衆の前には人だかりができていた。
阿修羅の筋肉のついていない昆虫的な腕や少女のような憂いを含んだ顔に、私もしばし見とれた。
しかし阿修羅よりももっと私の度肝を抜いたのは、巨大な仏頭だった。高さは98.cmもある。

Buddha Head Yamadadera

山田寺仏頭(
興福寺蔵)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Buddha_Head_Yamadadera.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Buddha_Head_Yamadadera.JPG よりお借りしました。
匿名Unknown author [Public domain]


さらに驚いたことは、この仏頭はもともとは飛鳥の山田寺のご本尊であったというのだ。
その山田寺のご本尊の仏頭がなぜ興福寺にあるのか。またなぜ頭部だけなのか。

②蘇我倉山田石川麻呂

山田寺を創建した蘇我倉山田石川麻呂(? - 649年)は蘇我馬子の孫で蘇我倉麻呂の子として生まれた。
蘇我蝦夷は叔父、蘇我入鹿は従妹である。

      蘇我蝦夷ー蘇我入鹿
蘇我馬子<
      蘇我倉麻呂ー蘇我倉山田石川麻呂
            蘇我日向(倉山田石川麻呂の異母弟)


同族ではあるが、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏本宗家の蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子と対立していたようである。

蘇我倉山田石川麻呂、乙巳の変のメンバーに。

626年、蘇我馬子が死亡し、子の蝦夷が大臣となった。
蘇我蝦夷・入鹿親子は権力を増大させ、豪族達は朝廷ではなく蘇我家に出仕する有様であったという。

642年、蘇我蝦夷と入鹿は、自分達の陵墓築造のために公民を動員している。
聖徳太子の一族の領民も動員され、聖徳太子の娘の大娘姫王が抗議したという記録が残っている。

643年、蘇我蝦夷は朝廷の許可をえず蘇我入鹿を大臣とし、次男を物部の大臣とした。

こうした蘇我氏の専横に対し、中臣鎌足&中大兄皇子らは蘇我入鹿殺害を計画した。
この蘇我入鹿殺害計画のメンバーに、蘇我倉山田石川麻呂もはいっていた。
蘇我倉山田石川麻呂は娘の遠智娘(おちのいらつめ)を中大兄皇子の后にするなど、姻戚関係も結んでいる。

645年、蘇我入鹿は中大兄皇子に斬られて没し、その翌日、蘇我蝦夷は自宅に火を放って自殺した。
こうして蘇我本宗家は滅んだ。

皇極天皇は孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子が皇太子となった。
皇太子となった中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任命した。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)
 
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)中大兄皇子に首を斬られた蘇我入鹿。入鹿の首は皇極天皇の御簾にくらいついたと伝えられる。

③蘇我倉山田石川麻呂、冤罪で自害。

右大臣の地位を手に入れた蘇我倉山田石川麻呂。
しかし彼の栄華はわずか5年で異母弟・蘇我日向によって壊されてしまう。

649年、蘇我日向は、「蘇我倉山田石川麻呂は謀反を企てている」と中大兄皇子に密告したのだ。
蘇我倉山田石川麻呂のもとへ孝徳天皇の軍がさし向けられ、蘇我倉山田石川麻呂は一族とともに山田寺仏殿前で自害した。

この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされる。

④蘇我倉山田石川麻呂の死後も続けられた山田寺建立。

山田寺は641年に整地工事が始まり、643年には金堂の建立が始まっている。
648年には僧が住むようになっていた。

しかし、この翌年の649年に蘇我倉山田石川麻呂が自害してしまったため、山田寺造営は中断してしまった。

663年(天智天皇2年)、中断していた山田寺建立工事が再開した。
676年(天武天皇5年)に塔が完成した。
678年(天武天皇7年)には丈六仏像鋳造が始まり、685年(天武天皇14年)丈六仏像が開眼され、天武天皇が山田寺に行幸しています。

※丈六/仏像の像高。立像で約4.8m、坐像はその約半分。

天智天皇と持統天皇は蘇我倉山田石川麻呂の怨霊を恐れた?

③でも述べたように蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘は中大兄皇子〈天智天皇)の妃となっている。
遠智娘は中大兄皇子の子として健皇子・大田皇女・ 鸕野皇女を産んだ。
鸕野皇女は天武天皇の皇后となり、天武天皇崩御後、持統天皇として即位している。

蘇我倉山田石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられたのは、持統天皇・天武天皇の力添えがあったのではないかと考えられている。

私は天智天皇(中大兄皇子)やその娘の持統天皇が、蘇我倉山田石川麻呂の怨霊を恐れ、そのため山田寺の建立を行ったのではないかと思う。

蘇我倉山田石川麻呂が自殺においやられたのは中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であった。
また、『末代まで祟ってやる』などというように、怨霊は憎い本人だけでなく、その子孫にも祟ると考えられていたようである。

奈良時代には長屋王が謀反を企てていると讒言され、厳しい取り調べを受けて自殺に追い込まれている。(長屋王の変)
長屋王の変は藤原四兄弟の陰謀だと考えられている。
その後、天然痘が流行り、藤原四兄弟は相次いで死亡してしまうが、これは長屋王の怨霊のしわざだと噂された。

 飛鳥時代にもこれと同じような怨霊信仰があったのではないかと思うのだ。

つまり、山田寺の丈六仏像は蘇我倉山田石川麻呂の怨霊封じ込めの像ではないかと思うのである。

⑥興福寺の僧兵、山田寺講堂本尊を強奪!

『玉葉』(九条兼実の日記)に次のような内容が記されている。

「1187年、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊とした」と。
この山田寺講堂本尊の薬師三尊像の中尊の薬師如来は685年(天武天皇14年)に開眼された丈六仏像だと考えられている。

1180年、興福寺は平重衡の兵火によって炎上しているが、このとき、興福寺・東金堂の本尊も焼失してしまったのかもしれない。

興福寺は藤原氏の氏寺だが、藤原氏の祖は中臣鎌足である。
中臣鎌足は死の間際に天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜ったとされる。
この藤原鎌足(中臣鎌足)の次男が藤原不比等だが、藤原不比等は天智天皇の後胤とする説がある。

藤原鎌足は天智天皇の后・鏡王女を妻としてもらいうけているが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などに記されているのだ。

すると、藤原氏にとって蘇我倉山田石川麻呂は親戚(天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘の間に生まれたのが持統天皇なので)ということになる。

          鏡王女
           |――藤原不比等(興福寺縁起などによる。一般に藤原不比等は中臣鎌足の次男とされる。)
          天智天皇
           |――持統天皇
蘇我倉山田石川麻呂―遠智娘


興福寺は山田寺に対して、次のような理由を申し立てて仏像を強奪したのではないだろうか。
a.藤原氏は天智天皇の後胤である。
b蘇我倉山田石川麻呂の死後,山田寺に塔が建立されたのは天智天皇の資金援助を得たためである。(⑤を参照)

また陰陽道では荒ぶる怨霊(荒魂)は十分に慰霊するとご利益を与えてくださる和魂に転じると考えた。
さらに、明治まで神仏は習合して信仰されていた。

藤原氏の祖・天智天皇にとって蘇我倉山田石川麻呂は恐ろしい怨霊であるが、十分に慰霊・供養すれば和魂に転じる。
そういうわけで蘇我倉山田石川麻呂の怨霊封じ込めの像である山田寺の丈六仏像を興福寺は欲したのかもしれない。

1411年、興福寺東金堂で火災が発生し、丈六仏像も焼けてしまった。
ところが昭和12年、その後新しく新しく造られた本尊像の台座内から仏頭が発見された。
どうやら1411年の火災で丈六仏像の頭部が落ちて焼け残り、後に台座内にしまいこまれたようである。

これが興福寺国宝館に安置されている仏頭である。

美しく、端正な顔をしている。
しかし、頭部だけの仏像というのは首級を思い出させて気持ち悪いと思った。


興福寺国宝館をあとにした私は、桜井市にある山田寺跡へ行ってみることにした。
興福寺から車で50分ほど、直線距離で30kmも離れている。
この距離を丈六仏像を運ぶというのは、よほど厚い信仰心がないとできないだろう。

山田寺 白藤

山田寺跡 白藤


山田寺跡はただがらんとした何もない空き地のようなところだった。
そして空き地のすみに、明治25年
に再興されたという小さなお堂が建てられているだけだった。

山田寺 赤い楓

山田寺跡


ミシャグジ様の謎⑩ 千の仏頭が現れた山  につづきます~



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[2019/10/07 16:17] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)