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ミシャグジ様の謎⑧ 大神神社は物部氏が祭祀する神社?


ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル? よりつづきます~
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ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

①三つ鳥居は怨霊を封じるためのもの?

前回、私たちは石上神宮について見てきた。
ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル? 

今日はこの石上神宮から山辺の道を歩いて南へ6kmほどの場所にある大神神社を参拝してみることにしよう。

大神神社 茅の輪

コンクリート造りの大鳥居をくぐり、参道を歩いていくと大神神社の拝殿が見えてくる。
拝殿の前に置いてある輪は茅の輪である。

6月晦日の夏越の祓で、茅の輪潜りをする習慣が全国の神社にある。
その作法は神社ごとに多少の違いはあるが、だいたい、次のような文言を唱えながら輪をくぐる。

水無月の 夏越の祓ひ する人は、千歳の命 延ぶといふなり (1回目/左回り)
思ふこと みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな(2回目/右回り)
蘇民将来 蘇民将来(3回目/左回り)


生田神社 夏越大祓式 

上は生田神社(兵庫県神戸市)の夏越大祓式の写真である。
通常の茅の輪は生田神社のもののように一つの輪があるだけである。

大神神社は三輪山をご神体とする神社で、拝殿より直接ご神体の三輪山を拝する。

三輪山 日の出

大神神社 ご神体の三輪山


拝殿と大神神社の間には三つ鳥居がおかれているそうである。
私はなんとか三つ鳥居を見ることができないかといろんな場所から拝殿の向こう側をのぞいてみたが、残念ながら三つ鳥居は見ることができなかった。

三つ鳥居の写真は大神神社のhpに写真が掲載されていた。
http://oomiwa.or.jp/keidaimap/02-mitsutorii/

三つの輪を持つ茅の輪はこの三つ鳥居を模して作ったのだろう。

 三つ鳥居の中央には御簾のようなものがかけられているが、以前、大神神社のhpを見たときには鳥居の中央には御簾ではなく彫刻を施した扉のようなものがついていたと思う。
もしかしたら最近この三つ鳥居を作り直したのかもしれない。

いずれにせよ、この鳥居が普通の鳥居と性質が異なることは確かだろう。
普通の鳥居は参拝者がその下をくぐって神域に入ることができる。
いわば門のような役割をはたしている。
しかし、御簾や扉のついた鳥居では、その下を参拝者が通ることはできない。
 
三輪山は聖なる山、禁足地として参拝者の通行を制止するためのものなのか?
いや、どちらかというと、三輪山は怨霊の住まう山であり、怨霊が出てこないようにとの配慮からこのような御簾や扉のついた鳥居を作ったのではないかと私は思う。

というのは大神神社の御祭神・大物主は怨霊なのだ。
こんな話がある。

崇神天皇の夢枕に大物主があらわれ、こういった。
「今疫病が流行っているのは私の仕業である。自分の血をひく大田田根子に私を祀らせたならば、疫病はおさまるだろう。」
そこで天皇が大田田根子を探し出したところ、彼は「父は大物主神、母は活玉依姫」と答えたので、大物主神の祭主とした。
するとたちまち疫病は収まった。


怨霊とは政治的陰謀により不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業でひきおこされる、と考えられていた。
疫病を引き起こした大物主は怨霊だといえる。

②大田田根子は秦氏のオオ氏?

大田田根子は神君、鴨君の祖先だとされているが鴨氏が祭祀する上賀茂神社の摂社に大田神社がある。
また大田田根子は秦氏のオオ氏ではないかとする説がある。

秦氏は渡来人で、百済からやってきたとされるが、秦氏の祖が弓月君という人物であるところから、中央アジアにあった弓月王国の民ではないか、
そして弓月王国はキリスト教国であり、秦氏はクリスチャンではないかともいわれている。

秦氏の本拠地・京都の太秦には秦氏の氏寺である広隆寺があるが、広隆寺はかつて別名を太秦寺といった。
そして唐のネストリウス派キリスト教(景教)の寺院は大秦寺といい、太秦寺とは点があるかないかの違いしかない。
蚕の社はその広隆寺の鎮守として創建されたとも伝わるが、そこには珍しい三柱鳥居があり、キリスト教の三位一体をあらわすのではないかといわれている。

蚕の社 三柱鳥居 

蚕の社 三柱鳥居 3つの鳥居で三角柱の形を作っている。


三柱鳥居が秦氏の信仰によるものであるならば、大神神社の三つ鳥居もまた秦氏によるものではないか、とも考えられる。

③物部氏の祖神・ニギハヤヒと大物主は同一神?

大田田根子が秦氏だとすると、大物主は秦氏なのか?
私は大田田根子の母親の活玉依姫が秦氏の女性であったのではないかと思う。

大田田根子の父親、大物主は物部氏ではないだろうか。

物部氏の祖神はニギハヤヒだが、先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表記している。

そして大物主神は正式名称を倭大物主命という。
櫛・玉(魂)が共通するので、二神は同一神ではないかとする説があるのだ。

④本殿をもたないのは物部氏の祭祀スタイル?


そういえば、肩野物部氏の本拠地である大阪府交野市・枚方市あたりには本殿のない神社がいくつかあった。

磐船神社・星田妙見宮は巨岩をご神体とし、交埜神社の境外社の瘡(くさがみ)神社は拝殿の後ろにある沼をご神体としていた。
いずれも本殿はない。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 天の磐船

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮 織女石(たなばたいし)

瘡(くさがみ)神社
 

瘡(くさがみ)神社 拝殿より後方の沼を拝する。
鳥居の左右の脚の長さがちがっていたw 2018年の台風で折れたのかも?

そして前回訪れた石上神宮には現在は本殿があるが、もともとは本殿はなく拝殿の奥の聖地を「布留高庭」として祀っていたのだった。
石上神宮は物部氏が祭祀する神社である。

石上神宮 3

石上神社


そして、ここ大神神社にも拝殿はあるが本殿がない。
拝殿より直接ご神体である三輪山を廃するという祭祀スタイルである。

大神神社の御祭神・大物主神は物部氏の神で、大物主神の「物」とは「物部氏」を意味しているのではないか。

星田妙見宮には次のような伝説が伝わっているとネット記事で読んだ記憶がある。

星田妙見宮は何度本殿を作っても火事になって焼失してしまう、それでこの神様は本殿は欲しくないのだろうということになり、本殿をつくっていない。

そしてこれとほとんど同じ伝説を、大神神社に伝わる伝説として聞いた記憶があった。
しかし随分昔のことであり、テレビか何かの本で読んだのだと思うが、覚えていない。
なので残念ながらこれについてのソースを示すことができない。

⑤大物主神と大国主神は同一神?

大神神社の御祭神・大物主神と出雲大社の御祭神・大国主神は同一神とされている。

というのは、次のような神話があるからだ。

大国主神は少名彦名神とともに国作りを行っていたが、国作りの途中で少名彦名神は常世の国へいってしまった。
大国主神はこれからどうやって国作りをすればいいのかと途方にくれていたが、そこへ海の向こうから光り輝く神があらわれた。
大国主が神に名前を問うと、「私はあなたの幸魂、奇魂。私を祀れば国造りは完成するだろう」と言った。
そこで大国主が祀ったのが大神神社であるという。


Izumotaisha 17feb1875

国立公文書館所蔵「出雲大社絵図」(1875年〈明治8年〉頃作成)
中央にある一番大きな建物が神殿だろう。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Izumotaisha_17feb1875.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/66/Izumotaisha_17feb1875.jpg
不明 [Public domain]


⑥出雲大社の本殿は15階建てビルに匹敵する大きさだった。

大国主を祀る出雲大社には大きな本殿がある。
現在でも破格の大きさだが、かつてはもっと大きかったらしく、出雲大社の言い伝えでは、神殿の高さは上古には32丈(約96m)もあったという。
970年に源為憲が書いた『口遊(くちずさみ)』によれば『雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)』とある。
雲太は出雲太郎、和二は大和二郎の略で東大寺大仏殿、京三は京三郎の略で京都の大極殿を表しており、出雲大社・大仏殿・大極殿の順で建物が大きいという意味だ。
その当時の東大寺大仏殿の高さは15丈であり、出雲大社の本殿は十六丈(約48m)はあったと想定される。
高さ十六丈は現在の15階建ての高層ビルに匹敵する。

また、3本の木を鉄の輪で1つに束ね、柱の太さが1丈(3m)もある金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』なども伝えられていた。
金輪御造営差図のような建物は構造的に無理だと考えられていたが、平成11年(1999)年から平成12年に行われた発掘調査の結果、拝殿北側から3本の柱の根本部分が発見され、しかも3本を束ねた柱の直径は約3mもあった。
こうして『金輪御造営差図』が現実のものであったことがわかった。

Izumo-taisha scale model 121281969 6127ff6b17 o

古代の本殿の模型
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Izumo-taisha_scale_model_121281969_6127ff6b17
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8e/Izumo-taisha_scale_model_121281969_6127ff6b17_o.jpg
Blue Lotus [CC BY 2.0 (
https://creativecommons.org/licenses/by/2.0)]

⑥出雲の国譲り

大国主といえば国譲りの神話で知られる。

天照大神に派遣されたタケミカヅチが大国主神に「国を譲れ」とせまった。
大国主は「二人の息子に聞いてくれ」と言った。
そこでタケミカヅチが大国主神の息子の事代主神に「国を譲れ」と迫ったところ、事代主神は「承知した」と答えて
逆手を打ち、海を青芝垣に変え、船を踏み傾けて姿を消した。(入水したのだろう。)

次にタケミカヅチは大国主神のもうひとりの息子タケミナカタと相撲をとった。
タケミナカタはタケミカヅチに手をつぶされて諏訪湖まで逃げたが逃げ切れず「国は天孫にさしあげる」と約束した。

大国主神は「二人の息子がそういうならば国は天孫にさしあげる。そのかわり天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を作ってほしい。そうすれば私はその宮殿に籠って外に出ることはないだろう。」

この大国主の言葉に従って作られたのが出雲大社で、出雲大社の社殿が大きいのは大国主の願いを聞き入れた、ということだろう。

⑦本殿を作らないのは、天皇家に従わないという意思表示だった?

一方、大物主神を祀る大神神社には本殿がない。
これについて、こんなことを言う人がいる。
「大国主神は宮殿をつくってもらえたが、大物主神は宮殿を作ってもらえなかったのだ。」

しかし伝説では、大物主のために何度本殿(宮殿)をつくっても潰れてしまうので、人々は大物主自身が本殿(宮殿)を欲していないと考えたということだった。

この伝説をどう考えるべきだろうか。

ニギハヤヒは初代神武天皇より早く畿内に天下った神であり、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。

日本書紀に次のような記述がある。

ニギハヤヒを神と奉じていたナガスネヒコは、日向より東征して畿内入りした神武と対峙し、次のように発言した。

「昔ニギハヤヒという天孫が天下り、私は妹のトミヤスヒメをニギハヤヒと結婚させた。
二人の間にはウマシマジノミコトという御子も生まれた。
あなたは天孫だというが、天孫がふたりもいるのか。
あなたは天孫だと偽って土地を奪おうとしているのではないか。」

神武は天つ神の子である証拠の天の羽羽矢と歩靱(かちゆき)を見せた。
それでもナガスネヒコは考えを改めなかったので、神武に服したニギハヤヒによってナガスネヒコは殺された。

(日本書紀)

ナガスネヒコは神と奉じていたニギハヤヒに殺されたとあるが、これは信用できない。
日本書紀は舎人親王らが編纂し元正天皇に奉納したものであり、天皇家に都合よく改竄されている可能性が高いからだ。

③で書いたように、大物主神=倭大物主命は物部氏の祖神・ニギハヤヒ=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と同一神であったのだろう。

実際のニギハヤヒ=大物主神は誇り高い人物であり、簡単に国を明け渡すような人物ではなかったのではないだろうか。

「私は宮殿などいらない。私は宮殿にこもったりはしない。もちろん国を天孫に譲ったりもしない!」
大物主はそんな風に考えているににちがいない、と人々は考え、大神神社に関しては出雲大社のように本殿をつくるということをしなかったのではないか。

しかしそれではあまりに大物主の祟りが恐ろしいということ大田田根子は大物主の怨霊を封じるため、三つ鳥居をつくり、三輪山から大物主神の怨霊が彷徨い出ないような呪術的な仕掛けをつくったのではないだろうか。

また本殿を造るのは秦氏の祭祀スタイルであり、本殿を作らず巨岩・沼・山などをご神体とするのは物部氏の祭祀スタイルだと考えられると思う。





ミシャクジ様の謎⑨ 30kmも運ばれた丈六の仏像 につづきます~



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ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル?

ミシャグジ様の謎⑥ 沼をご神体とする神社  よりつづきます~
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ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

①刀剣を神格化した神フツヌシ

春日大社の御祭神はアメノコヤネノミコト・タケミカヅチ・フツヌシ・ヒメガミの4柱である。
アメノコヤネノミコトは藤原氏の祖神、タケミカヅチ・フツヌシは藤原氏の守護神、ヒメガミはアメノコヤネノミコトの妻とされる。

春日大社の一柱・フツヌシは、刀剣を神格化した神だと考えられている。

春日大社 舞楽始 

春日大社

②神武天皇を助けた刀剣・フツノミタマ

記紀には「フツノミタマ」という神剣が登場する。

高倉下(タカクラジ)はこんな夢をみた。
葦原中国が騒がしいので、天照大神と高木神はタケミカヅチを葦原中国に派遣しようとした。
タケミカヅチは「自分が葦原中国へ行かなくとも、国を平定した剣があるのでそれを降ろせばいい」と言った。
高倉下が目覚めて倉の中を見てみると、倉の中に剣があった。

神武天皇が率いる軍は熊野で悪神の毒気にあたって倒れてしまった。
しかし、高倉下がこのフツノミタマをもたらすと意識を戻した。

 春日大社 萬灯篭2

春日大社


③フツノミタマ、物部氏が祭祀する石上神宮から出土。

フツノミタマは石上神社(奈良県天理市)にあると記紀には記されている。

石上神社はかつて地元では「いわがみさん」などとも呼ばれており、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を御祭神としている。
石上神社は古代軍事氏族の物部氏が祭祀し、大和政権の武器庫であったと考えられている。

石上神社にはもともと拝殿があるだけで本殿はなかった。
そして拝殿の奥の聖地を「布留高庭」として祀っていた。

「布留高庭」には二つの神宝が埋められていると言い伝えられていた。
1874年の発掘調査で布都御魂剣が、1878年の発掘調査では天羽々斬剣が出土し、1913年、これらを祀るための本殿が建造された。

 
石上神宮 3

石上神社


④物部氏の祭祀する神社は神殿がない

大阪府交野市付近は肩野物部氏の本拠地だったが、星田妙見宮・磐船神社・など神殿のない神社が多い。
どちらの神社も拝殿より直接ご神体の巨大な岩を拝するという祭祀スタイルである。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船


星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

磐船神社は物部氏の祖神・ニギハヤヒを御祭神とする神社なので、物部氏が祭祀する神社でまちがいないといえそうだ。
また交野市の隣・枚方市にある片埜神社の境外社・瘡(くさがみ)神社も拝殿よりその背後にあるご神体の沼を拝する。
交野市・枚方市は肩野物部氏の本拠地だったところである。

瘡(くさがみ)神社 

瘡神社 鳥居の左右の脚の長さがちがっていたw 2018年の台風で折れたのかも?

石上神社ももともとは本殿がなかったということであるし、本殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイルなのではないだろうか。
物部氏以外にもそういう祭祀スタイルを持つ氏族はあるのかもしれないが。

④伊勢神宮は陽=生の神、石上神宮は陰=死の神?

石上神宮境内では鶏がたくさん飼われていた。
鶏は石上神宮の神使なのだ。
白い鶏もいたが、その多くは茶色の鶏だった。

石上神宮 鶏

鶏といえば伊勢神宮でも神とされて飼われているそうである。
私は伊勢神宮は参拝したことがない。
そこで、「伊勢神宮 鶏」で画像検索してみると、茶色い鶏もいるが、白い鶏の写真の方が多いようである。
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE+%E9%B6%8F
きちんと確認する必用があり、推論にすぎないが、

伊勢神宮の神使・・・白い鶏・・・・・・・・・・・陽
石上神宮の神使・・・黒い(色のついた)鶏・・・・陰

のように、陰陽の関係になっているようにも思える。

参照/
陰陽 黒と白⑳最終回 『まとめ と 神の性別を変える呪術』  

陰陽道では万物は陰陽両面を持つと考える。
生死を陰陽で表すと、生が陽、死が陰である。
性別天体光度天気生死
陰(黒)
陽(白)太陽

また陽は白、陰は黒で表される。

Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


すると、伊勢神宮は陽=生の神、石上神宮は陰=死の神 なのではないかと思える。

また、伊勢神宮は呼名を「磯宮」といったそうだが、石上神宮を思わせる神社名である。

物部氏の祖神・ニギハヤヒは先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表記されており、ニギハヤヒが本当の天照大神ではないかとする説がある。

またニギハヤヒは初代神武天皇が日向から東征して畿内入りする以前、すでに畿内に天下っていたとされる。
ここから初代神武以前、畿内には物部王朝があったとする説もある。

私は天照大神とは男神・ニギハヤヒのことであったと思う。
そして天照大神の子孫が葦原中国をおさめるべきというようなルールがあったのではないかと思うのだ。

岩戸山ご神体 天照大神

祇園祭 岩戸山 ご神体の天照大神は男神だった。天照大神を男神とする伝承は各地にある。鳥居にとまっているのは茶色い鶏である

あとから畿内にやってきた神武(天皇家の先祖)には葦原中国を支配する方法はある。
物部王朝に婿入りし、物部氏の女性である自分の妻を王として、自分は摂政のような形で政権を牛耳るというやり方だ。

さらに本来男神であった天照大神を女神に変え、同複の兄妹または姉弟の結婚を禁忌とする。
(古事記の衣通姫と軽太子の話は同複の兄妹または姉弟の結婚を禁忌とする。)
そして、皇位継承を男系に限る。

そうすれば、神武(天皇家の祖先)の血筋がずっと皇位継承されることになる。
これが天皇家の万世一系の正体なのではないかと思う。

そして男神の天照大神を石上神宮に祀って死霊とし、女神の天照大神を伊勢神宮に祀って生霊としたのかも?

石上神宮 雨 
石上神宮


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ミシャグジ様の謎⑥ 沼をご神体とする神社

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片埜神社2 
片埜神社

①アテルイの首塚


おや、片埜神社(大阪府枚方市)の境内に鬼の面が。

このあたりは豊臣秀吉が築城した大坂城の鬼門(東北)にあたる。
そのため片埜神社は大阪城の鬼門除けの神社として信仰されたという。
それで、ここに鬼の面が置いてあるのだろう。

片埜神社-鬼の面 

②アテルイの首塚

しかし私はこの鬼の面を見ると、片埜神社の隣の牧野公園にあるアテルイの首塚(地元では蝦夷塚と呼ばれている。)や牧野公園の東北3丁(327m)離れた場所(枚方市宇山東町6-1)にあったというアテルイの胴塚をイメージしてしまう。

アテルイの首塚がある牧野公園はかつては片埜神社の境内であったといわれる。

アテルイは吾妻鏡などに登場する悪路王と同一視されているが、悪路王は伝説の中では鬼とされていることがある。

アテルイ(?~802年)は大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)などとも記され、奈良時代末期から平安時代初期ごろ、東北地方に住んでいた蝦夷の首長だった。

このころ、東北にはまつろわぬ民(朝廷に従わない人々)が結構いたようで、蝦夷と呼ばれていた。
802年、征夷代将軍・坂上田村麻呂は東北のまつろわぬ民を攻撃し、苦戦の末、勝利を納めた。
坂上田村麻呂は蝦夷の首長であるアテルイとモレを京へ連れ帰った。
坂上田村麻呂は朝廷にアテルイとモレの助命を嘆願したが、聞き入れられず、ふたりは河内国杜山で処刑された。

アテルイの首塚 
牧野公園 アテルイの首塚

アテルイ・モレが処刑された場所は「杜山」のほか、「植山」「椙山」と記した史料もある。
しかしいずれも河内国には存在しない。

枚方市宇山は江戸時代初期には上山という地名だった。
そこで植山は上山で、現在の枚方市宇山にある塚がアテルイの墓ではないかとする説がある。

昭和63年に枚方市教育委員会が牧野公園の東北にある塚(アテルイの胴塚と考えられていた。)を発掘調査した結果、6世紀後半の円墳と判明した。(宇山1号墳)
アテルイの墓とするには時期がずれている。
現在はその上にマンションが建てられていて、現存しない。

宇山1号墳の東には宇山2号墳があったそうだが、こちらも現存しない。

牧野公園東の坂道(府道17号枚方高槻線)は、「祟り坂」と呼ばれ、ここで転ぶとケガは一生治らないと言い伝えられているそうである。

この話を聞いた限りでは、牧野公園のアテルイの首塚は発掘調査されていないようであるが?

アテルイが処刑された場所が現在の牧野公園かどうかわからない。

しかし、宇山1号墳(2号墳は詳しい情報がつかめていないため、わからない)は6世紀後半の円墳なので、アテルイの胴塚ではないだろう。

③宇山1号墳は肩野物部氏の墓?

このあたりは古には肩野物部氏の本拠地だった。
宇山1号墳は肩野物部氏の首領クラスが眠る墓ではないだろうか。

初代神武天皇がやってくるより早く、このあたりにニギハヤヒという神が天下っていたということは
こちらの記事に書いた。→ ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

ニギハヤヒは物部氏の祖神とされている。

ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコという者があり、神武にこういった。

「私の妹は天孫ニギハヤヒの妻となり、ウマシマジノミコトという御子も生まれた。
あなたは天孫だというが、天孫は二人もいるのか。あなたは天孫だと偽って土地を奪おうとしているのではないか。」

神武はナガスネヒコに天孫の証である天の天羽々矢(あまのははや)と歩靱(かちゆき)を見せたが、それでもナガスネヒコは納得しなかった。

ナガスネヒコは神武に服したニギハヤヒに殺された。

と日本書紀には記されている。

その後、ニギハヤヒの子孫である物部氏は蝦夷とともに東へのがれたともいわれる。
ニギハヤヒの兄・アビヒコは安倍氏の祖だといわれるが、阿倍氏は蝦夷である。
このように物部氏は蝦夷と関係が深そうに思われる。

アテルイの首塚が地元で蝦夷塚と呼ばれているのは、アテルイが蝦夷であるというだけでなく、物部氏が蝦夷と関係が深いところからそう呼ばれているのかもしれない。

④朝原神社と瘡神社は道祖神?

片埜神社から東へ歩いていくと片埜神社の境外社の朝原神社がある。猿田彦神を祀っている。

朝原神社 

朝原神社

朝原神社の隣は枚方東消防署阪出張所で、その隣が同じく片埜神社の境外社の瘡(くさがみ)神社である。

瘡(くさがみ)神社 

瘡神社 鳥居の左右の脚の長さがちがっていたw 2018年の台風で折れたのかも?

瘡神社は次のような伝説を伝えている。

菅原道真が無実の罪で流罪となり大宰府へ向かう途中、この地で道真の馬が倒れた。
道真は馬を地元の人に託して大宰府へ向かった。
地元の人は手厚く介抱したが、馬は死んでしまった。
馬が埋葬された場所には馬の好物である草がたくさんお供えされ、「草神様」と呼ばれるようになった。
この「草神」が「瘡(くさ)神」に転じて「瘡神社」となり、皮膚病にご利益があると信仰された。


私たちは、磐船神社・星田妙見宮など神殿のない神社を見てきた。
磐船神社・星田妙見宮は大阪府交野市にあるが、片埜神社のある枚方市は交野市と隣接している。
そして交野市・枚方市のあたりは古には交野ケ原と呼ばれていた。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船

星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

片埜神社の境外社・瘡神社にも神殿がない。
写真の建物は「お籠り堂」で、かつてここに籠って皮膚病祈願が行われていたが、現在は拝殿となっている。
ご神体は岩ではない。拝殿の奥にある沼がご神体となっている。

沼や池には弁財天が祀られることが多い。
女神は水神なのだ。

瘡神社の現在の祭神は火酢芹命だが、もともとは異なる神を祀っていたという。
もともとここに祀られていた神は、女神のアメノウズメではないだろうか。

日本では道祖神は猿田彦神とアメノウズメの男女双体の神とされている。
朝原神社と瘡神社で、道祖神をあらわしているのかもしれない。
参照/ミジャクジ様の謎③ 『ニギハヤヒは太陽神?それとも星の神?』 

河治温泉 如意輪観音 道祖神

川治温泉の道祖神(向かって左)




ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル?  につづきます~



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ミシャグジ様の謎⑤ 交野ヶ原の天の川伝説


ミシャグジ様の謎④ 『何度作っても神殿が焼けてしまう神社』  よりつづきます~
トップページはこちらです→ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 


①天田神社はアルタイル、星田妙見宮の織女石はベガ

前回の記事で、私は次のように書いた。

星田妙見宮から天野川を挟んだ対岸には天田神社があり、天田(豊に実る田)の神を祀っている。
この天田は牽牛が耕す田で、対岸の織女石は織姫であると考えられたという。

このような伝説があり、交野ケ原と呼ばれた大阪府交野市・枚方市あたりは七夕伝説発祥の地とされている。

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮 織女石

天田神社

天田神社

七夕伝説とはみなさんよくご存じのように、年に一度、旧暦の7月7日に牽牛と織姫が天の川にかけられた鵲の橋をわたって逢瀬を楽しむという伝説である。

この伝説は夏の夜空を擬人化したものとされている。

すなわち牽牛はアルタイル(牽牛星)、織姫はベガ(織女星)であり、鵲がかける橋は白鳥座だといわれている。

観音山公園付近 石碑

中山観音寺近くにある説明板

天田神社はアルタイル、星田妙見宮の織女石はベガに喩えられたのだろう。
そして天田神社と星田妙見宮の間を流れる川はずばり、天の川という名前である。

②中山観音寺の牽牛石はアルタイル、機物神社はベガ

交野が原にはもう一組、牽牛星・織女星に喩えられた場所がある。

中山観音寺跡(観音山公園)にある牽牛石と、機物神社である。

下の地図の東側、第二京阪道路とJR片町線が交差するあたりに機物神社が、西側香里ヶ丘中央公園の南あたりに中山観音寺跡がある。
5kmほど離れているだろうか。



郡津駅の西側を南北に流れる川は天野川である。

天野川は天上の天の川を、中山観音寺はアルタイル(牽牛星)を、機物神社はベガ(織女星)を表すものとされ
天野川には牽牛と織姫が年に一度逢瀬を楽しむという合逢橋もある。


観音山公園 牽牛 七夕飾り 
中山観音寺跡(観音山公園)

中山観音寺 牽牛石 
中山観音寺跡(観音山公園) 牽牛石

機物神社 七夕飾り 
機物神社

機物神社の背後には交野山があり、巨大な磐座がある。もしかしたらこれが機物神社のご神体で、織女石かもしれないと思った。

交野山

交野山 ↑↓


交野山

交野山 観音岩

交野山 磐座

③小さな男神と大きな女神

牽牛石に比べて交野山の磐座ははるかに巨大である。
その巨大な磐座が女神の織姫を表す磐であるというのはおかしいように思うかもしれない。

しかし、雛人形のルーツになったともいわれる和歌山県加太の淡島大社の雛守りは、男装をした神功皇后と赤子の応神天皇のペアであり、神功皇后の方が大きく作られている。

また少彦名神と大穴持命のペアの話が記紀にあるが、大きな穴を持つ神(命)とは女神ではないだろうか。

大穴持命は大国主の別名とされ、大国主には妻があるところから男神だと考えらえる。
すると大穴持命も男じゃないのか、といわれそうだが、
どうも日本の神は性別がルーズなようで、

謡曲三輪では男神であるはずの三輪明神は女神として登場している。
また祇園祭の岩戸山のご神体の天照大神は女神ではなく男神だった。

聖徳太子が女性に生まれ変わって親鸞の妻になろう、と言ったという話もある。

また交野山が女神、磐座は男神で男女和合を表しているようにも見える。

④天田神社に牽牛石はあるか?

もう一度、天田神社の写真を見てみよう。

天田神社

天田神社

天田神社由緒と記された説明板の後ろにある石は、なんとなく中山観音寺の牽牛石に似ている。
もしかするとこの説明板の後ろにある石が天田神社の牽牛石なのかもしれない。

中山観音寺 牽牛石 
中山観音寺跡(観音山公園) 牽牛石

枚方パーク 夕景

天の川より枚方パーク観覧車を望む。



ミシャグジ様の謎⑥ 沼をご神体とする神社 につづきます~



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ミシャグジ様の謎④ 『何度作っても神殿が焼けてしまう神社』


ミジャクジ様の謎③ 『ニギハヤヒは太陽神?それとも星の神?』 よりつづきます~
トップページはこちらです→ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

①隕石が落ちた神社


初回の記事ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? で私たちは磐船神社を訪れた。
今回はこの磐船神社の西北2kmほどのところにある星田妙見宮を訪ねてみよう。

星田妙見宮 鳥居 紅葉

星田妙見宮

星田妙見宮

星田妙見宮 絵馬堂


妙見山の頂上近くに星田妙見宮の拝殿があり、その奥に織女石(たなばたいし)が祀られている。
たぶんこの織女石が御神体なのだろう。本殿はないようである。

星田妙見宮 織女石  

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮の説明板に次のような旨が記されていた。

816年、ここに隕石が落ちたことで山が吹き飛ばされ、馬蹄形になっている。
落ちたのはペルセウス座流星群の母彗星スイフト・タッフル彗星からの隕石である。

星田妙見宮 滝の説明版

星田妙見宮-説明版

どうやら816年ここに隕石が落ちたというのは、星田妙見宮に伝わっている話であり、正史に記録があるというわけではなさそうであるが。

また星田妙見宮には隕石が落ちてきたという伝説はあっても、本物の隕石が存在しているわけではなさそうである。


②古の人々は巨石を空から落ちてきた星だと考えた?


「拝殿の奥にある織女石が、星から落ちてきた隕石である。」
古の人々はそう考えたのではないかと私は思う。
その理由を述べる。

『雲陽誌』には『星降って石となる』という古語があると記されている。
それが隕石であるかどうかは別にして、古の人は巨岩を空から落ちてきた星だと考えたのではないかと思われる。

初回にご紹介した磐船神社の御神体・天の磐船。
磐船神社の御祭神はニギハヤヒという物部氏の祖神で、ニギハヤヒはこの天の磐船を操ってここに天下ったとされる。

さらに『ニギハヤヒは星の神である』との旨が『雲陽誌』には記されている。

天の磐船は隕石ではないが、古の人は巨石を空から落ちてきた星であると考え、
「ニギハヤヒがこの天の磐船を操って地上に天下った」という物語を創作したのではないかと思うのだ。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船

③作っても作っても神殿が焼けてしまう神社

ネットでぐぐってみたところ、「星田妙見宮は何度神殿を作っても火事になって焼失してしまう、それでこの神様は神殿は欲しくないのだろうということになり、神殿をつくっていない」という記事を読んだ。

しかしもう何年も前のことで、記憶が定かではない。

また今ぐぐってみても、この記事は見つからない。

④星田妙見宮と天野川を挟んで対面する天田神社

天田神社 
天田神社

ついでなので、星田妙見宮から天野川を挟んだ対岸にある天田神社にも立ち寄ってみることにしよう。

天田神社は天田(豊に実る田)の神を祀っている。
この天田は牽牛が耕す田で、対岸の織女石は織姫であると考えられたという。

天田神社 絵 
天田神社に奉納された絵


星田妙見宮に神殿はなかったが、天田神社には神殿があった。



天田神社付近の田圃 
天田神社周辺には田圃が広がっていた。





ミシャグジ様の謎⑤ 交野ヶ原の天の川伝説  につづきます~



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ミジャグジ様の謎③ 『ニギハヤヒは太陽神?それとも星の神?』

ミシャグジ様の謎② 太陽と月が結婚すると星の神になる? よりつづきます~
トップページはこちらです→ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 


①ニギハヤヒは太陽神?それとも星の神?

前回私は、次のように述べた。

物部氏は製鉄・鋳造の技術に長けており、そのため物部氏の神は星の神だとする説がある。
また雲陽誌という書物には次のような内容が記されている。
島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が 掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にした。
ニギハヤヒは星の神。」


これに対して、こんな反論があるかもしれない。

ニギハヤヒは先代旧事本記では天照国照彦火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表記されている。

一方、天照大神は男神とする説がある。
天照大神は女神であるアメノウズメのストリップダンスに興味を持って天岩戸からでてきた。
女神のストリップに興味を持つのは男だ。よって天照大神は男だとする説がある。
そして天照国照彦火明櫛玉饒速日命が本当の天照大神ではないかともいわれている。

するとニギハヤヒは太陽神だ。星の神ではない。


岩戸山ご神体 天照大神

祇園祭 岩戸山 ご神体の天照大神は男神だった。

いったいニギハヤヒは太陽神なのか、星の神なのか。

私はニギハヤヒは太陽神、アメノウズメは月神、ニギハヤヒとアメノウズメの男女双体の神が星の神だと私は考えている。

②伏義は太陽神、女媧は月の神?

中国伏義と女媧という兄妹で夫婦でもある神がいる。

五盔墓4号墳の壁画は、伏義が持ち上げている円の中に八咫烏が、女媧が持ち上げている円の中にはヒキガエルが描かれている。
八咫烏は太陽の中に、ヒキガエルまたはウサギは月に住むと考えられてた。

五盔墓4号墳の壁画を見ると、伏義は太陽の神、女媧は月の神のように思われる。

ファイル:Anonymous-Fuxi and Nüwa3.jpg

伏義と女媧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg
よりお借りしました。


伏義は地の神、女媧は天の神?

ところがウィキペディアの伏義と女媧の図には太陽を表す八咫烏や月をあらわすヒキガエルは描かれていない。
その代わり絵の上部に菊のようなものが、下部にクロワッサンのようなものが描かれている。
菊のようなものは太陽、クロワッサンのようなものは月だと思う。

そして伏義と女媧は蛇身の下半身を絡ませている。
五盔墓4号墳の壁画にあるように伏義=太陽神、女媧=月神であり、上の図は太陽神・伏義と月神・女媧の和合(結婚)を表しているのではないだろうか。

月が太陽の上に重なれば日食である。(蛇足/太陽が月の上に重なるということはない。月のほうが地球に近いからだ。月食は月に地球の影が映る現象で月と太陽の和合ではない。)

上の伏義と女媧の図は日食を表していると思う。
というのは二神の周囲に星が描かれているからだ。

皆既日食がおこると皆既日食では日没後20分から30分くらいたった程度に暗くなり、明るい星であれば観測されるそうである。

太陽神と月神が重なると星の神になるのだ。




④女神が男神の足を踏みつける大聖歓喜天

大聖歓喜天という仏教の神がある。
大聖歓喜天はもともとはヒンズー教の神であったのが、のちの仏教にとりいれられて仏法守護の神とされた。
大聖歓喜天のお姿は道祖神や伏羲&女媧と同じく男女の神が抱きあう姿で表され、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャの祟りで国中に不幸な出来事がおこった。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。
 

双身歓喜天像の相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音菩薩の化身ビナヤキャ女紳とされる。

Icon of Shoten

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AIcon_of_Shoten.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Icon_of_Shoten.jpg よりお借りしました。
作者 不明 (平安時代の図像集『別尊雑記』(心覚 撰)巻 42より) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で




伏義&女媧と大聖歓喜天はよく似ている。
伏義&女媧の腕がつながっている点に注意してほしい。
大聖歓喜天は女神が男神の脚を踏みつけることで、女神と男神の脚はつながっているとみることもできる。
大聖歓喜天は脚がつながっているが、伏義&女媧は腕がつながっているというわけである。

伏義&女媧の影響を受けて大聖歓喜天が創作されたか、大聖歓喜天の影響を受けて伏義&女媧が創作されたのではないかと思う。

⑤道祖神

さらに日本の道祖神も伏義&女媧に似ている。
道祖神はもともとは中国の道教の神なのだが、日本では猿田彦神と天鈿女の男女双体の神として信仰されている。

下の道祖神の写真を見てほしい。
道祖神はこの写真のように男女の神像が手をつなぎあう姿で表される。

それは手のつながった伏義と女媧を思わせるお姿である。


多気山不動尊 道祖神

多気山不動尊 道祖神

④道祖神は猿田彦がアメノウズメのセックスにおぼれ死んでいるの図

道祖神は日本では猿田彦神と天鈿女の男女双体の神だとされているということはすでに述べたとおりだが、猿田彦神と天鈿女は記紀神話の天孫降臨のシーンに登場する。

天孫ニニギの葦原中国降臨の際、天上の道が八衢に分かれている場所に立ち、高天原から葦原中国までを照らす神があった。
天照大神と高木神は天鈿女に命じて、神の名前を尋ねさせた。
天鈿女は神の前にたち、胸をあらわにし、腰ひもをずらし、神に名を訪ねた。
すると『私は国津神で猿田彦神と申します。ニニギを葦原中国まで道案内しようと思い参りました』と答えた。
ニニギは猿田彦神に道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下った。
その後、ニニギは天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り届け、猿田彦神の名前を伝えて仕え祭れ』と命じた。
ここから天鈿女は猿女君と呼ばれるようになった。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死んだ。(古事記)


ニニギは天鈿女に『猿田彦神をもともと彼が住んでいた伊勢へと送り届け、猿田彦神の名前を伝えて仕え祭れ』と命じている。

「仕える」というのは「性的に仕える」という意味で、
「猿田彦神の名前を伝えて仕え祭れ」というのは、天鈿女に猿田彦神と結婚せよ、と命じたということではないだろうか。

天鈿女は天の岩戸の前でストリップダンスをした神、性の神なのである。

「サルタヒコは比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んだ」とあるが、貝は女陰の比喩だと思う。
つまり猿田彦神は天鈿女のセックスにおぼれて死んだということだと思う。

そこでもう一度道祖神の写真を見てほしい。
男女の神像が手をつなぎ合っているように見えるが、これは手をつないでいるのではなく、大聖歓喜天のビナヤキャ女神が鬼王ビナヤキャの足を踏みつけているのと同じで、和合を表すサインなのだと思う。

道祖神の中にはストレートに和合したお姿のものもあるそうだが、我々の先祖はストレートな表現を好まず、わかる人にはわかる的なサインを用いたのだろう。

つまり、道祖神とは猿田彦神が比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んでいるの図(猿田彦神が天鈿女のセックスに溺れしんでいるの図)だといえるのではないかと思う。

河治温泉 道祖神

川治温泉 道祖神

⑤道祖神は星の神


道祖神について、ウィキペディアは次のように記している。

道祖神(どうそじん、どうそしん)は、路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E7%A5%96%E7%A5%9Eより引用

ウィキペディアは、道祖神が旅や交通安全の神として信仰されるようになったのは近世としている。

これについては詳しく調べてみる必要があるが、道祖神はもとから道案内の神、旅の神として信仰されていたのではないかと私は思う。

そういえば、道祖神は猿田彦神と天鈿女の男女双体の神とされるが、猿田彦はニニギを道案内しているではないか。

③⑤でみたように、道祖神と伏義&女媧はよく似ている。
道祖神と伏義&女媧は習合されているといってもいいだろう。

伏義は太陽の神、女媧は月の神。太陽と月が和合することは日食である。
日食がおきると夜のように暗くなって星がみえる。なので伏義&女媧は星の神だと考えられる。

すると道祖神も星の神だと考えられるが、星は方角を知るのにかかせないものだった。
太陽や月は毎日位置をずらしていくので、これらから方角を正確に知ることはむつかしい。
しかし星は地平線から出入りする時刻はずれるが、地平線から出入りする方角は常に一定である。
特に天の中心にあって動かない北極星や真東からでて真西に沈むオリオン座の三つ星などは航海の指標とされていた。

飛鳥坐神社 むすひの神石

飛鳥坐神社 むすびの神石

飛鳥坐神社には上の写真のような陰陽石がたくさん置かれている。
「むすびの神石」と呼ばれているが、これは道祖神と言ってもいいだろう。
関西にはどういうわけか男女の神像で表した道祖神はあまり見かけない。


⑥猿田彦神とニギハヤヒは同一神?

④に記した古事記の伝説をもう一度読んでみてほしい。
「猿田彦神は高天原から葦原中国までを照らす神」と記述されている。
これにぴったりな神名を持つ神がいる。

天照国照彦火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)である。

高天原を天、葦原中国を国とすれば、「高天原から葦原中国までを照らす神」とは「天照国照彦」となる。

天照国照彦火明櫛玉饒速日命とは①で記した星の神・ニギハヤヒのことである。

さらに④の伝説によると猿田彦神の故郷は伊勢だとある。
伊勢には天照大神を祀る伊勢神宮がある。
猿田彦神は天照大神と同一神なのではないか。
さらに猿田彦神とニギハヤヒ(天照国照彦火明櫛玉饒速日命)は同一神なので、ニギハヤヒが天照大神だということになる。

もともとニギハヤヒは太陽神・天照大神だった。
そしてニギハヤヒ=猿田彦神が天鈿女と和合した結果、星の神になったということではないか。

そういえば、ニギハヤヒを祀る磐船神社(大阪府交野市)のそばを流れる川は天の川といい、川をはさんで星田妙見宮の織女石と天田神社、中山観音寺跡の牽牛石と機物神社が対面している。
星田妙見宮の織女石や機物神社はベガ(織女星)に、天田神社や中山観音寺跡の牽牛石はアルタイル(牽牛星)になぞらえられ、
このあたりは天の川伝説発祥の地ともいわれている。

牽牛はニギハヤヒ=猿田彦神、織女は天鈿女であり、ニギハヤヒ=猿田彦神と天鈿女を和合させる呪術として、これらの神社や石は置かれているのかもしれない。

磐船神社 天の磐船

磐船神社(大阪府交野市) 
写真は御神体の天の磐船。
ニギハヤヒはこの天の磐船を操ってここに天下ったと伝わる。




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ミシャグジ様の謎② 太陽と月が結婚すると星の神になる?

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日牟禮八幡宮 

日牟禮八幡宮


①ニギハヤヒは太陽神?それとも星の神?

前回私は、次のように述べた。

物部氏は製鉄・鋳造の技術に長けており、そのため物部氏の神は星の神だとする説がある。
また雲陽誌という書物には次のような内容が記されている。
島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が 掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にした。
ニギハヤヒは星の神。」


これに対して、こんな反論があるかもしれない。

ニギハヤヒは先代旧事本記では天照国照彦火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表記されている。

一方、天照大神は男神とする説がある。
天照大神は女神であるアメノウズメのストリップダンスに興味を持って天岩戸からでてきた。
女神のストリップに興味を持つのは男だ。よって天照大神は男だとする説がある。
そして天照国照彦火明櫛玉饒速日命が本当の天照大神ではないかともいわれている。

するとニギハヤヒは太陽神だ。星の神ではない。


岩戸山ご神体 天照大神

祇園祭 岩戸山 ご神体の天照大神は男神だった。

ニギハヤヒは太陽神。
実はこれは私自身が別ブログ「心の旅」などでさんざん書いてきたことなのだ。

しかし雲陽誌には「ニギハヤヒは星の神」と書いてある。

ニギハヤヒは太陽神なのか、それとも星の神なのか。

結論からいうと、ニギハヤヒは太陽神、アメノウズメは月神、ニギハヤヒとアメノウズメの男女双体の神が星の神だと私は考えている。

今回と次回、2回にわたり、その理由を説明していきたいと思う。

②伏義は太陽神、女媧は月の神?

中国伏義と女媧という兄妹で夫婦でもある神がいる。

五盔墓4号墳の壁画は、伏義が持ち上げている円の中に八咫烏が、女媧が持ち上げている円の中にはヒキガエルが描かれている。
八咫烏は太陽の中に、ヒキガエルまたはウサギは月に住むと考えられてた。

五盔墓4号墳の壁画を見ると、伏義は太陽の神、女媧は月の神のように思われる。

薬師寺 日の出
薬師寺 日の出

薬師寺 月

薬師寺 月

伏義は地の神、女媧は天の神?

ところがウィキペディアの伏義と女媧の図を見てみると、伏義は手に直角定規を、女媧は手にコンパスを持っている。


ファイル:Anonymous-Fuxi and Nüwa3.jpg
 伏羲女媧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg
よりお借りしました。


中国では天円地方といって、天は丸、地は四角だと考えられていた。
するとコンパスは丸を描く道具なので天を、直角定規は四角を描く道具なので地をあらわすということになる。
女媧は天の神、伏義は地の神ということだろうか。

②で伏義は太陽神、女媧は月の神ではないかと書いた。

ということは、伏義は地の神&太陽神であり、女媧は天の神&月の神ということだろうか。

しかしこれは陰陽思想から考えると、少しおかしい。
というのは、陰陽では天は陽で地は陰、太陽が陽で月が陰、男が陽で女が陰なのだ。
なぜ陽の存在である男神の伏義が地を意味する直角定規を、陰の存在である女神の女媧が天を表すコンパスを持っているのか?

天地日月男女
地(四角/直角定規)女(女媧)
天(丸/コンパス)男(伏義)

しかしこの疑問についてはいったんおいておくことにして、先へ進もう。

④太陽が逆に回って月を捕まえる現象は日食を表している?

伏義と女媧には次のような伝説がある。

女媧は木の周囲を回って逃げ、伏羲はあとを追ったが、なかなか女媧を捕まえることができなかった。
そこで伏義はいったん止まり、逆に廻って妹を捕まえ、二神は結婚した。
やがて女媧は出産したが、それは肉塊だった。
その肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散り、人間となった。


伏義は陽、女媧は陰の神だと考えられるが、伏義は太陽神、女媧は月神であるとも考えられる。
太陽(伏義)が月(女媧)を捕まえられないのは当然だ。

太陽が月を捕まえるとは、太陽と月が重なること、日食のことだろう。
古代中国では紀元前4世紀の天文学者・石申が月と太陽の相対位置から日食を予測する方法を説いている。
日食とは太陽と月が重なっておきる現象であるということは古くから知られていたのだ。

伏義はいったん止まり、逆に廻って妹を捕まえたとあるが、太陽は止まることはないし、逆に廻ることはない。

これは目の錯覚を表現したものではないだろうか。
太陽や月は東から西に進むが、日食の影は西から東に進むので、太陽が逆に廻ったように錯覚したのではないか。


⑤太陽と月が重なるとき、神格が逆になる?


私はそう考えて、日食の動画を探してみたところ、次の動画が見つかった。

↓ こちらの動画を見ると日食の影が西から東へ(右上から左下へ/南の空なので右が西で左が東)進んでいくのがわかる。



私はさきほど、『太陽や月は東から西に進むが、日食の影は西から東に進むので、太陽が逆に廻ったように錯覚したのではないか。』と書いた。

しかし、上の動画を見ると西から東へ進んでいるのは太陽というよりは月のほうのように見える。

そこで③の疑問に戻ろう。

なぜ陽の存在である男神の伏義が地を意味する直角定規を、陰の存在である女神の女媧が天を表すコンパスを持っているのか?

男神である伏義は陽の神であり、天の神、日の神でもある。
女神である女媧は陰の神であり、地の神、月の神でもある。

しかし、陰の神と陽の神が重なるとき、陰陽が逆転する。
つまり太陽の神である伏義は月の神に、月の神である女媧は太陽の神に神格を変える。

そう考えると、陽の存在である男神の伏義が地を意味する直角定規を、陰の存在である女神の女媧が天を表すコンパスを持っている理由の説明がつくと思うがどうだろうか?

⑥太陽と月が結婚すると星の神になる?

そこでもう一度伏義と女媧の絵を見ほしい。

上中央には菊の紋のようなものが、下中央にはクロワッサンのようなものが描かれている。
菊の紋のように見えるのは太陽、クロワッサンのように見えるものは月ではないだろうか。
そして伏義(太陽)と女媧(月)が蛇身の下半身をからませあい、その周囲にはたくさんの星が描かれている。
これは日食のようすを描いたものではないだろうか。

2012年の金環日食では、かなり暗くはなったが、、夜のように真っ暗にはならなかった。
しかし皆既日食では日没後20分から30分くらいたった程度に暗くなり、明るい星であれば観測されるそうである。

「やがて女媧は出産した」とあるが、女媧が生んだものとは、日食がもたらすものことだと思う。
日食の結果、闇が生じて星が見える。

「その肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散って人間となった。」
とあるが、夜空にきらめく無数の星は、切り刻んだものが飛び散ったかのように見える。

死んだ人の霊は星になると考えられていたのではないだろうか。
お盆の習慣が生じたのは、ベルセウス座流星群が流れる様子を見て、先祖の霊が帰ってくると、古の人々が考えたためだと思う。

「肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散って人間となった。」というのは、人間は人間でも死んだ人間の霊=星のことを言っているのではないか。


金環日食 

金環日食(2012年)




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途中書き直したり、記事の順番を入れ替えたりするかもしれませんが(汗)
よろしくお願いします。


星のブランコ 紅葉3

星田園地 星のブランコ

①ニギハヤヒはUFOの窓からオレンジ色に色づく山を眺めたか?

星田園地(大阪府交野市)の展望台に立つと、見渡す限りオレンジ色の紅葉が広がっている。
谷にかかる吊り橋は星のブランコと呼ばれている。
星のブランコというロマンチックな名前は、このあたりの地名を星田ということに由来するのだろう。
隣接する枚方市には星ヶ丘という地名もあり、星田園地の東を流れる川は天の川という。

またこの近辺には星田妙見宮、星田寺、天田神社などという名前の寺社もある。

星田園地から山道を2kmほど歩いて下っていくと、磐船神社がある。

磐船神社 十種祭 護摩2

磐船神社 十種祭

磐船神社には「天孫降臨の地」と記した幟がたくさん建てられていた。

「天孫」とは天照大神の子孫という意味で、特に天照大神の孫のニニギのことをさすことが多い。
ということは、磐船神社はニニギを祀る神社なのか?

そうではない。
ここに祀られている神はニギハヤヒという物部氏の祖神である。
 
初代神武天皇は日向より東征して畿内入りをめざす。
東征の旅に出立する際、シオツチの翁が「東にはニギハヤヒが天の磐船を操ってすでに天下っている。」と発言している。
磐船神社はこのニギハヤヒが天下った場所だとされているのだ。

天の磐船については、UFOのようなものではないかという人もいる。

さきほど星田園地展望台から見た一面オレンジ色の山を、UFOの窓からニギハヤヒも眺めたのだろうか。

②天の磐船は単なる自然信仰ではない。

磐船神社には本殿はない。
天の磐船と呼ばれる船形をした巨大な石をご神体とし、拝殿から直接ご神体を拝むという祭祀スタイルである。
いわゆる自然崇拝と呼ばれるものだろうか。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船

日本には八百万の神々がおり、野の花や小さな石の中にも神がすんでいるとか、日本人はこうした自然界のすべての者の中に神を見た、などと言われることがある。

私もかつてそんな風に考えていたことがあった。

磐船神社のご神体・天の磐船は巨大であり、微妙なバランスを保って船首を天にそそり立たせているところなどを見ると、もちろん自然の驚異を感じなくはない。

しかし天の磐船を単なる自然信仰と考えるとニギハヤヒの悲劇を見失ってしまう。

磐船神社 十種祭 お祓い

磐船神社 十種祭

③ニギハヤヒの悲劇(ニギハヤヒは怨霊だった)

記紀には次のように記されている。

初代神武天皇は日向より東征して畿内入りをめざす。
畿内にはニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコがおり、神武に服することを拒んで、次のように言った。
「昔、この地に天孫ニギハヤヒが天下り、私の妹はニギハヤヒの妻となってウマシマジノミコトという御子も生まれた。あなたは天孫だというが、天孫は二人もいるのか。あなたは天孫と称して土地を奪おうとしているのではないか。」
神武は天孫であることの証拠として天の羽羽矢と歩靱を見せた。
それでもナガスネヒコはなおも抵抗しようとしたので、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺した。


ニギハヤヒがナガスネヒコを殺した、というのはニギハヤヒは神武に服したということだろう。
しかし神=王とすれば、一国の王が自分の土地と国民を征服者に「どうぞ、差し上げます」などというとは思えない。

記紀は奈良時代、元明天皇に献上するために記されたものなので、天皇家に忖度した内容に改竄されていると考えるべきだろう。

ニギハヤヒは物部氏の祖神とされている。
神武が東征してやってくる以前、畿内には物部王朝があったのではないだろうか。
そして物部王朝や日向からやってきた神武との政権争いに敗れ、臣下の立場となったのでは?

古には政治的に不幸な死を迎えた者は死後怨霊になると考えられていた。
そして疫病の流行や天災は怨霊の仕業によって引き起こされるとされていた。
このような信仰を怨霊信仰という。

政権を神武に奪われたニギハヤヒは怨霊なのではないか。

日本の怨霊信仰は平安時代、菅原道真以降に生じたとする説がある。
しかし記紀には10代崇神天皇代に大物主神が祟って疫病が流行るなどし、大物主の息子のオオタタネコを神官にしたところ、祟りは収まったという記述がある。
怨霊信仰は平安時代以前、すでにあったと思う。

ニギハヤヒを祀る磐船神社は単なる自然崇拝の神社ではなく、ニギハヤヒの怨霊を鎮魂する神社なのではないだろうか?

磐船神社 十種祭 護摩4

磐船神社 十種祭

④ニギハヤヒが乗っていた天の磐船はUFOではなく流星だった。

ニギハヤヒは物部氏の租神とされるが、かつてこのあたりには肩野物部氏が住んでいたという。

物部氏は製鉄・鋳造の技術に長けており、そのため物部氏の神は星の神だとする説がある。

また雲陽誌という書物には次のような内容が記されている。

 島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が 掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にした。
ニギハヤヒは星の神。

やはりニギハヤヒは星の神だったのだ。
そして『星隕って石となる』という古語があるということは、天の磐船はufoではなく流星ということだと思う。
どうやら古の人々は石を空から落ちててきた星だと考えていたようである。

このあたりの地名を星田というのは、星の神ニギハヤヒやニギハヤヒを祖神とする物部氏からくるのではないだろうか?

星のブランコ 紅葉2

ミシャグジ様の謎② 太陽と月が結婚すると星の神になる? につづきます~



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