小倉百人一首18番 すみの江の 岸による波 よるさへや 夢のかよひぢ 人目よくらむ/藤原敏行 (墨の江というのにぴったりな夜の住之江。この住之江の岸に何度も波は寄ってくるのに、あなたは私に寄ってこない。 住之江の岸に寄る波の「寄る(よる)」という言葉は「夜」を思い出せるが、 その夜にさえ、夢の中で私のもとに通う道にあなたは人目を避けてあらわれてくれない。) 南港①平安時代、住之江区は海だった。
住之江区南港。 ここから海を見ていると、百人一首にある藤原敏行の歌を思い出す。 すみの江の 岸による波 よるさえや 夢のかよひぢ 人目よくらむ平安時代、藤原敏行はこのあたりで海を見、それを歌に読んだのだろうか。 調べてみると藤原敏行が歌に詠んだ住之江とは現在の住吉大社付近にあった入り江のことだとある。  住吉大社 平安時代にはこの太鼓橋あたりまで海だったという。しかし住吉大社の近くには海はない。 海岸線ははるか遠くである。 また住吉大社は住之江区ではなく住吉区にある。 ②河内湾・河内湖
実は現在の住之江区あたりは、平安時代にはほとんど海だったのである。 かつて大阪湾の海岸線は現在の平野部まで深く入りこんでいた。(河内湾) そして上町台地のみが海の上に姿を見せていた。 古墳時代(3世紀~ら7世紀ごろ)には、河内湾は淀川・大和川が運ぶ水によって淡水化し、河内湖となった。 藤原敏行(?年~901年)の時代、大阪湾の海岸線は現在の住吉大社あたりまであったのである。 その後、淀川や大和川の度重なる氾濫により土砂が堆積し、また干拓工事なども行われた結果、河内湖は徐々に平野へと変わっていった。 門真市の弁天池・大東市の深野池は河内湖の名残だという。 ↓ こちらのページに河内湾(河内湖)の変遷図が掲載されているので、参照してほしい。 https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html 南港 ③伊予親王の変で勢力が衰えた藤原南家
すみの江の 岸による波 よるさえや 夢のかよひぢ 人目よくらむ
この歌を詠んだ藤原敏行(?~907年または901年)は藤原南家の人物である。 藤原氏の始祖は藤原不比等だが、不比等には無智麻呂・房前・宇合・麻呂の四人の息子があった。 そして房前は藤原南家の開祖、房前は北家の開祖、宇合は式家の開祖、麻呂は京家の開祖となった。 807年、伊予親王の変がおこった。 藤原宗成(北家・左大臣)が平城天皇の弟・伊予親王を担ぎ上げての謀反を計画していると、藤原雄友(藤原南家)が右大臣・藤原内麻呂(北家)に報告したのだ。 宗成に取り調べを行ったところ、彼は伊予親王が首謀者だと自白した。 そして伊予親王は母・藤原吉子(南家・藤原雄友の妹)とともに川原寺に幽閉されてしまったのだ。 伊予親王と藤原吉子(南家)は川原寺で自害した。 謀反を計画したとされる左大臣・藤原宗成(北家)は流罪。 宗成の謀反を右大臣・藤原内麻呂(北家)に報告した藤原雄友(南家)も流罪。(報告などしなければよかった!) また事件に関与したとして、南家の藤原友人は下野へ左遷、同じく南家も藤原乙叡は中納言を解任されている。 この事件があって、南家の勢力は衰え、藤原式家が権力を握る。 この後、平城上皇が式家の藤原仲成・藤原薬子と結んで薬子の変(平城上皇が嵯峨天皇に対して挙兵するがまもなく鎮圧された。)をおこしたことで、式家も勢力が衰えてしまうのだが。 薬子の変の後、嵯峨天皇の信任を得た北家の藤原冬嗣が権力を得、娘の藤原順子を仁明天皇に入内させた。 順子は文徳天皇を産み、冬嗣は文徳天皇の外祖父となった。 藤原冬嗣の子の良房は娘の明子を文徳天皇に入内させた。 明子は清和天皇を産み、良房は清和天皇の外祖父になった。 良房の養子(甥)の基経は醍醐天皇に娘の藤原穏子を入内させた。 穏子は朱雀天皇・村上天皇を産み、基経は外祖父となった。 このようにして北家が他家を押さえて権力を身につけていったのである。 代 | 天皇 | 父 | 母 | | 51 | 平城天皇 | 桓武天皇 | 藤原乙牟漏(式家・藤原良継の娘)
| | 52 | 嵯峨天皇 | 桓武天皇 | 藤原乙牟漏(式家・藤原良継の娘) | 平城天皇の弟 | 53 | 淳和天皇 | 桓武天皇 | 藤原旅子(式家・藤原百川の娘) | 平城天皇・嵯峨天皇の弟 | 54 | 仁明天皇 | 嵯峨天皇 | 橘嘉智子 | | 55 | 文徳天皇 | 仁明天皇 | 藤原順子(北家・藤原冬嗣の娘) | | 56 | 清和天皇 | 文徳天皇 | 藤原明子(北家・藤原良房の娘) | | 57 | 陽成天皇 | 清和天皇 | 藤原高子(北家・藤原良房の養女/藤原基経の妹) | | 58 | 光孝天皇 | 仁明天皇 | 藤原沢子(北家・藤原総継の娘) | | 59 | 宇多天皇 | 光孝天皇 | 斑子女王(桓武天皇皇子・仲野親王の娘) | | 60 | 醍醐天皇 | 宇多天皇 | 藤原胤子(北家・藤原高藤の娘) | 養母は藤原温子(北家・藤原基経の娘) | 61 | 朱雀天皇 | 醍醐天皇 | 藤原穏子(北家・藤原基経の娘) | | 62 | 村上天皇 | 醍醐天皇 | 藤原穏子(北家・藤原基経の娘) | 朱雀天皇の弟 |
南港 ④岸は紀氏の掛詞?藤原敏行の生年は不明、没年は907年または901年とされ、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇、醍醐天皇に仕えている。 官位は従四位上、右兵衛督で身分は高い人ではない。 父親は藤原南家の藤原富士麻呂、母親は紀名虎の娘である。 そして藤原敏行は紀有常の娘を妻としている。 藤原氏は非常に紀氏の血の濃い藤原氏だったのだ。 これで「岸による波 よるさえや」の意味がわかった! 「岸」は「紀氏」の掛詞になっているのではないだろうか。 「岸による波」とは「紀氏による波」にかかり、藤原敏行自身の比喩ではないだろうか。 ⑤紀名虎と藤原良房のバトル
文徳天皇は藤原良房の娘・明子との間に惟仁親王(清和天皇)、紀名虎の娘・静子との間に惟喬親王があった。 源信の日記によれば、文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子にしたいと源信に相談したが、源信は藤原良房を憚って天皇をいさめたという。
平家物語にはいずれの孫を立太子させるかで、藤原良房と紀名虎が激しいバトルを繰り広げる様子が記されている。 相撲、高僧の祈祷合戦などのすえ、藤原良房が勝利したとある。 紀名虎の没年は847年、惟仁親王の生年は858年なので、平家物語の記述は創作なのだが、こうした物語が創作される背景に紀氏と藤原氏に相当な確執があったことは確かだろう。

南港
⑥六歌仙は怨霊だった。
高田祟史さんは「六歌仙(僧正遍照・在原業平・分室康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主)とは藤原氏と敵対関係にあった人物であり、怨霊である。」とおっしゃっている。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を遂げた者のことで、疫病の流行、天災などは怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。
そこで六歌仙ひとりひとりについて調べてみると、全員藤原氏と確執があることがわかる。
喜撰法師は紀名虎または名虎の息子の紀有常だという説がある。 (藤原敏行の母は紀名虎の娘、藤原敏行の妻は紀有常の娘) すでに述べたように、紀名虎の娘で紀有常の妹の紀静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産んだ。 文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談たが、源信は藤原良房を憚ってこれを諌めた。 藤原良房の娘の藤原明子もまた文徳天皇に入内して惟仁親王(のちの清和天皇)を産んでいた。 この惟仁親王が皇太子になった。
私自身は喜撰法師とは紀氏の血のこい惟喬親王のことだと考えている。
参照/私流トンデモ百人一首 8番 わが庵は『喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王のことだった?』
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いているが、その歌会のメンバーの中に遍照・在原業平・紀有常らの名前がある。 彼らは歌会と称し、惟喬親王をまつりあげてクーデターを計画していたのではないかという説もある。 在原業平が849年から862年まで全く昇進しておらず、伊勢物語7段に「京にいるのがつらくなって東下りした」という内容が記されているが、彼らがクーデターを計画していたがばれた結果だと考えると辻褄が合うと思う。
遍照は藤原良房にすすめられて出家したと伝わるが、彼は出家した理由を決して人に話さなかったという。
在原業平は紀有常の娘を妻としており、惟喬親王の寵臣でもあり紀氏側の人物だった。
文屋は分室とも記され、文屋康秀は分室宮田麻呂と血のつながりがあると思われる。 分室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となっているが、死後冤罪であったことが判明している。 分室宮田麻呂は藤原北家に暗殺されたのではないかとする説もある。
大友黒主は大伴黒主とも記され、大伴家持とほとんど同じ内容の歌が残されている。 大友黒主とは大伴家持のことだと思う。 大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして当時すでに死亡していたのだが、死体が掘り起こされて流罪となっている。
参照/ 陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった?
⑥小野小町は男だった?
残る小野小町について、私は「小野宮」と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えている。 惟喬親王はもちろん男性なのだが、古今和歌集には男性が女性の身になって詠んだ歌というのがたくさんある。 今回の藤原敏行の歌も、男性が女性の身になって読んだ歌である。 古今和歌集の編者の一人である紀貫之も土佐日記で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自らを女と偽って日記を書いている。
参照/ 私流 トンデモ百人一首 9番 花のいろは・・・ 『小町の歌は男らしく堂々とした歌だった。』
⑦藤原敏行は怨霊だった?
藤原敏行は三十六歌仙に選ばれている。 六歌仙とか三十六歌仙と聞くと、現代人は歌のうまい6人の歌人、歌のうまい36人の歌人というふうに思いがちだが、 六歌仙が怨霊であったとすると、三十六歌仙もまた怨霊だろう。 つまり、藤原敏行は怨霊である可能性が高い。

南港
⑧伊勢物語百七段(涙河)
藤原敏行の妻と在原業平の妻はどちらも紀名虎の娘で、姉妹である。 これを踏まえて、伊勢物語百七段(涙河)を読んでみよう。
むかし、あてなるをとこありけり。そのをとこのもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行といふ人よばひけり。されど若ければ、文もをさをさしからず、ことばもいひ知らず、いはむや歌はよまざりければ、かのあるじなる人、案をかきて、かかせてやりけり。めでまどひにけり。さてをとこのよめる。 つれづれのながめにまさる涙河袖のみひぢてあふよしもなし 返し、例のをとこ、女にかはりて、 あさみこそ袖はひづらめ涙河身さへながると聞かば頼まむ といへりければ、をとこいといたうめでて、今まで巻きて、文箱に入れてありとなむいふなる。をとこ、文おこせたり。得てのちのことなりけり。雨のふりぬべきになむ見わづらひはべる。身さいはひあらば、この雨はふらじ、といへりければ、例のをとこ、女にかはりてよみてやらす。 かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身をしる雨は降りぞまされる とよみてやれりければ、蓑も傘も取りあへで、しとどに濡れて惑ひ来にけり。
(文の現代語訳) 昔、ある高貴な男があった。その男のところにいたある女に、内記であった藤原の敏行という人が言い寄っていた。だが女はまだ若いので、手紙もろくに書けず、言葉の使い方も知らず、いわんや歌を読むことなどできなかったので、女の主人が、下書きを書いて、女に書かせて送らせてやった。敏行はそれを読んでたいそう感心した。そこで敏行は次のような歌を読んで贈ったのだった。 やるせない思いにもまさって深い涙の川ですが、濡れるのは袖ばかりで、川を渡ってあなたと会うことができません これに対して、主人の男が女に代って、 浅いから袖が濡れないのでしょう、あなたの身が流れる程川が深いと聞いたならば、あなたを頼りにいたしましょう と読んでやったので、敏行はいたく感心して、その文を巻物にして、文箱に保存しているということだ。さて、その敏行が女にまた文を送った。女と結ばれた後のことだったという。それは、雨が降っているのでどうしようか迷っています、私の身に幸運があれば、この雨が降ることはないでしょう、という内容だった。すると女の主人が、女にかわって、次のような歌を読んで返したのだった。 あれやこれやとあなたが私を思ってくれるのか、それとも思ってくれないのか、聞くわけにもいかず、私の心のうちを知っている雨は、このように降るばかりなのでしょう そこで敏行は、蓑も傘もとりあえず、ずぶ濡れになりながら、大慌てで駆けつけてきたということである。
(文の解説) ●あてなる:気品がある、高貴な、●内記:中司省に所属する役人、●藤原敏行:古今集にも出てくる歌人、●よばひけり:言い寄った、求婚した、●をさをさしからず:しっかりとしていない、●めでまどひにけり:どうしてよいかわからないほど感心した、●つれづれの:みたされない思い、やるせない:●袖のみひぢて:袖ばかり濡れて、●あさみこそ:浅いので、●雨のふりぬべきになむ:雨が降りそうなので、●見わづらひはべる:判断に迷う、●かずかずに:あれやこれやと、●問ひがたみ:問うわけにいかないので、●身をしる雨:身の程を知っている雨、●しとどに:ぐっしょりと、
https://ise-monogatari.hix05.com/6/ise-107.html より引用
上記サイトで現代語訳がなされているが、もう少しわかりやすく解説してみたい。
「高貴な男」とは在原業平のことである。 「業平のところにいたある女」とはのちに藤原敏行の妻になった紀有常の娘のことだろう。 すでに述べたように在原業平もまた紀有常の娘を妻としていた。 のちに藤原敏行の妻となった紀有常の娘は、在原業平の妻の紀有常の娘と姉妹であるところから、業平の妻と同居していたのだろう。
後に藤原敏行の妻となった紀有常の娘は若く、手紙を書いたり歌を詠んだりすることができなかったとある。 ということは敏行の妻が妹で、在原業平の妻のほうが姉なのだろう。
そして「女の主人が手紙の下書きを書いて、女に書かせた」とあるが、女の主人とは姉のことだ。 姉がまだ幼い妹のかわりに手紙の下書きを書き、妹に手紙を書かせて敏行に送らせたのだ。
敏行は大変喜んで、次のような歌を詠んで妹の方に送った。 つれづれの ながめにまさる 涙河 袖のみひぢて あふよしもなし (やるせない思いにもまさって深い涙の川ですが、濡れるのは袖ばかりで、川を渡ってあなたと会うことができません)
これに対して主人の男=在原業平が、紀名虎の娘(妹)に変わって歌を詠み、藤原敏行に送った。 あさみこそ袖はひづらめ涙河身さへながると聞かば頼まむ (浅いから袖が濡れないのでしょう、あなたの身が流れる程川が深いと聞いたならば、あなたを頼りにいたしましょう)
藤原敏行は非常に感心して、この文を巻き物にして文箱に保存した。
藤原敏行が紀有常の娘(妹)と結ばれたのち、また紀有常の娘(妹)に文をおくった。 (当時は妻問い婚が主流だったので、結婚したのちも、紀有常娘(妹)は紀有常娘(姉)とともに生活していたのだろう。 もしかすると姉妹が住んでいたのは紀有常の邸宅であり、在原業平は妻にあうためそこへ頻繁に通っていたのかもしれないが、 詳細はわからない。)
雨のふりぬべきになむ見わづらひはべる。身さいはひあらば、この雨はふらじ (雨が降っているのでどうしようか迷っています、私の身に幸運があれば、この雨が降ることはないでしょう。)
すると紀有常の娘(姉)が妹にかわって歌を詠んで返した。
かずかずに 思ひ思はず 問ひがたみ 身をしる雨は 降りぞまされる (あれやこれやとあなたが私を思ってくれるのか、それとも思ってくれないのか、聞くわけにもいかず、私の心のうちを知っている雨は、このように降るばかりなのでしょう)
この歌を詠んで藤原敏行は蓑も傘ももたず、ずぶぬれになって大慌てで駆けつけてきた。

⑨藤原敏行、惟喬親王を担ぎ上げての業平のクーデターに参加?
平安時代の貴族の婚姻は政治的目的を持ったものがほとんどだったとみていいだろう。 在原業平が紀有常の娘を妻にしたのも政治的目的を持ったものだと思う。 伊勢物語を読むと在原業平が惟喬親王の寵臣であったことがわかる。 惟喬親王の母親は紀名虎の娘の静子で、紀有常は静子の兄で、惟喬親王の叔父にあたる。 業平は紀氏との関係を強固にするために、紀有常の娘(姉)を妻にしたのだろう。
そして紀名虎の娘を母に持つ藤原敏行が紀有常の娘(妹)を妻としたのも、紀氏とのつながりをより強固にするためではなかったかと思う。
藤原敏行が紀有常娘(妹)に送った手紙に対して、紀有常(姉)や在原業平が代筆して文を送ったというが、これは実は恋文ではなく、惟喬親王を担ぎ上げての業平のクーデターに関する機密文書ではないだろうか。
つれづれの ながめにまさる 涙河 袖のみひぢて あふよしもなし (やるせない思いにもまさって深い涙の川ですが、濡れるのは袖ばかりで、川を渡ってあなたと会うことができません) ↓ クーデターに参加したいのはやまやまですが、私は藤原南家の人間ゆえ障害が多く、あなた(在原業平)に会うことができずにいます。
あさみこそ 袖はひづらめ 涙河 身さへながると 聞かば頼まむ (浅いから袖が濡れないのでしょう、あなたの身が流れる程川が深いと聞いたならば、あなたを頼りにいたしましょう) ↓ 浅いから袖が濡れないのでしょう、あなたの身が流れるほど川が深いのならば、私(在原業平)はあなた(藤原敏行)を頼りにしますよ。
雨のふりぬべきになむ見わづらひはべる。身さいはひあらば、この雨はふらじ (雨が降っているのでどうしようか迷っています、私の身に幸運があれば、この雨が降ることはないでしょう。) ↓ 雨が降っているのでクーデターに参加するかどうか迷っています。私(藤原敏行)の身に幸運があるなら、この雨は降ることは無いでしょう。
かずかずに 思ひ思はず 問ひがたみ 身をしる雨は 降りぞまされる (あれやこれやとあなたが私を思ってくれるのか、それとも思ってくれないのか、聞くわけにもいかず、私の心のうちを知っている雨は、このように降るばかりなのでしょう) ↓ あなたが紀氏側につくか、それともつかないのか聞くわけにもいかず、私(クーデターメンバー/在原業平・紀有常ら)の心のうちを知っている雨はこのように降るばかりなのでしょう。
このようなやり取りがあり、藤原敏行は在原業平のクーデターに参加擦るべく大慌てで業平のもとに駆け付けてきたということではないだろうか。
しかしクーデターは失敗したようで惟喬親王が皇位につくことはなかった。 またクーデターの首謀者と思われる在原業平は849年から862年まで全く昇進していない。 すみの江の 岸による波 よるさえや 夢のかよひぢ 人目よくらむこの歌の詞書に「寛平御時きさいの宮の歌合のうた」とある。 寛平とは889年から898年の年号で、宇多天皇・醍醐天皇の御代である。 クーデター参加メンバー | 生没年 | 惟喬親王 | 844~897 | 在原業平 | 825~880 | 遍照 | 816~890 | 紀有常 | 815~877 | 藤原敏行 | ?~901or907 |
惟喬親王の生没年は844-897で、寛平9年に亡くなっている。 「寛平御時きさいの宮の歌合」が何年に行われた歌合わせなのかわからないが、惟喬親王の死後に行われたものなのかもしれない。 夢の通い路ですら、人目を避けて藤原敏行の前に現れないのは、亡き惟喬親王であったかもしれない。 南港
いつも応援ありがとうございます♪
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
 にほんブログ村
小倉百人一首97番 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ/藤原定家 (松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、私の身は来てはくれない人を想って、恋い焦がれているのです。)①少女の恋心を詠んだ歌?
この歌は万葉集にある次の歌を本歌としたものである。 名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海未通女 ありとは聞けど 見に行かむ よしの無ければ ますらをの 情はなしに 手弱女の 思ひたわみて 徘徊り 吾はぞ恋ふる 舟楫を無み /笠金村
(名寸隅の船着場から見える、淡路島の松帆の浦で、朝凪のうちに海藻を刈ったり、夕凪のうちに藻塩を焼いたりして、海人の娘たちがいるとは聞くけれど、見に行く手だてもないので、ますらおの雄々しい心はなく、手弱女(たわやめ)のように思い萎れて、うろうろするばかりで、私は恋い焦がれている、舟も櫓もないので。)※訳はこちらから引用させていただきました。 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kasaka2.htmlこの笠金村の長歌から、藻塩を焼く少女の歌であると一般には解釈されているようである。 ②まつほの浦松帆の浦は兵庫県淡路島北端にある海岸の地名である。 残念ながら訪れたことがないが、ネットでぐぐってみると明石海峡大橋が見えている。 http://kuniumi-awaji.jp/heritage/25akashikaikyo/
上の写真は大阪府咲州庁舎より望んだ明石海峡大橋である。 橋の手前に神戸空港が見えている。 明石海峡大橋の向かって右手付近が明石、向かって左手に少し見えているのが淡路島である。 このあたりに松帆の浦があるのだろう。 松帆の浦の「松」と「待つ」は掛詞になっている。 この「まつ」という言葉の響きがエコー効果をもたらして、来ない人を待つ少女の切ない気持ちが一層伝わってくるようである。 ③塩焼きの煙がたなびかない無風状態藻塩はホンダワラなどの海藻に海水をかけて干し、乾いたところで水にとかし、煮詰めて精製した塩のことである。 ほんのりとしたピンク色で、現在でも製造販売されていてスーパーなどで売られている。 藻塩は「焼く」や「こがれ」の縁語だという。 なぜ「焼く」が「藻塩」の縁語なのか。 藻塩は焼くのではなく、煮詰めて作るのではないのか。 そう思ったが、古語辞典で「塩焼き」を調べてみると「海水を煮て塩をつくること」と書いてあった。 「こがれ」は「焦がれ」だろう。 塩焼きで海水を煮詰めるときに、塩が焦げたりすることがあったのだろうか。 京都 十輪寺 塩釜(在原業平がこの塩釜で塩焼きを楽しんだとされる。)古今和歌集にこんな歌がある。 須磨の海人の 塩焼く煙 風をいたみ 思はぬ方に たなびきにけり/読み人知らずおそらく塩焼きをする際には大量の煙が出たのだろう。 一度塩焼きと言うものを体験してみたい。 そうすると、もっと和歌の意味が体感できるかもしれないから。 それはさておき、上の歌では煙は思わぬ方にたなびいたというが、定家が詠んだ歌は夕なぎの風景である。 沿岸地域の天気が良い日は日中海風(海から陸地へ吹く風)、夜中に陸風(陸地から海に吹く風)が吹く。 海風から陸風へ切り替わる際、無風状態になるが、これを夕凪、陸風から海風へ切り替わる際の無風状態を朝凪という。 陸と海の温度が同じくらいになることで、夕凪、朝凪は発生する。 藻塩を焼く煙はたなびかず、上空へ昇っているような状態を詠んだのだろう。 すず塩田村 塩田に撒いた海水の水分を蒸発させたあと、塩砂をかき集めて海水で洗う。(鹹水) この鹹水を煮詰めると塩の結晶ができる。 (藻塩ではなく、揚浜式で塩をつくっている。)④後鳥羽院が起こしたあらき波風を鎮めた歌
「絢爛たる暗号」の著者・織田正吉さんは、定家の歌は後鳥羽院が詠んだ次の歌に対応しているのではないかとおっしゃっていた。 われこそは 新島守よ 隠岐の海の あらき波かぜ 心して吹け (私こそ隠岐の島の新しい島守である。隠岐の海の荒々しい波風よ、そのことをふまえて吹くがよい)
後鳥羽上皇は歌人としても優れた才能を持っていた人で、たびたび歌会を開いている。 この時代の代表的歌人である藤原定家や藤原家隆とも交流があった。 藤原定家は九条家に出仕して官位を上げていたが、1188年、源通親のクーデターにより九条家は失脚した。 その後1200年に定家は宮廷歌人となり、1201年には後鳥羽上皇から新古今和歌集の撰者に任命された。 ところが、歌の選定において定家は後鳥羽上皇と争い、1220年、後鳥羽上皇は定家の歌会への参加を禁じた。 しかしこのことは定家にとって災い転じて福となった。 なぜなら、1221年、後鳥羽上皇は承久の乱をおこして隠岐へ配流となったからである。 織田正吉さんの「絢爛たる暗号」は図書館で借りて詠んだため、今手元にない。 なので確認ができないが、次のような内容が記されていたと思う。 定家は後鳥羽院の「われこそは・・・」の歌は、後鳥羽院の怒りの歌だと感じた。 そして「隠岐の海のあらき波かぜ」は後鳥羽院の怒りがおこしたものだと考えた。 そこで、その波かぜを鎮めるべく、夕凪(無風状態)の歌を詠んだのではないかと。 ⑤「来ぬ人を~」の歌には後鳥羽院の怒りを鎮める言霊の力があった?定家の「来ぬ人を~」の歌の詞書には「建保六年(1218年)内裏歌合、恋歌」とある。 しかし、どうやらこの詞は間違いであり、建保四年(1216)、順徳天皇の内裏で開催された歌合で読んだ歌であるという。 後鳥羽上皇が隠岐に流罪となったのは1221年なので、定家がこの歌をよんだとき、まだ後鳥羽上皇は流罪になっていなかった。 定家がこの歌を詠んだのは、もっと異なる意味をもっていたのかもしれない。 しかし定家は自分が1216年に「来ぬ人を~」の歌を詠んでいたので、その歌が言霊となって、後鳥羽院のおこした荒き波風=怒りを凪に変えたと考えたのではないだろうか。 ⑥「 焼く」は「厄」の掛詞になっている?私は「焼くや藻塩の」の「焼く」は「厄」の掛詞になっているのではないかと思ったりする。 厄とは災い、苦しみ、病苦などのことで、古にはこれらは怨霊や厄神などによってもたらされると考えられていた。 そして塩はその厄除けに用いられた。 現在でも葬式から戻った際に浄めの塩を振ったり、盛塩を置いたりする習慣がある。 定家は後鳥羽院の生霊を浄めるために「藻塩」が役に立ったと考えたのかもしれない。 ⑦後鳥羽上皇と藤原定家・藤原家隆
私はこの99番の定家の歌は、98番の藤原家隆の歌とセットになっていると思う。 藤原家隆の歌のトンデモ解説については、こちらの記事ですでに述べた。 → 私流 トンデモ百人一首 98番 風そよぐ・・・ 『楢の葉をそよがせた楢葉守』 定家と家隆、ふたつの歌を並べてみよう。 風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける/藤原家隆 (風がそよぐ楢の小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。みそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。) 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ/藤原定家
家隆の歌はそよ風を、定家の歌は凪(無風状態)を詠んでいる。 この歌は、定家同様、後鳥羽院と付き合いのあった藤原家隆が、後鳥羽院が吹かせた荒々しい風をそよ風に変えた歌だといえるのではないか。 定家は後鳥羽院が吹かせた荒々しい風をそよ風どころか無風状態(凪)に変えてしまったのだ。  上賀茂神社 夏越神事 藤原家隆の「風そよぐ~」の歌は上賀茂神社の夏越神事を詠んだ歌である。
いつも応援ありがとうございます♪ 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 にほんブログ村
小倉百人一首88番 難波江の 蘆のかりねの 一よゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき/皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう) (難波江の、蘆を刈ってつくった小屋での、たった一夜の仮の一夜、蘆の一節(ひとよ)のような一夜のために、難波江に建てられている澪標の言葉と同じように身を尽くして 恋しつづけるべきでしょう。)

舞洲シーサイドパーク ネモフィラ
①皇嘉門院別当は崇徳院皇后・藤原聖子に仕えていた女性
この歌の作者は皇嘉門院別当となっているが、 皇嘉門院とは崇徳院(1119-1164)の皇后・藤原聖子(摂政・藤原忠通の娘/1122-1182)の院号、 別当とは院・女院・親王家・摂関家以下の公卿の家政を担当する院司(上皇・女院の直属機関)・家司(親王・内親王・職事三位以上の公卿・将軍家などに設置された家政を司る機関) の上首(長官)をいう。
つまり、皇嘉門院別当とは崇徳院の皇后・藤原聖子の院司の長官であった女性、という意味である。 当時の女性はおいそれと名前を語ることはなかったので、本名がわからないことが多い。 それで皇嘉門院別当という役職名で呼ばれているのだろう。
皇嘉門院別当が仕えていたのは藤原聖子だが、なぜ彼女の本名がわかっているのかというと、 天皇に入内すると位があたえられ、正史に記録が残るためである。
皇嘉門院別当(生没年不詳)は村上源氏(村上天皇の血筋)で、源師忠の曾孫。源俊隆の娘ということである。

舞洲シーサイドパークより大阪湾(難波江)を望む。
②九条兼実が右大臣だったころ、九条兼実家の歌合で詠んだ歌
この歌の詞書に次のようにある。
「摂政右大臣の時の家歌合に、旅宿逢恋といへる心をよめる」 これは、「摂政が右大臣だったときの家歌合わせで、旅宿逢恋という心を詠んだ」という意味だと思う。
摂政とは誰か?
この歌は千載和歌集にある歌である。 千載和歌集は1183年、後白河院(1127- 1192)より藤原俊成(1114-1204)に撰集が命じられたもので、1188年に完成した。
1188年の千載和歌集完成時、摂政だったのは九条兼実である。 九条兼実が右大臣だったのは1166年から1186年で、1186年に摂政となっている。 摂政とはこの九条兼実のことだろう。
千人万首というサイトでも右大臣は九条兼実としており、 「皇嘉門院別当が仕えた皇嘉門院は兼実の異母姉にあたり、この縁から別当は兼実家の歌合にしばしば出詠したものらしい。」 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/k_bettou.html より引用 と記している。
皇嘉門院の父親は摂政・藤原忠通、母親は藤原宗子、九条兼実の父は藤原忠通、母は加賀局(藤原仲光の娘)で、確かに二人は異母姉弟である。
皇嘉門院別当は1175年の『右大臣兼実家歌合』や1178年の『右大臣家百首』など、兼実家歌合で歌を詠んでいる。 ただし、「難波江の~」の歌は九条兼実が右大臣だった1166年~1186年の間に行われた兼実家歌合で詠んだということがわかるだけで、歌を詠んだ正確な日時などはわからない。(もし日時等わかっていたら教えてくださいね)

京都御所
③掛詞の多用
詞書にある「旅宿に逢ふ恋」とは「旅の宿で逢った相手との情事」のことである。 「難波江」は現在の大阪市あたりのことで、現在よりも湾が深く内陸部にまで入り込み、浅い海や蘆が生えた湿地帯が広がっていた。 「かりね」は「刈り根」と「仮寝」の掛詞、 「一よ」は「一夜」と蘆の「一節」の掛詞になっている。 さらに「身をつくしてや」は澪標(みをつくし)の掛詞。
織田正吉さんによれば、澪標とは「澪つ串」の意味であるという。 澪とは水尾で、水深の深い場所を表す水路標識を澪標というのだと。
古の大阪港は水深が浅く座礁する危険性のある個所がたくさんあったそうである。 そのためこのような澪標をたてて航路を示したのである。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Miotsukushi_in_Osaka.JPG https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Miotsukushi_in_Osaka.JPGよりお借りしました。 不明 [Public domain]
澪標は大阪市の市章にもなっている。 それほど、難波江は澪標で有名だったということだろう。
かりね・・・刈り根 仮寝 一よ・・・・一節 一夜 みをつくしてや・・・身を尽くしてや 澪標
このように掛詞を多用しているので、イメージが重複して、印象深い歌になっていると思う。

京都御所と護王神社と亥子祭の行列
④「恋ひわたるべき」は「恋し続けることになるのでしょうか」ではなく「恋し続けるべきです」では?
「べき」は「べし」の連体形であるが、「べし」には様々な意味がある。
「恋ひわたるべき」は一般的には「恋しつづけることになるのでしょうか」と疑問形で訳されることが多い。 しかし「べき」は「べし」の連体形である。 連体形とは「体言(名詞・代名詞・数詞の総称)に連なる」という意味なので「べき」のあとに、体言がくるのが本来の在り方ではないか。
https://kazsa.hatenablog.com/entry/20141013/1413202139 上のブログ「べき/べし(べき止め)」という記事には次のようにあります。
「べき」は連体形です。文末に来る場合、助動詞「である」「だ」「です」をとる「○○べきだ」などの形がふつうです。 助動詞を付けないなら終止形「べし」を用いて「○○べし」となるはずですが、「○○べき」といいきる形がめだちます。 ・・・・・略・・・・・ 1998年の第28回年金審議会全員懇談会議事録に下記の発言が記録されていました。 「『べき』で文章を止めて、べきであるか、べきでないか、わからない文章を並べる。これは現代の、若い世代の共通の文体です。今お話のありました『意見』で止める体言止めも現代の若い世代の文体です。これは日本語の作文教育の成果です。『べき』止めは多分『べきである』と読むようです。『意見』というのは『意見があった』という趣旨のようです」 16年後の今、仕事でお役所の文書を読むことが多いせいか、「べき止め」には頻繁にお目にかかります。すでに「若い世代」どころか全世代共通の表現なのかもしれません。
すでに「若い世代」どころか全世代共通の表現なのかもしれません。 とありますが、平安末期すでに「べき止め」が用いられているw。
それはともかく、「恋ひわたるべき」を疑問形で訳すのは自分的には違和感がある。 「べき止め」とすれば、本来は「べきなり」なので、「恋し続けるべきです。」と訳すべきではないのだろうか? (もし間違っていれば指摘をお願いします。)

護王神社 亥子祭
⑤本歌取り
ところで、以前にどこかで似たような歌を聞いたように思わないだろうか。
そう、以前の記事、私流 トンデモ百人一首 20番 わびぬれば・・・ 『業平の二の舞を踏んだ元良親王』 でご紹介した 元良親王の歌に似ている。
わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ/元良親王 (こんなに思い悩んでしまった今はもうどうなってもいい。難波の海の澪標の言葉どおり、身を尽くして(身を滅ぼして)もあなたに逢いたいと思う。)
実は皇嘉門院別当の歌は、この元良親王の歌を本歌取りした歌なのだ。
本歌取りとは、有名な古歌(本歌)の1句もしくは2句を自作に取り入れて歌を詠むテクニックのことをいう。 こうすることで、歌に本歌のイメージも重なって、より味わい深い歌になる。
「わびぬれば」の歌は、実は不倫の恋の歌なのである。 「後撰集」の詞書には「事いできて後に、京極御息所につかはしける」とある。
「事いできて後に」とは「不倫がばれた後」という意味、「京極御息所」とは宇多天皇の寵妃で藤原時平の娘の藤原褒子(ふじわらのほうし)のことである。
ただ、元良親王は30人以上の女性との恋愛歌を詠んでいて、京極御息所ひとりだけを愛したというわけではなさそうである。 また、本当に京極御息所を愛していたのかについても疑問だ。 元良親王はある目的をかなえるために京極御息所を利用したのではないか、と私は考えている。
詳しいことは、私流 トンデモ百人一首 20番 わびぬれば・・・ 『業平の二の舞を踏んだ元良親王』 を読んでいただきたいのだが 元良親王は宇多天皇の寵妃・藤原褒子に自分の子を宇多天皇の皇子として産ませ、その子を皇位につけることで、皇位継承の血筋に自分の血を残そうとしたのではないかと思う。
しかし、藤原褒子が産んだ子が皇位につくことはなく、宇多天皇と藤原 胤子の間に生まれた醍醐天皇が即位した。 元良親王の野望は叶わなかったのだ。
また、伊勢の 難波潟 みじかき蘆の ふしのまも 逢はで此の世を 過ぐしてよとや (難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。) をも本歌としている。
私流 トンデモ百人一首 19番 難波潟・・・ 『伊勢が産んだ子は蛭子と淡島だった?』
この歌は、恋の歌のように見えて、伊勢が夭逝した我が子(宇多天皇の皇子)と娘・中務を詠んだ歌のように思える。
「蘆」は足にかかり、足が悪かった蛭子を思い出させる。 蛭子はイザナギ・イザナミの長子だったが、3歳になっても歩けなかったので蘆舟に乗せられて流された神である。
熊野若王子神社 蛭子神
また「逢はで」は「淡で」にかかり「淡島」を思い出させる。 淡島はイザナギ・イザナギの2番目の子だったが、やはり不具の子であったとして、蘆の舟に乗せられて流されている。
蛭子と淡島が葦舟で流されたというのは難波江の遊女が小舟で舟に近づいて客をとるのを思わせる。

淡嶋神社 雛流し
⑥皇嘉門院について詠んだ歌?
本歌と考えられる二首は私の考えではどちらも皇位継承を詠んだ歌である。
すると皇嘉門院別当が詠んだ歌も皇位継承に関係する歌なのではないか?
しかし皇嘉門院別当については、源師忠の曾孫、源俊隆の娘で、皇嘉門院に仕えていたということしかわからない。 いや、もしかしたら自分自身ではなく、仕えていた皇嘉門院について詠んだ歌なのかもしれない。

舞洲 葦
あらためて皇嘉門院(藤原聖子)の人生について見てみることにしよう。 (年齢は単純にものごとがあった年から生まれ年を引いたもの)
1122年、藤原聖子は関白藤原忠通の娘として生まれた。
1129年、7歳で崇徳天皇に入内し、女御に、1130年⒑歳のとき中宮になっている。 しかし二人の間に子供はできなかった。
1140年、崇徳と兵衛佐局の間に崇徳の第一皇子・重仁親王が誕生した。 聖子と聖子の父・忠通は重仁親王誕生を不快に思ったと『今鏡』には記されている。 それはそうだろう。 当時、娘を入内させて天皇の外祖父となることは権力掌握の常套手段だったのだから。
1141年、19歳のときに崇徳の異母弟・近衛の准母になっている。 准母とは天皇の生母ではない女性が母に擬されることをいう。
近衛の母親は藤原得子(美福門院)で、鳥羽天皇の寵妃だった。 得子の父親は藤原長実で中納言という身分だったので、関白・藤原忠通を父に持つ藤原聖子を准母として、即位するのにふさわしい地位を得ようとしたのかもしれない。 また聖子にとっても子供が持てるということのメリットは大きかった。
1142年、崇徳が退位すると皇太后となり、1150年に皇嘉門院の院号を宣下される。
1155年、崇徳の同母弟・後白河が即位すると、崇徳はこれを不満に思うようになる。 崇徳は自分と兵衛佐局の間に生まれた重仁親王を即位させて、自分は院政を行いたいと思っていたのだろう。 ほかにも藤原聖子の父・藤原忠通と藤原頼長の対立などもあり、朝廷は後白河派vs崇徳派に対立、ついには戦となってしまった。(保元の乱) 藤原聖子の父と夫が対立して戦うということになってしまったのだ。 結果は崇徳が破れて讃岐に流罪となった。 兵衛佐局は崇徳に同行して讃岐に向かっている。
聖子は崇徳についていかず都にとどまったが、いたたまれなくなったのか、出家。 それでもまだ心が安らぐことがなかったのだろうか、1163年に再出家して髪をすべてそり落とした。 (当時の女性の出家は長い髪を肩のあたりまで切る程度だったようである。) 翌1164年、聖子の父・藤原忠道は薨去し、崇徳院も崩御してしまう。
1182年に聖子も崩御した。
崇徳天皇 御廟(京都市東山区)
⑦崇徳と聖子の仮の一夜? 難波江の 蘆のかりねの 一よゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき/皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう) (難波江の、蘆を刈ってつくった小屋での、仮の一夜、蘆の一節(ひとよ)のような一夜のために、難波江に建てられている澪標の言葉と同じように身を尽くして 恋しつづけるべきでしょう。)
一般的にこの歌は遊女の歌だとされる。
平安時代の大江匡房の『遊女記』によれば、難波江・淀川の水運で栄えた江口・神崎・川尻・室・蟹島には遊女がおり 小舟で通行する船に近づいて客をとっていた。遊女の小舟は水面がみえないほど多かったとある。
しかし、仮の一夜、それは崇徳と聖子の関係を言っているようにもとれる。(それで二人の間には子供ができなかったのかもw) そして、崇徳と過ごしたのがたった一夜であっても、澪標のように身を尽くして、崇徳を恋しつづけるべき、という意味ではないかと思ったりする。
1122 | 藤原聖子 誕生 | 1123 | 崇徳天皇 4歳で即位 | 1129 | 藤原聖子7歳で、崇徳10歳に入内 | 1130 | 藤原聖子、中宮となる。 | 1140 | 崇徳と兵衛佐局の間に崇徳の第一皇子・重仁親王が誕生。聖子と父・藤原忠通はこれを不快に思う。 | 1141 | 藤原聖子、近衛の准母となり、皇太后となる。 | 1142 | 崇徳退位 近衛(崇徳の異母弟)即位 | 1150 | 藤原聖子、皇嘉門院の院号宣下を受ける。 | 1155 | 近衛(崇徳の異母弟)崩御 後白河(崇徳の同母弟)即位 | 1156 | 崇徳vs朝廷の戦がおきる。(保元の乱/皇位継承不満が原因。崇徳は息子の重仁親王を即位させたかった。) 藤原聖子の父・藤原忠通は崇徳の敵。朝廷が勝利し、崇徳は讃岐に配流となる。 藤原聖子出家し、九条兼実の後見をうける。 | 1163年 | 藤原聖子再出家して髪をすべてそり落とす。 | 1164 | 崇徳院(皇嘉門院の夫)崩御・藤原忠通(皇嘉門院の父)死亡 | 1166 | 九条兼実、右大臣になる。 | 1182 | 藤原聖子 崩御 | 1183 | 後白河院、藤原俊成(-1204)に千載和歌集撰集を命じる。 | 1186 | 九条兼実、摂政となる。 | 1188 | 千載和歌集完成 | 皇嘉門院別当が「難波江の~」の歌を詠んだ詳しい年代はわからないが、九条兼実が右大臣のころに詠んだ歌なので、相当する期間を赤文字で表した。
皇嘉門院別当の生没年は不明だが、聖子が崩御したとき、存命していたようである。
皇嘉門院別当が「難波江の~」の歌を詠んだのは、聖子の存命中か、そのあとなのかわからない。 しかし、1175年の『右大臣兼実家歌合』や1178年の『右大臣家百首』で歌を詠んでいるので、そのどちらかで「難波江の~」の歌を詠んだのではないだろうか。 藤原聖子が崩御したのは1182年なので、藤原聖子は皇嘉門院別当のこの歌を耳にしたかもしれない。
とすれば、聖子はこの歌の道徳観「恋ひわたるべき(恋し続けるべきです)」に苦しめられたのではないかと想像する。 その理由はもちろん、保元の乱後、藤原聖子は崇徳について讃岐へ行かずに、都にとどまっていたからだ。 讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sotoku_invoking_a_thunder_storm.jpg?uselang=ja よりお借りしました。⑧崇徳の怨霊が聖子に会いにくる?さらに崇徳院の歌が聖子を追い詰める。 私流 トンデモ百人一首 77番 瀬をはやみ・・・ 『藤原聖子を震え上がらせた歌?』 詳しくは上の記事をお読みいただきたいが、崇徳の崩御後、崇徳は怨霊になったと噂された。 そして崇徳は生前、次のような歌を詠んでいた。 瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ/崇徳院 (瀬の流れが早く岩にせき止められた滝川が岩にあたって二つに割れるように、あなたと別れても、いつかきっとあなたに逢おうと思う)
ふたつに割れた滝の一方は崇徳、割れた滝のもう片方は、私。 藤原聖子はそう思って震え上がったのではないだろうか。 言霊の力によって、崇徳の怨霊は私に会いに来るにちがいないと。 藤原聖子が2度も出家して、髪をそり落としたのは、崇徳の怨霊を恐れたためではないかと思う。
霜降の滝(栃木県日光市)
いつも応援ありがとうございます♪ 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 にほんブログ村
※年齢は単純に出来事があった年から生まれ年をひいたものです。 小倉百人一首77番 題しらず 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ/崇徳院(瀬の流れが早く岩にせき止められた滝川が岩にあたって割れるように、あなたと別れても、いつかきっとあなたに逢おうと思う。)
霜降の滝(栃木県日光市)①崇徳は父・鳥羽に叔父子と呼ばれた?崇徳天皇(1119~1164)は鳥羽天皇の第一皇子で、母は藤原璋子である。 しかし『古事談』は鳥羽の祖父・白河法皇と藤原璋子の間に生まれたとしている。
藤原璋子の父は藤原公実、母は藤原光子であるが、幼少時より白河法皇と寵妃・祇園女御に養われていた。 その養父である白河法皇が養女の藤原璋子に手をつけちゃったというのである。 で白河法皇は藤原璋子を孫・鳥羽に入内させた。 璋子は鳥羽の子として崇徳を産んだが、崇徳は実は白河法皇の子であったと、そういうことのようである。 『古事談』によると鳥羽は崇徳を「叔父にして子」という意味で「叔父子」と呼んでいたという。
ただし『古事談』は崇徳誕生後100年以上あとに記されたものであり、『古事談』にしかこれらの話はないので、真偽のほどはわからない。
藤原璋子が鳥羽に入内したのは1117年12月13日。 崇徳を出産したのは1119年5月28日である。 人間の子供はおよそ十月十日で生まれるので、『故事談』の記述が正しければ、藤原璋子は鳥羽に入内したのちも白河法皇と関係を持っていたということになるw。

白河天皇陵
②子供のない夫婦だった崇徳と藤原聖子
崇徳は1123年に4歳で即位した。 1129年、関白・藤原忠通の長女・藤原聖子(皇嘉門院/1122~1182)が崇徳に入内する。 崇徳は⒑歳、藤原聖子は7歳だった。 この年、白河法皇が崩御し、崇徳の父の鳥羽が院政をとるようになった。
藤原聖子は常に崇徳と同殿している。 また崇徳退位後も、二人はしばしば会っている。 しかし二人の間に子供はできなかった。
1140年、崇徳と兵衛佐局の間に崇徳の第一皇子・重仁親王が誕生した。 聖子と聖子の父・忠通は重仁親王誕生を不快に思ったと『今鏡』には記されている。 それはそうだろう。 当時、娘を入内させて天皇の外祖父となることは権力掌握の常套手段だったのだから。
↑ 安楽寿院・案内板に描かれていた鳥羽離宮の絵(部分)。 杉山信三さんの復元案に基づき、中西立太さんが描いたもの。 鳥羽離宮は12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。
③皇太子のはずが皇太弟になっていた!
崇徳の父・鳥羽は藤原得子を寵愛し、得子は近衛(1139~1155)を産んだ。 崇徳にとって近衛は異母弟にあたる。
崇徳は近衛を養子とし、藤原聖子は近衛の准母となった。 崇徳は異母弟の近衛を養子としたわけである。
1141年、鳥羽は崇徳に譲位をせまった。崇徳は譲位して近衛が即位した。
崇徳は近衛を養子としているので、近衛は皇太子のはずである。 しかし、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』『今鏡』)
院政の資格は、自分の皇太子が即位することで得ることができたようである。 天皇が皇太弟では崇徳は院政を行う資格がなかった。
なぜ宣命に「皇太弟」となっていたのか。 宣命とは「天皇の命令を記した文書」だが、天皇が直接書くわけではなく、役人が書いたのだろう。 うっかりミスというよりは陰謀めいたものを感じる。
叔父子と呼んで崇徳を嫌っていた父・鳥羽の陰謀か。 はたまた兵衛佐局との間に重仁親王がうまれ、自分の娘・聖子との間には子供が生まれないことを恨んだ藤原忠通の陰謀か。
もちろん院政はひきつづき鳥羽が行っていた。
 近衛天皇安楽寿院南陵
④崇徳、院政の可能性ゼロに。
鳥羽は崇徳の第一皇子・重仁親王を藤原得子の養子とした。
1155年、近衛は16歳で崩御。 近衛には子供がなく、次期天皇は崇徳の第一皇子・重仁親王が有力視されていた。 しかし、崇徳の同母弟の後白河が中継ぎの天皇として即位した。
鳥羽の寵妃・藤原得子は崇徳の第一皇子・重仁親王のほかに、崇徳の同母弟・後白河の第一皇子・二条も養子にしていた。 そして本来ならば二条を即位させたいと思っていたが、天皇の父親が即位していないのはよくないとして、まず後白河を即位させたのだ。
こうして崇徳院政の可能性はゼロとなった。
鳥羽天皇安楽寿院陵
⑤保元の乱で藤原聖子の父と夫が争う。
1156年7月2日、鳥羽が崩御。崇徳は見舞いに訪れたが鳥羽に会うことはできなかった。 鳥羽は祖金の葉室惟方に「自分の遺体を崇徳に見せないように」と遺言していたという。(『故事談』)
7月5日、「崇徳と藤原頼長(藤原忠通の弟)が軍を集め、国家を傾けようとしている」という噂が流される。
7月8日、「藤原忠実(藤原忠通・頼長の父)・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止せよ」との後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下された。 また、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官(人身または財物を官が没収すること)した。 これらは鳥羽の寵妃・藤原得子、藤原忠通らの指示によるものと考えられている。
藤原聖子にとってみれば、父(藤原忠通)と夫(崇徳)が争うことになってしまったのである。
後白河天皇側 | 崇徳上皇側 | 藤原忠通(関白) | 藤原頼長(藤氏長者)※藤原忠通の弟 藤原忠実(※藤原忠通・藤原頼長の父)
| 源義朝(河内源氏) | 源為義(河内源氏) | 源頼政(摂津源氏) | 源頼憲(摂津源氏) | 源義康(河内源氏足利流) | | 平信兼(伊勢平氏) | 平家弘(伊勢平氏) | 平清盛《伊勢平氏) | 平忠正(伊勢平氏) | 平重成(美濃源氏) | | 信西(後白河の乳母の夫) | |
※親子・兄弟・平氏・源氏間で対立している。 7月10日、白河北殿に崇徳・藤原頼長・崇徳院の側近藤原教長・平家弘・源為義・平忠正らの武士が集結した。 7月11日未明、後白河は武士を動員して白河北殿へ夜襲をかけた。 白河北殿は炎上したが、崇徳は御所を脱出した。 13日、崇徳は降参を決意して剃髪し、仁和寺に出向いた。 そして同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼したが断られてしまう。 崇徳はとらえられ、寛遍法務の旧房に監禁された。 23日、崇徳院は讃岐に流罪となった。 兵衛佐局は崇徳に同行したが、藤原聖子は出家して都にとどまった。 後白河天皇陵⑥崇徳、怨霊になる。讃岐で崇徳は五部大乗経の写本をして、朝廷に差し出した。 しかし後白河は「呪詛が込められているのではないか」として、写本を送り返してきた。 激怒した崇徳は舌を噛み切り、その血で写本に次のように書き込んだ。 「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」。 また爪や髪を伸ばし続け、生きながら天狗になったとされている。(『保元物語』) しかし、『今鏡』には怒り・恨みなどの話は記されていない。 1164年、崇徳は讃岐で崩御した。 1177年、延暦寺の強訴・安元の大火・鹿ヶ谷の陰謀などが起こり、「これらは崇徳院の怨霊のしわざではないか」と当時の貴族の日記に書かれている。 1176年、平滋子(後白河妃)・姝子内親王(鳥羽の内親王で二条の中宮)六条(二条の子)・藤原 呈子近衛の中宮)など、後白河や忠通に近い人々が相次いで死去し、ますます崇徳院の怨霊のしわざではないかという噂が広がった。 『吉記』寿永3年(1184年)4月15日条に藤原教長が「崇徳院と頼長の悪霊を神霊として祀るべき」と発言したことが記されている。 1184年、後白河は、8月3日には「讃岐院」の院号を「崇徳院」と改め、頼長には正一位太政大臣が追贈している。 4月15日には保元の乱の古戦場・春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)がつくられた。(のち平野神社に統合) また、現在の香川県坂出市に崇徳の御陵がつくられ、その御陵近くに頓証寺(現在の白峯寺香川県に地元の人々)がつくられたが、この頓証寺に対して官の保護が与えられた。 これらは崇徳の慰霊を目的として行われたのだろう。
崇徳天皇御廟 ( 京都府京都市東山区祇園町南側)
1497年、現在の東山安井にあった光明院の住持・幸盛上人が御土御門天皇の綸旨により「崇徳天皇御廟」を光明院内に再興した。 これが上の写真の「崇徳天皇御廟」と考えられている。 光明院は、崇徳院の寵妃・阿波内侍が居住していた邸宅跡であったとも伝えられている。
⑦藤原聖子をふるえあがらせた歌 瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ/崇徳院 (瀬の流れが早く岩にせき止められた滝川が岩にあたって二つに割れるように、あなたと別れても、いつかきっとあなたに逢おうと思う)
この歌は詞書に「題知らず」とあるので、崇徳がいつ詠んだ歌なのかわからない。 しかしいつ詠んだのかは問題ではない。 口から発した言葉には将来、言葉を実現させる力、言霊があるからだ。
ふたつに割れた滝の一方はもちろん崇徳の比喩だろう。 もう一方は誰だろうか。
保元の乱後、兵衛佐局は崇徳に同行したが、藤原聖子は出家して都にとどまっている。 割れた滝のもう片方は、私。藤原聖子はそう思って震え上がったのではないだろうか。 言霊の力によって、崇徳の怨霊は私に会いに来るにちがいないと。
藤原聖子が出家したのは、崇徳の怨霊を恐れたためではないかと思う。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yoshitsuya_The_Lightning_Bolt.jpg?uselang=ja よりお借りしました。 『椿説弓張月』より崇徳上皇が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた一場面(歌川芳艶画)
いつも応援ありがとうございます♪ 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 にほんブログ村
小倉百人一首98番 風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける/藤原家隆 (風がそよぐ楢の小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。みそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。) ①藤原家隆が見た風景が今も目の前に。
6月30日、夕刻。 すっかり日が沈み薄暗くなった境内では、神職さんが1枚1枚紙の人形(ひとがた)を繰っては「ならの小川」に流していく。 小川を流れる人形はかがり火に照らされて星のようにきらめく。 京都・上賀茂神社の夏越神事である。 夏越神事は、六月祓、大祓などともいわれ、かつて旧暦6月晦日に各地の神社で行われていた行事である。 参拝者は人形に息を吹きかける。これは自らの穢れを人形に移すまじないである。 そしてそれを神社に奉納し、神職さんが川や海などに人形を流すことで、身が浄められると考えられていた。 お焚き上げと言って、川や海に流す代わりに人形を燃やしたりすることもある。 1年を半分過ぎたところで、穢れを落とし、残り半年を健康に過ごすための神事であるといわれる。 大晦日にも同様の神事をするそうだが、大晦日の大祓は見に行ったことがない。 現在でも、新暦6月30日や、月遅れの7月30日ごろに「夏越の祓」を行っている神社がたくさんある。 しかし、上賀茂神社の夏越神事は特別である。 鎌倉時代、藤原家隆が 風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりけると詠んだのが、上賀茂神社の夏越の祓なのである。 上賀茂神社では古式を守り、今も鎌倉時代と同じ夏越神事を行っている。(ただし、人形のほか、車形やバイク形も流しているw) 鎌倉時代の歌人・ 藤原家隆(1158年-1237年)が見たのと同じ風景を、私は見ているのだった。 ②新暦7月に涼しい風が吹いてすっかり秋らしくなった?
風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける/藤原家隆 (風がそよぐ、ならの小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。みそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。) この歌は、こんな風に現代語訳されることがある。 「涼しい風がそよぐならの小川はすっかり秋らしい気配が漂っている。みそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。」と。 なるほど、秋になると涼しい風が吹く。しかし、おかしいとは思わないだろうか。 夏越神事は旧暦の六月の晦日に行われる行事だった。新暦に換算すると7月ごろである。 7月の京都は夏の真っ盛りで、秋らしい気配なんてまるでないのだ。 それなのに家隆はなぜ「みそぎをする様子だけが夏のしるしなのだなあ。」などと歌を詠んだのだろうか? ③旧暦では秋の始まりは涼しい季節の到来ではなく、もっとも暑い季節の到来を意味していた。私ははじめ、冷夏だったのだろうかとか、昔の7月は今と違って夜は涼しかったんだろうかなどと考えた。 しかし、ちょっと考えてみてわかった。 これは謎でもなんでもなかったのだ。 旧暦では1月・2月・3月を春、4月・5月・6月を夏、7月・8月・9月を秋、10月・11月・12月を冬としていた。 旧暦は新暦の約ひと月遅れなので、新暦の2月・3月・4月が旧暦の春、新暦の5月・6月・7月が旧暦の夏、新暦の8月・9月・10月が旧暦の秋、新暦の11月・12月・1月が旧暦の冬。 だいたいそう考えていいだろう。 古の人にとって秋の始まりとは涼しい季節の到来ではなく、もっとも暑い季節の到来を意味していたのだ。 「涼しい風が吹いてすっかり秋らしくなった」というのは新暦の感覚だったのである。 ④古の人にとって「そよ風」は不気味な風だった?家隆は「風そよぐならの小川のゆふぐれは」と詠っているが、この風はどうやら涼しい風ではないようである。 それではどんな風が吹いていたのだろうか? 「風そよぐ」の「そよぐ」は漢字では「戦ぐ」と書く。 なにか意外な感じがする。 そよ風は優しい風だと思っていたが、なぜ「戦」のような漢字を「そよぐ」と読むのか。 漢和辞典で『戦』という漢字の意味を調べてみたところ、、次のように記されていた。 ① 戦う。戦をする。 ② いくさ ③ おののく ふるえる ④ そよぐ そよそよと揺れ動く ⑤ はばかる ③おののく ふるえる とあるのに注目してほしい。 現代人は『そよ風』」を『吹かれて心地よく感じる優しい風』のことだと思っているが、古の人々にとって『そよ風』とは葉をざわつかせる不気味な風だったのではないだろうか。 ⑤秋の到来はお盆の始まりだった。6月晦日の翌日は7月1日だが、旧暦の7月1日は釜蓋朔日(かまぶたついたち)といわれていた。 釜蓋朔日とは、地獄の釜の蓋が開く日でのことであり、この日からお盆が始まるとされていた。 家隆は楢の葉がざわつくようすに、お盆であの世からこの世に戻ってきた霊の気配を感じたのではないだろうか。 そして「ああ、お盆の季節がやってきたんだなあ」という気持ちを歌に詠んだのではないかと思う。 ⑥ならの小川と楢の葉古語辞典で『そよぐ』をひくと、『そよそよと音をたてる』とあり、文例として 岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり(平家物語・灌頂・大原入り)があげられていた。 上賀茂神社の禊川が『ならの小川』と呼ばれているのは、川べりに楢の木が生えているからなのだそうだ。 そして、そよそよと音をたてるものは、ほかにもたくさんあるだろうと思われるのに、なぜ古語辞典には『楢』が文例にひかれているのか。 偶然か。それとも『楢がそよぐ』ということが何かを意味しているのだろうか。 そう思って平家物語を読んでみた。 建礼門院(平 德子)の父は平清盛、母は平時子で、高倉天皇の中宮として入内し、安徳天皇を産んだ。 平家没落の時、安徳天皇は祖母の時子に抱かれて入水した。 このとき、建礼門院も入水したのだが、死ぬことができず源氏方に捕らえられた。 彼女の母も、子も、一族の者も大勢死んだ。 壇ノ浦で入水したものの捕縛された建礼門院は東山の麓の吉田の地に隠棲し、長楽寺において出家した。 しかし大地震がおこり、築地が崩れて住めなくなった。 そこで人目のない大原に居を移した。 あるとき、庭に散り敷いた楢の葉を踏みしだく音がし、女院は捕り方がやってきたのかと思って身を隠そうとした。 しかしそれは鹿だった。 それを見ていた重衡の北の方が涙ながらに詠んだのが次の歌であった。 岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり
京都大原にある寂光院。建礼門院像が安置されている。⑦トガノの鹿岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり楢の葉をざわざわと戦がせたのは鹿だったと平家物語にはあるが、鹿といえば、私は日本書紀 仁徳天皇38年の記事にある『トガノの鹿』 を思い出す。 雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。 翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。 時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂した。 昔、謀反の罪で殺された人を塩漬けにすることもあり、鹿は謀反の罪で殺される者の象徴だったと考えることができる。 ⑧平家物語と怨霊『トガノの鹿』の物語をふまえて、『岩根ふみ~』という歌を味わってみると、この歌は深みを増す。 平家物語を読んでいると、随所に怨霊の話が出てくる。 建礼門院が懐妊し、祈祷を行ったが、いまひとつ調子がよくないのを、平清盛は藤原成親の怨霊の仕業だろうと判断し、成親の息子・成経らを鬼界が島より召還させている。 また建礼門院が隠棲していた家は大地震で住めなくなってしまったが、この地震は安徳天皇や平家の怨霊によるものだとされ、怨霊は恐ろしいものであると人々は噂しあった、とも記されている。 琵琶法師の芳一が平家の霊にとり憑かれ、住職が全身にお経を書いて亡霊から芳一を守ったが、耳にお経を書くのを忘れたため、亡霊が芳一の耳をちぎって立ち去った話は有名だ。 能の『船弁慶』では、義経と弁慶が乗った船が風にあおられて沖に流された海上で平知盛の霊があらわれる。 義経は刀をぬいて亡霊と切りあうが、弁慶は『刀ではかなわないでしょう』と数珠を繰って経文を唱え、祈りの力で悪霊を退散させる。 これらの記述は当時、いかに怨霊というものの存在が信じられていたかを示すものだといえるだろう。 「岩根ふみ~」の歌に詠まれた鹿とは殺された平家の亡霊なのではないか。 重衡の北の方が、楢の葉を踏みしだく鹿の陰に安徳天皇や平家一門の怨霊を見たとしても不思議はない。 ⑨大原入りは大祓の掛詞になっている?家隆が歌を詠んだのは、詞書から1229年だと考えられる。 平家物語の成立年代は不明だが、1240年に書かれた『兵範記』に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあり『平家物語』の前身として『治承物語』なる書物が存在していたと考えられている。 平家物語と家隆の歌のどちらが先でどちらが後かはわからない。 が、どちらかがどちらかの影響を受けている可能性はある。 その証拠に、平家物語の『大原入り』の段のタイトルから『おおはらいり』=『大祓(夏越神事のことを大祓ともいう)』という言葉が読み取れるではないか。 このような技法を、和歌では「もののな」という。 ⑩祟る神、楢葉守さらに『楢』を辞書でひくと、『楢葉守=ならの木の葉を守る神』とある。 そして文例に『楢葉守の祟りなし(浄瑠璃・会津山・近松)』がひかれていた。 古には楢葉守という神が存在すると考えられていたということがわかる。 しかもその神は祟る神、怨霊である。 ⑪平城帝楢は『平城(奈良)』を連想させるが、『平城帝』と呼ばれた人物がいる。 平城天皇(安殿親王)は桓武天皇の第一皇子で、806年に桓武天皇が崩御した後、第51代天皇として即位した。 安殿親王は自分の后の母親である藤原薬子と関係を持ち、寵愛するようになった。 809年、病気を理由に異母弟である嵯峨天皇に譲位し、平城京に移り住んだ。 810年、平城上皇は平城京遷都の詔を出すなどして嵯峨天皇と対立するようになった。 同年9月10日、嵯峨天皇は藤原薬子の官位を剥奪し、その翌日の9月11日に平城天皇は挙兵した。 しかし、薬子と共に東国に入ろうとしたところを坂上田村麻呂らに遮られて12日平城京に戻された。 こうして挙兵はあっけなく失敗に終わり、藤原薬子は服毒自殺し、薬子の兄の仲成は処刑された。 平城天皇は空海より灌頂を受けて出家し、奈良の『萱の御所』に隠遁した。 これを『薬子の変』という。 平城天皇は ふるさとと なりにしならの都にも 色はかはらず 花はさきけりと歌を詠んでいる。 この平城天皇こそ、楢葉守の名にふさわしいのではないだろうか。 『楢の葉のそよぐは鹿の渡るなりけり』の出典は平家物語の灌頂の巻・大原入りの段だったが、巻のタイトルは『灌頂』となっている。 灌頂というタイトルは平城天皇が空海より灌頂を受けたことを示唆しているのではないかと思ったりするが、考えすぎだろうか。 不退寺 萱の御所跡と伝わる。⑪技巧的で深みのある歌風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける/藤原家隆 (風が楢の葉をそよがせる楢の小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。六月祓のみそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。) この歌は、単に夏越神事の風景について詠んだ歌ではない。 たいへん技巧的で、しかも深みのある歌だったようである。 『風そよぐ ならの小川』というフレーズから楢葉守や、平家物語にある『岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉のそよぐは鹿の渡るなりけり(平家物語/灌頂の巻・大原入りの段)』という歌を想起させる。 さらに夏越神事は別名を大祓という。 大祓から、大原入り(おおはらいり。/『岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉のそよぐは鹿の渡るなりけり』この歌の出典は平家物語/灌頂の巻・大原入りの段である。大原入りというタイトルの中に大祓と言う言葉がよみとれる。もののな。)の段を想起させる。 そして灌頂の巻の灌頂から、空海から灌頂を受けた平城天皇を想起させる。 平城上皇はその名前からして楢葉守を思わせる。 ⑫後鳥羽上皇しかし平城上皇は平安時代初期、藤原家隆は鎌倉時代の人物で、時代が違う。 家隆は平城上皇のイメージにもっと身近な人物のイメージを重ねて歌を詠んだのだとおもう。 それは後鳥羽上皇ではないだろうか。 平城上皇と後鳥羽上皇には共通点がある。 平城天皇は嵯峨天皇より政権を奪回するべく『薬子の変』を企てたが失敗した。 そして後鳥羽上皇は幕府より朝廷に政権を奪回すべく『承久の変』を企てたが失敗した。 どちらもクーデターを企てて失敗しているのである。 ⑬後鳥羽上皇と藤原定家・藤原家隆後鳥羽上皇は歌人としても優れた才能を持っていた人で、たびたび歌会を開いている。 この時代の代表的歌人である藤原定家や藤原家隆とも交流があった。 藤原定家は九条家に出仕して官位を上げていたが、1188年、源通親のクーデターにより九条家は失脚した。 その後1200年に定家は宮廷歌人となり、1201年には後鳥羽上皇から新古今和歌集の撰者に任命された。 ところが、歌の選定において定家は後鳥羽上皇と争い、1220年、後鳥羽上皇は定家の歌会への参加を禁じた。 しかしこのことは定家にとって災い転じて福となった。 なぜなら、1221年、後鳥羽上皇は承久の乱をおこして隠岐へ配流となったからである。 承久の乱後、定家は後鳥羽院とは一切の連絡を絶ち、高い官位を得て歌壇の頂点に立った。 一方、定家の兄弟弟子である家隆は変後も後鳥羽院と連絡をとりつづけている。 家隆が「風そよぐ~」の歌を詠んだのは、1229年である。 後鳥羽院の生没年は1180年~ 1239年なので、家隆が「風そよぐ~」の歌を詠んだとき、後鳥羽院は存命しているので、怨霊にはなっていない。 家隆は後鳥羽院の恨みを楢の葉を戦がせる風の中に感じ、楢葉守=平城天皇のイメージと後鳥羽院のイメージを重ねたのかもしれない。 大阪四天王寺にある家隆塚いつも応援ありがとうございます♪ 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 にほんブログ村
小倉百人一首24番 このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに/菅家(菅原道真) (今回の旅は急な旅で幣も用意することができませんでした。かわりに紅葉の錦を捧げます。どうぞ神の御心のままお受け取りください。)

手向山八幡宮
① 紅葉の錦 神のまにまに
この歌は平安時代の政治家・菅原道真が詠んだものである。 手向山八幡宮は現在は若草山の麓、東大寺三月堂の隣にあるが、平安時代には大仏殿のそばの鏡池の東側にあったそうだ。 現在の場所には鎌倉時代に移転したという。 菅原道真が「このたびは・・・」と歌を詠んだ場所とは現在の場所は異なってはいるものの、手向山八幡宮の紅葉は目をみはるほどの美しさである。 道真が見た手向山八幡宮の紅葉もさぞ美しかったことだろう。 道真の歌からそれが伝わってくる。 ②幣のかわりにした紅葉
『このたびは』の『たび』は『度』と『旅』に掛けてある。 幣とは神への捧げ物のことで、絹や紙を細かく切ったものを道祖神の前で撒き散らす習慣があったそうだ。 今でも、神事のときに神主さんが細かく切った紙をまき散らしているのを見かけるが、幣とはそのようなものだろう。 幣(一言主神社にて)道真が手向山八幡へやってきたとき、風がふいて紅葉がはらはらと散っていたのだろう。 それで、道真は紅葉を幣のかわりにしたのだ。 ③朱雀院は宇多天皇『古今和歌集』の詞書には『朱雀院の奈良におはしましたる時に、たむけ山にてよめる』とある。 また『定家八代抄』の詞書には『亭子院吉野の宮滝御覧じにおはしましける御ともにつかうまつりて、手向山をこゆとて』とある。」 朱雀院とは朱雀天皇のことではなく、宇多天皇のことだとされている。 もともと朱雀院とは嵯峨天皇が譲位後に住んだ離宮のことで、朱雀大路の西にあった。 その後、宇多天皇が整備して譲位後そこに住んだ。 また朱雀天皇が修理をして、やはり譲位後に住んだ。 亭子院(ていじのいん)は、西洞院大路の西側にあり、やはり宇多天皇が譲位後に住んだ。 ④朱雀院は朱雀上皇ではないかと疑ってみたけど実は私は朱雀院とは朱雀上皇のことではないかと疑って調べてみた。 菅原道真の生没年は845年-903年。 一方朱雀天皇の生没年は923年- 952年で時代が合わない。 しかし、古今和歌集仮名序には、『平城天皇と柿本人麻呂が身を合わせた』という記述がある。 平城天皇は平安時代、柿本人麻呂は奈良時代の人で時代があわないのだが。 これについて梅原猛氏は、『平城天皇と柿本人麻呂は精神的に身をあわせた』のだと説かれた。 そうであれば、朱雀天皇の行幸に、道真の霊が随行したと記されてもおかしくはないと思った。 が、やはり朱雀院とは宇多天皇と考えるべきだろう。 というのは古今和歌集の成立が905年であるからである。 道真の『このたびは…』の歌は古今和歌集にとられた歌なので、905年にはすでに詠まれていたということになる。 朱雀天皇の生没年は923年- 952年なので、古今和歌集成立したとき、まだ生まれていない。 従って、朱雀院とは宇多上皇のことだということになる。 ⑤道真、時平の讒言で流罪となる。賀茂真淵の『古今和歌集打聴』によれば、『奈良への御幸の事は記録にないが、宇多上皇は昌泰元年に吉野の宮の瀧御幸の次手に住吉へも御幸有しておられるので、そのとき奈良へも立ち寄ったのだろう。』とあり、一般的には898年十月の宮滝御幸の時のことだと考えられている。 菅原道真は宇多天皇にひきたてられて昇進した人物だった。 それで898年の宇多上皇の御幸にも随行したのかもしれない。 897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位した。 このとき宇多天皇は『ひきつづき藤原時平と菅原道真を重用するように』と醍醐天皇に申し入れたという。 醍醐天皇の御代、菅原道真は右大臣となった。左大臣は藤原時平だった。 当時の官職や位は家の格によって最高位が定まっていた。 道真の右大臣という地位は菅原氏としては破格の昇進だった。 道真の能力を恐れた藤原時平は醍醐天皇に次のように讒言したという。 『道真は斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀っている』と。 斉世親王は宇多天皇の第3皇子で、醍醐天皇の異母弟だった。 そして斉世親王は道真の娘を妻としていた。 醍醐天皇は時平の讒言を聞き入れ、901年、道真を大宰府に流罪とした。 そして903年、道真は失意のうちに大宰府で死亡した。 大阪天満宮に展示されている雷神となって祟る菅原道真の怨霊の人形⑥道真、怨霊となる。その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次いだ。 また、道真左遷にかかわった人物が相次いで死亡し、醍醐天皇の皇太子であった保明親王は21歳で早世した。 代わって孫の慶頼王を皇太子としたが、慶頼王は疱瘡を患ってわずか5歳で夭折した。 さらに旱魃対策会議を開いている真っ最中、清涼殿に落雷があった。 清涼殿は炎上し、多くの死傷者が出た。 醍醐天皇はこのショックでノイローゼとなって寝込み、3ヵ月後に死亡したともいわれる。 これら一連の事件は道真の怨霊のしわざであると考えられた。 『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg よりお借りしました。 不明 [Public domain]⑦貞明親王が皇太子だったころ、高子に召されて業平が詠んだ歌私は紅葉というと、やはり百人一首にある在原業平の歌を思い出す。 ちはやぶる 神世もきかず 龍田河 唐紅に水くくるとは(在原業平)この歌の詞書に次のようにある。 二条の后がの春宮のみやす所と頃と申しける時に、御屏風にたつた河にもみじながれたるかたをかえりけるを題にてよめる。と。 『二条の后』とは藤原高子のことである。 伊勢物語によれば藤原高子は業平と駆け落ちしたが、兄の基経によって引き離された。 その後、高子は惟仁親王(のちの清和天皇)のもとへ入内した。 高子は清和天皇との間に貞明親王(のちの陽成天皇)をもうけたが、陽成天皇は業平と高子の子であるという説がある。 御息所には2つの意味がある。 1 天皇の寝所に侍する宮女。女御(にょうご)・更衣(こうい)、その他、広く天皇に寵せられた官女の称。また一説に、皇子・皇女の母となった女御・更衣の称という。みやすんどころ。「六条の 御息所」 「上は、―の見ましかば、とおぼし出づるに」〈源 ・桐壺〉 2 皇太子妃または親王妃の称。 「二条の后、春宮(とうぐう)の―と申しける時に」〈古今・物名・詞書〉 https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E6%81%AF%E6%89%80-139576#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 より引用 上の説明では、詞書の春宮を惟仁親王(のちの清和天皇)として2の例にあげているが、私は1の「皇子・皇女の母となった女御・更衣の称」をとりたい。 貞明親王が生まれたのは869年。 清和天皇の在位は858~876年なので、貞明親王は清和天皇が即位して11年後に生まれたということになる。 貞明親王は生後3か月で皇太子となっている。 つまり、春宮とは高子が産んだ清和天皇の皇子・貞明親王(陽成天皇)で、 高子は貞明親王を生んだため「春宮の御息所」と呼ばれていたのではないかと思うのだ。 つまり、『藤原高子所生の貞明親王が皇太子だったころ、高子は業平を召し、業平は龍田川に紅葉が流れる様を描いた屏風を見てこの歌を詠んだ。』 というのが詞書きの意味ではないかと思う。 ⑧皇統を括る紅葉ちはやぶる 神世もきかず 龍田河 唐紅に水くくるとは この歌は『神代の昔にも聞いた事がない。竜田河を流れる唐紅に染まった紅葉が水面をくくり染めにするとは。』または『紅葉が水を潜るとは』と訳されることもある。 ここに『水くくる』という表現が出てくるが、これをどう解釈するのかについては古来より異説がある。 ひとつは『まだら模様に色を染め出す括り染め』であるという説。 もうひとつは『水潜る』とする説である。 私は業平のこの歌は業平の祖父・平城帝が詠んだ次の歌に対応したものだと思う。 龍田川 もみぢみだれて 流るめり わたらば錦 なかやたえなむ(竜田川を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると錦は途切れてしまうだろう。)806年、安殿親王は即位して平城天皇となったが、3年後の809年には病気を理由に異母弟である嵯峨天皇に譲位し、平城京に移り住んだ。 810年、平城上皇は平城京遷都の詔を出すなどして嵯峨天皇と対立するようになった。 同年9月10日、嵯峨天皇は藤原薬子の官位を剥奪し、その翌日の9月11日に平城上皇は挙兵した。 しかし、平城天皇は寵愛していた藤原薬子と共に東国に入ろうとしたところを坂上田村麻呂らに遮られて12日平城京に戻された。 こうして挙兵はあっけなく失敗に終わった。 藤原薬子は服毒自殺し、薬子の兄の仲成は処刑された。 平城天皇は空海より灌頂を受けて出家し、奈良の『萱の御所』に隠遁した。 これを『薬子の変』という。 平城上皇が『私が渡ると錦は途切れてしまうだろう。』と詠ったのは、『薬子の変を起こしたので、自分の子孫は皇位を継承できないだろう。』という意味ではないだろうか。 すると業平の歌は、平城帝によって途絶えた皇位継承の血統が、高子が自分(業平)の子を生むことで、括られていくだろう、という意味になると思う。 紅葉は皇統の比喩だと私は思うのである。 龍田川⑨幣のかわりに血筋を差し出した道真これをふまえて このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまにを鑑賞すると、道真は幣の代わりに自分の血筋を幣として八幡神に差し出したという意味になると思う。 風がふいて紅葉がはらはらと散る様子は、紅葉の錦がちぎれて、バラバラになって散っていく様のようにも思え、道真の血をひく子孫が繁栄しないというイメージを抱かせる。 日本では言霊が信じられていた。 道真はこんな歌を詠んだので、彼の子孫は歴史の表舞台に立つことができなかったのだと昔の人々は思ったのかもしれない。 あるいは、この歌は実際に道真が詠んだのではなく、道真の死後に道真の気持ちにたってほかの人が詠み、菅原道真作としたのかもしれない。 菅原道真を祀る北野天満宮
いつも応援ありがとうございます♪ 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 にほんブログ村
小倉百人一首 20番 わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ/元良親王 (こんなに思い悩んでしまった今はもうどうなってもいい。難波の海の澪標の言葉どおり、身を尽くして(身を滅ぼして)もあなたに逢いたいと思う。)
あべのハルカスより港大橋・大阪府咲州庁舎(向かって左の高層ビル)を望む ①みおつくし
大阪府咲洲庁舎展望台にのぼると大阪の町だけでなく、東に神戸、明石海峡大橋、淡路島、西には堺泉北工業地帯、関空までも望むことができる。 港大橋(大阪市港区↔住之江区)とあべのハルカス(大阪市阿倍野区 向かって右の高層ビル)眼下に広がる大阪市。その 市章は「澪標(みおつくし)」である。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AEmblem_of_Osaka%2C_Osaka.svg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/Emblem_of_Osaka%2C_Osaka.svg よりお借りしました。 作者 waketasu1977 (大阪市章1894年4月制定) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 大阪ドーム〈大阪市西区)古の大阪港は水深が浅く座礁する危険性のある個所がたくさんあったそうである。 織田正吉さんによれば、澪標とは「澪つ串」の意味であるという。 藻とは水尾で、水深の深い場所を表す水路標識を澪標というのだと。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%AA%E6%A8%99#/media/File:Miotsukushi_in_Osaka.JPG↑ 澪標の写真  長居スタジアム(大阪市東住吉区) ②みをつくしても 逢はんとぞ思ふこの澪標を詠んだ有名な歌が百人一首にある。 わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ/元良親王 (こんなに思い悩んでしまった今はもうどうなってもいい。難波の海の澪標の言葉どおり、身を尽くして(身を滅ぼして)もあなたに逢いたいと思う。)
名神高速道路の吹田サービスエリアの中元良親王の歌碑があるとのことなので、今度見にいってみたい。

梅田スカイビル〈大阪市北区)
③不倫の恋を詠んだ歌
この歌、実は不倫の恋の歌なのである。 「後撰集」の詞書には「事いできて後に、京極御息所につかはしける」とある。
「事いできて後に」とは「不倫がばれた後」という意味、「京極御息所」とは宇多天皇の寵妃で藤原時平の娘の藤原褒子(ふじわらのほうし)のことである。
最近、不倫がばれると「一線を超えていない」とかなんとか言い逃れしようとする人が多くて、粋じゃないな~と残念になる。 元良親王のように批判を恐れず、人妻に対する情熱を熱く語る人がひとりぐらいいてもいいのに、と思ってしまう~。

太陽の塔とosaka wheel(大阪市吹田市) ④元良親王は京極御息所を愛していたわけではなかった?
ただ、元良親王は30人以上の女性との恋愛歌を詠んでいて、京極御息所ひとりだけを愛したというわけではなさそうである。 また、本当に京極御息所を愛していたのかについても疑問だ。 元良親王はある目的をかなえるために京極御息所を利用したのではないか、と私は考えている。 みなと堺グリーン広場/手前 と 大阪ガス泉北 第2工場/奥(大阪府堺市)
⑤在原業平と藤原高子の駆け落ちの真相元良親王はなかなかの色好みであったようだが、他に平安時代の色好みと言えば在原業平だ。 在原業平と元良親王はよく似ている。 というのは在原業平は清和天皇に入内する予定だった藤原高子と駆け落ちをしているのである。 しかし業平は高子のことが好きで好きで仕方なかったということではなかったようだ。 というのは古今集詞書に次のようにあるのだ。 五条の后の宮の西の対にすみける人に、本意にはあらで物言ひわたりけるを、
これは「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられています。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味である。 大平和祈念塔 (大阪府富田林市)
業平と高子が駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は、清和天皇の子ではなく、業平の子ではないかとする説がある。 そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともある。 業平は自分の血をひく子供を高子に生ませ、自分の血を引く子が清和天皇の皇子として育てられ、自分の血をひく子が皇位につくことを目的として、高子と関係を持ったのだと思う。 また、そうして生まれたのが陽成天皇ではないだろうか。 参照/ 私流 トンデモ百人一首 ⑰ちはやぶる・・・ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 二上山(向かって左)と葛城山(向かって右)
⑥ばれた業平の計画おそらく業平の策略は高子の兄で摂政だった高子藤原基経にばれたのだろう。 陽成天皇は9歳で即位したが、源益を殴殺したとして17歳で退位させられている。 そして基経は陽成天皇の大叔父にあたる光孝天皇を即位させた。 関西国際空港(大阪府泉佐野市・大阪府泉南郡田尻町・泉南市にまたがる)⑦元良親王は在原業平の孫だった?元良親王はこの陽成天皇の皇子で、宇多天皇は光孝天皇の皇子である。 元良親王は業平の計画がばれなければ、自分が天皇になれたかもしれないのにと、宇多天皇を憎く思ったかもしれない。 私の考えが正しければ、陽成天皇は在原業平の子であり、元良親王は在原業平の孫である。 そして元良親王は本当の祖父・業平と同じことをしようとしたのではないかと思うのだ。 明石海峡大橋 手前は神戸空港⑧元良親王と京極御息所の不倫の真相元良親王は宇多天皇の寵妃・藤原褒子に自分の子を宇多天皇の皇子として産ませ、その子を皇位につけることで、皇位継承の血筋に自分の血を残そうとしたのではないだろうか。 しかし、藤原褒子が産んだ子が皇位につくことはなく、宇多天皇と藤原 胤子の間に生まれた醍醐天皇が即位した。 元良親王の野望は叶わなかったのだ。 舞洲(向かって右) 夢洲(向かって左)もう一度元良親王の歌を鑑賞してみよう。 わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ/元良親王 (こんなに思い悩んでしまった今はもうどうなってもいい。難波の海の澪標の言葉どおり、身を尽くして(身を滅ぼして)もあなたにお会いしたいと思います。)思い悩んでいたのは、褒子に対する恋にではなく、なんとか自分の血をひく子を宇多天皇の皇子として褒子に産ませたい、という計画についてではないだろうか。 天保山大観覧車ところが、褒子との密会がばれてしまい、「もうどうなってもいい」とやけのやんぱちになってしまったのだろう。 処分されようがどうされようがかまうものか。とにかく褒子に自分の子を産ませてやるぜ! みたいな意味で、歌を詠んだのかもしれない。 夢舞大橋 通天閣〈大阪市浪速区) と あべのハルカス〈大阪市阿倍野区)いつも応援ありがとうございます♪ 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 にほんブログ村
小倉百人一首 19番難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや /伊勢 (難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。)
①難波潟 短き芦の 節の間も百合の花が咲き乱れる舞洲。 大阪湾にある人口の島である。 かつての大阪湾は現在よりも内陸部にまで入り込んでいた。 そして干潟が広がり、難波潟と呼ばれていた。 難波潟と呼ばれていたころは百合ではなく、芦(あし)が生い茂っていた。 この難波潟の葦を詠んだのが 難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや である。 ②恋多き女性だった伊勢伊勢はすごくもてる女性だったようである。 藤原仲平とつきあっていたが破綻。 その後、藤原仲平の兄の時平や平貞文から求愛を受けている。 宇多天皇の寵愛を受けて皇子を産んだ。この皇子は5歳または8歳で夭逝したようであるが。 宇多天皇が出家したあと、宇多天皇の皇子の敦慶親王との間に中務という娘をもうけている。 えっ・・・おっおっおっ・・親子どんぶり? ③伊勢はなぜ本名がわかっていないのか?平安時代の女性はおいそれと人前で名前を名乗ることがなかったこともあって、ほとんど本名がわかっていない。 伊勢というのは紫式部・清少納言等と同様、通称である。 ただし、天皇に入内した女性は位が与えられて記録が残っているため、名前がわかっている。 伊勢は宇多天皇の后・藤原温子に仕えているが、藤原温子という名前が後世に残っているのはそのためである。 いやいや、そんなことよりも、伊勢が自分が仕えている人(温子)の夫(宇多天皇)と関係をもって子供を産んでいるというのが衝撃的だ~。 いやー、平安時代の宮中って実に乱れている。それとも当時そんなのは普通のことだったのだろうか? それはさておき、『古今和歌集目録』に伊勢が宇多天皇の更衣となったとある。 更衣になったのであれば記録があって本名が記録に残っているはずではないだろうか? なぜ伊勢は本名が後世に伝えられていないのだろうか? 更衣になったというのは間違いなのか、それとも記録が消されたのか、記録することができない何らかの事情があったのか? ④伊勢の御息所(みやすどころ)伊勢は「伊勢の御息所」とも呼ばれていたが、この御息所には2つの意味がある。 1 天皇の寝所に侍する宮女。女御(にょうご)・更衣(こうい)、その他、広く天皇に寵せられた官女の称。また一説に、皇子・皇女の母となった女御・更衣の称という。みやすんどころ。「六条の 御息所」 「上は、―の見ましかば、とおぼし出づるに」〈源 ・桐壺〉 2 皇太子妃または親王妃の称。 「二条の后、春宮(とうぐう)の―と申しける時に」〈古今・物名・詞書〉 https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E6%81%AF%E6%89%80-139576#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 より引用 伊勢が「伊勢の御息所」と呼ばれていたのは、1で、宇多天皇に寵愛されていたためか、または宇多天皇の皇子を産んだためではないかと思う。 天皇の皇子を産むというのはすごいことである。 自分が生んだ皇子が皇位を継承したら、自分は国母となる。 まあ、宇多天皇には多くの皇子があったので、身分の低い伊勢が生んだ皇子が皇位継承する可能性は低かったと思われるが。 しかし、伊勢が生んだ宇多天皇の皇子は夭逝してしまった。 ⑤低い身分で国母となった藤原胤子②でお話ししたように、宇多天皇が出家したあと、伊勢は宇多天皇の第四皇子の敦慶親王との間に中務という娘をもうけている。 醍醐天皇は敦慶親王の同母兄にあたる。 醍醐天皇と敦慶親王の母親は藤原高藤の娘の藤原胤子である。 勧修寺を創建したとも伝わる女性である。 勧修寺 睡蓮・花菖蒲・額紫陽花・沙羅双樹 『外祖父になっても昇格できなかった藤原高藤』 藤原高藤は醍醐天皇の外祖父であるにもかかわらず、大納言どまりで出世できなかった。 また胤子の母親は宮道弥益(山城国宇治郡大領)の娘・列子で、身分としては低い方だった。 そのような低い身分の人でも国母(醍醐天皇の母親なので)になった例があったのである。 ちなみに伊勢の父親は藤原北家真夏流の伊勢守藤原継蔭、母親は不明である。 しかし伊勢は宇多天皇の皇子を産んだにもかかわらず、国母になることができなかった。 ⑥恋の歌ではなく、我が子を詠んだ歌?難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや (難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。) この歌は、恋の歌のように見えて、伊勢が夭逝した我が子(宇多天皇の皇子)と娘・中務を詠んだ歌のように思える。 「芦」は足にかかり、足が悪かった蛭子を思い出させる。 蛭子はイザナギ・イザナミの長子だったが、3歳になっても歩けなかったので芦舟に乗せられて流された神である。 また「逢はで」は「淡で」にかかり「淡島」を思い出させる。 淡島はイザナギ・イザナギの2番目の子だったが、やはり不具の子であったとして、芦の舟に乗せられて流されている。 いつも応援ありがとうございます♪ 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 にほんブログ村
| HOME |
次ページ≫
|