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陰陽 黒と白⑳最終回 『まとめ と 神の性別を変える呪術』  

陰陽 黒と白 ⑲白髪が黒髪になった娘と白山信仰  よりつづきます~


私の陰陽についての考察は、前回まででひととおり説明を終えた。
今回は今までの話を簡潔にまとめておきたいと思う。

①獏のモデルはマレーバク?

莫(「悪い夢を食べてくれる」と信仰される伝説の動物)について、中国の文献には次のようにある。

貘屏賛・・・鼻はゾウ、目はサイ、尾は牛、脚は虎に似ている。
爾雅 釈獣・・・白豹
説文解字・・・熊に似て黄黒色、蜀中(四川省)に住む。(パンダ?)
爾雅 郭璞注・・・熊に似て頭が小さく脚が短く、黒白のまだらで、銅鉄や竹骨を食べる。
説文解字注・・・・今も四川省にいる。(パンダ?)


古代中国にはマレーバクが生息していたが、絶滅したとされる。
マレーバクの子供は黒白まだらである。



マレーバクは大人になると黒白モノトーンになり、太極図を思わせる。




Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


太極図は白と黒の図で構成され、白は陽、黒は陰をあらわす。

古事記に次のように記されている。

昔、天地がまだ別れず、陰陽も分かれておらず、混沌として卵の中身のように固まっていなかったが、薄暗い中にきざしがあった。
やがて清らかな陽気がたなびいて天となり、重く濁った陰の気が滞って地となった。(天地開闢)


マレーバクは子供のころは黒白がまだらになっているのだが、成長すると白黒にくっきりわかれた柄になる。
この様子はまるで古事記に記された天地開闢のようである。

夢を食べる獏とはマレーバク、もしくはマレーバクをモデルとして想像されたものであり
マレーバクの白黒モノトーンの柄が太極図を思わせるため、「悪い夢(陰)を食べて、よいこと(陽)に転じさせる」と信仰されたのではないか。

貴船川 黒馬 白馬

貴船神社 白馬・黒馬の像

②陰陽の神々

白い神(陽)黒い神(陰)白黒混ざりあう神
莫(マレーバクがモデル?)
白馬(晴祈願に奉納)
陰陽では晴は陽
黒馬(雨祈願に奉納)
陰陽では雨は陰
白鳥(ヤマトタケル)
=復活した神の霊
ヤマトタケルの墓は複数ある。
=ヤマトタケルは復活した
=生霊
八咫烏
=復活しない神の霊
=死霊
八咫烏は三本足
足と書いて「たらし」と読み、三人の「たらし」を意味しているのではないか?
12代景行天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
13代成務天皇(わかたらしひこのみこと)
14代仲哀天皇・たらしなかつひこのすめらみこと)
住吉明神長足姫命
(おきながたらしひめのみこと)
=生霊
底筒男命
中筒男命
表筒男命
=死霊
底筒男命・中筒男命・表筒男命は三人の「たらし」で八咫烏ではないか?

息長足姫命の「息」は「生命」に通じる=生霊
生國魂神社生島大神(白杖代?)
=生霊
足島大神
=死霊
足島大神は三人の「たらし」で、八咫烏=景行・成務・仲哀?
(足は「たらし」と読むが、三天皇の和風諡号に「たらし」とある。)
生島大神は神功皇后(和風諡号は生長帯比売命とも書くが「息」の音は「生」に通じる。)
六歌仙小野小町 喜撰法師
(二歌仙は惟喬親王と同一人物?)
=生霊
大友黒主
(大伴家持と同一人物?)
=死霊
小野小町は九十九髪(百引く一は白→白髪→白い神)
喜撰法師は入定して腐らない(永遠の命を持つ神=生霊)
大伴家持は藤原種次暗殺事件にかかわったとして死後墓から掘り出されて流罪となった。
→腐っていた→死霊
翁・翁舞白式尉(志貴皇子)
山人/いきぼとけと読む
黒式尉(志貴皇子)
田人/種まきの所作をする
地元の伝承に翁は志貴皇子と伝えられている。
勝尾寺白髪の娘黒髪の娘
白山冠雪の白山雪が溶けた白山白山(季節によって白→黒
黒→白と変化する)

上賀茂神社 八咫烏

上賀茂神社 八咫烏を描いた提灯


③白い神は生霊(腐らない神)、黒い神は死霊(腐った神)?

小野小町と大友黒主の例をあげる。
人物腐ったか(死)、腐らなかったか(生)。陰陽白黒
小野小町(小野宮と呼ばれた惟喬親王と同一人物?)腐らなかった。(生)

惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授けられたという伝説がある。
惟喬親王は漆を飲んで即身仏となったため、このような伝説ができたのではないか。
また古の人は腐らない体を生きていると考えたのではないか。
生は陰陽道では陽陽は陰陽道では白
大友黒主(大伴家持と同一人物?)腐った。(死)

藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死んでいたのだが死体が掘り出されて流罪となった。
その体は腐っていたことだろう。
古の人は腐った死体を生きていない(死)と考えたのではないか
死は陰陽道では陰陰は陰陽道では黒

加茂船屋の雛祭 六歌仙屏風 
加茂船屋 六歌仙を描いた屏風
 
向かって右上から、大友黒主・小野小町・喜撰法師、向かって左上から在原業平・遍照・文屋康秀か?


④3対1

白い神と黒い神は、3対1または1対3になっているケースがある。

白い神(陽)黒い神(陰)
白鳥(ヤマトタケル)
八咫烏
八咫烏は三本足
足と書いて「たらし」と読み、三人の「たらし」を意味しているのではないか?
12代景行天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
13代成務天皇(わかたらしひこのみこと)
14代仲哀天皇・たらしなかつひこのすめらみこと)
住吉明神息長足姫命
(おきながたらしひめのみこと)
底筒男命
中筒男命
表筒男命
底筒男命・中筒男命・表筒男命は三人の「たらし」で八咫烏ではないか?

生國魂神社生島大神(白杖代?)
足島大神
足島大神は三人の「たらし」で、八咫烏=景行・成務・仲哀?
(足は「たらし」と読むが、三天皇の和風諡号に「たらし」とある。)
六歌仙小野小町=喜撰法師=惟喬親王
大友黒主=大伴家持
翁舞白式尉(三人)黒式尉(一人)

※六歌仙のみ、3対2になっている。

神はその表れ方で、御霊・荒魂・和魂の三つに分けられるという。
三柱の神々はこれを表すものではないか。
御霊神の本質
荒魂神の荒々しい側面
和魂神の和やかな側面


小野小町像 
髄心院 小野小町像

祇園祭 黒主山 御神体

祇園祭 黒主山ご神体 大伴黒主像




⑤神の性別を変える呪術
白い神(陽)黒い神(陰)
白馬(晴祈願に奉納)
黒馬(雨祈願に奉納)
白鳥(ヤマトタケル)
ヤマトタケルが女装するシーンあり
八咫烏
八咫烏は三本足
足と書いて「たらし」と読み、三人の「たらし」を意味しているのではないか?
12代景行天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
13代成務天皇(わかたらしひこのみこと)
14代仲哀天皇・たらしなかつひこのすめらみこと)
住吉明神息長足姫命
底筒男命
中筒男命
表筒男命

底筒男命・中筒男命・表筒男命は三人の「たらし」で八咫烏ではないか?

生國魂神社生島大神=息長足姫命足島大神
底筒男命・中筒男命・表筒男命
足島大神は三人の「たらし」で、八咫烏=景行・成務・仲哀?
(足は「たらし」と読むが、三天皇の和風諡号に「たらし」とある。)
生島大神は神功皇后(和風諡号は生長帯比売命とも書くが「息」の音は「生」に通じる。)
六歌仙小野小町 喜撰法師
(二歌仙は惟喬親王と同一人物?)
大友黒主大伴家持小野小町は九十九髪(百引く一は白→白髪→白い神)
喜撰法師は入定して腐らない(永遠の命を持つ神=生霊)
翁・翁舞白式尉志貴皇子
黒式尉志貴皇子
地元の伝承に翁は志貴皇子と伝えられている。
勝尾寺白髪の娘黒髪の娘
白山冠雪の白山雪が溶けた白山

女神は赤字男神は青字性別不明の神は緑字で表した。
陰陽道で性別をいうと男が陽で女が陰だが、逆になっているケースが多い。

女神は和魂、男神は荒魂をあらわすとする説があるが、それにあわせた結果、女神が陽の神=白い神=生の神となっているのかもしれない。
また、陰陽どちらの神も男神であったり、女神であったりするケースもある。

これについては宿題としてもう少し考えてみたいが、神の性別を変える呪術の存在があったということは考えられる。

俗謡に「おまえ百までわしゃ九 十九まで、共に白髪の生えるまで」というのがある。

これは謡曲「高砂」の尉・姥からくるもので
尉が熊手をもち、姥が箒をもって掃いているのは、熊手=九十九まで、掃く(まで)=百(まで)という語呂合わせであるという。

尉・・・熊手をもつ→九十九まで→くじゅうくまで
姥・・・箒をもつ→掃く→はく→・ひゃく→百


それで「おまえ百まで、わしゃ九十九まで」と謡うのだろう。

亀岡祭 高砂山 御神体 
亀岡祭 高砂山 御神体

しかし語呂合わせはこれで終わりではなかった。
肝心なのは「共に白髪の生えるまで」のほうだと私は考える。
なぜ、「共に白髪の生えるまで」と謡うのか。

九十九髪とは白髪のことであるという。
そのココロは

百-一=九十九
百-一=白
∴九十九=白


というわけだ。うまい。座布団2枚!

また百は掃く=はくなので、はく=白に転じる。

尉・・・熊手をもつ→九十九まで→くじゅうくまで)→百-一=白
姥・・・箒をもつ→掃く→はく→・ひゃく→百→はく→白

このように、尉も姥もどちらも白になる。
それで「共に白髪の生えるまで」と謡うのではないだろうか。

さらに、尉も姥もどちらも最終的に白になるので、

尉=白
姥=白
∴尉=姥=白


こうして男神である尉は女神である姥に転じるというわけだ。

end.

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2

奈良豆比古神社 翁舞 ↑ ↓

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2




トップページはこちらです→
陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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[2019/02/05 11:49] 陰陽 黒と白 | TB(0) | CM(0)

陰陽 黒と白 ⑲白髪が黒髪になった娘と白山信仰 

陰陽 黒と白⑱ 勝尾寺には白山信仰があった?  よりつづきます~

勝尾寺 新緑

勝尾寺

①白い神が黒い神に転じる。

大阪府箕面市の勝尾寺には次のような伝説があった。
1677年、旗本菅沼隠越中守の娘が勝尾寺の三宝荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になった。

この伝説は、白い神が黒い神に転じたということを比喩的に語ったものではないかと私は考えた。

勝尾寺 紫陽花 三宝荒神社

勝尾寺 三宝荒神

②菅沼隠と菅沼集落

そして、旗本菅沼隠越中守とは
旗本・・・江戸時代の武士の身分のひとつ
越中・・・現在の富山県
守・・・・国司

である。

菅沼隠が何をあらわしているのか、わからない。
この人は越中(富山県)の国司をつとめていた人だが、富山県五箇村に世界遺産に登録されている菅沼集落がある。
合掌造りの家が数多く残っていることで有名な集落である。

菅沼とはこの菅沼集落をさしているのかもしれない。

五箇山 菅沼集落

五箇山 菅沼集落


勝尾寺には白山信仰があった?

そして勝尾寺には白山信仰があったと考えられる。
というのは、次のような創建説話が伝えられているからだ。

727年、双子の兄弟、善仲と善算(年藤原致房の子)がここに草庵を築き、765年開成(かいじょう/光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りした。 
777年、開成は大般若経600巻の書写をやり遂げ、この場所に弥勒寺を創建した。
780年、妙観が十一面千手観世音菩薩立像を刻み、本尊として安置した。
880年、行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を帝より賜った。
しかし、「王に勝った寺」とはあまりに畏れ多いとして、「王」を「尾」として勝尾寺と号した。 


ここに開成皇子なる人物が登場するが、静岡県磐田市の白山神社の創建説話に登場する海上皇子(戒成皇子/桓武天皇の第四皇子)愛知県新城市の白山神社の創建説話に登場する後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子と関係があるのではないかと前田速男さんが指摘されている。
勝尾寺大阪府箕面市開成光仁天皇の皇子
桓武天皇の異母兄
旗本菅沼隠越中守の娘が勝尾寺の三宝荒神さまに祈願したところ、
白髪が黒髪になった
白山神社静岡県磐田市海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、
病になった
白山神社愛知県新城市開成皇子後醍醐天皇の第3皇子裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、
病になった


静岡県磐田市・白山神社の海人皇子と、愛知県新城市・白山神社の開成皇子はどちらも「裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、病になった」と伝えられている。
愛知県新城市・白山神社の開成皇子は何の病になったのかわからないが、静岡県磐田市・白山神社の海人皇子についてはハンセン病になったとされる。


そして②で述べた五箇山は白山信仰の強い地域で、菅沼集落からほど近い上梨には白山宮がある。

白山宮 五箇山 
五箇山 上梨 白山宮

③ハンセン病にかかった伝説のある皇子のことを、開成・海上・戒成と呼んでいる?

3人の父親は異なるが、ハンセン病にかかった伝説のある皇子のことを、開成・海上・戒成と呼んでいるように思われる。

また、奈良豆比古神社地元の語り部さんによれば、・良豆比古神社・翁舞の翁は志貴皇子だというが
志貴皇子の子にも海上王または海上女王がいる。

静岡県磐田市白山神社海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子裸足で大地を踏んだので病になった。
愛知県新城市白山神社開成皇子後醍醐天皇の第3皇子裸足で大地を踏んだのでハンセン病になった。
北摂神峯山寺
本山寺
安岡寺 
勝尾寺
など
開成皇子光仁天皇の皇子

桓武天皇の異母兄
海上王(本朝皇胤紹運録)
または海上女王(続日本紀)
志貴皇子の子志貴皇子または志貴皇子の子の春日王がハンセン病になった。
(奈良豆比古神社伝説)

光仁天皇は志貴皇子の子で、桓武天皇は光仁天皇の子である。

従って、志貴皇子~光仁天皇~桓武天皇と三代にわたり、海上または戒成または開成という名の子があったということになる。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉

奈良豆比古神社 翁舞

④実際にハンセン病にかかったわけではない、と思う。

日本書紀にトガノの鹿という話が記されている。

雄鹿が「全身に霜が降る夢を見た」というと、雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩を振られているのです。」と答えた。
翌朝、雌鹿の占いのとおり雄島は漁師に撃たれて死んだ。(トガノの鹿)

鹿の夏毛には白い斑点がある。
その白い斑点が霜や塩に喩えられたのだろう。

謀反の罪で殺された人には塩が振られることがあり、鹿とは謀反人の比喩だとする説がある。

そしてハンセン病患者の症状はさまざまだが、白い斑点ができるものがある。

つまり、次のような発想で謀反人と鹿やハンセン病患者は結び付けられたのではないかと思う。
謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。

開成皇子や海上皇子は謀反人であったため、ハンセン病になったなどという伝説が生じたのではないだろうか。

大仏殿 鹿

東大寺大仏殿 鹿

⑤ジンベエザメと海上皇子

また日本書紀は次のような話もある。


612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。

この話から、海上皇子という名前の由来を推理することができる。

海上皇子はハンセン病を患って白斑を持っていたと考えられ(実際にハンセン病であったのではなく死体に塩が振られていたのをハンセン病に喩えた)海中の島に捨てられたと考えられたため、海上皇子と命名されたのではないだろうか。

海遊館 ジンベエザメ2

白斑を持つ大きな魚にジンベエザメがおり、別名をエビスザメという。
エビスザメと呼ばれるのは、ジンベエザメが現れるとき、カツオやイワシが大漁になるからだ。
ジンベエザメもイワシ・カツオもプランクトンを主食にしているため、上記のような現象がおきる。

エビスザメのエビスは蛭子神または事代主とされ、海の神・大漁をもたらす神である。

また水死体のこともエビスといい、水死体があがると大漁になるなどといわれる。

蛭子神は3歳になっても歩けない身体障害児だったため、両親のイザナギ・イザナミは彼を葦舟に乗せて流した。
蛭子神は竜宮に流れ着き海神に育てられたと言われるが、竜宮とは死の世界のことだろう。

また事代主は天照大神が派遣したタケミカヅチにか「国を譲れ」と迫られ、海を青柴垣に変え、船を踏み傾けて姿を消したとされる。(入水したのだろう。)

えびす神も事代主も水死しているのである。そのため水死体をえびすというのだろう。
えびすザメとも呼ばれるジンベエザメは、死んだ蛭子神または事代主神の化身であると考えられたのではないだろうか。
また海上皇子
は蛭子神や事代主と同一神であり、ジンベエザメは海上皇子の化身でもあると考えられたのだと思う。

勝尾寺は鰹(カツオ)寺であり、開成皇子=海上皇子=ジンベエザメが大量のカツオをひきつれてやってくるところから命名されたのかもしれない。

⑥白い山から黒い山へ、そして黒い山から白い山へ。

我々は、どうやら勝尾寺には白山信仰があったらしいことを考察した。
それではなぜ白山信仰はハンセン病と結びつけられたのだろうか。

それは白山の冠雪と関係があるのではないかと私は思う。

五箇山の菅沼集落からさらに登っていくと相倉集落にでる。
この相倉集落の高台から白山連峰がみえる。

下の写真は3月ごろに撮影した相倉集落である。

五箇村 相倉

青い山に白い雪をかぶった白山は鹿やジンベエザメの斑点を連想させる姿をしていないだろうか。

④に書いた「トガノの鹿」では、雄鹿は全身に霜が振る夢を見たのだったが、摂津国風土記にも似たような話があり、こちらのほうは雄鹿は全身に雪が降ってススキが生える夢を見たとある。
ススキは矢、雪は塩で、雄鹿は矢で射られて殺され、塩づけにされることを暗示する夢であると、雌鹿に占われている。

雪も霜と同様、謀反人を塩づけにするための塩をあらわしているのだ。

白山は地上に現れた巨大なジンベエザメである、そしてそれは海上皇子の化身である。
そんな風に人々は考えたのではないだろうか。


↓ こちらはやはり相倉集落を5月ごろに撮影したものである。
雪深い土地で5月でも雪が残っているが、遠くに見える白山の雪は、3月の写真に比べるとかなり溶けている。

五箇山 相倉

夏になると白山の雪はほとんどとけて青い山になるのだろう。

青は黒といってもいいと思う。
こうして白い山は黒い山へと変わっていく。そしてまた黒い山から白い山へ。

その様子はまさしく、陰(黒)が極まると陽(白)に転じ、陽(白)が極まると陰(黒)に転じるという陰陽の考え方をあらわしているかのようである。


Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で



勝尾寺に伝わる白髪が黒髪になった旗本菅沼隠越中守の娘とは、白山そのものなのではないだろうか。


 



陰陽 黒と白⑳最終回 『まとめ と 神の性別を変える呪術』  へつづく~

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陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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[2019/02/01 10:01] 陰陽 黒と白 | TB(0) | CM(0)

陰陽 黒と白⑱ 勝尾寺には白山信仰があった? 

陰陽 黒と白 ⑰ 白髪が黒髪になった娘  よりつづきます。

勝尾寺 多宝塔 しだれ桜

①海上皇子と開成皇子

前田速男さんの「白山信仰の謎と被差別部落」という本に興味深いことが書いてあった。

静岡県磐田市の白山神社には次のような伝説が残されているそうである。


①桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)は従者とともにこの地にやってきて、地元の人々の食べ物を乞うようになった。
その原因は、飼っていた雀が戸から飛び出し南殿の白砂にとまったのを追って、裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、ハンセン病になったためである。


勝尾寺の創建説話には光仁天皇の皇子・開成皇子が登場する。

勝尾寺は727年に双子の兄弟、善仲と善算(藤原致房の子)がここに草庵を築いたのを始まりとし
765年に開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りした。


というのである。

前田速男さんはこの開成皇子と海上皇子には関係があるのではないかと指摘されている。

 勝尾寺 多宝塔 石楠花

②春日王と春日宮天皇(志貴皇子)は同一人物?

奈良の奈良豆比古神社には志貴皇子の子の春日王がハンセン病を患ったという伝説があった。
ところが地元ではハンセン病を患ったのは志貴皇子であるという語りが伝承されている。
また、春日王は田原皇子、志貴皇子は春日宮天皇または田原天皇とも呼ばれており、ふたりは同じ名前で呼ばれていたということになる。
皇室において父子が同じ名前で呼ばれていたというケースはないと思う。
このことから、私は春日王と志貴皇子は同一人物ではないかと考えた。

参照/陰陽 黒と白⑮ 奈良豆比古神社 翁舞 

勝尾寺 多宝塔 桜

③海上皇子と開成皇子は同一人物?


海上皇子は桓武天皇の第四皇子、開成皇子は光仁天皇の皇子、というが
桓武天皇は光仁天皇の皇子なので、開成皇子と桓武天皇は兄弟、開成皇子と海上皇子は伯父・甥の関係ということになる。
志貴皇子と春日王の例もあるように、開成皇子と海上皇子は同一人物ではないだろうか?

志貴皇子は施基皇子、志紀皇子とも書く。
古には音が同じであれば、さまざまな字をあてて名前を表記していたのかもしれない。

勝尾寺-二階堂 しだれ桜 

④志貴皇子の子に海上女王または海上王の名前が!

光仁天皇は志貴皇子の皇子である。
志貴皇子ー光仁天皇ー桓武天皇と血筋がつながっている。
そして志貴皇子の子には光仁天皇・春日王のほか、海上女王または海上王の名前がある。
つまり、志貴皇子・光仁天皇・桓武天皇の3代にわたり、それぞれ海上または開成という名の子があったということになる。
しかも血のつながりのある志貴皇子・海上(開成)皇子がいずれもハンセン病をっ患ったという伝説が残されているのだ。

勝尾寺 山門 

後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子

また前田速男さんの「白山信仰の謎と被差別部落」によると、愛知県新城市の白山神社には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子についての、次のような文書が残されているそうである。

②御殿において白雀を飼はせらる
まさに餌をやらんとすれば飛び放る
再び捕へんとして穢れし大地を踏まる
悪病にかかりて殿を出で
漂泊 旅して東原に至る

これは内容が①の伝説とまったく同じである。
名前は開成皇子となっていて、勝尾寺の創建にかかわった開成皇子と同名だ。

②の文書は①の伝説をもとにしてつくられたもので、開成皇子を後醍醐天皇の子と変えたのかもしれない。
それとも「ポーの一族」のエドガーやメリーベル(彼らは吸血鬼で年をとらず何百年もの時を生きている。)のように、開成皇子は時を超えて存在しているとか?

勝尾寺 鐘楼 桜

⑥勝尾寺には白山信仰があった?

①の海上皇子、②の開成皇子はどちらも白山神社に伝わるもので、勝尾寺の創建は開成皇子とされている。
同様に開成皇子の伝説が残る勝尾寺には白山信仰があったのではないだろうか。

勝尾寺の三宝荒神社には、1677年、旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になったという伝説がある。

参照/陰陽 黒と白 ⑰ 白髪が黒髪になった娘 


私は、白髪の娘は白山の神をイメージしたものではないかと思う。

また、白髪だったのは菅沼隠越中守の娘というが、越中とは富山県のことである。
富山県五箇村には菅沼集落があり、菅沼隠越中守はこの菅沼集落と関係の深い人物ではないかと思ったりするのだが
五箇村は古より白山信仰が根付いていた地域だった。

 五箇山 菅沼集落 
五箇村菅沼集落


陰陽 黒と白 ⑲白髪が黒髪になった娘と白山信仰 へつづく~

トップページはこちらです→陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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[2019/01/21 08:34] 陰陽 黒と白 | TB(0) | CM(0)

陰陽 黒と白 ⑰ 白髪が黒髪になった娘 


 陰陽 黒と白 ⑯ 古今集真名書の田人は黒、仮名序の山人は白という謎々だった? よりつづきます~

勝尾寺 紫陽花 本堂

勝尾寺 本堂

①白髪を黒髪に変えた三宝荒神

雨の勝尾寺を参拝する。
長い階段を上ると、右手には紫陽花の垣根ごしに本堂が見えてくる。
そして左手には三宝荒神社が、雨に曇って見える。

この三宝荒神社にはこんな伝説がある。

1677年、旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になった。

勝尾寺 紫陽花 三宝荒神社

勝尾寺 三宝荒神

②旗本菅沼隠越中守と五箇村菅沼集落

旗本とは江戸時代の武士の身分のひとつ、越中とは現在の富山県、守とは国司である。
つまりこの人は旗本という身分で、越中(富山県)の国司をつとめていた人なのである。

菅沼隠が何をあらわしているのか、わからない。
人名なのか?

この人は越中(富山県)の国司をつとめていた人だが、富山県五箇村に世界遺産に登録されている菅沼集落がある。
菅沼とはこの菅沼集落をさしているのかもしれない。

五箇山 菅沼集落3

五箇山 菅沼


③比喩化して作った物語


勝尾寺の荒神さまが娘の白髪を黒髪にしたという伝説は、言葉どおり白髪が黒髪になったというだけの物語ではなく、何かを比喩したものだと思う。
なぜそう思うかというと、昔の人は様々なものを比喩化して物語を作っていたようだからだ。

たとえば飛鳥時代に迹見 赤檮(とみ の いちい)という人物がおり、彼は物部守屋を弓で射たとされる。
私はこの人は実在の人物ではなく、弓を擬人化したものだと思う。
というのは、「いちい」という木があり、弾力性があることから、アイヌではこの木を使って弓を作っていたのだ。
また学名をTaxusというが、これはギリシャ語で弓を意味する taxosからくるとされる。

三十三間堂 通し矢

三十三間堂 通し矢


④白は煙硝、黒は黒色火薬?

旗本菅沼隠越中守という名前から五箇山菅沼集落を思い出すが、五箇山では煙硝を生産していた。
煙硝は白い色をしている。
煙硝は黒色火薬の原料となるが、黒色火薬はその名のとおり黒い色をしている。

白髪の旗本菅沼隠越中守の娘とは煙硝のことで、その娘が黒髪になったというのは、煙硝が黒色火薬になったということの比喩なのではないだろうか。

五箇山 上梨 村上家 煙硝厩

五箇山上梨 村上家住宅 煙硝厩(えんしょうまや)

⑤白髪は白い神、黒髪は黒い神?

またそれだけでなく、この物語は陰陽思想によるもので
白髪は白い神で陽、黒髪は黒い神で陰を表すものではないかと私は考えた。

私たちはすでに下記のような「白い神(陽)と黒い神(陰)の対比」と「太極図のように白黒混ざりあう神」について見てきた。


Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


太極図は白と黒の図で構成され、白は陽、黒は陰をあらわす。


白い神(陽)黒い神(陰)白黒混ざりあう神
莫(マレーバクがモデル?)
白馬(晴祈願に奉納)
陰陽では晴は陽
黒馬(雨祈願に奉納)
陰陽では雨は陰
白鳥(ヤマトタケル)
=復活した神の霊
ヤマトタケルの墓は複数あり
=ヤマトタケルは復活した
=生霊
八咫烏
=復活しない神の霊
=死霊
八咫烏は三本足
足と書いて「たらし」と読み、三人の「たらし」を意味しているのではないか?
12代景行天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
13代成務天皇(わかたらしひこのみこと)
14代仲哀天皇・たらしなかつひこのすめらみこと)
住吉明神息長足姫命
(おきながたらしひめのみこと)
=生霊
底筒男命
中筒男命
表筒男命
=死霊
底筒男命・中筒男命・表筒男命は三人の「たらし」で八咫烏ではないか?

生國魂神社生島大神(白杖代?)
=生霊
足島大神
=死霊
足島大神は三人の「たらし」で、八咫烏=景行・成務・仲哀?
(足は「たらし」と読むが、三天皇の和風諡号に「たらし」とある。)
生島大神は神功皇后(和風諡号は生長帯比売命とも書くが「息」の音は「生」に通じる。)
六歌仙小野小町 喜撰法師
(二歌仙は惟喬親王と同一人物?)
=生霊
大友黒主
(大伴家持と同一人物?)
=死霊
小野小町は九十九髪(百引く一は白→白髪→白い神)
喜撰法師は入定して腐らない(永遠の命を持つ神=生霊)
翁・翁舞白式尉(志貴皇子)
山人/いきぼとけと読む
黒式尉(志貴皇子)
田人/種まきの所作をする
地元の伝承に翁は志貴皇子と伝えられている。
勝尾寺白髪の娘黒髪の娘




動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

陰陽 黒と白⑱ 勝尾寺には白山信仰があった? へつづく~

トップページはこちらです→陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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[2019/01/07 13:56] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白 ⑯ 古今集真名書の田人は黒、仮名序の山人は白という謎々だった? 

陰陽 黒と白⑮ 奈良豆比古神社 翁舞 よりつづく~

.
①小野小町は白い神、大友黒主は黒い神

六歌仙(遍照・在原業平・小野小町・文屋康秀・大友黒主・喜撰法師)の小野小町は白い神(陽)、大伴黒主は黒い神(陰)である。

小野小町像 
髄心院 小野小町像

a..小野小町が白い神である理由。
小野小町は在原業平に「九十九髪」と歌を詠まれている。→百引く一は白 ∴九十九髪=白髪
小野小町=小野宮=惟喬親王ではないかと思う。

小野小町は「花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」と歌を詠んでいるが、
この歌は「花のいろは うつりにけりな いたづらに わが御代に下る ながめ(長雨→長天)せしまに」とよめる。
意味は次のような意味ではないか。

はねずの梅は長雨で色が褪せて栄華の象徴である桜となった。
私が天皇となって長い天下をおさめるときがきた。(「下る長天」で長い天下となる)
昔と今はすっかり変わる。(死んだ私が生き返る?)
そんな眺めを私は見るのである。

参照/小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授けられたという伝説があるが、即身仏になるべく入定する際に漆を飲んだ。
惟喬親王は漆を飲んで即身仏となったため、このような伝説ができたのではないか。
また古の人は腐らない体を生きていると考えたのではないか。生は陰陽道では陽(白)である。

祇園祭 黒主山 御神体

祇園祭 黒主山ご神体 大伴黒主像


b...大友黒主が黒い神である理由。名前に黒の文字がある。
大友黒主=大伴家持ではないかと思う。
なぜかというとほとんど同じといってよい歌を詠んでいるからだ。

大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死んでいたのだが死体が掘り出されて流罪となった。
その体は腐っていたことだろう。
古の人は腐った死体を生きていない(死)と考えたのではないか。
死は陰陽道では陰(黒)である。

参照/陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 
人物腐ったか(死)、腐らなかったか(生)。陰陽白黒
小野小町(小野宮と呼ばれた惟喬親王と同一人物?)腐らなかった。(生)

惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授けられたという伝説がある。
惟喬親王は漆を飲んで即身仏となったため、このような伝説ができたのではないか。
また古の人は腐らない体を生きている(と考えたのではないか。
生は陰陽道では陽陽は陰陽道では白
大友黒主(大伴家持と同一人物?)腐った。(死)

藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死んでいたのだが死体が掘り出されて流罪となった。
その体は腐っていたことだろう。
古の人は腐った死体を生きていない(死)と考えたのではないか
死は陰陽道では陰陰は陰陽道では黒

陰陽の神々の比率は3対1

住吉大社の女神は、神功皇后一柱であり、生霊であると考えられる。
住吉大社の男神は底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱であり、死霊だと考えられる。

一方、奈良豆比古神社の翁舞の白式尉は生霊、黒式尉は死霊と考えられる。

奈良豆比古神社 翁舞 

奈良豆比古神社 翁舞

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

翁舞のケースでは生霊が三柱、死霊が一柱で、住吉大社とは神の数が逆になっているが、
どうやら陰陽の神々の比率は3対1になっているようである。
すなわち、陰の神が三柱のときは陽の神は一柱、陰の神が一柱のときは陽の神が三柱になっているということである。
生国魂神社住吉大社奈良豆比古神社陰陽

島大神
 第四本宮/神功皇后白式尉(三人翁)
生霊白鳥
島大神 第一本宮/底筒男命
 第二本宮/中筒男命
 第三本宮/表筒男命
黒式尉死霊黒鳥
(八咫烏)

すると、小野小町と大友黒主も、次の表のように整理できるかもしれない。

生国魂神社住吉大社奈良豆比古神社六歌仙陰陽

島大神
 第四本宮/神功皇后白式尉(三人翁)
惟喬親王(小野宮)
小野小町
喜撰法師(紀仙法師)

生霊白鳥
島大神 第一本宮/底筒男命
 第二本宮/中筒男命
 第三本宮/表筒男命
黒式尉大伴家持(大伴黒主)死霊黒鳥
(八咫烏)

③喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王だった?

加茂船屋の雛祭 六歌仙屏風 
加茂船屋 六歌仙を描いた屏風
 
向かって右上から、大友黒主・小野小町・喜撰法師、向かって左上から在原業平・遍照・文屋康秀か?

小野小町・大友黒主は在原業平・遍照・文屋康秀・喜撰法師らとともに、六歌仙と呼ばれている。
六歌仙とは歌のうまい6人の歌人と誤解されがちだが、正しくは古今和歌集仮名序の中で名前をあげられた6人の歌人のことである。

その六歌仙の一人である喜撰法師は次のような歌を詠んでいる。

わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世を宇治山と 人はいふなり
(私の庵は都の辰巳にあってこうやって住んでいる。世を憂しとして山に入った。宇治山であると人は言っているそうだ。)

宇治の喜撰山に喜撰洞があり、喜撰法師像が祀られている。
この喜撰洞は喜撰法師が入定し、即身仏となった場所ではないかと考えた。

そして喜撰法師は紀仙法師で、紀名虎または紀有常だとする説がある。
紀名虎は惟喬親王の母・紀静子の父親(惟喬親王の外祖父)、紀有常は紀静子の兄(惟喬親王の叔父)である。

即身仏となるべく入定する際には漆を飲んだという。
漆を飲むことで、胃の中に残った食物を吐き出し、また漆の防腐効果が死後の肉体を腐りにくくした。
惟喬親王は虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説がある。
惟喬親王は即身仏になったのではないか。それでこのような伝説が生じたのではないか。

すると喜撰法師とは紀名虎または紀有常と考えるよりも、紀氏の血の濃い惟喬親王のことだと考えたほうがしっくりくるのではないかと思う。
参照/陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 

すなわち、惟喬親王と小野小町と喜撰法師は同一人物ではないかという推理である。

惟喬親王像 

惟喬親王像 木地師の里


④喜撰法師=御霊、小野小町=和魂、惟喬親王=荒魂

大友黒主は大伴家持はどちらも男(神)であり、大友黒主というのは大友家持(という神)の別名だと考えられる。
しかし、小野小町、喜撰法師(紀仙法師)は単なる惟喬親王(小野宮)の別名ではない。

小野小町は女(神)、惟喬親王は男(神)、そして喜撰法師は即身仏である。

神は御霊(神のもともとの正体)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)の3つにわけられると言われる。
そして、女神は和魂、男神は荒魂とする説がある。
すると神のもともとの正体である御霊とは歓喜天のような男女双体だと考えられる。

和魂は小野小町(女神)、荒魂は惟喬親王(男神)、御霊(男女双体)は喜撰法師だろう。

喜撰法師が荒魂で、惟喬親王が御霊ではないかという質問があるかもしれない。

日本では本地垂迹説といって、「日本古来の神々は、仏教の神々が衆上を救うため、仮に姿を現したものである」とする考え方があった。
そして日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏、
仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を表した日本の神々のことを権現といった。

神のもともとの正体は、仏教の神なのだ。
喜撰法師は即身仏なので、仏教の神だといえる。神のもともとの正体である御霊とは本地仏と同等のものだと考えられる。
従って、喜撰法師が御霊だと思う。

⑤田夫=黒の謎々

黒という字を分解すると、田+土+、、、、である。
、、、、は種まきのように見えなくもない。
それで能の翁や、奈良豆比古神社の黒式尉は種まきの所作をするのではないだろうか。

そして祇園祭黒主山の黒は下の写真のような字が用いられている。

黒主山 宵山

これを分解すると田+夫「」となるが、古今和歌集真名書(古今和歌集の漢文で書かれた序文)は大友黒主(=大伴家持)にたいして、「田夫の 花の前に息めるがごとし」といっている。

古今和歌集真名書の「田夫」とは謎々で「大伴黒主が黒い神(陰の神)」であると言っているのではないだろうか。

⑥山人と書いて「いきぼとけ」と読む。

古今集にはふたつの序文があり、真名書のほか、仮名で記された仮名序もある。

真名書では「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。」となっているが、

仮名序では「大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。」となっている。

私は数回この仮名序の言葉を読み返しているうちに、万葉集にある数首の歌を思い出した。

まず、元正上皇と舎人親王が贈答しあった歌。

あしひきの 山行きしかば 山人の 我に得しめし 山つとぞこれ/元正上皇
(山道を歩いていたところ、たまたま逢った山人が、私にくれた山の土産であるぞ、これは。)

あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰/舎人親王
(陛下は山へ行かれて山人に土産をもらったとおっしゃるのですか。「山人」とは誰のことなのでしょうか。山人とは陛下のことではありませんか。)


この歌は志貴皇子の次の歌に対応しているのではないだろうか。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)


大伴坂上郎女という人が次のような歌を詠んでいる。

大夫(ますらを)の 高円山に 迫めたれば 里に下り来る 鼯鼠(むささび)ぞこれ/大伴坂上郎女
(勇士たちが高円山で狩りをして、里に下りてきたむささびがこれです。)


大伴坂上郎の歌の中に『 高円山』とでてくるが、高円山には志貴皇子の墓がある。
高円山に住むむささびとは志貴皇子を比喩したものではないだろうか。 

奈良大文字送り火 

高円山


のちに志貴皇子の子の光仁天皇が即位していることからみて、志貴皇子には正当な皇位継承権があったのではないかとする説がある。
奈良豆比古神社の語り部・松岡嘉平さんも次のような語りを伝承しているそうである。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。

志貴皇子の死亡年は万葉集言葉書では715年になっているが(日本続紀では716年)この年、元正天皇は即位している。
志貴皇子に皇位継承権があったとすれば、志貴皇子の死は元正天皇にとってあまりにタイミングが良すぎる。

元正上皇がいう『山人』とは『むささび」と同様、志貴皇子を比喩していったもので、『山人がくれたみやげ』とは『志貴皇子の死=元正天皇(女帝)の即位』を意味しているのではないだろうか。

山人とは『山に住む人』『仙人』という意味だが、『いきぼとけ』とよんで『心や容姿の美しい女性』のことをさす言葉でもあった。

それで舎人親王は、山人=仙人=志貴皇子のことなどしりません。山人とは美しい女性という意味で、元正上皇のことではありませんか、ととぼけてみせたのだろう。

次の部分に注意してほしい。
山人とは『山に住む人』『仙人』という意味だが、『いきぼとけ』とよんで・・・・

さきほども述べたように志貴皇子の死亡年は万葉集言葉書では715年になっているが、日本続紀では716年となっている。
なぜ志貴皇子の死亡年が1年ちがっているのだろうか?

笠金村が志貴皇子の挽歌を詠んでいる。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

志貴皇子の邸宅跡と伝わる白毫寺に萩が植えられているのは、この挽歌にちなむものだと考えられる。

百毫寺 萩2

白毫寺

萩は別名を鹿鳴草というが、日本書紀にトガノの鹿という物語がある。
雄鹿が雌鹿に「全身に霜が振る夢を見た」というと、雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて塩が振られているのです」と答えた。
そして雌鹿の夢占いのとおり、雄鹿は漁師に射られて死んでしまった。

かつて謀反の罪で殺された人には塩を振ることがあったという。
志貴皇子は暗殺され、その死体にはたっぷり塩が振られたため1年近く腐らなかったのではないだろうか?

ここで古今和歌集仮名序の文言を思い出してほしい。
それは「大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。」だった。
「山びと」とは「山人」であり、「仙人」「いきぼとけ」という意味ではないだろうか。
「いきぼとけ」とは「生きている仏」である。

陰陽道で生死をいうと、生が陽で、死が陰である。
そして陰陽をあらわす太極図では、陽は白、陰は黒であらわされる。


Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


古今集真名書は田夫で黒、古今集仮名序は山人(いきぼとけ)で白と対比させてあったのである。

真名書田夫の花の前に息めるがごとし田夫田+夫=黒
仮名書いはば薪負へる山びとの花のかげに休めるがごとし山人いきぼとけ=生仏(生は陰陽では陽、陽は太極図では白)=白

イタリアの聖人の不朽体

http://karapaia.com/archives/52195951.html
上記にはイタリアの聖人の不朽体について述べられている。

防腐処理やミイラ化したものは不朽体とは認められないそうだが、ろうや銀で覆う、あるいは石炭酸に浸すなどは認められているようである。




エジプトでは死体をミイラにした。
日本では即身仏という習慣があった。
腐らない死体は世界中で神聖視されていたようである。

上記サイトには
「フランチェスカ・ロマーナは1440年に没して数ヶ月腐敗しなかったことから、不朽体と見なされた。それから2世紀後に墓を暴くと、骨以外は残されていなかった。研究を行ったピサ大学の病理学者チームによれば、墓を暴いたことにより遺体を保存していた微気候が崩れ、腐敗が進んだ可能性があるという。」
と記されている。

大伴家持も墓を暴かれたことによって、腐敗がすすんだのかもしれない。

「大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。」とは
「大友黒主はその様子が卑しい。薪を負ういきぼとけが、花のかげで休んでいるうちに腐ってしまった」という意味だろうか。

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山 
祇園祭 黒主山


陰陽 黒と白 ⑰ 白髪が黒髪になった娘 へつづく~

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[2018/12/29 11:45] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白⑮ 奈良豆比古神社 翁舞 


陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると?  よりつづきます~

北山十八間戸

※北山十八間戸に霊山寺(奈良市中町3879)境内の文殊菩薩像を合成。


陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると? よりつづきます~


①非人とハンセン病患者

なだらかな登り坂が続く奈良坂。
呼吸の乱れを整えるために立ち止まり、振り返ると坂の下に興福寺の五重塔が見えていた。
大きく深呼吸をしてから再び歩き始める。
しばらくすると柵で囲われた細長い長屋が見えてきた。
長屋の裏に回ってみると18個の裏戸があり、そのひとつひとつに「北山十八間戸」と文字が刻まれていた。
柵の中に入って見学したいと思ったが、出入口には鍵がかけられていた。

見学することはできないのだろうか?

思い切って長屋の隣にあるお好み焼き屋さんに尋ねてみた。
「あのう、北山十八間戸を見学したいんですが、どうしたらいいんでしょうか?」

するとおかみさんが
「はいはい、今鍵をあけますね。ちょっと待っててくださいね」
と言い、ぽんと好み焼きをひっくり返した。
どうやらこのお好み焼き屋さんが北山十八間戸を管理されているようである。

おかみさんはすぐに出てきて柵の鍵をあけてくださった。
そして次のように説明していただいた。

「ここは鎌倉時代、ハンセン病患者を救済するための福祉施設だったところです。
奈良時代に光明皇后が建てたとも、鎌倉時代に僧の忍性さんによって建てられましたともいわれています。
ここからもうちょっと北に行ったところに般若寺さんがあるんですが、もともとはその般若寺さんの北東にあったそうです。
1567年に戦災で焼けまして、1660年から1670年ごろにここに移りました。
2畳くらいの部屋が17つ、4畳くらいの部屋がひとつで、合計18つの部屋があります。
4畳くらいの部屋は仏間です。
1万8千人のハンセン病患者が利用したと言われてるんですよ。」

北山十八間戸がいつ誰によって建てられたものなのかについては、おかみさんが説明してくださったように2つの説があってはっきりしない。
しかし、なぜ奈良坂にハンセン病患者のための療養施設が作られたのかについてははっきりしている。
それは奈良坂が非人が住む町であったためである。

非人というと江戸時代に制定された身分制度を思い出すが、関西では中世より非人と呼ばれる人々がおり、多くは坂の町に住んでいた。
非人たちは寺社に隷属し、寺社の清掃、祭りの警備、死体の処理、神事などに携わっていた。

ここ奈良坂の非人たちは興福寺に隷属する民だった。

非人たちは非人宿(夙)に住み、病人の看護にも携わっていた。
奈良坂に北山十八間戸が作られたのは、ここに非人宿があったからだろう。
または北山十八間戸が先にあって、病人を看護するために非人宿が作られたのかもしれない。
いずれにせよ、北山十八間戸と非人に密接な関係があったことは事実である。

興福寺 夕景

荒池より興福寺を望む


②ハンセン病患者は文殊菩薩の化身

北山十八間戸からさらに奈良坂を上っていくと般若寺がある。
境内にはコスモスが咲き乱れ、その中にうずもれるようにして本堂があった。
本堂の厨子の中には、少年のような表情をした獅子にのる文殊菩薩像が安置されていた。

般若寺は629年高句麗の僧・慧灌(えかん)によって創建された。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したといわれる。文殊菩薩の巨像を御本尊としていたが1490年に焼失した。
現在の文殊菩薩像は1324年に慶派仏師・康俊が刻んだもので、もともとは経像の本尊で秘仏だった。
本堂の御本尊が焼けてしまったのでかわりに本尊にしたという。

文殊菩薩は『智慧の菩薩』と言われている。
仏教の修行の結果として得られたさとりの智慧のことを般若という。
般若寺という寺名は文殊菩薩を祀っているところからくるのだろう。

能に用いる般若の面は『嫉妬や恨みの篭る女の顔』を表したもので、角が生えた恐ろしい形相をしている。
なので、鬼のことを般若というのだとずっと思っていたが、それは間違いだったのである。

般若坊という僧侶が面を作ったので般若面と呼ばれるのだとか、
『源氏物語』の葵の上が六条御息所の生霊にとりつかれた時、般若経を読んで怨霊を退治したところからそう呼ばれるようになったなどと言われている。

さきほど見学してきた北山十八間戸は、ハンセン病患者を救済するための福祉施設であったが、ハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていた。

宿の町・奈良坂にある般若寺の御本尊が文殊菩薩なのはこのためだろう。
般若寺はハンセン病患者の霊を弔うための寺なのだろうか。
いや、無名のハンセン病患者の霊を弔う寺だとは考えられない。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てたということは、それなりの身分で、ハンセン病を患った人がおり、その人物を弔うための寺であったのではないだろうか。

聖武天皇と同時代で、それなりの身分でハンセン病を患った人物がいる。
春日王だ。

般若寺 十三重石塔 コスモス


③能・翁

般若寺前の植村牧場さんでソフトクリームを買う。
植村牧場さんのソフトクリームはミルクの味が濃くてとてもおいしいので、般若寺にくるたび食べるのを楽しみにしている。
私はソフトクリームを食べながらさらに坂を上って奈良豆比古神社へとむかった。
この日は10月8日、奈良豆比古神社で伝統行事の翁舞の奉納がある日だった。

日が暮れると舞殿前の篝火に火が入れられ、翁舞が始まった。

奈良豆比古神社は古来芸能の神として信仰が厚く、歴代の能楽師も数多く参拝したという。
一説によれば、奈良豆比古神社の翁舞は能・翁のルーツでもあるという。

私は舞殿に燃やされた篝火を見つめながら、八坂神社の能・翁を見にいったことを思い出していた。
陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると? 

私は能・翁を見て、次のように考えたのだった。

a.陰陽道の陽は白、陰は黒で表される。白式尉は陽(白)の神・黒式尉は陰(黒)の神である。

b.六歌仙(遍照・在原業平・小野小町・文屋康秀・大友黒主・喜撰法師)の小野小町は白い神(陽)、大伴黒主は黒い神(陰)である。

c.小野小町が白い神である理由。
小野小町は在原業平に「九十九髪」と歌を詠まれている。→百引く一は白 ∴九十九髪=白髪
小野小町=小野宮=惟喬親王ではないかと思う。
惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授けられたという伝説があるが、即身仏になるべく入定する際に漆を飲んだ。
惟喬親王は漆を飲んで即身仏となったため、このような伝説ができたのではないか。
また古の人は腐らない体を生きていると考えたのではないか。生は陰陽道では陽(白)である。

d.大友黒主が黒い神である理由。名前に黒の文字がある。
大友黒主=大伴家持ではないかと思う。なぜかというとほとんど同じといってよい歌を詠んでいるからだ。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死んでいたのだが死体が掘り出されて流罪となった。
その体は腐っていたことだろう。古の人は腐った死体を生きていない(死)と考えたのではないか。死は陰陽道では陰(黒)である。

e.黒という字を分解すると、田+土+、、、、である。、、、、は種まきのように見えなくもない。それで翁の黒式尉は種まきの所作をするのではないか。
また祇園祭黒主山の黒は下の写真のような字が用いられている。

黒主山 宵山

これを分解すると田+夫「」となるが、古今集真名は大友黒主(=大伴家持)にたいして、「田夫の 花の前に息めるがごとし」といっている。

奈良豆比古神社 翁舞 千歳
④奈良豆比古神社 翁舞

篝火がたかれる中、小鼓の音と「いーやー、あいやー、おんはー」という掛け声が続く。
少年が扮する千歳が舞を舞ったのち、三人の大夫が舞台上で翁の面をつけた。
なんと、奈良豆比古神社の翁舞の白式尉は一人ではなく三人なのである。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

三人翁が退出したのち、三番叟が登場した。
三番叟は舞を舞ったのち、舞台上で黒い翁の面をつけ、鈴を持ってさらに舞った。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2

千歳・三人翁の舞はゆったりしたスローテンポの舞だが、三番叟の舞は激しい。
田植えをする所作のようにも見えた。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

⑤二つの伝説

奈良豆比古神社でもらったパンフレットには次のような内容が記されていた。

天智天皇の孫、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王の二人の子・浄人王と安貴王という二人の子供があって、この兄弟が熱心に春日王の看病した。
兄の浄人王は春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。


後日、図書館で『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』という雑誌を借りて読んだ。
その中に奈良豆比古神社の翁舞についての記事があり、地元の語り部・松岡嘉平さんが次のような語りを伝承していると書いてあった。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。

奈良豆比古神社でもらったパンフレットにはハンセン病になったのは春日王だと書いてあったが、ハンセン病になったのは志貴皇子だとする伝承も伝わっているのだ。

⑥志貴皇子=春日王?

志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。

そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。

志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。

神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。

奈良大文字送り火

高円山

⑥弓削浄人は道鏡の弟

桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。

さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしているのだ。

道鏡は称徳女帝が次期天皇にしたいと考えていた人物である。
そして、道鏡の父親は志貴皇子の子であるとする史料もある。
称徳天皇は独身で即位した女帝だったため結婚が許されなかったものと考えられる。
(独身で即位した女性天皇が結婚した例はない)
そのため、称徳天皇は志貴皇子の子である道鏡を次期天皇にしたいと考えたのではないだろうか。
ところが和気清麻呂が宇佐八幡宮での信託として「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」と称徳天皇に奏上した。
これは「道鏡を皇位につけてはいけない」という意味で、これに称徳天皇はかんかんになって怒り、和気清麻呂を別部穢麻呂と改名させて流罪にした。
道鏡が志貴皇子の子であったとすれば、称徳天皇がかんかんになって怒った理由が理解できる。
「道鏡は志貴皇子の子で、皇緒である。和気清麻呂の嘘つき!なにが清麻呂だ、おまえなんか穢麻呂で十分だ!大和から出ていけ!二度と顔を見せるな!」
ところが、称徳女帝は急死。(暗殺説あり)道鏡は失脚して下野に左遷となり、数年後に死亡して庶人として葬られた。

道鏡に子孫はいなかったはずである。
道鏡は僧侶であり、当時は鑑真が日本にやってきて戒律を伝えたばかりだったからである。
(戒律では僧の性交は禁止されていた。)
しかし道鏡の兄・弓削浄人には子孫がいただろう。
奈良坂の夙に住む非人たちは弓削浄人の子孫なのかもしれない。


護王神社絵巻に描かれた道鏡 
護王神社絵巻に描かれた道鏡


⑦3対1で構成される神々

それはともかく、なぜ奈良豆比古神社の翁舞は三人翁なのか?
私は以前、次のような表を作成した。陰陽 黒と白⑨ 白鳥は生霊、黒鳥(八咫烏)は死霊? 

生国魂神社住吉大社住吉大社陰陽

島大神
 第四本宮神功皇后(仲哀天皇皇后)・・・長帯比売命/気長姫尊(おきながたらしひめのみこと)?
               と同音
生霊白鳥
島大神 第一本宮/底筒男命
     第二本宮/中筒男命
     第三本宮/表筒男命
12代景行天皇・・・・・・・・・大彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)?
13代成務天皇・・・・・・・・・稚彦尊(わかたらひこのみこと)?
14代仲哀天皇・・・・・・・・・仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)?
死霊黒鳥
(八咫烏)

住吉大社の男神は、底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱であり、三柱の神々の象徴が八咫烏(黒鳥)であり、死霊であると考えられる。

そして住吉大社の女神は、神功皇后一柱であり、その象徴が白鳥であり、生霊であると考えられる。
翁舞の白式尉は生霊、黒式尉は死霊と考えられ、翁舞のケースでは生霊が三柱、死霊が一柱で、住吉大社とは神の数が逆になっているようである。
生国魂神社住吉大社奈良豆比古神社陰陽

島大神
 第四本宮白式尉(三人翁)
生霊白鳥
島大神 第一本宮/底筒男命
 第二本宮/中筒男命
 第三本宮/表筒男命
黒式尉死霊黒鳥
(八咫烏)


陰陽 黒と白 ⑯ 古今集真名書の田人は黒、仮名序の山人は白という謎々だった? へつづく~
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陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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[2018/11/16 19:16] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると? 

 

陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 よりつづきます~

①能「翁」の白式尉と黒式尉


阪急河原町駅で下車し、四条通を東に向かって歩いていく。
鴨川にかかる四条大橋を渡り、途中、托鉢の僧が手に持つ鉢の中に小銭を入れて手を合わせる。
「どうか、新しい発見のある楽しい旅になりますように!」
そんなふざけたな願い事を心の中で唱え、また橋を渡っていく。

四条大橋を渡ると右手に南座、そのまままっすぐ歩いていけば八坂神社に到着する。

八坂神社の本殿前には、1月3日にもかかわらず初詣する人たちの長い行列ができていた。
私は行列の後ろのほうで手を合わせてお参りをし、八坂神社境内にある能舞台へと向かった。
能舞台の前のベンチはすでに人で埋め尽くされていた。
この日、八坂神社では初能奉納があるのだった。
能の演目は「翁」である。

まもなく舞台の上に囃し方が登場し、つづいてシテ(役者)が登場した。

シテは舞台の上でお面をつけた。
舞台上でお面をつけるのは能の中でも翁だけである。

八坂神社 翁 面をつける白式尉 
『翁」は『能にして能にあらず』『能というよりも神事である』などといわれている。
シテは舞台に立つ7日前から家族と寝食を別にし、食事を調理する火も共用することが許されない。
これを『別火を喰う』と言う。

「とうとうたらりたりらら」
翁(白式尉/はくしきじょう)のよく通る声が、冬の澄んだ青空にこだました。

八坂神社 翁 白式尉 

「とうとうたらりたりらら」とはどういう意味なのか、よくわかっていないらしい。
おそらく古い言葉で、長い年月を経るうちにわからなくなってしまったのだろう。
和歌の枕詞などももともとは意味があったのだろうが、意味が分からなくなってしまった言葉がたくさんある。

しばらくするとさきほどの翁とは別の翁がやはり舞台上で面をつけ、鈴を振って足拍子を踏み鳴らした。
私はその翁を見てとても驚いた。

八坂神社 翁 黒式尉 

翁の面が真っ黒だったからである。
黒い面の翁(黒式尉)は黒人なのか?
しかし顔立は日本人のようである。

②能「翁」は、陰陽 黒と白

能「翁」はまさしく、「陰陽 黒と白」だった。

陰陽道では万物は陰陽両面を持つと考える。
生死を陰陽で表すと、生が陽、死が陰である。
性別天体光度天気生死
陰(黒)
陽(白)太陽

また陽は白、陰は黒で表される。

Yin yang

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AYin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

③小野小町は白い神、大伴家持は黒い神


陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 
陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神  

私は上の記事で、小野小町は白い神、大伴家持は黒い神ではないかと書いた。

小野小町は在原業平に次の様に詠まれている。

ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)


この歌に登場する九十九歳の白髪の女とは小野小町のことであるとされる。

つくも髪は九十九髪と書く。これは謎々である。
100-1=99
百引く一は白

うまい!座布団2枚!

髄心院 歌碑 八重桜

髄心院 小野小町 歌碑

次に大伴家持についてだが、彼は藤原種次暗殺事件に関与したとして、すでに死亡して埋葬されていたのを掘り起こされ、流罪となっている。

.http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
骨が露出

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭

掘り起こされた家持の死体は黒く変色し、黒鬼のような姿になっていたのではないだろうか。

そして、大伴家持は六歌仙の一である大友黒主と似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいることから、私は大伴家持と大友黒主は同一人物ではないかと考えた。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


古今集真名書は大友黒主について次のように記している。

大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)

「頗る逸興」とは大伴家持の死体が掘り出されたことをいっているのではないかと思う。

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山2 
祇園祭 黒主山  

④六歌仙は藤原氏と敵対していた歌人


古今和歌集仮名序で名前をあげられた6人の歌人、小野小町・僧正遍照・在原業平・大友黒主・文屋康秀・喜撰法師のことを六歌仙という。

この6人は全員藤原氏と敵対関係にある人物であった。

私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。
惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で、母親は紀静子の間にできた子の長子で立太子が望まれていた。
しかし文徳天皇には藤原明子との間に惟仁親王もあった。
文徳天皇は「惟喬親王を皇太子」にしたいと源信に相談したのだが、源信は藤原明子の父・藤原良房をはばかって天皇を諫めたという。

遍照は藤原良房に出家させられたといわれている。
在原業平は惟喬親王の寵臣で、惟喬親王の妹を妻にしており、紀氏側の人間だった。
大友黒主は③に書いたように、大伴家持のことだと思う。家持は藤原種次暗殺事件に関与したとして死体が掘り出されて流罪となった。
文屋康秀は文室宮田麻呂の親戚だと思うが、文室宮田麻呂は無実の罪で流罪となっている。
喜撰法師とは紀仙法師で、紀名虎または紀有常のことだとする説がある。
紀名虎は惟喬親王の祖父(惟喬親王の母・紀静子の乳)、紀有常は惟喬親王の叔父(惟喬親王の母・紀静子の兄)である。

遍照・在原業平・紀有常らは惟喬親王をもちあげてクーデターを計画していたとする説もある。

加茂船屋の雛祭 六歌仙屏風 
加茂船屋 六歌仙を描いた屏風
 
向かって右上から、大友黒主・小野小町・喜撰法師、向かって左上から在原業平・遍照・文屋康秀か?

⑤喜撰法師=紀仙法師=惟喬親王?

④ で喜撰法師とは紀仙法師で、紀名虎または紀有常のことだとする説があると書いたが、私は喜撰法師=紀仙法師とは惟喬親王の事ではないかと思う。
惟喬親王の母親は紀静子、その父が紀名虎、兄が紀有常である。
当時、藤原氏の母親を持つ天皇・親王が大多数であった中で、惟喬親王は紀氏の希望の星だった。
そんな惟喬親王を紀仙法師と呼ぶのはおかしいことではない。

惟喬親王は京都の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説がある。
惟喬親王は木地師が用いる轆轤を発明したという伝説もあり、惟喬親王は木地師の祖としても信仰されている。
轆轤を用いて作る茶碗などは、漆を塗って漆器にするが、漆には別の用途もあった。
即身仏となるべく入定する際に漆を飲むのだ。これを「漆のお茶を飲む」と記したサイトもあった。
こうすることで胃の中を空っぽにし、また漆の防腐作用で死後腐りにくい体になる。

そして宇治に喜撰洞があり、そこに喜撰法師の像が置かれている。
喜撰洞とは喜撰法師が入定した洞窟ではないのか?

また喜撰というお茶の銘柄があり、喜撰はお茶の隠語でもある。
戦国武将たちは茶の湯をたしなんだが、お茶を飲むことは、漆を飲むことに喩えたものであり、茶の湯とは不老不死を願うまじないであったのではないかと私は考えたのだ。

陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 

木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っている。


⑥生の神と死の神

ここで、もう一度陰陽分類表を見てみよう。
性別天体光度天気生死
陰(黒)
陽(白)太陽

大友黒主という名前は彼が黒い神、死んだ神であるところからくるのではないか。
そして、小野小町(=喜撰法師=惟喬親王)は九十九髪=百引く一は白の神である。
なぜ小野小町は白の神なのか。
それは小野小町=惟喬親王=喜撰法師であり、惟喬親王が漆を飲んで入定して即身仏になったためではないか。

現代人からみて、即身仏は死体でしかない。
しかし古の人々は腐らない肉体をもった即身仏を生きていると考えたのではないだろうか。

大友黒主(=大伴家持)・・・・・・・・黒い神・・・死の神(死んで腐った神)
小野小町(=惟喬親王=喜撰法師)・・・白い神・・・生の神(死んでも腐らない神=即身仏)

すると、能「翁」の白式尉は生の神(死んでも腐らない神=即身仏)、黒式尉は死の神(死んで腐った神)ではないのか。

八坂神社 翁


⑦黒式尉はいかにして田の神になったか?

能「翁」の黒式尉は田の神だともいえる。
黒式尉の舞の中で種まきを思わせる所作があるからだ。

それを見て、私は白髪のことを九十九髪(つくもかみ)ということを思い出した。
そのココロは、100-1=99、百引く一は白。

黒という漢字も白と同じように分解してみたらどうなるだろう?
「黒=田+土+、、、、」となるではないか。「、、、、」は種をまいたように見える。

また、生物の死体は微生物に分解されて水に溶ける形になると、無機栄養として植物に吸収され、植物の肥料となる。

翁の黒式尉はそういった理由で種まきの所作をしているのではないだろうか。

⑧大友黒主はなぜ田夫なのか?

また古今和歌集真名書は大友黒主(=大伴家持)にたいして、「田夫の 花の前に息めるがごとし」といっている。
それは、大伴黒主は翁の黒式尉と同様、腐って植物の肥料のようになってしまったので、田夫といっているのではないだろうか。

黒主山 宵山


上の写真は祇園祭黒主山の提灯である。
提灯に記された文字にご注目。

http://www.kuronushiyama.or.jp/#kuronushi ← こちらのページにも大きく掲載されている。

「黒」の異体字として「黑」があるが、それともまたちがう。田夫と読めなくもない。

ところで、古今集には真名書のほかに仮名序がある。
真名書は漢文、仮名序はかなで記されているが、内容はほとんど同じである。

ところが、大伴黒主の部分は少し違っている。

真名書には
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)
とあるが、仮名書では
大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。
となっている。

真名書の頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとしは次のような意味だと思う。

頗る逸興ありてとは大伴黒主とは大伴家持のことであり、大伴家持が藤原種次暗殺事件に関与したとして、死体が掘り出されて流罪となったことだろう。

体甚だ鄙し
とは、その体が腐って『死体が腐って卑しい」

田夫の 花の前に息めるがごとしは、家持の腐った体が微生物に分解され花の肥料になったことを田夫(田+夫=黒/黒い神)になったとい表現しているのではないかと思う。

仮名序では田夫ではなく、山びとになっている。山びととはどういう意味なのだろうか?

八坂神社 舞殿 
八坂神社 舞殿


八坂神社 楼門

八坂神社 西楼門
陰陽 黒と白⑮ 奈良豆比古神社 翁舞 へつづく~
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[2018/11/01 17:13] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 

平等院 門

平等院

陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神  よりつづきます~

①宇治茶

京阪宇治駅をおりて平等院のほうに向かって歩いていくと門前の店店からお茶の甘い香りが漂ってくる。

宇治と言えば宇治茶。この付近にはお茶を売る店がたくさんあるのだ。

中でも抹茶ソフトクリームを売る店が、ひときわ賑わっており、店の前のベンチで大勢の人がソフトクリームを食べている。
見ると、みな唇が緑色の粉をふいたようになっている。
一瞬、ぎょっとしたがよく見るとソフトクリームに粉末状にした抹茶がふりかけてあるのだ。

私も注文して食べてみた。友人が私の顔を見て笑ったが、友人の顔も唇が真みどりになっている。
それがおかしくて、私も笑った。

平安時代の空海が唐からお茶を持ち帰ったというが、それが真実でも、その量はわずかなものだっただろう。
同じく平安時代の空也が疫病を鎮めるために皇服茶(仏前に献じたお茶に結び昆布と梅干を入れたもの)を村上天皇や民衆に飲ませたというが、とかいうが、村上天皇はお茶を飲んだとしても、民衆にまでそれを飲ませたとは思えない。
当時、お茶は大変効果なものだったからだ。

六波羅蜜寺 皇服茶

六波羅蜜寺 皇服茶

日本に喫茶の習慣を広めたのは鎌倉時代初期の栄西と言われる。
栄西は宋から茶種を持ち帰り、明恵がそれを栂ノ尾高山寺近くに植え、その後宇治にも植えた。

13世紀半ば、平等院に小松茶園・西浦茶園が造られて宇治での茶の栽培が始まった。
南北朝時代には栂ノ尾のお茶は本茶、醍醐や宇治のお茶は非茶と呼ばれていたが、しだいに宇治は一流のお茶の生産地として発展していった。

平等院 鳳凰堂2

平等院

②喜撰とお茶


お茶といえば、「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず」という狂歌を思い出す人も多いのではないだろうか。

1853年のペリー来航を詠んだ歌である。
宇治茶に喜撰という銘柄があり、上等なお茶であることから上喜撰といっているのだろう。
その上喜撰に蒸気船をかけてあるのだ。
さらにお茶の成分であるカフェインには眠気をさます効果があって眠れないことと
蒸気船が四隻(実際には2隻だともいう。)やってきただけで、不安で眠れないことをかけてあるのだ。
ペリー来航後、日本は長年の鎖国をやめ、開国へと進んでいくことになる。

宇治茶の銘柄を喜撰というのは、喜撰法師の次の歌にちなむものである。

わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世を宇治山と 人はいふなり
(私の庵は都の辰巳にあってこうやって住んでいる。世を憂しとして山に入った。宇治山であると人は言っているそうだ。)


またお茶のことを隠語で喜撰という。

どうやらお茶と喜撰は関係が深そうである。

霊山寺 初福茶 

霊山寺(奈良) 初福茶


③紀貫之の嘘

古今和歌集仮名序は喜撰法師について次のように記している。

ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず。

(ことばがわずかで初め終わりがはっきりしない。いわば秋の月を見ているうちに暁の雲にあうようなものだ。詠んだ歌が多くないので、いろいろ文をかよわして調べてみたがよくわからない。)

古今和歌集仮名序を書いたのは紀貫之だといわれている。

紀貫之は土佐日記でも「男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり。」と嘘をついているが
古今集仮名序でも嘘をついている。いや、とぼけたというべきか。

喜撰法師は紀仙法師で紀名虎または紀有常のことではないかとする説があるのだ。
同じ紀氏なんだから紀貫之が知らないはずはない。まったく貫之は一筋縄ではいかない男だ。

近江神宮 かるた祭2

近江神宮 かるた祭

④宇治は都の辰巳

高田祟史さんが「宇治は都の辰巳ではない、都の辰だ」とおっしゃっていたように記憶している。
当時の平安京は二条城付近にあった。

そして宇治の喜撰山に喜撰洞があり、洞内に喜撰法師像が祀られている。
ここが喜撰法師の棲んだ庵のあとではないかと思う。

二条城から宇治の喜撰洞の方角を確認してみると、申し訳ないが都の辰というのは厳しいのではないか。
やはり都の辰巳というのが正しいように思える。


喜撰洞の北西方向に二条城があります。

干支 方角

⑤「もののな」の高度なテクニック

さらに高田祟史さんは「わが庵は都の辰」できれ、「巳(み)しかぞ住む」→「みろく※鹿はろくとよむ)ぞ住む」という意味が隠されているともおっしゃっていた。
④で述べたように「わが庵は都の辰」とはいいがたいが、「わが庵は都の辰巳 しかぞ住む』の中に、「みろく」という言葉をよみとられたのは、高田祟史さんの素晴らしい発見だ。

この歌の中から「みろく」という言葉を読み取るのがむつかしいのは、ひとつは「わが庵は/都の辰巳/しかぞ住む」と「巳」と「しか」の間で文節が切れていることがある。
さらに、「しか」を漢字に変換して「鹿」とし、「鹿」を「ろく」と読むという発想はなかなか思い浮かばない。

和歌のテクニックのひとつに『もののな』がある。
もののなとは、ある事物の名称を、意味に関係なく歌の中に詠み込むものである。

たとえば「あしひきの 山たちはなれ ゆく雲の 宿り定めぬ 世にこそありけれ」という歌があるが、この歌の中に「たちばな」という言葉が読み取れる。

上の詩は「山たちはなれ」と五七五七七で構成されるひとつの文節の中に「たちばな」とあり、ひらがななので言葉を発見するのは比較的たやすい。
しかし「わが庵は都の辰巳 鹿ぞ住む』の中に「みろく」を発見するのは難しい。
高度な「もののな」のテクニックだといえるだろう。

奈良公園 鹿の親子

⑥ばれないように詠むのが大事

高田祟史さんは和歌は文学ではなく呪術だとおっしゃっているが、私は高田祟史さんのおっしゃる通りだと思う。

和歌ではないが、言葉を呪術として用いた例として
1610年、徳川家康が方広寺の鐘名「国」「君臣豊楽」に激怒したというエピソードがある。

方広寺 鐘銘 

方広寺鐘銘

「国だと?私(家康)の名前を切っているじゃないか!
「君臣豊楽子孫殷昌だと?豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ、という意味ではないか!
けしからんーーーー!」

こう家康は怒り、豊臣家を滅亡させてしまったのだ。

現代人はこれを家康のいちゃもんだと考えがちである。
しかし私は豊臣秀頼が本当に家康が指摘したような呪術を用いて鐘銘を刻んだ可能性があると思う。

言霊信仰という言葉を聞いたことがあることだろう。
言霊信仰とは口に出した言葉は実現する力があるとする信仰のことである。

ポジティブなことを言葉にすればポジティブなことがおき、ネガティブなことを言葉にすればネガティブなことがおきるとすれば
憎い相手を言葉の力によって貶めたいと考えるのは当然のことだと思う。

この事件は言葉に呪術をこめる伝統があったことを物語ってはいないだろうか。
「国」「君臣豊楽」とはなかなかうまい呪術を考えたものだ。
しかし相手にばれてしまうと、怒りをかって豊臣家のように滅ぼされてしまう。
呪術は慎重にかけなければならないのだ。

喜撰法師の「もののな」のテクニックはすごい。
この歌に『巳鹿→みろく」と言う言葉が隠されていることに気付いた人は、1000年近い長い年月の中でも高田祟史さん以外いないのではないか。

喜撰法師の和歌は一級の呪術だといえると思う。

⑦喜撰法師は入定した?


宇治には萬福寺という寺があり、天王殿に黄金に輝く布袋像が祀られている。
布袋は弥勒菩薩の化身とされている。

萬福寺 布袋  

萬福寺 布袋像

萬福寺は1661年に創建された寺だが、宇治に弥勒菩薩というイメージがあったため、ここに弥勒菩薩の化身である布袋像が置かれているのかもしれない。

弥勒菩薩とは56億7000万年後に現れるというみほとけである。
そして、かつて即身仏を志した人の目的は56億7000万年後の弥勒菩薩の聖業に参加するためだと聞いたことがある。

ここで④で述べた喜撰洞を思い出してほしい。
喜撰法師は即身仏となるべく、喜撰洞に入定したのではないだろうか?

⑧六歌仙は藤原氏と敵対していた?

③で喜撰法師は紀仙法師で紀名虎または紀有常のことではないかとする説があると書いた。
しかし私はしだいに喜撰法師(紀仙法師)とは惟喬親王のことではないかと考えるようになった。
惟喬親王の母親は紀静子で、惟喬親王は紀氏の血の濃い親王であった。
なので、惟喬親王を紀仙法師と呼ぶことはおかしいことではない。

六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・小野小町・喜撰法師・大友黒主)は全員、藤原氏と敵対関係にあった人物である。

大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、また大友家持とほとんど同じ歌を詠んでいることなどから、大伴家持のことだと思われる。
大伴家持は藤原種次暗殺事件に関与したとして、当時すでに亡くなって埋葬されていたのだが、死体を掘り出されて流罪とされている。
陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? 

小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと私は考えている。
陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 
つまり喜撰法師も小野小町も惟喬親王のことだということである。

遍照・在原業平・紀有常(惟喬親王の叔父)は惟喬親王の歌会のメンバーである。

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で母親は紀静子だった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのだが、当時の権力者・藤原良房を憚った源信にいさめられ、藤原良房の娘・明子との間にできた惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子となった。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いているが、この歌会のメンバー・遍照・在原業平・紀有常らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてのクーデターを計画していたのではないかとする説がある。

文屋康秀は小野小町を「三河に行きませんか」と誘っている。
小野小町=惟喬親王だと考えられるので、文屋康秀もまたクーデター計画にかかわっていた可能性がある。

惟喬親王像 

惟喬親王像 木地師の里


⑨惟喬親王と漆の関係

六歌仙の説明が終わったところで、私がなぜ喜撰法師=惟喬親王だと考えているのかについて説明しよう。

惟喬親王は京都嵐山の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説がある。

法輪寺 ライトアップ

法輪寺

 そして、私は先ほど次のようなことを述べた。

・喜撰法師の歌に「みろく(弥勒)」が読み込まれている。
・即身仏になるべく入定した人の目的は56億7000万年後に現れるとされる弥勒菩薩の聖業に参加することだった。
・喜撰洞は喜撰法師が即身仏となるべく入定した洞窟なのではないか。

即身仏になる際には、まず木食といって五穀をたち、木の実や皮を食べる修行をする。
こうすることによって体の脂肪が減る。
さらに入定する前に漆を飲む。
漆を飲むことで、胃の中に残った食物を吐いてしまう。
また漆には防腐作用があるため、死後腐りにくい体になるというのだ。

惟喬親王が法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説は、彼が入定して即身仏になったところから創作されたのではないか?

また陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 
上の記事で、私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考察したが
小野小町は老衰し骨と皮だけの姿で現されることが多い。
私は京都の補陀落寺で小町老衰像を拝んだことがあるが、痩せて骨と皮ばかりの状態ではあるが骨が曲がっているということはない。
むしろ背筋がのび、骨格もしっかりしていて骨太な印象だった。
垂れ下がった乳房もあるようには見えなかった。(着物で隠れているだけかもしれないが。)
友人もこれは女には見えないと言っていた。

小町百歳像は惟喬親王が入定して即身仏となった姿ではないだろうか。

補陀落寺(小町寺) 紅葉

補陀落寺

⑩惟喬親王と轆轤の関係

惟喬親王は巻物が転がるのを見て轆轤を発明したという伝説もあり、轆轤がろくろ首に見えるところから、惟喬親王は髑髏本尊になったのではないかとも考えた。
髑髏本尊は身分の高い人のドクロを用いて作るほど霊力があるとされ、ドクロに和合水と漆を塗り重ねてつくる。
さきほども述べたように惟喬親王が虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説もある。

しかし小町老衰像を見ると、即身仏のように見えるので、惟喬親王は即身仏になったと考えたほうがいいかもしれない。
その場合、伝説が生じた経緯は次のようなものであると考えられるかもしれない。

木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っている。


惟喬親王は漆を飲んで入定した。
  ↓
惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が創作される。
  ↓
漆は木地師が用いる茶碗に塗る。
  ↓
惟喬親王、木地師の祖とされる。
  ↓
惟喬親王、轆轤を発明したという伝説が創作される。

即身仏になるため入定する際、漆を飲むのだが、「漆のお茶を飲む」と記されたサイトもあった。
漆の木に傷をつけると樹液がでてくる。これに顔料を加えて色をつけ、漆器などに塗り重ねるのだが
もともとの漆の樹液は乳白色である。
しかし、すぐに酸化して茶色くなる。その色はほうじ茶のような色である。

戦国武将たちは茶の湯をたしなんだが、それは茶の湯に入定する際に飲む漆のイメージがあったからかもしれない。
 
前回、前々回の記事で、私は大友黒主は黒い神、小野小町は白い神と書いた。
陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 
陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 

陰陽道では黒は陰で、白は陽である。
また陰陽道で生死を表すと、死が陰で、生が陽である。

大友黒主は死後藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、死体が掘り返されて流罪となった。
大友黒主の死体は腐っていたことだろう。

そして小野小町=小野宮=惟喬親王が喜撰洞に入定したのならば、腐らない体の即身仏となっていた可能性が高い。

つまり大友黒主は死んで腐った神、小野小町=小野宮=惟喬親王は即身仏となって腐らない神ということではないだろうか。
そして腐らない即身仏は永遠の命を持つ神、生きている神として信仰されたのではないかと思う。

小野小町像 
髄心院 小野小町像


陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると?  へつづく~
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陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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[2018/10/16 20:56] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 

祇園祭 黒主山 御神体

祇園祭 黒主山 ご神体(大友黒主)

陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる?  よりつづきます~

①大友黒主は黒い神、小野小町は白い神。

「六歌仙の一、大友黒主は大伴家持ではないか」
「大伴家持主は白い神から黒い神に転じて大友黒主となったのではないか」
前回私はそう書いた。
陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 

そして六歌仙の中には白い神もいる。
小野小町だ。

小野小町像 
髄心院 小野小町像

②百引く1は白

なぜ小野小町は白い神だといえるのか。

それは、紀貫之が書いたと言われる伊勢物語にこんな話があるからだ。

昔、色気づいた女が三人の子に「思いやりのある男にお会いしたい」と話した。
三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をし、在五中将(在原業平)に頼み込んだ。
在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。
しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなり、女は男の家に行って中を伺った。
男は女をちらっとみて歌を詠んだ。
ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)

その後、男がでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。
在五中将が女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。

さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ
(狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。)

在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。

伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書『知顕集』には次のように記されている。
「このをんなは、をののこまちなり。小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。」
(この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。どんな人の子を産んだのかはっきりしない。)

業平が詠んだ歌に注目してほしい。

ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)

つくも髪は九十九髪と記し、白髪のことである。
そのココロは、「100-1=99」であり、「百引く一は白」だからである。うまい、座布団2枚!



白峯神宮 小町踊

白峯神宮 小町踊り

③小野小町は男だった?

私は小野小町とは男だと考えている。

こちら ↓ のシリーズにその理由を詳しく書いたのだが、簡単にまとめておこう。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html

①古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌がたくさんある。

②六歌仙とは古今和歌集仮名序で名前を挙げられた6人の歌人のことを言うが、古今和歌集仮名序は紀貫之が書いたと言われている。
この紀貫之は「土佐日記」で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自分は男であるが、女であると偽って日記を書くような一筋縄ではいかない人物だった。

③古今和歌集仮名序には次のようにある。
「小野小町は いにしへの衣通姫の流なり あはれなるやうにて強からず いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし」
やけに小町が女であることを強調しすぎてはいないだろうか。

④小野小町は穴がない体だったという伝説がある。
穴がない体とは男であるということではないのか。

⑤六歌仙とは歌のうまい歌人というのは現代人の誤解だと思う。
高田祟史さんは六歌仙は全員藤原氏と敵対していた人物であると指摘し「六歌仙は怨霊である」とおっしゃっている。

⑥六歌仙のうち、遍照・在原業平は惟喬親王の歌会のメンバーである。
また惟喬親王の歌会には紀有常(惟喬親王の叔父)も参加しているが、六歌仙の一・喜撰法師は紀有常だとする説がある。

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子母親は紀有常の妹の紀静子だった。
文徳天皇より立太子が望まれていたが、世継ぎ争いに敗れ、藤原良房の娘・明子を母親にもつ惟仁親王(のちの清和天皇)が立太子している。

遍照・在原業平・紀有常らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてのクーデターを計画していたのではないかといわれている。

⑦惟喬親王は小野宮という広大な邸宅に住み、自身も小野宮と呼ばれていた。
小野小町とは小野宮=惟喬親王のことではないのか?

⑧三国町は一般には三国氏出身の女性だと考えられているが、『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣(紀種子・・・紀静子の姉)としている。
また三条町は惟喬親王の母親・紀静子のことである。どうやら紀氏の女性を「町」と呼んでいるようである。
惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
そのため惟喬親王が女の身になって詠んだ歌の作者を小野小町としたのではないか。

⑨小野小町の歌「花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」は
「花の色は 移りにけりな いたづらに わが御代に下(ふ)る 長雨せしまに」ではないか。
「御代」とは「天皇の治世」で「わが御代」とは「私が天皇となって治める世の中」となる。
「長雨」は「長天」にかかり、「下長天」で漢字を入れ替えると「長天下(長い天下)」となる。
「わが御代が長い天下となるだろう」と堂々と歌い上げることができる人物として、惟喬親王はふさわしい。

髄心院 薬医門 桜2

小野小町の邸宅跡とつたわる髄心院

惟喬親王には兼覧王という男子と三条町(叔母と同じ名前だが?)がいたらしいが、兼覧王は仁明天皇の第六皇子・国康親王の子ともされ、出自がはっきりしない。
ただ紀貫之は兼覧王に面会して感激したということが古今和歌集に記されている。
いうまでもなく紀貫之は紀氏の出身であり、紀氏の血をひく惟喬親王のことは敬愛していたことと思われる。
なので彼が、兼覧王の面会に感激したというのは、兼覧王が惟喬親王の子だからではないかと思ったりもする。

惟喬親王像 

惟喬親王像 木地師の里


また、小町が惟喬親王だとすれば、業平が惟喬親王と寝たというのは、男色である。
しかし日本において男色はふつうのこと、というより衆道と呼ばれるたしなみであった。
戦国武将の男色は有名だが、平安時代の藤原頼長の日記「台記」には頼長が稚児・舞人・武士・貴族たちとの男色が記されている。

大友家持=大友黒主は、はじめは白い神だったが、のちに黒い神に転じたと思われる。
ところが、小野小町には黒のイメージはなく、ずっと白い神であったようである。
両者の違いはどこにあるのか。

次回はそれを考えてみようと思う。


髄心院 小野小町

ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作したタペストリー(髄心院)


陰陽 黒と白 ⑬『惟喬親王、入定して紀仙法師となる?』 へつづく~
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[2018/10/06 22:27] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)

陰陽 黒と白⑪大友家持、白い神から黒い神に転じる? 



陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? よりつづきます~。


祇園祭 黒主山 御神体

祇園祭 黒主山 ご神体(大友黒主)


①大友黒主の正体は大伴家持だった?

前回の記事、陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? で、大友黒主とは大伴家持のことではないかと書いた。

その理由を簡単にまとめておこう。

a.古今和歌集真名書に『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』とあるが、百人一首で猿丸太夫は5番で、その次の6番は大伴家持である。(百人一首のそれぞれの歌には1~100までの番号がふられている。)

b.大友黒主と大伴家持はよく似た歌を詠んでいる。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


c.大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったのではないだろうか。

真名序に『(大友黒主は)頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは「死体が掘り出されたこと」、『鄙し』は『死体が腐って卑しい」という意味ではないか。

d.http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
骨が露出

鬼という漢字は死者の魂をあらわすものだとされる。
大伴黒主という名前は、家持の死体が黒鬼のような状態になっていたところからつけられたのではないか。

e.小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。
歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。

蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん
(種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)

当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。
小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町の歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。
ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。
黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。
策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(草紙洗い)


大伴家持は優れた歌人であり、万葉集を編纂した人物でもあった。
そして謡曲・草紙洗に登場する家持以外の歌人、小野小町・紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らは古今和歌集の歌人である。
『草紙洗い』において、大友黒主=大伴家持は万葉集の中に小町の歌を書き入れているが、
『書き入れる』というのは『編纂する』という意味で、誰にでもできることではない。
万葉集を編纂した大伴家持(大友黒主)だからこそ小町の歌を万葉集に書き入れることができたというのが『草紙洗い』のテーマではないか。
小野小町は「私は『古今和歌集』の時代の歌人なので、私の歌を『万葉集』に書き入れることはできませんよ」と大伴家持を諭したということ話なのではないか。

f.今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む老人と男に出会った。
この老人が大友黒主で、和歌の徳を語って消え去るが、臣下の夢の中に現れて舞を舞う。(志賀) 


黒主は和歌の徳を説いているが、これなども万葉集を編纂した大伴家持にふさわしい行為だといえるのではないか。

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭に登場した赤鬼・青鬼・黒鬼

②かささぎの 渡せる橋に 置く霜の

猿丸太夫(5番)の次に大伴家持(6番)の歌をもってきた藤原定家は、古今集真名書の『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』の意味をわかっていたのだろう。

その藤原定家は百人一首に大伴家持の次の歌を採用している。

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持
(年に一度、天の川に鵲が橋をかけ、その橋を渡って牽牛と織姫が逢瀬を楽しむという。その橋のようにみえる宮中の階段に白い霜がおりているところを見ると、もうすっかり夜がふけてしまった。)


「宮中の階段に霜がおりているのを天の川にかかる橋に見立てた」ととるのは、
『大和物語』百二十五段の壬生忠岑の歌で御殿の御階(みはし)()を「かささぎのわたせるはし」によって喩えていることによるもので、賀茂真淵が唱えた。

「霜の白き」は天上に輝く星が白いのを霜に喩えたとする説もある。

観音山公園 牽牛 七夕飾り

中山観音寺跡 牽牛と七夕飾

③男女双体は荒魂を御霊に転じさせる呪術

まずポイントとして押さえておきたいのは、この歌が天の川伝説、すなわち牽牛と織姫が年に一度の逢瀬を楽しむとされる七夕に関する歌だということである。

牽牛と織姫が逢瀬を楽しむというのは、男女が和合するということだ。

仏教の神・歓喜天は男女が和合したおすがたをしておられ、次のような伝説がある。

鬼王ビナヤキャは祟りをもたらす神であった。
そこへ十一面観音の化身であるビナヤキャ女神があらわれ、鬼王ビナヤキャに「仏法守護を誓うならあなたのものになろう」と言った。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神を抱いた。




動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

↑ 相手の足を踏みつけている方がビナヤキャ女神である。

この物語は、御霊・荒魂・和魂という概念をうまく表していると思う。

神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれる。
そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があるのだ。
すると神の本質である御霊とは男女双体と言うことになると思う。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神

男女和合は荒魂を御霊に転じさせる呪術だったのではないだろうか。

そして鬼王ビナヤキャを牽牛、ビナヤキャ女神を織姫に置き換えてもいいだろう。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・牽牛・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・織姫・・・女神


つまり、牽牛と織姫の逢瀬は、荒魂を御霊に転じさせる呪術であったのではないか、ということである。

④白黒コントラストの鳥・鵲

次に注意したいのは、鵲という鳥についてである。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

上の動画を見ればわかるとおり、鵲はくっきりした白黒のコントラストを持つ鳥であり、太極図を思わせる。

File:Yin and Yang.svg

太極図

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yin_and_Yang.svg?uselang=ja) よりお借りしました。
ありがとうございます。

太極図とは「陰が極まれば陽となり、陽が極まれば陰となる」という道鏡の考え方をあらわすもので
白は陽、黒は陰とされる。

男は陽、女は陰とされるので、男が白=荒魂で、女が黒=和魂だろう。
そう考えると、太極図は歓喜天を図案化したものだと言っていいかもしれない。

さきほど、男神は荒魂で女神は和魂とする説があるといったが、荒霊を白、和魂を黒であらわすこともあったのではないだろうか。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・牽牛・・・男神・・・・陽?・・・白?
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・織姫・・・女神・・・・陰?・・・黒?


機物神社 七夕飾り

機物神社 七夕祭

⑤霜は死体に振られた塩をあらわす?

さらに「置く霜の」という語にも注意したい。
日本書紀に「トガノの鹿」という物語がある。

仁徳天皇が皇后と涼をとっているとトガノの方から鹿の鳴き声が聞こえてきた。
天皇はその鹿の鳴き声をしみじみと聞いていたが、あるとき急に鳴き声がしなくなった。
翌日、佐伯部が天皇に鹿を献上したが、その鹿は天皇が夜な夜な鳴き声を聴くのを楽しみにしていた鹿だった。
気分を悪くした天皇は佐伯部を安芸の渟田に左遷した。

雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。

鹿の夏毛には白い斑点がある。この斑点を霜や塩に喩えたのだろう。

そして、謀反の罪で死んだ人には塩が振られることがあり、鹿は謀反人を比喩したものではないかとする説がある。
藤原種次暗殺事件の首謀者として死体が掘り出され、流罪となった大伴家持はまさしく謀反人である。

大仏殿 鹿

東大寺大仏殿 鹿

⑤白い神だったはずなのに黒い神になってしまった大伴家持

家持の歌を私流に現代語訳してみよう。

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持

まるで太極図のように見える鵲。
また鵲は白い神(荒霊)と黒い神(和霊)が和合しているかのようにも見える。
その鵲が天の川に橋をかけ、年に一度牽牛と織姫が逢瀬を楽しむ。

鬼王ビナヤキャは祟るのをやめて仏法守護を誓いビナヤキャ女神を抱いた。
歓喜天は鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神の男女双体の神で、歓喜天は鬼王ビナヤキャがビナヤキャ女神の性的魅力によって骨抜きにされ、祟る力を失ってしまったの図なのだ。
この歓喜天と同じく、牽牛は織姫の性的魅力によって骨抜きにされ、祟る力を失ってしまう。
それが七夕なのだ。
(牽牛は牛をひく童子である。牛=丑、また童子は八卦で艮/丑寅の符である。丑寅は方角では鬼がやってくる方角、鬼門である。よって牽牛は祟りをもたらす鬼と考えられる。)

その天の川に鵲がかける橋のように見える宮中の階段に霜が白く輝いている。

霜は日本書紀のトガノの鹿を思わせる。
鹿は全身に霜が振る夢を見るが、霜だと思ったのは実は塩で、鹿は殺されて塩漬けにされているのだった。
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあった。
鹿は謀反人の喩えである。
藤原種継暗殺事件の首謀者だと疑われている私(大伴家持)もまた謀反人である。

宮中に降りた霜がこんなにも白く見えているということは、私はすでに死んで夜の世界にいるということなのだろう。
そして私は鵲に似た太極図があらわすように、陽が極まって陰となり、白い神(荒魂)から黒い神(和魂)へと変わっていくのだ。


わずか31文字の中に、太極図、天の川伝説、トガノの鹿の伝説なども想像させ、実に味わい深い歌である。

白峯神宮 小町踊2

白峯神宮 小町踊(七夕に小町踊を踊る風習があった。)

⑥著作権がなかった古の和歌


秋の田の  仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)


天智天皇が詠んだこの歌はもともとは万葉集の詠み人知らずの歌であるが、天智天皇が詠むにふさわしい歌だということで
天智天皇御作とされている。

同様に、「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」も、家持が詠んだ歌ではないが家持が詠むにふさわしい歌ということで家持が詠んだ歌とされたのかもしれない。

この歌が家持自身が詠んだものでまちがいなければ、家持の発する言葉にはとんでもない言霊があって、言葉が実現してしまったということになるかもしれない。

穂谷 稲穂

枚方市穂谷

⑦大友黒主はなぜ黒い神なのか?

⑤に記した現代語訳で、「白い神」とは大伴家持、「黒い神」とは大伴黒主のことである。

大伴家持はすでに死んで埋葬されていたにもかかわらず、藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、死体が掘り出され、その死体は流罪となった。

http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
骨が露出

掘り出された家持の死体は黒鬼となっていたため、家持は大友黒主とよばれたのではないかと私は推理しているのだ。

しかし、つじつまの合わない点がある。
性別天体光度天気生死
女(和魂?)
男(荒魂?)太陽

大伴家持は男なので陽、白い神といってもいいが、同一人物だと考えられる大友黒主は、黒い神である。
黒は陰をあらわし、性別では女性を表す。

これはいったいどういうわけだろうか?

法輪寺 針供養

虚空蔵法輪寺 針供養 織姫

陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 へつづく~
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陰陽 黒と白① 獏は白黒モノトーン  


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[2018/09/26 20:18] 陰陽 黒と白 | トラックバック(-) | コメント(-)