1⃣東大はノーベル賞受賞者が少なく、京大・名大の方が多い?
ある著名な方が 「東京大学の先生は研究は大してできない。ノーベル賞も研究者は東大は少なく、京都大学、名古屋大学のほうが多い。」
とおっしゃっていた。 本当だろうかと思って、調べてみた。
2⃣2023年時点での、ノーベル賞受賞者出身大学ランキング
2023年時点での、ノーベル賞受賞者出身大学ランキングを見てみよう。
1位 9人 東京大学
1位 9人 京都大学
3位 3人 名古屋大学
4位 2人 大阪大学
5位 1人 明治大学
5位 1人 東北大学
5位 1人 埼玉大学
5位 1人 大阪公立大学
5位 1人 東京理科大学
5位 1人 熊本大学
5位 1人 神戸大学
5位 1人 北海道大学
5位 1人 東京工業大学
5位 1人 鹿児島大学
5位 1人 長崎大学
5位 1人 徳島大学
5位 1人 山梨大学
2023年時点で日本人のノーベル賞受賞者は合計28人。
上記ランキングの数字を足すと32人になるのは、二つ以上の大学に通った人がいるためである。 これを見ると卒業大学は東大が最も多い。
3⃣日本人ノーベル賞受賞者
以下、「京都大学 ノーベル賞受賞者」にあった「日本人のノーベル賞受賞者一覧」を引用させていただいた。
日本人のノーベル賞受賞者一覧
受賞年 賞 氏名等 備考
2021年 物理学賞 真鍋 淑郎(東京大卒) プリンストン大学上席研究員(受賞時:米国籍)
2019年 化学賞 吉野 彰 (京大卒) 旭化成株式会社名誉フェロー 名城大学教授
2018年 生理学・医学賞 本庶 佑 (京大卒) 京都大学高等研究院副院長・特別教授
2016年 生理学・医学賞 大隅 良典 (東京大卒) 東京工業大学特任教授(受賞時)
2015年 物理学賞 梶田 隆章 (埼玉大卒) 東京大学教授(受賞時)
生理学・医学賞 大村 智 (山梨大卒) 北里大学特別栄誉教授(受賞時)
2014年 物理学賞 赤﨑 勇 (京大卒) 名城大学教授(受賞時)
天野 浩 (名大卒) 名古屋大学教授(受賞時)
中村 修二 (徳島大卒) カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授(受賞時:米国籍)
2012年 生理学・医学賞 山中 伸弥 (神大卒) 京都大学iPS細胞研究所長・教授(受賞時)
2010年 化学賞 根岸 英一 (東大卒) 米国パデュー大学特別教授(受賞時)
鈴木 章 (北大卒) 北海道大学名誉教授(受賞時)
2008年 物理学賞 南部 陽一郎 (東大卒) 米国シカゴ大学名誉教授(受賞時:米国籍)
小林 誠 (名大卒) 高エネルギー加速器研究機構名誉教授(受賞時) 元京都大学理学部助手
益川 敏英 (名大卒) 京都大学名誉教授(受賞時)
化学賞 下村 脩 (長崎大卒) 米国ボストン大学名誉教授(受賞時)
2002年 化学賞 田中 耕一 (東北大卒) 株式会社島津製作所フェロー(受賞時)
物理学賞 小柴 昌俊 (東大卒) 東京大学名誉教授(受賞時)
2001年 化学賞 野依 良治 (京大卒) 名古屋大学理学部教授(受賞時)
2000年 化学賞 白川 英樹 (東工大卒) 筑波大学名誉教授(受賞時)
1994年 文学賞 大江 健三郎 (東大卒) 作家
1987年 生理学・医学賞 利根川 進 (京大卒) 米国マサチューセッツ工科大学教授(受賞時)
1981年 化学賞 福井 謙一 (京大卒) 京都大学工学部教授(受賞時)
1974年 平和賞 佐藤 栄作 (東大卒) 元内閣総理大臣
1973年 物理学賞 江崎 玲於奈(三高→東大卒) 米国IBMワトソン研究所主任研究員(受賞時)
1968年 文学賞 川端 康成 (東大卒) 作家
1965年 物理学賞 朝永 振一郎 (京大卒) 東京教育大学教授(受賞時)
1949年 物理学賞 湯川 秀樹 (京大卒) 京都大学理学部教授(受賞時)
3⃣少しでも在籍していればカウントする。
しかし、「ノーベル賞も研究者は東大は少なく、京都大学、名古屋大学のほうが多い。」という発言は 卒業大学ではなく、在籍して研究している大学のことであるという。
記事タイトルをよむと、名古屋大学が東京大学よりもノーベル賞受賞者が多いと思ってしまうが、
記事は2015年4月26日のもので、「2001年以降の日本人ノーベル賞受賞者13人中6人が、名大の関係者だったからだ。」とある。 ノーベル賞の発表は10月なので、「2001年から2014年までの14年間では名大関係者が多い」という話なのだ。
名古屋大学卒業者は3名、名古屋大学教員は3名。 。
京都大学の卒業者は2名、教員は4名。 東京大学の卒業者は3人。
としている。
こちらの記事は2018年の記事だが、一度でも在籍していれば「少しでも在籍していれば1つという数え方」としており、 カウントの対象は平和賞と文学賞を除く2000年以降としている。
「名大なぜノーベル賞を量産するのか 東大をも凌ぐ理由」という記事も同様の数え方をしている。
4⃣ 2023年の時点で2014年の記事を引っ張り出してくるのは不適切
記事は2014年のもので古い。現在は2023年で、2014年から9年もたっている。 こんな古い記事の情報に頼っていてもしかたがない。 2023年までのノーベル賞受賞者ひとりひとりの経歴についてみてみよう。
/の後に在籍経歴のある日本の大学名を記す。(卒業大学と同じものは省いた)
受賞年 賞 氏名等 備考
2021年 物理学賞 真鍋 淑郎(東京大① 卒) プリンストン大学上席研究員(受賞時:米国籍 )/名古屋大学①
2019年 化学賞 吉野 彰 (京大① 卒) 旭化成株式会社名誉フェロー 名城大学教授/大阪大学
2018年 生理学・医学賞 本庶 佑 (京大② 卒) 京都大学高等研究院副院長・特別教授/東京大学② ・大阪大学
2016年 生理学・医学賞 大隅 良典 (東京大③ 卒) 東京工業大学特任教授(受賞時)/総合研究大学院大学
2015年 物理学賞 梶田 隆章 (埼玉大卒) 東京大学④ 教授(受賞時)
生理学・医学賞 大村 智 (山梨大卒) 北里大学特別栄誉教授(受賞時)/ 東京理科大学
2014年 物理学賞 赤﨑 勇 (京大③ 卒) 名城大学教授(受賞時)/名古屋大学②
天野 浩 (名大③ 卒) 名古屋大学教授(受賞時)/ 名城大学
中村 修二 (徳島大卒) カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授(受賞時:米国籍)
2012年 生理学・医学賞 山中 伸弥 (神大卒) 京都大学④ iPS細胞研究所長・教授(受賞時)/ 大阪市立大学・奈良先端科学技術大学院大学
2010年 化学賞 根岸 英一 (東大⓹ 卒) 米国パデュー大学特別教授(受賞時)/北海道大学
鈴木 章 (北大卒) 北海道大学名誉教授(受賞時)/岡山理科大学・倉敷芸術科学大学
2008年 物理学賞 南部 陽一郎 (東大⑥ 卒) 米国シカゴ大学名誉教授(受賞時:米国籍 )/ 大阪市立大学・大阪大学
小林 誠 (名大④ 卒) 高エネルギー加速器研究機構名誉教授(受賞時)/京都大学⓹
益川 敏英 (名大⓹ 卒) 京都大学⑥ 名誉教授(受賞時)/東京大学⓻ ・京都産業大学
化学賞 下村 脩 (長崎大卒) 米国ボストン大学名誉教授(受賞時)/長崎医科大学・名古屋大学⑥
2002年 化学賞 田中 耕一 (東北大卒) 株式会社島津製作所フェロー(受賞時)
物理学賞 小柴 昌俊 (東大⑧ 卒) 東京大学名誉教授(受賞時)
2001年 化学賞 野依 良治 (京大⓻ 卒) 名古屋大学⓻ 理学部教授(受賞時)
2000年 化学賞 白川 英樹 (東工大卒) 筑波大学名誉教授(受賞時)
1994年 文学賞 大江 健三郎 (東大⑨ 卒) 作家
1987年 生理学・医学賞 利根川 進 (京大⑧ 卒) 米国マサチューセッツ工科大学教授(受賞時)
1981年 化学賞 福井 謙一 (京大⑨ 卒) 京都大学工学部教授(受賞時)/京都工芸繊維大学
1974年 平和賞 佐藤 栄作 (東大⓾ 卒) 元内閣総理大臣
1973年 物理学賞 江崎 玲於奈(三高→東大⑪ 卒) 米国IBMワトソン研究所主任研究員(受賞時)
1968年 文学賞 川端 康成 (東大⑫ 卒) 作家
1965年 物理学賞 朝永 振一郎 (京大⓾ 卒) 東京教育大学教授(受賞時)
1949年 物理学賞 湯川 秀樹 (京大⑪ 卒) 京都大学理学部教授(受賞時)/大阪大学・東京大学⑬
上のリストから、2001年以降の、「東京大学、京都大学、名古屋大学と関係のある人物の数」をそれぞれカウントしてみよう。 私は数を数えるのが苦手なので、番号をふっておいた😅。 数え間違いがあれば教えてほしい。
東京大学8(外国籍を除けば7)、京都大学7、名古屋大学7 (外国籍を除けば6)
※「どこ(大学、企業など)で行った研究がノーベル賞をとったのかをカウントするべきではないか」という意見もあったので、ざっとノーベル賞受賞者の経歴などを調べてみたが 在籍大学、企業が変わっても、研究者は連続して同じ研究を行っているケースも多いように思ったので、こちらのやり方でのランキングは出していない。
6⃣65年間の中の14年間のみとりあげることに意味はあるか。
また、どこで区切るかで、割合は大きく変わってくる。
2001年から2014年まで、14年しかない。 日本人ノーベル賞受賞者は1949年から2014年までの65年間で28人しかおらず、その中で14年間のみをとりあげることに意味はあるのだろうか。 1949年から2023年までで数えてみると東京大学13(外国籍を除けば12)、京都大学11、名古屋大学7(外国籍を除けば6)
自然科学の分野だけに限ると東京大学11(外国籍を除けば10)、京都大学11、名古屋大学7(外国籍を除けば6)
「名古屋大学すごい」と思うが、やはり東京大学、京都大学のほうが名古屋大学よりも多いということになる。7⃣学位取得大学でのランキング
上の記事は2018年の記事で学位(学士号・修士号・博士号)取得大学によるランキングを示している。
(文学賞、平和賞をふくむ。)
これはいえるかもしれない、と思った。
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1⃣日本人は自然の音を言語と同様の左脳で聴いている?
↑ この記事には、東京医科歯科大学の角田忠信教授による研究について記されている。 内容をまとめてみよう。 記事には角田氏の研究の内容と、ライターである伊勢雅臣氏の意見が混ざっている。 角田氏の研究の内容についてはピンク色文字で、伊勢雅臣氏の意見については空色文字で示す。
①虫の鳴き声を「声」として認識できるのは日本人とポリネシア人だけ。
②東京医科歯科大学の角田忠信教授はキューバの国際学会に参加したとき、虫の音が聞こえたので、虫の名前を尋ねたが誰も聞こえないといった。 角田教授は日本人の耳と、外国人の耳は違いがあるのではないか、と疑問を持った。
③人間は、左耳から入った音の情報は右脳に行き、右耳から入ると左脳に行く。
左右の耳に同時に違ったメロディーを流すと、左耳で聞いたメロディーのほうがよく認識されている。 違う言葉を左右から同時に聴かせると、右耳で聞いた言葉の方がよく認識される。 ④我々が右耳に受話器をあてることが多いのはこのため。 ⑤日本人も西洋人も、音楽、機械音、雑音は右脳できく。言語音は左脳できく。
⑥母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、日本人は言語と同様の左脳で聴き、西洋人は楽器や雑音と同じく右脳で聴いている。
⓻アメリカ人が虫と聞いて思い浮かべるのはモスキート(蚊)、フライ(蠅)、ビー(蜂)などの害虫。 アメリカでは蜂はみかけるが、蚊や蠅はほとんどみかけない。 文明生活の敵とみなされたか。(伊勢雅臣氏)
⑧「insect」には「虫けらのような人、卑しむべき人」という使い方があり、「bug」は、「悩ましい、てこずらせる」など悪いイメージがある。(伊勢雅臣氏)
⑨角田教授によれば、日本人は動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎまで、日本人は言語脳で聞いているという。
⓾擬声語、擬音語が高度に発達しているという点が、日本語の特徴。
⑪自然音を言語脳で受けとめるという日本人の生理的特徴と、擬声語・擬音語が高度に発達したという日本語の言語学的特徴と、さらに自然物にはすべて神が宿っているという日本的自然観との3点セットが、見事に我々の中に揃っている。(伊勢雅臣氏)
⑫角田教授によれば、血筋ではなく、日本語を母国語として最初に覚えたかどうかという点で決まるという。 ⑬日本語と同じパターンはポリネシア語でしか見つかっていない。
2⃣ビートルズは虫の声を楽器として曲を作った。
すると「西洋人にとって虫の音は雑音。日本人は虫の音を情緒在るものとして聞く。」は本当なのだろうか。
申しわけないが、私は「記事を書いた伊勢氏」の曲解だと思った。
まずは、ビートルズのSun Kingという曲を聴いてみてほしい。
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冒頭、コオロギの声と楽器の音が気持ちよくあっている。 これはコオロギの声を一つの楽器の様にして用いた例だといえるかもしれない。 すると門田氏がおっしゃる「音楽、機械音、雑音は右脳できく。」というのは正しいかもしれない。 記事を書いた伊勢雅臣氏は、記事のタイトルを「なぜ日本人には虫の「声」が聞こえ、外国人には聞こえないのか?」としたが、外国人にもちゃんと虫の音は聞こえている。
門田氏の研究が正しければ、日本人は虫の声を言語として聞き、西洋人は虫の声をメロディーとして聞いているという違いはあるが、日本人にも西洋人にもちゃんと虫の声は聞こえているということになる。
申しわけないが、「伊勢氏が門田氏の研究を曲解して記事を書いた」といえると思う。
↓こういう曲もある。
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リムスキー・コルサコフの「熊ん蜂の飛行」は、虫の音をメロディーというよりはリズムとしてとらえた名曲である。 この曲を聴いて不快感を感じる人は多くはないだろう、と思うのだが、どうだろうか。 私は日本人なのだが、蜂がぶんぶんうなる音にはどちらかというと不快感をもっていた。 しかしこういう曲を作る人は蜂の羽音を愛おしく思っているのだろう。 そうでなければこんな曲は作れないのではないかと思う。
3⃣日本語は英語より擬声語・擬態語が多いが、最も多いのは韓国語。
擬声語・擬態語について調べてみると、日本語2000語、英語などは1000語などと出てくる。 これが正しいかどうかわからないが、もし正しければ、日本語は英語の倍ほどの擬声語・擬態語があるということになる。 (いい加減 笑)
門田氏は⑥母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、日本人は言語と同様の左脳で聴き、西洋人は楽器や雑音と同じく右脳で聴いている。 とおっしゃっているが、日本語に擬態語・擬声語が多いとすれば、それは日本人が自然の音を左脳で聞いて言語化しているせいかもしれない。
そういえば、雅楽をやっている友人に聞いたのだが、雅楽における楽譜のようなものを唱歌(しょうが)といい、 奈良春日大社・若宮社の祭「春日若宮おん祭」で12月16日に若宮神社の前で奏される新楽乱声(しんがくらんじょう)は『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』であらわされるのだと教えてもらった。
これは邦楽器音を言語として表現した擬音語であるといえるかもしれない。
しかしながら、最も擬態語・擬声語が多いのは韓国語で、それは日本語の4倍、8000語もあるとされる。
門田氏の研究では、
⑬日本語と同じパターンはポリネシア語でしか見つかっていない。
ということだが、韓国語に擬態語・擬声語が多いのであれば、韓国語を用いる人々も、自然の音などを左脳で聞き、言語化しているのではないかと思えるのだが、そのあたりの研究はどうなっているのだろうか。 門田氏の研究についても、もうすこし突っ込んで確認してみる必要がありそうだ。
4⃣
昔から、多くの日本人が「西洋人にとって虫の音は雑音。」と言っていた。
伊勢氏も
⓻アメリカ人が虫と聞いて思い浮かべるのはモスキート(蚊)、フライ(蠅)、ビー(蜂)などの害虫。
アメリカでは蜂はみかけるが、蚊や蠅はほとんどみかけない。
文明生活の敵とみなされたか。(伊勢雅臣氏)
⑧「insect」には「虫けらのような人、卑しむべき人」という使い方があり、「bug」は、「悩ましい、てこずらせる」など悪いイメージがある。(伊勢雅臣氏)
とおっしゃっているが、
ビートルズの「Sun King」や、リムスキー・コルサコフ「熊ん蜂の飛行」を聞いて、「虫の音を文明生活の敵とみなしている」とか「卑しむべき存在とみなしている」などと感じる人は少ないだろう。 角田氏も
「⑥母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、日本人は言語と同様の左脳で聴き、西洋人は楽器や雑音と同じく右脳で聴いている。」
とおっしゃっている。 門田氏の意見は次の様にまとめられるかもしれない。 日本人・・・自然の音を言語として聞いている。・・・擬態語、擬声語が多い。
西洋人・・・自然の音をメロディーやリズムとして聞いている。・・・擬態語、擬声語が少ない。
門田氏は決して、西洋人は虫の声が聞こえないとか、西洋人は虫の声は雑音にしか聞こえない、とおっしゃっているわけではない。 それでも、次のような反論があるかもしれない。 「ビートルズやリムスキー・コルサコフは例外ではないか。なぜなら、英語では虫の声を「insect noise」という。 これは「虫の雑音」という意味であると。
私は英語はからきしだめなのだが、「 noise」を自動翻訳すると「雑音」とでる。 しかし、「insect noise」を自動翻訳すると「虫の雑音」ではなく「虫の音」とでる。 「虫の音」を英語に変換してみると「insect sounds」とでる。 「虫の音」は「insect noise」とも「insect sounds」ともいうようである。
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ある人が、次のように教えてくれた。
「日本語で『虫の声』とか『虫の音』と言うと鈴虫やコオロギのなどの音なので、蚊や蠅などを含むinsect(虫)と訳したのが間違い。cricket(コオロギ)と訳して検索すればリラックスCDとか出てくる。」
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上の動画のタイトルは、「Sleep and Relaxation Nature Sounds, Crickets Summer Night - Sleep Music」 日本語に訳すと「睡眠とリラクゼーション 自然の音、コオロギの夏の夜 - 睡眠音楽」である。 コメントをいくつか拾って、日本語に自動翻訳してみた。 GanjaGriffinさん
No matter who you are, where or when you were born, we are all nostalgic for cricket chirping at night. (あなたが誰であろうと、どこで、いつ生まれたとしても、私たちは皆、夜のコオロギの鳴き声を懐かしく思います。) S MさんThe only things missing are a distant train, my parents laughing and talking on the back porch, being quiet, unable to make out their words and the smell of cut grass. I felt safe in my room, falling asleep to these sounds and smells. I remember my mom playing Gladys Knight, Memories and feeling melancholy knowing that one day, this would all be memories. Daddy is gone now and the world just isn't the same. I'll never feel as safe and protected as did then. (唯一欠けているのは、遠くにある電車、裏のポーチで笑いながら話している両親、静かで言葉が聞き取れないこと、そして刈った草の匂いだけだ。 私は自分の部屋で安全だと感じ、これらの音と匂いを聞きながら眠りに落ちました。 母がグラディス・ナイト「メモリーズ」をプレイしていて、いつかこれもすべて思い出になってしまうと知って憂鬱だったのを覚えています。 パパはもういなくなって、世界は以前とは違います。 あの時ほど安全で守られていると感じることはもうないでしょう。)
Merlyn BenitezさんThis is the only sound that genuinely feels like a night at home on a summer night. I can feel the outside humidity coming inside while the AC is still on. Best sleep sound on here! (これは本当に夏の夜の家の夜を感じさせる唯一の音です。 エアコンをつけているのに、外の湿気が室内に入ってくるのを感じます。 最高の睡眠サウンドがここにあります!)
①イエス・キリストの墓は日本にあった?
明治時代、竹内巨麿という人物が青森県戸来村(現在の青森県新郷村大字戸来)を訪れ、塚(十来塚)をみつけた。
そしてこの塚をキリストの墓だと主張した。 私はここへは行ったことがないのだが、近くにはキリストの双子の弟・イスキリの墓とされる「十代墓」もあるそうだ。 この「十代塚」がイスキリの墓であると、竹内巨麿が主張したかどうか。 いくつかの記事をしらべても、はっきり記したものは見つからなかった。(探したりないのかも)
そうではあるが、「キリストに双子の弟・イスキリがいた」と、竹内巨麿が主張したことは、竹内文書の内容からして確かだと思われる。
竹内巨麿は平群真鳥の子孫・竹内家に養子に入ったといっているが、その竹内家には竹内文書なるものが伝わっていて、
そこに次の様に記されているのだという。
「イスキリス・クリスマスはゴルゴダの丘で処刑されていない。イスキリスの弟のイスキリが身代わりになった。 その後、イスキリスは日本にやってきて亡くなり、墓がつくられた。」と。 竹内巨麿はこのイスキリスがイエス・キリストであり、「十来塚」が「イエス・キリストの墓」だと主張したのだ。 ただし、竹内文書は後世に造られた偽書だとされている。 私も偽書だと思うし、十来塚・十代塚はキリストとキリストの弟・イスキリの墓ではないと思う。😊
②渡来はヘブライ、ナニャドヤラはヘブライ語の歌?
「なーんだ、でっちあげなのか」と思うのは、まあ当たり前な感覚だと思う。 しかし、そこで終わってしまうには、若干気になることがある。
その後「古代史書研究会」は「来村」という地名の由来は「ヘブライ」であると主張。 また、その地にはナニャドヤラという歌が伝わっており、川守田英二氏が、それは「ヘブライ語で、ヤハゥエをたたえる歌である」とした。
VIDEO
ナニャドヤラの歌詞をみてみよう。
♪ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ
ナニャドヤレ ナサレデ ノーオ ナニャドヤレ
ナニャドヤラヨー ナニャド ナサレテ サーエ ナニャド ヤラヨー
ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ ナニャド♪
これはさっぱり意味がわからない。 川守田英二氏は次のように主張する。
「ナギャド」・・・「前方へ」という副詞と「指導者」という名詞
「ナサレ」・・・・「掃蕩(払いのぞくこと)」
「ナギアドナサレ」・・・「前方を掃蕩する」
全体の意味・・・・「御前に聖名をほめ讃えん 御前に毛人を討伐して 御前に聖名をほめ讃えん」
ナニャドヤラについては、梵語説もあり、こちらも、ありそうに思える。 私がヘブライ語や梵語がわからないせいかもしれないが。(笑)
なにゃあどやらよ 奈任耶阿堵野羅世
なにゃあどなされいのさえ 奈任耶阿堵長谷嶺居野宰叡
なにゃあどやらよ 奈任耶阿堵野羅世
鳥谷幡山が降霊術師の小松周海に招霊を依頼したところ「キリストの妻の名はユミ子、娘が三人」であり、村の旧家の沢口家であるとされたが 沢口家の家紋の「桔梗紋」はユダヤのシンボル「ダビデの星」と似ていたり
この地方の幼児を始めて屋外に出すときには額に十字を描いて魔除けにする習慣など、キリスト教に関係していそうなものがある。③キリスト教伝来は1549年より早かった?
日ユ道祖論と呼ばれるものがある。 日ユ道祖論について、ウィキペディアはつぎのように記している。
日本人の祖先が2700年前にアッシリア人に追放されたイスラエルの失われた十支族の一つとする説。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96 より引用これが事実かどうか、私にはわからない。
しかし、5世紀頃日本に渡来したとされる秦氏の故郷は、弓月王国というキリスト教国であるとか、
空海が遣唐使として入唐したころの中国では景教(ネストリウス派キリスト教)が流行っていたとか 聖徳太子が厩で誕生するなどの伝説が、キリストの伝説に似ているなどの指摘もある。 また飛鳥昭雄氏は記紀神話と聖書の記述がそっくりのところがあると指摘されている。
聖書1日目/ 神は光と闇を分け光を昼、闇を夜と呼んだ。
古事記神世第1代/天之御中柱主神
※キリスト教の三位一体説は『生命の樹』で説明される。
生命の樹は三本の柱からなるとされ、中央が最も高くなり、左右に同じ高さの柱がある。
中央を「均衡の柱」左を「慈悲の柱」右を「峻厳の柱」と言う。
神を柱と表現するのはキリスト教も日本神道も同じ。(左右は均衡の柱からみて)
「天之御中柱主神」というのは生命の樹の均衡の柱を意味するのではないか。
聖書2日目/神は大空を作り大空の下と大空の上に水を分けた。
古事記神世第2代/豊雲野神 ※豊かな雲は大空の上を、野は大空の下に対応する。
聖書3日目/神は地と海を作った。
古事記神世第3代/宇比地邇神・妹須比智邇神
※宇比地は泥土で海、須比智は砂土で地に対応する。
聖書4日目/神は太陽に昼を治めさせ月に夜を治めさせた。
古事記神世第4代/角杙神・妹活杙神
※ヘブライ語で角・光るは同様に『krn』と記す。このため古代よりしばしば混同され、ミケランジェロがモーゼの像に角をつけてしまったという例もある。
杙は牛や馬を繋ぎとめておくためのもの。
つまり角杙神は光りながら地球のまわりを回る神(太陽)。
妹活杙神は満ち欠けしながら(活)地球の周りをまわる女(妹)神。
聖書5日目/神は水中生物・鳥を造り、祝福して言った。生めよ、増えよ。
古事記/神世第5代/意富斗能地神・妹大斗乃弁神
※意富斗・大斗は世界。地は男性・弁は女性の意。つまり「男の世界」「女の世界」。
聖書/6日目/神は獣と人間を造った。造ったものを見て満足した。
古事記/神世第6代/於母陀流神・妹阿夜訶志古泥神
※日本書紀では面足尊。地の面が完成したこと。あやに畏しは賞賛を意味する。つまりすべて完成し、あやに畏しと神が満足したのである。
日本におけるキリスト教の伝来は1549年とされるが、実はそれ以前に伝わっていたのではないかとする説があり、 これは有りそうに思える。
④死後3日後に生き返ったのは双子のトリック?
綾部宗彦氏はキリスト双子説を唱えておられる。
キリストは死後3日目に復活したとされるが、死んだ人間が生き返ったと信じることは知性に犠牲を強いる行為である、
そうではなくキリストは双子であり、十字架にかけられたのは弟のほうだったというのだ。 コーランにもキリストは「磔になって死んでいない。そう見えただけ。」というような主旨の内容が記されているとのこと。
磔になったイエスは死ぬ直前、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』とに叫んだとされる。
『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』は、『わが神、わが神。どうしてしをお見捨てになったのですか』と訳される。 エリとはヘブル語で『高い』『より上にある』の意で、そこから神をさすと解釈されたようだが 綾部氏は『高い』『より上にある』とは『兄』のことではないか、
キリストのかわりに磔になったイスキリが『兄さん、兄さん、どうして私を見捨てるのか』と言ったのではないか、
とおっしゃっている。
またキリストの弟子に「双子のトマス」という人物がおり、福音書ではトマスを「キリストの双子の兄弟」としているとも指摘される。
とすれば、竹内文書はコーランや、キリスト双子説をもとに創作されたものではないか、とも思えてくる。
⑤キリスト=太陽神説 キリストは太陽を擬人化したものとする説もある。
地球は歳差運動といって地軸がコマのようにふれている。
その影響で、北半球でも南十字星が見えていた時期があったとされる。 勿論北半球で南十字星が見えていた時期があったといっても、南中高度は低かったはずだ。 キリストは太陽、キリストが磔になった十字架は南十字星であり
冬至に近づくにつれ、太陽は南中高度をさげていき、南十字星の南中高度に近づいていくことを キリストが十字架にかけられたと表現。 キリストが死後3日目に生き返るのは、冬至の後、太陽が再び南中高度を上げていくことを表現したもの、というのだ。
もし仮に、記紀が編集される以前の古代の日本にキリスト教が伝わっていたとしたら、天照大神は日本版キリストということになる。 そしてこれにキリスト双子説を考え合わせてみよう。 「キリストが十字架にかけられる」というのは、「冬至のころ、南十字星の南中高度に近づいた太陽」の比喩であった。 しかしキリスト双子説では、十字架にかけられて死んだのはキリストではなくキリストの双子の弟であったとする。
ということは、「冬至のころ、南十字星の南中高度に近づいた太陽」はキリストの双子の弟ということになる。 そして、「冬至の後、再び南中高度を上げていく太陽」がキリストだ。
⑥天照大神は男神?
記紀神話では天照大神は女神とされているが、天照大神は男神とする説がある。 天岩戸に隠れた天照大神は、女神のストリップダンスに興味を持ってでてきた。 女神のストリップに興味を持つのは男神だというのである。 また物部氏の祖神・ニギハヤヒは先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日命といい、
ニギハヤヒが本当の天照大神ではないかとする説もある。 ニギハヤヒは神武が東征して畿内入りするより早く、天の磐船を操って畿内のいかるがの峰(大阪府交野市)に天下っていたと記紀は記している。 畿内入りした神武は、ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコと戦い、それに勝利して天皇として即位した。
この話から、神武以前の畿内に物部王朝があったとする説がある。 万世一系を称する天皇家があえてこの説話を記紀に記したのは、記紀編纂当時、神武以前に物部王朝があったというのは、当事の人々にとって余りに当たり前の認識だったからないかともいわれる。
神武は天孫(天照大神の子孫)だが、ニギハヤヒもまた天孫とされる。
とすれば、次のような関係が成立すると思う。
冬至のころ、南十字星の南中高度に近づいた太陽・・・キリストの双子の弟・・・ニギハヤヒ(天照大神の子孫)
冬至の後、再び南中高度を上げていく太陽・・・・・・キリスト・・・・・・・・神武(天照大神の子孫)
とここまで考えたとき、アッと閃いた。
ニギハヤヒが天下ったのは大阪府交野市の磐船神社付近とされるが、ここからそう遠くはない大阪府東大阪市に石切神社があって、ニギハヤヒトウマシマジノミコト(ニギハヤヒの子)を祀っている。 「いしきり」を東北訛りで発音すると「いすきり」になりそうだ。 キリスト(イスキリス)の双子の弟のイスキリは石切さん(関西では石切神社の事を親しみを込めてこう呼ぶ。)ではないのかと。 ちょっと単純かな(笑)。
石切神社 大勢の人々がお百度参りをしている。
⓻中世宗教画に描かれた飛行物体の正体は?
中世の宗教画に宇宙人が描かれているという。
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上の2:04あたりから、ドメニコ・グルランダイオが描いた「聖母と聖ジョヴァンニーノ」には円盤型UFOが描かれているというのだ。
またバチカン、デチャニ修道院にある『キリストの磔刑』(1350年)には飛行物体が描かれており、パイロットのような人物も描かれている。
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これらの絵画を根拠として、キリストは宇宙人だったという人もいる。 しかし常識的(ホントカヨ?)で、頭の固い私にはにわかにそんなことは信じられない。 頭の固い私は(笑)、『キリストの磔刑』に描かれた飛行物体は、ニギハヤヒが操っていかるがの峰に降り立ったとされる天の磐船だと思ったのだった。
天の磐船について、UFOの様なものではないかという人もいる。 実はこの天の磐船は巨石であり、大阪府交野市・磐船神社のご神体として存在している。 磐船神社はニギハヤヒが天下った場所だとされ、ニギハヤヒを祀っている。
天の磐船 「たまたまそこにあった巨石を神話になぞらえて天の磐船といってるだけじゃん」とおっしゃる方もおられるだろうが 頭の固い私は(笑)、天の磐船の正体はUFOではなく巨石だったと考える。 「雲陽誌」という書物には次のような内容が記されていると聞いたことがある。 「島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にした。ニギハヤヒは星の神。」
これはつまり、こういうことを言っているのだろう。 ・石は空から降ってきた星、つまり流星である。 ・ニギハヤヒは星の神 すると「天の磐船は、天から地上に落ちた星が岩になったものである」と、古の人々は考えたのだろうと推理することができる。
だからこそニギハヤヒは星の神として信仰されたのだろう。
バチカン、デチャニ修道院にある『キリストの磔刑』(1350年)に描かれている飛行物体も流星なのではないか。
⑨習合された太陽神と北極星の神 とここまで考えると、壁にぶつかってしまう。 ニギハヤヒは別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日命といい太陽神であるのに、星の神でもあるというのはどういうことなのか、ということだ。 理由はよくわからないが、太陽神と北極星の神は習合されたようである。 昼の神と夜の神を習合するというのはムチャクチャな感じがするが、 実際、天皇家は天照大神を祖神としながら天皇という称号を用いている。 天皇いう称号は天皇大帝(北極星の神)から撮ったのではないかとする説がある。
さらにこんな記事もある。
伊勢神宮の伊雑宮で行われる御田植神事では高さ9メートルに及ぶ巨大な扇が立てられるが、この扇には「太一」と書かれている。太一は古代中国で北極星が神格化された神名である。太一は北斗七星に乗って宇宙を循環すると言われる。太一は天照大神、北斗七星は神宮外宮の祭神・豊受大神と「神仏習合」を果たして、伊勢の神事に取り込まれたという。なお「淮南子」には太一神を信仰すれば不老不死になれると記されている。そして仏教では北極星・北斗七星は妙見菩薩という仏神となった。 https://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=1651 より引用
ウィキペディア「太一」にも太一は天照大神と同一視されることが多いと書いてある。
神武は北極星となって宇宙の中心に君臨し、ニギハヤヒは北極星の座を神武に奪われ下界に流れ落ちて石になったと考えられたのかもしれない。
ニギハヤヒは太陽神でもあり、北極星の神でもあった。 そう思って、⑥の石切神社の写真をみると、お百度参りをする人々が、北極星を中心にしてめぐる星々のように見えてきた。
星は北極星を中心に、左周りに動いている。しかし、それは地上から見上げた場合である。 星々が天球上に張り付いているとし、天球の上から星の動きを見れば右回りになる。 京都龍安寺の石庭はカシオペア座を示しているとする説を、明石散人さんが唱えておらえるが、 石庭のレイアウトは地上から見上げたカシオペアの形を左右反転させた形になっている。
①ミトコンドリアDNAハプログループ
ミトコンドリアDNAとは、細胞小器官であるミトコンドリア内にあるDNAのことである。 母親から娘・息子に伝わる。(受精時に精子にあるミトコンドリアDNAはなくなってしまうため、父親からは伝わらない。) このミトコンドリアDNAの塩基配列は、突然変異によって変化を繰り返しており、その塩基配列の違いからハプロタイプ、ハプログループ(ハプロタイプのグループ)として分類されている。
⓶ミトコンドリアDNAハプログループの系統順 ミトコンドリアDNAハプログループの系統樹は大きくわけて、ふたつの系統に分類される。 a.アフリカ人のみからなる枝(LOa、LOk、LOd、L1、L2、L3)
b.アフリカ人の一部と、その他すべての人種からなる枝(M、N)図1
↑これは大雑把な図である。(ミトコンドリア・イブについては③で説明する。) Mの下にM1,Q,C,Z,E,G,Dなどが分岐し、 Nの下にN1,X,A,O,S,Bなどが分岐する。
古い順にアルファベットが並んでいるわけではないのでわかりにくいが、これはミトコンドリアDNAハプログループの研究がネイティブ・アメリカンの研究から始まり、まずネイティブ・アメリカンのミトコンドリアDNAハプログループに対してA, B, C, Dと命名されたことが原因のようである。
トーマス・キヴィシルド, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons
よりお借りしました。
③ミトコンドリア・イブはひとりの女性
⓶図1 の系統樹の一番上にある「ミトコンドリア・イブ」とは何だろうか。
”ミトコンドリア・イブ(mitochondrial Eve)とは、ヒトについての分子生物学において、現生人類の最も近い共通女系祖先(matrilineal most recent common ancestor)に対し名付けられた愛称。(ミトコンドリア・イブは)約16±4万年前にアフリカに生存していたと推定され、アフリカ単一起源説を支持する有力な証拠の一つである。” https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96# より引用
”すると、人類の系図は二つの大きな枝にわかれ、ひとつはアフリカ人のみからなる枝、もう一つはアフリカ人の一部と、その他すべての人種からなる枝であることがわかった。これはすなわち全人類に共通の祖先のうちの一人がアフリカにいたことを示唆する。 このように論理的に明らかにされた古代の女性に対して名付けられた名称が「ミトコンドリア・イブ」である。” https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96#%E6%A6%82%E8%A6%81 より引用
ウィキペディアは「これはすなわち全人類に共通の祖先のうちの一人がアフリカにいたことを示唆する。」 と記している。
「(ミトコンドリア・イブは)約16±4万年前にアフリカに生存していたと推定され、」 とあり、ここから 「ミトコンドリア・イブは約20万年前~約12万年前に生存していた」この長い期間に生存していたということは、
ミトコンドリア・イブはひとりではなく、同じミトコンドリアDNAを持つ集団ではないか、と思われる方がおられるかもしれない。 しかし、私はミトコンドリア・イブはウィキペディアの説明にあるとおり(文字通り)「全人類に共通の祖先のうちの一人」という意味だと思う。
ミトコンドリア・イブには母親も祖母も曾祖母もいる。
ミトコンドリア・イブの母親、祖母、曾祖母、さらに遡るミトコンドリア・イブの女系祖先はすべて「現生人類の共通の女系祖先」であり、途中で突然変異をおこしていない限り、同じミトコンドリアDNAハプロググループに属すると思われる。 (しかし突然変異をおこすので、ミトコンドリア・イブの子孫には異なるミトコンドリアDNAハプログループが存在しているのだろう。)
だが、ミトコンドリア・イブの母親、祖母、曾祖母などは、ミトコンドリア・イブとはいわないと思う。 その理由について説明する。
④「約16±4万年前」は誤差を示す。
”しかし、後に(このような数値には必ず±がつき、±がない場合は信憑性を疑うべきであるにも拘らず)最大値の20万年前が一人歩きし、ヒトがそれまでの説より数万年さかのぼり、20万年も前から存在したことが証明されたという誤解を生じた。(実際に対象とした塩基配列数と標本数を比較すると4万年という誤差は妥当な値である。)” https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96#%E8%A7%A3%E8%AA%AC より引用
「約16±4万年前」とは「最大で20万年前~最小で12万年前」ということであり、人類の発祥が20万年前と証明されたことではない、と書いてある。
また、塩基配列数と標本数を比較すると4万年という誤差は妥当な値とのこと。
「±4万年」とは、誤差であって、ミトコンドリア・イブと呼ばれる集団が20万年前~12万年前に存在していたという事ではない。 ミトコンドリア・イブはウィキペディアが記すように「一人の女性」であり、その一人の女性が存在していたと考えられるのが「約16±4万年前」すなわち「最大で20万年前~最小で12万年前」という意味だろう。
⑤Y染色体アダムはミトコンドリア・イブの夫ではない。
この結果は、2000年(平成12年)にネイチャー・ジェネティクス誌において発表された、スタンフォード大学のピーター・アンダーヒルとカヴァッリ・スフォルツァらのグループによる父親から息子にのみ伝わるY染色体を用いた同様の検討によっても、ほぼ同じパターンが確認された[2]。これはY染色体アダムと呼ばれることがある。Y染色体アダムは6万年前頃に生存していたと見られるが、当然のこととしてミトコンドリア・イブの夫である可能性は無い。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96#%E8%A7%A3%E8%AA%AC より引用
この結果というのは、「ミトコンドリア・イブ」の存在が推定されるに至った研究結果のことである。
Y染色体アダムは6万年前頃に生存していたと考えられており、Y染色体アダムはミトコンドリア・イブの夫ではないのである。
④「すべての人類はたった一人の女性からはじまった」のではないが、「ミトコンドリア・イブは複数人いる」という意味ではない。
”これらの科学的成果は一般にも大変興味のあるところであり、たちまち広く知られることとなったが、同時に誤解をうむことともなった。特に「すべての人類はたった一人の女性からはじまった」とするものがある。正しくは、「すべての現存する人類は母方の家系をたどると、約12-20万年前に生きていたあるミトコンドリアの型をもつ女性にたどりつく」ということである。この二つの言い方は、方向が逆であるだけでなく、本質的に異なる。「すべての人類はたった一人の女性からはじまった」というのは誤解で、 「すべての現存する人類は母方の家系をたどると、約12-20万年前に生きていたあるミトコンドリアの型をもつ女性にたどりつく」が正しい。” https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96#%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E8%AA%A4%E8%A7%A3 より引用
ここに、
a同時に誤解をうむことともなった。特に「すべての人類はたった一人の女性からはじまった」とするものがある。
b”すべての現存する人類は母方の家系をたどると、約12-20万年前に生きていたあるミトコンドリアの型をもつ女性にたどりつく」が正しい。”
とある。
つまり、
aすべての人類はたった一人の女性からはじまった。・・・✖ bすべての現存する人類は母方の家系をたどると、約12-20万年前に生きていたあるミトコンドリアの型をもつ女性にたどりつく・・・〇
ということだが、申しわけないが、この記述は少し誤解を生みそうに思った。
「一人の女性から始まった」が誤解なら「約12-20万年前に生きていたあるミトコンドリアの型をもつ女性」は複数人いるってこととちゃうの?
と思われないかなと。 bは、「すべての現存する人類は母方の家系をたどると、約12-20万年前に生きていたあるミトコンドリアの型をもつ【ひとり】の女性にたどりつく」と書くべきではないのだろうか。
⑤現生人類の共通の女系祖先の中で「最も近い」のがミトコンドリア・イブ
”ミトコンドリアは女性からしか伝わらないため、男性は自分のミトコンドリアDNAを後世に残すことができない。また、女性は自分が産んだすべての子にミトコンドリアDNAを伝えるが、その子らがすべて男性だった場合、彼女のミトコンドリアDNAは孫に受け継がれずに途切れる。もし子に女性がいても、娘が産んだ孫に女性がいなければ、やはりその家系のミトコンドリアDNAは廃れる。つまりある個人のミトコンドリアDNAが子孫に伝わるためには、その間のすべての世代に少なくとも1人は女性が産まれなければならない。” https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96#%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E8%AA%A4%E8%A7%A3 より引用上の文章を箇条書きにしてまとめると、次のようになると思う。
・ミトコンドリアは女性からしか伝わらない。 ・男性は自分のミトコンドリアDNAを後世に残すことができない。 ・女性は息子と娘にミトコンドリアDNAを伝えるが、生んだ子がすべて男性だった場合、彼女のミトコンドリアDNAは孫に受け継がれずに途切れる。
・女性に娘があっても、娘が産んだ孫に女性がいなければ、彼女のミトコンドリアDNAは途切れる。
これをふまえて、ウィキペディアに掲載されている図を見てみよう。
この図は、夫婦から2人の子供が生まれて人口の増減がないとした場合のモデルである。(常に人口は8人)
向かって左、縦に並ぶ数字は世代を、上部・横に並ぶアルファベットは第1世代の4人の女性のミトコンドリアDNAハプロタイプをあらわすのだろう。 ただし、第2世代以下は上部アルファベットのミトコンドリアDNAハプロタイプをあらわしてはいない。 アルファベットが示しているのは、あくまで第一世代のミトコンドリアDNAハプロタイプについてのみである。ピンク色の〇・・・・ミトコンドリアDNAハプロタイプA
水色の〇・・・・・・ミトコンドリアDNAハプロタイプB
オレンジ色の〇・・・ミトコンドリアDNAハプロタイプC
緑色の〇・・・・・・ミトコンドリアDNAハプロタイプD
と考えればいいと思う。
ここではA・B・C・Dとなっているが、別に他のミトコンドリアDNAハプログループの型でもいい。
ようは、異なるミトコンドリアDNAハプログループの型を持つ4人の女性がいる、ということだ。
〇は女性、□は男性である。
上の図を文章で説明すると、次のようになると思う。
ミトコンドリアハプロタイプAは、第1世代→第2世代→第3世代→第4世代まで継承されたが
第4世代の女性が産んだ子供は男子だけだったので、第4世代で途切れた 。
ミトコンドリアハプロタイプBは第1世代→第2世代→第3世代→第4世代→第5世代→第6世代まで継承された。
また第6世代の女性のミトコンドリアハプロタイプはすべてBになった。
ミトコンドリアハプロタイプCは第1世代→第2世代まで継承されたが
第2世代の女性が産んだ子供は男子だけだったので、第2世代で途切れた。
ミトコンドリアハプロタイプDは第1世代→第2世代→第3世代まで継承されたが
第3世代の女性が産んだ子供は男子だけだったので、第3世代で途切れた。
つまりこの図では、ミトコンドリアハプロタイプBのみが生き残ったということになる。 そうであれば、ミトコンドリアハプロタイプBの第1世代がミトコンドリア・イブなのか、というとそうではない。
図を見ると、ミトコンドリア・イブはミトコンドリアハプロタイプBの第2世代となっている。 ミトコンドリアハプロタイプBについて、もうすこし詳しくみてみよう。
ハプロタイプBの女性の継承のみを表に表してみた。
”ミトコンドリア・イブはより正確に言えば「現生人類の最も近い共通女系祖先」だと言える(彼女の女系祖先はすべて「現生人類の共通の女系祖先」でもある。その中で「最も近い」のがミトコンドリア・イブである)。” https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96#%E8%A7%A3%E8%AA%AC より引用
ここに ”「最も近い」のがミトコンドリア・イブである” と記されている。 すると、aではなく、bがミトコンドリア・イブということになる。
ウィキペディア図の説明のところに、次のように記されている。
”5.もしA6が娘を残さずに死ねば、生き残った人々にとってのミトコンドリア・イブはB2からC3に代わる(B2はB1と同じく、「共通の女系祖先」の一人となる)” https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96#%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E8%AA%A4%E8%A7%A3 より引用これも図に表してみた。
つまり子孫にミトコンドリアDNAが継承されなくなった時点で、ミトコンドリア・イブは次世代以降の女性に繰り下がるということだろう。 とここまで理解すると、ウィキペディアの次の言葉がよく理解できる。
このような誤解を防ぐため、ミトコンドリア・イブではなく、ラッキー・マザーと呼び替える動きもあるとのことである。
ウィキペディアの内容については、だいたいこういうことだと思う。 そしてこの説明は、ミトコンドリア・イブは団体ではなく、1人の女性であるとしていることになる。 ミトコンドリア・イブを団体とした場合、複数人存在するミトコンドリア・イブが同じように、娘を1人産んだり、2人産んだりするとは考えられないだろう。
ただし、ウィキペディアの記述が間違っている可能性はある。
念のため、コトバンクを見てみよう。
「現在の人類の母系祖先を遡っていったとき、最初にたどりつく、共通する一人の女性祖先」
「その母系祖先たちも現在の人類に共通する女性祖先のひとりであるが、その中で、現在の人類に最も近い世代の祖先が、いわゆるミトコンドリアイブである。」 とあり、だいたい、ウィキペディアの内容と同じである。
⑥日本人の95パーセントは9人のイブの娘たちの子孫?
”ミトコンドリア遺伝子は100%母性遺伝です。
ですから、ミトコンドリアDNA解析をすれば、女性の系統の祖先が解るという特徴があります。
これを利用して2001年、オックスフォード大学のブライアン・サイクス教授が人類共通の母親(ミトコンドリア・イブ)が15万年前にアフリカで誕生し、その後人類は、35の分岐を持つ系統樹に分布したと発表しました。
それによると日本人の95パーセントは9人のイブの娘たちの子孫 と判定できるそうです。” https://iyo-monogatari.jp/nihonjin/origin/564.html より引用この文章はへんだ。
「日本人の95パーセントは9人のイブの娘たちの子孫」とあるが、文章の流れから「イブ」とは「ミトコンドリア・イブ」の事と思われる。
「9人のイブの娘たちの子孫」とあるが、「9人」は「イブ」にかかるのか、「イブの娘たち」にかかるのか、それとも「子孫」にかかるのか? 「子孫」とは現代に生きる我々日本人のことだろう。日本人が9人ということはないので、
「9人」は「イブ」か、「イブの娘たち」のどちらかということになる。
本来の意味では、「ミトコンドリア・イブ」は約16±4万年前にアフリカに存在していた一人の女性であり、
「現在の人類の母系祖先を遡っていったとき、最初にたどりつく、共通する一人の女性祖先」であった。
現在いきている全ての人類はミトコンドリア・イブにつながっているのであった。
ということは、9人はイブにかかるのではなく、「娘たち」にかかるのだろうか。
とすれば、「ミトコンドリア・イブと呼ばれる一人の女性の娘が9人いる」という意味なのだろうか。
つづきの記事の内容をまとめると、次のようになる。(※は私による注釈)
●現在ミトコンドリアDNAは世界に80パターンのタイプがある。
※パターンとはミトコンドリアDNAハプロタイプのことだろう。
●日本人は16のパターンのDNA(A・B4・B5・C・D4・D5・F・G・M7a・M7b・M7c・M8a・M10・N9a・N9b・Z)が確認されている。
●15万年前に出現した人類はアフリカを出て10万年前、中東あたりでR, N, Mなどのグループに分かれた。
トーマス・キヴィシルド, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons
よりお借りしました。
●アジアへの進出は5万年前におこり、B, Fが生まれた。 ●日本に多いミトコンドリアハプロタイプは次のとおり。
1.Mから分岐したD4(30%以上)
2.Bから分岐したB(10%)
3.Nから分岐したA(7%)
4.Nから分岐したN9a(5%)
5.N9b(2~3%)
6.M7
7.M7から分岐したM7a (8%)
8.M7から分岐したM7b
9.M7から分岐した M7c
10. F(5%) 記事の内容は日本人に多いミトコンドリアDNAハプログループの説明だった。 すると、「日本人に多いミトコンドリアDNAハプログループ」を持ち込んだ集団のことを、「(ミトコンドリア・)イブの娘たち」として、記している?
あるいは「日本人に多いミトコンドリアDNAハプログループ」の中で、自分のミトコンドリアDNAを現在まで継承させている女性が、それぞれのミトコンドリアDNAハプログループごとにひとりおり、
その女性たちのことを「9人のイブ」といっているのだろうか。 しかし、おそらく集団でやってきたであろう、それぞれのミトコンドリアDNAハプログループの女性のうち 現在までミトコンドリアDNAを伝えている女性がたったひとりである、というのはわかっていないのではないだろうか。 申しわけないが、読む人を混乱させ、誤解を招く記事だなあと思った。
1⃣ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコ
初代神武天皇は日向に住んでいたが、あまりに国の端であるということを理由に東征の旅にでる。 その際、シオツチの翁が「東にはすでにニギハヤヒが天の磐船を操って天下っている」と発言している。
神武の軍は河内国の白肩の津に到着し、東に向かい胆駒山を経て中洲(うちつくに)へ入ろうとした。 ここで地元の長髄彦との闘いとなり、神武の軍は敗戦し、南に迂回して畿内入りする計画をたてる。 神武の軍は苦労の末、畿内に入り、再びナガスネヒコと対戦する。
ナガスネヒコはこういった。 「昔、ニギハヤヒと言う神が天の磐船に乗って天下り、天孫だと名乗った。 私はニギハヤヒを神と奉じ、私の妹のトミヤスヒメはニギハヤヒの妻となり、二人の間にはウマシマジノミコトという御子も生まれた。 天孫が二人もいるのはおかしい。あなたは偽物だ。」
そういってナガスネヒコはニギハヤヒが天孫であることを示す天羽羽(あめのはばや)と歩靫(かちゆき)を見せた。 すると神武も同じものを見せた。
ナガスネヒコはナガスネヒコが天孫であることに納得せず、戦いを止めようとしなかったので、ニギハヤヒが長髄彦を殺し、神武に服した。
記紀にはだいたいこういう内容が記されている。
ニギハヤヒは物部氏の祖神とされることから、神武以前、畿内には物部王朝があったのではないかという人もいる。 記紀に万世一系の天皇家にとって都合の悪いニギハヤヒとナガスネヒコのエピソードが掲載されているのは 記紀が成立した奈良時代、それは偽りようがないくらい事実として人々認識されていたのではないかとする説もある。
磐船神社 ご神体の天磐船 ニギハヤヒはこの天磐船にのって、天下ったと伝わる。
2⃣蝦夷の祖・アビヒコ
鎌倉~室町期成立の『曽我物語』には、「蝦夷の祖は鬼王安日(アビヒコ)」とする伝承が記されているそうである。
蝦夷とは現在の関東地方、東北地方、北海道、樺太に住む人々の蔑称である。
アビヒコはナガスネヒコの兄で、神武に敗れたナガスネヒコはアビヒコとともに青森県弘前に逃れたとか
アビヒコのみ津軽地方に流罪になったというのである。
ただし、これは記紀には記載がない。
安倍氏の祖はこの安日彦であるとする伝承がある。
故・安倍晋三氏の安倍家は 前九年の役で知られる安倍宗任の子孫であると言い伝わっているそうである。
3⃣オセドウ貝塚の古人骨
青森県五所川原市相内にオセドウ貝塚がある。 縄文時代前期~中期の遺跡と考えられている。 このオセドウ貝塚から大正12年に人骨が発見されている。大正12年に村人によって、発掘された人骨を「オセドウ貝塚人骨」として詳しく報告されている。
(筆者注一博士は、人類学者である。)
*その特徴は、
(1)壮年男子である。
(2)歯の摩耗は、少ない。
(3)縫合の連結が進んでいる。
(4)死因は、頭部の皮膚疾患か、損傷による骨膜炎症かである。
(5)眉間隆起は、普通である。
(6)短頭である。
(7)歯のかみ合いは、下歯と上歯とがきちんとかみ合っている。
(8)鰐の突出が弱く抜歯していない。
(9) 長すね骨である。
⑩顔部の諸特徴は、石器時代人の通有性に近い、(以下、略)、さらに考察が加えられてい
るが省略する。
「(9) 長すね骨である。」というのは、「脛の骨が長い」ということだろうか。
写真は、上記記事の4pにある。
4⃣ナガスネヒコとオセドウ貝塚は時代があわない?
オセドウ貝塚から発見された古人骨はナガスネヒコのものではないかという記事も多数みつかる。 しかし私は「この骨をナガスネヒコのものだとする」のは少し抵抗がある。
オセドウ貝塚は縄文前期~中期の遺跡である。 縄文時代は13000年くらい前から2300年くらい前の時代である。
ここから発見された古人骨をナガスネヒコの骨とするには時期が早すぎるように思えるからだ。
記紀によれば神武天皇が即位したのは紀元前660年。 しかし、古代の天皇は100歳を超える長寿であるわりに事績が少ないなどそのまま信用できないとし 欠史八代といって、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇は存在しなかったとする説などがある。
魏志倭人伝などに邪馬台国が登場するのは3世紀。 神武、ニギハヤヒ、ナガスネヒコが実在していたとすれば、早くても3世紀を少し遡ったぐらいの時代ではないだろうか。 ちなみに私は神武・崇神・応神の三天皇は同一人物であり、 邪馬台国は大和、卑弥呼は日女命で倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の事ではないかと考えている。 倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は後円部の大きさが魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓とほぼ同じ大きさである。
(箸墓は前方後円墳、魏志倭人伝には円墳と記されているので箸墓は卑弥呼の墓ではないとする説もある。) 籠神社の系図では、始祖・彦火明命の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」とある。
籠神社では彦火明命はニギハヤヒの別名としている。
そして魏志倭人伝に登場する卑弥呼は日女命(ひめのみこと)に別の漢字をあてたものではないかとする説があり、
日女命は物部氏の祖神・ニギハヤヒの9代目の孫なので、物部王朝の女王ということになる。
卑弥呼には男弟があると魏志倭人伝は記しているが、この男弟は大物主命ではないかと思う。
倭迹迹日百襲姫命のもとに通っていた神が大物主で、大物主の正体が蛇であることを知っておどろいた倭迹迹日百襲姫命は 杼でほとをついて死んだという伝説がある。 近親相姦じゃん、といわれるかもしれないが、古代には血の純潔を守るため、同複の姉弟、兄妹の結婚は当たり前だったとする説がある。 古代エジプトでも兄弟姉妹婚は当たり前にあった。
大物主の物は物部氏の物ではないか。 大物主を祀る大神神社は本殿をもたず、拝殿より直接ご神体である三輪山を拝する古い祭祀スタイルの神社だが 物部氏が本拠地としていた大阪府交野市・枚方市付近には拝殿のみで、本殿を持たない神社がいくつかある。 ニギハヤヒを祀る磐船神社、星田妙見宮、交埜神社の境外社・瘡神社 など。 本殿をもたないのは物部氏の祭祀スタイルであるかもしれない。
とすれば、大物主神とは物部氏の神だということになる。 卑弥呼と仲の悪い狗奴国の男王・卑弥弓呼は「日の命(みこと)」で、日向からやってきた神武=崇神ではないかと思う。
崇神天皇の和風諡号のひとつに「ミマキイリヒコイニエ」というのがあるが、名前の中の「イリ」は入り婿の入りだとする説がある。
狗奴国の男王卑弥弓呼は邪馬台国の入り婿となることで邪馬台国をのっとり、邪馬台国の男王としてたったのではないだろうか。 神武の皇后・ヒメタタライスズヒメは大物主または事代主の娘とされることに注意してほしい。 先ほど私は「大物主は物部氏の神ではないか」と書いた。 神武は日向から東征して畿内入りして、物部王朝の王の妻を皇后にしたのだと考えられる。 話が長くなったが、この推理が正しければ、神武=崇神と戦ったナガスネヒコとは邪馬台国があった3世紀ごろの人物ということになる。
縄文時代初期~中期のオセドウ貝塚とは時代があわない。
5⃣オセドウ貝塚古人骨は少年期に去勢されていた? オセドウ貝塚古人骨をネットで調べると、「身長が2mある」とでてくるのだが、上の報告に身長は記されていない。
本当に2mもあるのだろうか。
平成2年次点では市浦村歴史民族資料館に展示されているとある。
ぜひ見にいってみたいが、大阪から青森はちと遠い。
そういうわけで確認ができていないが、本当に2mあったとしよう。 栄養状態がいまよりも悪かったと思われる縄文時代になぜそんな大男がいたのだろうか。 (性別については報告書に、(1)壮年男子である。 と書いてある。) ある時、私はカストラートについて調べていた。 カストラートとは近代以前のヨーロッパで流行した去勢された男性歌手のことだ。
VIDEO
声変わり前の男児を去勢し、男性ホルモンの分泌を抑制すると、大人になってもボーイソプラノが維持できるという。 成長ホルモンは分泌されるため、通常の男性と同じように成長し、 肺活量などは成人男性とほとんど変わらなかったらしい。 ということは、声は少年のままでも息がながく、声量があったということだろうか。 カストラートが登場したのは、1550年 - 1600年ごろのローマといわれる。 1878年、ローマ教皇レオ13世が、人道的でないとして、カストラートを禁じ、カストラートの歴史はとじられた。
「成長ホルモンは分泌されるため、通常の男性と同じように成長し、」と書いたが、こんなことを書いてある記事がみつかる。
映画『カストラート』というのがあります。バロック時代に実在した史上最高のカストラートと称されたファリネッリの生涯を描いた伝記映画(1994年作)です。背が高く(去勢されたために男性ホルモンが軟骨閉鎖をおこさないため高身長になることが多い)ハンサムなファリネッリが、舞台で朗々と歌うと(肺活量が多く、かつ歌唱技術により1分間息継ぎしないで歌えたらしい)、男たちを、国王を魅了し、淑女もあまりの美声に興奮して気絶してしまう場面が印象的でしたね。
VIDEO イタリア・パドヴァ大学の研究チームが、19世紀に活躍したカストラート歌手ガスパーレ・パッキェロッティの遺骨を解剖学的に精査したと、6月28日付の「Daily Mail」が報じている。
~略~
カストラート歌手は、下肢が長く、長身であると言われてきたが、今回発掘されたパッキェロッティも、大腿骨並びに頸骨が大きく、身長191センチメートルもの巨体であったと推定された。また、上腕骨も大きく発達しており、身長に加え、四肢すべてが常人を凌駕していたようだ。
去勢の痕跡はそれだけではない。通常は35歳ごろに消失するはずの骨盤の骨の一部である腸骨稜にみられる骨端線が、81歳で亡くなったはずのパッキェロッティに残っていたそうだ。他にも、CTスキャンにより、パッキェロッティが、骨粗しょう症を発症し、脊椎を骨折していたことも分かった。これらは去勢によりホルモンのバランスを崩した結果だとみられている。
オセドウ貝塚古人骨は少年期に故意、または事故などによって去勢された骨ではないのか?(本当に身長が2mもあるのなら、だが)
6⃣ナガスネヒコは去勢されていた?
ナガスネヒコはなぜナガスネヒコという名前なのだろうか。
オオヤマツミはニニギに娘の姉妹・コノハナノサクヤヒメとイワナガヒメをニニギの妻として差し出したのだが、
面食いのニニギは美しいコノハナノサクヤヒメだけを妻とし、醜いイワナガヒメは返してしまった。 オオヤマツミは、「イワナガヒメは永遠の命を、コノハナノサクヤヒメは繁栄をねがって差し上げたのに、イワナガヒメを返してしまったので、命は短くなるだろう」と言ったという。
このように神の名前は神の性質を表している場合がある。 この話の場合、イワナガヒメは「岩のような永遠の命の神」、コノハナノサクヤヒメは「花のような繁栄の神」だ。
とすれば、ナガスネヒコは脚が長い神ということだろう。
なぜナガスネヒコは脚が長いのか。 それはカストラートのように少年期に去勢した(または去勢された)からではないか?
脚が長いというだけで、少年期に去勢したというのは、あまりに安直だと言われそうだ。(笑)
しかし、もう一点、気になる点がある。 ナガスネヒコはニギハヤヒに妹のトミヤスヒメを嫁がせている。 なぜナガスネヒコは自分の娘ではなく、妹を嫁がせたのだろうか。 ナガスネヒコには息子しかいなかったのか。もちろん、それはありえる。 しかし、ナガスネヒコに子供がなかった、とも考えられる。 つまり、ナガスネヒコは少年期に去勢していたため、子をなす能力がなかったのではないかということだ。 もちろん、これも安直な考えではあるが、可能性がないともいえない。
古代の日本は中国から様々な文化、風習をとりいれたが、宦官はいなかったといわれる。 しかし、はるか昔には宦官のような風習があったのかも❔
1⃣縄文土器は食用植物のフィギュアだった?
VIDEO
上の動画はとても面白い内容である。 土偶は奇妙な形をしているなあ、と常々思っていたが、顔が食用植物の形と聞くと、なるほど、と思える。
9:15あたりの画像は、向かって左から オニグルミ、クリ、トチノミ、ハマグリ、これは何という貝かわからない、イタボガキ
そのほかにも、竹倉 史人さんは「遮光器土偶はサトイモである」などとしておられるが、遮光器土偶がサトイモというのはちょっと納得がいかない。
遮光器土偶
サトイモ
そうではあるが、オニグルミ、クリ、ハマグリは確かにそのように見えるし、祖の説がまちがっていたとしても発想がすばらしい。
この竹倉 史人さんの説については、また改めて考えて見たいと思う。
今日なぜ、冒頭で竹倉 史人さんの説を紹介したのかといえば、 「昔の人は、この土偶のように、物の形にインスピレーションをうけて、仏像を製作したのではないか」と私は思っていて、それを説明したいと思ったからである。
2⃣蟹の死体から現れた観音 前回、私は山梨県山梨市万力にある長源寺に伝わる蟹坊主の話をした。 長源寺のご本尊の千手観音は、巨大な蟹の死体からあらわれたとされる。 長源寺のご本尊の写真はこちら↓
下の蟹満寺の額と長源寺のご本尊の写真を比べてみてほしい。 長源寺の千手観音の腕の付き方がカニの脚のように見える。
京都市金戒光明寺の吉備観音は立像だが、やはり腕がカニのように見える。
滋賀県長浜市の高月観音の里には珍しい千手千足観音がおられるが、この観音様は二体のカニが合体した観音様ではないかと思う。
これは蟹の交尾を撮影したものとのこと。
2⃣蜘蛛のみほとけ
「仏像は動物などの形にインスピレーションを受けて製作されたものではないか」
私がこう考えるようになったのは、興福寺の阿修羅像を拝観したことがきっかけだった。 興福寺の八部衆像のうち5体のみほとけに動物のイメージがある。
五部浄像(ごぶじょうぞう)は像の冠をかぶっている。
沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いている。
乾闥婆像(けんだつばぞう)は獅子の冠をかぶっている。
迦楼羅像(かるらぞう)は頭が鳥で体が人間。
畢婆迦羅像(ひばからぞう)はニシキヘビを神格化した神。
興福寺の八部衆の一である阿修羅像もまた、何かの動物をあらわしているのではないかと思ったのだ。
阿修羅像 その美しい顔立ちにうっとりしてしまい、つい見過ごしてしまいそうになるが、美しい顔だちよりももっと特徴的なのはその長い腕ではないだろうか。
腕は長いだけでなく、筋肉がまったくついておらず、昆虫的である。
阿修羅は蜘蛛ではないだろうか。腕は6本だが、脚の2本を足せば8本となって蜘蛛の脚の本数とあう。
私は阿修羅の腕は蜘蛛の脚に似ていると思う。
また腕と脚と合わせて8本であり、蜘蛛の脚と同じ数である。
阿修羅は蜘蛛なのではないか?
↑ リンク先の東大寺三月堂の不空羂索観音の光背を見てほしい。
蜘蛛の巣のようではないだろうか。
VIDEO
阿修羅ほど昆虫的な腕ではないが、腕と脚の合計が8本で蜘蛛の脚の数と同じだ。
また不空羂索観音は手に羂索をもっている。
羂索とは仏教用語では罠の色糸を撚り合わせた縄のことだが、鳥獣をとらえる罠のことでもある。
不空羂索観音がこの羂索をなげると、よりあわせた綱がぱあっとほどけてひろがるのではないだろうか。
それはまさしく土蜘蛛の姿である。
清水寺 六斎念仏 獅子と土蜘蛛
4⃣清水型観音は伊勢海老?
リンク先3枚目に清水寺のご本尊・清水型千手観音の御前立の写真がある。 清水寺のご本尊は秘仏であり、かわりによりもご本尊に似せて作られた御前立が厨子の前に置かれているのだ。 私は公開された秘仏の清水型千手観音を拝観したことがあるが、御前立よりも丸顔であったような記憶がある。 全国に清水寺と称する寺はあり、その多くの寺で清水型観音を祀っている。 特徴は頭上に高くあげられた二臂の長い腕を組んだおすがたである。
VIDEO ↑ これは長野県東筑摩郡山形村の清水寺の紙芝居だが、冒頭に清水型千手観音のイラストが登場する。
友人は京都清水寺の線所観音を拝んで、「これは伊勢海老だ」と言った。
写真のように伊勢海老は長い触覚をもっている。これを千手観音の腕として表現したのではないかというのである。 たしかにそれはありそうである。
清水型千手観音の頭上高く上げられた腕以外の腕は、伊勢海老の胴体から延びる脚のイメージ。
さらに伊勢海老の尻尾は緩やかに裾が広がる観音様の衣のように見える。
5⃣長い腕の十一面観音は猿?
十一面観音は腕が長く作られることが多い。特に奈良・法華寺のものは腕が長く、膝のあたりまである。 像高は1メートルほどで、小ぶりのみほとけである。
これは、猿をイメージして作られた観音様なのではないだろうか。 猿は膝を曲げて立つので腕が長く見える。
大阪天満宮 猿回し
厩猿信仰(猿を厩の守護神とする)はインドから中国を経て日本に伝わったとされるが、中国にはキンシコウという金色の猿がいる。
日本猿も手が長いと思うが、キンシコウはさらに腕が長いように見える。
ニホンサルの体長は83 cm、キンシコウの体長は65cmほどで、像高1mほどの小振りの法華寺・十一面観音像のイメージにあう。
6⃣伎芸天は迦楼羅 ?
日本に現存する伎芸天は秋篠寺のものだけである。
美しいみほとけは数多くあるが、秋篠寺の伎芸天ほど優しそうな表情のみほとけは他にはないと思う。
掘辰雄さんはこの像を『東洋のミューズ』と称讃された。
ミューズとはギリシャ神話に登場する音楽・舞踏・学術・文芸などを司る女神である。
しかし私はこの美しい伎芸天を見て、迦楼羅(かるら)だ!と思ってしまった。
VIDEO
2:39あたりの技芸天の耳の上向かって左あたりを見てほしい。
三面宝冠をつけているとのことだが、宝飾の真ん中あたりに小さな二重の円がある。
次に迦楼羅の伎楽面を見てみよう。
恐ろしい顔をしていて伎芸天にはちっとも似ていないが、耳に伎芸天と同じような二重の円がある。
私は伎芸天と迦楼羅のこの二重の円は鳥の耳を表したものではないかと考えている。
鳥の耳は羽毛で隠れていてわかり難いが、小さな穴があいている。
迦楼羅は鶏冠とくちばしを持ち、鳥を神格化した神である。
そして伎芸天は器楽の技芸に秀でた神・・・ということは音楽の神なので、やはり鳥を神格化した神とも考えられる。
7⃣葛井寺・千手千眼観音は孔雀?
大阪府藤井寺市の葛井寺のご本尊・千手千眼観音の脇手は
持物をもつ大手38本は手38本、小手1001本(右500本、左501本)を持つ迫力ある観音様で、 脇手には墨で眼が描かれている。 これは孔雀ではないかと思う。
孔雀の雄は羽根を広げるとたくさんの目があるように見える。
ギリシャ神話に全身に100の目を持つアルゴスという神が登場するが、アルゴスも孔雀の神であるかもしれない。
8⃣水月観音はクラゲ?
神奈川県鎌倉市・東慶寺には水月観音という超美形の観音さまがおられる。
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クラゲの漢字表記は「海月」「水母」「水月」である。 水月とは、ずばりクラゲのことなのである。 崩れた三角形の形はクラゲを思わせる。
2023年1月9日、淀川河口で鯨が発見され、「よどちゃん」という愛称がつけられた。
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残念ながら鯨は1月13日に死んでいるのが確認された。
1月9日、今宮戎神社は十日戎の宵戎だった。
十日戎は1月10日が本戎、11日 が残り戎である。
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つまりよどちゃんは、宵戎の日に現れて、残り戎が終わって間もなく死んでしまったのである。 私はよどちゃんは、えべっさん(蛭子神のこと)の化身のようだなと思った。
その理由は十日戎が始まる日にあらわれて、残り戎の2日後に死んだというだけではない。 鯨のことを「エビス」という地方があるからだ。
https://ebisufan.com/news/ebisukujira.html/ ↑ こちらの記事にも
「昔の人は「鯨」のことを「えびす」と呼んでいた」 とあり、鯨を持ったり、鯨に乗ったエビス像の写真が掲載されている。
「寄り鯨の到来で七浦が潤う」(浅瀬に迷い込んだ鯨一頭で七つの漁村の暮らしが潤う)と言われており、魚業の神=鯨が身を挺して住民に恵みをもたらしたことを感謝し、鯨への信仰心が育ってきたそうです。その漁業神こそが「恵比寿様」のことであり、まさに、恵比寿様は鯨の化身として同一視されていたんです。
【震災追悼記事】「恵比寿」と「鯨」の意外な関係 より引用
よどちゃんは「エビス様」であり、「十日戎」にあわせるように淀川河口にあらわれたのだ。
報道によれば、今までにも大阪湾あたりに鯨が迷い込んできたことがあったといい、温暖化の影響で海水温があがったことが原因ではないかとしていた。 過去の日本には中世温暖期と呼ばれた時期があり、現在より2,3度気温が高かったとされる。 (「中世温暖期には現在よりも気温が高かったのであれば、現在温暖化を気にする日必要はないじゃないか」という人がいそうだが、現在、温暖化が危惧されているのは、その上昇率の高さによる。2-02 700~2100年までの気温変動(観測と予測) ) そのころは戎神社の総本社である西宮神社や、『日本最古の戎社』を称する大阪府堺市の石津太神社付近にも、時々鯨が迷い込んできていたのだろう。
VIDEO ↑ こちらの動画は千葉県浦安市の旅の記録である。
0:52あたりから稲荷神社境内にある大鯨の社の映像がでてくる。
稲荷神社のホームページには次のように記されている。
東京湾に鯨がいたということは現在では思いも及ばないことではあるが、水が澄み、自然環境が好く小魚が多く、鯨の餌が豊富だったのであろう。
河口から海へしばらく向かうと三枚洲(葛西沖)という好漁場があり、漁をしようといつものように日の出前に当代島の高梨源八、西脇清吉の両氏は船に立って漁場の三枚洲に近づいていくと、洲の上に大きな黒い大きな魚が暴れているのを見つけて近寄っていくと、うわさが絶えなかった大鯨が浅瀬の汐溜まりに取り残されている。
そこで両氏は驚きと興奮で体が硬直したものの気を取り直し、大格斗の末に大鯨を捕ることに成功し、意気揚々と当代島へと戻った。
両氏が帰還すると村中が知らせを聞いて大騒ぎとなり、老若男女がこぞって見物に来たそうです。
この大鯨は当時の価格で金弐百円もの高値で売れ、大金を手にした両氏はすっかり有名人になり、どこへ行っても英雄扱いされたそうです。両氏は大鯨捕獲劇のことで仕事も手につかなくなり、このことに終止符を打つために考えた末に年配者の知恵から稲荷神社に大鯨の碑を奉納し、祀ったとのことです。これが大鯨の碑建立の経緯であります。
稲荷神社について より引用
「【震災追悼記事】「恵比寿」と「鯨」の意外な関係」 という記事、浦安・稲荷神社の大鯨の碑 についての説明文 どちらを読んでも、鯨が古の人々に富をもたらす動物であったことがわかる。
そしてそれは、アイヌの熊送りに通じるところがある。
『蝦夷島奇観』村上島之允(秦檍麿)画を、平沢屏山が模写したもの(大英博物館蔵)の一部。イオマンテを描いたアイヌ絵
アイヌの熊送りは、神の化身である子熊を捕まえてきて飼育し、それを儀式の中で狩り、殺して食するというものである。
つまり犠牲になってわが身を与えて下さるもの(熊)が神であるという考え方である。
エビス信仰では、熊のかわりに鯨が神の化身であり、鯨はその身(肉)を人々に与えて下さるので尊いというわけだ。
実はエビスと呼ばれるのは鯨だけではない。 水死体のこともエビスといい、水死体があがると大漁になるなどといわれたそうである。
エビスはイザナギ・イザナミの長子として生まれたが、3歳になっても歩けなかったため、葦舟に乗せて流したとされる。
エビスは龍宮にたどりつき、海神に育てられたが、神の御子であるので陸上にもどされ、西宮神社で祀られるようになったという話を聞いたことがある。
足が悪くわずか3歳のエビスがたどり着いた龍宮とは死の国のことだろう。
そして地上に戻されたエビスとは水死体のことであったのかもしれない。
鯨は水死体の化身として信仰されていたということなのかもしれない。
千葉県鵜原理想郷 クジラの頭蓋骨を祀る大杉神社
京都・地主神社の大国(大穴牟遲神)と素兎
①稲羽の素兎
大穴牟遲神(おおなむぢのかみ=大国主神)は八十神(やそがみ=兄弟)から嫌われていた。八十神は、稲羽の八上比賣(やがみひめ)に求婚したいと思い、稲羽(いなば)に出掛けた時、大穴牟遲神に袋を持たせ、従者のように引き連れた[2]。
「気多(けた)の前」に来たとき、裸の兎(あかはだのうさぎ)が伏せっていた。兎は、八十神に「海塩を浴び、山の頂で、強い風と日光にあたって、横になっていることだ」と教えられた通りに伏せていたが、海塩が乾くにつれ、体中の皮がことごとく裂けてきて、痛みに苦しんで泣いている。すると、最後に現れた大穴牟遲神が「なぜ泣いているの」と聞いた[2]。
菟は「私は隠岐の島からこの地に渡ろうと思ったが、渡る手段がありませんでした。そこで、ワニザメ(和邇)を欺いて、『私とあなたたち一族とを比べて、どちらが同族が多いか数えよう。できるだけ同族を集めてきて、この島から気多の前まで並んでおくれ。私がその上を踏んで走りながら数えて渡ろう』と誘いました。すると、欺かれてワニザメは列をなし、私はその上を踏んで数えるふりをしながら渡ってきて、今にも地に下りようとしたときに、私は『お前たちは欺されたのさ』と言いました。すると最後のワニザメは、たちまち私を捕えてすっかり毛を剥いでしまいました。それを泣き憂いていたところ、先に行った八十神たちが『海で塩水を浴びて、風に当たって伏していなさい』と教えたので、そうしたところ、この身はたちまち傷ついてしまったのです」といった。そこで、大穴牟遲神が兎に「今すぐ水門へ行き、水で体を洗い、その水門の蒲(がま)の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとのように戻り、必ず癒えるだろう」と教えたので、そうすると、その体は回復した。これが、稲羽の素兎(しろうさぎ)である[2]。
⓶海水は傷を悪化させる。 ネットを検索すると「傷は生理食塩水または水道水でよく洗浄する」と書かれている。 生理食塩液とは、0.9%の食塩液のことである。 海水の塩分濃度は3.4%ぐらい。 傷に塩を塗った経験はないが、「傷口に塩を塗る」という故事があり、傷口に塩を塗るとしみて痛みがますのだという。 また傷がある状態で海に入ると傷口から細菌が感染して化膿したりすることがあるとのこと。 毛をむしられた兎が海水をあびて悪化するのは当然だろう。 おそらく海水が傷を悪化させることは古より経験で広く知られていたのだろう。 八十神は、わざとまちがった情報を兎にあたえて意地悪をしたということだろうか。
④なぜケガをしたのは兎だったのか。
古事記の作者は、なぜケガをしたのを兎としたのだろうか。
蒲は6月~8月に高く伸ばした茎の上部に花穂をつける。
花穂の上部は黄色い花粉を持つ雄花穂、下部の緑色部は雌花穂である。
花には花びらはなく、は黄色い葯(おしべの一部で, 花粉 をつくる袋状の部分)が見える状態になる。
https://pino330.com/archives/14605 上記記事、4枚目の写真がわかりやすい。
花が終わると、雄花は散り、雌花穂は茶褐色のソーセージのような形になる。
雌花は白い綿毛のようなものをつける。
この白い綿毛は素兎の毛のようにも見える。
ソーセージのような形の茶褐色の状態は毛をむしられた兎、綿毛が付いた状態は回復して白い毛が生えた素兎ということではないだろうか。
⑤因幡の兎はオキノウサギの換毛をあらわしたものだった。 話はこれで終わらなかった。
兎は換毛する。
「因幡の素兎」の物語は、実は兎が毛をむしられたのではなく、換毛を表現した物語なのではないか?
私はそう考えて、そこで、日本に棲息するニホンノウサギについて調べてみたのだ。
全身の毛衣は褐色、腹部の毛衣は白い[2]。耳介の先端は黒い体毛で被われる[2]。 ~略~
より引用
残念、ニホンノウサギには隠岐諸島(島根半島の北にある島)に棲息するオキノウサギもいるが、これは冬季に白くならないようだ。
「因幡の白兎」とあるが、「稲羽」が因幡(現在の鳥取県東部)だという記載はない。「イナバ」は稲葉、稲場すなわちイネの置き場を指し、各地の地名にもみえる。
より引用
とあるが、因幡(現在の鳥取県東部)の話だと思う。 兎は鳥取県北部の隠岐諸島に棲息するオキノウサギだろう。
通常のオキノウサギは茶色だが、この物語に登場するオキノウサギはまれにみられる白いオキノウサギだったのではないだろうか。 古来、白い動物は神聖視されたようで、ヤマトタケルの物語には、白い猪や白い鹿が登場する。
①江戸時代の識字率は世界一だとは考えられない。その理由は・・・
最近、「『江戸時代の識字率は日本が世界一』はデマだという話を聞いたので検索してみたところ、次の記事が見つかった。
この記事にさまざまなデータが掲載されているのでそれを引用させていただくことにしよう。
❶明治初期に文部省によって実施された自署率
(6歳以上で,自己の姓名を記しうるものの割合)の調査
滋賀県:64.1%(1877年)
岡 山 県:54.4%(1887年)
青森県:19.9%(1884年)
鹿児島県:18.3%(1884年)
これを見ると地域によってかなり差があることがわかる。
江戸時代に来日した外国人の旅行記などに、日本人の識字率の高さを述べているものがあるが、都市の一部の人間の読書習慣をのべただけで、データをもとにした発言ではない。
昭和38年(1963年)のユネスコ調査によれば、日本の非識字率についても,女性,地方の非識字率は男性,都市の約3倍となっていて、格差がある。
❷1850年ごろ(日本の幕末にあたる)のヨーロッパ諸国の非識字率(チポラ・カルロによる)
・イングランドは30~50%・・・つまり識字率は50~70%
・スウェーデン:10%(1850年)・・・識字率は90%
・スコットランド:20%(1851年)・・・識字率は80%
・プロイセン(ドイツ):20%(1849年)・・・識字率80%
ヴィンセント・デイヴィッドによれば、1850年ころの男性の非識字率は,オランダ,スコットランド,プロイセンなどで20%をしたまわっていたという。(つまり識字率は80%以上)
❶の結果から考えて、江戸時代後期の日本の男性の識字率を高めに見積もって約50%とする。 諸外国のほぼ同時代の識字率は、イングランドは50~70%、スウェーデン90%、スコットランド80%、プロイセン80%なので 江戸時代の日本の識字率は世界一とはとてもいえなくなる。
❹日本の壮丁(労役・軍役にあたる成年の男子)の「文盲率」(非識字率)として,
5.77%(1908年),2.11%(1916年),1.99%(1917年)というデータがある。
デンマーク:0.2%(1907年),スウェーデン:0.2%(1911年),スイス:0.3%(1911年),ド イ ツ:0.5%
(1912年),イギリス:1.0%(1903-1905年)などが,日本をうわまわっている。
❺『ワールド・アルマナック』ば1931年版「諸外国の非識字」※調査方法は様々
日本の識字率は99.04%(1923年),99.3%(1927年)(※ことわりはないが,これは壮丁調査による新兵の識字率)
スウェーデン:100%(新兵検査,年度不詳),
ルクセンブルク:100%(調査方法・調査年不詳) ドイツ:99.97%(6歳以上,1927年),
オランダ:99.7%(成人,1927年)
ノルウェー:99%(調査方法・調査年不詳)
フィンランド:99%(15歳以上,1920年) 日本は決して世界一ではない。
⓶近代日本の就学率
❶1942年の就学率は日本が世界一だった?
1942(昭和17)年10月25日の読売新聞の記事が引用されている。
【学制が布かれ七十年 初めは小学校に高等,下等 今では世界一の就学率】
今では日本の就学率(国民学校に入学する者の割合)は99.4%で世界一です。近代的な学校の設備が一番早く出来たヨーロッパ諸国をはるかに追越しています。…東亜にある国々も日本にくらべたらお話にならないほど就学率は低く,私たちは教育の点でも日本に生れた幸福を深く感謝しなければなりません。
1941年に太平洋戦争が始まっている。1942年はその太平洋戦争が始まった翌年だ。 このとき、日本には新聞紙法があって新聞は検閲対象だった。 つまりこの時代には表現の自由がなかったのだ。 そのあたりを割り引いて、本当に日本の就学率が世界一だったのか考えてみる必要がありそうだ。
❷文部省データ
学齢児童就学率
出典:文部省『学制八十年史』,『学制百年史』,『学制百二十年史』
年度 就学率(%) 年度 就学率(%)
1875(明治08) 35.19 1935(昭和10) 99.51
1880(明治13) 41.06 1940(昭和15) 99.64
1885(明治18) 49.62 1945(昭和20) 99.79
1890(明治23) 48.93 1950(昭和25) 99.64
1895(明治28) 61.24 1955(昭和30) 99.77
1900(明治33) 81.48 1960(昭和35) 99.82
1905(明治38) 95.62 1965(昭和40) 99.82
1910(明治43) 98.14 1970(昭和45) 99.83
1915(大正04) 98.47 1975(昭和50) 99.91
1920(大正09) 99.03 1980(昭和55) 99.98
1925(大正14) 99.43 1985(昭和60) 99.99
1930(昭和05) 99.51 1990(平成02) 99.99
上記の表をみると、明治38年には95%の就学率となっていてかなり高い就学率となっているようにみえる。 しかし、「途中で退学した生徒も当初はおおく,就学率がたかくみつもられてきたのではないか」という疑問がだされている。
これらの研究成果によれば,日本で初等教育がほぼ普及したといえるのは1900年代ではなく,1920~1930年代ではないかとしているということだ。
ただし、どのようにして1920~1930年代と結論を出したのが、
そのあたりが
日本の就学率は世界一だったのか 角 知行 には明確に記されていない。
社会心理学者のウィルソンによれば、適応的無意識のひとつの能力である心理的免疫システムが、良い気分でいたいという欲求を非意識的思考によって満たすことで、この言説は疑われることなく受容される。
① 奴隷貿易
15世紀ごろ、ヨーロッパでは丈夫なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤が伝わるなどして遠洋航海が可能となった。
大航海時代の到来である。
当時の日本人によって描かれた「南蛮船」としてのキャラック
ヨーロッパ各国は西インド諸島やアメリカ大陸で大規模な農場経営を始めるようになる。
農場経営のための労働力として、ヨーロッパ人は原住民を用いていたが、疫病が流行するなどして人口が削減、労働力不足に陥ってしまう。
これを解消するために、アフリカの黒人奴隷が労働力として用いられるようになる。
黒人奴隷は三角貿易によって西インド諸島、アメリカ大陸にもたらされた。
三角貿易とは、 ヨーロッパから工業品を船に積み込んでアフリカ西海岸へむかい、次にアフリカ西海岸から黒人奴隷を船に載せて西インド諸島やアメリカ大陸にむかう。
その後、西インド諸島、アメリカ大陸の砂糖やタバコを積んでヨーロッパへ戻る、というものである。
黒人奴隷は人間としては扱われず、商品として扱われていたわけである。
ウィキペディア「アフリカ史」には次のように記されている。
アフリカ西海岸から新大陸に至る約40日から70日の奴隷の運搬は過酷を極め、航海中の奴隷の死亡率は8%から25%に上るとされ、平均して6人に1人が死亡した形となっている。全裸で鎖に繋がれた奴隷は剃毛(ていもう)され、会社の刻印を焼き付けられ、船倉に詰め込まれる。食事は1日2回で、少量の水とともに与えられるだけであった。不潔な船内ではマラリア、天然痘、赤痢などの感染症がはびこることも多々あり、病気にかかった奴隷は生きたまま船外へ投げ捨てられた。
たいへん惨酷な内容であり、これをもって、「ヨーロッパ人は残虐だ」と考える人がいるかもしれない。
奴隷船の内部構造(部分)
⓶奴隷を出荷していたのは西アフリカ諸国だった。
さて、奴隷狩はどのようにして行われたのだろうか。
下の絵を見ると、右下にヨーロッパ人のような人が描かれている。
奴隷狩
ヨーロッパ人が鉄砲などで脅して奴隷狩を行ったのだろうか。
もしかしたらそういうこともあったかもしれないが、いくら鉄砲があるといっても奴隷狩りはやるほうも大変である。
ヘタすると命を落としかねない。
商品として手に入れられるのであれば買った方が安くつくだろう。
そう、ヨーロッパ商人たちは西アフリカ諸国から奴隷を商品として買っていたのである。
アフリカは暗黒大陸で、未開人が住んでいたと思っている人がいるかもしれないが、
アフリカには国が存在していた。
アフリカにはちゃんと文明があったのである。
ヨーロッパの商人たちは交易をおこなうにあたり、アフリカの土地の支配者や首長から許可をえたのだという。
アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な搾取・略奪そのものと言われるが、現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは現地アフリカの勢力である。奴隷貿易によりアフリカは社会構造そのものが破壊されてしまった。これに貢献したコンゴ王国、ンドンゴ王国、モノモタパ王国などは衰退の運命を辿った。
「歴ログ -世界史専門ブログ-なぜ西アフリカ諸国は奴隷貿易に加担したか」
という記事には、次のように記されている。
・奴隷貿易自体は古代から世界中のあらゆる地域で存在しましたが、それを主産業に据え、強力に推進したのは15世紀以降の西アフリカ諸王国でした。
彼らは近隣の王国に攻め入っては住民を引っ捕らえ、イギリスやスペイン、フランスに売却して武器などを買い取り、それを元にさらに奴隷獲得戦争に邁進していました。
・ギニア海岸地区はすでに、ベニン王国やコンゴ王国といった黒人による政治組織が高度に発達しており、彼らと対等な関係に基づいた貿易を行う必要がありました。
ヨーロッパ人はこれらの国の国王に貢物を捧げて謁見し、海岸に商館を置かせてもらうよう許可を得て、そこで地元の商人が運びこむ奴隷をめぐって売買交渉を行いました。
ごまかしや不正は一切許されなかった上、商館を置かせてもらうための王国への上納金も莫大なものとなりました。
・この頃、ダホメーの海外地区に隣接するウィダー、ジャキン、アラーダといった氏族が、ギニア湾岸に進出してきたポルトガル人と奴隷貿易に乗り出し始めました。
その時の奴隷は、北方の小部族への襲撃により獲得してきた捕虜を売り払っていましたが、ダホメーの王は「これはカネになる」と気づいたのでしょう。
1716年だけでもフランス人に6,000人、イギリス人とポルトガル人に7,000人、オランダ人には1,500人の奴隷を輸出しています。
その後ダホメー王国は直接貿易を望み、ウィダーやアラーダを武力制圧し奴隷貿易に本格的に乗り出しました。
・奴隷貿易行に従事していたフランス人ジョン・バボットが1683年頃に記した手記には
我々がアフリカからアメリカ大陸に運ぶ奴隷の多くのあいだでは、殺して食うためだと信じているものが多い
と記されています。
・ヨーロッパ人と直接貿易を行うための拠点を手に入れたアクワム王国は、各地の制覇行で手に入れた捕虜を売り払い、その代わりにヨーロッパ人から武器を入手しました。
・(アシャンティ王国は)それら辺境諸王国から奴隷を入手しては海岸地方でヨーロッパ各国に売りさばいていました。
奴隷たちを荷物同然に船に積み込んだり、過酷な労働をさせたヨーロッパ人も惨酷だが、食用だと思って奴隷を出荷していたアフリカ人も惨酷といわざるをえない。
③ アフリカ、奴隷貿易で衰退、植民地化する。
しかし1787年、イギリスに奴隷貿易廃止委員会が設立され、1807年にはイギリス、アメリカ、1814年にはオランダ、1815年にはフランスと次々に奴隷貿易が禁止された。
その理由のひとつは、イギリスなどの国内で、奴隷貿易は、キリスト教の立場からみて人道的に問題があると批判されるようになったためであるという。
奴隷貿易の廃止によってアフリカ諸国は衰退し、ヨーロッパ各国と保護条約を結ぶなどして植民地化されていった。
これは、自分で自分の首をしめる結果になったといわざるをえないのではないだろうか。
④残虐性は民族の特性ではなく個人の特性
残虐性は民族の特性ではなく、個人の特性、または環境によって作り出されるものだと私は思う。
それは左的な思想からくるものではなく、科学的に考えるとそういう結論になるのではないかと思うのだ。
ヨーロッパの商人たちはお金儲けのために奴隷貿易をおこなったが、ヨーロッパ人の中にはそれを「人道的ではない」として批判する人々もおり、その結果奴隷貿易は廃止された。
ある人は「アフリカ人は優しい」と発言されていたが、「食肉用と思って奴隷を出荷していた」アフリカ人もいた。
日本はアメリカに原爆を落とされた。これはとんでもなく残虐な行為である。
さらにGHQはプレスコードで報道を制限し、原爆被害の報道をさせないようにしていた。
そんな中で、現地取材し、原爆の真の恐ろしさを伝えたジャーナリスト・ジョン・ハーシーがいた。
その一方で、「初めて日本兵と同じ食事をとり、人間らしい扱いを受けた。彼らは親切だった」と話すイギリス人もいる。
これらの例が示すことは、残虐性などの人間の性質は、民族やDNAによって決まるのではなく、個人の資質、または置かれた環境によって形成されるものであって
「ヨーロッパ人は残虐」などとはいえないということである。
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