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動物の形をしたみほとけたち 


1⃣縄文土器は食用植物のフィギュアだった?


上の動画はとても面白い内容である。
土偶は奇妙な形をしているなあ、と常々思っていたが、顔が食用植物の形と聞くと、なるほど、と思える。

9:15あたりの画像は、向かって左から
オニグルミ、クリ、トチノミ、ハマグリ、これは何という貝かわからない、イタボガキ

そのほかにも、竹倉 史人さんは「遮光器土偶はサトイモである」などとしておられるが、遮光器土偶がサトイモというのはちょっと納得がいかない。

遮光器土偶

遮光器土偶

25514440_s.jpg

サトイモ

そうではあるが、オニグルミ、クリ、ハマグリは確かにそのように見えるし、祖の説がまちがっていたとしても発想がすばらしい。
この竹倉 史人さんの説については、また改めて考えて見たいと思う。

今日なぜ、冒頭で竹倉 史人さんの説を紹介したのかといえば、
「昔の人は、この土偶のように、物の形にインスピレーションをうけて、仏像を製作したのではないか」と私は思っていて、それを説明したいと思ったからである。

2⃣蟹の死体から現れた観音

前回、私は山梨県山梨市万力にある長源寺に伝わる蟹坊主の話をした。
長源寺のご本尊の千手観音は、巨大な蟹の死体からあらわれたとされる。

長源寺のご本尊の写真はこちら↓

下の蟹満寺の額と長源寺のご本尊の写真を比べてみてほしい。
長源寺の千手観音の腕の付き方がカニの脚のように見える。

蟹満寺

京都市金戒光明寺の吉備観音は立像だが、やはり腕がカニのように見える。

滋賀県長浜市の高月観音の里には珍しい千手千足観音がおられるが、この観音様は二体のカニが合体した観音様ではないかと思う。

これは蟹の交尾を撮影したものとのこと。

2⃣蜘蛛のみほとけ

「仏像は動物などの形にインスピレーションを受けて製作されたものではないか」
私がこう考えるようになったのは、興福寺の阿修羅像を拝観したことがきっかけだった。

興福寺の八部衆像のうち5体のみほとけに動物のイメージがある。
 (八部衆の写真はこちら→https://www.kohfukuji.com/property/b-0008/

五部浄像(ごぶじょうぞう)は像の冠をかぶっている。
沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いている。
乾闥婆像(けんだつばぞう)は獅子の冠をかぶっている。
迦楼羅像(かるらぞう)は頭が鳥で体が人間。
畢婆迦羅像(ひばからぞう)はニシキヘビを神格化した神。

興福寺の八部衆の一である阿修羅像もまた、何かの動物をあらわしているのではないかと思ったのだ。

興福寺 阿修羅像

阿修羅像

その美しい顔立ちにうっとりしてしまい、つい見過ごしてしまいそうになるが、美しい顔だちよりももっと特徴的なのはその長い腕ではないだろうか。
腕は長いだけでなく、筋肉がまったくついておらず、昆虫的である。

阿修羅は蜘蛛ではないだろうか。腕は6本だが、脚の2本を足せば8本となって蜘蛛の脚の本数とあう。

蜘蛛 体

私は阿修羅の腕は蜘蛛の脚に似ていると思う。
また腕と脚と合わせて8本であり、蜘蛛の脚と同じ数である。
阿修羅は蜘蛛なのではないか?


↑ リンク先の東大寺三月堂の不空羂索観音の光背を見てほしい。
蜘蛛の巣のようではないだろうか。


阿修羅ほど昆虫的な腕ではないが、腕と脚の合計が8本で蜘蛛の脚の数と同じだ。

また不空羂索観音は手に羂索をもっている。
羂索とは仏教用語では罠の色糸を撚り合わせた縄のことだが、鳥獣をとらえる罠のことでもある。
不空羂索観音がこの羂索をなげると、よりあわせた綱がぱあっとほどけてひろがるのではないだろうか。
それはまさしく土蜘蛛の姿である。

清水寺 土蜘蛛

清水寺 六斎念仏 獅子と土蜘蛛

4⃣清水型観音は伊勢海老?
リンク先3枚目に清水寺のご本尊・清水型千手観音の御前立の写真がある。
清水寺のご本尊は秘仏であり、かわりによりもご本尊に似せて作られた御前立が厨子の前に置かれているのだ。
私は公開された秘仏の清水型千手観音を拝観したことがあるが、御前立よりも丸顔であったような記憶がある。

全国に清水寺と称する寺はあり、その多くの寺で清水型観音を祀っている。
特徴は頭上に高くあげられた二臂の長い腕を組んだおすがたである。



↑ これは長野県東筑摩郡山形村の清水寺の紙芝居だが、冒頭に清水型千手観音のイラストが登場する。

友人は京都清水寺の線所観音を拝んで、「これは伊勢海老だ」と言った。

 
写真のように伊勢海老は長い触覚をもっている。これを千手観音の腕として表現したのではないかというのである。
たしかにそれはありそうである。

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清水型千手観音の頭上高く上げられた腕以外の腕は、伊勢海老の胴体から延びる脚のイメージ。
さらに伊勢海老の尻尾は緩やかに裾が広がる観音様の衣のように見える。

5⃣長い腕の十一面観音は猿?

十一面観音は腕が長く作られることが多い。特に奈良・法華寺のものは腕が長く、膝のあたりまである。
像高は1メートルほどで、小ぶりのみほとけである。

法華寺 十一面観音

これは、猿をイメージして作られた観音様なのではないだろうか。

猿は膝を曲げて立つので腕が長く見える。

猿

大阪天満宮 猿回し 

厩猿信仰(猿を厩の守護神とする)はインドから中国を経て日本に伝わったとされるが、中国にはキンシコウという金色の猿がいる。
日本猿も手が長いと思うが、キンシコウはさらに腕が長いように見える。

ニホンサルの体長は83 cm、キンシコウの体長は65cmほどで、像高1mほどの小振りの法華寺・十一面観音像のイメージにあう。

6⃣伎芸天は迦楼羅

日本に現存する伎芸天は秋篠寺のものだけである。
美しいみほとけは数多くあるが、秋篠寺の伎芸天ほど優しそうな表情のみほとけは他にはないと思う。
掘辰雄さんはこの像を『東洋のミューズ』と称讃された。
ミューズとはギリシャ神話に登場する音楽・舞踏・学術・文芸などを司る女神である。

しかし私はこの美しい伎芸天を見て、迦楼羅(かるら)だ!と思ってしまった。 


2:39あたりの技芸天の耳の上向かって左あたりを見てほしい。
三面宝冠をつけているとのことだが、宝飾の真ん中あたりに小さな二重の円がある。

次に迦楼羅の伎楽面を見てみよう。
恐ろしい顔をしていて伎芸天にはちっとも似ていないが、耳に伎芸天と同じような二重の円がある。

私は伎芸天と迦楼羅のこの二重の円は鳥の耳を表したものではないかと考えている。
鳥の耳は羽毛で隠れていてわかり難いが、小さな穴があいている。

迦楼羅は鶏冠とくちばしを持ち、鳥を神格化した神である。
そして伎芸天は器楽の技芸に秀でた神・・・ということは音楽の神なので、やはり鳥を神格化した神とも考えられる。

7⃣葛井寺・千手千眼観音は孔雀?

葛井寺 千手千眼

大阪府藤井寺市の葛井寺のご本尊・千手千眼観音の脇手は
持物をもつ大手38本は手38本、小手1001本(右500本、左501本)を持つ迫力ある観音様で、
脇手には墨で眼が描かれている。

これは孔雀ではないかと思う。

2446325_s.jpg

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孔雀の雄は羽根を広げるとたくさんの目があるように見える。

ギリシャ神話に全身に100の目を持つアルゴスという神が登場するが、アルゴスも孔雀の神であるかもしれない。

8⃣水月観音はクラゲ?

神奈川県鎌倉市・東慶寺には水月観音という超美形の観音さまがおられる。



クラゲの漢字表記は「海月」「水母」「水月」である。
水月とは、ずばりクラゲのことなのである。
崩れた三角形の形はクラゲを思わせる。

くらげ







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[2023/02/02 17:29] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

淀川河口にやってきた鯨 と えべっさん 

2023年1月9日、淀川河口で鯨が発見され、「よどちゃん」という愛称がつけられた。



残念ながら鯨は1月13日に死んでいるのが確認された。


1月9日、今宮戎神社は十日戎の宵戎だった。

十日戎は1月10日が本戎、11日 が残り戎である。



つまりよどちゃんは、宵戎の日に現れて、残り戎が終わって間もなく死んでしまったのである。
私はよどちゃんは、えべっさん(蛭子神のこと)の化身のようだなと思った。

その理由は十日戎が始まる日にあらわれて、残り戎の2日後に死んだというだけではない。
鯨のことを「エビス」という地方があるからだ。

https://ebisufan.com/news/ebisukujira.html/

↑ こちらの記事にも

「昔の人は「鯨」のことを「えびす」と呼んでいた」とあり、鯨を持ったり、鯨に乗ったエビス像の写真が掲載されている。


「寄り鯨の到来で七浦が潤う」(浅瀬に迷い込んだ鯨一頭で七つの漁村の暮らしが潤う)と言われており、魚業の神=鯨が身を挺して住民に恵みをもたらしたことを感謝し、鯨への信仰心が育ってきたそうです。その漁業神こそが「恵比寿様」のことであり、まさに、恵比寿様は鯨の化身として同一視されていたんです。


【震災追悼記事】「恵比寿」と「鯨」の意外な関係 より引用

よどちゃんは「エビス様」であり、「十日戎」にあわせるように淀川河口にあらわれたのだ。


報道によれば、今までにも大阪湾あたりに鯨が迷い込んできたことがあったといい、温暖化の影響で海水温があがったことが原因ではないかとしていた。

過去の日本には中世温暖期と呼ばれた時期があり、現在より2,3度気温が高かったとされる。
(「中世温暖期には現在よりも気温が高かったのであれば、現在温暖化を気にする日必要はないじゃないか」という人がいそうだが、現在、温暖化が危惧されているのは、その上昇率の高さによる。
2-02 700~2100年までの気温変動(観測と予測)

そのころは戎神社の総本社である西宮神社や、『日本最古の戎社』を称する大阪府堺市の石津太神社付近にも、時々鯨が迷い込んできていたのだろう。


 

↑ こちらの動画は千葉県浦安市の旅の記録である。

0:52あたりから稲荷神社境内にある大鯨の社の映像がでてくる。


稲荷神社のホームページには次のように記されている。


東京湾に鯨がいたということは現在では思いも及ばないことではあるが、水が澄み、自然環境が好く小魚が多く、鯨の餌が豊富だったのであろう。


河口から海へしばらく向かうと三枚洲(葛西沖)という好漁場があり、漁をしようといつものように日の出前に当代島の高梨源八、西脇清吉の両氏は船に立って漁場の三枚洲に近づいていくと、洲の上に大きな黒い大きな魚が暴れているのを見つけて近寄っていくと、うわさが絶えなかった大鯨が浅瀬の汐溜まりに取り残されている。


そこで両氏は驚きと興奮で体が硬直したものの気を取り直し、大格斗の末に大鯨を捕ることに成功し、意気揚々と当代島へと戻った。


両氏が帰還すると村中が知らせを聞いて大騒ぎとなり、老若男女がこぞって見物に来たそうです。


この大鯨は当時の価格で金弐百円もの高値で売れ、大金を手にした両氏はすっかり有名人になり、どこへ行っても英雄扱いされたそうです。両氏は大鯨捕獲劇のことで仕事も手につかなくなり、このことに終止符を打つために考えた末に年配者の知恵から稲荷神社に大鯨の碑を奉納し、祀ったとのことです。これが大鯨の碑建立の経緯であります。


稲荷神社について より引用

 

「【震災追悼記事】「恵比寿」と「鯨」の意外な関係」という記事、浦安・稲荷神社の大鯨の碑についての説明文
どちらを読んでも、鯨が古の人々に富をもたらす動物であったことがわかる。


そしてそれは、アイヌの熊送りに通じるところがある。


『蝦夷島奇観』村上島之允(秦檍麿)画を、平沢屏山が模写したもの(大英博物館蔵)の一部。イオマンテを描いたアイヌ絵


『蝦夷島奇観』村上島之允(秦檍麿)画を、平沢屏山が模写したもの(大英博物館蔵)の一部。イオマンテを描いたアイヌ絵


アイヌの熊送りは、神の化身である子熊を捕まえてきて飼育し、それを儀式の中で狩り、殺して食するというものである。

つまり犠牲になってわが身を与えて下さるもの(熊)が神であるという考え方である。

エビス信仰では、熊のかわりに鯨が神の化身であり、鯨はその身(肉)を人々に与えて下さるので尊いというわけだ。


実はエビスと呼ばれるのは鯨だけではない。
水死体のこともエビスといい、水死体があがると大漁になるなどといわれたそうである。


エビスはイザナギ・イザナミの長子として生まれたが、3歳になっても歩けなかったため、葦舟に乗せて流したとされる。

エビスは龍宮にたどりつき、海神に育てられたが、神の御子であるので陸上にもどされ、西宮神社で祀られるようになったという話を聞いたことがある。


足が悪くわずか3歳のエビスがたどり着いた龍宮とは死の国のことだろう。

そして地上に戻されたエビスとは水死体のことであったのかもしれない。

鯨は水死体の化身として信仰されていたということなのかもしれない。



大杉神社


千葉県鵜原理想郷 クジラの頭蓋骨を祀る大杉神社





[2023/01/14 14:54] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

「因幡の素兎」はオキノウサギの換毛を比喩的に描いたものだった? 


地主神社

京都・地主神社の大国(大穴牟遲神)と素兎

①稲羽の素兎

大穴牟遲神(おおなむぢのかみ=大国主神)は八十神(やそがみ=兄弟)から嫌われていた。八十神は、稲羽の八上比賣(やがみひめ)に求婚したいと思い、稲羽(いなば)に出掛けた時、大穴牟遲神に袋を持たせ、従者のように引き連れた[2]。
「気多(けた)の前」に来たとき、裸の兎(あかはだのうさぎ)が伏せっていた。兎は、八十神に「海塩を浴び、山の頂で、強い風と日光にあたって、横になっていることだ」と教えられた通りに伏せていたが、海塩が乾くにつれ、体中の皮がことごとく裂けてきて、痛みに苦しんで泣いている。すると、最後に現れた大穴牟遲神が「なぜ泣いているの」と聞いた[2]。
菟は「私は隠岐の島からこの地に渡ろうと思ったが、渡る手段がありませんでした。そこで、ワニザメ(和邇)を欺いて、『私とあなたたち一族とを比べて、どちらが同族が多いか数えよう。できるだけ同族を集めてきて、この島から気多の前まで並んでおくれ。私がその上を踏んで走りながら数えて渡ろう』と誘いました。すると、欺かれてワニザメは列をなし、私はその上を踏んで数えるふりをしながら渡ってきて、今にも地に下りようとしたときに、私は『お前たちは欺されたのさ』と言いました。すると最後のワニザメは、たちまち私を捕えてすっかり毛を剥いでしまいました。それを泣き憂いていたところ、先に行った八十神たちが『海で塩水を浴びて、風に当たって伏していなさい』と教えたので、そうしたところ、この身はたちまち傷ついてしまったのです」といった。そこで、大穴牟遲神が兎に「今すぐ水門へ行き、水で体を洗い、その水門の蒲(がま)の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとのように戻り、必ず癒えるだろう」と教えたので、そうすると、その体は回復した。これが、稲羽の素兎(しろうさぎ)である[2]。
その兎は「八十神は八上比賣を絶対に得ることはできません」と大穴牟遲神に言った。そのとおり、八上比賣は八十神に「あなたたちの言うことは聞かない」とはねつけ、大穴牟遲神に「袋を背負われるあなた様が、私を自分のものにしてください」と言ったため、今では兎神とされる[2]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E5%B9%A1%E3%81%AE%E7%99%BD%E5%85%8E#%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98 より引用

⓶海水は傷を悪化させる。

ネットを検索すると「傷は生理食塩水または水道水でよく洗浄する」と書かれている。
生理食塩液とは、0.9%の食塩液のことである。
海水の塩分濃度は3.4%ぐらい。
傷に塩を塗った経験はないが、「傷口に塩を塗る」という故事があり、傷口に塩を塗るとしみて痛みがますのだという。
また傷がある状態で海に入ると傷口から細菌が感染して化膿したりすることがあるとのこと。
毛をむしられた兎が海水をあびて悪化するのは当然だろう。

おそらく海水が傷を悪化させることは古より経験で広く知られていたのだろう。
八十神は、わざとまちがった情報を兎にあたえて意地悪をしたということだろうか。

③蒲黄

大穴牟遲神(大国主神)は兎に「水で体を洗い、その水門の蒲(がま)の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとのように戻り、必ず癒えるだろう」
と教えているが、蒲の花粉には傷をいやす薬効がある。

ガマの穂に含まれる花粉を,蒲黄(ホオウ)と言います.古代から,止血,通経,利尿薬として用いられています.傷の治す作用の有ることが分かります.
http://www.pharm.kumamoto-u.ac.jp/flower/H1408.html より引用


下記リンク先にあるように穂蒲は黄色い粉末状である。

http://www.yanagidou.co.jp/hoou-funmatu-logo.jpg

古の人は穂蒲の薬効も知っていたのだ。

1293054_s.jpg

④なぜケガをしたのは兎だったのか。

古事記の作者は、なぜケガをしたのを兎としたのだろうか。

蒲は6月~8月に高く伸ばした茎の上部に花穂をつける。
花穂の上部は黄色い花粉を持つ雄花穂、下部の緑色部は雌花穂である。
花には花びらはなく、は黄色い葯(おしべの一部で, 花粉  をつくる袋状の部分)が見える状態になる。

https://pino330.com/archives/14605
上記記事、4枚目の写真がわかりやすい。

花が終わると、雄花は散り、雌花穂は茶褐色のソーセージのような形になる。
雌花は白い綿毛のようなものをつける。
この白い綿毛は素兎の毛のようにも見える。
ソーセージのような形の茶褐色の状態は毛をむしられた兎、綿毛が付いた状態は回復して白い毛が生えた素兎ということではないだろうか。

⑤因幡の兎はオキノウサギの換毛をあらわしたものだった。

話はこれで終わらなかった。

兎は換毛する。
「因幡の素兎」の物語は、実は兎が毛をむしられたのではなく、換毛を表現した物語なのではないか?
私はそう考えて、そこで、日本に棲息するニホンノウサギについて調べてみたのだ。

全身の毛衣は褐色、腹部の毛衣は白い[2]。耳介の先端は黒い体毛で被われる[2]。

~略~

東北地方や日本海側の積雪地帯に生息する個体群(トウホクノウサギ)や、佐渡島の個体群(サドノウサギ)は冬季に全身の毛衣が白くなる[2]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%82%AE#%E5%BD%A2%E6%85%8B
より引用

残念、ニホンノウサギには隠岐諸島(島根半島の北にある島)に棲息するオキノウサギもいるが、これは冬季に白くならないようだ。

  


しかし、オキノウサギには「白いのもいる」と記された記事があった!
https://www.oki-hs.ed.jp/files/original/20220318000818440bb3d75d4.pdf


「因幡の白兎」とあるが、「稲羽」が因幡(現在の鳥取県東部)だという記載はない。「イナバ」は稲葉、稲場すなわちイネの置き場を指し、各地の地名にもみえる。
より引用

とあるが、因幡(現在の鳥取県東部)の話だと思う。
兎は鳥取県北部の隠岐諸島に棲息するオキノウサギだろう。

通常のオキノウサギは茶色だが、この物語に登場するオキノウサギはまれにみられる白いオキノウサギだったのではないだろうか。
古来、白い動物は神聖視されたようで、ヤマトタケルの物語には、白い猪や白い鹿が登場する。



[2022/12/20 14:06] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

江戸時代の日本の識字率は世界一は本当? 


①江戸時代の識字率は世界一だとは考えられない。その理由は・・・

最近、「『江戸時代の識字率は日本が世界一』はデマだという話を聞いたので検索してみたところ、次の記事が見つかった。

この記事にさまざまなデータが掲載されているのでそれを引用させていただくことにしよう。

❶明治初期に文部省によって実施された自署率
(6歳以上で,自己の姓名を記しうるものの割合)の調査

滋賀県:64.1%(1877年)
岡 山 県:54.4%(1887年)
青森県:19.9%(1884年)
鹿児島県:18.3%(1884年)

これを見ると地域によってかなり差があることがわかる。

江戸時代に来日した外国人の旅行記などに、日本人の識字率の高さを述べているものがあるが、都市の一部の人間の読書習慣をのべただけで、データをもとにした発言ではない。

昭和38年(1963年)のユネスコ調査によれば、日本の非識字率についても,女性,地方の非識字率は男性,都市の約3倍となっていて、格差がある。

❷1850年ごろ(日本の幕末にあたる)のヨーロッパ諸国の非識字率(チポラ・カルロによる)
・イングランドは30~50%・・・つまり識字率は50~70%
・スウェーデン:10%(1850年)・・・識字率は90%
・スコットランド:20%(1851年)・・・識字率は80%
・プロイセン(ドイツ):20%(1849年)・・・識字率80%

ヴィンセント・デイヴィッドによれば、1850年ころの男性の非識字率は,オランダ,スコットランド,プロイセンなどで20%をしたまわっていたという。(つまり識字率は80%以上)

❶の結果から考えて、江戸時代後期の日本の男性の識字率を高めに見積もって約50%とする。
諸外国のほぼ同時代の識字率は、イングランドは50~70%、スウェーデン90%、スコットランド80%、プロイセン80%なので
江戸時代の日本の識字率は世界一とはとてもいえなくなる。

❹日本の壮丁(労役・軍役にあたる成年の男子)の「文盲率」(非識字率)として,
5.77%(1908年),2.11%(1916年),1.99%(1917年)というデータがある。

デンマーク:0.2%(1907年),スウェーデン:0.2%(1911年),スイス:0.3%(1911年),ド イ ツ:0.5%
(1912年),イギリス:1.0%(1903-1905年)などが,日本をうわまわっている。

❺『ワールド・アルマナック』ば1931年版「諸外国の非識字」※調査方法は様々
日本の識字率は99.04%(1923年),99.3%(1927年)(※ことわりはないが,これは壮丁調査による新兵の識字率)
スウェーデン:100%(新兵検査,年度不詳),
ルクセンブルク:100%(調査方法・調査年不詳)
ドイツ:99.97%(6歳以上,1927年),
オランダ:99.7%(成人,1927年)
ノルウェー:99%(調査方法・調査年不詳)
フィンランド:99%(15歳以上,1920年)

日本は決して世界一ではない。

⓶近代日本の就学率

❶1942年の就学率は日本が世界一だった?

1942(昭和17)年10月25日の読売新聞の記事が引用されている。

【学制が布かれ七十年 初めは小学校に高等,下等 今では世界一の就学率】
今では日本の就学率(国民学校に入学する者の割合)は99.4%で世界一です。近代的な学校の設備が一番早く出来たヨーロッパ諸国をはるかに追越しています。…東亜にある国々も日本にくらべたらお話にならないほど就学率は低く,私たちは教育の点でも日本に生れた幸福を深く感謝しなければなりません。

1941年に太平洋戦争が始まっている。1942年はその太平洋戦争が始まった翌年だ。
このとき、日本には新聞紙法があって新聞は検閲対象だった。
つまりこの時代には表現の自由がなかったのだ。
そのあたりを割り引いて、本当に日本の就学率が世界一だったのか考えてみる必要がありそうだ。

❷文部省データ

学齢児童就学率
出典:文部省『学制八十年史』,『学制百年史』,『学制百二十年史』
年度       就学率(%)  年度      就学率(%)
1875(明治08) 35.19    1935(昭和10) 99.51
1880(明治13) 41.06    1940(昭和15) 99.64
1885(明治18) 49.62    1945(昭和20) 99.79
1890(明治23) 48.93    1950(昭和25) 99.64
1895(明治28) 61.24    1955(昭和30) 99.77
1900(明治33) 81.48    1960(昭和35) 99.82
1905(明治38) 95.62    1965(昭和40) 99.82
1910(明治43) 98.14    1970(昭和45) 99.83
1915(大正04) 98.47    1975(昭和50) 99.91
1920(大正09) 99.03    1980(昭和55) 99.98
1925(大正14) 99.43   1985(昭和60) 99.99
1930(昭和05) 99.51    1990(平成02) 99.99

上記の表をみると、明治38年には95%の就学率となっていてかなり高い就学率となっているようにみえる。
しかし、「途中で退学した生徒も当初はおおく,就学率がたかくみつもられてきたのではないか」という疑問がだされている。

これらの研究成果によれば,日本で初等教育がほぼ普及したといえるのは1900年代ではなく,1920~1930年代ではないかとしているということだ。
ただし、どのようにして1920~1930年代と結論を出したのが、
そのあたりが
日本の就学率は世界一だったのか 角 知行
には明確に記されていない。


社会心理学者のウィルソンによれば、適応的無意識のひとつの能力である心理的免疫システムが、良い気分でいたいという欲求を非意識的思考によって満たすことで、この言説は疑われることなく受容される。



[2022/10/09 22:15] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

奴隷貿易、奴隷を出荷していたのは西アフリカ諸国だった。 

① 奴隷貿易

15世紀ごろ、ヨーロッパでは丈夫なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤が伝わるなどして遠洋航海が可能となった。
大航海時代の到来である。

当時の日本人によって描かれた「南蛮船」としてのキャラック

当時の日本人によって描かれた「南蛮船」としてのキャラック

ヨーロッパ各国は西インド諸島やアメリカ大陸で大規模な農場経営を始めるようになる。
農場経営のための労働力として、ヨーロッパ人は原住民を用いていたが、疫病が流行するなどして人口が削減、労働力不足に陥ってしまう。

これを解消するために、アフリカの黒人奴隷が労働力として用いられるようになる。

黒人奴隷は三角貿易によって西インド諸島、アメリカ大陸にもたらされた。

三角貿易とは、 ヨーロッパから工業品を船に積み込んでアフリカ西海岸へむかい、次にアフリカ西海岸から黒人奴隷を船に載せて西インド諸島やアメリカ大陸にむかう。
その後、西インド諸島、アメリカ大陸の砂糖やタバコを積んでヨーロッパへ戻る、というものである。

黒人奴隷は人間としては扱われず、商品として扱われていたわけである。
ウィキペディア「アフリカ史」には次のように記されている。

アフリカ西海岸から新大陸に至る約40日から70日の奴隷の運搬は過酷を極め、航海中の奴隷の死亡率は8%から25%に上るとされ、平均して6人に1人が死亡した形となっている。全裸で鎖に繋がれた奴隷は剃毛(ていもう)され、会社の刻印を焼き付けられ、船倉に詰め込まれる。食事は1日2回で、少量の水とともに与えられるだけであった。不潔な船内ではマラリア、天然痘、赤痢などの感染症がはびこることも多々あり、病気にかかった奴隷は生きたまま船外へ投げ捨てられた。


たいへん惨酷な内容であり、これをもって、「ヨーロッパ人は残虐だ」と考える人がいるかもしれない。

奴隷船の内部構造

奴隷船の内部構造(部分)

⓶奴隷を出荷していたのは西アフリカ諸国だった。

さて、奴隷狩はどのようにして行われたのだろうか。
下の絵を見ると、右下にヨーロッパ人のような人が描かれている。

アフリカの奴隷狩

奴隷狩

ヨーロッパ人が鉄砲などで脅して奴隷狩を行ったのだろうか。
もしかしたらそういうこともあったかもしれないが、いくら鉄砲があるといっても奴隷狩りはやるほうも大変である。
ヘタすると命を落としかねない。
商品として手に入れられるのであれば買った方が安くつくだろう。

そう、ヨーロッパ商人たちは西アフリカ諸国から奴隷を商品として買っていたのである。

アフリカは暗黒大陸で、未開人が住んでいたと思っている人がいるかもしれないが、
アフリカには国が存在していた。
アフリカにはちゃんと文明があったのである。

ヨーロッパの商人たちは交易をおこなうにあたり、アフリカの土地の支配者や首長から許可をえたのだという。

アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な搾取・略奪そのものと言われるが、現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは現地アフリカの勢力である。奴隷貿易によりアフリカは社会構造そのものが破壊されてしまった。これに貢献したコンゴ王国、ンドンゴ王国、モノモタパ王国などは衰退の運命を辿った。

「歴ログ -世界史専門ブログ-なぜ西アフリカ諸国は奴隷貿易に加担したか」
という記事には、次のように記されている。

・奴隷貿易自体は古代から世界中のあらゆる地域で存在しましたが、それを主産業に据え、強力に推進したのは15世紀以降の西アフリカ諸王国でした。
彼らは近隣の王国に攻め入っては住民を引っ捕らえ、イギリスやスペイン、フランスに売却して武器などを買い取り、それを元にさらに奴隷獲得戦争に邁進していました。

・ギニア海岸地区はすでに、ベニン王国やコンゴ王国といった黒人による政治組織が高度に発達しており、彼らと対等な関係に基づいた貿易を行う必要がありました。
ヨーロッパ人はこれらの国の国王に貢物を捧げて謁見し、海岸に商館を置かせてもらうよう許可を得て、そこで地元の商人が運びこむ奴隷をめぐって売買交渉を行いました。
ごまかしや不正は一切許されなかった上、商館を置かせてもらうための王国への上納金も莫大なものとなりました。

・この頃、ダホメーの海外地区に隣接するウィダー、ジャキン、アラーダといった氏族が、ギニア湾岸に進出してきたポルトガル人と奴隷貿易に乗り出し始めました。
その時の奴隷は、北方の小部族への襲撃により獲得してきた捕虜を売り払っていましたが、ダホメーの王は「これはカネになる」と気づいたのでしょう。
1716年だけでもフランス人に6,000人、イギリス人とポルトガル人に7,000人、オランダ人には1,500人の奴隷を輸出しています。
その後ダホメー王国は直接貿易を望み、ウィダーやアラーダを武力制圧し奴隷貿易に本格的に乗り出しました。

・奴隷貿易行に従事していたフランス人ジョン・バボットが1683年頃に記した手記には
我々がアフリカからアメリカ大陸に運ぶ奴隷の多くのあいだでは、殺して食うためだと信じているものが多い
と記されています。

・ヨーロッパ人と直接貿易を行うための拠点を手に入れたアクワム王国は、各地の制覇行で手に入れた捕虜を売り払い、その代わりにヨーロッパ人から武器を入手しました。

・(アシャンティ王国は)それら辺境諸王国から奴隷を入手しては海岸地方でヨーロッパ各国に売りさばいていました。


奴隷たちを荷物同然に船に積み込んだり、過酷な労働をさせたヨーロッパ人も惨酷だが、食用だと思って奴隷を出荷していたアフリカ人も惨酷といわざるをえない。

③ アフリカ、奴隷貿易で衰退、植民地化する。

しかし1787年、イギリスに奴隷貿易廃止委員会が設立され、1807年にはイギリス、アメリカ、1814年にはオランダ、1815年にはフランスと次々に奴隷貿易が禁止された。
その理由のひとつは、イギリスなどの国内で、奴隷貿易は、キリスト教の立場からみて人道的に問題があると批判されるようになったためであるという。

奴隷貿易の廃止によってアフリカ諸国は衰退し、ヨーロッパ各国と保護条約を結ぶなどして植民地化されていった。
これは、自分で自分の首をしめる結果になったといわざるをえないのではないだろうか。

④残虐性は民族の特性ではなく個人の特性

残虐性は民族の特性ではなく、個人の特性、または環境によって作り出されるものだと私は思う。
それは左的な思想からくるものではなく、科学的に考えるとそういう結論になるのではないかと思うのだ。

ヨーロッパの商人たちはお金儲けのために奴隷貿易をおこなったが、ヨーロッパ人の中にはそれを「人道的ではない」として批判する人々もおり、その結果奴隷貿易は廃止された。

ある人は「アフリカ人は優しい」と発言されていたが、「食肉用と思って奴隷を出荷していた」アフリカ人もいた。

日本はアメリカに原爆を落とされた。これはとんでもなく残虐な行為である。
さらにGHQはプレスコードで報道を制限し、原爆被害の報道をさせないようにしていた。
そんな中で、現地取材し、原爆の真の恐ろしさを伝えたジャーナリスト・ジョン・ハーシーがいた。
彼はアメリカ人である。
https://courrier.jp/news/archives/209821/

日本海軍は「海軍々人精神注入棒」で毎日隊員の虐待を行っていた。
https://373news.com/_news/storyid/135693/

その一方で、「初めて日本兵と同じ食事をとり、人間らしい扱いを受けた。彼らは親切だった」と話すイギリス人もいる。

これらの例が示すことは、残虐性などの人間の性質は、民族やDNAによって決まるのではなく、個人の資質、または置かれた環境によって形成されるものであって
「ヨーロッパ人は残虐」などとはいえないということである。



[2022/10/07 14:22] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

写真は真実を写さない 

ある方が、エドワード・シルヴェスター・モースの写真を示して「江戸時代の子供はなぜ明るかったのか」という話をされていた。

モースの写真はこちら↓
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%B9%20%E5%86%99%E7%9C%9F%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%20%E5%AD%90%E4%BE%9B&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8#4c7e3dd7d236c4a2fac79d89c6c59c0f

モースは日本に何度かやってきているが、訪問したのは江戸時代ではなく、明治時代である。
《明治10年(1877年)から明治22年(1889年)》

揚げ足をとるつもりはないが、明治時代の写真を江戸時代の写真と勘違いしていたのだろう。

このぐらいの勘違いは誰でもしそうだが、江戸時代と明治時代の人物写真はかなりちがっていたのではないかと思う。

幕末の坂本龍馬《 天保6年(1836年)~慶応3年1(1867年)》の写真が残されているが、撮影するのに20秒から30秒かかったといわれている。

坂本龍馬肖像

坂本龍馬像

上の記事には次のように記されている。

ほとんどの赤子の顔は、大きくぶれていて、しっかり写っていない。これは、明治中期のカメラでは、20~30秒ほど撮影時間が必要だったからである。(上記記事より引用)

写真はこちら。

そこでもう一度モース《モースが日本にやってきたのは明治10年(1877年)から明治22年(1889年)》の写真をみてほしい。


この写真は20秒から30秒もかけて撮影した写真とは思えない。
笑ったまま20秒も表情を変えずにいることは難しいと思うからだ。

そこで調べてみると、ヤフー知恵袋に次のようなQ&Aがあった。

『日本で初めてブランド名のついたカメラとして有名な「チェリー手提暗函」は明治36年の発売です。このカメラのシャッターはTとIです。Iは瞬間を意味するインスタントで、言い換えれば手持ち撮影可能なシャッタースピードです。
翌年発売の「チャンピオン手提暗函」ではシャッタースピードは1/20秒から1/100秒に可変できたということです。』

http://www2f.biglobe.ne.jp/~ter-1212/sakura/cherry.htm
上の記事には確かに明治36年の発売、単玉 クロスコープ式シャッターT・I (ニッケル鏡胴)と書いてある。

http://www2f.biglobe.ne.jp/~ter-1212/sakura/champion.htm
上の記事には発売日は記されていないが、明治44年の写真機械材料目録に「5分の1、25分の1、50分の1、100分の1」と記されている。

赤ん坊がぶれて写っている写真は明治中期と書いてあるが、明治36年にはシャッタースピードが速いカメラが発売されてたのである。

これらは日本のコニカの製品だが、モースはアメリカのコダックを使っていたのではないだろうか。
おそらく、日本のカメラよりも早く、アメリカのコダックのカメラは早いシャッタースピードが切れるようになっていたのではないかと思う。

しかし、モースの写真はすばらしい。
なかなかこんな表情が引き出せるものではない。
現在でも習合写真はカメラ目線で表情の乏しい写真になりがちである。
モースの写真は、モースか助手が、なにか面白いことを言って子供たちを笑わせて撮影したのではないかと思う。

つまり何が言いたいのかというと、写真は「真実を写す」と書くが、いくらでも嘘をつけるということである。

現在のデジタル写真では合成写真を作ったり、怒った顔を笑った顔に変えたりすることも簡単にできる。
そのような技術がなかった時代においても、写真で嘘をつくテクニックはいろいろあった。

たとえ嫌なことがあって普段笑うことの少ない子供でも、何か面白いことをいって一瞬だけ笑わせておいて、
それを撮影すれば明るい雰囲気の写真になる。

なので、明るそうに笑っている子供の写真をみて、昔の子供は明るかったと決めつけるのはまちがいだといえる。





[2022/10/02 20:36] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

麻畑があったから麻生? 


①麻畑が多かったから麻生?

ある人が、こんなことを言っておられた。
「日本には麻畑が多かった。だから、麻生、麻田という名前がある。」

⓶麻布は麻生だった。

以前の記事 トンデモもののけ辞典51 小豆はかり 追記あり  の繰り返しになるが 

東京に麻布という地名があるが、かつては阿佐布、麻生、浅府、安座部、などとも書いていたという。
「あざぶ」と入力して変換すれば「麻生」とも返還される。
「麻生」は「あそう」とよむが「あざぶ」ともよむのだ。

③麻の産地であったのはいつなのか。麻織物は誰によってつくられたのか。

麻生の地名の由来は、「麻の産地であり又麻織物が作られていたことに由来する」と言われる。
しかし、疑り深い私は「へえ、そうか」とは思わないw
麻の産地であったのはいつなのか。麻織物は誰によってつくられていたのか。
そういう具体的なことが全く不明である。
「麻の産地であり又麻織物が作られていたことに由来する」というのは、
麻布という漢字から発想されただけで、事実ではないのではないか。
そう思ってしまうのだw

④麻生は崖地

麻布の地名の由来について面白いブログ記事を見つけた。
https://baba72885.exblog.jp/15534522/

・「あざぶ」は「あさふ」でもあり、口語では「あそう」。「麻生」とも書く。                                    
・茨城県行方市麻生の隣には台地の崖を意味する「粗毛(ほぼけ)」という地名があるが、
麻生は「あぞ・ふ」で、崖地の場所を表す。
・東京港区の麻布も、台地の縁にある崖地。                               
・高山本線「下麻生駅」も飛騨川沿いのあぞ地形。                                       
・「あぞ」は「あず」と同じなので、長野県の梓川、安曇野も崖地。
・四国大歩危(おおぼけ)に「安瀬地(あぜち)歩危」という地名があったがこれも崖地。

⑤「あず」は崩れた崖をあらわす❔

知恵袋にこのような質問と回答があった。

質問者/山用語で、小豆と言うのも怖い土地を表すのですか。
麻布、麻生が崖で、小豆も地盤の弱い崩落する危険があるところなのですか。

ベストアンサー/あず、あるいは、あづ
は土砂災害の多い場所をあらわすらしいです。

質問者/梓とか、小豆島とか。
軟弱な地盤なのでしょうね。


コトバンクにはこうある。

あず【坍】〘名〙 くずれた岸。がけ。がけのくずれてあぶない所。
※万葉(8C後)一四・三五三九「安受(アズ)の上に駒をつなぎて危(あや)ほかど人妻子ろを息にわがする」https://kotobank.jp/word/%E5%9D%8D-2002019 より引用

どうやら「あず」という言葉は万葉集にもでてくる古い言葉のようである。

⑥麻布に現れた妖怪小豆はかり

『怪談老の杖』では、以下のように語られている。
その昔ある男が、麻布に住む友人の家に妖怪が出没するという話を聞いた。男は「ぜひ見たい」と言い、友人の家に泊まらせてもらった。
前述の特徴の通り部屋を静かにしていると、天井裏を踏み歩くような大きな音がし、続いてあの小豆をまくような音が聞こえてきた。音は次第に大きくなり、挙句にはその音は、一斗(約18リットル)の小豆をまくかのような大きさになった。
やがて、天井裏ではなく家の外の庭から、下駄を鳴らす音や、水をまくような音がしてきた。男はすかさず障子を開けたが、庭には誰の姿もなかったという。
この妖怪は天井から土や紙くずを落とすこともあるものの、特に悪事は働かないものなのだという。

麻布が崖地、小豆は崖が崩れて危ない場所のことである。
つまり、妖怪小豆はかりとは崖が崩れる音を擬人化した妖怪だと考えられる。
「水をまくような音」とあるが、東京の麻布は崖地で、あちこちから水がわいているという。
https://suumo.jp/town/entry/azabujuban-norihisa.minagawa/

⑦タイマという地名は大麻からくる?

そういうわけで
「日本には麻畑が多かった。だから、麻生、麻田」という名前がある。
というのは、申し訳ないがちがうのではないかと思った。

またこんなことを言う人もいる。
「タイマという地名があるのは日本にたくさん大麻が植えられていたからだ」

断間が太間になった。

これも大麻からくるかどうか、疑問に思う。


大阪府寝屋川市の淀川の近くに太間町(たいまちょう)という地名がある。
太間は淀川のほとりであり、近くには茨田堤跡の石碑もある。

茨田堤跡(寝屋川市)

茨田堤跡

日本書紀にはこんな話がある。

茨田堤をつくるとき、どうしても決壊してしまう場所が2か所あり
仁徳天皇は「武蔵の人強頸(こわくび)と河内の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の二人を生贄とせよ」
という夢を見た。
コワクビは泣きながら入水していったが、コロモコはヒョウタンを河に投げ入れ、
「本物の神ならこのヒョウタンを沈めてみろ。できなければ偽りの神だ」といった。
ヒョウタンは沈まず、コロモコは生贄にならずに済んだが、工事は成功し
コワクビの断間・コロモコの断間(タエマ)と呼ばれた。

このコロモコの断間から太間という地名ができたという伝承があるのだ。

もちろん伝承にすぎないが、ありえそうなことだなと思う。

淀川の河川敷で大麻を栽培しているのが見つかって逮捕されたという近年の事件があり、
淀川の河川敷は大麻栽培に適していたのか、ともおもえるが
太間付近で古に大麻を栽培していたという記録がでてこないと、「断間から太間に転じた」説よりも優位な説とはいいがたい。

⑨大麻比古神社は断間比古神社だった❔

徳島県に大麻比古(オオアサヒコ)神社がある。
読み方は「オオアサヒコ」だが字が大麻(タイマ)である。

栃木県の日光には二荒山(フタラサン)神社があり、その隣に日光東照宮があるが
日光(ニッコウ)とは二荒(フタラ)を音読みにしたものだろう。
とすれば、大麻(タイマ)を大麻(オオアサ)と読むということもありそうである。

実際、大麻比古神社の由緒は次のようになっている。

神武天皇の御代、天太玉命の御孫の天富命が阿波忌部氏の祖を率いて阿波国に移り住み、
麻・楮の種を播殖してこの地を開拓、麻布木綿を生産したので、天太玉命(大麻比古神)を阿波国の守護神として祀った。
(社伝)

楮(こうぞ)は紙の原料として用いられる植物である。

ただし社伝の由緒は後付けの可能性はないだろうか。

日本では語呂合わせで神格を変えることがある。
例えば柿本人麻呂は人丸ともよばれ、「火止まる」で防火の神、「人産まる」で安産の神へと神格を広げている。

断間比古だったのが、大麻比古となり、さらにタイマヒコをオオアサヒコと発音したとか、ないだろうか。


というのは、大麻比古神社の前を川がながれているのだ。
そして、このような記事が見つかった。
「 旧吉野川の板東谷川合流点上流部は、無堤地区が多いため、早急に堤防の整備を実施してほしい。」
https://www.skr.mlit.go.jp/tokushima/yoshinoriver/doc/070204_setsumei.pdf より引用(9ページ)

そしてその文言の下には地図が貼られているが、その地図の中にギリギリ大麻比古神社は入りそうだ。
(上記リンク先9p地図に坂東谷川がある。その北のあたりに大麻比古神社はある。)



上の地図と https://www.skr.mlit.go.jp/tokushima/yoshinoriver/doc/070204_setsumei.pdf (9ページ)の図を比較してほしい。

上の記事には日付がないが、平成21年という記述が記事の中にみつかる。
つまり、平成になっても 旧吉野川の板東谷川合流点上流部は、無堤地区が多かったわけだ。
無堤とは断間(切れている部分)であり、そこから断間比古神社となり、語呂合わせから大麻比古神社となったと考えられなくもないように思える。

⓾当麻皇子は断間皇子?

もうひとつ、タイマといえば、奈良にある當麻(タイマ)寺を思い出す。
開基は麻呂古王(当麻皇子)であると伝わっている。
當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族「当麻(タイマ)氏」の氏寺と考えられている。

当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられたと言われているが、
「たぎたぎしい」から「タイマ」となるのは、かなり苦しいように思える。

麻呂古王は用明天皇の第三皇子、聖徳太子の弟とされる。
用明天皇と穴穂部間人皇女の間に、聖徳太子・来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子、
用明天皇と葛城直広子の間に當麻皇子があった。
来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子・當麻皇子の誰かが麻呂子親王と名乗ったのではないかと考えられている。

坂本太郎氏の「聖徳太子」によると聖徳太子の子に「麻呂古王」と系図にあるそうである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
上記、ウィキペディアを見ても、聖徳太子の子として麻呂古王とある。
麻呂古王は聖徳太子の子であったのかもしれない。

聖徳太子の子孫は蘇我入鹿の軍に責められたとき、全員斑鳩寺で首をくくって死んだとされる。
すると麻呂古王も斑鳩寺で死んだのだろう。

聖徳太子の子孫は繁栄せず、絶えてしまった。

断間とは「切れている」という意味で「断間なく雪が降る」などと言いう風に使う。
これは「途切れることなく雪が降る」という意味である。

聖徳太子の子の麻呂古王は、聖徳太子の子孫が切れてしまった皇子、断間皇子という意味で、当麻皇子と呼ばれたのかもしれない。

當麻寺 蓮華草

當麻寺

⑪明治より麻栽培が奨励された理由は軍需品として用いるためだった。

「日本には麻畑が多かった。だから、麻生、麻田という名前がある。」と発言された方は
1929年の第16回二科展に発表された清水登之氏の「大麻収穫」の絵を紹介しながら、「日本には麻畑が多かった」と発言されていた。


この方は「大麻収穫」の絵を明治に描かれた絵、とおっしゃていたが、明治ではなく昭和4年である。

明治から大正にかけて、政府は養蚕と大麻栽培を奨励した。

吉田健作が農商務省に提出したあああああああああには、次のように記されている。

亜麻は日本でまだ耕作が少なく、原料が不足しているのに比べ、大麻はたくさん産出されている。
また、亜麻は大麻より精細な糸ができるが、それよりも大麻の海陸軍人ならびに巡査、小吏等の夏服、又は常人用服このほか帆布、鉄道荷車の覆い、敷物、日本蚊帳、畳の縁といった用途が国家にとって重要である。
結論としては、まず大麻の紡績所を設け、その後、亜麻も手がけるようにするのがよい。

こうして、1887年に北海道製麻株式会社が設立された。

大正時代から昭和初期にかけて、大麻は陸軍の軍馬の綱、海軍の艦船用ロープなど軍需品に用いられた。

この絵は軍需品に用いるために大麻を栽培しているの図ではないだろうか。

「日本には麻畑が多かった。だから、麻生、麻田という名前がある。」と発言された方は
大麻の使用法として、鼻緒、蚊帳、しめ縄、赤ちゃんの胴巻をあげておられるが、軍需品とは言っておられない。

軍需品を作るのが悪いということはなく、当事は戦争をするのが悪いという時代でもなかった。

ただ、当麻栽培が奨励されるようになったのは、明治である。

それ以前も、「麻紡績工場の設立意見書」によれば大麻は多く生産されていたようであるが
明治以降、生産量が増えたとは考えられるだろう。



[2022/09/28 15:07] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

中国とチベット 


①固有名詞を述べないわかりにくい歴史語り


上記動画で、次の様な発言がある。

1:06
清という国がですね
〇〇帝とかそうそうたる皇帝が出てですね常に強かった時代が終わってから
100年くらいもたっておりましてね
すっかり終わった時代に今度は日本が出てきたものですから
戦争のときは日本が圧倒的に中国に強かったし
中国はですね北はロシア、南はイギリスフランス
東北部は日本というふうにですね強いところにどんどん取られましてね



申し訳ないが、この歴史の語り方は、非常にわかりにくい。
時代はいつなのか、戦争とは何戦争なのか、そういった固有名詞をはっきり述べていないからだ。
これでは友人との雑談レベルである。
人間が大量の情報を記憶できるはずはなく、多くの歴史系ユーチューバーはメモや下書きを見ながら話していると思う。
できれば、そのようにしていただければと思う。

たぶんアヘン戦争から第二次世界大戦ごろの話だと思われる。

⓶様々な民族が中国に国をつくっては滅んでいった。

中国は広大な大陸なので、多くの民族が存在している。
そして様々な民族が中国に国をつくっては滅んでいった。

宋は漢民族が建国した国だった。
しかしそのあとに起こった元はモンゴル民族、次の民は漢民族、その次の清は満州族が建国した国で、中国の広い地域を支配した。
これは中国史を語る上で抑えておくべきポイントだと思う。

③各国に領土を奪われた清

1840年 アヘン戦争 イギリスvs清 清が敗北して香港島を割譲する。
1857年、第二次アヘン戦争(アロー戦争)イギリス⁺フランスvs清
1860年、イギリス九龍半島南部の割譲を清に認めさせる。

「南はイギリスフランス」 というのは、このことを言っているのだと思われる。

1858年、アイグン条約により、黒竜江将軍管轄区と吉林将軍管轄区のうちアムール川左岸をロシアに割譲
1860年、北京条約で吉林将軍管轄区のうちウスリー川右岸をロシアに割譲(外満州)
1864年、タルバガタイ条約により、ウィグルのイシク・クル、ザイサン湖以西はロシアの領土となる。
1871年、ロシアが新疆のイリ地方を占領。
1881年、イリ条約により、イリ地方のうちコルガス川以西はロシアが併合。
1884年、カシュガル条約でパミール高原より西をロシアに割譲した。清は1884年新疆省を設置
1892年 ロシア、パミール高原に侵攻しサリコル山以西を条約無しで併合。

これが「北はロシア」

1854年、冊封国暹羅(シャム)が朝貢を廃止。
1872年、清と薩摩藩の両者に朝貢していた琉球、日本に合併される。
1884年 - 1885年、清仏戦争。清仏天津条約によって冊封国越南はフランスの植民地となる。
1886年、緬甸(ビルマ)はイギリス軍の侵略で滅亡。

1894年 - 1895年、日清戦争で清は敗北し、下関条約によって遼東半島および福建台湾省、台湾の割譲
朝鮮が自主国であることを承認させられる。
フランス共和国、ドイツ帝国、ロシア帝国「三国干渉」で日本に遼東半島返還させ、賠償金の大幅に増額させる。
清、財政悪化し、欧州列強諸国が対日賠償金への借款供与を申し出て見返りとして租借地などの権益を認めさせた。(瓜分)

満洲からモンゴル・・・ロシア
長江流域・・・・・・・イギリス
山東省・・・・・・・・ドイツ
広東省・広西省・・・・・フランス

1905年 辛亥革命、漢人による武昌での武装蜂起をきっかけにが起こった。
モンゴル独立運動(モンゴル国)。

清は内部崩壊する。(但し満洲とチベットでは蜂起が起こっていない)。

④中華民国樹立、清滅亡、満州国樹立

1910年、日本韓国を併合。

1912年、中華民国が樹立され、清朝最後の皇帝宣統帝退位。(清滅亡)

清朝滅亡後は中華民国(北京政府)が清朝領土の継承を主張。
しかし袁世凱と孫文の対立から中華民国は分裂して内戦状態。
張作霖が日本の後押しを受けて満洲を実効支配していた。

1928年北伐(中国国民党)により北京政府が崩壊し、北京政府を掌握していた張作霖が満洲に引き揚げてきたが、日本軍によって殺された。
息子・張学良は、奉天軍閥を国民政府(南京政府)に帰順させた。

1929年、日本は南京国民政府を中華民国の代表政府として正式承認した。

1931年(昭和6年)満洲事変がおこり、関東軍により満洲全土が占領される。
1932年(昭和7年)満洲国が建国され、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を元首とした。

「東北部は日本」、この満州国樹立のことを言っていると思う。
③でのべた台湾割譲について、武田氏は次のように言っているので、「東北部は日本」に入れていないと思う。
(台湾は東北でもないので)

11:33
中国人も早く完成して早く撤兵してほしいですね
今は台湾を自分の領土だなんつってますけど全然領土じゃありませんよ
清の時代が最後ですけどね中国は清の時代に日本が台湾は清のものですか
といったら、いやあれは化外地、ちがうんだとちゃんと言ってますからね

1:38
しかも自分たちを白人に寝返ってアメリカと密かに交渉してですね、そして白人側についたので
まぁ今では白い中国人などというですね、まあいえば蔑視されているわけですが


⑤中華民国と中華人民共和国

のちのち、頭がこんがらがらないように、ここで中華民国と中華人民共和国について、ざっと見ておくことにしよう。

辛亥革命で清が滅んだのち1912年に成立したのは、孫文が建国した中華民国という国だった。
しかし第二次世界大戦後に中国共産党と国民党が対立した。
1949年、中国共産党の毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した。、
同年、蔣介石率いる中華民国政府は台湾に亡命しそのまま中華民国であり続けた。
つまり、中華民国が第二次世界大戦後に、中華人民共和国と中華民国に分裂した、といってもいいだろう。

⑥日中戦争

1912年、中華民国が樹立され、清朝最後の皇帝宣統帝退位。(清滅亡)
1931年(昭和6年)満洲事変がおこり、関東軍により満洲全土が占領される。
1932年(昭和7年)満洲国が建国され、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を元首とした。
1937年7月7日、盧溝橋事件が発端となり、日中戦争がおこる。

当事、日本はアメリカからの軍需物資を輸入していた。
宣戦布告をして国際法に則った戦争となれば、アメリカが中立を宣言して軍需物資の輸出を止める可能性があった。
それを危惧したが日本は、宣戦布告をせずに日中戦争を始めた。
アメリカも、日本との関係悪化は望んでいなかった。

1938年11月、日本が東亜新秩序声明を発した。
東亜新秩序声明とは、政治・経済・文化などにわたる日・満・華の互助連関の樹立をめざすという内容であった。

日本から見れば「政治・経済・文化などにわたる日・満・華の互助連関の樹立」だが
中華民国からみれば、「満州国を作った日本の侵略行為の正当化」であっただろう。

また、アメリカはこれを東アジアからの欧米勢力の排除とみなした。
1940年7月、日米通商航海条約の廃棄を通告。

南部仏印進駐(日本軍がベトナム南部に進駐した事件)が開始されると、
対日石油輸出を全面禁止し、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中国(China)・オランダ(Dutchland)によるABCD包囲陣で対日経済封鎖を行う。

1941年11月26日、アメリカ、ハル=ノートを提示。
日本に満州事変以前の状態に戻せとの内容。

1943年にイタリアが無条件降伏。
1945年5月にドイツが無条件降伏。
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾。

⑦ポツダム宣言

1945年(昭和20年)7月17日から8月2日
ベルリン郊外ポツダムにおいて、英国、米国、ソ連の3カ国の首脳が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合った(ポツダム会談)。

ポツダム宣言は、この会談の期間中、イギリスのチャーチル首相・中華民国の蔣介石国民政府主席・アメリカのトルーマン大統領の3首脳連名で日本に対して発せられた降伏勧告。

ソ連は署名していない。

1:38 自分たちは白人に寝返ってアメリカと密かに交渉してですね、そして白人側についたので」

という発言は、日本の東亜新秩序声明(1938)をけり、ABCD包囲陣(1940)、ポツダム会談(1945)を行ったことを言っているのだろうか。

しかし、その前に、満州国を建国(1932)、日中戦争(1937)がある。
中国を擁護するつもりはなく、どちらが悪いというつもりはないが
実際行われたことをみると、アメリカに寝返ったとか、白人側についたとは言えない。

もう一度おさらいしておこう。
日本が満州国を作り、日中戦争が起こった。
日本は東亜新秩序声明を発した。
これらに中国は抵抗し、アメリカは日本による東アジアからの欧米勢力の排除とみなした。
中国とアメリカは利害が一致し、ABCD包囲陣で対日経済封鎖を行うなどした。

⑧「白い中国人」の意味

1:45
そして白人側についたのでまぁ今では白い中国人などというですね
まあ蔑視されているわけですがやはり中国もですねまぁそういう名誉ない国の呼ばれ方ではなくて

「白い中国人」という言葉は検索してもでてこない。
それで知人に聞いたところ、次のように教えてくださった。

「白い中国人」とは、社会主義革命で赤軍(労働者農民赤軍)に対抗して戦った白軍(反共産主義)の中国人を指す政治用語であると。

しかし「白人側についたのでまぁ今では白い中国人などというですね、まあ蔑視されているわけですが」
と言っているので、武田さんは、「白い中国人」を「白人側に寝返った中国人」という意味で用いていると思う。

武田さんの造語、もしくは言葉の誤用ということになるのではないだろうか。

⑨チベットは独立どころか、虐殺・拷問が行われている?

チベットっていうのは占領地ですね。
チベットていうのは非常に立派な国で、日本と同じようにほぼ憲法9条みたいなこと書いてある
憲法を守ってますねえ
国を守るのは武力じゃない仏教だとまあいってた国なんですね
4:49
ところがやっぱり中共軍がね中国共産党軍が侵攻してくると
たちまち仏教の軍隊なんてほとんどいませんから蹴散らされて女の人はみんな後ろ手に
縛られて晒し者になるとそういうことになっちゃった
それ1949年ですけど戦争が終わった後ですね
だから私がアジア独立の時代っていうのはまあ区分として難しいんですが
1850年くらいから1970年くらいっていう風に設定してもいいかなっていうのはですね
やはり日本が戦争が終わった1945年以降ですね
やはりこういう問題がいっぱいあったっていうことなんですよ



1905年、清、チベットに侵攻
1910年、ダライ・ラマ13世はインドへ亡命
1911年、辛亥革命
1912年に中華民国がおこり、中華民国が成立、清朝は崩壊した。中華民国、清の領土をそのまま引き継ぐことを宣言する。
1913年、チベット・ラサを奪還して独立を宣言する。イギリスなどから独立国として承認される。
ダライ・ラマ13世ラサに戻り、中国人のチベット植民地化を批判。
1913年、清からの独立を相互承認し、安全保障協力を定めたチベット・モンゴル相互承認条約(蒙蔵条約)を締結。
1930年、ベリの寺院とデルゲの寺院で抗争が発生。そこに中華民国軍とラサの軍が介入。
1932年9月、ダライラマ13世は、長江を国境とし、中国の宗主権を認めることに合意。
1933年11月にダライ・ラマ13世が死去
1934年~1935年、チベット人人民共和国が設立されたが、すぐに解体。
1940年2月22日、ダライ・ラマ14世即位。
1947年、チベット使節団をインド、デリーで行われたアジア会議に送り、独立国家を表明した。
1949年、国共内戦で中華民国に勝利した中国共産党が中国を掌握。
チベット政府、中国政府とつながりのある中国人を国外追放する。
1949年6月11日にパンチェン・ラマ10世がパンチェン・ラマ9世の転生として中国国民党政府の承認を受け即位した。
1950年1月、中国共産党政府、新中国政府によるチベット駐留を要求。
1950年10月、人民解放軍はチベットのカムドに進攻し、チベット軍を破る(チャムドの戦い)。
1951年に中国軍はチベット全土を制圧。
十七か条協定。チベットにおける中国の主権を定める。
チベットは中華人民共和国の支配下に。

武田さんは
「たちまち仏教の軍隊なんてほとんどいませんから蹴散らされて女の人はみんな後ろ手に
縛られて晒し者になるとそういうことになっちゃった。それ1949年ですけど」
とおっしゃってその後、独立の時代を「1850年くらいから1970年くらい」とされているが、
チベットの独立はいまだ実現していない。
それどころか、大量虐殺、拷問などが行われているというような記述がウィキペディア「チベット」には記されている。


1952年-1958年、カンロの虐殺 10,000人が虐殺される。
1956年末、第1次蜂起。20,000人が虐殺、20,000人逮捕される
1957年、5,500人を虐殺。
1958年3月から8月、チベット人130,000人による反乱。110,000人が虐殺される。
青海省におけるチベット人・モンゴル人の遊牧民50,000人を逮捕。
逮捕者の84%にあたる45,000人が誤認逮捕。拘留中に23,260人が死亡、誤って殺害されたものが173人。
宗教・民族分子259人、民族幹部480人が死亡。
1959年、チベット動乱。ダライ・ラマ14世インドへ亡命し、チベット亡命政府を立てた。
1959年、ラサ蜂起。10,000人-15,000人のラサ市民が死亡。
1959年3月~1962年3月、中央チベットの大虐殺 93,000人が虐殺される。
1966年、チベットにおける文化大革命。寺院の破壊と略奪。チベット的なもの、仏像や宗教文献が破壊された。
宗教上の祭礼や習慣は禁止、伝統的な歌謡、民族衣装、伝統的な髪型の禁止。チベット語の禁止。

1970年、中国は、ツァイダム盆地にDF-4ミサイル発射用地を完成させ、核ミサイルを配備した。
1983年、中国とチベット亡命政府との和平会談決裂。ラサだけで750人が政治犯として刑務所に収容された。
1987年9月21日、ダライ・ラマ14世はアメリカ議会で演説を行い、「五項目和平プラン」を提示する。
・チベット全土を平和地帯とすること。
・民族としてのチベット人の存在を危うくする中国人の大量移住政策の放棄。
・チベット人の基本的人権と民主主義自由の尊重。
・チベットの環境の回復と保護。中国がチベットを核兵器製造及び核廃棄物処分の場所として使用することの禁止。
・将来のチベットの地位、並びにチベット人と中国人の関係についての真摯な交渉の開始。
中国政府はダライラマを分離主義者として非難し、アメリカ政府へ抗議。
1987年9月27日、ジョカン寺でデモ。中国武装警察が発砲し、死者がでる。

欧州議会は1987年10月14日に中国によるチベット人の人権抑圧非難決議を決定する。

1988年2月末、ラサで大祈祷法会。武装警察は催涙ガスを撒き、多数の僧侶が連行される。
3月6日2500人のチベット人が逮捕され、拷問される。

1989年1月24日にパンチェンラマ10世、中国政府を非難した。その4日後死去。暗殺説もあり。

1989年3月7日、胡錦濤はラサに戒厳令を布告する。会合、行進、陳情、請願、集会の禁止。
武装警察によるチベット人への暴行。400人が虐殺され、数千人が負傷。3000人が逮捕された。

1989年3月15日、欧州議会は中国によるチベット人抑圧について非難決議を決定。

1989年4月21日、共産党の腐敗と民主化を訴えたデモとストライキ。10万人を超える。
1989年5月23日、デモは100万人規模に。
1989年6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国軍が発砲、デモ隊を鎮圧する。死者数千か。

西側諸国は中国に対して経済制裁を実施。G7 による対中首脳会議の停止、武器輸出の禁止、世界銀行による中国への融資の停止、日本からの対中借款停止。

1989年10月、亡命中のダライラマ14世がノーベル平和賞を受賞。
「独立」にかわり「真の自治」を求めることで妥協をはかる ストラスブール提案。
中国はこれに抗議する。

欧州議会は1990年4月25日に非難決議を採択。

1993年5月24日には1万人以上の大規模なデモ行進、中共軍によって武力鎮圧された。

1998年、国際連合人権高等弁務官メアリー・ロビンソンがチベットを訪問した。

中国はチベット地域にチベット側に合意をととらず核廃棄物処理場や核ミサイル基地建設を進めてきた。
1984年、60億ドルでヨーロッパの原子炉の4千トンの放射性廃棄物をひきとりゴビ砂漠に保管。
1991年、米国メリーランド州バルチモア市の下水汚物2万トンが中国に144万米ドルで輸出された。
廃棄物の汚染の危険性が抗議され、チベットへの汚物輸送は中止される。
1993年 、リシュイとガンズィ近辺で病気の発生率が異常に高いという報告があり、核基地付近で放牧していた遊牧民の子供たちのうち7人がガンで死亡。

2008年3月、2008年のチベット騒乱。チベット全土で反中国のデモが起き、中国の警察によって制圧された。
2010年10月19日に、中国チベット族治州同仁県で、チベット民族の高校生、5千〜9千人が、六つの高校から合流してデモ行進し、地元政府役場前に、「民族文化の平等」を要求した。

2011年11月3日、米国務省は同年11月4日、チベット族僧侶らの焼身自殺に懸念を表明し、中国政府にチベット政策を改めるよう要求。








[2022/09/17 00:12] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

イギリス病と論理性を欠く「反自虐史観」 

1⃣イギリスと日本の自虐史観についての記事

という記事がある。

内容を簡単にまとめてみる。

➀1960〜1970年代、イギリスの左派政党・労働党が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンとした高度な社会福祉路線の実施・国有化による産業保護政策を行った。
そのその結果、国内製造業の設備投資は減退、資本は海外へ流出、、国有企業は経営改善努力をしなくなって国際競争力を失った。

⓶経済政策の失敗が原因だが、左派勢力によるゆがんだ教育政策も一因だった。

③当時のイギリスは、自虐史観教育が蔓延し、子どもたちの深刻な学力低下を招いていた。
若者は国に誇りを持てず無気力になっていた。

④当時の教科書には「イギリス人が植民地時代に行ったことがいかに惨酷であるか」とか、「人種差別を行っていた」という内容が記されていた。

⑤イギリスの日教組ともいえる「教師労働者連盟」は、自国の歴史や伝統を否定する教育を推し進めたが、左派の労働党が政権を維持するための選挙戦略。

⑥1979年、保守党が政権を奪回し、サッチャーが首相となり
国有企業の民営化、税制改革、規制緩和、労働組合の弱体化などの政策を推し進め、経済を成長させた。

⑦サッチャーは1988年、「教育改革法」で、「教育水準の向上」と「自虐的偏向教育の是正」を行った。

⑨日本の教育も「自虐史観教育」である。

⓾日本は戦後GHQによってWGIP(日本人洗脳プログラム)を作成し、「日本は侵略国家である」という洗脳をする”自虐史観教育”が行った。
日教組が中心的役割を担った。

⑪プレスコード(報道禁止項目)
SCAP(連合国司令官、もしくは総司令部)に対する批判
極東軍事裁判への批判
GHQが日本国憲法を起草したことへの批判
検閲制度への言及
アメリカ合衆国への批判
ロシアへへの批判
英国への批判
朝鮮への批判
中国への批判
大東亜共栄圏への宣伝
解禁されていない報道の公表
占領軍兵士と日本女性との交渉
※30項目のうち一部抜粋

⑫プレスコードの中に中国、韓国に対して批判をしてはならないという項目がある。
迷惑をかけた国なのだから「反論せずすべてを受け入れろ」ということ。
結果、ありもしない南京大虐殺、慰安婦問題、徴用工問題などを受け入れることになった。

⑬日本は奇跡の復興を成し遂げたが(高度成長したということだろう。)
日本人としてのアイデンティティーを確立するために、第一次安倍内閣の下で戦後レジームからの脱却を目指すとする方針が打ちだされた。
2007年、教育改革3法案をに成立させ、我が国と郷土を愛する(愛国心)心をはぐくむ教育への転換がはかられた。
これをきっかけに日教組による偏向教育が徐々に影を薄めていった。

2⃣英国が教育改革を行ったのは、イギリス病を克服するため

イギリス病についてウィキペディア「英国病」を読んでみたが、➀とほぼ同様の内容が記されている。

英国病(えいこくびょう、英語: British disease)またはイギリス病とは、国を挙げてセカンダリー・バンキングへ傾注した1960年代以降のイギリスにおいて、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策が実施され、社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下[1]、既得権益の発生[2]、およびその他の経済・社会的な問題を発生させた現象である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E7%97%85 より引用

しかし、自虐史観については、一切ふれられていない。

そうではあるが、英国が教育改革を行ったのは、イギリス病を克服するためだという記事はあった。

file:///C:/Users/FUJITSU/Downloads/TAESS_23-1.pdf

上の記事では
英国の教育改革は,「英国病Jともいわれた英国の経済的低迷からの脱却を意図して開始された行政改革に直接的な起源をもつものである。

「英国における学校歴史の改革について 野 口 剛」 より引用

と記されている。

3⃣イギリスの歴史教科書はどのように変わったのか、わからない。

ものごとは具体的に述べるべきである。
しかし、自虐史観と呼ぶイギリスの歴史教科書の具体的な内容がわからない。

④当時の教科書には「イギリス人が植民地時代に行ったことがいかに惨酷であるか」とか、「人種差別を行っていた」という内容が記されていた。

これでは具体的とはいえないだろう。
実際の教科書の内容を引用する必用があると思う。

ネットを検索してみたのだが、他にはこういう記事があっただけだった。

「人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか』と題するその教科書は、イギリス植民地支配の残虐性とその犠牲となった有色人種(アジア、アフリカ、中南米)の人々の悲劇をグロテスクなイラストで強調する一方、イギリスを「人種差別に満ちた侵略国家」と非難し、イギリスのアイデンティティに深くかかわる国旗、キリスト教、君主制に対する
激しい憎悪を煽るものでした。


これも具体的とは言い難い。教科書の記述を正しく引用するべきだと思う。

さらに問題なのは、教科書の書き換えが行われて、どのような内容になったのかについて、全く述べられていないことだ。
これでは判断できない。

4⃣戦前の新聞紙法、戦後のプレスコード、どちらも言論統制だった。

1⃣-⑪でプレスコードについて述べられているが、こういうものがあったのは事実で
漫画「はだしのゲン/中沢啓治(汐文社)では、「アメリカは原爆の報道を制限し、原爆犯罪をかくした」というような内容が述べられている。

プレスコードとは、終戦後1945年よりGHQが行った言論統制であり、検閲が実行された。
その結果GHQ批判、原爆に対する記事などが発禁処分とされた。
昭和27年(1952年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により失効している。

 いまから75年前の8月に、広島と長崎を破壊し尽くした原爆。ハーシーとショーンはアメリカ政府が情報操作を行い、新型爆弾が人間に与えた苦しみを隠蔽しているのではないかとにらんでいた。

日本から送られてくる写真には倒壊した建物や焼け野原の町は映っていたが、犠牲者、とりわけ放射線障害についてはほとんど何も伝わってこなかったのだ。

米政府は被爆地への出入りを制限。陸軍省はアメリカの報道機関に対して内々に、原爆の核兵器としての側面を大きく伝えないよう要請していた。

放射線による甚大な被害がアメリカ以外のジャーナリストや日本の当局者から漏れるたび、政府はプロパガンダとして一蹴した。ある将校に至っては、被曝による死は「非常に快適な死に方」だと議会で証言した。

https://courrier.jp/news/archives/209821/ より引用

⑫プレスコードの中に中国、韓国に対して批判をしてはならないという項目がある。
迷惑をかけた国なのだから「反論せずすべてを受け入れろ」ということ。
結果、ありもしない南京大虐殺、慰安婦問題、徴用工問題などを受け入れることになった。

とある。

簡単にプレスコードが原因で、南京大虐殺、慰安婦問題、徴用工問題などが受け入れさせられた、といっているが
こういう問題については「なぜこれらがなかったのか」と説明する必用がある。
この説明では全く説明不足だ。

正しいか正しくないかはさておき、南京大虐殺、慰安婦問題、徴用工問題などの諸問題について、「日本側に責任があったのではないか」といった意見もある。
この記事は、そのような人に対してあまりにも簡単に「自虐史観」というレッテルをはっているに等しい。
その理由は、これらの諸問題について、「なせこれらがなかったのか」という丁寧な説明を欠いているからである。

プレスコードが言論統制であったのは間違いないが、戦前の日本に新聞紙法があったことも忘れてはいけない。

新聞紙法は戦前の日本で制定された、日刊新聞および定期刊行雑誌を規制する法律である。
警察が新聞報道の内容をチェックし、違反すると発刊を停止した。
1940年には、軍部が主導権をもつ内閣情報局が検閲を行うようになった。
つまり、戦争反対や軍部に都合の悪い内容、天皇制に対する批判などは検閲されて、発禁になったということである。

「表現の自由」について述べる場合、プレスコードだけではなく、新聞紙法についても述べるべきである。

5⃣日本起源説

自虐史観への反発がいきすぎて、一部の右寄り論者によって日本起源説が作られようとしている。
稲作が日本で始まったとか、最初の人類は日本で生まれた、などがそれである。

YouTubeに「縄文時代に始まった稲作」という動画があり、次のように説明しておられる。

4:35
日本はもともと亜熱帯だった。~略~
稲はもともと熱帯植物で、熱帯は雨季と乾季がある
それを人工的に演出したものが水田なんですよね
その亜熱帯だった地方がだんだん温帯になってくることによって四季が生まれる
雨季と乾季はなくなっちゃいますから代わりに人工的に雨季と乾季を演出しなくちゃいけない
ということはそれはもう古い昔から亜熱帯からだんだん変化していった時代の中で
自然とこういうものが生まれてきたというのが出た方が自然だと思いますよね

これは稲作は日本で自然にうまれてきたという意味だろう。

しかし考古学的には、中国の長江(揚子江)下流の上山遺跡(浙江省浦江)から、約1万年前の世界最古の栽培稲のもみ殻が見つかっており、野生種より長さが短く、幅が太い栽培稲の特徴を持っており、長江流域が稲作発祥の地だと考えられている。

日本で見つかっているのは1万2000年前とか、6000年前の稲のプラントオパールである。
プラントオパールは小さく風で飛んできたり、下の地層に入り込むなどすることもあるので
日本だけでなく、中国でも、どこででも、プラントオパールの存在をもって稲作の存在があったとは考えられていない。


2:56
稲作ですねこれもあの中国の歴史の捏造によって、
日本人が違うことを考えているんですが
稲は弥生時代に大陸から渡ったと
これどうしてこういう話になっているかと言うと
黄河文明が先に出来たので日本はその頃文明がないと
だから弥生時代になってやっと紀元前3000年くらいで稲作が伝わったと
それと共に弥生人というのはきたと
ところがいろいろな研究によると稲作はもうずっとずっと前の8000年ぐらいまで
今さかのぼれるのかな
縄文時代に十分に作っていることと中国と種が違うわけですね
つまり、稲作は8000年前に中国とは関係なく日本で始まった。

「中国と種が違う。」についてだが、稲はインディカとジャポニカの2種類ある。
さらにジャポニカは温帯ジャポニカ(水稲)と、熱帯ジャポニカ(陸稲)の2種類がある。
中国で90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。
現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類
RM1-b が日本の稲と中国の稲で共通している。

「(日本の)稲作が8000年ぐらいまでさかのぼれる」については、ある自称歴史研究家が菜畑遺跡を7000年前と発言したことをまにうけ、さらに1000年上乗せして古くしてしまっているのだと思う。
(参照 菜畑遺跡は7000年前の遺跡ではない )
この自称歴史研究家は水田跡が発見されている菜畑遺跡を7000年前といっているが間違いで、約2500~2600年前の遺跡である。

考古学の発見を無視したり、誤った認識で日本が稲作発祥の地であるとし
「稲作発祥の地が中国であるという考古学的見解はまちがいである。」とやるのはどう考えてもおかしい。

稲作を中国発祥とするのは、自虐史観ではなく、すでにのべたようなちゃんとした理由があるのだ。

そのほかにも、「日本人が最初の人類である」という内容を述べている動画もあった。
人類の発祥はアフリカであるとし、大陸を通らずに日本に人類が到達したと説明していて、
そうであれば、最初の人類はアフリカとなるのだが、なぜ日本人が最初の人類となるのかわからない。

動画主らは、保守が作り出した自虐史観という言葉を利用して、誤った内容を事実であるかのように拡散しているのである。

これでは韓国起原説を笑えない。

枚方市 穗谷 稲

6⃣教育3法案についての批判


1⃣-⑬に「2007年、教育改革3法案をに成立させ、我が国と郷土を愛する(愛国心)心をはぐくむ教育への転換がはかられた。」とある。

この教育改革3法案について、以下のような批判があるようである。

❶ 旧教育基本法では
「教育は,真理の開明と人格の完成とを期して行われなければならない.従来,わが国の教育は,ややもすればこ
の自覚と反省とにかけるところがあり,とくに真の科学的精神と宗教的情操とが軽んぜられ,徳育が形式に流れ,教
育は自主性を失い,ついに軍国主義的,又は極端な国家主義的傾向をとるに至った.この過りを是正するためには教
育を根本的に刷新しなければならない.」

となっていた。ところが、新教育基本法では次のようにかえられた。

「我々日本国民は,たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに,世界の平
和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである.」

これについて、日本は昔から民主主義であったようによめる。
しかし日本が民主主義国家になったのは1945年の敗戦後、GHQ管理下からなので、誤解を与える。

❷新教育基本法には次のようにある。
「我々は,個人の尊厳を重んじ,真理と正義を希求し,公共の精神を尊び,豊かな人間性と創造性を備えた人間の
育成を期するとともに,伝統を継承し,新しい文化の創造を目指す教育を推進する.」
「伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和
と発展に寄与する態度を養う.」

「公共の精神」日本の伝統と文化」「愛国心・郷土愛」は、反日的な教育を行うべきではないとの意味でもりこまれているのだろうが、いきすぎると国家至上主義になる。

❸第 10 条(家庭教育)規定
この規定を果たすことのできない保護者を持った子供もいる。
そういう子供に対しては国が救うべきであるのに、それを放棄して教育責任を親に押し付けている

❹財政的な保障を明記した規定がない。

❺新教育基本法には平和の強調がない.

1⃣-⑫で、「日教組による偏向教育」とあるが、これも具体性を欠いているため、何をもって偏向教育といっているのかわからない。
日教組を擁護するつもりはないが、教育改革3法案にも上にあげたような不安がある。






[2022/09/11 08:02] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)

宮内庁管理下の陵墓について 

ナガレ山古墳

ナガレ山古墳

➀宮内庁管理の陵墓は江戸~明治期に定められたものだった。

天皇・皇后・皇太后・太皇太后を葬った(とされている)場所のことを陵、その他の皇族を葬った場所のことを墓といい、
宮内庁によって管理されている。

これらの陵墓の数は459箇所あるが、古より管理され続けられてきたものは少なく、ほとんどが江戸・明治期に定められたものである。
これらが治定されたのは、そのころ、尊王思想の気運が高まっていたためだと考えられている。

文久2年、宇都宮藩の提案によって「文久の修陵」が始められた。
このころ、古い時代の陵墓は所在地がわからなくなっていたものが多数あった。
「天皇陵かも?」と伝承されていた場所はあったのだが、畑にされるなどして利用されていた。

天皇陵ではないが、奈良県天理市の山辺の道にある灯籠山古墳は、前方部が墓地、後円部が果樹園となっている。
天皇陵もそんな風に荒れ果てていたものと思われる。

「文久の修陵」では、そのような荒れ果てた古墳を禁足地、聖地に変えた。

⓶発掘調査の結果、文武天皇陵は栗原塚穴古墳ではなく、中尾山古墳が濃厚に。

このたくさんある陵墓は、本当に皇族を葬った墓なのだろうか。
先ほども書いたように、古より管理され続けられてきた陵墓は少なく、ほとんどが江戸・明治期に定められたものである。そして、当事は考古学が発展していなかったので、記紀の記述や言い伝えなどにもとづいてきめたのだという。

たとえば、宮内庁は栗原塚穴古墳を文武天皇陵としているが、学術的には中尾山古墳が文武天皇陵であることが有力視されている。

その理由は、中尾山古墳を発掘調査したところ、次のようなことがわかったためである。
・8世紀初頭頃の築造と推定されること(文武天皇崩御は 707年)
・天皇陵級の古墳に見られる八角墳であること
・火葬墓(火葬墳)であること(文武天皇は火葬されたと続日本紀に記述がある。)

宮内庁が栗原塚穴古墳を文武陵とした理由についてもみておこう。
栗原塚穴古墳の近くに「アントク」という地名があり、「アンコウ山」と記されているのは
「檜隈安古岡上陵」の「安古」が訛って「アントク」になったのではないか
というのがその理由である。

アンコ→アンコウまではわかるが、アントクにつなげるのはかなり厳しい。

上で説明した考古学の調査と、かなりむりくり感のある地名の語呂合わせの結果のどちらが信憑性があるだろうか?

ちなみに栗原塚穴古墳はアンドクの北東の塚穴という場所にあり、破壊されて畑とされていたのを
文武天皇陵とさだめ、元治元(1864)年に復元工事が行われた。

③継体天皇陵は太田茶臼山古墳ではなく今城塚古墳が濃厚。

継体天皇陵は大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳に治定されていて、宮内庁管理下にあるが
1972年(昭和47年)・1988年(昭和63年)に周濠外側での発掘調査、2002年度(平成14年度)に墳丘裾部での発掘調査などが行われている。

太田茶臼山古墳は出土した埴輪から5世紀中ごろ(450年頃)に築造されたと考えられている。
ところが継体天皇の没年は 531年?とされていて時代が合わないのだ。

それどころか、所在地も史書の記述と食い違っている。

古事記・・・・・三島之藍陵
日本書紀・・・・藍野陵
延喜式・・・・・三嶋藍野陵 摂津国島上郡 兆域東西3町・南北3町。
諸陵雑事注文(1200年)・・・摂津島上郡継体天皇

元禄9年(1696年)に松下見林の『前王廟陵記』は、太田茶臼山古墳を継体天皇陵ではないかとし
享保17年(1732年)までに太田茶臼山古墳が継体天皇陵と治定された。

太田茶臼山古墳は島下郡であり、延喜式にある島上郡ではないため、
本居宣長は島上郡島下郡の郡界が移動したと考えた。

大正のころより、郡界の移動は無く島上郡の郡域にある今城塚古墳が継体天皇陵ではないかという説が登場した。
今城塚古墳の築造年代は6世紀前半であり、継体天皇の没年は 531年?なので時代的にもあう。

今城塚古墳(6世紀前半頃)は宮内庁管理課の陵墓ではないので、発掘調査も行われた。

墳丘の荒廃が著しく、1568年(永禄11年)の織田信長の摂津侵攻のとき、城砦として築いたのではないかという説があった。
しかし、発掘調査の結果、1596年(慶長元年)の伏見大地震によって墳丘が地すべり性の崩壊を起こしたものという説が濃厚。

1596年 慶長伏見地震による古墳の地すべり

かつて今城塚古墳は剣菱形だと考えられていたが、地滑りによって生じた滑落部分であり
もともとは前方後円墳だったと考えられている。

④本当に皇族が葬られた陵墓なのか、という問題を無視

という記事がある。

皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。学者たちがお墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。曽祖父様が皆さんと血がつながってないと分かったとして、迷惑なだけじゃありませんか。調査など、余計なお世話でしょ、という説明だ。
https://www.news-postseven.com/archives/20190909_1448490.html?DETAIL より引用

迷惑であり余計なお世話であるにもかかわらず、学者たちが調査したがる根拠は何か。「知の特権」である。「知」は何をやっても許されるという特権である。ジャーナリズムの報道もその一つだ。しばしば問題になる犯罪被害者の報道はその好例である。被害者は「知」られたくないのだ。

この方の話には欠落している点がいくつかある。

❶この方は「本当に皇族が葬られた墓なのか」という問題について一言も述べておられず
「天皇陵であることが間違いがない」とミスリードしているように思える。
すでに説明したように、天皇陵は江戸時代~明治時代にいい加減に治定したものである。
天皇陵というが、他人の先祖の墓かもしれないし、学術的にそれが判明している例も数例ある。
決史八代といって存在しないかもしれないと考えられている天皇や、神代の神三柱の陵も陵墓としている。
なにかの権利を主張する場合には、根拠を示す必要があるはずだ。
天皇陵と主張するのであれば、きちっと調査をした上で、学術的にも天皇陵といってほぼまちがいないといいう根拠を示す必要があるのではないだろうか。
全く天皇家とは関係のない人の古墳を、天皇家の墓としている例が多数ありそうである。
自分の先祖の墓を、天皇陵と偽られて不快に思う人もあるだろう。
そういう人の気持ちを無視しても、いいのだろうか。

❷「古墳調査の是非論」というタイトルは不適切で、「宮内庁管理下の陵墓調査の是非論」と書くべき。
「古墳」には宮内庁が管理していないものもあり、それらは発掘調査されているからだ。

❸「皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。学者たちがお墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。」と問うのも例として不適切だ。

全ての古墳の発掘調査を禁止すべきという主張であれば、「皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。」と問うのでは適切だといえるかもしれないが
発掘調査が禁止されているのは、宮内庁管理下の陵墓のみ、つまり天皇家に関係すると考えられている陵墓のみであり
この記事の筆者が問題にしているのも宮内庁管理下の陵墓だけである。

❹「お墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。」という表現もやや感情的だ。
遺体がでてくれば遺骨の寸法を計ったり化学分析されるだろう。
高松塚古墳、キトラ古墳からは遺骨が発見され、調査の結果、性別、年齢などが推定された。
しかし、そのときにこの筆者は「なんてひどいことをするんだ。」と声をあげたのだろうか。
たぶんされていないのではないだろうか。
結局、天皇家という権威のある家柄の陵墓についてのみ問題視しているわけで、
そうであるのに民間人のケースを例として出すのは不適切である。

❺「皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。学者たちがお墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。」
これが適切でないといえる理由はほかにもある。

中には先祖のはっきりしている家柄もあるが、多くの人は何代も前の先祖のことを知らないはずである。
せいぜい7~8代前の先祖がわかっているという程度ではないかと思う。
ましてや中世など古い時代の墓を守り続けている家というのは数えるほどしかないと思う。
天皇家ですら、江戸時代には先祖代々の墓がわからなくなっていたのである。

宮内庁管理下にある陵墓でも近年のものは被葬者もはっきりしているし、発掘調査はのぞまれていない。
発掘調査が望まれているのは、古い時代のものである。

つまり、7~8代までの先祖までしか遡れない一般人の墓と、神代まで遡って治定されている天皇家の陵墓を同列には語れないということである。

⑤「知の特権」と「人権」の対立ではなく、「科学」と「宗教」の対立

この記事の筆者は、『「知の特権」と「人権」の対立』と書いておられるが、
「知の特権」という言葉に、「知」とは「知りたいことは何でも知ることができるという傲慢な態度」と考えておられることがうかがえる。

そして「人権」と書いておられるが、古墳の調査を阻むのは権利とはいえない。
何度も繰り返すが、権利を主張するためには、それが天皇家のものであるという証明が必要ではないか。
しかし、その証明ができていないのだ。
その証明のためには、発掘調査がかかせない。
証明できないものを、権利として主張できないと思うのだ。

さらに誰の「人権」なのかということが明確にされていない。
皇族の人権にきまっているじゃないか、といわれるかもしれないが、
皇族の人権であるというのならば、皇族の方々に意見を聞いてみなければいけない。
皇族の方々が発掘調査に反対であるとは限らないのだ。

しかし、皇族の方々にこれについての意見をいう権利はあるのだろうか。
天皇は政治的行為を禁止されている。もちろん政治的な発言はしてはいけないということになっている。
発掘調査は学問的な問題だが、過去の天皇は長らく政治と関係をもってきた。
発掘調査が行われて、万が一歴史の新事実が解明したとすると、それによって政治的イデオロギーに影響を与えかねない。
天皇は、発掘調査についての希望を述べることはできないだろう。

するとこの文章で書かれている「人権」とは誰の人権なのか、という疑問が生じる。
もしかして、宮内庁職員の人権だろうかw
陵墓は宮内庁職員の所有物ではないはずなのだが。

以上のように、宮内庁管理下の陵墓の発掘調査の是非を『「知の特権」と「人権」の対立』というのは、適切ではない。
『「信仰」と「科学」の対立』といったほうが適切ではないか。

考古学は人文科学であって自然科学ではないとし、『「信仰」と「科学」の対立』についてぶーぶー言う人がいる。
人文科学の中に文学がはいっているじゃないか、というのだ。

私も文学を科学というのは抵抗はあるので、外した方がいいと思うが
歴史学や考古学は、文学のように何も制約のない中で自由に想像を膨らませてもいい学問ではない。

歴史学ならば史料に基づいて行うが、複数の史料を突き合わせたり、遺物と照合したりして、
矛盾点があれば、どのように考えれば合理的に説明できるのか、などについて考える。

考古学の実例については簡単にではあるが、⓶③に記した。

歴史学や考古学は自然科学と違って再現性がないが、
史料や遺物に基づいて論理的に過去を研究するという点で科学といっていいように思う。

しかし、ぐだぐだ言われないように、こういっておこう。
「真実でなくてもいい」か「真実を追求するべきか(真実である、といっているのではない。新しい発見。より論理的な説明があれば訂正されうる)」の対立。

江戸時代から明治にかけて適当に決めた陵墓であるにもかかわらず、発掘調査をして確認しようともしないのは
「真実でなくてもいい」と思っているからだ。

発掘調査するべきというのは「真実を追求するべき」と考えているからである。

どちらがいいとは一概にはいえない。






[2022/09/06 17:12] つれづれなるままに | TB(0) | CM(0)