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イギリス病と論理性を欠く「反自虐史観」

1⃣イギリスと日本の自虐史観についての記事

自国に誇りを持てないと国は衰退する「イギリス病」の例から学ぶ
という記事がある。

内容を簡単にまとめてみる。

➀1960〜1970年代、イギリスの左派政党・労働党が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンとした高度な社会福祉路線の実施・国有化による産業保護政策を行った。
そのその結果、国内製造業の設備投資は減退、資本は海外へ流出、、国有企業は経営改善努力をしなくなって国際競争力を失った。

⓶経済政策の失敗が原因だが、左派勢力によるゆがんだ教育政策も一因だった。

③当時のイギリスは、自虐史観教育が蔓延し、子どもたちの深刻な学力低下を招いていた。
若者は国に誇りを持てず無気力になっていた。

④当時の教科書には「イギリス人が植民地時代に行ったことがいかに惨酷であるか」とか、「人種差別を行っていた」という内容が記されていた。

⑤イギリスの日教組ともいえる「教師労働者連盟」は、自国の歴史や伝統を否定する教育を推し進めたが、左派の労働党が政権を維持するための選挙戦略。

⑥1979年、保守党が政権を奪回し、サッチャーが首相となり
国有企業の民営化、税制改革、規制緩和、労働組合の弱体化などの政策を推し進め、経済を成長させた。

⑦サッチャーは1988年、「教育改革法」で、「教育水準の向上」と「自虐的偏向教育の是正」を行った。

⑨日本の教育も「自虐史観教育」である。

⓾日本は戦後GHQによってWGIP(日本人洗脳プログラム)を作成し、「日本は侵略国家である」という洗脳をする”自虐史観教育”が行った。
日教組が中心的役割を担った。

⑪プレスコード(報道禁止項目)
SCAP(連合国司令官、もしくは総司令部)に対する批判
極東軍事裁判への批判
GHQが日本国憲法を起草したことへの批判
検閲制度への言及
アメリカ合衆国への批判
ロシアへへの批判
英国への批判
朝鮮への批判
中国への批判
大東亜共栄圏への宣伝
解禁されていない報道の公表
占領軍兵士と日本女性との交渉
※30項目のうち一部抜粋

⑫プレスコードの中に中国、韓国に対して批判をしてはならないという項目がある。
迷惑をかけた国なのだから「反論せずすべてを受け入れろ」ということ。
結果、ありもしない南京大虐殺、慰安婦問題、徴用工問題などを受け入れることになった。

⑬日本は奇跡の復興を成し遂げたが(高度成長したということだろう。)
日本人としてのアイデンティティーを確立するために、第一次安倍内閣の下で戦後レジームからの脱却を目指すとする方針が打ちだされた。
2007年、教育改革3法案をに成立させ、我が国と郷土を愛する(愛国心)心をはぐくむ教育への転換がはかられた。
これをきっかけに日教組による偏向教育が徐々に影を薄めていった。

2⃣英国が教育改革を行ったのは、イギリス病を克服するため

イギリス病についてウィキペディア「英国病」を読んでみたが、➀とほぼ同様の内容が記されている。

英国病(えいこくびょう、英語: British disease)またはイギリス病とは、国を挙げてセカンダリー・バンキングへ傾注した1960年代以降のイギリスにおいて、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策が実施され、社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下[1]、既得権益の発生[2]、およびその他の経済・社会的な問題を発生させた現象である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E7%97%85 より引用

しかし、自虐史観については、一切ふれられていない。

そうではあるが、英国が教育改革を行ったのは、イギリス病を克服するためだという記事はあった。

file:///C:/Users/FUJITSU/Downloads/TAESS_23-1.pdf

上の記事では
英国の教育改革は,「英国病Jともいわれた英国の経済的低迷からの脱却を意図して開始された行政改革に直接的な起源をもつものである。

「英国における学校歴史の改革について 野 口 剛」 より引用

と記されている。

3⃣イギリスの歴史教科書はどのように変わったのか、わからない。

ものごとは具体的に述べるべきである。
しかし、自虐史観と呼ぶイギリスの歴史教科書の具体的な内容がわからない。

④当時の教科書には「イギリス人が植民地時代に行ったことがいかに惨酷であるか」とか、「人種差別を行っていた」という内容が記されていた。

これでは具体的とはいえないだろう。
実際の教科書の内容を引用する必用があると思う。

ネットを検索してみたのだが、他にはこういう記事があっただけだった。

「人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか』と題するその教科書は、イギリス植民地支配の残虐性とその犠牲となった有色人種(アジア、アフリカ、中南米)の人々の悲劇をグロテスクなイラストで強調する一方、イギリスを「人種差別に満ちた侵略国家」と非難し、イギリスのアイデンティティに深くかかわる国旗、キリスト教、君主制に対する
激しい憎悪を煽るものでした。


これも具体的とは言い難い。教科書の記述を正しく引用するべきだと思う。

さらに問題なのは、教科書の書き換えが行われて、どのような内容になったのかについて、全く述べられていないことだ。
これでは判断できない。

4⃣戦前の新聞紙法、戦後のプレスコード、どちらも言論統制だった。

1⃣-⑪でプレスコードについて述べられているが、こういうものがあったのは事実で
漫画「はだしのゲン/中沢啓治(汐文社)では、「アメリカは原爆の報道を制限し、原爆犯罪をかくした」というような内容が述べられている。

プレスコードとは、終戦後1945年よりGHQが行った言論統制であり、検閲が実行された。
その結果GHQ批判、原爆に対する記事などが発禁処分とされた。
昭和27年(1952年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により失効している。

 いまから75年前の8月に、広島と長崎を破壊し尽くした原爆。ハーシーとショーンはアメリカ政府が情報操作を行い、新型爆弾が人間に与えた苦しみを隠蔽しているのではないかとにらんでいた。

日本から送られてくる写真には倒壊した建物や焼け野原の町は映っていたが、犠牲者、とりわけ放射線障害についてはほとんど何も伝わってこなかったのだ。

米政府は被爆地への出入りを制限。陸軍省はアメリカの報道機関に対して内々に、原爆の核兵器としての側面を大きく伝えないよう要請していた。

放射線による甚大な被害がアメリカ以外のジャーナリストや日本の当局者から漏れるたび、政府はプロパガンダとして一蹴した。ある将校に至っては、被曝による死は「非常に快適な死に方」だと議会で証言した。

https://courrier.jp/news/archives/209821/ より引用

⑫プレスコードの中に中国、韓国に対して批判をしてはならないという項目がある。
迷惑をかけた国なのだから「反論せずすべてを受け入れろ」ということ。
結果、ありもしない南京大虐殺、慰安婦問題、徴用工問題などを受け入れることになった。

とある。

簡単にプレスコードが原因で、南京大虐殺、慰安婦問題、徴用工問題などが受け入れさせられた、といっているが
こういう問題については「なぜこれらがなかったのか」と説明する必用がある。
この説明では全く説明不足だ。

正しいか正しくないかはさておき、南京大虐殺、慰安婦問題、徴用工問題などの諸問題について、「日本側に責任があったのではないか」といった意見もある。
この記事は、そのような人に対してあまりにも簡単に「自虐史観」というレッテルをはっているに等しい。
その理由は、これらの諸問題について、「なせこれらがなかったのか」という丁寧な説明を欠いているからである。

プレスコードが言論統制であったのは間違いないが、戦前の日本に新聞紙法があったことも忘れてはいけない。

新聞紙法は戦前の日本で制定された、日刊新聞および定期刊行雑誌を規制する法律である。
警察が新聞報道の内容をチェックし、違反すると発刊を停止した。
1940年には、軍部が主導権をもつ内閣情報局が検閲を行うようになった。
つまり、戦争反対や軍部に都合の悪い内容、天皇制に対する批判などは検閲されて、発禁になったということである。

「表現の自由」について述べる場合、プレスコードだけではなく、新聞紙法についても述べるべきである。

5⃣日本起源説

自虐史観への反発がいきすぎて、一部の右寄り論者によって日本起源説が作られようとしている。
稲作が日本で始まったとか、最初の人類は日本で生まれた、などがそれである。

YouTubeに「縄文時代に始まった稲作」という動画があり、次のように説明しておられる。

4:35
日本はもともと亜熱帯だった。~略~
稲はもともと熱帯植物で、熱帯は雨季と乾季がある
それを人工的に演出したものが水田なんですよね
その亜熱帯だった地方がだんだん温帯になってくることによって四季が生まれる
雨季と乾季はなくなっちゃいますから代わりに人工的に雨季と乾季を演出しなくちゃいけない
ということはそれはもう古い昔から亜熱帯からだんだん変化していった時代の中で
自然とこういうものが生まれてきたというのが出た方が自然だと思いますよね

これは稲作は日本で自然にうまれてきたという意味だろう。

しかし考古学的には、中国の長江(揚子江)下流の上山遺跡(浙江省浦江)から、約1万年前の世界最古の栽培稲のもみ殻が見つかっており、野生種より長さが短く、幅が太い栽培稲の特徴を持っており、長江流域が稲作発祥の地だと考えられている。

日本で見つかっているのは1万2000年前とか、6000年前の稲のプラントオパールである。
プラントオパールは小さく風で飛んできたり、下の地層に入り込むなどすることもあるので
日本だけでなく、中国でも、どこででも、プラントオパールの存在をもって稲作の存在があったとは考えられていない。

また、「日本から日本を見る2:日本と中国とどちらが長い歴史?2020/02/14」という動画でもこういっている。

2:56
稲作ですねこれもあの中国の歴史の捏造によって、
日本人が違うことを考えているんですが
稲は弥生時代に大陸から渡ったと
これどうしてこういう話になっているかと言うと
黄河文明が先に出来たので日本はその頃文明がないと
だから弥生時代になってやっと紀元前3000年くらいで稲作が伝わったと
それと共に弥生人というのはきたと
ところがいろいろな研究によると稲作はもうずっとずっと前の8000年ぐらいまで
今さかのぼれるのかな
縄文時代に十分に作っていることと中国と種が違うわけですね
つまり、稲作は8000年前に中国とは関係なく日本で始まった。

「中国と種が違う。」についてだが、稲はインディカとジャポニカの2種類ある。
さらにジャポニカは温帯ジャポニカ(水稲)と、熱帯ジャポニカ(陸稲)の2種類がある。
中国で90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。
現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類
RM1-b が日本の稲と中国の稲で共通している。

「(日本の)稲作が8000年ぐらいまでさかのぼれる」については、ある自称歴史研究家が菜畑遺跡を7000年前と発言したことをまにうけ、さらに1000年上乗せして古くしてしまっているのだと思う。
(参照 菜畑遺跡は7000年前の遺跡ではない )
この自称歴史研究家は水田跡が発見されている菜畑遺跡を7000年前といっているが間違いで、約2500~2600年前の遺跡である。

考古学の発見を無視したり、誤った認識で日本が稲作発祥の地であるとし
「稲作発祥の地が中国であるという考古学的見解はまちがいである。」とやるのはどう考えてもおかしい。

稲作を中国発祥とするのは、自虐史観ではなく、すでにのべたようなちゃんとした理由があるのだ。

そのほかにも、「日本人が最初の人類である」という内容を述べている動画もあった。
人類の発祥はアフリカであるとし、大陸を通らずに日本に人類が到達したと説明していて、
そうであれば、最初の人類はアフリカとなるのだが、なぜ日本人が最初の人類となるのかわからない。

動画主らは、保守が作り出した自虐史観という言葉を利用して、誤った内容を事実であるかのように拡散しているのである。

これでは韓国起原説を笑えない。

枚方市 穗谷 稲

6⃣教育3法案についての批判


1⃣-⑬に「2007年、教育改革3法案をに成立させ、我が国と郷土を愛する(愛国心)心をはぐくむ教育への転換がはかられた。」とある。

この教育改革3法案について、以下のような批判があるようである。

❶ 旧教育基本法では
「教育は,真理の開明と人格の完成とを期して行われなければならない.従来,わが国の教育は,ややもすればこ
の自覚と反省とにかけるところがあり,とくに真の科学的精神と宗教的情操とが軽んぜられ,徳育が形式に流れ,教
育は自主性を失い,ついに軍国主義的,又は極端な国家主義的傾向をとるに至った.この過りを是正するためには教
育を根本的に刷新しなければならない.」

となっていた。ところが、新教育基本法では次のようにかえられた。

「我々日本国民は,たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに,世界の平
和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである.」

これについて、日本は昔から民主主義であったようによめる。
しかし日本が民主主義国家になったのは1945年の敗戦後、GHQ管理下からなので、誤解を与える。

❷新教育基本法には次のようにある。
「我々は,個人の尊厳を重んじ,真理と正義を希求し,公共の精神を尊び,豊かな人間性と創造性を備えた人間の
育成を期するとともに,伝統を継承し,新しい文化の創造を目指す教育を推進する.」
「伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和
と発展に寄与する態度を養う.」

「公共の精神」日本の伝統と文化」「愛国心・郷土愛」は、反日的な教育を行うべきではないとの意味でもりこまれているのだろうが、いきすぎると国家至上主義になる。

❸第 10 条(家庭教育)規定
この規定を果たすことのできない保護者を持った子供もいる。
そういう子供に対しては国が救うべきであるのに、それを放棄して教育責任を親に押し付けている

❹財政的な保障を明記した規定がない。

❺新教育基本法には平和の強調がない.

1⃣-⑫で、「日教組による偏向教育」とあるが、これも具体性を欠いているため、何をもって偏向教育といっているのかわからない。
日教組を擁護するつもりはないが、教育改革3法案にも上にあげたような不安がある。





宮内庁管理下の陵墓について

ナガレ山古墳

ナガレ山古墳

➀宮内庁管理の陵墓は江戸~明治期に定められたものだった。

天皇・皇后・皇太后・太皇太后を葬った(とされている)場所のことを陵、その他の皇族を葬った場所のことを墓といい、
宮内庁によって管理されている。

これらの陵墓の数は459箇所あるが、古より管理され続けられてきたものは少なく、ほとんどが江戸・明治期に定められたものである。
これらが治定されたのは、そのころ、尊王思想の気運が高まっていたためだと考えられている。

文久2年、宇都宮藩の提案によって「文久の修陵」が始められた。
このころ、古い時代の陵墓は所在地がわからなくなっていたものが多数あった。
「天皇陵かも?」と伝承されていた場所はあったのだが、畑にされるなどして利用されていた。

天皇陵ではないが、奈良県天理市の山辺の道にある灯籠山古墳は、前方部が墓地、後円部が果樹園となっている。
天皇陵もそんな風に荒れ果てていたものと思われる。

「文久の修陵」では、そのような荒れ果てた古墳を禁足地、聖地に変えた。

⓶発掘調査の結果、文武天皇陵は栗原塚穴古墳ではなく、中尾山古墳が濃厚に。

このたくさんある陵墓は、本当に皇族を葬った墓なのだろうか。
先ほども書いたように、古より管理され続けられてきた陵墓は少なく、ほとんどが江戸・明治期に定められたものである。そして、当事は考古学が発展していなかったので、記紀の記述や言い伝えなどにもとづいてきめたのだという。

たとえば、宮内庁は栗原塚穴古墳を文武天皇陵としているが、学術的には中尾山古墳が文武天皇陵であることが有力視されている。

その理由は、中尾山古墳を発掘調査したところ、次のようなことがわかったためである。
・8世紀初頭頃の築造と推定されること(文武天皇崩御は 707年)
・天皇陵級の古墳に見られる八角墳であること
・火葬墓(火葬墳)であること(文武天皇は火葬されたと続日本紀に記述がある。)

宮内庁が栗原塚穴古墳を文武陵とした理由についてもみておこう。
栗原塚穴古墳の近くに「アントク」という地名があり、「アンコウ山」と記されているのは
「檜隈安古岡上陵」の「安古」が訛って「アントク」になったのではないか
というのがその理由である。

アンコ→アンコウまではわかるが、アントクにつなげるのはかなり厳しい。

上で説明した考古学の調査と、かなりむりくり感のある地名の語呂合わせの結果のどちらが信憑性があるだろうか?

ちなみに栗原塚穴古墳はアンドクの北東の塚穴という場所にあり、破壊されて畑とされていたのを
文武天皇陵とさだめ、元治元(1864)年に復元工事が行われた。

③継体天皇陵は太田茶臼山古墳ではなく今城塚古墳が濃厚。

継体天皇陵は大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳に治定されていて、宮内庁管理下にあるが
1972年(昭和47年)・1988年(昭和63年)に周濠外側での発掘調査、2002年度(平成14年度)に墳丘裾部での発掘調査などが行われている。

太田茶臼山古墳は出土した埴輪から5世紀中ごろ(450年頃)に築造されたと考えられている。
ところが継体天皇の没年は 531年?とされていて時代が合わないのだ。

それどころか、所在地も史書の記述と食い違っている。

古事記・・・・・三島之藍陵
日本書紀・・・・藍野陵
延喜式・・・・・三嶋藍野陵 摂津国島上郡 兆域東西3町・南北3町。
諸陵雑事注文(1200年)・・・摂津島上郡継体天皇

元禄9年(1696年)に松下見林の『前王廟陵記』は、太田茶臼山古墳を継体天皇陵ではないかとし
享保17年(1732年)までに太田茶臼山古墳が継体天皇陵と治定された。

太田茶臼山古墳は島下郡であり、延喜式にある島上郡ではないため、
本居宣長は島上郡島下郡の郡界が移動したと考えた。

大正のころより、郡界の移動は無く島上郡の郡域にある今城塚古墳が継体天皇陵ではないかという説が登場した。
今城塚古墳の築造年代は6世紀前半であり、継体天皇の没年は 531年?なので時代的にもあう。

今城塚古墳(6世紀前半頃)は宮内庁管理課の陵墓ではないので、発掘調査も行われた。

墳丘の荒廃が著しく、1568年(永禄11年)の織田信長の摂津侵攻のとき、城砦として築いたのではないかという説があった。
しかし、発掘調査の結果、1596年(慶長元年)の伏見大地震によって墳丘が地すべり性の崩壊を起こしたものという説が濃厚。

1596年 慶長伏見地震による古墳の地すべり

かつて今城塚古墳は剣菱形だと考えられていたが、地滑りによって生じた滑落部分であり
もともとは前方後円墳だったと考えられている。

④本当に皇族が葬られた陵墓なのか、という問題を無視

古墳調査の是非論、根底には「知の特権」と「人権」の対立
という記事がある。

皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。学者たちがお墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。曽祖父様が皆さんと血がつながってないと分かったとして、迷惑なだけじゃありませんか。調査など、余計なお世話でしょ、という説明だ。
https://www.news-postseven.com/archives/20190909_1448490.html?DETAIL より引用

迷惑であり余計なお世話であるにもかかわらず、学者たちが調査したがる根拠は何か。「知の特権」である。「知」は何をやっても許されるという特権である。ジャーナリズムの報道もその一つだ。しばしば問題になる犯罪被害者の報道はその好例である。被害者は「知」られたくないのだ。
https://www.news-postseven.com/archives/20190909_1448490.html/2 より引用

この方の話には欠落している点がいくつかある。

❶この方は「本当に皇族が葬られた墓なのか」という問題について一言も述べておられず
「天皇陵であることが間違いがない」とミスリードしているように思える。
すでに説明したように、天皇陵は江戸時代~明治時代にいい加減に治定したものである。
天皇陵というが、他人の先祖の墓かもしれないし、学術的にそれが判明している例も数例ある。
決史八代といって存在しないかもしれないと考えられている天皇や、神代の神三柱の陵も陵墓としている。
なにかの権利を主張する場合には、根拠を示す必要があるはずだ。
天皇陵と主張するのであれば、きちっと調査をした上で、学術的にも天皇陵といってほぼまちがいないといいう根拠を示す必要があるのではないだろうか。
全く天皇家とは関係のない人の古墳を、天皇家の墓としている例が多数ありそうである。
自分の先祖の墓を、天皇陵と偽られて不快に思う人もあるだろう。
そういう人の気持ちを無視しても、いいのだろうか。

❷「古墳調査の是非論」というタイトルは不適切で、「宮内庁管理下の陵墓調査の是非論」と書くべき。
「古墳」には宮内庁が管理していないものもあり、それらは発掘調査されているからだ。

❸「皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。学者たちがお墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。」と問うのも例として不適切だ。

全ての古墳の発掘調査を禁止すべきという主張であれば、「皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。」と問うのでは適切だといえるかもしれないが
発掘調査が禁止されているのは、宮内庁管理下の陵墓のみ、つまり天皇家に関係すると考えられている陵墓のみであり
この記事の筆者が問題にしているのも宮内庁管理下の陵墓だけである。

❹「お墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。」という表現もやや感情的だ。
遺体がでてくれば遺骨の寸法を計ったり化学分析されるだろう。
高松塚古墳、キトラ古墳からは遺骨が発見され、調査の結果、性別、年齢などが推定された。
しかし、そのときにこの筆者は「なんてひどいことをするんだ。」と声をあげたのだろうか。
たぶんされていないのではないだろうか。
結局、天皇家という権威のある家柄の陵墓についてのみ問題視しているわけで、
そうであるのに民間人のケースを例として出すのは不適切である。

❺「皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。学者たちがお墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。」
これが適切でないといえる理由はほかにもある。

中には先祖のはっきりしている家柄もあるが、多くの人は何代も前の先祖のことを知らないはずである。
せいぜい7~8代前の先祖がわかっているという程度ではないかと思う。
ましてや中世など古い時代の墓を守り続けている家というのは数えるほどしかないと思う。
天皇家ですら、江戸時代には先祖代々の墓がわからなくなっていたのである。

宮内庁管理下にある陵墓でも近年のものは被葬者もはっきりしているし、発掘調査はのぞまれていない。
発掘調査が望まれているのは、古い時代のものである。

つまり、7~8代までの先祖までしか遡れない一般人の墓と、神代まで遡って治定されている天皇家の陵墓を同列には語れないということである。

⑤「知の特権」と「人権」の対立ではなく、「科学」と「宗教」の対立

この記事の筆者は、『「知の特権」と「人権」の対立』と書いておられるが、
「知の特権」という言葉に、「知」とは「知りたいことは何でも知ることができるという傲慢な態度」と考えておられることがうかがえる。

そして「人権」と書いておられるが、古墳の調査を阻むのは権利とはいえない。
何度も繰り返すが、権利を主張するためには、それが天皇家のものであるという証明が必要ではないか。
しかし、その証明ができていないのだ。
その証明のためには、発掘調査がかかせない。
証明できないものを、権利として主張できないと思うのだ。

さらに誰の「人権」なのかということが明確にされていない。
皇族の人権にきまっているじゃないか、といわれるかもしれないが、
皇族の人権であるというのならば、皇族の方々に意見を聞いてみなければいけない。
皇族の方々が発掘調査に反対であるとは限らないのだ。

しかし、皇族の方々にこれについての意見をいう権利はあるのだろうか。
天皇は政治的行為を禁止されている。もちろん政治的な発言はしてはいけないということになっている。
発掘調査は学問的な問題だが、過去の天皇は長らく政治と関係をもってきた。
発掘調査が行われて、万が一歴史の新事実が解明したとすると、それによって政治的イデオロギーに影響を与えかねない。
天皇は、発掘調査についての希望を述べることはできないだろう。

するとこの文章で書かれている「人権」とは誰の人権なのか、という疑問が生じる。
もしかして、宮内庁職員の人権だろうかw
陵墓は宮内庁職員の所有物ではないはずなのだが。

以上のように、宮内庁管理下の陵墓の発掘調査の是非を『「知の特権」と「人権」の対立』というのは、適切ではない。
『「信仰」と「科学」の対立』といったほうが適切ではないか。

考古学は人文科学であって自然科学ではないとし、『「信仰」と「科学」の対立』についてぶーぶー言う人がいる。
人文科学の中に文学がはいっているじゃないか、というのだ。

私も文学を科学というのは抵抗はあるので、外した方がいいと思うが
歴史学や考古学は、文学のように何も制約のない中で自由に想像を膨らませてもいい学問ではない。

歴史学ならば史料に基づいて行うが、複数の史料を突き合わせたり、遺物と照合したりして、
矛盾点があれば、どのように考えれば合理的に説明できるのか、などについて考える。

考古学の実例については簡単にではあるが、⓶③に記した。

歴史学や考古学は自然科学と違って再現性がないが、
史料や遺物に基づいて論理的に過去を研究するという点で科学といっていいように思う。

しかし、ぐだぐだ言われないように、こういっておこう。
「真実でなくてもいい」か「真実を追求するべきか(真実である、といっているのではない。新しい発見。より論理的な説明があれば訂正されうる)」の対立。

江戸時代から明治にかけて適当に決めた陵墓であるにもかかわらず、発掘調査をして確認しようともしないのは
「真実でなくてもいい」と思っているからだ。

発掘調査するべきというのは「真実を追求するべき」と考えているからである。

どちらがいいとは一概にはいえない。





一般人よりも軍人・役人・満鉄社員の家族の避難・引揚げが優先された?


葫芦島から引き揚げる日本人

葫芦島から引き揚げる日本人

一般人よりも軍人・役人・満鉄社員の家族の避難・引揚げが優先された?

満州の首都「新京」(現 長春)では、市民の避難を優先させる手はずになっていましたが、緊急行動に慣れている軍人の家族をとりあえず先に避難させることになりました。

しかし軍人の家族優先が既定路線となってしまい、汽車に乗り込もうとする一般市民は憲兵に追い払われるようになってしまいました。

8月11日正午までに避難できた者は、新京在住約14万人のうち約3万8千人。そのうち軍関係家族が約2万310人、大使館等役人の関係家族750人、南満州鉄道関係家族が1万6700人。

新京の一般市民は汽車で避難することはほとんどできませんでした。

~略~

関東軍は事前の作戦計画(ソ連の満州侵攻(上)―参戦準備と戦闘開始までを参照)で全満州の4分の3を捨て、「通化」で朝鮮の防衛を行うことにしていました。

「虎頭」など国境地帯のいくつかの場所では関東軍は頑強に抵抗を続けていましたが、大部分は後方に引き上げました。

関東軍総司令部は新京を引き払い、通化へと移動したものの、通化は防御のための準備はほとんどできていませんでした。

関東軍総司令部の新京からの引き上げは、市民には「我々を見捨てて逃げた」という印象を与え、軍事的には防御の整っていない地へ移動することになったのです。


ソ連の満州侵攻(下)―絶望の満州から地獄のシベリア抑留へ より引用


軍人・役人・満鉄家族の避難が優先され、一般人の避難は後回しにされた。
大変ショッキングな内容だが、これは事実なのだろうか。

ネットの体験談などを調べてみることにした。



疎開の行き先が分からないどころか、運ばれていく女性たちに対する敗戦後の処置さえ、つまり引揚げの対象になるかどうかは、敗戦の当事は不明であった。『引揚援護の記録』(引揚授護庁、一九五〇年三月)によると、日本人の引揚げを裏付ける法的根拠は、一九四五年七月二六日にアメリカが衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の何おいて大日本帝国に対して発されたポツダム宣言の第九条にある。しかし、その条項は「幸福軍隊についてのみの規定であって、一般居留民の帰還については、何ら根拠となるものではない」と考えられていた。

引揚げと同様に、敗戦直前の疎開も、日本側がポツダム宣言の内容を把握した上で、堂々と軍家族、満鉄、政府、特殊会社を優先的に移動させたのであろう。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/652/652PDF/Deng.pdf より引用


戦況が悪化するにつれ、関東軍司令部は作戦計画にもとづき、通化に司令部を移すと共に、軍関係、満鉄関係、政府関係及び一般市民の家族を通化省内と朝鮮に疎開させようとしていました。
8 月 9 日から 12 日にかけて軍人・軍属家族約 2 万人が朝鮮北部に疎開しました。軍に続いて、満鉄関係者の家族も 8 月 10 日から疎開が始まり、新京を中心に約 1.7 万人が朝鮮北部に向かいました。安東を通過して朝鮮北部に向かった者は約 6 万人といわれています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjoha/13/0/13_57/_pdf/-char/ja より引用


昭和十五年四月満州北安(ペイアン)省海倫(ハイロン)県の警察官として勤めていた主人の元へ渡満しました。昭和二十年四月に次女出産のため、日本から来てくれた母が、六月に帰る手続きを取りましたが、軍人の家族優先で帰国することが出来なくなりました。



あと脱線ついでに言えば、新京で疎開列車で逃げる時にね、あれはまず関東軍の家族と満鉄の家族が逃げたわけですよ。それで、なんで市民を放っておくんだとこう言ったら、いや市民は荷造りに時間がかかるんだと。到底、駅にはすぐ集まれない。それで関東軍の家族というのは、命令一下すぐパッと集まれる。彼らは命令も情報もね、早く流すわけですよ。それで、僕は新京の駅で本当に見ていたんだけれども、目の前をね。関東軍の家族を乗せた汽車がどんどん行くわけですね。次に列車が来た、次は誰だっていうと満鉄の家族専用車。それでね、一般市民は全くもって置いてけぼり。それはけしからん。しかも、関東軍の司令官の家族が終戦の時には日本にいたんですね。

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/ir/manshu/manshu00006.pdf 34頁 より引用


当時日本の植民地だった朝鮮の京城(けいじょう)(現在のソウル)に産婆をしていた母方の祖母と合流しようと、母と、たまたま京城から新京に疎開していた母の妹二人、そして赤ん坊の私との無蓋貨物列車での逃避行が始まりました。これに乗れたのも、父が教え子の父親の軍人に頼み込んだからです。軍人の家族を優先して避難させていたからです。
https://www3.chubu.ac.jp/international/news/27968/ より引用


8月10日正午前に関東軍は避難民の移送を決定し[3]、第一列車は8月10日午後6時出発予定(実際には遅れて8月11日午前1時40分出発)とした。そのため、当初の輸送順序である民・官・軍の家族の順ではなく、連絡のつきやすい軍人の家族を第一陣として避難の誘い水とすることとした[4]とも、当時の軍高官は連絡が民間人に十分に届く前に軍人・軍属とその家族ばかりが集まってしまったのだと後に弁明したともいう。実際には、当初は軍人・軍属とその家族らばかりが大量の荷物を運べるだけ運び込んで集まって脱出しており、一般住民に気付かれない内に脱出していたという証言[5]はあっても、末端の役場関係者でいち早く民間人に知らせるよう連絡を受けたという記録や証言はなく、多くの人々からは軍人らが意図的に自身の家族と財産を優先的に逃したものと見られている。8月11日昼までに軍・官関係者の家族を中心とした約38,000人が18本の避難列車で移送された[6][注釈 1]。8月11日午後には民間の避難民も新京駅に集まるようになった[8]ともされるが、12日夜になおも居た軍属の家族らが周囲には気付かれないようにして大挙して去り、そこで多くの一般人が異変に気付いたという証言[5]もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E5%85%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6#%E5%87%BA%E5%85%B8 より引用


私は1933年(昭和8年)に生まれた。父は満鉄に勤めていたので、奉天(現・瀋陽)から新京(現・長春)までの鉄道沿線で育った。

45年8月9日、ソ連の参戦で、私たちには急遽、疎開命令が出た母と子どもたちの疎開先は、北朝鮮の宣川(北西部)という小さな町だった。8月15日、玉音放送で敗戦のニュースを聞いたが、初めは信じられなかった。しかし朝鮮の人たちが集まって「マンセイ、マンセイ!」と上げる歓声と、神社が燃える炎を見て、恐ろしさに震えた。
ソ連軍の侵攻で、私たち疎開者は38度線より南に行くことができなくなり、孤立した。そこで満鉄社員の家族は、収容所を脱出し有蓋貨物列車に乗って、再び満州の奥地、新京まで引き返したのである。石炭の積み込みや給水のために止まった途中の駅で、南下するソ連軍の列車と離合することがあった。列車が止まるたびに、自動小銃を持った兵士たちは略奪に走り回った。
疎開列車は、ソ連の軍用列車に偽装してあった。そして、女と子どもだけの集団である。赤ちゃんの泣き声が外に漏れたら、たちまち貨車は壊され、略奪・殺りくされたことだろう。赤ちゃんを捨てさせられる悲劇もあった。私たちは奇跡的に新京に帰り着いた。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/kioku/detail.cgi?das_id=D0001800086_00000 より引用

※筆者は満鉄社員の家族であり8月9日に疎開命令がでて避難したが、38度線より南へいくことができず、新京まで引き返したとある。
これだけでは一般の人がどうであったのかわからないが、一般の人については何も記されていないのは、8月9日時点で一般の人には疎開命令が出されていなかったのではないかとも思える。


ソ連がいよいよ攻めてきたって時に関東軍はさっさと通化にうつったわけ。8 月 9 日に移っているんですね。それで、満洲の政府に通化へ来いって命令が来たわけですね。だけどね、結果的には 1 人だけ、総務長官が行かなきゃ角が立つっていうんで、行ったんだけれど。だけれども、市民はみんな残っているわけですよ。そして、北満からはどんどん避難民が来るわけでしょう。それなのにね、皇帝は行っちゃった。関東軍の司令部も向こうへ移して、満洲国の政府も移すと。それで、移って来る時の汽車輸送は、家族の分も含めて手配するって。それに政府が怒っちゃってね。そんな一般の市民を置いて、政府の家族だけ団体で逃げるなんてね。冗談じゃない。それよりも、それよりも政府が移っちゃったら、残りの市民と避難民を一体だれが面倒を見るんだとか。それで結局、うちの親父なんか結局最後まで新京に残っていたわけですけれども。

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/ir/manshu/manshu00006.pdf
 34頁より引用


※通化は満州国にあった都市


※新京は現在の長春 満州国の首都だった。



安東の引き揚げ者の収容所に入ったのは1946年9月29日。雅江さんの7歳の誕生日でした。

 父母と子ども4人で引き揚げ団の列に加わり、日本への船が出る葫蘆(ころ)島を目指して命がけの移動が始まりました。
~略~
「関東軍(満州に駐屯していた日本軍の部隊)は南に退却、民間人だけが残された。私は学校にさえ通えなかった。戦争になれば弱者は邪魔者にされる。あんな時代を二度と繰り返してはいけない」

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-08-31/2019083114_01_0.html より引用

 

葫蘆島は満州から日本への引揚船の出発地だった。

https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E6%BA%80%E6%B4%B2%20%E5%AE%89%E6%9D%B1%20%E7%8F%BE%E5%9C%A8&x=nl&aq=-1&ai=0ab09d58-7fea-468c-91a9-8b30d59a16cc&ts=7353&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa#d22b5f8c15395978adbc6aa025c6a7ee

安東の場所は、上記リンク先地図を見てください。


ざっと調べてみただけだが、軍人・役人・満鉄社員の家族・引揚げが優先されたという記事ばかりがでてきて
一般人が同等または優先されたという記事は見つからなかった。

「民のかまどは賑わいにけり」と「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」

➀仁徳天皇は中国人を手本にして税金を停止した。

最近、「日本人すばらしい教」がちまたで流行しているようである。
そして日本人を持ち上げる一方で、中国人のことは「残酷」とか「嘘つき」のように批判している。

そういう人達が良く持ち出すのが、仁徳天皇の「民のかまどは賑わいにけり」である。

『東錦昼夜競』より「仁徳天皇」(部分)。1886年(明治19年)楊洲周延 画。

『東錦昼夜競』より「仁徳天皇」(部分)。1886年(明治19年)楊洲周延 画。

仁徳天皇が「民のかまどは賑わいにけり」と言ったという話だが、これについて大変興味深いブログ記事があった。

仁徳天皇の四年二月六日、群臣に詔していわく「朕が高台に遠くを登って望んで観るに、国中の家から煙が出ていないことに気づいた。思うに、百姓が貧しくて煮炊きもできないからであろう。朕が聞くとことによると、聖王の御世には、人々は詠徳の音を、家ごとでは康哉の歌を歌う声が聞こえていたという。今朕が位に就いて三年が経ったが、そのような歌は歌われない。家々から煙が立ち上ることもない。これは、五穀が実らず民が窮状に陥っているからであろうと知った。畿内ですら、この様子であるのだから、都から遠い畿外では言うまでもないだろう。」
 同年三月二十一日、詔していわく「向こう三年の間、すべての課役をやめて、百姓の苦しみを憩わせよ」。この日から、天皇の衣装や履物は襤褸になるまでは新調されず、温かいご飯や汁物も酸っぱくなったり腐らないうちは変えられず、御心を削り、志を責めて、事に従い無為に過ごされた。宮垣が崩れ、茅葦の屋根が破れても屋根は葺かれず、隙間風が入って、天皇の衣に露が降り、破れた屋根から差し込んだ星の光で床のご寝所が見えるほどであった。この後、気候も穏やかで、五穀も豊作が続いた。三年経つと、百姓にもゆとりができて、天皇をたたえる声に満ちて、家々の煙も見えるようになった。
 同七年四月一日、天皇が再び高台に上って遠くを望んで家々から炊煙が立っている様をご覧になった。
(中略)
 「天が君主を立てるのは、百姓のためである。ならば、君主は百姓を基本とせねばならぬ。だからこそ、古の聖王は一人でも百姓が飢えたり凍えたりするようならば、わが身を責めたものだ。今百姓が貧しいのならば朕もまた貧しい。百姓が富めば朕も富む。百姓が富んで君主だけが貧しいということは起こらないな。」

・・・いわゆる「民のかまど」の故事ですが、もともと、仁徳天皇が「詠徳之音」と言っているところは『文選(もんぜん)』にありまして、天皇が指標としている聖王の政治が大陸の王であることが分かります。ここ以外にも、仁徳天皇の記録としてある、萱を切りそろえないとか、自発的に民衆が王宮を作るといった記述は、『魏都賦(ぎとのふ)』の記述と共通点が多いです。

https://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5190/ より引用

仁徳天皇が税金を停止したのは、古代中国の王をお手本としたからなのであった。

仁徳天皇が税金を停止したことについては褒めるのに、仁徳天皇が手本とした中国人については批判する。
これってつまり、「中国人のいうことなんか手本にするなよ」といいながら「中国人を手本にした仁徳はすばらしい」といってるわけで、相当変な理屈の様に思える。

「単に同じ言葉を使っただけじゃん?聖王は中国人とはいえなくね?」
と言われるかもしれないが、このブログにはこうも記されている。

「堯帝の治世においては、金銀の珠で飾り立てることも、見目麗しい衣装を着ることも、奇怪なものにうつつをぬかすことも、世の珍品を収集することも、淫らな音楽を耳にすることも、王宮の壁や部屋を飾りたてることも、柱に優れた彫刻を施すこともなく、庭園に茅が伸びても切りそろえることもしませんでした。
 また、鹿の皮を着て寒さをしのぎ、普段は質素な布の服を身につけ、黒米や粟の飯を食べ、黍の汁をすすり、民に苦役を課すことも、耕作する民の生活を乱すこともありませんでした。心をわずらわせることも、王の側からのはからいもなく、無為のままで事が進んでいったのものです。

https://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5190/ より引用

これは『六韜(りくとう)』という書物のなかで、太公望・呂尚が周の文王に古代の帝王・堯(ぎょう)の治世について答えたところと説明がある。

これが史実かどうかはともかく、質素で民に負担をかけないことが美徳という考え方が中国にあったことがわかる。
もちろん、仁徳天皇の税金停止の話も事実かどうかわからない。

⓶仁徳天皇は巨大寿陵を築いた。

そして日本の仁徳天皇は農民から税金を取らず、自分は質素な生活をしていたと記されているが
生前に巨大な寿陵を築いている。
生前に作ったということは、仁徳天皇の意志で作られた可能性が高いが
これには莫大な労働力がかかったのではないか?

大手建設会社の大林組が昭和60年(1985年)に試算したデータによると、古代工法で行なった場合、工期は15年8か月、作業員数は延べ680万7000人(1日あたりピーク時で2000人)、総工費は現在の価格で約796億円となる(埴輪製造の作業員と工費については不確定要素が多いため除外)。

https://www.news-postseven.com/archives/20190628_1399457.html?DETAIL より引用

これについて、当事の人口はせいぜい500万人程度、作業員数680万人は多すぎる。
よって仁徳天皇陵建設は公共工事だという人がいる。

申し訳ないが、これは延べ人数の意味を理解されていない。
延べ人数とは、1日の作業員が50人とすると、10日で50人×10日=500人、の様に計算する。
作業員が50人いて、同じ50人が10か働いたとしても延べ人数は500人となる。

仁徳天皇陵の工事の試算では、上の記事に記されているように、ピーク時で1日あたり2000人が働いたとする。
実際に680万人の人が一度に工事現場で働いていたのではない。

仁徳天皇陵があるあたりは平地であることから、
水田をつくるためには土地をけずって平にしなければならない。
その土をまとめて山のようにしたものが古墳で洪水時の避難場所とした、という人もいる。

この説についてもいくつか疑問点がある。
・山の上に築かれた古墳もある。尾根を利用して作られた古墳もある。
・水田は水を張る必用があるため、傾斜地に作られることがおおく、平らな土地は水田に不向きだった。
・古墳の濠が障害となるので避難所として用いたとは考えられない。
・古墳は土を積み上げるだけでなく、埴輪をならべたり、葺石で覆う作業も伴う。
 埴輪の製作、葺石の製作だけでも大変な労力がかかっているはずである。

近年、日本の巨大古墳は公共工事であったのではないかとする説があるようで、NHKの記事などにも掲載されている。
しかし、なぜかその理由が記されたものがないので、納得するには至っていない。

仁徳天皇の総工費は現在の価格で約796億円と計算されている。https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/kikan_20_idea_06_3.png
上記リンク先にその内訳が記されている。

用地伐開除根(草木や木の根を除去する)・基本測量・外濠堀削・内濠堀削・排水工事・後片付け・一般管理費
これらはほとんど人件費だと思われる。

客土・葺石・埴輪・石室・現場経費・宿舎仮設費
これらはもしかすると購入していたかもしれない。
葺石・埴輪・石室は材料のままでは使えず、加工が必用であるからだ。
しかし作業員に加工させていたかもしれない。
土は運搬費がかかっていたかもしれないが、これも作業員に運搬させていたかもしれない。

作業員はのべ人数で680万人、796万円のほとんどが人件費として単純計算すると日給1万1000円~1万2000円ほどになる。
日給1万1000円~1万2000円であれば、月に25日働いたとすると月27万5000円から30万円ほどの収入だ。
ただしこれは現在の労働価値で計算している。
昔のことであれば、日給数千円程度であったかもしれない。

当事は貨幣がないので、この日給数千円に該当するような食料・衣類などを支給していたとすれば、仁徳天皇陵の工事は公共工事であったといえる。

エジプトのピラミッド建設は公共工事であったといわれている。
それは労働者に衣類や食料を支給したという記録が残っているためだ。
しかし、仁徳天皇陵建造でそのようなものを支払ったという記述がない。

仁徳天皇の時代から、少し後の飛鳥時代に、聖徳太子が大阪に官寺の四天王寺を建てている。
四天王寺は物部守屋の土地と奴婢(奴隷)を用いて寺を建てたとある。
※古代日本には奴婢という奴隷身分の人々が人口の10%から20%いたとされている。

聖徳太子が官寺を建立するのに奴婢を用いているので、天皇陵を作る際にも奴婢を用いたのではないかと思ったりする。

また古代の日本には雑徭(ぞうよう)という制度があった。
初見は持統天皇6年(692年)で、各種インフラ整備や国衙(役所)等の修築などをさせた。
正丁(21歳~60歳の男性)年間60日以下
次丁(正丁の障害者と老丁(61歳以上の男性))年間30日以下
中男(17~20歳の男性)年間15日以下
食糧の支給はなかったとされる。

つまり、雑徭とは無給で労働を奉仕する税である。

飛鳥時代の制度だが、飛鳥時代に先立つ古墳時代(3世紀中頃 – 7世紀頃)もこれと同様であったかもしれない。(急に世の中が変わるとは思えないので)

国の財源は税である。
公共工事で寿陵を築いたのだとすると、その財源は税である。
結局、国民は自分で支払った米などをいくらか返してもらったにすぎないという理屈になる。

税を停止する一方で、巨大寿陵を築いた仁徳天皇の謎は深い。

③「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」と言ったのは、マリー・アントワネットではなかった。

「日本すばらしい教」の人たちは、「日本はすばらしいが欧米人は劣っている」ともいう。
そしてその例として、マリー・アントワネットの「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」をあげる人もいる。

王妃となったアントワネット (1775年)

王妃となったアントワネット (1775年)

しかし「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」はマリー・アントワネットの発言ではないとされている。

彼女がそのような発言をしたという記録は見つかっていない。

そして、この台詞はジャン=ジャック・ルソーの自伝的な『告白』6巻に出てくる言葉である。
百姓たちには食べるパンがないといわれた王女は、「ではブリオシュ〔パン菓子〕を食べればいい」と答えたという。

『告白が出版されたのは、1782年であるが
6巻が書かれたのは1765年で、このときマリー・アントワネットは9歳で、まだルイ16世のもとへ嫁いでいない。
したがった告白に出てくる王女はマリー・アントワネットではない。

パンが不足していると咎められたマリー・アントワネットが「それならブリオッシュを食べれば良い」と言ったという話は、
1931年に書かれた「点子ちゃんとアントン/エーリッヒ・ケストナー」の中で初めて登場し
フランス革命の時代に引用されたケースはないということである。

フランス革命の前年の1788年、フランスが深刻なパン不足に陥ったとき
マリー・アントワネットは次の様な手紙を書いている。

「不幸せな暮らしをしながら私たちに尽くす人々をみたならば、幸せのためにこれまで以上に身を粉にして働くのが私たちのつとめだということはごくごく当然のことです。陛下はこの真実を理解していらっしゃるように思います。」

この言葉を言った同じ人間が「ブリオッシュを食べればいい」とか「お菓子を食べればいい」などと言うとは思えない。

④アントワネットはどの程度浪費をしたのか

http://www5a.biglobe.ne.jp/~french/ala/marie/01.html#pan

上記記事には次のような内容が記されている。

・王室が使った出費は国庫の10%未満。
・1年に170着以上のドレス。王妃の衣装費を超える。(50年以上も前に決められた額で、アントワネットの時代にはインフレのため貨幣価値が大幅に下がっていた。)
・建築費 バイエルンのルートヴィヒ二世もお城を作りすぎて国庫を危機にさらした。
マリー・アントワネットは「プチ・トレアノン」と言う小さな離宮をもらってそれを改修したのみ。
ただしかなりの費用がかかったらしい。
・トランプ賭博。国から支給される王妃用の手当を使い尽くし、国王が自分の財産から支払った。
・取り巻き費。取り巻きに無用の官位や年金をあげたりして、国庫を圧迫した。
・マリー・アントワネットの浪費は王女が生まれてからなくなった。

池田理代子さんの「ベルサイユのばら」には次のように記されている。
・賭博の借金 50万リーブル(約60億円)
・アクセサリーの借金 100万リーブル(約120億円)
・衣装代赤字 25万リーブル(約30億円)

「ベルサイユのばら」は歴史をよく調べた上で、そこにフィクションをうまくからめて物語が作られている。
読むたび、そのことに感心するが、上の数字が事実かどうかわからない。

事実かどうかわからないが、とりあえず事実とし、そのほかにもポリニャック伯夫人ら取り巻きのために用いたお金が約500億円あったとしよう。
合計で約700億円だ。

ポリニャック公爵夫人

ポリニャック公爵夫人
ヴィジェ=ルブラン画、ワデスドン・マナー(英語版)蔵、1783年

ちなみに公共工事説もあるが、仁徳天皇陵の総工費は約796億円である。

⑤フランスの財政破綻の原因はアメリカ独立戦争の軍事援助では

マリー・アントワネットの浪費がどの程度のものであったのかについてはわからないが、
それが国家財政を傾けるほどのものであったとは思えないというのが、一般的な意見のようである。

ルイ14世の頃には既に赤字で、代々積み重なった赤字は国家の歳入の9倍であったという。
また、フランスの敵国のイギリスがアメリカ独立戦争を始めたために、多額の軍事援助をアメリカに行っている。

マリー・アントワネットと交流のあったハンス・アクセル・フォン・フェルセンも独立戦争に参加している。

「ベルサイユのばら」ではフェルゼンはマリー・アントワネットを忘れるために、独立戦争に参加しており、
そのことが強調されて、軍事費がかさんで国家財政を圧迫したことについてはふれられていないが
やはりこれが国家財政を大きく揺るがしたことだろう。

Hans Axel von Fersen2

ハンス・アクセル・フォン・フェルセン

⑥フランス革命が起こった理由は厳しい身分制度に対する反発

フランスには厳しい身分制度があった。
第一身分・・・聖職者
第二身分・・・貴族
第三身分・・・平民
第一身分の聖職者と第二身分の貴族は免税で、政治に関与できる権利を持っていた。

政府は免税特権を有する身分から課税を図るが、パリ高等法院が新税を拒否。

国王は三部会を開く。
三部会は身分ごとに一票の議決権のため、第一身分と第二身分が有利で、第三身分の反発をまねく。
不満を持った第三身分は国民議会をつくっている。

1789年、「国民議会」は王の軍隊の撤退を要求していたが、国王は撤退させずに、逆に外出と集会の禁止令を出す。
市民らは武器をとってバスティーユ牢獄を襲撃した。

その後国王の軍隊はパリ全土で敗北。
宮廷貴族は群衆に処刑されたり、国外に逃亡した。
国王一家も逃亡を図るが、東部国境に近いヴァレンヌで捕らえられる。
国王一家はタンプル塔に幽閉され、4か月後には「国民公会」により王政の廃止が決定された。
1793年1月に国王はコンコルド広場で処刑、10月にはマリー・アントワネットも処刑された。

このように見てみると、マリー・アントワネットは浪費癖はあったが、
それが原因でフランス国民の生活を圧迫し、フランス革命をひきおこしたとまでは言えないように思う。

Ludvig XVI av Frankrike porträtterad av AF Callet

ルイ16世

⑦「民のかまどは賑わいにけり」「パンがなければお菓子を食べればいいのに」を比較して日本と欧米の優劣を論じるのは不適切

このように見てみると
仁徳天皇の「民のかまどは賑わいにけり」と
マリー・アントワネットの「パンがなければお菓子を食べればいいのに」
を並べて比較し、それによって日本と欧米の優劣を論じることが適切でないといえるだろう。

❶「民のかまどは賑わいにけり」は仁徳天皇の言葉ではなく、仁徳天皇の故事をベースにして詠んだ歌で、鎌倉時代に編纂された古今和歌集にでてくる歌の一部。
「パンがなければお菓子を食べればいいのに」はマリー・アントワネットがいった言葉ではない。
彼女が言ったのは「不幸せな暮らしをしながら私たちに尽くす人々をみたならば、幸せのためにこれまで以上に身を粉にして働くのが私たちのつとめだということはごくごく当然のことです。」

❷仁徳天皇は税のとりたてを即位4年から即位10年まで停止しているが、その一方で巨大な寿陵を築いている。
寿陵の築造については公共工事説もあるが、決定的な説ではなく、はっきりしない。

❸マリー・アントワネットに浪費癖があったのは確からしいが、彼女の浪費癖で財政破綻に陥ったのではない。
ルイ14世時にすでに赤字で、代々積み重なった赤字は国家の歳入の9倍。
アメリカ独立戦争において多額の軍事援助をアメリカに行ったことなどが大きい。

⑧総合的な研究・比較が必用。古代エジプト王と信長の比較

『「日本人は集団主義的」という通説は誤り』 という記事がおもしろい。

日本人論は、個人的な体験やエピソード、諺(ことわざ)などに依存しており、実証的な根拠に乏しい。また、日本人のことだけに言及していて、欧米人との比較がなされていない場合も多い。
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/p01_200930.html より引用

内容はざっくりいって次のようなものになると思う。

➀ 心理学的研究
集団主義・個人主義の程度を測定するための調査研究が11件。
「同調行動」に関する実験研究が5件。
自分の利益を犠牲にしてでも集団に献身するという「協力行動」に関する実験研究が6件。
「日本人とアメリカ人とのあいだには明確な差はない」・・・16件
「アメリカ人の方が日本人より集団主義的」・・・5件
「日本人はアメリカ人より集団主義的」・・・1件

⓶ 言語学的研究
日本語は「他者とは明確に切り離された自己」の存在を示す。
「私は寒い」というが、「母は寒い」とは言わない。

③ 教育学的研究
「いじめ」は、「異質なものを排除しようとする集団主義的な日本社会に特有の現象」と評されることが多い。
しかしアメリカでもいじめは多数おきている。

④経済学的研究
「日本的経営」論で言われてきた「終身雇用」や「年功賃金」が事実ではないとする研究。
「系列」にはまったく実体がなかったことを明らかにした研究。
日本政府の「産業政策」が日本の高度経済成長にはほとんど実質的な貢献をしていないとする研究
国内産業を保護するために政府が設定する関税率は歴史的にみると、日本よりアメリカの方が高い。

⑤ 日本人は、「アメリカによる占領の結果、アメリカナイズされて個人主義的になった」というわけではない。
文献調査の結果、戦前も、開国前も、日本人が個人主義的に行動した事例は数多く見出すことができた。

⑥「日本人は集団主義的」という見方は、日本人自身がはじめから持っていたものではなく、欧米人が言い出し
日本人が受け入れた。

「日本がすばらしく、中国や欧米が劣っている」とする説の問題点は、上記で説明されているような総合的な研究・比較を行っていない点である。

数少ないエピソードをひろってきて、そこから結論を出すことはできないのだ。

たとえばマリー・アントワネットのかわりに、ピラミッドを建設した古代エジプト王をもってくることもできる。

仁徳天皇陵建築が公共工事だった説は、根拠がはっきりしないが
ピラミッド建築が公共工事だった戸いうことは、衣料や食料を支給した記録があって支持者が多い。
(ウィキは公共工事には否定的だが)
また「国王ばんざい」と記された落書きが残っていたり、当事の労働者がビールを飲み、牛肉とパンを食べていたことがわかっており、かなりよい暮らしをしていたと考えられている。

そして仁徳天皇のかわりに織田信長をもってくることもできる。
彼は、 長島一向一揆殲滅で男女二万数千人を殺害、越前一向一揆殲滅で1万2000人を処刑したといわれる。
伊賀惣国一揆では、伊賀の総人口9万のうち、およそ3万余が殺害されたとする説もある。
比叡山焼き討ちでは、」『信長公記(しんちょうこうき)』で数千人、宣教師フロイスの書簡では約3000人、貴族の日記にも3000~4000人とある。
ただし、文献に見られるほどの大規模火災を証明する遺構がなく、もっと小規模だったのではないか、とする説もあるが
信長が大勢の国民を殺害したと考えられていることは事実だろう。

織田信長像

織田信長像
狩野元秀(1551〜1601年) - 東京大学史料編纂所

そしてフランスのマリーアントワネットと日本の仁徳天皇を比較してフランス人劣っている、日本人優れているというような理屈が通るのであれば
古代エジプトと日本の織田信長を比較して、「エジプト人優れている、日本人は惨酷で劣っている」とやることも可能になってしまう。

もちろん、数個のエピソードを拾ってきて比較するのはまちがいなので、「エジプト人優れている、日本人は惨酷で劣っている」とはいえない。
すると当然、仁徳天皇とマリー・アントワネットを比較して、「日本人優れている、欧米人おとっている」ともいえない。

  

涙の旅順の思い出とは


➀旅順の特攻?


私は上の動画の、武田さんの発言の意味が長い間わからずにいた。

僕はこの時親父がね旅順の海軍の魚雷の推進の計算をしてたわけです。
京都大学の数学でて軍隊の関係なかったけど、学校の先生だったんだけど
計算が間に合わないっていうんで行ったの。
この時僕ら子供が2人いっしょに、母親もね。なんで行ったかは分からない。
~略~
その時にね彼らが特攻しなかったらねぇ、僕は今いないんですよ。

とおっしゃっているが、特攻、旅順で検索してもそれらしいものがでてこないからだ。

https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A_%E5%B9%B4%E8%A1%A8

たとえば、上の記事にも旅順という言葉が無い。

特攻に直接守ってもらったというわけではなく、間接的に守ってもらったという意味なのかとも考えたが
あれが特攻してくれたから僕ら何万人が逃げてきたんですね。
ともおしゃっていて
やはり直接守ってもらったという意味のように思える。

⓶人間魚雷


無知なもので特攻というと、飛行機による特攻しか思い浮かべなかったが
友人によれば、人間魚雷というものがあったのだという。

九三式魚雷を改造して乗員1人が潜望鏡と簡単な航法装置を頼りに操縦、乗員もろとも敵艦に体当たりする特攻兵器。生還の可能性が絶無である点で、それ以前の特殊潜航艇とは違っている。制空・制海権をアメリカ側に奪われた1944年(昭和19)2月、(マルロク)計画の名で試作開始、7月完成と同時に水中特攻本部が設置され、新兵器は「回天(かいてん)」と命名された。同年11月20日、中部太平洋ウルシー環礁のアメリカ海軍泊地に5基の回天が発進、タンカー1隻を撃沈したのを最初に沖縄作戦などに参加、アメリカ輸送船団に対してかなりの戦果をあげた。しかし搭載潜水艦が次々に失われたため、航空機による特攻作戦のような大規模なものにはならなかった。回天要員約2000人中、戦死86人、殉職16人の犠牲者を出している。

https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E9%96%93%E9%AD%9A%E9%9B%B7-593700 より引用

なお、ジャーナリストの前田哲男は日本大百科全書(ニッポニカ)(小学館)において、「人間魚雷」を日本軍に限定して、「九三式魚雷を改造して乗員1人が潜望鏡と簡単な航法装置を頼りに操縦、乗員もろとも敵艦に体当たりする特攻兵器。生還の可能性が絶無である点で、それ以前の特殊潜航艇とは違っている。」と解説する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E9%AD%9A%E9%9B%B7 より引用

https://gendai.media/articles/-/66117?imp=0
↑ 
【奇跡的に生還した「回天」搭乗員が語った「死にぞこない」の葛藤】
この記事も参考になると思う。

③対戦車特攻

しかし武田さんは
あそこで特攻してキャタピラに突撃したから
とおっしゃっている。
キャタピラというのは戦車についている無限軌道のことだろう。

無限軌道(むげんきどう)とは、起動輪、転輪、遊動輪(誘導輪)を囲むように一帯に接続された履板(りはん・りばん)・シュー (Shoe) の環であり、起動輪でそれを動かすことによって不整地での車両の移動を可能にするもので、この種の車両を装軌車両 (Tracked Vehicle) と呼び、対して通常のタイヤ車輪を備えた車両を装輪車両 (Wheeled Vehicle, Car etc) と呼ぶ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%99%90%E8%BB%8C%E9%81%93 より引用

輸送船から上陸するM4シャーマン、イタリア戦線(1944年)

輸送船から上陸するM4シャーマン、イタリア戦線(1944年)

人間魚雷は海で用いるものなので、戦車を攻撃したということはやはり飛行機か?
そう思ったのだが、友人が「生身の人間が特攻するのだ」と教えてくれた。
それをもとに検索したところ、次のような記事がでてきた。

大勢の命奪った「対戦車特攻」

対戦車特攻とは、山の斜面をL字型に掘削した「対戦車壕(たこつぼ)」に黄色火薬10キロを入れた箱をもった人間が潜み、戦車が接近してきたら火薬の箱をもったまま戦車の下に飛び込むというものであるらしい。
体から離れた火薬は1秒後に爆発するという。

この手記を書かれた井戸清一さんは1945年6月に旅順に転じ、その後ソ連が参戦したと書いておられる。


④ソ連の満州侵攻

旅順は満洲国(1932~1945年)にある港であった。
満州国は昭和7年、関東軍の主導によって建国された国で、約200万を超える日本人が満洲に住んでいたが、
1945年(昭和20年)8月9日、満州においてソ連対日参戦(日本帝国陸軍の関東軍、支那派遣軍vs極東ソ連軍)が勃発した。

関東軍の部隊が南方戦線へと徴用されていた為、満州の長い国境を防衛出来るだけの十分な戦力は既に失われていたが、中立条約を信じ切っていた関東軍や満州国の要人等は、その家族を空襲に遭っている日本から満州へ連れて来ていた[9]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6 より引用


http://historyjapan.org/invasion-on-manchuria-by-soviet-1
上記記事には次のような内容が記されている。

ソ連は満洲・樺太・千島侵攻を目的として8日夜に宣戦布告、
9日未明に満洲への侵攻作戦を、11日に樺太への侵攻作戦を開始した。

一般の居留民や開拓団が大勢戦闘に巻き込まれた。

満州の首都「新京」(現 長春)では、市民の避難を優先させず、軍人の家族を優先させて汽車で避難させた。
8月11日正午までに避難できた者は、新京在住約14万人のうち約3万8千人。
そのうち軍関係家族が約2万310人、大使館等役人の関係家族750人、南満州鉄道関係家族が1万6700人。
一般市民はほとんど汽車で避難することができないまま、関東軍は全満州の4分の3を捨て、朝鮮の防衛を行うため引き揚げてしまった。

その後、満州各地で避難民が虐殺される事件がおきている。

8月15日「玉音放送」によって、日本が連合国に対し無条件降伏したことが全国民に伝えられたが
軍隊に対する正式な停戦命令ではなく、通信網が使えなかったなどの理由から満州での戦闘は8月29日まで続いた。

昭和20年5月の時点で開拓団は約27万人。病死と行方不明者を入れると、開拓団の人々の死亡は7万8500人だった。
日本軍軍事捕虜のうち、57万4530人が捕虜となり強制労働させられた。軍人以外の民間人も捕虜とされた。
うち、ソ連から引き揚げてこられたのは47万2942人。

武田楠雄 プロフィール
1933年京都大学理学部数学科卒、満鉄鉄道技術研究所の研究員を経て、工学院大学教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『技術者のための微分積分学』より
https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%A5%A0%E9%9B%84_200000000630247/biography/ より引用

武田楠雄さんが、満州の旅順で魚雷の推進の計算をしていたというのは、彼が満鉄鉄道技術研究所の研究員であったためだろうか。

あるいは、そのとき満鉄鉄道技術研究所をやめて工学院大学の教授をされていたのが、魚雷推進の計算のため海軍に呼ばれて旅順にいたのかもしれない。

いずれにしても、日本は空襲があって危険なので、奥さんとお子さん二人を旅順に呼び寄せたということではないかと思う。

ところが1945年にソ連の満州侵攻があり、このとき対戦車特攻で多くの特攻隊員が命を落とした。
しかし、旅順においてこのような特攻がおこなわれたのかどうか、よくわからない。
前述した井戸清一さんは、旧満州・旅順の部隊にいたこと、45年6月に旅順に転じたとは書いてあるが
特攻をした場所は明確ではない。

https://www.sankei.com/article/20150808-EXDDWOGLXJMNVJIL5QWHORACQY/photo/MZO5KLHZEVNEXMEA7IV2FXA3WE/

↑ リンク先の地図をみると、旅順ちかくまでソ連が侵攻している様子がわかるので、旅順近くで対戦車特攻が行われたのかもしれない。




「はだしのゲン」はどこまで真実に近いか。追記あり

「はだしのゲン/中沢啓治(汐文社)」は作者の体験をベースに描かれているということだが、どれくらい真実に近い内容が描かれているのか。
それを確認するために、ネット上の関連する記事を探してみた。
ただし「記事の内容が正しい」としているわけではない。
過剰に反応する人がいそうなのであらかじめ言っておくが
「こういう記事がある」といっているだけなので、誤解のないようお願いしたい。
リンク記事に偏りがあると感じられるかも知れないが、意図したものではなく単に「十分に調べきれていない」というだけなので、参考記事などあればご紹介いただきたいと思う。

【追記】
対象にしているのは、第一部のみです。


①非国民

縮れ毛で「非国民」といじめられた
【追悼・半藤一利さん】「コチコチの愛国者ほど国をダメにする者はいない」若い世代へのメッセージ
戦争と差別の時代を生きて 次世代に伝えたい平和と人権への思い
戦前 戸籍に赤線が引かれると非国民や村八分になると理解したのですが。



⓶戦争反対の意見をのべると、警察につれていかれ、暴力をうける。

憲兵に逮捕された教員の叔父
 ・膝に釘打ち拷問、反戦本所持で少女を半殺し―金田勝年法相「治安維持法は適法」から共謀罪への悪夢
衆議院議員・山本宣治氏の発言もあり。


③朝鮮人、強制連行され過酷な労働を強いられる。
強制でなく「職探しも」…戦後、朝鮮半島に戻るとき互いに「泣いて別れた」
「血と汗と涙ではすまない」炭鉱遺産と戦争を伝える


④目がちぎれ手と足がちぎれ ただ息をしているだけの芋虫のような姿を近所のやつらは無責任に軍神だといってほめたたえているが~(1巻p89 より引用)


中沢氏は江戸川乱歩の小説『芋虫」をヒントに、このセリフを書いたのだろうか?

傷痍軍人
戦後、恩給の打ち切りなどがあって、戦傷を負った人々の生活は困窮したという内容がしるされている。



⑤天皇のために死ぬことが誇りであると教えた戦争教育が、多くの自殺者を出した。

「死んだ真似で生き残った」――沖縄の集団自決、生存者が語る75年前の悲劇
バンザイクリフ


⑥集団疎開で食べるものがない

集団疎開は空腹とシラミの日々
学童の集団疎開生活
追い詰められた子どもたち 学童疎開を語り継ぐには
飢えといじめに泣いた疎開


⑦特攻志願
日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく…


⑧ヤミ米 没収
<あのころ>闇米の一斉手入れ 上野駅で乗客を急襲
コトバンク 買出し



⑨海軍々人精神注入棒

「海軍々人精神注入棒」-それは虐待どころか殺人未遂だった 生き残ったことへの複雑な思い、長く戦争の話はしなかったが今伝えたい〈証言 語り継ぐ戦争〉 より引用
海軍勤務は毎日体罰
巡検ラッパの音色に涙した夜

画像検索すると実物の映像もたくさんでてくる。



⑩予科練での暴力にたえきれず脱走
つらいと脱走した志願少年兵



⑪予科練での暴力にたえきれず自殺
「海軍工廠から予科練へ」
同期で自殺した人が3名いたと記されている。



⑫原爆被害者 (惨酷な内容が含まれているため、リンク先を見る際には注意してください)  

https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/no-more-hibakusha/library/shogen/ja/577/

http://atmirror.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-26f2.html
https://www.buzzfeed.com/jp/gabrielsanchez/pictures-of-hiroshima-and-nagasaki



⑬朝鮮人差別
「嫌韓」の空気によみがえる「徴用工」の記憶 水戸の91歳高鍋さん「差別と加害の歴史に向き合って」


⑭被爆者への差別
被爆者を苦しめた差別と偏見
「ピカドンの毒が移る」と言われ、浴場で泣いた。被爆70年の増野幸子さん

⑮ABCC(原爆傷害調査委員会)について

ウィキペディア 原爆傷害調査委員会 
ゲンは怒っている
「はだしのゲン」の作者・中沢氏の発言が記されている。
放影研 被爆者に謝罪へ ABCC時代、治療せず研究
ABCCの誕生 「低線量被曝」安全説はこうして生まれた


⑯被爆者、元気だったのに急に死ぬ。
コラム:医師たちの奮闘――未曾有の惨劇に立ち向かう
放射線による被害
広島の声
「広島市内では、所々憲兵らしい兵隊が元気で整理していましたが軍服姿の死者も多数見かけ ました。」
上記より引用
とあるが、死体整理などをしていた兵隊が原爆症になって被曝したかどうかは不明。


⑰川を無数の死体が流れていく。
~ある女の子の被爆体験記11/50~    現代の医師として広島駅で被爆した伯母の記録を。


⑱似島の第二検疫所
原爆と似島

⑲髑髏を土産物としてアメリカ人に売る。
・発見された頭蓋骨は“土産品”だった!? 広島で見つかった死体が語る原爆投下後の真実
これはフィクションだが、実際にこのようなことがあったのだろうか。

⑳戦災孤児
ウィキペディア 戦災孤児
戦災孤児の中には、窃盗団を結成したり暴力団の下働きをしたりする場合があったとの旨が記されている。



㉑朝鮮人は治療をしてもらえなかった。
8・6―9 被爆75年 広島県朝鮮人被爆者協議会理事長 金鎮湖さん 
この記事の中で、救護所に治療してもらいにいった朝鮮人が、治療してもらえなかったという話がある。


㉒被曝して居候し、肩身の狭い思いをする。
体験記を読む


㉓ピカの毒がうつる。
「ピカドンの毒が移る」と言われ、浴場で泣いた。被爆70年の増野幸子さん


㉔被曝して体がだるくてやる気がおきない。
精神面への影響


㉕アメリカは原爆の報道を制限し、原爆犯罪をかくした

ウィキペディア プレスコード 
GHQの検閲を逃れ、“ヒロシマの真実”を世界に初めて伝えた米記者の「知られざる物語」



㉖犬食
戦時の犬界史(第13回) 犬を食べた話


㉗アメリカ兵捕虜にごぼうを食べさせたら木の根を食べさせたとして有罪になった。
戦時中に日本人が捕虜にごぼうを食べさせたら木の根と勘違いされたというエピソードは実話ですか?
ウィキペディア直江津捕虜収容所事件
裁判では「捕虜にゴボウ料理」をだしたところ「木の根を食べさせたのは虐待」という主張があったが、
これが原因で有罪と言うのは適切ではないだろう。有罪の理由は61名もの捕虜を上記の理由で死亡させたことによるものと読みとれる。
「ごぼうを捕虜に食べさせて有罪になったB級戦犯」は都市伝説?

朝鮮人は日本に国をとられた。
5分でわかる韓国併合。経緯、日本と韓国の主張などをわかりやすく解説
ウィキペディア 韓国併合
脅迫と強圧で実現した「韓国併合」

㉙朝鮮人が工場から脱走すると殺される
ウィキペディア 信濃川逃亡労働者殺害事件


㉚朝鮮人 日本の軍隊と警察に弾圧されて殺される
関東大震災朝鮮人虐殺事件
コラム8 殺傷事件の検証
サハリン瑞穂村の朝鮮人虐殺事件(file:///C:/Users/FUJITSU/Downloads/seni_012__189__187_210__189_212%20(2).pdf)で検索してみてください。
ウィキペディア瑞穂事件



㉛日本は朝鮮人の名前を強制的に日本風に改めさせた。
「強制性」論争
「創氏制度」は王族など特殊な例外[注釈 5]を除き、全朝鮮人民に法規で適用されたものであった。金や朴などの朝鮮名から、設定創氏や改名制度による伊藤や井上など日本風の名への変更が強制であったかについては論争がある。
ウィキペディア 創氏改名 より引用

㉜原爆で5万人の朝鮮人が死んだ。 祖国へ帰りついても原爆症で苦しむ朝鮮人は3万人。
韓国原爆被害者協会は、広島での被爆者を5万人、うち死者を3万人と推計している。
韓国人被爆者の慰霊祭、広島 死者推計3万人より引用
在外被爆者とは
在外被爆者とは、日本国外に居住する被爆者のことです。戦時に広島、長崎にいて被爆し、戦後帰国された韓国の方や、戦後米国等の海外に移住した日系人の方が大半を占めています。
日本政府は、海外に居住する被爆者に対しても、国籍を問わず、被爆者健康手帳を交付しています。
※在外被爆者(手帳所持者)数 約2,785人(令和3年3月末現在)
在外被爆者援護対策の概要  より引用


㉝キャノン機関 
ウィキペディア キャノン機関

㉞鹿地事件 スパイになれと要請する
ウィキペディア 鹿地事件

㉟キャノン機関、日本人を拉致して麻薬を打る、なぐる ける ブラックジャックという刑具で責める
ブラックジャックの白武
リンク先に、「はだしのゲン」7巻115ページに描かれているような刑具が描かれている。
拉致された上にスパイになるよう強要され、自殺してしまった元関東軍・参謀の佐々木克巳が、監禁・拷問されたのも、ここである。
~略~
薬は麻酔薬であった。
秀雄が錠剤の薬を飲むのを拒否し始めると、マサシは「ミルクに入れて飲ませろ」と命じた。
鹿地亘の監禁事件② キャノン機関についてより引用


㊱米軍のガムチョコレートを闇市でうる
「ギブミーチョコ」の衝撃的な末路 少女が見た「目を疑う光景」


㊲天皇 国民に謝罪していない
田島元長官が個人的に記録していたもので、昭和天皇は1952年5月の独立回復式典に際し、自らのお言葉で「反省」を表明する意向を示していたが、宮内庁幹部や当時の吉田茂首相が反対し、当初の文案から削除された経緯などが分かる。
昭和天皇の「肉声」記録 軍部増長に「反省」の重み より引用

㊳GHQ 平和都市建設法制定応援する代わりに、デモを制限する条例をせまり成立させた
1949年に当時の浜井信三市長を中心に特別立法誓願運動を時のGHQや外国人新聞記者、政府や各政党に対して働きかける。
ウィキペディア 広島平和記念都市建設法 より引用
1948年4月の阪神教育事件を契機として、GHQ大阪地区支配当局の意向により大阪市で1948年7月31日に「行進、示威運動及び公の集会に関する条例」が制定されたのが初めてである。その後、多数の自治体が1948年から1950年までにかけて公安条例が制定された。
ウィキペディア公安条例 より引用

㊴朝鮮戦争はアメリカがさせた 

「朝鮮戦争って何?」今こそ知るべき基礎知識~辛坊治郎が解説


㊵GHQ  警察予備隊
ウィキ 警察予備隊


㊶ムッソリーニは死体がつりさげられ、みんなおこっていた。
日本では、戦争をおこしたやつらに国民が「わるかった」と泣いてわびる
・ムッソリーニの死因と最後の様子を解説!処刑された理由や経緯も紹介
第二次世界対戦時、日本国民は戦争を望んでいたのですか?


㊷ヒロポン 敵と戦うときに注射された
これだけあった〝特攻隊員に覚醒剤〟外道の証拠 「チョコ包むの見た」証言から元教員が追跡

㊸ヒロポンが余って薬局で売り出されていた。
みんなクスリが好きだった─ 日本のジャズとドラッグ【ヒップの誕生 ─ジャズ・横浜・1948─】Vol.9

㊹レッドパージ(赤狩り)
ウィキペディア レッドパージ

㊺アメリカの経済顧問・などがおこった。
組合員は共産主義者だと思わせるためにアメリカのスパイ機関が事件を起こしている?
ウィキペディア 国鉄三大ミステリー事件
【国鉄三大怪事件 -1】下山事件の謎 第1回 〈1031JKI51〉

㊻朝鮮戦争でもうける
・ウィキペディア 朝鮮特需

㊼不法建築物撤去
広島の復興シリーズ Vol.11:不法建築
ゲンのように、家を撤去されて住むところがなくなって困った人はいないのだろうか。

㊽被爆して白血球が減少し盲腸の傷口が塞がらない。麻酔きかなくなり、麻酔なしで手術する。
戦争さえなければ

㊾朝鮮戦争 原爆使用 決定 トルーマン大統領
マッカーサーの原爆使用計画と反共主義

㊿戦災孤児をひきとり労働力としてこきつかう 援助金がもらえる
戦後混乱期の養護施設1) file:///C:/Users/FUJITSU/Downloads/20021-1-009%20(2).pdf で検索してください。


51.軍隊式の社長
体育会系の軍隊みたいな研修!電力会社の新入社員研修がつらい話
これは戦後ではなく現在の話だが、現在でもあるので、戦後にはそういう会社が多数あったと思われる。


調べてみたが、わからないこともたくさんあった。(調べたりないのかもしれない。)
以下にその内容を列挙する。

❶土地収用で勝手に登記して儲けている人がいる。 政治家とつるんでいる。
❷日本が朝鮮の鉄・銅・米・麦をとりあげ、朝鮮人は飢えた。
❸ABCCと医者との癒着関係
❹被曝して死んだ人が生き返る。(さすがにフィクションかな。)
❺なぐられて同情をひき、食べ物をえる。
など。

イザベラ・バードが見た明治11年の日本 

1.イザベラ・バードが見た明治11年の日本

イザベラ・バードというイギリスの旅行家が、1878年(明治11年)の日本の東北地方・北海道を旅行した。
彼女はそれを紀行文としてまとめた。

いくつかの点で、明らかに間違った記述もあった。
またこの紀行文が日本のすべてを語ったものではないことは言うまでもないし
彼女の主観にもとづいた記述も多い。

しかしながら、明治11年頃の日本を知る上で貴重な資料だといえる。

その記述の中から、当時の日本人のチップ(心づけ)・ピンはね・道徳心・差別観などについて述べられた箇所を書きだしてみようと思う。

※『イザベラ・バードの日本紀行/イザベラ・バード』という本が出版されたのち、
そこからいくつかの記述を削って
『日本奥地紀行/イザベラ・バード』という本が出版されたらしい。

私が読んだのは『イザベラ・バードの日本紀行/イザベラ・バード(講談社学術文庫)』で、「日本奥地紀行」とは、第四信などの番号がちがっているので注意してほしい。

2.チップを受け取らない人々

第九信(つづき)130ページ
最初の休憩地で、人がよくて親切ながらもとにかく醜い私の車夫が苦痛に襲われ、吐きました。
粕壁で飲んだ水に当たったのが原因だと車夫は言い、そこに残りました。
ありがたいことに向こうから実直に、自分と同じ条件をきっちり守る代わりの車夫を用意すると言い出してくれて、
病気だからとチップを要求しませんでした。

第一四信 193ページ
女馬子は自分の荷物を数えてすべて無事にあるのを確かめると、心づけをもらうのも待たずに馬と引き返していきました。

第一六信 228ページ
ヨーロッパの国の多くでは、またたぶんイギリスでもどこかの地方では、女性がたったひとりでよその国の服装をして旅をすれば、危険な目にあうとまではいかなくとも、無礼に扱われたり、侮辱されたり、値段をふっかけられたりするでしょう。
でもここでは一度として無礼な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともないのです。
それに野次馬が集まったとしても不作法ではありません。
馬子は私が濡れたり怖い思いをしたりしないかと気を使い、旅の終わりには革ひもやゆるんだ荷がすべて無事化を几帳面に確かめてくれます。そして心づけを当てにしてうろうろしたり、茶屋でおしゃべりをするために休憩したりなどせず、さっさと馬から荷を下ろすと、運送業者から伝票を受け取って帰っていきます。
ついきのうも革ひもが一本なくなり、もう日も暮れていたにもかかわらず、馬子は一里引き返して革ひもをさがしてきてくれたうえ、わたしが渡したかった何銭かを、旅の終わりにはなにもかも無事な状態で引き渡すのが自分の責任だからと、受け取ろうとはしませんでした。

※「法外な値段をふっかけられたこともない」とあるが、5⃣に記すように、2,3倍程度のピンはねは日常的に経験しているとバードは感じている。

第二二信 307ページ
泊まれるほど清潔な家はなく、わたしは石に腰を下ろし、一時間あまり人々について考えました。
頭にやけどをした子供、疥癬のある子供、眼炎を起こした子供が群がっています。
どの女性も赤ん坊を背負い、子供もおんぶのできる子供はみな赤ん坊をおんぶしています。
綿のズボン以外になにかを着ている女性はまるでいません。
ひとりの女性が「酔っぱらって暴れながら」ふらふらと歩いています。
伊藤は石に座り、両手で顔を隠しています。
具合でも悪いのかとわたしが尋ねると、伊藤は嘆かわしそうに「こんなところをお見せするとははずかしくてどうしていいかわかりません。」と答えました。
伊藤はまだ一八歳にすぎず、わたしは彼をかわいそうに思いました。
女の人が酔っぱらうことはよくあるのかと尋ねると、横浜ではあるけれど、ふつう家の外に出ないからと彼はこたえました。
そういう女は月末にいろいろ支払いをするのに夫がお金を渡しても、それを酒に遣ってしまうことがよくあり、
ときには店で酒を買いながら、米や茶を買ったことにしてもらう場合もあるそうです。
「昔からよくあることなんですよ!」
わたしは土ぼこりと野蛮な行為に目をやり、これが本で読んだ日本なのだろうかと尋ねました。
それでも品の無い服装をしたある女性は、ふつう休憩をした場所に置いていく二銭とか三銭を、どうしても受け取ろうとしませんでした。
わたしがお茶ではなく水しか飲まなかったからというのです。
わたしが無理やりお金を渡すと、その女性はお金を伊藤に返しました。
名誉挽回のこのできごとにわたしはとても慰められました。

第二三信 312ページ
この家の女性たちはわたしが暑がっているのを知ると、気をきかせてうちわを取り出し、丸一時間わたしを仰いでくれました。代金を聞くと、それはいらないと答え、まったく受け取ろうとしません。

3.チップを受け取った医者もいた。

第二四信 337ページ
料金はいくらかと尋ねると、医師は何度もお辞儀をしてなにか早口でぶつぶつ言ったり息をすいこんだりしたあと50銭では多すぎるかと尋ねました。そして私が一円差しだし、何度も深々とお辞儀をして、診察を受けられて大変うれしいと言うと、こちらがすっかりまごついてしまうほど感謝の言葉が返ってきました。

4.ピンハネする人々

2のチップを受け取らない人々は、正直で責任感のある日本人だといえるだろう。
しかし、下記の記述から、正直ではなく、外国人からピンハネする日本人もいたように思われる。

第六信 83ページ
もう一つ、これよりずっと重要でないとはいえよく話に出たのが、現地人の使用人には道中で金銭のやりとりがあるたびに「中間搾取」する習慣があり、使用人の腕と能力次第で旅行費用が二倍、ときには三倍になることが多いという問題です。
あちこち旅行した経験のある三人の紳士が私の払うべき値段表をくれましたが、地方によってものの値段も異なり、旅行者の多い地域では大幅に高くなっています。
またウィルキンソン氏が伊藤に向かってこの値段表を読み上げると、伊藤は時折不満の声をあげました。

第一二信 167ページ
入町―湯元を断つ前に、わたしはピンはねの手口を知りました。
清算を頼むと、請求書は私に渡されず、宿の亭主は二階へ駆け上がって伊藤にいくらにすべきか尋ね、
ふっかけて得た儲けをふたりで分けようと話をもちかけたのです。
何を買っても従者は「ピンはね分」を得ます。
宿代に関しては非常に巧みに行われるので、防ぎようがなく、納得のいく範囲で収まっているかぎりは気をもまないことです。

第一三信(つづきその二)186ページ
それからわたしか伊藤が品物の値段をたずね、女主人が値をいいますが、6ペンスで売る物に4シリング要求していそうなかんじです。(略)
最終的にこちらが1シリング差し出して値段の折り合いがつくと、女主人は実にうれしそうです。
何度もお辞儀と「サヨナラ」を繰り返し合って店をでるときの気分は愉快なものです!
勤勉な女性に本来の倍多く払い、しかもこちらは予算より安く済んだのですから!

第一三信(つづきその二)190ページ
日本には東京に本社がある陸運会社があり、支店がさまざまな町や村にあります。
この会社は固定料金で旅行客や荷物を運び、しかるべき書式の領収書をくれます。
農家の馬を雇い、それぞれの業務でそこそこの利益をあげていますが、
旅行者にとっては手間もいらず、遅れもせず、またゆすりにも遭わずにすむのです。
料金は地方によって大きく変わり、馬の飼料、道路事情、雇える馬の数で規定されています。
ほぼ2マイル半(約4km)に相当する一里で、馬一頭と馬子一人につき6銭から10銭、
車夫ひとりでひく人力車一台で同じ距離が4銭から9銭、荷物を運搬する人夫もそれとほぼ同じです。
(この運送会社は実にうまく組織されています。わたしは1200マイルを超える距離でこの会社を利用しましたが
いつも手際がよくて信頼できました。)
今後もずっとこの会社を利用するつもりでいます。
農夫ととりひきしてピンハネしようという魂胆でいる伊藤の期待には、大いに反することになりますが。

第二一信(つづき)284ページ
見たところ、日本式買い物の仕方は会得すべきわざのひとつのようですが、私にはそれだけの根気がありません。
原則として私は値切るのに時間をかけるより、売り手が最初に言ってきた値段に近い額を支払います。
けれどもそれではお金を損をするし、店主からはばかにされそうですから、買い物じょうすの外国人たちはそんなことはしません。
買いたいものがある場合は他の物の値段を尋ね、その品物には興味がないふりを装います。
たぶん店主は10円と言ってきます。
そうしたらこちらはさもおかしそうに笑い声をあげ二円と答えます。
店主はバカにしたように笑いますが、悪気はまったくありません。
こちらが撮り合わないでいると、向こうは八円といってきます。
こちらがまた笑い声をあげ、その辺をぶらぶら歩くと、店主はおかしそうに七円と言ってきます。
こちらは無造作に三円と言います。
店主は悲しそうに算盤をはじきそうな気配を見せます。
そこでこちらは店を出ようとするそぶりをみせます。
すると向こうはおそらくポンとうれしそうに手をたたき、「ゆろし」と言います。
これは三円なら売ってもいいという意味です。
おそらくほんとの値段よりずっと高いでしょう。

第二八信 379ページ
彼が自分の目的にかなうと見れば嘘もつくこと、また見つからずにできる場合は、はねられるだけの上前を「ピンはね」していることについて、私はみじんの疑いも抱いていません。
彼には人情というものがあまりないらしく、思いつく事と言えば、意地悪をして楽しむことばかりのようです。

5.宿屋がピンハネしても、バードが許している理由

第三二信 425ページ
宿屋の主たちというのは、思うに、多かれ少なかれ商売にうんざりしています。
実のところうんざりしているのは規制に対してで、細かな規則のわずらわしい変更が際限なくあるのは新体制の欠点です。
ほぼ毎週新規の通達が数多く発せられ、農民の鈍くて当惑した頭では一回分も理解できないうちに、もうつぎのが発行され、
しかも警察は違反者を目ざとく見つけてしょっぴきます。
宿屋のあるじはすべての旅人の氏名と旅行目的ばかりか、その前の宿泊地も帳面に記録せねばならず、
この帳面は毎月警察が家宅訪問するたびに呈示しなければならないのです。
外国人の場合、ことに悩みの種となるのも当然で、特別に負担がかかり、通行証の写しを二部とるという手間がかかるうえ、
「当局の許可なく外国人に宿を提供した者、または宿泊させた」者は罰金を課され、罰金を支払わない場合は鞭打ちの刑に処されるのです。
こういった特別なわずらわしさは別としても、わたしは宿屋の経営者が外国人に対し、ふつうより高い料金を課しても構わないと思います。
なぜなら日本人なら六人から八人が嬉々として納まる部屋一室を外国人は一人で占領し、室内で水を使えるように要求したり変な料理を変な時間につくったりと、全般に日本人より迷惑をかけるのですから。
これまでのところわたしはまったく宿屋のあるじの味方で、一部のイギリス人や多くのアメリカ人を恥ずかしく思っています。
彼らはチップは勘定に入れずに一五銭支払っただけで上等の部屋と自由に使える布団、たっぷりと炭の補給された火鉢、
入浴用のお湯、ひと晩中使える行灯、お代わり自由のごはんとお茶を手にいれるのですから。
つまり、火、蝋燭、二回の食事、上等の部屋、きめ細かなサービスが全部ひっくるめて七ペンスなのですよ!

6.偽ブランドを製造する日本メーカー

第二一信 285ページ
事実を語るべきとするなら、貪欲さのせいで日本人は厚顔無恥なペテン師となっているのです。
外国製食料・飲料として売られているものの半分は実に不快で有害なくずで、東京かどこかでつくられ、
バス、マーテル、ギネス、クロス&ブラックウェルといった老舗の名前やラベルをつけた瓶に詰めて売り出されるのです。
クロス&ブラックウェル社は不愉快で悪意のある詐欺行為を防ぐために、自社製品の瓶は空き瓶となったら割ってほしいと
横浜の新聞各紙に依頼広告を定期的に載せています。

7.道徳観念の無い人々

第二〇信 272ページ
日本人は子供がとにかく好きですが、道徳観が堕落しているのと、嘘をつくことを教えるため、西洋の子供が日本人とあまりいっしょにいるのはよくありません。

第二八信 378ページ
夜間、わたしは時計・通行証・お金の半分を伊藤に預けており、彼が姿をくらましたらどうするのだろうとしょっちゅう自分でも首をかしげています。
伊藤はいい子ではありません。わたしたちが考えるような道徳観念を持ち合わせていませんし、外国人が嫌いです。
態度も非常に不愉快なことがよくあります。
それでもなお、彼より役に立つ従僕件通訳を得られたかというと、それは疑問です。

第三九信 (下)40ページ
マリーズ氏はこの函館にいて、氏が伊藤と結んだ契約では、伊藤は月7ドルでマリーズ氏が望むかぎり仕えなければならないのだとわかったのです。
それなのに伊藤はこちらが一二ドルと申し出たので、わたしに嘘をついてマリーズ氏の元を逃げ出し、私に雇われたのです!
マリーズ氏は伊藤の配信行為のせいで多大な迷惑を蒙り、植物採集をするのが大幅に遅れています

8.アイヌを蔑視している伊藤

第四一信(下)95ページ
伊藤はわたしが彼らに興味を示すのをとても嫌がり、伝説上のアイヌの起源を引いてきて彼らは「犬同然」だと何度もいいました。この起源に関して、アイヌ自身は恥じていないのです。
伊藤はアイヌは礼儀正しさを日本人から学んだといいますが、これには全く根拠がありません。


9.チップを断る幕末の旅館の女中?

わたしがイザベラ・バードを読もうと思ったのは、武田邦彦氏の2021年11月19日のブログを聞いたのがきっかけである。

彼はその動画の中で次のようなことを語っておられた。(私の理解に勘違いがあれば指摘をお願いします。)

①1900年、貴族社会から大衆社会に変わりつつあるとき、ヨーロッパの人たちはつぎのように考えた。
貴族社会は一人一人に魂がある。プライドもある。個人の個性、アイデンティティがある。
これに対して大衆っていうのは、その日暮らしであって迎合するところがあり、すぐ錯覚するところがある。
だからマスコミなんかにちょっと煽られるとすぐその方向に行ってしまう。

⓶それまでの大学教授というのは学問が好きだから大学教授になる。
ところが、大衆社会になると生活の糧として大学教授になっている。
自分の経験からいってもこれは間違いではない。

③1900年頃の偉い人は、大衆は煽られやすいから戦争が増えるだろう、と予想しているが、それもそのとおりになった。

④③の理由は、大衆は精神的に独立していないためである。
だがら NHK が放送すれば NHK の放送通りに、それが真実だと思ってしまうので戦争が多くなる。

⑤戦争に突入した理由は
・日本の戦前、すでにヨーロッパ文化におかされたこと
・朝日新聞なんかで煽られた。

⑥大衆だから、教育を受けてないから自己が確立していないというのはヨーロッパ人の偏見。

⑦⑥の一例
イザベラ・シッドモアというイギリスの旅行家が、幕末に東北地方を旅した。
イザベラ・シッドモアが日本の宿屋はたごに泊まると、旅籠の女中さんが一生懸命やってくれた。
宿を出る前、心付けを渡そうとしたら、女中さんは
「私は女中として自分のすべきことをしただけのことですからお金をいただくわけにいきません」と言った。
この女中さんはおそらく学校にいっておらず、貧乏で教養もなく、勉強もしてないだろうが、自分というものを持っている。

⑧この女中さんにくらべ、現在の大臣・東大教授は浅ましく、NHKの放送にはプライドがない。

⑨江戸時代の末期の東北の宿屋の女中さんが立派なのにくらべて、現代の東大教授・国会議員・ NHK 幹部は愚劣である。
その理由は、日本にヨーロッパ文化が入ってきたことによって、お金中心の社会、損得だけを考える社会になったのではないか。


彼の文章にはいくつかあやまりがあると思われる。

a.イザベラ・シッドモアとは誰なのか。
エリザ・シッドモアという著述家はいる。
ただし、武田氏はイギリスの旅行家と言っているが、エリザ・シッドモアはアメリカ人である。
1885年(安政2年)から1928年(昭和3年)にかけて度々日本を訪れて、日本の紀行文を残している。
このエリザ・シッドモアとイザベラ・バードを混同して、イザベラ・シッドモアといっているのではないか。

b.イザベラ・シッドモアではなく、イザベラ・バードのまちがいであれば、紀行文は幕末の日本を記したものではなく
明治11年の日本について記したものである。

また旅館の女中の話ではなく、茶店で働く女性の話だと思われる。

第二二信 307ページ
それでも品の無い服装をしたある女性は、ふつう休憩をした場所に置いていく二銭とか三銭を、どうしても受け取ろうとしませんでした。
わたしがお茶ではなく水しか飲まなかったからというのです。
わたしが無理やりお金を渡すと、その女性はお金を伊藤に返しました。
名誉挽回のこのできごとにわたしはとても慰められました。

cイザベラ・バードの本を読むと、.明治11年、チップを受け取らない徳のある茶店の女性もいたが
ピンはねをする人々や偽ブランドを製造するメーカーが日本にはあったようである。

武田氏は、「それらは日本がヨーロッパ文化を受け入れた結果」だとお考えなのだろうか。
もしこのように結論づけるのであれば、
江戸時代の大衆がピンはねを行わなかったり、偽ブランドを製造したりしなかったことを示す史料が必用だと思うので
ぜひそれを提示していただきたい。

日光東照宮

イザベラ・バードも訪れた日光東照宮

武田氏は、

⓶それまでの大学教授というのは学問が好きだから大学教授になる。
ところが、大衆社会になると生活の糧として大学教授になっている。
自分の経験からいってもこれは間違いではない。

③1900年頃の偉い人は、大衆は煽られやすいから戦争が増えるだろう、と予想しているが、それもそのとおりになった。

④③の理由は、大衆は精神的に独立していないためである。
だがら NHK が放送すれば NHK の放送通りに、それが真実だと思ってしまうので戦争が多くなる。

といいながら、

⑥大衆だから、教育を受けてないから自己が確立していないというのはヨーロッパ人の偏見。

ともいっていて、大衆文化がいいと思っているのか、悪いと思っているのかよくわからない。
日本の本来の大衆文化はよかったが、ヨーロッパの「大衆文化はよくない」とする考え方を取り入れた結果
日本は悪くなったといいたいのかもしれないが
よくわからない文章だと思う。


平安時代の男性はひらがなを使っていたし、文学もやっていた。


石山寺 紫式部

石山寺

①平安時代の男性は漢字で、記録文書を書くことしかできなかった?

こんなことを言う人がいる。
「平安時代の男性は漢字しか使えなかった。また記録文書を書くことしかできなかった。」

これは本当だろうか?



⓶平安時代の男性が記録文書しか書けなかったというのは間違い。

ちょっと調べればわかることだが、平安時代の男性が記録文書しか書けなかったというのは間違いである。
下記に平安時代の文学作品と作者をあげておく。

 
作品名作者作者性別成立年ジャンル
日本霊異記景戒822年頃説話集
竹取物語紀貫之?男?平安時代初期物語
伊勢物語紀貫之?男?平安時代初期歌物語
土佐日記紀貫之935年日記
平中物語959-965年頃歌物語
蜻蛉日記藤原道綱母975年日記
御堂関白記藤原道長998~1021年日記
落窪物語10世紀末頃物語
枕草子清少納言1001年随筆
源氏物語紫式部1008年物語
江談抄大江匡房の談話を藤原実兼が記録1104~1108年有職故実・故事・説話
台記藤原頼長1136~1155年日記
無名草子藤原俊成女?1196~1202年物語・歌集・女流作家などの批評
唐物語藤原成範12世紀後半説話集
紫式部日記紫式部平安時代中期日記
和泉式部日記和泉式部平安時代中期日記
狭衣物語ばい子 (ばいし) 内親王平安時代中期物語
宇津保物語源順?男?平安時代中期物語
大和物語在原滋春?花山院?伊勢?平安時代中期物語
更科日記菅原孝標女平安時代中期日記
多武峰少将物語藤原高光?男?平安時代中期日記文学
とりかへばや物語平安時代後期物語
夜の寝覚菅原孝標女?女?平安時代後期物語
浜松中納言物語菅原孝標女?女?平安時代後期物語
讃岐典侍日記讃岐典侍藤原長子平安時代後期日記
栄花物語赤染衛門?出羽弁?周防内侍?など複数の女性平安時代後期歴史物語
陸奥話記藤原明衡?男?平安時代後期軍記物語
大鏡源顕房?男?平安時代後期歴史物語
今昔物語集不明平安時代末期説話集
今鏡藤原為経(寂超)平安時代末期歴史物語
宝物集平康頼平安時代末期仏教説話集
しのびね平安時代末期物語
堤中納言物語平安時代後期以降短編物語集
古本説話集平安末期から鎌倉初期説話集

※竹取物語(10世紀半ば?)『源氏物語』に「絵は巨勢相覧、手は紀貫之♂書けり」と書かれているそうです。

京都御所 人形

京都御所

③平安時代、男性もひらがなを使っていた。

平安時代、男性は漢字しか使わなかったというのは、漢字のことを『男手』、ひらがなのことを『女手』といったりすることから勘違いされているのではないかと思う。

紀貫之は女と偽って仮名で『土佐日記」を書いている。
紀貫之は女と偽るために女性が使う仮名を用いたのではないかと思われるかもしれないが
藤原道長も仮名で日記を書いている。

さらに平安時代、男性が仮名を使っていたと考えられる理由として、古今和歌集の存在がある。
905年に成立した古今和歌集の序文・仮名序は、紀貫之が書いたといわれているが、仮名で書かれている。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000142397

上記に次のように記されている。

❶『『古今和歌集』の謎を解く』(2000年 講談社)87ページ
「『古今集』も写本による以外に接することができないが、先にあげた『土佐日記』…(中略)…このことから『古今集』の歌はすべて平仮名で書かれていたであろうと推定することができる。」
89ページに「『古今集』は、こうして整理統合された日本語の音韻を、生まれたばかりの表音文字〈かな〉によって表記した最初の歌集なのである。」とある。

❷『みそひと文字の抒情詩 古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』(2012年新装版 笠間書院)
「平安初期に仮名の体系が形成され、短歌は三十一個の音節ではなく、三十一個の仮名連鎖として作られるようになった。…(中略)上代の短歌から新しく生まれ変わった、三十一個の仮名連鎖としての和歌を集めた最初の勅撰集が『古今和歌集』である。」とある。

❸『図説かなの成り立ち事典』(2006年 教育出版)152ページ(下段)
「延喜五年〈九〇五〉には初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が撰進されるに至りました。
和歌を記す仮名、つまり女手が確固たる地位を占めるようになっていたからこそ、であり、こうした和歌の隆盛が、ますます女手の発達を促しました。」とある。

❹『日本語の世界5 仮名』(1981年 中央公論社)166ページ
「延喜五年(九〇五)勅によって『古今和歌集』の撰進が行われた。これは、日本語の文字の歴史の上で、極めて大きな意味を持っている。
それは平仮名文という文体が、私的な世界から公的な世界へ躍り出たという、画期的な出来事であり、その後の仮名文学発展の素地を形成したものであった。」とある。

当時、公的記録には漢字を用い、漢文の形で記していたのだろう。

続日本後紀 (833年~850年)
日本文徳天皇実録(850年~858年)
日本三代実録 (858年8月~887年)

は全て漢文で記されている。

しかし漢文で漢詩は読まれているが、漢文で和歌を詠むのはむつかしいだろう。
和歌を詠む場合、万葉集では万葉仮名が用いられている。

しかし平安時代にはひらがなが成立しており、紀貫之が序文として仮名序を書いているところから、
和歌はひらがなを用いて詠まれているのではないかと思われる。

そして古今和歌集には女性歌人の歌もあるが、多くの男性歌人の歌が収録されている。

平安時代の男性はかなを使っていたと考えられるだろう。

京都御所 碁

京都御所

④平仮名は漢字を使いこなせる男性が作った。

https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-72/

上記サイトに次のような内容が記されている。

❶江戸時代まで空海が作ったと信じられていたが、ありえない。
空海がいろは歌を作ったという俗説もあるが、いろは歌ができたのは11世紀なのでこれもありえない。
いろは歌は仏教の無常観を詠ったものなので、空海と結び付けられた。
さらにいろは歌は子供が平仮名を使う際の手本として使われたため、いろは歌や平仮名も空海が作ったといわれるようになった。

❷片仮名は江戸時代まで,吉備真備が作ったといわれていた。

❸初期の平仮名の資料で,明らかに女性が書いた,という証拠があるものは一つもない。

❹初期の平仮名の資料には,男性が書いたことが明らかなものが存在する。
・「有年申文(ありとしもうしぶ)み」・・・讃岐介のた藤原有年という男性が,貞観9(867)年に書いた。
・「円珍病中言上状」・・・円珍(814年生~891年没)が書いた。

❺平安時代の平仮名の多くは、書いた年月日を記さない。署名がない。
私的なやりとりなどに使われたのではないか。

❻藤原良相邸跡より平仮名を記した土器が発見された。

❼平仮名を作ったのは,個人ではなく,平安時代9世紀中頃の都にいた漢字が使いこなせる男性たちだと考えられる。

❽平仮名の誕生以前,万葉仮名の時代にも,私的な手紙(正倉院文書の中の万葉仮名文書)や土器の落書き(飛鳥京跡苑池遺構出土の刻書土器)がある。
そうしたものがやがて平仮名に変わっていったと考えられる。

❾平仮名に女性のイメージが付いたのは,平仮名が文字として成熟してからのち,女性文学が発達したためだろう。

平仮名が作られた当初から、多くの男性がひらがなを使い、徐々に女性も使うようになったということだと思う。


⑤紀貫之は平仮名を使うのが恥ずかしいから女と偽ったのではない。

こういう意見があった。

紀貫之は平仮名を使うのが恥ずかしいから女と偽って土佐物語を書いたのだ。
ということは当時男が平仮名を使うのは恥ずかしいという風潮があったのではないか。と。

紀貫之が土佐物語を書いたのは935年、古今和歌集が成立したのは905年で土佐物語よりも30年も早い。
その古今和歌集で紀貫之は古今和歌集仮名序を漢字仮名交じり文で書いている。
また、その古今和歌集の和歌も漢字仮名交じりで記されていたと考えられ、男性は普通に平仮名を使っていたと考えられる。

それではなぜ紀貫之は女と偽って土佐日記を書いたのか。

実は古今和歌集には男性歌人が女の身になって詠んだ歌というのがたくさんあるのだ。
当時、女のふりをして文章を書くのが流行っていたのだろう。


⑥女性は漢字を使うのを憚っていた。

男性は漢字とひらがなと両方使っていたのではないかと思う。

記録文書・・・・漢字
和歌その他・・・ひらがな

しかし女性は漢字を使うのを憚っていたのではないかと思う。

女性は公文書の記録をするような仕事はしていなかっただろう。

また当時、漢字は使う女性は「知性をひけらかす」と考えられていたそうで
紫式部は一の字も書けないぶりをしていたそうである。
そして紫式部は清少納言のことを
「漢字を書き散らして偉そうにしている。」と日記の中で悪口を言っている。

平安時代に女性が漢詩を詠んだというのも聞いたことがない。(あったら教えてくださいね)




織田信成さんが濱田コーチを訴えた件


織田信成さんが濱田コーチにモラハラをされたとして訴えましたね。
ネット上にはいろんな意見があふれています。

この件について、いくつか言いたいことがあります。

①事情がわからないのに詮索して批判するべきではない。


裁判でモラハラがあったと認められるかどうか、現時点でははっきりしないし、どんな事情があったのかも、第三者にはわかりません。
よって、あれこれ詮索して織田さんや濱田コーチを批判するべきではありません。
「関大は調査をしたという記事をよんだので、織田さんが言っていることはおかしい」という意見も目にしましたが、
両者の言い分を聞いて見なければどちらが正しいのか判断できないはずです。
関大が悪い、織田さんが悪いと言っている人は、根拠がないのに好き嫌いで判断していると言われても仕方がないでしょう。


②織田さんの態度や方針は、モラハラとは無関係。

織田さんが自分の練習をしすぎだとか、学生の練習時間を削りすぎだ、よって織田さんが悪い、という意見がありました。
しかし彼の態度や方針がいいか悪いかを断じるのは主観でしかありません(いいと思う人、悪いと思う人、どちらもあるでしょう。)し、今回のモラハラとは無関係ではないかと思います。
どんなにやり方や方針が気に入らなくても、モラハラを行っていい理由にはならないと思います。
上司のやり方が気に入らないからといって、無視したり、嫌みをいったり、陰口をたたいてはいけないということではないかと思うのです。
やり方が気に入らなければ、冷静に話をして解決するべきだと思います。


③仕事ができれば、モラハラをしてもいいということではない。

濱田コーチはたぶん優れた指導者だと思います。
そうでなければ宮原選手や紀平選手のようなトップレベルの選手を育てることはできないと思います。
しかし、指導者として優れていることと、社会人として優れていることは別だと思います
(濱田コーチが悪いと言っているわけではありません。実情を知らないので、そんなこと言えるはずがありません。一般論として話をしています。)

④日本はモラハラの意識が低い


私が以前働いていた職場でもモラハラがありました。
モラハラをしたのは女子社員(仮にA子としておきます)、モラハラをされたのは転職してきたばかりのA子の男性上司です。
A子は成績優秀で、性格も明るく、会社からの評価も高かったと思います。
ですが、我の強いところがあり、自分と異なる考え方をする人を受け入れられないようでした。
そのため、上司とはしょっちゅう衝突し、上司に対して食ってかかるようなきついものいいをしたり、悪口を言ったり、無視したりしていました。
A子は同じ職場の他の人とは仲良くやっていたので、上司は孤立状態で、しょっちゅう蕁麻疹を出していました。

他にも後輩に仕事を教えない(仕事をさせない)人とか、朝礼の際につねにひとりを叱責する人とか、懇親会にひとりだけ誘わない等のモラハラを行う人を大勢みてきました。

日本はモラハラの意識が低いのですね。
また他人にモラハラする人は、悪いことをしているという意識がなく、逆にいいことをしていると思っているふしもあるのです。
たとえば、A子の場合、上司の方針が悪いから店舗の成績があがらない。だからよくなるようにと思ってやっているんだ、というような感じです。(もしかしたら上司が会社をやめると、会社のためになると思っていたかも)

しかし、そういうやり方ではだめです。
上司の方針が悪い、というのもA子の主観でしかありませんし。
仮に上司が悪いというのが事実としても冷静に話し合うべきで、話し合ってもだめなら、もっと上の人に相談するなどの対策をとるべきでした。

外国で仕事をされているという方のブログを読んだのですが、外国ではモラハラ対策は徹底していて、どういうことがモラハラにあたるのか、どういうことをやってはいけないのかというようなことを、きっちり教育しているそうです。

日本も見習うべきだと思います。

⑤裁判をおこしてはいけない的な空気を作ってはいけない。

裁判をおこしても、織田さん自身のイメージが悪くなって 仕事が減るのでは、と書いている方もいました。
しかし、そういう空気は作ってはいけないと思います。
誰にでも自由に裁判をする権利がある。そして裁判の結果や、裁判をしたということによって就職・仕事などに影響が出ない世の中であることが望ましいと思います。

そうでなければ、いつまでたっても弱いものいじめ的な世の中は変わらないと思います。

また、自分自身が裁判をおこす立場になる可能性もあり(泣き寝入りしますか?)、自分自身にとってもよくないはずです。

ですが、織田さんも含め、今若いアスリートたちははっきりもの言うようになってきていますね。




お読みくださってありがとうございました。
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。




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うるさ方

本質的なことを重要視せず、細かいことにこだわる人がいますね。

たとえば、ちょっとした漢字のまちがいを、鬼の首をとったかのように指摘する人。
ネット上の漢字のまちがいはたいてい変換ミスなので、私なんかはスルーします。
多くの人は私と同じでしょう。
いちいち漢字のまちがいを指摘せず、本題についてコメントされている方がほとんどなので。

あとはコメントが無題になっているとか、(コメントを無題にするのが悪いなんて考えたこともなかった)
やれ改行が多すぎるとか、絵文字が多すぎてちかちかするとか、センター揃えになっていてけからん、どんな教育うけたんだとか

センター揃えの何が悪いんでしょうねえ。
単にこの方がセンター揃えの文章になれていなくて読みづらく感じるだけだと思いますが。
なれれば読みにくさはなくなると思います。

また、センター揃えをとりあげて、「どんな教育うけたんだ」とくるあたりがすごいですね。
私も「どんな教育うけたんだ」ということはあります。
ただ、センター揃えにしているというような、どうでもいいことをとりあげて「どんな教育うけたんだ」などとは言わない。
青信号で横断歩道を渡っている人に対し、クラクションを鳴らすドライバーなんかだったら「どんな教育うけたんだ」と言いますけどね。

漢字のまちがい。無題。センター揃え。
そんなことどうでもいいでしょう。
肝心なのは、文章の内容だし、気に入らなければ読まなければいいだけの話だし。

私のブログ記事なんか読んでも、文章の冒頭、ヒトマスあけてないとか、
カタカナで書くな、漢字で書け、とか
写真たくさん貼りすぎて重い、そのくせ内容がない、とか批判されそうだな。(笑)
※写真撮るのが趣味で、別に写真ブログやってるくらいなんで、どうしてもたくさん貼りたいんだよね。
内容がないと批判するなら、どの記事のどこがどう内容がないのか批判してね。

まあーうるさ方にかかると、なんでもかんでも批判対象になるんでしょうね。
右手をあげたら「右手をあげるなんてけしからん。左手をあげろ」といい、
左手をあげたら「左手をあげるなんてけしからん。右手をあげろ」というようなことを平気でやるんですよね。
つまり、理由はどうでもよくて、とにかく批判したいんでしょう。

人間誰しもちょっとしたミスをします。
そしてミスしたことをあやまっているのに(あやまる必要もないかもですが)、それを許さずさらに批判してくる人もいます。
しかも本題はその人に対する感謝の気持ちなのに、それをばっさりと無視。

悪気があって故意にしたことでなければ「気にしなくていいよ」と言う人がほとんどだと思います。

うるさ方の人はそういうちょっとしたミスをなぜ許す・・・いや、スルーすることができないんでしょうか。
(許すというほどのことでもないね。)

自分に対して失礼なことをされた、と思われるんでしょうか。

「私を誰だとこころえる!文章の見直しもしないなんてナニゴトカー!」ってなるのかな?

うるさ方の人は、ご自身はちょっとしたミスもされないんでしょうかね?


またちょっとくらいミスがあっても、言いたい内容は伝わると思いますが、それを全く無視して、ミスした内容だけを責めてこられる。(ミスしたところしか読んでいないのかも)

うるさ方の方は、もうちょっとものごとの本質を見るようにされた方がいいと思います。

あまりに包容力がなさすぎのように感じますね。





※理由あってコメント欄はとじていますが、意見はメールフォームでうけつけていますので、よろしくお願いします。










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