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写真は真実を写さない

ある方が、エドワード・シルヴェスター・モースの写真を示して「江戸時代の子供はなぜ明るかったのか」という話をされていた。

モースの写真はこちら↓
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%B9%20%E5%86%99%E7%9C%9F%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%20%E5%AD%90%E4%BE%9B&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8#4c7e3dd7d236c4a2fac79d89c6c59c0f

モースは日本に何度かやってきているが、訪問したのは江戸時代ではなく、明治時代である。
《明治10年(1877年)から明治22年(1889年)》

揚げ足をとるつもりはないが、明治時代の写真を江戸時代の写真と勘違いしていたのだろう。

このぐらいの勘違いは誰でもしそうだが、江戸時代と明治時代の人物写真はかなりちがっていたのではないかと思う。

幕末の坂本龍馬《 天保6年(1836年)~慶応3年1(1867年)》の写真が残されているが、撮影するのに20秒から30秒かかったといわれている。

坂本龍馬肖像

坂本龍馬像

上の記事には次のように記されている。

ほとんどの赤子の顔は、大きくぶれていて、しっかり写っていない。これは、明治中期のカメラでは、20~30秒ほど撮影時間が必要だったからである。(上記記事より引用)

写真はこちら。

そこでもう一度モース《モースが日本にやってきたのは明治10年(1877年)から明治22年(1889年)》の写真をみてほしい。


この写真は20秒から30秒もかけて撮影した写真とは思えない。
笑ったまま20秒も表情を変えずにいることは難しいと思うからだ。

そこで調べてみると、ヤフー知恵袋に次のようなQ&Aがあった。

『日本で初めてブランド名のついたカメラとして有名な「チェリー手提暗函」は明治36年の発売です。このカメラのシャッターはTとIです。Iは瞬間を意味するインスタントで、言い換えれば手持ち撮影可能なシャッタースピードです。
翌年発売の「チャンピオン手提暗函」ではシャッタースピードは1/20秒から1/100秒に可変できたということです。』

http://www2f.biglobe.ne.jp/~ter-1212/sakura/cherry.htm
上の記事には確かに明治36年の発売、単玉 クロスコープ式シャッターT・I (ニッケル鏡胴)と書いてある。

http://www2f.biglobe.ne.jp/~ter-1212/sakura/champion.htm
上の記事には発売日は記されていないが、明治44年の写真機械材料目録に「5分の1、25分の1、50分の1、100分の1」と記されている。

赤ん坊がぶれて写っている写真は明治中期と書いてあるが、明治36年にはシャッタースピードが速いカメラが発売されてたのである。

これらは日本のコニカの製品だが、モースはアメリカのコダックを使っていたのではないだろうか。
おそらく、日本のカメラよりも早く、アメリカのコダックのカメラは早いシャッタースピードが切れるようになっていたのではないかと思う。

しかし、モースの写真はすばらしい。
なかなかこんな表情が引き出せるものではない。
現在でも習合写真はカメラ目線で表情の乏しい写真になりがちである。
モースの写真は、モースか助手が、なにか面白いことを言って子供たちを笑わせて撮影したのではないかと思う。

つまり何が言いたいのかというと、写真は「真実を写す」と書くが、いくらでも嘘をつけるということである。

現在のデジタル写真では合成写真を作ったり、怒った顔を笑った顔に変えたりすることも簡単にできる。
そのような技術がなかった時代においても、写真で嘘をつくテクニックはいろいろあった。

たとえ嫌なことがあって普段笑うことの少ない子供でも、何か面白いことをいって一瞬だけ笑わせておいて、
それを撮影すれば明るい雰囲気の写真になる。

なので、明るそうに笑っている子供の写真をみて、昔の子供は明るかったと決めつけるのはまちがいだといえる。




麻畑があったから麻生?


①麻畑が多かったから麻生?

ある人が、こんなことを言っておられた。
「日本には麻畑が多かった。だから、麻生、麻田という名前がある。」

⓶麻布は麻生だった。

以前の記事 トンデモもののけ辞典51 小豆はかり 追記あり  の繰り返しになるが 

東京に麻布という地名があるが、かつては阿佐布、麻生、浅府、安座部、などとも書いていたという。
「あざぶ」と入力して変換すれば「麻生」とも返還される。
「麻生」は「あそう」とよむが「あざぶ」ともよむのだ。

③麻の産地であったのはいつなのか。麻織物は誰によってつくられたのか。

麻生の地名の由来は、「麻の産地であり又麻織物が作られていたことに由来する」と言われる。
しかし、疑り深い私は「へえ、そうか」とは思わないw
麻の産地であったのはいつなのか。麻織物は誰によってつくられていたのか。
そういう具体的なことが全く不明である。
「麻の産地であり又麻織物が作られていたことに由来する」というのは、
麻布という漢字から発想されただけで、事実ではないのではないか。
そう思ってしまうのだw

④麻生は崖地

麻布の地名の由来について面白いブログ記事を見つけた。
https://baba72885.exblog.jp/15534522/

・「あざぶ」は「あさふ」でもあり、口語では「あそう」。「麻生」とも書く。                                    
・茨城県行方市麻生の隣には台地の崖を意味する「粗毛(ほぼけ)」という地名があるが、
麻生は「あぞ・ふ」で、崖地の場所を表す。
・東京港区の麻布も、台地の縁にある崖地。                               
・高山本線「下麻生駅」も飛騨川沿いのあぞ地形。                                       
・「あぞ」は「あず」と同じなので、長野県の梓川、安曇野も崖地。
・四国大歩危(おおぼけ)に「安瀬地(あぜち)歩危」という地名があったがこれも崖地。

⑤「あず」は崩れた崖をあらわす❔

知恵袋にこのような質問と回答があった。

質問者/山用語で、小豆と言うのも怖い土地を表すのですか。
麻布、麻生が崖で、小豆も地盤の弱い崩落する危険があるところなのですか。

ベストアンサー/あず、あるいは、あづ
は土砂災害の多い場所をあらわすらしいです。

質問者/梓とか、小豆島とか。
軟弱な地盤なのでしょうね。


コトバンクにはこうある。

あず【坍】〘名〙 くずれた岸。がけ。がけのくずれてあぶない所。
※万葉(8C後)一四・三五三九「安受(アズ)の上に駒をつなぎて危(あや)ほかど人妻子ろを息にわがする」https://kotobank.jp/word/%E5%9D%8D-2002019 より引用

どうやら「あず」という言葉は万葉集にもでてくる古い言葉のようである。

⑥麻布に現れた妖怪小豆はかり

『怪談老の杖』では、以下のように語られている。
その昔ある男が、麻布に住む友人の家に妖怪が出没するという話を聞いた。男は「ぜひ見たい」と言い、友人の家に泊まらせてもらった。
前述の特徴の通り部屋を静かにしていると、天井裏を踏み歩くような大きな音がし、続いてあの小豆をまくような音が聞こえてきた。音は次第に大きくなり、挙句にはその音は、一斗(約18リットル)の小豆をまくかのような大きさになった。
やがて、天井裏ではなく家の外の庭から、下駄を鳴らす音や、水をまくような音がしてきた。男はすかさず障子を開けたが、庭には誰の姿もなかったという。
この妖怪は天井から土や紙くずを落とすこともあるものの、特に悪事は働かないものなのだという。

麻布が崖地、小豆は崖が崩れて危ない場所のことである。
つまり、妖怪小豆はかりとは崖が崩れる音を擬人化した妖怪だと考えられる。
「水をまくような音」とあるが、東京の麻布は崖地で、あちこちから水がわいているという。
https://suumo.jp/town/entry/azabujuban-norihisa.minagawa/

⑦タイマという地名は大麻からくる?

そういうわけで
「日本には麻畑が多かった。だから、麻生、麻田」という名前がある。
というのは、申し訳ないがちがうのではないかと思った。

またこんなことを言う人もいる。
「タイマという地名があるのは日本にたくさん大麻が植えられていたからだ」

断間が太間になった。

これも大麻からくるかどうか、疑問に思う。


大阪府寝屋川市の淀川の近くに太間町(たいまちょう)という地名がある。
太間は淀川のほとりであり、近くには茨田堤跡の石碑もある。

茨田堤跡(寝屋川市)

茨田堤跡

日本書紀にはこんな話がある。

茨田堤をつくるとき、どうしても決壊してしまう場所が2か所あり
仁徳天皇は「武蔵の人強頸(こわくび)と河内の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の二人を生贄とせよ」
という夢を見た。
コワクビは泣きながら入水していったが、コロモコはヒョウタンを河に投げ入れ、
「本物の神ならこのヒョウタンを沈めてみろ。できなければ偽りの神だ」といった。
ヒョウタンは沈まず、コロモコは生贄にならずに済んだが、工事は成功し
コワクビの断間・コロモコの断間(タエマ)と呼ばれた。

このコロモコの断間から太間という地名ができたという伝承があるのだ。

もちろん伝承にすぎないが、ありえそうなことだなと思う。

淀川の河川敷で大麻を栽培しているのが見つかって逮捕されたという近年の事件があり、
淀川の河川敷は大麻栽培に適していたのか、ともおもえるが
太間付近で古に大麻を栽培していたという記録がでてこないと、「断間から太間に転じた」説よりも優位な説とはいいがたい。

⑨大麻比古神社は断間比古神社だった❔

徳島県に大麻比古(オオアサヒコ)神社がある。
読み方は「オオアサヒコ」だが字が大麻(タイマ)である。

栃木県の日光には二荒山(フタラサン)神社があり、その隣に日光東照宮があるが
日光(ニッコウ)とは二荒(フタラ)を音読みにしたものだろう。
とすれば、大麻(タイマ)を大麻(オオアサ)と読むということもありそうである。

実際、大麻比古神社の由緒は次のようになっている。

神武天皇の御代、天太玉命の御孫の天富命が阿波忌部氏の祖を率いて阿波国に移り住み、
麻・楮の種を播殖してこの地を開拓、麻布木綿を生産したので、天太玉命(大麻比古神)を阿波国の守護神として祀った。
(社伝)

楮(こうぞ)は紙の原料として用いられる植物である。

ただし社伝の由緒は後付けの可能性はないだろうか。

日本では語呂合わせで神格を変えることがある。
例えば柿本人麻呂は人丸ともよばれ、「火止まる」で防火の神、「人産まる」で安産の神へと神格を広げている。

断間比古だったのが、大麻比古となり、さらにタイマヒコをオオアサヒコと発音したとか、ないだろうか。


というのは、大麻比古神社の前を川がながれているのだ。
そして、このような記事が見つかった。
「 旧吉野川の板東谷川合流点上流部は、無堤地区が多いため、早急に堤防の整備を実施してほしい。」
https://www.skr.mlit.go.jp/tokushima/yoshinoriver/doc/070204_setsumei.pdf より引用(9ページ)

そしてその文言の下には地図が貼られているが、その地図の中にギリギリ大麻比古神社は入りそうだ。
(上記リンク先9p地図に坂東谷川がある。その北のあたりに大麻比古神社はある。)



上の地図と https://www.skr.mlit.go.jp/tokushima/yoshinoriver/doc/070204_setsumei.pdf (9ページ)の図を比較してほしい。

上の記事には日付がないが、平成21年という記述が記事の中にみつかる。
つまり、平成になっても 旧吉野川の板東谷川合流点上流部は、無堤地区が多かったわけだ。
無堤とは断間(切れている部分)であり、そこから断間比古神社となり、語呂合わせから大麻比古神社となったと考えられなくもないように思える。

⓾当麻皇子は断間皇子?

もうひとつ、タイマといえば、奈良にある當麻(タイマ)寺を思い出す。
開基は麻呂古王(当麻皇子)であると伝わっている。
當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族「当麻(タイマ)氏」の氏寺と考えられている。

当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられたと言われているが、
「たぎたぎしい」から「タイマ」となるのは、かなり苦しいように思える。

麻呂古王は用明天皇の第三皇子、聖徳太子の弟とされる。
用明天皇と穴穂部間人皇女の間に、聖徳太子・来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子、
用明天皇と葛城直広子の間に當麻皇子があった。
来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子・當麻皇子の誰かが麻呂子親王と名乗ったのではないかと考えられている。

坂本太郎氏の「聖徳太子」によると聖徳太子の子に「麻呂古王」と系図にあるそうである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
上記、ウィキペディアを見ても、聖徳太子の子として麻呂古王とある。
麻呂古王は聖徳太子の子であったのかもしれない。

聖徳太子の子孫は蘇我入鹿の軍に責められたとき、全員斑鳩寺で首をくくって死んだとされる。
すると麻呂古王も斑鳩寺で死んだのだろう。

聖徳太子の子孫は繁栄せず、絶えてしまった。

断間とは「切れている」という意味で「断間なく雪が降る」などと言いう風に使う。
これは「途切れることなく雪が降る」という意味である。

聖徳太子の子の麻呂古王は、聖徳太子の子孫が切れてしまった皇子、断間皇子という意味で、当麻皇子と呼ばれたのかもしれない。

當麻寺 蓮華草

當麻寺

⑪明治より麻栽培が奨励された理由は軍需品として用いるためだった。

「日本には麻畑が多かった。だから、麻生、麻田という名前がある。」と発言された方は
1929年の第16回二科展に発表された清水登之氏の「大麻収穫」の絵を紹介しながら、「日本には麻畑が多かった」と発言されていた。


この方は「大麻収穫」の絵を明治に描かれた絵、とおっしゃていたが、明治ではなく昭和4年である。

明治から大正にかけて、政府は養蚕と大麻栽培を奨励した。

吉田健作が農商務省に提出したあああああああああには、次のように記されている。

亜麻は日本でまだ耕作が少なく、原料が不足しているのに比べ、大麻はたくさん産出されている。
また、亜麻は大麻より精細な糸ができるが、それよりも大麻の海陸軍人ならびに巡査、小吏等の夏服、又は常人用服このほか帆布、鉄道荷車の覆い、敷物、日本蚊帳、畳の縁といった用途が国家にとって重要である。
結論としては、まず大麻の紡績所を設け、その後、亜麻も手がけるようにするのがよい。

こうして、1887年に北海道製麻株式会社が設立された。

大正時代から昭和初期にかけて、大麻は陸軍の軍馬の綱、海軍の艦船用ロープなど軍需品に用いられた。

この絵は軍需品に用いるために大麻を栽培しているの図ではないだろうか。

「日本には麻畑が多かった。だから、麻生、麻田という名前がある。」と発言された方は
大麻の使用法として、鼻緒、蚊帳、しめ縄、赤ちゃんの胴巻をあげておられるが、軍需品とは言っておられない。

軍需品を作るのが悪いということはなく、当事は戦争をするのが悪いという時代でもなかった。

ただ、当麻栽培が奨励されるようになったのは、明治である。

それ以前も、「麻紡績工場の設立意見書」によれば大麻は多く生産されていたようであるが
明治以降、生産量が増えたとは考えられるだろう。


中国とチベット


①固有名詞を述べないわかりにくい歴史語り


上記動画で、次の様な発言がある。

1:06
清という国がですね
〇〇帝とかそうそうたる皇帝が出てですね常に強かった時代が終わってから
100年くらいもたっておりましてね
すっかり終わった時代に今度は日本が出てきたものですから
戦争のときは日本が圧倒的に中国に強かったし
中国はですね北はロシア、南はイギリスフランス
東北部は日本というふうにですね強いところにどんどん取られましてね



申し訳ないが、この歴史の語り方は、非常にわかりにくい。
時代はいつなのか、戦争とは何戦争なのか、そういった固有名詞をはっきり述べていないからだ。
これでは友人との雑談レベルである。
人間が大量の情報を記憶できるはずはなく、多くの歴史系ユーチューバーはメモや下書きを見ながら話していると思う。
できれば、そのようにしていただければと思う。

たぶんアヘン戦争から第二次世界大戦ごろの話だと思われる。

⓶様々な民族が中国に国をつくっては滅んでいった。

中国は広大な大陸なので、多くの民族が存在している。
そして様々な民族が中国に国をつくっては滅んでいった。

宋は漢民族が建国した国だった。
しかしそのあとに起こった元はモンゴル民族、次の民は漢民族、その次の清は満州族が建国した国で、中国の広い地域を支配した。
これは中国史を語る上で抑えておくべきポイントだと思う。

③各国に領土を奪われた清

1840年 アヘン戦争 イギリスvs清 清が敗北して香港島を割譲する。
1857年、第二次アヘン戦争(アロー戦争)イギリス⁺フランスvs清
1860年、イギリス九龍半島南部の割譲を清に認めさせる。

「南はイギリスフランス」 というのは、このことを言っているのだと思われる。

1858年、アイグン条約により、黒竜江将軍管轄区と吉林将軍管轄区のうちアムール川左岸をロシアに割譲
1860年、北京条約で吉林将軍管轄区のうちウスリー川右岸をロシアに割譲(外満州)
1864年、タルバガタイ条約により、ウィグルのイシク・クル、ザイサン湖以西はロシアの領土となる。
1871年、ロシアが新疆のイリ地方を占領。
1881年、イリ条約により、イリ地方のうちコルガス川以西はロシアが併合。
1884年、カシュガル条約でパミール高原より西をロシアに割譲した。清は1884年新疆省を設置
1892年 ロシア、パミール高原に侵攻しサリコル山以西を条約無しで併合。

これが「北はロシア」

1854年、冊封国暹羅(シャム)が朝貢を廃止。
1872年、清と薩摩藩の両者に朝貢していた琉球、日本に合併される。
1884年 - 1885年、清仏戦争。清仏天津条約によって冊封国越南はフランスの植民地となる。
1886年、緬甸(ビルマ)はイギリス軍の侵略で滅亡。

1894年 - 1895年、日清戦争で清は敗北し、下関条約によって遼東半島および福建台湾省、台湾の割譲
朝鮮が自主国であることを承認させられる。
フランス共和国、ドイツ帝国、ロシア帝国「三国干渉」で日本に遼東半島返還させ、賠償金の大幅に増額させる。
清、財政悪化し、欧州列強諸国が対日賠償金への借款供与を申し出て見返りとして租借地などの権益を認めさせた。(瓜分)

満洲からモンゴル・・・ロシア
長江流域・・・・・・・イギリス
山東省・・・・・・・・ドイツ
広東省・広西省・・・・・フランス

1905年 辛亥革命、漢人による武昌での武装蜂起をきっかけにが起こった。
モンゴル独立運動(モンゴル国)。

清は内部崩壊する。(但し満洲とチベットでは蜂起が起こっていない)。

④中華民国樹立、清滅亡、満州国樹立

1910年、日本韓国を併合。

1912年、中華民国が樹立され、清朝最後の皇帝宣統帝退位。(清滅亡)

清朝滅亡後は中華民国(北京政府)が清朝領土の継承を主張。
しかし袁世凱と孫文の対立から中華民国は分裂して内戦状態。
張作霖が日本の後押しを受けて満洲を実効支配していた。

1928年北伐(中国国民党)により北京政府が崩壊し、北京政府を掌握していた張作霖が満洲に引き揚げてきたが、日本軍によって殺された。
息子・張学良は、奉天軍閥を国民政府(南京政府)に帰順させた。

1929年、日本は南京国民政府を中華民国の代表政府として正式承認した。

1931年(昭和6年)満洲事変がおこり、関東軍により満洲全土が占領される。
1932年(昭和7年)満洲国が建国され、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を元首とした。

「東北部は日本」、この満州国樹立のことを言っていると思う。
③でのべた台湾割譲について、武田氏は次のように言っているので、「東北部は日本」に入れていないと思う。
(台湾は東北でもないので)

11:33
中国人も早く完成して早く撤兵してほしいですね
今は台湾を自分の領土だなんつってますけど全然領土じゃありませんよ
清の時代が最後ですけどね中国は清の時代に日本が台湾は清のものですか
といったら、いやあれは化外地、ちがうんだとちゃんと言ってますからね

1:38
しかも自分たちを白人に寝返ってアメリカと密かに交渉してですね、そして白人側についたので
まぁ今では白い中国人などというですね、まあいえば蔑視されているわけですが


⑤中華民国と中華人民共和国

のちのち、頭がこんがらがらないように、ここで中華民国と中華人民共和国について、ざっと見ておくことにしよう。

辛亥革命で清が滅んだのち1912年に成立したのは、孫文が建国した中華民国という国だった。
しかし第二次世界大戦後に中国共産党と国民党が対立した。
1949年、中国共産党の毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した。、
同年、蔣介石率いる中華民国政府は台湾に亡命しそのまま中華民国であり続けた。
つまり、中華民国が第二次世界大戦後に、中華人民共和国と中華民国に分裂した、といってもいいだろう。

⑥日中戦争

1912年、中華民国が樹立され、清朝最後の皇帝宣統帝退位。(清滅亡)
1931年(昭和6年)満洲事変がおこり、関東軍により満洲全土が占領される。
1932年(昭和7年)満洲国が建国され、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を元首とした。
1937年7月7日、盧溝橋事件が発端となり、日中戦争がおこる。

当事、日本はアメリカからの軍需物資を輸入していた。
宣戦布告をして国際法に則った戦争となれば、アメリカが中立を宣言して軍需物資の輸出を止める可能性があった。
それを危惧したが日本は、宣戦布告をせずに日中戦争を始めた。
アメリカも、日本との関係悪化は望んでいなかった。

1938年11月、日本が東亜新秩序声明を発した。
東亜新秩序声明とは、政治・経済・文化などにわたる日・満・華の互助連関の樹立をめざすという内容であった。

日本から見れば「政治・経済・文化などにわたる日・満・華の互助連関の樹立」だが
中華民国からみれば、「満州国を作った日本の侵略行為の正当化」であっただろう。

また、アメリカはこれを東アジアからの欧米勢力の排除とみなした。
1940年7月、日米通商航海条約の廃棄を通告。

南部仏印進駐(日本軍がベトナム南部に進駐した事件)が開始されると、
対日石油輸出を全面禁止し、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中国(China)・オランダ(Dutchland)によるABCD包囲陣で対日経済封鎖を行う。

1941年11月26日、アメリカ、ハル=ノートを提示。
日本に満州事変以前の状態に戻せとの内容。

1943年にイタリアが無条件降伏。
1945年5月にドイツが無条件降伏。
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾。

⑦ポツダム宣言

1945年(昭和20年)7月17日から8月2日
ベルリン郊外ポツダムにおいて、英国、米国、ソ連の3カ国の首脳が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合った(ポツダム会談)。

ポツダム宣言は、この会談の期間中、イギリスのチャーチル首相・中華民国の蔣介石国民政府主席・アメリカのトルーマン大統領の3首脳連名で日本に対して発せられた降伏勧告。

ソ連は署名していない。

1:38 自分たちは白人に寝返ってアメリカと密かに交渉してですね、そして白人側についたので」

という発言は、日本の東亜新秩序声明(1938)をけり、ABCD包囲陣(1940)、ポツダム会談(1945)を行ったことを言っているのだろうか。

しかし、その前に、満州国を建国(1932)、日中戦争(1937)がある。
中国を擁護するつもりはなく、どちらが悪いというつもりはないが
実際行われたことをみると、アメリカに寝返ったとか、白人側についたとは言えない。

もう一度おさらいしておこう。
日本が満州国を作り、日中戦争が起こった。
日本は東亜新秩序声明を発した。
これらに中国は抵抗し、アメリカは日本による東アジアからの欧米勢力の排除とみなした。
中国とアメリカは利害が一致し、ABCD包囲陣で対日経済封鎖を行うなどした。

⑧「白い中国人」の意味

1:45
そして白人側についたのでまぁ今では白い中国人などというですね
まあ蔑視されているわけですがやはり中国もですねまぁそういう名誉ない国の呼ばれ方ではなくて

「白い中国人」という言葉は検索してもでてこない。
それで知人に聞いたところ、次のように教えてくださった。

「白い中国人」とは、社会主義革命で赤軍(労働者農民赤軍)に対抗して戦った白軍(反共産主義)の中国人を指す政治用語であると。

しかし「白人側についたのでまぁ今では白い中国人などというですね、まあ蔑視されているわけですが」
と言っているので、武田さんは、「白い中国人」を「白人側に寝返った中国人」という意味で用いていると思う。

武田さんの造語、もしくは言葉の誤用ということになるのではないだろうか。

⑨チベットは独立どころか、虐殺・拷問が行われている?

チベットっていうのは占領地ですね。
チベットていうのは非常に立派な国で、日本と同じようにほぼ憲法9条みたいなこと書いてある
憲法を守ってますねえ
国を守るのは武力じゃない仏教だとまあいってた国なんですね
4:49
ところがやっぱり中共軍がね中国共産党軍が侵攻してくると
たちまち仏教の軍隊なんてほとんどいませんから蹴散らされて女の人はみんな後ろ手に
縛られて晒し者になるとそういうことになっちゃった
それ1949年ですけど戦争が終わった後ですね
だから私がアジア独立の時代っていうのはまあ区分として難しいんですが
1850年くらいから1970年くらいっていう風に設定してもいいかなっていうのはですね
やはり日本が戦争が終わった1945年以降ですね
やはりこういう問題がいっぱいあったっていうことなんですよ



1905年、清、チベットに侵攻
1910年、ダライ・ラマ13世はインドへ亡命
1911年、辛亥革命
1912年に中華民国がおこり、中華民国が成立、清朝は崩壊した。中華民国、清の領土をそのまま引き継ぐことを宣言する。
1913年、チベット・ラサを奪還して独立を宣言する。イギリスなどから独立国として承認される。
ダライ・ラマ13世ラサに戻り、中国人のチベット植民地化を批判。
1913年、清からの独立を相互承認し、安全保障協力を定めたチベット・モンゴル相互承認条約(蒙蔵条約)を締結。
1930年、ベリの寺院とデルゲの寺院で抗争が発生。そこに中華民国軍とラサの軍が介入。
1932年9月、ダライラマ13世は、長江を国境とし、中国の宗主権を認めることに合意。
1933年11月にダライ・ラマ13世が死去
1934年~1935年、チベット人人民共和国が設立されたが、すぐに解体。
1940年2月22日、ダライ・ラマ14世即位。
1947年、チベット使節団をインド、デリーで行われたアジア会議に送り、独立国家を表明した。
1949年、国共内戦で中華民国に勝利した中国共産党が中国を掌握。
チベット政府、中国政府とつながりのある中国人を国外追放する。
1949年6月11日にパンチェン・ラマ10世がパンチェン・ラマ9世の転生として中国国民党政府の承認を受け即位した。
1950年1月、中国共産党政府、新中国政府によるチベット駐留を要求。
1950年10月、人民解放軍はチベットのカムドに進攻し、チベット軍を破る(チャムドの戦い)。
1951年に中国軍はチベット全土を制圧。
十七か条協定。チベットにおける中国の主権を定める。
チベットは中華人民共和国の支配下に。

武田さんは
「たちまち仏教の軍隊なんてほとんどいませんから蹴散らされて女の人はみんな後ろ手に
縛られて晒し者になるとそういうことになっちゃった。それ1949年ですけど」
とおっしゃってその後、独立の時代を「1850年くらいから1970年くらい」とされているが、
チベットの独立はいまだ実現していない。
それどころか、大量虐殺、拷問などが行われているというような記述がウィキペディア「チベット」には記されている。


1952年-1958年、カンロの虐殺 10,000人が虐殺される。
1956年末、第1次蜂起。20,000人が虐殺、20,000人逮捕される
1957年、5,500人を虐殺。
1958年3月から8月、チベット人130,000人による反乱。110,000人が虐殺される。
青海省におけるチベット人・モンゴル人の遊牧民50,000人を逮捕。
逮捕者の84%にあたる45,000人が誤認逮捕。拘留中に23,260人が死亡、誤って殺害されたものが173人。
宗教・民族分子259人、民族幹部480人が死亡。
1959年、チベット動乱。ダライ・ラマ14世インドへ亡命し、チベット亡命政府を立てた。
1959年、ラサ蜂起。10,000人-15,000人のラサ市民が死亡。
1959年3月~1962年3月、中央チベットの大虐殺 93,000人が虐殺される。
1966年、チベットにおける文化大革命。寺院の破壊と略奪。チベット的なもの、仏像や宗教文献が破壊された。
宗教上の祭礼や習慣は禁止、伝統的な歌謡、民族衣装、伝統的な髪型の禁止。チベット語の禁止。

1970年、中国は、ツァイダム盆地にDF-4ミサイル発射用地を完成させ、核ミサイルを配備した。
1983年、中国とチベット亡命政府との和平会談決裂。ラサだけで750人が政治犯として刑務所に収容された。
1987年9月21日、ダライ・ラマ14世はアメリカ議会で演説を行い、「五項目和平プラン」を提示する。
・チベット全土を平和地帯とすること。
・民族としてのチベット人の存在を危うくする中国人の大量移住政策の放棄。
・チベット人の基本的人権と民主主義自由の尊重。
・チベットの環境の回復と保護。中国がチベットを核兵器製造及び核廃棄物処分の場所として使用することの禁止。
・将来のチベットの地位、並びにチベット人と中国人の関係についての真摯な交渉の開始。
中国政府はダライラマを分離主義者として非難し、アメリカ政府へ抗議。
1987年9月27日、ジョカン寺でデモ。中国武装警察が発砲し、死者がでる。

欧州議会は1987年10月14日に中国によるチベット人の人権抑圧非難決議を決定する。

1988年2月末、ラサで大祈祷法会。武装警察は催涙ガスを撒き、多数の僧侶が連行される。
3月6日2500人のチベット人が逮捕され、拷問される。

1989年1月24日にパンチェンラマ10世、中国政府を非難した。その4日後死去。暗殺説もあり。

1989年3月7日、胡錦濤はラサに戒厳令を布告する。会合、行進、陳情、請願、集会の禁止。
武装警察によるチベット人への暴行。400人が虐殺され、数千人が負傷。3000人が逮捕された。

1989年3月15日、欧州議会は中国によるチベット人抑圧について非難決議を決定。

1989年4月21日、共産党の腐敗と民主化を訴えたデモとストライキ。10万人を超える。
1989年5月23日、デモは100万人規模に。
1989年6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国軍が発砲、デモ隊を鎮圧する。死者数千か。

西側諸国は中国に対して経済制裁を実施。G7 による対中首脳会議の停止、武器輸出の禁止、世界銀行による中国への融資の停止、日本からの対中借款停止。

1989年10月、亡命中のダライラマ14世がノーベル平和賞を受賞。
「独立」にかわり「真の自治」を求めることで妥協をはかる ストラスブール提案。
中国はこれに抗議する。

欧州議会は1990年4月25日に非難決議を採択。

1993年5月24日には1万人以上の大規模なデモ行進、中共軍によって武力鎮圧された。

1998年、国際連合人権高等弁務官メアリー・ロビンソンがチベットを訪問した。

中国はチベット地域にチベット側に合意をととらず核廃棄物処理場や核ミサイル基地建設を進めてきた。
1984年、60億ドルでヨーロッパの原子炉の4千トンの放射性廃棄物をひきとりゴビ砂漠に保管。
1991年、米国メリーランド州バルチモア市の下水汚物2万トンが中国に144万米ドルで輸出された。
廃棄物の汚染の危険性が抗議され、チベットへの汚物輸送は中止される。
1993年 、リシュイとガンズィ近辺で病気の発生率が異常に高いという報告があり、核基地付近で放牧していた遊牧民の子供たちのうち7人がガンで死亡。

2008年3月、2008年のチベット騒乱。チベット全土で反中国のデモが起き、中国の警察によって制圧された。
2010年10月19日に、中国チベット族治州同仁県で、チベット民族の高校生、5千〜9千人が、六つの高校から合流してデモ行進し、地元政府役場前に、「民族文化の平等」を要求した。

2011年11月3日、米国務省は同年11月4日、チベット族僧侶らの焼身自殺に懸念を表明し、中国政府にチベット政策を改めるよう要求。







イギリス病と論理性を欠く「反自虐史観」

1⃣イギリスと日本の自虐史観についての記事

という記事がある。

内容を簡単にまとめてみる。

➀1960〜1970年代、イギリスの左派政党・労働党が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンとした高度な社会福祉路線の実施・国有化による産業保護政策を行った。
そのその結果、国内製造業の設備投資は減退、資本は海外へ流出、、国有企業は経営改善努力をしなくなって国際競争力を失った。

⓶経済政策の失敗が原因だが、左派勢力によるゆがんだ教育政策も一因だった。

③当時のイギリスは、自虐史観教育が蔓延し、子どもたちの深刻な学力低下を招いていた。
若者は国に誇りを持てず無気力になっていた。

④当時の教科書には「イギリス人が植民地時代に行ったことがいかに惨酷であるか」とか、「人種差別を行っていた」という内容が記されていた。

⑤イギリスの日教組ともいえる「教師労働者連盟」は、自国の歴史や伝統を否定する教育を推し進めたが、左派の労働党が政権を維持するための選挙戦略。

⑥1979年、保守党が政権を奪回し、サッチャーが首相となり
国有企業の民営化、税制改革、規制緩和、労働組合の弱体化などの政策を推し進め、経済を成長させた。

⑦サッチャーは1988年、「教育改革法」で、「教育水準の向上」と「自虐的偏向教育の是正」を行った。

⑨日本の教育も「自虐史観教育」である。

⓾日本は戦後GHQによってWGIP(日本人洗脳プログラム)を作成し、「日本は侵略国家である」という洗脳をする”自虐史観教育”が行った。
日教組が中心的役割を担った。

⑪プレスコード(報道禁止項目)
SCAP(連合国司令官、もしくは総司令部)に対する批判
極東軍事裁判への批判
GHQが日本国憲法を起草したことへの批判
検閲制度への言及
アメリカ合衆国への批判
ロシアへへの批判
英国への批判
朝鮮への批判
中国への批判
大東亜共栄圏への宣伝
解禁されていない報道の公表
占領軍兵士と日本女性との交渉
※30項目のうち一部抜粋

⑫プレスコードの中に中国、韓国に対して批判をしてはならないという項目がある。
迷惑をかけた国なのだから「反論せずすべてを受け入れろ」ということ。
結果、ありもしない南京大虐殺、慰安婦問題、徴用工問題などを受け入れることになった。

⑬日本は奇跡の復興を成し遂げたが(高度成長したということだろう。)
日本人としてのアイデンティティーを確立するために、第一次安倍内閣の下で戦後レジームからの脱却を目指すとする方針が打ちだされた。
2007年、教育改革3法案をに成立させ、我が国と郷土を愛する(愛国心)心をはぐくむ教育への転換がはかられた。
これをきっかけに日教組による偏向教育が徐々に影を薄めていった。

2⃣英国が教育改革を行ったのは、イギリス病を克服するため

イギリス病についてウィキペディア「英国病」を読んでみたが、➀とほぼ同様の内容が記されている。

英国病(えいこくびょう、英語: British disease)またはイギリス病とは、国を挙げてセカンダリー・バンキングへ傾注した1960年代以降のイギリスにおいて、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策が実施され、社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下[1]、既得権益の発生[2]、およびその他の経済・社会的な問題を発生させた現象である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E7%97%85 より引用

しかし、自虐史観については、一切ふれられていない。

そうではあるが、英国が教育改革を行ったのは、イギリス病を克服するためだという記事はあった。

file:///C:/Users/FUJITSU/Downloads/TAESS_23-1.pdf

上の記事では
英国の教育改革は,「英国病Jともいわれた英国の経済的低迷からの脱却を意図して開始された行政改革に直接的な起源をもつものである。

「英国における学校歴史の改革について 野 口 剛」 より引用

と記されている。

3⃣イギリスの歴史教科書はどのように変わったのか、わからない。

ものごとは具体的に述べるべきである。
しかし、自虐史観と呼ぶイギリスの歴史教科書の具体的な内容がわからない。

④当時の教科書には「イギリス人が植民地時代に行ったことがいかに惨酷であるか」とか、「人種差別を行っていた」という内容が記されていた。

これでは具体的とはいえないだろう。
実際の教科書の内容を引用する必用があると思う。

ネットを検索してみたのだが、他にはこういう記事があっただけだった。

「人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか』と題するその教科書は、イギリス植民地支配の残虐性とその犠牲となった有色人種(アジア、アフリカ、中南米)の人々の悲劇をグロテスクなイラストで強調する一方、イギリスを「人種差別に満ちた侵略国家」と非難し、イギリスのアイデンティティに深くかかわる国旗、キリスト教、君主制に対する
激しい憎悪を煽るものでした。


これも具体的とは言い難い。教科書の記述を正しく引用するべきだと思う。

さらに問題なのは、教科書の書き換えが行われて、どのような内容になったのかについて、全く述べられていないことだ。
これでは判断できない。

4⃣戦前の新聞紙法、戦後のプレスコード、どちらも言論統制だった。

1⃣-⑪でプレスコードについて述べられているが、こういうものがあったのは事実で
漫画「はだしのゲン/中沢啓治(汐文社)では、「アメリカは原爆の報道を制限し、原爆犯罪をかくした」というような内容が述べられている。

プレスコードとは、終戦後1945年よりGHQが行った言論統制であり、検閲が実行された。
その結果GHQ批判、原爆に対する記事などが発禁処分とされた。
昭和27年(1952年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により失効している。

 いまから75年前の8月に、広島と長崎を破壊し尽くした原爆。ハーシーとショーンはアメリカ政府が情報操作を行い、新型爆弾が人間に与えた苦しみを隠蔽しているのではないかとにらんでいた。

日本から送られてくる写真には倒壊した建物や焼け野原の町は映っていたが、犠牲者、とりわけ放射線障害についてはほとんど何も伝わってこなかったのだ。

米政府は被爆地への出入りを制限。陸軍省はアメリカの報道機関に対して内々に、原爆の核兵器としての側面を大きく伝えないよう要請していた。

放射線による甚大な被害がアメリカ以外のジャーナリストや日本の当局者から漏れるたび、政府はプロパガンダとして一蹴した。ある将校に至っては、被曝による死は「非常に快適な死に方」だと議会で証言した。

https://courrier.jp/news/archives/209821/ より引用

⑫プレスコードの中に中国、韓国に対して批判をしてはならないという項目がある。
迷惑をかけた国なのだから「反論せずすべてを受け入れろ」ということ。
結果、ありもしない南京大虐殺、慰安婦問題、徴用工問題などを受け入れることになった。

とある。

簡単にプレスコードが原因で、南京大虐殺、慰安婦問題、徴用工問題などが受け入れさせられた、といっているが
こういう問題については「なぜこれらがなかったのか」と説明する必用がある。
この説明では全く説明不足だ。

正しいか正しくないかはさておき、南京大虐殺、慰安婦問題、徴用工問題などの諸問題について、「日本側に責任があったのではないか」といった意見もある。
この記事は、そのような人に対してあまりにも簡単に「自虐史観」というレッテルをはっているに等しい。
その理由は、これらの諸問題について、「なせこれらがなかったのか」という丁寧な説明を欠いているからである。

プレスコードが言論統制であったのは間違いないが、戦前の日本に新聞紙法があったことも忘れてはいけない。

新聞紙法は戦前の日本で制定された、日刊新聞および定期刊行雑誌を規制する法律である。
警察が新聞報道の内容をチェックし、違反すると発刊を停止した。
1940年には、軍部が主導権をもつ内閣情報局が検閲を行うようになった。
つまり、戦争反対や軍部に都合の悪い内容、天皇制に対する批判などは検閲されて、発禁になったということである。

「表現の自由」について述べる場合、プレスコードだけではなく、新聞紙法についても述べるべきである。

5⃣日本起源説

自虐史観への反発がいきすぎて、一部の右寄り論者によって日本起源説が作られようとしている。
稲作が日本で始まったとか、最初の人類は日本で生まれた、などがそれである。

YouTubeに「縄文時代に始まった稲作」という動画があり、次のように説明しておられる。

4:35
日本はもともと亜熱帯だった。~略~
稲はもともと熱帯植物で、熱帯は雨季と乾季がある
それを人工的に演出したものが水田なんですよね
その亜熱帯だった地方がだんだん温帯になってくることによって四季が生まれる
雨季と乾季はなくなっちゃいますから代わりに人工的に雨季と乾季を演出しなくちゃいけない
ということはそれはもう古い昔から亜熱帯からだんだん変化していった時代の中で
自然とこういうものが生まれてきたというのが出た方が自然だと思いますよね

これは稲作は日本で自然にうまれてきたという意味だろう。

しかし考古学的には、中国の長江(揚子江)下流の上山遺跡(浙江省浦江)から、約1万年前の世界最古の栽培稲のもみ殻が見つかっており、野生種より長さが短く、幅が太い栽培稲の特徴を持っており、長江流域が稲作発祥の地だと考えられている。

日本で見つかっているのは1万2000年前とか、6000年前の稲のプラントオパールである。
プラントオパールは小さく風で飛んできたり、下の地層に入り込むなどすることもあるので
日本だけでなく、中国でも、どこででも、プラントオパールの存在をもって稲作の存在があったとは考えられていない。


2:56
稲作ですねこれもあの中国の歴史の捏造によって、
日本人が違うことを考えているんですが
稲は弥生時代に大陸から渡ったと
これどうしてこういう話になっているかと言うと
黄河文明が先に出来たので日本はその頃文明がないと
だから弥生時代になってやっと紀元前3000年くらいで稲作が伝わったと
それと共に弥生人というのはきたと
ところがいろいろな研究によると稲作はもうずっとずっと前の8000年ぐらいまで
今さかのぼれるのかな
縄文時代に十分に作っていることと中国と種が違うわけですね
つまり、稲作は8000年前に中国とは関係なく日本で始まった。

「中国と種が違う。」についてだが、稲はインディカとジャポニカの2種類ある。
さらにジャポニカは温帯ジャポニカ(水稲)と、熱帯ジャポニカ(陸稲)の2種類がある。
中国で90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。
現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類
RM1-b が日本の稲と中国の稲で共通している。

「(日本の)稲作が8000年ぐらいまでさかのぼれる」については、ある自称歴史研究家が菜畑遺跡を7000年前と発言したことをまにうけ、さらに1000年上乗せして古くしてしまっているのだと思う。
(参照 菜畑遺跡は7000年前の遺跡ではない )
この自称歴史研究家は水田跡が発見されている菜畑遺跡を7000年前といっているが間違いで、約2500~2600年前の遺跡である。

考古学の発見を無視したり、誤った認識で日本が稲作発祥の地であるとし
「稲作発祥の地が中国であるという考古学的見解はまちがいである。」とやるのはどう考えてもおかしい。

稲作を中国発祥とするのは、自虐史観ではなく、すでにのべたようなちゃんとした理由があるのだ。

そのほかにも、「日本人が最初の人類である」という内容を述べている動画もあった。
人類の発祥はアフリカであるとし、大陸を通らずに日本に人類が到達したと説明していて、
そうであれば、最初の人類はアフリカとなるのだが、なぜ日本人が最初の人類となるのかわからない。

動画主らは、保守が作り出した自虐史観という言葉を利用して、誤った内容を事実であるかのように拡散しているのである。

これでは韓国起原説を笑えない。

枚方市 穗谷 稲

6⃣教育3法案についての批判


1⃣-⑬に「2007年、教育改革3法案をに成立させ、我が国と郷土を愛する(愛国心)心をはぐくむ教育への転換がはかられた。」とある。

この教育改革3法案について、以下のような批判があるようである。

❶ 旧教育基本法では
「教育は,真理の開明と人格の完成とを期して行われなければならない.従来,わが国の教育は,ややもすればこ
の自覚と反省とにかけるところがあり,とくに真の科学的精神と宗教的情操とが軽んぜられ,徳育が形式に流れ,教
育は自主性を失い,ついに軍国主義的,又は極端な国家主義的傾向をとるに至った.この過りを是正するためには教
育を根本的に刷新しなければならない.」

となっていた。ところが、新教育基本法では次のようにかえられた。

「我々日本国民は,たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに,世界の平
和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである.」

これについて、日本は昔から民主主義であったようによめる。
しかし日本が民主主義国家になったのは1945年の敗戦後、GHQ管理下からなので、誤解を与える。

❷新教育基本法には次のようにある。
「我々は,個人の尊厳を重んじ,真理と正義を希求し,公共の精神を尊び,豊かな人間性と創造性を備えた人間の
育成を期するとともに,伝統を継承し,新しい文化の創造を目指す教育を推進する.」
「伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和
と発展に寄与する態度を養う.」

「公共の精神」日本の伝統と文化」「愛国心・郷土愛」は、反日的な教育を行うべきではないとの意味でもりこまれているのだろうが、いきすぎると国家至上主義になる。

❸第 10 条(家庭教育)規定
この規定を果たすことのできない保護者を持った子供もいる。
そういう子供に対しては国が救うべきであるのに、それを放棄して教育責任を親に押し付けている

❹財政的な保障を明記した規定がない。

❺新教育基本法には平和の強調がない.

1⃣-⑫で、「日教組による偏向教育」とあるが、これも具体性を欠いているため、何をもって偏向教育といっているのかわからない。
日教組を擁護するつもりはないが、教育改革3法案にも上にあげたような不安がある。





宮内庁管理下の陵墓について

ナガレ山古墳

ナガレ山古墳

➀宮内庁管理の陵墓は江戸~明治期に定められたものだった。

天皇・皇后・皇太后・太皇太后を葬った(とされている)場所のことを陵、その他の皇族を葬った場所のことを墓といい、
宮内庁によって管理されている。

これらの陵墓の数は459箇所あるが、古より管理され続けられてきたものは少なく、ほとんどが江戸・明治期に定められたものである。
これらが治定されたのは、そのころ、尊王思想の気運が高まっていたためだと考えられている。

文久2年、宇都宮藩の提案によって「文久の修陵」が始められた。
このころ、古い時代の陵墓は所在地がわからなくなっていたものが多数あった。
「天皇陵かも?」と伝承されていた場所はあったのだが、畑にされるなどして利用されていた。

天皇陵ではないが、奈良県天理市の山辺の道にある灯籠山古墳は、前方部が墓地、後円部が果樹園となっている。
天皇陵もそんな風に荒れ果てていたものと思われる。

「文久の修陵」では、そのような荒れ果てた古墳を禁足地、聖地に変えた。

⓶発掘調査の結果、文武天皇陵は栗原塚穴古墳ではなく、中尾山古墳が濃厚に。

このたくさんある陵墓は、本当に皇族を葬った墓なのだろうか。
先ほども書いたように、古より管理され続けられてきた陵墓は少なく、ほとんどが江戸・明治期に定められたものである。そして、当事は考古学が発展していなかったので、記紀の記述や言い伝えなどにもとづいてきめたのだという。

たとえば、宮内庁は栗原塚穴古墳を文武天皇陵としているが、学術的には中尾山古墳が文武天皇陵であることが有力視されている。

その理由は、中尾山古墳を発掘調査したところ、次のようなことがわかったためである。
・8世紀初頭頃の築造と推定されること(文武天皇崩御は 707年)
・天皇陵級の古墳に見られる八角墳であること
・火葬墓(火葬墳)であること(文武天皇は火葬されたと続日本紀に記述がある。)

宮内庁が栗原塚穴古墳を文武陵とした理由についてもみておこう。
栗原塚穴古墳の近くに「アントク」という地名があり、「アンコウ山」と記されているのは
「檜隈安古岡上陵」の「安古」が訛って「アントク」になったのではないか
というのがその理由である。

アンコ→アンコウまではわかるが、アントクにつなげるのはかなり厳しい。

上で説明した考古学の調査と、かなりむりくり感のある地名の語呂合わせの結果のどちらが信憑性があるだろうか?

ちなみに栗原塚穴古墳はアンドクの北東の塚穴という場所にあり、破壊されて畑とされていたのを
文武天皇陵とさだめ、元治元(1864)年に復元工事が行われた。

③継体天皇陵は太田茶臼山古墳ではなく今城塚古墳が濃厚。

継体天皇陵は大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳に治定されていて、宮内庁管理下にあるが
1972年(昭和47年)・1988年(昭和63年)に周濠外側での発掘調査、2002年度(平成14年度)に墳丘裾部での発掘調査などが行われている。

太田茶臼山古墳は出土した埴輪から5世紀中ごろ(450年頃)に築造されたと考えられている。
ところが継体天皇の没年は 531年?とされていて時代が合わないのだ。

それどころか、所在地も史書の記述と食い違っている。

古事記・・・・・三島之藍陵
日本書紀・・・・藍野陵
延喜式・・・・・三嶋藍野陵 摂津国島上郡 兆域東西3町・南北3町。
諸陵雑事注文(1200年)・・・摂津島上郡継体天皇

元禄9年(1696年)に松下見林の『前王廟陵記』は、太田茶臼山古墳を継体天皇陵ではないかとし
享保17年(1732年)までに太田茶臼山古墳が継体天皇陵と治定された。

太田茶臼山古墳は島下郡であり、延喜式にある島上郡ではないため、
本居宣長は島上郡島下郡の郡界が移動したと考えた。

大正のころより、郡界の移動は無く島上郡の郡域にある今城塚古墳が継体天皇陵ではないかという説が登場した。
今城塚古墳の築造年代は6世紀前半であり、継体天皇の没年は 531年?なので時代的にもあう。

今城塚古墳(6世紀前半頃)は宮内庁管理課の陵墓ではないので、発掘調査も行われた。

墳丘の荒廃が著しく、1568年(永禄11年)の織田信長の摂津侵攻のとき、城砦として築いたのではないかという説があった。
しかし、発掘調査の結果、1596年(慶長元年)の伏見大地震によって墳丘が地すべり性の崩壊を起こしたものという説が濃厚。

1596年 慶長伏見地震による古墳の地すべり

かつて今城塚古墳は剣菱形だと考えられていたが、地滑りによって生じた滑落部分であり
もともとは前方後円墳だったと考えられている。

④本当に皇族が葬られた陵墓なのか、という問題を無視

という記事がある。

皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。学者たちがお墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。曽祖父様が皆さんと血がつながってないと分かったとして、迷惑なだけじゃありませんか。調査など、余計なお世話でしょ、という説明だ。
https://www.news-postseven.com/archives/20190909_1448490.html?DETAIL より引用

迷惑であり余計なお世話であるにもかかわらず、学者たちが調査したがる根拠は何か。「知の特権」である。「知」は何をやっても許されるという特権である。ジャーナリズムの報道もその一つだ。しばしば問題になる犯罪被害者の報道はその好例である。被害者は「知」られたくないのだ。

この方の話には欠落している点がいくつかある。

❶この方は「本当に皇族が葬られた墓なのか」という問題について一言も述べておられず
「天皇陵であることが間違いがない」とミスリードしているように思える。
すでに説明したように、天皇陵は江戸時代~明治時代にいい加減に治定したものである。
天皇陵というが、他人の先祖の墓かもしれないし、学術的にそれが判明している例も数例ある。
決史八代といって存在しないかもしれないと考えられている天皇や、神代の神三柱の陵も陵墓としている。
なにかの権利を主張する場合には、根拠を示す必要があるはずだ。
天皇陵と主張するのであれば、きちっと調査をした上で、学術的にも天皇陵といってほぼまちがいないといいう根拠を示す必要があるのではないだろうか。
全く天皇家とは関係のない人の古墳を、天皇家の墓としている例が多数ありそうである。
自分の先祖の墓を、天皇陵と偽られて不快に思う人もあるだろう。
そういう人の気持ちを無視しても、いいのだろうか。

❷「古墳調査の是非論」というタイトルは不適切で、「宮内庁管理下の陵墓調査の是非論」と書くべき。
「古墳」には宮内庁が管理していないものもあり、それらは発掘調査されているからだ。

❸「皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。学者たちがお墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。」と問うのも例として不適切だ。

全ての古墳の発掘調査を禁止すべきという主張であれば、「皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。」と問うのでは適切だといえるかもしれないが
発掘調査が禁止されているのは、宮内庁管理下の陵墓のみ、つまり天皇家に関係すると考えられている陵墓のみであり
この記事の筆者が問題にしているのも宮内庁管理下の陵墓だけである。

❹「お墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。」という表現もやや感情的だ。
遺体がでてくれば遺骨の寸法を計ったり化学分析されるだろう。
高松塚古墳、キトラ古墳からは遺骨が発見され、調査の結果、性別、年齢などが推定された。
しかし、そのときにこの筆者は「なんてひどいことをするんだ。」と声をあげたのだろうか。
たぶんされていないのではないだろうか。
結局、天皇家という権威のある家柄の陵墓についてのみ問題視しているわけで、
そうであるのに民間人のケースを例として出すのは不適切である。

❺「皆さんの家のお墓について考えてみて下さい。学者たちがお墓を掘り返して、遺体か遺骨の寸法を計ったり化学分析したりして、それが嬉しいですか。」
これが適切でないといえる理由はほかにもある。

中には先祖のはっきりしている家柄もあるが、多くの人は何代も前の先祖のことを知らないはずである。
せいぜい7~8代前の先祖がわかっているという程度ではないかと思う。
ましてや中世など古い時代の墓を守り続けている家というのは数えるほどしかないと思う。
天皇家ですら、江戸時代には先祖代々の墓がわからなくなっていたのである。

宮内庁管理下にある陵墓でも近年のものは被葬者もはっきりしているし、発掘調査はのぞまれていない。
発掘調査が望まれているのは、古い時代のものである。

つまり、7~8代までの先祖までしか遡れない一般人の墓と、神代まで遡って治定されている天皇家の陵墓を同列には語れないということである。

⑤「知の特権」と「人権」の対立ではなく、「科学」と「宗教」の対立

この記事の筆者は、『「知の特権」と「人権」の対立』と書いておられるが、
「知の特権」という言葉に、「知」とは「知りたいことは何でも知ることができるという傲慢な態度」と考えておられることがうかがえる。

そして「人権」と書いておられるが、古墳の調査を阻むのは権利とはいえない。
何度も繰り返すが、権利を主張するためには、それが天皇家のものであるという証明が必要ではないか。
しかし、その証明ができていないのだ。
その証明のためには、発掘調査がかかせない。
証明できないものを、権利として主張できないと思うのだ。

さらに誰の「人権」なのかということが明確にされていない。
皇族の人権にきまっているじゃないか、といわれるかもしれないが、
皇族の人権であるというのならば、皇族の方々に意見を聞いてみなければいけない。
皇族の方々が発掘調査に反対であるとは限らないのだ。

しかし、皇族の方々にこれについての意見をいう権利はあるのだろうか。
天皇は政治的行為を禁止されている。もちろん政治的な発言はしてはいけないということになっている。
発掘調査は学問的な問題だが、過去の天皇は長らく政治と関係をもってきた。
発掘調査が行われて、万が一歴史の新事実が解明したとすると、それによって政治的イデオロギーに影響を与えかねない。
天皇は、発掘調査についての希望を述べることはできないだろう。

するとこの文章で書かれている「人権」とは誰の人権なのか、という疑問が生じる。
もしかして、宮内庁職員の人権だろうかw
陵墓は宮内庁職員の所有物ではないはずなのだが。

以上のように、宮内庁管理下の陵墓の発掘調査の是非を『「知の特権」と「人権」の対立』というのは、適切ではない。
『「信仰」と「科学」の対立』といったほうが適切ではないか。

考古学は人文科学であって自然科学ではないとし、『「信仰」と「科学」の対立』についてぶーぶー言う人がいる。
人文科学の中に文学がはいっているじゃないか、というのだ。

私も文学を科学というのは抵抗はあるので、外した方がいいと思うが
歴史学や考古学は、文学のように何も制約のない中で自由に想像を膨らませてもいい学問ではない。

歴史学ならば史料に基づいて行うが、複数の史料を突き合わせたり、遺物と照合したりして、
矛盾点があれば、どのように考えれば合理的に説明できるのか、などについて考える。

考古学の実例については簡単にではあるが、⓶③に記した。

歴史学や考古学は自然科学と違って再現性がないが、
史料や遺物に基づいて論理的に過去を研究するという点で科学といっていいように思う。

しかし、ぐだぐだ言われないように、こういっておこう。
「真実でなくてもいい」か「真実を追求するべきか(真実である、といっているのではない。新しい発見。より論理的な説明があれば訂正されうる)」の対立。

江戸時代から明治にかけて適当に決めた陵墓であるにもかかわらず、発掘調査をして確認しようともしないのは
「真実でなくてもいい」と思っているからだ。

発掘調査するべきというのは「真実を追求するべき」と考えているからである。

どちらがいいとは一概にはいえない。





一般人よりも軍人・役人・満鉄社員の家族の避難・引揚げが優先された?


葫芦島から引き揚げる日本人

葫芦島から引き揚げる日本人

一般人よりも軍人・役人・満鉄社員の家族の避難・引揚げが優先された?

満州の首都「新京」(現 長春)では、市民の避難を優先させる手はずになっていましたが、緊急行動に慣れている軍人の家族をとりあえず先に避難させることになりました。

しかし軍人の家族優先が既定路線となってしまい、汽車に乗り込もうとする一般市民は憲兵に追い払われるようになってしまいました。

8月11日正午までに避難できた者は、新京在住約14万人のうち約3万8千人。そのうち軍関係家族が約2万310人、大使館等役人の関係家族750人、南満州鉄道関係家族が1万6700人。

新京の一般市民は汽車で避難することはほとんどできませんでした。

~略~

関東軍は事前の作戦計画(ソ連の満州侵攻(上)―参戦準備と戦闘開始までを参照)で全満州の4分の3を捨て、「通化」で朝鮮の防衛を行うことにしていました。

「虎頭」など国境地帯のいくつかの場所では関東軍は頑強に抵抗を続けていましたが、大部分は後方に引き上げました。

関東軍総司令部は新京を引き払い、通化へと移動したものの、通化は防御のための準備はほとんどできていませんでした。

関東軍総司令部の新京からの引き上げは、市民には「我々を見捨てて逃げた」という印象を与え、軍事的には防御の整っていない地へ移動することになったのです。


軍人・役人・満鉄家族の避難が優先され、一般人の避難は後回しにされた。
大変ショッキングな内容だが、これは事実なのだろうか。

ネットの体験談などを調べてみることにした。



疎開の行き先が分からないどころか、運ばれていく女性たちに対する敗戦後の処置さえ、つまり引揚げの対象になるかどうかは、敗戦の当事は不明であった。『引揚援護の記録』(引揚授護庁、一九五〇年三月)によると、日本人の引揚げを裏付ける法的根拠は、一九四五年七月二六日にアメリカが衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の何おいて大日本帝国に対して発されたポツダム宣言の第九条にある。しかし、その条項は「幸福軍隊についてのみの規定であって、一般居留民の帰還については、何ら根拠となるものではない」と考えられていた。

引揚げと同様に、敗戦直前の疎開も、日本側がポツダム宣言の内容を把握した上で、堂々と軍家族、満鉄、政府、特殊会社を優先的に移動させたのであろう。


戦況が悪化するにつれ、関東軍司令部は作戦計画にもとづき、通化に司令部を移すと共に、軍関係、満鉄関係、政府関係及び一般市民の家族を通化省内と朝鮮に疎開させようとしていました。
8 月 9 日から 12 日にかけて軍人・軍属家族約 2 万人が朝鮮北部に疎開しました。軍に続いて、満鉄関係者の家族も 8 月 10 日から疎開が始まり、新京を中心に約 1.7 万人が朝鮮北部に向かいました。安東を通過して朝鮮北部に向かった者は約 6 万人といわれています。


昭和十五年四月満州北安(ペイアン)省海倫(ハイロン)県の警察官として勤めていた主人の元へ渡満しました。昭和二十年四月に次女出産のため、日本から来てくれた母が、六月に帰る手続きを取りましたが、軍人の家族優先で帰国することが出来なくなりました。

あと脱線ついでに言えば、新京で疎開列車で逃げる時にね、あれはまず関東軍の家族と満鉄の家族が逃げたわけですよ。それで、なんで市民を放っておくんだとこう言ったら、いや市民は荷造りに時間がかかるんだと。到底、駅にはすぐ集まれない。それで関東軍の家族というのは、命令一下すぐパッと集まれる。彼らは命令も情報もね、早く流すわけですよ。それで、僕は新京の駅で本当に見ていたんだけれども、目の前をね。関東軍の家族を乗せた汽車がどんどん行くわけですね。次に列車が来た、次は誰だっていうと満鉄の家族専用車。それでね、一般市民は全くもって置いてけぼり。それはけしからん。しかも、関東軍の司令官の家族が終戦の時には日本にいたんですね。



当時日本の植民地だった朝鮮の京城(けいじょう)(現在のソウル)に産婆をしていた母方の祖母と合流しようと、母と、たまたま京城から新京に疎開していた母の妹二人、そして赤ん坊の私との無蓋貨物列車での逃避行が始まりました。これに乗れたのも、父が教え子の父親の軍人に頼み込んだからです。軍人の家族を優先して避難させていたからです。


8月10日正午前に関東軍は避難民の移送を決定し[3]、第一列車は8月10日午後6時出発予定(実際には遅れて8月11日午前1時40分出発)とした。そのため、当初の輸送順序である民・官・軍の家族の順ではなく、連絡のつきやすい軍人の家族を第一陣として避難の誘い水とすることとした[4]とも、当時の軍高官は連絡が民間人に十分に届く前に軍人・軍属とその家族ばかりが集まってしまったのだと後に弁明したともいう。実際には、当初は軍人・軍属とその家族らばかりが大量の荷物を運べるだけ運び込んで集まって脱出しており、一般住民に気付かれない内に脱出していたという証言[5]はあっても、末端の役場関係者でいち早く民間人に知らせるよう連絡を受けたという記録や証言はなく、多くの人々からは軍人らが意図的に自身の家族と財産を優先的に逃したものと見られている。8月11日昼までに軍・官関係者の家族を中心とした約38,000人が18本の避難列車で移送された[6][注釈 1]。8月11日午後には民間の避難民も新京駅に集まるようになった[8]ともされるが、12日夜になおも居た軍属の家族らが周囲には気付かれないようにして大挙して去り、そこで多くの一般人が異変に気付いたという証言[5]もある。


私は1933年(昭和8年)に生まれた。父は満鉄に勤めていたので、奉天(現・瀋陽)から新京(現・長春)までの鉄道沿線で育った。

45年8月9日、ソ連の参戦で、私たちには急遽、疎開命令が出た母と子どもたちの疎開先は、北朝鮮の宣川(北西部)という小さな町だった。8月15日、玉音放送で敗戦のニュースを聞いたが、初めは信じられなかった。しかし朝鮮の人たちが集まって「マンセイ、マンセイ!」と上げる歓声と、神社が燃える炎を見て、恐ろしさに震えた。
ソ連軍の侵攻で、私たち疎開者は38度線より南に行くことができなくなり、孤立した。そこで満鉄社員の家族は、収容所を脱出し有蓋貨物列車に乗って、再び満州の奥地、新京まで引き返したのである。石炭の積み込みや給水のために止まった途中の駅で、南下するソ連軍の列車と離合することがあった。列車が止まるたびに、自動小銃を持った兵士たちは略奪に走り回った。
疎開列車は、ソ連の軍用列車に偽装してあった。そして、女と子どもだけの集団である。赤ちゃんの泣き声が外に漏れたら、たちまち貨車は壊され、略奪・殺りくされたことだろう。赤ちゃんを捨てさせられる悲劇もあった。私たちは奇跡的に新京に帰り着いた。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/kioku/detail.cgi?das_id=D0001800086_00000 より引用

※筆者は満鉄社員の家族であり8月9日に疎開命令がでて避難したが、38度線より南へいくことができず、新京まで引き返したとある。
これだけでは一般の人がどうであったのかわからないが、一般の人については何も記されていないのは、8月9日時点で一般の人には疎開命令が出されていなかったのではないかとも思える。


ソ連がいよいよ攻めてきたって時に関東軍はさっさと通化にうつったわけ。8 月 9 日に移っているんですね。それで、満洲の政府に通化へ来いって命令が来たわけですね。だけどね、結果的には 1 人だけ、総務長官が行かなきゃ角が立つっていうんで、行ったんだけれど。だけれども、市民はみんな残っているわけですよ。そして、北満からはどんどん避難民が来るわけでしょう。それなのにね、皇帝は行っちゃった。関東軍の司令部も向こうへ移して、満洲国の政府も移すと。それで、移って来る時の汽車輸送は、家族の分も含めて手配するって。それに政府が怒っちゃってね。そんな一般の市民を置いて、政府の家族だけ団体で逃げるなんてね。冗談じゃない。それよりも、それよりも政府が移っちゃったら、残りの市民と避難民を一体だれが面倒を見るんだとか。それで結局、うちの親父なんか結局最後まで新京に残っていたわけですけれども。
 34頁より引用


※通化は満州国にあった都市


※新京は現在の長春 満州国の首都だった。



安東の引き揚げ者の収容所に入ったのは1946年9月29日。雅江さんの7歳の誕生日でした。

 父母と子ども4人で引き揚げ団の列に加わり、日本への船が出る葫蘆(ころ)島を目指して命がけの移動が始まりました。
~略~
「関東軍(満州に駐屯していた日本軍の部隊)は南に退却、民間人だけが残された。私は学校にさえ通えなかった。戦争になれば弱者は邪魔者にされる。あんな時代を二度と繰り返してはいけない」


 

葫蘆島は満州から日本への引揚船の出発地だった。


安東の場所は、上記リンク先地図を見てください。


ざっと調べてみただけだが、軍人・役人・満鉄社員の家族・引揚げが優先されたという記事ばかりがでてきて
一般人が同等または優先されたという記事は見つからなかった。

「民のかまどは賑わいにけり」と「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」

➀仁徳天皇は中国人を手本にして税金を停止した。

最近、「日本人すばらしい教」がちまたで流行しているようである。
そして日本人を持ち上げる一方で、中国人のことは「残酷」とか「嘘つき」のように批判している。

そういう人達が良く持ち出すのが、仁徳天皇の「民のかまどは賑わいにけり」である。

『東錦昼夜競』より「仁徳天皇」(部分)。1886年(明治19年)楊洲周延 画。

『東錦昼夜競』より「仁徳天皇」(部分)。1886年(明治19年)楊洲周延 画。

仁徳天皇が「民のかまどは賑わいにけり」と言ったという話だが、これについて大変興味深いブログ記事があった。

仁徳天皇の四年二月六日、群臣に詔していわく「朕が高台に遠くを登って望んで観るに、国中の家から煙が出ていないことに気づいた。思うに、百姓が貧しくて煮炊きもできないからであろう。朕が聞くとことによると、聖王の御世には、人々は詠徳の音を、家ごとでは康哉の歌を歌う声が聞こえていたという。今朕が位に就いて三年が経ったが、そのような歌は歌われない。家々から煙が立ち上ることもない。これは、五穀が実らず民が窮状に陥っているからであろうと知った。畿内ですら、この様子であるのだから、都から遠い畿外では言うまでもないだろう。」
 同年三月二十一日、詔していわく「向こう三年の間、すべての課役をやめて、百姓の苦しみを憩わせよ」。この日から、天皇の衣装や履物は襤褸になるまでは新調されず、温かいご飯や汁物も酸っぱくなったり腐らないうちは変えられず、御心を削り、志を責めて、事に従い無為に過ごされた。宮垣が崩れ、茅葦の屋根が破れても屋根は葺かれず、隙間風が入って、天皇の衣に露が降り、破れた屋根から差し込んだ星の光で床のご寝所が見えるほどであった。この後、気候も穏やかで、五穀も豊作が続いた。三年経つと、百姓にもゆとりができて、天皇をたたえる声に満ちて、家々の煙も見えるようになった。
 同七年四月一日、天皇が再び高台に上って遠くを望んで家々から炊煙が立っている様をご覧になった。
(中略)
 「天が君主を立てるのは、百姓のためである。ならば、君主は百姓を基本とせねばならぬ。だからこそ、古の聖王は一人でも百姓が飢えたり凍えたりするようならば、わが身を責めたものだ。今百姓が貧しいのならば朕もまた貧しい。百姓が富めば朕も富む。百姓が富んで君主だけが貧しいということは起こらないな。」

・・・いわゆる「民のかまど」の故事ですが、もともと、仁徳天皇が「詠徳之音」と言っているところは『文選(もんぜん)』にありまして、天皇が指標としている聖王の政治が大陸の王であることが分かります。ここ以外にも、仁徳天皇の記録としてある、萱を切りそろえないとか、自発的に民衆が王宮を作るといった記述は、『魏都賦(ぎとのふ)』の記述と共通点が多いです。

https://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5190/ より引用

仁徳天皇が税金を停止したのは、古代中国の王をお手本としたからなのであった。

仁徳天皇が税金を停止したことについては褒めるのに、仁徳天皇が手本とした中国人については批判する。
これってつまり、「中国人のいうことなんか手本にするなよ」といいながら「中国人を手本にした仁徳はすばらしい」といってるわけで、相当変な理屈の様に思える。

「単に同じ言葉を使っただけじゃん?聖王は中国人とはいえなくね?」
と言われるかもしれないが、このブログにはこうも記されている。

「堯帝の治世においては、金銀の珠で飾り立てることも、見目麗しい衣装を着ることも、奇怪なものにうつつをぬかすことも、世の珍品を収集することも、淫らな音楽を耳にすることも、王宮の壁や部屋を飾りたてることも、柱に優れた彫刻を施すこともなく、庭園に茅が伸びても切りそろえることもしませんでした。
 また、鹿の皮を着て寒さをしのぎ、普段は質素な布の服を身につけ、黒米や粟の飯を食べ、黍の汁をすすり、民に苦役を課すことも、耕作する民の生活を乱すこともありませんでした。心をわずらわせることも、王の側からのはからいもなく、無為のままで事が進んでいったのものです。

https://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5190/ より引用

これは『六韜(りくとう)』という書物のなかで、太公望・呂尚が周の文王に古代の帝王・堯(ぎょう)の治世について答えたところと説明がある。

これが史実かどうかはともかく、質素で民に負担をかけないことが美徳という考え方が中国にあったことがわかる。
もちろん、仁徳天皇の税金停止の話も事実かどうかわからない。

⓶仁徳天皇は巨大寿陵を築いた。

そして日本の仁徳天皇は農民から税金を取らず、自分は質素な生活をしていたと記されているが
生前に巨大な寿陵を築いている。
生前に作ったということは、仁徳天皇の意志で作られた可能性が高いが
これには莫大な労働力がかかったのではないか?

大手建設会社の大林組が昭和60年(1985年)に試算したデータによると、古代工法で行なった場合、工期は15年8か月、作業員数は延べ680万7000人(1日あたりピーク時で2000人)、総工費は現在の価格で約796億円となる(埴輪製造の作業員と工費については不確定要素が多いため除外)。


これについて、当事の人口はせいぜい500万人程度、作業員数680万人は多すぎる。
よって仁徳天皇陵建設は公共工事だという人がいる。

申し訳ないが、これは延べ人数の意味を理解されていない。
延べ人数とは、1日の作業員が50人とすると、10日で50人×10日=500人、の様に計算する。
作業員が50人いて、同じ50人が10か働いたとしても延べ人数は500人となる。

仁徳天皇陵の工事の試算では、上の記事に記されているように、ピーク時で1日あたり2000人が働いたとする。
実際に680万人の人が一度に工事現場で働いていたのではない。

仁徳天皇陵があるあたりは平地であることから、
水田をつくるためには土地をけずって平にしなければならない。
その土をまとめて山のようにしたものが古墳で洪水時の避難場所とした、という人もいる。

この説についてもいくつか疑問点がある。
・山の上に築かれた古墳もある。尾根を利用して作られた古墳もある。
・水田は水を張る必用があるため、傾斜地に作られることがおおく、平らな土地は水田に不向きだった。
・古墳の濠が障害となるので避難所として用いたとは考えられない。
・古墳は土を積み上げるだけでなく、埴輪をならべたり、葺石で覆う作業も伴う。
 埴輪の製作、葺石の製作だけでも大変な労力がかかっているはずである。

近年、日本の巨大古墳は公共工事であったのではないかとする説があるようで、NHKの記事などにも掲載されている。
しかし、なぜかその理由が記されたものがないので、納得するには至っていない。

仁徳天皇の総工費は現在の価格で約796億円と計算されている。https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/kikan_20_idea_06_3.png
上記リンク先にその内訳が記されている。

用地伐開除根(草木や木の根を除去する)・基本測量・外濠堀削・内濠堀削・排水工事・後片付け・一般管理費
これらはほとんど人件費だと思われる。

客土・葺石・埴輪・石室・現場経費・宿舎仮設費
これらはもしかすると購入していたかもしれない。
葺石・埴輪・石室は材料のままでは使えず、加工が必用であるからだ。
しかし作業員に加工させていたかもしれない。
土は運搬費がかかっていたかもしれないが、これも作業員に運搬させていたかもしれない。

作業員はのべ人数で680万人、796万円のほとんどが人件費として単純計算すると日給1万1000円~1万2000円ほどになる。
日給1万1000円~1万2000円であれば、月に25日働いたとすると月27万5000円から30万円ほどの収入だ。
ただしこれは現在の労働価値で計算している。
昔のことであれば、日給数千円程度であったかもしれない。

当事は貨幣がないので、この日給数千円に該当するような食料・衣類などを支給していたとすれば、仁徳天皇陵の工事は公共工事であったといえる。

エジプトのピラミッド建設は公共工事であったといわれている。
それは労働者に衣類や食料を支給したという記録が残っているためだ。
しかし、仁徳天皇陵建造でそのようなものを支払ったという記述がない。

仁徳天皇の時代から、少し後の飛鳥時代に、聖徳太子が大阪に官寺の四天王寺を建てている。
四天王寺は物部守屋の土地と奴婢(奴隷)を用いて寺を建てたとある。
※古代日本には奴婢という奴隷身分の人々が人口の10%から20%いたとされている。

聖徳太子が官寺を建立するのに奴婢を用いているので、天皇陵を作る際にも奴婢を用いたのではないかと思ったりする。

また古代の日本には雑徭(ぞうよう)という制度があった。
初見は持統天皇6年(692年)で、各種インフラ整備や国衙(役所)等の修築などをさせた。
正丁(21歳~60歳の男性)年間60日以下
次丁(正丁の障害者と老丁(61歳以上の男性))年間30日以下
中男(17~20歳の男性)年間15日以下
食糧の支給はなかったとされる。

つまり、雑徭とは無給で労働を奉仕する税である。

飛鳥時代の制度だが、飛鳥時代に先立つ古墳時代(3世紀中頃 – 7世紀頃)もこれと同様であったかもしれない。(急に世の中が変わるとは思えないので)

国の財源は税である。
公共工事で寿陵を築いたのだとすると、その財源は税である。
結局、国民は自分で支払った米などをいくらか返してもらったにすぎないという理屈になる。

税を停止する一方で、巨大寿陵を築いた仁徳天皇の謎は深い。

③「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」と言ったのは、マリー・アントワネットではなかった。

「日本すばらしい教」の人たちは、「日本はすばらしいが欧米人は劣っている」ともいう。
そしてその例として、マリー・アントワネットの「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」をあげる人もいる。

王妃となったアントワネット (1775年)

王妃となったアントワネット (1775年)

しかし「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」はマリー・アントワネットの発言ではないとされている。

彼女がそのような発言をしたという記録は見つかっていない。

そして、この台詞はジャン=ジャック・ルソーの自伝的な『告白』6巻に出てくる言葉である。
百姓たちには食べるパンがないといわれた王女は、「ではブリオシュ〔パン菓子〕を食べればいい」と答えたという。

『告白が出版されたのは、1782年であるが
6巻が書かれたのは1765年で、このときマリー・アントワネットは9歳で、まだルイ16世のもとへ嫁いでいない。
したがった告白に出てくる王女はマリー・アントワネットではない。

パンが不足していると咎められたマリー・アントワネットが「それならブリオッシュを食べれば良い」と言ったという話は、
1931年に書かれた「点子ちゃんとアントン/エーリッヒ・ケストナー」の中で初めて登場し
フランス革命の時代に引用されたケースはないということである。

フランス革命の前年の1788年、フランスが深刻なパン不足に陥ったとき
マリー・アントワネットは次の様な手紙を書いている。

「不幸せな暮らしをしながら私たちに尽くす人々をみたならば、幸せのためにこれまで以上に身を粉にして働くのが私たちのつとめだということはごくごく当然のことです。陛下はこの真実を理解していらっしゃるように思います。」

この言葉を言った同じ人間が「ブリオッシュを食べればいい」とか「お菓子を食べればいい」などと言うとは思えない。

④アントワネットはどの程度浪費をしたのか


上記記事には次のような内容が記されている。

・王室が使った出費は国庫の10%未満。
・1年に170着以上のドレス。王妃の衣装費を超える。(50年以上も前に決められた額で、アントワネットの時代にはインフレのため貨幣価値が大幅に下がっていた。)
・建築費 バイエルンのルートヴィヒ二世もお城を作りすぎて国庫を危機にさらした。
マリー・アントワネットは「プチ・トレアノン」と言う小さな離宮をもらってそれを改修したのみ。
ただしかなりの費用がかかったらしい。
・トランプ賭博。国から支給される王妃用の手当を使い尽くし、国王が自分の財産から支払った。
・取り巻き費。取り巻きに無用の官位や年金をあげたりして、国庫を圧迫した。
・マリー・アントワネットの浪費は王女が生まれてからなくなった。

池田理代子さんの「ベルサイユのばら」には次のように記されている。
・賭博の借金 50万リーブル(約60億円)
・アクセサリーの借金 100万リーブル(約120億円)
・衣装代赤字 25万リーブル(約30億円)

「ベルサイユのばら」は歴史をよく調べた上で、そこにフィクションをうまくからめて物語が作られている。
読むたび、そのことに感心するが、上の数字が事実かどうかわからない。

事実かどうかわからないが、とりあえず事実とし、そのほかにもポリニャック伯夫人ら取り巻きのために用いたお金が約500億円あったとしよう。
合計で約700億円だ。

ポリニャック公爵夫人

ポリニャック公爵夫人
ヴィジェ=ルブラン画、ワデスドン・マナー(英語版)蔵、1783年

ちなみに公共工事説もあるが、仁徳天皇陵の総工費は約796億円である。

⑤フランスの財政破綻の原因はアメリカ独立戦争の軍事援助では

マリー・アントワネットの浪費がどの程度のものであったのかについてはわからないが、
それが国家財政を傾けるほどのものであったとは思えないというのが、一般的な意見のようである。

ルイ14世の頃には既に赤字で、代々積み重なった赤字は国家の歳入の9倍であったという。
また、フランスの敵国のイギリスがアメリカ独立戦争を始めたために、多額の軍事援助をアメリカに行っている。

マリー・アントワネットと交流のあったハンス・アクセル・フォン・フェルセンも独立戦争に参加している。

「ベルサイユのばら」ではフェルゼンはマリー・アントワネットを忘れるために、独立戦争に参加しており、
そのことが強調されて、軍事費がかさんで国家財政を圧迫したことについてはふれられていないが
やはりこれが国家財政を大きく揺るがしたことだろう。

Hans Axel von Fersen2

ハンス・アクセル・フォン・フェルセン

⑥フランス革命が起こった理由は厳しい身分制度に対する反発

フランスには厳しい身分制度があった。
第一身分・・・聖職者
第二身分・・・貴族
第三身分・・・平民
第一身分の聖職者と第二身分の貴族は免税で、政治に関与できる権利を持っていた。

政府は免税特権を有する身分から課税を図るが、パリ高等法院が新税を拒否。

国王は三部会を開く。
三部会は身分ごとに一票の議決権のため、第一身分と第二身分が有利で、第三身分の反発をまねく。
不満を持った第三身分は国民議会をつくっている。

1789年、「国民議会」は王の軍隊の撤退を要求していたが、国王は撤退させずに、逆に外出と集会の禁止令を出す。
市民らは武器をとってバスティーユ牢獄を襲撃した。

その後国王の軍隊はパリ全土で敗北。
宮廷貴族は群衆に処刑されたり、国外に逃亡した。
国王一家も逃亡を図るが、東部国境に近いヴァレンヌで捕らえられる。
国王一家はタンプル塔に幽閉され、4か月後には「国民公会」により王政の廃止が決定された。
1793年1月に国王はコンコルド広場で処刑、10月にはマリー・アントワネットも処刑された。

このように見てみると、マリー・アントワネットは浪費癖はあったが、
それが原因でフランス国民の生活を圧迫し、フランス革命をひきおこしたとまでは言えないように思う。

Ludvig XVI av Frankrike porträtterad av AF Callet

ルイ16世

⑦「民のかまどは賑わいにけり」「パンがなければお菓子を食べればいいのに」を比較して日本と欧米の優劣を論じるのは不適切

このように見てみると
仁徳天皇の「民のかまどは賑わいにけり」と
マリー・アントワネットの「パンがなければお菓子を食べればいいのに」
を並べて比較し、それによって日本と欧米の優劣を論じることが適切でないといえるだろう。

❶「民のかまどは賑わいにけり」は仁徳天皇の言葉ではなく、仁徳天皇の故事をベースにして詠んだ歌で、鎌倉時代に編纂された古今和歌集にでてくる歌の一部。
「パンがなければお菓子を食べればいいのに」はマリー・アントワネットがいった言葉ではない。
彼女が言ったのは「不幸せな暮らしをしながら私たちに尽くす人々をみたならば、幸せのためにこれまで以上に身を粉にして働くのが私たちのつとめだということはごくごく当然のことです。」

❷仁徳天皇は税のとりたてを即位4年から即位10年まで停止しているが、その一方で巨大な寿陵を築いている。
寿陵の築造については公共工事説もあるが、決定的な説ではなく、はっきりしない。

❸マリー・アントワネットに浪費癖があったのは確からしいが、彼女の浪費癖で財政破綻に陥ったのではない。
ルイ14世時にすでに赤字で、代々積み重なった赤字は国家の歳入の9倍。
アメリカ独立戦争において多額の軍事援助をアメリカに行ったことなどが大きい。

⑧総合的な研究・比較が必用。古代エジプト王と信長の比較

日本人論は、個人的な体験やエピソード、諺(ことわざ)などに依存しており、実証的な根拠に乏しい。また、日本人のことだけに言及していて、欧米人との比較がなされていない場合も多い。

内容はざっくりいって次のようなものになると思う。

➀ 心理学的研究
集団主義・個人主義の程度を測定するための調査研究が11件。
「同調行動」に関する実験研究が5件。
自分の利益を犠牲にしてでも集団に献身するという「協力行動」に関する実験研究が6件。
「日本人とアメリカ人とのあいだには明確な差はない」・・・16件
「アメリカ人の方が日本人より集団主義的」・・・5件
「日本人はアメリカ人より集団主義的」・・・1件

⓶ 言語学的研究
日本語は「他者とは明確に切り離された自己」の存在を示す。
「私は寒い」というが、「母は寒い」とは言わない。

③ 教育学的研究
「いじめ」は、「異質なものを排除しようとする集団主義的な日本社会に特有の現象」と評されることが多い。
しかしアメリカでもいじめは多数おきている。

④経済学的研究
「日本的経営」論で言われてきた「終身雇用」や「年功賃金」が事実ではないとする研究。
「系列」にはまったく実体がなかったことを明らかにした研究。
日本政府の「産業政策」が日本の高度経済成長にはほとんど実質的な貢献をしていないとする研究
国内産業を保護するために政府が設定する関税率は歴史的にみると、日本よりアメリカの方が高い。

⑤ 日本人は、「アメリカによる占領の結果、アメリカナイズされて個人主義的になった」というわけではない。
文献調査の結果、戦前も、開国前も、日本人が個人主義的に行動した事例は数多く見出すことができた。

⑥「日本人は集団主義的」という見方は、日本人自身がはじめから持っていたものではなく、欧米人が言い出し
日本人が受け入れた。

「日本がすばらしく、中国や欧米が劣っている」とする説の問題点は、上記で説明されているような総合的な研究・比較を行っていない点である。

数少ないエピソードをひろってきて、そこから結論を出すことはできないのだ。

たとえばマリー・アントワネットのかわりに、ピラミッドを建設した古代エジプト王をもってくることもできる。

仁徳天皇陵建築が公共工事だった説は、根拠がはっきりしないが
ピラミッド建築が公共工事だった戸いうことは、衣料や食料を支給した記録があって支持者が多い。
(ウィキは公共工事には否定的だが)
また「国王ばんざい」と記された落書きが残っていたり、当事の労働者がビールを飲み、牛肉とパンを食べていたことがわかっており、かなりよい暮らしをしていたと考えられている。

そして仁徳天皇のかわりに織田信長をもってくることもできる。
彼は、 長島一向一揆殲滅で男女二万数千人を殺害、越前一向一揆殲滅で1万2000人を処刑したといわれる。
伊賀惣国一揆では、伊賀の総人口9万のうち、およそ3万余が殺害されたとする説もある。
比叡山焼き討ちでは、」『信長公記(しんちょうこうき)』で数千人、宣教師フロイスの書簡では約3000人、貴族の日記にも3000~4000人とある。
ただし、文献に見られるほどの大規模火災を証明する遺構がなく、もっと小規模だったのではないか、とする説もあるが
信長が大勢の国民を殺害したと考えられていることは事実だろう。

織田信長像

織田信長像
狩野元秀(1551〜1601年) - 東京大学史料編纂所

そしてフランスのマリーアントワネットと日本の仁徳天皇を比較してフランス人劣っている、日本人優れているというような理屈が通るのであれば
古代エジプトと日本の織田信長を比較して、「エジプト人優れている、日本人は惨酷で劣っている」とやることも可能になってしまう。

もちろん、数個のエピソードを拾ってきて比較するのはまちがいなので、「エジプト人優れている、日本人は惨酷で劣っている」とはいえない。
すると当然、仁徳天皇とマリー・アントワネットを比較して、「日本人優れている、欧米人おとっている」ともいえない。

  

涙の旅順の思い出とは


➀旅順の特攻?


私は上の動画の、武田さんの発言の意味が長い間わからずにいた。

僕はこの時親父がね旅順の海軍の魚雷の推進の計算をしてたわけです。
京都大学の数学でて軍隊の関係なかったけど、学校の先生だったんだけど
計算が間に合わないっていうんで行ったの。
この時僕ら子供が2人いっしょに、母親もね。なんで行ったかは分からない。
~略~
その時にね彼らが特攻しなかったらねぇ、僕は今いないんですよ。

とおっしゃっているが、特攻、旅順で検索してもそれらしいものがでてこないからだ。

たとえば、上の記事にも旅順という言葉が無い。

特攻に直接守ってもらったというわけではなく、間接的に守ってもらったという意味なのかとも考えたが
あれが特攻してくれたから僕ら何万人が逃げてきたんですね。
ともおしゃっていて
やはり直接守ってもらったという意味のように思える。

⓶人間魚雷


無知なもので特攻というと、飛行機による特攻しか思い浮かべなかったが
友人によれば、人間魚雷というものがあったのだという。

九三式魚雷を改造して乗員1人が潜望鏡と簡単な航法装置を頼りに操縦、乗員もろとも敵艦に体当たりする特攻兵器。生還の可能性が絶無である点で、それ以前の特殊潜航艇とは違っている。制空・制海権をアメリカ側に奪われた1944年(昭和19)2月、(マルロク)計画の名で試作開始、7月完成と同時に水中特攻本部が設置され、新兵器は「回天(かいてん)」と命名された。同年11月20日、中部太平洋ウルシー環礁のアメリカ海軍泊地に5基の回天が発進、タンカー1隻を撃沈したのを最初に沖縄作戦などに参加、アメリカ輸送船団に対してかなりの戦果をあげた。しかし搭載潜水艦が次々に失われたため、航空機による特攻作戦のような大規模なものにはならなかった。回天要員約2000人中、戦死86人、殉職16人の犠牲者を出している。


なお、ジャーナリストの前田哲男は日本大百科全書(ニッポニカ)(小学館)において、「人間魚雷」を日本軍に限定して、「九三式魚雷を改造して乗員1人が潜望鏡と簡単な航法装置を頼りに操縦、乗員もろとも敵艦に体当たりする特攻兵器。生還の可能性が絶無である点で、それ以前の特殊潜航艇とは違っている。」と解説する。


↑ 
【奇跡的に生還した「回天」搭乗員が語った「死にぞこない」の葛藤】
この記事も参考になると思う。

③対戦車特攻

しかし武田さんは
あそこで特攻してキャタピラに突撃したから
とおっしゃっている。
キャタピラというのは戦車についている無限軌道のことだろう。

無限軌道(むげんきどう)とは、起動輪、転輪、遊動輪(誘導輪)を囲むように一帯に接続された履板(りはん・りばん)・シュー (Shoe) の環であり、起動輪でそれを動かすことによって不整地での車両の移動を可能にするもので、この種の車両を装軌車両 (Tracked Vehicle) と呼び、対して通常のタイヤ車輪を備えた車両を装輪車両 (Wheeled Vehicle, Car etc) と呼ぶ。

輸送船から上陸するM4シャーマン、イタリア戦線(1944年)

輸送船から上陸するM4シャーマン、イタリア戦線(1944年)

人間魚雷は海で用いるものなので、戦車を攻撃したということはやはり飛行機か?
そう思ったのだが、友人が「生身の人間が特攻するのだ」と教えてくれた。
それをもとに検索したところ、次のような記事がでてきた。

大勢の命奪った「対戦車特攻」

対戦車特攻とは、山の斜面をL字型に掘削した「対戦車壕(たこつぼ)」に黄色火薬10キロを入れた箱をもった人間が潜み、戦車が接近してきたら火薬の箱をもったまま戦車の下に飛び込むというものであるらしい。
体から離れた火薬は1秒後に爆発するという。

この手記を書かれた井戸清一さんは1945年6月に旅順に転じ、その後ソ連が参戦したと書いておられる。


④ソ連の満州侵攻

旅順は満洲国(1932~1945年)にある港であった。
満州国は昭和7年、関東軍の主導によって建国された国で、約200万を超える日本人が満洲に住んでいたが、
1945年(昭和20年)8月9日、満州においてソ連対日参戦(日本帝国陸軍の関東軍、支那派遣軍vs極東ソ連軍)が勃発した。

関東軍の部隊が南方戦線へと徴用されていた為、満州の長い国境を防衛出来るだけの十分な戦力は既に失われていたが、中立条約を信じ切っていた関東軍や満州国の要人等は、その家族を空襲に遭っている日本から満州へ連れて来ていた[9]。



http://historyjapan.org/invasion-on-manchuria-by-soviet-1
上記記事には次のような内容が記されている。

ソ連は満洲・樺太・千島侵攻を目的として8日夜に宣戦布告、
9日未明に満洲への侵攻作戦を、11日に樺太への侵攻作戦を開始した。

一般の居留民や開拓団が大勢戦闘に巻き込まれた。

満州の首都「新京」(現 長春)では、市民の避難を優先させず、軍人の家族を優先させて汽車で避難させた。
8月11日正午までに避難できた者は、新京在住約14万人のうち約3万8千人。
そのうち軍関係家族が約2万310人、大使館等役人の関係家族750人、南満州鉄道関係家族が1万6700人。
一般市民はほとんど汽車で避難することができないまま、関東軍は全満州の4分の3を捨て、朝鮮の防衛を行うため引き揚げてしまった。

その後、満州各地で避難民が虐殺される事件がおきている。

8月15日「玉音放送」によって、日本が連合国に対し無条件降伏したことが全国民に伝えられたが
軍隊に対する正式な停戦命令ではなく、通信網が使えなかったなどの理由から満州での戦闘は8月29日まで続いた。

昭和20年5月の時点で開拓団は約27万人。病死と行方不明者を入れると、開拓団の人々の死亡は7万8500人だった。
日本軍軍事捕虜のうち、57万4530人が捕虜となり強制労働させられた。軍人以外の民間人も捕虜とされた。
うち、ソ連から引き揚げてこられたのは47万2942人。

武田楠雄 プロフィール
1933年京都大学理学部数学科卒、満鉄鉄道技術研究所の研究員を経て、工学院大学教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『技術者のための微分積分学』より

武田楠雄さんが、満州の旅順で魚雷の推進の計算をしていたというのは、彼が満鉄鉄道技術研究所の研究員であったためだろうか。

あるいは、そのとき満鉄鉄道技術研究所をやめて工学院大学の教授をされていたのが、魚雷推進の計算のため海軍に呼ばれて旅順にいたのかもしれない。

いずれにしても、日本は空襲があって危険なので、奥さんとお子さん二人を旅順に呼び寄せたということではないかと思う。

ところが1945年にソ連の満州侵攻があり、このとき対戦車特攻で多くの特攻隊員が命を落とした。
しかし、旅順においてこのような特攻がおこなわれたのかどうか、よくわからない。
前述した井戸清一さんは、旧満州・旅順の部隊にいたこと、45年6月に旅順に転じたとは書いてあるが
特攻をした場所は明確ではない。

https://www.sankei.com/article/20150808-EXDDWOGLXJMNVJIL5QWHORACQY/photo/MZO5KLHZEVNEXMEA7IV2FXA3WE/

↑ リンク先の地図をみると、旅順ちかくまでソ連が侵攻している様子がわかるので、旅順近くで対戦車特攻が行われたのかもしれない。




「はだしのゲン」はどこまで真実に近いか。追記あり

「はだしのゲン/中沢啓治(汐文社)」は作者の体験をベースに描かれているということだが、どれくらい真実に近い内容が描かれているのか。
それを確認するために、ネット上の関連する記事を探してみた。
ただし「記事の内容が正しい」としているわけではない。
過剰に反応する人がいそうなのであらかじめ言っておくが
「こういう記事がある」といっているだけなので、誤解のないようお願いしたい。
リンク記事に偏りがあると感じられるかも知れないが、意図したものではなく単に「十分に調べきれていない」というだけなので、参考記事などあればご紹介いただきたいと思う。

【追記】
対象にしているのは、第一部のみです。


①非国民




⓶戦争反対の意見をのべると、警察につれていかれ、暴力をうける。

衆議院議員・山本宣治氏の発言もあり。


③朝鮮人、強制連行され過酷な労働を強いられる。


④目がちぎれ手と足がちぎれ ただ息をしているだけの芋虫のような姿を近所のやつらは無責任に軍神だといってほめたたえているが~(1巻p89 より引用)


中沢氏は江戸川乱歩の小説『芋虫」をヒントに、このセリフを書いたのだろうか?

戦後、恩給の打ち切りなどがあって、戦傷を負った人々の生活は困窮したという内容がしるされている。



⑤天皇のために死ぬことが誇りであると教えた戦争教育が、多くの自殺者を出した。



⑥集団疎開で食べるものがない



⑦特攻志願





⑨海軍々人精神注入棒


画像検索すると実物の映像もたくさんでてくる。



⑩予科練での暴力にたえきれず脱走



⑪予科練での暴力にたえきれず自殺
同期で自殺した人が3名いたと記されている。



⑫原爆被害者 (惨酷な内容が含まれているため、リンク先を見る際には注意してください)  




⑬朝鮮人差別


⑭被爆者への差別

⑮ABCC(原爆傷害調査委員会)について

「はだしのゲン」の作者・中沢氏の発言が記されている。
放影研 被爆者に謝罪へ ABCC時代、治療せず研究


⑯被爆者、元気だったのに急に死ぬ。
「広島市内では、所々憲兵らしい兵隊が元気で整理していましたが軍服姿の死者も多数見かけ ました。」
上記より引用
とあるが、死体整理などをしていた兵隊が原爆症になって被曝したかどうかは不明。


⑰川を無数の死体が流れていく。


⑱似島の第二検疫所

⑲髑髏を土産物としてアメリカ人に売る。
これはフィクションだが、実際にこのようなことがあったのだろうか。

⑳戦災孤児
戦災孤児の中には、窃盗団を結成したり暴力団の下働きをしたりする場合があったとの旨が記されている。



㉑朝鮮人は治療をしてもらえなかった。
この記事の中で、救護所に治療してもらいにいった朝鮮人が、治療してもらえなかったという話がある。


㉒被曝して居候し、肩身の狭い思いをする。
体験記を読む


㉓ピカの毒がうつる。


㉔被曝して体がだるくてやる気がおきない。


㉕アメリカは原爆の報道を制限し、原爆犯罪をかくした




㉖犬食


㉗アメリカ兵捕虜にごぼうを食べさせたら木の根を食べさせたとして有罪になった。
裁判では「捕虜にゴボウ料理」をだしたところ「木の根を食べさせたのは虐待」という主張があったが、
これが原因で有罪と言うのは適切ではないだろう。有罪の理由は61名もの捕虜を上記の理由で死亡させたことによるものと読みとれる。

朝鮮人は日本に国をとられた。

㉙朝鮮人が工場から脱走すると殺される


㉚朝鮮人 日本の軍隊と警察に弾圧されて殺される
サハリン瑞穂村の朝鮮人虐殺事件(file:///C:/Users/FUJITSU/Downloads/seni_012__189__187_210__189_212%20(2).pdf)で検索してみてください。
ウィキペディア瑞穂事件



㉛日本は朝鮮人の名前を強制的に日本風に改めさせた。
「強制性」論争
「創氏制度」は王族など特殊な例外[注釈 5]を除き、全朝鮮人民に法規で適用されたものであった。金や朴などの朝鮮名から、設定創氏や改名制度による伊藤や井上など日本風の名への変更が強制であったかについては論争がある。

㉜原爆で5万人の朝鮮人が死んだ。 祖国へ帰りついても原爆症で苦しむ朝鮮人は3万人。
韓国原爆被害者協会は、広島での被爆者を5万人、うち死者を3万人と推計している。
韓国人被爆者の慰霊祭、広島 死者推計3万人より引用
在外被爆者とは
在外被爆者とは、日本国外に居住する被爆者のことです。戦時に広島、長崎にいて被爆し、戦後帰国された韓国の方や、戦後米国等の海外に移住した日系人の方が大半を占めています。
日本政府は、海外に居住する被爆者に対しても、国籍を問わず、被爆者健康手帳を交付しています。
※在外被爆者(手帳所持者)数 約2,785人(令和3年3月末現在)


㉝キャノン機関 

㉞鹿地事件 スパイになれと要請する

㉟キャノン機関、日本人を拉致して麻薬を打る、なぐる ける ブラックジャックという刑具で責める
リンク先に、「はだしのゲン」7巻115ページに描かれているような刑具が描かれている。
拉致された上にスパイになるよう強要され、自殺してしまった元関東軍・参謀の佐々木克巳が、監禁・拷問されたのも、ここである。
~略~
薬は麻酔薬であった。
秀雄が錠剤の薬を飲むのを拒否し始めると、マサシは「ミルクに入れて飲ませろ」と命じた。


㊱米軍のガムチョコレートを闇市でうる


㊲天皇 国民に謝罪していない
田島元長官が個人的に記録していたもので、昭和天皇は1952年5月の独立回復式典に際し、自らのお言葉で「反省」を表明する意向を示していたが、宮内庁幹部や当時の吉田茂首相が反対し、当初の文案から削除された経緯などが分かる。

㊳GHQ 平和都市建設法制定応援する代わりに、デモを制限する条例をせまり成立させた
1949年に当時の浜井信三市長を中心に特別立法誓願運動を時のGHQや外国人新聞記者、政府や各政党に対して働きかける。
1948年4月の阪神教育事件を契機として、GHQ大阪地区支配当局の意向により大阪市で1948年7月31日に「行進、示威運動及び公の集会に関する条例」が制定されたのが初めてである。その後、多数の自治体が1948年から1950年までにかけて公安条例が制定された。

㊴朝鮮戦争はアメリカがさせた 



㊵GHQ  警察予備隊


㊶ムッソリーニは死体がつりさげられ、みんなおこっていた。
日本では、戦争をおこしたやつらに国民が「わるかった」と泣いてわびる


㊷ヒロポン 敵と戦うときに注射された

㊸ヒロポンが余って薬局で売り出されていた。

㊹レッドパージ(赤狩り)

㊺アメリカの経済顧問・などがおこった。
組合員は共産主義者だと思わせるためにアメリカのスパイ機関が事件を起こしている?

㊻朝鮮戦争でもうける

㊼不法建築物撤去
ゲンのように、家を撤去されて住むところがなくなって困った人はいないのだろうか。

㊽被爆して白血球が減少し盲腸の傷口が塞がらない。麻酔きかなくなり、麻酔なしで手術する。

㊾朝鮮戦争 原爆使用 決定 トルーマン大統領

㊿戦災孤児をひきとり労働力としてこきつかう 援助金がもらえる
戦後混乱期の養護施設1) file:///C:/Users/FUJITSU/Downloads/20021-1-009%20(2).pdf で検索してください。


51.軍隊式の社長
これは戦後ではなく現在の話だが、現在でもあるので、戦後にはそういう会社が多数あったと思われる。


調べてみたが、わからないこともたくさんあった。(調べたりないのかもしれない。)
以下にその内容を列挙する。

❶土地収用で勝手に登記して儲けている人がいる。 政治家とつるんでいる。
❷日本が朝鮮の鉄・銅・米・麦をとりあげ、朝鮮人は飢えた。
❸ABCCと医者との癒着関係
❹被曝して死んだ人が生き返る。(さすがにフィクションかな。)
❺なぐられて同情をひき、食べ物をえる。
など。

イザベラ・バードが見た明治11年の日本 

1.イザベラ・バードが見た明治11年の日本

イザベラ・バードというイギリスの旅行家が、1878年(明治11年)の日本の東北地方・北海道を旅行した。
彼女はそれを紀行文としてまとめた。

いくつかの点で、明らかに間違った記述もあった。
またこの紀行文が日本のすべてを語ったものではないことは言うまでもないし
彼女の主観にもとづいた記述も多い。

しかしながら、明治11年頃の日本を知る上で貴重な資料だといえる。

その記述の中から、当時の日本人のチップ(心づけ)・ピンはね・道徳心・差別観などについて述べられた箇所を書きだしてみようと思う。

※『イザベラ・バードの日本紀行/イザベラ・バード』という本が出版されたのち、
そこからいくつかの記述を削って
『日本奥地紀行/イザベラ・バード』という本が出版されたらしい。

私が読んだのは『イザベラ・バードの日本紀行/イザベラ・バード(講談社学術文庫)』で、「日本奥地紀行」とは、第四信などの番号がちがっているので注意してほしい。

2.チップを受け取らない人々

第九信(つづき)130ページ
最初の休憩地で、人がよくて親切ながらもとにかく醜い私の車夫が苦痛に襲われ、吐きました。
粕壁で飲んだ水に当たったのが原因だと車夫は言い、そこに残りました。
ありがたいことに向こうから実直に、自分と同じ条件をきっちり守る代わりの車夫を用意すると言い出してくれて、
病気だからとチップを要求しませんでした。

第一四信 193ページ
女馬子は自分の荷物を数えてすべて無事にあるのを確かめると、心づけをもらうのも待たずに馬と引き返していきました。

第一六信 228ページ
ヨーロッパの国の多くでは、またたぶんイギリスでもどこかの地方では、女性がたったひとりでよその国の服装をして旅をすれば、危険な目にあうとまではいかなくとも、無礼に扱われたり、侮辱されたり、値段をふっかけられたりするでしょう。
でもここでは一度として無礼な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともないのです。
それに野次馬が集まったとしても不作法ではありません。
馬子は私が濡れたり怖い思いをしたりしないかと気を使い、旅の終わりには革ひもやゆるんだ荷がすべて無事化を几帳面に確かめてくれます。そして心づけを当てにしてうろうろしたり、茶屋でおしゃべりをするために休憩したりなどせず、さっさと馬から荷を下ろすと、運送業者から伝票を受け取って帰っていきます。
ついきのうも革ひもが一本なくなり、もう日も暮れていたにもかかわらず、馬子は一里引き返して革ひもをさがしてきてくれたうえ、わたしが渡したかった何銭かを、旅の終わりにはなにもかも無事な状態で引き渡すのが自分の責任だからと、受け取ろうとはしませんでした。

※「法外な値段をふっかけられたこともない」とあるが、5⃣に記すように、2,3倍程度のピンはねは日常的に経験しているとバードは感じている。

第二二信 307ページ
泊まれるほど清潔な家はなく、わたしは石に腰を下ろし、一時間あまり人々について考えました。
頭にやけどをした子供、疥癬のある子供、眼炎を起こした子供が群がっています。
どの女性も赤ん坊を背負い、子供もおんぶのできる子供はみな赤ん坊をおんぶしています。
綿のズボン以外になにかを着ている女性はまるでいません。
ひとりの女性が「酔っぱらって暴れながら」ふらふらと歩いています。
伊藤は石に座り、両手で顔を隠しています。
具合でも悪いのかとわたしが尋ねると、伊藤は嘆かわしそうに「こんなところをお見せするとははずかしくてどうしていいかわかりません。」と答えました。
伊藤はまだ一八歳にすぎず、わたしは彼をかわいそうに思いました。
女の人が酔っぱらうことはよくあるのかと尋ねると、横浜ではあるけれど、ふつう家の外に出ないからと彼はこたえました。
そういう女は月末にいろいろ支払いをするのに夫がお金を渡しても、それを酒に遣ってしまうことがよくあり、
ときには店で酒を買いながら、米や茶を買ったことにしてもらう場合もあるそうです。
「昔からよくあることなんですよ!」
わたしは土ぼこりと野蛮な行為に目をやり、これが本で読んだ日本なのだろうかと尋ねました。
それでも品の無い服装をしたある女性は、ふつう休憩をした場所に置いていく二銭とか三銭を、どうしても受け取ろうとしませんでした。
わたしがお茶ではなく水しか飲まなかったからというのです。
わたしが無理やりお金を渡すと、その女性はお金を伊藤に返しました。
名誉挽回のこのできごとにわたしはとても慰められました。

第二三信 312ページ
この家の女性たちはわたしが暑がっているのを知ると、気をきかせてうちわを取り出し、丸一時間わたしを仰いでくれました。代金を聞くと、それはいらないと答え、まったく受け取ろうとしません。

3.チップを受け取った医者もいた。

第二四信 337ページ
料金はいくらかと尋ねると、医師は何度もお辞儀をしてなにか早口でぶつぶつ言ったり息をすいこんだりしたあと50銭では多すぎるかと尋ねました。そして私が一円差しだし、何度も深々とお辞儀をして、診察を受けられて大変うれしいと言うと、こちらがすっかりまごついてしまうほど感謝の言葉が返ってきました。

4.ピンハネする人々

2のチップを受け取らない人々は、正直で責任感のある日本人だといえるだろう。
しかし、下記の記述から、正直ではなく、外国人からピンハネする日本人もいたように思われる。

第六信 83ページ
もう一つ、これよりずっと重要でないとはいえよく話に出たのが、現地人の使用人には道中で金銭のやりとりがあるたびに「中間搾取」する習慣があり、使用人の腕と能力次第で旅行費用が二倍、ときには三倍になることが多いという問題です。
あちこち旅行した経験のある三人の紳士が私の払うべき値段表をくれましたが、地方によってものの値段も異なり、旅行者の多い地域では大幅に高くなっています。
またウィルキンソン氏が伊藤に向かってこの値段表を読み上げると、伊藤は時折不満の声をあげました。

第一二信 167ページ
入町―湯元を断つ前に、わたしはピンはねの手口を知りました。
清算を頼むと、請求書は私に渡されず、宿の亭主は二階へ駆け上がって伊藤にいくらにすべきか尋ね、
ふっかけて得た儲けをふたりで分けようと話をもちかけたのです。
何を買っても従者は「ピンはね分」を得ます。
宿代に関しては非常に巧みに行われるので、防ぎようがなく、納得のいく範囲で収まっているかぎりは気をもまないことです。

第一三信(つづきその二)186ページ
それからわたしか伊藤が品物の値段をたずね、女主人が値をいいますが、6ペンスで売る物に4シリング要求していそうなかんじです。(略)
最終的にこちらが1シリング差し出して値段の折り合いがつくと、女主人は実にうれしそうです。
何度もお辞儀と「サヨナラ」を繰り返し合って店をでるときの気分は愉快なものです!
勤勉な女性に本来の倍多く払い、しかもこちらは予算より安く済んだのですから!

第一三信(つづきその二)190ページ
日本には東京に本社がある陸運会社があり、支店がさまざまな町や村にあります。
この会社は固定料金で旅行客や荷物を運び、しかるべき書式の領収書をくれます。
農家の馬を雇い、それぞれの業務でそこそこの利益をあげていますが、
旅行者にとっては手間もいらず、遅れもせず、またゆすりにも遭わずにすむのです。
料金は地方によって大きく変わり、馬の飼料、道路事情、雇える馬の数で規定されています。
ほぼ2マイル半(約4km)に相当する一里で、馬一頭と馬子一人につき6銭から10銭、
車夫ひとりでひく人力車一台で同じ距離が4銭から9銭、荷物を運搬する人夫もそれとほぼ同じです。
(この運送会社は実にうまく組織されています。わたしは1200マイルを超える距離でこの会社を利用しましたが
いつも手際がよくて信頼できました。)
今後もずっとこの会社を利用するつもりでいます。
農夫ととりひきしてピンハネしようという魂胆でいる伊藤の期待には、大いに反することになりますが。

第二一信(つづき)284ページ
見たところ、日本式買い物の仕方は会得すべきわざのひとつのようですが、私にはそれだけの根気がありません。
原則として私は値切るのに時間をかけるより、売り手が最初に言ってきた値段に近い額を支払います。
けれどもそれではお金を損をするし、店主からはばかにされそうですから、買い物じょうすの外国人たちはそんなことはしません。
買いたいものがある場合は他の物の値段を尋ね、その品物には興味がないふりを装います。
たぶん店主は10円と言ってきます。
そうしたらこちらはさもおかしそうに笑い声をあげ二円と答えます。
店主はバカにしたように笑いますが、悪気はまったくありません。
こちらが撮り合わないでいると、向こうは八円といってきます。
こちらがまた笑い声をあげ、その辺をぶらぶら歩くと、店主はおかしそうに七円と言ってきます。
こちらは無造作に三円と言います。
店主は悲しそうに算盤をはじきそうな気配を見せます。
そこでこちらは店を出ようとするそぶりをみせます。
すると向こうはおそらくポンとうれしそうに手をたたき、「ゆろし」と言います。
これは三円なら売ってもいいという意味です。
おそらくほんとの値段よりずっと高いでしょう。

第二八信 379ページ
彼が自分の目的にかなうと見れば嘘もつくこと、また見つからずにできる場合は、はねられるだけの上前を「ピンはね」していることについて、私はみじんの疑いも抱いていません。
彼には人情というものがあまりないらしく、思いつく事と言えば、意地悪をして楽しむことばかりのようです。

5.宿屋がピンハネしても、バードが許している理由

第三二信 425ページ
宿屋の主たちというのは、思うに、多かれ少なかれ商売にうんざりしています。
実のところうんざりしているのは規制に対してで、細かな規則のわずらわしい変更が際限なくあるのは新体制の欠点です。
ほぼ毎週新規の通達が数多く発せられ、農民の鈍くて当惑した頭では一回分も理解できないうちに、もうつぎのが発行され、
しかも警察は違反者を目ざとく見つけてしょっぴきます。
宿屋のあるじはすべての旅人の氏名と旅行目的ばかりか、その前の宿泊地も帳面に記録せねばならず、
この帳面は毎月警察が家宅訪問するたびに呈示しなければならないのです。
外国人の場合、ことに悩みの種となるのも当然で、特別に負担がかかり、通行証の写しを二部とるという手間がかかるうえ、
「当局の許可なく外国人に宿を提供した者、または宿泊させた」者は罰金を課され、罰金を支払わない場合は鞭打ちの刑に処されるのです。
こういった特別なわずらわしさは別としても、わたしは宿屋の経営者が外国人に対し、ふつうより高い料金を課しても構わないと思います。
なぜなら日本人なら六人から八人が嬉々として納まる部屋一室を外国人は一人で占領し、室内で水を使えるように要求したり変な料理を変な時間につくったりと、全般に日本人より迷惑をかけるのですから。
これまでのところわたしはまったく宿屋のあるじの味方で、一部のイギリス人や多くのアメリカ人を恥ずかしく思っています。
彼らはチップは勘定に入れずに一五銭支払っただけで上等の部屋と自由に使える布団、たっぷりと炭の補給された火鉢、
入浴用のお湯、ひと晩中使える行灯、お代わり自由のごはんとお茶を手にいれるのですから。
つまり、火、蝋燭、二回の食事、上等の部屋、きめ細かなサービスが全部ひっくるめて七ペンスなのですよ!

6.偽ブランドを製造する日本メーカー

第二一信 285ページ
事実を語るべきとするなら、貪欲さのせいで日本人は厚顔無恥なペテン師となっているのです。
外国製食料・飲料として売られているものの半分は実に不快で有害なくずで、東京かどこかでつくられ、
バス、マーテル、ギネス、クロス&ブラックウェルといった老舗の名前やラベルをつけた瓶に詰めて売り出されるのです。
クロス&ブラックウェル社は不愉快で悪意のある詐欺行為を防ぐために、自社製品の瓶は空き瓶となったら割ってほしいと
横浜の新聞各紙に依頼広告を定期的に載せています。

7.道徳観念の無い人々

第二〇信 272ページ
日本人は子供がとにかく好きですが、道徳観が堕落しているのと、嘘をつくことを教えるため、西洋の子供が日本人とあまりいっしょにいるのはよくありません。

第二八信 378ページ
夜間、わたしは時計・通行証・お金の半分を伊藤に預けており、彼が姿をくらましたらどうするのだろうとしょっちゅう自分でも首をかしげています。
伊藤はいい子ではありません。わたしたちが考えるような道徳観念を持ち合わせていませんし、外国人が嫌いです。
態度も非常に不愉快なことがよくあります。
それでもなお、彼より役に立つ従僕件通訳を得られたかというと、それは疑問です。

第三九信 (下)40ページ
マリーズ氏はこの函館にいて、氏が伊藤と結んだ契約では、伊藤は月7ドルでマリーズ氏が望むかぎり仕えなければならないのだとわかったのです。
それなのに伊藤はこちらが一二ドルと申し出たので、わたしに嘘をついてマリーズ氏の元を逃げ出し、私に雇われたのです!
マリーズ氏は伊藤の配信行為のせいで多大な迷惑を蒙り、植物採集をするのが大幅に遅れています

8.アイヌを蔑視している伊藤

第四一信(下)95ページ
伊藤はわたしが彼らに興味を示すのをとても嫌がり、伝説上のアイヌの起源を引いてきて彼らは「犬同然」だと何度もいいました。この起源に関して、アイヌ自身は恥じていないのです。
伊藤はアイヌは礼儀正しさを日本人から学んだといいますが、これには全く根拠がありません。


9.チップを断る幕末の旅館の女中?

わたしがイザベラ・バードを読もうと思ったのは、武田邦彦氏の2021年11月19日のブログを聞いたのがきっかけである。

彼はその動画の中で次のようなことを語っておられた。(私の理解に勘違いがあれば指摘をお願いします。)

①1900年、貴族社会から大衆社会に変わりつつあるとき、ヨーロッパの人たちはつぎのように考えた。
貴族社会は一人一人に魂がある。プライドもある。個人の個性、アイデンティティがある。
これに対して大衆っていうのは、その日暮らしであって迎合するところがあり、すぐ錯覚するところがある。
だからマスコミなんかにちょっと煽られるとすぐその方向に行ってしまう。

⓶それまでの大学教授というのは学問が好きだから大学教授になる。
ところが、大衆社会になると生活の糧として大学教授になっている。
自分の経験からいってもこれは間違いではない。

③1900年頃の偉い人は、大衆は煽られやすいから戦争が増えるだろう、と予想しているが、それもそのとおりになった。

④③の理由は、大衆は精神的に独立していないためである。
だがら NHK が放送すれば NHK の放送通りに、それが真実だと思ってしまうので戦争が多くなる。

⑤戦争に突入した理由は
・日本の戦前、すでにヨーロッパ文化におかされたこと
・朝日新聞なんかで煽られた。

⑥大衆だから、教育を受けてないから自己が確立していないというのはヨーロッパ人の偏見。

⑦⑥の一例
イザベラ・シッドモアというイギリスの旅行家が、幕末に東北地方を旅した。
イザベラ・シッドモアが日本の宿屋はたごに泊まると、旅籠の女中さんが一生懸命やってくれた。
宿を出る前、心付けを渡そうとしたら、女中さんは
「私は女中として自分のすべきことをしただけのことですからお金をいただくわけにいきません」と言った。
この女中さんはおそらく学校にいっておらず、貧乏で教養もなく、勉強もしてないだろうが、自分というものを持っている。

⑧この女中さんにくらべ、現在の大臣・東大教授は浅ましく、NHKの放送にはプライドがない。

⑨江戸時代の末期の東北の宿屋の女中さんが立派なのにくらべて、現代の東大教授・国会議員・ NHK 幹部は愚劣である。
その理由は、日本にヨーロッパ文化が入ってきたことによって、お金中心の社会、損得だけを考える社会になったのではないか。


彼の文章にはいくつかあやまりがあると思われる。

a.イザベラ・シッドモアとは誰なのか。
エリザ・シッドモアという著述家はいる。
ただし、武田氏はイギリスの旅行家と言っているが、エリザ・シッドモアはアメリカ人である。
1885年(安政2年)から1928年(昭和3年)にかけて度々日本を訪れて、日本の紀行文を残している。
このエリザ・シッドモアとイザベラ・バードを混同して、イザベラ・シッドモアといっているのではないか。

b.イザベラ・シッドモアではなく、イザベラ・バードのまちがいであれば、紀行文は幕末の日本を記したものではなく
明治11年の日本について記したものである。

また旅館の女中の話ではなく、茶店で働く女性の話だと思われる。

第二二信 307ページ
それでも品の無い服装をしたある女性は、ふつう休憩をした場所に置いていく二銭とか三銭を、どうしても受け取ろうとしませんでした。
わたしがお茶ではなく水しか飲まなかったからというのです。
わたしが無理やりお金を渡すと、その女性はお金を伊藤に返しました。
名誉挽回のこのできごとにわたしはとても慰められました。

cイザベラ・バードの本を読むと、.明治11年、チップを受け取らない徳のある茶店の女性もいたが
ピンはねをする人々や偽ブランドを製造するメーカーが日本にはあったようである。

武田氏は、「それらは日本がヨーロッパ文化を受け入れた結果」だとお考えなのだろうか。
もしこのように結論づけるのであれば、
江戸時代の大衆がピンはねを行わなかったり、偽ブランドを製造したりしなかったことを示す史料が必用だと思うので
ぜひそれを提示していただきたい。

日光東照宮

イザベラ・バードも訪れた日光東照宮

武田氏は、

⓶それまでの大学教授というのは学問が好きだから大学教授になる。
ところが、大衆社会になると生活の糧として大学教授になっている。
自分の経験からいってもこれは間違いではない。

③1900年頃の偉い人は、大衆は煽られやすいから戦争が増えるだろう、と予想しているが、それもそのとおりになった。

④③の理由は、大衆は精神的に独立していないためである。
だがら NHK が放送すれば NHK の放送通りに、それが真実だと思ってしまうので戦争が多くなる。

といいながら、

⑥大衆だから、教育を受けてないから自己が確立していないというのはヨーロッパ人の偏見。

ともいっていて、大衆文化がいいと思っているのか、悪いと思っているのかよくわからない。
日本の本来の大衆文化はよかったが、ヨーロッパの「大衆文化はよくない」とする考え方を取り入れた結果
日本は悪くなったといいたいのかもしれないが
よくわからない文章だと思う。